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餓死者続出、累々たる屍が街角に放置された天明の大飢饉は、なぜ起きた?

1:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:31:10

[ゆっくり解説]天明の飢饉と大飢餓
https://www.youtube.com/watch?v=eRsJZzGp5PU

江戸時代の老中というものは通常数名が選ばれ幕政を複数で回していくものなのですが、天明の飢饉時の金策を始めとして田沼意次の影響力が強いと判断したため、今回は田沼意次に焦点を当てて話してみました。

現に天明の飢饉で東北地方が地獄を見たあと(見ている最中?)松平定信は全力で権力の中枢にいた田沼潰しをしようとします。

また、「天明卯辰簗」という史書の字幕表記の際発音は「うたつやな」なのにカッコで「うたてやな」と書いてありますが、これは本当は「うたてやな」と発音させたかったのに発音を変えるのを忘れた自分のミスです。

ただ、本によっては「うたつやな」とルビが振ってあるので発音はこれで間違いではないみたいです


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餓死者続出、累々たる屍が街角に放置された天明の大飢饉は、なぜ起きた?
2022年10月14日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-2017.html

 江戸時代には、「四大飢饉」をはじめとして、35回もの深刻な飢饉が発生したという。
 その理由は、「マウンダー極小期」という太陽活動の低下によって、地殻変動、火山噴火、小氷期による冷害が続いたからである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%A5%B5%E5%B0%8F%E6%9C%9F

 家康が江戸幕府を開闢し、歴史上もっとも強固な安定政権を樹立してまもなく、1645年~1715年(犯罪が激増し、大岡忠相の全盛期)に、太陽黒点が著しく減少し、太陽磁気活動が弱まったことで、異常気象による冷害が続けて起きた。
 マウンダー極小期中の30年間に、観測された黒点数は、約50を数えるだけであった。通常であれば4 - 5万個程度が発生する。
 太陽からのエネルギーが減少し、地球のオゾン層に到達して吸収される紫外線が減ったことで、寒冷化をもたらしたのである。

 マウンダー極小期は中世における寒冷期の遠因であり、この時期のヨーロッパ、北米大陸、その他の温帯地域において冬は著しい酷寒に震え、暦の上では夏至であっても夏らしさが訪れない年が続いた。
 http://brandnew-japan.info/archives/565

 北半球平均気温は極小期の前後と比べて0.1 - 0.2度低下したのではないかとされている。特徴としては、晴天率が減り、肌寒い降雨が異常に増えた。

 飢えのあまり人肉も…江戸時代「天明の飢饉」の原因や死者数とは?
 https://cherish-media.jp/posts/11029

 江戸時代に起きた4大飢饉。
〇寛永の大飢饉(1642~1643)
◎享保の大飢饉(1732)
◎天明の大飢饉(1782~1787)
◎天保の大飢饉(1833~1839)

 江戸時代で最も規模が大きかったのは「天明の大飢饉」、265年続いた江戸時代のうち、天明の年号が使われたのは西暦1781~1788年の8年間。
 第10代将軍・徳川家治(1737~1786)在任期間は1760年から亡くなる1786年まで。
・田沼意次が老中として政治改革を行ったことで知られる。
 天明年間には、冷害にとどまらず、大規模な自然災害が連続した。

 1つ目の災害は岩木山の噴火  http://www.data.jma.go.jp 1783(天明3)年4月、
 2つ目の災害は浅間山の噴火  http://www.data.jma.go.jp 1783(天明3)年8月、
 当時の浅間山は5月から噴火活動が続いており、江戸にも火山灰が降ったという記録があった。その中でも8月に起きた大爆発が川をふさぎ、洪水となって多くの村が壊滅しました。

 参考、浅間の噴火で、前世は生贄人柱として命を捧げた少女、渋川村のタエだった。
 https://www.youtube.com/watch?v=oAxrBq6C3nQ&t=2837s&ab_channel=%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E5%8B%9D%E5%B7%B3

 東京・葛飾区に設置されている「浅間山噴火川流溺死者供養碑」。利根川や江戸川の下流までも大洪水で被害を受けたことが記されている。
 東北北部の岩木山と関東甲信越の浅間山で起きた2件の噴火は成層圏にまで上昇した二酸化硫黄ガスによって日射量を減らし、多くの地域に冷害となって襲い掛かかった。
 特に間に挟まれた東北地方は深刻で、10年ほど前から起きていた冷害に追い打ちをかけられた。

 http://naoko-graz.blog.jp
 岩木山・浅間山の噴火とほぼ同時期の1783年6月に、アイスランドのラキ火山とグリムスヴォトンが相次いで噴火した。
 この噴火は、火山ガスが成層圏に上がって日照を遮る苛酷噴火となり、ヨーロッパに厳冬・洪水・干ばつなどの異常気象をもたらし、フランス革命の原因に挙げられている。
 気温低下により、アイスランド人口の1/5に当たる餓死者を出す地獄絵図になった。

 「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」と呼ばれる三大改革があったが、享保と寛政の間に「田沼時代」と書かれた年表もある。
 「年号+改革」とは呼ばれなかった田沼意次の政治改革。その政策がなぜ天明の大飢饉を生む原因となったのか?

