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日本人の3人に1人は日本語が読めない

1:777 :

2022/12/01 (Thu) 14:06:33

日本人の6人に1人は偏差値40以下、5人に1人しか役所の書類を申請できない…“見えない格差”をつくった知識社会のザンコク
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https://news.yahoo.co.jp/articles/9392448a4c8442006646e78f2a8de02339f256e5


文春オンライン

 ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれている。しかしそこには、善意の名を借りた他人へのマウンティングや差別、偏見などが存在する。人間というのは、ものすごくやっかいなのだ。

 ここでは、作家・橘玲氏が社会の残酷すぎる真実を解き明かした著書『 バカと無知 』(新潮社)から一部を抜粋。知能・能力が大きくばらつく社会の実態を紹介する。(全2回の2回目/ 2回目 を読む)

◆◆◆

日本人の3人に1人は日本語が読めない?
 集団ですぐれた意思決定をするための条件は、人種、民族、国籍、宗教、性別、性的指向などが異なるメンバーを集める多様性と、その全員が一定以上の能力をもっていることだ。このふたつの条件を満たすと、多様な意見が「化学反応」を起こし、とてつもないイノベーションが生まれる可能性がある。

 ところが、自然に生まれる集団ではこれとは逆のことが起こる。

 ひとは生得的に、自分と似た者に惹かれる性質があるので、アメリカのような多文化社会では、人種や民族、宗教ごとにコミュニティがつくられるが、知能や学力で選別するようなことはない。知識社会は産業革命以降に成立したので、そんなグループ分けをする本能は脳に埋め込まれていない。だからこそ有名大学やシリコンバレーのIT企業は、人為的な方法(入学試験や高報酬)で能力の高い者だけを集めているのだ。

 その結果わたしたちは、なんの多様性もなく、知能・能力だけが大きくばらついている社会で暮らしている。これが、民主政を擁護するひとたちの期待に反して、「熟議」が混乱しか生まない理由だろう。

「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を実際に調べてみた
 では、知能はどの程度ばらついているのか。これについては「日本人の3人に1人は日本語が読めない?」として何度か書いたことがあるが、重要な「ファクト」にもかかわらずほとんど誰も触れようとしないので、ここであらためて述べておこう。

 PIAAC(国際成人力調査)はPISA(学習到達度調査)の大人版で、OECD加盟の先進国を中心に、24カ国・地域の16~65歳約15万7000人を対象に、2011~12年に実施された(※1)。

 ヨーロッパでは若者を中心に高い失業率が問題になっているが、その一方で経営者から、「どれだけ募集しても必要なスキルをもつ人材が見つからない」との声も寄せられていた。プログラマーを募集したのに、初歩的なプログラミングの知識すらない志望者しかいなかったら採用のしようがない。

 そこで、失業の背景には仕事とスキルのミスマッチがあるのではないかということになり、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を実際に調べてみたのだ。

5人のうち4人はツイッターの内容を理解していない可能性が
 PIAACの問題はレベル1から5まであり、レベル3は「小学校5年生程度」の難易度とされている。

「読解力」のレベル3の問題例では、図書館のホームページの検索結果を見て、「『エコ神話』の著者は誰ですか」という問いに答える。あまりに簡単だと思うだろうが、正解するためには、問題文を正しく読めるだけでなく、「検索結果をスクロールし、そこに該当するものがなければ『次へ』の表示をクリックする」というルールに気づかなくてはならない。

 この問題に正答できない成人は日本では27・7%で、3~4人に1人になる。

 レベル4の問題では、150字程度の本の概要を読んで、質問に当てはまる本を選ぶが、日本では8割近い(76・3%)成人がこのレベルの読解力をもっていない。ツイッターの文字数の上限は140字なので、5人のうち4人は書いてあることを正しく理解していない可能性がある。

「数的思考力」のレベル3は立体図形の展開で、日本の正答率は62・5%だ。レベル4は単純なグラフの読み取りで、ビジネスでは必須の能力だが、このレベルに達しているのは日本人の約2割(18・8%)しかいない。

「ITスキル」のレベル3では、メールを読んで会議室の予約を処理する。事務系の仕事では最低限必要な能力だと思うが、日本人でこれをクリアしたのはわずか8・3%だけだ。

惨憺たる結果でも日本人の成績は先進国で1位
 この結果をまとめると、次のようになる。

 (1)日本人のおよそ3分の1は「日本語」が読めない。

 (2)日本人の3分の1以上が小学校3~4年生以下の数的思考力しかない。

 (3)パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。

 だが驚くのはこれだけではない。この惨憺たる結果にもかかわらず、日本人の成績は先進国で1位だったのだ。

 OECDの平均をもとに、先進国の労働者の仕事のスキルを要約すると次のようになる。

 (1)先進国の成人の約半分は簡単な文章が読めない。

 (2)先進国の成人の半分以上が小学校3~4年生以下の数的思考力しかない。

 (3)先進国の成人のうち、パソコンを使った基本的な仕事ができるのは20人に1人しかいない。

 だがこれは、一般に知られていないだけで、専門家には周知の事実だったはずだ。

日本人の6人に1人は偏差値40以下
 PIAACに先んじて、アメリカでは仕事に必要な成人のリテラシーを計測するために、1985年、1992年、2003年に大規模な「全米成人識字調査」を行ない、「文章リテラシー」「図表リテラシー」「計算リテラシー」を調べている。その結果を要約すると、以下のようになる。

 (1)アメリカの成人の43%は仕事に必要な文章読解力がない。

 (2)同じく34%は仕事に必要な図表課題をクリアできない。

 (3)同じく55%は仕事に必要な計算能力がない。

 なお、この調査では学歴別の結果も調べており、高度な事務作業に必要な計算スキルをもつ成人は大卒では31%だが、高卒では5%、高校中退では1%しかいない。この「学歴(知能)格差」によって白人労働者層が仕事を失い、トランプ前大統領の岩盤支持層になった。

