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自粛だの志願だのきれい事を真に受けて従うと、満州開拓団のような目に遭う

1:777 :

2022/11/10 (Thu) 12:57:29

日本政府は2020年に「自粛」という謎の政策を打ち出して、まるで国民が自主的にやってるかのように行動制限を偽装した

実際には自粛せず遊んでいる人が居ると政府や人々から罵詈雑言を浴びせられるという、ナチスの治安維持のような手法でした

これは戦前の日本の手法とも同じで、満州開拓団は農村やへき地の青年を開拓者として送り込んだが志願を偽装した強制移住でした


当時山間部は子供が多かったので「何々村から何人」とノルマが通達され、それぞれの村では「何々地区から何人」とノルマが通達された


長男は農家を継ぐので開拓団は次男以下とほぼ決まっていて、開拓団に「出兵」する人も最初からほぼ決まっていました

日本の敗戦が決定的になると満州の日本軍は「軍が守るから絶対にその場を動くな」と命令し、実際には軍が逃げる時間を稼ぐ「捨て石」に利用し数十万人がソ連の犠牲になった

自粛だの志願だのきれい事を真に受けて従うと、最後に捨て石に利用されて満州開拓団のような目に遭います


これが自主的な強制で大戦末期の特攻隊もまったく同じ、拒否すると罵詈雑言を浴びせられ村八分になるので、人々は不同意ながら仕方なく志願した
https://www.thutmosev.com/archives/89333613.html


日本の偉い人たちは不利になると真っ先に逃げる。戦況不利になった満州から真っ先に逃げたのは陸軍。太平洋の諸島でも部下に万歳突撃を命じて自分だけは小型船で逃げる。天皇は東京が危ないというので長野の地下大本営に逃げようとした。つまり日本の偉い人たち自分のことしか考えていない。しかしそういう偉い人たちは税金で、つまり一般人の上がりで暮らしているわけだ。一般人の働きで養われている人たちが一般人を見下す、不利のときの捨て駒にする。ユダヤ人たちはゴイムと呼んでいるが日本のそういう貴族たちも似たようなものだ。
http://www.asyura2.com/0306/dispute11/msg/789.html


▲△▽▼


1945年にソ連軍が満州に侵攻した日、日本軍は「ソ連と決戦に行く」と言って新京を脱出し、市民らは感動して涙を流して見送りました。
だがソ連と決戦するというのは大嘘で、実際には日本軍と軍人の家族だけが朝鮮半島の38度線まで脱出しました。

戦後に判明した事実は日本政府と日本軍は最初から満州の日本人全員を捨てて帰国することが決まっていて、足手まといだから騙して放置しました。


政府とか役人の正体はこんなものであり、信じたら騙されてバカを見るのは自分です。

マスコミも同類で、1945年8月15日までは「進め1億火の玉だ」「1億玉砕本土決戦だ」と煽っていたのが、翌日には「私たちは最初から戦争に反対でした」と言い出しました。

言論人や正義面する連中の中身もこの程度なので、何が本当か情報を見極める必要があります。
http://www.thutmosev.com/archives/84853979.html


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2020年12月14日
樺太の敗戦と引揚げ ソ連の略奪で数万人がなくなった
http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html

南樺太を占領したソ連軍は、食料・衣類・貴重品など全て日本人から略奪した

引用:http://ironna.jp/file/5a5942a00b98bf04335b9aa2da72bc03.jpg

敗戦後の外地からの帰国

1945年8月15日に日本は戦争停止を宣言したが、敗戦はすべての日本人が一様だった訳ではなかった。

最も幸運だったのは本土の日本人で、日本に帰国する必要もなく、敵から逃げる必要もなかった。

敗戦国になった時に重要なのは「敵」との交渉力で、これが無いと大変な目に遭います。

交渉力は数が多いか力が強いか、敵と取引できる何かを持っているのが重要になります。

最も不幸で悲惨だったのは満州国の辺境地帯で開拓していた満蒙開拓団で、ソ連軍の奇襲と中国人の略奪を受けた。

ソ連は8月8日に対日宣戦布告し翌9日から空爆と地上戦を始めたが、日本軍はこの事を日本人居住者に一切知らせなかった。


なぜかというと戦力を維持するためにまず関東軍が朝鮮南部まで脱出しなくてはならず、住民が居たのでは足手まといになる。

それにこの時日本本土から満州の関東軍には、「敗戦時に在外日本人は帰国させず、現地に永住させろ」という命令が来ていました。

日本本土はじゅうたん爆撃で都市が廃墟になり、食べ物もないので大陸の日本人が帰国したら、食料が不足するからでした。


こうした種々の理由で満州在住日本人全員を置き去りにする事が決定されていたので、何も知らせず軍だけが満州から脱出しました。

ただ当時は家族や子供を満州に呼び寄せて住んでいた軍人が多かったので、動揺を防ぐため軍人の家族だけは脱出させました。

満州に残された日本人は100万人以上だったが、数が非常に多かった事が、この人達の命を救った。

南樺太に残された日本人達

数千人や数万人しか居なかったら、おそらく満州の日本人はソ連と中国に粛清されていた筈だが、100万人では秘密に出来ず、国際問題になった。

米ソ間の取引によって満州の日本人は帰国するのだが、帰国者は4分の3ほどで、4分の1つまり25万人ほどが、戦後にソ連と中国によって粛清や略奪でなくなった。

女性はほぼ全員がソ連兵や中国人の略奪対象になり、これを隠すために戦後「日本軍による従軍慰安婦狩り」を創作した。


朝鮮半島南側、後に韓国になる地域に残った日本人は、アメリカ軍の管理下で帰国できたが、北朝鮮地域に残された人達は、ソ連収容所に入れられて、やはり略奪と暴行を受けた。

