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59年前の11月22日、支配層から憎悪されたケネディ大統領はダラスで暗殺された

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2022/11/24 (Thu) 07:32:14

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59年前の11月22日、支配層から憎悪されたJFKはダラスで暗殺された
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211240000/

 59年前の11月22日、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディはテキサス州ダラスで暗殺された。

 大統領一行がフォート・ワースに到着した11月21日夜、警護を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くは「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して翌日の未明まで騒いでいた。そのナイトクラブを経営していたパット・カークウッドはジャック・ルビーの友人。言うまでもなく、ルビーはJFK暗殺の犯人とされているリー・ハーベイ・オズワルドを警察署で射殺したとされている人物だ。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 22日の朝に大統領はフォート・ワースの空軍基地からダラスへ移動し、そこでパレード用のリムジン(1961年型のリンカーン・コンバーティブル)に乗り込んだ。当時のダラス市長アール・キャベルはケネディ大統領に解任されたチャールズ・キャベルCIA副長官の弟だ。同じように解任されたCIA長官がアレン・ダレスである。

 リムジンより約400メートル前方を走るパイロット・カーを運転していたジョージ・ランプキンはダラス警察副本部長で、予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていた。隊長のジャック・クライトンはダラスの石油業者で、同業者のジョージ・H・W・ブッシュと親しい。そのクライトンは第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、ヨーロッパで活動していた。

 パレードで使われたリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。

 大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言、元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 そして12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。パレードの後方にある教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令しているが、これ無視してクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。また銃撃の際、リムジンはほとんど停車していたと50名以上の人が証言している。勿論、パレードの前方にオズワルドはいない。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 ところがベセズダ海軍病院からペリーに電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求めてきたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言だ。ペリー本人から23日に聞いたという。数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だと訂正する。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 パレードの前方には「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」があるが、銃撃の直後にそこへ駆けつけたダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 同じ場所で銃撃の直前、兵士のゴードン・アーノルドは「シークレット・サービスのエージェント」を見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われ、アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 アーノルドはパレードを撮影したが、銃撃が収まってからふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づき、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。銃撃後にグラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。

 大統領を銃撃する様子をエイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムが存在することが知られている。事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 LIFEの発行人だったC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレスらを中心にして行われたメディア支配プロジェクト「モッキンバード」の協力者でもあった。ストーリーはこのジャクソンの命令に従って動いていた。

 後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られた。この機関は1996年にNIMA(国家画像地図局)の組み込まれ、現在のNGA(国家地理空間情報局)になっている。いずれのフィルムも長い間一般に公表されなかった。

 こうした話はJFK暗殺にまつわる疑惑の一部、氷山の一角にすぎない。政府機関は今でも資料の全面公開を拒んでいる。暗殺を目撃した少なからぬ人物が変死していることは有名な話で、暗殺事件を調査するとして設置されたアール・ウォーレン最高裁長官を委員長とする「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」(通称ウォーレン委員会)は証拠や証言の隠蔽を図っている。またザプルーダーのフィルムは調べられなかったという。このフィルムを公開させたのはルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソンだ。1969年2月に法廷でフィルムは映写されたが、そのフィルムには大きな傷があった。

 ウォーレン委員会が報告書を発表した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれ、プロの仕業だと見られている。

 マリーが結婚したコード・メイヤーはその後、CIAで秘密工作部門の幹部を務めることになる。コードがCIA入りしてからふたりの関係は悪化したようで、1958年に離婚。1961年にマリーはジョン・F・ケネディ大統領と個人的に親密な関係になった。

 大統領が暗殺された直後にマリーはハーバード大学で心理学の講師をしていた友人のティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。犯人は特定されていない。(Timothy F. Leary, “Flashbacks, Tarcher,” 1983)

 ケネディ大統領には敵が多かった。ソ連との「平和共存」を訴えていたことからソ連への先制核攻撃を目論んでいたアメリカの軍や情報機関の好戦派に憎悪され、イスラエルの核兵器開発を問題にしていたことから親イスラエルの富豪からも嫌われ、通貨発行権を政府が取り戻そうとしたことから金融界に危険視され、CIAの解体計画はCIAを怒らせている。CIAの背後は金融界だ。ケネディはCIAの受け皿としてDIAを創設したと言われている。

 軍や情報機関の好戦派から憎悪されたひとつの事件がキューバ危機だろう。このグループはイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルと同じようにソ連を敵視、ソ連に対する先制核攻撃を計画していた。そうした中、ソ連はキューバへミサイルを持ち込む。キューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設をアメリカの偵察機U2が1962年9月に3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認している。(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)

 ソ連は中距離ミサイルのサイトを6カ所、長距離ミサイルSS5のサイトを3カ所建設する予定で(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)、102発の核弾頭をキューバに持ち込もうとしていたとも言われている。(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)

 また1961年から68年にかけて国防長官を務めていたロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、その当時、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 好戦派はソ連軍の力を過小評価、キューバを空爆で破壊すべきだと主張していた。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは強硬派の作戦に同意しなかった。そして大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。ちなみに、キューバとアメリカとの間にはカリブ海が広がっているが、ウクライナはロシアと接している。

 キューバ危機による軍事的な緊張の高まりを受け、アメリカ政府とソ連政府は話し合いを進めていたが、そうした中、10月27日にルドルフ・アンダーソンが乗ったU2がキューバ上空で撃墜された。同じ27日、シベリア上空ではU2をソ連のミグ戦闘機が迎撃するという事態になっている。核戦争の危機が迫っている最中、アメリカの戦略空軍はU2をソ連周辺に飛ばしていたのだ。

 U2のパイロット、チャールズ・モールツビー少佐は司令部に連絡、引き返すように命じられてアラスカへ向かい、この偵察機を護衛するためにアメリカ側はF102Aを離陸させた。ベーリング海峡の上空を核武装した軍用機が飛び交うという緊迫した状況が生まれたのだ。幸いなことにミグよりもアメリカ軍機が早くU2を発見、無事帰還できた。

 この事態を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したのだが、その後も別のU2がモールツビー少佐と同じコースを飛行している。軍やCIAの好戦派はコントロール不能になっていた。(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)

 10月27日にはアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。

 たまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したことから核魚雷は発射されなかったが、もし発射されていたなら現場にいたアメリカの艦隊は全滅、核戦争に突入したと見られている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄ったというが、アメリカ側はキューバのソ連軍を実際の6分の1程度に過小評価していたことが後に判明している。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたが、それを好戦派は察知し、27日に挑発的な行動へ出たと見られている。その延長線上にダラスにおける暗殺があると言えるだろう。好戦派はケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われている。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、マリー・ピンチョット・メイヤーはキューバ危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に主張していたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211240000/
2:777 :

2022/11/24 (Thu) 07:34:05

J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1102.html
3:777 :

2022/12/20 (Tue) 08:39:20

2022.12.20XML
今でもケネディ大統領暗殺に関する情報の公開をアメリカ支配層が恐れる理由
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212200000/

 ​アメリカの国立公文書記録管理局は12月15日、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する1万3000以上のファイルを公開​した。同局が保管している関連文書の97%だというが、CIAが保管している重要文書はマイク・ポンペオ(2017年1月から18年4月までCIA長官、18年4月から21年1月まで国務長官)とジョー・バイデン大統領によって公開が阻止されたという。そもそも最高機密に属す情報は文書になっていない可能性が高く、それに準ずる文書は処分されているか別の「安全な」場所に隠されているはずだ。

 国立公文書記録管理局による文書公開は隠蔽工作の一環とも言えるのだが、その事実に​FOXニュースのタッカー・カールソン​が番組の中で切り込んだ。隠されている重要文書を見ることにできる人物は彼に対し、ケネディ大統領暗殺にCIAは関与したと思うと語ったという。

 暗殺にCIAの一部が関与していることは少なからぬ人が信じている。それほど証拠、証言、分析が存在しているのだが、アカデミーや有力メディアはそれを認めようとしない。

 ジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された。

 その日の朝、大統領はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込むが、そのリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。

 また、リムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついたが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 当初、大統領が乗ったリムジンの両側に警察のオートバイを走らせる予定だったが、21日にシークレット・サービスからオートバイを後ろに下げるように警察は言われている。シークレット・サービスはそれが大統領の希望だと主張しているが、直前のヒューストンでは両脇にオートバイが配置されている。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 本来なら、ダラスでは通常より警備を厳しくしなければならない事情があった。ケネディは11月2日にシカゴを訪れる予定にだったが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対して2カ所からもたらされた。ひとつはFBIの情報源から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。

 FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うことになっていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられた。FBIにその計画を伝えたのは「リー」と呼ばれる情報源だった。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまった。

 ちなみに、ケネディ大統領を暗殺したとされているリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だとする情報がある。そのコードネームはS172、またはS179だったという。

 モイランド警部補が得た情報は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。彼が日本で配属されていたのは滋賀県にあったキャンプ大津(現在は陸上自衛隊の大津駐屯地)だとも言われている。ちなみにオズワルドは厚木基地で偵察機U2に関する機密情報に接しうる仕事をしていた。

 エージェントがベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾を発見、捜査は警察にバトンタッチされた。警察で担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラ。11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)にベイリーは逮捕され、その5分後にケネディ大統領のシカゴ訪問取りやめが発表された。

 そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告している。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989)

 大統領のパレード、しかも通常より危険な状況にあるということになれば、少なくとも沿道の建物の窓は閉めさせ、開いていれば捜査官を派遣してチェックさせるのが当然だが、そうした状況下で保安官が警備からはずされ、警察の警備体制を緩くさせたりしている。

 シークレット・サービスはパレードの当日にコースを変更している。当初、本通りを直進する予定で地元紙もそのように報道していたが、ヒューストン通りを右折、エルム通りとの交差点、オズワルドが働いていた教科書ビルの直前で左折するよう変えられた。

 エルム通りへの左折は「ヘアピンカーブ」になっていて、速度をかなり落とさなければならず、狙いやすうえに複数のスナイパーを配置できる。実際、大統領を乗せたリムジンは時速8キロメートルに減速している。

 ケネディ大統領は12時半頃に暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。これは本ブログでも書いてきた。銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。

 ケネディ大統領の暗殺では、さいまざまな「有名人」の名前が挙がっている。そのひとりがハワード・ハント。1972年6月にリチャード・ニクソン大統領陣営のCREEP(大統領再選委員会)に属すメンバーがワシントンDCの民主党全国委員会本部へ侵入、逮捕された。ウォーターゲート事件だが、この事件にハントも関係していた。

 ハワード・ハントは2007年に死亡する直前、息子のセイント・ジョン・ハントへ自分がケネディ大統領暗殺に関係していたことを明らかにした。暗殺自体に関係していないが、暗殺の真相が明らかになりそうになった場合、スケープゴートにされることにあったのではないかとCIAの元高官、ビクター・マーチェッティは推測している。

 暗殺の翌年に興味深い映画が3作品、公開されている。1月にスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、2月にはジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」、そして10月になるとシドニー・ルメット監督の「フェイルセイフ」だ。

 最初の作品は空軍司令官がソ連への核攻撃を全戦略爆撃機に命令するという筋書きで、2番目は統合参謀本部議長など軍の幹部が大統領を排除するためにクーデターを計画するという内容、3番目ではコンピュータのエラーでソ連を核攻撃してしまうというプロットだった。(Russ Baker, “Family of Secrets”, Bloomsbury, 2009)

 「5月の7日間」という小説を書いたのはフレッチャー・ニーベルとチャールズ・ベイリーで、ケネディ大統領もその小説を読み、友人にありえる話だと語っている。その話をニーベルが思いついた切っ掛けはカーティス・ルメイへのインタビューだったという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 ルメイは広島と長崎に原爆を投下し、日本の都市に住む市民を焼夷弾で焼き殺した人物。「博士の異常な愛情」でソ連に対する核攻撃を独断で命じたジャック・リッパー空軍准将もルメイがモデルだと考えられているのだが、この人物はケネディ大統領暗殺の翌年、日本政府から「勲一等旭日章」を授与された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212200000/
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/02 (Mon) 17:49:51

JFK暗殺機密ファイル公開、黒幕はCIAかKGBか? オズワルドと日本の関係、洗脳実験の闇(ジェームズ斉藤)
2023.01.02
https://tocana.jp/2023/01/post_245412_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 今回はJFK(第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディ)の話をしたいと思います。というのも、昨年末に突如、バイデン政権がJFKに関する機密ファイルを解除したんです。ご覧のように(画像を参照)短いメッセージが公開されただけなんですが、そこには犯人と言われるオズワルドがCIA(米中央情報局)に雇われていたという驚愕の事実が書かれていたんです。

JFK暗殺機密ファイル公開、黒幕はCIAかKGBか? オズワルドと日本の関係、洗脳実験の闇(ジェームズ斉藤)の画像1

──ではJFK暗殺の黒幕はやはりCIAだったと。でも、その話って昔から言われてましたよね?

