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カンボジア大虐殺 _ 世直しの為に毛沢東思想を忠実に実行したポル・ポト

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2022/08/25 (Thu) 01:32:03

カンボジア大虐殺 _ 世直しの為に毛沢東思想を忠実に実行したポル・ポト

「共産主義」とは何だったのか

 ところで、ポルポト氏はなぜ、当時のカンボジア国民の4分の1にあたる170万人もの人々を、死なせてしまったのだろう。 ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。 20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。

 帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。  1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。

 1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。 ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。


●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質

 首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。

 都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。

 また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。
休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。

人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。

ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。

ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。

 そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。

 だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。  ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる)

 クメールルージュが政権の座にあったのは、1975年から79年までの、わずか5年間だった。目茶苦茶な政策によって国内が疲弊し、隣国ベトナムの軍事進攻を招くことになった。クメールルージュはプノンペンを追われて西部のジャングルにこもり、代わって現在まで続く親ベトナム政権が打ち立てられた。  放っておけば、クメールルージュはこのときに壊滅したかもしれないが、歴史はそうならなかった。ベトナム戦争に負けたアメリカが、ベトナムを憎むあまり、カンボジアにできた親ベトナム政権を敵視し、クメールルージュを支援したのである。ソ連と鋭く対立していた中国も、親ソ連だったベトナムに敵対する意味で、クメールルージュを支援した。

 そしてクメールルージュは、アメリカの支援を受けやすくするために、「もはや共産主義を信奉していない」と表明したりした。保身のための変わり身の早さは、どこか日本の「全共闘世代」と共通するものがある。  こうした状態は、冷戦が終わる1990年代まで続いた。アメリカ政府の政府要人は、個人的にはクメールルージュの虐殺行為を嫌悪しながら、政府としては虐殺を無視するかたちでテコ入れしていた、とされている。
http://tanakanews.com/980420polpot.htm 


 話は毛沢東が生きていた時代、そしてベトナム戦争が行われていた時代です。当時のカンボジアはシアヌーク国王による王政国家だったのですが、国王が外国に出ている隙に親米派のロン・ノルがクーデターを起こして政権をとりました。当時はベトナム戦争真っ只中ということもあり、ロン・ノルは国内にいるベトナム人や共産主義勢力に弾圧を加えた(カンボジアとベトナムは国境を接している)のですが、それに対して反動が大きくなり、最終的にはポル・ポト率いる共産主義勢力であるクメール・ルージュがゲリラ戦を展開して内戦を起こし、逆にロン・ノルを国外へ追い出すことに成功しました。

 まぁなんていうか、ここで話が終わればそれなりによかったのですが、皮肉なことにこの結果が後にカンボジア、ひいては20世紀の一つの悲劇を生むことになります。この時政権を奪取したクメール・ルージュですが、これはフランス語で「カンボジアの真紅」という意味で、カンボジア共産党ともいう意味です。この時の指導者はフランスへの留学帰りが多く、それから名づけられた名前です。 

 それでこのクメール・ルージュですが、内戦時に主に支援を受けていたのは中国からでした。中国としては共産圏を広がることでこの地域への発言力を強めようという意図があったのだと思いますが、この時に中国に影響を受けたことからクメール・ルージュの掲げる思想というのは毛沢東思想に準拠したものになりました。そしてそんな集団がカンボジア首都、プノンペンを占領すると、早速その思想を実行に移します。

 毛沢東思想の最も代表的な特徴というのは、

「知識人は搾取階級であり悪である」

ということです。そのため、この思想を掲げるクメール・ルージュが真っ先に行ったのは知識人の一方的な殺戮でした。聞くところによると、英語をほんのすこし話すだけでも、仏教を修行していただけでも知識人とみなされ一方的に殺戮されたそうです。またそうでなくとも、途方もなく極端な政策が無理やり実行されて強制労働が各所で行われ、文字通り死ぬまで人を酷使した上で逃げ出そうものなら容赦なく射殺していったようです。

 そうして知識人を社会からはじくかわりに持ち上げられたのが、まだ年端もいかない子供たちでした。

毛沢東思想の反復になりますが、まだ何の教育にも染まっていない子供たちこそ新たな時代が切り開けるという考えの下でクメール・ルージュは子供に銃を持たせ、政策への不満を漏らしていないかスパイ活動を行わせ、挙句に大人たちの処刑を行わせたのです。

このあたりは中国の文化大革命時の紅衛兵を想像してもらえばいいでしょう。

 その結果、このクメール・ルージュ政権時に虐殺された人数は200万人から300万人とも言われ、当時のカンボジア全体の人口の実に四分の一もの人間が殺害されたと言われています。これは一つの政権による虐殺としては過去最大で、あのナチスドイツのユダヤ人虐殺の人数をも越えます。