満州は当時アメリカが支援する中華民国(台湾)に占領されたので、アメリカの口利きで帰国できたが、ソ連とは米ソ冷戦が始まっていた。

ソ連は日本人に略奪行為を働いたのを隠したがり、このため日本人の帰国を妨害し収容所に隔離した。


10万人ほどの日本兵が流刑地であるシベリアに輸送されて、なくなったとも言われている。

北朝鮮に居た日本人も、戦後数年間を生き延びる事ができたら、追放のような形で歩いて38度線を越え、韓国側にたどり着く事ができた。

ソ連は対面を保つため、衰弱した日本人を返すつもりはなかったので、自力で歩けない人は極寒の収容所でなくなるか、途中で倒れてなくなった。


終戦時に樺太(サハリン)の南半分は日本の領土だったので、ここにも45万人もの日本人(と朝鮮人)が住んでいたとされている。

樺太でもソ連軍は8月9日に攻撃開始したが、2万人の日本軍守備隊に対してソ連軍(1万人程度?)は苦戦し、8月25日にやっと南樺太を占領した。

この日付は重要で、8月15日以降も大本営の命令を無視して守備隊は戦い続け、破れたが約15日間の時間を稼いだ。


ソ連との戦闘が始まってから本土への避難が始まったが、多くの日本人居住者が逃げ遅れてソ連軍に捕捉されました。

終戦前後に大半の朝鮮人は日本に避難したが、終戦後に集計したら4000人ほどの朝鮮人が残っていた。

なお戦後に北朝鮮から労働者として4万人ほどが、樺太に強制移住させられていて、多くの情報で「日本軍が強制連行した」と間違って記録されている。


戦前の樺太は真岡、豊原など賑わっていた
RIMG0159
引用:稚内商工会議所写真展http://hit-u.ac/excursion/06Karafuto/0820/RIMG0159.JPG

置き去りになった朝鮮人達

この15日の苦戦でソ連は北海道上陸作戦が不可能になり、アメリカ軍が先に北海道に上陸する事になった。

戦後北海道が日本のままだったのは、樺太守備隊の命令違反(軍規では極刑)と、ただの偶然の結果に過ぎなかった。

樺太を占領したソ連軍は例によって略奪を働き、日本人の家に銃を乱射しながら押し入って「女出せ!」とロシア語で叫んで暴れまわった。


この時のソ連軍兵士の格好は「日本の浮浪者より貧しい身なり」だったとは、満州や樺太引揚げ者が共通して証言している。

ソ連軍は食料も支給していなかったから、やはり日本人の家を襲撃しては食べ物を奪い「日本人はこんな豪華な物を食べているのか」と目を見張ったという。

終戦末期の樺太の食卓が豪華だった筈が無いが、ソ連軍はそもそも兵士に食料を配給せず、住民から奪えと命令していた。


1945年8月22日には日本人避難民を乗せた帰国船3隻をソ連潜水艦が攻撃し、婦女子ら1700人がなくなっている。

潜水艦攻撃は北海道上陸作戦のための海上封鎖と思われるが、今日に至るまでソ連=ロシアは戦争犯罪を認めていない。

こんな樺太の終戦後だったが、40万人以上と人数が多かったのでソ連も全員を粛清できず、日本人は翌年以降に帰国して行った。


取り残されたのが朝鮮人たちだが、強制連行などではなく、全員が自ら希望して樺太に労働や移住に来ていた。

徴用というのも高額報酬で応募が押し寄せたほどで、全員が自ら希望して志願したものです。

樺太は寒いので日本帝国は労働者に高額報酬を支給し、報酬に釣られた朝鮮人が自主的に樺太で働いていた。


ここで問題になったのが北朝鮮で、ソ連は北朝鮮の宗主国なので北朝鮮に帰国させようとしました。

北朝鮮行きに応じた人も居たが、「樺太に戻りたい」といって脱出する人が続出し、悲惨な暮らしぶりを手紙で書いてよこしたという。

戦前の樺太と比べてすら北朝鮮は最悪であり、以降北朝鮮への帰国を希望する者はいなくなった。


日本人妻や日本人夫と結婚した朝鮮人は「日本に」続々と帰国していったが、朝鮮人の韓国への帰国は、結局ソ連崩壊まで認められなかった。

ソ連と日本の交渉では帰国が何度も決まりかけたものの、必ず北朝鮮が抗議してソ連が態度を豹変させた。

「朝鮮人の祖国は北なのに、なんで傀儡国家(韓国の事)に出国させるのか」という言い分でした。


これが樺太の韓国人問題で、戦後数千人居たと推測されるが、ほとんどは帰国を果たさずになくなりました。
http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html
2:777 :

2022/11/10 (Thu) 13:11:07

2019年12月18日
終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか

開拓村のひとつ満州国弥栄村、日本軍が去った後でソ連軍が襲い掛かった

画像引用:満州国弥栄村の絵葉書が・・・・中国東北部にあった幻の村・・・ | 赤城山・赤城温泉 御宿 総本家 館主よもやま話http://souhonke.jugem.jp/?eid=6905

