777投稿集 3953247


天皇一族の正体

1:777 :

2022/08/24 (Wed) 16:33:56

天皇家の出自

西暦 2世紀から奈良時代までの皇室の歴史

日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324

朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681

被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

朝鮮人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14036232

天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686

天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799

天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html

天皇はソウル出身の漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html

天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/234.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html

神武って何した人?
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/238.html

天皇家は本当に万世一系なのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/415.html

「万世一系」の虚妄
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/237.html

皇位継承は兄弟相続するのが古くからの伝統
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/236.html

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html

皇族初夜の儀式
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html

皇室に伝わる秘儀
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html

天皇のY染色体ハプログループ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/584.html

皇室がDNA公開を厳禁している理由
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/242.html

東山天皇の Y染色体が縄文系 D1 だというデマが広まった背景
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/241.html

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

古代日本の主流氏族の26%が韓国系、天皇制国家支配体制の一軸を成す
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/534.html

古代の帰化人
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/378.html

西暦400年前後に、秦氏(弓月氏)が、百済の民、数十万人を引き連れて日本に移住してきた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/550.html

大阪住民の半数は渡来人の子孫
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/780.html

飛鳥地方に見られる日本の原風景
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/782.html

平城京から長岡京へ遷都する原因となった「祟り」の正体とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/123.html

桓武天皇の失敗と成功―日本列島のアイデンティティー―
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1052.html

天下制覇の上町台地の物語―信長が戦い、秀吉が利用した地形―
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1045.html


▲△▽▼


天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


▲△▽▼


漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198

・朝鮮で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・朝鮮の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた縄文系先住民をジェノサイド

・豊臣秀吉の 朝鮮 出兵 → 朝鮮 で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の 朝鮮 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・朝鮮 の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、朝鮮 の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した
2:777 :

2022/08/24 (Wed) 16:42:04

平安時代から明治維新までの皇室の歴史


天皇は日本人ではない
天皇一族や畿内の渡来人は奈良時代まで百済語で会話していた

百済が日本にもたらしたもの~文化でなく言語にその本質があるのではないか
 

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥~平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80~90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


▲△▽▼


7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。
 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生~千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


▲△▽▼


日本に渡来してから一貫して日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとした天皇一族
日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


▲△▽▼


収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち~平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 


前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。


 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


①収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。


②地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html


暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。

■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。

■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html


暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ~清少納言危機一髪~」からです。


●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。


●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。


●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。


   任地に赴く受領


●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 


以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。


●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。


●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち


前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

---------------------------------------------

 
朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。


 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/2575.html
3:777 :

2022/08/24 (Wed) 16:42:41

明治維新から第二次世界大戦までの皇室の歴史


明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007225

明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007793

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198

大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009934

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

天皇一族はバイシュン業者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023528

人間の屑 福沢諭吉のした事
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023531

日本の国体と日本人の信仰を完全に破壊した明治維新
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006730

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/795.html

現在の天皇一族は全員クリスチャン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/783.html


▲△▽▼


明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1


【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html


▲△▽▼
▲△▽▼


日本の近代史

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年 1月7日)まで

江戸幕府を英米の支援で倒した田布施の朝鮮人による日本乗っ取りとアジア侵略

1868年1月3日(慶応 3年12月9日) 王政復古の大号令 ・戊辰戦争 → 明治維新

・山口県田布施部落の朝鮮人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。

 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。

 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。

 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけた。


ジェームズ斉藤 : 田布施システム
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014958

天皇一族はバイシュン業者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023528

人間の屑 福沢諭吉のした事
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023531

△▽

1868年(明治1年)3月 神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令

・神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

1868年(明治1年)10月23日 慶応から明治に改元

・北海道への和人大量入植 → アイヌ人をジェノサイド
・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

1894年(明治27年)7月25日 日清戦争
1895年(明治28年)4月17日 台湾が清朝から日本に割譲された。
1897年(明治30年)1月21日 台湾阿片令公布

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした
1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われた。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性をバイシュン婦」として「売却」する事で、欧米のバイシュン業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。

1902年(明治35年)1月30日 日英同盟
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争
1910年(明治43年)8月29日 朝鮮併合

・朝鮮の農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮女性を性奴隷 にする。

・19世紀以来、日本はアメリカやイギリスの手先となってきた。日本列島は大陸を侵略するための拠点であり、日本人は事実上の傭兵だ。

 イギリスは1840年から42年にかけて中国(清)に戦争を仕掛けた。アヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が行われている。イ

 アヘン戦争で勝ったイギリスだが、内陸部を占領するだけの戦力がない。そこで彼らは日本に目をつけた。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。
 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本は1902年にイギリスと同盟協約を締結、04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。
 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、戦争が長引くと日本は持たない。そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。
 日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。

アメリカやイギリスの手先として日本は琉球と台湾を含む封鎖線を作り上げた。その南にあるフィリピンをアメリカは1898年に植民地化、その際に住民を虐殺している。アメリカにとって、このフィリピンも大陸を侵略する拠点であり、独立を容認しない。

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

△▽

1914年 (大正 3年) 7月28日 第一次世界大戦
1917年 (大正 6年) 3月 8日 ロシア二月革命
1917年 (大正 6年)10月25日 ロシア十月革命
1918年 (大正 7年) 3月 4日 スペインかぜ


・大正デモクラシー
日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮。

・大正ロマン(大正浪漫)
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ。
大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化に対し、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を拡大してかぶせて、また甘美で抒情的でロマンチックであるという憧れをもって、後世このように呼ばれるようになった。

△▽

1923年(大正12年)9月1日 関東大震災
・関東大震災で死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

・JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

 多くの企業が苦境に陥り、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。
 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。
 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。


▲△▽▼


世界大恐慌と第二次世界大戦の時代

1927年(昭和2年)3月 昭和金融恐慌

1929年10月24日 Black Thursday → 世界大恐慌

1929年(昭和4年) 昭和恐慌
1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

1931年(昭和 6年)9月18日 柳条湖事件 → 満州事変
1932年(昭和 7年)3月1日 満洲国建国
満州の農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

1932年(昭和 7年)1月28日 第一次上海事変

1932年(昭和 7年)5月15日 五・一五事件
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件
政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件 → 支那事変
1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
1937年(昭和12年)12月 南京大虐殺
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃 → 太平洋戦争

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った
・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた


故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

△▽

戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。
人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。
大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

△▽

1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。
4:777 :

2022/08/24 (Wed) 16:45:28

終戦から平成バブルまでの皇室の歴史


独裁者列伝 _ 昭和天皇
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html

東條英機が語る天皇陛下
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/778.html

米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html

革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

アホが書いた日本国憲法
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/613.html

昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html


▲△▽▼


美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html

天皇一族は全員クリスチャン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/783.html

美智子さまの正体
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/586.html

美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html

知恵遅れの皇太子の嫁にされた上に、皇族全員から陰湿な苛めに遭った美智子妃殿下は復讐の鬼と化した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/118.html

宮中『魔女追放事件』 _ 入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/618.html

今上天皇の父親が朝日新聞記者だった佐伯晋だというのは本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/643.html

秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007930
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html

天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html

△▽

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁し、死後は火葬にする事にした理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。

表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。

ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。

真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。

______

美智子様の実子は1人だけ??? 2013年3月4日月曜日

ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。


ふうーん、そういえば美智子様に似ているのは確かに秋篠宮の1人だけ。

なんたって、世界の秘密を握るモサドのエージェントだから、情報は本物の確立は高い。

ちょっと「美智子様の子供は一人だけ」とネットをサーフィンしてみたが、逆に出てきたのは、

「秋篠宮の父親が違う」

という驚きの情報だった。と言う事は、秋篠宮だけが美智子様の子供で、しかも、父親は天皇陛下ではないと言う話になる。


▲△▽▼
▲△▽▼


戦後史

1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。


連合国軍最高司令官総司令部による終戦後の日本の統治
日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。

司令部は最初に大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放と、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。

1945年(昭和20年) 10月4日 日本共産党合法化
第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と政治犯釈放を要求するGHQ指令により約220名の共産党員が出獄し、徳田球一、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳、志賀義雄らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、党本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。

1945年(昭和20年)12月19日 労働組合法公布
資本家に対抗するために労働力の集団的取引を確保するため、労働組合の結成を妨害することは不当労働行為等の条文によって保護され、合法的に労働組合の結成を妨害することは不可能な構造となっている。

1945年(昭和20年) 財閥解体
1945年より1952年にかけて行われた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つ。骨子は以下の四項目
・持株会社所有の有価証券、及びあらゆる企業に対する所有権・管理・利権を示す商標を、日本政府が設ける機関に移管する
・上記移管財産に対する弁済は、10年間の譲渡・換価を禁じた登録国債で支払う
・三井、岩崎(三菱)、住友、安田4家構成員、持株会社取締役・監査役の産業界からの追放
・持株会社による傘下企業に対する指令権・管理権の行使を禁止する

1946年(昭和21年)2月17日 預金封鎖
金融機関の預貯金を封鎖し、流通中の日銀券を強制的に金融機関に預金させて、旧日銀券の流通を禁止し、新円を発行。さらに、新円の引き出しも制限し、インフレの抑制を図りました。

1946年(昭和21年)5月3日 極東国際軍事裁判
・昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法公布
・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した


労働組合合法化
日本国憲法第28条で「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」として定められた。

1947年(昭和22年)農地改革
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。
しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。
この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった


▲△▽▼


朝鮮戦争・ベトナム戦争の特需による高度成長の時代

1950年(昭和25年)6月25日 朝鮮戦争
1953年(昭和28年)7月27日まで朝鮮半島のほとんど全域を戦場化して戦われた大規模な国際紛争。

1959年(昭和34年)60年安保闘争
日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決された。

1964年(昭和39年) 8月2日 トンキン湾事件 → ベトナム戦争

・高度経済成長期
1955年頃から1973年のオイルショックまで続いた日本が急速な経済成長を遂げた時期です。

このころの日本の GNP (国内総生産)はアメリカに次ぐ2位 となり、日本の生活水準は大幅に上がっていきました。 また、大阪万博や東京オリンピックが開催されたのはこの時期です。

1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年の朝鮮戦争特需により、占領下を脱して2年の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年には経済白書が もはや戦後ではないと宣言、1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。

この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。

・朝鮮戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償金請求を放棄させた。


▲△▽▼
▲△▽▼


共産主義国崩壊・左翼学生運動の終焉

1966年5月 - 1976年10月 中華人民共和国 文化大革命

・大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇に譲った毛沢東が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込んだ。
文化大革命での推定死者数は数十万人から2,000万人に及ぶ。

毛沢東は文化大革命をスチューデント・パワーやベトナム戦争への反戦運動と巧みに結びつけ、「毛主席語録」は三十カ国以上に翻訳される大ベストセラーとなった。

当時の日本において毛沢東思想が新左翼の一部で流行していた。山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした連合赤軍も武装蜂起、軍による遊撃戦争、農村による都市の包囲を謳い、「軍」による武装闘争を掲げた京浜安保共闘(日本共産党革命左派)の革命軍と世界革命を主張する共産同赤軍派の中央軍が合体した集団であり、指導部の一人(序列2位)であった永田洋子は遊撃戦の革命根拠地を求めて妙義山にアジトをつくり、委員長の森恒夫は「銃口から政権が生まれる」さながらに「銃による殲滅戦」を掲げ、拠点になる秘密基地を作るための関東の山岳地帯への移動を、毛沢東にならって「長征」と称すほどであった。

1968年(昭和43年)7月2日 東大安田講堂事件

・7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。


1970年(昭和45年)安保闘争

・日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。

60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたものの、岸内閣は混乱の責任をとって、内閣総辞職を余儀なくされた。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失う事となる。

・左翼運動・マルクス主義運動には国際金融資本が資金提供していた
ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


・あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


1972年(昭和47年)2月19日 連合赤軍「浅間山荘事件」
1972年(昭和47年)5月30日 日本赤軍「テルアビブ空港乱射事件」
1974年(昭和49年)9月13日 日本赤軍「ハーグ事件」

・山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

・日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。
 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。
従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。
何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 
そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。

ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。
要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。

・重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。
連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

・ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。
ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。

・重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。
 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

・安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html

左翼の本質は思想ではなく「タカリ」という生き方
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/671.html

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

△▽

1972年2月21日 ニクソン大統領の中国訪問
・ニクソン大統領が中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東や周恩来と会談、冷戦の転機となった。

1975年4月17日 – 1979年1月7日 カンボジア大虐殺
・カンボジアで急進的に共産主義を推し進めたポル・ポト率いるクメール・ルージュが引き起こした組織的迫害かつ虐殺。
1975年から1979年の間に150万から200万人が犠牲となり、これはカンボジアの1975年当時の人口(約780万人)の約4分の1に相当する。

1976年9月9日 毛沢東 82歳で死去
・毛沢東の死の直後に腹心の江青・張春橋・姚文元・王洪文の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結。

1976年11月10日 鄧小平が最高指導者となった。
党中央工作会議において文化大革命が否定されると共に改革開放路線の決定と歴史的な政策転換が図られた。

1981年1月23日 林彪・四人組裁判
・四人組と林彪グループに対し、執行猶予付きの死刑から懲役刑の判決が下された。

△▽

1985年 ソビエト連邦のペレストロイカ(再構築)・グラスノスチ(情報公開)
・ミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践し、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。
ゴルバチョフは、社会主義体制の枠内での改革を志向したが、物資の不足により高まる国民の不満を背景に、社会主義体制そのものの放棄と、連邦制の崩壊につながった。


1989年6月4日 六四天安門事件
・民主化を推し進めたゴルバチョフと対照的に鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

・毛沢東の死後の中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。
5:777 :

2022/08/24 (Wed) 16:52:34

平成の皇室の歴史

日本の現代史

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年) 7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年) 1月 7日まで
平成:1989年(平成元年) 1月 8日 から 2019年(平成31年) 4月30日まで
令和:2019年(令和元年) 5月 1日 から


平成天皇の反省は日本人への侮辱 _ 平成の悪夢はなぜ起きたか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14036800 

天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html

天皇一族は反日売国奴
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/782.html

日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/580.html

平成とは何だったのか _ アメリカの属州化の完遂
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/601.html

天皇・外務省と日本の官僚・政治家・マスコミは中国のエージェント
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/702.html

今上天皇の父親が朝日新聞記者だった佐伯晋だというのは本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/643.html

今上天皇が同性愛だというのは本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/642.html

高円宮が 47歳の若さで腹上死(?)しなければならなかった理由とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/370.html

高円宮承子様のタトゥーや茶髪画像とタバコがやばい!性病との噂だが現在結婚はしてる?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/366.html

日本の皇族・政治家を中国のハニートラップにかけたプチエンジェル事件
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/761.htm

プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html

中国のハニートラップにかかったロリコンの令和天皇
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/199.html

プチエンジェル事件で皇太子の相手をしてグラビアアイドルにしてもらった小向美奈子
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007901

片山徹 皇族の児童バイシュン関係 Twitter
https://twitter.com/_9105294027642

美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html

皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html

雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html

柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007903


▲△▽▼


ジェームズ斉藤 : 菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり


【重要】菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり…ジェームズ斉藤が暴露
2020.09.27
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html


 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 


ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 下馬評通り、菅さんが総理になりましたね。早速日経の世論調査が出てましたが、支持率74%はさすがに異常です。発足したばかりで何日も経っていない政権を10人中7人以上が支持するのはありえないです。さすがは取材権を餌にアメとムチを駆使して、マスコミに菅グループと呼ばれる御用ジャーナリストを養成している菅さんらしい老獪さです。今後日本の主要メディアは壊死するでしょう。

──いきなり辛口ですね。菅さんって一見地味な方ですが、実際どういう人なんですか?

ジェームズ はっきり言えば怖いですよ。まず、彼のお父さんの菅和三郎さんですけど、謎多き人物で、公開情報のほとんどがフェイクです。私の情報源である永田町のドンの方々の話によると、和三郎氏は●●●●の調査部出身です。これはググっても出てきません。

──えっ! ●●●●の調査部って!

ジェームズ そうです。バリバリの諜報機関です。特に、菅総理のお父さんが所属した時期は第二次世界大戦の真っ最中で、関東軍肝入りの特務機関の頃でしたから、世界最高レベルのエージェントばかり揃っていました。ゾルゲ事件の尾崎秀実や大川周明なんかもいましたので。ただ、日本が戦争で負けたあとは、秋田で暮らし始めたんです。

──秋田で!?

ジェームズ そうです。日本の政治家の中枢がそうであるように(詳しくはこちらの記事を参照)、菅さんのお父さんも朝鮮半島の人ですから。正確に言うと日本統治下の朝鮮で生まれているので日本の臣民とも言えますが。菅総理の名前菅義偉が朝鮮名みたいなのもそういう理由です。これで「すが・よしひで」と読むのは珍しいですからね。また、菅和三郎氏も「和」という、「清和会」の由来にも通じる朝鮮系が好む漢字を使っています。しかもあえて音読みとなっているので、朝鮮系であることはほぼ間違いないところです。

──ということは今回の総理も、例の永田町独特の朝鮮系の人ということなんですね。

ジェームズ いえ、朝鮮系は朝鮮系なんですけど、安倍(晋三)さん、今井(尚弥)さん、二階(俊博)さんみたいな人たちとは違います。彼らは李氏朝鮮の両班出身で、要は貴族です。彼らの祖先が渡日した時期も古く、ほとんどが豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連れられてきた人たちです。一方、菅総理は戦後日本に来た家系なのでかなり新参者です。

 だからこそ、お父さんは切った張ったの世界でのし上がれる特務機関に入っていったんだと思います。そこで人脈を作った。そして諜報活動の経験が功を奏してか、新天地秋田ですぐにイチゴ栽培の事業に成功し、後に地方議員にもなり、地元の「ドン」になっていきます。

 ですから、菅総理はそこそこの名望家の出ということになるのですが、永田町でいう「両班朝鮮系」ではありませんので、そっちのグループには入れません。じゃあ、何系かという最初の派閥が宏池会の小渕派なんです。この小渕(恵三)さんと最初につながったというのが菅総理らしいんです。実は、小渕さんは菅総理と一緒の諜報系の人なんですよ。


──諜報系? あのブッチホンの小渕さんがですか? 