 最終的にこのクメール・ルージュは対立していたベトナムと戦争状態になり、実力に優れるベトナム軍にコテンパンにやられ国外から追放され、この虐殺の責任を追及されないことを条件にベトナムに従うという政府関係者によって新たに政権が作られることにより虐殺が終わりました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_2756.html

ポル・ポトの大虐殺 ~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~


ローランド・ジョフィ 『キリング・フィールド』(The Killing Fields) 1984年

The Killing Field 1984 - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=The%20Killing%20Field%201984&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&pq=the%20killing%20field%201984&sc=1-22&sk=&cvid=B909603B307642F49F8312836CC6213F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=


『キリング・フィールド』(The Killing Fields)は、1984年制作の英米合作映画。ニューヨーク・タイムズ記者としてカンボジア内戦を取材し、後にピューリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグ(英語版)の体験に基づく実話を映画化したもの。1985年のアカデミー賞において、助演男優賞・編集賞・撮影賞の3部門受賞。

カンボジア人助手のディス・プランを演じたハイン・S・ニョールはカンボジア出身の医師で、実際に4年の間、クメール・ルージュの元で強制労働に就かされた経験を持つ。演技経験のまったくない素人であったが、この作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。



 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に、200万から300万近くの人間が虐殺されたのである。 革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。
   不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺は、いかにして起こったのか?

 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。

 ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取っていた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。

北への執拗な爆撃を繰り返すB52戦略爆撃機、日によっては、50回も出撃した。  そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。 北ベトナム軍にとって、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。

 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。

 カンボジアがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。  一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。

ロン・ノル(1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。 ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。

 内戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや、決裂は明らかとなった。

 やがて、膨大な軍事費と甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。  そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。      

 1975年、4月17日、その日が恐怖政治の始まりだった。この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。 今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくのである。この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか?

 この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。彼らは、すべて、十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。 ついに、内戦が終わったと信じた民衆は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。しかし、勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけだった。

しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。

 問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され出したのである。病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。 何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。 瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。

クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。

 彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
 それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。

 これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。しかし、これはひどいペテンであった。彼らは、途中で、道路上で機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生も殺された。彼らは、処刑されるために帰って来たようなものであった。男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。

 休日のレジャー・音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止された。貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。

クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。宗教は全面的に禁止され、かつて、大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。

僧侶は、強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。そして、
寺院は、ことごとく、豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。
押収したコーランは、トイレットペーパーの代用になった。

教育も一切必要なかった。授業は、あるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。


 ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか?
 
彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。 彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。 絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。

 ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。

 過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。  病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論だった。踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。 都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と見なされ殺されたのだ。それは、まるで、腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。

 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たない子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。

 中には、全く字も読めないような医師さえもいた。彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。子供医師にかかり注射を受けた者の多くは、傷口が化膿した。腫瘍が腫れ上がり体全体に広がり命を落とす者が続出した。多くの者は、医療の知識もなく、ろくに消毒もせず注射をしようとする子供医師を恐れた。彼らは、手術すら行うこともあったが、しかし、その実体は、人体実験に等しいものだった。生きたままを柱にくくりつけられ、大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて即死した哀れな患者もいたのだ。

 子どもは、スパイとしても使われた。近くに子供しかいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。また、小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てていることもあった。うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりであった。

 死は日常の中に入り込んでいた。生活に死というものが密着していた。
なぜ? どうして? という疑問を感じないようにしなければならなかった。
うっかり、英語とかフランス語を口にしようものなら殺されるのである。じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。正しきこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこにもなかった。

 ある男が、びっこの痩せた犬を見つけ、殺してその肉を食ったことがあった。男は、翌日、少年兵士たちに連行され二度と戻っては来なかった。彼は、犬の肉を一人だけで食ったという罪で、拷問を受けた挙句、銃の台尻で殴り殺されたのである。
 流行歌を歌っただけでも殺された。歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。もし、子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。したがって、彼らは、野菜売りだったとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかったのである。

 ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。

 だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もう、どこにも逃げ道はなかった。  多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで、殺されたのである。 ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。彼女は、歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。

 ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。

 この地獄は丸4年間続いた。しかし、ポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。

 その日、ベトナム軍は、15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。

http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_d.html

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共産主義は呪われたものとなった
2:777 :

2022/08/25 (Thu) 05:28:53

2014-10-20
破壊された仏像と、アンコールワットを見たことがない娘


2014年10月9日、ニュージーランドから来たウィレミジン・ヴェルマートという40歳になる女性が、カンボジアのアンコールワットに訪れ、仏像1体を破壊していたことが発覚した。