ジェームズ 言われてましたけど、あくまで噂レベルで、政府の公式な機密解除でCIAに雇われていたという表現が出るのは今回が初めてです。

──じゃあ、やっぱりCIAによる暗殺だったんですね。

ジェームズ それがそうとも言い切れないんです。ここで大切なのは2点あって、「CIAに雇われていたのは確かですが、どんな形態で雇われていたのか」という点と、「日本との関係」です。

──えっ!? オズワルドは日本と関係があるんですか!?

ジェームズ あります。オズワルドは日本の厚木基地に赴任していたんです。1950年代後半だったと思います。彼は海兵隊員として厚木にいたんですが、厚木基地にいる時にCIAに雇われていたのです。

──ということはCIAに雇われていたものの、JFK暗殺とは関係なかったと。

ジェームズ それがそうとも言えないんです。オズワルドがいた厚木基地にはCIAの基地もあり、CIAはそこで極秘の任務をしていたんです。ただし、それは日本の機密情報を盗み出すとかそういったことではありません。彼らがやっていたのはLSDなどのドラッグや幻覚作用に関する研究で……。

──えーっ! MKウルトラ(かつてCIAが行っていた洗脳実験)ですか!?

ジェームズ はい、昔、厚木基地でもCIAはMKウルトラをやっていたんです。

──うわぁ、確か、MKウルトラって3種類ぐらいあって、「MKナオミ」というのがあったと思うんですけど、もしかしてそれですか?

ジェームズ MKナオミかどうかは情報は共有されていませんが、MKウルトラに関する実験を日本でもやっていたことは確かです。オズワルドはその実験台になっていたらしいんですよ。

──実験台として雇われていたんだ!

ジェームズ それが開示された機密文書に書かれていたことです。ですから、スナイパーとして雇われたということではないんですよ。

──では、MKウルトラで頭がおかしくなってしまってJFK暗殺を計画したんですかね?

ジェームズ そういうことでもないようです。というのも厚木にいた時の彼の行動が不思議なのです。突然ロシア語の勉強を始めるんですよ。当時米ソ冷戦の真っ只中なのでロシア語を勉強するのはそれほどおかしくはないんですけど、除隊後、彼はソ連に行ったんです。モスクワのアメリカ大使館に現れて「私は亡命者だ」と言っているんです。「アメリカが嫌いで亡命する」と言って大暴れして大使館員を慌てさせたらしいんですね。しかも、その後はベラルーシの首都ミンスクに行ってダンスパーティーで出会ったロシア女性と付き合って結婚したんです。

──MKウルトラの後遺症が出たんですか?

ジェームズ 多少はあるのかもしれませんが、この結婚には明らかにKGB(ソ連国家保安委員会)が動いています。というのも、当時のソ連人が敵であるアメリカ人と結婚するなんて普通は不可能です。しかもオズワルドは元海兵隊員ですよ。そんな軍歴がある人間と簡単に結婚するほうがおかしいんですよ。しかし、結婚しているということはクレムリンからの許可が出ていることは間違いありません。実は、オズワルドと結婚したロシア女性の父親はロシア内務省の偉い人です。ソ連の内務省というのはMVD(ソビエト連邦内務省)といってKGBの前身機関なんですよ。第二次大戦後、内務省の秘密警察の部門が別になってKGBになったんです。ですから、KGBと密接な関係があるんです。

JFK暗殺機密ファイル公開、黒幕はCIAかKGBか? オズワルドと日本の関係、洗脳実験の闇(ジェームズ斉藤)の画像2
画像は「Getty Images」より
──オズワルドはKGBのスパイになったということですね。

ジェームズ それは間違いないでしょう。結婚と引き換えにいろんな取引が交わされているはずなので。実際、私の知り合いにアメリカのグリーンベレーにいた人間が実はロシアのスパイだったということがありました。彼は同じ学校の同級生でまさかと思ったんですけど、大学の交換留学でロシアに留学中にGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)から女を紹介してもらって結婚しているんです。

──ロシア留学中にロシア女性と付き合う、結婚するってヤバいことなんですね。

ジェームズ その通りです。ロシアは絶対に女を差し出してくるんですよ。残念な話なのですが、日本の外交官や日本人でロシア専門家と言われる人たちの多くも、ロシア女性と結婚しています。ロシア専門家として日本のテレビ等で売れている小泉某氏もそうです。ですから、そういう人たちの言説は気をつけないといけません。本人にその気はなくても奥さんにコントロールされている可能性があります。

──ですね。でも、オズワルドはどっちなんですか? MKウルトラで頭がおかしくなったのか? それとも実験台にされた恨みで反アメリカになったのか? 

ジェームズ MKウルトラの影響もあるかもしれないですが、だからといってなぜJFK殺害になるんですか? いきなり論理が飛躍しています。ただ、ラリってるだけの人間がJFK殺害にはならないと思うんです。ですから、ソ連側の誘導は確実にあると思います。

──KGBが暗躍しているんですね。で、いつアメリカに戻ってくるんですか?

ジェームズ 結婚してすぐに夫婦でアメリカに戻ってテキサスに移住しました。テキサスではライフルなど各種の銃を買い漁って射撃訓練をしています。これはKGBの指示だと思います。この射撃訓練をかなりやったあと、JFKを撃ったという話なんですけど、彼の撃った弾が本当にJFKを殺害したかどうかはわからないです。

──本当はCIAが撃ったんだとか言われていますよね。

ジェームズ その可能性は十分にあります。当時、CIAもJFKを気に食わないと思っていたんです。なぜかというとJFKはCIAを信用していなくて軍に期待を寄せていたんです。たとえば、陸軍の特殊部隊として有名なグリーンベレーってありますよね? あれを作ったのがJFKです。もともとOSS(戦略情報局)という機関があって、その一部が戦後CIAになったんですが、グリーンベレーもOSSが元になってできています。ですから、CIAもグリーンベレーも同じような部隊なんですが、作った勢力が違うんです。CIAは、JFKいわく影の政府と言われる特定の勢力が作ったと言っています。JFKはそういうスピーチを殺害される前にしています。

──いまで言うディープステートがJFK暗殺の黒幕だと。

ジェームズ そうです。それを解体しなければいけないというスピーチを死の直前にやったんですよ。それでCIAは「JFKは危険だ」と思っていました。しかもJFKはCIAの裏予算に切り込もうとし、同じく莫大な裏予算を持つグリーンベレーを味方につけていたのでかなり手強い相手でした。ちなみにCIAとグリーンベレーの裏予算は元を辿れば同じで、第二次世界大戦時に密かに手に入れた、天皇のゴールドを含む大量の簿外資産になります。つまりJFKはCIAとグリーンベレーというOSSの裏予算を手にした勢力を戦わせ、軍人の忠誠心を利用して諜報員を潰しにかかったのです。特に、初代CIA長官のアラン・ダレスが重視した「裏予算で捻出した金を世界中にばら撒き暗殺工作を含む謀略活動を展開する」路線を真っ向から潰そうとしました。代わってグリーンベレーにその謀略活動をやらせようとしたのです。

JFK暗殺機密ファイル公開、黒幕はCIAかKGBか? オズワルドと日本の関係、洗脳実験の闇(ジェームズ斉藤)の画像3
リー・ハーヴェイ・オズワルド(画像は「Wikipedia」より)
──CIAはJFKに潰されそうになっていたんですね。

ジェームズ 一方で、CIAのほうもJFKを最初から見下していました。というのも当時のCIAはパパブッシュ(第41代合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ)のようにアイビーリーグ校出身でイギリス王室の血を引くWASP(白人のアメリカ人プロテスタント)エリートが牛耳っており、カトリックでアイルランド系で禁酒時代に違法アルコールの密売でボロ儲けして成り上がったケネディ家出身のJFKなど歯牙にもかけていなかったのです。

 また、CIAのWASPエリートはグリーンベレーも見下していました。イギリス流の貴族的なインテリジェンス観を持っていたCIAからすると命懸けの謀略活動こそ「紳士の嗜み」だと任じていたのです。対してグリーンベレーのような軍人は庶民出身で任務をただ忠実に実行するだけのデクノボウだと思っていたのです。JFKはそこに目をつけ両者を戦わせたのです。

 ですから、JFK暗殺にはCIAとKGBが動いていて、両者の思惑が一致してしまったんです、はからずも。

──KGBはどうしてJFKを狙ったんですか?

ジェームズ 対ソ連に関しては、JFKは当時、「ミサイルギャップ」という、「アメリカがソ連より遥かに核戦力で遅れている!」というまったく事実に反するフェイクなディスインフォメーションを国内外に向けて発信し、アメリカの核戦力の増強を計っていました。これはフェイクでしたが、力しか理解できないロシアに世界中で侵略を諦めさせるのには必要な措置でむしろ天才的な戦略でした。予想通りクレムリンは恐怖に慄き、まずはフェイクなキューバ危機を画策し、アメリカがトルコに配備していた準中距離弾道ミサイル(MRBM)を撤去させました。しかし、JFKは「柔軟な対応(flexible response)」という軍事ドクトリンを打ち出し、「世界のどこでもいかなる手段でもソ連の核脅威に対応する」と宣言、グリーンベレーまで創設し、徹底してソ連を打ち負かす覚悟を見せていました。加えて、JFKは大陸間弾道ミサイル(ICBM)ミニットマンなど最新の核戦力を増強し、核の三位一体(ICBM、SLBM、核爆撃機)を確固たるものにし、ソ連がいくら頑張っても勝てない体制をつくり始めていたのです。これもクレムリンにとって物凄く頭が痛い話で、JFKは大きな脅威になっていました。アメリカというよりはJFK自身が脅威だったのです。実際、前任のアイゼンハワー大統領は弱腰で、ソ連が世界で侵略し放題でした。

──もしかしてクレムリンは当時大陸間弾道ミサイルを持ってなかったんですか?

ジェームズ 持っていたとされますが、実践で使えるものではなかったようです。当時のソ連の技術では作れてなかったんです。ですから、JFKの政策は絶対にやられてはいけないことでした。それがあったのでKGBはJFKの暗殺のためにオズワルドを送り込んだのです。CIAはCIAでその情報を掴んでいて、オズワルドを利用してJFKの殺害に動いた可能性が高いです。

 暗殺後オズワルドは身柄を拘束されますが、護送中にジャック・ルビーという人間が近寄ってきて彼を撃ち殺しています。オズワルドに裁判で証言されるのを嫌った勢力がいたんです。

──ジャック・ルビーってどこの人なんですか?

ジェームズ キューバの諜報機関と繋がっていた人で、キューバの諜報機関というのは当時、クレムリンの管轄です。ですから、オズワルドの証拠隠滅にもクレムリンは関わっています。

──クレムリンはCIAが暗黙の了解をしてくれているってことはわかっていたんですか?

