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ソ連とはどういう国だったのか

1:777 :

2022/10/28 (Fri) 03:25:48

ソ連とはどういう国だったのか

『ロシアのなかのソ連――さびしい大国、人と暮らしと戦争と』 著・馬場朝子
書評・テレビ評2022年10月27日
https://www.chosyu-journal.jp/review/24836

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E3%82%BD%E9%80%A3-%E3%81%95%E3%81%B3%E3%81%97%E3%81%84%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E3%80%81%E4%BA%BA%E3%81%A8%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%A8%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8-%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%9C%9D%E5%AD%90/dp/4768459250
 

ロシアのウクライナ侵攻が始まって10カ月が経とうとしている。日本を含む欧米世界では、「プーチンは狂っている」「なにをするかわからない悪魔」といった単色で塗り固められ、ロシアそのものを「悪」と見なす過剰な風潮までも覆っている。一方、ソ連崩壊から30年が経過した世界において、何がプーチンを「悪魔」のような行動に駆り立てたのか。そして1億4000万人いるロシア国民は現在をどう見つめ、何を思っているのか――について知る機会は少ない。9月に刊行された本書は、1970年代のソ連への留学経験を持ち、その後、テレビ番組ディレクターとして50年にわたりロシアとかかわり続けた著者が、そこに生きる人々との暮らしのなかで見たもの、感じたことをもとに現代に至るロシアの内面世界に分け入っている。



 著者は、1970年からモスクワ国立大学文学部に6年間留学し、帰国後、NHKに入局。ディレクターとして40本以上のソ連・ロシア関連ドキュメンタリー番組の制作に従事しながら、ロシア現地で取材を積み重ね、その変遷を直に目の当たりにしてきた。



 今年2月のウクライナ戦争勃発後、ウクライナ、ロシア双方の友人から戸惑いやショックの声を聞いた著者は、この戦争に至るまでの彼らの歴史をもう一度紐解き、その深みに何が蓄積され、その心はどのように屈折・葛藤し、これからどこを目指そうとしているのかについて本書で捉え直そうとしている。そこに戦争の要因を知る手がかりと事態収束のヒントがあると感じるからだ。



 「プーチンはかつてのソ連の復活を企んでいる」――最近よく聞く言葉だが、80年代以降に生まれた世代にとっては、そもそもソ連とは一体なんだったのか、社会主義国が具体的にどんな国だったのかを知ることは難しい。学校やメディアでも「独裁」「統制」「粛正」といった暗い出来事とともに、再考するにも値しない負の歴史として扱われてきた。



 では、失敗したはずの社会体制に戻ろうとする力が働くのはなぜなのか。ロシアの人々は本当にそれを望んでいるのか。ソ連崩壊から30年が経ち、資本主義の物質文明を受け入れたはずのロシアが西側諸国となぜこれほど対立するのか。「狂っている」で片付ければそれまでだが、解決するためにはその原因を探らなければ始まらない。隣国でありながら、日本ではその理解がすっぽりと抜け落ちていると思わざるを得ない。



 1970年、18歳で「資本主義国日本」から「社会主義国ソ連」へと赴いた著者は、当時受けたカルチャーショックそのままに素直な実感を綴っている。



 住居、教育、医療はすべて無料、失業者もホームレスもゼロ、市場競争がなく「平等」を重んじる価値観、男女間の差別もなく、むしろ女性が主役として力強く働く社会。その一方、すべてのことをトップ(クレムリン)が決め、一つのイデオロギーによって隅々まで統制される社会……人々の暮らしのなかにあらわれる人間関係や価値観のあるがままの描写は、その時代にソ連で生活した人にしかわからないものばかりで興味深い。



 国の指導者の思惑はどうあれ、人々は資本主義陣営との相剋のなかで社会主義陣営を率いる「偉大な祖国」を信じ、もがきながらも逞しく生きていたことが伝わってくる。時代的な制約からその良否は別として、「自己責任」「競争原理」が支配的な西側世界にはない生命力が、ロシア特有の歴史・風土とあいまって奥深く脈打っていることがわかる。



 著者は、当時「ソ連国内には190以上の民族が暮らしていたが、異なる言語、伝統、宗教を持つ人びとを社会主義イデオロギーが結びつけ」、ロシア人もウクライナ人もカザフ人も同じ「ソ連国民」であり、表立った民族差別はなかったとものべている。



ソ連崩壊から30年、ロシアの内面たどる



 だが1991年、世界数十カ国の社会主義陣営を率いたソ連は崩壊する。西側世界でそれは、閉ざされた門戸を開き、自由で豊かな未来がやってくる希望に満ちた門出のように受け止められた。だがそれは、計画経済のもと「平等」を重んじてきた社会システムや価値観を根底から否定し、食うか食われるかの過酷な生存競争への突入でもあった。



 「民主主義」の名の下に開かれたロシアは、たちまち欧米資本による市場争奪の草刈り場となった。市場競争に対する免疫も持たない人々が動揺、混乱している間に、すべて国営だった企業は民営化され、社会資本を独占して私腹を肥した新興財閥(オリガルヒ)が誕生し、町にはカジノが林立し、高級車に乗った成金がその富を誇示するようになる。汚職や賄賂、犯罪が増え、貧しい人々は路上で身の回りのものを売ったり、物質文明への憧れからアメリカに移住する人も急増した。



 そのため日本では当たり前のように肯定される「民主主義」の概念は、ロシアでは否定的ニュアンスで使われることがあるという。それが社会改革のスローガンとして使われたソ連崩壊後のロシア社会は、たちまち無秩序の大混乱に陥り、犯罪や腐敗という「悪の華」が真っ先に芽吹いたからだ。民主主義者(デモクラート)たちは、貧富の格差さえも「自由の一端」として肯定した。



 筆者は、当時の「忘れられない光景」として、モスクワ郊外の路上に立つ女性たちの姿を述懐している。「外はマイナス二十度の寒さ。車が通るたびに、コートの前を開けてミニスカートの足を見せる。食べられなくなって街娼になった女性たちの列だった。こんな悲しい現実を生む新生ロシアの民主化とはいったい何だったのだろうか」――と。大学教授よりも「掃除婦のおばちゃん」の方が偉かったソ連社会はまたたくまに変貌していったのだった。



 だが、たとえ国家体制が変わっても、人々の生きた経験はその記憶に深く刻まれている。ロシアの人々のなかにはソ連時代へのノスタルジー(郷愁)が根深く存在し、今それが広がっているという。著者は、西側に生きる人間に理解できない壁を吐露しつつ、「新生ロシアを取材するとき、資本主義の過酷さも再認識させられた」と自戒を込めてのべている。



 日本を含む西側世界では、ソ連崩壊は「資本主義の大勝利」として喧伝されてきた。確かに、米ソ冷戦の終結とともにソ連という国は姿を消した。だが、アメリカ一極体制となった世界はグローバル化が進み、資本主義先進国では、国内産業の空洞化とともに極端な富の集中によって殺伐とした格差社会が進行した(日本では「失われた30年」といわれる経済不況に突入する)。果たして今、西側に生きる私たちは、胸を張って「大勝利」といえる豊かさを享受しているだろうか。決してそうとは思えない。



