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ロシアの怪僧 グリゴリーラスプーチン

1:777 :

2022/09/14 (Wed) 03:20:17

【ch桜北海道】ロシアの怪僧 グリゴリーラスプーチン[R4/9/13]
2022/09/14
https://www.youtube.com/watch?v=-TFXdMHWO5A

キャスター:門間ユウジ(キャスター)
      若狭亮子(キャスター)

■今日の北海道
・列車と熊の衝突最多 背景に個体数の増加→03:10
・子供虐待のニュース絶えず。問題抱え込まず相談を→09:19

■今日の特集 ロシアの怪僧 グリゴリーラスプーチン→16:01


▲△▽▼


鞭身派のキリストと聖母マリアとは

 17世紀に分離派の一派として生れた宗派に鞭身派というのがある。

1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中(カラマーゾフの兄弟)に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。

鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、

男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、

最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行なわれた。

この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。


この教義の当然の帰結として、鞭身派には、初代キリストのイワン・スースロフをはじめ、何人ものキリストがつぎつぎと現われることになった。…

むろん「十二使徒」も信徒たちの中から選ばれ、「船」と呼ばれた信徒たちの共同体には、かなり厳格なヒエラルキーが確立していた。…
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-he.htm


●ロシアの異端


鞭身派-肉、魚、にんにく、ジャガイモを食べず、酒も飲まない。

女はプラトークをまぶかにかぶる。

一部屋に車座になってすわり、入れ替わり立ち代わり踊り、罪のもとである肉を鞭で打ち続ける。

最後は乱交パーティーになる。

ラスプーチンもこの一派といわれる。


モンタヌス派-別名跳躍派。

集会で男女が手を取り合って飛び跳ね、そのあとで性交する。

聖書のロトと娘の性交、ソロモンの300人の妻にちなむ。


去勢派-淫行に走りがちな鞭身派を批判。

罪のもとである陰茎、乳首を切除する。

男性ホルモンの欠如からひげが生えず女性的な声なので外見からすぐに分かる。

「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフは去勢派といわれる。

http://www.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/kyozai/08.txt


鞭身派

17世紀末に起こった〈霊的キリスト者〉のセクトで、聖書と聖職者を認めず、

精霊(Святой дух)との直接的な交わりを求めて、熱狂的に踊り、歌い、互いに体を鞭打ったところから、その名が生じた。

神の化身である複数の〈キリスト〉、〈聖母たち〉あるいは〈母君(マートゥシカ)たち〉のもとに集まり、

祈り、祈りの最後に執り行なわれる独特の儀式(ラヂェーニエ)。

それが始まると、宗教的エクスタシーに達するまでみなが踊り狂ったという。

自らを〈神の人びと〉と称した。

旧タムボーフ、旧サマーラ、旧オレンブールグの各県、北カフカースやウクライナに彼らの小さな共同体が存在した。
http://www.seibunsha.net/prishivin/p15.html


帝政ロシアは政教一致を国是とし,ロシア正教が国教でしたが,国民のうちにはこの国教を奉じようとしない者もあり,政府と正教会はこれに手を焼いていました。

この反正教会的宗教潮流は,通常「ラスコールと諸セクト」と総称されます。

ラスコールは通常「分離派」と訳されるとおり,十七世紀の教会改革の際正教会を離れた人々のことで,改革を受け容れず古い儀式に固執したことから,「古儀式派」とも称されます。

分離派には穏健派から過激:派にいたる様々な流派がありますが,大略,司祭の存在を認める「司祭派」と,これを認めない「無司祭派」に分かれます。


無司祭派は教導者を擁するのみで,司祭も正典も宗規も有さぬところがら,次第に正教会はもちろんキリスト教そのものから離れ,キリスト教的要素を多く保持しつつも,新たな道をもとめて独自のセクトを生み出す傾向があります。

フルイスト派(鞭身派)の場合も,その発生時期(十七世紀半ば)からして,もとは無司祭派に端を発していると考えられます。
 
フルイストが鞭を意味するところがら,日本ではこれまで鞭身教徒と訳されていますが,この訳語は不適切であり,見当違いな憶測のもとになりかねません。

鞭身教徒という言葉から,人は漠然と,鞭打ちがこのセクトの特徴であると思うでしょう。

確かに鞭打ちは,中世の修道僧などが自らに課した苦行です。

しかしフルイストゥイの儀式において鞭打ちはなんの役割も演じておらず,この場合フルイストゥイの語はまったく別の由来を有しています。


このセクトの信者たちがなぜ「キリストたち」と呼ばれたかというと,それは彼らが多くのキリストを輩出したからです。


彼らの地域集団をカラーブリ(船の意。フリーメイソンのロージにあたるもの)と呼びますが,各カラーブリは必ず教導者たるキリストと生神女,さらに大抵は複数の預言者と女預言者を擁していました。

その儀式の主たる内容は輪舞(これをラジェーニエと言います)で,彼らはこの激しい身体運動によって法悦に達し,キリスト,生神女,預言者たちは忘我の気惚状態の内にあって,天候の如何,収穫の良し悪し,個人の身上等々を預言しました。

預言者には原則として誰でもがなれた。

もちろん預言者たる能力には個人差があって,預言者や女預言者になるのは,人一倍霊感を受け易い者たち,恍惚状態に陥り易い者たちでした。

 フルイストたち自身の言い伝えによれば,その教祖たちの行実とは次のようなものです。

 皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位三64546)の時代,ウラジーミル県コヴロフ郡なるゴロジン山の頂に二軍のエホバが降り,コストロマ県の農民ダニーラ・フィリッポヴィチの内に入って彼を生ける神とした。

当時はニコンの改革に端を発する教会分裂の真最中で,人々はいかなる書物によって救われるかをめぐって争っていた。

人が救われるのは古い書物によってか,それとも新しい書物によってか。ダニーラ・フィリッポヴィチは,新たな啓示によってこの書物の新旧論争にけりをつけた。


すなわち,救われるためにはいかなる書物も要らない。

聖神そのものさえあればよい。

内心の祈りによってのみ神は人間に宿り,人は救われる。

彼は新旧の書物をすべてかますに詰め,ヴォルガに捨てさせました。


ダニーラ・フィリッポヴィチははじめコストロマ近郊のスターラや村に住み,のちコストロマに移った。

以来コストロマは「天上のエルサレム」,彼の住む家は「神の家」と呼ばれ,多くの信者を集めます。

書物の(つまり教会の)教えに頼らず,わたしの言葉のみを信ぜよ。

あるいは,預言者たちが忘我状態で口にする言葉(預言)のみを信ぜよというのが,彼の教えでした。

別の伝説によると,ダニーラのことを知った総主教ニコンは彼を幽閉したが,彼が釈放されてコストロマへ帰るまでの間,地上を一面の霧が覆った。

コストロマに帰った彼は,弟子たちに「十二誠」を与えた。

この十二誠とは次のようなものです。


1.我は預言者たちにより預言された神であり,人間の魂を救うため地に降り来たった。
  我以外に神はない。
2.他に教えはない。他の教えを求めてはならない。
3.汝の置かれたところに留まれ。
4.神の受命を守り,世の漁人となれ。
5. 酒を飲むな。肉の罪を犯すな。
6. 結婚するな。既婚者は妻と兄妹のごとく生きよ。未婚者は結婚するな。既婚者は離婚
せよ。
7. 悪罵を口にするな。悪魔,悪鬼等の言葉を口にするな。
8. 婚礼,洗礼式に行くな。宴会に出るな。
9.盗むな。一コペイカでも盗んだ者は,あの世でこの一コペイカを頭頂に貼りつけられ,
  これが地獄の火で融けるまで,赦されることはないであろう。
10.これら二二を秘表せよ。父にも母にも明かすな。たとえそのため鞭打たれ,火で焼か
  れようと,耐えよ。耐えきった者こそ信者であり,天国を,また地上では霊の喜びを,
  受けるであろう。
11.互いに訪れ合い,もてなし合い,愛し合い,我が誠命を守り,神に祈れ。
12.四神を信ぜよ。


 もっとも,コンラート・グラスというリトワニアの研究者によると,フルイスト派の伝説が伝える教祖たちのうち,ダニーラ・フィリッポヴィチについてはその実在を確証することができない。

歴史資料により実在が確証されるのは,次のスースロフからだというのです。

 万軍のエホバがゴロジン山に降りダニーラを生ける神とする十五年前,ウラジーミル県ムーロム郡マクサコフ村に,母親のアリーナ・ネーステロヴナが百歳の時,神の息子たるキリスト,イワン・チモフェーヴィチ・スースロフが生まれた

(これは,アリーナ・ネーステロヴナが生神女を務めていたカラーブリで,スースロフが霊的啓示を受けキリストとなった,という意味でしょう)。


 イワン・スースロフが三十歳になった時,ダニーラ・フィリッポヴィチは彼をコストロマへ呼び,神性を授け,彼を生ける神とした。

すなわち,スースロフはダニーラ・フィリッポヴィチにより三日間天へ上げられたのちオカ河の岸へ帰り,以後ここの一村を根拠地として教えを弘めた。

彼は若く美しい娘を連れており,彼女は生ける神の娘として,また生神女として崇められていた。

彼はまた,弟子たちのうちから十二人の使徒を選び,彼らと共に村から村へ布教を続けた。

 アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(在位1645-76)はスースロフの布教活動のことを知って,彼を四十人の信者と共に捕らえ,訊問のためモスクワへ連行させた。