ジェームズ 暗黙の了解ではなく、諜報機関同士の話し合いがあったと聞いています。両者ともオズワルドがラリって勝手にやったということにしておきましょう、ということで決まっていたはずです。ですから、CIAとKGBは敵対しているようで、裏では協力する事例もあるんです。

──JFK暗殺はKGBとCIAの合作だったんですね。

ジェームズ その可能性が今回、公開された文書によって強化されたということです。もちろん、ロシアコネクションについてはこの一枚の文書では見えてきませんが、この一枚によってオズワルドとCIAが関係あったという事実が明らかになりました。ここで大事なのは、それをアメリカ政府が正式に認めたということです。

──なぜ認めるようなことをしたんですか? 別に放っておいてもいいわけじゃないですか?

ジェームズ いえ、認めることはバイデン政権にとって政治的に大きな意味があります。実はバイデン政権はかなりトランプ的なことを積極的にやっています。この政権が機密解除しているネタって、よく考えるとUFOにしろ、宇宙人にしろ、JFKにしろ、トランプが好きそうな、トランプファンが好きそうなネタばっかりなんですよね。

──TOCANA的ですよね(笑)。

ジェームズ そうです。バイデン政権って実はTOCANA的なことばっかりやってます。トランプ以上にTOCANA政権ですよ(笑)。では、なぜこんなことをしているのかというとトランプファンに向けての選挙対策です。というのもトランプは21年1月6日の議会突入に関して正式に刑事訴追の流れになってきています。このことでトランプから離れるトランプ支持者も出てくるでしょ。そういう人たちを取り込もうという戦略です。

──バイデンの選挙対策だったと。

ジェームズ そうです。本当にJFK暗殺の犯人を暴露したいならば、機密解除するべきはオズワルドとCIAの関係ではなく、オズワルドとKGBの関係のほうなんです。ところが、解除したのはCIAという自国の諜報機関の恥を晒すような文書でした。ですから、これは選挙対策以外の何者でもありません。

──でも、今度はCIAが怒るんじゃないですか? 

ジェームズ いえ、公開された文書を読むと、あるCIA関係者が「CIAとオズワルドは関係がある」と言ってるだけであって、言い逃れはいくらでもできるんです。勝手にCIA職員の一人がこんなことを言ってるだけだって言えるんです。ですから、CIAへの逃げ道は用意されています。

 ですから、誰が犯人か、真実を明かすということが重要ではないのです。重要なのはバイデン政権がこの資料を出したことです。そこに意義があるんです。「バイデンはTOCANA的な情報を積極的に解除してくれるぞ」というイメージが大切なんです。

──そんなことが本当に選挙対策になるんですか?

ジェームズ トランプ支持者の中にはどの候補に入れるかを判断する時に「宇宙人のことを暴いてくれる人」とか、「ディープステートのことを暴いてくれる人」と言う人が一定数いるんです、本当にいるんですよ(苦笑)。ですから、これは選挙対策としてとても意味があるんです。アメリカとはそういう国なのです(苦笑)。
https://tocana.jp/2023/01/post_245412_entry.html
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/09 (Sun) 08:12:06

2023.04.09XML
日米の対中露戦の最前線で陸上自衛隊のヘリコプターが墜落
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304080000/

 陸上自衛隊のUH-60JAヘリコプターが宮古島の北西海域でレーダーから機影が消え、胴体前方下部や側面ドア、回転翼の羽根などが見つかったという。墜落したと見られているが、原因は不明のようだ。パイロットが空間識失調、あるいは心臓発作で操縦できなくなったのかもしれない。

 宮古島には2019年に陸上自衛隊の駐屯地が建設されている。同じ年に奄美大島で、また2016年には与那国島、そして今年3月16日には石垣島でも自衛隊の施設ができている。

 これらの軍事施設がアメリカの戦略と深く関係していることはアメリカ国防総省系のシンクタンク​「RANDコーポレーション」が昨年に発表​している。アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようとしているが、配備できそうな国は日本だけ。その日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約があるため、ASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにし、ASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたとされている。

 アメリカは中国だけでなくロシアとの国境沿いにミサイルを配備してきた。両国を軍事的に威圧し、場合によっては先制攻撃することが目的である。「防衛」というタグを付けようと意味はない。

 アメリカの偵察機U2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)、10月には戦艦と戦闘機でキューバを海上封鎖した。「キューバ危機」だ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだ理由はアメリカの核攻撃計画にあったと見られている。SAC(戦略空軍総司令部)は1954年、600発から700発の核爆弾をソ連に投下して118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという作戦を作成、さらに300発の核爆弾をソ連の100都市で使うという「ドロップショット作戦」も計画していたのだ。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​統合参謀本部のライマン・レムニッツァー議長やSAC(戦略空軍総司令部)の司令官だったカーティス・ルメイなど好戦派は1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だった​という。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。


 キューバ危機でケネディ大統領は10月22日キューバの海上封鎖を宣言したが、ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長など統合参謀本部の好戦派は即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。

 その好戦派はソ連の反撃能力を過小評価、SACはDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、22日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。

 その一方、10月27日にはアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長はふたりの将校に核魚雷の発射準備への同意を求めた。

 核魚雷は発射されなかったのは、たまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅、核戦争に突入した可能性が高い。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 アメリカ軍がヨーロッパや日本で行っていることは、 キューバ危機においてソ連が行ったことよりも挑発的だ。なぜ陸上自衛隊のヘリコプターが宮古島の周辺を飛行していたのかを考えなければならない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304080000/
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/16 (Sun) 06:39:52

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第25回「ケネディ家の反乱児はアメリカの分断統治構造を壊せるか?/『ステルス社会主義』に所有されたアメリカ / 原爆資料館の曲学阿米」[桜R5/4/15]
https://www.youtube.com/watch?v=EsrYKdq1rLg

出演:林千勝(近現代史研究家・ノンフィクション作家)・水島総(日本文化チャンネル桜代表)
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/21 (Fri) 11:39:13

2023.04.21XML
ロバート・ケネディ・ジュニアが次期大統領選挙に立候補すると表明
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304210000/

 ​ロバート・F・ケネディ・ジュニアが正式に次の大統領選挙へ出馬すると表明した​。言うまでもなく、この人物は1968年6月6日に暗殺されたロバート・ケネディの息子であり、63年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の甥であり、99年7月16日に「飛行機事故」で死亡したジョン・F・ケネディ・ジュニアの従兄弟にあたる。

 アメリカの大統領選挙は4年に1度であり、1964年、68年、2000年にも実施されている。ジョン・F・ケネディとロバート・ケネディは大統領選挙の有力候補。ジョン・F・ケネディ・ジュニア本人は大統領選への出馬を否定していたが、1999年当時、共和党のジョージ・W・ブッシュや民主党のアル・ゴアより人気があった。立候補すれば当選した可能性が高い。

 RFKと親しかったマーチン・ルーサー・キング牧師は1968年4月4日に暗殺されたが、その丁度1年前、ニューヨークのリバーサイド教会で開かれた「ベトナムを憂慮する牧師と信徒」で、「沈黙が背信である時が来ている」という主催者の訴えに賛意を示し、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」という話をしている。

 ロン・ポール元下院議員によると、​キング牧師の顧問たちはベトナム戦争に反対するとリンドン・ジョンソン大統領との関係が悪化すると懸念、牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​というが、牧師はそれを無視したわけだ。

 アメリカでは第2次世界大戦後、ソ連を先制核攻撃する作戦が立てられていた。1957年に作成されたドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​統合参謀本部のライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイなどの好戦派は1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だった​という。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。この攻撃を成功させるためにもアメリカ軍はキューバを制圧する必要があったのだ。キューバからなら中距離ミサイルでアメリカに反撃できる。ソ連もそう考えたようで、キューバへミサイルを運び込んだ。

 その事実を知ったレムニッツァーやルメイたちはソ連と戦争を始めるように求めたが、ケネディ政権は海上封鎖を宣言するの止める。これでも現在、ロシアのウラジミル・プーチン政権が行なっていることより強硬だが。

 この危機をケネディ大統領は外交的に解決、1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行う。ソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言したのだ。

 その演説で彼は軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」をまず否定、アメリカ市民は「内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)

 ケネディは「互いに寛容な心をもって共存し、その紛争を公正で平和的な解決方法」に委ねるように求めた。ソ連とアメリカとの間で全面戦争が起これば、いずれの国も破壊されるとも主張、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らした。「自信を持ち、恐れることなく、われわれは人類壊滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって努力し続けるのです」ともしているのだが、軍事強硬派は怒る。大統領が暗殺されたのは、その演説から5カ月後のことだった。

 キング牧師と親しいRFKも兄と基本的に同じ考え方だったろう。それだけでもCIAや軍の強硬派にとって危険なことだったろうが、それ以上の恐怖もあったはずだ。つまり、兄の暗殺を大統領として調べ始めることも予想された。

 2001年9月11日はアメリカ、そして世界の歴史における大きな転換点になった。ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのだ。それを口実としてジョージ・W・ブッシュ政権は侵略戦争を本格化させた。もしJFKジュニアが大統領だったなら、こうした展開にはならなかっただろう。

 そして現在、世界は2001年以上の大きな歴史の転換点にある。ヨーロッパ諸国や日本は依然としてアメリカの属国だが、世界的にアメリカ離れが起こっている。そうした国中にはドル体制やエネルギー政策を支えてきたサウジアラビアも含まれている。そうした時期に実施される大統領選挙でネオコンは負けるわけにはいかない。すでにドナルド・トランプを潰す手を打ちつつあるが、RFKジュニアの登場は彼らにとって厄介だろう。あらゆる手段を使い、RFKジュニア潰しを行うだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304210000/

8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/05/11 (Thu) 10:09:12

2023.05.11XML
ロバート・ケネディ・ジュニアがJFK暗殺とCIAを結びつける発言をしたインパクト
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305100001/

 次のアメリカ大統領選挙へ民主党から出馬すると表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアは5月7日、WABCラジオでホストを務めるジョン・カツィマティディスのインタビュー中、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺にCIAが関係している可能性に言及した。「合理的疑惑以上」だとしている。これまで少なからぬ研究者やジャーナリストがこの暗殺を調査、同じ結論に達している。

 ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺され、その直後にリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕される。ところが暗殺の2日後、ダラス警察の地下でオズワルドは射殺された。その犯人だとされているジャック・ルビー(ジェイコブ・ルベンスタイン)はナイトクラブのオーナーで、シカゴの犯罪組織とつながっていた。サム・ジアンカーナと緊密な関係な関係にあったとも言われている。

 ルビーは1964年4月に死刑が言い渡されたが、上訴裁判所はそれを取り消す。この年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはワシントンDCへ移すように強く求めている。テキサスにいては命が危ないという理由だった。自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だというのだ。結局、彼の移送は認められず、1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡した。

 ケネディ大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定だったが、そこでも暗殺計画があった。パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うという情報をFBIが「リー」なる情報源から入手、シークレット・サービスへ伝えられた。

 また、シカゴ警察のバークレー・モイランド警部補は10月後半、シカゴにあるカフェテリアの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされている。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾があった。11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)、ケネディがシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前にベイリーは逮捕されている。

 警察で捜査を担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラだが、グロスはFBIやCIAの訓練を受けた人物で、1969年には警官隊を率い、黒人解放運動を掲げて活動していたブラック・パンサーの指導者であるフレッド・ハンプトンとマーク・クラークを射殺する。またシューラは1970年代にシカゴの警察本部で情報担当の幹部になった。

 11月18日にマイアミで暗殺する計画もあったと言われている。そこで自動車によるパレードが中止になった。そして22日に大統領はダラスへ入る。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 当時のダラス市長アール・キャベルの兄のチャールズ・キャベルは1953年4月からCIA副長官を務め、アレン・ダレス長官と同じようにソ連との核戦争を視野に入れた好戦的な作戦を実行しようとしていた。ケネディ大統領は1961年11月にダレス長官を、そして1962年1月にはキャベル副長官を解任している。

