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中国共産党初代総書記 陳 独秀

1:777 :

2022/10/08 (Sat) 18:08:22

中国共産党初代総書記 陳 独秀

雑記帳 2022年10月08日横山宏章『孫文と陳独秀 現代中国への二つの道』
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 平凡社新書の一冊として平凡社より2017年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、中国近代史における対照的な二人の人物として、孫文と陳独秀を取り上げ、近代中国の歴史的背景と課題を浮き彫りにします。民族主義と民権主義を主張しながら、愚かな大衆は賢者に導かれるべき存在と考え、国家体制の革命を強調し、現在の用語では「開発独裁」的な志向の孫文と、近代化には個々の国民の自覚が必要で、さもなければ専制国家へ逆戻りすると考えた、徹底的なヨーロッパ化志向の陳独秀は、確かに対照的で、中国近代史を描くのに適切な人選と言えるかもしれません。

 孫文が強烈な漢民族(という概念は当時確立される過程にあった、と言えるかもしれませんが)主義者で、ダイチン・グルン(大清帝国)が日清戦争で敗北したことも、「異民族王朝」打倒の好機として歓迎していたくらいです。当時の孫文は、帝国主義列強の侵略よりも、漢民族が満洲民族の「奴隷」から脱却すること(駆除韃虜、恢復中華)を優先していました。一方、陳独秀はダイチン・グルン滅亡前から、漢民族のみではなく、もっと広く「中国人」を意識していたようです。孫文も陳独秀も日本に留学しており、中国近代史における日本の影響の強さが改めて浮き彫りになります。

 人格の点では、孫文には傲慢なところがあり、革命勢力の団結を乱す場合が少なからずあったようです。孫文の独裁志向は、その性格にも起因しているのかもしれません。しかし、孫文には熱烈な支持者も少なからずおり、辛亥革命により誕生した中華民国では、臨時大総統に就任します。ただ、これは袁世凱までのつなぎにすぎませんでした。一方、中国同盟会に加入しなかった陳独秀は、この間にテロリズムに関わり、また日本に留学しました。私生活では、妻の妹と駆け落ちしています。陳独秀は、日本で西欧啓蒙主義を本格的に学び、帰国後は、妻の妹と駆け落ちして杭州に逃避し、ここでは政治から離れて比較的穏やかな生活を送っていたようで、甲骨文を研究していました。

 その陳独秀は、辛亥革命後に安徽省で公職に就きますが、袁世凱討伐に失敗し、逃亡に追い込まれました。陳独秀は上海に逃げ込み、政治から逃避して読書三昧の生活を送ります。ここで陳独秀は、武力革命ではなく、思想革命・文学革命と呼ばれる国民の意識革命を目指します。儒教秩序により縛られてきた国民の意識と生活習慣を開放し、自由で自立した個人の形成を企図したわけで、その思想的基盤となったのが、西欧啓蒙民主思想でした。本書は、何度も失敗を繰り返しながら闘い続けてきたので、一度の軍事的敗北で意欲が挫けることはなかった孫文とは異なり、繊細な精神の陳独秀は、初めての武装蜂起の失敗に意気消沈して読書三昧の生活を送った、と評価しています。

 その陳独秀が再起する契機となったのは、対華二十一カ条要求に対する中華民国政府の弱腰と、袁世凱の(すぐに挫折した)皇帝即位でした。陳独秀は雑誌『新青年』を刊行し、これが「新文化運動」と呼ばれる新たな潮流につながりました。陳独秀は時の人となり、北京大学に文科学長(文学部長)に招聘されます。当時、北京大学には守旧派の学者が多くおり、全面的な欧化論者の陳独秀は、激しく糾弾されたようです。陳独秀は、私生活での問題もあり、短期間で文科学長の地位を失います。しかし、五四運動で逮捕された陳独秀は、英雄視されるようになります。釈放後の陳独秀は、言わば列強戦勝国の戦果分配協議の場となったパリ講和会議の結果に失望し、政治活動へ復帰していき、西欧啓蒙思想から離れて、マルクス主義へと接近します。当時、マルクス主義諸政党は帝国主義的植民地政策に反対し、労働者の救済と団結を唱え、新たなプロレタリア文学を語っていたからです。この陳独秀だけではなく孫文にもコミンテルンは接近し、早くも1921年7月には陳独秀を領袖とする中国共産党が正式に結成されます。

