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内田樹 _ 「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因

1:777 :

2022/11/04 (Fri) 17:34:47

サコ先生との対談本の「あとがき」 - 内田樹の研究室
2022-11-03
http://blog.tatsuru.com/2022/11/03_1036.html

『君たちのための自由論』あとがき
2023-02-16
http://blog.tatsuru.com/2023/02/16_1659.html

 ウスビ・サコ先生との対談を中心にまとめた本を出すことになりました。サコ先生は日本ではじめての「アフリカ出身でムスリムの学長」です。多様な出自の人々を同胞として迎える心構えにおいて日本社会はまだまだ十分な成熟に達していないと僕は思いますけれども、それでもサコ先生のような人が登場してきたこと、サコ先生の言葉に耳を傾ける人がしだいに増えてきたことは、日本の未来について僕を少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれます。僕が日本の未来について「楽観的になる」ということはほとんどないのですけれど、サコ先生は僕にその「ほとんどない」経験をさせてくれる稀有の人です。
 
 この本で、僕たちは主に日本の学校教育について論じています。学校教育が僕たち二人の「現場」だからです。僕はもう定期的に教壇に立つということはなくなりましたけれども、いまでもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「今何が起きているのか」はある程度わかっています。そして、大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどありません。大学教育は制度としてはどんどん劣化しているし、研究教育のアウトカムはどんどん低下している。それも加速度的に。その原因については本書の中でも繰り返し述べています。それは「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものです。「諸悪の根源」というような激しい言葉を僕はあまり使いたくないのですけれども、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いありません。
 でも、不思議な話です。「統御し、管理しようとする欲望」は「秩序」をもたらし、「効率」や「生産性」を向上させることをめざしているはずです。でも、それがまったく逆の結果を生み出してしまった。どうしてなんでしょう。
 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからです。そして、「管理」がどういうものであるかはほとんどの人が知っているけれど、「創造」がどういうものであるかを知っている人はそれに比べるとはるかに少ないのです。
 日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれています。彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができます。でも、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはふつう興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しません。
 ですから、資源分配の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずありません。自分の出世しか興味がないサラリーマンが組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすぼらしいものになることは避けがたい。
 というのは、「管理」が大好きな人たちは、あらゆる仕事に先立って「まず上下関係を確認する」ところから始めるからです。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬語を使い、誰にはため口でいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのです。
 この集団はそもそも何のためにあるのか、いかなる「よきもの」を創り出すために立ち上げられたのかとか、メンバーたちはそれぞれどういう能力や希望があるのかということには副次的な関心しかない(それさえない場合もあります)。関心があるのは「上下」なのです。
 ですから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」ことなんです。目下の人間にまず屈辱感を味合わせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する。
 そんな集団が効率的に機能すると思いますか? 
 朝の会議で上司が部下に「発破をかける」ということが日本の会社ではよく行われますが、あれは別に今日する仕事の手順を確認しているわけではありません。誰が「叱責する人間」で、誰が「黙ってうなだれる人間」かを確認をする儀礼なんです。そんなこと何時間やっても仕事は1ミリも先に進まないのに。
 でも、管理が好きな人たちは、その因果関係が理解できない。しっかり管理しているはずなのに、トップダウンですべての指示が末端まで示達されているはずなのに、なぜか組織のパフォーマンスはどんどん下がる。
 どうして、仕事がうまくゆかないのか。そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする。もちろん、そんなことはすればするほど組織のパフォーマンスはさらに低下するだけなわけですけれども、その時も対策としては「さらに管理を強化する」ことしか思いつかない。
 軍隊には「督戦隊」というものがあります。前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて「前線に戻って戦い続けろ。さもないとここで撃ち殺す」と脅すのが仕事です。軍隊の指揮系統を保つためにはあるいは必要なものかも知れませんが、もし「半分以上が督戦隊で、前線で戦っているのは半分以下」という軍隊があったとしたら「管理は行き届ているが、すごく弱い」軍隊だということは誰にでもわかると思います。
 今の日本の「ダメな組織」はこの「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ています。学校現場もそうです。
 教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗しました。でも、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めませんでした。すべて「現場のせいだ」ということになった。指示した政策は正しかったのだが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになります。そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、査定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪しました。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずでした。でも、やはり何の成果も上がらなかった。この失敗も「現場が無能だからだ。現場が反抗的だからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった...というのが日本の現状です。
 いま学校教育現場で最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということです。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを苦にして病欠したり、離職する教員も多い。こんなことは教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけですから、当然予測された結果のはずです。でも、たぶん文科省も自治体の首長も決してそれを認めないでしょう。
 もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。
 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。やっていることは見た目は「いきあたりばったり」ですから「管理」する側から「何をやってんだ」と問い詰められもうまく答えられない。やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるのだけれど、それが「どういう目的地」なのか、全行程のどの辺りまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできない。「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものなんです。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」ときの実感です。
「創造」は科学や芸術に限られたものではありません。例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと僕は思います。
 食文化の目標は何よりもまず「飢餓を回避すること」です。ですから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になります。実際に人類は実に多様な工夫をしてきました。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に干す、発酵させる...などなど。
 それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけですけれども、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思うんです。よけいな迂回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたんじゃないかと思うんです。じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた。試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど、「美味しいもの」ができた。
 このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと僕は思うんです。創造的な調理人は「何となく、こうすれば、これ食えるようになるんじゃないか」という「当たり」をつけてから始めたはずです。でも、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。
「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)」なプロセスと呼びます。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉です。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言っていることです。
 数学者のアンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうです。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い間知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実です。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。
 創造的な調理人もそうだと思うんです。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にランダムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思います。
 創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。だから、「ストカスティック」なんです。
 多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思います。
 