ジェームズ まあ、小渕さん自身が諜報機関の人というわけではないですけど、小渕さんの叔父さんが陸軍中野学校出身で台湾どで活動していた人だったんです。なので、小渕さんは叔父さんの薫陶を受け、その知識と人脈を外交に活かしていました。例えば、エリツィン大統領が病気になった時には病状を確かめるために官房機密費を使って、あの大物三重スパイの佐藤優さんをモスクワに送ったりもしています。ですから、小渕さんと菅総理というのはインテリジェンスの世界でつながっていたんですよ。この二人は、親しい身内に諜報組織の人間がいたという点で、戦後の総理の中でも際立った存在です。


──なんか、インテリジェンスな首相って聞くとカッコいい感じもしますが。

ジェームズ いや、それは映画や小説の世界の話で、実際はかなりドロドロですよ。その辺のことはあとで話しますが、菅総理はそういう出身だということです。これが意味することは本来、永田町の中ではメインストリームには上がってこれない、ということです。なにしろ、日本の政治家としての出世には両班であることが第一条件ですから。しかも、両班であれば誰でもOKではないんです。両班の中にも序列があって、足の引っ張り合いやいがみ合いがしょっちゅうおきてますから。それで思い出しましたが、昔、宏池会の林芳正さんと清和会の安倍さんがケンカになったことがあって、「お前は同じ両班でも俺より下だろう」とか言ってたらしいですよ。ホント、どこの国の話なのかと思いますが(笑)。

──まったくです。ちなみに、そのケンカは安倍さんが勝ったんですよね、李氏朝鮮の王家ですから。

ジェームズ いえいえ、勝ったのは林さんです。李氏朝鮮の王家であっても直系と傍流ってあるじゃないですか? それで見ると林さんのほうが直系に近いらしいんですよ。だから、安倍さん対林さんのケンカは林さんが勝ったみたいですよ。しかし、日本の政治ではこれが重要なんです。なぜなら、普通に実力勝負だと上にいけば行くほど似たりよったりで優劣がつかないんです。例えば、組閣になったときにどっちを大臣にするんだって場面で実力は一緒となったら、バックグラウンドで決めるしかないんです。つまり、両班かどうか? 両班同士であれば、どの階級の両班なのか? なんです。これが日本の政治の実態です。


──永田町にはいまどのくらい両班階級がいるんですか? 

ジェームズ かなり多いですよ。この前話しました安倍さん、二階さんもそうですし、岸田(文雄)さんもそうです。小泉純一郎、進次郎親子も鹿児島の旧田布施出身(田布施システムについてはコチラを参照)ですからそうですし、清和会の創設者の福田赳夫、康夫親子も釜山系の両班です。一方、宏池会の岸田さんは北系の両班なので、釜山よりは上なんですよ、林さんもここですね。

──もともと李氏朝鮮って北にあったんで、北出身のほうがヒエラルキーは上だと。

ジェームズ 中華の世界観では、北が特別な意味を持ち、北を制するものが政治権力を支配します。したがって、北系のほうが格は断然上です。ただし、宏池会は清和会のような朝鮮系というわけではないです。宏池会を作ったのは池田勇人ですから、吉田茂の流れです。

──そうするとイギリス系ですか?

ジェームズ そうですね。どちらかというと。吉田茂の義理のお父さんは大英帝国のジャーディン・マセソンという横浜にあった商社の支店長で、イギリスのユダヤ利権を継承していましたから。11歳だった吉田茂に当時で60億円ぐらいの遺産を残しています。もともとこの家系は幕末に暗躍した武器商人グラバーの財務下請けをやっていて、坂本竜馬とかああいうのが営業ですね。伊藤博文は転売屋というイメージです。一言で言えば、せどりですね(笑)。吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。

──日本人の勢力はないんですか?

ジェームズ もちろんありますが…●●●系ですね。日本の政治の世界は朝鮮系が多く、次いで●●●系が多いです。普通の日本人の勢力でいうと、ごくたまに麻生太郎さんのような旧貴族系日本人がいる程度という構成です。

──日本の政治が日本のためにやっているように見えない理由がわかりますね。  


▲△▽▼


菅義偉首相の黒い正体(中編)― ユダヤに売った魂、五族協和…安倍政権の方が断然マシな理由をジェームズ斉藤が解説!
2020.09.28
https://tocana.jp/2020/09/post_172263_entry.html

 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 


──ところで、菅さんはがのしあがったということはバックなり、金なりが相当しっかりしていたんですよね? 

ジェームズ そうです。彼は、議員秘書時代は神奈川で活動してたんですけど、そこで横浜の港湾労働者を配下に収めて裏社会とも関係ができたんですよ。横浜のドンである藤木企業の藤木幸夫会長も、菅総理の政治キャリアを語る上で欠かせない人物です。

──横浜のドンに可愛がられていたとよく書かれていますね。

ジェームズ 可愛がられた理由は、お父さん譲りの情報収集能力に長けていたからだと思います。彼はいまでも毎朝5時に起きて腹筋100回と散歩の後、優秀な官僚を招いて情報交換しながら朝食を摂るんです。この官僚たちが菅グループと呼ばれる人たちで、すべての省庁にいます。菅さんはカリスマ性はないんですけど、情報収集能力、集金能力があるんですよ。

 そういう姿を見ていると、私はアメリカの政治家のディック・チェイニーに似てると思います。彼も菅総理と同じでカリスマ性はないんですが、ずっとバカなブッシュJrを好きなように操って、アメリカを動かしていましたから。

 菅総理も、岸家のボンボンの安倍さんのもとで、政治を牛耳っていました。その象徴的な話として永田町界隈に伝わっているのが、官房機密費5億円を政党「●●」の××さんに渡したという噂です。官房機密費は年間12億円ぐらいしかないのに、当時の菅官房長官は5億円も渡してしまったんです。なぜそんなことをしたのか、というと、●●を菅さんのバックにつけるためです。これは自民党のバックにつけるためではありません。あくまで菅さんの個人のためで、これで完全に●●は菅さん支持になったと言われています。


ジェームズ 菅政権は利権政治、金権政治で相当ヤバい政権です。最初に怖いと言ったのはここです。菅さんはお金のためなら義理人情も関係ありません。そのわかりやすい例が国内カジノのIR政策の件です。菅さんはトランプ大統領に儲け話を囁かれると、カジノ反対派だった恩人の藤木会長を切り捨て、「ユダヤのカジノ王」シェルドン・アデルソンが運営するラスベガス・サンズの横浜IR参入に同意してしまうのです。横浜IRの実現によって港湾労働者と裏社会ネットワークを完全制覇し、自身の不動の地を築く計算です。そのためには、同胞や恩人を裏切り、ユダヤにも魂を売ります。そんな冷酷無比な菅総理が目指しているのが「五族協和」です。

──つまり、韓国、中国、日本が手を組んでいこうということですか?


ジェームズ いえ、これは国内の話です。日本の中にあるマイノリティのバランスをうまく取るという国家ビジョンです。だから、政党「●●」とも組んでいるんです。●●●●●●●(※あまりに危険な情報なので削除しています)。

 これの恐ろしいところは、日本にはそれほどマイノリティがいないということです。いないのに五族協和を謳うわけですから、これはマイノリティをこれから作り出すつもりんです。これは在日の人たち、アイヌの人たちにとって迷惑と困惑と混乱を生み出します。なぜなら、いまほとんどの在日の人たちは日本に帰化しています。その子供たち、孫たちは自分たち在日だと知りもしません。実際、日本に生まれて日本に育っているのですから、間違いなく日本人ですよ。親たちだって教えるつもりなんかありません。

 ところが、「五族協和」はこれをわざわざ掘り起こし、「キミは朝鮮人なのだから朝鮮人としての誇りを持て」「アイヌの誇りを持て」というんです。これは本人も含めて誰も得しません。得するのは差別ビジネスをする人たちだけです。これはいまのアメリカ民主党がやっていることと同じです。みんながアメリカ人という、ひとつのアイデンティティを持とうとしている時に、「いや、お前は黒人だ、黒人の誇りを持て」「お前はスパニッシュだ。スパニッシュの誇りを持て」とやっているのです。これをしたら国がバラバラになります。暴動だらけの今のアメリカがその証拠です。だから、怖いのです。


──本当にこれからの日本が心配になってくる話です。

ジェームズ 極めて危険です。変な話ですが、安倍政権のほうがまだマシだったと思います。なぜなら、一応、安倍さんには夢があったからです。ビジョンとまでは言えないものの、「こんな国にしたい」という夢はあったんです。それに国民も乗った時期があったと思いますが、菅総理の場合、夢もビジョンもなにもないです。完全に「自分ファースト」の利権政治です。岸信介の悪いところ、田中角栄の悪いところ、竹下登の悪いところを全部合わせたような人物です。欧米メディアも菅総理が選ばれた背景をクレムリンの密室政治だと揶揄してましたが、本当にプーチン顔負けの密室政治がこれから展開されるでしょう。これについては、安倍政権で大臣も務めた超大物議員が私に言ってました。「菅さんが首相になる様子を見ていると、日本に民主主義がないことがよくわかる」と。つまり総裁選からして金権、利権争いだったんです。

──今はつなぎの総理という扱いですが、長期政権になるかもしれないですね。

ジェームズ すでに菅総理は安倍夫妻を逮捕しないよう、検察と警察も黙らせました。検察と警察の目付役として、それぞれ配下の上川陽子法務大臣と小此木八郎国家公安委員会委員長を任命していますので。これで安倍さんは菅総理にもう文句は言えないです。


▲△▽▼


菅義偉首相の黒い正体(後編)― 恐ろしい組閣人事「4人の裏事情」と裏の北方領土ビジネスをジェームズ斉藤が暴露
2020.09.29
https://tocana.jp/2020/09/post_172879_entry.html

 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 

──組閣人事で気になるところってありますか?

ジェームズ 組閣にこそ、菅総理の恐ろしさが出ています。菅内閣の人事に共通していえることなんですけど、自分の手を汚さないんです。自分の手を汚さずに汚い仕事を、将来性のある若手にやらせて、自分の権力が脅かされるのを防ぐというやり方です。


──つまり、将来有望な若手を潰すってことですか?

ジェームズ そういう配置ですね。日本のことをまったく考えてないです。

・岸信夫

 例えば、防衛大臣で初入閣した岸(信夫)さんはご存知のように安倍さんの実弟です。この人事は一応安倍さんのお母さんである安倍洋子さん肝入りの両班朝鮮系継続人事だそうですが、防衛はイージス・アショアの後始末とか面倒なことが山積しています。初入閣ではかなり荷が重いと思います。

・河野太郎

 そして、将来の総理候補と言われた河野(太郎)さんが行政改革大臣になりました。これは本当にえぐい人事です。行革大臣はみんなに恨まれる仕事をやらないといけないんです。いろんな反対を押し切って強引に解約、解体する役割を担うことになってしまうので、のちのちまで禍根を残す、どう考えても汚れ仕事なんです。議員たちの話を聞いていても河野さんはもう総理の道を断たれたんじゃないか、というぐらい悲観視されています。

・小此木八郎

 極め付けは前述の小此木さんです。何しろ、犯罪の温床だった安倍政権と、これからそうなるであろう菅政権を警察から死守するというのが今回の国家公安委員会委員長の役回りです。これは法の支配を完全に踏みにじる、ヘタすれば後ろに手が回りかねないものです。司法機関に人治主義を押しつける最凶ブラック人事と言っていいでしょう。

 しかも、そんな役回りを小此木さんに振ったというのが私には信じられません。小此木さんのお父さんの故・小此木彦三郎議員は、若き日の菅総理を同じ朝鮮系として私設秘書に雇い、政治人生をスタートさせてあげた大恩人です。その息子さんを自分が官房長官時代には冷や飯を食わせておいて、総理の座についた瞬間、恩返しのように大臣(内閣府特命担当大臣)の椅子を作ってあげたんですが、実際は国家公安委員会委員長という爆弾を押し付けているんです。これは小此木さんを政治的自殺行為に追い込むような、恩を仇で返すようなことになる可能性があります。


──河野さんは嫌われたなとは思いましたが、小此木さんは普通に恩返しをしたのかと思っていました。官房長官になった加藤勝信さんはどうですか?

・加藤勝信

ジェームズ これも表向きは、安倍洋子さんの肝入りの人事だそうですが、真実は菅総理からのメッセージです。加藤さんは釜山グループの両班です。福田康夫さんと一緒の系統で、自民党の両班序列の中では一番下です。それを党の要職につけたということは、「別階級が両班階級をコントロールする」というメッセージを岸田さん、林さんら北系両班に突きつけたってことです。

 これでわかるように、今回の組閣でいろんな流れが変わりました。菅総理の独裁体制ですね。自分の権力をほしいままにしたいというのがアリアリです。

・北方領土問題

 日本もこれから変わってくると思いますが、注目しておかなければいけないのは北海道です。去年の3月に菅さんがバッグについて鈴木直道という人が北海道知事に当選してるんですが、ここで菅さんとディールがあって、北海道の道庁予算の特別枠として5000億円をつけたんですよ、菅さんが。この5000億円は何に使うかというと北方領土事業です。しかし、北方領土にいま5000億円なんか必要ありません。これは完全に北海道の公共事業を地元の土建屋さんにバラ撒くためのものです。あとアイヌ問題です。これは鈴木宗男さんと結託してアイヌ新法みたいなものを作ったんです。ですから、最近、アイヌの博物展とかが多いんですよ。

──あれは『ゴールデンカムイ』が人気だからかと思ってました。

ジェームズ それもあるかもしれませんが、いまアイヌ関係の仕事は予算がつくんですよ。その流れを菅さんが作ったんです。つまり、これから彼がアイヌの利権を代弁するってことなんです。これがさきほど言いました「五族協和」の正体です。そもそもいまの日本にアイヌを制度的に差別するシステムなどありますか? ないですよ。なのに、アイヌの権利を守るアイヌ新法を作った真意は利権勢力図の塗り替えです。差別がないところに差別を作り出して金にする、いままでにないような利権政治が今後始まってくると思いますよ。


・日中、日米関係はどうなる?

──最後に対米関係、対中関係は変わりますか?

ジェームズ 外交は安倍政権の継続ですね。菅総理はビジョンをもっていないので変わらないと思います。ただし、対中に関しては二階さんが持ってる利権をうまく吸い取りたいというのがあると思うんです。二階さんはCSISのリポートもあって息子さんに権力基盤を継承するようですが、菅総理が黙っているとは思えません。

 対米関係も変わりません。これは安倍元総理にも共通しますが、日米同盟が大事だと言っている一方で、アメリカの目が届かないところでコソコソやりたいんです。彼らは単純でアメリカが見てなければ何をしてもいいという発想なんです。しかし、アメリカは全部見てます。電話も全部盗聴してます。

 ともかく、菅政権は五族協和を旗印に利権、金権政治に徹する「自分ファースト」の政治をすると思います。特に懸念されるのが日本のマイノリティ勢力の利権を吸収しようと画策しているところです。これは、以前、記事で紹介した現米国民主党副大統領候補のカマラ・ハリスのやり方と酷似しています。つまり、菅総理の正体は極左です。極左は実質、全体主義ですから、ポスト安倍の日本は、ビジョンなき政治と極左の国、全体主義の国になり、亡国の道まっしぐらです。新総理自身の陰湿なイメージのように、菅時代の日本は全体主義の特徴である暗く、息苦しい雰囲気が漂うでしょう。


▲△▽▼


菅政権が「歴代最低」な理由 ― 中国版TPP「RCEP」に即署名、尖閣だけでなく全土を奪われる…グローバリストに魂を売った男(ジェームズ斉藤)
2020.11.30
https://tocana.jp/2020/11/post_186999_entry.html


──アメリカが大統領選でガタガタになっている間に菅政権が急速に中国に接近してますけど、ヤバくないですか? 

ジェームズ かなりヤバいと思います。先日も中国版TPPであるRCEPにアッサリと署名していますが、これには裏があって二階俊博自民党幹事長が動いています。

──二階さんは7月のCSISリポートで媚中派と名指しされて失脚するかと思ったんですが、しなかったんですね。

ジェームズ 本来は失脚しているはずですが、菅政権誕生の裏で二階幹事長が暗躍しました。RCEP署名はその見返りです。二階氏は中国の商務部とズブズブで、地元の和歌山の白浜動物園にパンダを7頭レンタルしてもらうほどの媚中ですので、RCEP署名はなによりの御礼になるでしょう。また、RCEP署名の御礼に今度は二階氏が中国外相王毅の来日をセッティングしました。

──私物化もはなはだしいですね。日本の国益を完全に無視して、二人で“行って来い”をやってます。

ジェームズ 当然です。菅政権誕の時にも言いましたが、そもそも菅さんは陰湿な謀略でのし上がってきた人なので、敵が多く、お抱えの官僚すら完全に信頼していないです。彼が信用できるのは利害のある関係だけですから、そうなるんです。いま菅首相と直接の対話が可能なのは二階さんとカジノ推進派のドンの方くらいです。

──カジノのドンですか?

ジェームズ 数名おられます。名前は出せないですが。いずれにせよ、菅政権はカジノ政権です。カジノをやるために総理になった人ですから、裏を返すと、カジノ利権を押さえた瞬間に「内閣ポイ捨て」の可能性すらあります。おそらく村山、鳩山、菅(直人)等の歴代最低レベルと同格でしょう。まさか自民党から最低な売国総理が出るとは思いませんでした。これまでも小泉、安倍といった売国総理がでましたが、まだ徹底して対米従属を維持することにより、最低限の対中牽制のバランス感覚があったと思います。菅首相はそのような感覚すらありません。

──ということはRCEPの中身なんてこれっぽっちも気にしていませんね、菅さんは。

ジェームズ してもいません。菅政権が気にしているのは金の流れです。現在の流れは完全にグローバリストが推す中国中心のGreat ResetですからRCEPは中身なんか見てもいないで大賛成でしょう。


──このままでは尖閣も取られてしまいますね。

ジェームズ 尖閣どころでは済まないでしょう。中国外相の王毅が11月24〜25日に来日し、日本側と尖閣諸島関連のホットライン機能設立の合意を取り付けています。なんとこれは、尖閣諸島で起きた危機を日中二国間で話し合うということです。まともな軍を持たない日本など簡単に中国の超限戦の罠にハマり、気づいたら漁民になりすました人民解放軍特殊部隊要員が尖閣に旗を立て、中共の傀儡である国連等の国際機関を動員し「釣魚台における中国の主権承認」が実現されているでしょう。実は尖閣に関しては10月には在日米軍司令官のKevin Schneider米空軍中将が尖閣危機における日本防衛を確認したところでした。ところが、菅政権は完全に米国をスルーするという暴挙に出ました。米軍なしの自衛隊などオモチャの軍隊です。

 さらに日中の急接近によって日本の五族協和化が進みます。つまり、中国人が大量に日本に移住、定住、永住権取得、帰化の順に「日本人」になっていき、「共生」を盾に政治を乗っ取る方式です。彼の歴史をたどればわかることですが、菅本人には何の違和感もないはずです。また、RCEPはこの動きに拍車をかけます。貿易自由化のRCEPには、将来的にはアジア圏の人の移動の自由が保証されるでしょう。するといま以上に簡単に大量の中国人が入ってきます。日本人は次第に住んでいた土地を奪われて「中華人民共和国日本少数民族自治区」ができるでしょう。


──日本の中に、日本人が住む自治区が作られるってことですか!?