 この間、1920年に孫文と陳独秀は初めて会い、協調と対立の狭間で孫文の死まで微妙な関係が続きます。孫文は、軍閥との提携も辞さず、政権獲得を目指しますが、大軍閥の財力と兵力にはおよばず、自身の武力強大化のためコミンテルンやソ連とも提携します。すでにコミンテルンの影響で中国共産党は結成されており、コミンテルンの指示により国共合作が進められます。孫文がコミンテルンやソ連との提携を決断した最大の理由は、孫文の思想変化というよりは、当時ソ連で採用されていた新経済政策(ネップ)が、急進的な社会主義化ではなく、孫文の実業計画と同じと認識し、その軍事支援に期待したからのようです。ただ、孫文は国民党と共産党の対等な連合(党外合作)は認めませんでした。一方、陳独秀を初めとして中国共産党側は、軍閥との提携も辞さない孫文は旧態依然だとして、国共合作にかなり批判的でした。陳独秀は、国共合作により共産党の発展の機会は永久に失われる、と考えていましたが、本書は、国民党の庇護下で共産党は急速に勢力を伸ばし、反共軍閥からの弾圧を回避できた、とその意義を指摘します。

 孫文は1925年に没し、陳独秀は、孫文死後の蒋介石による共産党弾圧の結果、共産党が敗北した責任を負わされ、1927年に共産党総書記を解任されました。その後、陳独秀は、トロツキーに共鳴し、スターリンの指導下にある中国共産党を批判した結果、党籍を剥奪され、共産党が政権を掌握して成立した中華人民共和国においては、「叛徒、漢奸、右傾機械主義」などと罵倒されてきました。しかし、鄧小平の復権以降、陳独秀の評価の見直しが進められているようです。本書では新文化運動について詳しくは触れられていませんが、私は以前より、現代日本社会において新文化運動、つまり20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の異議は大きい、と考えてきたので(関連記事)、陳独秀への印象は悪くありませんでした。今後、時間を作って新文化運動に関する一般向けの本も読んでいこう、と考えています。
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2:777 :

2022/10/08 (Sat) 18:11:41

陳 独秀(ちん どくしゅう)は、中華民国の革命家・ジャーナリスト・政治家。字は仲甫、号は実庵。中国共産党の設立者の一人で、初代総書記に選出された。

生い立ち
1879年、安徽省懐寧県十里鋪(現在の安慶市大観区十里鋪郷)で生まれる。生家は「義門陳氏」「安慶望族」などと称される儒教的な名望家であり、一族には「秀才」「挙人」といった科挙の称号を持つ者が多かった。陳独秀の父親は自身の生後数か月で死に、かわりに祖父の陳章旭のもとで儒教経典を厳しく教え込まれる。祖父は陳独秀をよく叩いたが、頑として泣こうとしない気の強い性格を見て、「こいつは将来大人になったら必ず人殺しの不届き極まりない凶悪強盗となるに違いない。まさに家門の不幸だ!」と罵ったという。郷里の試験である院試に17歳で合格して「秀才」の称号を得るが、郷試の試験場だった南京の街の寂れと、試験会場の荒廃ぶりに深く失望する。その直後に梁啓超らの変法自強運動の存在を知り、その政治改革の主張に影響を受けて科挙を放棄する。

革命運動への参加
1901年から当時の清朝政府によって奨励されていた日本への留学に応じ、新宿の成城学校(現、成城中学・高等学校)に留学する。日本では留学生の間に高まっていた、満州族の清王朝を打倒する民族主義革命の思潮に影響される。帰国すると故郷で安徽愛国会という団体を結成したり、『安徽俗話報』という雑誌を刊行したり、岳王会という秘密結社的な革命運動の組織を設立したりなどの活動を行ったが、全て途中で失敗したり挫折したりした。辛亥革命によって1912年に中華民国が成立すると、安徽省で都督府秘書長という要職に就く。しかし、大総統の袁世凱は国民党の宋教仁を暗殺して議会を解散し、敵対的な勢力を強権的に排除する姿勢を強めたため、陳独秀も職を辞して日本に亡命する。

