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レベッカ・ウラグ・サイクス著『ネアンデルタール』

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2022/10/23 (Sun) 08:52:32

雑記帳
2022年10月22日
Rebecca Wragg Sykes『ネアンデルタール』
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_22.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC-%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4480860940/ref=sr_1_3?adgrpid=127179850227&hvadid=620413321114&hvdev=c&hvqmt=b&hvtargid=kwd-1243157208166&hydadcr=9353_13611584&jp-ad-ap=0&keywords=%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA+%E6%9C%AC&qid=1666482712&qu=eyJxc2MiOiIzLjY1IiwicXNhIjoiMy4xNiIsInFzcCI6IjIuMDAifQ%3D%3D&sr=8-3

 レベッカ・ウラグ・サイクス(Rebecca Wragg Sykes)著、野中香方子訳で、筑摩書房より2022年10月に刊行されました。原書の刊行は2020年です。本書は原書刊行時に話題になり、原書は日本語版より安いと予想されたので(原書のKindle版は2022年10月時点で1834円、本書は3960円)原書で読むことも考えましたが、私の英語力と根気を考えたら数千円高くなっても日本語版で読んだ方が総合的には安上がりだと考えて、日本語版を待つことにしました。参考文献は、著者がネットで公開しています。本書は分厚いので本当は電子書籍で購入したかったのですが、筑摩書房の単行本はあまり電子書籍になっていないようなので、紙版で購入しました。本書はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の発見史・研究史であるとともに、考古学を中心に形質人類学や遺伝学などさまざまな分野の最新の研究成果を提示しており、ネアンデルタール人についての現時点での最適な日本語の概説書と言えそうです。以下、本書の興味深い見解を備忘録として取り上げます。


 ネアンデルタール人は現生人類(Homo sapiens)よりも脳が大きいと言われてきたことについて、ネアンデルタール人標本の性別が偏っており、完全に近いネアンデルタール人骨格の大半が男性だったためで、男性だけで比較するとネアンデルタール人と現生人類の脳の大きさはほぼ同じと指摘されています(P67)。この問題については、今後関連文献を読んで調べるつもりです。現生人類とは異なるネアンデルタール人の形態について、以前は鼻など寒冷気候への適応と解釈される傾向にありましたが、現在では、以前の想定ほどには寒冷気候に適応していたわけではない、と考えられています(P85)。じっさい、ネアンデルタール人的な形態および文化的特徴は35万年前頃以降となる温暖な海洋酸素同位体ステージ(MIS)9に現れ、滅亡直前の45000年前頃まで、氷期よりも間氷期の方が長かったことになります(P124)。ネアンデルタール人の形態は、起伏の激しい土地での多い運動量により形成されたところも多分にあったようです。ネアンデルタール人は現生人類と比較して、走ること、とくに長距離走には不向きだったようです。

 ネアンデルタール人の腕では左右の非対称性が見られ、現生人類と同様に右利きが多かったようですが、これは日常的に槍の使用のような激しい活動をしていたためと推測されています。ただ、ネアンデルタール人の肩の仕組みは現生人類と比較して投擲に適していないようで、ネアンデルタール人にとって投擲は日常的だった、との見解もありますが(関連記事)、むしろ動物の皮の加工のような削り取りのような行動で片腕(おもに右利きなので右腕)が発達したのではないか、と本書では指摘されています(P95)。ネアンデルタール人も現代人と同様に体の使い方に性差があったようで、女性は男性ほど左右の腕の違いがありません。ネアンデルタール人の体格の性差は、現代人と似ています(P97)。皮の加工では、ネアンデルタール人は前歯も使ったと考えられており、前歯がひじょうに摩耗していますが、性差が見られ、一部の女性は男性よりも前歯の消耗が激しい、と観察されています。ネアンデルタール人では、女性は下の前歯、男性は上の前歯が欠けている傾向にあり、これはヨーロッパ西部でよく似たパターンが観察されているので、ここからも性差が示唆されます。ただ本書は、ネアンデルタール人が生物学的性差を超えて性別(ジェンダー)をどう認識していたのか、分かっていない、と指摘します。また本書は、現代人と同じくネアンデルタール人にも個体差があることから、個体間の分業の可能性を示唆します。ネアンデルタール人の形態では、こうした性差とともに時空間的な差異も観察されており、それは環境の違いを反映しているようです。

 ネアンデルタール人の完全に近い骨格の大半には少なくとも一度の病気や負傷の痕跡があり、歯の成長から飢餓を経験したと示唆されているので(関連記事)、ネアンデルタール人は過酷な生活を送っていた、と考えられてきました。ただ、全ネアンデルタール人標本にそうした痕跡が見られるわけではなく、乳児期に関しては、むしろネアンデルタール人よりも初期現生人類の方が健康ストレスは大きかった、と示唆されています(P103)。ネアンデルタール人も現代人と同様に歯痛には苦しんだようですが、抜歯痕の隣の歯の歯石に針葉樹の木片が埋め込まれていたことから、歯の治療が行なわれていた、と示唆されています(P104)。全体的に、ネアンデルタール人は現生人類の狩猟採集民と比較してとくに病気がちではなかった、と推測されています。ネアンデルタール人の大半は30歳まで生きられなかった、と考えられていますが、中高年の個体も見つかっており、考古学的記録で50歳以上の個体が稀なのは、それ以上の年齢の特定が困難だからだ、と指摘されています(P106)。ネアンデルタール人の負傷の痕跡については、ネアンデルタール人の残忍さと結びつけられることもありますが、ネアンデルタール人同士の疑問の余地のない殺害は1例だけのようで、むしろ初期現生人類の方が暴力的だった可能性も示唆されています(P114)。ネアンデルタール人はMIS9~3のユーラシアに存在し、その間に激しい気候変動を経つつ、生き延びました。上述のように、ネアンデルタール人は以前に考えられていたほど氷期の環境に適応していたわけではなく、温暖な気候下でも暮らしていました。ネアンデルタール人は多様な環境で暮らしており、ユーラシア西部でネアンデルタール人の痕跡が確認されていないのは湿地帯だけですが、そこで暮らしていた可能性を否定できません(P142)。

 ネアンデルタール人がこのように多様な環境を生き抜いてきたのは、複雑な技術的文化を有していたからでした。ネアンデルタール人の代表的な石器技術がルヴァロワ(Levallois)技法で、類似の技術の起源は50万年前頃のアフリカの初期現生人類系統と考えられています。このルヴァロワ技法により二次加工も容易になって、ネアンデルタール人はさまざまな用途の石器を製作でき、遠方に石器を持って移動することもできるようになりました。ヨーロッパ西部のネアンデルタール人の石器技術には、円盤形とキーナ(Quina)型もあり、円盤形はきわめて資源節約的でした。円盤形技法の石器は、その使用痕から骨や木のような硬い物を切るのによく使われ、ルヴァロワ型やキーナ型の石器とは異なりほとんど二次加工されていないので、使い捨てだったようです。それを反映して、円盤形技法の石材は大半が近場のものでした。ここから、円盤形技法は石材の産地を熟知し、定期的に長距離移動しないネアンデルタール人に適していたようです。キーナ型は円盤形と同様に、ルヴァロワ型とは異なり最初の粗削りや途中の石核調整はほとんど必要とされず、円盤形とは異なり、できるだけ長く薄い刃を得ることが目的でした。キーナ型は、廃棄物が少なく、大量の剥片が得られて、酷使にも二次加工にも耐えられました。ネアンデルタール人は石刃も製作しており、本格的な石刃(長さが幅の2倍以上)であるラミナール(Laminar)も作っていました。ただ、ネアンデルタール人は、上部旧石器文化のヒトとは異なり、骨ではなく石のハンマーを用いて石刃を製作し、石核の下準備もあまりしていませんでした。ネアンデルタール人の最も顕著な「石刃文化」は、MIS5の後にヨーロッパ北西部で発展し、約2万年間にわたって石刃が一般的に使用されました。ただ、その現象は長く続かず、他の地域の石刃は主流ではなく、かなり変化に富んでいました。フランス南西部のコンブ・グルナル(Combe‐Grenal)洞窟では、8万~7万年前頃の人工遺物の1/5は石刃の打ち割りに関連しており、中には長さ3cm未満のごく小さいものもあり、「細石刃」と呼ばれました。この「細石刃」は、打ち割りの偶然の産物ではなく、ネアンデルタール人の技術体系に組み込まれていました(P168)。石刃技法は、後に現生人類がよく用いたため、ネアンデルタール人がおもに用いた技法より優れている、と考えられてきましたが、資源の節約や切れ味の点で優れているわけではなく、長期の使用も二次加工もほぼ不可能です。ただ、石刃は組み合わせ道具の使用には適していました。ネアンデルタール人の石器には、下部旧石器時代のアシューリアン(Acheulian)の両面石器伝統も見られました。両面石器は、中部旧石器時代初期にはほとんど見られなくなっていましたが、15万年前頃から、技術の多様化の一環として復活します。ただ、それはネアンデルタール人集団の一部で、下部旧石器時代のものとは技術的に異なっていました。両面石器は、ルヴァロワ型やキーナ型の石器と同様に繰り返し二次加工されていました。ネアンデルタール人の石器技術にはこのように違いもありますが、良質な中古品の再利用を好んだ点は起用通していました。ネアンデルタール人の石器技術は多様で、ヨーロッパ中東部の両面石器はその西方世界とは大きく異なり、カイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)と総称されます。その文化的境界の意味合いについては、まだよく分かっていません。ネアンデルタール人は多くの場所で環境に応じて異なる石器技術を生み出しており、石器技術が停滞していた、との見解には問題があるようです。

 ただ、歴史的に狩猟採集民の道具の大半が有機物から構成されているように、ネアンデルタール人も石器だけではなく有機物製の道具を使っていた、と考えられています。じっさい、ネアンデルタール人は石だけではなく木や骨や貝殻も使っていました。ネアンデルタール人にとって、木は常に豊富だったとは限りませんが、日常生活の一部でした。ドイツ北部のニーダーザクセン(Lower Saxony)州のシェーニンゲン(Schöningen)遺跡では、337000~30万年前頃の木製の槍が発見されています。この槍は先を尖らせただけの棒ではなく、細いトウヒやヨーロッパアカマツから成功に作られており、いずれも木の一番硬い部分である根元を先端にしていました。槍の柄は、強度を上げるために意図的に木の中央が避けられていました(P185)。この槍は、ネアンデルタール人の木工技術は原始的との以前の思い込みを覆しました。9万年前頃と推定されているスペイン北部のアランバルツァ(Aranbaltza)遺跡と、20万年前頃と推定されているイタリアのポッジェティ・ヴェッキ(Poggetti Vecchi)遺跡では、一方の先端を尖らせた棒が多数発見されました。これはシェーニンゲンの槍よりずっと短く、長さと傷み具合と使用痕から、掘るための棒だった、と示唆されます。これらの棒は入念に加工されており、わずかに焦げた痕跡から、火を用いて樹皮や外側の木を取り除いたようです。さらに、これらの棒には再利用と考えられる痕跡が見られます。スペイン北東部のアブリック・ロマニ(Abric Romaní)遺跡では、何百もの炉後や何万もの石器とともに、も炭化した木片などが発見されました。なかには、皿ののような木製品も見つかっています。ネアンデルタール人は組み合わせ道具も用いており、その大半は石に柄を接続したものですが、それには動物の筋や腱や植物繊維が用いられていました。さらに、ネアンデルタール人は接着剤(天然アスファルトやタール)も用いて組み合わせ道具を作っていました(関連記事)。

