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劉少奇 _ 毛沢東に逆らった義人の運命

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2022/08/25 (Thu) 02:17:10

劉少奇 _ 毛沢東に逆らった義人の運命


劉少奇〔Liú Shàoqí リウ・シャオチー/1898.11.24-1969.11.12〕は、中国共産党が結成された年に、中国共産党へ入党した創初期からのメンバーである。1937年、盧溝橋(マルコポーロ橋)事件(日中戦争発端の事件)の首謀者(劉自身が自分の手柄話として語っている。)1945年に中国共産党の№2となり、1959年には毛沢東に代わり、「国家主席(国家元首)」となる。ま、「国家主席」とは言え、中共は毛沢東の独裁政権であったので、№2のままではあったが・・・

毛沢東の「大躍進」・・・と、云う実質「大後退」に等しい大失策によって、中国全土で数千万の餓死者が続出し、国家の荒廃を憂いたが、「大躍進」に異を唱える事は、毛沢東独裁の中では、確実に粛清の対象になるのも知りながら、国家の退廃と民衆の窮乏を救う為に、敢えて自己犠牲の精神を以って、毛沢東に敢然と立ち向かった。

しかし文化大革命の中で、権力強化を図る毛沢東の標的とされ、“実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に晒され、1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死した。 劉少奇と王光美の子供の何人かは獄死した。

1958年、毛沢東は「大躍進」と云う政策を打ち出したが、実際には「大後退」・・・と、呼ぶに相応しい、惨憺たる大失策で、経済・生態系システム無視し合理性を全く欠いた、大躍進政策は結局として産業・農業基盤は崩壊、生態系を破壊し、発生した大飢饉は日に日に深刻さを増していった。

国家主席の劉少奇は大飢饉に深く憂慮しており、1961年初頭迄に全土で3000万人が餓死したことも承知していた。 1961年4~5月に、劉少奇は故郷の湖南省を視察した折に、自分が関わった政策が齎した惨劇の結末を直接目にした。

※最終的には「大躍進」では最大推計5000万人余りが餓死した。

劉少奇は、視察中に姉の家に立ち寄った。姉は「地主」の家に嫁いでいたので、共産党政権下で「階級敵人」に分類されていた。其の為に、国家主席の姉弟であっても特別扱いされずに、迫害を受けたし、1959年に発生した飢饉のことを訴える手紙を姉の夫(義兄)が劉宛に書いたが、途中で検閲に引っ掛り、義兄は懲罰として、凍死寸前になるまで木に縛り付けられ、その後間もなく亡くなった。 体が弱っていたのに、ふすまで作ったパンを食べた(その様なものしかなかった)のだが、弱った胃腸は消化の悪い物を受け付けず、医者を呼ぼうにも医者もおらず、苦しみ続ける病人を運ぶ病院すらなかった。

行く先々で、劉は胸を引き裂かれるような光景ばかりしか目にする事が出来なかった。そして、多くの悲惨な話を耳にした。共産党・・・ひいては自分自身に対する人民の憎悪を感じざるは得なかった。故郷の村では12歳の少年が劉の実家に 「打倒劉少奇」 と、書いた。この少年は、1年の間に家族6人が病気で死ぬのを目の当たりにして来た。最後に死んだのは一番下の弟だった。少年は幼い弟に母乳を飲ませてくれる人を探している最中に、弟は少年の腕の中で亡くなった。何故なら、少年の母は其の少し前に亡くなったばかりだった。劉は地元の党幹部に命じてこの少年を罰しないように命令した。劉は、地元当局が食物を盗んだ罪で農民を罰するのをやめさせ、村人に対して、

「寧ろ、政府が農民から食物を強奪しているのだ」

・・・と、衝撃的な発言をした。更に

「そっちがわしらから取るなら、なんでわしらがそっちから取ってはいかんのか?
そっちが沢山取っていくのに、なんでわしらが少しばかり取ってはいけないのか??」

と、農民を代弁する発言をし更に前例の無い事をした。劉少奇は共産党政権の失政について農民に謝罪したのだ。

「同郷の皆さんが此れほど過酷な暮らしをしているのを見て、私はショックを受けました・・・・・

皆さんにこれほどの苦しみを与えてしまったことに対して責任を感じます。謝らなければなりません」

――ーと。


北京へ帰った後、劉は共産党最高幹部たちに

「このまま(大躍進政策を)続けるわけにはいかない」

―――と、語った。 8月には、周恩来が河北省視察の結果、毛沢東に対して

「人民の食べ物は、木の葉、野菜の漬物、野草だけで他には一切無い。穀物は一粒たりとも残っていない」

・・・と、報告したが、毛沢東は

「何をそう大騒ぎすることがあるのか??」
―――と、吐き棄てた。

そして劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、鄧小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に劉少奇夫婦揃って引きずり出された時だった。 劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし、