 アメリカから新自由主義が流入した日本でも、80年代末から国鉄や郵便といった社会インフラが次々と民営化され、「競争原理」「受益者負担」の考え方のもとに社会的規制や公的サービスが切り刻まれ、社会のセーフティネットは脆弱化の一途をたどってきた。同じ30年間、一夜にして社会体制の転換という驚天動地を経験したロシアの人々の混乱と困難は、それ以上のものであろうことは想像に難くない。そのことを半ば諦めている日本人と、憤るロシア人。どちらが正常なのだろうか――という筆者の問いかけが胸に刺さる。「『社会の平等と公平』について、私はまだ、ソ連の試みと失敗を消化し切れていない」(著者)という課題とともに。



戦争を止めるためは? 手がかりを得る一冊



 そんな折、プーチンがロシア国内の支持を集めたのは、石油やガスなどの天然資源会社を国有化し、オリガルヒや欧米資本によって荒廃を極めた国内経済や人々の生活を安定化させたからにほかならなかった。この一事を鑑みても、「何がプーチンを生んだのか」を考えるとき、西側はただロシアを非難するだけの立場でいられるのかという問いが突きつけられる。



 同時に著者は、ソ連崩壊前の1979年、ソ連が現地の共産主義政権を後押しするために侵攻したアフガニスタンでの敗北が、その後のロシア社会に深刻な傷をもたらしたことに触れ、「アフガニスタンに、ソ連は十年かけて社会主義を根づかせようとし、アメリカは自分たちの民主主義を二十年かけて根づかせようとした。そして、結局両者とも失敗に終わった。その国の伝統や文化を無視して、他国に自らのシステムを押しつけることはできないと歴史は証明したのだ」とのべ、この負の経験から「プーチンが得た教訓はなんだったのか」とウクライナ侵攻を強く非難している。



 今、肉親といえるウクライナ人と殺し合う事態に対して、ロシア国内ではかつてなく反戦機運が高まっているという。本書にも掲載されているモスクワ市内に貼られた反戦ビラには、「ウクライナ戦争のNOを。政治家は権力争いをし、帝国を夢見る。そして国境を挟む二つの国の市民たちが苦しんでいる」と書かれている。西側が唱える「正義」でも、プーチンが主張する「国益」でもなく、激動の時代に翻弄されてきたロシアの人々の苦悩が垣間見える。



 ウクライナ戦争は、欧州とロシアに挟まれたウクライナを戦場に、冷戦時代は直接戦うことのなかった欧米(NATO)とロシアによる代理戦争の様相を呈している。ウクライナの背後にアメリカを見るロシア。そしてアメリカを筆頭とするNATOは、ウクライナ兵に戦わせつつ、武器供給や情報などにいたる戦争支援に勤しみ、犠牲者が増える一方で、その出口は見えない。これに端を発して新たな「冷戦」に突入する機運さえも高まるなか、戦争を食い止めるために私たち市井に生きる人間は、誰と連帯し、どこに解決の糸口を見つけるべきかが問われている。



 本書は、両国の人々と深くかかわってきた著者の血の通った分析がちりばめられており、平和を望む多くの人々、とくに若い世代に読まれ、論議されるべき一冊だと思う。



 (現代書館発行、191ページ、定価1800円+税)

https://www.chosyu-journal.jp/review/24836
2:777 :

2022/10/28 (Fri) 03:30:30

社会主義はそんなに悪いか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/702.html

世界で唯一成功した共産国家はバブル崩壊までの日本だけだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/117.html

戦後日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/830.html

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html

戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016765

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

ジェームズ斉藤 : GHQ は帝政ロシアやソ連からアメリカへ亡命した極左ユダヤ人だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014859

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html

アメリカ軍は日本国内のクーデターや共産革命を鎮圧する為に日本に駐留している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016725

日本の労働者の方がアメリカの労働者より裕福だった _ マンハッタンのダイソーは270円
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14027380

これが竹中平蔵先生の理想の国 アメリカ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14017630

3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/03 (Tue) 13:04:01

2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも 軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 05:17:30

2023.01.08XML
第2次世界大戦の終盤から始まる米英情報機関による対ロシア/ソ連戦争
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301080000/

 ロシア軍が新たな軍事作戦を始める時期を見計らっているのに対し、アメリカ/NATOは天然ガスのパイプライン「ノードストリーム」やクリミア橋(ケルチ橋)を爆破、ロシア領内へ深く入った場所にあるディアギレボ基地とエンゲルス基地を攻撃するなど破壊活動を活発化させている。

 ディアギレボ基地やエンゲルス基地の攻撃には一種の巡航ミサイルが使われた。1970年代にソ連で製造された偵察用ドローンのTu-141へ新しい誘導システムを取り付けたもので、アメリカの衛星に誘導さたと見られている。基地攻撃をアメリカ政府が許可した可能性は高い。

 ウクライナとの国境からディアギレボ基地は450キロメートル、エンゲルス基地は550キロメートルある。それだけの距離を改造ドローンが飛行したとは考えにくく、国境を越えた攻撃にともなうリスクをアメリカ政府が冒すとも思えない。以前から潜入していたエージェント、いわゆる「スリーパー」による攻撃だろう。ジャーナリストの​ジャック・マーフィー​も、CIAはNATO加盟国の情報機関を利用し、ロシアで破壊活動を続けていると書いている。

 全てのNATO加盟国に破壊活動を目的とする秘密部隊が存在することは本ブログでも繰り返し書いてきた。その秘密部隊はアメリカのCIAとイギリスのMI6を中心にネットワークを作っている。アメリカやイギリスの巨大資本にとって都合の悪い個人や組織を潰し、支配システムを守り、強化しようというわけだ。

 このネットワークの中で最も活発に動いてきたのは、イタリアのグラディオ。その存在自体が秘密にされていたが、1972年2月にイタリア北東部の森に設置していた兵器庫を子供が偶然見つけ、捜査が始まった。

 その翌月、ペテアノ近くの森で不審な自動車が見つかる。その自動車をカラビニエッリ(準軍事警察)の捜査官が調べはじめたところ爆発、3名が死亡した。その2日後に匿名の電話が警察にあり、「赤い旅団の犯行だ」と告げたが、勿論、これは嘘だった。

 そうしたこともあり、捜査は途中で止まる。その事実にフェリチェ・カッソン判事が気づいたのは1984年のことだ。判事は捜査の再開、捜査の過程で引き起こされた爆破事件で使われた爆薬がアメリカ/NATO軍が使うプラスチック爆弾C4だということが明らかになり、イタリアの情報機関SIDが事件に関係したことも判明した。なお、SIDは1977年に国内を担当するSISDEと国外を担当するSISMIに分割され、情報の分析を担当するCESISが創設されていた。

 ジュリオ・アンドレオッチ首相は1990年7月、SISMIの公文書保管庫の捜査を許可、その保管庫でグラディオという秘密部隊が存在していることを示す文書をカッソン判事は見つけた。

 証拠が出てきた以上、アンドレオッチ首相はグラディオの存在を認めざるをえない。そして1990年10月、首相は報告書を公表し、この組織が活動中だということも認めた。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)

 アンドレオッティ内閣の報告書によると、グラディオが正式な組織に昇格したのは1956年。幹部はイギリスの情報機関で訓練を受け、軍事行動に必要な武器弾薬は139カ所の保管場所に隠されていた。そのひとつが偶然、見つかってしまったわけだ。