しかし司直は彼らから一言の供述も引き出すことができなかった。

拷問の火もスースロフの身体を傷つけえず,結局彼はクレムリン前の赤の広場で心墨に処された。

彼は木曜日に息を引取り,金曜日に埋葬されたが,土曜日から日曜日にかけての夜に甦り,モスクワ近郊の村に姿を現した。そこで再度逮捕され,拷問と礫刑に処され,再度甦った。


三度目に捕らえられた時,皇后ナタリヤ・キリーロヴナはピョートル・アレクセーヴィチ(のちのピョートル大帝)を懐妊中で(つまり1672年のこと),スースロフの釈放なくして出産は無事にはすまないという預言があったため,皇帝はスースロフを釈放した。

 以後三十年間(つまり1702年まで),スースロフはモスクワを中心に布教を続けたが,うち十五年間は政府の監視を避けてモスクワを去り,諸所の弟子たちのもとを転々とし,迫害が下火となったのちモスクワへ帰り,ここで男女の修道院に果多しく信者を増やした。


彼の住むクレムリン近くの家は,「神の家」とも噺しきエルサレム」とも呼ばれた。

 1699年には,百歳のダニーラ・フィリッポヴィチがコストロマからモスクワの「新しきエルサレム」へ移り来たり,ここから1700年1月1日,永い輪舞ののち,多くの会集者たちの見守るなか天に昇った。


以後それまでの9月1日に代えて,この日を新年の始まりと定めた。

三年後,スースロフ自身も多くの信者たちに見守られつつ昇天した。

ダニーラ・フィリッポヴィチは地上に遺骸を残さなかったが,スースロスは残した。

信者たちは遺骸を乞い受けてイワノフスカや女子修道院に埋葬し,石碑を建てた。


 スースロフのあとを継いでキリストとなったのは,ニージニー・ノヴゴロト(現ゴーリキー市)の元込士プロコフィー・ダニーロヴィチ・リープキンなる人物で,一部フルイストたちは,彼をダニーラ・フィリッポヴィチの実の息子であるとしています。
彼は1713年から1732年の死まで,キリストの地位にありました。

彼の妻アクリーナ・イワーノヴナは生神女で,二人の息子は剃髪して修道院へ入り,ここで教えを弘めます。


 十八世紀半ばから十九世紀初頭までの問に,フルイスト派はほぼロシア全域に行き渡り,国外ではガリシア地方に住むロシア人たちにまで及びました。

モスクワには四つのカラーブリがあった。

とりわけ信者が多かったのは,オリョール県とタンボブ県であったそうです。

信者はさまざまな階層にわたりましたが,主として農民都市の職人,小商人たちで,また多くの修道院がこのセクトの拠点でした。


 フルイスト派は結婚と生殖を認めませんが,ダニーラ・フィリッポヴィチやキリストの家系には血統が絶えぬよう配慮がなされていたようです。

コストロマから三十キロのスターラや村には,十九世紀半ばまでダニーラの門下と言われるウリアナ・ワシーリエワという女性が生存しており,彼女が修道院へ幽閉されてのちも,スターラや村はフルイスト派の聖地ベツレヘムといったものでしたし,ループキン直系の子孫もやはり十九世紀半ばまで存続していました。

 十九世紀の六十年代に至り,フルイスト派は個々のキリストを戴く多くのカラーブリに分裂し,それらカラーブリ同士が互いに対立し合うという事態を生じた。

 フルイスト派は,のちの去勢派ほどにはよく組織された教団ではありません。
それは半ば自然発生的にさまざまな地方に興つた,とすら見える。

諸カラーブリ間の横のつながりも,さして緊密なものではなかったらしい。


しかし各カラーブリにひとりのキリスト,ひとりの生神女がいて,ひとり,あるいは数人の預言者・女預言者がいるという構造は,共通していたようです。

また,儀式のうえではすべてのカラーブリが輪舞(ラジェーニエ)を採用していたことは事実ですが,儀式の細目については地方により時代により種々食い違いもあり,このことは,セクトが時とともに様々な派に分かれていったことを証するものです。

体系的な教義が成文化されず,教導者の意思が神の意思と見倣され,カラーブリの全成員がこれに絶対服従するような集団にあって,これは至って自然なことでしょう。

 ロシア正教というのは,概して形式にすこぶる拘泥する宗教です。

十七世紀の教会分裂自体,儀式や礼拝の細目における形式の変更をめぐって生じた。

そして分離派は,正教会以上に形式主義者でした。

彼らは,ニコンの改革が伝統的形式を歪めるものであるとして,旧来の伝統と形式の名において改革に反対したのです。

フルイスト派は,ロシア正教のこの形式主義への反動として興つたと言えます。

その意味で,ダニーラ・フィリッポヴィチがあらゆる書物をヴォルガへ捨てたという挿話が,フルイスト伝説の冒頭に位置していることは象徴的です。


書物や普通の祈りでは生ぬるい。

彼らは神性との一層直接的な接触・融合を求めた。

つまり激しいラジェーニエに訴えて肉体を疲労特牛させ,神を自らの内へ直接呼び降ろそう,神と合体しようとするのであって,これが彼らの祈りなのです。

彼らは,使徒行伝に引かれた預言者ヨエルの言葉が実現したものと信じていました。

「神いひ給はく,末の世に至りて,我が霊を凡ての人に注がん。

汝らの子女は預言し,汝らの若者は幻影を見,なんじらの老人は夢を見るべし。

その世に至りて,わが僕・師団に,わが霊を注がん,彼らは預言すべし」

(使徒2.17)。


 法悦に達するための舞踏としては,古代の宗教やシベリアのシャーマン等が思い浮びますが,フルイスト派の輪舞(ラジェーニエ)は他から借用されたものではなく,フルイストたち自身の内で見出され徐々に完成されたものらしい。

ミリューコフは,このセクトの民衆起源に鑑み,先ず初めにその外的・儀式的側面が成立したのであり,教義が整えられたのは遙かのち(おそらくは十九世紀)のことであったろうと言っています。

ローザノブも,ダニーラ・フィリッポヴィチは神との直接交流の手段たるラジェーニエを案出したことで,このセクトの教祖となり,生ける神として崇められたものであろうとしています。

 神性と直接合体せんという望みは,彼らが人格化された生ける神を求めたことと結びついています。

人間が神と直接合体しうるというのは,人間が神になりうるという人神思想なのです。

神の霊感を受けるものにとって,この霊感を神から受けたと考えることから,この霊感が自分の内から流れ出たと考えることへはほんの一歩です。

彼らが自らを神的な霊感の源泉,つまり自らの内に神を孕む者と考えるに至ったのは,至極当然の成行きでした。

あらゆる魂の奥所には聖神の萌芽がある。

自らの内へ降りゆく者は,ここに聖神のことば言を聞き,自らの魂の内に神の国を見出す。

自らの内にこの内的福音の声を聞いた者は,その瞬間から「神の宮」となり,もはや肉の内にはなく霊の内にある。

これこそ聖神を自らの内に宿すということです。

彼らにとってはイエス・キリストも,自分たちと同等な「神の言の籍身」にすぎない。

彼らはラジェーニエで,

「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」

と唱えながら踊りますが,その意味するところは,

主よ,かつてイエスに霊感を与えたように,われらにも霊感を与え給え

ということなのです。


こうしてフルイスト派の世界には無数のキリストと生神女が出現したのであり,多くのカラーブリでは,信者同士が互いを神として拝し合うことも行われました。


 輪舞(ラジェーニエ)のやり方については,個々のカラーブリにより多少の違いはあるものの,大筋のところはほぼ一致しており,大略次のようなものであったようです
(十九世紀前半におけるニジェゴロト県アルザマスのカラーブリ,コストロマ県ガーリチのカラーブリ等。メーリニコフによる)。