 ネアンデルタール人は貝殻も道具として使っており(貝器)、貝器が出土した遺跡に共通するのは、周辺に良質の石の採取場所がないことです。骨角器は、中部旧石器時代にはほとんど存在しない、と以前には考えられていましたが、今では下部旧石器時代に用いられていたことが明らかになっています。骨は、石器の仕上げや再加工にも用いられました。ネアンデルタール人は骨を用いるさいに、動物種や骨の部位も選択していました。ネアンデルタール人が骨を武器に用いていた可能性もありますが、現時点でその有力候補は、ドイツのザルツギッター=レーベンシュテット(Salzgitter Lebenstedt)遺跡の55000~45000年前頃の骨器だけです。これらネアンデルタール人の複雑な道具は先行人類を凌駕しており、先を見通して多段階の計画を立てる能力が示されるとともに、現生人類との技術的境界線が曖昧になってきました。アフリカの中期石器時代に見られ、ネアンデルタール人の中部旧石器時代に見られない石器技術は、石の性質を改善するための過熱と、武器の鋸歯を入れるための「押圧剥離」だけです。ただ、そうした技術が現生人類で広く確認されているわけではありません。一部のネアンデルタール人遺骸では、歯がとくに欠けていたり、歯に植物の滓が含まれていたりしたことから、歯を使って道具を製作していた専門的職人の存在が示唆されます。こうしたネアンデルタール人の高度な技術の継承には教育が行なわれた、と考えられます。それは、文化体験での学習だろう、と本書は推測します。

 ネアンデルタール人の食性は以前から関心を集めてきましたが、現生人類との比較で重要なのは、ネアンデルタール人の方が必要なカロリーはずっと多かった(毎日、ネアンデルタール人が3500~5000kcal必要とするのに対して、現生人類は2500kcal程度)、ということです。ネアンデルタール人の食料調達はおもに死肉漁りだった、と以前は考えられていましたが、現在では狩猟が大きな役割を果たした、と明らかになっています。ネアンデルタール人は槍で狩猟を行ない、マンモスのような大型動物も狩っていました。ネアンデルタール人の同位体比はオオカミやハイエナに近く、一部のネアンデルタール人は動物性タンパク質の20~50%をマンモスから得ていたようです。マンモス以外の大型動物では、さまざまなサイ、オーロックス、スイギュウ、大型ラクダなどをネアンデルタール人は狩っていました。もちろん、ネアンデルタール人は大型動物だけではなく野生ロバやガゼルなど中型動物も狩っており、状況に応じて狩猟対象を柔軟に切り替えていました。また、ネアンデルタール人は小動物も狩猟対象としており、鳥類もその卵も食べていました。ネアンデルタール人は海産資源を含めて水棲動物も食べており、居住していた洞窟の近くの淡水魚を獲っていたようです。海産資源では、貝類や甲殻類を現生人類と同じくらい古くから食べていた証拠が見つかっています(関連記事)。ネアンデルタール人はウミガメも食べており、時代が下るにつれてウミガメの大きさが縮小するので、ネアンデルタール人が乱獲した可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は草食動物だけではなく大型のホラアナグマも狩っており、おもに冬眠中を狙ったと考えられます。ネアンデルタール人の食性は、肉(動物性タンパク質)への依存度が高かったとしても、植物にも依存しており、歯の摩耗痕の分析から、寒冷地のネアンデルタール人には肉食による摩耗が多いものの、レヴァントのような温暖で植生の豊かな他地域では、植物によると推測される歯の摩耗痕が確認されています。歯石のDNA解析から、ネアンデルタール人が植物を食べていたことは改めて確認され、具体的にはナツメヤシやエンドウマメや根茎などです。イネ科植物も含まれており、それを食べるにはかなりの時間の処理が必要だった、と考えられています。ネアンデルタール人が食べたと考えられる動物の骨には焼けた痕跡があることから、ネアンデルタール人は加熱調理していたようです。直接的な考古学的証拠はありませんが、ネアンデルタール人は燻製や乾燥などで肉を保存していた可能性も想定されます。ネアンデルタール人の食性と狩猟について、近年では全体的に、以前想定されていたほど現生人類との違いはない、と考えられるようになっており、ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人と初期現生人類はどちらも陸生草食動物を選好していた、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人の居住パターンも、近年では以前より深く把握されるようになりました。「煤編年学」により、ある遺跡の層で人類が何回居住したのか、解明できるようになり、人類の痕跡の大半は、複数回の居住により形成された、と分かってきました。そのため、ネアンデルタール人の行動パターンをより詳細に解明する遺跡としては、異なる居住期間の交じり合わない遺跡が理想となります。ネアンデルタール人が火を使用していたことは間違いありませんが、自ら火を熾していたのか否かは、まだ確定していないようです。しかし、強力な燃焼促進剤にもなる二酸化マンガンが細かく砕かられていることから、少なくとも一部のネアンデルタール人は火を熾せたようです。また、ネアンデルタール人が枯れ木だけではなく褐炭(石炭化度合が低い石炭)を使って燃やしていた可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は現生人類と同様に非を用いるために炉も作っており、その作り方と使い方はさまざまだったようです。ネアンデルタール人の生活空間については、炉とともに、植物で作った寝床も使っていたようで、机や椅子のような機能を果たした「家具」も使用していたかもしれません。ネアンデルタール人の空間の使い方は乱雑ではなく複雑かつ意図的で、この点では現生人類と近かったようです。また、ネアンデルタール人はまず間違いなく服を作って着用しており、糸を使用していた可能性も指摘されています。

 こうした生活パターンから窺えるのは、ネアンデルタール人は基本的に放浪者だった、ということです。ただ、その移動は場当たり的ではありませんでした。上述のようにネアンデルタール人は中型や小型の動物も狩っていましたが、おもに狩るのは大型動物なので、その群を追って移動する必要がありました。ネアンデルタール人の移動パターン解明の手がかりとなるのは、石器も含めて遺跡にある石とその産地との距離です。一般的に、遺跡で最も多い石は約5km~10km以内で入手できます。そうした石の多くはあまり上質ではありませんが、拠点から数時間以内の場所で集められました。通常、60km以上離れた産地に由来する石は10%以下で、純度の高い黒曜石の中には300km以上の移動例もあり、普通の燧石でも100km以上運ばれることがありました。本書は、遠くから運ばれた石は、ネアンデルタール人が石の産地と他の場所をめぐる間に持ち歩いたお気に入りの石器の「生き残り」にすぎなかっただろう、と推測します。それは、上質の石が原石のまま打ち割りする場所に持ち込まれることは滅多にないからです。全般的に、ある環境におけるネアンデルタール人の石の利用法は現代の狩猟採集民に似ており、移動において石器を選ぶさいに、予定される活動や移動距離や途中で入手可能な石の種類など、多くの要因を考慮したようです。これは、ネアンデルタール人の計画性を示唆します。ネアンデルタール人と比較して、現生人類の石器群ではネアンデルタール人よりも60km以上離れた産地に由来するものが多く、それは社会的つながりの強さを反映している、と解釈されてきました。本書は、ネアンデルタール人の遺跡における産地がきわめて遠い石器は、集団内の1人か2人が過酷で迅速な旅をして運んだのだろう、と推測しています。本書は別の可能性として、ネアンデルタール人の個体が全員近親交配で生まれてきたわけではなかったことから、他の集団との交流の一環としての石器の交換も挙げています。

 ネアンデルタール人の象徴的行動には議論がありますが、フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)で発見された深部の建造物(関連記事)や多くの遺跡で見つかっている顔料の使用など、現生人類とも通ずる象徴的行動がネアンデルタール人にも存在した可能性は高く、ネアンデルタール人が話せた可能性は他界、と本書は指摘します。ネアンデルタール人の象徴的行動については、ネアンデルタール人の所産とされた壁画が議論となり、疑問視する研究者は少なくないようですが、最近の年代測定の結果(関連記事)からも、ネアンデルタール人が何らかの壁画を残した可能性は低くなさそうです。ネアンデルタール人については、線刻や鳥類の爪の利用も複数の遺跡で確認されており、鳥類の爪は美的価値か象徴的表現への興味だった、と考えられています。こうしたネアンデルタール人の象徴的行動について現生人類との比較では、45000年以上前には、明確な具象芸術が存在しないことです【と本書は指摘しますが、原書刊行後の研究(関連記事)では、スラウェシ島の具象的な洞窟壁画芸術の年代が45000年以上前である可能性も指摘されています】。本書は、ジャワ島のトリニール(Trinil)遺跡で発見された54万~43万年前頃の淡水貝に幾何学模様の線刻が見られること(関連記事)から、ネアンデルタール人と現生人類の象徴的行動は太古のホモ属から受け継いだ共通の遺産だったかもしれない、と指摘します。

 ネアンデルタール人の男女関係と社会について、スペイン北部のエル・シドロン(El Sidrón)遺跡の事例から、男性優位集団と解釈する見解(関連記事)もありますが、本書は、エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸は洞窟の他の場所から流れてきて堆積したので同時代なのか不明で、狩猟採集文化においては母系社会が一般的である、と指摘します【本書の「男性優位集団」の意味を断定できませんが、「父系的」と解釈すると、本書の指摘とは異なって、一般的に狩猟採集社会における母系社会の割合は父系社会より低いとされており(木山.,2001,P313)、アルタイ山脈のネアンデルタール人の研究(関連記事)でも、ネアンデルタール人社会は父系的だっただろう、と推測されています】。本書は、ネアンデルタール人が一夫一妻制のような絆を築いていただろう、と推測しています。上述のように、ネアンデルタール人社会には老人はほとんどいなかったのではないか、との見解もあるものの、本書は、化石が人口構造を正確に反映しているとは限らない(ネアンデルタール人の化石に占める女性の割合がきわめて低いことなどから)として、ネアンデルタール人社会にも老人(長老)がおり、孫に知識と経験を授けていただろう、と推測します。

 ネアンデルタール人の埋葬については懐疑的な見解もあるものの、本書の複数の事例、とくに骨格遺骸が残りにくい子供の保存状態良好な複数の遺骸からは、ネアンデルタール人が何らかの意図で埋葬した可能性は高いように思います。ネアンデルタール人の骨格遺骸に、皮を剥いだり、手足を切り離したり、骨を外したりなど、解体の痕跡があることを報告した事例は増えていますが、ネアンデルタール人による食人行為の直接的証拠はほとんどなく、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡で発見されたヒトの歯形の痕跡があるネアンデルタール人の骨は例外的です。一方現生人類では、食人の証拠がさまざまな時期で確認されています。ネアンデルタール人の遺骸が焼かれたことはひじょうに稀で、偶然だった可能性が指摘されていますが、食人の痕跡が多いクラピナ遺跡のネアンデルタール人遺骸の一部は、加熱調理された可能性があります。解体の痕跡のあるネアンデルタール人遺骸については、最も栄養豊富な部位の骨には食べられた痕跡や風化の痕跡が見つかっていません。エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸については、若者の遺骸に切断痕が最も多い、というパターンが見られました。こうした食人かもしれないネアンデルタール人遺骸について本書はボノボの事例から、攻撃が銅器とは限らず、食べた後の遺骸は、死者の代理もしくは使者とつながりがあるものとして扱われた可能性を指摘します。つまり、食人は個体と集団が死の衝撃を乗り越えるための強力な手法ではないか、というわけです。本書はネアンデルタール人のこうした遺骸の扱いを、狩猟や道具製作や芸術など行動の他の側面に見られる進歩や多様化と一致する、と指摘します。遺骸についてネアンデルタール人と現生人類の違いは、ネアンデルタール人の無傷の骨が野外遺跡では見つかっていないことです。一方、現生人類でもそれは3万年前頃までは稀でしたが、それ以降は確認事例が増えてきます。また、遺骸に成人男性が多く、女性が少ないことはネアンデルタール人も現生人類も共通していますが、現生人類はネアンデルタール人よりも老人は少なく、子供も少ない天が異なります。副葬品については、ネアンデルタール人についてその有無が議論になっており、明らかに現生人類の方が多いものの、45000~3万年前頃のヨーロッパの初期現生人類の遺骸は、ネアンデルタール人の扱いによく似ています。