『新青年』と新文化運動
中国の現実に絶望した陳独秀は、日本で「国民の唯一の希望は外国人による分割だけである」など厭世的で悲観的な文章を書いていたが、これに対して友人の李大釗から愛すべき国を求める努力をやめるべきではないと批判される。陳独秀は1915年に帰国し、9月に上海で『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊する。『新青年』において陳独秀は、伝統的な文化や社会体制が中国の近代化を妨げる元凶であるとして徹底的に否定し、中国を滅亡させないためには、もはや現代社会にそぐわない儒教や家族制度を廃絶して、「民主」や「科学」といった西洋文明の原理を全面的に取り入れるべきだと主張した。この単純明快で過激な主張は、辛亥革命後の政治情勢に閉塞感を抱いていた当時の中国の知識人の広い共感を得、陳独秀は一躍有名なジャーナリストとなる。『新青年』の活動は歴史上「新文化運動」と呼ばれ、胡適や魯迅など、近代中国史上に著名な作家や学者、政治家を多く生み出した。若き日の毛沢東も『新青年』への投稿者の一人であり、陳独秀を「思想界の明星」と絶賛している。この活動に北京大学校長の蔡元培が注目し、1917年には北京大学の文科学長に就任する。

五四運動から共産党設立へ
転機は1919年の一次大戦後のパリ講和会議であった。西洋主義者であった陳独秀は、議長であるアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領を「世界で最もいい人」と絶賛し、会議を世界平和が到来する契機として大きな期待を寄せていた。しかし会議では、対華21ヶ条要求でドイツから日本に譲渡された山東半島の権益がそのまま維持されるなど、理想とは程遠い現実に「ウィルソンはウソつきだ」と深く失望する。5月4日に北京の天安門前で、学生を中心として山東半島の中国返還を認めないパリ講和条約への不調印を求める民衆デモ(五四運動)が起こり、多くの市民を巻き込む民衆運動に発展する。陳独秀は民衆の力に深い感銘を受け、自ら街頭で「北京市民宣言」というビラを配っているところを警察に逮捕され、3ヶ月ほどの獄中生活を送る。釈放後は、都市労働者の運動の理論としてマルクス主義に急速に傾倒する。1920年には中国で共産党を設立させるためコミンテルン極東支局からグリゴリー・ヴォイチンスキーが訪中し、1920年8月に、ヴォイチンスキー、陳独秀、李漢俊、沈玄龍、兪秀松、施存統などにより、中国共産党結党準備が始められた。1921年にはソ連のコミンテルンの指導の下で、上海で李大釗などとともに中国共産党を結成し、初代総書記に選出される。

国民革命と国共合作の失敗
1922年頃からコミンテルンの指示で、陳独秀は個人としては反対であったが、党指導者としての立場で、孫文率いる国民党との合作を模索するようになり、国民党と共闘して国内の軍閥と国外の帝国主義を打倒する「国民革命」を提唱する。1924年には共産党員が国民党に入党する形で第一次国共合作が成立し、陳独秀も国民党のメンバーとなった[1]。しかし1925年に孫文が死去し、1926年以降には反共産党の姿勢を強める蒋介石が指導権を獲得する。陳独秀は蒋介石の北伐をはじめとする軍事主義的な強硬路線を激しく批判するが、1927年4月の上海クーデターの発生によって共産党は徹底的に弾圧される。窮地に立った陳独秀は、またもやコミンテルンからの不適切な指示に従い、国民党内で蒋介石に敵対する汪兆銘(汪精衛)の武漢国民政府と連合して国共合作の維持をはかろうとするが、武漢政府の政権基盤自体が脆弱だった上に、汪精衛も土地改革などをめぐって共産党との対立を明確にしはじめ、1927年の7月に国共合作は最終的に解体する。陳独秀は汪精衛との連合の失敗を、コミンテルンから「右傾日和見主義」と厳しく批判されて総書記を辞任する。しかし、「右傾日和見主義」路線はコミンテルンからの指令であり、陳独秀の立場ではなかった。