 田沼は、10代将軍徳川家治の老中として政治改革に着手。経済発展のため「重商主義」と呼ばれる商業中心の政策を行い、商業を農業よりも優先させた。
 その結果、農業を放棄した農民が続出し農村部の荒廃が深刻化。そこに異常気象と火山の噴火によって東北をはじめとする大凶作が起こった。

 杉田玄白(1733~1817)
江戸時代中期の医者(蘭学医)で「解体新書」「蘭学事始」の著者として知られる杉田玄白は、「後見草」という著の中で天明の大飢饉の惨状に触れている。

 『次第に食べ物は尽きて、果ては草木の根や葉まで食糧となるものは食べないということはなかった。』
 『貧しい者は生産する術がなく、家族を見捨てて彷徨い物乞いとなった。しかし、行く先々も飢饉だったので日に千人二千人の流民たちは餓死していた。』
 『農村から出ていくことができない者たちは、食べられる物を全て食べつくし、死者の人肉を切り取って食べていた』
『子供の首を切り、頭の皮を剥いで火に炙り、脳みそと草木の根葉と一緒に炊いて食べた者もいた』

『ある人の話では、陸奥のなんとかという橋の下で人の死骸を切り裂き、人肉をカゴに入れている人がいた。何に使うのか訊いたところ、草木の葉と混ぜて犬の肉と言って売るのだと言う。』
 「後見草」に書かれたように死者の肉だけでなく生きていた子供を殺してまで人肉を食べるしかなかった状況は、「極限状態に追い込まれた動物の本能」が勝っていた。
 中国の歴史では、人間は立派な食料と位置づけられていた。

 地獄絵図…写真がなかった江戸時代に描かれた天明の大飢饉の絵
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com

 下の画像は江戸時代の人口をグラフ化したもの。天明の大飢饉にあたる部分が日本全人口がどのように変化を与えたか見てみよう。
【天明の大飢饉直前】
1774(安永3)年:2599万人
1780(安永9)年:2601万人(6年間で2万人増加)
【大飢饉期間】
1786(天明6)年:2508万人(6年間で93万人減少)
【大飢饉終焉直後】
1792(寛政4)年:2489万人(6年間で19万人減少)
1798(寛政10)年:2547万人(6年間で58万人増加)
上の数字で大飢饉の影響がいかに大きいかが分かる。
 直前6年で微増だった人口が、同じ6年という期間で一気に93万人、さらに次の6年も合わせると112万人も減っている
 
kikin01.jpg

 次の6年では一気に60万近い人口増加が起きていることからも、飢饉の凄まじさを感じ取れる。
 天明の飢饉では、津軽藩などで人肉食の地獄絵図が展開されたのと対照的に、山形、米沢藩では、餓死者を一人も出さなかったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2
 
 天明の大飢饉で鷹山の政策が活きたのは田沼意次とは反対に農地開発に力を入れたことと、藩で備蓄米をストックし、飢饉の際に民衆へ提供したことで死者が出なかった。
 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
 東北地方で餓死者ゼロ!白河藩主は他の藩主と何が違った?
 https://www.worldwide-transition.info

 松平定信(1759~1829)
 「寛政の改革」を主導した老中として有名だが、それ以前は白河藩(今の福島県白河市周辺)の藩主だった。
 定信が老中として国政を担うようになったのは、天明の大飢饉で領内の一人も餓死者を出さなかったことを評価されてのことだといわれている。

 松平定信が他の東北藩主と違ったのは、鷹山と同じく藩の備蓄米をしっかり管理していたこと。多くの藩主は藩や領民の備蓄米を江戸や大坂へ廻して財を確保したために大飢饉が来ても対処できる食糧がなかった。
 定信は農業を重視し、いざという時に備えた慎重政策を採っていたために民衆の生命を救うことができた。
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 英テムズ川が再び完全に凍結する?
 https://ag-skin.com/daily/skinblog.cgi?mode=2&sn=5446

 ジャルコヴァ教授は新モデルを使い、2030年に始まる第26太陽周期で、太陽の活動が著しく低下することを予測。記者会見で次のように説明した。「第26太陽周期で、2つの磁気波はまるで鏡に映されたように相殺しあい、(地球は)『マウンダー極小期』のような状況になると推測できる」。

 この時期は、英テムズ川が完全に凍結したことでも知られる。米ニューヨーク市ではニューヨーク湾が凍って自由の女神やスタッテン島まで歩いていけた。またアイスランドは周囲が海氷に閉ざされたため、貿易や漁業に大きな被害がでた。飢饉に見舞われて人口がほぼ半分になったとの記録さえある。

 世界の科学者達はすでに2015年にミニ氷河期が来ると警告している。
イギリスにあるノーザンブリア大学のバレンティーナ・ザーコバ教授はこのように伝えている。ザーコバ教授の予想だと、97%の確率でミニ氷河期は訪れる

 マウンダー極小期は今回が初めてではなく、1645年から1715年までの70年間続いた。
 この頃の日本では、寒さによる飢饉が発生し、農村では一揆が起こり、大変な凶作が続いた。