彼女は9日の夜6時過ぎ、アンコールワットをさまよっているのを目撃されていたのだが、取り逃してどこに行ったのか分からなくなった。

見つかったのは翌朝なのだが、警察が事情を聞いて保釈した後に仏像が破壊されているのが分かり、慌てて警察が手配したところ、すでに彼女は出国していたのだった。

その後、彼女は自国ニュージーランドに戻ったのだが、なぜ仏像を破壊したのかと問われて、「仏像から声が聞こえてその仏像を動かしたので、そのときに壊れたかもしれない」と答えた。そして、このように付け加えたという。

「あの仏像はブッダではなかった。ニセモノだった」

もちろん、声が聞こえたというのも、ニセモノだというのも、彼女の勝手な思い込みで、世界遺産を破壊されたカンボジア側は激怒、ニュージーランド側に抗議している。

ジャングルの中に忘れられたアンコールワット

カンボジアが世界に誇るもの。それが、言わずと知れたアンコールワットである。

ジャヤバルマン二世によって確立され、ジャヤバルマン七世の時代に空前絶後の繁栄を遂げたアンコール王朝の、壮大な「夢の宴」がこのアンコールワットだった。

今でもカンボジアのシンボルと言えば、誰もがこのアンコールワットを思い浮かべるだろう。カンボジアの紙幣にも、アンコールワットが描かれている。

私もカンボジアを愛する旅人のひとりとして、このアンコールワットを見るためだけに、わざわざプノンペンから船に乗ってトンレサップ湖を北上し、シェムリアップ州に向かったものだった。

遺跡にはまったく興味がない。しかし、アンコールワットだけは時間をかけて見学したいと思った。それだけの価値がこの壮大な建築物にはあると考えていたし本当に惹きつけられた。

実際に訪れたことがある人なら分かると思うが、この遺跡は広大で荘厳だ。

その神秘的な姿を見ると、クメール文化の根底をなしているものが非常に歴史のあるものだということが理解できる。

この壮大な寺院は、しかし1431年に王都がプノンペンに移ると放棄されて、やがて忘れられ、100年以上もジャングルの中でひっそりと眠っていたのである。

アンコールワットの遺跡群の中のひとつ、アンコールトムの「タ・プローム」では、熱帯の樹木ガジュマロの根が遺跡に絡みついている。

そんな自然と遺跡が一体化している神秘の姿も、ジャングルの中でひっそり眠っていた中で形作られたものである。

アンコールワットの遺跡群の中のひとつ、アンコールトムの「タ・プローム」では、熱帯の樹木ガジュマロの根が遺跡に絡みついている。


ポル・ポトには、それは破壊すべき「偶像」だった

しかし、カンボジアは1974年4月に共産主義政権に入り、クメール人の基盤をなしていた仏教を全否定した。民族の象徴を葬り去ろうとしたのである。

その指導者はポル・ポトと呼ばれる男だった。(カンボジア現代史。1953年〜1975年までの動乱の時代(1))

ポル・ポトは政治家になる以前は教師だった。教職の時代では、規律正しく穏やかな性格をしていたと評される。

ところが、この男はアンコールワットの壮大さを冷笑し、それは破壊すべき「偶像」にしか思わなかったようだ。この時代、アンコールワットはところどころが破壊され、いくつかの仏像にも銃弾が撃ち込まれ、頭部も叩き壊された。

そして、寺院は虐殺したカンボジア国民の死体の放置場とされ、まわりに地雷を敷設した。まさに、歴史の侮蔑が公然と行われたのである。

アメリカを、ベトナムを、そして同じカンボジア国民を「敵」と見なしたこの政権は、弾丸のひとつも惜しかった。だから、国民の大虐殺は銃ではなく鎌や鋤や棍棒で行われた。

ダイナマイトで徹底破壊されなかったのは、ポル・ポトがアンコールワットに畏敬の念を覚えたからではなく、単に武器・弾薬が不足していたからである。

この狂気のポル・ポト政権が崩壊したあとも、カンボジアはポル・ポトの残党と長い内戦を戦い、やっと国情が落ち着いたのは1990年に入ってからだった。

そのときには、長らくジャングルに埋もれてきたこのアンコールワットは崩落の危機にあった。遺跡の形を保存するために応急措置としてセメントで塗り固めるという乱暴な手法も取られたのも、完全崩落を避けるためでもあった。

ポル・ポト。この男はアンコールワットの壮大さを冷笑し、それは破壊すべき「偶像」にしか思わなかったようだ。この時代、アンコールワットはところどころが破壊され、いくつかの仏像にも銃弾が撃ち込まれ、頭部も叩き壊された。