ジェームズ 十分に考えられます。これは『日本解放綱領』にも記載されていることです。『日本解放綱領』とは中共が1970年代に作成した対日共産化計画書で、日本では怪文書ということになっていますが、世界の諜報機関関係者の間では本物と見なされています。実際、某諜報機関OBの親戚兼元秘書を持つ小池百合子東京都知事も以前、この文書を堂々と本物と断定していました。

 この文書には国会議員の弱みを握って掌握することや、マスコミ工作について書いてあり、その目的も日本人民共和国の樹立となっています。「人権、民主、平和」の3つのキーワードを使って中共化したマスコミと日教組が日本を改造していくことが決まっています。

──実際そうなっていますね。すべて『日本解放綱領』通りの展開になっています。

ジェームズ 世界全体がそういう流れになっています。これは中国版Great Resetで、グローバリストが進めるGreat Resetともリンクしています。ですから、RCEPは相当危険な条約であり、菅首相は、中身は読んでなくてもそこはわかっていて署名しています。なぜなら、菅さんもまた五族協和が旗印であり、日本のチベット・ウイグル・内蒙古化を進めています。これらの地域と違うのは、日本の場合わざわざ侵略せずとも現在既に総理官邸に傀儡政権が存在していることです。これは以前、記事で書いたとおりです。(記事→菅義偉の黒い正体 (前・中・後編))

──実際、菅さんになった途端露骨な中国急接近には驚きです。貿易自由化のRCEPが発動すれば、当然、中国の安い商品がガンガン入ってきますね。

ジェームズ 中国の安い電化製品の爆輸入で、日本の家庭が中国製で溢れ、IoT(Internet of Things)で個人のデータが抜かれ、軍事作戦に使われます。中国の衛星「北斗」は日本の上空を飛んでいますから、データはそこに送られ、衛星写真と個人のデータの結合がされ、誤差1-3cmレベルのピンポイントのドローン攻撃で暗殺等も可能になります。今のナノドローンは蚊の大きさなので、自衛隊の防空体制が効きません。すでに日本に定住している人民解放軍のスパイがナノドローンを放ち、衛星からのシグナルを受けながら、暗殺ミッションを果たします。

──蚊レベルですか!?

ジェームズ 軍事レベルでは蚊のサイズのドローンはすでにあるそうです。共産主義の本質は「人民の家畜化」です。ロシア革命では皇帝の処刑やスラブ系ロシア人の虐殺等がありましたが、全ては家畜化を目指したものです。今はデジタル監視社会を作るだけで家畜化は成功します。なぜなら、支配者側は個人のデータを管理どころか操作までできるので、大衆を完全にコントロール下に置けます。言い換えれば、我々のコンピュータやスマホの画面に映っている情報は既に支配者側が仕組んだものになるということです。つまり我々の認知空間が家畜化の対象となったのです。

──デジタル人民元による支配もありそうですね。

ジェームズ はい、しかも既に中国主導のアジア共通通貨である「デジタル・アジア元」の構想が議論されています。おそらく人民元は世界の基軸通貨になると思われます。そもそもドル基軸体制の崩壊は何十年もかけて行われ、トランプ時代に加速しました。

──人民元が基軸通貨になると、グローバリストたちとはどんな関係になるんですか? 単純にどっちが上なんですか?

ジェームズ 当然グローバリストの方が中共より上です。中共はただの駒です。中共は外国からの投資で成り立っているようなものなので、借金まみれです。つまり、グローバリストの傀儡です。

 グローバリストは国家を借金漬けに追い込み、政府を乗っとります。グローバリストたちがなぜ中国推しなのかといえば、すでに傀儡だからです。EUも傀儡ですし、残るはトランプのアメリカとプーチンのロシアぐらいです。アメリカの場合は大統領がバイデンに交代すればすぐにもグローバリストの傀儡政権に早変わりします。

 そうなると残るのはプーチンのロシアだけになります。ロシアの場合は2019年には対外債務を含む公債をゼロにし、グローバリストには最も嫌われています。おそらく最も独立と主権を維持している国でしょう。ちなみに日本の公債はGDPの200%を超え、GDPベースで計算すると世界一の借金国です。なので、日本には小泉、安倍、菅のようなグローバリストに魂を売る総理しかいないのです。

──えっ、日本の公債がどれほどグローバリスト勢力に握られているのですか?

ジェームズ 年金等は全て外資系投機家に渡っています。日本の場合ほとんどの企業が外資に独占されているので、経団連等の財界はグローバリストの手先と見てもおかしくないです。実際、日本のRCEP加盟は経団連が2019年のレポートで提言し、前述の親中派のドンである二階氏の影響力に加え、日本を代表する大企業の強い要請で今回菅総理が署名した背景もあります。グローバリストに借金漬けにされると、「日本ファースト」や「日本人のための日本」等のビジョンは雲を掴むような話です。

──既に征服され済みなんですね、日本は。ちなみにグローバリストの上のほうの人たちってどういう人なんですか? 英国王室とかですか?

ジェームズ 下のピラミッドが私の理解に最も近いです。

https://tocana.jp/2020/11/post_186999_entry_3.html

 一番上の赤の部分に何が入るのかはっきりしないのですが、英国王室というより、ロスチャイルド家、ロックフェラー家らのバックにいる勢力です。おそらく中世イタリアのメディチ家の末裔等でしょう。英国王室はまだまだ新参者でスキャンダルで目立ち過ぎです。普通、ピラミッドの頂点に立つものは表舞台に出てこないです。そして、この世界エリートを束ねるのがペド文化です。

──ヴァチカンもですか?

ジェームズ ヴァチカンもグローバリストの傀儡です。彼らは世界のカトリックネットワークで人身売買をしています。最近は自らグローバリストであることを証明するかのごとく、中共にすり寄っています。

──ジェームズさんのお話でRCEPの危険性が見えてきましたが、TPPと違って野党もまったく反対してませんね。

ジェームズ 前述した様に、日本の政治が中国マネーに牛耳られているからです。野党はそもそも中共の傀儡ですから、TPPには反対してもRSEPにはむしろ大賛成です。ですから、国民が声を上げる以外に、日本が亡国となる道を止めることはできないでしょう。しかし、現職の国会議員はほぼ全員が「自分ファースト」で、しかもその大半は中国マネーで政治をやっているので、望みを託しても簡単に裏切られるだけです。したがって、RCEPは批准され、中国による事実上の「占領下日本」が生まれます。

 戦後一貫して米国の極左が作った「形だけの民主主義」に甘んじてきた日本では、トランプの米国のように日本人による「大覚醒=Great Awakening」が必要になってくると思います。私の記事がその「大覚醒」に繋がれば本望です。


▲△▽▼
▲△▽▼


1989年 東欧革命
ソビエト連邦の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義体制が連続的に倒された革命。1989年11月のベルリンの壁崩壊、12月のルーマニア革命、同月のチェコスロバキア共産党の一党支配の崩壊、90年9月のポーランドの非共産党系内閣の誕生などをいう。

1991年12月25日 ソビエト連邦の崩壊
・ゴルバチョフがソ連大統領を辞任、最高会議でソビエト連邦解体を宣言

△▽

アメリカを心底恐怖させた国ソ連は消滅しました。この時、アメリカ政府は、今後のロシアをどのようにしたらいいだろうかと考えました。

 心優しい日本人であれば、「経済危機に陥っているロシアに支援を送る」とかなんとか善意に基づいた行動をとるでしょう。

 しかし、「普通の国」アメリカはもちろんそのようなことは考えない。これは当然、「ロシアが二度とアメリカに反抗できないよう、この国を破壊し尽くそう」と考えた。

 アメリカは国際通貨基金(IMF)を通して、ロシアに「改革のやり方」を伝授した
 まず「政府による経済管理の廃止」。貿易が自由化され、西側の優れた製品がロシア市場になだれ込み、ロシアの国内産業は壊滅した。

 次に「価格の全面自由化」。国内産業が駆逐され、輸入に頼るしかない状況で、ロシアの通貨ルーブルは急落し、国内はハイパーインフレーションに見舞われた。改革がスタートした92年のインフレ率はなんと2600%、GDP成長率はマイナス14.5%。ロシア経済はアメリカの思惑通り破綻した。

 さらに大規模な「民営化」。国有財産はそれを今、手元に持つ人の所有となった。アパートの住人は、アパートの所有者となった。そして国有石油会社のトップは、その会社をほとんど無料で手に入れた。ここから生まれた新興財閥はエリツィン政権に賄賂を送って、税金をほとんど免除してもらった。当然 国家財政は大幅な赤字に転落した。

△▽

金融の自由化はISOによってではなく、グローバル化なる経済用語あるいは
新自由主義なる政治用語によって露骨に国家間の争いとして実現されてきた。
ここにおける戦いが逆にISOを規定してきたといえるのである。
 それは98年8月27日、史上3番目の米欧での株の大暴落という劇的な形で始まった。
米12%、英13%、独18%の暴落だった。翌日アジアに波及する。日本19%香港33%
マレーシア59%。仕掛けはニューヨーク株式市場だった。この点に注目しておいて
いただきたい

ロシア売りである。直撃を受けてロシアの株価は実に84%も下落する。
一夜にして価値が6分の1に下落してしまったのである。

 この資金は「Hot Money」と称せられ、公式的には短期資金とされHedge Fund とされる。資金の源は「ソ連邦崩壊により軍需に回されていた資金が民間に回り、金融市場にあふれた」からとされているが、鵜呑みにするわけにはいかない。
軍需に回されていた資金の源は?民間に回される?馬脚が出ているのである。
公的資金が隠匿された回路を通って市場に投入されていることを自ら暴露してしまっている。隠匿されているので分からないが、ヘッジファンドの資金のかなりの部分が米では政府筋から出ている可能性がある。


1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツなどあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。


IMFによる「改革」によってロシア経済は混乱を増幅させ、IMFが決めた追加支援の実行を求めるロシアのキリエンコ首相に米は拒否を通告、2日後のルーブルの大幅切り下げ、そしてついには外為取引停止へと突き進んでいった。ロシア経済が立ち直るのはエリツィン政権が終わり、IMFの言うことを聞かないプーチン政権が誕生してからのことである。

 とすると、IMFで意図的にロシア経済を米欧に都合のいい状態に置き、その締めくくりとしてロシア売りを仕掛け、世界的株価暴落を実現したと考えることも出来る。

全てを「政府の手を離れた」「国境を越えた」ヘッジファンドのせいにする論調ばかりが見受けられるが、よく考えてみる必要がありそうだ。そもそもIMFは米が中心になって「社会主義諸国圏」を包囲し、帝国主義諸国間の金融を安定させるために作られた組織である。そのIMFのロシア資本主義化計画に基づいてロシアは経済を運営したのだが、計画をしてその実行段階に入ってしまった後に米国が資金提供を拒否するというシナリオは、非人為的なものだろうか。意図的であれ意図的でないにせよ、人為的所為であることは確かである。

ロシアで何が為されたかを検討してみよう。91年の国有企業就労人口は78%程度であったものが5年後の96年には38%となり、民間企業と逆転する。この間、外資企業は1000から15000近くとなる。国営企業は株式化され株式売却益を国家財政に返納するという方式すら採ることが出来ず、安値で個人に売却されるという形しか採れなかった。国家財の収奪である。収奪された富は民営化された企業の
初期赤字という形で移転されていく。どこに移転したのかといえば、赤字にならざるをえない環境=すなわち国際環境に吸収されていったのである。
要するに外国資本が入り組んだ形で少量ずつの分け前にあずかるという形式でロシア国外に移転されたのである。

他方、民営化は外資が入り込むという形で急速に進展したのである。外資が入り込みやすくするために国営・公営企業が急速に解体させられていったのである。
そしてこれこそがIMFの方針の確固とした部分だったのである。

 瞬時に国境を越える資金による恫喝とその実行を背景に、米国資本の利害に連邦政府がその手先として地ならしをするというのがその実態だったのである。

日本もそうであり、ISOやIMFはその国家形態をとった手段だったのである。

△▽

アメリカがロシアにしたこと:

・1992年1月に開始されたIMF式「ショック療法」は、ロシアの民族資本主義への移行の可能性を最初から排除させるものであった。西側の目的は、どのようにしてロシアを手なづけ従属させ、ロシア経済の長所である先進科学、人的資源、知的財産権を奪うかにあった。

・IMFとエリツィンが主導する経済改革はアフリカとラテンアメリカの債務国に強要された構造調整プログラムのコピー版が適用されたのだった。この経済改革で物価が100倍以上に跳ね上がったと言われている。IMF関係者によると、国民の購買力が非常に高く過剰流動性を吸収しなければいけないと述べていた。マクロ経済政策が実施されると、生活水準は下落し、第二次対戦の時のほうが食べるものがあったという声があるほどだった。

・冷戦は実際に破壊なく進行した戦争であったが、マクロ経済政策という武器を通して、敗戦国の経済を瓦解させながら、幕を下ろした。市民社会は破壊、経済活動の領域が犯罪の巣窟になり、国家の財産が奪取され、黒い金がロンダリングされ、資本は海外へと流出した。さらに、商業銀行の半数以上を地域マフィアが掌握、モスクワの不動産の半分を犯罪組織が所有しているのだ。

◆国家財産の安価購入◆

・新興富裕層は、法外に儲けた金で国家財産をただ同然の安価で買ったり、政府の民営化計画を通して民営化企業を買ったりした。先端のミサイル生産施設は、100万ドルあれば買うことができ、モスクワの中心にあるホテルは、パリにあるアパート一軒の値段より安く取引された。


◆膠着状態に陥ったIMFの改革政策◆

・1992年末に、イェゴール・ガイダル首相の指揮で進められていたIMFの改革政策は、議会だけでなく、中央銀行からも猛反対にあった。中央銀行総裁はIMFの勧告とは反対に国営企業に貸出しを拡大し、代わりに保健医療、教育、年金の削減を盛り込んだ、「対案的経済政策計画」を発表したが、ガイダル首相が解任されると、その計画は実行されなかった。
・そして相次ぐ議会の反対から、1993年9月21日にエリツィンが大統領令を布告し、議会の両院を解散させた。

◆西側諸国のエリツィン支援◆

・1993年末にはいって、ロシアの資本は海外流出によって枯渇状態になってしまっていた。その年の国際収支赤字は400億ドルで、1993年に東京で開かれたG7首脳会議で決定した430億ドルの援助に匹敵する額であった。同年バンクーバー・サミットで締結された米国とロシアの二国間協約に従って、クリントン大統領は16億ドルの支援をすると約束したが、これにはたくさんの条件が付けられており、ロシアは自由に使えなかった。


◆債務返済の足かせ◆

・1993年9月議会の抵抗を制圧したロシア政府は、債権金融団との債務交渉戦略を修正した。1993年10月初め、フランクフルトでロンドン・クラブ会議が開かれた。そこでロシア交渉団は、商業債務返済は必ず守らせると断言した。この会議で、治外法権放棄を除外してはロンドン・クラブが提示したすべての条件を受け入れた。そして、国際収支の危機、悪性債務の蓄積によってロシアは、事実上の支払い不能状態に陥るようになった。今やロシアは卑屈で従順な第三世界国家へと転落してしまい、債務と構造調整という沼に落ちてしまった。

◆市民社会の崩壊◆

・ロシア国民は両極化し、民主主義を導入後は、雇用に関しては最悪の結果で1993年には産業施設の半分以上が閉鎖倒産した。1994年の公式統計によると、3万3千ほどの国営企業および集団農場に勤務する労働者の賃金が遅払いされた。

・問題は貧困化と大量失業だけではなく、ロシア社会の基礎、国家制度自体が破壊されており、ロシア連邦さえ瓦解する危険性があるのだ。

△▽

1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。
また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。
先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。
しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。
教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。
かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツなどあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。

△▽

1999年12月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えた。

△▽

ロシア 聖なる我等が国
ロシア 愛する我等が国
固き意志 偉大な栄光や
永久に汝が富ならん

   讃えよ我等が 自由なる祖国
   いざ集え 兄弟よ
   先人が知恵 我等がもとに
   讃えよ 汝が誇りを


新世紀を間近に控えた2000年。プーチン大統領は、それまでの愛国歌からソ連国歌のメロディーに変えました。

ソ連からの独立後のロシアには未来への希望が満ち溢れていました。共産主義の呪縛からの解放、独立、そして自由。しかしエリツィン政権のもとでは共産主義からは逃げられましたが、安定した生活は得られませんでした。そして独立を境にしロシアからは光が失われつつありました。ロシアの大国としての誇りが失われ、犯罪は多発し、誇りである軍隊はほぼ崩壊に近くなりました。

アメリカには頭が上がらなくなり、西欧との生活環境の落差は広がる一方。これらに追い討ちをかけたのが98年の経済危機。帝政ロシア、ソ連を通じ自らの経済を見つめてきた、またロシア人の誇りのルーブルが紙くず同然となりました。

ロシアの人々は現実に打ちのめされました。しかし。ロシアの人々はこんなことではへこたれません。・・ですが、やっぱり自分達の生活には限界が近づいてくるわけです。

エリツィンは何もせず酒ばかりのんでいる。国民の生活の不満は政治に向けられました。そんな中。1999年の大晦日。ロシアと全世界に衝撃が走りました。エリツィンが突如辞任したのです。

後任は元ペテルブルグ市長プーチン。名も知らぬ若き男に大国ロシアは委ねられたのです。国民はあまり期待をしませんでした。「エリツィンよかましなだけだろう」と。

しかし、そんな国民のさめた目を横目に、「強いロシア」を掲げた大統領は次々と改革を断行。経済はだんだんと回復。生活も苦しいながらも徐々に改善。なんと言っても「強いロシア」が現実に感じられるようになったのです。

もう昔の我々ではない。昔の栄光を取り戻そうじゃないか!

ロシアの人々は沸き立ちます。


【伊藤貫の真剣な雑談】第7回「文明の衝突とロシア国家哲学」
ペテルブルグ大学の法学部教授になろうとしていたプーチンが政治家に転身した経緯
[桜R4/6/25] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=vd1jg5gcE3s

玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾くソ連軍歌『カチューシャ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003159
6:777 :

2022/08/24 (Wed) 17:06:08

平成バブル崩壊と失われた30年

日銀が平成バブルを潰して失われた30年を作った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037444


▲△▽▼


バブル経済とその崩壊

1985年9月22日 プラザ合意

・日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。


1990年(平成2年)1月 日経平均株価大暴落

・CIA の日本経済崩壊戦略

日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから 売り攻勢をかけ7000円台まで暴落させるのに成功した。 外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。


1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。

 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。

ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。

 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。

 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。

ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html


1991年(平成3年)3月 平成バブル崩壊

・日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから 売り攻勢をかけ7000円台まで暴落させるのに成功した。 外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・韓国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元と韓国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた


・日銀総裁の平成バブル崩壊戦略
その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。

澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/



・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・韓国の工場で行って、中国製品・韓国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・韓国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。



7:777 :

2022/08/24 (Wed) 18:22:25

令和の皇室の歴史

日本の現代史
明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年) 7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年) 1月 7日まで
平成:1989年(平成元年) 1月 8日 から 2019年(平成31年) 4月30日まで
令和:2019年(令和元年) 5月 1日 から


令和は アメリカ、中国、ロシア と EU が凋落して日本の一人勝ちか?

