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2022/10/29 (Sat) 14:20:29
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雑記帳
2022年10月29日
坂野徹『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_29.html
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA-%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%80%8D%E8%AB%96%E4%BA%89-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2709-%E5%9D%82%E9%87%8E-%E5%BE%B9/dp/4121027094
中公新書の一冊として、中央公論新社より2022年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「縄文人」と「弥生人」に関する、進展著しい古代DNA研究も含めて人類学と考古学最新の研究の解説ではなく、おもに1990年代までの「日本人起源論」が、同時代の思潮からどのように影響を受けて提示されたのか、検証した学説史です。本書は、これまでの「日本人起源論」の学説史が、その時点での有力説と整合的な過去の学説を過大評価する傾向にあった、と問題を提起します。
日本における近代的な人類学・考古学研究はモース(Edward Sylvester Morse)による大森貝塚の発掘に始まる、と言われています。ただ、日本における近代的な人類学・考古学の黎明期を主導したのは、モースが直接的に指導した学生ではなく、坪井正五郎と坪井が率いる人類学会でした。また本書は、すでに江戸時代において好古趣味があり、土器や石器などの収集・研究が盛んで、坪井も好古少年の一人だった、と指摘します。坪井は学外での活動に精力的で、それもあって学問の世界で人類学の認知がなかなか進まず、東大の人類学教室は長きにわたって正規の所属学生を有する学科にはなれませんでした。坪井の影響下、明治期には人類学という名目で考古学研究も進められ、考古学独自の学会も作られます。
こうした日本における近代的な人類学・考古学の黎明期の「日本人種論」を主導し、後に大きな影響を与えたのは、モースのなど「お雇い外国人」でした。モースは、日本人の祖先は南方から日本列島に渡来し、北方から南下して日本列島を占拠していたアイヌの祖先に取って代わり、大森貝塚を残したのはアイヌ以前の「人種(プレ・アイヌ)」だった、と考えました。これは、アイヌには土器製作の習慣がないことを根拠としていました。シーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)の息子であるアレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander George Gustav von Siebold)は、アイヌこそが日本の先住民族と主張しました。ジョン・ミルン(John Milne)は、アイヌがかつて日本全土に住んでおり、後から渡来した日本人がアイヌを追って北上した、と主張しましたが、北海道では、アイヌの前にコロボックル(コロポクグル)が存在し、その後でアイヌ、さらにその後に日本人が到来した、と考えていました。この3人はおもに石器時時代の遺物遺跡に依拠しましたが、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)は生体の計測・観察と頭骨研究に基づいて、日本人種論を主張しました。ベルツは日本人を、アイヌ系と中国・朝鮮の上流階級に似たモンゴル系(代表は長州人)とマレー人に似た別のモンゴル系(代表は薩摩人)の3構成要素と把握しました。ベルツはアイヌを、「白人種」でかつて本州の広範囲に存在した、と考えていました。これら明治期の欧米系研究者の日本人起源論には違いもあるものの、記紀に基づいて、かつて日本列島において先住民族と日本人の祖先との間で闘争があった、と主張した点は共通していました。本書はこうした見解を、「人種交替モデル」と呼びます。本書はこうした見解の背景として、当時社会進化論が欧米を席巻しており、人類史を「人種」間の征服=交替により把握する歴史(先史時代)観がありふれていたことを指摘します。また本書は、こうした見解の根拠が記紀だったことは、日本の「文明」に対する欧米系研究者の信頼を反映している、と指摘します。
日本人研究者による日本人種論は、こうした外国人研究者による議論の延長線上に展開し、最初期における代表的なものがコロボックル論争でした。坪井が石器や土器の共通性から日本列島の先住民族はコロボックルと主張したのに対して、小金井良精はアイヌが日本列島の先住民族と主張しました。ただ、小金井は専門の人骨ではなく遺物遺跡でしたが、小金井は坪井より慎重で、当時まだ証拠が不充分だと認めていました。当時、すでに後の縄文土器と弥生土器の区分につながる分類が提示されつつありましたが、土器に基づいて縄文と弥生を対比させる発想はまだ確立していませんでした。その後、じょじょに弥生土器が縄文土器より古い、という認識が広がっていきます。このコロボックル論争は、坪井の弟子である鳥居龍蔵の調査によりアイヌ説の優位が確立していき、1913年に坪井が急逝したことにより、アイヌ説が一般的となります。
一方、明治期の人類学・考古学における日本人種論では、日本列島の先住民族をめぐる議論は盛んだったものの、先住民族を駆逐・征服したとされる日本人の起源についての議論はほとんど行なわれませんでした。これについて、天皇制の根幹に触れることが忌避された側面も指摘されていますが、本書はその理由として、同時期の歴史学ではさまざまな日本人起源論が語られていることから、日本人のユーラシア大陸由来についてほぼ共通理解が得られている一方で、アジア東部に関する知見が欠けていたことと、おもな研究対象は国内の遺物遺跡で、限られた資料から実証的に論じるのは困難だったことを挙げています。さらに本書が重視するのは、集団としての日本人をどう把握するのか、という問題です。当時、人種を生物学的区別、民族を文化的区別とする、日本において長く一般的だった観念はまだ確立しておらず、人種とは単に「同じ種類の人」を意味していました。坪井は、日本人という分類が国境という枠組みにより作られることに自覚的でしたが、大正期になると、日本人という枠組みの恣意性への自覚が消えていきます。これには、比較的新しい用語である「民族」の普及と相関しているようで、民族には当初から文化・歴史的意味合いが含められており、その普及につれて人種は「生物学化」した、と本書は推測します。高木敏雄はその初期において明確にこうした区分で民族と人種を語りつつ、日本人種は仮構的にすぎない、と指摘していました。大正期以降の人類学・考古学では、日本人の文化的・歴史的統一性もしくは民族としての一体性を前提に、日本人の起源を追求していきます。鳥居はアイヌが日本列島の先住民族だと断定し、日本人の祖先について、固有日本人とインドネジアンと印度支那民族の混血により成立した、と主張しました。鳥居説では、多数派の固有日本人が天孫降臨前から日本に入り込んでおり弥生土器をもたらした民族で、原始的で文化程度の低いインドネジアンが日本列島への到来の過程で多くの民族と混血し、「南支那に古くより存在する苗(ミャオ)族系統の印度民族(印度支那民族)」が銅鐸を日本にもたらした、と想定されていました。本書はこうした鳥居説の背景に、日清戦争以降の日本の領土拡大があった、と指摘します。新たに領地での現地調査により、以前には得られなかった確たる証拠を得て、自説を疑う人はいなくなった、と鳥居は豪語しました。
しかし、この鳥居説の提示直後から、その下の世代(坪井と小金井を第一世代、鳥居を第二世代とすると、第三世代)が鳥居説に異議が呈されます。この第三世代の特徴は、第一世代と第二世代では総合人類学的志向が強かったのに対して、より専門的な手法で日本人起源論を追求したことです。考古学では、濱田耕作が土器の違いを人種の違いと直結させる見解に疑問を呈しましたが、当初は鳥居説の影響も強く受けていました。人類学では、長谷部言人が、日本列島におけるアイヌから日本人への人種交替を想定した鳥居説の強力な批判者として現れました。松本彦七郎は、日本人とアイヌとの間に第三人種を想定し、日本人による第三人種の同化によりアイヌの人種的孤立性を説明しようとしましたが、濱田や長谷部と比較して、記紀への批判意識は希薄でした。松本は、日本人がアジア系とヨーロッパ系両方の子孫なので、東西の文化文明を「融和消化」できた、と主張しました。これは、「一等国」になった、というような日本における民族主義の高まりが背景にあるようです。清野謙次は、日本人もアイヌも日本石器時代人(日本原人)がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、と主張しました。ただ、日本石器時代人と現代日本人との間には大きな違いがあり、別の「人種」とも指摘されていました。人骨の統計処理に基づく清野説は、文化と人種の問題を分ける発想に大きな影響を及ぼし、人類学と考古学の分離に決定的な意味を持ちました。日本列島における石器時代からの(混血も伴いつつ)人類集団の連続性を想定する見解は本書では、鳥居説など人種交替モデルに対して人種連続モデルと呼ばれます。本書は、第一世代および第二世代と比較して記紀への依拠に否定的な第三世代の論調は、津田左右吉による記紀批判とも共鳴していた、と本書は指摘します。
人類学と考古学の分離により、「人種論」が人類学の「専有物」となった後、考古学は固有の方法論を確立する必要に迫られ、多くの研究者が土器の編年に取り組みます。1930年代には縄文土器(山内清男たち)と弥生土器(森本六爾や小林行雄たち)の編年体系の基礎が確立し、これが日本人起源論と関わってきます。それまで、日本の人類学・考古学ではヨーロッパ基準の石器時代という時代区分が用いられていましたが、この編年体系の基礎の確立を契機に、次第に弥生時代という概念が浸透していき、第二次世界大戦後には縄文時代と弥生時代という呼称が定着しました。山内たちと森本たちとの間には、日本列島における稲作起源論をめぐる確執から、対立関係が存在しました。ただ、この論争において、縄文土器の時代と弥生土器の時代を生産手段の違い(後者において水田稲作が始まります)と把握する見解の基礎が確立していきました。両者の違いは、縄文土器の時代と弥生土器の時代への移行過程にありました。山内は縄文土器が日本列島でほぼ同時期に終焉した、と主張しましたが、森本と小林は、弥生文化が大陸から九州北部へと伝わり、そこから日本列島全域に拡大した、と主張しました。つまり、弥生文化の始まりには地域差があるわけで、縄文土器から弥生土器への日本列島規模の同じ頃の移行を想定する山内説とは相いれないわけです。山内は、弥生土器の起源は縄文土器にある、と考えていました。山内は人種論への言及には慎重でしたが、座談会での発言からは人種連続モデルの枠内にいました。本書は、山内が清野から影響を受けた、と推測します。ただ、当時、人種連続モデルを支持する考古学者は少数だったようです。そうした考古学者の中には、人種交替モデルというよりは、縄文土器の担い手と(ユーラシア大陸東部から到来した)弥生土器の担い手との間の平和裡の融合により日本人が形成された、と考える人もいました。本書はこれを、「縄文人/弥生人モデル」と呼びます。この議論の過程で、再び記紀神話が人類学・考古学研究に強い影響を及ぼすようになります。
日本人起源論と関連して議論になったのは、日本列島における旧石器時代の存在です。第二次世界大戦前には、日本列島に旧石器時代は存在しなかった、との「常識」があった、と一般的に言われているようですが、本書は、そこまで単純な話ではない、と指摘します。たとえば、戦前の大物考古学者だった濱田も、日本列島における旧石器時代の存在を全否定したわけではありませんでした。さらに本書は、そもそも戦前の日本の考古学において旧石器か否かの厳密な判断は困難だった、と指摘します。上述のように1930年代には土器の編年研究は飛躍的に発展しましたが、石器に関する研究はあまり進んでいませんでした。戦前日本の人類学・考古学における旧石器時代への関心は、中国で「北京原人」など旧石器時代の化石人類や石器が相次いで発見されたことにより、高まっていきました。ただ、長谷部など人種連続モデルの支持者は、「明石原人」の発見なども含めてこうした国内外の知見を日本人起源論と関係づけて論じられませんでした。なお本書は、現生人類(Homo sapiens)の単一起源説と多地域進化説について、1980年代頃までは多地域進化説の方がむしろ有力だった、と指摘しますが、そもそも現在につながる現生人類多地域進化説の最終的な成立は1980年代で、多地域進化説的な見解を主張した研究者は、本書でも言及されている1948年に没したフランツ・ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)などそれ以前からいましたが、多地域進化説的な見解は最有力とは必ずしも言えませんでした(関連記事)。人類起源地について、当初はアフリカよりもアジアの方が有力だった、との本書の指摘は妥当だと思います。
日中戦争と太平洋戦争の頃には、国家の学問への圧力が強まり、人類学・考古学にも影響を及ぼしていきます。かつて古典を信頼しすぎないよう注意喚起していた長谷部は、1939年には完全に記紀に依存した日本人起源論を主張するようになります。長谷部は、日本の石器時代文化は世界無比と言えるくらい「絢爛」だと主張し、日本人の(大規模な)混血性を完全に否定するようになりました。長谷部は、日本人が大陸もしくは南方から移住してきた、との説には証拠がなく、「人類初発ののち間もなく日本人はこの日本の地に占居したので、初発の地を除くならば日本以外に日本人の郷土はない」とまで言い、日本人と周辺民族との類似性・親近性を否定しました。これは、万世一系たる皇室が日本で生まれたことも保証します。ただ、当時の日本は朝鮮半島と台湾も領土としており、内地と外地の一体性の観点から、明治期以降に「日鮮同祖論」も主張されていたくらいでした。したがって、長谷部の理論は「皇国」たる大日本帝国の「臣民」間に亀裂を生じさせる危険性もありました。当時、長谷部の理論が多くの支持を得ていたとは言い難い、と本書は評価します。一方、清野はこの間、「日本原人」がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、との以前から主張に基本的に変わりはありませんでしたが、「日本原人」は現代日本人の土台ではあるものの別の「人種」とみなすべき、との見解から、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、との見解に変わりました。清野は、「皇室は神代から日本国の日本人」で、神代記の諸神の活動はほぼ日本国内の事件と考えるべきだ、と主張し、この頃には長谷部と同様に記紀に大きく依拠するようになりました。過去における異民族との混血を認めつつ、その後に同化が進んで統一的な日本民族になった、という清野の言説は、戦時中には主流でした。一方この間、考古学は神武天皇の聖蹟調査に動員されるなど、時局とは無縁でいられませんでした。ただ、1941年2月に在野の3考古学会が結集して設立された日本古代文化学会について、「設立趣意書」や学会誌『古代文化』の巻頭のように時局に沿った文章もあったものの、寄稿論文や活動内容は同時代の政治状況にほとんど影響を受けておらず、大東亜共栄圏を考古学の立場から支えようという考察もほぼ皆無でした。当時の考古学には、記紀の建国神話に大きく依拠することへの抵抗があったようです。この時期の考古学では、先住の縄文人と後来の弥生人が融合した、との主張が多く見られるようになります。ただ、弥生人のユーラシア大陸(東部)からの渡来は明示的に語られず、それは当時証拠が少なかったからでもありました。
日本が第二次世界大戦で敗れたことにより、人類学・考古学の状況は大きく変わります。敗戦直後の混乱状態が次第に落ち着くなか、日本考古学のその後を決定づけたのは、1947年夏に始まった登呂遺跡の発掘とその後の日本考古学協会の創設でした。登呂遺跡の発掘に当時の考古学界は総力をあげて取り組み、さらには政府や皇室も巻き込む一代事業となりました。登呂遺跡は広く日本社会において大きな関心を集めましたが、本書は、人々の関心が縄文ではなく弥生だったことに注目します。当時、縄文は日本の基層(深層)文化ではなく、貧しく遅れた文化で、前座か露払いのような地位とみなされていました。登呂遺跡は、皇国史観に覆われていた日本古代史を明らかにする鍵と考えられ、水田稲作は「日本文化」の起源の探求と把握されました。当時、稲作こそ日本文化の中心との観念は強く、マルクス主義により強調される単線的な唯物史観が弥生文化=稲作との認識を強化しました。登呂遺跡は、戦後の「水田中心史観」の研究の出発点になりました。登呂遺跡の発掘とともにこの時期の考古学にとって重要なのは、岩宿遺跡における旧石器の発見でした。敗戦後、山内は考古学の重鎮となっていきますが、それは、敗戦により植民地帝国が崩壊し、日本列島に限定された戦後の日本考古学に適合していたのは、日本人(日本文化)の連続性・一系性に重点を置く山内の理論(人種連続モデル)だったからでした。
敗戦後の人類学では、長谷部が「明石原人」の石膏模型を発見し、「明石原人」は「北京原人」と同年代だと主張しました。長谷部は「明石原人」の発見者である直良信夫を「明石原人」調査団に含めず、それへの反発からか、直良は「葛生原人」や「日本橋人類」など相次いで古人骨を報告・命名し、「葛生原人」や「日本橋人類」については直良と親しい清野がお墨付きを与えました。清野は長谷部を競合者として意識していたようです。ただ、直良が報告した「人骨」は全て、後に中世以降の人骨か非ヒト動物の骨だった、と明らかになりました。「明石原人」も、後に旧石器時代の骨ではない、と明らかにされました。清野は戦後、積極的に日本人起源論を主張していきますが、その枠組みは上述の戦中のものと基本的に変わりませんでした。現代日本人の直接的起源は(混血を経つつも)日本石器時代人(日本原人)にある、というわけですしかし、戦後復権したマルクス主義者が清野説を高く評価するようになり、清野説は大きな支持を集めます。一方、戦後の長谷部は「明石原人」の存在を主張しつつ、日本の石器時代人の祖先とは認めず、「明石原人」の絶滅後に新たに石器時代人が陸路で九州に到達した、と推測しました。ただ長谷部は、血統が同じでも進化の過程で「骨格風貌」は変化してきた、と主張し、安易に日本人の成立を語るべきではない、と注意を喚起します。これは、かつては日本石器時代人と現代日本人との体質の大きな違いを主張しながら、その後、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、と見解を変えた清野説への批判にもなっていました。ただ、この時点では、膨大な人骨計測データを根拠にしていた清野と比較して、長谷部の主張は仮説の域を出ていなかった、と本書は評価します。これら清野や長谷部の著書や論文において、縄文と弥生は時代区分として用いられるようになります。
一方考古学では、縄文時代と弥生時代という時代区分が確立したのは1960年前後でした。これは、石器時代から金属器時代という、戦前の(ヨーロッパ基準に則った)時代区分との大きな違いでした。弥生文化の担い手について、考古学では、山内が縄文土器の担い手との連続性を主張しましたが、小林などは明確にユーラシア大陸(東部)からの渡来を想定しました。しかし、人類学では長谷部や清野に見られるように連続性が主張され、多くの考古学者にとって、人類学で「弥生人」のユーラシア大陸(東部)から日本列島への到来が認められないことは、大きな悩みとなりました。この状況で、人類学において新たな日本人起源論を提唱したのが金関丈夫で、人類学・考古学に留まらず幅広い学識がありました。金関は、「日本石器時代人」より高身長の「新しい種族」が弥生文化とともに日本列島に渡来し、九州北部から近畿地方にまで広がったものの、大陸部からの「後続部隊」はなく、人口も少なかったので、長身という形質は「在来種」に吸収されて失われ、「新しい種族」の起源地の有力候補は朝鮮半島南部と推測しました。この金関説(渡来・混血説)は、当時の多くの考古学者にとって歓迎すべきものでした。しかし、人類学においては長谷部説を鈴木尚が継承して発展させ(変形説)、渡来説が直ちに通説と認められたわけではありませんでした。鈴木は、先史時代(縄文時代と弥生時代)や古墳時代だけではなく、中世と近世の人骨を大量に収集し、その計測データに基づいて変形説を提唱しました。鈴木は頭蓋指数(頭蓋の頭長に対する頭幅比)が時代により変化することを実証し、「人種」について論じる指標の根拠の危うさを指摘しました。鈴木は、日本列島の人類集団は混血ではなく生活環境の変化による小進化により現在の日本人になった、と主張し続け、多くの人類学者から指示されます。ただ本書は、金関も鈴木も、渡来説と変形説が決定的に対立するとは主張しなかった、と注意を喚起します。金関説では、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者の形質は在来の「縄文人」に吸収された、と想定されているからです。その後、九州北部で多数の高身長人骨が発掘されるなど、渡来説が有利になり、1980年代には鈴木も弥生時代におけるユーラシア大陸(東部)から日本列島への渡来を認めるようになります。
金関説の延長線上に提示されたのが、埴原和郎の二重構造モデルでした。これは最初、1991年に英文で発表されました。二重構造モデルは、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者数を限定的に想定していた金関説とは異なり、大規模な渡来集団を想定したため、変形説との共存は困難でした。また、二重構造モデルは埴原の独創ではなく、当時の多くの人類学者の見解も同様でした。本書は、二重構造モデルも含めて縄文と弥生の区別に基づく縄文/弥生人モデルを、人類学と考古学の合作と評価しています。埴原の二重構造モデルについて、国際日本文化研究センター(日文研)の初代所長である梅原猛との密接な協力関係のなかで形成されたことに、本書は注目します。梅原などいわゆる新京都学派こそ、縄文を日本の基層・深層・古層と把握する発想の起源と考えられるからです。これは、縄文時代と弥生時代という時代区分の成立により初めて可能になった発想でした。この縄文古層論は、現在の日本社会でも俗流文化論として大きな影響を有しています。本書は最後に今後の日本人起源論について、ゲノム研究の進展などにより多源性の認識がさらに深まるだろう、と展望しているとともに、すでに多様な出自の人が日本で暮らしている以上、やがては日本人起源論が終わる可能性にも言及しています。
以上、本書についてざっと見てきました。本書は1990年代までの日本人起源論の変遷を取り上げており、これまで私の理解が浅かったので、たいへん有益でした。本書では取り上げられていない、日本人起源論の最新の研究については、おもに古代DNA研究を対象に、当ブログでそれなりに取り上げています。縄文時代(関連記事)と弥生時代および古墳時代(関連記事)の古代DNA研究からは、本書でも最後にわずかに言及されているように、日本列島における人類史がかなり複雑で、二重構造モデルでさえまだ単純化されていた、と示唆されます。日本人起源論については、当ブログで今後もできるだけ最新の研究を追いかけていくつもりです。
参考文献:
坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_29.html
▲△▽▼
篠田謙一の学説の変化
篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」
篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」
弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)
篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png
シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png
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篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14052212
日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324
金平譲司 日本語の意外な歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14020106
【最新人類史】縄文人と渡来人の混血比率/東アジア人の分岐と混血の歴史/黄河集団と長江集団の起源/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/縄文人と繋がるホアビン人とオンゲ族とは/Y染色体ハプログループDの謎
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y&t=2s
DNAからみた縄文人と弥生人 神澤秀明(国立科学博物館)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14088258
縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058699
5~7世紀(三国時代) の朝鮮人は現代朝鮮人と同じだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14059584
朝鮮人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14036232
朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681
被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686
天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799
神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798
邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007801
アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫、アイヌ語は縄文人が話していた言葉
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007570
オホーツク文化人の起源とアイヌ人との関係
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007585
琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597
ユダヤ人の Y-DNA _ 日本にはユダヤ人の遺伝子は全く入っていない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007378
秦氏がユダヤ人だというのはド素人の妄想
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007812
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2022/10/29 (Sat) 14:25:18
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日本の女優とその代表作
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14021574
欧米の有名な美人女優より日本の10代の AV女優の方が遥かに美しかった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14018756
日本のアダルトビデオ(AV)が世界で一番人気な理由!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14012744
日本の被差別同和部落の縄文系女性には世界最美の遺伝子が伝わっている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14020865
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4:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/02/20 (Mon) 05:29:38
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【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる人類史!謎のデニソワ人の発見、『絶滅と生存』分けた理由、『縄文人と弥生人』の新説、 最新ゲノム解析が明かす現代人への“遺言”とは?
2023/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=86BT7_aggag
唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、 その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。
今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
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2023/06/05 (Mon) 11:06:55
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雑記帳
2023年06月03日
水ノ江和同『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%B5%B7%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E5%9C%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B0%B4%E3%83%8E%E6%B1%9F%E5%92%8C%E5%90%8C/dp/402263118X
朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、縄文文化の範囲が現在の日本国の領土とほぼ重なる、と指摘します。つまり、北方は宗谷海峡と択捉海峡まで、伊豆諸島では八丈島ので、九州では対馬島と沖縄県の久米島までとなります。縄文時代にこの範囲を越えて、周辺地域由来と考えられる遺物(考古資料)が日本列島で、逆に周辺地域で日本列島由来と考えられる遺物が発見された場合、「交流」として高く評価されてきました。しかし本書は、そもそも「交流」という用語を使うことに疑問を呈します。縄文時代において、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料は必ずしも多くないので、弥生時代以降と同等の「交流」を想起させる用語を使うのは適切ではない、というわけです。本書は、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料が発見されている事象を、「交流」ではなく「関係性」や「往き来」という用語で表現します。
次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。
縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。
本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。
日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。
上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。
縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。
本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。
本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。
以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。
本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。
上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。
朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。
参考文献:
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』 (朝日新聞出版)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
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2023/06/10 (Sat) 18:25:16
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。
●要約
言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。
一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。
●近年の研究動向
先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000~紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代~青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。
ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。
一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。
著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。
最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。
著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。
本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。
●日琉語族と朝鮮語の研究史
日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。
李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。
マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。
マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500~紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。
日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀~紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。
●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題
九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀~紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。
九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀~紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842~806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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縄文時代黒川期の紀元前13世紀~紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。
黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀~紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀~紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀~紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。
土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。
弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀~紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。
したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀~紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。
「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。
形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1~紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。
●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明
日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。
弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。
朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1~3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部~中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。
日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。
無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。
●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明
上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀~紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。
移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。
一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。
朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。
このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です
●まとめ
言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。
偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。
日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀~紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀~紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。
紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。
日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。
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関連記事
小林正史、北野博司、久世健二、小嶋俊彰(2000)「北部九州における縄文・弥生土器の野焼き方法の変化」『青丘学術論集』第17集P5-140
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
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関連記事
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三阪一徳(2014)「土器からみた弥生時代開始過程」古代学協会編『列島初期稲作の担い手は誰か』(すいれん舎)P125-174
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宮本一夫(2018)「弥生時代開始期の実年代再論」『考古学雑誌』第100巻第2号P1-27
宮本一夫(2020)『東アジア青銅器時代の研究』(雄山閣)
家根祥多(1984) 「縄文土器から弥生土器へ」帝塚山考古学研究所編『縄文から弥生へ』(帝塚山考古学研究所)P49-78
家根祥多(1997)「朝鮮無文土器から弥生土器へ」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集』第1巻(立命館大学考古学論集刊行会)P39-64
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2023/06/11 (Sun) 09:53:05
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雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。
●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題
分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。
たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。
古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。
たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。
その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。
古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。
また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。
種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。
これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。
この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。
●4万年以上前
日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。
捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。
ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。
●後期旧石器時代
ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。
もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。
日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。
●縄文時代
縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。
現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。
このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。
現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。
「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。
一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。
結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。
上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。
しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。
ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。
ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。
つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。
●弥生時代
弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。
弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。
このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。
そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。
上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。
これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。
●古墳時代以降
上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。
一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。
現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。
この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。
Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。
また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。
一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。
●琉球諸島と北海道
沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。
琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。
現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。
オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。
もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。
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佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』P27-62
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https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
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2023/06/16 (Fri) 23:10:44
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「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767
2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)
日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。
篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。
大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。
私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。
橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。
篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。
橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。
篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。
弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。
篠田 そう思います。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2
橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?
篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。
橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。
篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。
さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。
朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。
橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。
篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。
両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。
橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。
篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。
橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。
篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。
橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。
篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。
ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。
橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。
篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。
当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。
橘 すごくロマンがありますね。
篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。
弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。
古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。
篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。
古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。
橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。
篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。
政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。
篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。
橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。
篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。
篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。
弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。
橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。
篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。
橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。
篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。
次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。
朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。
橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
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9:777
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2023/06/26 (Mon) 15:27:01
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Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
KyushuUniv
2023/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
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2023/11/19 (Sun) 07:59:10
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雑記帳
2023年11月18日
川幡穂高『気候変動と「日本人」20万年史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%97%E5%80%99%E5%A4%89%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D20%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E5%B7%9D%E5%B9%A1-%E7%A9%82%E9%AB%98/dp/4000615300
岩波書店より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は気候変動の視点からの人類進化史で、近年飛躍的に発展した古代DNA研究の成果も多く取り入れられています。本書はまず、現在の有力説にしたがって、現代人の究極の起源地がアフリカにあることを指摘します。本書では、現生人類の起源は化石および分子生物の証拠から20万年前頃とされていますが、この年代はもっと古くなる可能性が高そうです(関連記事)。本書はさらにさかのぼって、霊長類系統の分岐、さらには類人猿(ヒト上科)系統における分岐に、環境変化が関わっていたことを指摘します。類人猿系統における人類系統の分岐の背景には、寒冷化による降雨量減少と、それによる樹木の散在する環境への変化がありました。なお本書では、人類の使用した最古の石器はホモ・ハビリス(Homo habilis)の出現前にさかのぼる、とされていますが、これをオルドワン(Oldowan)石器と同じとしているのは間違いで、330万年前頃となる最古の石器はオルドワンではありません(関連記事)。
現生人類のアフリカからレヴァントへの拡散について、本書は12万年前頃以降を取り上げていますが、それ以前にさかのぼる可能性は高そうです(関連記事)。また本書は、スフール(Skhul)遺跡やカフゼー(Qafzeh)遺跡で発見されたこれらレヴァントの初期現生人類(Homo sapiens)の遺伝子は現代ヨーロッパ人と異なっていた、と指摘しますが、スフールおよびカフゼー遺跡の現生人類遺骸のDNA解析にはまだ成功していないと思います。本書は、現代と比較して、この頃の地球全体の平均気温が1~2度、深層水の温度が0.4度高かった、と指摘します。12万年前頃の間氷期最盛期を過ぎると、気温はじょじょに低下し、8万年前頃には初夏の気温が2度ほど下がります。これにより、レヴァントから現生人類は追い払われ、南下してきたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が占拠した、と本書は推測しますが、レヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の相互作用については、今後の研究の進展を俟つべきかもしれません。74000年前頃となるトバ山大噴火が現生人類の人口を激減させた可能性は以前から指摘されており、本書でもこの見解が採用されていますが、現時点では説得力に欠けるように思います(関連記事)。
本書では、現生人類のほとんどは出現後約14万年間、誕生地周辺で生活していた、と想定されていますが、現在では、現生人類の起源地に関してアフリカの特定地域のみではなく全体を視野に入れねばならない、との見解の方が有力だと思いますし(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)からも、出現後の現生人類集団が14万年間も誕生地周辺で生活していた可能性は低いように思います。本書は、アデン湾のアラビア半島付近の堆積物試料の分析から復元された過去216000年間の気候変動に基づいて、非アフリカ系現代人の共通祖先の出アフリカの頃が湿潤だったことを指摘します。他には、20万年前頃と13万~12万年前頃も湿潤で、それぞれ現生人類の誕生およびレヴァントへの拡散と対応している、と本書は指摘します。ただ、上述のように現生人類の出現はもっとさかのぼる可能性が高そうですし、レヴァントでは18万年前頃の現生人類の存在が確認されています(関連記事)。
現生人類のアフリカから世界各地への拡散については、出アフリカ現生人類の肌の色は当初、黒褐色だった、と本書では指摘されていますが、アフリカの現代人の肌の色は多様で、明るい色の肌と関連している遺伝的多様体の中には100万年前頃に出現したと考えられているものもあるので(関連記事)、出アフリカ時点での現生人類集団の肌の色についてはまだ断定できないように思います。本書では出アフリカの拡散経路として、ユーラシア南岸とヒマラヤ山脈の南北の3通りが提示されており、ユーラシア南岸もしくはヒマラヤ山脈の南側の経路の現生人類の最古級の痕跡は37000年前頃とされていますが、今年になってラオスで発見された現生人類遺骸は6万年以上前にさかのぼる、と報告されています(関連記事)。
本書では、日本列島における人類最古の痕跡は島根県出雲市の砂原遺跡の12万年前頃の石器とされており、4万年以上前の人類の痕跡として岩手県遠野市の金取遺跡も挙げられており、その担い手は非現生人類ホモ属だろう、と指摘されています。ただ、砂原遺跡の石器についてはそもそも石器なのか、考古学者の間で議論になっていますし、金取遺跡の石器群は本物の石器のようですが、9万年前頃までさかのぼるとしても、その担い手が現生人類である可能性も考えられます(関連記事)。本書は、9万年前頃には現生人類はまだ出アフリカを果たしていなかった、と指摘しますが、それはあくまでも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカで、非アフリカ系現代人と遺伝的にほとんど若しくは全くつながっていない現生人類集団が7万年以上前にアフリカからユーラシアに拡散した可能性は、上述のラオスの事例からも否定できないでしょう。
日本列島への現生人類の拡散経路としては、本書では北海道と対馬と沖縄の3通りが挙げられており、主要かつ最古の経路としては、遺跡の年代および場所と海路の距離から対馬と推測されています。縄文時代について本書では、その開始は土器出現(16500年前頃)以降、その終焉は2900年前頃とされています。本書は、調理および保存の点で土器の画期性を強調します。現生人類拡散後の日本列島の気候変動については、北部では一般的な最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりもやや遅く、16500年前頃が最寒期と推定されています。この点も含めて、著者の専門分野と関わってくる気候変動の再構築に関して、本書から有益な知見が多く得られます。この日本列島北部の最寒期の前後において、ナウマンゾウが23000~20000年前頃までに、マンモスが16000年前頃までに絶滅します。本書は、これら大型動物が温暖化により絶滅したわけではないとしても、当時の低人口密度では人類による狩猟が原因の絶滅とも考えにくく、絶滅原因は謎としています。
日本列島はこの最寒期の後に温暖化を迎え、陸上生態系も大きく変わり、日本列島全体を覆っていた亜寒帯針葉樹林から、西日本~関東にかけては温暖帯常緑広葉樹林が、西日本の内陸~中部および東北にかけては温帯落葉広葉樹林が広がります。なお本書では、現代日本人で見られるY染色体ハプログループ(YHg)D1a2aが縄文時代からずっと日本列島に存在した、と想定していますが、その一定の割合が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定すべきである、と私は考えています(関連記事)。縄文時代には8200年前頃となる完新世で最大の寒冷化が起き、これは短期間(150~160年間)だったものの、地球規模と確認されています。本書では縄文時代の遺跡として有名な三内丸山は本書で大きく取り上げられており、その放棄が4200年前頃の2.0度ほどの気温低下をもたらした寒冷化と対応していることも指摘されています。この寒冷化の原因は、夏季アジアモンスーンの変調によりジェット気流の中心軸が南下し、南の温暖で湿潤な大気が日本列島北部まで北上できなかったことにある、と本書は推測します。平均気温2.0度の差は、緯度方向では約230km、標高では300mほどの違いに相当し、三内丸山での食料確保が難しくなったのではないか、と本書は推測します。ただ、遺跡の数に基づく近年の研究では、当時の人々が周辺地域に分散しただけで、人口が急減したわけではない、と指摘されているそうです。
本書は、現代日本人の主要な祖先集団が縄文時代にはユーラシア大陸部に存在したことから、現在の中国を中心にユーラシア大陸部の気候変動も取り上げています。これと関連して、イネの遺伝子解析から日本の水稲が朝鮮半島より中国の系統に近いことや、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と日本列島も含めてアジア東部の現代人で優勢なYHg-Oの人々にデニソワ人の遺伝的痕跡がほとんど見られないことから、YHg-Oの祖先集団はデニソワ人とは別の場所に存在した、と本書では述べられていますが、かなり問題があると思います。日本のイネがどこからもたらされたのかは、紀元前の日本列島と朝鮮半島のイネの遺伝的多様性が現在よりもずっと高かったことから、時空間的に広範囲の古代のイネのDNAを解析する必要がありますし(関連記事)、アジア東部現代人には現代パプア人よりずっと少ないとはいえ明確にデニソワ人との混合が認められ、それはパプア人の祖先と混合したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団に由来する、と推測されているからです(関連記事)。
縄文時代晩期以降に日本列島にもたらされた稲作文化の究極的な起源地である長江下流域では、4200年前頃に良渚文化が崩壊しますが、これは急激な大寒冷化に起因していたようです。数百年間程度の空白を経て同じ地域に出現した馬橋文化については、稲作農耕技術が良渚文化より劣り、狩猟と漁撈の比重が高まったことから、良渚文化の担い手とは異なる集団が他地域から移住してきて築いた、と本書は推測しますが、これに関しては今後古代ゲノム研究の裏づけが必要になると思いますし、そもそも寒冷化に良渚文化の担い手が対応したことも想定できるでしょう。上述の三内丸山遺跡の放棄とともに、4200年前頃の世界的な気候変動と主要な文化の衰退・崩壊が現在注目されているそうです。この世界的な気候変動とともに、現在の中国では4000年前頃には全土の53%が森林だったのに対して、3000年前頃には森林の被覆度は25%程度に減少し、その後もますます低下していったそうです。なお、本書では夏から殷(商)への「王朝交代」は禅譲と伝えられてきた、とありますが、恐らくこれは夏以前の伝承と混同しており、文献では夏が殷により武力で倒されたとあります。
日本列島への稲作到来の契機として本書が指摘するのは、紀元前1050~紀元前400年頃にかけての寒冷継続期で、温度は約0.7度低下したそうです。ただ、本書が指摘するように、日本列島における水稲栽培やそれと関連した文化の伝播は、時空間的差異が大きいようです。本書では、プラント・オパール分析を根拠に、イネ自体は縄文時代中期から存在した、とされていますが、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が現在では有力だと思います(関連記事)。本書は稲作の到来とともに、長江から北方に逃れた人々が日本列島に到来した可能性を指摘しますが、その根拠はYHgで、確かに長江流域集団が北進して日本列島に到来した可能性はあるものの、そうだとしても、古代ゲノム研究の進展を踏まえると、その遺伝的影響は小さいようです(関連記事)。
古墳時代について本書では、かつての寒冷期説とは異なり、比較的温暖だった、と指摘されています。この古墳時代が終焉する6世紀末~7世紀前半にかけては、小規模な寒冷期だったようです。唐王朝の衰退は乾燥化の進展と関連づけられていますが、これも世界規模での温暖・乾燥化の一環だった、と本書では指摘されています。本書は同時代の文献が残る時代の日本列島も対象としていますが、平城京において前代の飛鳥時代とは異なり鉛や銅による重金属汚染が起きていた、と著者たちの土壌分析により明らかになったそうで、長岡京や平安京への遷都は都市汚染も一因だったのではないか、と本書は推測します。奈良盆地の地形勾配は緩やかで排水が悪く、汚物の処理に人々は苦慮していた、というわけです。日本列島では820~1150年にかけて寒冷化していき、ヨーロッパにおける950~1250年頃の温暖化とは対照的だったようです。ユーラシア大陸部では、13世紀前半の温暖化がモンゴル帝国の勢力拡大をもたらしたようです。日本列島では、14~16世紀に寒冷化の中で農業技術や集落形態の変容などにより農業生産が増加した、と指摘されています。
参考文献:
川幡穂高(2022)『気候変動と「日本人」20万年史』(岩波書店)
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html
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2023/12/08 (Fri) 20:15:27
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雑記帳
2023年12月08日
『フロンティア』「日本人とは何者なのか」
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_8.html
表題のNHK衛星放送の番組を視聴しました。NHKのニュースサイトにて概要は紹介されていましたが、古代DNA解析による日本人起源論とのことで、どのような情報が得られるのか、注目していました。近隣の現代人集団と比較して現代日本人集団に特異的な特徴として、「縄文人(縄文文化関連個体群)」の要素がある、と強調されていました。確かに、近隣の現代人集団と比較しての、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」の現代人集団の遺伝的独自性の多くはそこにあるでしょうから、この番組が「縄文人」の起源を中心とした構成になっていたのは、納得のいくところもあります。
「縄文人」の起源についておもに解説していたのは太田博樹氏で、「縄文人」が遺伝的にはアジア南東部の古代狩猟採集民だったホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体と類似している、と太田氏は指摘します。太田氏は、ホアビン文化の担い手はアフリカからユーラシア南岸を東進してアジア南東部へと到達し、その集団(もしくは遺伝的にひじょうに類似した集団)がアジア南東部沿岸を北上して、「縄文人」の祖先になったのだろう、と推測します。このホアビン文化関連集団と沿岸部の集団との混合の痕跡が見られないことから、「縄文人」の祖先がアフリカからアジア東部へ初めて到達した集団で、「フロンティア精神が旺盛だった」だった可能性を指摘します。
当然、これは現生人類(Homo sapiens)に限定した見解で、アジア東部にはアフリカ起源の非現生人類ホモ属がそれ以前から存在していたわけです。ただ、「縄文人」の遺伝的起源がどうであれ、アジア東部に最初に拡散した現生人類集団は、アジア東部現代人の直接的祖先ではなさそうな、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体に代表される集団(仮に田園洞集団と呼びます)だった可能性が高そうで、田園洞個体と類似した遺伝的構成の3万年以上前の遺骸がモンゴルとアムール川流域で確認されていること(Mao et al., 2021)からも、「縄文人」の祖先がアジア東部に拡散した最初の現生人類集団とはとても確定できないように思います。
覚張隆史氏は、現代「本土」日本人集団の形成過程に、「縄文人」と弥生時代にアジア東部大陸部から到来した集団(アジア北東部集団)的な遺伝的構成要素だけでは説明できず、古墳時代(もしくは弥生時代後期)以降にアジア東部大陸部から到来した集団(アジア東部集団)的な遺伝的構成要素の遺伝的影響が大きかった、と指摘します(Cooke et al., 2021)。覚張氏も関わったこの研究(Cooke et al., 2021)は、太田氏も関わった、ホアビン文化関連個体のゲノムデータを報告した研究(McColl et al., 2018)で推測された、「縄文人」をホアビン文化関連個体的集団と台湾のオーストロネシア語族話者先住民であるアミ人(Ami)的な集団との混合とする見解を否定しています。
一方で、Cooke et al., 2021は弥生時代の人類集団を、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が高めな長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることが問題で、太田氏も関わった研究(Robbeets et al., 2021)では、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代「本土」日本人と同程度かやや低めの個体が、下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在した、と示されています。こうした見解の対立は、一般向けの番組としては複雑すぎるということか、この番組ではとくに言及されず、「縄文人」はアジア東部に最初に拡散した(現生人類)集団の子孫で、1万年以上の孤立を経た、と説明されていました。これと関連して、山田康弘氏も考古学的観点から縄文文化が日本列島以外との交流の低調な、比較的孤立した文化だったことを指摘していました。最近の考古学者による一般向けの縄文時代関連書籍でも、縄文文化の孤立性が指摘されていました(水ノ江., 2022)。
篠田謙一氏は、現代日本人と比較して大きな多様性があり、それが中世まで続いた可能性を指摘します。篠田氏の近年の見解から補足すると、日本列島「本土」集団は現代と比較して弥生時代の方が遺伝的にずっと多様で、それは中世まで続いたかもしれない、ということなのでしょう。篠田氏は、日本列島「本土」現代人集団の形成の解明は世界中の人々の起源と移動の解明につながり、日本列島「本土」現代人集団の形成がこれまで考えられていたよりもずっと複雑だった可能性を指摘し、示唆に富んだ発言だったように思います。
番組の冒頭ではタイ南部の狩猟採集民マニ人(Maniq)が取り上げられていましたが、それは、マニ人とホアビン文化集団との文化的および遺伝的近縁性から、「縄文人」の「親戚」とも言えるから、という理由でした。マニ人は、ホアビン文化関連個体的な遺伝的構成要素(約62%)と、残りの、オーストロネシア語族話者集団の主要な祖先集団ときわめて近縁と考えられる、福建省の前期新石器時代の個体的な遺伝的構成要素の混合と推測されています(Göllner et al., 2022)。その意味で、マニ人はホアビン文化集団と遺伝的に近いわけですが、それを言えば、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人(Onge)の方がホアビン文化集団と遺伝的に近いことになりそうです(Göllner et al., 2022)。
上述の太田氏なども関わった研究(McColl et al., 2018)やその後のアジア東部現代人の形成に関する古代ゲノム研究(Wang et al., 2021)を踏まえると、「縄文人」はホアビン文化関連個体的な遺伝的構成要素と福建省の前期新石器時代の個体的な遺伝的構成要素の混合と推測されており、その点でマニ人と類似しているとも言えます。この番組はその点も踏まえてマニ人を冒頭で取り上げたのかもしれませんが、マニ人とホアビン文化集団との関連のみが取り上げられていたので、どうもよく分かりませんでした。全体的に、第一線の複数の研究者に取材し、興味深い構成ではありましたが、研究者間の見解の相違はとくに言及されず、古代ゲノム研究では新情報もとくになかったのは、やや残念でした。
「縄文人」の起源や縄文時代以降の日本列島の人口史については当ブログで最近まとめており(関連記事)、それ以上のことは現在の私の見識では言えませんが、「縄文人」の起源については、恐らく太田氏の見解の方が実際の人口史に近いように思います。以前の研究で、縄文文化関連個体とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されましたが(Yang et al., 2020)、これも踏まえると、「縄文人」の起源については、2021年の研究(Wang et al., 2021)よりもさらに複雑なモデルを提示した、2022年の研究(Huang et al., 2022)が現時点では最も妥当なように思われます。以下は、Huang et al., 2022の図4です。
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Huang et al., 2022では、「縄文人」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が大きくことなる祖先系統間の混合により形成された、と以下のように推測されています。ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています。もちろん実際の人口史はこのモデル通りではなく、もっと複雑なのでしょうし、初期ユーラシア東部祖先系統をもたらした集団が、南方から日本列島へと北進したとも限らず、その解明には古代ゲノム研究の進展および考古学など他分野との学際的研究が必要でしょう。
参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事
Göllner T. et al.(2022): Unveiling the Genetic History of the Maniq, a Primary Hunter-Gatherer Society. Genome Biology and Evolution, 14, 4, evac021.
https://doi.org/10.1093/gbe/evac021
関連記事
Huang X. et al.(2022): Genomic Insights Into the Demographic History of the Southern Chinese. Frontiers in Ecology and Evolution, 10:853391.
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.853391
関連記事
Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事
McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.
https://doi.org/10.1126/science.aat3628
関連記事
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事
Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
関連記事
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_8.html
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2023/12/10 (Sun) 16:43:03
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雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究(Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。
●要約
日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。
●研究史
古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。
日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。
古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。
沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。
●分析結果
沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
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長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。
長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。
南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
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検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
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●考察
琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。
外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。
考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。
日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。
参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
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Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
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GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
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Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
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Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
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Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
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Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
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Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
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https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
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2023/12/11 (Mon) 13:57:07
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【最新人類史】縄文人と渡来人の混血比率/東アジア人の分岐と混血の歴史/黄河集団と長江集団の起源/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/縄文人と繋がるホアビン人とオンゲ族とは/Y染色体ハプログループDの謎
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y&t=2s
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/12/04
東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、 ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。
参考書籍
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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2023/12/17 (Sun) 13:45:09
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2023/12/18 (Mon) 16:55:04
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雑記帳
2023年12月17日
弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_17.html
考古学と古代ゲノムの研究も踏まえて弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開に関する概説(藤尾.,2023)が公表されました。本論文は、私がほとんど把握できていない朝鮮半島の考古学的研究や、当ブログでまだ取り上げていない日本列島の古代DNA研究が取り上げられており、私にとってたいへん有益で、補足しつつ詳しく見ていきます。本論文は、弥生時代の人類集団の遺伝的起源および構成とその時空間的差異の現時点での研究の進展を把握するのに最適で、この問題に関心の日本語を読める人々にはお勧めの概説です。
●要約
本論文は、朝鮮半島では新石器時代島嶼よりアジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有さない人類集団が南岸に存在していた、との知見(Robbeets et al., 2021)に基づいて、朝鮮半島との関連で、日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。朝鮮半島新石器時代集団は遺伝的に、アジア東部沿岸古代人集団的な遺伝的構成要素を有する集団(朝鮮半島系)と、有していない集団(西遼河系)など、前期から多様と考えられます。本論文は、多様な遺伝的構成の朝鮮半島青銅器時代集団と、そうした集団が水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人類集団について、以下の4通りを想定します。それは、
(1)渡来系弥生時代集団I:西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、具体的には福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021a)など弥生中期~後期の遺跡です。
(2)渡来系弥生時代集団II:朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、具体的には弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。
(3)在来系弥生時代集団:渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、具体的には長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)など、弥生時代後期以降の遺跡で、いわゆる「西北九州弥生人」です。
(4)在来(縄文)系弥生時代集団:縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、具体的には佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。
●研究史
朝鮮半島新石器時代の獐項遺跡個体の核ゲノムでは、後期旧石器時代(上部旧石器時代)にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上した古代アジア東部沿岸集団と、アジア東部大陸部北方の新石器時代集団の混合と2019年に示されました(篠田他.,2019)。古代アジア東部沿岸集団とは、後期旧石器時代にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上してきた現生人類(Homo sapiens)で、アジア東方の沿岸部や島嶼部に存在し、朝鮮半島の新石器時代集団や「縄文人」の共通の祖先と本論文では把握されています【この問題については「私見」の項目で後述します】。
この遺伝的構成は弥生時代前期後半以降に見られる「渡来系弥生人」と呼ばれている集団と類似しているため、アジア東部北方系と古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有する青銅器文化集団が「渡来系弥生人」の候補の一つとして想定され、在来(縄文)系弥生時代集団と混合しなくとも「渡来系弥生人」集団は成立する、と予想されました。遺伝的混合がなければ、弥生時代初期に移住してきた青銅器文化集団は自ら水田稲作を行ない、その子孫も、「在来(縄文)系弥生人」と混合しなくとも、日本列島への渡来から400年ほどで伊勢湾沿岸地域まで到達したことや、遠賀川系甕単純の甕組成の一因を説明できるのではないか、というわけです。
その直後の2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)では、古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有さない、西遼河流域の紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化集団と同じ遺伝的構成要素でモデル化できる個体が、韓国全羅南道の新石器時代(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)の安島(Ando)遺跡で確認され、韓国慶尚南道の欲知島(Yokchido)遺跡で発見された後期新石器時代個体は、獐項遺跡個体よりも古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の割合が高い、と示されています。Robbeets et al., 2021では、古代アジア東部沿岸集団を千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表させ、朝鮮半島南岸新石器時代の一部の個体を「縄文人」との遺伝的混合と解釈していますが、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないので(水ノ江.,2022)、本論文においては「縄文人」ではなく古代アジア東部沿岸集団と表現されます【この問題については「私見」の項目で後述します】。
Robbeets et al., 2021の調査結果は、縄文時代前期同時代の朝鮮半島南部には、著者【藤尾慎一郎氏】が想定していた古代アジア東部沿岸集団と中国北部系新石器時代集団との混合割合の異なる集団だけではなく、中国北部新石器時代直系集団【安島遺跡個体に代表されます】まで存在していたことを意味するので、朝鮮半島新石器時代集団の核ゲノムでの遺伝的多様性はきわめて多様だった、と示唆されます。朝鮮半島青銅器時代人類のゲノムデータは、網羅率の低いTaejungni遺跡の1個体(紀元前761~紀元前541年頃)しかないので詳しい分析は困難です(Robbeets et al., 2021)。
三国時代になると、伽耶の政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある大規模な埋葬複合施設で発見された紀元後4~5世紀頃の8個体(Gelabert et al., 2022)や、金海柳下里貝塚で発見された人類遺骸や、5世紀の高霊池山洞44号墳の人類遺骸や、5~7世紀の永川完山洞古墳群で見つかった人類遺骸にも、中国北部系と古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的混合の痕跡が確認されており【韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ばの6個体のゲノムについては、縄文系の遺伝的構成要素が示されていません(Lee et al., 2022)】、青銅器時代の朝鮮半島にもそうした遺伝的構成の人類集団が存在していた可能性は高そうです。そのため、上述のような「渡来系弥生人」の成立に関する単純な想定はもはや困難です。
そこで本論文は、獐項遺跡以外の朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡から出土した人類遺骸の遺伝的構成と文化について説明したうえで、その子孫である青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合のなかから、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」がどのようにして成立するのか、再度検討します。
●朝鮮半島新石器時代集団の遺伝的構成と文化