 晩の六時頃,カラーブリの成員が一軒の家に集まる。

人数は十人から四十人。

百人に及ぶことは稀である

(もっとも,ペテルブルクでのセリヴァーノブのラジェーニエは,六百人を集めたと言われます)。


部屋には窓がないか,あっても塞がれていて,音が外部に洩れないよう,しばしば地下に造られている。

ラジェーニエの行われる家は,「神の家」とも「エルサレム」とも呼ばれる。


 部屋の一隅に生神女が座を占め,信者たちは男女に分かれてベンチに腰掛ける。

全員裸足で,長い白衣を着ている。

はじめに福音書,使徒の書簡,教父の文章,聖者伝等が読まれることもある。

それから自家製の祈りの文句を唱える。

やはり自家製の歌を歌うこともある。

その際両手で両膝を打ち拍子をとる。

歌の合間に十字を切り,主の祝福を乞う。


 次いでキリストなり預言者なりがラジェーニエを命じ,一同立って輪になる。

時として預言者自らラジェーニエを始め,他の観たちがそれに従う。

出たちの輪の外に女たちの輪が形成されることもあるが,大抵は男女入り混じっての輪である。

彼らは

「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」


と歌いながら,飛び跳ねつつ,右回りに回る。

輪舞も各人の旋回も,必ず右回りである。

つまり,南面したとき太陽が東から西へ動くように,右回りでなくてはならない。

この踊りに酒神が降るのであり,「聖なる輪」に入る者は霊により国勢するとされる。

踊りは次第に速くなり,人々は息を喘がせて跳ね上がり,手を振り,両足で床を踏み鳴らす。

舞踏者たちの回転の速いことは旋風のようで,顔も見分けられないほどである。

彼らが旋回と跳躍の間中,畷り泣き,声を震わせて奇声を発するさまは,傍目にも恐ろしいほどで,壁越しにこれを聞くと,まるで何かを鞭打っているように聞こえる。


フルイスト派が樽の周りで自分たちを鞭打っているという噂が弘まったのは,このせいかもしれない。

 踊る者たちが自らのうちに霊を感ずるや,踊りはますます速くなる。
輪の外で拍子をとり声をかけている者たちは,舞踏者のとりわけ激しく速い動作を認めるや,

「彼に恵みが降った」

と言う。こうして預言者や女預言者が出現する。


ラジェーニエ中はなにも考えてはいけない。

さもないと霊は降らない。

預言者や女預言者になる人々は,概してラジェーニエへの強い嗜好を有しており,彼らにとってラジェーニエは,集中した断食ののち,言い知れぬ喜びを伴って自ずと起こるのだという。

人々はラジェーニエを,それがもたらす陶酔ゆえに「霊的ビール」と呼んでいる。

フルイスト派の教義が肉食,飲酒,夫婦の交わり等の厳しい禁欲的節制を課するものであったことに鑑みれば,ラジェーニエによる心理的陶酔が彼らにとって不可欠であったことは,想像に難くありません。

 踊りは大抵夜半まで続く。

白衣が汗でぐっしょりになると,白衣を脱ぎ捨て,裸のまま倒れるまで踊る。

 踊りが終わると全員が腰をおろし,手で膝を叩いて拍子をとりながら歌を歌う。
それから教導者に向かって脆き,十字を切り,聖神が預言者の口を通って彼らを訪れるよう祈る。

選ばれた預言者が人々に向かい合って立ち,身体を動かしながら,大きな声で預言を始める。

はじめに全員への預言があり,そのあと個々人への預言がある。

預言者は個々人の罪を暴き,罪人は十字を切って罪を悔い,時に涙を流して預言者を拝する。

 預言はしばしば明け方近くまで続く。預言が終わると全員で

「キリストは甦り給いぬ」

を歌い,教導者は十字架を聖像の下に置き,一同は脆拝して十字架に接吻する。


 フルイスト派にとって霊は善であり,肉は悪であり,ラジェーニエは霊によって肉を克服する手段であるわけですが,日常生活においても霊は肉に打ち勝たねばならない。

最初の罪はアダムとエヴァの肉の交わりによって生じた。

普通の正教徒たちは変わることなく罪のうちに孕まれ,罪のうちに生まれ,罪のうちに生きている。

罪を免れるには,この世と訣別せねばならない。

これは祈りと断食と,肉欲を断つことによって達せられる。

概して,女と交わることは,フルイストにとって最も重い罪です。

肉,魚,玉葱,大蒜を食べてはならない。

酒を飲んではならない。

遊びの集まりに行ってはならない。

悪罵を口にしてはならない。

女は華美な服や飾りを身につけてはならない。

被ったショールはなるべく深く眼まで下ろして結び,常に慎ましくあらねばならない。

これらの誠命をすべて厳しく守る者は,来世で永遠の生命を得るばかりか,ここ現世でも聖神の恵みに与り,神の息子ないし娘に等しいものとなる。

つまりキリストないし生神女となる。

「我が誡命を守りわが道を保つ者は我に在り,我もまた彼に在るなり」
(ヨハネ第一書3.24)。

イエス・キリスト自身そうした神の籍身に他ならなかった。

罪と訣別し新たな生へと生まれ変わり新たな霊となったわれわれは, 言たる神が宿るに相応しい者たちである。

男たちは皆キリストであり,女たちは皆生神女である。

 仲間に引き入れようとする者には,先ず自分たちが正真正銘の正教徒であることを確信させる。

「司祭たちはわれわれに何も教えてくれない。だから自分で本を読まねばならない」
と言い,絶えずキリストに祈り,なるべくしばしば教会へ行き,正教の司祭を敬うよう教える。

やがてこう教えるようになる,

「この世:には聖神の恵みを有する試しい人々がいる。

こうした人々の内にこそ神は生きている。

彼らこそ縛り審くカをもち,罪深い魂を地獄から天国へ導くことができる」。

しかしこうした人々が誰で,何処にいるかは言わない。

 新人がセクトへの加入に同意するや,彼は数日間の断食と斎戒を命じられる。
定められた日に,セクトの教導者ないし長老が彼を迎えに来て,信者たちの集会へ導く。

そこには信者たちが全員裸足に白衣姿で,男と女に分かれてベンチに坐っており,前方にひとりの女性(生神女ないし女預言者)が聖像の下に腰掛けている。


広い部屋には沢山の蝋燭が明々と灯されている。

生神女は新人に尋ねる,

 「ここへは何のために来たか」

 「魂を救うために」

と新入は,予め教えられていたとおりに答える。

 「魂を救うのはよいことである。で,汝は誰を保証人とするか」

 「天の王たるキリスト自身を」

 「キリストを辱めることのないよう努めよ」

 次いで新人は聖像に向い誓いを立てる。

誓いは次の三点から成る。


1. 聖なる信仰を受け容れ,決してこれに背かない。

2. しばしば教会へ行き,痛悔をし,聖体礼儀を受けるが,司祭に新たな信仰のことは一言も洩らさない。

3. 聖なる信仰のためにはいかなる苦難にも耐え,牢獄も,シベリアへの流刑も,死すらも恐れず,自らの信仰を誰にも決して明かさない。


 そのあと新参者は教導者の命ずるところに従い,一同が彼のために祈るよう頼む。

一同は円くなって坐り,彼らが「主への祈り」と称するものを民謡の節で歌う。

一同歌いながら,右手で膝を叩いて拍子をとる。


次いで三,四人の男女が円のなかへ出て,跳ねながら右回りに回り始める。

こうして新信者加入の儀式は,ラジェーニエへと移行する。


 ロシアにあっても国外にあっても,フルイスト派は永いこと忌まわしい淫祠邪教のたぐいと考えられてきました。

下着姿の男女により深夜人目を避けて行われるラジェーニエが,人々に性的放縦と乱交を連想させたのです。

フルイスト派の儀試について,バクストハウゼンはロシア人の秘書から聞いた話としてこう記している,

 「……祈祷の富士を満たした樽のなかに十五,六歳の少女を坐らせる。

数人の老女が彼女に近づき,その胸を深く切開し,左の乳房を切り取り,驚くべき巧みさで出血を止める。


〈……〉それから切り取った乳房を皿に載せ,小片に切りわけて一同に配り,一同はこれを食べる。

この人肉食が終わると,特にしつらえた高い台に少女を坐らせ,歌いながらその周りを回る」。


 バクストハウゼンのこの記述を信頼に値すると見,わたしも同様の話を聞いたとして,同じ乳房嗜食の話を紹介したのは,メーリニコフです。

そして彼はここに,嬰児供犠の話をつけ加えた。


生神女である少女が男の子を産んだ場合,この男子は生まれて八日目に,キリストに倣い脇腹を刺されて殺され,一同はその生血で聖体礼儀をとり行い,屍体は乾燥させて粉にし,パンに焼いてやはり聖体礼儀に使われる。 

やはりメーリニコフの挙げている例ですが,


ワシーり一・ラダーエフというアルザマスのキリストは,

「神秘的な死を死に,神秘的に甦って」キリストとなった者にはすベてが許される
という,一種の超人思想の持主で,これに基づき自らのカラーブリの十三人の女たちと関係をもっていました。彼は女たちに向って,自分がこれを要求するのではない,自分の内なる神が要求するのだ

と言って女たちに関係を迫り,彼女たちはこれを拒否できなかったといいます。

カラ~ブリの成員は,自分たちのキリストに対しては絶対服従の義務を有し,キリストの命令とあらばいかなる法も眼中にないという有様でしたから,このキリストが不心得者であった場合はとんだ事態が生じかねない,ということはあるでしょう。


深夜の密儀と乱交,人肉食,嬰児供犠等は,大衆の猟奇趣味にはなはだ適っていました。

また,ロシアをヨーロッパの秘境と見倣したがる西欧人の好みにも適っていた。

ハクストハウゼンとメーリニコフのこの記述は,大衆のフルイスト像を決定してしまった。

 ロシアの作家たち自身例外ではなかった。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5362/1/slc013p121.pdf