日本の労働者の方がアメリカの労働者より裕福だった _ マンハッタンのダイソーは270円
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14027380

40年続いた米国株強気相場が崩壊する、米国株は30年上がらない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007513

アメリカの政策金利はこれから 5%以上に上がって世界恐慌を引き起こす
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009793

エリオット波動でみると日経平均は2050年まで上昇 _ 宮田直彦 日本株はもうすぐ大暴騰する
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14031612

日銀が 2011年から500兆円も ばら撒いたので「超円安・輸入物価高の時代」に変わった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010201

40年間続いた「円高の時代」は既に2011年10月に「円安の時代」へとパラダイム・シフトしていた
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004475

エリオット波動でみると日経平均は2050年まで上昇 _ 宮田直彦 日本株はもうすぐ大暴騰する
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14031612

日銀総裁はロスチャイルドの手先 _ 黒田東彦総裁は完全なバカだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009730

ロシアを滅ぼそうとしているジョージ・ソロスの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006933

中国に投資して儲かる可能性は完全にゼロ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14017339


▲△▽▼


日本は復活しても天皇家は自然消滅する可能性が高い


秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007930

旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014079

皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/870.html

皇室がDNA公開を厳禁している理由
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/242.html

日本の皇族・政治家を中国のハニートラップにかけたプチエンジェル事件
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/761.htm

プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html

中国のハニートラップにかかったロリコンの令和天皇
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/199.html

プチエンジェル事件で皇太子の相手をしてグラビアアイドルにしてもらった小向美奈子
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007901

片山徹 皇族の児童バイシュン関係 Twitter
https://twitter.com/_9105294027642
 
天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html


△▽


無敵の太陽

小室圭の背後にいるのは誰なのか?
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68875978.html

不合格?「小室圭」の名前が無かった !
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68876586.html

小室夫婦の敵意 / 秋篠宮家が犯した誤り
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68876189.html

佳子内親王に忍び寄るフェミニズム
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68874424.html

小室圭と秋篠宮が隠したい深い闇
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68873479.html

インテリは天皇を小馬鹿にする / 皇室問題が紛糾する一つの要因
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68872054.html

小室災禍の考察 / 皇室の危険な将来
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68872451.html

秋篠宮家が避けた問題と皇室権威の失墜
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68880079.html

「どこでもドア」を有する皇族 / 不正を気にしない秋篠宮家
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68885920.html

裏口という玄関 / 秋篠宮は不正の常習者なのか?
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68888564.html

漂流する小室夫妻の行方 / 秋篠宮家の深刻な問題 (1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68900439.html

女系天皇を狙う勢力と悠仁親王 / 秋篠宮家の深刻な問題(2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68900759.html

ズル入学を囁かれる天皇 / 秋篠宮家の深刻な問題 (3)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68901003.html
8:777 :

2022/08/26 (Fri) 14:25:44

小室眞子、複雑性PTSDの嘘...
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14026375


▲△▽▼


古是三春_篠原常一郎 KK問題 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8F%A4%E6%98%AF%E4%B8%89%E6%98%A5_%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E5%B8%B8%E4%B8%80%E9%83%8E++KK

古是三春_篠原常一郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCT9FuRjodK0Yr8gHJ1KCi_g/videos


▲△▽▼


ゆっくり解説チャンネル(小室圭の話題中心) - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCARJ4z22uK0Br6-JEwLC0zQ/videos

【ゆっくり解説】皇室問題 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCmJJyG50RgtD0QzGLEnzeXQ/videos

『皇室のアレコレ』をゆっくり解説 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCyXgwke4vkAbbELhmt3tfYA/videos

ゆっくり危機研究所【辛口】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCYXBcPeq2Wb-OAzZg6u5Jvw/videos

プリティな【ゆっくり解説】皇室問題 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCO6pAU00VqlmUreotdlCc7A/videos

Takuyaの本音の館 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCslukaaQePy0mTFhy9EMAjg/videos

ゆっくり解説チャンネル(小室圭の話題中心) - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCARJ4z22uK0Br6-JEwLC0zQ/videos

ゆっくり危機研究所【辛口】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCYXBcPeq2Wb-OAzZg6u5Jvw/videos


▲△▽▼


チャンネル桜の水島総社長は鼻息を荒くし、 「秋篠宮家バッシングはケシカラン !」と大激怒
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14011357
9:777 :

2022/09/18 (Sun) 02:43:42

グラマラスボディで一世を風靡した人気アイドルの 柏原芳恵が、テレビから姿を消した理由
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14046336
10:777 :

2022/10/19 (Wed) 09:59:04

CIAのスパイだった美智子妃は皇族全員からいびられて反日売国奴になった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14056032
11:777 :

2022/10/29 (Sat) 09:04:18

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として動いてきた。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058621
12:777 :

2022/12/11 (Sun) 22:52:58

日本の有名政治家の出自が集中する「田布施」_ 戦後の総理大臣の75%が世襲政治家
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14071870
13:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/13 (Fri) 17:01:03

2023.01.13XML
日本に強い影響力を維持してきた米英支配層が日本を対中国戦争へ向かわせる
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301130000/

 日本がアメリカに支配されていると認識している人は少なくないだろうが、より正確に表現するならば、ウォール街、つまりアメリカの金融資本の強い影響下にある。その巨大資本が作り上げた組織のひとつがCIAだ。

 CIAの前身であるOSSは1942年6月、フランクリン・ルーズベルト大統領によって創設された。長官に指名された人物はウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンだ。

 ルーズベルト大統領はウィリアム・スティーブンソンなるカナダ人のアドバイスに従ったようだが、この人物はイギリスの秘密機関BSCの幹部。BSCはイギリスの対外情報機関SIS(通称MI6)によってニューヨークで設立されている。MI6はイギリスの金融界、通称シティと関係が深い。

 シティとウォール街の関係を知るためにはロスチャイルドとモルガンの関係を理解する必要があるだろう。

 19世紀の中頃、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンでジョージ・ピーボディーと銀行を経営していた。その銀行の業績が1857年に悪化、倒産寸前になる。そのときにピーボディーと親しかったロスチャイルド一族が救いの手を差し伸べている。ピーボディーは1864年に引退し、ジュニアスが引き継ぐ。ロスチャイルドはジュニアスの息子であるジョン・ピアポント・モルガンに目をつけ、ロスチャイルド系金融機関のアメリカにおける代理人に据えた。このジョン・ピアポント・モルガンがモルガン財閥の祖と言われている人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 ロスチャイルド一族を含むイギリスの支配層は世界制覇を実現するため、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという戦略を立てた。この戦略を可能にしたのはスエズ運河の完成だ。

 内陸部を締め上げるタガの西端がイギリスであり、東端が日本にほかならない。日本では長州や薩摩の倒幕派が徳川体制を倒して明治体制を樹立、のちにイギリスはタガの上にサウジアラビアとイスラエルを建国させている。

 徳川体制から明治体制へ移行させた「明治維新」で暗躍したトーマス・グラバーは1859年、ジャーディン・マセソンのエージェントとしてウィリアム・ケズウィックと来日した。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込むという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形にしたかったのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めた。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本が閔妃を惨殺した4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。

 ロシアの動きを見てイギリスは警戒感を強めるのだが、自らが乗り出す余力がない。そこで1902年に日本と同盟協約を締結した。手先の軍隊として日本に目をつけたわけである。イギリスが日本の「近代化」に協力したのは、自分たちの手先として朝鮮半島から中国を侵略させることにあったのだろう。

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。

 ちなみに、クーン・ローブはドイツ系移民、アブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立した金融機関だが、その経営を任されたジェイコブ・シッフはロスチャイルド家に近かった。ポール・ウォーバーグとフェリックス・ウォーバーグはシッフの甥にあたる。またシッフはジョン・ロックフェラーの会社、スタンダード石油の金融戦略を担当していた。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 日露戦争では「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領が日本に救いの手を差し伸べている。講和勧告を出し、8月にはポーツマスで講和会議が開かれ、9月には講和条約が調印された。韓国における日本の優先的な地位を認め、旅順や大連の租借権や長南と旅順口との間の鉄道の経営権を日本に譲り、サハリンの南半分を日本に割譲し、沿海州やカムチャツカの漁業権を日本に譲渡する等々が決まった。賠償金の支払いは認められていない。

 講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄される。日露戦争で獲得した利権をアメリカに取られると主張したのだが、桂首相は利権をアメリカへ渡したかったのだろう。

 この当時、日本とアメリカとの関係で重要な役割を果たしたのは金子堅太郎だ。セオドア・ルーズベルトと同じようにハーバード大学を卒業していることから何者かによってふたりは引き合わされ、親しくなっていた。

 セオドア・ルーズベルトは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物で、スラブ系のロシアを敵視、日露戦争の勝者が東アジアで大きな影響力を持つと見ていた。朝鮮半島を支配させることも彼のプランには入っていたようだ。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。また金子は日露戦争の最中、日本政府の使節としてアメリカへ渡り、1904年にはハーバード大学でアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことを金子はシカゴやニューヨークでも語っていた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 アジア侵略をスムーズに進めるため、明治政府は周辺国の人びとを蔑視、差別する感覚を日本人に植えつけていく。この「反東アジア洗脳」は今でも「自己増殖」を続けている。

 ロスチャイルドと緊密な関係にあったジョン・ピアポント・モルガンはJPモルガンという金融機関を設立するが、1923年9月1日に東京周辺が巨大地震に襲われた後、日本はこの金融機関の影響下に入る。地震の被害総額は55億円から100億円と言われているが、その復興資金の調達を日本政府はJPモルガンに頼ったのだ。

 このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後に大蔵大臣となった井上準之助だ。浜口雄幸内閣はウォール街の意向に基づいて緊縮財政を進め、景気は悪化。日本から金が流出して不況が深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 JPモルガンなどウォール街の大物たちはハーバート・フーバー大統領を介してアメリカを支配していたが、1932年の大統領選挙でフーバーはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。

 そこでウォール街の金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを計画する。彼らにとって都合の悪いニューディール派を排除しようとしたのだが、この計画は海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将によって阻止された。計画の詳しい内容はバトラーやジャーナリストが議会で証言している。

 フーバーは大統領最後の年、つまり1932年にモルガン一族のジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んできた。グルーのいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。しかもグルーの妻であるアリスの曾祖父、オリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。

 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。

 戦後の日本が進む方向はウォール街を 後ろ盾とするジャパンロビーが決めたが、このグループの中心人物はグルーだった。戦前も戦後も日本の支配者は同じであり、「戦前レジーム」だ、「戦後レジーム」だと騒ぐのは滑稽だ。途中、支配構造が揺らいだ時期はあるものの、基本的に「近代日本」は天皇制官僚体制であり、背後に米英金融資本が存在している。この米英人脈は今でも日本を支配、中国やロシアと戦争する準備を進めているのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301130000/
14:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/14 (Sat) 13:43:00

ここまで分かった!  「古代」謎の4世紀
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14080144
15:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/27 (Mon) 01:57:02

二・二六事件の映画化 _ 高倉健 吉永小百合『動乱』(1980年東映)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14090475
16:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/22 (Wed) 00:24:59

【ゆっくり解説】孝明天皇の衝撃の事実と謎!!
2023/03/21
https://www.youtube.com/watch?v=gR0wA78MNi8
17:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/12 (Wed) 07:23:55

みんな大好きな白洲次郎さん の正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660
18:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/18 (Tue) 18:00:59

2023年04月18日
「チャブ」が甦った ! / 秋篠宮問題に関する省察 (1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68926313.html

惚れた女房に添い遂げる
Emperor 5234
Prince A 598342








  皇室ネタで稼ぐ週刊誌は、皇后陛下や今上陛下よりも、もっぱら秋篠宮家に狙いを定めているようだ。なるほど、秋篠宮家はスキャンダルの宝庫だからしょうがない。小室問題と機密費の流用は未だに囁かれているし、眞子内親王もバカ娘丸出しの醜態を晒している。これなら、一般国民が騒いでも無理はない。それに、秋篠宮殿下と紀子妃殿下が不正の常習犯ときているから、色々と掘れば次々と悪事がバレてくる。拙い弥縫策としか思えないが、両殿下は御用記者を使って誤魔化そうとしていた。髭面のアル中殿下を見ていると、憤りを通り越して「こんな人が皇太弟なのかぁ~」とため息が出てしまう。一般人だと不可能な不正でも、皇室の権威と人脈を使えば可能となるんだから、「皇族特権の濫用だ!」と批判されても反論できまい。

  しかし、我が国にはまだ皇室支持派が残っている。盲目的な国民は“生身の皇族”に目を背け、“理想の皇族”を追い求めているようだ。実際、今上陛下は立派なので皇室支持派がたくさんいても不思議じゃない。平成時代、。ただ、皇族も人間なので、良い人もいれば、悪い人も出てしまうのが現実だ。

  4月13日放送のチャンネル桜では、水島総社長と高清水裕子が、いつものように週刊誌記事を取り上げ、マスコミによる皇室の愚弄を批判していた。『週刊新潮』(2023年4月20日号)は「『秋篠宮広報室』に課された『中国発フェイクニュース』摘発」という記事を掲載し、宮内庁広報室がSNSを活用し、積極的な情報発信を行うと共に、皇室に関するフェイクニュースにも対応する、というのだ。この記事によれば、支那の工作部隊である『網軍』は二千万人の人員を擁しているそうで、彼らが色々な偽情報や政治プロパガンダを流布させているという。

  この記事を紹介した水島社長は、「皆さん、支那の工作機関がフェイクニュースを流して、皇室を潰そうとしているんですよぉ~」と注意を呼びかけていた。高清水氏と水島社長は、鼻息を荒くして、ガセネタに踊らされる国民や意図的にデマを流す反日左翼を非難していたが、冷静に見れば二人の姿は滑稽だ。なぜなら、普段、水島社長と高清水氏は、週刊新潮や週刊文春の皇室記事を批判し、「こんなのは皇室を潰すための嘘だ ! 男系男子の皇統を廃絶するための誹謗中傷! 誰が情報源なのか判らぬ言いがかりだ!」と激しく怒っていたからだ。

  確かに、週刊誌記事には販売部数を増やすための扇動記事や、イチャモンに近い中傷記事が少なくない。それなら、どうして今回の記事だけは「本当」なのか? もし、週刊誌が常に捏造記事を書いているんなら、今回の週刊新潮も「デマ」を書いているはずだ。水島社長は毎回、「みなさん、こんな雑誌は見ない、読まない、買わない、ように!」と呼びかけていた。それなら、今週の記事だって「根拠無き推測記事」であるはず。どうして、今週号だけは「真実」なのか?

  水島社長は林千勝や馬渕睦夫との対談で、「ディープ・ステイト」や「国際金融資本家」が話題にのぼると、「私は脚本家でもあるので、もし私が戦争や謀略のシナリオを書くとすれば・・・」と自慢げに自分の憶測を述べる。だが、水島社長はロックフェラー家やロスチャイルト家の誰か、あるいは側近、友人、親戚などから直接的に情報をえているのか? 林氏や馬渕大使が状況証拠だけで語った話を鵜呑みにし、「そうなんですよぉ~」と嬉しそうに頷いていたが、これなら雑誌の記事を読んで「ホントかもねぇ~」と呟く国民と同じじゃないか!

Prince A 432Princess Kiko 7663Princess Kiko 988Princess Kiko 6543








(左 : 若い頃の秋篠宮殿下 / 中央 : 初々しかった頃の紀子妃殿下 / 右 : 笑顔が怖くなった紀子妃殿下 )

  筆者は雑誌記事をそんなに信じていないが、一応、記者は現場や関係者を取材し、常識的に考えて“有り得る話”や真相にやや近い噂話を基にして書いているはずだ。だから、多少の脚色や水増し、派手な見出しはあるが、秋篠宮家に関する記事は、多少の裏取りをしているんじゃないか? もちろん、最初から捏造ということも有り得るが、全くのデタラメとなれば、編集長もOKを出さないから、“砂粒”程度の真実を含んでいる可能性はある。それに、不正行為を「悪い」と思わない殿下と妃殿下だから、側近や知人からのリークも有り得るし、秋篠宮家の破廉恥行為を咎めたい者、皇室の名誉を大切にしたい国民、恨みを持つ宮内庁職員、悪事を垣間見た関係者など、様々な情報提供者がいるはずだ。

  保守派国民の中には、秋篠宮批判を「雅子妃バッシング」の再来と考える者も少なくないが、二つの批判は根本的に異なっている。

  雅子妃のケースは、「公務をサボるのはケシカラン!」というマスコミの憎しみだった。しかし、我々は小和田雅子嬢を神道の「最高司祭」に選んだ訳じゃない。筆者は雅子妃が靖国神社に参拝しなくても構わないし、歌会や文化イベントに出席しなくてもいいとさ思っていた。皇太子殿下が好きな女性と結婚し、幸せな家庭を築くことが出来ればそれでいい。雅子妃が公務に出ないで専業主婦になったら悪いのか? 『皇太子さまへの御忠告』を書いた西尾幹二や週刊文春は、自衛官を「給料泥棒」と罵る連中と同じだ。「税金で養っているんだから、公務に出ろ!」とでも言いたいのだろう。

 「保守派論客」を装う櫻井良子も、『WiLL』の論調に同調したのか、元キャリア外交官の雅子妃が皇室の伝統を変えてしまうのでは、と仄めかしていた。

  ・・・保守の人びとは日本国の基盤に天皇を戴く皇室があると見なし、雅子妃の“人格”も重要ながら、日本には変えてはならない守るべき大切な価値観があると考える。
今、雅子妃がお元気な笑顔を取り戻されたことはなによりである。だが、合理的な価値観の持ち主である雅子妃が、西欧風の合理精神では測れない皇室の伝統、この国の文明としての皇室のあり方に、どこまで協調していけるのか、あらためて考えざるを得ない。
(「『悠仁親王』ご誕生でも低調な世論 皇室への無関心こそ最大の危機」『週刊ダイヤモンド』2006年9月23日号)

  筆者が男系男子の皇統を尊ぶ一方で、秋篠宮家を批判するのは、一般人でもしないような不正を重ねているからだ。これに関しては以前のブログで述べたから繰り返さない。(参考記事A) ただ、多くの国民が怒っているのは、裏口入学や剽窃作文、馬鹿娘夫婦への裏支援、名誉総裁職から得る利益、大名旅行と浪費癖、取り巻き連中との悪事などを誤魔化し、それを隠蔽するために更なるウソを重ねていることが漏れ伝わってくるからだ。もし、秋篠宮殿下が姑息な手段を使っていなければ、憤慨する国民はもっと少なくなったはずだ。「秋篠宮バッシング」を批判する水島社長達は、皇室の歴史や謀略工作の話ばかりを口にし、具体的な事情説明もせぬまま、ただ「皇室批判は反日行為です」と繰り返すだけなので、これでは北朝鮮の報道番組と変わりがない。「秋篠宮殿下、万歳!」と「金日成将軍、マンセー !」と何が違うのか?