トロツキズムへの転向
指導者としての地位を追われ、蒋介石によって息子の二人もが殺害された失意の陳独秀は、1929年にスターリンに敵対するトロツキーの存在を知り、コミンテルンの中国政策をトロツキーが批判していることに狂喜する。陳独秀は共産党に対する激しい内部批判に転じ、コミンテルンの中国政策こそが「日和見主義」の元凶であると指弾し、「コミンテルンおよび中国共産党中央の日和見主義者と最後まで闘争しなければならない」と訴えた。この発言のために共産党から除名処分を受けた陳独秀は、新たに「無産者社」というトロツキスト団体を結成し、トロツキーとも連絡を取りながら1931年に中国トロツキストの統一組織である中国共産主義同盟を結成してその総書記となる。しかし、国民党と共産党の両方を敵に回した中国のトロツキズム運動は瞬く間に壊滅し、1932年に蒋介石の国民党の弾圧によって逮捕される。

晩年

蔡元培や胡適など『新青年』時代の盟友たちの助力もあって処刑はまぬがれ、第二次国共合作という政治情勢の変化を受けて1937年8月に釈放される。胡適にアメリカに移住するように勧められたり、蒋介石から「新共党」を組織するよう勧められたり、トロツキーから第四インターナショナルへの参加を要請されたりしたが、全ての誘いを拒絶して四川省江津に隠遁。古代音韻学の研究に沈潜する傍ら、時折抗日戦争に関する見解などを発表した。特に農村を根拠地とする毛沢東の遊撃戦戦略に対しては、大都市を重視する立場から批判的だった。1942年に江津でひっそりと死去した。

もともと陳独秀の墓は江津にあったが、後に故郷である安徽省安慶市の郊外に移された。長い間その存在すらあまり知られていない簡素な墓だったが、近年省政府の手によって安徽省文物保護単位に指定され公園として整備されつつある。

評価
陳独秀は中国共産党の創設者であり、毛沢東や魯迅、孫文、蒋介石など近代中国史上の重要人物で彼と関わりのない人物はいないといってよく、新文化運動、五四運動、国民革命など1910年代から20年代にかけての中華民国史の流れの常に中心にいた。特に毛沢東にとって、陳独秀は『新青年』や共産党組織という活動の場を提供した重要人物である。しかし陳独秀の名は一般的にはそれほど有名ではなく、評価もあまり芳しいものではなかった。その理由は、一つには国民革命の失敗とトロツキストへの「転向」によって中国共産党の公式史観から否定的に評価されてきたこと、もう一つは思想そのものが西洋からの表面的な直輸入で独自性や深みがあまりに乏しく、研究対象としてあまり魅力的と思われてこなかったことが挙げられる。

性格的にも、正しいと思ったことは衝突を厭わず強引に押し通そうとする直情型のタイプであり、ある雑誌や組織を立ち上げる段階では力を発揮するものの、それを粘り強く指導していく実務的な能力には欠けていた。それまで信じていたものに失望しては新しいものに飛びつくという「転向」の多さも、彼の評価を著しく低いものにしている。彼自身も晩年の書簡では、儒教からコミンテルンに至るまで権威であれば何でも反抗した人生を自省し、「適之兄(胡適)が私を『終身反対派』と呼んだが、まさにその通りだ。ただ故意にそうなっているわけではなく、事が迫るとどうしてもそうせざるを得なくなってしまうのである」と、自嘲的に述べている。

ただし陳独秀のこうした激動の人生の軌跡は、中華民国期の政治社会史を理解する上で非常に魅力的な題材を提供していることも確かである。事実、近年中国では彼を扱った伝記が多く出版されている。

人物像
一時期孫文の軍事顧問をつとめた日本陸軍の軍人佐々木到一中将は、陳の第一印象について「何だか昔の読書人のような感じのする男で、共産主義者というよりも道学先生のようだった」と語っている[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80
3:777 :

2022/10/08 (Sat) 18:19:21

中国は共産主義国ではなく古来からの皇帝が支配する儒教国家
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008459

独裁者列伝 _ 毛沢東
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/805.html

中華人民共和国で唯一の共産主義者だった周恩来
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1597.html
4:777 :