全人類にとって不都合な歴史

戦後ずっと中国、南北朝鮮、ロシアは自分たちが日本軍によって被害を受けたと言い続けてきました。

アメリカ、イギリス、フランスなど西側の連合国も、自分たちが正しいと言うために日本軍を批判してきた。

その一方で自分たちが日本人に行った行為は隠され、なかったかのように言いつくろっている。


安倍晋三をはじめとする歴代首相や政治家、言論人もこの事には目をつぶり、一種のタブーになっています。

終戦時に満州や半島、千島列島や樺太に居た日本人はソ連や中国に何をされたか、日本政府が口封じをして喋らないようにしていた。

終戦時に外地にいた日本人は数年後に復員や引揚げしたが、日本政府は棄民として扱い存在しないように振舞った。


日本軍が大陸から引き上げた時、満州周辺には200万人の日本人が居たが、民間人は置き去りにしました。

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、大本営は秘密裏に関東軍(大陸部隊)を日本本土に帰国させる計画を建てた。

この時200万人の日本人居住者は足手まといであり、船も食料もなく帰国させたらさらなる食糧不足を招くとして、現地に置き去りにする決定を下した。


200万人の居住者はソ連が侵攻してきたのを知らされず、移動や避難を禁止されその場に留まるよう命令された。

満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

日本軍に騙された200万人の日本人居住者

真に受けた日本人らは本当に軍はソ連と決戦に行くのだと信じ、感動して涙を流し日の丸の旗を振って見送りました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。

8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15日になってからでした。


8月15日の日本軍降伏と同時に、ソ連軍と中国軍、暴徒化した中国人らが日本人居住者に襲い掛かりました。

満州国の首都新京には100万人もの日本人が居たので団結して身を守ったが、地方に居た満州開拓団はされるがままでした。

満州開拓団とは日本の食糧危機を解決するため、日本軍が送り出した農村開拓団で、数十万人も居ました。


開拓団は表向き応募だったが、実際には県や村、集落単位で割り当てがあり、人数が決められていました。

長男は村に残るので開拓団に行くのは次男以下、満州で子孫を増やすため夫婦ものが選ばれたので、行く人は決まっていました。

もし満州行きを拒否したら村八分にされるので、個人の意思とは関係なく行かざるを得ませんでした。

開拓村の人口を増やすのに女性が必要なので、大勢の少女らを騙して満州に送り込んだ。

満州では内地よりずっといい暮らしができるとか、まだ判断力がない少年少女に吹き込んでいました。

実際の満州は見渡す限りの荒野だったので、現地に着いたとたん騙されたのに気づいたでしょう。


満州の開拓村とは荒れ地を手作業で開拓し、ゼロから村をつくるもので、日本からの支援はほとんどなかった。

それぞれの開拓村の人口は数十人程度で、ソ連軍に襲われたらひとたまりもなかった。

多くの村では若い女をソ連兵や中国人に差し出し、命乞いをしたという事実が記録に残っている。

ソ連や中国に酷い目にあわされ帰国したのに、祖国は彼らを犯罪者扱いした

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

被害者なのに帰国したら加害者扱い

関東軍は事前に終戦を知っていたので8月15日までに南朝鮮まで逃げ、38度線を防衛ラインとした。

日本まで逃げる船はアメリカにすべて撃沈されていたので、もしソ連軍が38度線を突破したら今度こそソ連と決戦するつもりでした。

ここで関東軍は計略をめぐらし、ソ連軍と接触して「もし自分達を助けたら東日本を差し出す」と提案したと伝えられている。


その効果があったのか関東軍は本土に帰還できたが、約束は反故にし東日本は米軍が占領した。

満州在留日本人や北朝鮮居住者には38度線の存在自体が隠され、「その場から動くな」と言って立ち去った。

せっかく北朝鮮まで逃げて来たのに38度線の存在を知らず、ソ連軍支配地域にとどまった人が多かった。


ここでまた朝鮮人は日本の女をソ連兵に差し出して、ソ連とのコネを作ったり食料を得たり、地位を得たりした。

千島列島や樺太でも同じ事が行われ、200万人居たソ連中国支配地域の日本人のうち、約50万人がなくなった。

強制的に開拓団に参加させられ散々な目に合って帰国した人々に日本政府は冷たく、軍人のような恩給も保証もなかった。


一般の日本人はGHQの宣伝によって「開拓団は中国を侵略した悪人」と思い込み、罵声を浴びせたり石をぶつけたりした。

こうして帰国した人々は開拓団や外地居住者だったのを隠すようになり、ソ連や中国からの被害もひた隠した。

連合軍だった国は自分たちの被害を訴え、日本政府すら満州ソ連居住者の被害を無視しつづけている。
http://www.thutmosev.com/archives/81755000.html  

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終戦後 満州・朝鮮での「接待」とは
満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg


日本人を捨てて逃げた皇軍

最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。

極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。


満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。

騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。

ソ連兵に日本人の女を差し出した

ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。

関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。


38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。

やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。

また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。


そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。

命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。


このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html

▲△▽▼

2020年09月10日
日本陸軍が終戦後に毛嫌いされた理由
関東軍は100万人以上の満州日本人に、ソ連との開戦も知らせず避難指示も出さず、見捨てて逃走した。

引用:http://www.yomiuri.co.jp/special/70yrs/main/img/honsho_1_06_sub_03.jpg

関東軍の敵前逃亡

現代では旧日本陸軍は悪の象徴とされていて、悪い事はなんでも全て日本陸軍のせいになっている。

このような思想が広まったのは戦後GHQによる統制と、世界的な宣伝の為だが、他にも理由があった。

朝鮮と満州で日本陸軍関東軍は、永遠に日本人から恨みを買うような行為を、終戦前の最後の5日間で行っていました。


それは731部隊でも南京事件でも慰安婦でもなく、それらは実際にはやっていないばかりでなく、日本人には関係が無い。

関東軍は1945年8月9日にソ連が攻撃を開始すると、防衛地域を放棄して、いの一番に逃げ出したのでした。

しかもソ連の攻撃や、もうすぐソ連地上軍がやってくるのを住民には隠し、「絶対に安心だからここから動くな」とまで指示していました。


関東軍が防衛していた満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

しかも軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。


その次に8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15になってからでした。

日本の降伏を知ると同時に中華民国軍とソ連軍、暴徒化した中国人が日本人に襲いかかり、帰国できずに悲惨な目に遭って満州でなくなった人も多かった。

朝鮮半島は38度線で分断されたが、これは関東軍がソ連参戦と同時に38度線まで撤退したためで、このために裏取引までしていたようです。

北朝鮮に残された日本人

関東軍はアメリカには米軍に早く来るよう促し、ソ連にはソ連軍に朝鮮を明け渡すかのように、仄めかしていました。

ソ連は8月10日から米軍の朝鮮上陸までの15日間、のらりくらりと立ち回る関東軍への攻撃をためらい、8月25日に米軍がソウルに上陸しました。

この15日間の関東軍の行動によって、韓国はソ連占領を免れ、現在の民主国家に発展していきました。


関東軍がこうした行動を取ったのは韓国人のためではなく、満州の日本人を躊躇無く見捨てたのを見れば、日本人の為でもありませんでした。

釜山から日本への海上航路は米軍艦と空襲によって途絶しており、関東軍が帰国するには朝鮮南部をソ連から防衛する必要があったからでした。

朝鮮北部と満州在住の日本人に避難指示が出たのは8月15日以降で、しかも鉄道は軍が独占していて、指定された列車にしか乗れませんでした。


軍属、軍人の家族が優先され、次が婦女子と子供、その後は鉄道が機能しなくなり、取り残されてしまいました。

朝鮮北部の日本人は線路に沿って歩けば38度線を越えれるので歩いたが、途中で大半がソ連軍につかまって捕虜になった。

捕虜を拘束しておくと食料が必要になったので、ソ連軍は面倒になり、翌年までに歩いて南側に行くように指示して解放された人が多かった。


だが食料や医療品をくれた訳ではないので、38度線を越えるまでに倒れてなくなった人が多かった。

終戦後も数ヶ月間は朝鮮南部に関東軍が駐留していたので、38度線さえ越えれば復員船で釜山から帰国できた。

朝鮮北部からの日本人の脱走を助けたのは朝鮮人たちで、日本人を襲う朝鮮人が居た一方で、食料を分けたり匿った人も居ました。


朝鮮北部は南部に比べて日本人が少なく、日本に敵意を抱いていた人間も多かったと言われている。

それでも満州の中国人やソ連兵に比べると、朝鮮人に捕まったほうがましだった。

全ての朝鮮人や韓国人が日本人を憎むようになるのは、北と南の政府が反日教育を行った後のことです。


氏名が分かっただけで未帰還者31万人だから、総数は遥かに多かったかも知れない
0901Yomiuri37
引用:http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0901Yomiuri37.jpg

満州に残された日本人

満州に取り残された日本人はもっと過酷で、日本から遠い上に歩いて日本軍支配地域へ行く事はできなかった。

しかも米軍は日本本土と朝鮮南部を占領したが、満州や中国本土に進駐しなかったので、米軍の保護下に入ることもできなかった。

「我が皇軍に撤退なし」と言っていた関東軍は一番先に逃げ出してしまい、満州は完全な無法地帯になりました。


満州には100万人以上の日本人が取り残されたと推測され、翌1946年5月まで誰も関心を持たず放置された。

後に判明した事実によると、大本営は関東軍に「本土は食糧不足だから日本人は帰国させるな」という命令を出していたようです。

米軍は1946年5月から軍用船舶で日本人の輸送を始めたが、これは保護のためではなく、「日本人が中国で暴動などをしないように」との配慮だった。

つまりアメリカは日本人が現地で全滅せず生きていたので、中国から除去したかったのだった。


引揚者は米軍によって犯罪者のように輸送されたのだが、帰国できなかった人が何人居たのか、現在も分かっていない。

ただ差し引きすると30万人以上が満州で行方不明になっていて、残された日本人の4人に1人は現地でなくなったようです。

つまり中華民国(台湾政府)とソ連は無抵抗な30万人の満州の日本人を犠牲にしたと推測できる。

最後の皇軍

一方の日本陸軍関東軍だが、その最後は非常に情けないものだったとされている。

優秀な兵士や優秀な部隊は太平洋の戦場に引き抜かれて米軍と戦い、関東軍は戦意のない劣等な兵士や新参兵、高齢者(40代)だけになっていました。

脱走者が続出し、我先に帰国しようとし、避難民に紛れ込んで38度線を目指した。


避難民に「荷物を持ってあげましょう」と言って、僅かな食料や金品を持ち逃げする脱走兵が数多く目撃されていました。

さらに避難民の家族が兵隊に出ていると知ると、「XXXX殿は亡くなられました」と嘘の報告をします。

当時家族の戦没をしらせてくれた人には、どんなに困窮していてもお礼をするのが礼儀であり、脱走兵は僅かな食料目当てに誰にでも「ご家族はなくなられました」と言いふらしていました。