"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E8%AA%AC-%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3-%E4%B8%8A-%E6%B2%BC%E9%87%8E-%E5%85%85%E7%BE%A9/dp/4140808578


時代は、ロマノフ王朝の末期。

最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。

その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。

彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。

聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。

彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。

また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。

その一方で、バイシュン婦や無数の婦人などを宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。

まさしくオカルトの世界である。

ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。

その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。

そして、予言通り皇族一家も暗殺される。

暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。


彼の逸話には魔人伝説が散乱する。


① ロシアで流行るカルト宗教

暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。

確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。

ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。

こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。

本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。


鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。

これをキリストの兄弟愛と称する。

敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。

その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。

罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。

清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。

子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。


18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。

鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。

男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。

女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。

本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。


② ラスプーチンの教え


ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。

磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。

そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。

そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。

ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。

彼にとって愛こそ神聖なもの。

自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。

女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。

結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。

真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。

同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。

ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。

なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。

悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。

だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。


③皇族との結びつき

ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。

そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。

皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。

こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。

そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。

予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。

彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。

ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。

彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。

また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。

特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。

これぞ催眠療法である。

彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。

ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/2008/06/edvard-radzinsky.html


詳細は

ロシアのキリスト教 _ テレビドラマ 『ドストエフスキー 白痴』2003年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007014

プーチンとその師ドゥーギンはサタニスト(キリスト教の神を拒絶する者)だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038739


2:777 :

2022/09/14 (Wed) 03:20:51


ラスプーチンはイギリスのスパイ、レーニンはドイツのスパイだった
ジェームズ  そうです。国土が広いですから、いくらでも撤退できるというのはロシアの強みです。ただし、人の動員はプーチンにとって諸刃の刃です。イギリスのウォレス国防大臣が戦勝記念日に(ロシアが)ウクライナに対して宣戦布告を正式にすると言っていたじゃないですか?

──はい。でも、しなかったですね。宣戦布告すれば、予備兵とか動員できるので、これはあるのかと思っていました。

ジェームズ  その可能性は最初から低いと思っていました。理由はロシア国内で暴動、いや革命が起きてしまうからです。ウクライナに兵を送る場合、鉄道輸送の関係で一旦、モスクワ及びその周辺に兵を集めることになります。フル装備の兵士がロシア中から何十万人とモスクワ近郊に集まることになるわけで、こんなことをしたら一発で革命が起きます。実際、第一次世界大戦で地方から動員された兵士が今のサンクトペテルブルクに集められた時にロシア革命は起こっています。この時、ドイツ帝国から送り込まれたスパイがレーニンです。

──レーニンってあのレーニンですか?

ジェームズ  そうです。彼はドイツのスパイでした。一時、彼はスイスに亡命していましたよね? そこから窓のない列車に乗せられてサンクトペテルブルクまで移動しています。その当時、スイスからサンクトペテルブルクに行くにはドイツ帝国を通過するルートしかありませんでした。彼らはドイツの許可をもらってサンクトペテルブルクに帰っています。

──いま調べたら確かにそうですね。レーニンはドイツ帝国が用意した封印列車に乗ってロシアに戻っています。

ジェームズ  日本の書物ではドイツがロシア国内の混乱を期待して国内の通過を許可した、など書かれていますが、それは彼がドイツのスパイだったからです。反ロシア帝国のエージェントだったのでドイツは力を貸したのです。実は、この当時、イギリスもロシア帝国内にスパイを送り込んでいました。それがラスプーチンで、彼はイギリスのスパイでした。

──あの怪僧ラスプーチン。

ジェームズ  そうです。彼は任務が完了したあとにイギリスのMI6(当時の呼称はSIS)に殺されています。

──ということは、今回もドイツやイギリスはロシア国内に反対勢力を送り込んでいるんですか?

ジェームズ  ドイツは今そういうことをしていません。今あの国は腰抜けの国になっています。歴代首相のメルケルやシュレーダー、ショルツも皆、親露派です。ドイツが親露なのは輸出の国だからで、安い労働力をロシアから送ってもらっています。ロシアはロシア人を差し出して、その代わりに技術をもらうということをしています。また、ノルドストリーム2などのガスパイプラインをロシアからドイツに直結しようともしていました。これはドイツが数兆円払って建設していたものですが、ロシアのウクライナ侵攻によって一発でぶっ飛んでしまっています。
https://tocana.jp/2022/05/post_235700_entry.html
3:777 :

2022/10/12 (Wed) 06:10:30

2022.10.12XML
クリミア橋の爆破テロは橋に仕掛けられた爆弾により、計画は英のMI6だとの情報
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202210120000/

 クリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)で爆破事件があり、自動車用道路の桁ふたつが落下、ディーゼル燃料を運んでいた列車7両に引火した。トラックに積まれていた爆発物による自爆テロだと見られていたが、トラックはダミーで、​橋に爆弾が仕掛けられていた可能性​が出てきた。トラックが通過するタイミングで爆破されたということだが、その時に列車の電子システムが乗っ取られ、列車を停止させる信号が出たとする証言がある。

 爆弾テロが実行された後、ウクライナ大統領府長官の顧問を務めるミハイロ・ポドリャクはこの破壊工作について「始まりだ」と発言、こうした工作を続ける意思を表明、黒幕はウクライナのSBU(ウクライナ保安庁)だとする見方が広がったが、ここにきて​計画したのはイギリスの対外情報機関MI6(SIS)だという情報​が出てきた。西側の有力メディアが実行者をSBUだとしているのはそのためだという。

 MI6はイギリスの金融界、通称「シティ」との関係が深く、アメリカの情報機関CIAの教師的な存在でもある。イギリスは19世紀から世界を制覇するためにロシアを制圧しようとしてきた。その長期戦略をまとめ、1904年に「歴史における地理的要件」というタイトルで発表した学者がハルフォード・マッキンダー。今では「地政学の父」と呼ばれている。この戦略をアメリカの支配層が踏襲、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。

 マッキンダーの発表があった1904年の2月に日本軍が仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まった。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。1905年5月にロシアのバルチック艦隊は大遠征の末「日本海海戦」で日本海軍に敗北しているが、その直前からロシアでは第1次革命が始まっていた、

 1914年6にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺され、翌月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるのだが、ロシア支配層は戦争に反対する地主階級と戦争に賛成する産業資本家との間で対立が生じていた。地主階級の意見を代弁していたグリゴリー・ラスプーチンは皇帝に対して影響力があり、資本家の背後にいたイギリス政府にとって目障りな存在だった。

 ロシアの支配層内で参戦するかどうかで揉めていた最中の1914年6月にラスプーチンは腹部を刺されて重傷を負って入院。その間にロシアは宣戦布告していた。

 その後も対立は続き、ラスプーチンは1916年12月、フェリックス・ユスポフに暗殺されたとされている。ユスポフ家の資産はロマノフ家を上回ると言われるロシアの有力貴族だ。

 フェリックスは1887年3月にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれているが、その11年前、その宮殿でイギリス人男子が生まれていた。ユスポフ家に雇われていた家庭教師のひとりの息子、スティーブン・アリーだ。この人物は後にMI6のオフィサーになる。フェリックスはオックスフォード大学へ留学するが、そこで親密な関係になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになった。

 1916年にイギリス政府はMI6のチームをロシアへ派遣したが、その中心メンバーはアリーとレイナー。このチームはフェリックスと接触している。ラスプーチンの殺害に使われた銃弾を発射できるピストルを持っていたのはレイナーだけだったことから、真の暗殺者はレイナーではないかと考える人もいる。

 そして1917年3月にロシアでは「二月革命」が引き起こされる。資本家のほか、社会主義革命の前に資本主義革命を実行しなければならないと信じるカデット、エスエル、メンシェビキが中心で、ボルシェビキは参加していない。その指導者は亡命中か刑務所の中だった。革命で成立した臨時政府は戦争を継続する。

 それに対し、両面作戦を避けたいドイツ政府は即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目を付ける。そこでドイツ政府はボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運び、「十月革命」につながった。こうした経緯があるため、ソ連とドイツはアドルフ・ヒトラーが台頭するまで関係は良好だったのである。





 そのヒトラーにウォール街やシティが資金を供給していたことがのちに判明したが、アメリカでは1933年から34年にかけての時期に金融界の大物たちがフランクリン・ルーズベルト大統領を中心とするニューディール派の政権を倒すためにクーデターを実行しようとしたいた。

 アメリカやイギリスの支配層は一貫してドイツとロシアを敵視、両国を分断して戦わせ、共倒れさせようともしてきた。この構図は現在も変わっていない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202210120000/
4:777 :

2022/11/02 (Wed) 14:15:21

2022.11.02XML
対露戦争に20世紀初頭から関係しているオックスフォード大学のブリングドンC
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211010000/