ここでは、朝鮮半島の安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡が対象です。図1には、本論文で取り上げられる朝鮮半島の新石器時代と日本列島の縄文時代~古墳時代の遺跡の分布が示されています。朝鮮半島の3ヶ所の新石器時代遺跡(安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡)は、いずれも朝鮮半島本土ではなく、その沖合の島嶼部に位置します。ここで取り上げられる日本列島の遺跡の大半は縄文時代および弥生時代となりますが、種子島の2ヶ所の遺跡(上浅川遺跡と広田遺跡)は古墳時代となります。図1の遺跡を示す灰色は、核ゲノム解析は行なわれていないものの、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では古代アジア東部沿岸集団系(縄文系)と示された遺跡を表しています。以下は本論文の図1です。
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図1では、核ゲノムが解析されている個体については、「縄文人」と「在来(縄文)系弥生人」の縄文系、西遼河新石器時代集団的な遺伝的構成の中国北部系、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の混合である渡来系、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」の混合である西北九州系に分類されています。朝鮮半島新石器時代では、安島個体が中国北部系、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系です。上浅川遺跡と広田遺跡の個体は、古墳時代となりますが、縄文系に分類されます。
環朝鮮海峡地域とよばれる地域は1980年代より、朝鮮半島沿岸から九州北部および西北部も含めた地域に共通する漁撈具の存在が知られています。それは、大型の魚類を釣る西北九州型結合式釣針やオサンリ型釣針、突き刺して獲る石銛などです。新石器時代集団や「縄文人」は魚を求めて季節的にこの地域を移動していたと推測されるので、航海中に立ち寄った港で中国の玦状耳飾りや佐賀県伊万里市にある腰岳の黒曜石を入手し、各地の産物と交換していたと考えられます。これは高倉洋彰氏の指摘する漁撈民型交流です。こうした漁撈活動を担っていた朝鮮半島側の個体の核ゲノムが、一部ながら解析されています。
安島貝塚は韓国麗水市の沖合の安島にある前期新石器時代の墓地遺跡で、合計5 体の人骨が調査されました。1 号墓は20 代女性と30 代男性の2 体の合葬墓、2 号墓と3 号と4 号墓は1 個体ずつ葬られ、いずれも基本的に仰臥伸展葬です。人骨に抜歯は認められませんでしたが、潜水漁を行なう人によく見られる外耳道骨腫が確認されています。一方で、シベリアのようなアジア大陸の北方域の人びとによく見られる下顎隆起、「渡来系弥生人」の特徴であるエナメル質感形成(2・3 号)や上顎切歯シャベル型(2・3 号)が見られます。1号人骨の20代女性のゲノムは、紀元前4700~紀元前2900年ごろの河北省北部から内モンゴル自治区東南部および遼寧省西部にみられた紅山文化集団的な遺伝的構成要素で完全にモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。紅山文化集団のゲノムは、仰韶(Yangshao)文化集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体的な遺伝的構成要素との混合でモデル化されており(Robbeets et al., 2021)、本論文では中国北部系と分類されます。以下本論文では、篠田謙一に従って、中国北部系は西遼河系と呼ばれます。
上述のように、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系に分類され、安島個体とあわせると、縄文時代前期に該当する年代には、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有さず、西遼河系の遺伝的構成要素を有する集団が朝鮮半島南岸にまだ到達していた、と示されます。日本列島では、西遼河系の遺伝的構成要素で完全にモデル化できる(混合していない)個体は見つかっていません。安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡の個体の核ゲノムから、朝鮮半島では前期新石器時代から人類集団は遺伝的に多様だった、と予想されます。
20~60 代の男女(親族関係は不明)が葬られた安島貝塚から出土した遺物には中国系の玦状耳飾、縄文系の轟式土器や石匙や結合式釣針、佐賀県腰岳産の大量の黒曜石片などがあり、黒曜石の出土数は朝鮮半島において一遺跡としては多い方で、剝片数は220 点です。また、タマキガイ科の貝で作られた貝釧を装着した人類遺骸が見つかるなど、九州西北部の縄文文化との共通性が見られます。安島貝塚の状況は、西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体が存在する一方で、縄文系の道具を有している人がいる点で、文化的にも多様です。安島貝塚の集石付近で見つかった骨片や貝殻を対象に放射性炭素(¹⁴C)年代測定が行なわれていますが、土壙墓出土人骨自体の¹⁴C年代測定は行われておらず、2008 年以前の測定なので較正曲線はIntCal04で、較正年代は7430~6620年前頃でした。安島貝塚出土人骨では、日本列島と朝鮮半島において現時点では唯一のゲノムを西遼河系で完全にモデル化できる個体が見つかっており、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)データに基づく主成分分析(principal component analysis、略してPCA、図4)に投影すると華北の現代中国人集団に入り(篠田謙一氏の指摘)、韓国の現代人よりも中国の現代人―にきわめて近くなります。以下は本論文の図4です。
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韓国統営市沖合の欲知島には前期新石器時代墓地遺跡があり、2ヶ所の土壙墓から3個体の人骨が見つかっています。1 号墓には壮年の背が高い男性が葬られており、大腿骨の筋付着部がよく発達していて頑丈なことから男性と判断され、上顎右第1小臼歯も見つかっています。2 号墓は、壮年~熟年の男性と20歳前後の女性との合葬墓です。男性については側頭骨と尺骨が2体分検出されており、左側に顕著な外耳道骨腫が見られ、潜水を生業としていたことが明らかです。女性については側頭骨と四肢骨が見つかっており、華奢な感じとされています2個体の核ゲノム解析の結果、2個体とも西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、西遼河系の割合は2個体間で異なっていました。欲知島遺跡では、西唐津海底式の特徴を持つ縄文土器、シカの骨や角で作られた骨角器、佐賀県腰岳産の黒曜石で作られた打製石鏃、イノシシ形土製品など九州西北部の縄文系遺物などが発見されており、九州西北部の縄文文化と密接に交流していたことが窺えます。
洛東江三角州の西南海上の釜山特別市加徳島獐項遺跡は、前期新石器時代の墓地です。土壙墓などから人骨48体が出土し、発見された隆起線文土器や押引文土器から縄文時代前期と同年代の前期新石器時代に比定されています。山田康弘氏によると、加徳島獐項遺跡の人類遺骸は形態的に「縄文人」と異なるようで、墓壙が弥生時代の甕棺墓に見られるような列状に並んでいるなど、縄文文化には見られない特徴があります。2号および8号人骨の¹⁴C年代は6300年前頃です。加徳島獐項遺跡2号および8号のmtDNAは日本列島において弥生時代以降に見られるハプロタイプで、核ゲノム解析から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合で、現代日本人と類似しているものの、典型的な現代韓国人とは異なる、と示されました。また、2号と8号のゲノムにおける混合割合は異なっており、遺伝的多様性が窺えます。
加徳島獐項遺跡個体から、朝鮮半島南部では弥生時代開始の3000年以上前から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合が見られる、と分かります。これについて篠田謙一氏は、まず旧石器時代からアジア東部太平洋沿岸の島嶼部や沿岸部には「縄文人」や朝鮮半島の新石器時代集団などを含む代アジア東部沿岸集団に遺伝的に分類できる個体群が存在しており、その後、大陸から隔離されていた「縄文人」は、大陸内部の新石器時代集団と遺伝的に混合しなかったものの、陸続きである朝鮮半島の新石器時代集団と大陸内部の新石器時代集団との間では早くから遺伝的混合が進み、遅くとも6300年前頃には現代日本人と同程度まで混血が進んでいた個体も存在した、と指摘していますこの問題については「私見」の項目で後述します】。
南岸に限定されますが、これら朝鮮半島新石器時代個体群の遺伝的構成は、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素で示され、前者のみの個体(西遼河系)と、前者と後者のさまざまな割合での混合の個体(朝鮮半島新石器時代系)とが確認されています。朝鮮半島では完全な古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体はまだ確認されていませんが、日本列島と同様に存在しても不思議でありません。一方で、西遼河系の個体は日本列島では縄文時代のみならず弥生時代でも見つかっておらず、存在していたのか否かも不明です。この西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成を日本列島にもたらした集団と関連で注目されるのが、朝鮮半島の青銅器時代遺跡です。
●朝鮮半島青銅器時代後期の慶尚北道達城平村里遺跡
洛東江の上流域に位置する慶尚北道達城平村里の青銅器時代中期~後期の集落・墓地遺跡では、考古学的に弥生文化の祖型と言えるような痕跡が見つかっています。集落域は北側のI地区にあり、青銅器時代中期の孔列文土器の段階で、壁際に小さな柱を隙間なく並べて支えられた壁と複数の炉があり、間口が狭く細長い長方形の住居を特徴とします。南側のII地区にある墓地(石棺群と土器棺群)の時期は青銅器時代後期で、かつて先松菊里類型といわれていた段階です。合計28 基の石棺と3基の土器棺などが検出され、28個体の人骨が出土しました。本論文では、代表的な3号石棺と20号石棺が取り上げられます。
3号石棺は長側壁を短側壁で挟み込む形(報告書では石軸形)になっており、長さは167cm、幅は49cmで、ほぼ全身の骨が屈葬で埋葬されていました。上腕骨の長さから身長は173cmと推定されています。歯は全体的にエナメル質の摩滅が多いことから30~34歳と推定されています。磨製石剣1本と磨製石鏃9本が、左腹付近に散在するような状況で見つかっています。20号石棺は3号と同じ石軸形の石棺で、長さは150cm、幅は52cmです。ほぼ全身の骨が出土しており、推定身長は3号石棺出土人骨と同じく173 cmです。磨製石剣1本が右腰付近、磨製石鏃12本が左足下に、切先を下に向けて副葬されていました。腸骨の¹⁴C年代(4590±60年前)は、考古学的な年代よりもかなり古く出ています。
土器棺では、壺棺1基と日常の甕を転用した甕棺2基が出土しています。安在晧氏は、壺棺が焼成前に丹を塗った丹塗磨研土器で有明海沿岸の弥生早期に見られる長胴壺と類似していることと、甕棺は松菊里式の甕を利用したもので甕の外面に縦方向の刷毛目調整が施されている点に注目しています。安在晧氏は、もともと松菊里型甕を棺として再利用する手法は朝鮮半島の中西部地方が起源で、これまで朝鮮半島東南部の嶺南地域ではあまり知られていなかったものの、近年少しずつ見つかりつつあることから、松菊里文化の拡散と関係があると考えています。棺の埋置方法には、直立と斜めと横置きがあり、これに石の蓋を組み合わせると、壺棺は石蓋直置、甕棺は石蓋斜置と横置の3種類が認められます。排水や防湿目的で、底部に穴を空けた状態の土器棺が6~8m間隔で分布しています。
石棺墓の副葬品は磨製石剣と磨製石鏃と玉の組み合わせです。紀元前9世紀(夜臼IIa式)の福岡市雑餉隈遺跡の木棺墓に見られるものと、玉や副葬小壺を除けば共通しています。雑餉隈遺跡では人骨が残っていなかったので正確な副葬箇所は不明ですが、磨製石剣と磨製石鏃が切っ先を脚下に向けて束ねるようにまとめて納められている点に違いが認められる程度です。また磨製石剣の石材も共通しており、玉はヒスイで、半円形と穀玉があります。奥歯の外側にあたる頬の部分から出土しているので、耳飾りのような垂飾品の一部と考えられています。
紀元前7世紀の青銅器時代後期に比定されている平村里遺跡のある洛東江の上流域は、以前より九州北部で出土する丹塗磨研壺の故地という見解がある地域だけに、紀元前7世紀(板付IIa式併行)と同年代だったとしても、「渡来系弥生人」の故郷との関連が予想されます。しかし、壺棺や甕棺に使われている土器を見ると、比率を除くと、弥生時代早期の夜臼単純段階と同年代の土器との共通性が認められます。とくに甕は外反せずに直行する口縁部を有しており、口唇部に直接刻目を施すなど、玄界灘沿岸地域で夜臼I式に伴う板付祖型甕と共通します。さらに、刷毛目調整を縦方向に施すという点まで共通しています。基本的に刷毛目調整を施さない朝鮮半島青銅器時代後期の甕とは明らかに異なっています。
●「渡来系弥生人成立」の推測
著者【藤尾慎一郎氏】の以前の見解は表6にまとめられています。それによると、「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団が弥生時代早期以降に出現すると想定するのがA説で、縄文時代にいたと想定するのがB説です。現在までに「縄文人」の核ゲノムは150個体分ほど解析されていますが、「渡来系弥生人」に類似する遺伝的構成の個体は見つかっていないので、基本的にはA説が妥当です。ただ、福岡県芦屋町山鹿遺跡で見つかっている長頭の個体群のような、「渡来系弥生人」と類似する形質の個体群の存在を縄文時代に想定する見解は以前からあり、岡山県倉敷市中津貝塚から見つかった縄文後期末~晩期初頭の人骨には、「渡来系弥生人」の特徴の一つであるシャベル状切歯が見られたので、現段階では「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の個体が縄文時代に存在した可能性を完全に否定することはできない、と予想されます。さらに、朝鮮半島南部には縄文時代前期と同年代から「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の個体(獐項遺跡)が見つかっているので、そうした遺伝的構成の個体が九州西北部で見つかる可能性を否定できませんが、大量に見つかることも考えにくいでしょう。以下は本論文の表6です。
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このように、B説を完全には否定できないものの、大枠ではA説が妥当と考えられます。A説は、水田稲作開始期に海を渡って九州北部に到来した人々、つまり「渡来人」が、到来後すぐに「縄文人」の直系である「在来(縄文)系弥生人」と混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-1説(移住・混血説)と、渡来直後には混血せず、しばらく経ってから混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-2説(混血説)に分かれます。A-1説は金関丈夫氏以来の移住・混血説ですが、A-2説は、福岡県三国丘陵を舞台とした田中良之氏や片岡宏二氏、朝日遺跡(篠田他.,2021)を舞台に石黒立人氏らが想定していた、移住当初は混血しないという見解です(この場合は遠賀川系土器を使用する集団の移住)です。
A-1説は、「渡来人」の遺伝的構成によりaとbに分かれ、「渡来人」が古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有していない場合(a)と有している場合(b)で、aは松下孝宰氏がかつて想定したような山東半島の新石器時代集団などがあり、bは未確認で分析は行なわれていませんが、朝鮮半島系新石器時代集団の系統の朝鮮半島青銅器時代集団を想定できます。著者の以前の見解はRobbeets et al., 2021の公表前にまとめられており、西遼河系(中国北部系)の存在自体が前提になかったので、山東半島新石器時代人集団などを念頭に推測されていました。しかし、仮に山東半島から渡来してきた集団がいたとしても、「在来(縄文)系弥生人」と関わった可能性を支持する考古学的な証拠は弥生開始期の土器にみられる叩き技法ぐらいで、石器などに見られる特徴から推測して可能性が高いのは、朝鮮半島青銅器時代集団が日本列島に渡来してきて、「在来(縄文)系弥生人」と関わった想定です。朝鮮半島において青銅器時代に中国系であることを示す人骨は具体的に知られていませんでしたが、たとえばそうした集団が渡来後に「在来(縄文)系弥生人」とあまり遺伝的に混合せずに東方へ移動したならば、朝日遺跡13号人骨のように、「在来(縄文)系弥生人」とほとんど混合していないことを示す遺伝的構成要素の「渡来系弥生人」が成立するだろう、と予想されました。
次に、「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の朝鮮半島系新石器時代集団の系統が渡来してきたならば、遺伝的に混合せずとも安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人」が出現し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合したならば、「西北九州弥生人」のような遺伝的構成の集団が成立します。現時点では、いずれも日本列島への到来後しばらく経過してから遺伝的に混合するA-2説に相当します。このように朝鮮半島新石器時代系集団が日本列島に到来した「渡来人」の場合は、あまり遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人」と類似した遺伝的混合となり、遺伝的に混合すると西北九州弥生人が生まれるので、やや複雑な事例です。
また朝鮮半島新石器時代系「渡来人」の場合は、「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こった時期も重要です。まだ形質だけを指標に想定していた20世紀には、福岡県三国丘陵では前期後半、朝日遺跡では前期後半の新段階と、いずれも、その地で水田稲作が始まった時ではなく、しばらく経過してから遺伝的混合が始まる、と考えられてきました。それは、これ以前の時期の「渡来系弥生人」の骨が見つかっていなかったからです。「在来(縄文)系弥生人」と朝鮮半島新石器時代系「渡来人」との遺伝的混合の有無や、遺伝的に混合した場合の時期については、弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析を継続していけば、いずれ明らかになるでしょう。松下孝宰氏が「渡来人」の故郷として想定した山東半島にしても、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団にしても、想定に用いたのは新石器時代個体の遺伝的構成だけに、青銅器時代に水田稲作を持ち込んだ青銅器時代後期集団の遺伝的構成の特定は困難ですが、上述のように三国時代にも新石器時代に確認されている遺伝的構成の系統を受けついだ個体が認められている以上、青銅器時代集団にも存在していた可能性は充分にあるでしょう。
こうした想定に基づいて、新たな知見(Robbeets et al., 2021)を踏まえて表6を改めたのが表7と図9です。まず、縄文時代の日本列島について「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団の有無で区別するのは旧説と同じで、存在しなかったのがA説、存在したのがB説です。ただ、B説はまだ証明できていないので、さらに検討されるのはA説だけです。A説は、「渡来人」のゲノムの遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な構成要素が含まれないのか(a)、含まれるのか(b)によってaとbに分かれ、さらにそれぞれが「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合していないのか(1)のか、したのか(2)により分かれるので、合計4通りを想定できます。旧説では獐項個体のような朝鮮半島新石器時代集団的な遺伝的構成要素を有する「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」が遺伝的に混合すれば、「西北九州弥生人」の成立を想定でき、混合しなければ青谷上寺地遺跡にも見られるような「渡来系弥生人」の存在を想定できてしまったので、そうした不具合が解消されました(図9)。以下は本論文の表7です。
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A-a-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団が渡来し、「在来(縄文)系弥生人」(図1の青色)と遺伝的に混合しなかった事例、つまり西遼河系の遺伝的構成要素のみの「渡来人」は現時点で見つかっていませんし、そうした遺伝的構成の個体は朝鮮半島南部の青銅器時代でも明らかになっていません。安在晧氏が達城平村里遺跡の墓地の分析を踏まえて想定したように、九州北部に水田稲作を伝えたのが、山東半島付近の叩き技法を用いる土器製作者だとしたら、そうした集団の遺伝的構成はA-a-1説で想定されているものだったかもしれません。以下は本論文の図9です。
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A-a-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団人が日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人I」(図1の紫色)が成立します。現時点では、朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体は確認されていませんが、紀元前1世紀の安徳台遺跡や紀元後2世紀の青谷上寺地遺跡などで多数の「渡来系弥生人I」が確認されています。遺伝的構成からはその上限がまだ紀元前1世紀となりますが、形質からみると「渡来系弥生人」は紀元前7世紀の福岡市雀居遺跡で見つかった前期中頃(板付IIa式)の人骨が最古級なので、この段階まではさかのぼるかもしれません。対象となる雀居遺跡出土人骨などの核ゲノム解析が期待されます。
A-b-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合があまりなければ、在来(縄文)系の遺伝的構成要素の割合がひじょうに少ない、「渡来系弥生人II」が誕生します。現時点では朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体はまだ確認されていませんが、紀元前6世紀の朝日遺跡13号人骨に代表されます。こうした遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部から直接的に伊勢湾沿岸地域に到来した可能性は低いので、まず九州北部に到来した後でしばらくして東方へ移動してきたとすれば、その上限年代は、九州北部では水田稲作開始年代の紀元前10世紀後半までさかのぼるかもしれません。
A-b-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、形質的には「縄文色」の強い、いわゆる「西北九州弥生人」が誕生します。現時点では、紀元前後の長崎県下本山遺跡の人骨が最古級です、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M7aの人類遺骸は、紀元前3世紀の熊本市笹尾甕棺や福岡県行橋市長井遺跡で見つかっているので、紀元前3世紀までさかのぼるかもしれません。
著者はこれまで、A-a-2説で「渡来系弥生人I」の成立を考えてきましたが、現時点では「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した相手である西遼河系の「渡来人」は、青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の西日本でも見つかっていません。それに対して新たに確認されたのがA-b-1説で、まだ朝鮮半島南部の青銅器時代に朝鮮半島新石器時代人系の青銅器時代個体は見つかっていませんが、上述のように三国時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果(Gelabert et al., 2022)からは、青銅器時代の朝鮮半島に存在した可能性は高そうです。ただ、朝鮮半島新石器時代系集団と朝日遺跡13号人骨ではPCA(図4)のY軸上にズレが見られることや、神澤秀明氏の指摘からは、まだ解決したとは言えない状況です。獐項個体の遺伝的構成要素がそのまま日本列島にもたらされているとしたら、現代日本人のゲノム上にある縄文由来のDNA断片は組換えによりもっと断片化されているはずであるものの、そうはなっていないので、獐項個体に代表される朝鮮半島新石器時代系集団の現代日本人における影響はそこまで大きなものではなかったと考えられる、と神澤秀明氏は指摘しています。
核ゲノムから判断すると、「渡来系弥生人IおよびII」の形成過程は以上のように推測されますが、これではとくに弥生時代開始期に見られる考古学的な事象を充分に説明できないことも確かです。それは、土器や石器などの水田稲作関連の道具に当初から見られる九州北部独自の在地的変容です。朝鮮半島青銅器文化の文物と完全に同じではない土器や石器の存在をどう説明するのか、という問題です。たとえば、九州北部玄界灘沿岸地域の弥生時代早期の甕形土器の組成では、青銅器時代後期系のいわゆる板付祖型甕は10%程度しかなく、残りの90%は砲弾型と屈曲型の突帯文土器です。また下條信行氏が指摘するように、大陸系磨製石器や石庖丁に見られる在地的変容の問題もあります。弥生時代開始期個体の核ゲノムは、佐賀県大友遺跡から出土した「在来(縄文)系弥生人」しか分かっておらず(神澤他.,2021b)、渡来系弥生人にいたっては、II型が板付IIb式に併行するI期中段階の朝日遺跡に存在していたことしか分かっていません。
渡来人の集団居住地と言えるような遺跡が弥生時代開始期の玄界灘沿岸地域で見つかっていないため、「在来(縄文)系弥生人」との共住もしくは日常的な接触交流、さらにはやや極端な言い方ではあるものの、青銅器文化集団による「在来(縄文)系弥生人」への強制力などを想定しない限り、在地的変容をみせる文物が存在する理由の説明は困難です。したがって、考古学的には稲作開始の当初から交流があったことを前提に、遺伝的な混合があったのか否かを知るためには、まず形質的に最古級の「渡来系弥生人」と報告されている福岡市雀居遺跡第7次調査の2号土壙墓から出土した成年女性の抜歯のある人骨の核ゲノム解析の必要があります。この成年女性が渡来系弥生人IなのかIIなのか、それとも「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した「西北九州弥生人」なのかによって、少なくとも弥生時代前期中頃の人類の遺伝的構成を知ることができます。
●「西北九州弥生人」の成立過程
旧説では、これまで「西北九州弥生人」とよばれてきた個体群に、遺伝的には「縄文人」と分類できる個体(弥生時代早期の大友遺跡)から、「在来(縄文)系弥生人」と「渡来系弥生人」が遺伝的に混合した個体(2000年前頃の下本山岩陰遺跡)まであり、下本山岩陰遺跡の2個体については「在来(縄文)系」と「渡来系」の遺伝的構成要素の割合が異なっていて、その分布は熊本県や鹿児島県や西日本など、西北九州に限定されない可能性があることや、その出現時期は現時点状では紀元前後が最古級であるものの、弥生時代中期前葉の紀元前3世紀まではさかのぼる可能性があること、さらに、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団が日本列島に到来し、弥生時代早期に「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した場合でも成立するかもしれない、と指摘されました。これら九州西北部に限定されない、朝鮮半島新石器時代系集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合個体の広範な分布からは、「西北九州」というような地域を限定する呼び方の妥当性、出現時期、混合度合いなどについて今後、核ゲノムデータが増えていけば自ずと整理されるでしょう。本論文は、いわゆる「西北九州弥生人」という用語ではなく、「在来系」の遺伝的構成要素が主で、「渡来系」の遺伝的構成要素が従であるという意味で、「在来系弥生人」と仮称し、これがどのような過程で成立したのか、推定しました。
渡来系弥生人Iは、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない朝鮮半島の西遼河系青銅器時代集団が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば成立し、「渡来系弥生人II」は、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有している朝鮮半島系青銅器時代集団が、さほど「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合しなくても成立します。「在来(縄文)系弥生人」と西遼河系青銅器時代集団との遺伝的混合によって「渡来系弥生人I」が成立することについて異論はありません。著者は、の時期が弥生時代早期前半のうちだろう、と考えてきました。朝鮮半島の青銅器時代集団が血縁集団単位で日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」がおもな生活の舞台としていなかった平野の下流域に入植し、水田を拓いて、水田稲作を行なうことになりましたが、木製農具や石斧類や石庖丁を作るにしても、素材として適した石材や木材のありかに関する情報を持つ「在来(縄文)系弥生人」との協調関係のもと情報交換が必要であることや、水田造成および環壕掘削に必要な労働力不足を補うためにも、また近親婚防止の点からも、「在来(縄文)系弥生人」が必要とされたことや、その対象となるのは好奇心旺盛な「在来(縄文)系弥生人」の若い世代であることなどが、未開拓領域理論(採集狩猟民の地理空間に農耕民が入ってくると、すでに両者の接触を想定するモデルで、採集狩猟民の一部が両者を結びつけ、結果的に地域全体に農耕が拡大する、と想定されます)で説明されてきました。
ただ、当時は遺伝学との統合がほとんど進められていなかったので、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の遺伝的混合で「渡来系弥生人」が誕生することや、「西北九州弥生人」は「渡来人」と遺伝的に混合していない「縄文人」直系集団と理解されていました。しかし、核ゲノム解析結果を踏まえると、そのような単純なものではありませんでした。まず、「渡来人」自身、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない「西遼河系渡来人」と、有している「朝鮮半島系渡来人」の二者が存在し、前者が「在来(縄文)系弥生人」と混血すると「渡来系弥生人I」が成立するものの、後者が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すると「西北九州弥生人」と言われてきたような「在来系弥生人」が成立することや、さほど遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人II」が成立することも分かりました。
現時点では、朝鮮半島系の「渡来系弥生人II」が紀元前6世紀には存在しているのに対して、西遼河系との遺伝的混合である「渡来系弥生人I」は最古級でも紀元前後までしか確認できていません。どちらが先に成立していたのかは分かりませんが、前期新石器時代の朝鮮半島南部に西遼河系も朝鮮半島系も存在していたことを考えると、水田稲作を伝えた青銅器時代集団のなかには、当初から複数遺伝的構成要素の血縁集団が存在し、「在来(縄文)系弥生人」と混血した個体群もいれば、あまり遺伝的に混合しなかった個体群も存在した、ということでしょう。もちろん、1血縁集団のなかにさえ、複数の遺伝的構成要素を有する個体が存在した可能性も否定できません。「渡来系弥生人」の核ゲノム解析はまだ少なく、研究の端緒に入ったばかりなので、今後の調査と分析が期待されます。
●まとめ
本論文は、旧説に基づき、2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)を踏まえて、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」とよばれてきた集団の成立過程について再度検討してきました。その結果、以下の6点が想定されます。
(1)新石器時代の朝鮮半島南部には、縄文時代早期~前期と同年代の7000年前頃から、さまざまな遺伝的構成要素の集団が存在していました。古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有していない、中国北部由来の西遼河系(安島貝塚個体)、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団が遺伝的に混合した朝鮮半島系(獐項遺跡個体や欲知島遺跡個体)、未確認ではあるものの、古代アジア東部沿岸集団の直系集団です。こうした集団と盛んに交流していた九州西北部の「縄文人」の核ゲノムには、後世に遺伝的影響を及ぼすほど新石器時代集団と遺伝的に混合した個体が存在したことを示す考古学的な証拠は得られていません。したがって、縄文時代の頃において、朝鮮半島南部と日本列島の集団の遺伝的構成は基本的に異なっていたと考えられ、両者の間には後世に遺伝的な影響を残すような混合なかったことが前提に考えられました。
(2)考古学的には青銅器時代後期になって朝鮮半島南部の青銅器時代集団が渡海して日本列島へと到来し、水田稲作を生産基盤とする遼寧式青銅器文化を九州北部にもたらした、と考えられています。また朝鮮半島については、青銅器時代後期時代個体の核ゲノム解析は行なわれていませんが、三国時代の個体群の遺伝的構成要素から考えて、新石器時代前期に存在した多様な遺伝的構成要素が青銅器時代に引き継がれていると考えられるため、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」など各種「弥生人」の成立事例が4通り想定されました。
(3)「渡来系弥生人」には、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合して成立する安徳台遺跡個体や青谷上寺地遺跡個体のような「渡来系弥生人I」と、遺伝的混合がさほど見られない朝日遺跡のような「渡来系弥生人II」が見られました。「渡来系弥生人I」は西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体群が移住して「在来(縄文)系弥生人」と混合した結果形成され、金関丈夫氏以来想定されていました。ただ、西遼河系は青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の日本列島でもまだ確認されていません。「渡来系弥生人II」は朝鮮半島系集団が移住はするものの、「在来(縄文)系弥生人」とはさほど遺伝的に混合せず、これまで想定されていませんでした。
(4)いわゆる「西北九州弥生人」には、佐賀県唐津市大友遺跡8号支石墓出土人骨のように「在来(縄文)系弥生人」遺伝的構成要素を100%継承している個体から、「渡来系弥生人」の遺伝的構成要素を一定量含む個体までが存在し、後者の時期は現時点で、紀元前後の下本山遺跡個体が最古級です。ただ、西日本の「縄文人」が有するmtHg-M7aを有する弥生時代個体は、弥生時代中期前半の福岡県行橋市長井遺跡や熊本市笹尾遺跡で見つかっているので、いわゆる「西北九州弥生人」は紀元前3世紀までさかのぼる可能性があります。おそらく「渡来系弥生人」が水田稲作とともに拡散することによって、西北九州に限らず各地で「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こる、と考えられます。したがって、特定の地域名である「西北九州」を冠するのは適当ではなく、「在来系弥生人」との呼称が相応しいと考えられます。
(5)形態学的には、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合は、水田稲作開始期ではなく、しばらく経ってから始まると考えられてきましたが、その根拠は、すべての土器型式の存続期間が均等であることを前提とした弥生短期編年下における人口増加率模擬実験だったり、在来(縄文)系弥生文化の土器と遠賀川系土器との折衷土器の成立時期であったり、縄文系第二の道具である土偶や石棒などの出現時期(春日井市松河内遺跡など)だったりしました。しかし、すべての土器型式の存続期間が均等でないことを前提とする弥生長期編年下ならば、水田稲作開始と同時に遺伝的混合が始まっていたとしても、一型式100年ほどの長い存続期間を考えれば、当初人口は増えません。また田中良之氏が三国丘陵で指摘しているように、弥生時代前期後半の板付IIb式頃から遺伝的混合が増え始めることを考えると、遺伝的混合の開始時期はとくに限定されない、と推測されます。後世に遺伝的影響を及ぼすようになる混合の開始が板付IIb式以降であることを考えると、形態学的観点から言われてきた遺伝的混合の開始時期と、基本的に同じ結果となりました。
(6)上述の(5)から考えると、水田稲作開始当初から西遼河系青銅器時代集団の「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が始まっていれば、「渡来系弥生人I」の数が急激に増えなくて、土器と石器に在地的変容が起こることは矛盾なく説明できます。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成とその形成過程について、考古学的研究も踏まえつつ、現時点での遺伝学的証拠に基づいて推測しています。本論文の注目点の一つは、「古代アジア東部沿岸集団」の想定です。本論文が指摘するように、Robbeets et al., 2021は朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムについて、0~95%の「縄文人」的な遺伝的構成要素とそれ以外の紅山文化集団的な遺伝的構成要素との混合でモデル化しています。他の研究でも、アジア東部北方沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代個体群が、モンゴル新石器時代集団的な遺伝的構成要素(87%)と「縄文人」的な遺伝的構成要素(13%)の混合でモデル化されています(Wang et al., 2021)。
これらの研究からは、「縄文人」がアジア東部北方沿岸に渡海し、遺伝的痕跡を残したようにも見えます。しかし本論文は、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないと指摘し、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体の遺伝的構成要素として、「縄文人」ではなく「古代アジア東部沿岸集団」を想定しています。ただ、縄文文化が朝鮮半島南岸に定着したとはとても言えないとしても、縄文土器の分布から、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸に渡った可能性は高そうで(水ノ江.,2022)、その意味では、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムの一部が「縄文人」的な遺伝的構成要素と想定しても大過はないようにも思います。ただ、本論文で引用されている神澤秀明氏の見解から推測すると、6300年前頃の獐項遺跡個体により表される集団が、現代日本人の遺伝的構成に大きく寄与した可能性はきわめて低そうです。
ここで重要なのは、これらの個体の遺伝的構成要素のモデル化は既知の古代人もしくは現代人個体(あるいは集団)を用いており、直接的な祖先集団を証明しているわけではない、ということです。そこで問題となるのは、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムが、「縄文人」的な遺伝的構成要素なしでもモデル化できることです。この場合、モンゴル新石器時代集団に代表されるアジア東部北方的な遺伝的構成要素(71%)とアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(29%)の混合とモデル化されており、「縄文人」はアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(46%)とアンダマン諸島のオンゲ人集団と相対的に近い初期ユーラシア東部集団的な遺伝的構成要素(54%)の混合でモデル化されています(Huang et al., 2022)。Huang et al., 2022では、ユーラシア東部系集団が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部南方沿岸部)に分岐した、と推測されています。つまり、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムは、「縄文人」的な遺伝的構成要素を含んでいるのではなく、「縄文人」と比較的近い過去に祖先集団を共有していたらか、とも解釈できるわけです。
同様のことは、現代日本人の平均よりもやや多い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化された朝鮮半島南岸の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡の前期新石器時代個体(Robbeets et al., 2021)にも言えます。以前の研究で「縄文人」とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されたこと(Yang et al., 2020)も踏まえると、Huang et al., 2022のモデルは現時点で最も実際のユーラシア東部の人口史に近いかもしれません。その意味で、本論文が朝鮮半島南岸の新石器時代個体のゲノムの一部を、「縄文人」的ではなく「古代アジア東部沿岸集団」的な遺伝的構成要素として把握したのは、Robbeets et al., 2021よりも適切かもしれません。ただ、朝鮮半島南岸の欲知島遺跡の後期新石器時代個体とボイスマン遺跡の中期新石器時代の外れ値の1個体は、それぞれ95%(Robbeets et al., 2021)と30%(Wang et al., 2023)程度の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できるので、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代個体については、日本列島からの「縄文人」の直接的到来と遺伝的影響(95%よりはずっと少ない割合としても)を想定すべきかもしれません。