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。 しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html
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2022/08/25 (Thu) 02:18:12


『文化大革命十年史(上)』(著:厳家祺(げんかき)・高皋(こうこう)。監訳:辻康吾。岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E5%AD%A6%E8%A1%93-%E5%8E%B3-%E5%AE%B6%E7%A5%BA/dp/4006000723/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1314366635&sr=1-1


 文革は、いったいいかばかりの損害を中国に与えたのだろうか。

 本書では「経済的損失は五千億元に達した」という記述があるが、金銭に換算できるものばかりではないだろう。

 各書でもそうだし、本書でも、文革の根本原因として、スターリンを貶めたフルシチョフ体制を目の当たりにして毛沢東が不安になった、ということが挙げられている。きっかけとなったのが、三面紅旗の失敗を彭徳懐が指摘したことだ。

「この批判を認めてしまうと、毛沢東の党内での最高権力が動揺するのは必至」

とある。気にしていることをズバリと指摘されたので、彭徳懐は毛沢東の不興をかって失脚した。彭は、「文革」の最も初期の犠牲者と言ってもよいかもしれない。

 1965年11月10日、上海の『文匯報』に有名な、姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論評が発表された。 どこが逆鱗に触れたのかよくわからないのだが、とにかく江青が、この作品(『海瑞免官』)には腹を据えかねたようだ。しかし、北京では「海瑞」批判の動きを起こすことに失敗した。

 彭真は、毛に「呉晗(ごがん)と彭徳懐は無関係」と訴えている。本書の注によると、時期的に見て、呉晗が、この作品に彭徳懐擁護の意図を秘めることは不可能だったようだ。(作品ができたのが1959年6月。彭が毛を批判したのは同年7月)

 66年5月25日、聶元梓(じょうげんし)らは党委員会に反旗を翻した。それを知った大衆はもちろん深く驚きもしたろうが、反面カタルシスというか、心中快哉を叫んだ者も多かったのではないだろうか。

 66年5月30日、文革小組の一派は、「人民日報」を手中にしたそうだ。これで今後の世論操作が可能になったのだから、この重要性は大きいのではないか。

 その後、反工作組の動き、つまり、従来の「権威」に対する動きが出てきた。

 例えば66年6月18日、陸平ら「黒い分子」を吊し上げたいわゆる北京大学「六・一八事件」である。固定的な(ある意味、安定した)時代であれば、党中央が派遣した工作組の指示には素直に従うことになっていただろう。

 本書には、風向きがおかしくなってきた劉少奇が毛に事情を説明しようとして66年7月18日に家を訪ねたが、(電気はついており、誰かと会っている様子なのに)門番から「主席はもう寝ているから帰れ」とすげなく追い返されたとある。いかにも象徴的なエピソードである。

しかし、劉は、まだ自分の陥っているピンチを正確には理解していなかっただろう。むしろ、理解したくなかった、直視しようとしていなかったという方が近いかもしれない。


 文革は暴力的で残酷なのだが、その中でふとグロテスクなユーモアを感じさせることがある。

 本書でいうと、例えば、江青が、反工作組(=反劉少奇)を叫び、自分が最も「革命」的であるとアピールするための66年7月26日の大会の中で、興奮のあまり私怨を絶叫したというあたり。

「興奮のあまり訳が分からなくなり、われを忘れた江青が毛沢東の前妻の~息子~の妻との間に起こった衝突のことまで持ち出し、毛家はこの嫁を認めない、と声の限りに叫んだとき、人々の心にこの革命に対する一抹の不安がよぎった」

とある。会場の聴衆は「なに、関係ないことゆうとんねん、このおばはん・・・・」と思ったやろうねえ。

 また66年8月19日から始まる「四旧打破」の大キャンペーンの中で、紅衛兵が信号表示に異議を唱え、革命の象徴たる「赤」は「進め」を表わすべきだと言い出したそうだ。紅衛兵たちがむりやり

「青で停まれ、赤で進め」

と命令し、数え切れぬほどの無意味な交通事故を引き起こしたあげく、周恩来総理が自ら

「信号は全世界の統一規定で、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果がある」

と説得したというくだりも非常に馬鹿馬鹿しい。


 有名な写真で、劉少奇の妻王光美がネックレスをつけた状態で吊るし上げをくらっているものがあり、本書にも載っている。これも、何と63年の「ネックレス事件」が根本原因らしい。しかし中味といえば、外遊する王に江青が「ネックレスはつけるべきでない」とアドバイスしたのに、ネックレスをつけた姿をニュース映像で見て以来、宿怨を抱いていたという実にせこいもの。

 しかしながら、67年4月10日王光美批判集会では、

「紅衛兵が勝手に持ち出したシルクのストッキングとハイヒールを履かされ、体に合わなくなった細身の旗袍(チーパオ)を着せられて、さらに、このためにわざわざ作ったピンポン玉のネックレスまでつけさせられ」たのである。