 ロシアからドイツへバルト海経由で天然ガスを運んでいた天然ガスのパイプライン、「ノード・ストリーム」と「ノード・ストリーム2」が9月26日に爆破された。ガスが流出して圧力が低下、その事実をロシアのガスプロムは異常アラームで知るのだが、詳しい状況は理解できなかった。ところがアラームが鳴った1分後にイギリスのリズ・トラス首相(当時)はiPoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っている。そしてポーランドのラデク・シコルスキー元外務大臣は「ありがとう、アメリカ」とツイッターに書き込んだ。今では削除されているようだが、その事実は消せない。

 このシコルスキーは1980年代の前半にオックスフォード大学へ留学し、その際に学生の結社「ブリングドン・クラブ」へ入ったことは本ブログでも書いた通り。メンバーの多くはイートン校の出身だが、大酒を飲み、素行の悪いことで知られている。

 大金持ちの家に生まれた不良が集まっているように見えるが、その歴史は古く、創設されたのは1780年。シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。

 シコルスキーは反ロシアで有名な人物だが、そのロシアからもオックスフォード大学へ留学してくる若者はいる。そうしたひとりが帝政ロシアで有力な貴族ユスポフ家のフェリックス。この人物は1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にブリングドン・クラブに入っている。留学時代、フェリックスはクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子どもとして1876年2月に生まれたスティーブン・アリーも後のMI6のオフィサーだ。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月である。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。地主の主張を代弁していたのがグレゴリー・ラスプーチンで、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシアを参戦させたいイギリス政府はロシアの資本家と手を組んでいたが、社会主義革命の前に資本主義革命を行わなければならないと信じる勢力もつながっていた。この「革命勢力」にボルシェビキは含まれていない。ウラジミル・レーニンなどボルシェビキの幹部は刑務所に入れられているか亡命していた。

 そうした中、ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めたが、退院後もラスプーチンは戦争に反対する。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。

 その年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 1916年12月にラスプーチンは暗殺されたが、殺害に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。


 そして1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は倒され、成立したのが臨時革命政府。この政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなければならない。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたレーニンのボルシェビキ。ドイツ外務省はボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキが実権を握ったのは11月の「十月革命」であり、1917年にあったふたつの革命を一緒くたにし、単純に「ボルシェビキ革命」と表現することは正しくない。何者かがミスリードしようとしているのかもしれない。

 ボルシェビキ政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、その後、ドイツで米英金融資本から資金的な支援を受けていたナチスが台頭するまでドイツとソ連の関係は良かった。

 ボルシェビキ政権が停戦を決めたことでドイツは西へ集中できるようになったのだが、1917年4月から参戦したアメリカが兵員を送り込み、イギリスやフランスに物資を供給して支援したことでドイツは劣勢になって敗北した。そして1918年8月にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはボルシェビキ体制を倒すために軍隊を派遣して干渉戦争を始めている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211010000/
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/03 (Tue) 12:38:04

2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/10 (Fri) 00:13:50

20世紀初頭以来、ポーランド は米英と手を組み、反ロシア政策を継続
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14093546
7:777 :

2023/06/14 (Wed) 12:43:23

工作のため、イギリスは留学を利用してきた。崩壊直前の帝政ロシアを支えていたのは大地主と産業資本家。ドイツとロシアを戦争させたいイギリスはロシアの支配層にネットワークを作っていた。その中心人物が有力貴族のフェリックス・ユスポフ。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子ども、スティーブン・アリーが1876年2月に誕生しているが、のちにMI6のオフィサーになった。フェリックスが生まれたのは、その11年後だ。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだ。クラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになる。また在学中、フェリックスはブリングドン・クラブに入っている。

 クラブのメンバーは多くがイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そしてナット・ロスチャイルドも含まれている。

 こうした仕掛けのほか政略結婚もあり、ロシアのエリート層にはヨーロッパへの憧れを抱く人が少なくなかった。フェリックスたちはドイツとの戦争に向かうが、それに反対したのがグレゴリー・ラスプーチン。ロシアとドイツを戦争させるためにはラスプーチンを排除しなければならない。そこで1916年12月30日にラスプーチンは暗殺される。フェリックスが殺したとされているが、使われた銃弾の口径からフェリックスが真犯人だと推測する人もいる。

 ロシア革命当時から最近までロシアのエリート内には「親ヨーロッパ派」とまでは言えなくとも、欧米を信じている人は少なくなかったが、状況に変化が見られる。ロシア連邦院議長を務めるワレンチナ・マトヴィエンコの発言から判断すると、欧米幻想からロシア人は抜け出しそうだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306130000/
8:777 :

2023/06/29 (Thu) 11:20:54

2023.06.29XML
イギリスは20世紀初頭からドイツとロシア/ソ連を戦わせ、共倒れを狙ってきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306290000/

 ワグナー・グループを率いるエフゲニー・プリゴジンが引き起こした「反乱」は短時間のうちに沈静化、アメリカではウラジミル・プーチン政権の崩壊を妄想して興奮していたロシア憎悪の政府高官や「専門家」は落胆することになった。この「反乱」の真相は不明だが、プーチン大統領は「内乱」を阻止することに全力を尽くしたという。

 今回の「反乱」について語る際、プーチン大統領は1917年2月にペトログラード(現在のサンクトペテルブルグで起こったストライキから始まる内乱を引き合いに出している。

 この出来事は第1次世界大戦の最中に引き起こされた。ヨーロッパでは1914年7月28日にオーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して大戦が勃発していたのだ。

 その当時、帝政ロシアではドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主が対立している。産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがついていた。ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがついていた。ドイツとロシアを戦わせようとしていたイギリスにとってラスプーチンは邪魔な存在だ。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはスティーブン・アリーとオズワルド・レイナーが含まれていた。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 アリーの父親はユスポフ家に雇われた家庭教師のひとりで、アリー自身はユスポフの宮殿で生まれている。またレイナーはオックスフォード大学の学生だった時代からユスポフの親友で、流暢なロシア語を話した。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。このハリウッド映画風の説明に説得力はないのだ。事実を直視すれば、ドイツとロシアの戦争をイギリスが継続させたかったのだという結論に達する。ドイツとロシアの共倒れを狙っていたということだろう。

 二月革命で成立した臨時革命政府は戦争を継続する。そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキに目をつけたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。

 そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキは武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。レーニンはフィンランドへの亡命を余儀なくされた。この時、臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍。労働者や兵士を味方につける必要性を感じたのか、臨時政府は7月にエス・エルのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。

 ところが、コルニーロフが8月にクーデターを企てる。この武装蜂起にケレンスキー政府は対応できず、ボルシェビキに頼ることになった。そして十月革命につながり、革命政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。

 レーニンの命令でボルシェビキ政権はドイツとの戦争を停止するものの、アメリカが参戦、兵員を送り込んだほか、イギリスやフランスに物資を供給してたこともあり、ドイツは戦争に負けた。

 しかし、そうした経緯があるため、大戦後、ドイツとソ連の関係は良好だった。両国の関係が悪化するのはドイツでナチスが実権を握ってからだ。ナチスはイギリスやアメリカの金融資本から資金的な支援を受けていたことがわかっている。

 帝政ロシアの崩壊はラスプーチン暗殺が山場であり、その背後にはイギリス政府が存在していたと言えるだろう。その手先がユスポフだ。


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306290000/
9:777 :

2023/07/14 (Fri) 02:41:12

ジョージ・ソロスを含むネオコン、つまりセシル・ローズ人脈

 この人脈はシティ(金融資本)と関係が深く、20世紀初頭からドイツとロシア/ソ連を戦わせようとしてきた。ロシアの有力貴族だったユスポフ家に対する数十年にわたる工作があったように見える。

 ロシアとの戦争に積極的だったユスポフ家にはイギリス人の家庭教師がいた。その家庭教師の子どもがサンクトペテルブルクにあったユスポフ家の宮殿で生まれている。スティーブン・アリーだ。その11年後にフェリックス・ユスポフが誕生、後にイギリスのオックスフォード大学へ留学し、ブリンドン・クラブへ入っている。留学先で親密な関係になったオズワルド・レイナーは流暢なロシア語を話した。アリーとレイナーは大学を卒業した後、イギリスの対外情報機関で金融資本と緊密な関係にあるMI6のエージェントになっている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ヨーロッパでは1914年7月28日にオーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して大戦が勃発、帝政ロシアではドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主が対立した。

 産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがついていた。ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがいる。ドイツとロシアを戦わせようとしていたイギリスにとってラスプーチンは邪魔な存在だ。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。

 入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。

 ラスプーチンが暗殺された後、1917年3月に「二月革命」で帝政ロシアは崩壊、産業資本家を後ろ盾とする臨時革命政府が成立した。この政権は戦争を継続する。そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキに目をつけた。

 しかし、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキは武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。レーニンはフィンランドへの亡命を余儀なくされた。

 この時、臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍。労働者や兵士を味方につける必要性を感じたのか、臨時政府は7月にエス・エルのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。

 ところが、コルニーロフが8月にクーデターを企てる。この武装蜂起にケレンスキー政府は対応できず、ボルシェビキに頼ることになった。そして十月革命につながり、革命政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。