 江戸時代のマウンダー極小期中の一揆
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%86
 1652年(承応元年):小浜藩領承応元年一揆
1677年(延宝5年):郡上一揆(延宝)
1686年(貞享3年):貞享騒動(加助騒動)
1690年(元禄3年):山陰・坪谷村一揆

 延宝2年(1674年)には5月中旬より晴天はなく3ヶ月もの期間、雨が降り続いた。太陽活動が弱まると曇りが多くなる。太陽の磁場で宇宙線が地球に入らない役割をしているが、マウンダー極小期では太陽活動が弱まり宇宙線が多く大気圏内を突破し、ミューオンという粒子の一部がイオン化され大気中で水滴になりやすい。

 「小氷期」には世界中で飢饉が頻発し、人々の争いが各地で起こり、歴史は世界規模な混迷の時代に突入する。
 マウンダー極小期終盤に日本では富士山の噴火も経験している。1707年12月16日(宝永4年)旧暦 11月23日 宝永大噴火、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火だった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-2017.html


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朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009934

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519
2:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:42:50

換金作物を作らせると餓死者が続出する

仙台藩の主な産物は米である。

江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。

また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。

その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。

一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。

そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。

また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。

これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った時期もあった。


ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。


ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。

これは他の藩には全く見られない現象であった。

現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・寛永の大飢饉などにより江戸時代初期から貧乏で幕末に殖産興業に成功してようやく好転した薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。

江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。

ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。

佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。


だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。


凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。


まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9

小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、農作物を多様化している農家だった。


ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。

換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。

もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。

農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。

二宮尊徳のエピソードで、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。

村人に冷害に強いヒエを植えさせた。

二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3

用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。


ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。

典型的なギャンブル農業でね。

仙台藩は天候に左右されやすい米みたいな作物を冷害が多発する地方で主要作物にして代替的に推進したせいで、飢饉になると破滅的な影響をうけてしまった。


人口増(子供への医療品の配布)と換金作物推進(農業生産性と収益性の増加)っていうのは、日本の仙台藩の経営と同じだから、素人にはお勧めできない。

というか、仙台藩ならまだいいけど、日本でもっとも一揆が多発した飢饉超発生地帯、盛岡藩になったら悲惨すぐる。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20091101/p1

これが飢餓輸出の実態:


天明大飢饉は人災だった
 

 日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】について書かせていただきます。

 結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。

日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。

江戸では風のたよりに知る程度でした。

もちろん食料は例年と比べかなり不足しましたが、全体としては、それほどのことはありませんでした。

もちろん総論の結論です。

 

 天明に入ると、農作物の収穫が減少しましたが、特に【天明三年】は異変の年で(1783)浅間山が大噴火を起こし、この火山灰による大洪水や山崩れなど大規模な自然災害が発生します。 

 また異常気象が目立ち、海外ではアイスランドのラカギガルム火山が大爆発、また同地のグリームスヴォント火山も大爆発、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わります。

 ヨーロッパは冷害となり、このときの飢饉が【フランス革命】のきっかけとなります。地球全体が火山灰の微小粒子に覆われた結果とされています。


 国内の気象は、浅間山爆発の天明三年の冬は異常な暖かさ、年が明けても変わりません。雨はほとんど降らず、その後、雨が少し降ったので五月に田植えが始まりましたが、逆に冷気がつづき、夏になっても綿入れを着るほどの低温だったといいます。このため稲は青立ち(穂が出ないこと)となり、他の作物もほとんど結実せず、大凶作となり関東から東北地方にかけて被害を受け、北に行くほど酷いものでした。

 三月、四月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は七日だけ、それもうす曇で晴天の日は一日もありません。五月六月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ四日、六日という有様だったといいます。


 「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。

「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。

「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、前例のない大凶作となった」と続きます。

 
 飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていましたが、

藩は長いこと藩財政が苦しく、大阪商人に借りた借入金が返せず、京坂の商人に代理返済して貰っており、この年にはどうしてもコメを京・大阪へ送らねばならない事情がありました。


【お救(たす)け小屋】の準備をしながら、前年農民から藩に上納されたコメ、「四拾万俵」をすべて大阪と江戸に送り換金しました。


飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、四十万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったと伝わります。

このため領内のコメは尽き、よって農民たちは、飢えの恐怖が現実になり衝撃を覚えます。

 
 「穀物の価格は高騰し、さらに金を出しても買えなくなり、飢えにさらされた領民たちは山菜の根をあさり、そば、大豆の【殻:カラ】までも口にした。

飼料が尽きたので牛や馬を飼うこともできず、すべて捨てて、牛馬が原野を歩きまわった」との記録があり「牛馬を食料にすることは食習慣になかったが、これらを殺して食うものが増した。

また口べらしのため子供を川に流すものが数知れず、大百姓をふくめて多数の農民が田畑、家を捨て、家族とともに【伊勢参り】をよそおって、碇ケ関から秋田藩領へのがれた。世をはかなんで深い森に入り首をくくったり、石を抱いて川に身を沈めたりする者もいた」とつづき


 「このような中で強盗、追剥(おいはぎ)が横行し、盗みに入った者が家に火をつける例も多く、火災が頻発した。天明三年九月から翌年六月まで、津軽藩領では男女八万千七百二人が餓死した」