「皇室女優」となった粉屋の娘

  秋篠宮家の不正を語るとなれば、その淵源たる皇太后陛下の件に触れねばならない。小室圭と眞子様にまつわる不正疑惑の背後には、秋篠宮殿下だけではなく、母親の美智子皇太后の画策があるに違いない。なぜなら、皇室支持派の有力者や一橋大学、三菱を動かすには、秋篠宮殿下の人脈だけでは力不足で、皇太后陛下の人脈を考慮に入れないと説明ができないからだ。

  それにしても、なぜ上皇陛下は母親(皇太后陛下)の采配を防ぐことが出来なかったのか? 上皇陛下は幼い頃から人一倍正義感がつよく、不正を憎む皇太子殿下であったのに、これほどの大規模不正を見逃すなんて、本当に信じられない。おそらく、知ってはいるが妻の暴走を抑止できなかったのであろう。ついでに言うと、兄である今上陛下が弟宮に鉄槌を下せないのは、男子をもうけることができず、秋篠宮家に頼ったことに原因があるのかも知れない。つまり、屈辱的な「借り」が出来てしまったので、苦言すら述べることが出来ない、ということだ。

  また、上皇陛下が小室騒動や悠仁親王問題に容喙できなかったのは、たぶん女房にベタ惚れの亭主であったからだろう。これは陛下の青年時代や御成婚当時の状況を思い出せば何となく解る。世間の夫婦でも、女房に頭が上がらない亭主はたくさんいるし、旦那に指図する女房も珍しくない。民間から嫁がれた美智子妃から見れば、明仁親王殿下は「世間知らずのお坊ちゃん」だ。「私がちゃんと助言しないと」と考えても不思議じゃない。美智子妃が陛下の肘を摑んで誘導する姿を見れば判るじゃないか。

 それに、天皇陛下夫妻となれば離婚は出来ないし、喧嘩しても家庭内離婚すら難しい。もし、美智子妃が宮中の伝統儀式に嫌気が差し、「馬鹿らしい」と不満を漏らしたら、陛下はどうするつもりだったのか? その他にも、女官達からの嫌がらせ、あるいは旧華族の女性陣によるイジメもあったから、それらに耐えかねて「離婚してください!」と言い出せば、窮地に立たされるのは陛下の方だ。離婚できない夫婦関係となれば、劣勢の亭主が折れるしかない。だから、周りの敵から妻を守るのは殿下の務めとなったし、殿下も宮中の因習に反撥する気質があったから、美智子妃の側に附いたのも当然だ。

  こうした発言は不敬になるが、明仁親王殿下は不運な時代に生まれたのかも知れない。昭和8年にお生まれになった殿下は、大東亜戦争が始まると沼津での疎開生活を余儀なくされ、学習院初等科時代には祖国の敗戦を迎える事となった。しかも、皇太子殿下は皇室の伝統に従い、幼い頃から両親と離れ離れで、肉親の愛情に飢えていたという。一般国民は生まれた時からすっと親と暮らしているが、継宮(つぐのみや / 明仁親王)殿下は三歳で両陛下のもとを離れ、両親と触れ合う機会は1週間に1度となっていた。迪宮殿下(昭和天皇)も川島純義中将の家に預けられたから、親と離れて養育されるのは皇室の慣習であった。

  しかし、皇室の伝統は敗戦の衝撃で徐々に崩れだす。日本は戦勝国アメリカの属州に成り下がり、「民主主義(デモクラシー)」という名のもとでロボトミー(思考改造)を施された。“侵掠戦争”への反省と左翼分子の“猛威”により、質実剛健の武士的気風は煙のように消えてしまう。精神的に去勢された日本人にとって、家父長的権威は時代遅れで、親子が友達のように触れ合う進歩的思想が主流となる。亭主関白の厳格な家庭より、対等の夫婦が育む「暖かい家庭」の方が理想となっていた。こうした風潮の中で過ごせば、皇太子殿下だって自分の境遇を嘆くし、新たなライフスタイルが新鮮に思えてくる。

Elizabeth Vining 1( 左 / ヴァイニング夫人と皇太子殿下)
  また、困ったことに、皇太子殿下の英語教師には、リベラル派のクェーカー信徒であるエリザベス・グレイ・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining)夫人が任命されてしまった。非戦闘員を旨とするキリスト教徒が選ばれてしまえば、殿下の考えが宮中の“しきたり”から離れてしまうのも無理はない。このヴァイニング夫人は元も、児童文学の作家であったが、帰国後は政治活動に従事したようで、1969年にはベトナム戦争の反対デモに参加して逮捕されている。

一応、昭和天皇からの提案で「アメリカ人の教師」が求められたというが、マッカーサー元帥は日本側の意図をちゃんと見抜いていた。つまり、日本人がGHQに積極的な民主化を示したいが為に、わざとヴァイニング夫人を英語教師にしたというこだ。未亡人のヴァイニング夫人を選んだのは、学習院の院長を務めていた海軍大将の山梨勝之進と学習院のレジナルド・H・ブライス教授、外交官の澤田節蔵、寺崎英成とグエン夫人であった。

  日本の國體と時代が変わったので仕方ないけど、上皇陛下に帝王のオーラが無いのは誠に残念だ。これは上皇陛下の落ち度じゃない。昭和天皇がご幼少の時は、乃木希典大将や東郷平八郎元帥といった模範的な武人が学習院の師傳(しふ)となっていた。幼い頃から名誉と義務を叩き込まれた両大将は、我が国の美徳や矜持を無言で迪宮殿下に示していた。殿下の方も畏敬の念を抱きながら二人の英雄を見ていたし、明治大帝や元勲とも接していたから、自然と武士の覚悟が身についていた。ところが、上皇陛下は重苦しい疎開生活が終わると、今度は卑屈な敗戦国の空気を吸う破目になったから、お気の毒としか言い様がない。

  こうした環境に加え、皇太子殿下には鉛の十字架を背負う青春しかなかった。つまり、殿下には職業選択の自由も無く、ただ将来の天皇になるだけのレールがあるだけだった。いくら英語やフランス語を熱心に勉強しようが、あるいは乗馬やテニスに打ち込もうが、自分の運命を変えることは不可能。既に決まっている路線から逃れることは出来ない。閉塞感が漂う中で、貴重な青春時代を過ごす殿下の心情を、同級生の橋本明(はしもと・あきら)が述べていた。

  非人間的な家庭生活を強いられてきた皇太子は青春期、どうしようもなく情緒不安定で、どちらかと言えば暗い性格に落ち込みやすかった。移り気で勉強嫌いであり、冷酷なまでの非情を身につけていた。(橋本明『知られざる天皇明仁』講談社、2016年、p35.)

  後に共同通信社の記者になった橋本氏は、昭和15年に学習院初等科に入り、東組で皇太子殿下の級友となった。それから学習院大学を卒業するまで、彼は身近で皇太子殿下を見てきたというから、橋本氏の記述には“ある程度の信憑性”がある。橋本氏によれば、学習院時代の殿下は根暗な生徒であったという。

Emperor 553Princess Michiko 11Emperor & Empress 435







(左 : 若い頃の皇太子殿下 / 中央 : 正田美智子嬢 / 右 : 殿下の御成婚 )

  この時期、同学年生の間で、皇太子ほど陰々滅々な男は他に見当たらなかった。老成して希望も無くくさり切っていた。正田美智子との出会いがこうした皇太子を根底から変えた。電話を通して積み重ねた会話の中で明仁親王は「どのような時でも公務が優先する」と信念を語っていたが、たった一回「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思った」、ポリツと漏らされた。悲痛な響き、籠められた寂しさの発露こそ正田美智子の心を抉ったのだった。(上掲書、p.36.)

  橋本氏の回想で特筆すべき点は、如何に殿下が幸せな結婚と温かい家庭生活を望んでいたかという側面である。「家庭を持つまではぜったいに しねない」という呟きは、我々の心を貫く。一般国民には想像できない、堅苦しい人生を歩む殿下にとって、美しい正田美智子嬢は唯一の眩しい光であった。カメラを趣味となされた殿下が、熱心に正田美智子嬢の写真を撮っていたのも頷ける。

Princess Michiko 5542(左 / 正田美智子嬢)
  正田家の御令嬢は殿下にとって“魂の救済”であった。殿下が大学四年生の頃から、宮内庁の側近は、皇太子妃の選抜に着手していたという。しかし、なかなか良い相手が見つからなかったそうだ。というのも、お妃には「旧伯爵家以上の家柄に生まれた女性」が基準となっていたからだ。差別を憎む国民には心外だけど、庶民の女性は対象外。ところが、上流階級の人々は歐米風の生活に憧れていたので、自分の娘を旧態依然とした時代錯誤の皇室に嫁がせるなんて考えもしなかった。第一、当の娘達が金切り声を上げて厭がったというから、“お妃候補”に挙がる女性は次々と辞退した。

  良家の親達もゾッとしたようで、「冗談じゃない!」と思っていたそうだ。でも、露骨に断れないから、早めに娘を嫁に出そうとしたし、「畏れ多い」という口実で逃げてしまう女性もいたらしい。こうした婚姻忌避を目にした殿下は、かなり落ち込んだようで、「どこも駄目だ。一生、結婚できないかもしれない」と急に老け込んでしまった。(p.150.) 悲嘆に暮れた殿下は気力を失い、顔色は蒼白というより黒ずんでいたという。古くから付き合いのある友人も、徐々に殿下から離れて行き、山本五十六元帥の次男もそのうちの一人であった。学習院の馬術部で主将を務めていた殿下は、仲間の前で「私は日本で一番きれいな人を嫁にするんだ」と語っていたらしい。(上掲書、p.107.) 純粋な殿下の願望を聞いてしまうと、本当に心が締め付けられる。皇太子に生まれたことが、まるで「呪い」のように思えてしまうのだ。

  皇太子といえども、10代の少年なら、それなりに異性に目覚めるし、ガールフレンドを作って休日にデートしたい、と望んでも当然だ。健康な男子なら、謹厳実直な皇族だって女性の体に興味を抱く。級友の橋本氏は、次のようなエピソードを明かしている。

 昭和25年2月3日、伊藤教諭の休講でクラスの大半は試験勉強に精を出していた。しかし、皇太子殿下と井口道生らは、エロ雑誌を見つけ出し、むさぼるように読み出したという。微笑ましいのは、みんなが去った後、殿下がヌード写真の雑誌を独占したことだ。普段、裸の女性をぜったい目に出来ない殿下は、やや猫背になって身をかがめ、興味深く読んでいたという。現在の我々が聞くとちょっと笑ってしまう逸話だ。友人の前では恥ずかしかったのか、殿下は本心を偽り、「つまらないものだけど魅力的だね」との感想を述べたらしい。(上掲書、p.94)

  この時、橋本氏は殿下に対し、どうやって男女の行為を知ったのかと尋ねた。すると殿下は次のように答えたという。「ボクは二年の終わりに“生命の科学”を見て知ったよ。小説を読むと、わかってくるんだね。いやボクはエロ雑誌に恵まれていないものでね。だめなんだよ。ふふふ・・・」と。確かに、厳(いか)つい側近に囲まれた皇太子が、『プレイボーイ』のような雑誌を本屋で買えば一大スキャンダルになるし、かといって侍従に「あの雑誌を買ってきて」と頼めば、これまた一騒動になる。となれば、医学書の類いを探すしかないだろう。悠仁殿下ならパソコンでエロ動画を見ることも出来ようが、それでもクラスの友人に知られたら大変だ。もし、インターネットのチャット欄でバラされたら、紀子妃殿下が烈火の如く怒るだろう。叱責された殿下は、自分の部屋で独り寂しく、こっそり見るしかない。

  令和の時代なら、官能小説やエロ漫画なんて珍しくもないが、1960年代までの日本だと学校で咎められる破廉恥行為だ。昭和25年に無修正版の『チャタレイ婦人の恋人』が発禁処分となった。しかし、殿下の級友達は“老成(ませ)た”連中で、親と教師の目を盗んでこの禁書を輪読したそうだ。というのも、この洋書を発売した小山書店の息子が殿下の級友だったので、クラスの者が完訳本を手にすることが出来たのだ。皇太子殿下は7月1日に借り受け、早くも3日に返却したという。なぜなら、持っていること事態が危険と思われたからだ。(上掲書、p.103.) しかし、当時の橋本氏は運が悪かった。何しろ、彼の父親が最高検の検事だったから、D.H.ローレンスの本を取り締まる側の人間だったのだ。橋本氏は殿下に発禁本を読ませたことで、4時間も説教さたそうである。(上掲書、p.115)

 ちなみに、社長の小山久二郎はチャタレイ事件の被告となってしまい、1957年に有罪を受け、罰金刑に応じていた。裁判の影響により、小山書店は後に倒産する。

Emperor 742(左 / 写真撮影が趣味の殿下)
 いくら「禁書」になったとはいえ、殿下も男だから卑猥な小説と聞けば、どんな物語なのかと興味を持つはずだ。それに、クラスの友人がワッと集まってコソコソ読んでいれば、それに参加したくなるじゃないか。殿下だって庶民と同じように異性に興味を持つし、御洒落にも敏感になる。事実、殿下も髪型を気にしたそうで、ポマードを附けて自慢げに歩いていたという。友人には「コテを当ててね。毛を倒すのが大変なんだ」と語っていた。(上掲書、p.77) 学習院に通っていた当時、明仁殿下の渾名は「チャブ」で、親しい友人は遠慮なく「チャブ」と呼んでいたそうだ。(上掲書、pp.61-62) バイニング夫人は殿下を「ジミー」と呼んでたが、高等科の友人は「チャブ」だなんて・・・。良くも悪くも、天皇を「現人神」と敬う時代は過去のものとなっていた。

  しかし、いくら「民主主義の日本」となっても、皇室は依然として格式を重んじる貴族社会だ。昭和25年の1月、殿下は隣に坐る橋本氏に向かって、「世襲の職業はいやなものだね」と語っていた。(上掲書、p.85.) 橋本氏によると、高校一年生の皇太子殿下は、感情の起伏が大きく、振幅の度合いが激しい性格であったという。「世襲という職業への疑惑、嫌悪、自己撞着が揺れ動き、喜びからウツウツとした心情への移転、勤勉から怠惰、快活から孤独感への変身を交互に容易にさせていたと分析できる状態だった」そうである。(上掲書、p.88)明仁殿下の或る友人が「殿下の悩み」として纏めていた。

 ① 監禁されていること。
 ② 独り暮らしで、肉親または同地位の者と同じくしないこと。
 ③ 見物的な気分で見られること。
 ④ ジャーナリストにウソを書かれること。
 ⑤ 世間体をいつも考えなければならないこと。
 ⑥ 婦人に接する機会が僅少なこと。
 ⑦ 理想を持てないこと。
 ⑧ 皇嗣の必然として、自分の姉妹のように将来における自由の保障がなく、かえって束縛される事の多くなること。
 ⑨ 過大視されること。
 ⑩ 生活が単調になるに伴って、自分の生活が自分にとって辛くなること。
 ⑪ 友または外部の者との交友関係に関すること。    (上掲書、p.102.)

  こうした苦悩を噛みしめた殿下にとって、心を弾ませる正田美智子嬢がどれほど大切な人であることか ! 初老化した殿下は、見る見るうちに若返った。級友の德川義宣(とくがわ・よしのぶ)は、「チャブが甦った」と評していた。(上掲書、p.158.)ちなみに、義宣の本名は「堀田正祥」で、堀田正恒伯爵の息子であったが、尾張德川家の養子になったので「德川」の姓を名乗っていた。

  話を戻す。正田美智子さまを皇太子妃にしようとしたのは、東宮参与を務めた慶應義塾大学の小泉信三塾長と黒木従達(黒木・じゅうたつ)東宮侍従、クウェーカー信徒の宇佐美毅(うさみ・たけし)宮内庁長官であったそうだ。(黒木侍従は西郷従道の孫で、黒木為楨(くろき・ためもと)の家督を継いだ海軍主計大尉。)

  ところが、美智子妃の選抜に異議を唱えたのは、皇室伝統の守旧派であった。特に秩父宮妃殿下の御生母で、東宮参与でもあった松平信子は、反対派の代表格であったという。(この反対勢力に関しては以前に述べた。)学習院の外郭団体である「常磐会」は、旧華族が中心となる女子会で、彼女達にとったら「粉屋の娘」が皇太子妃になるなんて言語道断。「鬼婆」と呼ばれた信子からすれば、腹立たしくて我慢が出来ない縁談であった。それゆえ、「民間初のプリンセス」となった美智子妃が、どんな嫌がらせを受けたことか。御母堂の正田富美子さんが、耐え難きを耐え、数々の屈辱を秘めながら、黙って亡くなったことは有名だ。民間人から皇太子妃になった美智子さまが、宮中で理不尽な思いをしたことは容易に察しがつく。

Prince & Princess 6642Princess Michiko 66342Matsudaira 55








(左 : 「テニスコートの恋」で話題となった殿下と美智子妃 / 中央 : 「新時代のプリンセス」となった美智子妃 / 右 : 松平信子)

  事情を知らない当時の庶民は、「ミッチー・ブーム」で大盛り上がり。国民の熱狂を背にしたマスコミは、皇太子夫妻の記事を書きまくり、雑誌社も調子に乗って美智子妃の写真を大々的に載せていた。しかし、皇室の伝統を尊ぶ上流階級は、「開かれた皇室」を苦々しく思っていた。とりわけ、“藝能人化”するプリンセスには大反対。殿下の友人で、学習院中等科から大学まで一緒だった藤島泰輔(ふじしま・たいすけ)は、大衆の晒し者になる「週刊誌天皇制」を否定していた。曰く、「皇室を敬愛する日本人にとっては、シンデレラ物語は不要」であるらしい。加瀬俊一(かせ・としかず)元国連大使の息子である加藤英明(かせ・ひであき)も「見世物(pageant)」となる皇族には反対を示していた。伯爵夫人の酒井美意子(さいか・みいこ)も皇室を敬愛する旧華族であったが、ニュー・タイプの皇族には賛成できなかった。橋本氏によると、旧華族の人々は「皇太子の味方であるはずなのに、彼らの理想像たる天皇概念から皇太子の現実像は外れている」と感じてしまい、「マイホーム・パパ」となった皇太子を肯定することはなかったらしい。(上掲書、p.202.)
 
  皇室を守りたい上級国民は、女優のように振る舞う美智子妃に眉を顰め、宮内庁にも皇太子妃(平成の皇后)に反撥する人が少なくなかった。有名なのは浩宮殿下に仕えた濱尾実(はまお・みのる)侍従である。美智子妃が衣装代に年間何千万円も費やしたのは、自分がどのように写るのか、世間がどのように自分を評価するのかを気にしていたからだろう。つまり、美智子妃は香淳皇后のような「簾(すだれ)の奥でうずくまる老婆」じゃなく、西洋風の煌(きら)びやかなプリンセスに憧れていたのだ。濱尾氏は美智子妃の行動を暴露する。

  皇后さまはマスコミ報道を非常に気になさいます。新聞などで、皇室記事に関する雑誌広告を目にされると必ず、「これを買ってきてください」と侍従に指示なさるほどです。ですから、女性週刊誌は毎号といっていいほどご覧になっていると思います。(「『恐れながら、美智子皇后に申し上げます』」『週刊ポスト』p.59.)