 レーニンの命令でボルシェビキ政権はドイツとの戦争を停止。アメリカが参戦、兵員を送り込んだほか、イギリスやフランスに物資を供給してたこともあり、ドイツは戦争に負けた。

 しかし、そうした経緯があるため、大戦後、ドイツとソ連の関係は良好だった。両国の関係が悪化するのはドイツでナチスが実権を握ってからだ。ナチスはイギリスやアメリカの金融資本から資金的な支援を受けていたことがわかっている。

 第2次世界大戦でドイツはソ連に負けた。アメリカやイギリスがヨーロッパで戦争に参加するのはスターリングラードでの戦闘でドイツ軍が敗北、1943年1月に降伏してからだ。ウィンストン・チャーチルが大戦を勝利に導いたという主張は戯言にすぎない。

 チャーチルの側近で、NATOの初代事務総長になるヘイスティング・ライオネル・イスメイはドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を始めて間もない1941年10月の段階で、モスクワは3週間以内に陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)その推測通りに進まないことを見てイギリスやアメリカは動き始めたのだ。

 ナチスがソ連/ロシアを征服してくれることを米英の支配層は期待していたのだろう。ただ、アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトは反ファシズムで、植民地に反対だ。帝国主義者のウィンストン・チャーチルとは立場が違うため、両者の関係は悪かった。チャーチルはセシル・ローズの直系で、「最初のネオコン」とも呼ばれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307130000/
10:777 :

2023/07/18 (Tue) 02:45:34

2023.07.17XML
米政府は露国だけでなく独国も破壊しようとしてきたが、それに協力するドイツ人
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307170000/

 アメリカのバラク・オバマ政権は2013年11月からウクライナでクーデター計画を始動させ、翌年の2月にはビクトル・ヤヌコビッチ大統領の排除に成功した。その時の工作でバラク・オバマ政権が手先に使ったのはNATO諸国で訓練を受けたネオ・ナチだ。

 クーデターでキエフや西部地域は制圧できたものの、ヤヌコビッチの支持基盤だった東部や南部の住民はクーデター体制を拒否、南部のクリミアはロシアの保護下に入り、東部のドンバスでは内戦が始まる。

 しかし、内戦でキエフのクーデター政権は勝てないとアメリカやEUは判断、軍事力の増強を図る。そうした時に結ばれたのがミンスク合意だ。ドイツやフランスが仲介したのだが、​アンゲラ・メルケル元独首相​は昨年12月7日にツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認め、その直後に​フランソワ・オランド元仏大統領​はメルケルの発言を事実だと語っている。

 その後、8年をかけてアメリカ/NATOはクーデター政権に兵器を供給、兵士を訓練、ドンバスの周辺に要塞線を築いた。アゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリや岩塩の採掘場があるソレダルの要塞は特に有名だ。

 ウクライナでクーデターを実行した目的のひとつはロシアとの国境線までNATOを拡大し、「チェックメート」を宣言することにあったのだろうが、ロシアとドイツを分断することも重要な目的だった。ドイツやフランスはロシアとビジネス上の関係を緊密化させていたが、それはアメリカの影響力が低下することを意味する。そうした動きを阻止しなければならなかった。

 ドイツとロシアを結びつける大きなファクターはエネルギー資源。ロシアからヨーロッパへ天然ガスを運ぶパイプラインの多くはウクライナを通過していた。ウクライナを支配ることでアメリカは天然ガスの輸送を断ち切ることもできる。

 しかし、ウクライナを迂回するパイプラインをドイツとロシアは建設する。「ノード・ストリーム」と「ノード・ストリーム2」だ。このパイプラインが昨年9月26日に爆破された。破壊直後、ポーランドで国防大臣や外務大臣を務めたラデク・シコルスキーは「ありがとう、アメリカ」と書き込み、その後、ノードストリームの破壊はプーチンの策略の余地を狭めるとも書いた。

 状況証拠はアメリカ政府による犯行だということを示唆しているが、調査ジャーナリストの​シーモア・ハーシュは今年2月8日、アメリカ海軍が爆破したとする記事を発表​した。

 ジョー・バイデン大統領はオバマ政権で副大統領を務め、ホワイトハウスでクーデターを指揮していた。その下にいたのがビクトリア・ヌランド国務次官補と副大統領の国家安全保障担当補佐官を務めていたジェイク・サリバンだ。このトリオにブリンケン国務長官を加えたチームが現在、戦争政策を推進している。

 バイデンが大統領に就任したのは2021年1月。その年の後半に新大統領はサリバン国家安全保障補佐官を中心とする対ロシア工作のチームを編成した。その中には統合参謀本部、CIA、国務省、そして財務省の代表が参加、12月にはどのような工作を実行するか話し合ったという。そして2022年初頭、CIAはサリバンのチームに対し、パイプライン爆破を具申している。

 その年の1月27日にビクトリア・ヌランド国務次官は、ロシアがウクライナを侵略したらノード・ストリーム2を止めると発言、2月7日にはバイデン大統領がノード・ストリーム2を終わらせると主張、記者に実行を約束した。

 ハーシュによると、爆破計画の拠点として選ばれたのはノルウェー。イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長の母国だ。3月にはサリバンのチームに属すメンバーがノルウェーの情報機関に接触、爆弾を仕掛けるために最適な場所を聞き、ボルンホルム島の近くに決まった。

 プラスチック爆弾のC4が使われたが、仕掛けるためにはロシアを欺くためにカムフラージュが必要。そこで利用されたのが​NATO軍の軍事演習「BALTOPS22」​だ。その際にボーンホルム島の近くで無人の機雷処理用の潜航艇を使った訓練が行われた。

 当然のことながら、爆破されるとパイプライン内の圧力が減少する。その事実をロシアのガスプロムは異常をアラームで知るのだが、詳しい状況は理解できなかった。

 ​そのアラームが鳴った1分後、イギリスの首相だったリズ・トラスはiPhoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っている​。この情報は10月30日に報じられたが、その前日、ロシア国防省はこれらのパイプラインを破壊したのはイギリス海軍だと発表、トラスはその4日前に辞任している。

 アメリカが何カ国かの協力を得てパイプラインを爆破した可能性が高く、ドイツはこの爆破で経済活動に大きなダメージを受けた。

 ところが、そのドイツで外務大臣を務めるアンナレーナ・ベアボックは2022年8月31日に「フォーラム2000」で「ドイツの有権者がどのように考えようとも、私はウクライナの人びとを支援する」と発言、23年1月24日に「われわれはロシアと戦争している」とPACE(総州評議会議会)で口にしている。ウクライナに対する軍事支援にも積極的である。

 シティ(金融資本)を拠点とするイギリスの支配層は19世紀からロシアの征服を計画、そこに新興国家のドイツを潰すと言う目的が加わり、第1次世界大戦につながった。ドイツとロシアを戦わせるということである。

 この戦略を実行する上で重要な役割を果たしたのがイギリスと関係の深い有力貴族、ユスポフ家だ。第1次世界大戦が始まる前からこの家にはイギリス人の家庭教師がいて、サンクトペテルブルクにあった同家の宮殿で家庭教師の子どもが誕生している。スティーブン・アリーだ。

 その11年後にフェリックス・ユスポフが誕生、後にイギリスのオックスフォード大学へ留学し、ブリンドン・クラブへ入っている。留学先で親密な関係になったオズワルド・レイナーは流暢なロシア語を話した。

 アリーとレイナーは大学を卒業した後、イギリスの対外情報機関MI6のエージェントになる。MI6は金融資本と緊密な関係にある組織だ。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 第1次世界大戦に参加するかどうかで帝政ロシアの支配層は割れていた。ドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主だ。産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがつき、ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがついていた。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院してしまう。入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことである。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。

 ロシアの「二月革命」でドイツとの戦争を継続することが決まると、ドイツは「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけるのだが、当時、ボルシェビキの幹部は国外に逃亡しているか刑務所に言えられていた。

 そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキは武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。レーニンはフィンランドへの亡命を余儀なくされたが、結局、「十月革命」につながった。

 こうした経緯があるため、ソ連とドイツとの関係は良かったのだが、この関係をアドルフ・ヒトラーのナチスが破壊した。このナチスがソ連に破れると、アレン・ダレスなどはナチスの幹部たちを逃亡させ、保護した。

 この仕組みはNATOにも組み込まれ、現在のドイツでも影響力を維持している。ウクライナでのクーデター、パイプラインの爆破などでアメリカはドイツを弱体化させようとしているが、ドイツの支配層にはそうした工作に協力するグループが存在しているわけだ。


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307170000/
11:777 :

2023/07/25 (Tue) 07:08:30

シティを拠点とするイギリスの支配層、つまり金融資本は19世紀からロシアの征服を計画、そこに新興国家のドイツを潰すと言う目的が加わり、第1次世界大戦につながった。この戦略を実行する上で重要な役割を果たしたのがイギリスと関係の深い有力貴族、ユスポフ家だ。