 21世紀における古代DNA研究の進展は目覚ましく、本書はその成果を簡潔にまとめており、ネアンデルタール人と現生人類との関係は複雑だったことが窺えます。それは、原書刊行後の研究(関連記事)でも示されています。本書はネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析にもやや詳しく言及していますが、最近の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人のmtDNAでの系統関係が包括的に示されています。本書は現代人の表現型におけるネアンデルタール人からの遺伝的影響も簡潔に取り上げていますが、この問題については最近の総説(関連記事)が公表されました。ネアンデルタール人と現生人類との交雑が明らかになったことは、21世紀の古人類学研究において最も注目を集めた事例と言えるかもしれませんが、その具体的な様相は不明で、今後も解明されることはないでしょう。本書は、両者の遭遇において強姦があったかもしれないものの、「外国人好き」ではなく「外国人恐怖症」を初期設定にする必要はない、と指摘しています。

 ネアンデルタール人の絶滅(より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団と個体は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)に対する関心は高く、それは現代人自身の絶滅に対する強い恐れがあるのだろう、と本書は指摘します。つまり、ネアンデルタール人は絶滅する運命にあったのに対して、現生人類は特別な優秀さがあって生き残った、というわけです。ネアンデルタール人の絶滅で注目されてきたのは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人の所産と考えられる中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)と、現生人類の所産と考えられる上部旧石器との「中間的(過渡的)性格」の石器インダストリー(関連記事)です。これら「移行期インダストリー」の具体的事例の一つがシャテルペロニアン(Châtelperronian)で、当初は現生人類の所産と考えられていたものの、ネアンデルタール人の遺骸が発見されたことにより、ネアンデルタール人の所産との見解が有力になりました。本書は、シャテルペロニアン(シャテルペロン文化)の「過渡的」性格は古い時代の厳密ではない発掘が行なわれた遺跡か、攪乱が起きた遺跡に限定されていることから、その「過渡的」性格の見直しの必要性を指摘します。シャテルペロニアンではラミナール(長さが幅の2倍以上である本格的な石刃)が優占しており、その技術はネアンデルタール人による石刃や細石刃の製作とは異なり、むしろ現生人類の所産であるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)に似ている、というわけです。本書は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとを結びつける根拠とされてきた、サン・セザール(Saint-Césaire)遺跡とアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)の発掘とその解釈には問題がある、と指摘します。両者において攪乱や侵食が起きた可能性は他界、というわけです。別のよく知られた「移行期インダストリー」は、イタリアで発見されてきたウルツィアン(Ulzzian)です。ウルツィアン(ウルツォ文化)には、先行する中部旧石器時代の技法との違いや類似が込み入っており、「三日月形石器」により特徴づけられます。ウルツィアンについては、出土した歯を根拠に現生人類の所産とする見解もありまますが(関連記事)、本書はウルツィアンもシャテルペロニアンも、ネアンデルタール人の文化との違いを強調しつつ、その担い手について断定はしていません。本書は、「移行期インダストリー」として、フランス南西部で発見されたネロニアン(Neronian)にも言及しています。

 ネロニアン(ネロン文化)はシャテルペロニアンより1万年ほど古く、ネアンデルタール人の石器層に挟まれていることで注目されます。ネロニアンと類似した文化として、中近東とヨーロッパの境界に見られる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)があります。少なくとも一部のIUPの担い手は初期現生人類ですが【原書刊行後の研究(関連記事)により、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡のIUPの担い手は、現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近い初期現生人類集団と明らかになりました】、猛禽類の鉤爪を集めることなど、ネロニアンにはネアンデルタール人との文化的つながりが見られます。ネロニアンの担い手がネアンデルタール人なのか現生人類なのか断定できませんが【原書刊行後の研究(関連記事)により、マンドリン(マンドゥラン)洞窟(Grotte Mandrin)遺跡のネロニアン層の人類の歯の分析から、その担い手は現生人類だった可能性が高い、と示唆されています】、在来のネアンデルタール人を追い払い、その後で再びネアンデルタール人が到来した可能性は高そうです。まだ全容はとても解明されていませんが、これらネアンデルタール人の絶滅に近い年代の「移行期インダストリー」の研究からは、ネアンデルタール人の絶滅および現生人類との関係は複雑で、単純に現生人類がネアンデルタール人に対して優位に立っていたとは断定できない、と本書は指摘します。現代ヨーロッパ人も、1万年前頃の中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民とは遺伝的つながりが少なく、初期現生人類集団の絶滅は珍しくない、というわけです【この問題については、原書刊行後の研究も踏まえて最近当ブログで記事を掲載しました】。

 本書は最後に、19世紀半ばの発見以来、ネアンデルタール人像がどう変容してきたのか、同時代においてどのような違いがあったのか、当時の社会的文脈に位置づけて解説します。ネアンデルタール人を「野蛮」と位置づける見解は発見当初から有力で、それは当時の「人種」階層化の観念とも強く結びついていました。その行きつく先にナチス政権があったことの反省から、第二次世界大戦後には「人種」に基づく科学を否定する動きが強まりましたが、人種主義的科学の影響は長引き、1962年には著名な人類学者であるカールトン・クーン(Carleton Coon)による『人種の起源』と題した本が刊行され、激論が惹起されました(関連記事)。本書は、ネアンデルタール人も含めて人類進化史の研究で、西洋の関係者がしばしば特権的に振舞ってきて、先住民・狩猟採集民の知識と世界観は無視されてきたものの、最近になって、それらを活用して研究の新たな地平が開かれた、と指摘します。本書は、都市での生活を大前提とする西洋の研究者には理解できない動機によりネアンデルタール人が行動していたかもしれず、その解明に狩猟採集民の世界観・知識が役立つ可能性を指摘します。たとえば、ネアンデルタール人のクマ狩りについて、経済的な動機が明らかではないので、社会的動機に基づいて説明されましたが、それはきわめて西洋的で、威信のためだった、というものでした。しかし、現代の狩猟採集民の文化には、クマに人格や人間性を見るものもあり、ネアンデルタール人のクマ狩りについても、威信以外の何らかの社会的関係の構築に役立ったかもしれない、と本書は指摘します。


 以上、本書についてざっと見てきました。冒頭で述べたように、本書はネアンデルタール人についての現時点での最適な日本語の概説書と言えそうで、ネアンデルタール人についての包括的な解説から、ネアンデルタール人の概説書としての役割を長く保つことになる名著と評価されるでしょう。本書からは、発見当初のネアンデルタール人に対する否定的評価はもちろん、mtDNA解析によりネアンデルタール人と現生人類とが異なる、と判明した1997年から、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動が確認された2010年までに主流だった、ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する見解よりもずっと、ネアンデルタール人と現生人類の違いは小さかった可能性が高い、と考えられます。ネアンデルタール人の絶滅を説明するために、現生人類がネアンデルタール人よりも「優秀」だと強調されたわけですが、その背景として、本書が指摘するように、絶滅を恐れる現代人の心理があったのでしょう。ネアンデルタール人への視線はその時代の世界観・思潮と無縁ではあり得ず、それはネアンデルタール人から現生人類への遺伝的影響が明らかになった現在でも同様でしょうが、少しでもそうした偏見を回避できるよう、多様な研究と言説に触れる必要があると思います。


参考文献:
Sykes RW.著(2022)、野中香方子訳『ネアンデルタール』(筑摩書房、原書の刊行は2020年)

木山英明(2001)『人間の来た道 人類学の話』第2刷(好文出版、初版の刊行は1994年)

https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_22.html
2:777 :

2022/10/24 (Mon) 06:33:49

雑記帳
2022年10月23日
遺伝学的知見から推測されるネアンデルタール人の社会構成
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_23.html

 遺伝学的知見からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の社会構成を推測した研究(Skov et al., 2022)が公表されました。この研究は昨年すでに、その概要が報道されていました(関連記事)。ネアンデルタール人のこれまでのゲノム解析からは、その人口史や現生人類(Homo sapiens)との関係についての見識が得られていますが、ネアンデルタール人の共同体の社会構成はほとんど理解されていません。本論文は、シベリア南部のアルタイ山脈にある、2ヶ所の中部旧石器時代遺跡から出土したネアンデルタール人13個体の遺伝的データを提示します。それは、チャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の11個体とオクラドニコフ洞窟(Okladnikov Cave)の2個体です。これは、ネアンデルタール人集団に関する遺伝学的研究としては、これまでで最大規模の一つです。

 この研究は、混成捕獲分析評価(hybridization capture assay)を用いて、ゲノム規模の核DNAデータと、ミトコンドリアDNA(mtDNA)およびY染色体の塩基配列を得ました。チャギルスカヤ洞窟の個体の一部は密接に関連しており、父と娘である2個体と、二親等の親族関係にある2個体が含まれており、少なくともこれらの個体の一部が同時期に生活していたことを示唆しています。これらの個体のゲノムの最大1/3には、同型接合の長い断片があり、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人が小規模な共同体の一部を構成していた、と示唆されます。さらに、Y染色体の多様性はミトコンドリアの多様性を一桁下回っており、このパターンは、女性の共同体間での移動により最良に説明される、と分かりました。したがって、本論文で提示された遺伝的データは、既知の分布域の最東端で孤立していたネアンデルタール人共同体の社会構成に関する詳細な記録を提供します。


●研究史

 ネアンデルタール人は43万年前頃(関連記事)から4万年前頃の絶滅(関連記事)まで、ユーラシア西部に居住していました。東方ではシベリア南部のアルタイ山脈にまで至る、ネアンデルタール人の既知の地理的範囲の大半にわたるネアンデルタール人の歴史にまたがる14ヶ所の遺跡からの18個体の骨格遺骸について、ゲノム規模データが報告されてきました。これらのデータはネアンデルタール人集団の広範な代用をもたらし、時空間的に複数の異なるネアンデルタール人の存在を示唆します(関連記事)。

 しかし、この期間におけるユーラシアのどの地域でも、ネアンデルタール人の共同体間の遺伝的関係と社会構成についてほとんど知られていません。「社会構成」とは、本論文では共同体の規模と性別構成と時空間的結合を意味します。本論文は共同体を、おそらくは同じ場所でともに暮らしていた個人の集合として定義し、より広い地理的領域における共同体の広くつながった集団について人口集団という用語を保留します。化石化した足跡(関連記事)と遺跡使用の空間的パターンに基づいて、ネアンデルタール人の共同体の社会構成に関する先行研究では、ネアンデルタール人はおそらく小さな共同体で暮らしていた、と示唆されてきました。さらに、ネアンデルタール人の成人6個体の部分的なmtDNA配列を用いて、ネアンデルタール人は父方居住だった、と示唆された(関連記事)ものの、これは議論されてきました(関連記事)。

 本論文は、ロシアのシベリア南部の相互に近くに位置する2ヶ所の遺跡、つまりチャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟(図1a)から回収された13個体(表1)の遺骸からの核DNAとY染色体とmtDNAのデータを用いて、ネアンデルタール人の社会構成を調べます。以下は本論文の図1です。
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●遺跡と遺骸

 アルタイ山脈の麓に位置するチャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟(図1a)は、おもに短期の狩猟野営地として用いられていた、と考えられています。チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟は、特徴的なシビリャチーハ(Sibiryachikha)中部旧石器インダストリー(関連記事)が発見された3ヶ所の遺跡のうち2ヶ所です(残りの1ヶ所はシビリャチーハ洞窟)。チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟のシビリャチーハ・インダストリーは、ネアンデルタール人遺骸も発見されてきた(関連記事)、その東方約100kmに位置するデニソワ洞窟(Denisova Cave)の中部旧石器インダストリーとは異なっています。

 チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人居住堆積物は、堆積物の光学年代測定とバイソンの骨の放射性炭素年代測定により示唆されているように、59000~51000年前頃に蓄積しました(関連記事)。この研究では、炭の破片2点とネアンデルタール人の骨1点(チャギルスカヤ9号)から追加の放射性炭素年代が得られ、その全ては5万年以上前でした。これらの年代は、短期間の堆積(数千年かそれ未満)と合致し、全てのネアンデルタール人層の類似の考古学的インダストリーの存在と一致します。