   美智子妃の「御洒落好き」は有名で、ドレスの仕立てに関しては非常にうるさく、ハリウッド女優並みのファッションをモットーにしていた。たぶん、日本版のグレース・ケリーでも目指していたんじゃないのか? 1993年の歐州訪問では、約2億円の経費がかかったそうだが、この金額には飛行機代は含まれていなかった。宮内庁主計課の予算担当者によると、「両陛下がお召しになるご服装の新調代は、三千万円といった具合」であった。ということは、衣装代だけで1ヶ国につき1千万円以上もかかっていたことになる。皇后陛下は同じ服を着ることはできないので、毎回毎回、服を新調したそうだ。(「天皇訪歐費用『2億円』の中身」『週刊新潮』1993年9月9日号)

  濱尾氏は週刊新潮のインタビューで、たまりに溜まった皇后陛下への不満を吐き出していた。曰く、「何も見すぼらしい格好で行って下さいというわけではありませんが、国内で着ていらっしゃる服で十分ですよ。質素を旨とする皇室の伝統はどうなっているのか、と問い返したい気持ちになりますね」と。(上掲記事)

  一般国民の中には、濱尾氏の暴露に反撥し、「皇后陛下バッシングだ!」と憤るが、マスコミに語るくらいだから、そうとう腹に据えかねる出費であったのだろう。皇室に仕える侍従なら、皇族の欠点には目を瞑(つむ)るはず。多少の浪費なら「仕方ない」と諦め、決して雑誌記者に漏らすことはない。だが、皇室擁護派の濱尾氏が意を決して公表したということは、美智子妃の浪費癖が相当酷かったということだ。確かに、香淳皇后が衣装代に1千万円とか1億円を使ったという話は聞いたことがない。昭和天皇と同じく、久邇宮出身の香淳皇后はとても質素で、女優のような振る舞いは考えもしなかった。

Princess Michiko 5543Princess Michiko 3245Princess Michiko 6654Princess Michiko 6624







(上写真 / 「ハリウッド女優」並みの美智子妃)

 「チャンネル桜」の水島社長は、一般国民が皇族に対して批判を述べると、すぐ「皇統の断絶を目論む反日勢力だ!」とか「支那工作員の手下である!」と言い放つが、皇后陛下の協力無くして、マスコミがあんなにたくさんの写真集を出すことが出来るのか? 三笠宮寛仁殿下は、自分の振る舞いを棚に上げて、皇族の藝人化とマスコミの報道を非難していた。髭の殿下は「開かれた皇室」に反対し、「我が国の皇室に対しては馴染まない」と述べていた。(寛仁親王・工藤美代子『皇族の「公」と「私」』PHP研究所、2009年、p.188.)殿下はテレビや雑誌に取り上げられる皇族を話題にし、以下のように語っていた。

  時代の変化に合わせて、少しずつ世の中にお出ましになるようになりましたが、いまはマスメディアに煽られて、不必要なものまで、人の目に触れるようになりました。・・・現在は、天皇ご一家や、秋篠宮様たちをタレントのごとく扱う記事やニュースが頻繁に出てきて、芸能人のごとしです。(上掲書、pp.188-189.)

  三笠宮殿下は歌手や女優のように振る舞う皇后に賛成しなかったが、当の美智子妃は積極的にカメラの前に姿を見せていた。もし、マスコミの取材や写真撮影を嫌っていたら、あんなに多くの特集は実現しないだろう。もし、令和の高校生や大学生が、過去に出版された写真集を全て見たらビックリするぞ。皇室について無知な女子高生なら、「えっ、美智子さまは、スターダストかオスカーの所属タレントなの?」と尋ねてしまうだろう。浅丘ルリ子だって、あんなに多くの写真集を出しているとは思えない。

  身近で皇后陛下を眺めていた側近や皇室支持派は、美智子妃の振る舞いを咎めていたが、筆者は美智子妃の浪費癖を責める気にはならないし、気晴らしになるなら仕方ないと思っている。それに、若くて美しい皇太子妃、そして後の華麗なる皇后陛下に国民が浮かれていたんだから、全体的に見れば良かったんじゃないか? 皇室ファンのオバちゃん達は、ファッショナブルなプリンセスに憧れていたし、そのファッションを真似して喜んでいたんだから、衣装代が年間10億ないし20億円になっても割が合うだろう。だいたい、有害な左翼議員に何百億も与えているんだから、皇后陛下に100億円を渡しても文句はあるまい。

  筆者が皇室に対して愚痴をこぼすのは、皇族が「悪い事」をしている場合のみ。不正行為をしていなければ、公務をサボってもいいし、「慰霊」と称して観光旅行に行ってもいいと思う。上皇陛下や皇太后陛下が靖国参拝を嫌うなら、それはそれで構わないし、マスコミから叩かれるのが厭なら、江戸城の中で祈ればいいじゃないか。水島社長のように「ご参拝を!」と陛下に要求するのは無理難題である。もし、宗教儀式が長時間で面倒なら、10分くらいで切り上げ、後は「省略」でもいいと思う。神様だって赦してくれるんじゃないか。上皇陛下が幸せな夫婦生活を送り、やましい悪事をしていなければ、それで充分。皇室の将来は皇族が決めることで、平民が容喙することじゃない。我々に不満があれば、その都度“不満”を口にするだけでよく、皇室の問題は最終的に今上陛下が決めることだ。

  次回に続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68926313.html
19:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/05/09 (Tue) 02:43:17

2023年05月08日
嫌われる皇族の理由 / 秋篠宮家はどうなるのか? (前編)
秋篠宮殿下が「日本の代表」なんて嫌だ !
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68931687.html

King Charles III & Queen 002Prince A 70834
  秋篠宮殿下と紀子妃殿下がチャールズ3世の戴冠式に出席し、ようやく一段落となったが、週刊誌による秋篠宮家批判は絶えることがない。筆者は週刊誌の報道を全て否定するつもりはないが、雑誌記者が持ち出す「国民の声」というのは怪しいと思っている。中には捏造の声もあるだろうし、誇張された記事だってあるだろう。もしかしたら、皇室破壊を目論む左翼分子が“保守派”をかたって投稿しているのかも知れないし、日本人に扮した支那人が、意地悪で辛辣なコメントを書き込んでいるかも知れないのだ。それでも、国民の一部に秋篠宮への嫌悪感が蔓延しているのは確かで、秋篠宮殿下が今上陛下のように素晴らしい人物とは言い難い。

  筆者は誰だか判らぬ「匿名の国民」が発する声など信じない。だが、購入者の中には信じる人も居るようだ。なるほど、一部の国民は殿下の戴冠式出席に不満であったが、そもそも不人気のチャールズ3世の式典なんだから、誰が招かれてもいいじゃないか。もし、秋篠宮殿下が行きたいのであれば手筈を整えてやればいいし、悠仁親王殿下を連れての観光旅行でもいいだろう。どうして秋篠宮殿下じゃ厭なのか? もし、今上陛下が訪英となれば、15時間くらいの缶詰状態になるから、気楽な外国訪問じゃないだろう。

  秋篠宮家に関する不評の根源は、殿下と妃殿下の“人柄”にある。保守派の言論人は秋篠宮殿下を庇うため、歴代天皇の系譜を持ち出し、萬世一系の皇統を懇切丁寧に説明するが、皇室に関する教育を受けていない民衆にとったら“ウンザリする説教”でしかない。普通の庶民は天皇陛下の“人格”を肌で感じるから、「有り難い存在」として敬愛し、その“威厳”にひれ伏す。机に向かって千年の歴史を勉強したから尊敬する訳じゃない。一般的に、巷の庶民は天皇陛下に直接会ったことはないが、テレビで拝見する陛下の雰囲気で“立派な天皇”と判断する。他方、秋篠宮殿下の話し方や態度を観ると、直感的に“ダメな人”と思ってしまうから、番組キャスターがいくら殿下を褒めても、その言葉は虚しく響き渡るだけ。生理的に嫌いなんだからしょうがない。

  建前上、日本人の宗教は神道や仏教となっているが、一番根深いのは「学歴信仰」の方である。冷静に考えればアホらしいが、大学や高校の入試試験は“神聖な儀式”だ。それゆえ、賄賂や人脈で「合格」の身分を得る者は、“冒瀆行為の異端者”と見なされる。普通の皇族は「皇室の威光」で大学へ“特別入学”したり、側近や友人の“助力”で学位を得ることはない。特に、秋篠宮殿下は、前々から“皇族の特別扱い”を嫌う傾向があったそうだ。(「秋篠宮皇嗣夫妻『信号を止めるな』大騒動 宮内庁が憂慮する交通格差」『週刊ポスト』2021年3月19・26日号)

  東大や京大はもとより、学習院大学でも「皇族の特別扱い」は無かったそうで、フランス文学を専攻していた故・篠沢秀夫名誉教授によれば、「特別入学」とか「裏口入学」はなく、試験の結果で判断を下していたそうである。(篠沢 秀夫「死の床より申し上げます 誰よりも深く愛子さまの教育を憂う」『文藝春秋』2011年2月号)おそらく、徳仁親王殿下が入学する時も、学習院大学は「徳仁親王殿下だから無条件で受け容れよう」とは考えず、ある程度の筆記試験というか能力検査を課したはず。

Emperor 7743(左 / 皇帝の風格が漂う天皇陛下)
殿下が大学院へ入った時も“実力進学”と推測できる。オックスフォード大学で水の研究をなされた時も、真剣に“英語”で勉強されたはずだ。真面目な皇太子殿下の性格を考えれば、「ズル入学」なんて想像できない。ちなみに、陛下が1993年に出版された『テムズとともに 英国の二年間』が、今年、紀伊國屋書店から復刊されて、アマゾンではベストセラーになっている。「学習院教養新書」版の方は、古本なのに驚くような高値が附いている。やはり、陛下の人気は凄い。

  一方、秋篠宮殿下の方はどうなのか? “英語”で書かれた秋篠宮殿下の博士論文については、以前のブログで触れたのでここでは述べない。しかし、夫婦揃って“疑惑の学歴”をつけるのは問題だ。紀子妃殿下は2013年に『結核予防の意識と行動について : 結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より』という論文を提出して博士号を取っている。どんなレベルの論文か判らないけど、もし、そんなに素晴らしい博士論文であるなら、宮内庁のホームページに掲載し、誰でも閲覧できるようにするべきだ。国民の中には論文をダウンロードして詳しく拝読したいと願う人もいるので、印税を求めずに公開してもらいたい。ところが、妃殿下の論文は国会図書館にまで行かないと閲覧できない。これでは、国民の疑惑が深まる一方だ。

  しかし、なぜ紀子妃殿下は博士号が必要だったのか? 一つの推測として、悠仁親王殿下をお茶の水大学附属小学校に入れるため、と考えられる。もし、「研究員の子供」として特別入学させたければ、母親が「研究員」の身分を手に入れなければならない。そこで、妃殿下はロイヤル・パワーか幽霊(スタンド)を使って博士論文を作成したんじゃないか? 『文藝春秋』が、ある秋篠宮家関係者の話を紹介している。

  「秋篠宮ご夫妻は幼稚園からの3年保育を望んでおり、学習院幼稚園が2年制なのに対して、ちょうど紀子さまが研究活動をされていたお茶大幼稚園が条件に合っていた。それで同大の女性研究者を支援する特別入学制度を利用して入園されました。」(「悠仁さま十五歳の憂鬱」『文藝春秋』2022年4月号) 

  この迂回入学なら何とか誤魔化せるが、北九州市の作文コンクールでは「致命的なヘマ」をやらかしてしまった。悠仁親王殿下は『小笠原諸島を訪ねて』という作文を提出して「佳作」を受賞したが、後に“剽窃”が発覚し、参考文献を巧妙に編集して「自分の文章」にしたことがバレてしまった。チャンネル桜の水島総社長は、「皆で寄ってたかって、中学生を責めるなんて酷いじゃないか!」と怒ってたが、これを話題にした国民は、ロボットのような親王殿下じゃなく、幽霊作家を雇った紀子妃殿下を批判したんじゃないのか? そもそも、凡庸な中学生が、あんな作文を書くことは出来ないし、自分の金で幽霊を雇うことも出来まい。おそらく、「推薦入学」の“材料”や“根拠”が必要だったから、作文コンクールに目を附けたのだろう。数学や科学での“実績”にすると、色々と詮索されてしまうので、曖昧な「国語」の評価なら、適当にチョロまかすことが出来ると思ったのかも。審査員は主催者の顔色を窺って忖度(そんたく)するから、「怪しいなぁ~」と思っても「素晴らしい!」と褒めちぎるしかない。

  週刊誌は紀子妃殿下に辛く当たるが、筆者はちょっと“気の毒”に思っている。文仁親王殿下と結婚された時は、まさか皇太子を産む破目になるとは考えていなかったはずだ。次男の嫁として比較的気楽に過ごせると思ったんじゃないか? しかし、雅子妃に男子が望めなくなったので、体外受精か男女産み分けで悠仁親王殿下を産む役目になってしまった。国民の中には「まさか!」と思う人もいるだろうが、高齢出産で「男の子の誕生」なんて、あまりにも出来過ぎている。(当時、妃殿下は39歳で、一般的に「高齢出産」は35歳以上の妊婦を指す。) 小泉純一郎総理は安倍晋三官房長官から「御懐妊」の知らせを受けて驚いていたけど、ちょっと賢い国民なら、「もしかして、体外受精の“男女産み分け”なのか?」と怪しんだはずだ。(生殖医療技術の発展に関しては、医学界でも1980年代後半から様々な論争が巻き起こっていた。)

Princess Kiko 55342Princess Kiko 6439Princess Kiko 743
(左 : 独身時代の紀子妃殿下 / 中央と右 :「作り笑顔」が普通になった妃殿下)

  「未来の天皇」を育てる国母となった紀子妃殿下は、運命とはいえ、本当に可哀想だ。昔は単なる「次男の嫁」で、バレーボール部の「洗濯係」程度で良かった。ところが、悠仁親王殿下を産んだ事により、100名か200名の部下を率いるキャプテンになってしまったのだ。軍隊に譬えれば、ジャガイモの皮剥きをする一等兵が、いきなり大佐や中将になったようなもので、あまりにも“荷”が重すぎる。それゆえ、周りからのプレッシャーに押しつぶされそうなるし、ちょっとした事でも敏感になってヒステリーの連発なんだろう。でも、「狐の笑顔」から「般若の顔」に変わる瞬間は恐怖だ。

  週刊誌が報じるように、雅子妃への劣等感を持っていたのかどうか判らないが、紀子妃殿下の努力は空回りなのかも知れない。ある元皇族が妃殿下について語っていた。

「学習院も立派な学校ですが、海外留学をしていないことや、雅子さまのように社会に出て働いたことがないことに少しコンプレックスを感じておられるようです。今年、お茶の水女子大学に人文科学系の論文を提出して博士号を取得されました。学識を深めたいという純粋な動機はもちろん、経歴としても立派なものを持ちたい、というお気持ちもあったように拝察します」 (「皇室特別レポート 紀子妃の大研究」、『週刊現代』2013年11月23日号)

  旧皇族に連なる関係者も、次のようなエピソードを明かしていた。

 「ご結婚なさる前、大学生だった紀子さまが出された直筆のお手紙を拝見したことがあります。とても素朴な文章だったのが印象に残っています。それでいて、ところどころ辞書からそのまま引っ張ってきたような難しい四文字熟語や漢字が使われている。なにか無理をなさっているようで、違和感がありました。『ああ、紀子さまは皇室の一員になるに当たり、他の皇族の方に比べてご自身に日本語力が足りないことに、少し劣等感を感じてらっしゃるのではないだろうか』と感じたことを覚えています」(上掲記事)

  紀子妃殿下が“教養”の面で苦労されている事は、端から見ていても何となく察知できる。巷の教育ママは「バイリンガル教育」とやらを持て囃すが、日本人が「日本」で暮らし、「日本人」として生きてゆくのであれば、国語の勉強を優先すべきだろう。ただし、親の都合で海外生活をする子供は、自分の運命を選べないから本人が努力するしかない。『週刊現代』の記者によれば、紀子妃はペンシルベニア大学に留学する父・川嶋辰彦氏に伴われ、1歳から6歳まで海外で過ごしていた。彼女は現地の小学校に入るが、父親の方針で家でも会話となれば全て英語だったという。そのため、紀子妃殿下は英語を「母国語」として育ったようだ。

  「ホンマか?」と疑いたくなるが、たぶん、これは川島家から発せられた宣伝エピソードだろう。もしかすると、宮内庁が「英語が得意な紀子様」というイメージを創るため、わざと流したプロパガンダなのかも知れない。よく、皇室と昵懇の担当記者や御用評論家は、水面下で宮内庁や川島家と結託し、秋篠宮家を掩護(えんご)する偽情報を流すから注意が必要だ。

Princess Kiko 89342(左 / ご婚約当時の紀子妃殿下)
  例えば、紀子妃殿下は小学生の時、ウィーンにも住んだことがあるという。有名な渡邉みどり(皇室評論家)によれば、紀子妃殿下は「ドイツ語を普通に話した」そうだが、大学時代の友人によれば、第二外国語の授業で支那語を選んだそうだ。この友人は「どうしてドイツ語を選択しなかったのか?」と不思議がったが、おそらく「チョロまかし」が利く言語の方を選んだのだろう。漢字なら質問されても推測で答えられるし、本屋に行けば現代語訳の「漢文」書籍が並んでいる。虎の巻も手に入るから、宿題でズルも可能だろう。しかし、ドイツ語だと発音や文法、語彙の点でメッキが剥がれてしまうから、なるべく避けた方がよい。

  とにかく、秋篠宮両殿下が英国を訪問し、チャールス3世の戴冠式に出席するという報道は、国民の多くに違和感を与えたようだ。5月6日に秋篠宮殿下が出席なさると報道されるやいなや、多くの国民が殿下の代理出席に不快感を表した。(「チャールズ国王の戴冠式、秋篠宮ご夫妻ご出席に抗議殺到 スキャンダルは英国でも大々的に報道」『週刊新潮』2023年3月23日号)ある者は宮内庁へ抗議の電話を掛け、別の者はインターネット・ニュースのコメント欄に不満をぶつけたという。

 確かに、今上陛下と皇后陛下が御出席となれば日本人としても誇らしいし、現地である程度の歓迎を受けるだろう。だが、陛下の“代理”として訪英するとなれば、英国王室の方だって“それなり”の歓迎しかしないだろう。日テレの映像を観たら、案の定、ブリテン側の態度は冷たく、秋篠宮殿下がスタンステッド空港に到着し、飛行機のタラップを降りたら、地面には赤絨毯が敷かれていなかった。しかも、出迎えたのは駐英日本大使と誰だか判らぬ英国の役人一人だけ。外務省の一等書記官が到着したのかと錯覚するほどの光景だ。