との記述が残っています。また人間だけでなく「馬一万七千二百十壱頭」と記録にあったといいます。

 

 南部藩(八戸藩・七戸藩)でも被害は甚大でした。

【久慈街道】という八戸市と久慈市を結ぶ街道があり、途中にウミネコの繁殖する島、蕪島(かぶしま)があるというところから、たぶん海沿いの国道45号線のことかと思いますが、十里ほどの道程で途中に新井田村があり、ここの【対泉寺】には天明飢饉を悼む石碑があり、このうちの四文字が素人と思われる手で削られているとか。

そこには【人を食った記述】があったと郷土史家の【中里さん】が語った」と、東北文庫の【久慈街道】に小説家の故井伏鱒二氏が書いています。

 

 人肉の話は事実だったようで、『街道をゆく』の司馬遼太郎氏は確か『久慈街道』で、「これ以上の惨状を書くのは忍びがたい」としていますが、吉村昭氏はそのまま記しています。

両者とも【高山彦九郎】の詳細な日記を引用しています。現在は山門脇に【餓死供養塔】があり、詳細も記されているとか。筆者は中間というか、皆様があまり不快になりそうな表現は避けています。

 

 「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。

親が死ぬと子はそれを食い、子が しねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。

その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」


とあり「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されています。

 

 このような残虐な例は今まで読んだ限りでは、津軽・南部藩(八戸藩・七戸藩)に限られるようです。


津軽は【財政破綻に瀕した好例】であり南部藩は【行政の大失敗】があるようです。


原因のひとつに、この藩には資本主義が日本で最後に入った場所、人々は馴れていないため、商人貸し付けの金銭返済ができず、田畑や家屋などが質流れし、ほとんどの百姓が商人の奴隷となり、百姓から年貢が取れない藩は、百姓の富を奪っていた商人から、無理矢理に金銭を取り立てました。


(たしか戦後、当時の学者で、安藤昌益という今でいう共産主義者が発見されもてはやされましたが、それなりの風土がありました。)
 
 天明三年の大飢饉の際にも、他藩のほとんどは、まさかに備えて十分な準備をしており、特に有名なのが米沢藩、白河藩でした。

このとき、ただ一人の餓死者も出さなかったと伝わります。
 
http://hoihoihoi.iza.ne.jp/blog/entry/1654370/

3:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:44:42

天明の大飢饉における死者数はこれまた説が分かれており、死者は6万人(一藩で数万から30万人以上の死者を出したところもあるとの記録があるので、この6万人は信憑性が薄いですが)とも90万以上100万人近くであったともされています。

が、松平定信が残した記録によると天明4年から5年にかけて全国で140万人の死者があったとされています。

天明の大飢饉は天明3年から6年(または7年)にかけてですから、この記録を正しいとすれば予想するに200万人規模で死者を出したと考えられます。

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa668622.html


06. 2010年10月10日 10:23:40: CeBfC22xOc
松平定信も失脚後には、白河藩においてやはり換金作物奨励をやっているようです。
飢饉時に米より金があればなんとかなる、と考え直したようです。
江戸時代の飢饉の場合、米は全国的にみると不足していたわけではなかったので。
ついでにいうと、江戸時代、たしかに粟とか稗よりは米のほうが換金しやすい
作物ではあったものの、どちからというと年貢のための生産の延長であり、
真の換金作物という意味ではは煙草、木綿、菜種、漆、茶などのことを
言っていました。幕府が勝手に栽培するな、といっていたのもこれら。

東北地方は基本的に米頼みだったことが、商人の買占めによる米不足対策が
できず飢饉を拡大させたようです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html
4:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:45:55

東北地方では冷害・飢饉が多いことが知られていますが、南部八戸藩に限定して詳細に調べた例がありますので覗いてみましょう。

記録が残っている西暦742年(天平14年)の凶作以来、平成15年の作柄指数53の冷害までなんと139回にも及んでいます(記録が抜けている360年間があります)。

寒冷・降雪早く凶作(742年)霜、五穀熟せず、米価騰貴せり、疫疾ありて死亡数大(762)などとあります。数年おきの凶作も多いので苦労がしのばれます。

 江戸時代には三大(享保、天明、天保の飢饉)または四大飢饉(さらに寛永の飢饉を加える)、その後も明治2、17、30、35, 38年、大正2年、昭和6、9年と凶作が繰り返されてきました。

凶作というと、冷夏が原因と考えがちですが、享保の飢饉はイナゴの大発生によるものです。
http://anshin.co.jp/affiliated/kona09.html


八戸市は昔、南部藩(盛岡市が本家)の中で二万石の八戸藩と言われていた時代から冷害の影響により、米がまったく獲れなかった年には、

ジャガイモや大豆・小麦を主食にして、ひえあわ・きびなどの雑穀を多く入れて食べ、飢えをしのいできた

と言う歴史を何度となく繰り返し、経験をしてきています。 
http://www.kokunokura.co.jp/company.htm

要するに、冷害は定期的に繰り返されるものなので、東北の農民は粟・稗に限らず色々なものを少しづつ栽培して自衛していたのです。

それが金に目が眩んだ南部藩が強制的に大豆や米栽培へ転換させたのが飢饉の原因なのですね。


朝鮮の場合も全く同じですね。


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単一作物(モノカルチャー)は、何よりも気候変動(冷害など)や病虫害が起きるとひとたまりもない。