 これらの結果は衝撃的だが、学力(偏差値)がベルカーブになることを考えれば当たり前でもある。

 正規分布では、平均(偏差値50)から1標準偏差離れた、偏差値40~60の範囲に68・3%の事象が収まる。2標準偏差離れた偏差値60~70と30~40はそれぞれ13・6%、3標準偏差離れた偏差値70~80と20~30はそれぞれ2・15%だ。

 日本では高い偏差値ばかりが注目されるが、人口のおよそ6人に1人は偏差値40以下だ。だがこのひとたちは、高度化する知識社会のなかで「見えない存在」にされている。

この現実になぜ気づかないのか
 問題は、知識社会が(無意識のうちに)ひとびとの知能を高く見積もっていることだろう。

 税務申告書から生活保護の申請まで、説明を読んで役所の書類を正しく記入するためには、偏差値60(MARCHや関関同立)程度の能力が必要になる。そうなると、自力で申請できるのはせいぜい5人に1人で、残りは(お金を払って)誰かに頼るか、あきらめるしかない。

 この現実に気づかないのは、社会を動かしているのが高学歴のエリートで、自分のまわりにも同じような高学歴しかいないからだ。

 ダチョウは、追いつめられると頭を砂に埋めるという(事実ではないらしいが)。「民主主義」を信じているひとたちも、それがうまくいかないと、「知能の格差」という不愉快な事実から目を背け、このダチョウのように、「資本主義批判」という砂のなかに頭を突っ込んで安心しようとするのかもしれない。

※1・・・国立教育政策研究所編『成人スキルの国際比較 OECD国際成人力調査(PIAAC)報告書』明石書店

「反撃できない者を徹底的にいたぶる『集団リンチ』と同じ」皇族の結婚問題、生活保護受給者バッシングに“共通するもの” へ続く
2:777 :

2022/12/01 (Thu) 14:10:22

「反撃できない者を徹底的にいたぶる『集団リンチ』と同じ」皇族の結婚問題、生活保護受給者バッシングに“共通するもの”
『バカと無知』より #2
https://bunshun.jp/articles/-/58824?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink

ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれている。しかしそこには、善意の名を借りた他人へのマウンティングや差別、偏見などが存在する。人間というのは、ものすごくやっかいなのだ。

 ここでは、作家・橘玲氏が社会の残酷すぎる真実を解き明かした著書『バカと無知』(新潮社)から一部を抜粋。皇族の結婚問題や生活保護受給者へのバッシングから人間の“自尊心”を紐解いた内容を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

◆◆◆


皇族は「上級国民」
 自尊心をめぐる闘争ほどやっかいなものはない。面と向かって罵倒されたり、SNSで罵詈雑言を浴びせられることは、脳の生理的反応としては、殴られたり蹴られたりするのとまったく同じに感じられる。

 皇族の1人がまさにこのような状況になって、複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と発表された。病名について異論はあるかもしれないが、「殴る蹴る」の精神的暴行を数年にわたって受けつづければ、こころに深い傷を負うのは当然だ。

 いちばんの問題は、皇族やその関係者には、直接反論したり、裁判で名誉毀損を訴えることが事実上、封じられていることだ。これは反撃できない者を徹底的にいたぶるのと同じで、「集団リンチ」以外のなにものでもない。

 さらにグロテスクなのは、「あんな男と結婚したら不幸になると、善意のアドバイスをしただけだ」などと述べる者がいることだ。そもそもなぜ、わずかな税金を払っているというだけで、見ず知らずの他人の恋愛や結婚に口出しする権利があるのか。自ら選んだわけでもない「身分」によって、どんな誹謗中傷にも耐えなくてはならないのなら、自由や人権、プライバシーの保護はどうなるのか。


 哲学者サルトルは、「地獄とは、他人だ」と書いたが、彼女はまさに「善意の他人」という地獄を体験したことになる。

アメリカの人種問題が再燃
 自尊心というのは、そのひと固有のパーソナリティというよりも、他者との関係性で決まるものだ。相手に対して圧倒的に優位なら、自尊心が傷つけられることはない。たいていの親が幼い子どもに反抗されてもなんとも思わないのは、大きなちからの差があるからだ。これが愛情の問題でないのは、思春期の子どもが反抗すると、(親の優位性が失われつつあるので)しばしば逆上することからもわかるだろう。

 アメリカの白人は圧倒的なマジョリティだったので、有色人種(黒人)から批判されてもなんとも思わなかった。冷戦終結後のアメリカは唯一の超大国で、圧倒的な軍事力で世界に君臨していたので、反米運動にもさしたる関心はなかった。

 近年、アメリカの人種問題が再燃しているのは、レイシズムが強まったというよりも(異論はあるだろうが、人種を理由にした犯罪は一貫して減少している)、白人(とりわけ労働者階級)の地位が低下して、優位性がなくなってきたからではないか。イラク・アフガニスタンでの無益な戦争や中国との対立も、アメリカの国力が落ちたことと関係しているだろう。――ロシアによるウクライナへの無謀な侵攻は、ソ連崩壊によって国際社会におけるロシアの優位性が危機に瀕したことを抜きにしては理解できない。


アジアの国々が高度経済成長を迎え、中国のGDPは日本の3倍に
 1970年代に田中角栄首相が東南アジアを歴訪したとき、各地で大規模な反日デモが起きたが、国内ではほとんど関心をもたれなかった。当時、アジアのなかで日本の経済力は圧倒的で、中国は文化大革命の混乱の真っ只中だし、軍事政権の韓国は世界の最貧国のひとつだった。多くの日本人は、「貧しい国のひとたちはかわいそう」と思っていたのだろう。

 それがバブル崩壊後、日本経済が低迷する一方で、中国を筆頭にアジアの国々が高度経済成長の時代を迎え、日本との差が縮まってきた。いまや中国のGDPは日本の3倍で、国民のゆたかさの指標である1人あたりGDPでもマカオ、シンガポール、香港に大きく引き離され、韓国に並ばれようとしている。