戦場を放棄して敵前逃亡したうえに、保護するべき住民を見捨てて逃走し、最後は避難民からわずかな食料を騙し取った。

これが置き去りにされた日本人が最後に目撃した日本陸軍の姿であり、この悪評はたちどころに本土の日本人にも広まりました。

だから東条英機や日本陸軍将校が裁判にかけられても、反対する日本人があまり居なかったのです。
http://www.thutmosev.com/archives/72262171.html
3:777 :

2022/11/10 (Thu) 13:12:16

2020年12月14日
樺太の敗戦と引揚げ ソ連の略奪で数万人がなくなった
http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html
南樺太を占領したソ連軍は、食料・衣類・貴重品など全て日本人から略奪した

引用:http://ironna.jp/file/5a5942a00b98bf04335b9aa2da72bc03.jpg

敗戦後の外地からの帰国

1945年8月15日に日本は戦争停止を宣言したが、敗戦はすべての日本人が一様だった訳ではなかった。

最も幸運だったのは本土の日本人で、日本に帰国する必要もなく、敵から逃げる必要もなかった。

敗戦国になった時に重要なのは「敵」との交渉力で、これが無いと大変な目に遭います。

交渉力は数が多いか力が強いか、敵と取引できる何かを持っているのが重要になります。

最も不幸で悲惨だったのは満州国の辺境地帯で開拓していた満蒙開拓団で、ソ連軍の奇襲と中国人の略奪を受けた。

ソ連は8月8日に対日宣戦布告し翌9日から空爆と地上戦を始めたが、日本軍はこの事を日本人居住者に一切知らせなかった。


なぜかというと戦力を維持するためにまず関東軍が朝鮮南部まで脱出しなくてはならず、住民が居たのでは足手まといになる。

それにこの時日本本土から満州の関東軍には、「敗戦時に在外日本人は帰国させず、現地に永住させろ」という命令が来ていました。

日本本土はじゅうたん爆撃で都市が廃墟になり、食べ物もないので大陸の日本人が帰国したら、食料が不足するからでした。


こうした種々の理由で満州在住日本人全員を置き去りにする事が決定されていたので、何も知らせず軍だけが満州から脱出しました。

ただ当時は家族や子供を満州に呼び寄せて住んでいた軍人が多かったので、動揺を防ぐため軍人の家族だけは脱出させました。

満州に残された日本人は100万人以上だったが、数が非常に多かった事が、この人達の命を救った。

南樺太に残された日本人達

数千人や数万人しか居なかったら、おそらく満州の日本人はソ連と中国に粛清されていた筈だが、100万人では秘密に出来ず、国際問題になった。

米ソ間の取引によって満州の日本人は帰国するのだが、帰国者は4分の3ほどで、4分の1つまり25万人ほどが、戦後にソ連と中国によって粛清や略奪でなくなった。

女性はほぼ全員がソ連兵や中国人の略奪対象になり、これを隠すために戦後「日本軍による従軍慰安婦狩り」を創作した。


朝鮮半島南側、後に韓国になる地域に残った日本人は、アメリカ軍の管理下で帰国できたが、北朝鮮地域に残された人達は、ソ連収容所に入れられて、やはり略奪と暴行を受けた。

満州は当時アメリカが支援する中華民国(台湾)に占領されたので、アメリカの口利きで帰国できたが、ソ連とは米ソ冷戦が始まっていた。

ソ連は日本人に略奪行為を働いたのを隠したがり、このため日本人の帰国を妨害し収容所に隔離した。


10万人ほどの日本兵が流刑地であるシベリアに輸送されて、なくなったとも言われている。

北朝鮮に居た日本人も、戦後数年間を生き延びる事ができたら、追放のような形で歩いて38度線を越え、韓国側にたどり着く事ができた。

ソ連は対面を保つため、衰弱した日本人を返すつもりはなかったので、自力で歩けない人は極寒の収容所でなくなるか、途中で倒れてなくなった。


終戦時に樺太(サハリン)の南半分は日本の領土だったので、ここにも45万人もの日本人(と朝鮮人)が住んでいたとされている。

樺太でもソ連軍は8月9日に攻撃開始したが、2万人の日本軍守備隊に対してソ連軍(1万人程度?)は苦戦し、8月25日にやっと南樺太を占領した。

この日付は重要で、8月15日以降も大本営の命令を無視して守備隊は戦い続け、破れたが約15日間の時間を稼いだ。


ソ連との戦闘が始まってから本土への避難が始まったが、多くの日本人居住者が逃げ遅れてソ連軍に捕捉されました。

終戦前後に大半の朝鮮人は日本に避難したが、終戦後に集計したら4000人ほどの朝鮮人が残っていた。

なお戦後に北朝鮮から労働者として4万人ほどが、樺太に強制移住させられていて、多くの情報で「日本軍が強制連行した」と間違って記録されている。


戦前の樺太は真岡、豊原など賑わっていた
RIMG0159
引用:稚内商工会議所写真展http://hit-u.ac/excursion/06Karafuto/0820/RIMG0159.JPG