本論文で提示される日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成は多様で、弥生時代の人類集団の遺伝的多様性(関連記事)が改めて示されています。さらに言えば、弥生時代には青谷上寺遺跡のように1ヶ所の遺跡で遺伝的多様性を示す事例も確認されています(神澤他.,2021a)。また、種子島では日本列島の多くの地域が古墳時代を迎えても、「縄文人」的な遺伝的構成要素のみでモデル化できる個体が存在していたようで、日本列島における現在のような遺伝的構成が古墳時代でもまだ確立していなかったことを示唆しています。弥生時代以降の日本列島における遺伝的構成要素として、「縄文人」的なものとともに西遼河系的なものを想定する本論文の見解との関連で注目されるのは、古墳時代に弥生時代とは異なる遺伝的構成要素が日本列島にもたらされ、それが現代日本人集団では大きな影響を有している、と推測した研究(Cooke et al., 2021)です。Cooke et al., 2021では、現代日本人集団の主要な遺伝的構成要素は「縄文」と「アジア北東部」と「アジア東部」で、縄文時代には「縄文」のみが存在し、弥生時代に「アジア北東部」が、古墳時代に「アジア東部」がもたらされた、と推測されています。
一方で、これら主要な3種類の遺伝的構成要素について、「縄文」と「アジア北東部」および「アジア東部」との違いと比較して、「アジア北東部」と「アジア東部」の違いはずっと小さくなっています。本論文で弥生時代の人類集団の祖先としてモデル化されている西遼河地域の人類集団について、経時的な遺伝的構成の変化が指摘されていることも踏まえると(Ning et al., 2020)、弥生時代、さらには古墳時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成過程はかなり複雑だったとも考えられ、解明は容易ではなさそうです。アジア北東部の完新世人類集団の遺伝的構成は、地理を反映して一方の極(北方)にアムール川流域、もう一方の極(南方)に黄河流域があり、西遼河地域はその中間的特徴と経時的変容を示します(Ning et al., 2020)。これはその後の研究(Robbeets et al., 2021)でも改めて示されていますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合は、紅山文化から夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化では高くなり、その後の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では低下しています。
西遼河もしくはその周辺地域で夏家店上層文化以降も同様の遺伝的変容が起きたならば、弥生時代以降の日本列島、さらには後期新石器時代以降の朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容は、単調なものではなく複雑なものだった可能性が高そうです。Cooke et al., 2021では、弥生時代集団は現代日本人集団の平均よりずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素と残りのアジア北東部的な遺伝的構成要素で、古墳時代集団はアジア東部的な遺伝的構成要素の大きな割合の流入によりモデル化されており、古墳時代に現代日本人集団の遺伝的構成が形成された、と推測しています。一方で、Cooke et al., 2021が弥生時代集団の代表としたのは、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代日本人集団の平均よりずっと高い下本山岩陰遺跡の2個体で、本論文でも取り上げられている、下本山岩陰遺跡の2個体よりずっと低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる安徳台遺跡個体は検証されていません。
また、古墳時代については、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在することは、日本列島では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆しています。
これらを踏まえると、西遼河もしくはその周辺地域において経時的な人類集団の遺伝的構成の変容があり、それが朝鮮半島、さらには日本列島にも波及し、Cooke et al., 2021が想定したように、日本列島において弥生時代以降に到来した人類集団の遺伝的構成は、時期により大きな違いがあった可能性も考えられます。朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容について確証はありませんが、網羅率が低く信頼性に欠けるとはいえ、青銅器時代のTaejungni個体のPCAでの位置づけ(Robbeets et al., 2021)から推測すると、朝鮮半島において紀元前千年紀に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きた可能性も考えられ、それは、朝鮮半島において朝鮮語系統の言語が紀元前5世紀頃に到来した、と推測する言語学も踏まえた考古学的知見(Miyamoto., 2022)とも整合的かもしれません。また、本論文でも他の研究(Gelabert et al., 2022)でも、三国時代の人類集団にも存在した古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素(他の研究では「縄文人」的な遺伝的構成要素)は、朝鮮半島南岸において新石器時代からずっと継続していた、と推測されていますが、こうした遺伝的構成要素が一旦朝鮮半島で失われ、弥生時代もしくは古墳時代以降に日本列島からもたらされた可能性もあるとは思います。
本論文が依拠した研究(Robbeets et al., 2021)については、弥生時代以降に日本列島にもたらされた遺伝的構成要素について、夏家店上層文化集団でモデル化としているものの、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体的な遺伝的構成要素と夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素を選択的に割り当てられた集団は、その代わりに紅山文化的な遺伝的構成要素でも説明できる、と批判されています(Tian et al., 2022)。
こうした批判も踏まえると、弥生時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成はかなり複雑だった可能性が高そうです。弥生時代の比較的早い段階で日本列島に到来した人類集団は、西遼河もしくはその周辺地域起源で、朝鮮半島から日本列島に到来したのでしょうが、その後に朝鮮半島では西遼河もしくはその周辺地域起源の異なる遺伝的構成の集団が到来し、在来集団と遺伝的に混合しつつ拡散し、一部が日本列島に到来したのではないか、と現時点では考えています。つまり、弥生時代早期に朝鮮半島から日本列島に到来した人類集団と、古墳時代、もしくは弥生時代のある時点以降に日本列島に到来した人類集団とでは遺伝的構成が異なっており、それが現代日本人集団の遺伝的構成に反映されているのではないか、というわけです。この仮説の検証には、今よりも多くの一定以上の品質の日本列島と朝鮮半島と西遼河地域も含めて中国の広範な地域の古代ゲノムデータが必要となるでしょう。
参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
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2023/12/26 (Tue) 14:53:59
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雑記帳
2023年12月26日
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響に関する研究(Jeong et al., 2023)が公表されました。本論文は、新たな縄文時代の人類(縄文人)のゲノムデータを報告しているわけではありませんが、既知の「縄文人」や「縄文人」的な遺伝的構成の古代人のデータを再検証し、「縄文人」集団の遺伝的構造を明らかにするとともに、非縄文文化圏の「縄文人」的な遺伝的構成の個体の起源を推測しています。ただ、こうした縄文文化圏外の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が、実際に「縄文人」の子孫であるとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。本論文の見解は、今後「縄文人」や日本列島およびユーラシア東部大陸部の時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータの蓄積により、さらに洗練されていくのではないか、と期待されます。また本論文からは、ゲノムや片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と文化(および自己認識や帰属意識)とを安易に結びつけてはいけないことも改めて窺えるように思います。
●要約
「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。
●研究史
「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。
「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。
「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。
最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。
興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。
本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。
●資料と手法
日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。
検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。
hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。
●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ
本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。
使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。
「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。
ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。
●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です
「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。
外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
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この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
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f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。
2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。
最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。
●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性
遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
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同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。
要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。
●考察
日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。
四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。
次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。
「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。
両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。
参考文献 :
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html
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17:777
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2023/12/27 (Wed) 22:15:40
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雑記帳
2023年12月27日
現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html
現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ(YHg)の最新版と頻度分布を報告した研究(Inoue, and Sato., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。YHgへの関心は現代日本社会でも比較的高いようで、YHgを特定の文化もしくは民族の分類と関連づけて、人類進化史や現生人類(Homo sapiens)の移動を論じる傾向が強いようですが、これはきわめて危険だと思います。たとえば、YHg-D1a2aを日本列島や「縄文人」と排他的に関連づける傾向はかなり強く、あたかも「確定した事実」として大前提とする見解は珍しくないように思いますが、そうとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。とくに、現代人のYHgの分布と頻度に基づいて現生人類集団の移動経路やその年代を推定することは、古代DNA研究の裏づけなしに安易に行なうべきではないと思います。現時点では率直に言って、本論文の推測や想定を大前提とすべきではないと考えています。以下、敬称は省略します。
●要約
日本人男性は、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1とO2a2b1とO2a1bに属しています。注目すべきことに、各YHgの地域頻度は均一です。ゲノム配列決定技術の最近の発展により、YHgの系統樹は毎年更新されています。したがって本論文では、現代日本人男性のYHgの更新と、その地域分布の調査が目的とされました。日本の7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)の日本人男性1640個体の標本を用いて、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1が最新の系統樹に基づいて更新されました。
YHg-C1a1はおもにC1a1a1aとC1a1a1bの下位群に分類され、C1a1a1bは他の地域よりも徳島と大阪でより一般的でした。YHg-C2はおもにC2aとC2b1a1aとC2b1a1bとC2b1a2とC2b1bの下位群に分類され、その頻度は徳島と大阪では異なりました。YHg-D1a2a-12f2bはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a3の下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。YHg-O1b2はO1b2a1a2a1aとO1b2a1a2a1bとO1b2a1a3の下位群に分類され、長崎と金沢で頻度差がありました。YHg-O1b2a1a1はおもにO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cの下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。本論文の調査結果から、近畿地方の遺伝子流動はヒトの移住に起因する、と示唆されます。
●研究史
ヒトのY染色体は、約5000万塩基対と106個のタンパク質コード遺伝子から構成されます。Y染色体には、X染色体と相同な疑似常染色体領域(pseudo-autosomal region、略してPAR)と男性特有の領域(male-specific region on the human Y chromosome、略してMSY)があり、ヘテロクロマチンとユークロマチンから構成されています。Y染色体は父親から息子へと同じように受け継がれ、それは、Y染色体のPARのみがX染色体のPARと組換えられるからです。したがって、現代人のY染色体は男性の集団遺伝学の研究にとって優れた情報源であり、それは、祖先のDNAが元々の形態で子孫に伝えられるからです。
Y染色体は複数の変異の組み合わせに基づいて、ハプログループと呼ばれるさまざまな一群に分類されます。2001年の研究はまずヒトY染色体の配列を報告し、その後の多くのDNA多型の識別につながりました。47zとSRY 465における多型が日本で報告されてきました。2002年の研究ではY染色体の世界規模の分類が要約され、男性の世界的な系統樹が孝徳され、ヒトの世界規模の進化の研究が促進されました。埴原和郎は、日本の人類学における作業仮説である「二重構造モデル」を提案しました。広く受け入れられているこのモデルでは、現代日本人集団の形成は在来の「縄文人」系統と移住してきた「弥生人」系統の混合の結果である、と示唆されています。
在来の「縄文人」はアジア南東部に起源があり、樺太や千島列島から日本列島へ、および長江もしくは台湾周辺から北方へ渡海して朝鮮半島へと移動し、居住の範囲を沖縄から北海道へと広げました(40000~3000年前頃)。稲作と農耕技術を取り入れたアジア北東部から到来した「弥生人」は朝鮮半島を経由して九州北部から日本列島へと移動し、九州と四国と本州に拡大しました(紀元後3世紀の3000年前頃【紀元後3世紀ではなく、紀元前3世紀もしくは紀元前千年紀の間違いかもしれません】)。これらの調査結果は、遺伝的に独特な日本人集団における地理的勾配を示唆します。
2014年の研究は、7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)から収集された2390点の標本におけるYHgを分析し、日本人男性における地理的勾配の可能性が識別されました。その研究で明らかになったのは、日本人男性は8系統のYHg(C1、C3、D2*、D2a1、O2b*、O2b1、O3a3c、O3a4)に分類できるかもしれない、ということです。しかし、YHg頻度における有意な地域差は報告されてきませんでした。
最近の技術的進歩は、日本人集団の全ゲノム配列決定を促進しました。遺伝子系譜学国際協会(International Society of Genetic Genealogy、略してISOGG)は毎年、遺伝子系譜の研究の系統樹を更新し、YHgはそれに応じて変更されます。たとえば、C1はC1a1、C3はC2、D2*はD1a2a、O2b*はO1b2、O2b1はO1b2a1a1、O3a3cはO2a2b1、O3a4はO2a1bです。本論文では、日本人男性におけるYHg(以前にCとDとO1b2に分類されたYHg)のより詳細な決定と、現代日本人男性集団における系統樹の構造の解明が目指されました。
●資料と手法
2014年の研究で報告されたYHg調査のための長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌に居住する日本人男性から収集された2390点の標本のうち、1640個体に相当する残余のDNA標本が本論文では用いられました。表1には、各都市の分析に使用されたYHgの数がまとめられています。この研究は、徳島大学倫理委員会の承認を得ました。全参加者は研究への参加前にインフォームド・コンセントが提供されました。
YHgはISOGGにより公開されている系統樹に基づいて決定されました。YHg-D2a1の遺伝標識はISOGGにより以前に削除されました。したがって本論文では、YHg-D2a1はD1a2a-12f2bと定義されました。YHgの分岐遺伝標識はポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction、略してPCR)制限断片長多型、TaqMan PCR、サンガー配列決定を用いて決定されました。この研究で用いられた全てのプライマーセットとアニーリング温度と酵素制限と遺伝子型決定手法は、補足表S1~S3に掲載されています。
都市間のYHg多様性を比較するため、Arlequinの3.5.2.2版が用いられ、集団間の遺伝的分化の指標として、2集団の遺伝的分化の程度を表す固定指数(Fixation index、略してFₛₜ)が計算されました。集団間の差がないという帰無仮説下で、順列数は 100 に設定され、有意水準は0.05に設定されました。各YHg頻度は対でのFₛₜ値の帰無分布を導く統計的計算のため、入力ファイルとして用いられました。YHgの分岐の推定年代は、YFullのデータベースのY染色体系統樹の11.04版用いて得られました。
●YHg-C
YHg-C1a1(以前のC1)に属する110個体の下位系統が、ISOGGにより公開されている系統樹に基づいて分析されました。C1a1は下位系統3群に分類され、それはC1a1a(1.8%)とC1a1a1a(73.6%)とC1a1a1b(24.5%)です(図1A)。これら3向けの地域辺鄙の評価から、C1a1a1aとC1a1a1bは徳島と大阪の間で異なっている、と明らかになりました。C1a1a1aの頻度は、徳島(56.5%)および大阪(54.5%)と比較すると、長崎(90.0%)と福岡(100%)と金沢(90.0%)と川崎(78.9%)と札幌(66.7%)でより高くなっていました。
対照的に、C1a1a1bの頻度は、徳島(43.5%)および大阪(45.5%)と比較して、長崎(0%)と福岡(0%)と金沢(10.0%)と川崎(21.1%)と札幌(28.6%)でより低くなっていました(図1B)。7都市の人口間の多様性を比較するため、YHg-C1a1系統の頻度に基づいてFₛₜ値の対での比較が実行されました。その結、は徳島と長崎(Fₛₜ=0.229)、徳島と金沢(Fₛₜ=0.207)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.261)、大阪と金沢(Fₛₜ=0.249)の間で有意な差(P<0.05)が示されました(表2)。以下は本論文の図1です。
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次に、YHg-C2に属する130個体でハプログループ分析が実行されました。YHg-C2は以下の6系統の下位群に区分され、それは、C2a(14.6%)、C2b1(0.8%)、C2b1a1a(36.9%)、C2b1a1b(4.6%)、C2b1a2(24.6%)、C2b1b(18.5%)です(図1A)。地域比較から、YHg-C2の下位系統であるC2aとC2b1a1aとC2b1a2とC2b1bは大阪で頻度の差異を示す、と分かりました。YHg-C2aの頻度は長崎(6.7%)と福岡(0%)と徳島(11.8%)と金沢(15.6%)と川崎(9.5%)と札幌(20.0%)で大阪(42.9%)より低い、と示されました。
さらに、YHg-C2b1a2の頻度は、長崎(13.3%)と福岡(25.0%)と徳島(11.8%)と川崎(19.0%)と札幌(23.3%)で大阪(42.9%)と金沢(37.5%)より低い、と示されました。対照的に、YHg-C2b1a1aは長崎(53.3%)と福岡(50.0%)と徳島(35.3%)と金沢(34.4%)と川崎(47.6%)と札幌(30.0%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。YHg-C2b1bは長崎(26.7%)と福岡(25.0%)と徳島(29.4%)と金沢(9.4%)と川崎(23.8%)と札幌(16.7%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。Fₛₜ値大阪と長崎(Fₛₜ=0.249)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.200)、大阪と徳島(Fₛₜ=0.139)、大阪と川崎(Fₛₜ=0.192)の間で有意に異なっていました(表2)。
●YHg-D
YHg-D1a2aは以下の13系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1(0.3%)、D1a2a1c(2.2%)、D1a2a1c1(4.1%)、D1a2a1c1a(8.9%)、D1a2a1c1a1(4.7%)、D1a2a1c1a1a(3.5%)、D1a2a1c1a1b(1.9%)、D1a2a1c1a1b1(19.0%)、D1a2a1c1b(1.3%)、D1a2a1c1b1(8.5%)、D1a2a1c1c(6.6%)、D1a2a1c2(5.7%)、D1a2a2(32.3%)です(図2A)。男性3人がYHg-D1a2aに含められました(0.9%)。地域比較から、これら13系統の下位群では、D1a2a2の頻度が、徳島(45.5%)および大阪(55.6%)と比較して、長崎(14.7%)と福岡(23.5%)と金沢(33.3%)と川崎(29.3%)と札幌(32.1%)で低かった、と示されました(図2B)。Fₛₜ値は、徳島と長崎(Fₛₜ=0.037)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.081)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.073)の間で有意に異なっていました(表2)。以下は本論文の図2です。
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次に、YHg-D1a2a1-12f2b(旧称はD2a1)に分類される380個体のハプログループが分析されました。YHg-D1a2a1-12f2b以下の11系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1a2b(12.9%)、D1a2a1a2b1(0.5%)、D1a2a1a2b1a(1.6%)、D1a2a1a2b1a1(6.8%)、D1a2a1a2b1a1a(21.1%)、D1a2a1a2b1a1a1(15.8%)、D1a2a1a2b1a1a1a(13.7%)、D1a2a1a2b1a1a3(7.6%)、D1a2a1a2b1a1a9(4.2%)D1a2a1a2b1a1b(2.4%)、D1a2a1a3(13.4%)です(図3A)。これら11系統の下位群から、YHg-D1a2a1a2b1a1a1の頻度が福岡で高かったのに対して、YHg-D1a2a1a2b1a1a1aの頻度が大阪で高かった、と明らかになりました(図3B)。しかし、そのFₛₜ値は有意には異なっていませんでした(表2)。以下は本論文の図3です。
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●YHg-O1b2
YHg-O1b2(旧称はO2b*)に属する214個体のハプログループが分析されました。YHg-O1b2は以下の9系統の下位群に区分され、それは、O1b2a(4.7%)、O1b2a1a(4.7%)、O1b2a1a2a(0.5%)、O1b2a1a2a1(24.3%)、O1b2a1a2a1a(28.0%)、O1b2a1a2a1b(0.5%)、O1b2a1a2a1b1(14.0%)、O1b2a1a3(16.4%)O1b2a1b(0.5%)です(図4A)。男性14人がYHg-O1b2に含められました(6.5%)。地域比較から、これら10系統では、O1b2a1a2a1の頻度が金沢よりも長崎(31.3%)と福岡(37.5%)の方で高かった、と示されました。Fₛₜ値は長崎と金沢()の間で有意に異なっていました(Fₛₜ=0.042)。以下は本論文の図4です。
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次に、YHg-O1b2a1a1(旧称はO2b1)に属する490個体で詳細なハプログループ分析が実行されました。YHg-O1b2a1a1以下の3系統の下位群に区分され、それは、O1b2a1a1a(34.3%)、O1b2a1a1b(23.9%)、O1b2a1a1c(10.4%)です(図4A)。男性154人のみがYHg-O1b2a1a1に含まれ、これら4YHgの地域頻度で有意な違いは観察されませんでした(図4C)。そのFₛₜ値も有意な違いを示しませんでした(表2)。
●考察
YHg-DおよびCに分類される人々は、それぞれ日本列島に20000年前頃と12000年前頃に到来した、と示唆されており、これは二重構造モデルと一致します。YHg-C系統はおもにC1とC2下位群に分類されてきましたが、本論文では、さらに分岐している、と示されました。
YHg-Cはアジア東部とシベリアに広がっており、オセアニアとヨーロッパとアメリカ大陸において低頻度で観察されてきました。現代人の祖先がアフリカを去り、西方と北方と南方の3経路でユーラシア大陸を横断した、と考えられています。特定の下位ハプログループが、かく地域で特定されました。YHg-C1a1は日本列島に限定されており、日本列島に到来する前に分岐した、と考えられています。YHg-C2はC2aとC2b に分岐し、C2aはアジア中央部とアジア北東部と北アメリカ大陸なおいて一般的で、C2bは中国とモンゴルと朝鮮半島において一般的であり、YHg-C2bの一部は日本列島に到達しました。日本列島に固有のYHg-C1a1系統の姉妹群であるYHg-C1a2は、ヨーロッパにおいて低頻度で見られます。対照的に、初期の分岐系統であるYHg-C1bはインド南岸とオーストラリアとインドネシアで見られます。
日本列島におけるYHg-C1系統の主要な下位群は、おもに徳島と大阪で見られるC1a1a1aと、おもに長崎と福岡と金沢と札幌で見られるC1a1a1bです。Fₛₜ値は徳島と長崎および金沢、大阪と長崎および金沢の間で有意な違いを示しました。YHg-C1a1は日本列島な固有で、C1a1a1aとC1a1a1bに分岐しなかったC1a1a が札幌と長崎において低頻度で見られ、日本列島に均等に分布しているYHg-C1a1は、男性がおもに徳島と大阪から移住したさいに下位系統のYHgに分岐した、と示唆されます。日本列島における主要なYHg-C2系統の下位群には、C2aとC2b1a1とC2b1a2とC2b1bが含まれ、その全てが大阪においてYHg頻度の差異を示します。Fₛₜ値は大阪とその周辺地域(長崎と福岡と徳島と川崎)との間で顕著な違いを示しており、人口の分岐および移住が大阪を中心に起きた、と示唆されます。YHg頻度の差異は大阪でのみ観察されました。大阪は日本で最大級の都市の一つなので、この調査結果から、現代の遺伝子流動が大阪において高頻度で起きている、と示唆されます。
世界中のY染色体配列のデータベースであるYFullのY染色体系統樹(11.04版)に基づくと、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の分岐は、C1a1では45300年前頃(95%信頼区間では49400~41300年前)、C2では48800年前頃(95%信頼区間では51300~46400年前)に起きた、と推定されます。他の下位ハプログループの推定分岐年代は、C1a1a1aとC1a1bでは4500年前頃(95%信頼区間では5500~3600年前)、C2aでは34100年前頃(95%信頼区間では37000~31300年前)、C2b1a1とC2b1a2では10300年前頃(95%信頼区間では11200~9400年前)、C2b1bでは11000年前頃(95%信頼区間では12000~10000年前頃)です。「縄文人」系統は日本列島に遅くとも2万年前頃には広がり始め、下位YHgの分岐が日本列島内で起きたことを示唆しています。
YHg-Dは、日本列島に加えてチベット高原やアンダマン諸島やアフリカの特定地域で確認されてきており、YHg-D1a2aは日本列島で最もよく特徴づけられているハプログループです。YHg-D2がナイジェリアなどアフリカの一部地域のみで観察されたのに対して(関連記事)、YHg-D1はユーラシアへとY区大師、アジア中央部とチベット高原において一般的なD1a1と、日本列島で見られるD1a2に分岐しました。YHg-D1a2aの姉妹系統であるD1a2bは、アンダマン諸島において最も一般的なYHgです。
本論文では、YHg-D1a2aは、D1a2a1c1やD1a2a1c2やD1a2a2を含めていくつかの下位系統群に分類される、と確証されました。YHg-D1a2a2が徳島と大阪において他の地域よりも高頻度で観察されるのに対して、他のYHg-D1a2aは全地域で均等に分布していました。YHg-D1a2a系統は日本列島に固有なので、この下位系統の分岐は日本列島内で起きたかもしれず、日本全国で均一に分布していました。YHg-D1a2a2の不均一な分布は、徳島と大阪が人口移動と人口分岐の出発点であること、および/もしくはその後で日本列島に到来したYHg-O系統の台頭に起因する残りの地域の拡大のためかもしれません。
YHg-D1a2a-12f2b系統はいくつかの下位系統群と3クラスタを形成し、それはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a2b1a1bとD1a2a1a3です。これらのYHgにおいて有意な地域差は観察されませんでした。YHg-D1a2aとYHg-D1a2a-12f2bは同時に日本列島に入ってきたかもしれませんが、いくつかのYHgが日本列島に均等に分布しているのに対して、他のYHgは頻度の偏りを示しました。
Y染色体系統樹によると、D1a2a1とD1a2a2の推定分岐年代が21200年前頃(95%信頼区間では23100~15000年前)なのに対して、D1a2a1aとD1a2a1cの推定分岐年代は17600年前頃(95%信頼区間では20300~15000年前)です。YHg-D1a2aは45200年前頃(95%信頼区間では48500~42000年前)までに分岐し、日本列島でのみ観察されており、YHg-D1a2a系統が日本列島で広範囲に分岐した、と示唆されます。
YHg-Oはアジア東部において最大のハプログループで、 4000年前頃に日本列島に到来した、と示唆されました。その祖先系統のYHg-NOはアフリカから去った後に北方経路でユーラシアへと拡大し、YHg-OとYHg-Nに分岐しました。YHg-Oは広くO2とO1に分類され、O2は中国北部の黄河流域で繁栄し、O1は中国南部の長江流域で繁栄しました。YHg-O1b2はYHg-O1から派生し、日本列島と中国と満洲と朝鮮半島では一般的な系統なので、朝鮮半島経由で日本列島へと北方へ移動したかもしれません。ほとんどの現在の中国の漢人を構成するYHg-O2の一部は、O2a1bとO2a2b1に分岐した後で日本列島に到達したかもしれません。
YHg-O1b2系統は3クラスタを形成し、それはO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどの位系統です。YHg-O1b2a1a1系統も3クラスタを形成し、O1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどがあります。地域によるYHg頻度の顕著な違いは検出されず、日本列島におけるYHg-O1b2の主要な下位系統の分岐は現代日本人男性では均一で、恐らくは朝鮮半島およびその周辺地域経由でのYHg-O1b2a1a1系統の分岐に起因する、と示唆されます。
Y染色体系統樹による推定分岐年代は、O1b2では28000年前頃(30400~26000年前)、O1b2a1a1では5500年前頃(6500~4600年前)です。「弥生人」系統が遅くとも4000年前頃には日本列島に拡大し始めたことを考慮すると、特定されたO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cとO1b2a1a2a1aの推定分岐年代は3400年前頃(95%信頼区間では4500~2500年前)です。これらの調査結果から、YHg-O1b2は準直線的に分岐し、日本列島への流入後に均一に拡大した、と示唆されます。
まとめると、本論文の結果から、YHgのC1a1とC2とD1a2とD1a2-12f2bとO1b2とO1b2a1a1の各系統をそれぞれ3と6と14と11と10と4の下位YHgに更新することが可能となりました。さらに、各YHgについて頻度の集中したいくつかのクラスタ(まとまり)の存在が確証されました。日本列島に固有のYHg-C1a1とC2とD1a2はその頻度で顕著な違いを示しており、日本列島内の系統分岐と人口移動がおもに徳島と大阪の周辺で起きた、と示唆されます。YHg-CおよびD系統については、以前には報告されなかった、日本人男性集団の多様性において違いが検出されました。日本人男性は、二重構造のより大きな枠組み内にあるものの、人口変化や遺伝的浮動やさまざまな遺伝子の流入に気五する遺伝的構造の多様性を保持してきた、と考えられています。DNA解析では最近、日本人男性は朝鮮半島とアジア東部大陸部から古墳時代以降(3世紀以降)に移動し、オホーツク文化人も北方から北海道に移動した、と明らかになっており、3段階モデル理論につながっています。将来の研究は、YHg-O2の日本人の下位系統の特定とさまざまな地域におけるその頻度の調査により、日本人男性の多様性をさらに解明すべきでしょう。
参考文献:
Inoue M, and Sato Y.(2023): An update and frequency distribution of Y chromosome haplogroups in modern Japanese males. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01214-5
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html
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2023/12/30 (Sat) 17:49:27
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渡来人が四国に多かった謎の理由? 日本人ルーツ !!
2023/12/13
https://www.youtube.com/watch?v=3JhQuV8DfuQ
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2024/01/19 (Fri) 19:53:44
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"未来へのバイオ技術"勉強会「ゲノム歴史学」斎藤 成也 氏(国立遺伝学研究所) (2023年12月5日開催)「ヤポネシアゲノムの全容と今後~現代人のゲノム解析を中心に」
2023/12/20
https://www.youtube.com/watch?v=GSGABrc93_k
「ヤポネシアゲノムの全容と今後~現代人のゲノム解析を中心に」
斎藤 成也 氏(大学共同利用機関法人情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所
ゲノム・進化研究系 特任教授(ヤポネシアゲノムPJ領域代表))
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2024/02/26 (Mon) 17:00:53
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【最新研究】縄文人のルーツがついに判明?南方ルートの証拠が発見されました!
世界ミステリーch
2024/02/10
https://www.youtube.com/watch?v=wTIfd6P6wnI
縄文人はどこからきたのか? 謎が多い縄文人のルーツが最新の研究によって新しい発見が見えてきました。タイの山間部の奥に住むマニ族という民族が縄文人ととても近い人々ということが分かったのです。今回は縄文人のルーツ、そして今の日本人のルーツについて解説していきます!
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21:777
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2024/03/02 (Sat) 09:17:20
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雑記帳
2024年03月02日
藤尾慎一郎『弥生人はどこから来たのか 最新科学が解明する先史日本』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html
https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%EF%BC%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%8D-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E-ebook/dp/B0CW19Y4BM
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもに考古学の観点から弥生時代を検証し、近年飛躍的に発展しつつある古代ゲノム研究にもかなりの分量を割いていることが特徴です。まず、弥生時代の前提として、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末~弥生時代早期なので、縄文時代後期および晩期に穀物を対象とした農耕はなかった、と指摘されています。プラント・オパールや籾痕土器を根拠に縄文時代中期まで稲作がさかのぼる、との見解も以前に提示されましたが、プラント・オパール自体の年代測定の難しさや、後世のプラント・オパールの混入を否定できないことや、籾の圧痕による肉眼観察での種同定の難しさなどから、日本列島において縄文時代に穀物農耕は晩期最終末を除いてなかった、との見解が現在では有力になっています。一方で、縄文時代には1万年前頃からダイズやアズキなどの一種の栽培化が行なわれていたことも指摘されています。ただ、縄文時代には、そうしたマメ類は社会を質的に転換させるほど生産されてはいなかったようです。