 オクラドニコフ洞窟については、オクラドニコフ15号が含まれる3点のネアンデルタール人標本のヒドロキシプロリンに基づく単一アミノ酸放射性炭素年代を用いて、ネアンデルタール人の居住時期が制約され、その年代は少なくとも44000年前頃である、と示唆されました。本論文の年代推定値は、動物の骨のウラン系列年代と一致し、コラーゲンの断片から得られたより新しい放射性炭素年代が汚染の不完全な除去を反映している、との提案を裏づけます。したがって、考古学および年代学的データから、チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟に居住していたネアンデルタール人はほぼ同時代だったかもしれない、と示唆されます。

 チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人1個体(チャギルスカヤ8号)とデニソワ洞窟のより早期のネアンデルタール人1個体(アルタイ・ネアンデルタール人と呼ばれるデニソワ5号)の高網羅率ゲノムの以前の分析から、これらのネアンデルタール人が異なる人口集団に属していた、と明らかになりました。ネアンデルタール人の母親と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の父親の交雑第一世代の子は、ネアンデルタール人の母親が他のネアンデルタール人とよりもチャギルスカヤ8号の方と類似している、と明らかにしました(関連記事)。


●データ取得と性別決定

 チャギルスカヤ洞窟の標本17点とオクラドニコフ洞窟の標本10点から、歯はもしくは骨の粉末1~64mgが標本抽出されました。これらのうち、チャギルスカヤ洞窟の15点とオクラドニコフ洞窟の2点で古代DNAが得られ、そこから合計85点の単一鎖DNAライブラリが生成されました。そのライブラリの全てはmtDNA配列で濃縮され、49点のライブラリ(高い配列の産出と低水準の現代人の汚染で選択されました)が、ゲノム全域で643472ヶ所の塩基転換多型を含む、新たに設計された核捕獲配列を用いて、核DNAで濃縮されました。その配列では、271306ヶ所の部位が刊行されている高網羅率の古代型(絶滅ホモ属)4個体(ネアンデルタール人3個体とデニソワ人1個体)で異なり、372166ヶ所の部位が、現在のアフリカ人口集団で分離しているか、現代人と古代型人類(絶滅ホモ属)との間で固定されています。各化石の平均的な核DNA網羅率は0.04~12.3倍で(図1b)、現代人の汚染推定値の範囲は0.1~3.2%です。X染色体と常染色体との間の網羅率の違いを用いて、17点の遺骸の遺伝的性別が判断され、6点の遺骸が女性由来と分かりました。11点の男性遺骸については、Y染色体配列の約690万塩基対(Mb)で濃縮され、0.02~42.2倍の範囲の網羅率が得られました。


●親族の特定

 遺骸のいずれかが親族関係にあるのかどうか判断するため、高網羅率の古代型(絶滅ホモ属)個体(チャギルスカヤ8号に固有の多様体は除外されます)で変異する、捕獲配列における250785ヶ所の部位から1アレル(対立遺伝子)を無作為に標本抽出することにより、17点の遺骸間の核DNAの相違が計算されました。その相違は、親族関係にある個体ではより低くなるでしょう。それは、親族関係にある個体が、近い過去で共有する祖先からゲノムの一部を継承しているからです。全ての比較で中央値のDNAの相違により、この相違(p0)が正規化されます。この手法を用いて、二親等の関係まで抽出でき、それを超える場合は親族関係にないとみなされます。二親等よりも遠い親族関係にある遺骸についてはp0=1、二親等の遺骸にはp0=0.875、一親等の場合にはp0=0.75、一卵性双生児もしくは同一個体の遺骸にはp0=0.5が予測されます。mtDNAのヘテロプラスミー(ミトコンドリア内で変異型が共存している場合)も調べられ、密接な遺伝的関係が特定されます。ヘテロプラスミーは母親から子供に伝わる可能性があり、通常の持続は3世代に満たないので、異なる遺骸における存在から、同じもしくは母系で密接に関連した個体に由来する、と示唆されます。遺骸(つまり、骨格と歯の標本)と個体との間を区別するため、遺骸は数字で、個体は文字で表示されます(表1)。

 1点の乳歯(チャギルスカヤ19号)と2点の永久歯(チャギルスカヤ13および63)が見つかり、驚くべきことに、その異なる発達段階にも関わらず、遺伝的データは、それらが同一個体(チャギルスカヤG、平均p0=0.53)に属すると示唆します。これと一致して、3点の歯は男性1人に由来し、同一のmtDNAを有しており、60.7~78.5%と類似の頻度で部位3961においてヘテロプラスミーが含まれていました。乳歯のほぼ完全に再吸収された歯根から、それが自然に剥離した、と示唆されます。摩耗と歯根発達パターンに基づいて、永久歯は9~15歳の個体に由来し、この男性はおそらく乳歯が失われた頃に死んだ、と推測されました。

 成人男性1個体(チャギルスカヤD)は、集団の他の複数個体と近い親族関係にあります。チャギルスカヤDと、思春期の女性であるチャギルスカヤHとの間で、一親等の関係が見つかりました(p0=0.77)。一親等の男女の組み合わせの可能性は3通りあります。つまり、母親と息子か、キョウダイか、父親と娘です。しかし、この2個体は異なるミトコンドリアゲノムを有しているので(図1c)、チャギルスカヤHはチャギルスカヤDの娘だった、と結論づけられました。

 さらに、チャギルスカヤDのmtDNAは他の男性2個体(チャギルスカヤCおよびE)と同一で、それには共有されている部位545におけるmtDNAヘテロプラスミー(グアニンからアデニン)が含まれ、その頻度は、チャギルスカヤDでは42~54%、チャギルスカヤEでは20~41%、チャギルスカヤCでは23~30%です。したがって、これら3個体はおそらく密接な母系親族でした。たとえば、祖母を共有している可能性があり、そうならば、四親等の親族だったかもしれません。しかし、チャギルスカヤCとチャギルスカヤDとの間の親族関係の程度は、本論文の手法の解像度を超えています(p0=1.05)。チャギルスカヤEのゲノムは低網羅率で、ヒトと非ヒト動物の汚染が大量にあります。非ヒト動物の汚染の補正後、チャギルスカヤEはチャギルスカヤDの一親等の親族か同一個体と特定されました(p0=0.64)。チャギルスカヤEが異なる個体なのか確証が持てないので、以後の分析からこの標本は除外されました。

 チャギルスカヤCとDとHの密接な親族関係は、この3個体が同時代に存在したことを示唆します。さらに、チャブ人A(男性)とL(女性)は二親等の親族です(p0=0.85)。少ないデータにより正確な親族関係の決定が妨げられますが、この2個体も近い時期に生きていたに違いありません。同時代の個体群とチャギルスカヤ洞窟の他の6個体の各集団間の遺伝的相違は、相互に有意差はありませんでした。さらに、同時代の父親と娘の組み合わせは、全てのmtDNA配列で違いが最も多く、mtDNAの多様性における実質的な時間的構造がなかったことを示唆します。まとめると、データが裏づける仮説は、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人は同じ共同体の一部だった、というものです。

 オクラドニコフ洞窟の遺骸2点は相互に親族関係になく(p0=1.14)、チャギルスカヤ洞窟のどの個体とも親族関係にありませんでした。じっさい、チャギルスカヤ洞窟個体群では対での遺伝的相違がチャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟の個体間よりも低い、と分かりました。これは、オクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人が、DNAの得られた11個体により表されるチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人共同体の一部ではなかったことを示唆します。しかし、オクラドニコフBのmtDNAはチャギルスカヤGと同一です(図1c)。変異は経時的に蓄積するので、個体間の同一のmtDNAから、これら2個体は相互の数千年以内に生きていた、と示唆されます。さらに、チャギルスカヤ洞窟の以前に刊行された堆積物のmtDNA標本は、あらゆるチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人よりもオクラドニコフAの方と類似していました。これは、チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟に居住していた共同体間に何らかのつながりがあったことを示唆します。


●他の人口集団との関係

 チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟の個体が他のネアンデルタール人とどのように関連しているのか調べるため、チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人が以前に刊行された高品質のネアンデルタール人ゲノムとどの程度ヌクレオチド多様体を共有しているのか、調査されました。新たに配列された13個体は全て、チャギルスカヤ洞窟の高網羅率のゲノム(チャギルスカヤ8号)と最も多く多様体を共有しており(関連記事)、デニソワ洞窟で発見された130000~91000年前頃となるデニソワ5号(関連記事)とよりも、5万年前頃となるクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のヴィンディヤ33.19(関連記事)の方と類似していました。したがって、チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟の共同体は遺伝的に異なるものの、全て等しくヨーロッパのネアンデルタール人と関連しているようで、同じネアンデルタール人集団の一部でした。他のネアンデルタール人集団からの最近の遺伝子流動の証拠を示す個体は存在しませんでした。

 新たに配列された男性7個体、他のネアンデルタール人3個体、デニソワ人2個体、現代人4個体のY染色体で異なる690万塩基対において5416個の多様体が特定されました。新たに配列された男性7個体のうち、3個体については低網羅率の配列(0.03~0.3倍)しか得られませんでしたが、他の4個体ではより高い網羅率(1.75~42.2倍)が得られました。

 チャギルスカヤ洞窟のより高い網羅率のY染色体を組み込んだ系統樹が、他のネアンデルタール人3個体、デニソワ人2個体、現代人4個体とともに構築されました。ネアンデルタール人では、チャギルスカヤ洞窟の4個体は全てクレード(単系統群)を形成しますが、地理的により近いロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)洞窟の個体(メズマイスカヤ2号)とよりも、スペイン北部のエル・シドロン(El Sidrón)洞窟の個体(エル・シドロン1253号)の方と類似していました(図1d)。この地理的構造の欠如は、115000~100000年前頃のネアンデルタール人のかなり急速な拡大(関連記事)と一致します。ヨーロッパの後期ネアンデルタール人とチャギルスカヤ洞窟およびオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人は両方、この人口集団の子孫です。残りの3個体から回収されたY染色体配列の数は系統樹の構築に充分ではありませんでしたが、ネアンデルタール人のY染色体が相互に異なる複数の部位では、この3個体は全て、チャギルスカヤ洞窟以外のネアンデルタール人のY染色体とよりも、他のチャギルスカヤ洞窟個体のY染色体の方とより多くの派生的多様体を共有していました。

 1万塩基対の区画での網羅率の違いに基づくと、ネアンデルタール人のY染色体上で3ヶ所の欠失(2万~200万塩基対)と5ヶ所の重複(1万~20万塩基対)が検出されました。最大の欠失はメズマイスカヤ2号で見つかり、男性と診断できるアメロゲニンY(AMELY)をコードする遺伝子にまたがっています。プロテオーム(タンパク質の総体)解析手法(プロテオミクス)はアメロゲニンYペプチドの存在を用いて、骨が男性個体に由来するのかどうか判断するので、この欠失を有する男性は、この手法を用いて女性と誤分類されるでしょう。

 mtDNAとY染色体は単一の遺伝子座のみを追跡するので、遺伝子流動の調査には常染色体の遺伝的分析が必要です。アルタイ山脈におけるネアンデルタール人とデニソワ人との間の遺伝子流動は、118000~79000年前頃(関連記事)に生きていた1個体(デニソワ11号)の核ゲノムで観察されており、この個体は、母親がネアンデルタール人で、父親がデニソワ人です。チャギルスカヤ8号におけるデニソワ人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の量は約0.09%で、その混合事象はチャギルスカヤ8号が生きていた24300±14100年前に起きた、と推定されています(関連記事)。

 混合の年代が他のチャギルスカヤ洞窟個体で一致しているのかどうか調べるため、アルタイ山脈(デニソワ5号)もしくはヴィンディヤ洞窟(ヴィンディヤ33.19)のネアンデルタール人とよりも、デニソワ人のゲノムとより類似しているゲノム部分が探されました。この分析で、0.2cM(センチモルガン)以上の長さのチャギルスカヤ洞窟の5個体で、デニソワ人祖先系統の11ヶ所の断片が特定されました。これらの断片は3.2cM(270万塩基対)にまたがっており、チャギルスカヤAで最長の1.5cM(746000塩基対)が見つかりました。これらの断片の長さに基づいて、混合事象は以前の推定値と一致する、チャギルスカヤ洞窟の個体群が生きていた30000±18000年前に起きた、と推定されます。