その結果、(コロナ前は)日本の庶民には手の届かない名門ホテル・旅館や一流レストランにアジアの富裕層が殺到した。80年代は、ふつうのOL(死語)が週末の弾丸ツアーで香港に行き、5つ星ホテルに泊まってブランド物を買いあさっていたのだから、その栄枯盛衰には愕然とするしかない。

経済格差による怨恨があちこちで噴出
 日本がどんどん「貧乏臭く」なっていく過程と、2000年以降の嫌韓・反中の排外主義の急速な広がりは見事に一致している。韓国や中国はそれ以前からずっと「反日」だったのだから、この変化は、「アジアで一番」という日本人の自尊心が揺らいだことでしか説明できない。

 徹底的に社会的な動物である人間は、集団としての自尊心が低下すると攻撃的になるが、それと同様に、個人としての自尊心が揺らいだときもきわめて危険だ。経済格差が拡大すると、自分が虐げられていると感じる層が増えて、あちこちで怨恨(ルサンチマン)が噴出する。これは世界的な現象で、アメリカではトランプ現象を引き起こし、日本では「上級国民」批判となって表われた。母子が死亡した池袋の交通事故の炎上騒動はその典型だろう。


 皇族の結婚問題にしても、ネットに掲載された記事へのコメントを見ると、その大半は「国民の税金で食わせてもらっているくせにわがままだ」という罵倒の類だ。これにもっとも近いのは、生活保護(ナマポ)受給者へのバッシングだ。

ネットでルサンチマンを噴出させている者が求めているもの
 皇族とナマポに共通するのは、「働かずにうまいことやって暮らしている」ように見えることだ。それに比べて「下級国民」の自分は、不安定な身分とわずかな給料(あるいは年金)でかつかつの暮らしをしている。建前では「みんな平等」というけれど、生まれや制度の歪みによって、自分より恵まれている者がたくさんいるではないか、というわけだ。

 脳は上方比較を「損失」、下方比較を「報酬」と感じるように進化の過程で設計されている。上位の者を引きずり下ろすことは、脳の報酬系を刺激し自尊心を高める効果がある。ワイドショーのコメンテーターといっしょに「義憤」に駆られ、ネットのコメント欄に皇族や婚約者母子への誹謗中傷を書き込むことは、ものすごく気分がいいのだろう。

 キャンセルカルチャーは、セレブリティの不品行を「正義」の名の下にバッシングし、その地位を「キャンセルする(奪う)」運動だ。そう考えれば、いま起きているのは皇族に対するキャンセルだ。ネットでルサンチマンを噴出させている者たちが求めているのは、上級国民の特権の剥奪、すなわち天皇制廃止ということになる。

皇室に対する風当たりの強さは今後も強くなるのでは
 その一方で、皇室に「理想の家族」を求める高齢者層の批判には、(かつては「欠損家庭」といわれた)母子家庭への偏見が垣間見える。だが近代の市民社会で、「親の借金問題を子どもが解決しないと結婚が許されない」などということがあっていいはずがない。

 王制や天皇制は、有り体にいえば「身分制」で、自由恋愛が当然とされるリベラルな社会ではきわめて不安定だ。ヨーロッパの王室もしばしばスキャンダルで炎上するが、アジアで孤立する天皇制は、それよりずっと脆弱だ。


 皇室はいま、「わたしたちの夢を壊すな」という高齢者(および右翼・保守派)と、「特権は許さない」という「下級国民」からの激しい攻撃を浴びている。そしてこの風当たりは、今後ますます強くなっていくだろう。

 “平等”な社会では「主権者」である市民が絶対化し、政治家や官僚など「権力者」の地位はすっかり地に落ちた。次は皇族の権威が引き下げられて、「国民の下僕」としてしか存在を許されなくなるかもしれない。

 果たしてそのとき、天皇は「日本国の象徴」でいられるだろうか。
3:777 :

2022/12/01 (Thu) 14:18:15

「日本人の3分の1は日本語が読めない」という事実

そのうち、日本人の半分は日本語が読めないという世界に突入するのではないか?
2021.09.22
https://blackasia.net/?p=26699

若者になればなるほど、大部分が長文を避ける。長文を好む若者もいると思うが、それは世間を俯瞰して見ればとても少数派である。長文は避けられる。今は「日本人の3分の1は日本語が読めない」のだが、そのうち日本人の半分は日本語が読めない世界に突入するのではないか?


「日本人の3分の1は日本語が読めない」という事実
昔から文章を読まない人は本当に読まない。私の知り合いの90%は本を読む習慣がないし、長文を読むのを嫌がる。長文は読めるが読みたくないのかと思ったら、そうではなくて「長文が読めない」人も相当数混じっているようだ。

塾講師や大学講師の経験則として「日本人の5割くらいは5行以上の長文読んで意味を取ることができない」という人もいる。

さすがにそれはないだろうと思っていたのだが、最近は作家の橘玲《たちばな・あきら》氏が『無理ゲー社会』の中で、「日本人の3分の1は日本語が読めない」という事実を紹介して、私も大いに驚いたのだった。

「日本人の3分の1は日本語が読めない」という事実は別に橘玲氏が推測で言っているのではなく、経済協力開発機構の国際成人力調査の調査を紹介しているものである。

日経ビジネスもこれを取り上げていて、『日本人の3分の1は日本語が読めない!?  量産されるAI未満人材』の中で、以下のように綴っている。(日経ビジネス:日本人の3分の1は日本語が読めない!? )

日本人の現役世代の27.7%は「日本語読解力の習熟度がレベル2以下」で、例えば「図書館で目録を指示通りに検索し、指定された書名の著者を検索できない可能性」が高い。

高齢者の認知度が下がって日本語が読めないとか、小学校の勉強嫌いの子供が日本語をうまく読めないというのではない。「現役世代」が文章を読めないのだ。


長文はもはや「化石」のような存在になってしまった
今の時代、文学系の書籍は数千部売れたら良いところで、1万部でそこそこヒット、10万部は大ヒット、100万部も売れたら大流行作家である。