 第1次世界大戦が始まる前からこの家にはイギリス人の家庭教師がいて、サンクトペテルブルクにあった同家の宮殿で家庭教師の子どもが誕生している。スティーブン・アリーだ。その11年後にフェリックス・ユスポフが誕生、後にイギリスのオックスフォード大学へ留学し、ブリンドン・クラブへ入っている。留学先で親密な関係になったオズワルド・レイナーは流暢なロシア語を話した。アリーとレイナーは大学を卒業した後、イギリスの対外情報機関MI6のエージェントになる。MI6は金融資本と緊密な関係にある組織だ。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 第1次世界大戦に参加するかどうかで帝政ロシアの支配層は割れていた。ドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主だ。産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがつき、ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがついていた。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院してしまう。入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことである。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307240000/
12:777 :

2023/08/15 (Tue) 03:59:01

ジェームズ斉藤 _ MI6の長官がロシアの内部からの行動によってプーチン体制が壊れると言った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139979




ジェームズ斉藤 : 「ウクライナ侵攻」の真実
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006468

ジェームズ斉藤 _ ロシア軍敗北は演出、プーチンの謀略で“欧州経済崩壊&NATO分裂”へ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14057646

プーチンはユダヤ人だった _「ロシアという国」の本当の姿をジェームズ斉藤が解説!
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/187.html

ロシア大ピンチ!「ワグネル」武装蜂起で反乱勃発!北野幸伯 徹底解説
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14123122

ロシアの怪僧 グリゴリーラスプーチン
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14045251

プーチンとその師ドゥーギンはサタニスト(キリスト教の神を拒絶する者)だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038739

ウクライナのゼレンスキー大統領はイギリスの対外情報機関MI-6の命令で動いていた
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132864

70年代に登場してから現在まで対ソ連/ロシア戦争を続けるネオコンの背景
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14047374

ロシアを滅ぼそうとしているジョージ・ソロスの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006933

玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾くソ連軍歌『カチューシャ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003159

ペテルブルク大学の法学部教授になろうとしていたプーチンが政治家に転身した経緯
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14015915

ウクライナ紛争のその後
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006081

ウクライナ軍が勝つというのは 欧米の大本営発表だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14011568
13:777 :

2023/08/15 (Tue) 05:52:56

十月革命は第1次世界大戦と深い関係がある。1914年6月にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺され、翌月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるのだが、ロシア支配層は戦争に反対する地主階級と戦争に賛成する産業資本家との間で対立が生じていた。

 戦争反対派の中心人物は皇后アレクサンドラと大地主を後ろ盾にするグリゴリー・ラスプーチン、戦争賛成派の中心は有力貴族でイギリス支配層と深い関係にあるフェリックス・ユスポフだ。

 ロシアとドイツを戦わせたいイギリスにとって目障りな存在だったラスプーチンは1914年6月に腹部を刺され、重傷を負って入院。その間にロシアは宣戦布告していたが、その後も対立は続く。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺された。暗殺者はフェリックス・ユスポフだとされている。

 ユスポフは1887年3月にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれているが、その11年前、その宮殿でイギリス人男子が生まれていた。ユスポフ家に雇われていた家庭教師の息子、スティーブン・アリーだ。この人物は後にイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーになる。のちにフェリックスはオックスフォード大学へ留学するが、そこで親密な関係になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになる。

 ロシアで支配層の内紛が展開されている最中、1916年にイギリス政府はMI6のチームをロシアへ派遣したが、その中心メンバーはアリーとレイナーにほかならない。このチームがフェリックスと接触していることは運転手の日誌で明らかになっている。またラスプーチンの殺害に使われた銃弾を発射できるピストルを持っていたのはレイナーだけで、真の暗殺者はレイナーではないかと考える人もいる。

 そして1917年3月にロシアでは「二月革命」が引き起こされ、資本家が実権を握った。そのほか、カデット、エスエル、メンシェビキも革命グループに含まれていたが、ボルシェビキは参加していない。その指導者は亡命中か刑務所の中だった。革命で成立した臨時政府は戦争を継続する。

 それに対し、両面作戦を避けたいドイツ政府は即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目を付ける。そこでドイツ政府はボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運び、「十月革命」につながった。こうした経緯があるため、ソ連とドイツはアドルフ・ヒトラーが台頭するまで関係は良好だったのである。そして日本はイギリスやフランスの要請で十月革命に干渉、1925年までソ連領内に居座ったわけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308150000/
14:777 :

2023/09/04 (Mon) 18:53:52

ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した

22976000195
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg
優柔不断な皇帝と革命農民
最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば優柔不断なうえに騙されやすかったと言われています

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった

こうした突然の変更は抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った

優柔不断なのに騙されやすく信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか怪しげな助言者などの話を良く聞いた

ロシア帝国は外部からの力というより皇帝や周囲の人々の間違った行いによって内部崩壊していた

ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に既にロシアは混乱していて皇帝は何度も襲撃されていました

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころロシアは既に社会主義思想が蔓延していました

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった

ロシア農民は革命前は欧州と同様に領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品と考えられていました

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し過激な革命運動を起こした

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった

だが1894年には病没し「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し滅亡の道を歩き始める

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の逝去を待ち望んだかのように結婚している

皇帝が市民運動を奨励した
妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したもののロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった

ニコライ2世は責任者を処罰せず何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される

ニコライ2世は性格が弱かったため市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ15世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました

ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ皇帝側は権威を失墜させてしまった

ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました

1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている

革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った

1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg
だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている

側近達はニコライに事実を知らせず「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込ませた

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく皇帝側の軍人らも疑問を抱いた

抗議運動が活発化すると正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました

1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした


ロマノフ家の家族動画、優柔不断なニコライは家族を逃がす事すらしなかった
https://www.youtube.com/watch?v=Sq4ossoQ_0Q

https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html


15:777 :

2023/09/04 (Mon) 23:23:08

渡辺惣樹 『虚像のロシア革命』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14147355
16:777 :

2024/03/09 (Sat) 12:59:11

2024.03.09XML
米英金融資本が作ったナチス・システムから逃れられず、露との戦争へ向かう独
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

ロシアの十月革命からナチスが台頭するまでの期間、ドイツとロシア/ソ連の関係は良好だった。ソ連を率いることになるボルシェビキの指導部は二月革命で臨時革命政府が樹立されるまで収監されているか、亡命していてロシアにはいなかった。二月革命で臨時革命政府を樹立したのはフェリックス・ユスポフをはじめとする一部貴族、資本家、そして資本主義革命を望んでいた「リベラル派」の連合体で、イギリスの戦略通り、第1次世界大戦でドイツと戦争することを望んでいたのだ。

 この勢力のライバルだったのは大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士。この勢力はドイツとの戦争に反対していた。ロシアの支配層が戦争をめぐって対立する中、1916年7月13日に戦争反対の皇后はラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 参戦してもラスプーチンが復活すると戦争を辞める可能性があるのだが、1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になったと見られている。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 その当時、ロシアにはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。

 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運ぶ。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになるのだ。





 このソ連とドイツとの関係を潰したのがナチスであり、そのナチスの資金源がイギリスやアメリカの金融資本だということがわかっている。アメリカの金融資本は1933年から34年にかけての頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を中心とするニューディール派の政権を潰すためにクーデターを試み、スメドリー・バトラー退役少将に阻止された。金融資本はファシストの戦術を真似ようとしていたが、それだけでなくファシズム体制の樹立を目指すと記者に語っている。

 戦争が終了した後に金融資本とナチスとの関係にメスが入ると見られていたのだが、ドイツが降伏する直前の1945年4月12日にルーズベルトが急死、ニューディール派は急速に力を失い、金融資本が実権を取り戻した。

 1949年4月に北大西洋条約機構が調印されてNATOが誕生するが、初代事務総長のヘイスティング・ライオネル・イスメイはその目的を「ソ連を追い出し、アメリカを引き入れ、ドイツを抑え込むことだ」としている。この機構はヨーロッパをアメリカが支配するための仕組みであり、その手先になる秘密部隊のネットワークも存在する。

 それに対し、西ドイツがNATOへ加入した1955年、ソ連は近隣諸国と「ワルシャワ条約」を締結、安全保障機構が設立された。ソ連の近隣国とはドイツがソ連へ軍事侵攻する直前に支配していた地域で、カトリックの影響が強く、大戦中、反ロシア感情からナチスと結びついていた人が少なくなかった。本ブログで繰り返し書いてきたように、ポーランドの反ロシア感情とイギリスへの従属が第2次世界大戦の引き金になっている。







 ナチスを育て、支援した米英金融資本の戦略は19世紀に書かれた。その中心的なグループはビクトリア女王にアドバイスしていたネイサン・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらだ。

 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年6月にフリーメーソンへ入会、『信仰告白』を書いている。

 その中で彼はアングロ・サクソンが最も優秀な人種だと主張、その優秀の人種が住む地域が増えれば増えるほど人類にとってより良く、大英帝国の繁栄につながるとしている。そのためには侵略し、先住民を皆殺しにする必要がある。そうした意味で、アメリカやイスラエルは彼らの戦略が成功した地域だと言えるだろう。