 ネアンデルタール人とデニソワ人の両方はデニソワ洞窟に、ネアンデルタール人がチャギルスカヤ洞窟で暮らしていたのと同じ頃に居住していました(関連記事1および関連記事2)。しかし、デニソワ洞窟の石器インダストリーには、チャギルスカヤ洞窟で見つかるシビリャチーハ型の特徴が欠けています(関連記事)。したがって、チャギルスカヤ洞窟とデニソワ洞窟の近さ、およびチャギルスカヤ洞窟にネアンデルタール人が居住する数千年前のデニソワ洞窟におけるネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の子供の存在にも関わらず、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人が生きていた頃から過去2万年間のデニソワ人からチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人への遺伝子流動の証拠は見つかりません。


●社会構成の推測

 0.9倍以上の網羅率の8個体の同型接合性のゲノム断片を用いて、経時的なチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の共同体と人口の規模が調べられました。個体における同型接合性の長い断片(10 cM以上)は、その両親が約10世代前とごく最近の共通祖先を有している、したがって恐らくは小さな共同体の一部だったことを示唆します。さらに、同型接合性の中間的な長さ(2.5~10cM)の全体的な割合は、わずかに長い期間(10~40世代)の人口規模について情報をもたらします。

 アルタイ山脈の高網羅率のネアンデルタール人ゲノムの以前の分析から、デニソワ5号のゲノムの約16.7%とチャギルスカヤ8号のゲノムの19.3%は中間的および長い同型接合性断片を有している、と明らかになりました。これらのパターンに関する説明の一つは、その両親が親族関係にない個体の背景に対して二親等の親族で、その事例ではほとんどの他の個体はより少ない同型接合性断片を有すると予測される、というものです。あるいは、これらのデータは、小さな局所的共同体に由来するかもしれず、その事例では、移民とその子孫を除いて全ての個体が、同型接合性の広範な断片を有しているでしょう。

 チャギルスカヤ洞窟の充分な網羅率の8個体全てにおいて、ゲノムの1.6~14.9%が同型接合性の長い断片で、ゲノムの9.5~20.5%は中間的な断片だった、と観察されました(図2a)。両方の割合はおそらく、より低い網羅率では同型接合性の連続領域の特定が難しいため、過小評価されていることに要注意です。全ての個体で多数の同型接合性が見つかるので、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の地域共同体の規模は小さかった、と結論づけられます。この同型接合性量は、4~20個体と小さな共同体で生息している絶滅危惧種で、二親等の親族関係にある個体間の配偶が稀だと観察されてきた、現在のマウンテンゴリラで見つかるものとも類似しています(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の社会構成をさらに調べるため、11個体の母系継承となるmtDNA配列の多様性が、6個体の父系継承となるY染色体配列と対比させられました。性別の偏った過程のない任意交配集団では、平均的な合着(合祖)時間は両方の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)で同じと予測されます。しかし、Y染色体で観察された平均合着時間(446年、95%信頼区間では113~1116年)は、ミトコンドリアゲノムの平均合着時間(4348年、95%信頼区間では6196~2043年)よりずっと短くなります。

 現代の47人口集団および【非ヒト】大型類人猿10亜種との比較では、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人はY染色体とmtDNAの合着時間の比率が最低級となり、マウンテンゴリラだけがより極端な比率でした。複数の注意点があるため、【非ヒト】類人猿とネアンデルタール人との間の類似した比率は、共同体が同じ社会構成であることを必ずしも意味しない、と注意が必要です。第一に、【非ヒト】大型類人猿のデータはひじょうに不均一です。たとえば、一部の【非ヒト】大型類人猿は野生で生まれますが、他の個体は飼育下(つまり、人工的な共同体)で生まれ、その標本規模が小さいことはよくあります。第二に、いくつかの異なるシナリオが、類似のY染色体とmtDNAの比率につながるかもしれません。これらに含まれるのは、男女の世代年数の違い、男性間の偏った子孫分布(つまり、男性の部分集合の大半が子供)、女性に偏った移住です。これらの過程の相対的な重要性を検証するため、これらのシナリオの多数の組み合わせが模擬実験され、Y染色体とmtDNAの多様性およびその比率の観測データに当てはめられました。観測データの95%信頼区間内の模擬試験されたデータセットの割合として、模擬試験を用いて、各シナリオの尤度が近似させられました。次に、赤池情報量基準(AIC)が用いられ、さまざまなシナリオの順位が位置づけられました。

 最適なシナリオでは、20個体の共同体規模が想定され、女性の60~100%は他の共同体からの移住者でした。しかし、チャギルスカヤCとチャギルスカヤDとの間の共有されたヘテロプラスミーから、少なくとも一部の女性は出生集団に留まった、と示唆されます。偏った子孫分布を含むシナリオはデータを上手く説明せず、300個体の大きな共同体規模を必要とします。偏った子孫分布と女性移住の両方を想定したシナリオは、移住の偏りだけの過程により得られた適合を改善しません。世代年数の違いのみを含むシナリオはデータに上手く適合せず、非現実的(たとえば、女性が平均して男性の2倍の年齢)に見える媒介変数設定を必要とします。ネアンデルタール人の共同体規模の以前の推定値は3~60個体で、この範囲では、最適なシナリオは女性の移住を含みます。この結果から、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人共同体の社会構成において、女性に偏った移住が主因だった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文はネアンデルタール人13個体の遺伝的データを提示し、これはネアンデルタール人集団の最大の遺伝学的研究の一つになります。本論文は、把握している限りでは初めて、父と娘との組み合わせを含めて、ネアンデルタール人の間の家族関係を記載します。全個体における高度の同型接合性はマウンテンゴリラで見られるものと類似しており、ネアンデルタール人がアルタイ山脈において小さな共同体で暮らしていたことと一致します。さらに、Y染色体の平均合着時間がmtDNAよりも短いことと、チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人の間の共有されたmtDNA多様体に基づいて、これら小さなネアンデルタール人共同体はおもに女性の移住によりつながっていた、と示唆されます。

 この調査結果は、アルタイ山脈の共同体の特徴が、ネアンデルタール人の既知の範囲の最東端における孤立した地理的位置と関連しているのかどうか(とくに、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人の人口規模がおそらくはより大きいため)、あるいは、ネアンデルタール人共同体の特徴はより広範だったのか、という問題を提起します。したがって、将来の研究では、可能ならば、ユーラシアの他地域の追加のネアンデルタール人共同体から複数個体を標本抽出し、現代人の最も近い進化上の親族【ネアンデルタール人】の社会構成にさらなる光を当てるよう、目指すべきです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、多くのネアンデルタール人のゲノムデータとその親族関係を報告し、ネアンデルタール人の社会構成を推測しており、たいへん意義深いと思います。アルタイ山脈のネアンデルタール人社会では女性が移住する傾向にあった、と本論文では示唆されていますが、本論文で指摘されているように、それが時空間的により広範なネアンデルタール人社会に当てはまるとは限りません。ただ上述のように、議論になっている、と本論文でも指摘されていますが、イベリア半島北部のネアンデルタール人社会でも父方居住の可能性が指摘されているので、父方居住はネアンデルタール人社会で広く見られる特徴だった可能性が高いように思います。

 さらに言えば、ネアンデルタール人と現生人類の直接的な祖先ではなさそうなアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)において同じく父方居住の可能性が指摘されており、現生非ヒト類人猿の社会が基本的には非母系で、現代人と最も近縁な分類群であるチンパンジー属が、雌が出生集団から移動する父系親族的社会を形成することから、人類系統は父方居住社会から始まり、後に現代人に見られる多様な社会を形成したのではないか、と考えられます(関連記事)。つまり、人類は母系社会から始まった、という恐らくは唯物史観が採用したことにより今でも根強く浸透していると思われる見解はもはや時代錯誤だろう、というわけです。

 現生人類系統は少なくともある時点から双系的社会が基本になり、その中で父系もしくは母系に程度の差はあれ偏った社会も存在する、と私は考えていますが(関連記事)、こうした社会的特徴がネアンデルタール人およびデニソワ人との最終共通祖先から分岐した後の現生人類系統でのみ出現したのか、あるいは現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との最終共通祖先までさかのぼるのか、検証は困難ですが、今後も調べていきたい問題です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人類学:ネアンデルタール人家族の遺伝的スナップショット

 ネアンデルタール人の小さなコミュニティーにおける人間関係と社会組織を初めて記述した論文が、今週、Nature に掲載される。この知見は、アジアの2つの洞窟で発掘されたネアンデルタール人(13人)の骨の古代DNAの解析に基づいたものであり、ネアンデルタール人の社会組織に関する新たな識見をもたらしている。今回の研究は、これまでに報告されたネアンデルタール人の遺伝学的研究の中で最大規模のものとなった。

 現生人類と近縁関係にあるネアンデルタール人は、約43万年前から4万年前にかけて西ユーラシアに居住していた。これまでに合計18人のネアンデルタール人の骨から得た遺伝的データ(核DNAデータ)が一定数の研究で報告されており、ネアンデルタール人の集団が広範に検討されてきた。しかし、ネアンデルタール人の社会組織については、ほとんど分かっていない。

 今回、Laurits Skovたちは、ロシアのシベリア南部のアルタイ山脈にあるチャギルスカヤ洞窟で発掘されたネアンデルタール人の骨(11人)とオクラドニコフ洞窟で発掘されたネアンデルタール人の骨(2人)から得た遺伝的データを解析した。その結果、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の一部が近親者で、父親とその10代の娘と2人の第2度近親者が含まれていることが判明した。この結果は、これらのネアンデルタール人の少なくとも一部がほぼ同時代に生きていたことを示している。また、これらのネアンデルタール人において、父系遺伝するY染色体の遺伝的多様性が、母親から子へ遺伝するミトコンドリアDNAの遺伝的多様性よりもはるかに低く、女性が移住する傾向が男性より強かったことが示唆されている。この研究結果について、Skovたちは、コミュニティーの規模が小さい(20人程度)ために、女性の60%以上が配偶者の家族の一員となるために別のコミュニティーに移住し、男性が移住しなかったことによって最もよく説明できるという見解を示している。

 Skovたちは、今回の研究におけるサンプルは、サイズが小さく、ネアンデルタール人の集団全体の社会生活を代表していない可能性があると注意を促している。従って、今後の研究では、ネアンデルタール人の社会組織をさらに明らかにするために、他のコミュニティーのネアンデルタール人をもっと多く研究対象に含めることを目指すべきだと考えられる。


古遺伝学:ネアンデルタール人の社会構成に関する遺伝学的知見

古遺伝学:ゲノムが示すネアンデルタール人の社会構成

 今回、大規模な古代ゲノム研究によって、アルタイ山脈の中期旧石器時代のネアンデルタール人地域社会の構成に関して、詳細な知見が得られた。


参考文献:
Skov L. et al.(2022): Genetic insights into the social organization of Neanderthals. Nature, 610, 7932, 519–525.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05283-y

https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_23.html


3:777 :

2022/11/03 (Thu) 20:46:00

2022年11月03日
化石および遺伝的記録から推測されるネアンデルタール人と現生人類の相互作用
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_3.html

 化石および遺伝的記録から推測されるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の相互作用に関する概説(Stringer, and Crété., 2022)が公表されました。証拠から示唆されるのは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の系統は60万年前頃に分岐し始め、その後はユーラシアとアフリカでほぼ別々に進化した、ということです。6万年前頃、現生人類は顕著な出アフリカを始め、それは1万年前頃までにほぼ世界全体に分布するに至ります。

 しかし、ギリシア南部のマニ半島のアピディマ洞窟(Apidima Cave)の化石に関する最近の研究では、20万年以上前にヨーロッパに到達した現生人類のより初期の拡散があった、と提案されており、それは、中期更新世後半における初期ネアンデルタール人と現生人類系統との間の遺伝子流動を示唆する、古代DNAのデータと一致します。現生人類の追加の範囲拡大は、10万年以上前となるアジア西部、6万年以上前となる中国とスマトラ島とオーストラリアの証拠から示唆されます。