 秘密工作を実行するのは独立した部隊で、主要グループの数は40。これらを統括していたのはサルディニア島を拠点としていたCIAで、活動資金を提供していたのもCIAだという。サルディニアの基地が設置されたのは1963年のことだ。

 イタリア政府がこの報告書を提出すると、NATOの広報担当はそうした種類の組織の存在を否定するのだが、翌日には別のスポークスパーソンが前の発言を撤回し、NATOはこうした種類の話にはコメントしないと言い直している。(Philip Willan, “Puppetmasters,” Constable, 1991)

 報告書が出た後、ギリシャのアンドレア・パパンドレウ元首相もNATOの秘密部隊が自国にも存在したことを確認、ドイツでは秘密部隊にナチスの親衛隊に所属していた人間が参加していることも判明した。またオランダやルクセンブルグでは首相が、またノルウェーでは国防大臣が、トルコでは軍の幹部がそれぞれ秘密部隊の存在を認めている。

 スペインの場合、「グラディオは国家だった」と1980年代の前半に国防大臣を務めたアルベルト・オリアルトは言っている。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)

 このネットワークの起源は1944年に編成された「ジェドバラ」。ドイツ軍の主力は1943年1月にスターリングラードでの戦いでソ連軍に降伏、事実上、戦争の帰趨は決していた。イギリスとアメリカがヨーロッパでの戦争に介入してくるのは事実上、それからだ。

 その流れの中でジェドバラは作られたのだが、目的はレジスタンス対策。レジスタンスの主力はコミュニストだった。イギリスはアメリカを巻き込み、ソ連とレジスタンスに対する戦争を始めたのだ。

 大戦後にOSSが廃止されると分析担当者は国務省へ、諜報/防諜担当者は陸軍省へ所属することになる。ゲリラ戦部隊のジェドバラの一部メンバーは軍へ移動してグリーン・ベレーをはじめとする特殊部隊の創設に関わった。(William Colby, “Honorable Men”, Simon and Schuster, 1978)

 ジェドバラ人脈は大戦後、アメリカのOPCにつながる。この機関は1950年10月にCIAへ吸収され、翌年1月にはアレン・ダレスがOPCとOSOを統括する副長官としてCIAへ乗り込んできた。1952年8月にはOPCが中心になり、CIAの内部に「計画局」が設置される。その存在は秘密にされたが、1970年代に存在と活動が明らかになって非難の声が巻き起こると、73年3月に「作戦局」へ名称が変更された。その後、これはすでに書いたことだが、2005年10月に「NCS(国家秘密局)」へ衣替えし、15年3月に再び「作戦局」へ戻っている。ベトナム戦争で住民を大量殺戮した「フェニックス・プログラム」もこの人脈が実行している。

 この作戦を始めたのはNSC(国家安全保障会議)のメンバーでCIAの分析官だったロバート・コマー。コマーはCIAの分析官で、秘密工作を東南アジアで始めることになる。1967年5月に彼はDEPCORDS(民間工作と革命的開発支援担当のMACV副官)としてサイゴン入りし、6月には彼の提案に基づいてMACVとCIAの合同プログラム「ICEX(情報の調整と利用)」を始動させた。

 ICEXはすぐに「フェニックス・プログラム」へ名称を変更。この作戦に参加していた将校や下士官は合わせて126名、殺人部隊は軍の特殊部隊から引き抜いて編成され、命令はCIAから出ていた。

 秘密工作の実働チームとして動いていたのは、CIAが1967年7月に組織した傭兵部隊のPRU(地域偵察部隊)。フェニックスは「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だ。

 1968年3月にMACV司令官はウィリアム・ウエストモーランド将軍からクレイトン・エイブラムズ将軍へ交代、その月にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で農民が虐殺されている。いわゆる「ソンミ事件」だが、これはフェニックス・プログラムの一環だった。

 こうしたアメリカ/NATOの秘密部隊ネットワークが対ロシア戦争を始めたということだ。その中心には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6が存在しているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301080000/
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/16 (Thu) 21:16:06

スターリン、赤い暴君 - 完全なドキュメンタリ - youtube
2022/12/17
https://www.youtube.com/watch?v=rVUD43as79c


1953 年 3 月 9 日、スターリンはモスクワで 100 万人の前で埋葬されました。真の半神にふさわしい葬式。 20 世紀の歴史の中で最も恐ろしい犯罪者の 1 人と見なされている男にとって、究極のパラドックスです。 30 年間の絶対的な統治の中で、「人々の小さな父」は 2000 万人以上の人々を死に追いやったからです...美しい理想の担い手は、すぐに忘れ去られ、彼に反対するすべての人々を恐れることなく打ち砕きます。」考えても」。

監督:イヴァン・ドゥムランドル、 マチュー・シュワルツ、セルジュ・ド・サンピニー
完全なドキュメンタリー
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/05/16 (Tue) 15:22:59

ワグネルトップで元囚人のプリゴジン氏が次期ロシア大統領候補!? クレムリンの内紛が核兵器使用に直結の恐れ… ジェームズ斉藤が解説
2023.05.13
https://tocana.jp/2023/05/post_250610_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

ワグネルトップで元囚人のプリゴジン氏が次期ロシア大統領候補!? クレムリンの内紛が核兵器使用に直結の恐れ… ジェームズ斉藤が解説の画像1
画像は「Getty Images」より
──5月3日にクレムリンにドローン攻撃がありました! 5月9日には対独戦勝記念日の式典もあってウクライナ情勢は大きく変わりそうですけど、どうなんですか!?

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ):3日のドローン攻撃はすぐに関係者に連絡を取って確認しました。オモチャのようなドローンが2機飛来して、クレムリンを攻撃しましたね。プーチンは執務室にはいなかったですし、大した被害も出なかったので、ロシア側が思っていた以上の話題になりませんでしたね。

──ロシア側? やっぱりあれはロシアの自作自演ですか?

ジェームズ:関係者からはそう聞いています。プーチンは事件後すぐにウクライナの仕業だと発表しましたが、ウクライナがこれをできるはずがありません。まずウクライナ本国からドローンを飛ばすのは不可能ですし、モスクワ市内からスパイがドローン飛ばしたにしても、ドローンを放った瞬間にFSB(ロシア連邦保安庁)に察知されて、スパイは捕まります。しかし、ドローンを放った人間がいまだ捕まっていないですからね。ということはウクライナの仕業のはずがないんです。これはもうロシアの自作自演で、具体的にはニコライ・パトルシェフ安全保障会議書記が作戦計画を作ってプーチンが承認したということのようです。

──しかし、なんのためですか? 3日ですから9日の対独戦勝記念日を睨んで、というのはわかりますが。

ジェームズ:その答えはワグネル(露民間軍事会社)のプリゴジン(同社創設者)の発言を聞けばわかるでしょう。ドローン攻撃の直後にプリゴジンは「ウクライナの反撃作戦が始まった」と言ったんです。「それなのにロシアのショイグ(露国防大臣セルゲイ・ショイグ)が補給を止めている。このままだったらバフムト(ウクライナ東部ドネツク州の激戦地)から撤退するぞ」と。

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プリゴジン氏(画像は「Getty Images」より)
──ここ最近、「ロシア軍からの補給がない、補給が十分じゃない」と言ってショイグ国防大臣やゲラシモフ露軍参謀総長を物凄く非難していますね、プリゴジンは。

ジェームズ:してますね。プリゴジンが動画で「ショイグ! ゲラシモフ! 補給はどこなんだよ! このクソ野郎ども!」と絶叫したのは吹きました(苦笑)。ああやってプリゴジンは二人を追い込んでいるんですよ。特にショイグを追い込んでいますね。今回のドローン攻撃も結局はショイグのせいになるでしょう。ショイグたちがワグネルへの弾薬補給を止めたからウクライナがドローン攻撃ができるような余裕が生まれたんだという理屈ですね。

──ショイグはワグネルになぜ補給しないんですか? 仲が悪いからですか?