大面積が同じ性質の画一的な世界だから、全滅の危機が極端に高くなる。


 18世紀から19世紀にかけて、不毛の地といわれたアイルランドでジャガイモ生産が成功し、ジャガイモが主食となり人口も増加した。

しかし、ひとたび疫病の発生でジャガイモが全滅すると、ジャガイモだけに頼っていたアイルランド国民の約10%、100万人以上が餓死し、200万人が国外に移住せざるを得なくなった。

世にいう「アイルランドジャガイモ飢饉」だ。

この時に米国に渡った多くのアイルランド出身者の中には、後に大統領などを輩出したケネディ家も含まれていた。

 「アイルランドジャガイモ飢饉」のように、単一作物が全滅を引き起こすことは教訓となっているはずだが、現在の日本を含めて多くの国では売れる品種、金がもうかる品種のモノカルチャーだ。
http://staka-kyoeiac.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300529218-1

飢饉とは、ある地域の死亡率が急上昇するような食料不足をさしますが、その原因は自然現象だけでなく人為的な要因も多いのです。

自然災害の例を見ると、火山、地震、台風、長雨、日照り、霜や雹、虫害、植物病害、疫病による食糧生産者減、食料自給率の低下などです。

一方、人為的な要因として、戦争(内戦を含む)、商工・農業政策の失敗、内政や経済混乱、物資輸送の阻害、投機・売り惜しみ・醸造などへの転用など利潤追求を目的とした経済活動などがあります。

貧困国が多少豊かになると牛肉を食べるようになり、飼料に穀物を取られ周辺で飢饉が起こるのがその例です。


どのような原因で、どのようになったかを、詳細がわかりやすい仙台藩で見ましょう。


 仙台藩では、宝暦の飢饉(1755~56年)、天明の飢饉(1783~84年)、天保の飢饉(1836~37年)と3回の大きな飢饉に襲われていますが、今から230年ほど前の天明の飢饉はとりわけひどく、飢えのどん底に人々を突き落とす、最悪の悲惨な事態となりました。

天明の飢饉での状況を見ましょう。


 天明3年(1783年)10月から餓死者が出始め、翌年2月までに領内で14~15万人となりました。

さらに、暖かくなり始めた3月から流行病(疫病)がはやりだし、餓死・疫死合わせて30万人ほどが死んだのではといわれています。

もちろん、正確な数字はわかりませんが、宝暦・天明と二度の飢饉前後で、藩総人口が81万8千人から59万6千人と減っていますから、27.1%の人が亡くなったことになります。


 天明3年の気候を見ましょう。

3月14日に吹雪となる異常さで、5月からは長雨となり、6月には仙台市内を流れる広瀬川の橋がすべて流されるほどの洪水がありました。

6、7、9月には噴火した浅間山の降灰までありました。6月になっても暑さがなく、だんだんと冷気が強くなり、7月はじめでも袷に綿入れを着るほどでした。

蝉も鳴かなかったようです。

さらに、8月18日には嵐となり、追い討ちをかけられました。

各地の作柄が皆無になった報告、記録が残っています。

このように凶作の原因は寒冷・雨続きだったのです。


 寒冷・長雨をもたらす気候として「ヤマセ」(太平洋側から吹き付ける東風)が知られています。

天明3年夏以降にどんな社会変化が藩内で見られたのでしょう。

仙台城下中心地の安倍米屋の屋敷が押しかけた住民によって打ち壊されました(9月19日)。

同年の7月までは一分(一両の1/4)で米4斗(1俵)だったのが、8月18日には2斗2升、9月には1斗6升と値上がりし、しかも米が出まわらなくなったのですから、住民の恨みの的になったのです。


 もちろん、藩も手を打っていたのです。

濁酒の製造禁止、納豆、もやしの製造禁止、麹の製造量半減、8月以降は新酒製造禁止、麹、豆腐の一切禁止などのほか、手持ちの米を安価で放出することもしました。

しかし、当然全員にいきわたるものでもないので、不満が募り前記の打ちこわしにつながったのです。

 確かに天明3年は冷夏で作柄が大不良になったのですが、この一年の不作だけで大飢饉にまで広がるとは少々考えにくいのです。

ほかの要因も絡んでいるはずです。

市場経済が徐々に確立し始めたのも関係しているようです。

 天明の飢饉以前にも前記のように大不作や飢饉はありました。

ところが、餓死者は少なかったのです。

藩の蔵には籾・麦が蓄えられ、江戸に出荷する米の量も少なかったから、各地の百姓の備蓄も多かったのです。

 ところが、江戸では米は高く売れ、しかも藩の収入にもつながるとわかると、その量が次第に増えて10倍以上となり、強制的に割り付けられるようになったのです。しかも、新米時期の買い付けから、より高く売れる米のない時期である5~7月に買い付けが行われるようになってしまいました。