 こう説明するとわかると思いますけれど、これはまったく「管理」になじまないプロセスです。僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。本書に出てくる、ソウルに焼肉を食べに行ったり、空港で学生たちとばったり会って旅行にでかけたり・・・というのは、どちらもそのときは「思いつき」ですけれども、あとから振り返ると、「それがあったから、次の展開があった」という重要な足場でした。でも、その時点では成算があったわけじゃないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。何となく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけです。でも、サコ先生も僕もその直感を信じた。
 サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思います。でも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。
 なんだかやたら長くなってしまいましたので、もう終わりにします。最後になりましたが、本書の成立にご尽力くださいました稲賀繁美先生、ラクレ編集部の黒田剛史さん、『大学ランキング』の小林哲夫さん、夕書房の高松夕佳さんにお礼を申し上げます。そしてつねに驚くべき話題で知的刺激を与え続けてくださったウスビ・サコ先生に感謝を申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。

(2023-02-16 16:59)
http://blog.tatsuru.com/2023/02/16_1659.html
2:777 :

2022/11/04 (Fri) 17:36:45

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004524

日本の研究力の低下 - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14051677


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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html
3:777 :

2023/11/21 (Tue) 19:39:45

学問探究投げ捨てる愚行 議論もなくスピード可決した国立大学法人法改正 国立大学まで政財界の利権の具に
2023年11月21日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/28277


 臨時国会でひっそりと審議入りした国立大学法人法改正案が17日、衆院文部科学委員会で採択され、与党の賛成多数で可決された。同法改正は、一定規模の国立大学を「特定国立大学法人」に指定し、最高意思決定機関として文科大臣の承認を要する委員で構成される「運営方針会議」の設置を義務づけるもので、大学運営のあり方を根本的に改変するものとなる。大学関係者は「大学の自治に死刑を宣告するものであり、日本の学術研究の衰退に拍車をかけ、国力をも損なうもの」として総反発している。学術レベルの著しい衰退を招いた一連の「大学改革」を見直すこともなく、大学を政治や財界の末端機関とする軽薄な法改正に批判が高まっている。