しかし、冷静に考えてみて欲しいのだが、日本の人口は1億2000万人である。その中の100万部など全体から見たら「たかが知れている」数字である。テレビの視聴率で言えば1%でしかない。1%の視聴率なら打ち切りレベルである。

出版社は「文字」で稼いでいない。出版社は「マンガ=映像」で稼いでいる。文字を読む人は少ないというのはデータとして出ているので、もともと「文字」に注力するのは不利だった。

その傾向がインターネットとスマートフォンの時代になって拍車がかかっている。

スマートフォンはとても小さなディスプレイである。これが主流なので、小説を読むにしても、「文字びっしり」の小説は敬遠される。そのため、まるでLINEの会話をそのまま写したのではないかと思うようなライトな小説が好まれる。

ニュースサイトでも本文を読む人よりも、見出しだけで判断する人の方が多い。さらに、ネットには文字が満ち溢れているように見えるのだが、すでにインターネットのメインストリームも文字ではなく動画やマンガに移っている。

インターネットは「文字が中心だった世界」の頃はマニアのもので、画像・動画が主流になってからやっと大衆《マス》のものになったと言える。長文はもはや「化石」のような存在になってしまっている。

当然だが、このままでは「日本人の5割くらいは5行以上の長文読んで意味を取ることができない」とか「日本人の3分の1は日本語が読めない」という世界は、もっと悪化していく。そのうち、日本人の半分は日本語が読めないという世界に突入するのではないか?

読解力がなければ仕事で苦労するだろう。理解力がなければ能力も向上しないだろう。仕事では不利な立場に置かれることになり、やがてそれは収入にも反映されていくのだろう。しかし、日本語が読めない人たちが減ることはない。

この時代に相変わらず長文を書く人は一種の伝統工芸の職人
本を読む人口は一定数いる。文章をじっくり読む人が好きな層は、どんなに動画時代に入っても消えることはない。

私自身は子供の頃から典型的な「文字人間」で、私はマンガを読むのが苦手だし、テレビも見ないし、映画も見るときは何か義務感のようなものを感じて「娯楽として楽しむ」という姿勢になれない。

やはり文字が読みたいのである。それも、きちんとした文章が読みたい。

しかし、私のように「本を読むのが好きだ」というのは、狭い世界の「変わった趣味」になっており、決して世の中のメインストリームではない。テレビやYouTubeのような動画は世間に広く受け入れられるが長文は避けられる。

若者になればなるほど、大部分は長文を避ける。長文を好む若者もいると思うが、それは世間を俯瞰して見ればとても少数派である。

長文は明確に避けられる。そして、長文が避けられ続けることによって、「長文が読めない」人が普通になっていき、長文が読める人の方がむしろ珍しくなっていく。

長文が読めないのだから、当然のことながら長文を書くこともできない。長文で書かれた大事な資料は長文で理解できない人が半分以上になるので、動画に置き換えられて要点が説明される方向に変わっていく。

つまり、長文の読解力が必要な場面になっても、長文が読まれるようになるのではなく、動画で説明される時代になるということだ。

そう考えると、この時代に相変わらず長文を書く人は一種の伝統工芸の職人で、それを読むことができるのは特殊技能を持った人という扱いになっていくのではないかとも思っている。

今後、「超」高度情報化社会に入るのに長文がどんどん避けられるのだから、私から見ると何か割り切れないものもある。しかし、超高度情報化社会の主役は動画になるというのは避けられない動きであり、時代が文字に戻ることはないだろう。


『本の読み方 スロー・リーディングの実践(平野 啓一郎)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569768997/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=blackbook2tok-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569768997&linkId=384d66400b27ed3a100f2992c8ff7fd7


https://blackasia.net/?p=26699  
4:777 :

2022/12/01 (Thu) 14:19:38

マンガ全盛時代。忌避されていく長文と、これからも求められていく「描く」才能
2021.10.14
https://blackasia.net/?p=27126

元々、ブラックアジアは東南アジアの暗いアンダーグラウンドの世界を題材にしているのだが、これを私自身がコミカライズ化したら、きっと誰も読めないような凄まじくダークな絵柄でブラックな内容になってしまうに違いない。もっとも私がマンガを描けるわけがないので、ただの夢想だが……。(鈴木傾城)


今後も「長い文章」はどんどん忌避されてしまう
以前にも書いたが、日本人の若年層の多くが「文字」を読まなくなっている。(ブラックアジア:そのうち、日本人の半分は日本語が読めないという世界に突入するのではないか?)

本当に日本人の半分が日本語を読めない人になるのかどうかは別にして、日本語を読める人でも「長い文章」を忌避する傾向がかなり強くなった。

最近ではTwitterの140文字ですらも「文字が多い」と感じる若年層が大勢いて、日本で言えばLINEのようなメッセージアプリの10文字くらいでやり取りするレベルの文字量が心地良いということだ。

10文字と言えば、「おはよう」とか「元気?」とか、そのレベルでしかないのだが、若者はそういう短い単語レベルの文章を読み書きして、後は自分の感情や状況はそれらしき絵を使って表現する。

その絵というのは絵文字であったり、スタンプであったり、どこかで拾って来た画像であったり、マンガであったりするのだが、そういうのを使ってコミュニケーションするので、もう長い文章であれこれ書かない。

現代人の「目」をつかんでいる媒体はスマートフォンである。もう本も新聞も紙では読まれないし、そういうのを持ち歩く人も極度に減った。若者だけでなく中高年もみんな「何をするにも」スマートフォンを見ている。

小さなスマートフォンの画面では長い文章を読むのはことさら億劫だし、キーボードもないので長い文章も打てないので、勢い絵に頼ることになる。だから、今後も「長い文章」はどんどん忌避されてしまうのである。

文字が廃れるとか、長文を読む人がいなくなるとか、そういう話をしているのではなく、長い文章は読まれなくなり、実質的に「文字の時代は終わっている」という話をしている。