クメール人の彼女は、まだそれを見たことがない

そんな歴史をくぐり抜けて来たアンコールワットの遺跡群は、今はカンボジア人の心の拠り所としてとても大切に守られている。

観光地となって観光収入を得ながら、その利益で寺院には多くの尼僧が住み着いて保全に従事し、世界各国から遺跡復旧のための技術者を呼んでいる。政府は貧しく、満足な復旧資金がなく、多くの技術者は手弁当であると言われている。

また、NGOも含め、カンボジア人の普通の人さえも地雷の撤去を命がけで行っている。そうやって、アンコールワットは、ゆっくり、少しずつ、保全に向けて動いているのである。

シアヌークヴィルで知り合った娘のひとりが、ガイドブックに載っていたアンコールワットの写真を見ながら、「ここに行ってみたい」と言っていたのを思い出す。

彼女はBIBAという田舎のディスコに所属していた可愛らしい女性だった。恥ずかしがり屋で、けなげで、そして貧しい生活の中で懸命に生きていた女性だった。

外国人の私がアンコールワットを見たにもかかわらず、クメール人の彼女はまだ見たことがないのだった。貧しい彼女に自由な旅行などできるはずもない。

生きるのに必死だった彼女は、どんなに願ってもアンコールワットを見に行く生活的余裕がなく、日々を生き抜くだけに汲々として生きていた。

「旅をする」というのは、生活に余裕がある人間の「贅沢」であるというのを、私は彼女を見つめながらしみじみと思ったものだった。

そんな大切なアンコールワットを、心ない観光客がよく分からない理由で破壊する。どこか、やるせない気持ちになる出来事ではある。

破壊されたアンコールワットの仏像。

破壊したニュージーランド人。8年前、オランダからニュージーランドに移住した女性だったという。1ヶ月近くも東南アジアを旅していたというのだから、それなりに経済的な余裕もあったのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141020T0435330900.html
3:777 :

2022/08/25 (Thu) 05:50:19

原理主義。純度が高まれば高まるほど劣性が極大化していく


2016年7月1日にバングラデシュのダッカで起きたテロ事件の実行犯のひとりは資産家の息子でダッカ有数の私立学校に通っていたエリートだった。

エリートが過激な「原理主義」に取り込まれてテロの実行犯になったというのは、日本でも例がある。

オウム真理教という薄気味悪いカルトに取り込まれて地下鉄サリン事件のような凶悪テロ事件を引き起こしたのも、エリートたちだった。

「原理主義」はその思想を100%の純度まで培養し、先鋭化し、「それ以外は存続を認めない」という「純粋」な思想である。

「純粋」と言えば、何かとてもクリーンな感じがして良い印象を抱くはずだ。混じりっけなし。完全無欠。そういったものは、清潔で素晴らしいというイメージがある。

「純度100%」に、悪い印象を持つのは難しいかもしれない。しかし、実のところ、非常に危険なのだと気がつかないと、取り返しの付かないことになる。

純粋であろうとすればするほど、それは非常に強い「毒」となって自分や社会を傷つけることになる。「純粋」が危険であることの理由は分かるだろうか……。


純度が高まれば高まるほど劣性が高まる事実

純粋であるというのは、単純に言うと、緩衝物(クッション)になるものがすべて省かれて、まったく融通が利かないものである。

あまりにも純化されていると、妥協ができないので少しでも間違うと、目的を達成するよりも破壊する方が強くなる。これは、あらゆる分野ですべて共通することである。

たとえば、人間の「血」に関してはどうか。人間の「血」で純度を高めるというのは、近親相姦をずっと繰り返して「余計な血を入れない」ということである。

意図的にそれをやった一族がいる。ハプスブルグ一族だ。この名門一族は、あまりにも名門だったので、自分たちの血を身分の低い他人の血と混ぜるわけにはいかないと考えた。

そこで、純血主義を徹底して、一族間の近親相姦を繰り返したのだが、その結果、どんどん心身に問題を抱えた子供たちが生まれたのである。

純血は、良い遺伝子と良い遺伝子が組み合わされればさらに良くなるが、劣性の遺伝子が組み合わされると問題が大きくなって場合によっては命に関わってしまう。

ハプスブルグ一族も、劣性遺伝子と精神疾患に悩まされるようになり、とうとうその血は断絶した。

これは人間だけでなく、一般的にすべての動物で言えることである。たとえばペットの犬や猫でも、「純血種」は身体が弱かったり病気にかかりやすかったりする例が多いのはよく知られている。