 1963年11月22日の朝、ケネディ大統領はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込む。

 そのリムジンの約400メートル前方を走るパイロット・カーを運転していたのはダラス警察副本部長のジョージ・ランプキン。この人物は予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていたが、その分遣隊で隊長を務めていたジャック・クライトンはダラスの石油業者で、ジョージ・H・W・ブッシュと親しく、第2次世界大戦でCIAの前身であるOSSに所属していた。

 大統領が乗ったリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されている。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 パレードの途中、12時半頃にケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令している。

 しかし、クリント・ヒルは命令を無視してリムジンに飛び乗る。彼によると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことだ。まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。

 ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)

 ケネディ大統領の死亡はダラスのパークランド記念病院で確認されているが、後にルビーもこの病院で死亡する。大統領の死体を見た病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 そうした証言をしたペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められている。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 狙撃の訓練を受けたわけでもないオズワルドがひとりでケネディ大統領を暗殺したとする公式説に疑問を持った地方検事がいた。ニューオリンズのジム・ギャリソンだ。1966年後半から捜査を始め、67年3月にクレイ・ショーを逮捕する。オズワルドがソ連へ「亡命」した時に名前が出てきた人物で、サントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。イタリアの王族や貴族もCIAの秘密工作で名前が出てくるが、ここではそうした話を割愛する。

 パーミンデックスはCIAやイギリスのMI6と関係が深いと言われている会社で、アルジェリアの独立に反対する軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。ショーを逮捕したギャリソンはアメリカの有力メディアから批判されるが、それだけ彼は核心に迫っていたということだろう。

 その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に両社は国外へ追放され、ヨハネスブルクへ本部を移している。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988)

 シャルル・ド・ゴールは大戦中、レジスタンスに参加している。アメリカやイギリスの私的権力はこのゲリラ戦部隊を敵視、対抗するために組織したのがジェドバラ。この人脈が大戦後、CIAの秘密工作部門やNATOの秘密部隊ネットワークを築いた。ド・ゴールが命を狙われた一因は第2次世界大戦中にナチスと戦ったことにあると考える人は少なくない。

 パーミンデックスが創設されたのはスイスで、カナダにも施設があった。設立当時の1958年における社長兼会長はルイス・モーティマー・ブルームフィールドだが、この人物は1938年にイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)へ入っている。

 第2次世界大戦中、OSSとの連絡機関としてイギリスはBSC(英国安全保障局)を設置するが、その責任者だったウィリアム・ステファンソンはケネディ大統領が暗殺された当時、ブルームフィールドを動かす立場にいた。(EIR, “Dope, Inc.”, Progressive Press, 2010)

 ケネディ大統領が暗殺された後、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に就任、11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据える。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほかにリチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、FBIと関係が深いジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ドイツの高等弁務官としてナチスの大物を匿ったジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はFBIとCIA両方とつながっていたリー・ランキン。この中で委員会の専従はダレスだけだった。

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。容疑者として逮捕されたレイモンド・クランプは1965年に無罪が言い渡されているが、捜査は杜撰だった。

 ケネディ大統領が暗殺された直後にマリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, Flashbacks, Tarcher, 1983)

 マリーは大統領と親しかったことから何かを聞いていた可能性があるが、それだけではない。彼女が結婚したコード・メイヤーはCIAで秘密工作部門の幹部を務めていた人物。ふたりは1958年に離婚しているものの、CIAの内部情報を知りうる立場にあった。

 ジョン・F・ケネディ大統領、弟のロバート・ケネディ、ケネディ兄弟と親しかったマーチン・ルーサー・キング牧師は短い期間の間に暗殺された。ケネディ大統領の息子であるジョン・F・ケネディ・ジュニアは大統領選挙を翌年に控えた1999年7月16日に「飛行機事故」で死亡している。

 次の大統領選挙への出馬を表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアはロバート・ケネディの息子であり、ジョン・F・ケネディの甥であり、ジョン・F・ケネディ・ジュニアの従兄弟にあたる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305100001/
9:777 :

2023/11/20 (Mon) 05:51:28

2023.11.20XML
JFK暗殺から60年を経た現在、オズワルドの単独犯行説は説得力を失っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311200000/

 ジョン・F・ケネディは1963年11月22日、今から60年前にテキサス州ダラスで暗殺された。アメリカでは第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してウォール街を根白にするファシズム人脈が息を吹き返していたが、ケネディの大統領就任でその流れが変わる可能性があったのだ。

 ケネディ大統領に続き、マーチン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日に、大統領の弟で元司法長官のロバート・ケネディが同年6月6日に暗殺されて流れは変わらない。ロバート・ケネディは1968年の大統領選挙における最有力候補で、キングが副大統領になるとも言われていた。

 リンドン・ジョンソン副大統領がケネディ大統領のダラス訪問を発表したのは1963年4月のこと。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。

 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008)

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。

 ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

 ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)このボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。

 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311200000/
10:777 :

2024/02/28 (Wed) 19:28:40

【そうきチャンネル】 『ケネディJR 暗殺危機継続』バイデンの意地悪 日米近現代史研究家 渡辺 惣樹(わたなべ そうき)
2024/02/28
https://www.youtube.com/watch?v=DVRsFlt8Kgs
11:777 :

2024/03/17 (Sun) 14:30:39

2024.03.15XML
追い詰められたバイデン政権は状況を逆転するギャンブルをするか(その1)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403150000/

 ジョー・バイデンを含むネオコン、つまりアメリカの好戦的なシオニストはウクライナでロシアに敗北、イスラエル軍によるガザでのパレスチナ人虐殺の共謀者として批判されている。この状況を逆転させるためには衝撃的な、ネオコンの表現を借りるならば「新たな真珠湾攻撃のような壊滅的な」出来事が必要だと考える人もいる。「偽旗作戦」だ。

 ベトナムに対する本格的な軍事介入を実現するためにでっち上げられた1964年8月の「トンキン湾事件」も有名である。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとリンドン・ジョンソン大統領は宣伝して好戦的な雰囲気を高め、1965年2月には「報復」と称して本格的な北爆を始めている。

 ベトナムはフランスの植民地だったが、1954年5月にディエンビエンフーでフランス軍はベトミン軍に降伏しているが、その直前の1月にアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスはNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、国務長官の弟であるアレン・ダレスが率いるCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。

 ところが、ケネディ大統領はアメリカの軍隊をインドシナから撤退させると決断、1963年10月にNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出した。1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させるとされていた。アメリカ軍の準機関紙と言われるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。

 言うまでもなく、このNSAM263は実行されていない。ジョンソンは1963年11月26日、つまり前任者が殺されて4日後にNSAM273を、また翌年3月26日にはNSAM288を出して取り消してしまったのだ。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Carol Publishing Group, 1996)

 ベトナム駐在のヘンリー・ロッジ大使と「大統領」は11月20日にホノルルで話し合い、「南ベトナムに関する討議」の内容を再検討してNSAM273を作成したとされている。この「大統領」がケネディだということはありえない。

 トンキン湾事件の前にもアメリカ軍は偽旗作戦を計画している。ソ連に対する先制攻撃を国民に容認させる雰囲気を作るために秘密工作を実行しようとしたのだ。

 その計画の中には、キューバのグアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破、その責任をキューバに押しつけて非難するほか、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンで「爆弾テロ工作」を展開してキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表、さらに民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。「ノースウッズ作戦」だ。その先にはソ連に対する先制核攻撃計画が存在している。

 この撃墜作戦で拠点になるのはフロリダ州にあるエグリン空軍基地。CIAが管理している民間機のコピー機をこの基地で作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。その上でコピー機にはCIAの管理下にある人びとをのせて離陸、途中で本物と入れ替え、コピー機はエグリン基地へ降りる。無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。そのほか、数機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)

 この計画をライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長は1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)、その数カ月後にレムニッツァーは大統領を説得するため、キューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと説明するが、これは無視された。

 そして1962年10月にケネディ大統領はレムニッツァー議長の再任を拒否する。その時、レムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがシチリア島上陸作戦以降、彼を出世街道へ乗せたハロルド・アレグザンダーだ。イギリスの貴族階級に属する軍人で、イギリス女王エリザベス2世の側近として知られている。

 ケネディ大統領だけでなく議会の中にもこうした好戦的な軍人を懸念する人物がいて、上院外交委員会では軍内部の極右グループを調べはじめる。その中心になっていたのがアルバート・ゴア上院議員(アル・ゴアの父親)だ。調査の結果、そのグループにはレムニッツァーのほかエドワード・ウォーカー少将、ウィリアム・クレイグ准将が含まれていることが判明する。

 ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいたことが知られている。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送付、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)

 言うまでもなく、イスラエルはその後も核兵器の開発を進め、1986年10月5日付けのサンデー・タイムズ紙に掲載された内部告発者のモルデカイ・バヌヌの話よると、イスラエルが保有する核弾頭の数は生産のペースから推計して150から200発。水爆の製造に必要なリチウム6やトリチウム(三重水素)の製造を担当していたバヌヌは水爆の写真を撮影している。また中性子爆弾の製造も始めていたとしている。(The Sunday Times, 5 October 1986)

 ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺された後、副大統領から昇格したジョンソンのスポンサーはアブラハム・ファインバーグ。アメリカン・バンク&トラストの頭取を務める親イスラエルの富豪だ。ジョンソンの中東政策はこの人物のアドバイスに従っていたという。この大統領交代でアメリカ政府のイスラエルに対する姿勢は大きく変わった。

 現在のアメリカ大統領、ジョー・バイデンは自らがシオニストだと言うことを公言、世界ユダヤ人会議から政治的シオニズムの創始者にちなんだ賞を授与されている。​昨年10月にはイスラエルでベンヤミン・ネタニヤフ首相らと会談した際、バイデンは「シオニストであるためにユダヤ人でなければならないとは思わないし、私はシオニストだ」と発言していた​。また2007年には「シャロームTV」のインタビューでも自分はシオニストだと主張、息子のボー・バイデンがユダヤ系のハリー・バーガーと結婚したとも語っている。このジョー・バイデンがイスラエル、そしてベンヤミン・ネタニヤフ政権に厳しい姿勢で臨むことは考えにくい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403150000/




2024.03.16XML
追い詰められたバイデン政権は状況を逆転するギャンブルをするか(その2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403160000/
 アメリカが中東で侵略戦争を本格化させる切っ掛けは2001年9月11日に引き起こされたニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃だが、その直前、ジョージ・W・ブッシュを担いでいた勢力は厳しい状況に陥っていた。その状況を9/11が逆転させたのである。

 この攻撃では世界貿易センターの南北ツインタワーだけでなく、攻撃を受けていない7号館(ソロモン・ブラザース・ビル)も爆破解体のように崩壊している。

 このビルで最大のテナントは金融機関のソロモン・スミス・バーニー(1988年にソロモン・ブラザースとスミス・バーニーが合併してこの名称になった)で、47階のうち37階を占めていた。それ以外には国防総省、ニューヨーク市のOEM(緊急事態管理事務所)、シークレット・サービス、CIA、SEC(証券取引委員会)、IRS(内国歳入庁)、FEMA(連邦緊急事態管理局)が入っていた。

 タワーに航空機が激突した直後、7号館の23階に入っていたOEMに人がいないことをニューヨーク市住宅局に勤めるバリー・ジェニングスと弁護士のマイケル・ヘスは確認しているが、その際、ビルの中で正体不明の人物からすぐ立ち去るよう言われたと話している。当日、OEMにいたルドルフ・ジュリアーニ市長によると、南北両タワーが崩壊するという警告が午前8時46分から9時59分の間にあったとABCニュースのインタビューの中で答えている。調査委員会によるとOEMの職員が避難したのは9時30分、NISTによると9時44分頃。ジェニングとヘスの証言が正しいなら、サウス・タワーに旅客機が突入する前にいなくなっていたことになる。