『アジアバイシュン街の少女たち〜スワイパー1999』より。スワイパーというのはカンボジアの首都プノンペンになったベトナム人のバイシュン村。もちろん、実在の村である。
避けているとますますマンガが読めなくなるという悪循環

私自身は他の誰よりも「文字人間」である。子供の頃から誰かと話しているよりも、テレビを見るよりも、マンガを読むよりも、ただ文字ばかりが書かれた本を読む方が好きだった。それは今も変わっていない。

そのため、「文字の時代は終わった」としても、私自身は文字の世界を捨てることはないだろう。私は文字を読むことで生きている実感を味わっている。

実のところ、私はマンガもほとんど読まない。誰かに勧められて読まざるを得なくなったとか、勉強のために読む必要ができたとか、何らかの「外圧」があった時だけマンガを読む。

読む時も、「さて、読まなければ……」と決意して、受験の参考書でも読むような悲愴な心境で臨むのが常だ。なぜなら、私はマンガの世界観に慣れていないし、絵にも興味がないし、マンガの正しい読み方もよく分かっていないので、慣れないマンガを読むのが苦痛だからである。

「なぜ、文字で表現しないのだろう」とか余計なことも考えてしまうので、ますますマンガを読んでいて苦痛になる。苦痛なのでずっと避けているわけで、避けているとますますマンガが読めなくなるという悪循環である。

そんな私も自分の小説『スワイパー1999』が、ぶんか社でコミカライズされたので、『アジアバイシュン街の少女たち〜スワイパー1999』を読んでいる。

原作が自分のものであるがゆえに、文章とマンガの表現の違いがいろいろ目について、はじめて「ああ、マンガというのはこういう文章をこういう切り取り方をして表現するのか」と勉強になった。

コミカライズされたこのマンガは原作と完全一致ではない。最初からそうしなくてもいいと私は伝えていたし、物語の大筋は同じでも細部は表現者の裁量に任せたのでかなり原作と違う部分もある。

そういうのも含めて「マンガというのはこうなのか」と文字の世界とマンガの世界の違いに興味を持ったのだった。


『アジアバイシュン街の少女たち〜スワイパー1999』より。原作が自分のものであるがゆえに、文章とマンガの表現の違いがいろいろ目について、はじめて「ああ、マンガというのはこういう文章をこういう切り取り方をして表現するのか」と勉強になった。
下手したら100倍も200倍も、文字だけの本より売れていく
小説の売れ行きとマンガの売れ行きを比較したら、もはや比べものにならないほど圧倒的なまでにマンガの方が売れるだろう。10倍以上どころか100倍以上違うかもしれない。

それだけ日本ではマンガの支持が圧倒的なのである。脅威的なまでに違う。

村上春樹の『ノルウェイの森』なんかは1000万部も売れたということで、これはもはや伝説級の売上だ。ところが、マンガの世界では1000万部など吹けば飛ぶような塵《ちり》のような数字なのである。

歴代発行部数ランキングを見ると、『ワンピース』4億9000万部だとか、『ゴルゴ13』3億部だとか、『ドラゴンボール』2億6000万部とか『ナルトNARUTO』2億5000万部……とか、想像を絶する部数が出ている。

もちろん、マンガは巻数が多いので1作品で比較するのはフェアではないかもしれない。

しかし、仮に『ノルウェイの森』が大河小説で100巻まであったとしても、3億だとか4億には到底届かないだろう。そもそも、100巻もある大河小説など誰も読まなくて逆に売上は10分の1以下に減ってしまうはずだ。

そして、マンガは文字の世界よりも30倍も40倍も、下手したら100倍も200倍も、文字だけの本より売れていく。ついでに言うと、マンガは100巻でも平気で売れるのだ。100巻越えは16作品ほどあって、今後も増えていくだろう。『ゴルゴ13』は、いろいろ合わせると全202巻くらいあるという。

同じ「本」だとしても、こうまで潜在的市場が違ってしまっていたら、もはや「世界が違う」というしかない。マンガというのは、それほどまで凄まじい世界だということだ。ちなみに、私はここで挙げたマンガのすべてを読んだことがない。


『アジアバイシュン街の少女たち〜スワイパー1999』より。小説の売れ行きとマンガの売れ行きを比較したら、もはや比べものにならないほど圧倒的なまでにマンガの方が売れるだろう。10倍以上どころか100倍以上違うかもしれない。
日本人の多くが今後もマンガにのめり込んでいくのだろう
時代は稀に振り子のように右から左へ、左から右へと振れることがある。とすれば、今はマンガが隆盛だが、これから再び「文章の時代」に戻ってくることがあるのだろうか。人々はこぞって文章を読むようになるだろうか……。

私は今のところ「それはないだろう」と考えている。それこそ今のハイテク文明が何らかの要因で自壊して、文明がグーテンベルクの時代にまで退化したら再び文字の時代が戻って来るかもしれない。

しかし、そんなことを考えるのは時間の無駄だ。文字の時代は戻って来ない。

ではマンガの時代はこれからも永遠に続くのだろうか。いや、私はそれも違うと思っている。ハイテクは、やがてマンガというジャンルも時代遅れにしてしまうような、何か新たな新しい分野を生み出すかもしれない。

それは私には分からない。しかし、何にしろ世の中は今とは違う世界に変わっていくのだろうが、しばらくはマンガという強大なジャンルは続いていくのだろう。

「マンガか……」としみじみ思う。コミカライズされた自分の小説をマンガで読みながら、私は自分自身がブラックアジアをマンガで書いたらいったいどんな作品になってしまうのだろうと夢想してしまった。

元々、ブラックアジアは東南アジアの暗いアンダーグラウンドの世界を題材にしているのだが、これを私自身がコミカライズ化したら、きっと誰も読めないような凄まじくダークな絵柄でブラックな内容になってしまうに違いない。