そもそも、極端に足が短い、極端に鼻が低い、極端に小さいというのは「劣性遺伝子」による奇形がどんどん突き進んだ結果なのだ。

純度を高めることによって、劣性の部分を極大化させていき差別化している。それが純血種という存在である。純度が高まれば高まるほど、純度が高まるがゆえに劣性が高まる。


共産主義思想をとことん純化させた国があった

政治に関してはどうか。共産主義はマルクス主義が主流となって1900年代から爆発的に浸透していった思想だ。この思想は、単純に言えばこうだ。

「財産をすべて国のものとして、国が国民に平等に分配し、平等な社会を作る」

これはレーニンやトロツキーや毛沢東によって支持されて、ソビエト社会主義連邦や中華人民共和国として結実した。

結局、国の分配はうまくいかず、1980年で事実上、共産主義の思想は破綻していくことになるのだが、1970年代に、この思想をとことん純化させた国があった。

カンボジアだ。

1974年、カンボジアのポル・ポト政権はアメリカの傀儡政権を崩壊させて権力を奪取したが、その翌日から異様な共産主義を実行し始めた。

国の通貨をすべて廃止し、インテリ層を皆殺しにし、プノンペンを無人にし、国民をすべて農村に送り出して共同生活を強いたのである。

つまり、カンボジアはポル・ポト政権が政権を取った1974年から国民の職業は1つになった。農民である。「医者も、学者も、いらない」とポル・ポトは豪語した。

共産主義を極度に純化させたそれを「原始共産主義」と彼らは呼んだ。

しかし、その純度を高めた原始共産主義で国民が100万人も死んでいき、カンボジアはたった5年でアジア最貧国となって国家崩壊していった。

朝日新聞は、このポル・ポト政権の共産主義国家が誕生した時に「アジア的優しさ」などと能天気に評して「新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない」と馬鹿な記事を載せていたので有名だ。

ところで、このポル・ポトとは何者だったのか。

この男は、実は国費でフランス留学した「エリート」教師だったことを知っている人は少ない。エリート教師が外国で極端な共産主義にかぶれて同じエリート仲間たちと祖国で革命を起こし、最後に祖国を破壊した。


100%でないと駄目だと考えた瞬間に、自滅する

世の中は何もかもが「純粋ではない」のだ。それにも関わらず、そこに純粋を持ち込むとどのようなことになるのか。

たとえば、自分が純粋であろうと努力することや、自分の純粋な理想を相手に押し付けて理想から外れることを許さないと、どのようなことになるのか。

純粋でないものを強制的に排除したいという動機が働くようになり、それが「自分たち以外の人間の皆殺し」の正当化に突き進んでいく。それがテロなのである。

理想を持つことや、純粋であることは、ほどほどであれば問題はないし、必要でもある。しかし、その純度を極限的なまでに高めようとして世界が歪む。

100%理想の哲学はない。100%理想の人はいない。100%理想の恋人や配偶者もいない。100%理想の友人もいない。また100%正しい物事もない。100%信じられる人もいない。

100%を目指すことの愚かさは、もっと多くの人が気がついてもいい。

リンカーンは奴隷解放宣言をした政治家だが、ある理想主義者を部屋に呼んでこのように諭したという。

「コンパスはあなたに真北を指し示す。しかし、あなたと目的地の間にある障害物については警告しない」

原理主義とは、まさに純度をとことんまで高めて妥協を知らない主義だが、真っ直ぐに突き進むと目的が達成できないので結果的に挫折してしまう。

なぜ挫折してしまうのか。融通性が利かず、一方向しか進むことができないからだ。

世の中には今でもあちこちで原理主義の組織や、社会が存在する。しかし、純度を高めれば高めるほど、急速な自壊に向けて突き進むことになってしまう。

危険なのは、多くの人は「純粋」であることに対して良いイメージしか持たず、「純粋」「純度100%」が理想であると考えている人もいることだ。危険だ。危険なだけでなく、そんな姿勢は人生を破滅させる。

ところで、この純度100%の原理主義に心酔しやすいエリートだが、このエリートという存在も学歴社会に純度100%で純粋培養された存在でもあるとも言える。

ポル・ポト。
純度100%の共産主義を目指したが、結果的に国民大虐殺につながり、カンボジアを根底から破滅させてしまった。ポル・ポトは、実は国費でフランス留学したエリート教師だったことを知っている人は少ない。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160705T1658130900
4:777 :