  一般国民は殿下の「英語力」に疑問を持ち、「どうして英語が堪能な天皇陛下や皇后陛下が出席なさらないんだ?!」と訝(いぶか)しむが、日本の皇族なんだから、堂々と「日本語」で通してもおかしくはないだろう。イギリス人の英語が難しいのであれば、大使館の通訳を呼んで隣に立たせればいいじゃないか。確かに、秋篠宮殿下は英語会話が拙く、他人の力で英語論文を書いてしまったから、普通の国民から批判されてもしょうがないけど、英語を喋ることは教養人の証拠じゃないぞ。。

  ところが、宮内庁と結託した主流メディアは、「英語を流暢に話す秋篠宮両殿下」というプロパガンダを垂れ流した。以前、両殿下がギリシアの首相と会ったとき、テレ朝の番組は「通訳無しで会話されました」と報道し、戴冠式でも「“英語”でメッセージを述べられました」と褒めちぎっていた。なぜ、マスコミは意図的に「英語力」を強調したのか? おそらく、担当記者が宮内庁との協定を結んだからだろう。つまり、宮内庁から贔屓を受ける代わりに、「英語が得意な殿下」という“刷り込み”を一般国民に行う、という密約だ。報道番組でサブリミナル効果やステルス・マーケティング(stealth marketing)の手法は厳禁だが、皇室報道ならOKなんだろう。

Prince A in EnglandPrince A 68093
( 左 : オックスフォード大学留学時代の秋篠宮殿下 / 右 : 英国の戴冠式に列席された秋篠宮両殿下 )

  読売新聞はもっと露骨で、殿下が1988年から1990年にかけてオックスフォード大学のSt.John's Collegeに留学したと紹介し、ブリテンの王族と「心温まる、友好的な関係(cordial relations )」を深めていった、と書いている。 (‘British Coronation: Japan’s Crown Prince Returning to Student Days,’The Yomiuri Shimbun, May 2, 2023.)「ホンマかぁ~?」と猜疑心が強くなる記事だが、フジテレビも負けずに「留学時代の秘話」を紹介し、学生時代の殿下を世話したトマス・ケンプ元教授にインタヴューを行っていた。ケンプ氏は殿下を“優秀な学生”と評し、“熱心”に勉強していたと褒めるが、どんな「学問的業績」や「研究成果」があるのかは公表しなかった。FNNは殿下が教授の説明に聞き入っている姿や当時の映像を流したが、若き殿下は教授の話に頷くばかり。殿下はイギリス人と会話する時は、やたらと「聞き上手」で、ユーモアを交えて流暢に話すことは滅多にない。「B&B」の島田洋八と同じく“頷く”ばかり。

  昔、ヘンリー王子に話しかけられた時、秋篠宮殿下は何を言われているのか解らなかった。これに呆れたヘンリー王子は、「英語が通じない奴なんだ」と判り、適当にあしらっていたから、観ている日本人の方が恥ずかしくなる。たぶん、秋篠宮殿下の留学も「試験無しのコネ入学」なんだろう。「熱心に勉強」するだけなら、小学生にも出来るじゃないか。それに、どうして殿下はちょくちょくタイへ旅行されるのか? 「学術交流」なら、母校のオックスフォードを訪問し、優秀な動物学者と一緒に鯰や鶏を論ずればいいだろう。イングランドだけじゃなく、アメリカやカナダにも一流の動物学者がいるから、タイよりも学問的水準は高いはずだ。

  ところが、秋篠宮殿下はなぜかタイが大好き。宮内庁のホームページを見れば判るけど、「殿下は池田大作と同じタイプなのか?」と驚くばかりだ。宮内庁の「紹介文」を以下に引用する。

   殿下は今までに幾度となくタイへ魚類や家禽類の調査で訪問され、その成果をいくつかの学術論文として発表されました。それらのことから、タイにおける水産振興や家禽学への貢献に対し、平成7(1995)年9月に同国カセートサート大学から理学(水産生物学)、ブーラパー大学から理学、平成11(1999)年7月にコーンケーン大学から理学(水産学)、平成13(2001)年8月にシーナカリンウィロート大学とチュラーロンコーン大学から理学、平成15(2003)年8月にウボンラーチャタニー大学から理学(農学)、平成19(2007)年3月にキングモンクット工科大学から理学(水産学)、平成23(2011)年3月にカセートサート大学から理学(畜産学)、チエンマイ大学から人文学(人間・環境管理学)、平成24(2012)年11月にタマサート大学から理学(農業技術)、平成30年(2018)年12月にマハーサーラカーム大学から生物学の名誉博士号の贈呈をお受けになりました。
 
  いやぁ~凄い。日本企業がたくさん集まるタイ王国だと、日本の皇族はこんなにも賞賛されるのか! 一部の国民は「どうして殿下はタイばかり訪問されるのか?」と疑問に思うが、おそらくタイ人は「格下の劣等民族」だから、殿下は“くつろいだ”会話ができるんじゃないか? もし、イングランドに行けば、会話は「通訳抜き」の英会話となるし、イギリス人はタイ人みたいにペコペコしないから、秋篠宮殿下としては不愉快だ。しかも、イギリス人の学者は「どんな論文なのか? どんな研究結果を得たのか? 」と詳しく訊いてくるし、質問された殿下も英語で具体的に説明しなければならない。イギリス人はタイ人と違って下らない演説に我慢しないから、カタカナ英語の演説なんて誰も聞かないし、最初から講演会に出席しないと思う。だから、殿下がイングランドを避けるのも当然だ。上流や中流階級のイギリス人は、「日本の皇族だから」といって卑屈にならないし、ジャングリッシュを喋れば「何言ってるのか解らぬ!」と言って無視する。博士号を持つ殿下としては面目丸つぶれだ。

  こうした背景を知れば、皇室支持派の一般国民だって、秋篠宮殿下の訪英に“無理”があることくらい解るだろう。でも、宮内庁は「次期天皇の父親」というイメージを国民に植え付けたいから、わざと五月に園遊会のスケジュールを入れ、陛下の戴冠式出席を不可能にしたのだろう。チャンネル桜の高清水裕子や水島社長は、皇太子時代の上皇陛下を例に取り、「秋篠宮殿下が代理で出席でも異論は無い」と言い張った。しかし、訪英した上皇陛下は、エリザベス女王の戴冠式で邪険にされ、その扱いは憤慨するとほど酷い扱いだった。(波多野勝著『明仁皇太子 エリザベス女王戴冠式列席紀』を参照。)

 日本人は過去を水に流すから健忘症となりやすいが、イギリス人やスコット人は何時までも戦争を覚えている。第二次世界大戦で日本は英国と敵対関係になり、イギリス人が自慢する戦艦「プリンス・オブ・ウェイルズ」を沈めたことがある。しかも、植民地であったビルマにも手を出したから、総督のマウントバッテン卿は昭和天皇を深く憎んだ。このマウントバッテン卿はチャールズ王太子にとって「師父」ともいうべき存在で、未来の国王に大きな影響を与えた親戚の伯父さんである。

Lord Mountbatten 22Emperor S 2713Prince A 643Prince A 70932
(左 : マウントバッテン卿 / 中央 : 若き日の昭和天皇 / 右 : 若い頃の秋篠宮殿下と紀子妃殿下)

  1971年、昭和天皇が英国を訪問された時、面会を嫌ったマウトンバッテン卿は意図的にロンドンを離れた。しかし、歓迎の晩餐会でマズいと思ったエリザベス女王は、急遽、マウントバッテン卿に連絡をつけ、何とか説得して連れ戻すことができたという。昭和天皇とマウントバッテン卿は宮殿のプライヴェート・ルームで会ったそうだ。こうした過去を知っている日本人なら、地上波テレビが言う「皇室と英国王室の親しい関係」とか「秋篠宮殿下を温かく迎えるチャールズ国王」なんて嘘と判るだろう。ワイドショーばかりを観る国民なら騙せるが、昭和時代を覚えている国民は騙せない。

King Felipe & Queen Letizia 1King Carl XVI Gustaf & Princess Victoria of Sweden
(左 : フィリペ国王とレティシア妃 / 右 : カール16世とヴィクトリア王女)

  そもそも、チャールス3世は国家元首の出席を望んでおり、普通なら今上陛下が参列するはずだ。実際、何人も国王が出席しているので、日本の天皇陛下が御出席となっても不思議じゃない。例えば、スペインからはフィリペ国王とレティシア妃が来ていたし、スウェーデからはカール16世とヴィクトリア王女、ベルギーからフィリップ国王とマルティルデ王女、ネーデルラントからはウィレム・アレクサンダー国王とマキシマ妃が出席していた。したがって、日本の天皇陛下と皇后陛下が訪英されてもルール違反じゃない。

King Philippe & Queen Mathilde of BelgiumKing Willem-Alexander & Queen Maxima of the Netherlands 003
(左 : フィリップ国王とマルティルデ王女 / 右 : ウィレム・アレクサンダー国王とマキシマ妃 )

  天皇家を優先する皇室支持派は、「秋篠宮殿下じゃ厭だ、恥ずかしい!」と愚痴をこぼすが、筆者は「どうでもいい」と思っている。たとえ、レセプションで両殿下が孤立しようが、現地メディアから無視されようが構わない。殿下の出席は外交儀礼の一環だから、建前の表敬と礼状の贈呈が主な仕事だ。日テレの人気番組、「初めてのお使い」と同じ性質の訪英だから、ヨーロッパの王族と会っても適当に笑顔で対応するだけでいい。無理な期待をする国民の方が間違っている。

Prince Albert & Princess Charlene of Monaco(左 / アルバート公とシャルレーヌ妃)
  チャンネル桜の高清水氏は、「日本の皇室は世界で最も古い」とか、「外国の王族が尊敬するロイヤル・ファミリー」と述べ、矢鱈と秋篠宮家を擁護していたが、そんなのは“夜郎自大の自惚れ”でしかない。歐米諸国のジャーナリストは秋篠宮殿下を見ても誰だか判らないし、悠久の歴史を誇る皇族と知っても興味は無し。それよりも、外国のメディアは日本より格下となるモナコ公国を取り上げ、アルバート公とシャルレーヌ妃の写真を大々的に載せていた。

  日本の皇室が二千年以上の歴史を持っていても、そんなのはカッパドキアかバビロニアに存在した古代人の王族みたいなものだ。トルコから西は全て「オリエント地方」であり、日本が何処にあるのかさえ判らない。だいたい、米国の属州が最古の皇室を自慢しても、貧乏なエチオピアの皇帝と同じ扱いだ。庶民の小娘であった紀子妃殿下が、いくら着飾っても「馬子」程度。社交界に登場しても「透明人間」でしかなく、存在感は10のマイナス6乗くらい。電子顕微鏡で探さないと判らないプリンセス、といったところだ。

  ところが、国民の白痴化を促すテレビ局は、秋篠宮殿下が如何に厚遇されたのかを宣伝していた。例えば、TBSは王太子クラスの中で、秋篠宮殿下が最前列の席に坐っていたと喜んでいたが、それは外務省の役人が前もって英国側に頼み込んでいたからだろう。さすがに、アフリカやアジアの参加者に交じっての末席では、日本の国民に申し訳が立たないから、たぶん現地の役人が土下座したか、色々な賄賂、つまり相手が欲しがる“手土産”や“間接的な利益供与”で最前列にしてもらったんだろう。メンツの為なら50億でも100億円でも惜しくはない。どうせ税金なんだから、気前よく使っても大丈夫、という訳だ。

  次回に続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68931687.html
20:777 :

2023/06/06 (Tue) 13:27:02

神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、 神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798
21:777 :

2023/06/24 (Sat) 08:51:06

林千勝

近衛上奏文を読めば、隠したかった「構造」が見えてくる [これが本当の近現代史#100]
2023/06/03
https://www.youtube.com/watch?v=B_VqXCuV7oc

戦前・戦中・戦後 全てに仕掛け有り [これが本当の近現代史#103]
2023/06/23
https://www.youtube.com/watch?v=1PHUTOQ_TOM
22:777 :

2023/07/23 (Sun) 11:21:01

繁田信一 『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132193

優雅で華やかは間違い!平安時代の嘘!!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14099959
23:777 :

2023/07/23 (Sun) 17:31:09

茂木誠 _ 皇統の危機/「旧宮家」について説明します
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132283




皇室がDNA公開を厳禁している理由
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/242.html

秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007930

旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014079
24:777 :

2023/08/15 (Tue) 08:23:04

大神神社の初代神主のオオタタネコのミコト が記したとされる『ホツマツタヱ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139992



古事記(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/514.html

日本書紀(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/513.html

先代旧事本紀 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/515.html

古語拾遺(現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/516.html
25:777 :

2024/02/29 (Thu) 06:03:18

ゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ~神武東遷・邪馬台国・空白の四世紀
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2024/02/15
https://www.youtube.com/watch?v=iSlBLpHywTk

古墳時代に日本に大量の渡来人がやってきた~! DNAのゲノム解析からわかってきた 日本人のルーツ。古墳時代、渡来人が大量に日本にやってきた!縄文・弥生・古墳時代の歴史をどう読み解けばよいのか?皆さんにわかりやすくお話しします。また、銅鏡からわかることも併せて。久しぶりの古代史シリーズです^^
葛木御歳神社



邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4

葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/


葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1

葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。


古代の出雲と葛城と九州の関係~二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後~
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2

葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。


出雲の国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
https://www.youtube.com/watch?v=XaXF-4jJYqc&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=3

後編では「出雲国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。


葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/videos


神社講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBpI_iRu3GEZul02S3SNKUz

祝詞 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBUriHXbpCFyYCWOI4sh3U4

全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ

葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO

古代史・神話解説 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z


葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1

葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。


古代の出雲と葛城と九州の関係~二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後~
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2

葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。


出雲の国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
https://www.youtube.com/watch?v=XaXF-4jJYqc&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=3

後編では「出雲国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。


葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/videos


神社講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBpI_iRu3GEZul02S3SNKUz

祝詞 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBUriHXbpCFyYCWOI4sh3U4

全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ

葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO

古代史・神話解説 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z



荒神谷から出土した多量の銅剣の埋納年代と埋納された理由
荒神谷から358本の銅剣が出土して久しいのですが、それらの銅剣はいつごろ埋められたのか興味があります。現在最も支持されている埋納年代と埋納された理由を教えてください。

アンサー
1 埋納年代について
  発掘した地層に炭化物が混じった焼土があり、鑑定でA.D.250± 80とA.D.1250± 80の年代測定結果が出ていますが、鎌倉時代はあり得ないので、前者であると結論付けています。
  3世紀ですね。
   ※ 荒神谷遺跡発掘調査概報3(島根県教育委員会)参照

2 理由について
  永らく不明でしたが、大国主が国譲りの際に恭順の儀式として武器を埋納したとの新説が出ています。(東北大学名誉教授:田中英道説)
  発掘された銅剣のほとんどに✖印が、鋳造時ではなく、後から刻印されているのも、同じく理由不明でした。
  これも廃棄して使用しないとの意味があると説明しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13278059.html
26:777 :

2024/05/29 (Wed) 09:29:57

2024年05月28日
皇太弟の実父は誰なのか? / 暗闇に光る皇室(5)
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html

幽霊作家を隠すインチキの常習者?

Prince Fumihito 2901Prince Akishino 324Hisahito 3945
( 左 : 秋篠宮夫妻 / 中央 : 礼宮文仁殿下と安西孝之 / 右 : 悠仁親王殿下)

  マスコミによる「秋篠宮バッシング」には、イチャモン程度のゴシップ記事が多いけど、秋篠宮家がマスコミの標的になるのは、あまりにも愚行や謎が多すぎるからだ。例えば、悠仁親王が書いたとされる『赤坂御所のトンボ相』論文は、飯島健と清拓哉との共著になっている。しかし、悠仁親王が「第一著者(first author)」というのは信じがたい。おそらく、この共同論文は国立科学博物館の清氏と東大農学生命科学研究科の須田真一が発表した『皇居のトンボ類』という論文が下地になっているのかも知れない。

  また、飯島氏は元々、つくば市にある国立機関「農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)」の研究員を務めていた人物で、今は宮内庁に勤めているという。つまり、トンボ研究の専門家と家庭教師を主筆にして、その先頭に「神輿」として悠仁殿下を載せた、というのが真相なんじゃないか? たぶん、悠仁殿下も何枚かトンボの写真を撮ったのかも知れない。だが、そんなのはカメラ好きの少年なら誰でもやることで、学術論文のレベルじゃない。志望校への「コネ入学」を正当化するためのアリバイ作りだろう。

飯島健 特別研究員
( 「特別研究員」だった飯島氏)

  悠仁親王殿下は頼りなさそうな少年ではあるが、宮内庁の計画では「優秀な皇位継承者」という設定になっているので、スポーツも得意な若き皇族となっている。しかし、実際の殿下は違うんじゃないか? 例えば、北九州市の懸賞論文では盗作がバレて赤っ恥をかいたし、「推薦制度」という“裏口入学”で難関の筑波大附属駒場高校に入った。どの大学に入るのか判らないが、もし「特別枠」で東京大学に進んだら、全国各地から苦情が殺到し、恨みや嫉妬で非難囂々だろう。「学歴信仰」が日本の宗教なのに、こんな不正をすれば、世間から激しい野次を受けても当然だ。

  また、「部活にも熱心な悠仁殿下」というのも虚構で、本当に運動神経がいいのかどうかさえ判らない。例えば、殿下は東京都春期高校バトミントン大会に参加され、関東大会の予選に出場したことになっている。しかし、大会主催者が公開した結果表(令和6年4月14日)には、悠仁殿下の名前が無いのだ。予選では「筑波大附属高校」対「八雲学園」、「武蔵野大千代田」、「修徳」、「芝浦工業大学」戦が行われ、試合番号「BT1-7」「BT1-18」「BT1-17」「Bt1-27」の対戦表を見れば、「姜・齋藤vs太田・藤縄」や「生田vs坂牧」などの試合結果が載っている。

  だが、なぜか悠仁殿下の対戦成績はカットされているのだ。ということは、悠仁殿下は予選に参加したが試合は行っていない、もしくは、試合はあったが記載するほどの価値が無い、と判断されたのかも知れない。でも、こんな侮辱を受ければ、宮内庁が大会の主催者側に「ふざけるな!」と抗議するはずなんだが、宮内庁が訂正を求めた形跡は無い。普通なら土下座で謝るはずなのに。

  もしかすると、殿下の大会出場を報じた「ニュース・ポスト・セブン」が偽情報を流した可能性もある。単に殿下が会場に赴いただけなのに、対戦試合をしたかのように報じたとも考えられるのだ。取材記者が伝聞だけで記事を書くこともあるので、「うっかりミス」という場合もある。宮内庁が悠仁親王に関する情報を閉ざし、様々な報道規制を敷いているから、適当な憶測記事が飛び交ってしまうのだろう。

Prince Hisahito 5309Prince Hisahito 6632Hisahito 624


  話を戻す。悠仁殿下に関する生情報は非常に少ないから、ちょっとした事件でも大々的に報じられる危険性がある。中学生の悠仁殿下が幽霊作家を雇って代筆させたという事件もそうだ。たぶん、周囲の誰かが仕組んだのだろう。もしかすると、両親が側近に命じて原稿を書かせたのかも知れないし、本人が稚拙な原稿を書いて幽霊が名文に仕上げたのかも知れない。おそらく、推薦入学の材料にしたかったから、「佳作」という賞を手配したんだろうが、ひょんな事から剽窃がバレて大恥をかいた。しかも、巧妙な編集がなされていたので悪質である。

  こうなると、お茶の水小学校を卒業した時に書いた「人は自然界の中で生きている」という作文も怪しい。この文章を読むと、いかにも出来の良い小学生が書いたように思えるが、何となく大人が注意しながら書いたように思える。つまり、子供らしい表現で書かれているが、ちゃんと考えた事が纏まっており、文章全体が引き締まっているから、何となく胡散臭い。子供ならもっと率直で、拙く書くのでは?