置き去りになった朝鮮人達

この15日の苦戦でソ連は北海道上陸作戦が不可能になり、アメリカ軍が先に北海道に上陸する事になった。

戦後北海道が日本のままだったのは、樺太守備隊の命令違反(軍規では極刑)と、ただの偶然の結果に過ぎなかった。

樺太を占領したソ連軍は例によって略奪を働き、日本人の家に銃を乱射しながら押し入って「女出せ!」とロシア語で叫んで暴れまわった。


この時のソ連軍兵士の格好は「日本の浮浪者より貧しい身なり」だったとは、満州や樺太引揚げ者が共通して証言している。

ソ連軍は食料も支給していなかったから、やはり日本人の家を襲撃しては食べ物を奪い「日本人はこんな豪華な物を食べているのか」と目を見張ったという。

終戦末期の樺太の食卓が豪華だった筈が無いが、ソ連軍はそもそも兵士に食料を配給せず、住民から奪えと命令していた。


1945年8月22日には日本人避難民を乗せた帰国船3隻をソ連潜水艦が攻撃し、婦女子ら1700人がなくなっている。

潜水艦攻撃は北海道上陸作戦のための海上封鎖と思われるが、今日に至るまでソ連=ロシアは戦争犯罪を認めていない。

こんな樺太の終戦後だったが、40万人以上と人数が多かったのでソ連も全員を粛清できず、日本人は翌年以降に帰国して行った。


取り残されたのが朝鮮人たちだが、強制連行などではなく、全員が自ら希望して樺太に労働や移住に来ていた。

徴用というのも高額報酬で応募が押し寄せたほどで、全員が自ら希望して志願したものです。

樺太は寒いので日本帝国は労働者に高額報酬を支給し、報酬に釣られた朝鮮人が自主的に樺太で働いていた。


ここで問題になったのが北朝鮮で、ソ連は北朝鮮の宗主国なので北朝鮮に帰国させようとしました。

北朝鮮行きに応じた人も居たが、「樺太に戻りたい」といって脱出する人が続出し、悲惨な暮らしぶりを手紙で書いてよこしたという。

戦前の樺太と比べてすら北朝鮮は最悪であり、以降北朝鮮への帰国を希望する者はいなくなった。


日本人妻や日本人夫と結婚した朝鮮人は「日本に」続々と帰国していったが、朝鮮人の韓国への帰国は、結局ソ連崩壊まで認められなかった。

ソ連と日本の交渉では帰国が何度も決まりかけたものの、必ず北朝鮮が抗議してソ連が態度を豹変させた。

「朝鮮人の祖国は北なのに、なんで傀儡国家(韓国の事)に出国させるのか」という言い分でした。


これが樺太の韓国人問題で、戦後数千人居たと推測されるが、ほとんどは帰国を果たさずになくなりました。

http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html
4:777 :

2022/11/10 (Thu) 13:12:44

「大地の子」は終わっていない 置き去りにされた日本人たち、問題は2世に
全国新聞ネット 2021/04/01
 中国残留孤児が訪日調査に参加し、初めて故郷の地を踏んで今年で40年になる。故山崎豊子さんの小説「大地の子」でも描かれ、その壮絶な人生は1980~90年代にかけて社会的関心を集めた。帰国者への支援法などで孤児たちを巡る環境は整備されつつあるが、問題は今、子ども世代にも広がっている。(共同通信=山上高弘)

2世への支援拡充を訴える中国残留邦人ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を訴える中国残留邦人ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 中国残留孤児は戦前・戦中に国策で中国東北部(旧満州)に渡り置き去りにされた人々で、戦後しばらくして、その多くが帰国を果たした。1981年3月に初めて訪日調査が行われ、国に認定されて永住帰国したのはこれまでに2557人。孤児は終戦時おおむね13歳未満だったとされ、それ以上だった「婦人等」を合わせた永住帰国者は6724人に上る。残留孤児をテーマにした山崎さんの代表作の一つ「大地の子」は91年に 単行本が刊行された。その後、NHKドラマにもなり、俳優の上川隆也さん が孤児の役を熱演したことで知られる。


 ▽ママと呼べなかった

 「1993年11月、57歳の私は飛行機から降り、深呼吸しました。夢にまで見た自分の祖国に立ち、うれしさでいっぱいでした」。残留孤児の川添緋砂子さん(85)=福岡市=は帰国の瞬間をこう振り返る。

 ソ連が満州に侵攻した45年8月9日、川添さんは父の仕事で現在の黒竜江省にいた。家族と共に原始林の中を必死に逃げ回り、何日も歩き続け、草や木の葉を食べてしのいだ。20日、ソ連軍に遭遇し、同省牡丹江の収容所に送られた。身重だった母は出産後に亡くなり、生まれたばかりの赤ちゃんは中国人に引き取られた。生死は分からないままだ。

 その後、父や妹とハルビンの収容所に移された。10月の満州の雨はいてつくほど冷たく、寝具や食料もない中、コンクリートの床で眠り、ただ死ぬのを待った。ソ連兵は毎日、死んだ人を乱暴にトラックに載せていった。

家族との写真を前に、思いを語る中国残留孤児となった川添緋砂子さん=2020年2月、福岡市  © 全国新聞ネット 家族との写真を前に、思いを語る中国残留孤児となった川添緋砂子さん=2020年2月、福岡市  
 ある朝、父が息を引き取った。飢えと寒さで起き上がる力もなく「父が運ばれていく姿をただ目で追うことしかできなかった」。その夜、もうろうとしていると足音が聞こえた。父の知人の中国人たちに川添さん姉妹はそれぞれ引き取られた。

 出稼ぎでハルビンにいた養父に男手一つで育てられた。小学生になり、同級生に日本人だと知られると石を投げられるなどのいじめが続いた。「誰も知らない場所に行こう」と、養父の故郷、山東省青島に移った。初めて養母に会った時は「身長は低く、顔が黒くて美人じゃない」と思ったという。養父に促されても、どうしても「ママ」と呼べなかった。