もっとも私がマンガを描けるわけがないので、ただの夢想だが……。

何にしろ、マンガを描くというのは違う才能である。そして、その才能は巨大な需要がある分野の才能でもある。日本人の多くが今後も大量のマンガを求め、マンガにのめり込んでいくのだろう。


『アジアバイシュン街の少女たち〜スワイパー1999』より。スワイパー1999の物語は実在の事件を組み込んでいるのだが、物語自体はフィクションである。出てくる女性は、どの女性もモデルがいる。当時、スワイパーにいた男たちの中には誰がモデルなのか分かる男もいるかもしれない。

https://blackasia.net/?p=27126
5:777 :

2022/12/01 (Thu) 14:34:17

日本の英語教育は「植民地における現地人への宗主国言語教育」と全く変わらない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/320.html

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004524

ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

体を売らなければ大学へ通えない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14047554

日本の研究力の低下 - 内田樹の研究室
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内田樹 _ 「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因
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2022/12/01 (Thu) 14:37:09

日本の英語教育は「植民地における現地人への宗主国言語教育」と全く変わらない


外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31


2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。


外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html
7:777 :

2023/06/15 (Thu) 12:01:25

「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想か 見過ごされてきた「形式卒業者」の存在、注目集める夜間中学
2023/06/15
https://nordot.app/1038705390451458905?c=39546741839462401

石尾彰さんが勉強に使っている漢字ドリルとノート。現在は小4レベルを学んでいる
 日本では憲法で教育を受ける権利が保障されていて、ほぼ全ての人が中学校を卒業している。「文部科学統計要覧」によると、統計が始まった1948年から義務教育の就学率は99%台で推移し、2022年も99・96%だった。
 しかし、学校関係者の間で長年認識されながらも見過ごされてきた「形式卒業者」の存在が近年、クローズアップされている。病欠や不登校などで学校に十分通えず形式的に中学を卒業した人を指す。自身に卒業したとの認識がない人ですら一定数いるとされる。
 今や中学生の二十数人に1人が不登校と言われる時代。義務教育が十分に受けられなかったことで基礎学力が足りず、抱えることになる生活上の不便は想像以上に深刻だ。読み書きに不安を持つ人々が学び直す場としての夜間中学が、今再び注目されている。(共同通信=浦郷遼太郎)


香川県三豊市の夜間中学の授業風景。5月末時点で10~80代の18人が学んでいる=2022年10月
 ▽切符が買えない
 岡山市の井上健司さん(38)は今も読み書きに不安がある。漢字が読めず、電車の切符が買えない。住所の漢字も覚えられず、30歳過ぎまでメモを持ち歩いていた。
 「5の段」が覚えられなかった。小学3年の時、九九が覚えられずに先生に怒られ、友人と2人で居残りさせられたことを今も鮮明に覚えている。同じ時期に友人トラブルも重なって学校が嫌になり、不登校になった。遺伝性の糖尿病も発症し、退院した後も学校にはほとんど行けなかった。かといって家で勉強を教えてくれる人もいない。入退院を繰り返し、テレビアニメを見て過ごす日々が卒業まで続いた。
 中学入学後も不登校は続いたが、友人に誘われ3年の1年間は通った。ただ、1年ごとの学習の積み上げがないままでは、授業の内容はちんぷんかんぷんだった。友人とたわいもない話をして過ごす学校生活は楽しく、そのまま通い続けたが、受け取った卒業証書に実感は湧かなかった。


岡山市の自主夜間中学に通う井上健司さん
 卒業後、読み書きができず困り始めることになる。就職するにも、まず履歴書の書き方が分からない。説明書きにある漢字が読めなかった。土木作業員や警備員の仕事を始めたものの、派遣先の地名が漢字で理解できない。日報には平仮名ばかりが並んだ。「漢字が書けないのか?」と上司に言われても適当にごまかした。「なかなか理由は言えず、ただ謝っていた」と振り返る。
 その後は持病が悪化し、20代はほとんど働けず生活保護を受けながら生活した。車の運転免許の取得も試みたが、学科試験対策の引っかけ問題に苦戦し、挫折した。
 読み書きが難しいと、外出にも支障をきたす。行ったことがない場所へ足を運ぼうとしても不安やストレスから腹痛が起きる。買い物で街中に出ても、用が済めばすぐ家に帰る始末だ。海外へ旅行や留学する人を見ると、「不安じゃないのかな。僕だったらあり得ない」とこぼす。
 井上さんは、かかりつけ医の紹介で5年ほど前から「岡山自主夜間中学校」(岡山市)に通っている。週3日開校しているが、糖尿病の人工透析を受けながら福祉施設で働く日々なので、通って机に向かえるのは土曜日だけだ。現在は漢字検定8級(小3修了程度)の合格に向け勉強に励んでいる。
 「学校に通えなかった後悔がある。自分を変えたい。全力で学び直していきたい」と話す。


香川県三豊市の夜間中学に通う石尾彰さん。授業で分からないところがあれば、左にある「HELP」の札を立て意思表示する=2023年5月30日
 ▽授業では「いない存在」に
 50歳を過ぎて学び直す人もいる。香川県三豊市の石尾彰さん(55)は幼い頃から体が弱く、入退院を繰り返してきた。小学校でも腹痛で欠席することが多く、小4の時に精神的な不調から半年ほど入院したことがきっかけで本格的に勉強が分からなくなった。
 中学でも状況は変わらない。本当は小学校の勉強からやり直したかったが、先生はそこまで面倒をみてくれなかった。授業では他の生徒が順番に当てられていく中、石尾さんは飛ばされた。勉強ができない子とレッテルを貼られ、授業では「いない存在」にされたと感じた。「気分は悪かった」と振り返る。小学生の頃より体調は良かったため、学校には通い続けた。