 劉少奇への迫害は目を覆いたくなるものがある。67年1月6日に、王光美は

「娘平平が下校途中に脚を折り切断しなければならず、保護者のサインがいる」

という電話を受けた。王は「絶対に中南海を離れるな」という周恩来の再三の忠告を思い出し、すぐに出かけようとする劉少奇を止めたが、

「あんな小さな子が私たちのせいでひどい目にあったのだ」

と迷うことなくきっぱり言ったそうだ。(しかし、やはりこれは罠だった)


 67年7月18日、劉少奇糾弾集会が開かれ、陶鋳、鄧小平にも暴力がふるわれた。

 8月5日、毛が壁新聞「司令部を砲撃しよう」を貼り出してから1周年にあたるこの日、劉少奇批判集会はさらにエスカレートした。

「劉少奇の顔は腫れ上がり鼻には青アザができていた」そうである。


 劉少奇は家族から引き離され一人で監禁された。適切な医療も食事も水も与えられなかった。

 69年10月17日、劉少奇は河南省開封に移送された。
11月12日午前6時45分、彼の心臓は鼓動を停止した。救急チームが来たのは、その2時間も後だったそうだ。

 「人民共和国の主席はこうして誰にも知られずひっそりとこの世を去った。彼が黄泉の国へ持って行ったのは彼に押し付けられた『劉衛黄』という仮名と『無職』の肩書きであった」という。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

劉 少 奇 の 晩 年 99/11/12 半島震報 王小岩 


 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。

当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。


 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。

 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は

「黒は黒を守る」とか
「お前らが悪魔を守れるのか」

とか言いたい放題であった。 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。


劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。

造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。 彼らは言う。

「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」

と叫んだ。劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。

 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。


訳注:中南海は建国後北京城内に高級幹部が住まいとしたところ。大衆の接近を禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまりこの闘争の時、肩書き無しの毛沢東が劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を全て聞いていた。

 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 

 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。

 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。これを見た張さんは、思わず声を掛けた。

「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」

と言った。 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は

「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」

と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。 その直後、王光美は中南海から他へ移された。

 劉少奇を厨房に立たす


 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。

中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。

 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。

 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。 中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。

 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。

 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。


 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。

 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。


 訳者注:これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。
 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。

 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。

 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。

 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。

 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/shouki.html

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm

劉少奇・王光美夫妻 真実の愛とは? 人間の強さと美しさとは??


王光美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%89%E7%BE%8E


劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、鄧小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 王光美の回想による

―――私は

「今度こそお別れになるような気がします〔最近、末日的||感觉好象被分别。〕」

と、云いながら、涙を止める事が出来なかった・・・。

・・・一緒に暮らした日々の中で初めて、少奇は私の荷造りをしてくれるといって、私の衣類をキチンと畳んでくれた。

最後の数分間 私達は互いに見つめ合ったまま座っていた。 其の時、滅多に冗談を口にしない彼が云った。

「なんだか、君を迎えに来る花かごを待っているみたいだね!

〔是什么吗、来接你好象正等待花“車喬”!〕」

―――私達は笑い出してしまった。


その後、二人は別々の場所で独房監禁状態に置かれ、その後二人が顔をあわせたことは一度だけあった。

・・・それは、1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に夫婦揃って引きずり出された時だった。しかし、劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。

裁判の途中で、王光美は、群集の手を振り解き、数分の間、夫の服の端にしがみついた。その間、群衆は殴る蹴るの暴行を夫妻に喰らわせる中、夫妻は手を堅く握り合い、真直ぐ立ち続けようと抵抗した。この勇敢な行動には、恐ろしい報復が待っていた。王光美は米国・日本・蒋介石のスパイと云うレッテルを貼られ、12年の間、最も厳しい刑務所に収監され、立って歩くことすら許されず、刑務所から釈放後、数年間は歩く事すら出来なかった。

また親兄弟が悉く投獄され、70歳を超えた王の母は獄中死し、夫妻の子供達は孤児となり、劉の息子(母は前妻)は自殺した。刑務所に収監されたとしても、日々、聞くに堪えない罵声や暴行を浴びせられ、病気になっても薬は与えられず・・・刑務所とは名ばかりで、強制収容所と何も変わらなかった。

しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

夫妻を見て思うのは、毛沢東に叛旗を翻さず、毛沢東に服従していれば、享楽的な生活を営めたのにも関らず、指導者として成すべき事を確固たる信念を以って、対峙し、そして幾ら非道な仕打ちを受けても、絶対に毛沢東に屈しなかった。王光美は夫と共にあることを望み、王も毛沢東に屈服しなかった。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