 平均すると年間20万石ほどの米が江戸に送られ、江戸の食卓を支えていました。

享保の飢饉の折には国許で2石4斗を一両で買い付け、江戸では5斗一両で売ったのですから総額50万両のもうけだったそうです。

こんなのは特例ですが、米を売って利潤をあげるという商行為が成立したのです。


 江戸中期には各藩での新田開発で米あまりの状態でしたから、米相場は低迷を続けていました。

そうなると、藩財政への負担は大きくなり、借金が増えてきます。

ますます大量の米を売って利子補填などにもあてなければならなくなり、農民への負担は大きくなります。


 前年の天明2年は全国的に不作でしたから、米価は高値傾向でした。

財政建て直しのチャンスとばかり、年末から積極的に大量に送り出したのですが、5,6月以降の悪天候で状況は一転しました。

一部の米問屋にはこれに便乗したのもいるでしょうから、米価高騰とあいまって打ち壊しの対象になったのです。


 9月20日から一人に一升ずつ売り出されましたが、25日には底をつき、すべての商いはなくなり、奉公人は暇を出され世間は静まり返った状態です。

町人だけでなく、武士も藩からの支給米が1/100程度に減らされました。


 10月には新米が売り出されましたが、さらに高価となったので買えません。

城下には物貰い、捨て子が増えます。

町内への捨て子は町内で育てるようお触れが出されていたので大変です。

町内は空き家だらけで、妻子を捨てて家出する人も多く、礼も法も乱れに乱れました。

年を越しても事態は悪化の一途で、盗人が多くなる一方でした。

 藩の対策は後手後手に回り、しかも中途半端なものばかりでした。

町の米商人が山形、秋田の米を買い付けたいといったときは認めず、その後あわてて役人を派遣したときは米価が高騰した後で買い付けすらできなかった事実があります。

多少でも、他藩の米が入っていれば状態も変わっていたかもしれません。

藩の米放出でもその場しのぎですから、庶民から恨まれるのは出先機関の役人だけです。


 飢饉には疫病が付きもので、天明4年3月から流行し始め、4月になるといっそうひどく、人が尽きるのではと人々は嘆いていました。

チフス系の熱病や、下痢のひどい痢病が主で、やっと厳冬を乗り切った体力の衰えた人たちには致命的です。武士も大勢死んでいます。


 さらに、これに追い討ちをかけたのが藩の失政です。

幕府が発行した金貨、すなわち正金を藩内では使わせないという策で、藩内の正金すべてを藩が吸い上げると決めたことです。

藩は独自の銀札と鋳銭(仙台通宝)を発行したのですが、銀札の正金相場を決めなかったものですから、信用のない銀札の価格はどんどん下がる一方です。

こんな信用の落ちていく銀札をつかまされた武士や商人はたまったものではありません。

物流がとまるのはもちろんです。

飢饉での被害を大きくした要因の三番目に挙げられています。

まさに人災です。さすがに藩も失政を認め正金の流通を復活させました。

 天明4年秋の収穫は平年どおりでしたので、飢饉は終結しましたが、藩の受けた痛手は想像を超えたものでした
http://anshin.co.jp/affiliated/kona09.html
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2022/10/15 (Sat) 05:46:44

ヒエは水田耕作によってイネの作れない丘陵地の農村や山村で米食にかわる主食用穀類として重要な役割をもっていた。

江戸時代には水田といえば稲田か稗田かといったぐらいでとくに中部高地や東北の検地帳にはよくでてくるものだったらしい。

ヒエには育成した苗を本田に移植した田ビエと畑に種をまく畑ビエがある。

畑ビエが1反あたり2~3.2石採れるのに対し,前者は畑ビエの3倍の収量があるという。

また収穫はいずれも根刈りでおこなう。

精白すると籾の量の1/3に減少するため,そのままつく「白ぼし」と殻のまま蒸して精白する「黒蒸し」がある。

白ぼしは粘り気があってうまいが黒蒸しは味がおちる半面,貯蔵が効くという。

ヒエの稈は栄養価にとみ牛馬の粗飼料として利用される〔市川 1987〕。

シコクビエは臼でついて精白後,粉に挽き熱湯で練って食べる。

ハトムギは粒粥やパンとして食用にする。

アワはコメとまぜて炊いて食べる粒状食である。

したがって粉食にするのはソバ,シコクビエ,粒状食はアワ,ヒエ,ハトムギとなる。http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon.html

ヒエは畑でも水田でも栽培が可能である。

特に気候が冷涼で稲の栽培に適さない岩手県の山間部で主食用として大々的に栽培されていた。

下北半島では、明治の中ごろまで水田には稲を植えず、ヒエを栽培していた。

ヒエは飢饉の際の非常食として高く評価されており、二宮尊徳が農民達の反対を押し切ってヒエの栽培を奨励したおかげで、天保の大飢饉の際に多くの農民が救われたと言われている。
これは、冷害に強く、安定した生産量を確保することが容易だった反面、社会的な評価が低く、外への売却が困難だったために、結果的に、一番貯蔵に回しやすい作物だったからであると言われている。
その一方、伝統的な主食穀物の中では最も卑しめられていた側面もあり、食味の悪い貧しい者の食べる穀物とされることも多かった。
これは、米の調理法の影響を受けた炊飯調理が粘り気のないヒエの調理法としては必ずしも適していなかったこと、冷害に強く安定した生産量を確保することが容易だった半面、米などに比べて生産性は必ずしも高くなかったこと、穎果の構造から脱稃・精白に重労働を要したことなどが要因として挙げられる。
http://blogs.yahoo.co.jp/takayuka0091/60284086.html