 最近まで、41000年前頃に始まったオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の拡大に先行する、ヨーロッパにおける現生人類の存在の他の痕跡はほとんどありませんでした。しかし、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)やイタリアのプッリャ州のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)やフランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)のような遺跡の新たなデータから、存続しているネアンデルタール人とともに現生人類集団が存在した可能性を示す、オーリナシアンの前となる拡散があった、と示唆されています。

 これらの人口集団の一部は後のユーラシア人と関連しているかもしれませんが、他の人口集団は今では絶滅した現生人類系統を表しているようです。増加しつつある遺伝的データから今では、ネアンデルタール人と現生人類のこの共存は両種間の交雑期間が伴っていた、と知られています。本論文では、現生人類集団へのネアンデルタール人個体の継続的吸収が、ネアンデルタール人の消滅につながった要因の一つだったかもしれない、と示唆されます。


●研究史

 ほんの数年前には、ホモ・サピエンスが祖先のアフリカの故地から少なくとも6万年前頃には拡散を始めたとしても、ヨーロッパにおける現生人類の到達にはもっと長い時間を要し、おそらくは41000年前頃のオーリナシアンインダストリーの到来とともにやっと到達した、と主張することが依然として可能でした。この「遅延」は、より寒冷なヨーロッパの環境への適応を発達させる必要により起きたか、あるいは先住のネアンデルタール人が何千年もの間、ホモ・サピエンスの排除に成功したからだ、と仮定されました。しかし、2019年以降、以前に観察されたようにアジア西部だけではなく、ヨーロッパにおいても、初期ホモ・サピエンスと後期ネアンデルタール人の長期の共存可能性を論証する一連の文献があれます。さらに、古代DNAの証拠から、この重複にはヨーロッパとアジアにおけるこれらの人口集団間の交雑複数の事象が伴っていた、と示されます。

 本論文はまず、ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの種の状態、およびその系統に沿って進化を区別するさいの、「古代型」や「現代型」や「初期」や「後期」のような用語の使用を検証します。本論文は次に、ユーラシアとアフリカにおけるネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統それぞれの発達について知られていることを簡潔に調べ、ユーラシアへのホモ・サピエンスの初期拡散に関する増えつつある証拠を再検討します。次に、ヨーロッパにおける6万~4万年前頃の期間と、さまざまな石器技術と関連するホモ・サピエンス集団の複数の到来に関する新たな証拠に焦点が当てられます。最後に、ネアンデルタール人集団とホモ・サピエンス集団が相互をどのように認識したのか、ということと、遺伝子交換を行なった社会環境が検証され、これら古代の人口集団間の複雑な相互作用の理解を深めるデータが予測されます。


●ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシス

 ほとんどの古人類学者は、ネアンデルタール人と現生人類をヒトの別種、つまりホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスとみなしています。現生人類の身体的特徴には、高くて丸い(「球状化」)脳頭蓋、小さく分断した眉弓、比較的狭い骨盤が含まれますが、ネアンデルタール人は、比較的長くて低い頭蓋骨、大きくて連続した眉弓、広くてより裾広がりの寛骨を示します。聴覚に不可欠の中耳の3点の小さな骨でさえ、注意深く測定すればネアンデルタール人と容易に区別できます。さらに、いくつかの研究では、頭蓋や耳の形態などの特徴におけるネアンデルタール人と現生人類の違いは、霊長類の異なる種で見られるものと一致するか、超えている、と示されてきました(関連記事)。

 したがって、現生人類をネアンデルタール人とは異なる種として分類するのに充分な身体的証拠があり、遺伝的データからは、現生人類系統は50万年以上前(関連記事)かさらにそれ以前(関連記事1および関連記事2)からネアンデルタール人とは別の進化の道を歩み始めた、と示唆されています。しかし今では、この分離はこれら進化した人口集団間の交雑を妨げるのに充分ではなかった(関連記事)、と分かっており、多くの密接に関連した現生種でも同様のことが観察されています(関連記事1および関連記事2)。

 ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統に沿った進化を区別するには追加の専門用語が必要ですが、いくつかの根本的で困難な命名法の問題があり、それは、長年にわたって最近のヒト進化の議論につきまとってきました。つまり、「古代型(archaic)」と「現代型(modern)」のヒトで用いられてきた専門用語です。多くの研究者は、最近および現存するホモ・サピエンスの「解剖学的に現代的な」骨格形態を表すために「現代型」の用語を、一般的および学術的議論の両方で使用しています。この場合のホモ・サピエンスとは、上述のように、高い神経頭蓋、球状の側頭部、前頭骨の下に引っ込んだ小さな顔面、小さくて連続していない眼窩上隆起、出生後の延長された生長期間と生活史、狭い胸郭と胴体と骨盤など、特定の特徴を共有しています。

 しかし、本論文の一方の著者であるストリンガー(Chris Stringer)氏は最近、(解剖学的な)現代人は、あまりにも混乱を招く用語である、と提案しました。それは、この用語があまりにも多くの異なるやり方で使われており、すっかり「最近のヒト」や「現存のヒト」や「行動的に現代的なヒト」といった、定義にそれ自体の問題を孕んでいる用語と融合してきたからです。「現代型」と常に関連づけられている用語である「古代型」も、ネアンデルタール人が大きな脳や突き出た中顔面や独特な耳骨など多くの派生的特徴を有しているのに、(「現代型」のヒトではない故に)「古代型」のヒトとして記載される矛盾した状況をもたらします。ストリンガー氏は、ホモ・サピエンス化石について「前期」と「後期」という代替的な用語を時に使うことで、この混乱に対処しました。しかし、これらの用語が適用された遺骸の多くは、年代測定されていないか、年代が議論になっています。さらに、化石の年代は、その形態がどの程度祖先的なのか、あるいは派生的なのか、必ずしも示唆しません。

 ストリンガー氏は2021年4月に、ソーシャルメディアでこれらの問題を論じ、多くの有益な反応と見解を受け取りました。たとえば、マイク・プラヴキャン(Mike Plavcan)氏は、単純に「基底部(系統樹もしくは系統発生上で祖先の位置に近い特徴を示します)」という用語と、「派生的(特殊化した祖先的ではない特徴を意味します)」という用語の使用を提案しました。それも、一般的語法における「原始的(primitive)」のような単語を用いることで付いてくる社会的因習により特徴づけられていません。これらの単語はどちらも、系統発生の議論では広く使用されていますが、古人類学ではずっと限定的です。

 したがって、この解決策に従うと、モロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡の化石(ジェベル・イルード1号)や、エチオピアのオモ・キビシュ2号(Omo Kibish 2)が基底部ホモ・サピエンス(bHs)を表している一方で、保存部分ではオモ・キビシュ1号は派生的ホモ・サピエンス(dHs)と記載できる、と言えます。同様に、中期更新世となるスペイン北部のアタプエルカの丘陵にある通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の人類遺骸のようなネアンデルタール人系統の初期構成員を基底部ネアンデルタール人(bHn)と呼べる一方で、フランスのラ・フェラシー(La Ferrassie)遺跡の人類遺骸(ラ・フェラシー1号)やフォーブス採石場(Forbes’ Quarry)の人類遺骸のような化石は、派生的ネアンデルタール人(dHn)と呼べます。

 「古代型」対「現代型」の二分法の廃止は、「古代型」遺伝子移入の曖昧な標識化も終了させ、それは、ネアンデルタール人系統の遺伝子移入、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の遺伝子移入、非現生人類系統の遺伝子移入などについてより具体的に話せることを意味します。しかし、ソーシャルメディアでの反応では、基底部および派生的のような用語は相対的である、と指摘され、誰がどちらかの使用を決定できるのか、と疑問が呈されました。これに対して、同じ(またはさらに悪い)問題が「古代型」と「現代型」という用語に当てはまる、と主張できます。さらに、「基底部」および「派生的」を非公式に使う場合でも、系統発生もしくはこれらの決定がどのようになされたのか明確にするための特徴の一覧を参照することは、少なくとも可能なはずです。結局のところ、「大きい」や「小さい」や「暑い」や「寒い」のような相対的用語が常に使われますが、それにも関わらず、そうした用語は有益です。ヒト化石が議論される場合、同じことが「基底部」と「派生的」に適用できる、と期待されます。


●ヨーロッパにおける少なくとも40万年間のネアンデルタール人の進化

 SHは、初期のヒトの多くの部分骨格で有名であり、その年代は43万年前頃です(関連記事)。これらの骨と歯の分析から、SH人類遺骸はネアンデルタール人の初期の近縁と示唆され(関連記事)、この結論は、SH化石の1点から古代DNAが回収され、ネアンデルタール人系統に位置づけられた2016年に裏づけられました(関連記事)。これらの遺伝的データを後のネアンデルタール人およびdHs(派生的ホモ・サピエンス)のゲノムと組み合わせると、ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統との間の分岐が60万年前頃に始まった、と示唆されます。これは、以下で議論される新たな研究と組み合わせると、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの最終共通祖先(LCA)がどの人類だったのか、という問題に関する考え方に変化をもたらしました。

 以前には、多くの研究者が、LCAはそれ以前の種であるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)もしくはホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)だった、と認めていました。そうしたLCA候補種は、ヨーロッパではギリシアのペトラローナ(Petralona)やフランスのアラゴ(Arago)、アフリカではエチオピアのボド(Bodo)やザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)としても知られるカブウェ(Kabwe)などの化石により表されていました。このLCA種は50万年前頃に分岐し始め、それからユーラシアではネアンデルタール人、アフリカでは現生人類をじょじょに生み出した、と想定されました。

 しかし、ホモ・ローデシエンシスとされるカブウェ頭蓋に関する最近の年代測定研究では、この標本がわずか30万年前頃と年代測定され(関連記事)、現生人類の古代のアフリカの祖先で予測される年代よりもずっと新しい、と示されました。さらに、ホモ・ローデシエンシスの顔面形態に関する最近の研究では、その頬骨上顎形態は派生的なので、現生人類の祖先を表している可能性は低い、と示唆されています。したがって、本論文の見解では、60万年前頃の現生人類とネアンデルタール人のLCAの正確な性質やLCAの分布場所を確証する充分な証拠は、現時点ではないことになります。


●ユーラシアにおけるネアンデルタール人の進化と同じ時間規模のアフリカにおけるホモ・サピエンスの進化

 しかし、ホモ・サピエンスの進化の系譜が60万年前頃までさかのぼるのならば、ホモ・サピエンスの初期進化を記録しているはずのSH化石に相当するものはどこにあるのでしょうか?最近まで、多くの科学者の主張は、20万~15万年前頃と年代測定された、オモ・キビシュ1号やエチオピアのアファール地溝のミドルアワシュ(Middle Awash)のヘルト(Herto)で発見された成人遺骸(BOU-VP-16/1)が、現生人類の最初の既知の構成員を表している、というものでした。この両化石は球状の脳頭蓋と縮小した眉の大きさを有しており、オモ・キビシュ1号もホモ・サピエンス的な寛骨を有しており、以前に推定されたよりも年代は古い、と示されました(関連記事)。

 これらエチオピアの標本がdHs(派生的ホモ・サピエンス)を表しているならば、これらエチオピアの標本と、ネアンデルタール人とのより古い共通祖先との間に、大きな時間的間隙があるようです。南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)やケニアのエリー・スプリングス(Eliye Springs)など他のアフリカの化石は、現生人類系統でより初期に存在したより祖先的なホモ・サピエンス人口集団を表しているかもしれない、と主張されてきましたが、その証拠は不完全で、充分には年代測定されていません(関連記事)。