 ジェニングスとヘスのふたりは階段で降り始め、8階にたどり着いたときに大きな爆発があったという。そのとき南北タワーは崩壊していない。その後、ヘスは爆発があったとする当初の証言を取り消し、ジェニングスは2008年9月に直線道路で自損事故を起こして死亡した。

 10時45分にCNNは世界貿易センターで「50階建てビル」が崩壊すると伝え、16時54分になるとBBCのジェーン・スタンドレーは肩越しに7号館が見える状態でそのビルが崩壊したとレポートしている。これは有名な映像で、見たことのある人は少なくないだろう。実際の崩壊は17時20分だ。

 当時、ブッシュ陣営の「財布」的な存在だったエンロンの破綻は不可避の状態で、シティ・グループとワールドコム倒産も表面化していた。そうした問題に関連した文書が7号館で保管されていたのだが、ビルの崩壊で無くなってしまった。金塊も消えたと言われている。

 2001年9月10日にドナルド・ラムズフェルド国防長官は2兆3000億ドルの行方がわからなくなっていると発表しているが、その関連文書はペンタゴンに保管されていた。ラムズフェルドがその発表をした翌日、世界貿易センターとペンタゴンは攻撃されてビルが崩壊、重要資料はなくなっている。

 この頃アメリカでは少なからぬ「イスラエル人美術学生」が逮捕されている。イギリスのテレグラフ紙によると「9/11」の前に140名のイスラエル人が逮捕され(Telegraph, March 7, 2002)、ワシントン・ポスト紙によると事件後にも60名以上が逮捕されている。(Washington Post, November 23, 2001 )合計すると逮捕者は200名に達する。

 捜査が始まる切っ掛けは、2001年1月にDEA(麻薬捜査局)へ送られてきた報告で、イスラエルの「美術学生」がDEAのオフィスへの潜入を試みているとする内容だった。遅くとも2000年にはそうした動きが始まっているとされている。別の報告では、多くのDEA職員の自宅をイスラエル人学生が訪問している事実も指摘されていた。どこかでDEAに関する機密情報がイスラエル側に漏れている疑いが出てきたわけだが、この「美術学生」の正体は不明だ。

 拘束されたイスラエル人の中にはモサドのメンバーも含まれ、ポラード事件以来の重要なスパイ摘発だと言われたが、こうした出来事も9/11によって吹き飛ばされた。

 アメリカのFOXニュースが2001年12月に放送した番組によると、1997年にロサンゼルスで麻薬取引やクレジット・カード詐欺などの捜査が行われた際、捜査官のポケットベル、携帯電話、あるいは自宅の電話が監視されていることが発覚、イスラエル系の電子通信会社アムドクスが疑われた。9/11の後に逮捕されたイスラエル人の1割はアムドクスの社員だったという。

 会社側は情報の漏洩を否定しているものの、1997年にベル・アトランティックがホワイト・ハウスに新しい電話回線を設置した際、アムドクスも協力している。そこで、米政府高官の電話がイスラエルに監視されている可能性がある。

 現在、ガザで繰り広げられている虐殺の序章は昨年4月に始まっている。イスラエルの警察官が4月1日にモスクの入口でパレスチナ人男性を射殺、4月5日には警官隊がそのモスクに突入したのだ。

 ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/昨年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃し、ユダヤ教の「仮庵の祭り」(昨年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。

 そして10月7日にハマスを中心とする武装勢力がイスラエルへ攻め込んだのだが、このハマスはイスラエルがPLOのヤセル・アラファト対策で創設した組織だ。

 ムスリム同胞団のメンバーだったシーク・アーメド・ヤシンは1973年にイスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立し、1987年にイスラム協会の軍事部門としてハマスは作られた。

 2004年にヤシンとアラファトは暗殺されているが、​シーモア・ハーシュによると、09年に首相へ返り咲いたネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした​。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。

 その後、ハマスの内部に反イスラエル色の濃いグループも誕生し、昨年10月7日の攻撃の数カ月前、ハマスはヒズボラやイスラム聖戦と会議を開いていたと言われている。こうした組織は戦闘情報を交換していたようだ。

 こうした状況の変化はあるが、ハマスの攻撃をアメリカやイスラエルは事前に知っていたことをうかがわせる動きが見られた。

 例えば武装グループが突入した数時間後に2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動しているのだが、事前に情報を持っていなければ、こうした迅速な動きはできなかっただろう。

 また、ガザはイスラエルが建設した事実上の強制収容所。 巨大な壁に取り囲まれ、電子的な監視システムが張り巡らされている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。

 バイデンのシオニスト発言やこうした状況を考えると、10月7日の攻撃の前にバイデン政権とネタニヤフ政権が事前に打ち合わせをしていた可能性も否定できない。彼らには西側の有力メディアという強力なプロパガンダ機関が存在していることもあり、新たな偽旗作戦が用意されているのではないかと推測する人もいるのだ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403160000/
12:777 :

2024/04/06 (Sat) 09:45:18

3度も離婚したマリリン·モンロー。 夫のみぞ知る秘密
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16847196


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マリリン・モンロー(1926年6月1日 - 1962年8月5日)

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有名女優マリリンモンローヴィンテージヌード編集ビデオ
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ヘンリー・ハサウェイ『ナイアガラ』(Niagara)1953年
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ハワード・ホークス『紳士は金髪がお好き』(Gentlemen Prefer Blondes)1953年
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オットー・プレミンジャー『帰らざる河』(River of No Return)1954年
https://www.bing.com/videos/search?q=River+of+No+Return++1954&FORM=HDRSC3

ビリー・ワイルダー『七年目の浮気』(The Seven Year Itch)1955年
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ビリー・ワイルダー 『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot)1959年
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ジョン・ヒューストン『荒馬と女』(The Misfits)1961年
https://www.bing.com/videos/search?q=The+Misfits++1961&FORM=HDRSC3
13:777 :

2024/04/06 (Sat) 09:49:07

ケネディを撃ったのは、運転手とグラシノールの丘の狙撃手です。

つまり、実行犯として逮捕されたオズワルドは、一切関係なかったというわけです。

この事件は、初めから計画されていたシナリオどおりの暗殺でした。

それにしても、ケネディは、なぜ暗殺されたのでしょうか?

理由の一つは、前にも述べましたが、人種差別問題、CIAとの確執、麻薬とマフィアの撲滅、軍需産業の縮小、ベトナム戦争撤退など、彼の政策は、シークレットガバメントに逆らう行為だったからです。

また、他にも彼は米政府を支配するシークレットガバメントから、自由を取り戻そうとしたり、

連中が支配している貨幣発行権を取り戻したり、

さらには、パレードの日に、シークレットガバメントの存在を、国民の前で発表しようとしていたのです。

だから、邪魔者とされ、この世から消されたのです。

ケネディは暗殺される前に、シークレットガバメントの存在を、彼の愛人だった「マリリン・モンロー」に話しています。

それを聞いたマリリン・モンローは、知人のジャーナリストに、そのことを電話で喋ってしまいました。

電話の内容は、CIAが盗聴。

マリリン・モンローもまた、邪魔者として暗殺されたというわけです。

〈マリリン・モンロー〉


ケネディが暗殺され、マリリンモンローが暗殺され、これだけでは終わりませんでした。

実はケネディの次男も殺され、

三男は車で秘書と共に海に転落させられ、秘書が死亡・・・

以後、その恐怖で三男は政界から去ってます。

マイケル・ジャクソン、ジョン・レノン、ダイアナ妃、尾崎豊、中川昭一などは、
ケネディ同様にシークレットガバメントの命令で何者かによって暗殺された人たちです。

ファシズム国家である米国では、政府に反対する発言や行為は非常に危険で、それは警察や軍も敵に回すことになるのです。

ケネディ暗殺後、当時の副大統領だった「リンドン・ジョンソン」が中心となり、
ケネディ暗殺に関する資料や証拠物件をまとめた「ウォーレン報告書」という調査報告書が存在します。

この報告書には、事件の詳細を2万ページにも及んで記載しています。

が、その内容は未だ明らかにされていません。

〈ウォーレン報告書〉


副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディの後、大統領に就任しました。

ジョンソンは、フリーメイソンのメンバーでした。

シークレットガバメントは、彼が大統領に就任すれば、米国をコントロールするのに好都合だったのです。

だから彼をケネディの後の大統領に据えたのです。
http://sekainoura.net/oworen.html


マリリンを殺した4人の男たち
1960年代アメリカ暗殺史の系譜と符号

「1962年6月、モンローの女優としての評判は下降線を辿っていた。モンローはCIAと組織の陰謀を知っていた上、著しく精神の安定を欠いていた。7月にはボビー(ロバート・ケネディ)との関係も切れ『何もかもばらす』と脅しをかけるようになった。

彼女の電話を盗聴し逐一監視していたCIAは、復讐にかられた麻薬中毒のモンローに全てを暴露されることを恐れ、ムーニー(サム・ジアンカーナ)に彼女の始末を依頼した。

 1963年8月5日、殺し屋たちは暗くなるのを待って、午前零時前に自宅に侵入した。すでに彼女はボビーの医師が鎮静剤を打っていたおかげで、ぐったりしていた。

彼らはマリリンを裸にすると、口をテープで封じ、医師が特別に処方したペントバルビタールの座薬を注入した。

口から致死量の睡眠薬を服用させれば嘔吐しかねないが、座薬は肛門膜組織から直接血管に吸収され、胃から検出されるものは何も無い。彼らは彼女が完全に意識を失ったのを確認すると、テープをはがしマリリンの口元をきれいに拭いて、そして静かに消えて行った」
---「DOUBLE CROSS」by Sam Giancana and Chuck Giancana P370-373より抜粋


 モンローの死因を扱ったテレビ番組はこれまで何度か放映されてきたが、その決定的な真相に迫るものは何一つなかった。せいぜい死亡当日にボビーが彼女と言い争いをしていた程度に留まるもので、ためにボビー犯人説を示唆するという、無責任なものであった。

確かにボビーはモンローと会ってはいたが、司法長官という立場上からも暗殺までするとは考えられない。そのことを最も熟知し、徹底して利用したのがCIAだった。しかもCIAはFBIを使ってボビーが訪れた痕跡すら消して、その後の司法長官としてのボビーに圧力をかけるようになる。つまり恩を売ったわけだ。

しばらくは大人しくしていたボビーも、その潔癖な正義感から再び不正に挑むようになる。激怒した彼らは大統領でもあった兄を公開処刑してボビーに警鐘を鳴らす。自分たちに逆らう者はこうなるのだと・・・だが、ボビーはかえってそれを契機に発奮すると大統領選にうって出る。これこそが彼らが最も恐れていたことであった。再び闇の政府が始動する。その結果が1968年6月6日だった。
http://oriharu.net/gabana_n/zaakan/hibi0506/hibi-niisi-050607.htm


▲△▽▼


マリリン・モンローから19歳のインターンまで、ケネディが流した浮名
2013年11月18日 13:45 発信地:ワシントンD.C./米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3003473


【11月18日 AFP】ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領は多くの魅力的な女性に囲まれていた。妻のジャクリーン(ジャッキー、Jacqueline Kennedy)はもちろん、大統領就任を後押しした母親のローズ。それから映画スターに、ホワイトハウスで働く10代のインターン、マフィアと関係のある女性……。

 50年前に暗殺されたケネディが、多くの女性たちと複雑な関係にあったことに疑いの余地はない。

 彼がこうした女性たちを、大統領に上りつめ権力を維持するうえで助けになる人物として大切にしてきたのか。あるいは自分の旺盛な性欲を満たすために、彼女たちをもて遊んだだけなのだろうか。

「ケースバイケースだ」と言うのは、10月に『The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination and Lasting Legacy of John F. Kennedy(ケネディ半世紀)』を上梓し、ベストセラー作家となったラリー・サバト(Larry Sabato)氏だ。