ジェームズ:仲が悪いというよりはもはや敵同士と言ってもいいかもしれません。ショイグが補給を再開しないのはウクライナ戦争のいまの功績、たとえばバフムトの占領なんかをすべてプリゴジンのワグネルに奪われてしまうからです。それではロシア正規軍の立場がなくなってしまうので武器弾薬を簡単には渡すことができないんです。つまり、今回の一連の事件は全部クレムリン内部の権力闘争に関連していまして、ショイグを蹴落とすためにやられているのです。

 では、なぜショイグはここまで追い落としをかけられているのか、というと、ショイグがポスト・プーチンの座を狙っているからです。一方、クレムリン内の一部の勢力はポスト・プーチンの座をプリゴジンにしようと目論んでいる動きがあります。

──えっ、次のロシア大統領はプリゴジンか、ショイグかってことですか!?

ジェームズ:そうです。その布石としてクレムリンはプーチン病気説が出回るのを止めようとしていません。なにしろ、プーチンはもう70歳という高齢で世代交代の時期なんですよ。

──ん? 70歳って高齢ですか?

ジェームズ:ロシアでは高齢です。ロシアの平均寿命は男性だったら50代、60代ですから。ロシア人はウォッカの飲みすぎで寿命が短いんですよ。あとは医療のレベルが低いんです。医者の給料が学校の先生より下なので、みんな医者になりたがらないんです。そのため、ウラジオストクから韓国まで医療ツアーがあるくらいです。

──いま調べたら、ロシアの男の平均寿命が2020年で67.3歳ですね。1994年は57.6歳とか書いてありますから確かに低いですね。

ジェームズ:この10年ぐらいで伸びたんです。しかし、また下がります。コロナワクチンのパンデミックで人、特に幼児が多数亡くなっていますし、ウクライナ戦争では若者が25万人ぐらい犠牲になっていますから、平均寿命は絶対下がります。来年ぐらいからまた50歳代になるかもしれません。

──それを考えると70歳は高齢ですね。でも、これって別の意味でヤバくないですか、ここまで人が死ぬとロシアという国そのものが終わりませんか?

ジェームズ:ですから、ロシアは何度も亡国を経験していますから。結局、常にロシアってチキンゲームなんですよ、「亡国か、帝国か?」という。

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画像は「Getty Images」より
──「亡国か、帝国か?」って。どっちにしても最悪ですね(苦笑)。

ジェームズ:ですから、ロシアという国は精神科学の観点からも観察する必要がありますね(苦笑)。ロシアは基本的に精神分裂症であり、国内政治はブレまくります。何しろ、「地球上における神の代理国」を標榜する正教専制主義の帝政ロシアから、表向きは共産主義のフリをし、実は「ユダヤ系サタニスト独裁国家」のソ連に変貌し、今は帝政ロシアとソ連をごちゃ混ぜにしたようなプーチン・ロシアになっています。

──一応、民主国家になってるはずですが(苦笑)。

ジェームズ:民主国家に見えますか?

──いえ、プーチンの独裁国家です(苦笑)。

ジェームズ:ですよね(苦笑)。ですから、言ってることとやってることがデタラメで国内政治は常にメチャクチャです。しかし、国家戦略は一切ブレることなく、いくら亡国に成り果てても常に復活し、帝国になろうとする癖があります。そのため常に「亡国か、帝国か?」の二択になり、力の論理がすべてを支配します。ですから、プリゴジンのような犯罪者崩れの人間が暴れることができるんですよ。元犯罪者でホットドック屋から始めてここまで上り詰めたと。彼がここまで上り詰めることができたのは、KGB(ソ連国家保安委員会)にリクルートされたからです。ワグネルはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)系ですけど、元をすべてをたどっていくとプーチンのサンクトペテルブルクを拠点とする旧KGB派閥につながっていくんで、どちらかというと、GRUが旧KGB派閥に踊らされているのが実情なんです。謀略の謀略の謀略がうごめいているのがロシアです。さっきの「ロシアは亡国か帝国かしかない」と言ったクレムリン関係者の言葉で言うと、「戦争か革命かの将来しかない」のがロシアです。そういう運命しかないロシアにとって一貫性がどこにあるのかというと諜報機関です。諜報機関のみが一貫性を維持しています。なので国家戦略は一切ブレません。

──つまり、謀略の歴史しかないってことですか?




ジェームズ:イワン雷帝の頃からオプリーチニナという組織がありましたし、帝政ロシアのころはオフラーナというのがありました。オフラーナとは、あの「日露戦争の最強スパイ」の明石元二郎大佐を追っかけ回していた秘密警察です。ソ連創設時はチェーカ、チェーカからKGBになって、いまはFSBです。KGBのミッションというのは、ロシア崩壊を防ぐためにクレムリンを国内の脅威から守ることです。

──つまり、クレムリンを守ることなんですね。でも、クレムリンって何なんですか? ロシアじゃないんですか?

ジェームズ:クレムリンはロシア人を搾取する上級国民の集まりだと思ったらいいと思います。異民族からなる上級国民ですね。ですから、ロシアの最大の資源は石油でもゴールドでもなくロシア人という労働力です。ロシア人を奴隷として搾取する特権を得た集団がクレムリンです。ロシアの人口は約1億4千万人くらいですが、その99%が奴隷であり、世界有数の規模の奴隷制を有しています。

──そういうことか。それがわかるとロシアでいま何が起こっているかというのがわかりますし、ジェームズさんがよく言っている「クレムリンはロシア人がどれだけ死んでも構わない」って言葉の意味が実感できますね。

ジェームズ:そうです。クレムリンにいる異民族の上級国民が、ロシア人奴隷の上に君臨しているのがロシアです。そしてクレムリンの守護神がKGBなどの諜報機関になります。ですから親ロシアの安倍さんも日本をクレムリン式に統治しようとしたんです。警察官僚をバンバン抜擢して官邸を守ったんです。安倍さん自身は朝鮮系ですからね。なので、あんなにプーチンに憧れたんですよ。

──そういえば安倍さんになってから急に官邸の力が増しましたね。

ジェームズ:官僚の人事も全部握ってしまいましたからね。あれは「官邸のクレムリン化」でした。クレムリンこそが世界史における独裁の典型であり、理想の形なんですね。

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プーチン大統領とショイグ氏(画像は「Getty Images」より)
──いまの話でロシアという国がようやく見えてきました。で、話を元に戻しますが、いまポスト・プーチンの座を巡ってプリゴジンとショイグが戦っていて、プリゴジンが優勢だと。

ジェームズ:ショイグはプーチンに取って代わろうとしていましたからね、ずっと。プーチンも高齢ですからいずれ必ず後継者問題が出てくるんですよ。その後継者問題が起こる前に自分で先手を打っているんです。それが今回のウクライナ戦争におけるプリゴジンの台頭なんです。

──プーチンとプリゴジンは結託しているんですか?