学術レベルの低下を招く「大学の自治剥奪」



 国立大学法人法の改正案が10月31日に閣議決定され、臨時国会に提出された。その内容は、内閣府が組織し、財界代表者らも参画する「総合科学技術・イノベーション会議」(CSTI)の有識者会合(9月7日)で初めておおまかな概要が明かされた。国民はおろか大学関係者にも知らされることなく、当事者間の開かれた議論もないまま、わずか1カ月で法案化された。



 改正の主な内容は、一定規模の国立大学に政令で「運営方針会議」という新たな合議体を置くことを義務付け、中期目標・中期計画の作成、予算決算に関する事項の決定権を持たせるというものだ【図参照】。これまで学長や理事など主に大学内の人員で構成される役員会が握っていた大学の運営権限を、この新たな合議体が握り、そこで決めた方針通りに大学運営を実行させるためのトップダウン体制の強化となっている。





 新たに各大学に設置される運営方針会議は、文科大臣の承認を得たメンバー(委員)で構成され、運営方針通りに大学運営がされているかどうかを学長に定期的(3カ月ごと)に報告させ、運営方針に従っていないと見なされる場合は、学長に改善措置を指示する権限を持つ。また、「学長選考・監察会議」に対して、学長選考の方針に意見したり、学長が運営方針会議と対立するなど解任事由に相当すると認められた場合は報告するという、実質的な解任権限まで持つことになる。



 学内の構成員は大学の運営や大学内部の資源配分について発言する権限を実質的に奪われることになり、大学の自治を担ってきた学内組織は形骸化せざるを得ない。



 さらに、これまで「国立大学の公共性や公益性を損なう」として認可制にしていた国立大学法人による土地貸付も届出のみで済むようにしたり、長期借り入れ・債券発行などの対象事業も拡大するなどの規制緩和も盛り込まれている。



 総じて、政府や経済界の意を汲んだ運営方針会議を使って学長(大学法人)をコントロールし、国立大学が保有する資産や教育組織(人間)を総動員して、学術研究よりも利益を生む「稼げる大学」へと邁進させるための体制づくりを促すものとなっている。



 現在、「特定国立大学法人」に指定される見通しにあるのは、東北大学、東京大学、東海国立大学機構(名古屋大学・岐阜大学)、京都大学、大阪大学の五法人となっている。これらの大学の職員組合は10日、改正案に反対する共同声明を発表。全国110の国立大学や関連機関の教職員組合連合体である全国大学高専教職員組合(全大教)中央執行委員会も六日に反対声明を発した【ともに別掲】。国は、大規模国立大学を皮切りに同様の仕組みを他の国立大学にも広げていく方針を示しており、すべての大学関係者にとって他人事では済まされない。



研究の自由奪う「司令塔」作り 大学教員らの指摘



 NPO法人「国立人文研究所」が11日におこなったオンライン会見で、北海道大学教育学研究院の光本滋准教授は、「“稼げる大学”は、昨年の国際卓越制度の議論の過程でたびたび使われてきた。古くは90年代ごろから始まっているが、直近では2015年当時の五神真(ごのかみ・まこと)東大総長が、財政制度審議会で“産業界が維持できなくなってきた中長期のための投資の受け皿を大学につくる”と表明し、大学内に産学一体のプラットフォームをつくるイメージを示した。今回の法改正は、“学術研究よりも経済社会に貢献する大学”(CSTI)を進めるために、研究・教育組織の上に“全学的な司令塔”をつくるものだ」と指摘した。