「JFKは、力や影響力のある人々に対しては上品で礼儀正しく振る舞った。だが彼の性欲は飽くことがなかった。今日で言うなら、彼は若く美しい女性を性の対象として扱っていたのだ」と、バージニア大学(University of Virginia)政治学センターのセンター長も務めるサバト氏はAFPに語った。

 ケネディの人生の中心にいたのは、妻のジャッキーだ。旧姓ジャクリーン・ブーヴィエ(Jacqueline Bouvier)は1929年7月、裕福な家庭に生まれた。彼女の洗練されたファッションスタイルには、世界中が注目した。

 ケネディがテキサス(Texas)州ダラス(Dallas)で暗殺されたとき、ジャッキーはあのオープンカーで彼の隣に座っていた。その後の数時間、彼女が夫の血が飛び散ったシャネルのピンクのスーツを着替えることを拒んだのは有名な話だ。「犯人たちがジャックに何をしたのか見せてやりたい」と、彼女は言った。

 ケネディ家は現代アメリカの恵まれた家庭を象徴するイメージを世間に与え続けたが、大統領のプライベートは愛人に囲まれた生活だった。

 最も有名なのは女優のマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)だ。ハリウッドのセックスシンボルは、1962年の民主党の資金集めパーティーで、色気たっぷりに「ハッピーバースデー」を歌った。誕生日を祝ってもらったケネディは喜びを隠さなかった。

 今年8月に出版された『These Precious Few Days: The Final Year of Jack with Jackie(貴重な数日間:ジャックとジャッキーの最後の年)』の著者でジャーナリストのクリストファー・アンダーソン(Christopher Andersen)氏によれば、ジャッキーは2人の関係を知っていただけではなく、モンローに夫を譲ってあげると告げたという。

「あなたがホワイトハウスに入って、ファーストレディーとしての責務を負って、すべての問題を抱えればいいのよ」と、ジャッキーはモンローに語ったといわれる。モンローは1962年8月、薬物の過剰投与で亡くなった。

 ジャッキーの言う「問題」には、ジュディス・キャンベル・エクスナー(Judith Campbell Exner)のことも含まれていたかもしれない。彼女がケネディと2年間、熱い関係にあったことは、歴史家たちも認めるところだ。

 ホワイトハウスのインターンだったミミ・ビアーズリー(Mimi Beardsley)の場合は、ケネディに言い寄られたときはまだ19歳だった。彼女が言うには、男性と性的関係を持ったのはケネディが最初で、初めてのセックスはケネディ夫妻の寝室だった。その後、2人は大統領のバスタブでアヒルのおもちゃで遊ぶほど親しくなる。2人の関係は1年半続いた。

「後悔していない。私は若かったし、誘惑された。その事実は変えられない」と、彼女は2012年に出した回顧録で記している。

 ケネディがいったい何人のバイシュン婦を雇ったのかは誰にもわからない。だが護衛たちが、ソ連との核戦争前夜ともいわれた時代に、スパイ行為や脅迫を恐れるに足る人数だったことは確かだ。

「彼はときに、少し問題がある女性をそばに置こうとする傾向があった」と、ケネディの護衛を務めていたアンソニー・シャーマン(Anthony Sherman)氏は1997年にABCテレビのドキュメンタリー番組で語っている。素性が怪しい女性たちだ。

 サバト氏も、「JFKは大統領職と家族を何度も危機にさらした。外国の諜報機関が彼の問題行動について何らかの情報を得ていたのは、ほぼ確実だ」と語っている。

 母親のローズ・ケネディ(Rose Kennedy)が息子の女遊びを知っていたのは間違いない。彼女もジャッキーと同じく、夫の数々の浮気に耐えた女性だ。実業家で大使も務めたケネディの父親ジョセフ(Joseph Kennedy)は、1920年代に当時の映画スター、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)と3年間、愛人関係にあった。それは、まるで40年後のケネディとモンローを予兆させるような関係だった。(c)AFP/Robert MACPHERSON


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モンローの肉体を嘗めたユダヤ人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の糸 (後編)
ゴイム(異教徒)を妻にするユダヤ人
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マリリン・モンロー
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テレビ東京が2013年頃、朝の時間帯に昔懐かしい「奥様は魔女(Bewitched)」を再放送していた。綺麗なカラー映像に修正されたコメディー番組を観た方も多いんじゃないか。

このアメリカ・ドラマは元々、昭和40年代に放送されたシットコム・コメディーで、主役のサマンサを演じたエリザベス・モンゴメリー(Elizabeth V. Montgomery)とダーリン役を演じたディック・ヨーク(Dick York)は今でも有名だ。義母のエンドラを演じたアグネス・モアヘッド(Agnes Moorehead)も意地悪の魔女が板に付いていて、とても印象に残る女優であった。米国にはこういった雰囲気を醸し出す、憎いくらい上手な演技をする脇役がいるからすごい。人気ドラマ「ダイナスティー」のジョアン・コリンズ(Joan Collins)みたいな実力派がいるから、ややもすると緩みがちな連続ドラマが引き締まる。

ちなみに、今回「奥様は魔女」を調べてみたら、日本版も制作されていたそうで、人気女優の米倉涼子がサマンサ役を演じていたそうだ。知らなかった。まさか日本人バージョンがあったなんて。観てないから何とも言えないが、おそらく駄作なんじゃないか。日本人がアメリカドラマを模倣して成功した例は少ないだろう。

ドラマじゃないけど、以前に野口五郎がサンタナのヒット曲「スムーズ(Smooth)」を拝借し、「恋はメラメラ」という題にして唄っていた。サンタナのオリジナル版では、人気歌手のロブ・トーマス(Rob Thomas)を起用して素晴らしい出来だったが、野口五郎の方は一度聴けば恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるほどの代物である。元曲をあれほど無惨にしたカヴァー曲も珍しい。


  脇道に逸れたから話を戻すと、ドラマの中で美人妻を演じたエリザベス・モンゴメリーは、何とプロデューサーのウィリアム・アッシャー(William Asher)と結婚していたのだ。

彼はユダヤ人の父親とカトリック信徒の母親を持つユダヤ系アメリカ人だが、ユダヤ人支配のハリウッドでは一般的にユダヤ人制作者と見なされていた。

我々とってショックなのは、貞淑な妻を演じていたエリザベスが、私生活では同性愛者や妊娠中絶を支持する筋金入りの左翼活動家であったことだ。確かに、「奥様は魔女」の中にも人種差別を取り上げたエピソードがあって、黒人を対等に扱うサマンサの姿があった。今から思えば、1960年代後半から1970年代にかけて放送されていた番組だから、リベラル色が強くてもしょうがないと考えられるが、「奥様は左翼だった」じゃ笑えない。

それにしても、売れっ子女優がユダヤ人プロデューサーと結婚するなんて、いかにもハリウッドらしい現象である。もし、彼女が一般人女性のままだったら、ユダヤ人と結婚せずに普通の白人男性と結婚していたんじゃないか。

こんな異人種間結婚を見ているから、ユダヤ人に警戒心を抱く西歐系白人や、藝能界に入りたがる娘を叱る親がいるのだろう。仔羊を狼の群れに解き放つようなものだから、まともな親が反対するのも無理はない。それに、生まれてくる孫がユダヤ人の血統なんて考えただけでも恐ろしい。


左: エリザベス・モンゴメリー
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中央: ウィリアム・アッシャー
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右: 「奥様は魔女」
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マリリン・モンローを取り巻くユダヤ人

  ユダヤ人がうじゃうじゃいるハリウッド村は、藝能界というより匪賊や傭兵がたむろする無法地帯と考えた方が的確である。こんな蟻地獄に入って行く若者が跡を断たないんだから、エンターテイメント業界は麻薬に満ちた魔界と呼んでもいい。

米国史の中でも輝かしい1960年代、後世に名を残すこととなった人気女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)も、ユダヤ人の魔の手に落ちた悲惨な一例であった。

父親は不明だが、グレイディス・パール・ベイカー(Gladys Pearl Baker)の娘として生まれた、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)は、義父の「モンロー」姓をつけて藝能界にデビューした。

彼女はラルフ・グリーンソン(Ralph Greenson/ 本名Romeo Greenschpoon)という名うてのユダヤ人を自分の精神科医として雇っていた。このユダヤ人はモンローが自殺した時のセラピストであった。彼はマリリンの精神を安定させるために、過度な薬物治療を行っていたらしい。何かマイケル・ジャクソンに「プロポフォル(propofol)」を過剰投与したコンラッド・マレー(Conrad Murray)医師を思い出してしまう。

こんな麻酔薬(鎮静薬)を個人の邸宅で与えてしまうなんて信じられないが、アメリカという異常な国では非常識が罷り通る。たぶん、グリーンソンも自信満々の医師で、どんどん睡眠導入剤や鎮静剤をマリリンに与えていたのだろう。彼女の友人が証言していたが、マリリンはグリーンソンに会えば会うほど衰弱していったそうだ。


  マリリンの周りには矢鱈とユダヤ人が多かった。グリーンソンの妹エリザベスは、ユダヤ人ミルトン・ミッキー・ラディン(Milton “Mickey ” Rudin)と結婚しており、そのラディンは有力な人脈を持ち、エンターテイメント業界で活躍する法律家であった。そして、彼はマリリンの顧問弁護士も務めていたのである。彼女と昵懇の出版業者アーサー・ジェイコブズ(Arthur Jacobs)や、娯楽企業のMCAで彼女のエージェントを務めるジェイ・カンター(Jay Kantor)とモート・ヴィナー(Mort Viner)もユダヤ人だった。

出演作でもユダヤ人監督に重宝されており、「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」ではビリー・ワイルダー(Billy Wilder)が監督だったことは有名だ。「恋をしましょう」だとジョージ・クコー(George Cukor)が監督で、「帰らざる河」ではオットー・プレミンジャー(Otto Preminger)が総指揮を執っていた。マリリンの個人マネージャーのナターシャ・ライテス(Natasha Lytess)もユダヤ人で、いつも一緒にいたから、二人はレズビアンの関係か、と疑われるくらいだった。また、ユダヤ人写真家のミルトン・グリーン(Milton Greene)も、マリリンのマネージャーになって親しく付き合っていたから、彼女との仲を噂にする者もいたという。


  バイシュンの伝統が根強い韓国では、体で仕事を取る藝能人が多いそうで、悲惨な運命を辿った女性も少なくない。

我が国の藝能界でも所謂「枕営業」があるそうで、さほど人気のない女性藝人は、演技力や歌唱力よりも、有力制作者とか大御所に体を提供して、望む仕事を獲得するらしい。

マリリン・モンローも名声と幸運を摑むために、誰彼となくベッドを共にしたという。

ユダヤ人が跋扈(ばっこ)するハリウッドだから、マリリンが「春」を売った相手も当然ユダヤ人だった。ユダヤ人のテッド・ジョーダンによると、マリリンはキャリアを進展させる為なら誰とでも寝たそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean: My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.121)

また、アンソニー・サマーズ(Anthony Summers)によれば、彼女がフォックス社と最初のコンタクトを持った時、そのキーパーソンはベン・リヨン(Ben Lyon)で、彼もマリリンと性的関係を持っていたらしい。シェイラ・グラハム(Sheila Graham)も、マリリンが未来のキャリアの為にリヨンと寝たことを述べている。

マリリンの肉体を堪能したリヨンは、キャスティング・ディレクターのソル・ウルツェル(Sol Wurtzel)を呼びつけ、「デインジャラス・イヤーズ」という1947の映画で使ってやれと命じ、マリリンはちょっとした脇役を与えられたという。何とも生々しい裏話だが、藝能界って多かれ少なかれ、こんな横槍が入ってくる。

大物プロデューサーがいきなり素人の小娘をドラマに押し込んだり、ニュース番組の「お天気お姉さん」に任命したり、とやりたい放題の横暴をはたらく。周りのスタッフは大迷惑だけど、有力者に睨まれたら自分の出世が危なくなるから、長いものに巻かれてしまうのだ。