ジェームズ:いえ、完全にプーチンから指示を受けているわけではないと判断しています。プーチンのやり方というのは下にいる人間たちを競わせてそこで生き残ったものを自分の後継者にするやり方です。つまり、プリゴジンの台頭も、ショイグを追い落とせるかどうかにかかっていると思います。

──ショイグは強いんですか?

ジェームズ:以前は国民にメチャクチャ人気がありました。プーチンよりもショイグのほうが政治デビューは早くてエリツィン政権時代の初期に非常事態大臣になっていたんですよ。それですごい人気を得て、ショイグのカレンダーができているほどです。

──確かプーチン・カレンダーもありましたよね。

ジェームズ:プーチン以外でカレンダーを出しているのはショイグだけで、カレンダーは人気のバロメーターになるわけですよね。実は政治家としてのカリスマ性はプーチンよりもショイグのほうがあるんです。しかし、プーチンはショイグだけは後継者にしたくない理由もあって、それは彼の血筋です。ショイグは父親がモンゴル系(トゥヴァ人)で母親がロシア系です。彼にはユダヤの血が入っていないんです。しかし、クレムリンのトップはソ連以降ユダヤ人しかなれないので、このルールからいうとショイグは外れることになるんですよ。

──プリゴジンはユダヤ人ですか?

ジェームズ:ユダヤ人です。しかも、出身地はサンクトペテルブルクなのでプーチンと同胞です。なので、ますますプリゴジンは後継候補にふさわしいんです。

──あんな下品なことばっかり言ったり、やったりしている男が次期大統領ですか(苦笑)!?

ジェームズ:はい。そもそもそのような言動が世界に発信されているということは、クレムリンのお墨付きをもらっているからです。ということはプーチンが許可していることですから、現在のところ彼が次期大統領の最右翼ではあるんです、ウクライナ戦争次第ではありますが。

──そうなると余計ショイグは武器を送るわけにいかないってことですね。

ジェームズ:かといって送らなければ送らないで占領地を取られてしまいます。ですから、ショイグはいまかなりチェックメイト状態ではありますね。

──じゃあ、ウクライナ戦争はどうなるんですか?

ジェームズ:ワグネルが今後事実上の正規軍になる可能性が高いです。ロシア軍の補給をワグネルに移したらワグネルが正規軍化しますので正規軍の役割を担うと。ただ、そうなったとしても依然として正規軍ではないので、ワグネルの「事実上の正規軍化」は恐ろしいと思っています。

──なぜですか?

ジェームズ:つまり、「ワグネルが核兵器を使ったら誰のせいになるのか?」ということです。ワグネルは民間軍事会社ですからプーチンの責任にはならないはずなんです。

──核の脅威が増大すると!?

ジェームズ:ショイグが失脚したらですけど。 しかし、確実に核の脅威は高まりますね。ですから、注意が必要なんです。
7:777 :

2023/06/05 (Mon) 09:54:30

2023.06.05XML
COVID-19騒動と同様、 西側メディアは天安門事件でも宣伝機関に徹していた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306050000/

 中国では1989年4月15日から6月4日までの期間、新自由主義を支持する学生らが中国政府に対する抗議活動を天安門広場で行っている。この活動を指揮していたのはジーン・シャープで、背後にはジョージ・ソロスもいたとされている。学生たちと結びついていた趙紫陽の後ろ盾は鄧小平だ。

 その趙紫陽は1984年にロナルド・レーガン米大統領とホワイトハウスで会談、新自由主義化を推進したのだが、この政策は深刻なインフレを招き、社会は不安定化して胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥った。胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなる。

 そうした中、1988年に新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンは妻を伴って再び中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談しているが、中国政府はその年に「経済改革」を実施した。労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正したと言えるだろう。

 こうした軌道修正に学生は反発。そうした中、1989年4月15日に胡耀邦は死亡した。その死を切っ掛けに天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれることになる。

 1989年1月にはジョージ・H・W・ブッシュがアメリカ大統領となっている。この出来事も中国で反政府活動が激しくなる大きな要因だ。大統領に就任した直後にブッシュはイギリスのマーガレット・サッチャー首相とソ連を崩壊させることで合意している。

 ネオコンが台頭したジェラルド・フォード政権時代の1976年1月から77年1月にかけてブッシュはCIA長官を、また81年1月から89年1月まで務めている。副大統領時代にイランやニカラグアに対する秘密工作でも重要な役割を果たしたが、エール大学時代にCIAからリクルートされたと言われている。

 エール大学でCIAのリクルート担当はボート部のコーチを務めていたアレン・ウォルツだと言われているが、そのウォルツとブッシュは親しかった。しかもブッシュの父親であるプレスコットは銀行家から上院議員へ転身した人物だ。

 ウォール街時代、プレスコットはナチスへ資金を流す役割を負っていたひとりで、ウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しい。言うまでもなく、ダレスはOSSからCIAまで秘密工作を指揮していた人物である。ブッシュはカリブ海で活動した後、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めている。

 大学時代にジョージ・H・W・ブッシュと親しかったジェームズ・リリーは1951年にCIA入りしたと言われているが、そのリリーをブッシュ大統領は中国駐在アメリカ大使に据えた。リリーは中国山東省の青島生まれで中国語は堪能だ。

 1980年代にソ連共産党の書記長を務めていたミハイル・ゴルバチョフはニコライ・ブハーリンを研究していたグループに属し、西側の「民主主義」を信じていた人物。そのゴルバチョフをブッシュやサッチャーは1991年7月にロンドンで開催されたG7首脳会談へ呼び出し、そこで新自由主義の導入を求めている。その要求を拒否したところでゴルバチョフの失脚を西側は決めたのだろう。

 そして1991年8月にソ連では「クーデター未遂」があり、それが切っ掛けになってゴルバチョフは実権を失う。そして西側支配層の操り人形だったボリス・エリツィンが実権を握り、ソ連を解体へと導くことになるわけだ。エリツィンは12月にベラルーシのベロベーシで勝手にソ連の解体を決めた。

 この出来事と並行する形で中国の反政府活動は激しくなった。西側の政府や有力メディアは6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名を殺したと主張している。広場から引き上げる戦車をクローズアップした写真を使い、「広場へ入ろうとする戦車を止める英雄」を作り上げているが、この写真が撮影されたのは6月5日のことだ。

 西側では6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名が殺されたとされているのだが、これを裏付ける証拠はなく、逆に広場での虐殺を否定する証言や証拠写真がある。

 例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信を見たというAFPの話を流したのだ。

 しかし、これはドナルド大使自身が目撃したのではなく、「信頼できる情報源」の話の引用。その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できる。

 また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで群集への一斉射撃はなかったとチリの2等書記官だったカルロス・ギャロは話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)

 イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)

 治安部隊とデモ隊が激しく衝突したのは広場から8キロメートル近く離れている木樨地站で、黒焦げになった複数の治安部隊員の死体が撮影されている。このデモ隊は反自由主義を主張していたともいう。