 またこの間の一連の「大学改革」をふり返り、「2004年の国立大学法人化で、国立大学では政府の政策を学長の権限によって実施させるトップダウン体制が決定づけられた。2014年の学校教育法等の改正によって多くの大学で教授会が教員の選考権を失った。そして、学長選考会議が学内投票に拘束されずに済むような規定改正もおこなわれ、学長と学長選考会議が一体となって大学を私物化する事態が頻発した。今回の法改正は、運営方針会議が学長を支配する体制をつくるものであり、政府や産業界が運営方針会議を支配することになれば、大学はそれらに従属せざるを得なくなる」とのべ、「国立大学の法人化は、研究水準の向上や発展のためとされていたが、20年たった現在、研究力低下がさかんに問題にされている。その反省もない法改正だ」と警鐘を鳴らした。



 特定国立大学法人への指定が名指しされている京都大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学の職員組合も15日、声明発表とともに記者会見をおこなった。



 京都大学の高山佳奈子教授は、「京都大学職員組合は、国際卓越研究大学制度について、研究機関である大学を特定の利権の下に置こうとするものであるという観点から反対してきた。結局、東大も京大も国際卓越には認定されなかったが、その理由の一つとしてトップダウンがうまく機能していないということがいわれている」とのべた。



 国際卓越研究大学制度とは、国が10兆円規模の基金(ファンド)を設立し、その株式運用益を餌にして政府直結の「稼げる大学」をつくるという構想で、関連法が昨年5月に成立。9月に東北大学が初の認定候補に選出された。



 高山教授は、「京都大学では総長が各分野のボトムアップを重視して、(国際卓越を)ゴリ押ししなかったことから候補に入らなかったが、それを覆す形で今般の国立大学法人法改正案が出てきている。利権を持っている人たちはどうしても大学を従わせ、利権のための道具として利用したい。国際卓越大学という“お金”をちらつかせてもダメだったからこその朝令暮改であり、私たちとしては狙い撃ちにされているという感じを受けている」とのべた。



 また、日本学術会議が国によって解体されようとしていることにも触れ、「この状況下で、日本の学術研究や教育の国際競争力が低下しているというのは、当たり前のことだ。自由な研究のなかで、失敗から成功が生まれてノーベル賞につながるような発見が生まれるが、その自由な研究は、基盤的な研究費がある程度確保されたうえに成り立っている。私たち研究者は、自分たちの専門的知識は、学術全体から考えるとわずかな部分であるという認識のもとで研究に従事している。だが、今進められようとしているものは、その専門知識すらない人々、ごく少数の人々が思いつく範囲で、すぐに成果が上がるようなものについてだけお金を出すというものだ。目指すものは利権であり、その下に大学や学術会議を置くという制度だ。これでは人類の福祉に資するべき学術活動が実現できるはずもない。そもそも学術研究は、特定の範囲の人についてだけ考えておこなわれるものではない」と批判した。



 また「(日本で)もっと自由な研究活動ができれば、他分野と協力して新しいものが生み出されていくチャンスが広がる。海外で研究成果が上がっているのは、自由な研究ができる基盤的な資金が確保されているからだ。だが特定の狭い範囲の思いつきで、目先のお金を稼ぐことを学術の目的とするのなら、特定の人の利権になるだけで、国力はさらに低下していくことになる。日本で政治資金が厳しく規制されているのは、たとえ紐付き資金でなくても、寄附に頼るようになれば、寄附をくれそうな人にとって利益になるような活動にインセンティブが働いてしまうからだ。同じように特定の利権に縛られた大学になれば、人類的な課題に資する自由な研究は確保できるわけがない」と問題点を指摘した。



 東京大学教職員組合の井上聡委員長は、「東京大学も国際卓越大学に応募して落選したが、応募に至る学内的議論はほとんどなかった。私たちがしっかりした方針が出せなかったのは、東京大学ではすでに年間60億~70億円という欠損が生じ、私たちの部局でも年間数千万円という赤字が出て、基礎的な資金が“兵糧攻め”でかなり追い込まれていることがある。どういう形であれ、お金が入ってくれば良いのではないか…という考えがなきにしもあらずだった」と自戒を込めてのべ、「そもそもの大学のあり方から考えなければならない。研究の自由度が上がらないまま、外の経営や行政の専門家が大学運営に入ってきてもうまくいくわけがない。そのようなことを次々と振りまかれ、次第に大学が弱っていくのを感じる」と現状を吐露した。