視聴者だって、あまり人気のない女優がどこからともなく新ドラマに抜擢されるから、「どうしてこんな女優が、いきなり重要キャストに抜擢されたんだ?」と訝(いぶか)しく思うだろう。でも、「大人の事情」が絡んでいるから仕方がない。


中央: ナターシャ・ライテスとマリリン・モンロー
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  「美女と野獣」という映画があったけど、美女のマリリンに群がる野獣は本当に多かった。

被服業界の大御所たるヘンリー・ローゼンフェルド(Henry Rosenfeld)も、白くて美しい肌を嘗(な)めた薄汚いユダヤ人の一人だった。彼はアトランティック・シティーにある自宅にマリリンを招き、自分のスピード・ボートに乗せて、甘い一晩を過ごしたそうだ。

マリリンは映画業界で顔が利く、悪名高いユダヤ人ギャングのバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とも寝ていたらしい。彼の伝記は映画化されたので、このシーゲルについて知っている日本人もたくさんいるんじゃないか。日本もそうだが、藝能界と暴力団は裏で繋がっているから、堅気の人間が毛嫌いするのも分かる気がする。


マリリンのセックス・ライフは10代の頃から既に始まっており、17歳の時にはテッド・ジョーダン(Ted Jordan / 本名 Edward Friedman)と交際していて、彼は後に『ノーマ・ジーン』という本を書いて、マリリンとの性生活を暴露していた。

このジョーダンにはテッド・ルイス(Ted Lewis / 本名 Theodore Leopold Friedman)というミュージシャンの叔父がいて、マリリンはこのルイスとも寝ていたというのだ。彼女が麻薬を覚えたのは、このルイスからであった。本当に腐った奴らである。

  後に有名女優となる野心家のノーマ・ジーンは、のし上がるためには何でもすると心に決めており、ジョーダンにも、誰とでもセックスをするし、その心構えもできている、と語っていたそうだ。

そこで有言実行のマリリンは、著名なゴシップ・コラムニストで、ユダヤ人のウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)と寝たらしい。しかし、一介のコラムニストと性交したくらいでは、ハリウッドで大女優にはなれない。

まだ無名のマリリンはコロンビア・ピクチャーズのハリー・コーン(Harry Cohn)社長に近づいた。「またユダヤ人か !」とウンザリするが、映画会社の社長や重役にはユダヤ人が多いからしょうがない。

このユダヤ人社長はマリリンを自分のヨットに乗せ、夜のクルージングに誘ったそうだ。美しい獲物を捕まえたコーンは、マリリンに向かって服を脱げ、と命じたという。彼女は言わるままに服をぬぎ始めた。すると、あろうことか、この助平ユダヤ人は、自分のペニスを握りながら彼女に近寄ってきたのだ。

大抵の女性なら、「えっぇぇ!! 何 ! 嫌だ!!!」と真っ青になって叫ぶだろう。マリリンも同じで、彼女はコーンを拒絶したそうだ。そりゃそうだろう。こんな変態ユダヤ人とセックスするなんて、どこか精神が異常じゃないとできない。

マリリンに肘鉄を食らったコーンは、とても激怒したそうで、マリリンは「あんなに怒った人を見たことがない」、と語っていたそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean : My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.91)


左: マリリン
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  自分のペニスを握って近寄ってくるユダヤ人なんて、想像しただけでも背筋に戦慄が走る。いくら出世のためとはいえ、マリリンの眼に映る発情したコーンの姿は、余りにも酷かったのだろう。若い娘なら当然である。

しかし、権力者を怒らせたマリリンは、コーンからの報復を受けた。彼女はコロンビアの撮影所に出入りすることを禁じられたそうである。かつて、マリリンは藝能界の実情を語っていた。

  プロデューサーが女優に台本に関して話があるからオフィスに来いという時があるでしょう。でもね、それは台本の打ち合わせじゃないのよ。・・・私はプロデューサーたちと寝たわ。もし、寝ていないと言ったら嘘になるもの。

  1955年に20世紀フォックス社と大きな契約を結んだ時、彼女はようやく不動の地位を手にした女優になれた。そして、マリリンはこう呟いたという。

「私はもう二度と、あいつ等のペニスをしゃぶらないわ」、と。

マリリンは年を重ねる毎に反ユダヤ的感情が募ったようで、大御所のジョー・シェンク(Joe Schenck)のことを「あの糞ユダ公(that Jew shit)」と呼んでいたらしい。他のハリウッド・ユダヤ人に対しても、「あのユダ公 ! とか、このユダ公 !」と罵っていたようだ。しかし、彼女は後にユダヤ教に改宗するが、この反ユダヤ感情は妨げにならなかったらしい。やはり、女優の頭はどこか普通と違うのだろう。


中央と右: マリリン・モンロー
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  マリリンは性的に弄ばれていたが、政治的にも利用されていたようだ。精神科医のラルフ・グリーンソンは、彼女の指導者みたいな身分になっていたが、彼には別の顔があった。このユダヤ人は積極的な共産党員で、コミンテルンにも係わっていたという。そして、彼の妹エリザベスの証言によれば、兄のラルフは熱心なシオニストで、イスラエルとの太いパイプを持っていたそうだ。

まったく、ユダヤ人のコミュニストって本当に多いんだから嫌になる。かつて、ハリウッドの共産主義者をあぶり出す「赤狩り」が行われたけど、真っ赤なユダヤ人の映画監督や脚本家、プロデューサーなどが至る所にいたから、保守派のアメリカ人が怪しんだのも当然である。

よく知られているのは、左派が多数を占めるユダヤ人に対するチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)の警告である。この「アメリカ第一主義」を掲げる大空の英雄はこう述べた。

  ユダヤ人は我が国にとって最大の脅威である。彼らは我々の映画界、出版界、ラジオ局で広範囲な所有権を持ち、我々の政府において絶大な影響力を行使しているのだ。
(Harold Brackman, The Attack on “Jewish Hollywood”: A Chapter in the History of Modern American Anti-Semitism, Modern Judaism, Vol. 20 , 2000,p.5.)

  ユダヤ人の害悪については、リンドバーグのみならず、他の議員も警戒心を強めていた。例えば、ミュズーリ州選出のジョン・ランキン(John Rankin)下院議員は、ユダヤ人が合衆国政府の転覆を狙った最大の陰謀の一つに責任がある、までと述べていたのである。また、彼は大胆さを以て、米国においてユダヤ人は反政府活動の温床である、と喝破していたのだ。 現在の政治家なら絶対に口に出来ぬ発言である。しかし、当時のアメリカには、まだ言論の自由が残されていた。保守派のアメリカ人が1950年代を懐かしんだのも理解できよう。

ついでに言えば、マリリンと結婚した三番目の夫アーサー・ミラー(Arthur Miller)は、ユダヤ人の劇作家であったが、これまたハリウッドのユダヤ人らしく極左活動家で、黒人に対する人種差別に反対し、労働活動にも熱心に係わっていた人物である。彼も真っ赤なユダヤ人仲間を持っていたので、反共の闘士ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)議員に目を附けられていた。彼は下院の反アメリカ活動調査委員会に召喚されたことがあるが、仲間を裏切ることを拒否し、断じて口を割らなかったという。ユダヤ人にとったら、愛国心よりも同胞愛の方が大切だからねぇ。


  マリリンがセックスした中で最も権力を持っていた男と言えば、やはりジョン・F・ケネディー大統領だろう。

大統領と姦通したマリリンがもたらす寝物語は、グリーソソンにとって貴重な情報源となったはずだ。いくら大統領とはいえ、惚れた女とベッドを共にすれば、何てことはない雑談の中で、国家機密に繋がる重要な情報を漏らすことだってあり得る。当時は冷戦真っ只中。合衆国大統領がどんな考えなのかを直に知る絶好の機会だ。

特に、コミュニストのグリーンソンは、ソ連やキューバに対する外交方針や、イスラエルに関する大統領の考えを知りたかったはず。だから、セラピストのグリーンソンに何でも打ち明ける、警戒心が全く無いマリリンは「便利な馬鹿(useful idiot)」だった。

  大女優になっても精神的に不安を抱えるマリリンは、何でも医者に頼る癖がついていたという。当時のハリウッドでは、リー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg)という精神分析医が非常に持て囃されていた。大物俳優といえども、人には言えぬ悩みを抱えているだろうから、誰かしら相談役になる人が必要だったのであろう。だから、こうした弱点を持つ有名人を食い物にするセラピストがいたのも当然で、こうした悪徳医は患者にとっての「神」を演じていたのである。

自分の判断一つで大女優や二枚目男優を操ることができたから嬉しくてたまらない。名優のマーロン・ブランドーには、ベラ・ミッテルマンという精神科医がついていたが、ブランドーはシュトラスバーグについても述べていた。ブランドーの評価では、シュトラスバーグは俳優が集まるスタジオに来る人々を餌食にする冷血漢であったという。しかも、相当な野心家で自分勝手ときている。

彼は自分自身を、まるで神託を告げる司祭か、新興宗教の教祖のように思っていたらしい。彼にたぶらかされた人々は、シュトラスバーグをラビ(ユダヤ教の教師)の如く崇めていたという。ところが、マリリンはこんな類いの精神科医に傾いていたのだ。

日本でもよく藝人が、怪しい霊媒師とか占い師に嵌まることがあるけど、アメリカでも似たような事が多い。マリリンはフロイトの精神分析にも興味を示したそうで、彼女は実際フロイドの娘アンナ・フロイトにロンドンで会っていた。彼女の診断でも、マリリンは相当精神を病んでいたらしい。


左: マーロン・ブランドー
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右: マリリン
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  精神的に不安定なマリリンだったから、薬の過剰摂取で死亡したのだろう。だが、彼女はある意味、主治医のハイマン・エンゲルバーグ(Hyman Engelberg)とセラピストのラルフ・グリーソンに殺されたようなものだ。グリーンソンは助手に鎮静剤の投与を指示していたのだ。しかし、投与されたバルビツール酸系薬が多すぎたため、マリリンは副作用を起こして心不全となり、若くしてこの世を去ることになった。助手からの報告を受けたグリーンソンが、彼女の部屋に駆けつけた時には、既にマリリンは死亡していたという。

後に、色々な陰謀説が囁かれたが、実際は薬物中毒による死亡である。それにしても、哀れな最期だ。おぞましい枕営業を経て、大女優への道を駆け上ったのに、その栄光を味わう精神が衰弱していたのとは。

華やかな藝能生活を送っていた人気女優が、裏では薬漬けの日々を送っていたのだ。何の苦労だったのか分からなくなる。


右: マリリンとジョー・ディマジオ
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  何はともあれ、マリリンの人生には色々な男がいた。映画界の大物やマフィアのギャングと寝ていたかと思えば、野球選手のジョー・ディマジオと再婚したり、はたまたフランク・シナトラと浮き名を流したり、と寄り添う男の幅が広い。

中でも、ジョン・F・ケネディーとロバート・ケネディーとのダブル不倫は有名だ。

英雄は色を好むと言うが、このケネディー兄弟は異常である。
世間はハーバード大卒の爽やかな紳士と評するが、一皮剝けば下半身がだらしないアイリス系移民の倅(せがれ)たちである。兄が肉体関係を結んだ女に、弟も手をつけるなんて、恥知らずというか変態に近い。

一方、マリリンにも倫理観がこれっぽっちも無かった。女房や子供を持つ男と姦通しても平気なんだから。これではユダヤ人たちがマリリンのことを「シクサ(Shiksa)」、則ち「穢れたケダモノ」と呼んでも致し方ないじゃないか。

マリリンからすれば、男を踏み台にして出世したつもりだろうが、セックス相手からすれば、精液を噴射できる共同便所に過ぎない。

ただ、ユダヤ人に蔑まれながらも、ユダヤ人のアーサー・ミラーが結婚してくれたんだから、これだけでも彼女にとって救いになる。たぶん、ミラーは本気で彼女のことを愛していたのだろう。