 吾爾開希をはじめとする反政府活動の学生指導者たちはイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのは米英の情報機関、つまりCIAとMI6だ。吾爾開希はハーバード大学で学んだ後、台湾へ渡って独立運動に参加、つまり台湾で軍事的な緊張を高める仕事を始めた。

 先日、NHKはニュース番組の中で COVID-19を取り上げた際、「ワクチン」の危険性を訴える遺族の発言を「編集」、「ワクチン」でなくウイルスによって死んだと語っているように伝えていた。

 こうした手法はウクライナでの戦闘でロシアを中傷するために使っている方法と基本的に同じだ。こうした偽情報の流布は1990年代から激しくなり、2011年春のシリアやリビアへの軍事侵略以降、事実を探し出すことが困難になったが、「天安門事件」でもそうした偽情報の流布があったわけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306050000/
8:777 :

2023/06/14 (Wed) 12:43:41

工作のため、イギリスは留学を利用してきた。崩壊直前の帝政ロシアを支えていたのは大地主と産業資本家。ドイツとロシアを戦争させたいイギリスはロシアの支配層にネットワークを作っていた。その中心人物が有力貴族のフェリックス・ユスポフ。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子ども、スティーブン・アリーが1876年2月に誕生しているが、のちにMI6のオフィサーになった。フェリックスが生まれたのは、その11年後だ。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだ。クラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになる。また在学中、フェリックスはブリングドン・クラブに入っている。

 クラブのメンバーは多くがイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そしてナット・ロスチャイルドも含まれている。

 こうした仕掛けのほか政略結婚もあり、 ロシアのエリート層にはヨーロッパへの憧れを抱く人が少なくなかった。フェリックスたちはドイツとの戦争に向かうが、それに反対したのがグレゴリー・ラスプーチン。ロシアとドイツを戦争させるためにはラスプーチンを排除しなければならない。そこで1916年12月30日にラスプーチンは暗殺される。フェリックスが殺したとされているが、使われた銃弾の口径からフェリックスが真犯人だと推測する人もいる。

 ロシア革命当時から最近までロシアのエリート内には「親ヨーロッパ派」とまでは言えなくとも、欧米を信じている人は少なくなかったが、状況に変化が見られる。ロシア連邦院議長を務めるワレンチナ・マトヴィエンコの発言から判断すると、欧米幻想からロシア人は抜け出しそうだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306130000/
9:777 :

2023/07/14 (Fri) 02:43:32

ジョージ・ソロスを含むネオコン、つまりセシル・ローズ人脈

 この人脈はシティ(金融資本)と関係が深く、20世紀初頭からドイツとロシア/ソ連を戦わせようとしてきた。ロシアの有力貴族だったユスポフ家に対する数十年にわたる工作があったように見える。

 ロシアとの戦争に積極的だったユスポフ家にはイギリス人の家庭教師がいた。その家庭教師の子どもがサンクトペテルブルクにあったユスポフ家の宮殿で生まれている。スティーブン・アリーだ。その11年後にフェリックス・ユスポフが誕生、後にイギリスのオックスフォード大学へ留学し、ブリンドン・クラブへ入っている。留学先で親密な関係になったオズワルド・レイナーは流暢なロシア語を話した。アリーとレイナーは大学を卒業した後、イギリスの対外情報機関で金融資本と緊密な関係にあるMI6のエージェントになっている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ヨーロッパでは1914年7月28日にオーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して大戦が勃発、帝政ロシアではドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主が対立した。

 産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがついていた。ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがいる。ドイツとロシアを戦わせようとしていたイギリスにとってラスプーチンは邪魔な存在だ。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。

 入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。

 ラスプーチンが暗殺された後、1917年3月に「二月革命」で帝政ロシアは崩壊、産業資本家を後ろ盾とする臨時革命政府が成立した。この政権は戦争を継続する。そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキに目をつけた。

 しかし、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキは武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。レーニンはフィンランドへの亡命を余儀なくされた。

 この時、臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍。労働者や兵士を味方につける必要性を感じたのか、臨時政府は7月にエス・エルのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。

 ところが、コルニーロフが8月にクーデターを企てる。この武装蜂起にケレンスキー政府は対応できず、ボルシェビキに頼ることになった。そして十月革命につながり、革命政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。

 レーニンの命令でボルシェビキ政権はドイツとの戦争を停止。アメリカが参戦、兵員を送り込んだほか、イギリスやフランスに物資を供給してたこともあり、ドイツは戦争に負けた。

 しかし、そうした経緯があるため、大戦後、ドイツとソ連の関係は良好だった。両国の関係が悪化するのはドイツでナチスが実権を握ってからだ。ナチスはイギリスやアメリカの金融資本から資金的な支援を受けていたことがわかっている。

 第2次世界大戦でドイツはソ連に負けた。 アメリカやイギリスがヨーロッパで戦争に参加するのはスターリングラードでの戦闘でドイツ軍が敗北、1943年1月に降伏してからだ。ウィンストン・チャーチルが大戦を勝利に導いたという主張は戯言にすぎない。

 チャーチルの側近で、NATOの初代事務総長になるヘイスティング・ライオネル・イスメイはドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を始めて間もない1941年10月の段階で、モスクワは3週間以内に陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)その推測通りに進まないことを見てイギリスやアメリカは動き始めたのだ。

 ナチスがソ連/ロシアを征服してくれることを米英の支配層は期待していたのだろう。ただ、アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトは反ファシズムで、植民地に反対だ。帝国主義者のウィンストン・チャーチルとは立場が違うため、両者の関係は悪かった。チャーチルはセシル・ローズの直系で、「最初のネオコン」とも呼ばれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307130000/
10:777 :

2023/07/18 (Tue) 02:51:14

2023.07.16XML
ロシア国防省におけるエリツィン人脈と反エリツィン人脈の対立が顕在化
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307160000/

 ロシア軍の第58統合軍を指揮していたイワン・ポポフ少将は豪胆な性格で、兵士たちから人気があったという。このポポフが解任されたのだが、彼の主張を録音したボイスメッセージをロシアのアンドレイ・グルリョフ議員が公開、話題になっている。

 その中でポポフはワレリー・ゲラシモフ参謀総長たちを厳しく批判、その中で兵士のローテーション、あるいはウクライナ軍の重火器を効果的に標的にしていないなどについて語った。ゲラシモフのほかセルゲイ・ショイグ国防相も批判の対象だ。

 ワグナー・グループのエフゲニー・プリゴジンもゲラシモフやショイグを批判していた。この傭兵会社が創設された際、ロシア軍参謀本部の第1副本部長を務めていたウラジーミル・ステパノビッチ・アレクセーエフ中将が背後にいたと言われ、今年5月4日からミハイル・ミジンチェフ上級大将がワグナー・グループの副司令官を務めている。

 アゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリや岩塩の採掘場があるソレダルにはソ連時代、核戦争に備えて地下施設が建設されていたが、それらを利用し、アメリカ/NATO/ウクライナ軍はドンバスの周辺に要塞線を築いた。

 ワグナー・グループはソレダルに続いてバフムート(アルチョモフスク)を制圧、プリゴジンは5月20日にアルチョモフスクの「解放」を宣言した。その際、セルゲイ・スロビキン上級大将とミハイル・ミジンチェフ上級大将に謝意を表している。スロビキンはプリゴジンがデモンストレーションを行なった後、公的な場に姿を見せていない。