 名古屋大学職員組合の渡辺健史委員長は、「名古屋大学での国際卓越研究大学応募に向けた議論もトップダウン的に決まっていったのが実情だ。それ以外のことでも外部を意識してトップダウンで決まることが増え、運営費交付金も削減され、人事も思うように進まず、教員も時間がなく疲弊している。今回の改正案で採り入れようとしている合議体(運営方針会議)を置くことになれば、さらに外ばかりを意識しなければならなくなる」とのべた。



 続けて、「大学はすでに力を失っており、外に還元することばかり考えると、わずかに残っている貯金も使い果たして立ち直れなくなり、研究力を含めて大学の自律性が極度に低下するのではないかと危惧している。国が大学運営に介入しようとしていることが透けて見える。大学の自治を侵害する大きな問題だ」とのべた。



 大阪大学教職員組合の北泊謙太郎書記長は、「教職員給与削減をめぐる団体交渉の場で、大学理事が“国際卓越研究大学制度の選考に阪大が落ちたのは、大学の組織改革が足りないからであり、もっとドラスティックに組織を改革し、雇用もさらに流動的にして、次こそは国際卓越に採用されるように大学として一丸となってとりくむ”という趣旨の発言をした。今回、国際卓越に採用された東北大学では、テニュアトラック(一定の研究実績に基づいて研究環境や雇用が保証される資格)も付いていないような、任期付き雇用の若手教員が多いことが採用理由の一つだという。大阪大学でも短期で若手を雇い、どんどん入れ替えていく雇用の流動化を進める意志が表明されたものだと受け止めている。大阪大学は文科省と手を組んでトップダウンで決めていくことが多く法改正でそれに拍車が掛かるのではないか。大学の自治にとどめを刺すようなものだ」とのべた。



オンライン署名呼びかけ 各大学の研究者有志



 各大学の研究者有志でつくる「『稼げる大学』法の廃止を求める大学横断ネットワーク」は現在、国立大学法人法改正に反対するオンライン署名を募っている。そこでは、概略以下のように法案の背景と反対理由をのべている。



■国立大学の「失われた20年」


 今年は国立大学を法人化する法律が制定されてから20年目にあたる。大学の自律性を高めるための「改革」なのだという表向きの説明とは裏腹に、法人化後、国立大学の自治と自律性は段階を踏みながら破壊されてきた。



 第1段階として、国は、大学運営にかかわる基盤的経費(運営費交付金)を10年近くかけて1割以上カットした。第2段階として、国立大学のトップである学長の選考について、政財界の意向が及びやすい仕組みをつくった。第3段階として、「選択と集中」の名の下に国が一方的に定める評価指標の達成度に応じて、基盤的経費を増減することにした。そのため、多くの学長は、予算を少しでも増やすために文科省の意向を忖度するようになった。第4段階として、大学が株式市場やベンチャー企業に投資することを奨励しつつ、企業から投資を受けて「稼げる大学」に変身することを要求した。



 この20年間を振り返ってみると、政財界の狙いは、バブル崩壊後の産業界の国際競争力を立て直すために大学を「活用」することにあった。経済がクローバル化する中で、多国籍化した企業にビジネスチャンスを与えることが重視された。



 たとえば2017年には、国立大学法人に土地の貸付を認める通知がなされ、今回の改正案では、これまで文科大臣の認可が必要であった土地の貸付を届出のみで可能にすると規定した。土地貸付によって国立大学法人が利益をあげ、これを利用した企業がその「有効利用」によって利潤をあげることもあるだろうが、そこでは、学生にとっての運動場や寄宿舎、学生食堂、保健管理センターなどのキャンパス空間がいかに重要であるかは度外視される。学生たちがリーズナブルで安全安心な生活をおくれることを優先していたら、「稼げない」からだ。



