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情島 _ 最近まであった「奴隷島」 子供の拷問死で発覚、1日19時間労働の闇

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2022/11/17 (Thu) 18:54:45

【 ゆっくり解説 】 最近まであった「奴隷島」 子供の拷問死で発覚、1日19時間労働の闇 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Wa4K6_Qj8-c


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情島 地図 - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e6%83%85%e5%b3%b6+%e5%9c%b0%e5%9b%b3&qpvt=%e6%83%85%e5%b3%b6++%e5%9c%b0%e5%9b%b3&form=IGRE&first=1&tsc=ImageHoverTitle


情島(なさけじま)は、屋代島(周防大島)の隣(伊保田港から東へ約3km)に位置する防予諸島(周防大島諸島)の島である。山口県大島郡周防大島町に属する。

山口県の最東端はミルガ瀬戸を挟んで東隣に位置する諸島(もろしま)であるが、諸島は無人島であるため、有人島としては山口県では最東部に位置する島である。


面積:1.0 km2
位置:伊保田港から東へ約3km、周防大島の瀬戸ヶ鼻より、北東へ約0.4 km、本土との距離は1.0kmである。
人口:47人
世帯数:33世帯
集落は、島の東側の小さな入り江に沿って4か所に分かれている。

交通
周防大島伊保田港より、町営の定期船「せと丸」が1日5往復運航。
所要時間は約15分で、本浦集落に定期船乗り場がある。
定期船のドック入りなどにより、ダイヤが一部変更となる場合もあるので注意が必要である。

昭和20年代に島民が戦災孤児や年季奉公の少年たちを集め、船の舵とりとして児童労働させていたことが脱走者の保護によって発覚し、「舵子事件」と呼ばれ問題となった。事件は1958年に「怒りの孤島」として映画化された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%B3%B6_(%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9C%8C)


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【奴隷島~梶子(舵子)と呼ばれた児童強制労働】
http://milmixmilmix1945.blog.fc2.com/blog-entry-11.html

日本は戦後に至るまで人身売買を恒常的に行っていた人権侵害大国であった。このような歴史的事実がありながら慰安婦強制連行を否定する安倍は即時退陣せよ!


【奴隷島~梶子(舵子)と呼ばれた児童強制労働】

1948(昭和23)年7月、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島(屋代島)でボロボロの格好をした19歳と17歳の少年が警察によって保護された。
2人は対岸にある情島(なさけじま)【山口県油田村(現周防大島町)】で、操業中の漁船で櫓を操る作業をする為に、強制労働を強いられていたのであった。

情島では古くより「梶子(舵子):かじこ」と呼ばれる、漁船の舵をとる役目を子供にさせる風習があった。
元々は島の子どもを使っていたが、大正時代の頃になると人手が足りなくなり、愛媛県から貧しい家の子どもを前金で3年~5年雇っていたりした。

戦後になると人手はますます不足し、漁師たちは都市部で孤児や家出少年に「魚をたらふく食わせてやる」
と声を掛けて島へ連れ出し、過酷な労働(漁)に従事させていたのである。

梶子たちは朝4時に起こされて漁に出て、寝るのは早くても深夜11時過ぎ。

漁の最中に失敗したり、逃げ出して捕まったりすると親方に棒や玉網の柄が折れるほどの激しいリンチを受けていた。休みは正月三が日と盆の夜のみで、食事も満足に与えられずにいたため、栄養失調で幽霊のように痩せ細っていた。ほとんどの子どもは学校に通わせてもらえていなかった。

事件が地元紙に報じられると、警察の捜査や国や県の調査が入った。
調査により50名あまりの梶子が島にいることが確認された。
前借金で買われた者、戦災孤児などの他、感化院や孤児院といった公の児童福祉施設から、秘密裡にもらい受けていた事実も発覚した。

さらに、2年前にひとりの梶子が“いけす”に監禁され餓死した事実も明らかになる。
監禁した親方は殺人の罪で逮捕されたが、実態が明るみになってからも島の住民たちに限らず、行政や報道する立場にいる者にも梶子に理解をしめす者が多数いた。

戦後間もないこの頃は、日本中が貧しく厳しい生活を強いられていた人が多く、戦災孤児も街にあふれていた。農家や漁師の子どもは家業の手伝いをさせられ満足に学校にも行けなかった子が少なからずいた時代。

また、国の児童福祉制度も充分に機能していなかったことや、教育関係者の中には梶子は不良少年の更生に役立っているという意見も多くみられ、梶子を「必要悪」だとする空気が地域・社会を広く覆っていた。
(周防大島出身の民俗学者・宮本常一も後述する梶子を題材とした映画に対して批判し、
一部の特異な出来事を誇張したに過ぎないと、梶子制度を擁護している)

それでも国や県の指導により、きちんと雇用契約を結ぶことや、12歳以下の子は労働させないこと・義務教育を受けさせること、
リンチを加えないこと等を確約させると共に、離島を望む者は離島させること、極力里子として養育することが求められた。
しかし餓死させた1件を除き、梶子制度が刑事事件化されることは無かった。

この時、結局十数名の梶子が情島を離れたが、残りの梶子たちは島に留まった。島を出ても行くあてが無かった者が多かったからである。

こうして終息したかにみえた梶子事件は、3年後の1951年になって再発する。虐待に耐えかねた梶子5名が脱走して、児童相談所に保護された。

少年たちは前回の事件以降も待遇が変わらなかったことを訴えた。

行政から指導されたことが守らることは無かったのである…

梶子事件を題材にNHKラジオがドキュメント・ドラマ『舵子』が作成され、
1957年には映画『怒りの孤島』(久松静児監督)が上映されている。

 当時の日本では、この梶子の他にも農村や漁村において人身売買によって
過酷な労働を強いられていた児童が数多くいた。
・沖縄糸満地方・八重山諸島の漁村「糸満売り」
・沖縄慶良間諸島の漁村「慶良間売り」
・沖縄の貧農の子が富農の家に売られる「インジャ」
・山形県飛島の漁村「南京小僧」
・津軽地方の農村「借子」
・下北半島の漁村「養子ワラス」
・宮城県牡鹿半島の漁村「モライコ」
・徳島県南部の「ヤシナイ」
等がある。また、栃木県平石村(現宇都宮市)といった北関東地方でも、
東北地方の貧農の子を買って、農業に従事させる風習が戦後まであった。

こうした農村漁村における児童人身売買・児童強制労働は、
高度経済成長によって、都市部で労働力が大量に必要とされるまで無くなることはなかった。

◎参考文献
「戦後日本の人身売買」藤崎豊 大月書店


このような同じ同胞たる日本人ですら虫けら同然に扱っていたのだから、日本が韓国人を人として見ておらず強制連行で無理矢理慰安婦として働かせたのは火を見るより明らかである。
安倍は、過去の罪を素直に認め、即時慰安婦に対する謝罪と賠償、そして今まで罪を認めなかった自己批判の為に即時退陣し責任を取るべきである。
http://milmixmilmix1945.blog.fc2.com/blog-entry-11.html
2:777 :

2022/11/17 (Thu) 19:01:02

山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた _ ぬえのなく夜は怖い
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/862.html

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