2022/08/25 (Thu) 05:51:42

共産主義の独裁者はインテリを憎んで無学な子供たちを好む

カンボジアで狂気のポル・ポト政権が成立したのは1975年4月17日のことだった。狂気の指導者であるポル・ポトが当初から敵視していたのは「インテリ層」だった。

ポル・ポト自身は教師出身のインテリなのだが、極端な共産主義に染まっていたポル・ポトは、新しい国「民主カンプチア」を設立するにあたって知識人は不要だと考えた。

ポル・ポトは自分が支配するカンボジアを「原始共産主義」の国にしようと考えていて、「国には指導者と農民がいれば、あとは必要ない」と割り切っていた。

そのため、まだ西洋思想や民主主義や資本主義のような「堕落した思想」を知らない子供たちを親から引き離し、原始共産主義の思想を洗脳し、邪悪な思想に染まった人間を殺すように命令した。

子供たちは忠実にそれを実行した。インテリを敵視し、医師や教師や経営などの職に就いていた人間はことごとく殺害していった。

国からインテリが一掃できればできるほど「民主カンプチア」は理想に近づくとポル・ポトは本気で考えていた。それほど、ポル・ポトは「物を知った人間」を嫌ったのだ。

混じりっけのない純度100%の共産主義国家の樹立

ポル・ポトのこのインテリ嫌いにはお手本があった。

それは、中国の毛沢東である。毛沢東もまた独裁者となってからはインテリを激しく嫌っていた。

文化大革命では「知識人は反動(反革命勢力)だ。知識が多ければ多いほど反動だ」と言い放って、インテリを徹底的に自己批判させて迫害した。

自己批判というのは、インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回すものだった。

そうやって、毛沢東はインテリを次々と吊し上げて殺害したり追放したりしていたのだった。

そして、人民には「教育は不要だ」「勉強するな」と呼びかけた。それは「叩き潰すべき古い文化」であると言われたのである。ただ、唯一読むことが勧められたのは「毛沢東語録」だけである。もちろん、それは洗脳の書でしかない。

(1)インテリはブルジョア(資本家階級)になる。
(2)資本家階級は人民を搾取する。
(3)資本家階級は共産主義の敵だ。
(4)インテリを吊し上げろ、追放しろ、殺せ。

これが文化大革命の嵐として吹き荒れていったのが毛沢東時代の中国だった。

クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、この毛沢東に心酔しており、それを自分の国で徹底的に行うことを決意していた。そしてカンボジアに混じりっけのない純度100%の共産主義国家を樹立しようと目論んだ。

そのためには、共産主義思想とは相容れない「民主主義や資本主義に染まったインテリ、ブルジョアども」を根絶やしにしなければならない。

また、ブルジョア的な生活に染まった都市住民を全員「再教育」しなければならない。

それが都市住民の農村への強制移住となり、インテリやブルジョアの皆殺し政策となって結実したのである。


文化大革命。インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回す。


自分の政策を批判する人間を排除する政治システム

毛沢東とポル・ポトはインテリを嫌悪したが、自分たちはインテリであるというところも似ている。ふたりとも共産主義の活動家になる前は教師だった。

毛沢東は自ら進んで勉学に励み、北京大学の図書館で司書補として働き、アダム・スミスの国富論を読み耽り、さらに思想を中心とした出版社すらも立ち上げている。

毛沢東はそれほどまで書物を愛する生粋のインテリだったのである。

しかし、やがて日中戦争や蒋介石との戦争を経て、中華人民共和国建国の指導者となった毛沢東は自分の政策に批判的なインテリたちを疎ましく思うようになり、やがては資本主義者やインテリを迫害し、弾圧し、粛清していくような独裁化への道を歩むようになっていった。

ポル・ポトはこの毛沢東を手本にしていたので、政権を樹立してから一気呵成に過激な粛清に入って超独裁政権に入った。

独裁というのは、自分の政策を批判する人間を排除する政治システムである。

自分の政策を批判する人間というのは、その政策を多角的に見ることができて、分析ができて、欠点を見つけて、それを言葉にすることができる人間だ。

それこそがインテリである。

だから、独裁者がインテリを嫌って排除するようになるのは、独裁主義を取る以上は必然的な流れとなる。

インテリは自分の政策や思想に反対してくる強敵であり邪魔者だ。だから、物理的に彼らを抹消するのが良いと独裁者は考える。それを共産主義の世界では粛清と呼んでいる。

逆に、独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた

独裁を志向する政治家は、教育をないがしろにする。なぜなら、無駄に教育を与えて人民に知識が付いたら、自分を崇拝させることができなくなってしまうからである。

教育を与えたら、自分の政策の矛盾や思想の欠陥を指摘して独裁の世界を破壊する可能性が高い。

だから、共産主義系の指導者は絶対に人民に教育を与えず、単なる労働だけをする人間を賛美し、インテリや資本主義者に対して敵意を植え付ける。

人民が無知であればあるほど指導者は安泰でいられる。だから、独裁者は異様なまでに無学の労働者、農民、学生、子供が好きなのである。

共産主義の指導者は毛沢東のやり方を研究しているので、今でも「無学な人間、無学な子供たち」が好きだ。

たとえば、偏差値28くらいの頭の悪い子供たちなんかは、共産主義の指導者が最も好む子供だ。よく言うことを聞くし、簡単に洗脳できるし、操りやすい。

子供たちに何らかの思想を植え付け、自分たちの望む方に運動させ、活動させる。そして、それを賛美する。今どき共産主義の活動をする時点で頭がおかしいのだが、洗脳された子供たちはそれに気付かない。