 春節(旧正月)前のある日、半年ぶりに中学の寄宿舎から片道35キロの道を歩いて帰省すると、養母は外で雪まみれになって待ち続けていた。「私は初めて大きな声で『ママ、ママ…』と叫びました」。養父母の愛情に応えようと一生懸命勉強し、小学校の教師になった。

 93年に帰国を果たしたが、日本語は話せず外出できない日々が続いた。「小学生の孫の宿題も分からず、恥ずかしかった」。60歳を過ぎて日本語学校に通った。「同じ境遇の孤児の力になりたい」と、帰国者の会での活動も続けてきた。

2世への支援拡充を訴える川添緋砂子さん=福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を訴える川添緋砂子さん=福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 2007年の帰国者支援法改正を受け、川添さんら1世の暮らしは改善されつつあるが、最も懸念するのは大人になってから親と共に日本へ渡った高齢の2世の苦境だ。「今は1世よりも2世が大変。残留孤児の問題は終わっていない」

 ▽老後の不安募る2世

 「年金、もらえるのは月1万9千円。将来が心配。助けてほしい」。「九州地区中国帰国者二世連絡会」会長の小島北天さん(73)=福岡県志免町=は、たどたどしい日本語で打ち明ける。

 終戦後の47年、遼寧省奉天(現瀋陽)で中国人の父と残留婦人の母との間に生まれた。母の帰国に伴い97年から日本で暮らすが、「日本語ができない50歳に仕事なかった」

記者会見で中国残留邦人2世への支援拡充を訴える小島北天さん=3月、福岡県庁© 全国新聞ネット 記者会見で中国残留邦人2世への支援拡充を訴える小島北天さん=3月、福岡県庁
 平成不況で雇用を切られるなど、転職は6回を重ねた。今は週3日、パートで働きながら妻や娘らと暮らす。年金を合わせても世帯収入は月に十数万円。「もし大きな病気にかかったら大変」

 2世は中国語が母語として身についた30代以降での帰国が多い。小島 さんのように残留婦人の子の中には、残留孤児とほとんど変わらない年齢で帰国した人もいる。日本語がうまく話せないため正規雇用を得られなかったり、年金加入期間が短く老後の生活にも不安を抱えたりしている。国は支援法改正で1世への老齢基礎年金の満額支給を認めたが、2世への経済的支援は含まれなかった。17年に同連絡会が福岡、佐賀、長崎、熊本4県で2世を対象に行った調査では、210人のうち6割が生活保護を受けていた。

 中国残留邦人の問題に詳しい神戸大の浅野慎一教授(社会学)は「2世は学歴や帰国時の年齢が多様なために共通の課題が見えづらく、苦境の要因が個人の問題として捉えられている。帰国が遅れた責任は国にあり、経済的に困っている2世に必要に応じて支援をするべきだ」と指摘する。

2世への支援拡充を求め、街頭署名を呼び掛ける小島北天さん(左)ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を求め、街頭署名を呼び掛ける小島北天さん(左)ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 現在、九州や関西の帰国者らが中心となり、2世への支援法適用を求める署名活動を続けている。全国で計10万筆を集め、6月の国会請願を目指す。交通費などの資金を捻出するためのクラウドファンディングも始めた。(

 ▽未認定の「孤児」

 国はこれまでに2818人を残留孤児と認めたが、2012年を最後に新たな認定はない。一方で「日本人として認めてほしい」と、国に訴え続ける人もいる。

 「生活難のため子育てができず、5歳の娘を引き渡します」。ハルビン出身の郜鳳琴(こう・ほうきん)さん(77)=熊本県菊陽町=は色あせたぼろぼろの便箋を取り出した。1949年6月、長野県の開拓団出身の生母と、中国人養父が交わした証明書だ。

中国人養父から手渡された証明書を手にする郜鳳琴さん(右)。左は夫の庄山紘宇さん=2020年10月、熊本県菊陽町© 全国新聞ネット 中国人養父から手渡された証明書を手にする郜鳳琴さん(右)。左は夫の庄山紘宇さん=2020年10月、熊本県菊陽町
 小さい頃は「日本鬼子」と周囲の子どもたちにいじめられた。18歳で結婚したが、日本人の子どもと知ると夫の態度が一変した。「国に帰れ」と突き放され、ほどなくして離婚した。養父から証明書を手渡されたのは日中国交正常化の72年のこと。身上がはっきりし「日本に帰りたい」との思いが芽生えた。地元公安局に相談して肉親捜しが始まった。

 82年、訪中調査団に参加していた生母とハルビンで再会でき、2人で涙した。ただ、生母は父親については口をつぐんだ。その後、手紙を送るなどしても返事はなく、音信不通になった。

 孤児の認定を受けるには両親が日本人との証明が必要だ。郜さんは厚生労働省に申請したが却下された。未婚の子だったのか戸籍になく、父親の証明が不十分だったとみられる。支援団体の協力で証言を集めるなどしたが状況は変わらず、今から10年ほど前に生母が死去したと、人づてに聞いた。

 郜さんは2年半前、87年に帰国した孤児で支援者の庄山紘宇さん(83)と再婚し、配偶者として「帰国」が実現した。日本語は話せないが、夫婦で仲むつまじく暮らす。「故郷に帰れてうれしい。ただ自分のような境遇の人は中国にまだ数百人はいる」とも話し、国に柔軟な対応を求める。