 2017年、モロッコのジェベル・イルードの新旧の化石と考古学的発見を記載した2つの研究が刊行され、30万年前頃と年代測定されましたが(関連記事)、これは以前に提案された年代よりずっと古くなります。これらの発見が示す特徴は、ジェベル・イルードの化石がホモ・サピエンス系統の初期構成員を表しているかもしれない、と示唆しており、アフリカ北部を、ホモ・サピエンスの進化における提案された僻地からより目立つ位置に変えました。ジェベル・イルード化石は、より長くてより低い脳頭蓋、強い眉弓、大きな顔面と歯など、30万年前頃の人類遺骸で予測され得るいくつかの祖先的特徴を示します。しかし、繊細な頬骨と引っ込んだ顔面は、頭蓋骨と歯の詳細および顎骨の形態と同様に、より派生的に見えます。ジェベル・イルード遺跡における火の制御された使用と石器の精巧化の関連する証拠は、これら現生人類系統の推定される初期構成員における複雑な行動を示唆します。

 他の発見から、ジェベル・イルードの人々は30万年前頃にアフリカで孤立していたわけではなく、現生人類の進化史におけるジェベル・イルードの人々の位置づけは簡単ではない、と示唆されています。今では、少なくとも3種のヒトがその時点でアフリカ全域に存在していた可能性が高いようです。上述のように、ホモ・サピエンスの系統がおそらくはモロッコに存在していた一方で、ザンビアのカブウェにはホモ・ローデシエンシスが存続していたようです(関連記事)。さらに今では、南アフリカ共和国のヨハネスブルク近郊のライジングスター(Rising Star)洞窟群の奥深く出発見された何百もの化石が知られており、これらはホモ・ナレディ(Homo naledi)と呼ばれ、その時点でアフリカ南部に存在していたずっと祖先形質の種です(関連記事)。

 ジェベル・イルードの発見を、ケニアのエリー・スプリングスやグオモデ(Guomde)、南アフリカ共和国のフロリスバッド、エチオピアのオモ・キビシュ、タンザニアのンガロバ(Ngaloba)のような遺跡の、一部の研究者により初期ホモ・サピエンスへと分類された他の化石と比較すると、事態はさらに複雑になります。これらの化石は大きな差異と、祖先的および派生的特徴のさまざまな組み合わせを示し、それは、dHs(派生的ホモ・サピエンス)の特徴の整然と連続した進化を示唆していないか、ホモ・サピエンス系統への分類に疑問を呈している可能性さえあります。

 代わりに、ストリンガー氏と他の何人かの研究者は今では、ホモ・サピエンスの進化についてより複雑な汎アフリカモデルを好んでいます。このモデルでは、現代人の祖先の形態は多様で、アフリカ大陸の大半に散在していました(関連記事)。絶えず変化する気候に影響を受けて、地域ごとの進化は盛衰し、時には、網目状になったり、別々の道を進んだり、完全に消滅したりしました。「現代型のヒト」と呼ばれるものは、アフリカにおける何十万年にもわたるこれらさまざまな祖先的人口集団の混合の最終的な結果です。


●アフリカからのホモ・サピエンスの初期拡散

 dHs(派生的ホモ・サピエンス)は6万年前頃にアフリカから顕著な拡散を開始し(関連記事1および関連記事2)、ネアンデルタール人集団はその約2万年後に消滅しました(関連記事)。これら2つの事象はつながっており、両種【ネアンデルタール人と現生人類】が遭遇した時に、何が起きたのでしょうか?考古学と化石と遺伝学(古代DNA)の記録における新たな発見は、6万~4万年前頃の両人口集団【ネアンデルタール人と現生人類】間のつながりを明らかにし始めつつあります。

 ネアンデルタール人とdHsの進化は、各地域でほぼ別々に進行したようですが、古代DNAの証拠は最近、両者が、おそらくは初期ホモ・サピエンスがユーラシアに短期間侵出した25万年前頃に遺伝子を交換したかもしれない、と明らかにしました(関連記事1および関連記事2)。この頃となる調整石核技術の拡大はそうした接触を反映しているかもしれず、アフリカからの移動も示す化石遺骸がギリシアのアピディマ洞窟で発見されており、そのホモ・サピエンス的な脳頭蓋の後部は少なくとも21万年前と年代測定されました(関連記事)。

 アピディマ洞窟の2点の化石ヒト頭蓋が最初に研究された時には、堆積物内の近接から、少なくとも16万年前頃とされたアピディマ2号で行なわれたウラン系列測定が両者に適用される、と仮定されました。より完全なアピディマ2号頭蓋は、フランスのラ・シャペルオーサン(La Chapelle-aux-Saints)遺跡の人類遺骸のようなネアンデルタール人の頭蓋との形態類似性を示しましたが、(以前には刊行されていなかった)アピディマ1号の部分的な頭蓋のさらなる研究は、アピディマ2号およびネアンデルタール人化石との予測よりも少ない類似性を示しており、少なくとも13万年前頃のホモ・サピエンス化石で観察される頭蓋との密接な特徴を有しています。

 新たな年代測定分析の結果は予想外で、アピディマ2号は少なくとも17万年前頃、アピディマ1号は少なくとも21万年前頃に位置づけられ、形態計測比較では、保存部分について、アピディマ1号はdHsに典型的な特徴を表している、と示されました。アピディマ1号の頭蓋は不完全で、その形態は部分的に鏡像再構築に基づいていますが、再構築と用いられた大規模な比較データセットで実行された複数の検証は分析の分解能を向上させ、アピディマ1号がホモ・サピエンスのみに典型的な頭蓋の高くて丸い後部を提示する、と比較的確実に示唆します。

 アピディマ1号および2号の頭蓋はウラン系列法で直接的に年代測定され、ウラン系列法は一般的に、骨に用いられたさいには下限年代を提供します。対照的に、頭蓋の間の硬化した鋳型の石化は、その後の化石化過程と一致して、15万年前頃と年代測定できます。これらの結果は、初期ホモ・サピエンス集団がギリシアに21万年前頃までに存在し、おそらくはレヴァントの類似の集団と関連しており、その後で17万年前頃までにネアンデルタール人集団に置換された、という新たなシナリオを示唆します。

 アピディマ化石の分析が正しければ、ホモ・サピエンスはヨーロッパに以前に考えられていたよりも15万年以上前に進入したわけで、まったく新たな範囲の問題と可能性を提起し、その中には、どこから来たのか、何が起きたのか、ということも含まれます。アフリカからの最も可能性が高い経路は、レヴァントとトルコを経由したでしょう。アフリカ外におけるそうした初期ホモ・サピエンス集団の存在は、上述のように、ゲノムデータに基づくLCAのより古い時間規模、およびミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の分析に由来するより新しい時間規模と比較して(関連記事1および関連記事2)、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの人口集団間の初期のDNA交換の痕跡から示唆されています。残念ながら、どこか他地域との考古学的つながりを確証するのに役立つ、アピディマ頭蓋のどちらかと直接的に関連する石器はありませんが、アピディマ化石の証拠から、これら初期ホモ・サピエンスの製作物はその後の更新世のヨーロッパの記録に存在しているに違いない、と示唆されます。

 10万年以上前とされるスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)やミスリヤ(Misliya)のようなイスラエルの遺跡の人類遺骸で示唆されているように、アフリカからのホモ・サピエンスの他の初期拡散の痕跡は確かにあります(図1)。本論文でdHsとみなされているスフールとカフゼーの人類遺骸の年代は13万~10万年前頃と長年認識されており、2017年には、ミスリヤ洞窟の完全な一連の左側の歯を伴う部分的な上顎に関する研究が刊行され、この遺骸は派生的なホモ・サピエンスに分類され、その下限推定年代は174000年前頃です(関連記事)。それ以降、部分的な下顎と脳頭蓋を含む一部のよりネアンデルタール人的な化石が、イスラエル中央部のネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)開地遺跡で回収され(関連記事)、この地域ではかなりの中期更新世後期のヒトの差異があり、ホモ・サピエンス系統とホモ・ネアンデルターレンシス系統の構成員の共存の可能性も含まれる、と示唆されています。

 アジア西部とヨーロッパを超えた、中国南部(関連記事)からスマトラ島(関連記事)とオーストラリア北部(関連記事)までの6万年以上前となるdHsの拡散の証拠もありますが、その年代に研究者が全員納得しているわけではありません(関連記事)。それにも関わらず、アフリカ外の現代人のゲノム解析から、ホモ・サピエンスの主要な拡散は6万年前頃に始まり、その2万年後となるネアンデルタール人の消滅は、ホモ・サピエンスの主要な拡散事象とよく関連しているかもしれない、と示唆されます。しかし、ネアンデルタール人の特徴を有する骨格が化石記録から消滅した、という意味で、この終焉は身体的なものにすぎませんでした。これは、過去10年ほどの古代DNAの回収により、ネアンデルタール人がその消滅前に初期dHsと交雑した、と示されたからで、アフリカ外に暮らすほとんどの人々はそのゲノムにネアンデルタール人由来のDNAを約2%有している、ということを意味します。以下は本論文の図1です。
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 初期dHsの身体遺骸に加えて、考古学者も石器など物質文化の形でこれらの人々が残した痕跡を用いて、アフリカからの拡大範囲を追跡します。上部旧石器としてまとめて分類されている物質文化は、アジア西部とヨーロッパにおけるdHsの初期拡大の地図作成に重要と証明されており、最近まで、41000年前頃に始まったオーリナシアンの拡大に先行するヨーロッパにおけるホモ・サピエンスの存在の痕跡はほとんどありませんでした(関連記事)。移行的(中部旧石器と上部旧石器の混合した特徴を示すため)として記載されているそれ以前の謎めいた石器インダストリーがあり、たとえばイタリアのウルツィアン(Ulzzian、ウルツォ文化)です。他には、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)として記載される石器インダストリーがあり、たとえばブルガリアのバチョキロ洞窟のバチョキリアン(Bachokirian、バチョキロ文化)で、その製作者の性質が確証されていませんでした。

 しかし、過去数年で、バチョキロ洞窟(関連記事)やチェコ共和国のズラティクン洞窟(関連記事)やイタリアのカヴァッロ洞窟やフランスのマンドリン洞窟(関連記事)のような遺跡からの重要な新しい証拠が明らかになり、これらの遺跡の証拠は、ヨーロッパにおける初期ホモ・サピエンスの到来年代をさらに遡らせるようです。さらに、考古学的関連はないもののヨーロッパを越えて、男性のホモ・サピエンス個体の部分的な大腿骨が、シベリア西部のロシア連邦オムスク州(Omsk Oblast)のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見され、その年代は45000年前頃と推定されて、そのゲノム配列は、ネアンデルタール人から祖先への遺伝子流動がその男性個体の7000~13000年前頃に起きたことを示唆します(関連記事)。

 ウルツィアンとして知られる移行期インダストリーは、イタリアのいくつかの遺跡で記録されており、年代は45000~40000年前頃で、その製作者が後期ネアンデルタール人なのか初期ホモ・サピエンスなのかについて、長い間議論されてきました。しかし、2011年に、カヴァッロ洞窟の2点の乳歯がその形態に基づいてホモ・サピエンスを表している、と同定されました(関連記事)。これは、以前には特定されていなかった地中海北部地域に広がるホモ・サピエンスの拡大を明らかにした重要な発見です。残念ながら、ウルツィアンのどの遺跡からも古代人のDNAはまだ回収されていません。

 ズラティクンの部分的な頭蓋骨と骨格は1950年に上部旧石器を伴う洞窟で発見され、その時はわずか15000年前頃と考えられていました。しかし、この女性頭蓋骨の新たな分析は、それが45000年以上前である可能性を示唆する古代DNAを回収しました(関連記事)。ズラティクン個体のゲノムから、彼女は現在のヨーロッパとアジアの人口集団の分岐に先行して分岐した系統に属し、先行する交雑事象からネアンデルタール人のDNAの比較的大きい断片を含んでいた、と示唆されます。