 中東やウクライナ、そして日本でも多くの人が死ぬようなことをしているが、これは彼らの計画だと考えるべきだ。そうした計画を実現するためにはエネルギーと作戦本部が必要。秘密結社はその作戦本部だと考えられる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

17:777 :

2024/03/22 (Fri) 10:07:31

2024.03.22XML
米英支配層がソ連消滅後に始めた侵略戦争はウクライナで大きな山場
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403220000/

 アメリカの支配層がソ連消滅後に始めた旧ソ連圏での侵略戦争はウクライナで大きな山場を迎えている。この戦争におけるアメリカ/NATOの敗北が決定的な状況になっているのだ。

 1990年代、西側の有力メディアはビル・クリントン政権に対して軍事力の行使を要求したが、当初は動かなかった。1997年に国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代すると侵略戦争へ向かって動き始めている。

 オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月から6月にかけてアメリカが主導するNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施した。4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅、また5月には中国大使館がそれぞれ爆撃されている。ソ連が消滅、「唯一の超大国」になったアメリカの行動を止められる国は存在しないという傲慢さのなせる業だと言えるだろう。

 そして2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、その衝撃的な出来事を利用してアメリカ政府は2003年3月、イラクを手始めに中東で大規模な侵略戦争を始めた。

 一方、旧ソ連圏ではウクライナで2004年から05年にかけて新自由主義の手先を大統領に据えるために「オレンジ革命」を実行され、元ウクライナ国立銀行総裁のビクトル・ユシチェンコが大統領に選ばれた。この「革命」を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だ。

 しかし、ユシチェンコの新自由主義は米英の巨大資本やその手先であるウクライナ人に富を集中させ、大多数の庶民を貧困化させた。ウクライナは石油会社や穀物メジャー、それらを支配する金融資本に蝕まれていく。それに反発したウクライナの有権者は2010年に実施された選挙でビクトル・ヤヌコビッチを選んだ。オレンジ革命で西側支配層が排除した政治家だ。このヤヌコビッチを再び排除するために仕掛けられたのが2013年11月から14年2月にかけてのクーデターにほかならない。

 アメリカを戦争へと導いてきたシオニストのネオコンは、アメリカが軍事力を行使してもソ連/ロシアは対応できないと1990年代から信じていたが、2013年から14年にかけてのクーデターでもロシアは動かなかった。

 そして始まった今回のウクライナにおける戦闘だが、西側に支援されたクーデター政権が反クーデター派が支配する東部のドンバスへ大規模な軍事攻勢を始めようとした矢先、2022年2月24日にロシア軍はウクライナに対するミサイル攻撃を開始、ドンバス周辺に集まっていたウクライナ軍を壊滅させてしまった。その際、アメリカの国防総省がウクライナに建設していた生物化学兵器の研究開発施設も破壊、機密文書を回収している。ここから始まるロシア軍による攻撃でアメリカ/NATOによるロシアを征服する計画は破綻した。

 ネオコンが2003年3月に始めた中東での侵略戦争も彼らの想定通りには進まず、アメリカの「同盟国」だったサウジアラビアがイランやロシアに接近している。2020年1月3日にはサウジアラビア政府に対するイラン政府の返書と携えてイラクのバグダッド国際空港へ到着したイスラム革命防衛隊の「コッズ軍」を指揮していたガーセム・ソレイマーニーをアメリカ政府はイスラエルの協力を得て暗殺したが、それで流れを変えることはできなかった。​サウジアラビア、イランは中国の仲介で国交正常化で合意、2023年3月10日にサウジアラビア、イラン、中国は北京で共同声明を発表している。​

 その中東では現在、アメリカやイギリスの軍事支援を受けたイスラエル軍がガザでパレスチナ住民を虐殺している。イギリスからキプロスを経由してイスラエルへつながる兵站線が存在、それにはアメリカも関係している。アメリカやイギリスがその気になれば虐殺はすぐに止まる。

 イスラエルの「建国」が宣言されたのは1948年5月14日。アラブ系住民が住んでいた場所に新たな「国」を作るため、その先住民を排除するため、シオニストは1948年の4月上旬に「ダーレット作戦」を開始、ハガナから生まれたテロ組織のイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺した。

 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、住民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国連は1948年12月11日、パレスチナ難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。

 その間、1948年5月20日に国連はフォルケ・ベルナドットをパレスチナ問題の調停者に任命した。彼は6月11日から始まる30日間の停戦を実現したものの、7月8日に戦闘が再開され、9月17日にはスターン・ギャングのメンバーに暗殺された。

 イスラエルをパレスチナに「建国」する計画は19世紀から始まっている。ロシア嫌いで有名なベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めているが、その間、75年にスエズ運河運河を買収している。買収資金を提供したのは反ロシアのライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)

 1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。

 ロスチャイルド家を含むイギリスの支配層は金融資本であり、シティを拠点にしている。その金融資本の手足として活動してきたのがイギリスの情報機関MI6にほかならない。このMI6をモデルにして創設されたOSS/CIAは事実上、ウォール街の機関だ。MI6は19世紀からロシア支配層の内部にネットワークを築いていたが、そのキーパーソンは有力貴族のフェリックス・ユスポフだ。

 ユスポフを中心とする貴族グループは資本家と手を組み、ドイツとの戦争を推進しようとする。それに反対したのが大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士である。

 戦争反対の皇后は戦争回避の方策を相談するため、1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 しかし、参戦してもラスプーチンが復活すれば戦争を辞める可能性がある。そうした中、1916年12月16日にラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になった。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾を打ち込んだ銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 暗殺現場にはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。

 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運んだのである。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになる。そこでソ連とドイツはナチスが台頭するまで関係は良かった。

 MI6を動かしていたイギリスの支配層の中心にはセシル・ローズの人脈が存在していた。ローズのスポンサーだったナサニエル・ド・ロスチャイルドはライオネル・ド・ロスチャイルドの甥にあたり、NMロスチャイルド&サンズを経営していた。ローズはNMロスチャイルド&サンの融資を受け、ダイヤモンドや金が発見されていた南部アフリカへ1870年に移住、財を成した。

 1890年にケープ植民地の首相となったローズは96年にレアンダー・ジェイムソンを使ってトランスバールへの侵略戦争を始めたが、失敗。ローズは失脚し、イングランドのサウスハンプトンに戻ってナサニエル・ロスチャイルドと会い、ジョセフ・チェンバレンからのメッセージを渡した。このチェンバレンが侵攻作戦を秘密裏に承認した人物だといわれている。ロスチャイルドはウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、そしてアルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)と緊急会談を開いて対策を練った。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 ロスチャイルド、ステッド、ブレット、ミルナーのほかサリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)らへローズは1890年、アングロ・サクソンを中心とする世界支配のアイデアを説明している。

 ローズはアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考えていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会するが、その直後に『信仰告白』を書き、その中でアングロ・サクソンが住む地域が広がれば広がるほど良いと主張している。領土を拡大して大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)

 こうした考え方は当時のイギリスでは珍しくなかったようで、A・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ・シリーズのひとつである『独身の貴族』で、「われわれ子どもたちがいつの日かユニオン・ジャックと星条旗とを四つに区切って組み合わせた旗のもと、同じ世界国家の市民になることを妨げるものではない」とホームズに言わせている。

 ローズの後、イギリスの支配グループを率いたのはアルフレッド・ミルナー。この人物はRIIA(王立国際問題研究所、通称チャタム・ハウス)を創設した人物としても有名で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」も彼を中心に組織されたという。(Carroll Quigley, “The Anglo-American Establishment”, Books in Focus, 1981)

 イスラエルの「建国」にもこの人脈が関係している。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送るが、この書簡が大きな意味を持つ。その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。

 同じ人脈は19世紀に東アジア侵略も開始している。その手始めが中国(清)を狙ったアヘン戦争だが、海戦で勝っただけで内陸部を支配できない。そうした時に始まったのが日本に対する工作だ。イギリスは長州や薩摩を支援して徳川体制を倒し、「天皇制官僚体制」というカルト国家を建設することに成功した。明治体制下の日本はイギリスやアメリカの代理人として東アジア侵略を始めている。当初、最も大きな影響力を持っていたのはシティだったが、関東大震災以降はウォール街の影響が強くなった。

 アングロ・サクソンの戦略は19世紀からロシア、パレスチナ、東アジアをひとつのものとしている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403220000/
18:777 :

2024/03/22 (Fri) 10:41:09

矢野義昭 超大物(岸田総理の上の上)に重大な動きアリ! いったい何が始まるのですか・・・・・
https://www.youtube.com/watch?v=9XIGo0V5abo&t=613s

【矢野義昭先生】世界の多極化と日本 グローバリズムの行方 ニコニコ同時配信 (全編はニコニコで)2024.03.11.
https://www.youtube.com/watch?v=qXlYp8119Uw


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ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html

アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/366.html

帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げてきて共産主義者になっていった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1214.html

「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1025.html

ロシア革命を支援したユダヤ金融資本
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1110.html

ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898

アメリカとマルクス - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14063330

アメリカの民主党と共和党には大きな差がなく、 いずれもスポンサーは巨大資本や富豪
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14063417

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