 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の寺沢秀文館長は、十数人の認定支援を個人的に続けてきたが、「時間がたち、新たな証拠を探し出すのは難しい」と話す。

 浅野教授は「残留孤児になったのは戦前・戦後の国の政策が不十分だったことに原因があり、自己責任ではない」と指摘した上で、「国はどのような証明が足りず、なぜ認定できないのか情報を開示し、手助けを図るべきだ」と訴えている。

  ×  ×  ×

 中国残留孤児 太平洋戦争末期の1945年8月9日のソ連軍による満州侵攻に伴う混乱で、肉親と生き別れたり、死別したりし、現地に取り残された日本人の子どもたち。満州には当時、国策によって日本からの開拓移民が多数居住していた。国の不十分な引き揚げ政策によって帰国が遅れ、公的年金にも加入できなかったため、2007年に帰国者支援法が改正され、特例で老齢基礎年金の満額支給が受けられるようになった。一方で親と共に帰国した子ども世代への経済的支援は盛り込まれなかった。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%AD%90-%E3%81%AF%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84-%E7%BD%AE%E3%81%8D%E5%8E%BB%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%EF%BC%92%E4%B8%96%E3%81%AB/ar-BB1fbyfm?ocid=msedgntp
5:777 :

2023/10/24 (Tue) 21:55:52

中国残留孤児3世と、孤児が中国に残留するに至った経緯
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16821880



瀬島龍三、 統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

自粛だの志願だのきれい事を真に受けて従うと、満州開拓団のような目に遭う
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14062368

満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508

鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501

みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660

大東亜共栄圏というのは 中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703
6:777 :

2023/12/03 (Sun) 03:41:27

【人身御供】悲惨過ぎて語られない満州撤退の犠牲者【世界史】
https://www.youtube.com/watch?v=Lyx9sxACRKI&t=0s

瀬島龍三、 統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

7:777 :

2024/02/19 (Mon) 11:33:47

日本人を捨てて逃げた皇軍 終戦後に在住日本人がやらされた事
2024.02.19
https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg
ソ連兵に妻や娘を差し出して命乞い

第二次大戦終了後の満州などで、ソ連や中国が日本人に強要していた戦争犯罪があったが世界史のタブーになっていて日本政府も触れようとしない

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、ソ連は勝ち目がないと見て攻撃しなかったので本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った

ソ連は独ソ戦に注力したので極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので日本軍が下がるのを待ったのでした

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と在住日本人100万人以上をだまして夜逃げしました

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民がソ連との決戦を信じて涙を流して日の丸の旗を振って送り出したが、実は関東軍は朝鮮半島まで我先に脱走した

関東軍は決戦に行くと在住日本人に信じ込ませる一方で「必ず勝つからその場から動いたり脱出してはならない」と指示し、実はこれは日本人を囮としてソ連軍に襲わせて時間稼ぎをする作戦でした

関東軍に騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘や妻を差し出して「接待」をさせました

特にソ連兵の規律は悪く金目のものや居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部の民間人被害は深刻でした

政府や軍隊を信じるとこういう目に遭う
最悪だったのは満州の荒野を開拓させられた満蒙開拓団で約27万人のうち約8万人が現地で襲われてなくなり、生き残った人も妻や娘を差し出して逃げ帰りました

満蒙開拓団は表向き志願だが実際は強制で、貧しい農村を中心にノルマとして人数を指定し長男は跡継ぎなので次男夫婦が強制的に満州へ移住させられました(小作人の次男が選ばれるのは最初から決まっていた)

関東軍が逃げ出したのは大本営の指示で、大本営と日本軍は満州在住日本人100万人を囮にしてソ連軍を足止めさせ、全員をみごろしにして関東軍だけを本国に帰還させる作戦を建てた

終戦直前の日本は食糧難だったので満州の日本人が帰って来ては困るので現地に捨てて来ることにし、関東軍60万人は本土防衛のために必要なので帰還させることにした

当時兵士の家族も満州に住んでいたので兵士の家族だけを列車に運び、他の在留日本人は列車に乗るのを禁止し移動も禁止した

関東軍の移動が終わると列車が再開し、38度線の南側は日本軍が駐留し規律が守られていたが、日本軍が撤退した北側は無政府状態になった

関東軍が黙って逃げ去ったので満州の日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった

愚かな事に「お昼ご飯を食べたいから」「夜は旅館で寝たいから」のような理由で北朝鮮側で列車を降りた人が相当数いて、降りた人はシベリアの収容所に送られてほとんど亡くなった

北朝鮮側はソ連兵が徐々にやってきて、北朝鮮の人民はきのうまで日本人に従っていたのにロシア人の歓心を買うために日本人を襲撃し始めた

北朝鮮に残った日本人はやはりソ連兵や現地人に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘や自分の妻を差し出しました

現地人も日本人をおそって金品を奪ったり、日本人の娘をさらったりしてソ連兵に差し出し、そのような人間が北朝鮮で権力階層に出世していった

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占め、その子孫が現在の金正恩政府でも支配階層として君臨している

ソ連や中国や朝鮮で酷い目に遭って命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった

このような行為をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった

帰還者は故郷に帰ってもGHQの統制によって「侵略者」と石を投げられたり村から追い出されたり、へき地に追いやられたりもした

そして満州に置き去りにされた人々は 今も「侵略者」のレッテルを貼られ、政府は日本人の被害に見て見ぬふりをし続けている

https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

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