2024/03/16 (Sat) 09:01:31

雑記帳
2024年03月16日
江田憲治、中村勝己、森田成也『世界史から見たロシア革命 世界を揺るがした一〇〇年間』
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 柘植書房新社より2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は2017年に開催されたロシア革命100周年記念シンポジウムの書籍化です。本書は、ロシア革命から100年となる2017年11月4日に開催されたシンポジウムの書籍化です。このシンポジウムでは、リーマンショックなど21世紀になって「社会主義に勝利した」はずの資本主義の問題点が顕在化する中で、ロシア革命の現代の世界史的意義が改めて討論されました。ロシア革命を全面的に肯定するわけではないとしても、ロシア革命を否定したり、ロシア革命の結果成立したスターリン体制がナチ体制とともに「全体主義」の枠組みで把握されたりする傾向に異議申し立てをする、というわけです。私の歴史認識や政治的立場とは大きく異なりますが、それだけにロシア革命に詳しくない私にとって教えられるところが多いのではないか、と考えて読みました。なお、このシンポジウムの参加者はほとんどが70歳前後だったようで、やはりこのシンポジウムのような問題意識が若い世代にはなかなか浸透していないようです。以下、本書の興味深い見解を備忘録としてまとめます。

 森田成也氏は、ロシア革命を一国の革命とは把握しないよう、提言します。ロシアが中心になっているものの、第一次世界大戦など世界的激動の一環として把握すべきというわけです。これは、ロシア革命が起点となり、その影響が世界中に広がっていったことも重視した認識です。「革命」自体はヨーロッパも含めてほぼ失敗しましたが、マルクス主義の影響は日本も含めて世界中の「非」もしくは「反」共産主義諸国にも広がった、というわけです。森田氏はロシア革命について、単なる必然史観でも単なる逸脱でもなく、偶然的側面も客観的に条件づけられた側面もある、と指摘します。また森田氏は、ヨーロッパ「先進諸国」に対するロシアの「後進性」と、それ故のロシアのブルジョアジーの「反動化」と労働者階級の大都市における集中度の高さを指摘します。また森田氏は、農奴制廃止が中途半端に終わった故の農民の「革命性」と、反ユダヤ主義が強かったことに起因する抑圧されていた少数民族の「革命性」とともに、第一次世界大戦における「後進的」農民と「先進的」労働者との従軍経験の共有も指摘します。

 中村勝己氏は、ロシア革命をめぐる同時代のレーニンとカール・カウツキーの論争のうち、ほぼレーニンの主張のみ翻訳されている戦後日本における左翼の言説空間の歪みを指摘します。カウツキーの言説には、公開性の原則や複数政党制(複数前衛党論)の重要性の指摘など、現代にも通ずる価値がある、というわけです。中村氏は、ロシア革命を同時代に経験したローザ・ルクセンブルクもロシア革命でのボリシェヴィキ独裁を批判しており、カール・カウツキーとローザ・ルクセンブルクには、民主主義における多元性保障の論理を必要とするヨーロッパ自由主義伝統の視点が根づいていた、と指摘します。湯川順夫氏は、ボリシェヴィズムとスターリニズムを一直線に結ぶことはできず、両者の間には質的断絶がある、と指摘します。

 江田憲治氏は、 中国における共産主義の受容と定着での陳独秀の役割を重視します。江田氏は、陳独秀の民主主義闘争(革命)から社会主義革命への移行論(永続革命論)はトロツキーに学んだもので、民主主義と社会主義の同時並存論はそれを発展させた、陳独秀独自の思想の到達点と見ることができるかもしれない、と評価しています。なお、江田氏がかつて、中国共産党指導者が親族にいる中国史研究者に毛沢東の理論面での評価を尋ねたところ、毛沢東には理論などなく、せいぜいゲリラ戦の理論くらいだった、との返答があったそうです。さらに江田氏は、ゲリラ戦の理論も、毛沢東の思想的営為の結果ではなく、他の軍人(曾中生)の発案だったそうです。つまり、「毛沢東思想」とは、レーニン以来の社会主義の政治的指導者は同時に理論的指導者であり、そうあるべきという「政治文化」の所産か、実態を超えて指導者の正しさを強調する「政治文化」が、ロシアから中国、スターリンから毛沢東へと伝わったのではないか、と江田氏は指摘します。

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