ただし、ミラーがマリリンのことを「トロフィー・ワイフ」と見なしていたら残念だ。仮に、そうであっても仕方がない面もある。冴えない容姿のユダヤ人作家が、世間が持て囃す金髪美女を手に入れたのだ。親戚や友人に自慢したくなるのも無理はない。三番目の旦那なんだから、マリリンだって贅沢な要求はできないだろう。


凌辱される同胞の女性

  マリリン・モンローが送った波瀾万丈の人生は、多くの事を我々に教えてくれる。

まづ、藝能界はヤクザの世界、ということだ。堅気の娘が足を踏み入れる職場ではない。

ハリウッドは賤しいユダヤ移民が築き上げた悖徳の帝國で、当初はアメリカ白人に媚びて映画界の社会的イメージを向上させたが、一旦巨大な帝國が出来上がれば、そこに飛び込んでくる白人娘を娼婦と見なした。

憧れのハリウッドに旅立つ女優の卵は、狼の群れに迷い込むひよこと同じだ。
映画での配役を獲得すべく、ユダヤ人達に“輪姦”されても、必要経費としか考えない。娘の藝能界入りを許した両親は、娘が裏で凌辱されている事に気づかないんだから、まさに「知らぬが仏」だ。

日本人の親も充分認識すべき現実である。娘がモデルとかアイドル、女優になりたいと言い出し、それを許すなら、可愛い娘を穢らわしいヤクザや下劣な朝鮮人どもへ「生け贄」として差し出した、と諦めるべきだ。


左: 桃井かおり
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右: 「エロスの甘き香り」
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  ちょっと痛ましい話になるけど、女優の桃井かおりには国際政治学者の桃井眞(ももい・まこと)がいた。1991年に起きた湾岸戦争の時、報道番組に出演していたのを覚えている方もいるだろう。桃井かおりは少女時代、英国にバレー留学していたことがあり、どうも可愛い孫娘が立派なバレリーナになるようと、バレリーナの祖母が望んだらしかった。父親の真は娘をたいそう可愛がったようで、まさしく箱入り娘として育てたらしい。しかし、白人ばかりのバレー教室に通っていたかおりは、黄色いアジア人ということで劣等感を抱き、バレリーナになる夢を断念する。

帰国したかおりは演劇を始め、親に内緒で女優になっていた。一時は勘当されたこともあったそうだ。父親が女優業に反対したのも当然であろう。とりわけ、出演した映画の中にエロ作品があったからもう大変。映画ファンならロマン・ポルノ作品の「エロスは甘き香り」や、70年代らしい「けだるさ」を表現した「もう頬づえはつかない」をご存知だろう。

大切に育てた娘が、見知らぬ男と裸でからむベッドシーンを見て、父親の桃井眞はどんな気持ちだったのか? もしかしたら、劇場へは行っていないのかも。そもそも、娘の裸を銀幕で見たいと思う父親はいないだろう。だって、相手の男優が娘の肌を嘗めたり、乳房を揉んでいるんだぞ。怒りと悲しみで胸が張り裂けてもおかしくはない。映画を観る以前に、涙がこぼれてくるじゃないか。


右: 「もう頬づえはつかない」の桃井かおり
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  若い娘を凌辱するユダヤ人はトンデモないが、それを平然と行うユダヤ人の心情とは如何なるものなのか?

一番考えられるのは、欲望剝き出しの世俗主義者という点だ。
純情な白人娘を裸にすれば、大金が儲かるからドンドン淫乱な映画を作るのは分かる。だが、その根底には、西歐社会への憎悪が漲っているのだろう。

ユダヤ人にしてみたら、アメリカ社会は西歐白人が作ったもので、彼らの祖先が築いたものではない。米国は散々ユダヤ人をイジメてきた西歐人が建てた国家であるから、彼らの倫理観や価値観、伝統文化をを守る必要性はどこにも無いのだ。

キリスト教徒が仲間の女性に求める貞操観念や立居振舞い、女性らしさ、気高さなんて、むさ苦しい生活を送ってきたユダヤ人にとって、何の意味も無いし、犬の糞みたいに踏み潰しても気にならない。むしろ、踏み潰すことに快感を覚える。

興味深いことに、ユダヤ人の監督や脚本家は、喜んでキリスト教徒の家庭を愚弄するが、ユダヤ教徒の家庭や価値観を馬鹿にすることは滅多にない。

キリスト教徒の西歐系アメリカ人であれば、「そんなに伝統的価値観を毀したいなら、まづ最初に因習的なユダヤ人社会をターゲットにしたらどうか」と提案したくなる。なぜなら、男尊女卑で人種差別の激しいユダヤ人コミュニティーには、リベラル派のユダヤ人が攻撃したくなるような材料がごまんとあるからだ。わざわざ異教徒(ゴイム)たる西歐キリスト教徒に、その矛先を向けていないで、身近な同胞のコミュニティーを批判する方が先じゃないのか。

「社会正義」をふりかざす赤いユダヤ人は、普通に黒人を「黒いケダモノ」と呼ぶユダヤ人のオバちゃんを非難しろ。


中央: ユダヤ人女性
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右: ユダヤ人男性
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  米国のユダヤ人を見れば、いかに異人種と共存することが危険であるか、が判るだろう。

現在のアメリカでは同性愛者を擁護したり、黒人を礼讃するTVドラマが着々と作られている。すでに長いこと左翼作品が日常にしっかりと組み込まれているから、一般人はもはやその異常性を不思議と感じないのだ。

日本でも藝能界やマスコミに朝鮮人や支那人が浸透し、正常な日本人の精神を歪めている。

そして、藝能界に魅せられた少女たちが、どんどん卑劣な連中に犯され、それが表面に浮き出で問題になることはない。暴露される前に握り潰されるからだ。

ヤクザ的な藝能関係者やアジア系の大物にとって、日本人娘の肉体は、どれほど侮辱しても構わない肉の塊だ。みんなで廻して凌辱すれば、「あの淫売女め !」と酒場で笑い罵ることができ、ますます酒が旨くなる。大日本帝國に支配された朝鮮人にしたら、祖国の同胞が成し遂げられなかった復讐を、個人レベルで果たしたことになるだろう。

そして、日本人の女を性的に従属させることは、被征服民にとって勝者の証となる。ユダヤ人に加え支那人、朝鮮人といったアジア人に対抗できない気弱な民族は、徹底的に打ちのめされるまで被害に気づかない。毎回言うけれど、後悔が先に立ったことはないんだぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html

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2017.10.22
JFK暗殺に関する資料を公開する意思をトランプ大統領は示したが、重要証拠は処分済みの可能性
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710210000/

1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する未公表の資料を10月26日までに公開する方針をドナルド・トランプ大統領は示した。1992年10月26日に発効したJFK記録法は25年のうちに公開することを求めている。

暗殺直後に設置されたウォーレン委員会はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だとしているが、この結論を信じていない人は少なくない。重要な証拠や証言が改竄、隠蔽、あるいは処分され、非論理的な説明がなされているからだ。そうした批判の声はすぐに広まり、それを押さえ込むために使われ始めた「呪文」が「謀略論」だ。支配層にとって都合の悪い事実、指摘、分析などが出てくるとこの呪文が連発される。

しかし、ケネディ大統領の公式見解に対して疑問を表明する人は後を絶たず、1991年に公開されたオリバー・ストーン監督の映画『JFK』は話題になった。この映画がJFK記録法を成立させた大きな理由だ。

この映画の主人公はニューオリンズの地方検事だったジム・ギャリソンがモデル。大統領暗殺に絡み、ギャリソンは1969年に実業家のクレイ・ショーを逮捕、起訴するが、その理由はショーが重役を務めていたパーミンデックスという会社にメスを入れたかったからだと見られている。

ウォーレン委員会が犯人だとしているオズワルドは厚木基地での任務を終えた後、カリフォルニア州のエル・トロ基地でロシア語の試験を受けて不合格になり、1959年9月に名誉除隊、イギリスを経由してフィンランドのヘルシンキにあるホテルへチェックインしているが、この間、軍用機を使ったと推測する人もいる。民間航空を利用すると、日程的に無理があるからだ。そしてフィンランドからソ連へ入る。オズワルドがヨーロッパへ渡る際のチケットを買った会社がインターナショナル・トレード・マートで、その理事にショーが含まれている。ショーはサントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。

サントロはイタリアにおける反コミュニスト工作に協力、パーミンデックスはアルジェリアの独立に反対するフランスの軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。

その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に国外へ追放する。両者は本部をヨハネスブルクへ移動させた。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988)

パーミンデックスがスイスで設立された当時の社長兼会長、ルイス・モーティマー・ブルームフィールドはイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)の出身。第2次世界大戦後、SOEは対外情報機関MI6に吸収される。MI6とSOEはアメリカの情報活動や破壊活動の師匠的な存在の機関だ。ブルームスフィールドはカナダでシオニスト運動を指導していたとも言われている。

ケネディ大統領の暗殺を調べたウォーレン委員会は委員長がアール・ウォーレン判事、そのほかのメンバーはウォール街の弁護士で大戦後には高等弁務官としてナチスの幹部を保護していたジョン・マックロイ、やはりウォール街の弁護士で大戦中から戦後にかけて破壊活動を統括、CIA長官にもなったアレン・ダレス、FBIと関係の深いジェラルド・フォードも含まれていた。暗殺直後の週末、ダレスはバージニア州にあるCIAの極秘施設、ファームに身を潜めていたという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

オズワルドの単独犯行説を支持していたのはマックロイ、ダレス、フォードの3人で、3人の議員は疑問を持っていた。そのうちのひとり、ヘイル・ボッグス下院議員はCIAと関係が深く、当初は単独犯行説を支持していたのだが、途中で見方を変えている。このボッグス議員はアラスカで飛行中、行方不明になった。

この暗殺では多くの証人や関係者が死亡しているが、そのひとりがマリー・ピンチョット・メーヤー。後にCIAの秘密工作に深く関与することになるコード・メーヤーと結婚、離婚した後にケネディ大統領と愛人関係になったことで知られている。妹はニュウーズウィークの幹部編集者だったアントワネット・ピンチョット・ブラドリーと、大学時代からの親友はアレン・ダレスの側近で破壊活動でも名前が出てくるジェームズ・アングルトンとそれぞれ結婚している。

マリーは機密情報を知りうる立場にいたのだが、ウォーレン委員会が報告書を出した3週間後の1964年10月12日に散歩中、射殺された。ハーバード大学で心理学を教えていたティモシー・リアリーによると、「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」とマリーは語っていたという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

ケネディ大統領の暗殺はシャルル・ド・ゴール暗殺未遂、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディの暗殺にもつながっている可能性が高く、事実が明らかになるとひとりの暗殺に関する話では済まなくなるだろう。

当然、重要な証拠は廃棄済みで、証人も消えてしまった。マインド・コントロールを目的としたMKウルトラ、キューバへアメリカ軍が直接軍事侵攻、さらにソ連との核戦争を視野に入れていた偽旗作戦のノースウッズ、イスラエル軍がアメリカの情報収集戦リバティを攻撃して多くの死傷者を出した事件などでは証拠が廃棄されている。出てくる資料は廃棄し損なったものだけだ。ケネディ大統領暗殺も似たような状況だろうが、それでも全資料の開示は重要だ。


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ケネディ暗殺文書、全面公開せず 米情報機関が延期要請
2017年10月27日 07時56分

 【ワシントン共同】トランプ米大統領は26日、これまで非公開だった1963年のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する機密文書のうち約2800件の公開を許可した。残る一部は非公開のままで、今後180日間で公開の是非を検討する。

 トランプ氏は、ケネディ暗殺関連の記録について全面公開する方針を表明していた。しかし政府当局者は中央情報局(CIA)など情報機関から公開延期の要請があり、トランプ氏が安全保障上の理由で受け入れたとしている。

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