ブナ林帯における農耕文化複合(市川 健夫)
  日本における五穀は、米、麦、豆(ダイズ)、アワ、キビを指すが、これは照葉樹林帯におけるものと考えてよい。
  伝統的なブナ林帯農業が営まれていた北上山地では、ヒエ、アワ、キビ、ダイズ、ダイコンであった。
  照葉樹林帯の五穀は豆を除くと、米、麦、アワ、キビで、いずれもイネ科の作物で、主食である米を補うための代替作物である。

  ヒエ
 東日本のブナ林帯においては、ヒエが極めて重要な作物になっていた。
 ヒエには田ビエと畑ビエの二種があって、水田、畑の双方に栽培することができ、何よりも冷害に強い穀物であった。
  ヤマセの卓越する下北半島、北上山地などでは、明治中期に至るまで水田農業ではヒエが主体であった。
  稲田に対する稗田で、苗間で育成したヒエが田植えされ、また収穫は根狩りであった。
  アワ、キビなどの他の雑穀が直播きされ、穂刈りされていたのに対し、生産力が高いことを示している。収量も多く、その上栄養価に富むことから牛馬の飼育料としての価値が大きかった。
  最もヒエ作の卓越していた北上山地では、田ビエより畑ビエの作付けが多かった。
  食料としてのヒエは、米はもとよりアワ、キビなどの雑穀よりも味が劣り、その上、つき減りが多く、精殻する30%程度しか残らないなどの欠点を持っている。しかし、長年貯蔵することができた。
  飢饉に襲われやすいブナ林帯においては、貯蔵性の点では優れた穀物であったといえよう。
http://tonko.photo-web.cc/bunarintokodaisi/bunatai/itikawa/2/noukoubunka.html


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東北の飢饉の原因はあくまでこういう事:


餓死というか、江戸の後半になると商品作物や殖産産業のほうに力を入れてコメを作らなくなった
農村が多く飢饉がくればそういう蓄えもないから、餓死者が続出するということになる。


江戸時代の後半くらいになるとコメ作るより、商品作物や養蚕といった殖産をしたほうが収入がいいと農民がそちらを本業にしてその収入でコメ買って年貢にするというスタイルが出来てた。

だから飢饉になれば食うものは当然ないし物価も上がるわけだ
http://mimizun.com/log/2ch/newsplus/1192586179/

岩手・北上山系は冷涼なところだ。雨は少なく、夏はすずしく、冬の降雪も少ない。空気はいつも乾燥していて、気温の低下は半端なものではない。

 住民たちはここで雑穀を栽培していた。ソバ・ヒエ・アワ・キビなどは、冷涼な気候でも育ち、栄養価も高い。

また雑穀の藁は、牛馬の良質なエサでもあり、南部駒に伝えらえれる岩手産の馬は、これを原動力に生産されていた。

 そこへ、鎌倉政権の意を受けた南部の殿様がやってきて、稲作を強要した。

 北上山地の山を切り開き、田をつくって、イネを植えさせたのである。

 それが、つごう300年間もつづいた悲劇の始まりであった。

凶作による飢饉の続発である。

 餓死・人肉食い・間引き・娘売りetc…

 天明の大飢饉では、南部藩にて4万人以上が餓死したと伝えられる。越境して秋田藩に逃れてきた人もいた。それらのほとんども野垂れ死にしたという記録が残っている。

 ヤマセに知られる海からの冷たい風が、イネをことごとく灰燼と変えた結果である。

そのような風土を無視し、幕府の意ばかり住民に押し付け、膨大な餓死者を出した張本人、それが「南部の殿様」なのである。

 当然、一揆が頻発した。幕藩体制をゆるがした三閉伊一揆はその代表であるが、自らの命と生活を守るために蝦夷の後裔は立ち上がった。幕府も藩主も住民の要求を受け入れざるをえなかったが、そこへ至るまで、どれだけの蝦夷たちが、食べ物を求め力尽き息絶えたことか。
http://d.hatena.ne.jp/binzui/20090119


八戸地域では、当時の新ビジネスであった関東・野田のしょうゆ産業の原材料供給地として大豆栽培を藩が総力を挙げて取り組んでいました。

そのために農民の主食であった、ヒエなどの生産耕地を焼き畑して、大豆畑に変えたのです。

そのことは藩の産業振興として理解できるし、こんにちの、たとえば夕張などの観光産業振興などとも類推できる。

しかし、写真のイラストは、そういうプロセスの破綻の様子を描いていますが、

1 野山を焼き払って大豆畑にする。
2 畑は、2,3年で次の畑に移動していく。
3 残された、もと畑に残った根茎を掘り起こして食べて餌にしてイノシシが大発生した。
4 数が増えたイノシシは、こんどは作物が実った畑を根こそぎ、食い荒らして農民たちに大被害をもたらした・・・。
というような非常に明確な、自然生態系の破壊が人為的に作り出されていったようなのです。