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2022/08/25 (Thu) 02:20:23



江青に妬まれた故の悲運


 元々『女優』としての経歴のあった江青は、とても『嫉妬深い女性』でもあった様で、一定の評価はされていたと言うものの、その評価には至極不満であったらしく、『演劇界』には恨みを抱いていたとも言われます。 特に、伝統芸能と言われていた『京劇』や自分より評価の高かった『女優』等には特に異常とも言える敵愾心を燃やしていたと言うのです。


 先ず、『劉少奇』失脚事件です。
1966年『劉少奇』は『毛沢東』によっ
て『トウ小平(1904~1997)』等と共に『修正主義』と批判され、『自己批判』の上、政治局員の地位は保全された物の、自宅に幽閉されたと言うのです。 その後、スパイ容疑等の名目で紅衛兵などの襲撃を受け何度も『つるし上げ』の標的ともなり、1968年夫人の『王光美』も逮捕されると共に一人軟禁状態となり病の床に着くことになったと言うのである。

 『江青』は、彼の完全失脚を狙い、様々な事を仕掛けたと言うのであるが、その時既に彼の病状は見る影も無いほど悪化していたと言うのである。 にも拘らず、彼女は彼から薬をも取上げ、ベッドに縛り付けた状態で、コンクリートむき出しの部屋に閉じ込めたと言う事なのです。 かくて彼は1969年11月、放置された常態で死を迎える事になりますが、その惨状は余りにも物凄く、直ちに『火葬』されたと言う事なのです。

 一方、夫人の『王光美』も、その容貌が華やかで知性に溢れていた事から『江青』の嫉妬心を刺激したらしく、執拗な攻撃を受けたと言うのです。 『劉少奇』の夫人であった事もあり、『劉少奇』や子供達の何人かはその迫害の下に死んでいったのですが、彼女はそれに耐え抜き約12年間の獄中生活の末、中国共産党の職務に復活していると言うのです。

 聞く所に拠れば、『江青』は彼女を死刑にする為に案件を捏造し、結果『死刑』と判決させたと言う事なのですが、『毛沢東』は此れを聞くに及び『暫くは死刑にしない』と言ったそうなのである。 彼にすれば、運動の初期から一緒に働いてきた同志でもあり、『劉少奇』死した今、『美人』でもあった事から『殺す』には忍びない女性であったのかも知れません。

王光美は、中国国家主席劉少奇の5番目の妻です。 王光美は、カトリック系の大学を主席で卒業し、中国共産党の軍事調処執行部で英語通訳を務めていました。延安の共産党本部で劉少奇と出会いました。 王光美の父親は、4度も離婚歴のある男との結婚を反対し、彼女を勘当しています。劉少奇の最初の妻は、共産主義者として国民党に銃殺されるという悲運に遭いました。その後、2番目から4番目の妻までは、すぐにくっついては別れる、を繰り返していました。

しかし、5番目の妻である王光美人は、26歳で結婚後、劉少奇が出世街道を進んでいく過程から非業の死を遂げるまでの20年間を、妻として、秘書として彼に連れ添うのでした。 王光美は、聡明で模範的な妻でした。結婚した瞬間から、前妻たちが産んだ5人の子の母親になりました。

一番始めの妻の子供たちは、すでに成長してソ連に留学していましたが、 三番目の妻が産んだ子は、まだ2歳と4歳でした。王光美は、生さぬ仲の2人の子供たちを愛情を持って接しました。その後、王光美は、一男三女を生みますが、一切わけ隔てなく育てます。 前妻の子を虐待していた江青(毛沢東の4人目の妻)とは、雲泥の差だったのでした。
江青は、後に、王光美をひどく憎むようになりますが、自分と比べて評価の高い王光美人に嫉妬していたためだと言われています。

1962年に毛沢東が文化大革命を行なった時、劉少奇も自己批判を強いられ、殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった様子がテレビで実況放送されました。 党籍も剥奪され、1969年獄死しました。 何の罪も無い王光美も、逮捕されてしまいました。 美貌も知性も人望も何もかも自分より優れていた王光美を許せなかった江青が、 「彼女はアメリカ中央情報局のスパイよ!」とでっちあげたのでした。



「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。

おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>


毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。

陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして

若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、

これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。

この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。 李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。



■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。王さんは、紅衛兵のいたぶりに、

「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」

と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。

 ■王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。

 ■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。


 ■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。


 ■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。


 ■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。

 ■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。


 ■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。

江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。


 ■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。


 ■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。


 ■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。

 ■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。

 ■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。


 ■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。

 ■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995-2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。


 ■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。


 ■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。



毛沢東も美女にだけは優しかったんですね。

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4:777 :

2024/03/24 (Sun) 07:31:01

妙佛 DEEP MAX 「三体」の文革シーンがNGになる理由!中共・近平・闘争 について長尺で
2024/03/24
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