 NATOの軍事演習「エア・ディフェンダー23」が終了した6月23日、ロシアの連邦保安庁(FSB)は武装反乱の呼びかけ容疑でプリゴジンの捜査を開始、ウラジミル・プーチン大統領は「武装反乱」は反逆であると述べ、ロシア軍に対して武器を取った者は誰でも処罰されると約束した。

 ところが、24日の午後にはロシアにおけるワグナー・グループの行動を中止することでベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領とプリゴジンが合意、ロシア政府はワーグナー・グループの幹部に対する訴追を取り下げると発表した。プーチン大統領は最終的にプリゴジンの行動を武装反乱だと見なさなかったということだろう。

 ロシア軍の中で対立があり、一方にはポポフやプリゴジンが属し、他方にはゲラシモフやショイグがいる。

 ショイグは父親のコネで1990年、ロシア連邦国家建築建設委員会の副委員長に任命されたが、そこで彼はボリス・エリツィンの信頼を得たという。それ以来、今でもショイグはエリツィン人脈に属し、欧米資本の影響下にある。そこで、ショイグたちエリツィン人脈はロシア軍をウクライナで戦争の泥沼へ突き落とそうとしたと考える人もいる。

 ソ連を消滅させたのはエリツィンだが、彼に実権を握らせるための秘密工作があった。その始まりはニコライ・ブハーリンを「別の選択肢」として研究していたミハイル・ゴルバチョフの登場。実権を握ったゴルバチョフは「ペレストロイカ(建て直し)」を打ち出すが、これを考え出したのはKGBの頭脳とも言われ、政治警察局を指揮していたフィリップ・ボブコフだ。(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)

 このボブコフはKGBの将軍で同僚だったアレクセイ・コンドーロフと同じようにジョージ・H・W・ブッシュをはじめとするCIAのネットワークと連携していたとする情報がある。CIA人脈とKGBの中枢が手を組みんでソ連を消滅させ、資産を盗んだというのだ。このクーデターは「ハンマー作戦」と呼ばれている。

 ところがゴルバチョフは西側支配層の命令に従わない。そこで排除され、登場してきたのがエリツィン。彼はソ連を消滅させる直前の1991年11月にアナトリー・チュバイスを経済政策の中枢に据え、チュバイスはエリツィンの娘、タチアナ・ドゥヤチェンコの利権仲間になる。経済部門ではこうして欧米支配層の手先として動く人脈が作られた。昨年2月、ロシアがウクライナに対してミサイル攻撃を始めると、気候問題特使を務めていたチュバイスが辞任して国外へ脱出した。

 エリツィン人脈は西側資本の命令に従ってロシア国民の資産を略奪する政策を進めるが、それに反対する議会は1993年3月に立ち上がる。国民の多くも議員を支持したのだが、アメリカ政府の支援を受けていたエリツィン大統領は国家緊急事態を宣言して対抗、9月になると議会を解散し、憲法を廃止しようとする。

 それに対して議員側はそうした行為をクーデターだと非難、自分たちの政府を樹立すると宣言して少なからぬ議員が議会ビル(ホワイトハウス)に立てこもるのだが、エリツィン大統領は力の解決を図った。戦車に議会ビルを砲撃させたのだ。この時、ショイグはエリツィン側について戦ったという。

 議会ビルに立てこもって殺された人の数は100名以上、 議員側の主張によると約1500名に達するというが、こうした虐殺を西側の政府や有力メディアは容認する。

 エリツィンはロシアを欧米の植民地にし、自分たちは甘い汁を吸おうとしたのだが、それをひっくり返したのがウラジミル・プーチンにほかならない。彼はロシアを再独立させつつある。

 そして今、プーチンは国防省のエリツィン派と対峙せざるをえない状況になった。CIA人脈に買収されたKGBグループは消滅していない。エリツィン派はロシアが敗北し、新自由主義政策に戻ることを望んでいるはずだ。


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307160000/
11:777 :

2023/09/04 (Mon) 18:54:47

ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した

22976000195
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg
優柔不断な皇帝と革命農民
最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば優柔不断なうえに騙されやすかったと言われています

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった

こうした突然の変更は抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った

優柔不断なのに騙されやすく信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか怪しげな助言者などの話を良く聞いた

ロシア帝国は外部からの力というより皇帝や周囲の人々の間違った行いによって内部崩壊していた

ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に既にロシアは混乱していて皇帝は何度も襲撃されていました

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころロシアは既に社会主義思想が蔓延していました

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった

ロシア農民は革命前は欧州と同様に領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品と考えられていました

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し過激な革命運動を起こした

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった

だが1894年には病没し「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し滅亡の道を歩き始める

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の逝去を待ち望んだかのように結婚している

皇帝が市民運動を奨励した
妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したもののロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった

ニコライ2世は責任者を処罰せず何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される

ニコライ2世は性格が弱かったため市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ15世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました

ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ皇帝側は権威を失墜させてしまった

ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました

1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている

革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った

1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg
だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている

側近達はニコライに事実を知らせず「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込ませた

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に何事もなかったように振る舞い、 これには社会主義者だけでなく皇帝側の軍人らも疑問を抱いた

抗議運動が活発化すると正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました

1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした


ロマノフ家の家族動画、優柔不断なニコライは家族を逃がす事すらしなかった
https://www.youtube.com/watch?v=Sq4ossoQ_0Q

https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html


12:777 :

2023/09/04 (Mon) 23:22:40

渡辺惣樹 『虚像のロシア革命』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14147355
13:777 :

2024/03/22 (Fri) 10:08:02

2024.03.22XML
米英支配層がソ連消滅後に始めた侵略戦争はウクライナで大きな山場
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403220000/

 アメリカの支配層が ソ連消滅後に始めた旧ソ連圏での侵略戦争はウクライナで大きな山場を迎えている。この戦争におけるアメリカ/NATOの敗北が決定的な状況になっているのだ。

 1990年代、西側の有力メディアはビル・クリントン政権に対して軍事力の行使を要求したが、当初は動かなかった。1997年に国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代すると侵略戦争へ向かって動き始めている。

 オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月から6月にかけてアメリカが主導するNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施した。4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅、また5月には中国大使館がそれぞれ爆撃されている。ソ連が消滅、「唯一の超大国」になったアメリカの行動を止められる国は存在しないという傲慢さのなせる業だと言えるだろう。

 そして2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、その衝撃的な出来事を利用してアメリカ政府は2003年3月、イラクを手始めに中東で大規模な侵略戦争を始めた。

 一方、旧ソ連圏ではウクライナで2004年から05年にかけて新自由主義の手先を大統領に据えるために「オレンジ革命」を実行され、元ウクライナ国立銀行総裁のビクトル・ユシチェンコが大統領に選ばれた。この「革命」を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だ。

 しかし、ユシチェンコの新自由主義は米英の巨大資本やその手先であるウクライナ人に富を集中させ、大多数の庶民を貧困化させた。ウクライナは石油会社や穀物メジャー、それらを支配する金融資本に蝕まれていく。それに反発したウクライナの有権者は2010年に実施された選挙でビクトル・ヤヌコビッチを選んだ。オレンジ革命で西側支配層が排除した政治家だ。このヤヌコビッチを再び排除するために仕掛けられたのが2013年11月から14年2月にかけてのクーデターにほかならない。