子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。

かくして、指導者に洗脳された子供たちは、指導者の手先となって共産主義を支えていくようになっていく。

共産主義者が無学な若者たちを使って、勉強させずに活動をさせるようになったら注意した方がいい。それは、結果的に極端な暴力活動に結びついていくからである。

そしてどうなるのかは、毛沢東の文化大革命が何を生み出したのか、そしてポル・ポト政権の原始共産主義が何を生み出したのかを見れば分かる。

そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた。

誰がキリング(殺戮)を行っていたのか。それは、無学な子供たちである。共産主義者の指導者が子供を使って何をしていたのか、私たちは改めて知っておかなければならない。


ポル・ポト派兵士。子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160914T0616450900.html
5:777 :

2022/08/25 (Thu) 07:50:08

若い人は何故そんなに簡単にアホ理論に洗脳されるのか? _ 精神病の感染 フォリ・ア・ドゥ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/810.html

共産主義者とはどういう人間なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037916

マルクス経済学・共産主義関係投稿集
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037616
6:777 :

2022/08/27 (Sat) 02:51:32

独裁者列伝 _ ポル・ポト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/803.html
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/04 (Wed) 19:40:56

【ゆっくり解説】ヒトラーよりヤバい! 独裁者「ポル・ポト」 悪夢伝える博物館 カンボジア
2022/09/29
https://www.youtube.com/watch?v=BCD_JcEBtRc

★ハード版(黒塗りなど無し)は裏オカケン(サブスク)で→ https://mediable.jp/videos/watch/b081...
★関連動画はこちらから! https://youtube.com/@yukkuriokaken
★全動画一覧→ https://monsterguide.net/
規制対応修正で再アップ 【ざっくり解説】当時のカンボジア総人口の25%を消し去った独裁者「ポル・ポト」。 狂気の現場となった強制収容所が、今は「虐殺博物館」として残っています。いったいどんな所業が行われていたのでしょうか。

00:33 虐殺博物館 とは
00:58 ポル・ポト とは
02:15 愚民政策 と 大弾圧
03:14 拷問で無理矢理、架空の罪を自白させる収容所
04:49 生還率0.04%
05:26 文明を徹底排除
08:06 国民が飢えているのに食料を輸出 「飢餓輸出」
09:38 崩壊
8:777 :

2023/08/22 (Tue) 12:28:24

中国マンション危機と50年ぶり不況の到来で苦しむ人々
2023.08.22
https://www.thutmosev.com/archives/292726gye.html

毛沢東が家を奪ったので人民はマンションしか住む場所が無い


http://m.cnwest.com/sxxw/a/2021/11/11/20088674.html 【视觉陕西】商洛市商南县_自然山水中的秦岭小城这么美 – 西部网(陕西新闻网)

関連動画が記事下にあります

中国の田舎に高層マンションがある理由

中国はなぜか山奥とか地方都市にも高層マンションが林立しているがそれには理由があり毛沢東という人が「家族」を禁止したからでした

この男は家族制度を廃止すると言って家族単位の家を禁止し、集団生活で集団労働をさせて家に帰って家族で食事を食べる事すら禁止した

これが大躍進政策で1958年5月から1961年1月まで続けられ毛沢東は当時100倍以上差があったアメリカを「15年以内に経済で追い越す」と宣言した

家族、家庭、家を廃止し集団生活と集団労働に転換することで、彼は本当に15年で国力を100倍にできると考えたようですが当然失敗した

大躍進で3000万人以上がなくなるというナチス以上の被害を出したが、なぜか毛沢東は逮捕されず、額縁に飾られていぬくぬくと生きている

それはともかくばかげた政策によって中国の家族制度は大打撃を受け、多くの家族が家をなくし長屋のような居住区で集団生活をするようになった

その発展形があの高層マンションで彼らにも家族単位の敷地や家があったらそこに住むが、それを毛沢東に奪われてマンションという長屋で集団生活をしています

中国のマンションは内側からも外側からも封鎖して鍵をかける不思議な構造になっていて。ゼロコロナでは外側から封鎖して住民を出れなくしていた

共産主義なので土地は国家から借りるもので一般的には70年賃貸で、更新には購入するのとほぼ同じ金額を地方政府に支払う必要がある

最近大都市のマンション価格は数千万円もするが、もし70年を過ぎても住みたいなら数千万円の更新料を要求されるでしょう

アメリカや欧州では築100年のマンションはザラにあり高値で売買されているが、中国のマンションは70年後は廃屋になる可能性が高い

年収数十倍の借金で買ったマンションが放置
中国はニクソン大統領の経済支援によって1970年代後半から経済成長し、1989年の天安門事件以降は爆発的な成長を遂げ2008年に日本を超えてGDP世界2位になった