本書でまず詳しく解説されているのは、著者も関わった弥生時代開始年代の繰り上がりに関する議論です。この研究成果が公表されたのは2003年5月でしたが、その数年前に刊行された寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)では、玄界灘地域への水稲農耕の伝播は紀元前400年頃で、その前の紀元前8世紀頃に畑稲作や支石墓が朝鮮半島から九州に伝わった、とされています。弥生時代の指標とされる水田稲作の開始は紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、との発表には高い関心が集まり、一般向けに大きく報道されました。この弥生時代の開始は紀元前10世紀頃までさかのぼるかもしれない、とする仮説に対しては、当初から厳しい批判が寄せられ、2010年代半ばの時点でも完全に否定する見解が提示されていました(岩永., 2013)。
この論争は2010年代後半に、酸素同位体比年輪年代法の登場と、宮本一夫氏による弥生時代早期の炭化米を試料とした放射性炭素(¹⁴C)年代測定に大きな影響を受けました。これにより、紀元前5~紀元前4世紀頃を弥生時代開始年代とする、弥生時代後期華夷施設(弥生短期編年)はほぼ否定され、弥生時代の紀元前10世紀~紀元前9世紀頃となる早期開始説(弥生長期編年)説が主流になっていきます。ただ、弥生時代の開始年代について、著者も含めて歴史民俗博物館(歴博)主体の紀元前10世紀後半説と、宮本氏などの紀元前9~紀元前8世紀説の違いは残っています。歴博説では、水田稲作の開始から環濠集落や戦いなど農耕社会成立を示す指標の出現まで3世代ほど要することになりますが、宮本氏などの説では、水田稲作の開始と農耕社会の成立は同時になります。本書は、水田稲作開始などの経済的変化と農耕社会の成立が同時に見られるのが、論争のある九州北部沿岸地域を除くと、現時点では近畿や東海から「渡来系弥生人」が移住したかもしれない中部高地と関東南部だけになる、と指摘します。また本書は、酸素同位体比年輪年代法が、弥生時代前期初頭以降の歴博の編年と整合的であることを指摘します。この新たな弥生時代開始の年代観を前提とすると、日本列島において水田稲作が始まった頃は、過去3000年間で最も寒冷だったそうです。
本書の古代ゲノム研究への言及は、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)をほぼ踏襲していると思いますが、本書は一般向けなので、藤尾., 2023の方がより専門的になっています。縄文時代から弥生時代への移行が人類集団の変容や置換を伴っていたのか、そうだとしてどの程度だったのかについては、本書でも簡潔に言及されていますが、近代黎明期から1990年代頃までの広い視野で検証した新書もあります(坂野., 2022)。本書は、弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡のゲノム解析された個体から、縄文時代晩期末以降に日本列島に到来した集団と縄文時代以来の日本列島在来集団との遺伝的混合が、水田稲作の開始期ではなく、しばらく経過してからと推測され、それは在来系土器の割合が紀元前6世紀以降に少しずつ増えることと整合的なのではないか、と指摘します。
ただ、本書も指摘するように、弥生時代前期までの人類のゲノム解析数は少なく、今後の研究の進展が期待されます。本書でも改めて、弥生時代の日本列島の人類集団の遺伝的多様性が指摘されており、少なくとも一定以上は考古学とも相関しているようです。年代的にも地理的にも比較的近接している、伊勢湾沿岸地域の愛知県の朝日遺跡と伊川津遺跡では、それぞれ遠賀川系土器と条痕文系土器が使用されており、核ゲノムが解析された個体では、前者が「縄文人」との遺伝的混合をさほど示さない「渡来系」、後者が他の「縄文人」と一まとまりを形成する、と分かりました。現時点での古代ゲノム研究を自分なりの理解で述べた私見については、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)を取り上げた記事で述べました。
上述のように、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末以降ですが、水田稲作が始まった玄界灘沿岸地域ではなく、九州東北部から中国西部にかけての地域で、土器の様式構造や社会の質的変化をもたらしたわけではなく、多様な食料獲得手段の一つにすぎなかったようです。この水田稲作よりわずかにさかのぼる穀物栽培の担い手や伝播形態は、まだよく分かっていません。弥生時代早期前半となる紀元前10世紀後半に玄界灘沿岸地域で灌漑式水田稲作が始まり、日本列島各地に穀物栽培が広がっていきます。灌漑式水田稲作ではなく、紀元前11世紀に奥出雲で始まった網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培は、アワやキビやイネも含んでいたかもしれず、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀前葉にかけて、中国や四国から関東にかけて広がった可能性があるようです。これら網羅的な生業構造下での穀物栽培では、社会的側面が質的に変化せず、縄文時代晩期の文化伝統が祭祀的側面も含めて、やや変容しつつ継続していきます。
一方で水田稲作は、紀元前7世紀には西日本のほとんどの地域で行なわれていたようです。ただ、同じ地域でも水田稲作に適した土地とそうではない土地があるわけで、水田稲作民とアワやキビを栽培する狩猟採集民は共存していたのではないか、と本書は推測し、その土器指標として、前者については遠賀川系、後者については突帯文系の長原式を挙げています。選択的な生業構造での水田稲作を選択した前者と、網羅的な生業構造の中で採集や狩猟や漁撈やアワとキビの栽培などを行なっていた後者、と本書は把握しています。後者では、縄文時代以来の土偶祭祀や石棒祭祀が継続されていました。ただ、こうした生業構造の違いが常に集団間の遺伝的差異を伴っていたのか否かについて、本書は今後の遺伝学的研究の進展を俟つ、としています。本書は、穀物栽培段階を経ずに定型化した灌漑式水田稲作が始まった地域と、網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培の後に水田稲作が始まった地域との違いとして、前者では外部から完成した生業構造の導入事例が多いのに対して、後者では発展段階的な農耕の定型化過程が見られる、と指摘します。
東北地方北部で紀元前4世紀前葉と意外に早く水田稲作が始まったことは、比較的よく知られているように思います。これは日本海側の津軽地域ですが、それ以前の穀物栽培の痕跡はまだ確認されていません。ただ、この津軽地域の初期水田稲作の代表的な遺跡である砂沢では、生業面で水田が選択されただけで、それ以外では縄文時代晩期から続く既存の道具が用いられています。木製農具はなく、石庖丁ではなく剥片石器で穂摘み(収穫)が行なわれている、というわけです。杭や矢板を用いた用水路や畦畔は設置されず、高低差を利用した自然の水の流れで水が引き込まれており、石材の供給体制も縄文時代晩期と変わりません。祭祀も含めて社会面では「弥生時代的」要素は完全に欠落しており、縄文時代の土偶祭祀が継続しており、本州と四国と九州において、津軽は水田稲作と土偶祭祀がともに行なわれていた唯一の地域です
本書は、北海道と琉球諸島を除く日本列島の農耕受容について、以下のように4通りに分類しています。それは、(A)灌漑式水田稲作が突然始まった玄界灘沿岸地域、(B)穀物栽培の後で灌漑式水田稲作が始まった西日本と伊勢湾沿岸地域、(C)穀物栽培の後で農耕文化複合を経て灌漑式水田稲作が始まった中部高地や関東、(D)Cが農耕文化複合のまま灌漑式水田稲作が始まった利根川以北です。これらの担い手の遺伝的構成はたいへん注目され、BとCとDでは紀元前10世紀後半以降もある時期までは、「縄文人」的な遺伝的構成要素で完全にモデル化できる集団が残っていたのではないか、と予測され、今後の研究の進展が期待されます。
弥生時代はかつて、当初から鉄器を使用しており、水田稲作と鉄器の使用が同時に始まる世界で唯一の先史時代文化と位置づけられていましたが、弥生時代開始の根問題が紀元前10世紀後半までさかのぼり、弥生時代早期から前期末までの約600年間は、鉄器のない石器時代と明らかになりました。しかし本書は、水田稲作の開始を単なる生産経済の始まりとして経済的側面で把握するだけではなく、遼寧式青銅器文化の生産基盤として始まったのかどうか、考察することにより、縄文時代的な生業構造の延長上で栽培可能なアワやキビを対象とした穀物栽培とは一線を画した、西日本における紀元前4世紀前葉(弥生時代前期末)以前の約600年間を、世界史の枠組みで把握することが可能になる、と指摘します。本書は、石器が主流で、わずかに青銅器の再加工品が存在する前期末までの弥生時代の数百年間について、朝鮮半島で政治的に劣勢にあった集団が日本列島に到来したため、青銅器が本格的に流通しなかった可能性を指摘します。玄界灘沿岸地域で青銅器を保有する層が登場するのは、紀元前4世紀後半(弥生時代中期初頭)以降です。本書はこうした特徴を示す弥生時代早期~前期末を、世界史において初期青銅器時代段階と把握できる、との見解を提示します。
参考文献:
岩永省三(2013)「東アジアにおける弥生文化」『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』P101-134
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坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
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寺沢薫(2000)『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)
藤尾慎一郎(2023)「弥生人の成立と展開2 韓半島新石器時代人との遺伝的な関係を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P35-60
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000021
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藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか 最新科学が解明する 先史日本』(吉川弘文館)
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html
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2024/04/30 (Tue) 17:07:46
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雑記帳
2024年04月25日
全ゲノム配列決定による現代日本人の遺伝的構造
https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_25.html
全ゲノム配列決定(Whole-genome sequencing、略してWGS)から現代日本人の遺伝的構造を示した研究(Liu et al., 2024)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、日本全土の現代人3256個体の高品質なゲノムデータを報告し、これは全ゲノム配列決定ライブラリ日本百科事典(Japanese Encyclopedia of Whole-Genome/Exome Sequencing Library、略してJEWEL)と呼ばれています。本論文は、この現代日本人の大規模な高品質のゲノムデータと、既知の古代人のゲノムデータを統合し、先行研究(Cooke et al., 2021)で指摘された現代日本人の三重起源の遺伝的構造の可能性を示すとともに、非現生人類(Homo sapiens)ホモ属であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝子移入を示しています。本論文は、今後の古代ゲノム研究の進展による日本人の遺伝的起源の解明の基礎となる、重要な成果と言えるでしょう。
●要約
本論文は、日本全国の3256個体から構成される高深度の全ゲノム配列決定である、JEWELを生成しました。JEWELの分析から、微小配列(マイクロアレイ)データの使用では識別できなかった、日本人集団の遺伝的特徴が明らかになりました。第一に、稀な多様体に基づく分析から、前例のない微細規模の遺伝的構造が明らかになりました。集団遺伝学的分析と合わせると、現在の日本人は3祖先構成要素に分解できます。第二に、未報告の機能喪失(loss-of-function、略してLoF)多様体が特定され、特定の遺伝子について、LoF多様体は偶然に予測されるより限定的な転写産物一式に制約されているようで、タンパク質チロシン脱リン酸化酵素受容体D型(protein tyrosine phosphatase receptor type D、略してPTPRD)が顕著な事例となる、と観察されました。第三に、2型糖尿病と関連するNKX6-1におけるデニソワ人由来断片を含めて、複雑な形質と関連する44点の古代型断片が特定されました。これらの断片のほとんどはアジア東部人に固有です。第四に、最近の自然選択下の候補遺伝子座が特定されました。本論文は全体的に、日本人集団への遺伝的特徴への洞察を提供しました。
●研究史
WGS(全ゲノム配列決定)データセットは、ヒトの遺伝学および生物医学的研究にとって貴重な情報源です。遺伝的多様体の包括的な特性解明を通じて、WGSデータは詳細な分析を可能にしてきました。これらの分析から、ヒトゲノムの差異の特徴への洞察が得られ(Jónsson et al., 2017)、人口集団の複雑な歴史が明らかになり(Mallick et al., 2016、Choin et al., 2021)、進化的適応および正の選択の過程に光が当てられました。遺伝学における応用の点では、WGSデータセットは補完分析に不可欠です。大規模なWGSデータセットにより、多民族もしくは人口集団固有の参照パネルの構築が可能となってきました。微小配列データから遺伝子型決定されていない多様体を正確に推測することにより、補完分析はGWAS(genome-wide association studies、ゲノム規模関連研究)の能力を効率的に高め、詳細なマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)を可能とし、民族を超えたメタ分析を促進します。
さらに、WGSデータセットは、稀か、特定の人口集団に固有か、有害もしくは機能喪失(loss-of-function、略してLoF)と予測される多様体を含めて、多様体の豊富な情報源を提供します。これらの多様体は、さまざまな疾患との関連だけではなく、ヒトの遺伝子欠損の影響についても調査でき、生理学的および病理学的両方の過程における機能的役割の特定、したがって医薬品開発の標的としての可能性調査の機会を提供します(Minikel et al., 2020)。したがって、WGSデータセットは、正確な遺伝学的分析および個別化医療の開発に不可欠です。
現在、大規模な人口集団規模のWGSデータはヨーロッパ系子孫の個体群により不均衡に表されており、とりわけ、イギリス生物銀行(United Kingdom Biobank、略してUKB)やフィンランド人ゲノミクス(Finnish Genomic、略してFinnGen)研究(Kurki et al., 2023)やdeCODE社(Gudbjartsson et al., 2015)によって大きな貢献がなされてきました。ゲノムデータにおけるヨーロッパ中心の不均衡は、精密医療の不平等な恩恵をもたらし、健康格差の懸念を引き起こすかもしれません。たとえば、多遺伝子危険性得点は、他の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と比較して、ヨーロッパ祖先系統を有する個体群の方に数倍高い精度を示すことがよくありました。
特定の人口集団に対応した個別化医療実施のためのヒトの遺伝的差異のより広範囲の把握の重要性の認識から、精密医療のための横断分野および我々全員計画などで、より多様な民族集団における標本を配列決定するため、協調的な試みがなされてきました。この状況で、注目すべき進歩がアジア東部(East Asian、略してEA)人口集団のWGSデータ生成でもありました。ゲノムアジア10万人(GenomeAsia100K Consortium., 2019)やシンガポール10万人研究計画(SG10K)や中国地図計画や中国の西湖生物銀行など、重要な新構想が確立されてきました。これらの試みはまとめて、EA人口集団におけるより広範囲の遺伝的多様体を明らかにし、それによってこの地域の遺伝的多様性の理解を深めます。
日本人集団のWGSデータに関しては、注目すべき試みが東北医療巨大銀行(Tohoku Medical Megabank、略してToMMo)により行なわれてきました。先行研究では、日本北東部地域から募集された日本人1070個体のWGSが実行されました。この研究は、稀な遺伝的多様体および構造多様体(structural variants、略してSV)を特定し、日本人固有の参照パネルを生成しました。その後、ToMMoなどの配列決定の試みが継続され、日本人3500個体と8300個体に基づく概要水準のアレル(対立遺伝子)頻度(allele frequency、略してAF)が報告されてきました。さらに、増加し続けている個体数に基づくAFデータは、日本人多分野参照パネルデータベースとTogoVarデータベースで利用可能です。これらのデータセットは、日本人集団における遺伝的多様体の一覧表として貴重な情報を提供し、遺伝学的相談の文脈における多様体の解釈に重要です。最近、国立総合施設生物銀行網が、おもに共通対照標本としての使用を目的として、9287個体のWGSデータを公開し、日本人の遺伝的データの情報源をさらに充実させました。
本論文は、JEWEL(全ゲノム配列決定ライブラリ日本百科事典)を生成し、これは、日本生物銀行(Biobank Japan、略してBBJ)の標本を用いた包括的なWGSです。BBJは日本最大の生物銀行の一つで、アジア全域の生物銀行研究の主導的存在です(Terao et al., 2020)。日本の北東部地域の一般的な人口集団に基づくToMMoとは異なり、BBJはゲノム医療研究を推進するための全国規模の生物銀行として設立されました。JEWELは、多様な地理的地域からの標本抽出により、日本人の遺伝的多様性のより適切な把握を目的としています。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、「(日本列島の本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心として構成される)本土」クラスタ(まとまり)と琉球クラスタで構成される日本人の二重人口構造を特定してきており、最近の研究は、「本土【以下、「」でくくりません】」日本人内のかなりの遺伝的異質性を浮き彫りにしてきました(Watanabe et al., 2021)。
WGSの使用により、JEWELは詳細な人口構造のさらなる調査への機会を提供します。さらにBBJでは、医療記録とその後の調査と検査を通じて、深い表現型を収集して整理するために、広範な試みが行なわれてきました。これらには、一次および二次の疾患診断、長期の臨床検査結果、過去の病歴、家族の病歴、生存情報が含まれます。結果として、JEWELは疾患と関連するかもしれない病原性多様体が豊富で、詳細な臨床情報により、特定の関心のある保因者を対象とした調査が可能となります。本論文では、一般的および稀な多様体、LoF多様体とヒト遺伝子欠損の特徴づけ、ネアンデルタール人もしくはデニソワ人からの遺伝子移入された可能性が高い古代型断片の同定を用いての、遺伝的構造の再調査を含む、詳細な分析が提示されます。最後に、本論文は、日本人集団において選択の標的となったかもしれない遺伝子座の特定を試みました。
●JEWELのWGSデータセットの特徴
日本全国の7ヶ所の地理的地域の医療機関から登録された合計3256個体が配列決定され、JEWELが生成されました。これらの地域には北海道と東北と関東と中部と関西と九州と沖縄が含まれ、以後はそれぞれ、北部(北海道)と北東部(東北)と東部(関東)と中央部(中部)と西部(関西)と南部(九州)と沖縄(沖縄)と呼ばれます(図1A)。沖縄を除く全地域は日本列島の主要な島々に位置しており、一般的には本土として知られていますが、本論文における沖縄という用語は、琉球諸島を意味します。相対的な標本規模は、日本のこれらの地域の人口規模を比例して反映しています。以下は本論文の図1です。
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配列決定は標準的なイルミナ(Illumina)社の実施要綱に従って実行され、平均的なWGS網羅率の深度は25.6倍でした。多様体の呼び出しは、確立されたゲノム解析手法一式(Genome Analysis Toolkit、略してGATK)の最良の慣例に従って行なわれました。最終的なデータセットは、23本の染色体で得られた45586919点の一塩基多様体(Single Nucleotide Variant、略してSNV)と9113420点の挿入もしくは欠失(挿入欠失)から構成されました。多様体の61%と40%は、それぞれゲノム集成データベース(Genome Aggregation Database、略してゲノムAD)とToMMoで記録されておらず(Karczewski et al., 2020)、15410953点(32.7%)の多様体はJEWELでのみ観察されました。
微小配列遺伝子型決定データと比較すると、99.971%の高い遺伝子型一致率が得られました。42389421点の両アレル常染色体SNVを用いて、塩基転換(transversion、略してTv、ピリミジン塩基とプリン塩基との間の置換)に対する塩基転位(transition、略してTi、ピリミジン塩基間もしくはプリン塩基間の置換)の比率は2.11と推定され、これは最近の大規模なWGS分析と一致します。これらの結果から、JEWELデータセットはさまざまな側面において高品質で、この人口集団【日本人集団】の遺伝的特徴のより深い分析が可能になる、と確証されました。
●日本人集団の三重祖先起源
まず、184036点の独立した要約共通多様体に基づいて慣習的なPCAが実行されました。先行研究と一致して、分析は沖縄と「本土」で構成される古典的な「二重クラスタ」構造を再現しました(図1B)。稀な多様体が人口構造の解明により多くの情報をもたらす、と本論文は仮定し、PCA均一多面近似および投影(PCA–Uniform Manifold Approximation and Projection、略してPCA-UMAP)分析が実行され、1835116点の独立した要約された稀な多様体のみが用いられました。この分析は、日本人集団の前例のない微細構造を明らかにしました(図1C)。この構造は「ハチドリ」に似ており、共通多様体に基づいてPCAから得られたパターンを再現しただけではなく、いくつかの注目すべき特徴も浮き彫りにしました。具体的に観察されたのは、(1)本土の下位地域間のより明確な分離、および本土クラスタからの沖縄クラスタのより明確な区別と、(2)薄く狭い領域でクラスタ化した北東部個体群と、(3)西部および南部の個体群の追加の下位クラスタです。
人口構造へのより深い洞察を得るため、一般的な多様体に基づいて教師なしADMIXTURE分析が実行されました。最適なK(系統構成要素数)値を決定するため、手法である、他の推定量と比較して優れた性能を示すと論証されている、「Structure Selector」が用いられましした。この分析では、全ての4測定基準が祖先構成要素の最適な数として3のK値を裏づけます。さらに、badMIXTUREを用いて、適合度が評価され、大きな残差の系統的パターンは観察されず、K=3で全体的に良好な適合が示唆されます。したがって本論文のデータから、日本人集団は3祖先構成要素(以下、K1~K3)の混合により最適にモデル化できる、と示唆されました。K1~K3はそれぞれ、沖縄と北東部と西部で最高でした(図1D)。K1(沖縄)構成要素は本土下位集団では約12%の比較的安定した割合を維持しており、例外は南部(沖縄の近隣地域)で、より高い22%の割合です。K2(北東部)およびK3(西部)構成要素は、西部から東部への勾配を示しました。一般的および稀な多様体を用いてADMIXTURE分析も実行され、沖縄からの追加の詳細と共に、一致した結果が観察されました。
一般的な多様体の分析から得られたK値と稀な多様体から得られたPCA-UMAP の分析にも関わらず、K値とPCA-UMAP値との間に有意な相関が観察されました。この調査結果は、K=3の追加の裏づけを提供するようでした。具体的には、UMAP1はK2/K3と有意に相関します。この相関パターンは、その各地域に従った標本集成により明確に視覚化もできます(図1E)。さらに、地理の文脈でK値が分析され、沖縄(K1)と北東部(K2)の祖先系統の割合は地理的経度と相関している、と分かりました。対照的に、西部(K3)との相関はさほど顕著ではなく、統計的に有意ではありません。
本論文は、K1~K3の潜在的な祖先の起源について示唆を得るよう、試みました。先行研究では、日本人は縄文およびEA祖先系統(中国の漢人により表されます)を有している、と示唆されてきました(Watanabe et al., 2021、Jinam et al., 2021)。最近、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統が、古代ゲノムの分析に基づいて提案されました(Cooke et al., 2021、Robbeets et al., 2021)。この文脈で、本論文のデータが縄文時代とEAとNEAの現代人および古代人の遺伝的データとともに分析されました。f₄比統計を用いて、沖縄が最高の縄文祖先系統を有しており(28.5%)、北東部(18.9%)がそれに続き、西部が最低(13.4%)と推定されました。これらの結果は、「縄文人」と沖縄人との間の高い遺伝的類似性を論証した先行研究と一致します(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、Gakuhari et al., 2020)。
次に、外群f₃統計に基づいて、西部の個体群は中国の漢人との遺伝的浮動が最高だった、と観察されました。次に、f₄形式(ムブティ人、古代人;北東部、西部)のf₄統計を使用し、中国と韓国と日本から報告された古代人のゲノム(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Ning et al., 2020、Wang et al., 2021、Gelabert et al., 2022)との関連で、北東部と西部との間の異なる遺伝的類似性が評価されました。その結果、西部と黄河(Yellow River、略してYR)流域、具体的には中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)と後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)の古代中国集団との間で、有意により密接な関係が示唆されました。対照的に、北東部の個体群は、「縄文人」や沖縄の宮古島の古代日本のゲノム(縄文の割合が高くなっています)や朝鮮半島の三国時代(Three Kingdoms、略してTK)の古代人(4~5世紀の韓国-TK_2)と有意により高い遺伝的類似性を示しました。これらの結果は、弥生時代および特定の古墳時代集団の日本の古代人が高い割合の縄文祖先系統を有していた、と示唆した報告(Robbeets et al., 2021、Gelabert et al., 2022)と一致します。
その後、qpAdmを用いて、先行研究(Cooke et al., 2021、Cooke et al., 2023)で説明されている手法に従って、各下位集団におけるNEAとEAと縄文の祖先系統の寄与が推定されました。この分析では、中国の漢人がEAの代償として指定された一方で、中国_西遼河(West Liao River、略してWLR)_青銅器時代(Bronze Age、略してBA)_外れ値(outlier、略してo)と中国_ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡_MNがNEAを表すよう分類されました。その結果、本論文のデータセットへの三重モデルの一般的に良好な適合が明らかになりました。qpAdmを通じて推定された縄文祖先系統の割合と傾向は、f₄比検定の調査結果と一致し、沖縄(25%)における最高の割合と西部(7.5%)における最低の割合を明らかにします。おそらくは西部における低い割合の縄文祖先系統のため、EA祖先系統は西部ではなく南部で最高と観察されました。
しかし、北東部についてこのモデルの適合は却下され、それは極端なP値(0.00065)により示唆されています。追加のモデルを探すと、北東部は韓国-TK_2(68%)と漢人(32%)の2方向混合として代替的にモデル化できる、と分かりました。とくに、本土集団では、北東部は最高の割合の韓国-TK_2を示しました。西部については、NEAとEAと縄文を含む最初の3方向モデルが、カイ二乗値によって示唆されるように、より良好な適合を示しました。さらに、縄文とEAとNEAの組み合わせを含む2方向混合モデル化は失敗した、と証明されました。これら複数の一連の証拠から、K1とK3は縄文およびEA祖先系統と関連しているかもしれない、と示唆されます。さほど明確ではありませんが、K2の祖先起源は、韓国-TK_2など日本列島および朝鮮半島の古代の人口集団とつながっているかもしれません。
上述の調査結果に動機づけられ、この三重祖先の枠組みが日本人の創始者変異の可能性の高い起源への洞察を提供できるのかどうか、調べられました。日本人患者において遺伝性乳癌と関連する、2ヶ所の高頻度の病原性変異、つまりBRCA1 Leu63TerおよびBRCA2 c.5576_5579delTTAAのフレームシフト変異に焦点が当てられました。前者(BRCA1 Leu63Ter)は日本人集団に固有で、西日本よりも東日本において有意に高頻度です。対照的に、後者(BRCA2 c.5576_5579delTTAA)は西日本において高頻度で、中国人と韓国人を含めて他のアジア人集団において報告されてきました。
PCA-UMAP でBRCA1 Leu63Ter保因者を図示すると、この変異はおもに北東部である可能性の高い祖先系統を有する個体群で見られ、その出現はUMAP1とし有意に関連している、と示されました。このパターンは、登録位置を考慮すると明らかではなく、それは、ほとんどの保因者が東部から募集されたからです(保因者9個体のうち7個体は東部から募集され、残りの2個体は北部と北東部からでした)。一方で、BRCA2 c.5576_5579delTTAA変異はおもに西部祖先系統個体群で観察されました。本論文のデータは、日本人10万個体の標本に基づく最近の研究と一致し、BRCA1 Leu63Terが北東部で最高頻度なのに対して、BRCA2フレームシフト変異は西部で最高頻度である、と示します。
本論文のずっと小さな標本規模にも関わらず、稀な多様体に基づく微細構造は、日本人におけるこの2ヶ所の変異の可能性の高い起源への洞察を与えます。このデータから、BRCA1 Leu63Ter変異は北東部祖先系統起源の可能性が焚く、他の地域に拡大した、と示唆されました。ライブの日本人は中国の漢人とより高い遺伝的類似性を有していたので、この変異はアジア大陸部から日本列島へともたらされたかもしれない、と推測されます。さらに、K値が線形回帰に基づいてJEWEL個体群において量的表現型と関連しているのかどうか、調べられました。その結果、とくにK1との総コレステロールおよびプロトロンビン時間について、有意な関連が見つかりました。K2とのこれらの形質の同等のP値も、観察されました。
●LoF多様体とヒト遺伝子欠損
JEWELデータセットにより、日本における臨床的に重要かもしれないタンパク質コード多様体の調査が可能となりました。本論文の分析では、9045個の遺伝子で18481個のLoF多様体が特定され、それには、gnomADもしくはToMMoで登録されていない9780個のLoF多様体が含まれ、これらのうちかなりの割合が稀です(図2A)。これらのLoF多様体は、未成熟な停止コドン(停止コドンの生成)か、コーディング配列を変える小規模な挿入欠失(フレームシフト)か、スプライシング部位に直に隣接する2個のヌクレオチドを変える多様体(スプライシング多様体)を引き起こすかもしれない多様体として定義されます。さらに、177112個の同義多様体と306923個のミスセンス多様体(アミノ酸が変わるような変異)が分類され、それぞれ18651個の遺伝子と19103個の遺伝子に影響を及ぼしました(図2B)。
LoF多様体を保因者のUMAP値とともに調べると、32個と37個の多様体が特定され、その頻度はそれぞれ、UMAP1およびUMAP2と有意に関連していました。北東部の個体群は、他の領域と比較して1標本でしか確認されていない(シングルトン)コーディング多様体の平均数が最低であることに、本論文は気づきました。北東部の標本規模は他の本土地域より小さいので、無作為再標本抽出分析が実行され、この観察は標本規模に起因しない可能性が高い、と確証されました。人口史など他の要因は、とくに人口拡大は、この観察に影響を及ぼすかもしれない、と推測されます。地域的な差異にも関わらず、全領域にわたる1標本でしか確認されていないミスセンス多様体と同義多様体との間の比率(dN/dS)は一貫して2に近く、これはin vivo(遺伝子編集酵素をコードするDNAを直接人体に注入する方法)研究で報告された、新規(de novo、親の生殖細胞もしくは受精卵や早期の胚で起きた変異)のミスセンス多様体と同義多様体の観察された比率です。
さらに、他の報告での観察と一致して、この比率はAF(アレル頻度)と負に相関しており、多くの稀なミスセンスおよび同義多様体は有害かもしれないものの、遺伝子プールに残っている可能性があります。この見解をさらに検証するため、30の異なる注釈付け(annotation)手法から得られた注釈付けの統合により、ミスセンス危険性得点が計算されました。ミスセンス危険性得点は、AFが減少するにつれて増加した、と観察されました。平均的には、シングルトンは最高の危険性得点を示しました。上述のデータに基づくと、一般的な人口集団では稀なミスセンス多様体は、疾患関連分析で優先できるかもしれません。優先順位づけへのこの手法は潜在的な候補を絞り込むことができ、そりにより、意味のある臨床関連の特定の可能性を高めます。以下は本論文の図2です。
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JEWELにより、日本人集団におけるLoFの観察/予測された上限割合(LoF observed/expected upper-bound fraction、略してLOEUF)得点の潜在的な適用可能性のさらなる評価が可能となりました。LOEUF得点は、gnomAD計画におけるLoF多様体の観察され予測された数に基づいて、LoF多様体への遺伝子耐性の定量化の指標として導入されました(Karczewski et al., 2020)。EA(アジア東部)祖先系統を有する個体群がgnomADデータセットの7%を構成する、ということを考えると、LOEUFがJEWELに適用されるのかどうかの検証に関心があります。最低のLOEUF十分位数区分(LoF多様体にとって最高の耐性を示唆します)はLoFにより最も影響を受けなかった、と観察されました。これは、LoF多様体に高度に不耐性な遺伝子の層序化における、LOEUF得点の有用性を裏づけます。しかし、上位十分位数区分においてLoF多様体により影響を受ける遺伝子の数では、不一致が見つかりました。さらに、LoF多様体により影響を受ける転写産物の割合は、LOEUF区分と有意な正の相関を示した、と観察されました(図2C)。これらの結果は全体的に、LOEUF得点の一般化可能性を裏づけますが、LoF耐性遺伝子との関連で改善の余地があるかもしれないことも認められます。
病原性多様体とヒト遺伝子欠損は、臨床研究および医薬品開発にとってひじょうに貴重で、ヒトの遺伝子型と表現型の関連性を明らかにできるかもしれません。ClinVarの病原性多様体を有する遺伝子において、371個のClinVarに登録された病原性多様体と1723個の未報告のLoF多様体が特定されました。LoF多様体の同型接合体もしくは複合異型接合体として定義される、ヒト遺伝子欠損が検索されました。注釈づけの検査と手動での選別により、臨床的に関連している可能性が高そうな、23個のヒト遺伝子欠損が特定されました。
本論文は、ABCC2(ATP binding cassette subfamily C member 2、アデノシン三リン酸結合領域亜群C構成員2)遺伝子における複合異型接合体LoF多様体の保因者に注目しました。この遺伝子のLoFは、高ビリルビン血症と関連している常染色体劣勢肝疾患である、ドゥビン・ジョンソン(Dubin-Johnson)症候群を引き起こすと知られています。この症候群は通常良性で、患者は血中の総ビリルビンの増加を示し、慢性黄疸につながります。本論文はこの個体の病歴記録と血液検査結果を入手し、ドゥビン・ジョンソン症候群の診断と高ビリルビン血症の臨床症状を確証しました。さらに、非症候性感音性難聴と関連する遺伝子である、GJB2(gap junction protein, beta 2、間隙接合タンパク質β2)を有する3個体のうち2個体は、難聴と確認されました。これらの事例から、JEWELを、疾患の原因である潜在的に可能性の高い病原性多様体の特定と、潜在的に臨床的に関連する遺伝子型と表現型の関連性の発見に使用できる、と論証されます。
上述の従来のヒト遺伝子欠損分析に加えて、JEWELの豊富な表現型データを活用して、LOEUF 得点により示唆されている、LoF多様体には高度に不耐性と考えられている遺伝子において異型接合体のLoF多様体を有する個体群が調べられました。複数のLoF多様体がある遺伝子に焦点を当てると、PTPRD においてLoF多様体を余裕する6個体が特定され、そのうち上位のLOEUF遺伝子のうち1個は、受容体様タンパク質チロシン脱リン酸化酵素をコードしています(図2E)。詳細な臨床情報は、心筋梗塞や腎不全や高血圧や薬疹を含めて、いくつかの共有表現型を示した6個体のうち3個体で得られました(図2F)。
PTPRD遺伝子には13個の転写産物があり、ほとんどのエクソンは同一で、複数の転写産物間で共有されています。しかし、LoF多様体の影響を受けた転写産物は2点だけで、偶然に予測されるよりも有意に少なくなっています。PTPRDの報告されたヒト遺伝子欠損について、文献が検索されました。ある事例報告では、知的障害や三角頭蓋症や難聴と関連していると疑われていた、同型接合体微小欠失を有する子供1人が記載されていました。さらに、Ptprd遺伝子欠損マウスは、不完全な浸透度で離乳前の致死性を示します。これらのデータと低いLOEUF得点を考えると、PTPRDタンパク質の破壊はひじょうに有害かもしれません。しかし、LoFが転写産物の限らりた数にしか影響を及ぼさないか、影響を受けた転写産物がより低い機能的重要性の場合、その結果はより許容できるかもしれません。
さらなるゲノム規模検査は、LoF多様体が転写産物の限定された一式で発生した追加の遺伝子を特定し、それには、2個以上のPTPR亜群遺伝子が含まれ、その両方とも最低のLOEUF区分とPTPRSとPTPRMにあります。この結果から、特定のLoFの表現型の影響は、LoFにとって一般的に不耐性の遺伝子でさえ軽減されるかもしれない、と示唆されます。しかし、無作為ではない標本抽出もしくはLoF転写産物の不正確な注釈づけなど、他の要因も検討されるべきです。日本人集団もしくは他の人口集団からのWGSを用いてのさらなる研究が必要です。上述の事例で見られるように、LoFにより破壊された可能性がある場合の遺伝子機能の全範囲を理解するためには、詳細な臨床データのある遺伝的情報統合する必要性が浮き彫りになります。これらの調査結果から、LoFへの耐性が遺伝子水準だけではなく転写産物水準でも評価されねばならないことも示唆されます。
●ネアンデルタール人とデニソワ人から遺伝子移入された配列
EA(アジア東部)人は、デニソワ人とネアンデルタール人から遺伝子移入された配列を有しています(Browning et al., 2018、Chen et al., 2020)。しかし、遺伝子移入の調査はこれまで、EAの少数の標本に限られてきました。ネアンデルタール人もしくはデニソワ人から遺伝子移入された可能性が高い配列を検出するため、最近開発された確率的手法であるIBDmixが適用され、この手法は現代の参照人口集団を使用しません。個体に基づくと、JEWELの個体はネアンデルタール人由来の配列を約4900万塩基対(49Mb)、デニソワ人由来の配列を約147万塩基対有しています。合計で、ネアンデルタール人から遺伝子移入された可能性の高い3079個の断片と、デニソワ人から遺伝子移入された可能性の高い210個の断片が特定され、それぞれゲノムの772Mbと31.46Mbを網羅します(図3A)。本論文の結果は、1000人ゲノム計画(1000 Genomes project、略して1KGP)の日本人104個体の分析に基づく、以前に報告された(Chen et al., 2020)ネアンデルタール人からの遺伝子移入断片の85%(2843個のうち2414個)を再現しました。
注目すべきことに、ネアンデルタール人からの遺伝子移入領域の47%(3079ヶ所のうち1439ヶ所)は、日本の東京(Tokyo, Japan、略してJPT)のデータセットの1KGP日本人では特定されず、そのうち77%(1439ヶ所のうち1113ヶ所)は稀で、頻度は5%未満でした。JEWELにおける遺伝子移入されたネアンデルタール人断片は、下位地域の違いを明らかにしませんでした。JEWELにおけるデニソワ人からの遺伝子移入が、1KGPデータセットの人口集団や、ともにデニソワ人祖先系統を高い割合で有する(Browning et al., 2018、Larena et al., 2021)パプア人およびフィリピンのアエタ人(Ayta)と比較されました。この分析から、JEWELにおけるデニソワ人的断片はEA人口集団と有意に重複しているものの、統計的有意性はパプア人およびフィリピンのアエタ人では見つからない、と明らかになり、日本人のデニソワ人からの遺伝子移入はパプア人およびフィリピンのアエタ人とは関連性が低かったかもしれない、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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その後、BBJから生成されたGWAS 要約統計に基づいて、106個の形質における特定された遺伝子移入配列の表現型の影響が調べられました。49点の表現型と関連する44個の古代型断片が特定され、そのうち2個はデニソワ人、42個はネアンデルタール人に由来します。これらのうち、43個は先行研究との比較で報告されていませんでした。代替的な手法であるSPrimeにより44個の古代型断片のうち39個が検証され、SPrimeにより検出されなかった5個の断片はネアンデルタール人のゲノムと高い一致率を示した、と確証されました。
POLR3E遺伝子におけるデニソワ人から継承された断片は、身長と関連していました。NKX6-1遺伝子における断片は、2型糖尿病(type 2 diabetes、略してT2D)と関連していました。このNKX6-1断片は他の人口集団でも確認されており、パプア人や中国人やフィンランド人が含まれ、中国人では北京の漢人(Han Chinese in Beijing、略してCHB)や中国南部の漢人(Han Chinese South、略してCHS)が含まれています。さらに、この断片における古代型多様体は、FinnGen 計画(Kurki et al., 2023)から得られたGWAS データを用いて、T2Dと関連している、と分かりました。