 アメリカを戦争へと導いてきたシオニストのネオコンは、アメリカが軍事力を行使してもソ連/ロシアは対応できないと1990年代から信じていたが、2013年から14年にかけてのクーデターでもロシアは動かなかった。

 そして始まった今回のウクライナにおける戦闘だが、西側に支援されたクーデター政権が反クーデター派が支配する東部のドンバスへ大規模な軍事攻勢を始めようとした矢先、2022年2月24日にロシア軍はウクライナに対するミサイル攻撃を開始、ドンバス周辺に集まっていたウクライナ軍を壊滅させてしまった。その際、アメリカの国防総省がウクライナに建設していた生物化学兵器の研究開発施設も破壊、機密文書を回収している。ここから始まるロシア軍による攻撃でアメリカ/NATOによるロシアを征服する計画は破綻した。

 ネオコンが2003年3月に始めた中東での侵略戦争も彼らの想定通りには進まず、アメリカの「同盟国」だったサウジアラビアがイランやロシアに接近している。2020年1月3日にはサウジアラビア政府に対するイラン政府の返書と携えてイラクのバグダッド国際空港へ到着したイスラム革命防衛隊の「コッズ軍」を指揮していたガーセム・ソレイマーニーをアメリカ政府はイスラエルの協力を得て暗殺したが、それで流れを変えることはできなかった。​サウジアラビア、イランは中国の仲介で国交正常化で合意、2023年3月10日にサウジアラビア、イラン、中国は北京で共同声明を発表している。​

 その中東では現在、アメリカやイギリスの軍事支援を受けたイスラエル軍がガザでパレスチナ住民を虐殺している。イギリスからキプロスを経由してイスラエルへつながる兵站線が存在、それにはアメリカも関係している。アメリカやイギリスがその気になれば虐殺はすぐに止まる。

 イスラエルの「建国」が宣言されたのは1948年5月14日。アラブ系住民が住んでいた場所に新たな「国」を作るため、その先住民を排除するため、シオニストは1948年の4月上旬に「ダーレット作戦」を開始、ハガナから生まれたテロ組織のイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺した。

 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、住民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国連は1948年12月11日、パレスチナ難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。

 その間、1948年5月20日に国連はフォルケ・ベルナドットをパレスチナ問題の調停者に任命した。彼は6月11日から始まる30日間の停戦を実現したものの、7月8日に戦闘が再開され、9月17日にはスターン・ギャングのメンバーに暗殺された。

 イスラエルをパレスチナに「建国」する計画は19世紀から始まっている。ロシア嫌いで有名なベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めているが、その間、75年にスエズ運河運河を買収している。買収資金を提供したのは反ロシアのライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)

 1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。

 ロスチャイルド家を含むイギリスの支配層は金融資本であり、シティを拠点にしている。その金融資本の手足として活動してきたのがイギリスの情報機関MI6にほかならない。このMI6をモデルにして創設されたOSS/CIAは事実上、ウォール街の機関だ。MI6は19世紀からロシア支配層の内部にネットワークを築いていたが、そのキーパーソンは有力貴族のフェリックス・ユスポフだ。

 ユスポフを中心とする貴族グループは資本家と手を組み、ドイツとの戦争を推進しようとする。それに反対したのが大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士である。

 戦争反対の皇后は戦争回避の方策を相談するため、1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 しかし、参戦してもラスプーチンが復活すれば戦争を辞める可能性がある。そうした中、1916年12月16日にラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になった。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾を打ち込んだ銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 暗殺現場にはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。

 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運んだのである。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになる。そこでソ連とドイツはナチスが台頭するまで関係は良かった。

 MI6を動かしていたイギリスの支配層の中心にはセシル・ローズの人脈が存在していた。ローズのスポンサーだったナサニエル・ド・ロスチャイルドはライオネル・ド・ロスチャイルドの甥にあたり、NMロスチャイルド&サンズを経営していた。ローズはNMロスチャイルド&サンの融資を受け、ダイヤモンドや金が発見されていた南部アフリカへ1870年に移住、財を成した。

 1890年にケープ植民地の首相となったローズは96年にレアンダー・ジェイムソンを使ってトランスバールへの侵略戦争を始めたが、失敗。ローズは失脚し、イングランドのサウスハンプトンに戻ってナサニエル・ロスチャイルドと会い、ジョセフ・チェンバレンからのメッセージを渡した。このチェンバレンが侵攻作戦を秘密裏に承認した人物だといわれている。ロスチャイルドはウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、そしてアルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)と緊急会談を開いて対策を練った。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 ロスチャイルド、ステッド、ブレット、ミルナーのほかサリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)らへローズは1890年、アングロ・サクソンを中心とする世界支配のアイデアを説明している。

 ローズはアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考えていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会するが、その直後に『信仰告白』を書き、その中でアングロ・サクソンが住む地域が広がれば広がるほど良いと主張している。領土を拡大して大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)

 こうした考え方は当時のイギリスでは珍しくなかったようで、A・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ・シリーズのひとつである『独身の貴族』で、「われわれ子どもたちがいつの日かユニオン・ジャックと星条旗とを四つに区切って組み合わせた旗のもと、同じ世界国家の市民になることを妨げるものではない」とホームズに言わせている。

 ローズの後、イギリスの支配グループを率いたのはアルフレッド・ミルナー。この人物はRIIA(王立国際問題研究所、通称チャタム・ハウス)を創設した人物としても有名で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」も彼を中心に組織されたという。(Carroll Quigley, “The Anglo-American Establishment”, Books in Focus, 1981)

 イスラエルの「建国」にもこの人脈が関係している。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送るが、この書簡が大きな意味を持つ。その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。

 同じ人脈は19世紀に東アジア侵略も開始している。その手始めが中国(清)を狙ったアヘン戦争だが、海戦で勝っただけで内陸部を支配できない。そうした時に始まったのが日本に対する工作だ。イギリスは長州や薩摩を支援して徳川体制を倒し、「天皇制官僚体制」というカルト国家を建設することに成功した。明治体制下の日本はイギリスやアメリカの代理人として東アジア侵略を始めている。当初、最も大きな影響力を持っていたのはシティだったが、関東大震災以降はウォール街の影響が強くなった。

 アングロ・サクソンの戦略は19世紀からロシア、パレスチナ、東アジアをひとつのものとしている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403220000/
14:777 :

2024/03/22 (Fri) 10:40:56

矢野義昭 超大物(岸田総理の上の上)に重大な動きアリ! いったい何が始まるのですか・・・・・
https://www.youtube.com/watch?v=9XIGo0V5abo&t=613s

【矢野義昭先生】世界の多極化と日本 グローバリズムの行方 ニコニコ同時配信 (全編はニコニコで)2024.03.11.
https://www.youtube.com/watch?v=qXlYp8119Uw


▲△▽▼


ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html

アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/366.html

帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げてきて共産主義者になっていった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1214.html

「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1025.html

ロシア革命を支援したユダヤ金融資本
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1110.html

ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898

アメリカとマルクス - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14063330

アメリカの民主党と共和党には大きな差がなく、いずれもスポンサーは巨大資本や富豪
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14063417

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