香川県三豊市で開かれた夜間中学の開設式で、新入生に祝辞を述べる山下昭史市長=2022年4月
 卒業後は職業安定所の紹介で、車の整備工として働いてきた。だが車検項目のチェックリストに書いてあることが読めない。漢字も書けない。仕事は見て覚えたが、上司にメモを取るように言われることは苦痛だった。
 心の中でもう一度学びたいと強く願ってきた石尾さん。その思いは家族にすら伝えられず、どうすればいいのか分からなかった。そんな中、三豊市の夜間中学(市立高瀬中夜間学級)が設置されることをニュースで知り、すぐに市の教育委員会に電話で問い合わせた。
 2022年4月にスタートした三豊市の夜間中学は5月末時点で10~80代の18人が在籍する。石尾さんは小4の漢字ドリルを使って読み書きを中心に学び直しを続ける。今の目標は高校に進学し、電気工事士の資格を取ることだ。


石尾彰さんが漢字練習に使っているノート。ページの右端まで書けるだけ反復して書いて覚えるようにしているという=2023年5月30日
 ▽小卒80万人の衝撃
 小中学校での義務教育の内容を理解していることは、人生をよりよく生きるための土台として必要不可欠だ。文部科学省は義務教育の目的の一つに「国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成」を挙げている。
 2020年の国勢調査では、約80万人が最終学歴を「小卒」と回答した。戦中、戦後の混乱期で教育を受けられなかった人が多いため、80歳以上は約74万人。一方、50代以下でも約2万人いた。中卒と回答した人は約1126万人。既卒者の全体に占める割合は約11%となる。

夜間中学の意義について講演する城之内庸仁教諭
 ただ、中学を卒業したとしても、十分に義務教育を受けたことを示すとは限らない。不登校を含め、年間30日以上登校しなかった長期欠席者は小中学生で約41万人に上るとのデータがある。
 昼間の中学校でも勤務経験があり、今は三豊市の夜間中学で教える城之内庸仁教諭が明かす。「公立の学校現場では、明らかに出席日数や学力が足りないと分かっていても、教育的配慮の名のもと、年齢に応じて進級あるいは卒業させている実情がある。この考え方自体を見直さないといけない時期に来ている」。事実、小中学校の卒業に出席日数は必須ではない。こうした人が形式卒業者となって“無学”のまま社会に押し出されている。


夜間中学を併設している香川県三豊市立高瀬中学校
 ▽不登校にフォーカスする夜間中学
 夜間中学は戦後の混乱期に、さまざまな事情で義務教育が十分に受けられなかった人たちを対象に誕生したが、近年は高齢者に加え、外国人労働者の受け皿としても期待される。
 夜間中学は自治体が設置する「公立夜間中学」と、民間で運営される「自主夜間中学」の二つに分けられる。公立は教員免許を持った教員が指導。授業は週5日で学費は無料。全課程を修了すれば、中学卒業資格が得られる。これまでは中学を卒業していない15歳以上が入学するのが一般的だった。だが、文部科学省は2015年、形式卒業者の受け入れを認める通知を出している。
 一方、井上さんが通うような自主夜間中学は民間のボランティアで運営される。公立と違って入学要件はない。授業は週に2~3回。学校としての認可を受けていないため、中学の卒業資格は得られない。
 公立夜間中学の中には、特殊な位置づけの学校もある。香川県三豊市の夜間中学は不登校中の“現役”中学生を受け入れる。文科省から「不登校特例校」に指定された、全国で唯一の夜間中学だ。不登校生の実態に配慮した授業時間の削減や、習熟度に応じた柔軟な教育プログラムを実施し、現在2人の生徒が在籍する。形式卒業者予備軍の生徒にとって社会に出る前の“最後のセーフティーネット”かもしれない。
 新たな役割を担い、重要性がクローズアップされつつある夜間中学。文科省は都道府県と政令指定都市にそれぞれ1校以上の公立夜間中学の設置を促す。文科省によると、今年4月現在、17都道府県44校まで広がった。2025年度までに28都道府県に拡大し、新たに14校が設置される見通しだ。


香川県三豊市の夜間中学で実施された識字調査
 ▽識字率の実態は?
 基礎学力を測る最もベーシックな尺度は「読み書き」で、識字率として数値化することができる。しかし、識字率の現状を把握する全国規模の識字調査は、実は1948年以来行われていない。
 戦後、連合国総司令部(GHQ)の占領下で約1万7千人を対象に「日本人の読み書き能力調査」として一度実施されただけだ。その結果、読み書きが全くできない「非識字者」は1・7%で、読み書き能力の水準は極めて高いとされた。この結果や、戦後も義務教育の就学率が高水準のまま維持されてきたことを背景に、国内の識字率は「ほぼ100%」と認識され、識字問題は「終わった課題」とされてきた。
 しかし近年、小・中卒が一定数いることや外国人労働者が増加していること、また形式卒業者の存在にも光が当たり始め、全国的な識字調査を目指す動きも出ている。

取材に応じる国立国語研究所の野山広准教授
 日本語学などの研究機関である「国立国語研究所」(東京)が、一部の夜間中学で試行調査を進めている。その結果、井上さんが通う岡山市の自主夜間中学では約2割、石尾さんが学ぶ香川県三豊市の夜間中学では、ほぼ全ての生徒が「識字に問題を抱えている可能性」があった。 


 国語研究所は、 調査対象を日本語教室などにも拡大する方針。将来的な全国規模の調査につなげたい考えだ。
 調査チームの野山広准教授はこう指摘する。「実際にどれくらいの人が日本語の読み書きに生活上困っているかを計る基礎的な資料を提供したい。調査を通じて識字率がほぼ100%とされてきたことが『共同幻想』だったと世の中に知ってもらい、必要な施策を取らなければならない」
https://nordot.app/1038705390451458905?c=39546741839462401
8:777 :

2023/09/05 (Tue) 13:44:48

故郷を忘れた日本人へ (前編) 現代の若者が人生に“無気力“なワケ [2023 8 28放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ
https://www.youtube.com/watch?v=0scQLd2rguU&t=29s

[2023.9.4放送]「故郷を忘れた日本人へ」Part2、行きすぎた英語教育は国力を下げる(藤井聡/KBS京都ラジオ)
https://www.youtube.com/watch?v=D6WhJH79yZA