ネアンデルタール人由来の断片について、7種の疾患と関連する11個の断片が観察され、その疾患とは、虚血性心疾患(coronary artery disease、略してCAD)、慢性扁桃炎(stable angina pectoris、略してSAP)、アトピー性皮膚炎(atopic dermatitis、略してAD)、甲状腺機能亢進症(Graves’ disease、略してGD、バセドウ病)、前立腺癌(prostate cancer、略してPrCa)や関節リウマチ(rheumatoid arthritis、略してRA)です(表1)。経路分析は、上位関連経路として「インスリン分泌の調節」を特定しました。
ADAMTS7遺伝子座において、主要な遺伝子移入された一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)であるrs11639375は、CADとSAPに対して保護的と報告されました。このSNPは全ての主要な人口集団において高頻度で観察されますが、さらに調べると、日本人のrs11639375はネアンデルタール人から遺伝子移入された可能性が高いハプロタイプ内にあるようです。このハプロタイプは、rs11639375と強い連鎖不平衡(Linkage disequilibrium、略してLD)を示す、39個の潜在的な古代型多様体から構成されます。これらの多様体はEA(アジア東部)人およびラテンアメリカ人にのみ見られ、他の人口集団においては存在しないか極端な低頻度で存在します。これらのデータは、この保護的な多様体rs11639375がかつてEAで失われ、その後で遺伝子移入を通じて回復された、と示唆しているかもしれません。しかし、この仮説を実証するには、さらなる分析が必要です。
AD(アトピー性皮膚炎)の原因多様体であるrs12637953はCCDC80遺伝子座に位置しており、ネアンデルタール人から継承された可能性が高い、と観察されました。この多様体は、コンピュータ予測での機械学習により、CD1a+ランゲルハンス細胞および表皮細胞における転写促進因子の発現水準低下を介して機能するかもしれない、と示唆され、さらに実験的に検証されました。グルカゴン様ペプチド1受容体(glucagon like peptide 1 receptor、略してGLP1R)遺伝子座におけるこの遺伝子移入された断片は、注目に値します。この遺伝子座の多様体は、以前に報告されたように、大規模な日本人のGWAS(191764個体)のT2D(2型糖尿病)とは関連しているものの、ヨーロッパのGWAS(159208個体)のT2Dとは関連していません。本論文の分析を通じて、この主要な多様体は古代型、具体的にはネアンデルタール人起源である可能性が高い、と確認されました。
1KGPデータを用いたさらなる分析では、この遺伝子移入された断片はアジア人に存在するもののヨーロッパ人には存在せず、GWAS兆候における不一致を説明できるかもしれない、と示されました。疾患と関連する古代型断片に加えて、35点の量的形質と関連する37個の異なる断片が特定されました。一例として、凝固作用因子5(coagulation factor V、略してF5)の古代型多様体は、出血形質との正の関連(positive associations with the bleeding trait、略してPT)を示しました(図3C)。注目すべきことに、同じ断片はアイスランド人口集団におけるPTと関連しています(Skov et al., 2020)。重度の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と関連すると報告されているネアンデルタール人由来断片(3蕃染色体の45859651~45909024)は、JEWELでは検出されませんでした(Zeberg, and Pääbo., 2020)。最後に、有意な遺伝子移入された多様体は、ヨーロッパ人と比較してEA人において明確な人口集団特異性を示しました。そのAF(アレル頻度)はヨーロッパと比較してJEWELにおいて有意により高く、日本人集団における中央値のAFは、ヨーロッパ人集団におけるAFの21.5倍です。
●日本人集団における進化的選択の特性
日本人集団における選択の対象となった可能性の高い、候補となるゲノムの遺伝子座を検出するため、二つの手法でゲノム規模精密検査が実行され、その手法とは、統合ハプロタイプ得点(integrated haplotype score、略してiHS)とFastSMCです。FastSMCは、指定された合着(合祖)時間における対での同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)領域を迅速に特定するよう設計されたASMC演算法の拡張です。IBD共有の推測により、この分析は、最近の正の選択(たとえば、好適なハプロタイプの急速な頻度上昇)を示唆するかもしれない、限られた数の共通祖先から過剰に継承された領域を特定できます。hisにより、ゲノム規模の有意性閾値における正の選択下で3ヶ所の遺伝子座が特定され、それには主要組織適合複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)やアルコール脱水素酵素(Alcohol dehydrogenase、略してADH)クラスタ(まとまり)やアルデヒド脱水素酵素2型(Aldehyde dehydrogenase 2、略してALDH2)が含まれます(表2および図4A)。以下は本論文の図4です。
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分位・分位図から、体系的な偏りはなかった、と示唆されました。代表的な5ヶ所の地域、つまり西部と東部と北東部と南部と沖縄全体の、選択特性における地域差の可能性がさらに調べられました。本土地域全体では、類似の選択特性が観察されました。しかし、ADHクラスタとALDH2の兆候が沖縄では比較的弱く、ゲノム規模の有意性に達しなかったことに要注意です。これらの違いは、沖縄の限定的な標本規模か、あるいは恐らく、変化する選択圧に起因するかもしれず、さらなる研究が必要です。さらに、補完的手法としてFastSMC手法が用いられ、hisで観察された兆候が検証されました。
まず、密度の最近の合着(density recent coalescence、略してDRC)統計の適合性が評価されました。実証的帰無モデルの密度図と分位・分位図から、ガンマ適合が一般的によく適合するものの、大規模なDRC値を適切に処理できないかもしれず、控えめな近似P値につながるかもしれない、と示唆されました。合計すると、この手法は過去50世代において選択の標的になったかもしれない4ヶ所の候補遺伝子座を特定し、それには、hisで有意な3ヶ所の遺伝子座(ADHとALDH2とMHC)と2番染色体短腕(2p25.3)の候補遺伝子座が含まれます。これら3ヶ所の遺伝子座(ADHとALDH2とMHC)は、先行研究のシングルトン密度得点(singleton density score、略してSDS)手法を用いても検出され、日本人集団について自己免疫系およびアルコール代謝経路での強い選択圧の存在がさらに実証されます。
●考察
本論文では、日本の7ヶ所の異なる地域全体の日本人3256個体の臨床およびWGSデータで構成されるデータセットである、JEWELが生成されました。この包括的な遺伝的データセットにより、日本人集団の集団遺伝学および医療遺伝学に関する未知の領域への探求が可能となります。本論文のいくつかの独特な側面が浮き彫りになります。本論文の分析は日本人の詳細な人口構造を明らかにし、それは「三重起源」モデルを反映し、その裏づけとなります。本論文は、JEWELの臨床的利用の可能性を示し、日本人におけるネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝的遺産を調べ、さまざまな表現型との関連を調査し、それらはこれまでで最大の非ヨーロッパ人の分析を構成します。さらに、最近の選択下でのゲノム遺伝子座の特定は、日本人集団における適応的進化の理解を深めます。
JEWELにおける日本全土の多様体の豊富な情報源と標本の包括的な包摂は、PCA-UMAPおよび集団遺伝学的分析と組み合わされて、より洗練された日本人の人口増の構築と日本人集団の三重起源の提案を可能とします。BBJから得られた整列データを用いた以前のPCA-UMAP分析と比較して、WGSの稀な多様体に基づく本論文の分析は、本土の日本人の区別のための解像度向上を提供します。これは、稀な多様体が通常は一般的な多様体よりも新しく現れ、微細規模の遺伝的構造の解明により多くの情報をもたらすことができるからである、と本論文は推論します。本論文の分析では、すべての沖縄の個体はPCA-UMAPで単一のクラスタへと分類されました。これは限定的な標本規模に起因する可能性が高そうで、限定的な標本規模は、沖縄内のさまざまな島の集団の下位集団間の既知の遺伝的異質性を把握できないかもしれません。日本の多様な地域からの標本の組み込みにより、本論文は本土日本人における遺伝的異質性を明らかにし、これは、日本の全47都道府県にまたがる11069個体から得られた整列データを調べた最近の研究(Watanabe et al., 2021)とよく一致します。
日本人集団の祖先起源に関して本論文は、本論文のデータは、広く受け入れられた「二重構造」モデルと最近提案された三重起源モデルを含めて、既存のモデルの文脈で解釈されるべきである、と勧めます。現代日本人集団は在来の狩猟採集民である「縄文人」とアジア大陸部からの稲作農耕の弥生移民の混合により形成された、と提案した二重構造モデルは広く研究されてきており、主要な作業仮説と考えられています。「内部二重構造」と命名された洗練されたモデルでは、複数の移住の波に影響を受けた、「中央軸」の内陸地域と「周縁」の沿岸地域との間に遺伝的差異が存在する、と提案されました。
弥生時代と帝国古墳時代の古代人ゲノムの最近の研究は、さらに洗練されたモデルを導入し、日本人集団は三つの祖先起源、つまり縄文人とNEA(アジア北東部)とEA(アジア東部)を有しているかもしれない、と提案しています(Cooke et al., 2021)。これは、大陸部の祖先系統の可能性の高い起源を具体的に提案する、興味深い仮説です。しかし、一つの限界は、古代人のゲノムの数、とくに弥生時代と古墳時代の数が限定的であることです。結果として、いくらかの不確実性が残り、その仮説は依然として完全には検証されていません。縄文とEA(つまり、中国の漢人)の遺伝的構成要素は、日本人集団のPCAで観察された二重構造のパターンを説明するのに提案されてきました。これと一致して、本論文と先行研究(Watanabe et al., 2021、Jinam et al., 2021)では、沖縄が縄文人とより高い遺伝的類似性を有しているのに対して、西部もしくは西部に近い地域は本土の他地域と比較して、中国人と遺伝的により近い、と示唆されます。
qpAdm分析は、日本人集団の祖先起源の可能性へのさらなる洞察を提供します。本論文では、データセット全体にわたって、縄文とEAとNEAを含めて三重モデルの合理的適合が観察され、例外は北東部です。重要なことに、縄文人とEAとNEAの対での組み合わせを用いての2方向モデルは、成功した結果をもたらしませんでした。この結果は三重祖先モデルへのさらなる裏づけを追加し、伝統的な「二重構造」モデルが不充分かもしれない、と示唆します。西部が中国人とより密接な遺伝的類似性を有している、との観察は、弥生時代の後におけるEA祖先系統を有する人々のかなりの流入と関連しているかもしれず、歴史的証拠は古墳時代と奈良時代にわたる朝鮮半島からの継続的な移住を示唆します。この継続的な流入は、西部(現在の奈良県)において確立した、古墳時代における日本の最初の中央集権的な帝国の形成に役割を果たしたかもしれません。この期間には、中国の影響により特徴づけられる、かなりの技術的および文化的流入もありました。これは、中国式の正当性や言語や教育体系の包括的採用に明らかです。
本論文の分析では、北東部の現代日本人において最高頻度であるK2が、縄文およびEA祖先系統とともに追加の遺伝的起源として機能するかもしれない、と観察されました。この構成要素は西部と比較して、「縄文人」および三国時代朝鮮半島古代人のゲノムと有意により近い遺伝的類似性を有している、と観察されました北東部は三重祖先モデルの代わりに、韓国-TK_2と漢人を用いた2方向混合モデルにより説明できます。注意すべきは、韓国-TK_2が、中国_WLR_BA祖先系統66%と縄文祖先系統34%、もしくはNEA祖先系統32%とEA祖先系統43%と縄文祖先系統25%の三重祖先モデルによりモデル化できることです。これらのデータは、北東部とNEAとの間のつながりの可能性を示唆しているかもしれませんが、このつながりの実証には追加の証拠が必要です。
歴史的記録から、北東部は、文字通り「小柄な野蛮人」と訳される、いわゆる蝦夷の人々が居住していた、と示唆されています。蝦夷の起源はなぜかあまり研究されておらず、議論の余地がありますが、蝦夷はNEAと関連しているかもしれない、と提案されていました。さらに、蝦夷の人々は歴史時代の出雲方言と類似した独特な日本語を話していたかもしれない、と示唆されてきました。さらに、北東部と南部(具体的には、証拠から日本で最初に稲作農耕がもたらされた九州)との間の地理的距離にも関わらず、北東部の北方の在来集団は弥生時代前期にイネを独占的に採用した、と報告されてきました。このつながりは、日本海沿岸でのヒトの移動により促進された可能性があり、弥生時代における北東部と稲作農耕の採用との間の関連を示唆しているかもしれません。韓国-TK_2と漢人を用いた2方向適合モデルは許容可能な適合を論証していますが、それが、歴史的状況と一致しないように見える、大陸部の移民による北東部への縄文祖先系統の導入を示唆していることに要注意です。
三重祖先モデルの適合の失敗は、北東部における縄文祖先系統のより高い割合の結果かもしれず、それは恐らく、より大きな縄文祖先系統を有する在来人口集団との混合か、あるいは124万SNP部位のみを含む予め編集されたAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)への依存の限界に起因します。塩基転換部位での追加の選別は、分析に利用可能なSNPの数を減少させました。理想的には、この限界は直接的な生の配列決定整列データにより対処されるでしょうが、この広範な分析は本論文の範囲を超えています。さらに、f₄分析は北東部について古代のNEA人口集団で特定の祖先供給源を正確に示しませんでした。この重要な問題は、NEAの新規のより広範で密な標本抽出された古代人ゲノムを最適に含めることで、将来の調査を保証します。本論文は最後に、遺伝学的証拠は、考古学や文化や言語学など他分野のデータとともに調べられるべきと提案します。この学際的手法は、日本人集団の謎めいた先史時代の理解を深めることができます。さらに、二重構造と三重起源の両方のモデルは単純化を表しているものの、後者【三重起源】はいくつかの利点を提供しているかもしれない、と認識すべきです。実際の人口史はより複雑で、さらなる分析を必要とするかもしれません。
本論文は人口構造分析に加えて、JEWELにおけるコーディング多様体を広範に分析しました。遺伝子一式におけるLoF多様体は偶然に予測されるよりも限定的な転写産物に限られており、時には、遺伝子は高度に制約されており、それらのLoF多様体の保因者は共有された臨床表現型を示した、と観察されました。先行研究では、より正確な転写産物水準の注釈づけは、アイソフォーム(基本的な機能に関連するアミノ酸残基は共通しているものの、他の部分のアミノ酸配列は異なるタンパク質)発現データの組み込みにより達成できる、と示されてきました(Cummings et al., 2020)。本論文の結果から、WGSデータは、特定の遺伝子内における転写産物全体にわたるLoFの不耐性の比較により、制約範囲の新たな計量もしくは得点の開発の潜在的な機会を提供する、と示唆されます。本論文は、JEWELで利用可能である広範な臨床的情報は、遺伝子型と表現型との間の潜在的な関連の解明ら効率的に使用できる、と論証してきました。
本論文は、古代型の遺伝子移入された多様体が広範な表現型と関連しており、それには現在の日本人における免疫や代謝の表現型が含まれる、と報告しました。EPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)遺伝子座における遺伝子移入されたデニソワ人配列は、チベット人の高地環境への適応に役立った、と示されてきました(Huerta-Sánchez et al., 2014、Zhang et al., 2020)。しかし、EPAS1などいくつかの特定の事例を除くと、ヒトの表現型へのデニソワ人からの遺伝子移入の影響は、とくにネアンデルタール人からの遺伝子移入と比較すると、さほど理解されていないままです(Dannemann, and Kelso., 2017、Reilly et al., 2022、Zeberg et al., 2024)。本論文はこの状況で、NKX6-1およびPOLR3Eにおけるデニソワ人由来断片が、それぞれT2D(2型糖尿病)および身長と関連している、と示しました。
先行研究は、 公開されている利用可能なBBJのGWAS合計統計と自然に呼び出された古代型多様体を用いて、ネアンデルタール人から遺伝子移入された可能性の高い断片が疾患表現型と関連している、と報告してきました。本論文は全ての報告された調査結果を再現し、追加の43点の関連を報告し、これは表現型と関連した遺伝子移入された数を大きく拡張し、日本人集団における古代型配列の表現型の影響の理解を深めました。とくに、人口集団特異性、およびT2D治療のためのGLP-1と類似した経口セマグルチドの開発を考えると、GLP1RとT2Dのネアンデルタール人由来の多様体間の関連は興味深いものです。将来の研究は、これら古代型頼退のある個体がセマグルチド治療に異なる応答を示すのかどうか調査し、医薬品発見の潜在的な標的となるかもしれない追加の古代型断片の存在を調べるでしょう。本論文はこの特定の事例に加えて、全体的に有意な遺伝子移入された多様体はヨーロッパ人と比較してEA人の人口集団特異性を示す、と論証し、これは、そうした古代型の多様体と表現型の関連がヨーロッパ人のデータの調査のみでは見逃されるかもしれない、と示唆しています。
本論文の選択分析は、SDSとASMCを含めた手法の使用により、日本人集団における最近の選択の痕跡についてのゲノム規模の綿密な調査を補完します。BBJの170882個体に基づく研究では、29ヶ所の候補遺伝子座が、ASMCを用いてのDRC150統計に基づいて、過去150世代において選択下にあった、と示唆されました。さらに、ADHクラスタとMHCを含む2ヶ所の遺伝子座が、iHS手法により特定されました。しかし、DRCに基づく統計を用いてのより最近の時間枠内での選択特性は、まだ調べられていません。本論文の分析から、MHCとADHとALDH2は、hisとFastSMCと以前に報告されたSDSによると、最近の正の選択下にあるもと示唆されます。沖縄と本土の集団間のADH/ALDH2には違いがあるかもしれず、これはさらなる分析を保証する可能性があります。2番染色体の短腕(2p25.3)においても、候補遺伝子座が観察されました。この遺伝子座いくつかの遺伝子は候補遺伝子としての検討を保証しますが、本論文は、特定の遺伝子に焦点を当てる前に、さらなる再現分析を勧めます。
本論文は要するに、微小配列データでは認識できなかった日本人集団の遺伝的特徴を明らかにしてきました。本論文で作成された広範なデータセットは、日本人集団内およびそれを超えて、将来の遺伝学的研究の参照としても役立ちます。本論文は、個別化医療や他の臨床環境におけるWGSの応用の可能性を強調し、遺伝的特徴を解読し、人口集団特有の方法でヒトの歴史をより深く理解するための、WGSの多様な人口集団への拡張の重要性を浮き彫りにしました。
https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_25.html
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2024/05/06 (Mon) 02:17:12
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【最新研究】これまでの日本人の起源が覆ります!!
世界ミステリーch 2024/05/04
https://www.youtube.com/watch?v=85UP41o32_k
これまで日本人の起源は縄文人と弥生人の混血とされてきました。これは二重構造説と言います。しかし、新たな研究によってこの定説が覆ることになりました。それが日本人の起源は縄文人と弥生人、そしてもう一つの人々の混血というもの。今回はこの新しい説を解説していきます。
参考:引用:
2024年4月18日 理化学研究所
全ゲノム解析 で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
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24:777
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2024/05/28 (Tue) 22:13:05
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【最新DNA解析】日本人三重構造説「我々はどこからきたのか?」【日本人のルーツ】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】2024/05/10
https://www.youtube.com/watch?v=SCy6BPAX3QU
【動画目次】
00:00 オープニング
01:12 遺伝子学とDNA
05:10 日本人は特異な民族?
10:36 日本人二重構造モデル
15:07 DNA系統別
22:53 日本人三重構造説
今回の動画では、DNA からみた日本人の特異性とは?
日本人はどのようにして成立したのか?
「日本人三重構造説」とは?
について、わかりやすく解説しています。
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25:777
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2024/06/05 (Wed) 15:54:15
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【最新研究】縄文人のルーツがついに判明?南方ルートの証拠が発見されました!
世界ミステリーch 2024/02/10
https://www.youtube.com/watch?v=wTIfd6P6wnI
縄文人はどこからきたのか?謎が多い縄文人のルーツが最新の研究によって新しい発見が見えてきました。タイの山間部の奥に住むマニ族という民族が縄文人ととても近い人々ということが分かったのです。今回は縄文人のルーツ、そして今の日本人のルーツについて解説していきます!
日本人とは何者なのか?14分版 | フロンティア | NHK
NHK 2023/12/26
https://www.youtube.com/watch?v=yEGVIc-29z0
日本人とは何者なのか?より冒頭14分をお届けします。
【出演者】
篠田謙一(国立科学博物館館長)、松前ひろみ(東海大学助教)、神澤秀明(国立科学博物館研究主幹)、山田康弘(東京都立大学教授)、太田博樹(東京大学教授)、覚張隆史(金沢大学助教)、語り: オダギリジョー
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26:777
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2024/07/17 (Wed) 17:09:07
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雑記帳
2024年07月17日
夏家店上層文化の人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html
現在の中国の北東部地域における青銅器時代人類集団の遺伝的多様性を報告した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。本論文は、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域南部の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化関連の1個体のゲノムデータを報告しています。この個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン(Chifeng)市カラチン・バナー(Harqin Banner)のヨンフェン(Yongfeng)県牛家営子(Niujiayingzi)鎮マジアジシャン(Majiazishan)村で発見され、アムール川(Amur River、略してAR)集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が高い西遼河西部の夏家店上層文化関連個体群とは異なり、黄河(Yellow River、略してYR)流域の後期新石器時代集団的な祖先系統でゲノムが完全にモデル化できます。この遺伝的構成の違いは、西部では牧畜が、南部では雑穀農耕が行なわれるという、生業の違いはと対応しています。
ただ、西遼河南部の夏家店上層文化については、まだ1個体しかゲノムデータが報告されていないので、断定的に一般化はできません。しかし、本論文は日本人起源論との関連でたいへん注目される分析結果を提示しており、日本人起源論との関わりについては最後に「私見」の項目で述べます。なお、時代区分の略称は次の通りで、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●要約
西遼河および黄河流域は、中国北部における雑穀農耕の二大中心地です。浮遊分析と遺跡の空間分布の結果から、農耕と牧畜という二つの異なる生存戦略が西遼河の南部と北部でそれぞれ採用されていた、と示唆されます。西遼河西部地域の古代の人口集団の先行研究は、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜経済と黄河農耕民との遺伝的類似性低下との間の相関を示唆しました。しかし、西遼河南部の人口史は、おもに古代人の遺伝的データの不足のため不明です。
本論文は、夏家店上層文化と関連する後期青銅器時代の西遼河南部地域のマジアジシャン遺跡の古代の1個体のゲノムデータを報告します。西遼河西部の個体群とは異なり、この個体の祖先系統は完全に後期新石器時代黄河農耕民に由来します。夏家店上層文化の古代の人口集団の遺伝的構造が見つかり、これは西遼河の西部と南部の生計戦略の違いと一致します。気候悪化は、西遼河の西部と南部にそれぞれ異なる集団、つまり西部ではアムール川からの遊牧民集団が、南部では黄河からの農耕民集団が居住することにつながりました。
●研究史
近東の肥沃な三日月地帯からアメリカ大陸やさらにその先まで、農耕の出現と拡大はヒトの歴史と文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発展に顕著な影響を及ぼしました。雑穀はアジア東部北方で何千年にもわたって主食で、最初は黄河下流域で早くも紀元前9000年頃に利用され、その後、黄河中流~下流および西遼河地域で少なくとも紀元前6000年頃までには広く栽培されていました。一方で、中期新石器時代には、おもに安定した雑穀生産のため複雑な社会がおもに黄河および西遼河地域で出現し、それは人口増加と文化的革新につながりました。雑穀農耕のこの拡大では、中国北部では黄河および西遼河地域、と中国南東部の方では台湾、中国南西部では四川盆地が、アジア東部における乾燥地農耕の起源と拡大にとって重要な地域と認識されています。
西遼河地域にはとくに、前期新石器時代から後期青銅器時代にかけての興隆窪(Xinglongwa)文化や趙宝溝(Zhaobaogou)文化や紅山(Hongshan)文化や小河沿(Xiaoheyan)文化や夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化など、連続的な雑穀農耕関連文化があります。この文化的過程では、主要な生計戦略が「低水準」の食糧生産から充分に発展した穀物栽培へと変わり、新石器時代においては、動物の消費への依存が減少し、キビやアワの消費が増加しました。興味深いことに、雑穀農耕が主要だったことを特徴とする夏家店下層文化の後に、西遼河地域の西部では畜産が重要な役割を取り戻しました。前期青銅器時代の夏家店下層文化と比較して、夏家店上層文化における「文明」と農耕の水準は、後期青銅器時代における気候の悪化と関連して明らかに低下しました【本論文のこの評価が妥当なのかは、判断を保留します】。この生計の変容に関して、アムール川の狩猟採集民からの遊牧【遊牧を行なっていれば、狩猟採集も同時に行なっているとしても、一般的には狩猟採集民とは呼ばれないように思いますが】が、気候による食糧不足のため、後期青銅器時代における西遼河人口集団の生活様式に影響を及ぼした、と推測されています。対照的に、夏家店上層文化人口集団はじっさい、西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団である、との推測もあります。
以前の遺伝学的研究(Ning et al., 2020)では、前期新石器時代(紀元前5520~紀元前5320年頃)から鉄器時代(鮮卑、紀元前50~紀元後250年頃)までの、アムール川人口集団の長期の遺伝的安定性が見つかりました。具体的には、後期新石器時代西遼河人口集団(WLR_LN、夏家店下層文化)は、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN、紅山文化)よりも、雑穀農耕の黄河人口集団の方と高い遺伝的類似性がある、と観察されました。それと比較して、部分的な牧畜青銅器時代西遼河人口集団(WLR_BA、夏家店上層文化)は、WLR_LNと比較して、黄河人口集団との遺伝的類似性が低く、このWLR_BAに含まれる外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)には、アムール川集団とクレード(単系統群)を形成する遺伝的特性がありました。その研究(Ning et al., 2020)は、経時的な西遼河人口集団における遺伝的特性の頻繁な変化と生計戦略の変化との間にはつながりがあることを示唆し、それは第二の仮定【夏家店上層文化人口集団は西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団】を裏づけます。
しかし、西遼河の南部の古代人のゲノムデータが必要なためこれまで、青銅器時代西遼河地域人口集団の遺伝的特性の包括的理解が妨げられています。本論文では、夏家店上層文化と関連する放射性炭素年代測定結果が得られている、マジアジシャン遺跡の古代人1個体のゲノム規模データが報告されます。マジアジシャン遺跡は、WLR_BAとWLR_BA_oが発見された竜頭山(Longtoushan)遺跡の南方約100kmの、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン市カラチン・バナーのヨンフェン県牛家営子鎮のマジアジシャン村の近くに位置しています。この新たに報告された1個体(標本識別番号はDSQM2、集団分類表示はWLR_BA_o2)は、先行研究(Ning et al., 2020)で報告された青銅器時代西遼河の両人口集団(WLR_BAとWLR_BA_o)と異なる遺伝的特性を有しているものの、こうが農耕民と密接に関連している、と分かり、これまで検出されていなかった西遼河地域の遺伝的特性を示唆しています。
●標本と手法
マジアジシャン遺跡(図1)の古代人の標本1点から、歯が収集されました。1点の人骨標本が加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で年代測定され、非較正年代が得られました。放射性炭素(¹⁴C)年代は、OxCal第4.4.2版およびIntCal20較正曲線を用いて較正されました。古代DNAの信頼性は、脱アミノ化パターンから評価されました。標本DSQM2の遺伝的性別は、X染色体とY染色体のゲノム網羅率が常染色体と比較されました(Fu et al., 2016)。この場合、男性ではX染色体の網羅率は常染色体の網羅率の約半分となり、女性ではほぼ同じとなります。Y染色体では、男性の網羅率は常染色体の半分に、女性の網羅率はゼロとなります。標本DSQM2のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。標本DSQM2の遺伝的データは、他のデータ(Damgaard et al., 2018、Sikora et al., 2019、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)と統合されました。124万SNPヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で、遺伝的関係が調べられ、1親等もしくは2親等の関係にある2点以上の標本では、既知の古代および現代の人口集団のデータと統合するさいに、網羅率のより高い標本が下流分析に含められました。以下は本論文の図1です。
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主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、現代人集団を用いて主成分(PC)が計算され、古代人標本が上位2構成要素に投影されました。PCの計算には、470607ヶ所のSNPが用いられました。ADMIXTURE分析では、220388ヶ所のSNPを用いて、教師なし分析が実行され、2~10のK(系統構成要素数)が検証されました。f統計では、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、X)のf₄統計が実行されました。標本DSQM2から黄河とアムール川と西遼河の人口集団Xを区別できる参照人口集団を見つけるため、参照としてアジア東部のさまざまな人口集団が用いられました。現時点での解像度を考えると、人口集団Xのすべてのf₄結果の有意ではないZ得点からは、人口集団X がWLR_BA_o2と密接な遺伝的関係を有する、示唆されます。混合モデル化はqpAdm第810版を用いて実行され、標本が1~3のあり得る供給源の組み合わせとしてモデル化され、潜在的供給源として選択されなかった人口集団は外群に追加されました。
●分析結果
標本DSQM2の非較正の直接的な放射性炭素年代は、夏家店上層文化と関連しています。標本DSQM2のmtDNA汚染率は2%未満と推定されました。標本DSQM2のmtDNAハプログループ(mtHg)はD4jで、その性別は男性でした。2点のSNP一覧、つまり、アフィメトリクス(Affymetrix)社「ヒト起源(Human Origins、略してHO)」とイルミナ(Illumina)社「124万」標本(Fu et al., 2015、Haak et al., 2015、Mathieson et al., 2015)を用いて、標本DSQM2の疑似半数体データが生成されました。それぞれのSNP一覧で、79460ヶ所と154754ヶ所が得られました。次に、これらのデータはさらなる分析のため、以前に刊行された古代人および現代人のゲノムデータ(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020、Wang et al., 2021)と統合されました。
●WLR_BA_o2の全体的なゲノム構造
WLR_BA_o2の全体的な遺伝的構造を調べるため、まずさまざまなアジア東部人集団でのPCAが実行されました(図2)。PCAの結果では、WLR_BA_o2と西遼河地域の他の古代の個体群は、黄河集団とアムール川集団との間に投影されました。WLR_BA_o2は、後期新石器時代~鉄器時代集団(YR_LNとYR_LBIA)の最も近くに投影されたWLR_LNとクラスタ化します(まとまります)が、WLR_MNとWLR_BAはアムール川集団およびWLR_BA_oに向かって、完全にアムール川集団とクラスタ化します(図2)。同様の結果は外群f₃分析で観察でき、WLR_BA_o2は黄河集団とクラスタ化し、WLR_MNとWLR_BAはともにクラスタ化し、次に黄河集団とクラスタ化しとます。対照的に、WLR_BA_oはAR_鮮卑_IAとクラスタ化し、古代アジア北部(Ancient North Asian、略してANA)集団との高い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図2です。
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モデルに基づく教師なしADMIXTURE分析では、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化する青色の構成要素と、ANA人口集団で最大化される黄色の構成要素と、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)で最大化される橙色の構成要素が観察されました(図3A)。WLR_BA_o2はYR_LNおよびYR_LBIAと類似した遺伝的特性を有し、黄河集団とクラスタ化しており、WLR_LNとWLR_BAはWLR_BA_o2と比較してANA関連祖先系統をより多く有していますが、WLR_BA_oはANA集団と一致しました。まとめると、これらの結果は、後期新石器時代黄河農耕民とのWLR_BA_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。以下は本論文の図3です。
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●銅器時代の西遼河地域における遺伝的多様性を示すWLR_BA_o2のゲノム特性
WLR_BA_o2と黄河(YR)およびアムール川(AR)および西遼河(WLR)の集団との間の遺伝的差異を定量化するため、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR/AR/WLR)のf₄統計で始めて、WLR_BA_o2の遺伝的特性がこれら3集団(YR/AR/WLR)と直接的に比較され、ここでの参照はアジア東部およびユーラシア草原地帯の95の現代および古代の人口集団を含む参照人口集団の一式です。WLR_BA_o2はYR集団のほとんどに対して有意でないZ得点、つまり、YR上流_LNを除くf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR集団)の範囲(−3.11 < Z < 2.50)と、AR集団のほとんどに対する有意なZ得点、つまりf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、AR集団)の範囲(−3.27 < Z < 5.52)を示す、と観察されました。WLR_BA_o2はYR_LNと最も密接な遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR_LN)の範囲(−2.24 < Z < 1.65)です。
西遼河地域に焦点を当てると、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN)と比較して、WLR_BA_o2はSEA祖先系統とより高い遺伝的類似性を、ANA祖先系統とより低い遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が−2.13と、f₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が3.71超です。この場合、SEAは台湾先住民のアミ人(Ami)、ANAはモンゴル_N_北方によってそれぞれ表されます。WLR_BA_o2はWLR_LNおよびWLR_BAと比較して有意ではないZ得点を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)の範囲(−2.637 < Z < 2.349)です。しかし、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)のほとんどの負の値範囲(−0.124 < Z < −1.340)との、わずかにより高いSEAとの遺伝的類似性を依然として観察できます。最後に、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点−3.18とf₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点5.05として示されるWLR_BA_oと比較して、SEA集団とのより高い遺伝的類似性と、ANA集団とのより低い遺伝的類似性を観察できます。
次に、qpAdm混合モデル化を用いて、青銅器時代WLR集団の祖先系統の割合が調べられました。黄河とアムール川と西遼河の3集団を用いて、WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2がモデル化されました(図4)。その結果、これら3集団の構成間で明確な区別が見つかりました。具体的には、WLR_BA_oはAR_EN祖先系統が93.8~100%と残りの黄河集団祖先系統でモデル化でき、WLR_BA_o2は黄河集団に100%由来するものとしてモデル化できます。対照的に、WLR_BAは黄河集団からの祖先系統57.6~61.1%と残りのAR_ENもしくはハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(HMMH_MN)の祖先系統でモデル化されました。一般的に、青銅器時代の3集団(WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2)の組成では有意な違いが観察され、これは青銅器時代西遼河集団の遺伝的多様性を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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●考察
西遼河は、内モンゴル自治区チーフォン市のヘシグテン(Keshiketeng、Hexigten)鎮の南西部から始まります。西遼河は、遼河へと合流し、最終的には渤海へと注ぐ前に、シラムレン(Xilamulun、Xar Moron、西拉木倫河)川や白岔(Baicha)川や紹浪(Shaolang)川や老哈(Laoha)川などいくつかの上流の支流と合流します。西遼河領域(北緯41度17分~45度41分、東経116度21分~123度43分)は面積が13万km²にわたり、中国北東部に位置しています。西遼河流域は、内モンゴル高原と松遼(Songliao)平原との間の移行帯に位置しています。この地域は、中華「文明」の発祥地の一つです。興隆窪文化と紅山文化と夏家店文化の繁栄は、中華「文明」の起源に重要な意味を有しています。興隆溝(Xinglonggou)遺跡に代表される興隆窪文化は、主要な作物としてキビとモロコシで乾燥地農耕活動を始めて、それは中国北部における乾燥地のうこうの重要な起源のひとつと考えられています。遼寧省の牛河梁(Niuheliang)遺跡に代表される紅山文化と遼寧省の二道井子(Erdaojingzi)遺跡に代表される夏家店文化も、中華「文明」の起源に顕著な影響を及ぼした、と考えられており、恐らくはそれぞれ、中原「文明」の起源の一つでした。西遼河流域の典型的な青銅器時代文化として、夏家店文化は1960年代に、内モンゴル自治区チーフォン市ソンシャン(Songshan)地区に位置する夏家店遺跡の発掘に因んで命名され、夏家店下層文化と夏家店上層文化の2種類が含まれます。