こういう社会経済的な矛盾が、冷涼な気候によって、より増幅されて日常的に飢饉が発生するシステムが形作られていたのです。

しかし、コメに依存できない八戸藩の農業生産はその1/4が大豆の収益になっていた、ということで、藩の権力は農民たちに、それでも強制的に大豆生産をやらせていたのだそうです。

逆に言えば、こういう災禍のうえに野田のしょうゆという新産業は成立していた、といえます。
http://npo.house110.com/blog/archives/2007/01/28-week/

人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、貧しいからこそ人口が増加するんだよな。
 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。
この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。

 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。
食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。
しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。
人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。
けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001

津軽藩の飢饉も

1,寒冷地なのに、換金性が高い米作りに専念し過ぎ。

2,連年の豊作を信じて、高騰していた貯蔵米まで春に売り払う。

などと、無茶なギャンブル経営が主因であった。


江戸時代の東北ではすでに、食味最優先の稲作が行われている。

伊達政宗が既に当時食味最高品質の品種の稲作を奨励し、その「高級米」で江戸の市場を制したという話が残っているくらいだ。

米が広まったのは、単位面積当たりの生産性が、在来の穀物のなかではぶっちぎりで高かったから。

生産性が稲より高い穀物はトウモロコシしかない。

だが、困ったことに、稲は低温に弱い。東北の太平洋側の場合、ほぼ定期的にやませが吹き続ける夏が来るので、こういう年は収量は最悪ゼロになる。

人口は、すでに暑夏年平均の収量に近いレベルまで増えてしまっているから、やませが吹くたびに大飢饉になる。


盛岡藩は地勢的に冷害多発地帯であり、換金作物の米づくりにこだわり、フレキシブルな対応が出来なかった。

生命力の強い雑穀や芋も植えて、貯蔵食糧は売るべきではなかった。

まあ、商品経済に巻き込まれ始めた農村の悲劇なんだが。


宮城岩手青森の太平洋側の場合、もしコメ単作なら平均数年毎に凶作が来る。

気温の記録が正確に残る明治中期から戦前までの凶作は平均するとそのペースとなる。

数年連続で地獄の冷夏のこともあれば、かなり長い間毎年高温のこともあるが。

そして、19世紀末から20世紀は地球全体が比較的温暖な時期。

18世紀から19世紀初頭はもっと厳しかったことは確実だ。

ただ、農民は普通は自家用に稗などを作っているので数年毎に大飢饉が来ると言うことはさすがにない。


稗などは、稲よりも生産性は劣るが、冷害による収量変化は比較的少ない。

もともと稗だけは日本列島在来の植物と言われている。

中世以前には、基本的には稗が養える人口しかいなかった。

それで人口も生活水準も低位安定だった。

ところが、太閤検地後、土地評価のコメ一元制度と近世大名(特に伊達氏)の稲作傾斜政策により、
従来の稗田にも稲作が普及した。

稲は生産性が極めて高いので、豊作の年は沢山の人口を養える。

また、アジア式の稲作は労働集約的なので人手が必要だ。

それでそれにあわせて人口は増加した。

(ちなみに、この時期の農民は安定性を犠牲にしても生産性を至上のものとしたらしいことは、稲より生産性が劣るが、稗などよりは優れている麦の栽培さえ忌避していたことからも伺える)

だが、ひとたび凶作になると強烈な飢餓となる。

人口は低位安定から、比較的高位で強烈な増減を繰り返すようになる。

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飢饉の場合の餓死者は、栄養失調よりも、食料不足の状態で普段は食用にしないものを食した結果による中毒死のほうが多かった。


米沢藩九代目藩主・上杉鷹山は凶作に備え、藩医に山菜の食べ方などを調べるように命じ、1802年その研究を具体的に述べた「かてもの」を刊行し、農民・町民に配りました。

そしておよそ30年後に起った天保の飢饉では全国で大勢の餓死者が出たにも拘らず、米沢藩では「かてもの」に書かれた山菜のおかげで、餓死者の数が非常に少なくてすんだといいます。
http://w3.bs-tbs.co.jp/food/history/bn0504.html

稗科植物は東アジア圏に跨っている

どちらもそのままでは食べられず加工行程を経ないと食中毒を起こして死ぬ
(毒抜きや精白が不十分だとかなり危険なのだ)

稗や団栗は江戸時代の農民には、それを食べる技術が不足していた。

飢饉というと餓死を連想するが江戸期は、かなりの割合が(米が不足するので普段食べないものを食べて)食中毒だったと東北諸藩の記録に書かれていることが多い。

江戸後期になると農業書や復興請負などの技術を導入して雑穀を含めて余剰保存に藩が取り込んでいるので状況は改善される。

実際荒村復興で雑穀の食し方や義倉、余剰蓄積の推奨などのノウハウが伝わると飢饉の被害者が激減する。

逃散や流民化による弊害は、農村荒廃だけでなく生活情報の散逸、消失に繋がっていたのだ。


http://www.unkar.org/read/kamome.2ch.net/history/1152335390

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