▼動画で紹介した、仁平千香子氏の著書「故郷を忘れた日本人へ」の詳細はコチラ
https://www.amazon.co.jp/dp/4899920814/
9:777 :

2024/02/18 (Sun) 14:41:50

吉村府知事や岸田総理は「英語化」で 多民族共生を強制
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16840196



外国語学習について - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14094875

「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14120908

日本人の3人に1人は日本語が読めない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14068776

日本語は難し過ぎる
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14094861

ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html

室伏謙一 岸田政権が今更移民政策推進
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14046858

外国人600万人時代、建設労働者、観光客から IT人材まで
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14123051

グローバリズムとは思想やイデオロギーではなく、 単に労働者の賃金を下げるコスト削減の事
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14121597

多文化共生とはイスラム移民がレイプしまくるのを放任する事
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007116

【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008379

対外戦争で勝った事が一度も無い中国とロシアはこういう手口で領土を乗っ取る
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14018754

クルド人問題の裏にテロ組織、 麻薬密輸、人身売買!? 日本がスウェーデン化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14146905

【ch桜北海道】移民、難民!欧州の例から考える。日本ではクルド人問題が![R5/7/18]
https://www.youtube.com/watch?v=HOnOWDfXXjM

川口市ではクルド人が病院を占拠したり、集団で女性を追い回したりしている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14127085

特番『外国人との「共生」は困難-クルド人問題で混乱する埼玉の実情ー』ゲスト:経済・環境ジャーナリスト  石井孝明氏
2024/02/06
https://www.youtube.com/watch?v=dAJSsgPB4SA

移民が引き起こしたケルン事件とロザラム事件 欧州で起きた現実
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14070097

人口の4割が移民になったスウェーデンのパラレルワールド
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14071537

移民による犯罪多発 _ 検問を突破した移民少年への発砲をめぐるパリ暴動
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14125040

日本のアジア化は着々と進行している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14072416

エリート洗脳システムとしての留学制度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14118494

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004524

日本の研究力の低下 - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14051677

内田樹 _ 「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因
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大学でいま、起きていること
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日本の学校教育は「我が国とは全てが違う…」
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甘過ぎる日本の帰化制度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14018762

「『移民』で日本もこうなる(前編-1)」宇山卓栄 AJER2023.10.27(1)
https://www.youtube.com/watch?v=qGpJvPeZRLg&t=318s

「『移民』で日本もこうなる(後編-1)」 宇山卓栄 AJER2023.11.3(3)
https://www.youtube.com/watch?v=5kzGnH1F3_Y
10:777 :

2024/03/02 (Sat) 14:35:13

内田樹の研究室
文字の書けない子どもたち
2024-02-27
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

 高校の国語の先生から衝撃的な話を聴いた。生徒たちが文字を書けなくなっているというのである。教科書をただノートに筆写するだけの宿題を毎回課すが、やってくるのは半数以下。授業中に書いた板書をノートに写すようにという指示にも生徒たちは従わない。初めはただ「怠けているのか」と思っていたが、ある時期からどうもそうではないらしいことに気がついた。
『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。 
 生徒たちの提出物の文字が判読不能のものが増えて来たという話は大学の教員たちからも聴く。学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いたのか学生自身に訊いてみたら、自分でも読めないと答えたそうである。
 一体何が起きているのか。どうやら文字を書くという動作そのものに身体的な苦痛を感じる子どもが増えているらしい。
 文字を書くというのはかなり精密で繊細な身体運用を要求する。筆で書くなら、ひとさし指と中指をかけて親指で筆を抑え、肘を上げて穂先をまっすぐ立てる。これを「懸腕直筆」という。昔お習字の時にそう教わったはずである。この姿勢をとると体軸が通る。
 武道家として言わせてもらえば、体軸が通っていないと手足の自由は得られない。文字を書くためには、まず身体の構造が整っていないと始まらない。当たり前の話なのだが、どうも当今の子どもたちはその身体の構造そのものが崩れ始めているように思われる。
長い話になりそうなので、続きはまた次週。
 
 先週の続き。「文字の書けない子どもたち」がどうして生まれて来たのかについて武道的立場から考察したいと思う。
 筆で字を書く時にかなり精密な身体運用が求められる。能筆の人は横に一本線を引く時も、勢い、太さ、濃淡を細かく変化させながら筆を運ぶことができる。
 最後の首切り役人だった 八世山田朝衛門は斬首の一閃の間に涅槃経を唱えたと後年述懐している。右手の人差し指を下ろす時に「諸行無常」、中指を下ろす時に「是生滅法」、薬指を下ろす時に「生滅滅已」、小指を下ろす時に「寂滅為楽」。そこで首がぽとりと落ちるのだそうである。一瞬の動作を四句十六文字に分節していることになる。斬ることの本質が力ではなく、動作の精密さと多分割にあることがよくわかる逸話である。
 精度の高い身体運用をなしうることは生きる上での必須の能力である。それができなければ、包丁で葱を刻むこともできないし、針の穴に糸を通すこともできないし、文字も書けない。しかし、どうやらその基礎的な「生きる能力」が今の子どもたちは衰えているらしい。
 文字なんか書けなくても、キーボード叩けば済む。葱だって刻んだものを売っているし、靴下の穴なんかけちくさく繕わずに買い替えればいい。そうかも知れない。でも、身体の構造が崩れて、細密動作ができないという子どもたちを制度的に創り出しているかもしれないという危機感を大人たちは持った方がいい。
 文字を書くというのは、罫に沿って、あるいはます目に合わせて、複雑な図形をかたちよく配列することである。字間調整も必要である。おそらく古人は子どもたちが書字によって身体の精密な運用を学び、生きる力を高めるということを知っていたのだろう。だから、子どもたちに「黙って臨書しろ」と命じたのだと思う。今さら習字を必修にすることはできない。
 では、どうしたらいいのか。私にもわからない。
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

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