その最大の原動力が輸出でも外国からの投資でもなく不動産バブルだったのは、今では熱心な礼賛者でも否定できなくなっています

辺鄙な山奥にマンションを100棟も建て高速道路と高速鉄道を引けば立派な大都市になり、GDPが10兆円は増えるのでこれを全土で毎年繰り返してGDPを増やした

この方法は開発を続ける限りGDPが増えるが何かを生み出している訳では無いので、開発にかけた費用が負債になって蓄積される

それが最近経営破綻している恒大や碧桂園のような大手開発業者で、このような開発企業は地方政府に替わって社債や理財商品を発売し国債のように資金集めをしていました

田舎を開発するとGDPは10兆100兆と増えていくが開発費は負債として残り、それが返済不能になっているのが最近の状況です

中国中央政府は表向き健全財政だが地方政府はGDP100%近い債務があり、債務を押し付けられた大手開発業者は倒産危機に瀕している

恒大や碧桂園を日本で言えば「道路公団」「住宅供給公社」のようなものなので、事実上は国の借金だが中国は民間債務に偽装しています

中国では45年間不動産やマンション価格が上昇しつづけたので不動産は値下がりしないという土地神話があり、多くの庶民は年収の数十倍の借金でマンション投資をしていました

購入したマンションが値下がりして損失を抱えるのはまだマシな人で、 経営困難になった開発業者が建設を放棄したり中断するマンションが増えている

中国の法律では建物が完成して引き渡して初めて購入者に権利が発生し、住宅ローンは完成しなくても払い続けなくてはならない

引き渡されない放置マンションに毎月月収以上を払い続ける人が続出しているが、中国には自己破産制度がなく犯罪者として逮捕され親族の連帯責任で一生かけて払わされる

これに追い打ちをかけているのが不況で25歳以下の失業率は20%でフードデリバリーなど非正規労働を失業に含めると50%近くに達している

中国で最後に本格的な不況があったのは1970年代の文化大革命で、老人の子供時代の出来事なので誰も不況というものを知りませんでした

動画:中国山間部の貧しい農村
https://www.youtube.com/watch?v=ZHriJQg8Mlo

https://www.thutmosev.com/archives/292726gye.html
9:777 :

2023/10/16 (Mon) 16:19:40

【ポル・ポト】最悪の独裁者はなぜ誕生した?残虐すぎる大粛清の実態とは?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037915


【ポル・ポト】最悪の独裁者はなぜ誕生した?残虐すぎる大粛清の実態とは?カンボジアの歴史からわかりやすく解説!
大人の教養TV
2021/02/20
https://www.youtube.com/watch?v=NqF3FwcfPw0&t=51s

史上最悪の独裁者はどのように生まれた?
工業学校でのマル秘エピソード?
原始時代に逆戻り?恐怖の「原始共産主義」とは?
独裁の恐ろしさ、共産主義の暴走がよくわかる!



【閲覧注意】世界最悪の拷問が行われたトゥールスレン虐殺博物館に潜入!恐怖の歴史を現地からわかりやすく解説
大人の教養TV
2022/12/24
https://www.youtube.com/watch?v=SAdvwNp4Ui8&t=87s

0:00 オープニング
0:50 カンボジア大虐殺
1:23 人口ピラミッド
1:58 原始共産主義
3:14 知識人の拷問・虐殺
5:55 有刺鉄線
6:19 旧校舎
6:54 鉄棒と鉄枠
8:07 糞尿の釜
8:48 脱臼した人形
9:30 A棟
10:05 拷問部屋
12:55 刑務所の規則
15:34 B棟
15:51 囚人番号
16:44 囚人の紹介
18:04 トゥールスレン刑務所の犠牲者数
18:47 C棟
20:10 監獄部屋
22:19 壁に書かれた記号
23:44 D棟
24:15 生還者の絵画
27:59 拷問が激化した理由
29:33 水責め部屋
30:15 拷問執行人は何者か?
32:25 遺骨
32:57 慰霊塔
34:50 エンディング




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