 これに限らず、大学を「稼げる大学」に変えようとする力は、学生を授業料の額に応じてサービスを受けるべきカスタマー(顧客)、教職員をコストカットに協力すべき従業員へと変質させた。大多数の国立大学で、学長を投票により選出する権利が剥奪されたことが象徴的だが、今改正案は、「運営方針会議」なる合議体を設置し、大学の運営・研究・教育にかかわる方針(中期目標・中期計画)や資源配分のあり方(予算・決算)を決定する権限を与えると定めている。しかも委員の任命にあたっては文科大臣の「承認」を必要とするとしている。


 これは、学生や教職員と、政府の方針に忠実な「経営判断」をおこなう少数者(運営方針会議委員、学長、学長選考・監察会議委員)とを分離し、学生や教職員の意見を無視また否定できる制度を完成させようとするものであり、「大学の自治」への死刑宣告にも等しい内容といえる。



■「稼げる大学」「稼げる自治体」の行く末


 わたしたちは、「大学の自治」だけが守られればよいと考えているわけではない。むしろ日本社会全体を多国籍企業にとって稼ぎやすい場にしようとする実践の一環として、今日の大学「改革」を捉えている。



 たとえば地方自治体も「稼げる自治体」となることを迫られてきた。具体的には「公共サービスの産業化」を合言葉として、地方行政や社会保障などの公共サービスを民間企業の市場として開放することが求められてきた。その結果として生じたのは、公務の外部委託や派遣社員雇用の拡大であり、地域社会内で循環するはずのお金が、東京に本社を置く大企業や多国籍企業に吸い上げられていく事態だった。その結果、公共サービスの担い手が減り、場合によっては自治体そのものが吸収合併により消滅させられた地域も少なくない。



 地方自治体の場合には、住民は主権者として首長を選挙により選出することができる。合併にかかわる住民投票でこれを否決することも可能だ。ところが、国立大学の場合には投票による歯止めがもともと慣行としてしか成立していなかったために、独裁的な体制がいとも簡単に形づくられてしまった。公立大学や私立大学の場合には大学により代表を選出する仕組みはそれぞれ異なるが、国立大学以上に「稼げる大学」になる圧力にさらされてきた。



 わたしたちは、研究が結果としてイノベーションにつながり、新たな産業や文化を生みだすことの素晴らしさや、研究や教育の意義について市民社会に対して説明する責任は感じている。だが、研究や教育にまつわる創造性はつまるところ個々人の創意工夫と安定した環境に由来する以上、政財界の意向を体した人物がもっぱら経営的な判断に基づいて「計画」なり「目標」を定めていくことは、大学の研究力や教育力を低下させることにしかならないと確信する。国は、だれもが「大学で学び研究する権利」を保障するために大学政策を根本的に転換し、基盤的経費の充実と安定財源化に努めるべきだ。



 「稼げる大学」「稼げる自治体」「稼げる保育園」「稼げる公園」…というように、 なにもかもが近視眼的に考えられた経済的利益に還元される社会の行く末には、いったいなにが待っているのか。それを透視し、その打開策を考えることも大学の重要な役割だ。大学人がその役割をきちんと果たせるようになるためにも、改正案に反対の意向を表明し、国の大学政策の根本的な転換を求める。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/28277
4:777 :

2023/11/27 (Mon) 14:04:51

国立大学法人法”改正”は30年の破壊の総仕上げ【内田樹の談論風発】4
https://www.youtube.com/watch?v=AQkGLqVLGwo


内田樹さんの新刊

『街場の米中論』(東洋経済新報社 2023.12.6.)
https://str.toyokeizai.net/books/9784492444795/

『街場の成熟論』(文藝春秋社 2023.9.13.)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917566

お相手: 池田香代子

2023年11月24日 収録


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