この地域は、雑穀農耕民と畜産を行なっている人々の交差点に位置しています。以前の学際的研究では、局所的な人口集団の生計戦略は気候変化とともに変わる、と分かりました。先行研究(Ning et al., 2020)は古代ゲノムの観点からこうした結論を裏づけ、遺伝学的変化を気候変動による人口移動と関連づけています。しかし、その研究(Ning et al., 2020)で報告された古代人の全個体はホルチン砂丘原(Horqin Dunefield)の北側に由来し、おもに畜産生計戦略と関連する西遼河の西部地域における人口集団の遺伝的特性を表しています。浮遊を通じての植物遺骸の回収と遺跡の空間分布から、異なる生計戦略が西遼河の西部地域と南部地域で採用されていたかもしれない、と示唆されます。しかし、後期青銅器時代におけるホルチン砂丘原の南側の人口集団の遺伝的特性は不明なままなので、この地域におけるゲノム特性の包括的理解が妨げられていました。
本論文では、先行研究(Ning et al., 2020)で報告されたホルチン砂丘原の北側の個体群とは明確に異なる、YR_LNとを形成する遺伝的祖先系統を有する青銅器時代のホルチン砂丘原の南側の1個体が報告されました。これは、西遼河南部地域における農耕活動が西部地域より相対的に強い、という以前の調査結果とも一致します。西遼河西部地域は比較的標高が高く南部地域より気温が低くなり、キビやモロコシに基づく広範な農耕活動に適していません。したがって、西遼河西部地域の人々は、ウシやヒツジの飼育など、畜産活動により従事しなければならなかったでしょう。気候悪化により遊牧民人口集団はアムール川から南方へと移動し、西遼河の西部に居住しましたが、黄河から到来したおもに農耕に従事していた人口集団は依然として、西遼河の南部の広範な地域に居住していました。
本論文は概して、後期青銅器時代の西遼河地域のホルチン砂丘原の南側の古代人1個体を報告し、この個体は先行研究で報告された個体群とは異なるゲノム祖先系統を有しており、遺伝的多様性の存在を示唆し、ある程度は、西遼河地域における遺伝的構造の知識を向上させます。この違いは、ヒトの移動における気候悪化に起因した可能性が高そうです。本論文は、この結論が不充分な標本規模に制約されており、この地域におけるさらなる考古学的研究が必要であることを認識しています。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化集団における、生業の違いに起因する遺伝的差異の可能性を示しており、ゲノムデータが得られている西遼河地域南部の夏家店上層文化集団はまだ1個体だけてなので、断定はできませんが、夏家店上層文化集団において生業の違いに対応した遺伝的構成の違いがあった可能性は高そうです。こうした遺伝的構成の違いは、気候悪化とともに、後期新石器時代~青銅器時代にかけて、アムール川地域から西遼河地域西部への人口移動があったためと考えられます。
アジア北東部人類集団の遺伝的構造は地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置しますが、黄河地域や西遼河地域では完新世に人類集団の遺伝的構成がかなり変容したようで(Ning et al., 2020)、これは、アムール川地域において少なくとも14000年前頃までさかのぼるかもしれない、人類集団の長期の遺伝的安定性(Mao et al., 2021)とは対照的なようです。また、黄河地域と西遼河地域の人類集団の遺伝的構成の変容には違いがあり、西遼河地域集団は、アムール川地域集団的な祖先系統と黄河地域集団的祖先系統の割合の変化が反映され、黄河地域集団では、黄河流域での後期新石器時代以降における稲作農耕の痕跡の増加とともに、前期新石器時代華南集団的な祖先系統(Yang et al., 2020)の割合が高まります(Ning et al., 2020)。
冒頭で述べたように、本論文は日本人起源論との関連でも注目されます。学際的な先行研究(Robbeets et al., 2021)では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統でモデル化されています。しかし、この見解に対して、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化集団関連祖先系統と夏家店上層文化集団関連祖先系統は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、夏家店上層文化集団関連祖先系統の代わりに紅山文化集団関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。
さらに、こうした弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先系統を夏家店上層文化集団関連祖先系統で一様にモデル化するのではなく、弥生時代と古墳時代とで、日本列島の人類集団のゲノムに占める主要な祖先系統には違いがあり、弥生時代にまず夏家店上層文化集団関連祖先系統のようなアジア北東部祖先系統が日本列島に到来し、古墳時代以降に黄河流域集団関連祖先系統のようなアジア東部祖先系統が日本列島に到来した、との見解も提示されています(Cooke et al., 2021)。これは、「縄文人」関連祖先系統と弥生時代以降の大陸から到来した一様な祖先系統との遺伝的混合により本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団のゲノムが形成された、とする従来の二重構造説に対して、三重構造説とも言えそうで、現代日本人の大規模で高品質なゲノムデータを分析したその後の研究(Liu et al., 2024)でも、三重構造説と整合的な結果が得られました。
しかし、この三重構造説(Cooke et al., 2021)は、弥生時代集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体のみに代表させている点で問題があるように思われます。それは、「縄文人」関連祖先系統の割合が現代「本土」日本人集団と同じくらい低い(つまり、アジア北東部とアジア東部を区別するのかはともかく、大陸部アジア東部的な祖先系統の割合が高い)弥生時代の個体が下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在するからです(Robbeets et al., 2021)。そのため、三重構造説では、「縄文人」関連祖先系統との推定混合年代は、アジア東部祖先系統(1748±175年前)よりもアジア北東部祖先系統(3448±825年前)の方が早いとはいえ、単純に、弥生時代に日本列島に到来したのが夏家店上層文化集団関連祖先系統的なアジア北東部祖先系統で、古墳時代に日本列島に到来したのが、黄河流域集団関連祖先系統とは、現時点で断定できないように思います。
重要なのは、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統や黄河流域集団関連祖先系統でモデル化できるとしても、夏家店上層文化集団や後期新石器時代以降の黄河流域集団が現代日本人の直接的な祖先集団と証明されたわけではなく、あくまでもそうした遺伝的構成要素でモデル化できるにすぎないことです。そこで注目されるのが本論文の知見で、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化において、アジア北東部祖先系統の割合の高い集団と、アジア東部祖先系統でゲノムを完全にモデル化できる集団が共存していたことから、西遼河地域およびその周辺地域を含めて黄河流域より北方のアジア北東部が、後期新石器時代~青銅器時代にかけてそうした状況だった可能性は高いように思います。つまり、日本列島への到来で、アジア東部祖先系統が(古墳時代よりも早くても)アジア北東部祖先系統より遅かったとしても、それは黄河流域からの直接的な到来ではなく、直接的な起源は西遼河地域およびその周辺地域にあり、朝鮮半島を経由したのではないか、というわけです。
日本列島にアジア北東部祖先系統やアジア東部祖先系統をもたらした集団が、 いつどこからどのように日本列島に到来したのかは現時点で不明と言うべきで、そのより確かな推測には日本列島とユーラシア東部大陸部の時空間的にさらに広範囲のゲノムデータが必要になるでしょう。おそらく、完新世において日本列島だけではなく朝鮮半島でも人類集団の遺伝的構成のかなりの変容があったのでしょう。朝鮮半島南岸では、中期新石器時代に日本列島「本土」現代人集団のゲノムと似たような割合の「縄文人」関連祖先系統とアジア東部および北東部祖先系統でモデル化できる個体が存在しますが(Robbeets et al., 2021)、これら朝鮮半島南岸中期新石器時代個体群により表される集団が、本当に「縄文人」を祖先に有しているのかはまだ断定できませんし(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団における「縄文人」由来のゲノム領域の断片化の程度を考えると、そうした集団が日本列島「本土」現代人集団の主要な祖先である可能性はきわめて低そうです(藤尾.,2023)。
日本列島と朝鮮半島の両地域では、現代人のような遺伝的構成は紀元前千年紀以降に形成された可能性が高いように思います。また、そうした形成過程では複数の多方向の移動があった可能性は高そうで、単純化には注意すべきでしょう。おそらく日本列島には、縄文時代晩期以降、まずアムール川地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が、その後で弥生時代のある段階以降に黄河地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が到来し、複雑な混合過程を経て日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が形成されたように思います。この間、日本列島「本土」の人類集団の遺伝的構成は、とくに弥生時代にはかなり不均一だったようで(藤尾.,2023)、日本列島「本土」における人類集団の遺伝的構成の形成過程を、時空間的に広範にわたって一様に解釈してはならないでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html
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2024/07/25 (Thu) 15:34:50
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日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究
2024.07.24
内城喜貴 / 科学ジャーナリスト、共同通信客員論説委員
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
「日本人の祖先はどこからやってきたのか」。このロマンに満ちた問いに対しては、祖先は縄文人と大陸から渡来した弥生人が混血したとする「二重構造モデル」が長くほぼ定説となっていた。そこに日本人のゲノム(全遺伝情報)を解析する技術を駆使した研究が盛んになり、最近の、また近年の研究がその説を修正しつつある。
日本人3000人以上のゲノムを解析した結果、日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高いことが分かったと理化学研究所(理研)などの研究グループが4月に発表した。この研究とは別に金沢大学などの研究グループは遺跡から出土した人骨のゲノム解析から「現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ」と発表し、「三重構造モデル」を提唱している。
理研グループの「3つの祖先系統」説は「三重構造モデル」と見方が重なり、従来の「二重構造モデル」の修正を迫るものだ。日本人の祖先を探究する進化人類学はDNA解析、ゲノム解析の技術という有力手段を手にして、大陸からさまざまな人々が渡来して現代の日本人につながった複雑な過程が見えてきた。今後さらに詳しい私たちのルーツが明らかになっていくだろう。それは「私たちの本質は何か」という壮大な探究テーマの回答を知ることにつながる。
大規模な日本人のゲノム解析により日本人集団の遺伝的構造を明らかにする研究の概念図(理研などの研究グループ提供)
祖先は「縄文系」「関西系」「東北系」の3つに
母から子へ受け継がれるミトコンドリアにはわずかながらDNAが含まれ(ミトコンドリアDNA)、これを解析することにより、母系の血縁の有無が分かって遺伝的なルーツを調べることができる。細胞核に存在する核DNAは両親から半分ずつ子に伝えられる。このため、その配列や突然変異の規模などを解析することで人類の混血、交流や移動を調べることができる。
「3つの祖先系統」説を発表したのは、理研生命医科学研究センターゲノム解析応用研究チームの寺尾知可史チームリーダー、劉暁渓上級研究員や東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センターの松田浩一特任教授ら。寺尾氏は静岡県立総合病院の免疫研究部長や静岡県立大学薬学部特任教授を兼任し、同総合病院や同大学も研究に参画した。
寺尾氏らの研究グループは、多くの人の血液や遺伝情報を集めて保存している組織「バイオバンク・ジャパン」を活用。北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄の7地域の医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を詳細に分析してゲノムの特徴を明らかにする膨大な作業を続けた。
その結果、日本人の祖先は主に、沖縄県に多い「縄文系」、関西に多い「関西系」、そして東北に多い「東北系」の3つに分けられることが分かった。さらに調べると縄文系の遺伝情報の割合(祖先比率)は沖縄県が一番高く28.5%、次いで東北で18.9%、関西では最も低く13.4%だった。
「二重構造モデル」に疑問提示
この祖先比率は縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があるとの以前の研究とも一致し、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。また、東北系も縄文人との遺伝的親和性が高く、沖縄県・宮古島の古代日本人や韓国三国時代(4~5世紀)ごろの古代韓国人に近かったという。
こうした研究成果は、縄文時代の狩猟採集民族である縄文人と弥生時代に大陸の北東アジアから渡来した稲作移民の弥生人の混血により現代の日本人が形成されたとする「二重構造モデル」に疑問を投げかける内容という。
現代人の祖先はネアンデルタール人やデニソワ人と交雑したとされている。一連のゲノム解析では、現代の日本人にネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだとみられるDNA配列も見つかっている。
デニソワ人から受け継いだ配列には興味深いことに2型糖尿病に関連するものも含まれていたという。DNAの解析は「病気感受性」をも明らかにして個別化医療に道を開くと期待されている。さらに詳しい分析が待たれる。研究論文は4月17日付の米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。
ゲノム解析による7地域の日本人集団は3つの集団に分けることを示す図。日本人の祖先が沖縄系(K1)、東北系(K2)、関西系(K3)の「3つの祖先系統」に分かれることを示す。(地域ごとの縄文系の祖先比率を示すグラフではない)(理研などの研究グループ提供)
人骨のゲノム解析から「三重構造モデル」提唱
理研などの研究グループの発表に先立つ2021年9月。金沢大学などの共同研究グループは、縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム解析した結果、現代の日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つことが分かったと、同じくサイエンス・アドバンシズに発表している。
この共同研究グループには当時の金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教や中込滋樹客員研究員のほか、アイルランドのダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授や鳥取大学の岡崎健治助教、岡山理科大学の富岡直人教授、富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長ら多くの研究者が参加した。
覚張氏らは、縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町)、縄文時代前期の小竹貝塚(富山市)、船倉貝塚(岡山県倉敷市)、縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市)、平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期の岩出横穴墓(金沢市)の 6 遺跡で出土した人骨から計12人分のゲノムを取得し解析した。そして既に報告されている国内の他の遺跡や大陸の遺跡の人骨ゲノムと比較した。
その結果、縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できたという。
この研究成果は、大陸の集団から分かれた縄文人が暮らしている日本に古墳時代までに2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したことを示唆しているという。そして研究グループは、従来の「二重構造モデル」に対して、新たに「三重構造モデル」を提唱した。
ゲノム解析に使われた試料の人骨が出土した遺跡の場所。○は新たな人骨ゲノムデータが得られた遺跡(金沢大学などの研究グループ提供)
縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持している(金沢大学などの研究グループ提供)
ゲノム解析と進化人類学の融合の賜物
金沢大学などの研究グループによる研究は、日本人の祖先を巡る見方に科学的根拠をもって新たな説を提示する画期的な成果だった。ただ、古人骨のゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていた。理研などの研究は大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいてこの三重構造モデルを裏付けた形だ。
これらの研究のほか、東京大学大学院理学系研究科の大橋順教授と渡部裕介特任助教らの研究グループは現代日本人のゲノムの中から縄文人に由来する遺伝的変異を検出する独自の手法を開発。都府県別にどの程度縄文人を受け継いでいるかという「縄文人度合」を推定し、その研究成果を2023年2月に発表している。
その度合には地域差があり、東北の青森、秋田、岩手、宮城、福島の各県や関東の茨城、群馬の両県、鹿児島県や島根県などは度合いが高く、近畿や四国の各県では低かった。「度合い地図」では縄文人度合いが飛び抜けて高いことが確実に予想された沖縄県と分析に重要なアイヌ人のデータが得られなかった北海道は除かれている。
また、縄文人は渡来人と比べて遺伝的に身長が低いことや血糖値が高くなりやすく中性脂肪が増えやすい傾向も分かったという。縄文人は農耕を営んでいた渡来人より炭水化物への依存度が低く、血糖値などを高く維持することで狩猟生活に適応していた可能性があるという。興味深い見方だ。
現代日本人のベースになっているのは弥生時代以降の渡来人であることは分かっていたが、東アジアの中で日本人を特徴付けるのは縄文人から受け継いだ遺伝的要素で、東京大学のこの研究は現代人の成り立ちは地域によってかなり異なることを示している。
都府県別「縄文人度合」。色が濃いほど度合いが高いことを示す(東京大学の研究グループ提供)
祖先集団の移動や複雑な混血の実相明らかに
今春発表された理研の研究成果も、それに先立つ金沢大学や東京大学の研究成果も、DNA、ゲノム解析の技術が進化人類学と融合した賜物(たまもの)と言える。日本人のルーツだけでなく、人類のさまざまな集団が持つ遺伝的変異の系統が明らかになって人類がどのように世界中に広まっていったかが分かってきた。
人類進化の研究に新たな視点を提供したデニソワ人の名を命名したのは、2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したドイツ・マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ教授だ。教授は約4万年前に絶滅したネアンデルタール人の骨片のゲノム解析を行ってゲノム配列を2010年に発表。欧州やアジアに住む現代人のゲノムの1~4%がネアンデルタール人に由来し、ネアンデルタール人が現生人類と交雑していた証拠を示した。
ペーボ教授はまた、2008年にロシア・シベリアのデニソワ洞窟から出土した骨片の核DNAの全配列を決定してデニソワ人と命名。世界各地の現生人類の核DNA配列と比較して東南アジアの集団では全DNAの4~6%がデニソワ人から受け継いでいることも突き止めている。進化人類学を大きく前進させた業績がノーベル賞受賞につながった。
日本の進化人類学や分子人類学研究の第一人者である国立科学博物館館長の篠田謙一さんによると、1981年に人間のミトコンドリアDNAの全配列が解読された。その後DNAを増幅する技術「PCR法」ができるなどして20年が経過し、2001年に人間一人分の核DNAの全塩基配列が明らかになった。「次世代シーケンサー」と呼ばれる装置の登場で核DNAの解析を短時間で大量にできるようになり、2010年以降、進化人類学は新しい段階に入ったという。
現生人類のホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑してそれぞれの遺伝子の一部を引き継いでいることを示すイメージ図(ノーベル財団提供)
時空を超えて人類、日本人の本質に迫る
篠田さんは日本人の成り立ちを探るために2018~22年に実施された「ヤポネシアゲノムプロジェクト」に主要メンバーとして参画し、日本人成立のシナリオを明らかにする数多くの研究成果を残している。ヤポネシアとはラテン語を組み合わせた造語で日本列島を表す。
今年1月に開かれた日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)主催の講演会(月例会)で篠原さんは「このプロジェクトで現代日本人につながるプロセスは弥生時代で止まっておらず古墳時代まで延びることが分かった」「縄文人のゲノムは全て読めているが本州の日本人では(平均)10%が縄文人の遺伝子で90%は弥生時代以降入ってきた遺伝子だ」などと説明した。
さらに「弥生時代にはたくさんの遺伝的変異を持った人たちがこの日本列島で暮らしていた。弥生人と言うが誰か1人をもって弥生人の代表とは言えない」と指摘。「日本人はどこから来たのかとよく言う。私も『我々はどこから来たのか』と自分の本のタイトルに書いたが、アフリカから来たことは分かっているので『日本人の成り立ち』と考える方がいい」と述べた。
さまざまな年代や地域で得られた試料のDNAを比較することが可能になり、出土された骨の形状の違いだけでは判別できなかった私たちの祖先の集団の移動や複雑な混血の経緯が分かってきた。日本人の成り立ちが、そして日本人のルーツは多様であることがはっきりしてきた。
「古代の人々のゲノムを調べることで当時の社会を知ることができるようになった。このことがこの10年のゲノム研究の進歩だ。こうした科学の進歩により社会とか人間とかを深く知ることができる」。篠田さんはこう強調している。
DNA解析、ゲノム解析は明らかに考古学や人類学を大きく変えた。約31億塩基対の「遺伝情報文字」が詰め込まれている細胞核のゲノム。それを読み解く現代の技術は時空を超えて人類や日本人の本質に迫っている。
関連リンク
理化学研究所 「全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴」
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
金沢大学「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/96414/
東京大学「縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の起源を探る」
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8252/
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
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2024/07/28 (Sun) 05:34:23
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弥生古墳渡来人の大移動をDNAで見てみよう!
みどりTV 2024/07/24
https://www.youtube.com/watch?v=iu6fGqAwzmQ
今日は古人骨のDNAで渡来系弥生人、 古墳人の動きを見てみたいと思います。特に古墳時代は民族大移動の一つと言えそうです。
■参考書籍
・篠田 謙一 新版「日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 NHKブックス:https://amzn.to/4cS5Qg0
・篠田 謙一 「DNAで語る 日本人起源論」 (岩波現代全書):https://amzn.to/3y8ptkW
・斎藤成也「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」:https://amzn.to/3Wx3g9K
・斎藤成也「DNAから見た日本人 (ちくま新書)」:https://amzn.to/3LzM5Os
■参考文献
・三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された複数個体のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_1.html
・Genomic detection of a secondary family burial in a single jar coffin in early Medieval Korea
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/ajpa.24650
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2024/07/28 (Sun) 15:28:39
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渡来人はどこから来たか【日本人のルーツシリーズ】
みどりTV 2024/07/28
https://www.youtube.com/watch?v=Zw2eHbKH2fM
今日は渡来人がどこから来たか、古人骨のミトコンドリアDNAで調べてみました。ミトコンドリアDNAのハプログループしか分からないため、あくまで可能性ですが、どの辺りから来たかの参考になると思います。
★更新:核ゲノムでの研究の紹介、mtDNAを使った個所の修正を行いました。
■参考書籍
・篠田 謙一 新版「日本人になった祖先たち」 DNAが解明する多元的構造 NHKブックス:https://amzn.to/4cS5Qg0
・篠田 謙一 「DNAで語る 日本人起源論」 (岩波現代全書):https://amzn.to/3y8ptkW
・斎藤成也「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」:https://amzn.to/3Wx3g9K
・斎藤成也「DNAから見た日本人 (ちくま新書)」:https://amzn.to/3LzM5Os
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弥生土器を開発したのは縄文人だった!?【日本の古代史シリーズ】
みどりTV 2024/06/04
https://www.youtube.com/watch?v=UyAhvPEIPfc
今回は「縄文人は遼河文明で弥生土器の技術を開発したか?」を調査します。
遼河下流域の偏堡文化で、弥生土器の特徴を備えた土器が開発されました。
そして、突帯文土器などが作られ、九州にも渡来してきます。
今回は現代人のYハプロで分かる範囲で調査していきます。
偏堡文化は、遼河文明では珍しいつぼ型土器を作った文化ですが、例えばアカホヤ大噴火で朝鮮に渡ったYハプロC1a1が偏堡文化に行けば、つぼ型土器も作るだろうと考えられるからです。上野原文化では既に弥生土器のつぼ型土器にそっくりな土器が出土しています。大陸は陶器が中心になっていくため、縄文人が偏堡文化で土器を改良したと考えると自然だと思います。
■参考書籍
・地図でスッと頭に入る縄文時代:https://amzn.to/46jUoX3
・宮本 一夫 「農耕の起源を探る: イネの来た道」 (歴史文化ライブラリー 276) :https://amzn.to/3Vzzv7P
・遠藤典夫「日本人と日本文化の起源を探る 第1部 朝鮮半島の先史考古学―旧石器時代から初期鉄器時代まで―」:(https://amzn.to/4bZESlW)
・安田喜憲「日本神話と長江文明」 (環太平洋文明叢書 2): https://amzn.to/4apjlls
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2024/10/23 (Wed) 08:45:30
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雑記帳 2024年10月17日
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体のゲノムデータを報告した研究(Kim et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本語の解説記事もあります。山口県下関市豊北町にある土井ヶ浜遺跡は、弥生時代の「渡来系」とされる人類集団が発見されたことで有名です。本論文は、土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体(D1604)のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人集団と比較することで、D1604が、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団的な3系統の遺伝的構成要素をすでに有している、と示しました。その遺伝的構成要素とは、「縄文人」関連とアジア東部および北東部関連です。
本論文は、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的な形成過程の解明に大きく貢献するでしょうが、弥生時代の人類集団においては遺伝的異質性が高いことにも注目せねばならないでしょう。こうした点も含めて、最後に「私見」の項目で日本列島「本土」現代人集団の形成過程について少し言及します。査読前論文(Ishiya et al., 2024)ですが、土井ヶ浜遺跡ではD1604だけではなく男性1個体のゲノムデータも得られており、こちらはD1604よりずっと高品質で、さらに、群馬県吾妻郡長野原町にある居家以岩陰遺跡の縄文時代早期の女性1個体の高品質なゲノムデータも報告されているので、査読誌に掲載されたら当ブログで取り上げる予定です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は以下の通りです。新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)。
●要約
本土日本人は、在来の縄文人とユーラシア東部大陸部からの移民に由来する二重祖先系統を有している、と認識されてきました。大陸から日本列島への移住は弥生時代から古墳時代にかけて続きましたが、これらの遺民、とくにその起源に関する理解は、弥生時代の高品質なゲノム標本の不足のため不充分なままで、混合過程についての予測を複雑にしています。これに対処するため、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体の全核ゲノムが配列決定されました。土井ヶ浜遺跡弥生時代1個体と、アジア東部とアジア北東部の古代および現代の人口集団の包括的な集団遺伝学的分析から、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体は古墳時代個体群および現代本土日本人と同様に、縄文関連とアジア東部関連とシベリア北東部関連の異なる3遺伝的祖先系統祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していた、と明らかになりました。非日本人集団のうち、アジア東部関連とシベリア北東部関連祖先系統を有する韓国人集団が、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体との最高度の遺伝的類似性を示しました。弥生時代個体群と古墳時代個体群と現代日本人についての混合モデル化の分析は、縄文関連と韓国関連の祖先系統を仮定する2方向混合モデルを裏づけました。これらの結果から、弥生時代と古墳時代の間の日本列島への遺民の大半はおもに朝鮮半島に由来した、と示唆されます。
●研究史
日本列島の先史時代は、新石器時代である「縄文時代」により表されます【縄文時代が新石器時代と言えるのか、異論もあるかもしれませんが】。「縄文」という名称は「縄の文様」を意味しており、縄を用いて製作される固有の文様のある土器によって特徴づけられる、縄文文化の独特な特徴を反映しています。縄文時代の期間についてさまざまな意見がありますが、考古学的証拠では、16500年前頃に始まり、少なくとも1万年間ユーラシア大陸部から孤立して存続した、と広く裏づけられています。縄文時代の主要な生計活動は狩猟と採集でした。水田での稲作は日本の九州北部へと3000年前頃となる縄文時代晩期末にもたらされ、弥生時代の開始を示しています。稲作はその後、中期~後期弥生時代に日本全域へと次第に広がりました。
日本人の歴史を説明するさまざまな仮説がありました。たとえば、「変容モデル」では、人々ではなく文化だけが大陸から到来した、と仮定されました。「置換モデル」は弥生人による在来の縄文人の完全な置換を示唆していますが、「交雑モデル」は在来の縄文人と大陸からの遺民との間の混合を提案しています。現時点では、古代の縄文時代と弥生時代の個体群の骨格の特徴に基づいて埴原和郎氏によって提案された、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」が広く受け入れられています。集団遺伝学的研究を通じて、二重構造モデルを裏づける強力な証拠が蓄積されてきました。アジア東部大陸部の人々で一般的に見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の存在だけではなく、ユーラシア大陸部の人々では一般的ではないものの、縄文人では一般的であるN9bおよびM7aなどのmtHg[8]や、D1a2a1a(M125)などのYHg[11]も、日本列島における縄文人とユーラシア大陸部からの遺民との間の交雑との仮説を裏づけます。
常染色体上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)に関する研究では、現代日本人の遺伝的構成要素は、アイヌ関連祖先系統とアジア東部大陸部関連祖先系統の混合として説明できる、と示唆されてきており、二重構造モデルの追加の証拠を提供します。さらに、地理的距離にも関わらず北海道のアイヌ集団と沖縄県の琉球諸島集団との間のより密接な遺伝的類似性を明らかにした研究は、日本列島本土へのユーラシア大陸部の人々の移住を示唆しています。二重構造モデルは基本的に正しいと考えられていますが、本土日本人の間では遺伝的異質性があり[19]、これは部分的には、縄文関連祖先系統の割合の差異に起因します[21]。これは、縄文人とユーラシア大陸部の遺民の混合が日本列島本土全体で均一に進行しなかったことを示唆しています。いくつかの研究も、古代の核ゲノムの解析を通じて、縄文人の起源を調べました。縄文人のゲノム解析から、縄文人系統は他のユーラシア東部系統の基底部に位置する、と明らかになりました[22~24]。しかし、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島へと移住したユーラシア大陸部の移民の起源は、弥生時代個体群の高品質な核ゲノムデータの不足のため、不明なままです。
最近の研究[25]は、古墳時代の3個体の新たに報告されたゲノムと、日本の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の以前に刊行されたゲノム[26]を用いて、弥生時代と古墳時代との間の日本人【日本列島の人類集団】の遺伝的特性における突然の変化を報告しました。先行研究[25]は、弥生時代と古墳時代の個体間の遺伝的構成要素の違いに基づいて、弥生時代にシベリア北東部から遺伝子流動が起き、古墳時代には、中国の漢人などアジア東部人からの独立した遺伝子流動が起きた、と示唆し、現代本土日本人の3方向混合モデルを提案しました。
しかし、3方向混合モデルを提案した論文[25]で提示された分析の特定の側面は、さらなる検討が必要です。大きな懸念は、使用された弥生時代標本の代表性です。九州北部とその周辺地域から発掘された弥生時代のヒト骨格遺骸は、測定分析に基づいて主要な2群に分類されてきました。九州北西部地域(長崎県とその近隣地域が含まれます)の弥生人は、低い顔面と低身長など縄文人と類似した形態学的特徴を示します。対照的に、九州北部と山口県地域の弥生人は、縄文人と比較してのより高い顔面と身長によって特徴づけられ、移民からの顕著な遺伝的影響が示唆されます。先行研究[25]で使用された弥生時代標本、具体的には下本山2号および3号は九州北西部集団に属しており、縄文人とアジア大陸部から到来した移民両方の構成要素を有している、と示されました[26]。弥生人の遺伝的特徴の包括的理解を得るためには、九州北部と山口県の集団からの標本調査も不可欠です。さらに、下本山2号および3号の配列データの品質は高くなく、網羅率は0.1倍未満です。したがって、弥生人と古墳人との間に顕著な遺伝的差異があったのかどうか、という問題にはさらなる研究の余地があります。
この研究では、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の古代の弥生時代1個体の全核ゲノム配列が決定されました。この個体は九州北部および山口県の弥生時代集団に属します。弥生時代から古墳時代にかけてのユーラシア大陸部からの移民の起源を解明するため、混合モデル化を含めて、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体のさらなる集団遺伝学的分析が行なわれました。
●資料と手法
山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期~中期の墓地である土井ヶ浜遺跡では、300点以上の弥生時代の個体の骨が発見されてきました。この研究では、ほぼ全身骨格を含む、土井ヶ浜遺跡で発見された標本ST1604のDNA解析が実行されました。ST1604の年齢は、3点の頭蓋縫合線の内側と外側が両方とも開いていることで証明されているように、若い世人と考えられています。ST1604の性別は、眼窩上弓に隆起がないことと、大坐骨切痕の角度がより大きいため、女性と考えられています。大腿骨の最大長から、ST1604の身長は149cmと推定されました。注目すべきことに、ST1604は長い形態の顔や高身長など、縄文人の典型的な形態学的特徴とは異なる独特な特徴を示しました。ST1604標本の放射性炭素(¹⁴C)年代は、2305±20年前(非較正)でした。IntCal20を用いての較正年代(95.4%の確率)は、紀元前405~紀元前361年(90.7%の確率)、紀元前275~紀元前263年(3.1%の確率)、紀元前243~紀元前235年(1.7%の確率)の範囲でした。本論文では以後、ST1604標本は、DNA解析の対象であるD1604標本と呼ばれます。
DNAはD1604の右側錐体骨から抽出され、mtHgが決定されました。核ゲノム解析には1本鎖ライブラリが用いられました。D1604の性別はX染色体とY染色体のマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの数に基づいて推定されました。他集団との比較のため、古代人についてはAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1.p1版の124万SNPデータセット[51]、現代人についてはヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)[52]とサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)[53]が用いられました。KING血縁係数で0.0844以上の各組み合わせから、1個体が無作為に除外されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果が信頼できないと思われる、外れ値個体も除外されました。124万データセットからユーラシア古代人のゲノムも抽出され[25、26、56~58]、さらに日本もしくは韓国の古代人のゲノム[23、26、59]が統合されました(古代人遺骸が発見された遺跡の場所は補足図1で示されます)。以下は本論文の補足図1です。
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PCAでは、現代の個体群から計算された主成分(PC)空間に古代人のゲノムが投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~5で実行されました。TreeMix第1.3版を用いて、最尤系統樹が再構築されました。縄文時代個体群は「縄文」の分類表示で1群に統合され、単純な系統樹が描かれました。フランス人、パプア人、ミヘー人(Mixe)、ウリチ人(Ulchi)、韓国人、日本人、漢人、シェ人(She)、アミ人(Ami)といった現代の個体群もしくは人口集団と、土井ヶ浜_弥生(D1604)、日本_本州_古墳、韓国の金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)遺跡で発見された個体群(韓国_金海_大成洞)[56]、縄文人など古代の個体群もしくは人口集団が含められました。いずれの集団にも呼び出し情報のないSNPの除外後に、940570のSNPが残りました。