 46000~42500年前頃となるバチョキロ洞窟人類遺骸の発見は、ヨーロッパ東部における初期ホモ・サピエンスのわずかに異なる像を描きます。バチョキロ洞窟では、IUPバチョキリアンインダストリーと関連する3点の歯と骨の断片からDNAが得られ、バチョキロ洞窟の個体がネアンデルタール人の祖先をわずか数世代前に有していた、と示唆されます(関連記事)。ネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の新しさは、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)個体での推定値(関連記事)と類似していますが、男性のワセ1号が後のユーラシア人と関連していないのに対して、バチョキロ洞窟個体群のゲノムは、4万年前頃となる北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性個体を含むアジア東部人との関連(関連記事)を示します【本論文はこう指摘しますが、ワセ1号の主要な祖先はバチョキロ洞窟の46000~42500年前頃の個体群と遺伝的にきわめて近縁な集団との見解(関連記事)もあります】。これは、ズラティクンの女性個体とウスチイシムの男性個体の後に起きたか、完全に別の事象である、ホモ・サピエンスの初期ユーラシア拡散を示唆します。

 バチョキロ洞窟の証拠について注目に値するのは、ヨーロッパへのホモ・サピエンスの最初の拡散についての一般的な見解の誤りを論証していることです。その一般的な見解では通常、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3における短期の気候改善中にホモ・サピエンスのヨーロッパへの拡散が起きた、と想定されています。バチョキロ洞窟の考古学および動物相の記録から、dHSはすでにより寒冷な44000年前頃の環境に対処していた、と示されます。これは、ホモ・サピエンスの適応性を示している可能性がありますが、これらの人々の部分的なネアンデルタール人の生物学的および文化的遺産も反映しているかもしれません。


●ヨーロッパ西部からの新たな証拠

 最終氷期には、拡大した氷冠に蓄えられた水の量のため世界的な海水準はずっと低く、ジャージー島はフランスとつながっていました。ジャージー島のラ・コット・ド・サン・ブリレード(La Cotte de St Brelade)遺跡での1911~1920年の発掘では、中部旧石器時代の2万点以上の石器(ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と関連するインダストリー)と、マンモスやケブカサイなど氷期大型動物の骨が見つかりました。1910~1911年には、13点のヒトの歯も発見され、それらは大きく、歯根が頑丈だったので、ネアンデルタール人と同定されました。

 過去数年間に、研究者はこれらの歯を再調査し、驚くべき結果が得られました。第一に、詳細な比較から、当初推測されていた1個体ではなく、少なくとも2個体を表している、と分かりました。第二に、全ての歯にはいくつかのネアンデルタール人の特徴があり、その大きさはネアンデルタール人と一致しており、数点の歯にはこれら古代人で通常みられる特徴が欠けていた一方で、その形態の他の側面ははるかに典型的なホモ・サピエンスものに見えました。

 この遺跡の最近の年代測定研究から、これらの歯はおそらく48000年前頃未満だと分かっており、これらの歯がこれまでに知られている最も新しいネアンデルタール人遺骸の一部である可能性を意味しています。しかし、ホモ・サピエンスが4万年以上前からヨーロッパの一部でネアンデルタール人と重複しており、これらの人口集団が時々交雑していた、と知られていることを考えると、恐らくはこれらの個体における特徴の異常な組み合わせから、ジャージー島の人口集団がネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二重祖先系統を直近の過去に有していた、と示唆されます。これは、古代DNAが歯に保存されていたならば、検証できることです。

 最近の研究(関連記事)は、複数回のホモ・サピエンス拡散のさらなる証拠を提供し、フランスのローヌ渓谷のマンドリン洞窟E層の乳歯上顎大臼歯は形態学的にホモ・サピエンスと同定され、その年代は57000~51500年前頃です。この単一の歯は、近隣のネロン洞窟(Grotte de Néron)遺跡に名称が由来するネロニアン(Neronian、ネロン文化)と呼ばれる独特な石器インダストリーと関連しており、ひじょうに小さな槍先形尖頭器もしくは鏃の可能性があると解釈された、標準化された尖頭器により特徴づけられています。このネロニアンインダストリーは、ネアンデルタール人の占拠に特徴的なムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の道具を含む層と、ネアンデルタール人と同定された追加の8点の歯を含む層との間に位置しており、この年代のヨーロッパの他のインダストリーとは異なっていて、レヴァントとアフリカで最も近い類例が見つかります。

 マンドリン洞窟におけるこれらの発見は、この期間における【ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの】遺伝的および文化的接触と、北地中海沿岸でのアジア西部からローヌ渓谷へのあり得る拡散経路についての、さらなる問題を提起します。マンドリン洞窟の発見は、ネロニアンインダストリーが関連するローヌ川支流のアルデーシュ川沿いのアブリ・デュ・マラス(Abri du Maras)遺跡でずっと新しい年代と測定されていることを考えると、ネロニアン自体の性質と長さについての問題も提起します。

 この豊富な新しいデータは、さまざまな年代とさまざまな技術の使用における、4万年以上前となるヨーロッパでのネアンデルタール人の領域への初期ホモ・サピエンスの複数拡散の増加しつつある描写に追加されます。しかし、ヨーロッパへの侵入者【現生人類】の繰り返しの大きな波の想定ではなく、おそらくは不安定な気候と関連する変動する気候のため、これら初期ホモ・サピエンスのヨーロッパへの拡散のいくつかは、たとえばマンドリン洞窟のように短期間で一時的な居住だったようで、恐らく代わりに、経時的に衰退して流れていく、人々の小さな細流を想像せねばなりません。ホモ・サピエンスのこれら初期の範囲拡大のいくつか、たとえばウスチイシムやズラティクンやワセで発見された個体のゲノムに代表される人口集団は、明らかにユーラシアにおける後の子孫を有しておらず、ホモ・サピエンスの今では消滅した系統を表しています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが遭遇した時に起きたこと

 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが交雑したのかどうかについての長い議論は、古代DNAが利用可能になったことにより最終的に解決され、交雑を伴う最近のアフリカ起源や同化などのモデルが、今では観察されたデータに最も適しているように見えます(関連記事)。人口集団間の遺伝子交換が広範で、ホモ・サピエンスの派生的特徴が人口拡散を通じて次第に拡大したならば、同化は最終的により適切だと証明されますが、在来の人口集団が置換過程において拡散するホモ・サピエンスによりおもに吸収された、という証拠は、交雑を伴う最近のアフリカ起源を支持します。

 大衆文化や学術的著作(関連記事)において、ネアンデルタール人の人間性とホモ・サピエンスとの密接な類似を強調した、ネアンデルタール人についての最近の歓迎すべき新たな認識があります。しかし、dHs(派生的ホモ・サピエンス)系統とdHn(派生的ネアンデルタール人)系統との間にはおそらく50万年もの実際の進化的分離時間があり、これら他のヒトをホモ・サピエンス自体の単により大きな眉の異形として表すことには要注意です。骨盤と胸郭の解剖学的構造における違いは、異なる生理機能と体格を明確に示唆しており、身体と顔面と頭髪分布の観点でのネアンデルタール人の外観、および外耳と目と鼻と唇などの要素の正確な形状についての正確な知識はありません。

 成人のネアンデルタール人に遍在する眉弓は、よく議論されている構造ですが、最近の研究では、眉弓がそれ以前のヒトにおいて情報伝達機能を有していたかもしれず(関連記事)、ネアンデルタール人では存続した可能性があるものの、dHsでは失われた、と示唆されています。これが示唆するのは、dHsはその機能を他の合図、おそらくは眉毛か他の顔の表情、あるいは恐らく言語もしくは象徴的表示を含む技能で置き換え、象徴的表示には穿孔や刺青などの文化的装飾が含まれていたかもしれない、ということです。

 ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの系統がユーラシアで6万年前頃に遭遇し始めた時、外見や言葉と身振りの意思伝達や表現や一般的な行動やおそらくは臭いでも、類似性と違いの両方があったでしょうし、そうした類似性と違いは、両者が最初の接触で相互をどのように認識するのかに影響を及ぼしたでしょうから、配偶者認識の機序に影響を与えたでしょう。両者は互いを人として、したがって潜在的な味方か配偶者か次の食事としてさえ見たでしょうか?答えが何であれ、とくにヒトの行動の気まぐれを考えると、それは時と場によりさまざまに変わります。

 さらに、これらの人口集団は、いわゆる「大航海時代」における大陸を越えて遭遇したどの多様な集団よりもずっと長く相互に分岐していたので、最近のヒトの歴史であったことよりも、外見と行動では顕著な差異が予測されます。さらに、ネアンデルタール人は明らかに知的で確実に言葉を話していましたが、ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統で発達した言語の区別は、おそらく今存在するものをはるかに超えていたでしょう。さらに、認知と発声の解剖学的構造もネアンデルタール人とホモ・サピエンスでは異なっていた、と示唆する遺伝的データがあり、それは両種間の差異を浮き彫りにしたかもしれません。

 種水準でのホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスとの間の違いの規模がどうであれ、各人口集団の構成員が多くの場合交雑したに違いない、と増え続ける遺伝的データから分かっており、男性系統で一定水準の不妊性があったとしても(関連記事1および関連記事2)、両者の配偶行動から繁殖能力のある子供が生まれました。では、これらの性的出会いにつながった社会的環境は何でしたか?チンパンジーについて検討すると、他の群れから雌を捕獲する事例があり、繁殖可能年齢およびその前の年齢両方の雌は、時に最近の狩猟採集民や牧畜民の間で、その社会的集団から強奪されています。ゴリラとチンパンジーでは、ホモ・サピエンスと同様に、雄もしくは雌の個体から誘われる機会的でしばしば密かな交尾は、通常の配偶相手から離れた場所で行われることがあります。最近の狩猟採集民間の配偶のより構造的な移動は、局所的な人口統計学的条件により変わるので、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの集団間でも時には発達したかもしれません。

 しかし、現時点で興味深いのは、化石記録から解明され、本論文で提示されている、後期ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの集団間交雑の実際もしくはあり得る事例がいくつかあるものの、これまでのところその全ては(曖昧なラ・コット・ド・サン・ブリレードの事例は別として)、ネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスの化石から証明されている、ということです。これは、後期ネアンデルタール人の遺伝的記録が少ないためか、あるいは、ネアンデルタール人の社会集団内の交雑個体がより稀であるか、あるいは生存できなかったのでしょうか?

 重要な45000~40000年前頃の期間のゲノムのより多くの標本が、ホモ・サピエンスの遺伝子プールへのネアンデルタール人のDNAの移入という現在のパターンを維持し、その逆がない場合、これはネアンデルタール人集団消滅の機序を提供するかもしれません。繁殖能力のあるネアンデルタール人が、この期間に定期的に(どのような機序であれ)ホモ・サピエンス集団へと吸収されたならば、ネアンデルタール人の遺伝子プールからも事実上排除されることになり、壮年期個体のそうした一貫した流出は、小さな狩猟採集民集団では長く維持できることではなかったでしょう。おそらく、拡散するホモ・サピエンス集団は後期ネアンデルタール人のポケットを吸収するスポンジのような役割を果たし、恐らくはそれが、何にましても、生存可能な人口集団としてのネアンデルタール人の最終的な消滅につながりました。

 洞窟堆積物からの環境DNA回収の最近の進歩は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の集団が相互作用していた地上での人口集団の関係についての理解を大きく変える、と期待されます。6万~4万年前頃の期間には、ヒト化石を含んでいるヨーロッパの遺跡はほとんどありませんが、ミトコンドリアや核のゲノム物質の形態で、ヒトの存在の痕跡を含む遺跡はもっと多くあるかもしれません。これまでの研究で論証されているのは、堆積物のDNAは種および個体水準でヒトを識別でき、さまざまな人口集団、性別、親族関係、異なる人口集団間の混合の程度を解明できるかもしれない、ということです(関連記事1および関連記事2)。そうした躍進は、数年前でさえ予測できませんでしたし、今後もより多くの驚きがあるでしょう。現代人に消えない遺伝的痕跡を残し、研究を興味深いものとしている、本論文が取り上げてきた古代の遭遇について学ぶことはまだ多くあります。


参考文献:
Stringer C, and Crété L.(2022): Mapping Interactions of H. neanderthalensis and Homo sapiens from the Fossil and Genetic Records. PaleoAnthropology, 2022, 2, 401–412.
https://doi.org/10.48738/2022.iss2.130

https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_3.html



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