f統計ではまず、ムブティ人を外群とするf3(ムブティ人;土井ヶ浜_弥生、X)が計算され、Xは本論文のデータセットのうち1人口集団です。外群f3は、土井ヶ浜遺跡弥生時代標本と最も密節那遺伝的類似性のある現代の人口集団の特定に用いられました。次に、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)でf4統計が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性の観点ではどの人口集団も現代の韓国人もしくは日本人集団を上回らない、との仮説が厳密に検証されました。これらの分析では、標準誤差の単位でのゼロからのf統計の偏差であるZ値も計算されました。さらに、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性がきわめて高いことを示す、縄文時代の下位集団が調べられました。縄文人1と縄文人2は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の個体(JpKa6904)に代表される日本_四国_縄文時代早期、縄文時代前期となる岡山県倉敷市の船倉貝塚の個体(JpFu1)に代表される日本_本州_縄文時代前期_船倉、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚の4個体に代表される日本_本州_縄文時代前期_小竹、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚の4個体に代表される日本_本州_中後期縄文、愛媛県愛南町の縄文時代後期となる平城貝塚の1個体(JpHi01)に代表される日本_四国_縄文時代後期、千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表される六通_縄文、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる縄文時代2個体に代表される船泊_縄文、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)に代表される伊川津_縄文から選択されました。混合モデル化では、これら縄文人集団が「縄文人」という分類名称の単一集団に統合されました。qpF4ratio第400版を用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の混合モデルの適合性と混合比が評価されました。フランス人が外群(outgroup、略してo)と設定されました。古代と現代両方の日本人(x)について、潜在的なユーラシア東部からの遺伝子流動源(b)と縄文人供給源(c)で混合モデルが検証されました。想定モデルの詳細は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
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qpWaveとqpAdm第1520版も実行され、ユーラシア大陸部人口集団の祖先系統もしくは遺伝子流動の最適な供給源での混合モデルが見つかりました。qpAdmモデル化の外群として、ムブティ人、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の上部旧石器時代の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)個体[66]に代表される北イタリア_ヴィッラブルーナ_HG、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群[67]に代表されるイラン_ガンジュダレー_N、北京近郊の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体[68]に代表される田園洞、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)で発見された11600~11270年前頃の1個体(USR1)[69]に代表されるUSR1、アミ人、中国山東省の變變(Bianbian)遺跡の9500年前頃の個体に代表される變變_EN[70]、中国福建省連江県の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体[70]に代表される亮島_EN、シェ人が用いられました。qpWaveが実行され、P=0.01の閾値で外群人口集団の独立性が評価された後で、qpAdmを用いて、古代と現代の日本人集団の祖先系統の供給源として、縄文人とアジア東部大陸部人口集団で2方向混合モデルが検証されました。さらに、標的人口集団について祖先系統の供給源として縄文時代とアジア東部とアジア北東部の人口集団を用いて、以前に提案された3方向混合モデルが評価されました。先行研究[25]で潜在的な遺伝子流動供給源として提案された、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(中国_HMMH_MN)がアジア北東部関連祖先系統の供給源として含められ、3方向混合モデルの適合性が判断されました。
●標本のゲノム情報
集団遺伝学的分析の実行前に、D1604のゲノム情報の品質が評価され、データの信頼性が確かめられました。正確な数値指標は補足表3および4に示されています。D1604の常染色体平均網羅率は2倍をわずかに超えており、124万SNPの常染色体SNPのうち約84.5%(1150639ヶ所のうち971776ヶ所)を網羅しています。これは、他の刊行されている弥生時代個体のゲノム[26、57]の網羅率が0.1倍を超えず、網羅されている124万SNPの数が5万ヶ所を超えないため、とくに注目に値します。
D1604標本の遺伝的性別は、性染色体のマッピングされた読み取り数に基づいて評価されました。この手法では、RY指標(Y染色体/[Y染色体+X染色体])信の頼区間(confidence interval、略してCI)95%の上限が、0.016未満ならば女性、0.075超ならば男性と分類されます。D1604のRY指標は0.00051で、95%CIの上限が0.00053なので、D1604の性別は女性と推定され、形態学的評価と一致します。
●mtHg
平均深度297倍で、D1604の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。ミトコンドリアゲノム全体の一致率は0.993超でした。この配列は古代DNA的な脱アミノ化パターンを示した、と確証されました。D1604のmtHgはD4h1a2と推定されました。mtHg-D4hの下位系統(つまり、D4h1b、D4h1d、D4h1e、D4h3b)は、中国の北部および中央部で顕著と報告されました[71]。
●D1604の古代および現在の韓国人集団との遺伝的類似性
土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)やアジア東部の古代人および現代人を含めてのPCA図は、図2で示されています。縄文時代個体群は本論文で調べられた他のアジア東部人口集団とは明確に離れて位置しており(図2A)、縄文人の祖先は他のアジア東部人と最初に分岐した、と示唆されます。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は古墳時代個体群とともに現代日本人クラスタ(まとまり)内に収まり、縄文クラスタとアジア東部大陸部クラスタの間に位置しています。日本人と韓国人と漢人の個体群のみのPCAでは、弥生時代の土井ヶ浜遺跡個体は遺伝的に、中国の漢人とよりも現代と古代両方の韓国の個体群と密接である、と示唆されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
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●D1604の遺伝的祖先系統
ADMIXTURE分析では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)の遺伝的祖先系統が、アジア東部とシベリア北東部の現代人、日本列島と朝鮮半島の古代の個体群とともに推定されました。交差検証誤差値に基づいて、K=3が現在の人口集団一式にとって祖先供給源人口集団の最も妥当な数と判断されました(図3A)。混合棒図示では、赤色と青色と黄色の構成要素が、それぞれ縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統に由来する、と解釈されました。以下は本論文の図3です。
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以前に報告されたように[25、72]、現代日本人は3系統の遺伝的構成要素を示しました。現代日本人28個体のうち、縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の平均割合は、それぞれ約10%と約80%と約10%でした。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の各祖先系統の割合は、縄文関連が約7%、アジア東部関連が約67%、シベリア北東部関連が約26%でした。この割合は、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代1個体や古墳時代個体群や現代日本人と類似していました。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体におけるアジア東部関連構成要素の顕著な量の観察は、アジア東部関連祖先系統の人口集団が古墳時代に日本列島へと移住した、と主張した上述の先行研究[25]と矛盾します。
興味深いことに、一部の古代の韓国の個体は、かなりの縄文関連祖先系統を有していました(図3B)。たとえば、朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡から発掘された1個体(TYJ001)は、先行研究[57]で報告されたように、ほぼ100%の縄文祖先系統を示しました。対照的に、現代の韓国の個体群は縄文関連祖先系統をほとんど示しませんでした。
●D1604とアジア東部人口集団との系統発生的関係
TreeMixを用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)とアジア東部人口集団との系統発生的関係が調べられました(図4)。混合事象を仮定下系統樹は本論文では示されず、それは、妥当な仮定的状況が再現されなかったからです。TreeMix系統樹では、縄文人集団がアジア東部大陸部クラスタと日本人クラスタの分岐前に他のアジア東部人口集団と分岐し、縄文人系統が系統発生的に他のアジア東部人口集団の基底部に位置することを裏づけます。以下は本論文の図4です。
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アジア東部人口集団は、図4では異なる2クラスタに区分されました。一方のクラスタには、現代の韓国人や中国の漢人やシェ人やアミ人などアジア東部大陸部人口集団が含まれました(アジア東部大陸部クラスタと呼ばれます)。もう一方のクラスタは、現代日本人や土井ヶ浜遺跡弥生時代個体や日本_本州_古墳や韓国_金海_大成洞といった人口集団で構成されています(日本クラスタと呼ばれます)。アジア東部人口集団のうち、現代韓国人集団は日本人クラスタの共通祖先に最も近い、と特定されました。この観察はPCAの結果と一致します(図2)。これらの結果から、韓国の個体群は遺伝的に中国の漢人の場合よりも日本人に近い、と示唆されます。
古代韓国の人口集団である韓国_金海_大成洞は、日本クラスタに含まれました(図4)。この明らかなクラスタ化は、先行研究[56]で示唆されているように、縄文人集団から韓国_金海_大成洞人口集団への遺伝子流動に起因するかもしれません。韓国_金海_大成洞人口集団と日本人集団との間の関係は、TreeMix系統樹から推測されるように、将来の研究で慎重に調べられるべきです。
●D1604と遺伝的に近い人口集団
2人口集団間で共有される浮動を明らかにする手段である外群f3統計分析で、日本人集団(古代の日本_本州_古墳と現代日本人)が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と遺伝的に最も密接で、古代と現代の韓国の人口集団がそれに次いで近い、と明らかになりました(図5)。韓国の古代人のうち、安島(Ando)遺跡の新石器時代個体(韓国_安島)は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な類似性を示し、弥生時代における日本列島への移民は、韓国の古代の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ば個体群や金海の大成洞遺跡個体群とよりも、韓国_安島の方と遺伝的に近い、と示唆されます。日本の古代人および現代人集団と現代の韓国人集団についてのf3統計は他のアジア東部現代人集団よりも大きかったものの、|Z|≤1の範囲を表す誤差棒は、一部のアジア人口集団と重なりました。以下は本論文の図5です。
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さらに、f4(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)が計算され、日本人集団と韓国人集団が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な現代人集団なのかどうか、確認されました。人口集団Xは|Z|=3の境界に基づいて分類されました。Z≥3の人口集団Xは観察されませんでしたが、−3 < Z < 3を示す人口集団Xは、日本の古代人集団か日本の現代人集団か韓国の古代人集団か韓国の現代人集団がXだった場合のみ検出されました。他のすべてのモデルで、Z値は−3未満でした。したがって、少なくとも本論文で検証された現代人集団では、日本人および韓国人集団に匹敵する程度で土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と遺伝的に密接な人口集団は存在しない、と結論づけられました。
●D1604と縄文時代個体群との間の遺伝的類似性
f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)のf4検定が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と最高の遺伝的類似性を有する縄文人集団が特定されました。本質的に、f4統計は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が遺伝的に縄文人2よりも縄文人1の方と密接な場合に正となり、逆の場合は負となります。この分析にはさまざまな期間とイセキの縄文人集団が含められました。各人口集団の古代人のゲノムの数が限定的であることを考えて、結果は|Z|=2の緩やかな基準を用いて解釈されました。f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;日本_四国_縄文時代後期、他の縄文人個体)ではZ < −2の負の値が得られ、日本_四国_縄文時代後期は他の縄文人個体と比較して土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と有意により強い類似性を示した、と示唆されます。
注目すべきことに、日本_四国_縄文時代後期が発掘された四国地域は、本論文のデータセットの他の縄文人標本が発掘された地域では、地理的に土井ヶ浜遺跡の最も近くに位置しています。この観察から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の縄文関連祖先系統は山口県の近くの地域に暮らしていた縄文人に由来した、と示唆されます。高品質な古代人のゲノムの限定的な数のため、決定的な証拠はまだ報告されていませんが、この結果は、縄文人集団における人口分化の可能性を示唆しています。これは、日本列島全域のさまざまな遺跡の高品質な縄文人ゲノムを用いて、さらに調べられるべきです。
●D1604の混合モデル化
モデルの適合性を評価し、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)を含めて古代と現代の日本の個体群における縄文関連祖先系統の割合を推定するため、f4比検定が実行されました。[0, 1]区間外にある混合割合は、モデルにおける適合性の欠如を示唆します。補足表6では、そうしたモデルの混合割合が赤色で示されています。図1で現代韓国人を「b」、他のアジア東部人を「a」に割り当てると、モデルが適切に整合しました。しかし、他のアジア東部人を「b」、現代韓国人を「a」と仮定する逆の筋書きは、混合割合(α)が1を超過したように、良好な適合を示しませんでした。シベリア北東部人と遺伝的に近い人口集団である、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)もしくはオロチョン人(Oroqen)のいずれかを「b」として仮定するモデルは、良好に適合しませんでした。これは、シベリア北東部系統と縄文人系統との間で共有される祖先系統に起因するようです[23、24]。
したがって、縄文人と現代韓国人を混合の供給源として仮定し、フランス人漢人をそれぞれ「o」および「a」と指定して、日本人集団について混合割合が推定されました(図6A)。このモデルでは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は韓国人関連祖先系統を89.6%、縄文人関連祖先系統を10.4%有している、と推定されました。古墳時代個体群と現代日本人も、約6~7%の縄文関連祖先系統を示しました。一方で、下本山岩陰遺跡の弥生時代1個体の縄文関連祖先系統の割合は、他の個体より顕著に高くなっていました。これはPCAの結果と一致し、PCAでは、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は縄文人の近くに位置していました(図2B)。以下は本論文の図6です。
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最後に、qpAdm分析が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体を含めて日本人集団について混合モデルが検証されました。この分析では、ひじょうに低いP値のモデルはデータと一致せず却下でき、[0, 1]区間外の推定された混合割合は無意味です。したがって、そうしたモデルはデータに不適切と考えられました。2方向混合モデルについて、縄文人および漢人祖先系統を仮定するモデルは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体に適合しませんでした。対照的に、縄文人祖先系統と韓国人祖先系統を仮定するモデルは土井ヶ浜遺跡弥生時代個体のみならず、古墳時代個体群および現代日本人でもより良好に適合しました。qpAdm分析から得られた日本人集団の混合割合の棒図は、図6Bに示されています。
qpAdm検定では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は12.9%の縄文人関連祖先系統と87.1%の韓国人関連祖先系統を有する、と説明されました(図6B)。qpAdm分析は外群人口集団一式の選択に対して顕著に敏感ですが、上述のf4比検定と類似の結果が得られ、本論文のqpAdm分析における外群一式は適切だった、と示唆されます。
同じ外群一式を用いて、縄文人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とアジア北東部関連祖先系統という、祖先系統の3供給源を仮定した3方向混合モデルの適合性も調べられました。この分析では、アジア東部関連祖先系統の供給源として漢人もしくは現代韓国人個体群が用いられた一方で、中国_HMMH_MNはアジア北東部関連祖先系統の供給源として用いられました。中国_HMMH_MNの1個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区のホルチン左翼中旗(Kezuozhongqi、科爾沁左翼中旗)のHMMH遺跡で発掘された古代人の標本1点です。中国_HMMH_MN個体がアジア北東部関連祖先系統の供給源として選択され、それは、中国_HMMH_MN個体が3方向混合モデルを提案した先行研究[25]でこの目的のため用いられたからです。漢人をアジア東部人口集団とみなすと、3方向混合モデルは日本人集団について適切な混合割合をもたらしませんでした(つまり、1もしくは複数の推定された混合割合が[0, 1]区間外となりました)。現代韓国人をアジア東部関連祖先系統の供給源として用いると、混合割合は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳については許容可能な範囲内に収まりました。しかし、中国_HMMH_MNの混合割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳が対象の事例では標準誤差より小さく、推定された混合割合が強く裏づけられなかったことを示唆しています。したがって、本論文の分析では、調べられた3方向混合モデルが限定的だったものの、3方向混合モデルが2方向混合モデルより優れて至る、との結論を裏づける肯定的結果は得られませんでした。
●考察
本論文の重要な調査結果の一つは、すべての分析において、現代人集団のうち、韓国人集団が日本人を除く他のアジア東部人口集団よりも土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との多くの遺伝的類似性を示したことです。これは、弥生時代における日本列島への移民がおもに朝鮮半島に由来することを示唆します。したがって、縄文人と移民の混合に関する遺伝学的研究はまず、韓国人が日本列島への移民の主要な供給源だった可能性を考慮すべきです。最も妥当な供給源人口集団を混合モデル化に用いない場合、結果は実際の歴史から大きく逸れるかもしれません。
本論文では、現代と古代の韓国の個体群は、先行研究[74]と一致して、かなりのユーラシア北東部関連構成要素とアジア東部関連構成要素を有している、と分かりました。したがって、縄文人集団との韓国人集団の混合、およびそれに続く日本列島の混合人口集団内の遺伝的浮動が、日本人で観察される主要な遺伝的祖先系統を説明できるかもしれません。日本人のゲノムにおける、縄文人構成要素に加えてアジア東部関連構成要素とシベリア北東部関連構成要素の両方の存在は、一方は弥生時代におけるシベリア北東部関連祖先系統を有する人口集団、もう一方は古墳時代におけるアジア東部関連祖先系統を有する人口集団と、別々の2人口集団が日本列島に独自に移住したことを必ずしも意味しない、と強調せねばなりません。
先行研究[25]では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体と古墳時代個体群で見られるユーラシア北東部関連構成要素は弥生時代にもたらされ、古墳時代個体群で観察され、弥生時代個体群では観察されない新たなアジア東部関連構成要素は古墳時代に出現した、と主張されました。しかし本論文では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体より年代の古い土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、縄文人関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統のみならず、かなりのアジア東部関連祖先系統も有している、と分かりました(図3B)。先行研究[25]では3方向混合モデルが提案されましたが、弥生時代と古墳時代と現代の日本の個体群に関する混合モデル化の本論文の分析は、縄文人関連祖先系統と韓国人関連祖先系統を仮定する2方向混合モデルを強く裏づけました。
先行研究[25]と本論文の間の不一致は、先行研究で分析された下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の独特な遺伝的特性に起因したのかもしれません。これら下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は、遺伝的に縄文人に近い、と報告されてきました[26]。本論文では一貫して、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体はPCA図では縄文人の近くに位置し(図2B)、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体における縄文人関連祖先系統の推定割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体よりもずっと高くなりました(図3B)。移民はアジア東部大陸部から到来したので、遺伝的に縄文人からより遠く、アジア東部大陸部人により近い弥生時代個体群は、移民の起源を解明するための分析により適しているようです。この文脈では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体ではなく土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、日本列島における混合の研究において弥生時代個体群の代表として用いられるべきです。
外群f3の分析から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は他の古代韓国の個体とよりも、現代韓国人および韓国_安島の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました(図5)。したがって、弥生時代における日本列島への移民は、現代韓国人もしくは韓国_安島と遺伝的により近い人口集団に由来していたかもしれません。現時点では、朝鮮半島のどの地域に移民の起源があるのか明確ではなく、弥生時代の始まった3000年前頃以降の多くの韓国の古代人のゲノムが、朝鮮半島からの移民がおもにどの地域に由来するのか、判断するのに役立つかもしれません。
ユーラシア東部人口集団は、南北の軸にそって遺伝的勾配を示す、と報告されてきました。ユーラシア東部大陸部では、より北方の人口集団がより高い割合のシベリア北東部関連祖先系統を有する一方で、より南方の人口集団はより多くのアジア東部関連祖先系統を有する傾向があります。本論文のすべての結果を考慮すると、最も妥当な仮定的状況では、アジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の両方を有する朝鮮半島の人口集団が、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に連続的に移住した、となります(補足図4)。この移住には、在来の縄文人との混合が含まれていました。現代本土日本人は、この混合人口集団の子孫と考えられます。日本列島のさまざまな遺跡の弥生時代と古墳時代の個体のゲノムのさらなる分析は、移民が縄文人と混合しながら日本列島全域にどのように拡大したのかについて、光を当てるでしょう。以下は本論文の補足図4です。
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●私見
本論文は弥生時代の「渡来系」とされる人類の遺跡として有名な土井ヶ浜遺跡で発見された女性1個体の、他の弥生時代個体よりも高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん貴重な成果として注目されます。本論文は、日本列島における人類進化史について、弥生時代にアジア北東部(本論文ではシベリア北東部)関連祖先系統を有する集団が到来して縄文時代から日本列島に存在する在来人類集団と混合し、古墳時代にアジア東部関連祖先系統を有する集団が到来して、弥生時代人類集団と混合して現代の日本人集団の遺伝的構成が形成された、とする先行研究[25]で提示された三重構造説に否定的な結果を提示しています。
確かに、本論文が新たに提示したゲノムデータは土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体(D1604)だけです。しかし、土井ヶ浜遺跡出土の男性1個体の高品質なゲノムデータを報告した査読前論文(Ishiya et al., 2024)とも大きく齟齬しない結果のようです。さらに、土井ヶ浜遺跡で発見された多数の人類遺骸の形態学的分析からも、D1604が土井ヶ浜遺跡の弥生時代人類集団において外れ値個体である可能性は低そうです。故に、すでに弥生時代中期の西日本においてアジア東部関連祖先系統をかなりの割合で有する人類集団が定着していた可能性はきわめて高そうという意味で、先行研究[25]で主張された三重構造説は支持されないことが示されたように思います。先行研究[25]でも、すでに弥生時代に古墳時代以降の人類集団と類似した遺伝的構成の集団の存在の可能性が指摘されており、その懸念が的中したわけです。
ただ、本論文でも改めて示されたように、D1604より新しく、地理的にも九州北西部と土井ヶ浜遺跡から比較的近い下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体で、D1604よりずっと高い割合の縄文人関連祖先系統が確認されたことは、弥生時代における日本列島の人類集団の遺伝的異質性の高さと、複雑な人口史を再び強く示唆しているように思います。弥生時代中期にはすでに現代日本人的な遺伝的構成の集団が日本列島本土に広く存在したわけではなく、日本列島本土現代人集団の形成過程はかなり複雑だった可能性が高そうです。じっさい、古墳時代にも、日本列島本土現代人集団よりもずっと高い割合の縄文人関連祖先系統を有する個体が確認されています(安達他.,2021)。現時点では思いつきにすぎませんが、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成の確立は、10世紀における多くの古代集落の消滅、その後の中世後期~近世にかけての「伝統社会」の成立まで見据える必要があるのではないか、と考えています。もちろん、近代や高度成長期における人口移動も無視できません。
本論文の見解をより深く理解するには、ユーラシア北東部の完新世の人口史を把握する必要があります。ユーラシア北東部の完新世人類集団の遺伝的構造は、ユーラシア西部現代人とアメリカ大陸先住民に大きな遺伝的影響を残した古代北ユーラシア人からの遺伝的寄与をひとまず考慮しないと、地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置します(Ning et al., 2020)。アムール川地域の完新世人類集団の遺伝的構成は比較的安定しているのに対して、西遼河地域の完新世人類集団の遺伝的構成は、アムール川地域関連祖先系統と黄河新石器時代関連祖先系統の割合が経時的に大きく変化します(Ning et al., 2020)。黄河地域完新世人類集団の遺伝的構成も経時的に変化しており、後期新石器時代には前期新石器時代華南集団関連祖先系統の割合が増加します(Ning et al., 2020)。分析対象集団やK(系統構成要素数)の異なるADMIXTUREの結果を安易に比較できませんが、本論文のアジア東部関連祖先系統とはおおむね、黄河新石器時代関連祖先系統を主体としつつ、前期新石器時代華南集団関連祖先系統が混合したもので、本論文のシベリア北東部関連祖先系統とは、おおむねアムール川地域関連祖先系統に相当する、と把握するのが妥当なように思います。
最近の研究(Zhu et al., 2024)で、西遼河地域南部の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、アムール川地域関連祖先系統が4割程度の個体群や、ほぼ完全にアムール川地域関連祖先系統でモデル化できる外れ値個体が確認されている一方で、雑穀農耕地帯の1個体のゲノムは、ほぼ完全に黄河地域後期新石器時代集団関連祖先系統でモデル化できる、と示されています。完新世の西遼河地域は、本論文で云うところのシベリア北東部関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統の交わる地域で、本論文によると、朝鮮半島も少なくとも中期新石器時代以降の人類集団は両祖先系統の交錯する地域で、三国時代の頃までは、これに縄文人関連祖先系統も加わっていたわけです。韓国の古代の個体でも、青銅器時代のTaejungni遺跡個体はほぼ完全にシベリア北東部関連祖先系統でモデル化されており、弥生時代の日本列島や青銅器時代までの西遼河地域と同様に、朝鮮半島でも少なくとも青銅器時代まで遺伝的異質性が高かったことを示唆しています。
ただ、こうした解釈には問題があります。それは、青銅器時代のTaejungni遺跡個体のゲノムデータの品質がひじょうに悪いことです[56]。これは、PCAでもADMIXTUREでも不正確な結果を招く危険性があります。同じことは、本論文で提示された宮古島の長墓遺跡個体群の解析結果にも当てはまります。長墓遺跡の2800年前頃の個体群は、ADMIXTUREほぼ完全に縄文人関連祖先系統で占められており、これは先行研究[57]と整合的です。しかし、4000年前頃の1個体(NAG016)は、PCAでは長墓遺跡の2800年前頃の個体群と明らかに離れて位置し、ADMIXTUREでは4割近くがシベリア北東部関連祖先系統で占められています。これは、宮古島の人口史における重要な手がかりとなるのかもしれませんが、先行研究(Jeong et al., 2023)で指摘されているように、NAG016の汚染が重度だったことと、その網羅率が低いことから、正確な遺伝的関係を反映していない、と考えるべきかもしれません。本論文で提示された日本列島と朝鮮半島の古代人のゲノムで高品質なのは北海道の北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃となる1個体(F23)だけでしょうから、日本列島や朝鮮半島やその周辺地域の高品質な古代人のゲノムデータを蓄積することで、これらの地域のより高精度な人口史を再構築できるようになるでしょう。
ゲノムデータ の品質の問題とともに、本論文の見解の一般層の受容においてもう一つ問題になるのは、古代人個体A(によって表される集団)と古代人個体B(によって表される集団)の遺伝的混合で現代人集団Cのゲノムがモデル化できるとしても、現代人集団Cの直接的な祖先が古代人個体Aによって表される集団と古代人個体Bによって表される集団と証明されたわけではない、ということです。本論文では、現代韓国人もしくは中期新石器時代の韓国_安島と遺伝的により近い人類集団が、弥生時代以降に日本列島に継続的(あるいは何度かの大きな移民の波があったのかもしれませんが)に到来した移民の祖先だった可能性を示唆します。ただ、これは現時点でゲノムが解析されているごく少数の古代人との比較からの推測です。朝鮮半島やその周辺地域においてゲノム解析された古代人の数はまだ限定的であることを考えると、弥生時代以降に日本列島に到来した現代日本人の主要な祖先集団はまだゲノム解析されていない可能性が高そうですし、そうした集団が中期新石器時代の時点ですでに朝鮮半島、さらには朝鮮半島南岸にまで達していたかはまだ不明で、当時は朝鮮半島以外の西遼河地域やその周辺地域に存在した可能性もじゅうぶんに考えられるでしょう。たとえば、そうした集団が西遼河地域やその周辺地域に存在し、現代韓国人の主要な祖先集団もその近くに存在して遺伝的に近縁だったならば、現代韓国人集団と縄文人集団で現代日本人集団をモデル化できることになりそうです。現代韓国人集団の主要な祖先集団が中期新石器時代からずっと朝鮮半島に存在したとは限らず、朝鮮半島でも新石器時代から三国時代にかけて、人類集団の遺伝的構成が大きく変容した可能性も、私は想定しています。
本論文は、現代本土日本人集団の遺伝的形成について、先行研究[25]の三重構造説に否定的な結果を提示し、上述のようにこの見解自体はおおむね妥当と思われます。ただ、これで二重構造説が復権したとは断定できず、日本列島やユーラシア東部大陸部の古代人の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、さらに細かい遺伝的区分が可能となり、三重構造説よりずっと複雑な日本列島の人口史が浮き彫りになるかもしれません。ただ、今後の現代本土日本人集団の遺伝的形成に関する研究がどう展開していくのか、現時点では想像が難しいところだとしても、縄文時代の日本列島の人類集団からの現代本土日本人集への遺伝的影響が、地域差はあれども10%前後でかなり小さい、との見解が大きく変わる可能性は低そうです。現代本土日本人集団の遺伝的形成について、述べ忘れていることがかなり多そうですが、気力が続かないので今回はここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
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32:777
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2024/10/25 (Fri) 17:05:10
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日本人の遺伝的ルーツ新事実
2024年10月22日
https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/
「私たち日本人はどこから来たのか?」
そんな遺伝的ルーツの謎について、新たな事実が明らかになりました。
これまでの説によると、現代日本人は在来の「縄文人」と朝鮮半島から来た「渡来人」の混血によって誕生したとされています。
しかし、この渡来人とは何者なのか? という遺伝的ルーツはよくわかっていませんでした。
そんな中、東京大学が山口県の土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代の人骨を遺伝的に解析。
その結果、渡来人は弥生時代に朝鮮半島から入ってきた「東アジア系」と「北東シベリア系」の遺伝子を合わせ持つ集団であることが判明したのです。
これは遺伝的に見ると、現代の韓国人に近いようです。
研究の詳細は2024年10月15日付で科学雑誌『Journal of Human Genetics』に掲載されました。
目次
渡来人はいつどこから入ってきたのか?
渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
渡来人はいつどこから入ってきたのか?
現代日本人(※)の遺伝的な形成過程にはいくつかの説があります。
(※ ここで現代日本人とまとめていますが、遺伝的にまた別の特殊なルーツを持つアイヌと沖縄の方々は除きます)
その中でも特に、著名な人類学者であった埴原和郎(はにはら・かずろう、1927〜2004)の提唱した「二重構造モデル」が研究者たちに広く受け入れられてきました。
これは「旧石器時代の後期(※)に日本列島に流入した集団の子孫である『縄文人』と、弥生時代から古墳時代(※)にかけて日本列島に入ってきた『渡来人』との混血によって現代の日本人が生まれた」という説です。
(※ 旧石器時代の後期は約1万2000年前で、弥生時代は紀元前10世紀〜紀元後3世紀頃、古墳時代は3〜7世紀頃です)
現代日本人はどのように誕生したのか? / Credit: canva
二重構造モデルは元々、古代日本人の頭骨の形態分析にもとづいて提唱されたものですが、これまでの遺伝子研究により、実際に現代日本人が縄文人と渡来人の混血集団の子孫であることが科学的に支持されています。
それらの遺伝子研究によると、現代日本人の核ゲノム(※)の成分は、
・縄文人に由来する成分(縄文系成分)
・東アジア系集団に特徴的な成分(東アジア系成分)
・北東シベリア系集団に特徴的な成分(北東シベリア系成分)
の3つに大別されることがわかっています。
(※ 核ゲノム:常染色体と性染色体の全遺伝情報のこと。ヒトの染色体は1つの細胞に46本あり、うち44本が常染色体で、2本が性染色体。
常染色体はタンパク質合成などの情報を持つ染色体で、性染色体は男女の性別の情報を持つ染色体です)
現代日本人の遺伝子を見ると、縄文人の遺伝子の割合はわずかに2割、残りの8割は東アジア系と北東シベリア系が占めています。
しかしこれら8割の成分を現代日本人がどのように獲得したのか、すなわち「渡来人がいつどこからきたのか」が具体的にわかっていなかったのです。
そこでチームは、山口県にある土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代人の遺骨を調べてみました。
渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
土井ヶ浜遺跡は山口県の西端、下関市の豊北町(ほうほくちょう)にある弥生時代の遺跡です。
本調査では、この遺跡で発掘された約2300年前の弥生時代人の遺骨を対象としました。
土井ヶ浜遺跡ではこれまでに約300体の遺骨が出土しており、それらの形態を調べてみると、弥生時代人は縄文人に比べて顔が長く、平坦な顔つきをしており、平均身長が2〜3センチ高くなっていたことがわかっています。
これらは渡来人のDNAによって付け加えられた特徴のようです。
DNAを抽出した約2,300年前の弥生時代人骨 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
チームは今回、土井ヶ浜の弥生人骨からDNAを抽出し、全ゲノム配列を解析することに成功しました。
そして渡来人のルーツを明らかにするため、縄文人・古墳時代人・現代日本人、さらに東アジア系および北東シベリア系集団のゲノムデータと合わせて統計解析したところ、次のことが確認されています。
(1)土井ヶ浜の弥生時代人は、現代日本人と同様に3つのゲノム成分を有していた
(2)土井ヶ浜の弥生時代人は、解析した集団の中で古墳時代人に最も遺伝的に近く、次いで現代日本人、古代韓国人、現代韓国人の順に近縁であった
新たに判明したゲノムの割合 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
これを踏まえてチームは次に、東アジア系および北東シベリア系の両方のゲノム成分を有する「現代韓国人」を日本列島に渡来した集団と仮定し、その集団が縄文人と混血して現代日本人が生まれたというモデルを評価しました。
その結果、この単純でシンプルなモデルが見事に、土井ヶ浜の弥生時代人、古墳時代人、および現代日本人のゲノム成分をうまく説明できることが判明したのです。
これらの結果は、東アジア系と北東シベリア系のゲノム成分をあわせもつ集団が弥生時代に朝鮮半島から日本列島に流入し、縄文人と混血して誕生した集団が現代日本人の祖先となったことを強く支持しています。
つまり、渡来人は今日の韓国人に近い東アジア起源であり、彼らが弥生時代に日本に流入し、土着の縄文人と混血したことで今日の日本人が誕生したと考えられるのです。
渡来人は現代韓国人に近い東アジア起源の集団 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
本研究の成果から、渡来人の具体的なルーツが解明されたことで、現代日本人の遺伝的な形成過程に対する理解が一層深まることが期待されています。
これまでの予想通り朝鮮半島から来た渡来人と縄文人の混血が日本人のルーツという考え方が変わるわけではありませんが、渡来人の遺伝的なルーツが明らかにされることで、よりはっきりと私たち日本人に至るまでの古代の人々の流れが見えてきました。
今日の私たちはどこから来て、どのように誕生したのか、その遺伝的な道筋が完全解明される日は近いでしょう。
参考文献
弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/
元論文
Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago
https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w
https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/