  悠仁殿下が作文でボロを出したのは本人の“せい”じゃない。秋篠宮夫妻じたいが不正の前科者であるからだ。以前のブログで説明したが、秋篠宮殿下が1996年に“取得”したとされる“博士論文”「Molecular Phylogeny of Jungleowls, genus Gallus and Monophyletic Origins of Domestic Fowls」は、英語で書かれているが、本文は42ページほどであり、残りは参考文献とデータを貼り付けたシロモノだ。学部生でもしない恥ずかしいくらいの水増しをしている。

  タイで行った英語演説では、研究分野を語っていたが、喋っている英語は中学生の片仮名イングリッシュ。殿下はオックスフォード大学の大学院に留学され、動物学科で魚の分類学を専攻されたというが、本当に自分で論文を書き、英語で級友と議論をしたのか? オックスフォード大で指導教官を務めたトマス・ケンプ教授は、「真面目で優秀な学生でした」と褒めていたが、 殿下がイギリス人の研究者と英語で語り合う録画映像は無い。少なくとも、一般国民が視聴できる動画は存在しないのだ。

  魚類や鳥類に関する「研究」が好きならしょうがないけど、どうしてあんなに名誉学位を欲しがるのか? 宮内庁のホームページを見れば判るが、色々な大学から名誉博士号をもらっている。例えば、

  平成7 (1995) 年9月  カセートサート大学から理学(水産生物学)
  平成15 (2003) 年8月  ウボンラーチャタニー大学から理学(農学)
  平成23(2011)年3月  カセートサート大学から理学(畜産学)
             チエンマイ大学から人文学(人間・環境管理学)
  平成30 (2018) 年12月 マハーサーラカーム大学から生物学

  秋篠宮殿下は名誉学位を11個も授与されているというが、これではまるで創価学会の名誉会長だった池田大作みたいだ。輝かしい「学歴」をつけて自慢したいのなら、イベント参加の時に名札や旗に贈与された学位を記せばいい。でも、そんなにしてまで国民に見せびらかしたいのか?

Prince Akishino in ThaiPrince Akihito & Princess Kiko 3907Princess Kiko 720


  紀子妃殿下も「博士」となっていたから、驚く国民も多いだろう。妃殿下は「お茶の水女子大学」で勉強されたそうで、「結核予防の意識と行動について : 結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より」という博士論文を書いていた。(秋篠宮紀子/ 取得学位 : 博士<人文科学> / 学位授与番号 : 乙第325号 / 学位授与年月日/ 2013年3月22日) しかし、この論文を読むには京都にある国会図書館まで行かねばならず、関東や東北に住む国民が手にしたいと欲すれば、関西館にお金を払って郵便配送してもらうしかない。

  どうして宮内庁は妃殿下の論文をPDFにして無料公開しないのか? 図書館の奥に秘蔵されたまま、なんておかしいぞ。紀子妃には「最近の結核に関する意識と予防行動について」『結核』Vol.87, Np.10(2012年)という学術論文があるけど、これは内容がスカスカで、単にアンケート結果を並べただけの紹介文である。こんなのは小室圭が雑誌に投稿した「優秀作文」と変わりがない。紀子妃の論文を読んで、いったいどんな利益があるというのか?

  それに、どうして皇族が「結核」について研究しなければならないのか? 現在の日本で結核が原因で死亡する国民が多いとは思えない。これは筆者の邪推だが、学会が注目する幹細胞やテロメアの研究、非コードDNA領域、ゲノム解析などの最先端科学を専攻すると、多くの人々が熟読してしまうから、なるべく地味で関心の薄い分野を勉強したとも考えられる。また、勝手な推測になってしまうが、もしかすると、博士号を取るための「専門分野」だったんじゃないか? つまり、悠仁親王殿下をお茶の水の小学校に入れるため、「母親が博士号を取って研究者の身分を得る」という計画だった、ということだ。(研究者の子供だと、優先的に入学できるから。)

 やがて悠仁殿下は皇位に就くことになるが、その時、マスコミは過去を蒸し返し、数々の不正疑惑を書き立てるだろう。ピンク左翼や反日分子は「裏口の宮ズルヒト天皇」と揶揄して、「頭の悪い皇族が権力で学歴をつけた!」と嘲笑うはず。将棋界では10代の藤井聡太が、自分の“実力”で竜王や名人、棋聖、王位などのタイトルを次々に奪取し、21歳で堂々の“8冠王”となった。日本人は「実力主義」で栄光に輝いた者を称賛するが、「銭の力」や「親の七光り」で優等生になったお坊っちゃんは軽蔑の言葉を投げつける。昔、格闘技団体「PRIDE」」で八百長試合があったけど、対戦相手が主催者と組み、審判までもがグルになっていたから、全国の格闘技ファンは激怒した。日本人は有力者が仕組む巧妙な不正が嫌いだ。

  だいたい、「トンボの研究」といっても、空を飛ぶトンボの観察をしているだけじゃないか! 筆者だって小学生の時、素手でトンボを摑むことが出来たし、昆虫の標本を作って友達に見せていた。しかし、それで東京大学とかICUに入れるとは思わなかった。もし、トンボを専門とする学者が殿下の「アドヴァイザー」になっているなら、それは皇室にたかって研究費の増額を狙う吸血鬼だろう。将来の天皇がトンボの研究をするとなれば、政府からの補助金が数千万から数億円支給される可能性だって出てくる。下心のある研究者や団体役員は、笑顔で皇族に近づき、その威光を利用して私腹を肥やそうとする。

  昔、学習院の院長を務めていた乃木大将は、「皇族は軍人になるべし」という考えを持っていた。もう敗戦から半世紀以上経ったのだから、悠仁殿下は裏口から有名校へ入らず、中卒で自衛隊の「高等工科学校」に入ればいいじゃないか。興味も無いトンボとか稲の研究じゃなく、少年自衛隊で国旗掲揚をしたり、一緒に軍事訓練をすれば、国民からの尊敬を得ることが出来るだろう。一般国民は見栄を張った優等生より、素朴な愛国心と信仰心の篤い凡人の方を評価するはずだ。もし、学校を卒業して陸自の三等軍曹にでもなれば、「ズルヒト君」の汚名を雪ぐことができるぞ。

秋篠宮殿下の血統は神聖なのか?

  秋篠宮殿下が国民の不評を買っているのは、その出自が何となく怪しいからだ。インターネット界隈では、「上皇陛下の息子ではなく、安西孝之が実父では?」と囁かれている。確かに、自民党の衛藤征士郎議員がYouTubeにアップロードした映像を観ると、安西氏と秋篠宮殿下はよく似ている。(2014年の第18回ゴルフ新年会に、フジテレビの日枝会長と一緒に参加していた。) しかし、これは単なる印象論なので、誰かが意図的に類似の人物を探し出し、それを拡散しているだけなのかも知れない。それでも、人々の間には疑念が広がるもので、「今上(徳仁)陛下は上皇陛下と似ているのに、なぜ弟の秋篠宮殿下は似ていないんだ?」という国民感情も理解できる。

  秋篠宮による男系男子を主張する八木秀次や竹内久美子は、「Y染色体」まで持ち出して、「126代の萬世一系」を強調するが、それなら上皇陛下と秋篠宮の親子関係を証明するDNA鑑定を実施すべきだろう。秋篠宮殿下の唾液を綿棒で採取するだけだから簡単だ。怪しげな匿名サイトでは、秋篠宮殿下が昭和電工の安西孝之と正田恵美子(美智子妃の妹)の間に生まれた子供で、流産した美智子妃の養子になった、という陰口が絶えない。まぁ、一般的に息子は父親の体型や人相と似てくるから、違っているように見えれば親子関係を疑う国民が出てくるのも当然だ。

Prince Akishino 3943Emperor Akihito 8209Prince Akishino 340
(左 : 安西孝之と秋篠宮 / 若い頃の上皇陛下 / 右 : 礼宮文仁殿下)

  筆者は宮内庁の説明より、科学的検査の方を信じる。現実の社会では、病院の看護婦が二人の赤ん坊を取り違えてしまい、何も知らぬ親が育ててしまう、というケースがあった。他人の赤ん坊と気づかぬ両親は、自分の子供と思って20年ないし30年も一緒に暮らすが、弟たちが兄の人相を疑って血液検査を強要したことで事実が判明した、ということもあるのだ。検査の結果で「他人」と判明すると悲惨なもので、仲良しだった家族が分裂する、という事態もあるらしい。鑑定前、両親は「馬鹿らしい」と却下するが、兄貴に疑いを持った弟たちが強く迫り、渋々ながらの検査ということもある。

  秋篠宮のケースも感情論や印象論ではなく、客観的な科学捜査で真実を追究すべきだ。それに、八木氏や竹内氏も染色体や遺伝子を持ち出していたから異論は無かろう。もし、竹内氏が「DNA鑑定は必要なし」と言い張るのであれば、それはとても奇妙だ。例えば、警察官は事件捜査の時、犯人のDNAと一致するのかどうかを調べるため、一応、無駄と分かっていても事件の被害者家族や友人などのDNAも採取する。そして、鑑定の結果から「違う」と判断されれば「容疑者」から外すので、あながち「不必要な検査」とは言えない。殺人事件などでは、親兄弟でも「犯人では?」と疑われるくらいだから、科学的捜査は大切である。もし、頑なに拒否する者がいたら、その方が怪しい。「不敬である!」と言ってDNA鑑定を阻止する秋篠宮ファンは、どことなく怪しい。

Emperor 723Emperor Akihito 82322Prince Akishino 96324


  筆者は男系で良いと考えているが、たとえ秋篠宮が安西氏の息子であっても、立派な人物であれば構わない。なぜなら、男系男子による皇位継承は“信仰”の領域であるからだ。大学教授や皇室研究家、歴史家、評論家達は、天照大神の子孫だ、神武天皇以来の皇統だ、八百万の神々を祭る大神主だ、と様々な説を唱えて皇室問題を論じるが、昭和や平成の学者で孝明天皇や後醍醐大帝の遺伝子を調べた者はいないし、弥生時代や平安時代、あるいは室町時代や江戸時代に君臨した天皇から、聖なる血液を抜き取り、皮膚や鼻水を採取した学者も皆無である。それゆえ、本当に同じ「Y染色体」が父親から息子へ受け継がれているのかどうか誰にも判らない。

  昔の日本には宗教的誡律で定められた性倫理は無かったし、「夜這い」も珍しくなかったから、長男が別人の子供という場合もあった。もし、女性が二股をかけて別々の男性と付き合っていると、どちらの精子で妊娠したのか判らない。B氏との性行為で子供を身籠もったのに、それを隠してA氏と結婚すれば、それは後々大問題へと発展するだろう。夫のB氏は自分の赤ん坊と思っているんだから。A氏の存在すら知らぬB氏は、生まれてきた息子を見て「目元や鼻が俺とソックリだ!」と勘違いするし、夫の両親も「息子の赤ん坊」と信じ切っているから、初孫に喜んだりする。

Prince Naruhito & Fumihito 111Emperor 424Prince Akishino 6209
(左 : 浩宮殿下と礼宮殿下 / 中央 : 今上天皇陛下 / 右 : 秋篠宮殿下 )

  宮中の人間模様も庶民と同じで、厳格な性倫理があったとは思えない。もし、側室や正室の女性が生臭坊主、あるいは親しい公家の誰かと不義密通を行い、それを隠したまま“御懐妊”となったら、「萬世一系の皇統」は偽の血筋で誤魔化されたことになる。朝廷に使える者が、生まれてきた皇子を「天子様の実子」と認めたからこそ、正統なな「皇位継承者」になった訳で、科学技術が未発達の時代だと、疑惑を嗅ぎつけても証明する手立ては無い。

  それに、現在の宮内庁には“信用”も無いから、たとえ政府や側近がDNA鑑定を行っても、世間は疑いの眼差しを向けるだろう。たぶん、検体をすり替えたり、鑑定人を抱き込んだりするから、宮内庁が発表する「DNAの一致」は証明にならない。秋篠宮家を守るためなら、真面目な顔で嘘をつくのが宮内庁の役人である。それゆえ、検査の時には皇室に批判的な科学者や正直な科捜研のベテランを加え、不正行為を防止せねばならない。昔の日本人は「皇族が不正行為をするはずがない」という前提で皇室問題を考えていたので、米国財務省の特別捜査官(the Untouchables)みたいな“買収されない対皇族捜査班”の発想が無かった。(英国のアンドリュー王子みたいに、ユダヤ人のバイシュン組織と昵懇になる貴族だっているから、日本の皇族の中に“ふしだら”な人物がいてもおかしくはない。)

  ついでに言えば、紀宮清子内親王にも疑惑があった。これは証拠に基づかない憶測だが、紀宮殿下は美智子妃と似ておらず、何となく“養子”という印象を受ける。単に“派手”な母と“地味”な娘というだけでなく、清子様に母親の“面影”が無いのだ。両者の顔を眺めていると、「なぜ、親子なのに清子様にはオーラが無いんだろう?」と素朴な疑念が湧いてくる。一般人の世界だと、年頃の娘は母親の若い頃と似てくる、という現象が大半なんだが、皇族だと違うのかも知れない。とはいえ、下界の社会では、赤ん坊の頃に違って見える娘でも、15歳や23歳くらいになると母親の若い頃と似てくるし、娘が子供を産んで中年に近づくと、自分を出産した頃の母親と表情がソックリになる。

Princes Michiko 6243紀宮 73044Princess Michiko 632紀宮 9932


  母親の幼馴染みだって、久しぶりに友人の娘を見ると、「昔のあなたとソックリじゃない!」と言って驚いたりするだろう。窓際族になったサラリーマンのオッちゃん達でも、中学や高校時代の親友に10年か20年ぶりに再会すると、成長した友人の子供に驚くことがある。それに、娘を嫁に出した母親だって、60歳とか70歳になると、亡くなった母親(祖母)と似てくることも。翻って、敬宮愛子内親王を見ていると、若き日の雅子妃にどことなく似ている。就職する愛子内親王を見た国民は、外交官時代の雅子妃を思い出すんじゃないか。

Princess Masako 832009Princess Aiko 7743Emperor 424Princess Aiko 6902


タイ王国にいる愛人は義理の姉妹

  もう一つ、秋篠宮殿下の行動で“謎”と思われている点は、タイ王国のプリンセスであるチュラポン王女との関係だ。1990年6月、礼宮文仁殿下が川嶋紀子さんと結婚することになったので、皇族の皆様が宮中三殿に赴くことになった。当時、テレビ局が正門に向かう皇太子の徳仁殿下や紀宮殿下をカメラで映し、そのあとに続く常陸宮、高松宮、三笠宮、高円宮の各殿下を撮影していたのである。ところが、この宮中三殿に向かう行列の中に、タイ王国のシリントン王女が混じっていたのだ。しかも、王女は紀宮殿下の隣に寄り添って歩いていたから、一般の視聴者は「えっ、何だこれ!!」と驚いてしまった。

Akishino 8823Akishino 7324
( 左皇太子殿下と紀宮殿下と一緒に歩くシリントン王女 / 右正門に向かう列に加わり、皇族を従えるシリントン王女)

  いくら何でも、重要な儀式の日にタイの王女が、皇族の常陸宮殿下や高松宮殿下の前を歩いて、堂々とテレビに映るなんて前世紀の日本人には想像できなかった。こんな映像を一般人が目にすれば、「もしかすると、タイの王女と肉体関係を持ってしまったんじゃないか? だから皇太子殿下と義理の妹といった関係になり、紀宮殿下の義理の姉として一緒に歩くことになったんじゃないか?」と勘ぐってしまうだろう。おそらく、日本の皇室にとりタイ王室は特別だから、友好関係を維持するために王女の出席を許可し、一緒に歩くことを認めたのかも知れない。それでも「不自然」で「奇妙」な印象を国民に植え付けてしまったから、本当にマズい判断だった。

  これも推測となってしまうが、タイの王族だから皇太子殿下も隣で歩くよう提案し、西門まで仲良く歩いたとも考えられる。しかし、宮内庁が明確で説得力のある理由を述べないと、「秋篠宮の愛人説」を信じてしまうし、「真相の隠蔽」を疑う国民も出てくるので、本来なら参列を断るべきだった。テレビ映像だけ観て終わり、という人も多いから、必ず王女を紹介する時、ナレーターか局アナが特別な参列の理由を解説すべきだ。これは願望だが、秋篠宮殿下は自分の名誉を守るためにも、定例の八百長会見じゃなく、辛辣な質問をする雑誌記者の参加を許し、堂々とマスコミの誹謗中傷に反論すべきだった。

Princess of Thailand 2秋篠宮 & チュラポーン王女 昭和62年秋篠宮&シリントン王女 2
(左 : チュラポン王女 / 中央 : チュラポン王女と秋篠宮 / 右 : タイの王室と親戚になった日本の皇室? )

  敗戦後、左翼陣営の皇室攻撃は凄まじく、NHKや民放が戦争犯罪を言い立て、新聞や週刊誌が次々と批判記事をバラ撒いていた。しかし、敗戦国の日本には偉大なる昭和天皇が君臨していたので、マスコミがどれほど罵倒しようが、良識的な国民は同調しなかった。皇室は国民からの「信頼」や「敬愛」で成り立っているから、左翼知識人や進歩的文化人、あるいは反日メディアがいくら頑張っても、その人気を叩き潰すことは出来なかった。

  ところが、「開かれた皇室」が世間の風潮となり、天皇皇后両陛下や他の皇族方が次々と庶民に近づくようになると、神々しい天子様という尊崇の念が薄くなり始めた。一般人がイベントで“当然”の如く両陛下と会話を交わし、セレブ藝人のように振る舞うから、「ミッチー・ブーム」で熱狂する民衆が増えても当然だ。「皇室の民主化」という方針は、皇室の権威を蝕んで行く。特に、昭和天皇が崩御されると、皇室の威厳や威光が段々と消え去り、「国民に寄り添う」が気さくな皇室が普通になった。一般国民の方も、神道の儀式や古来からの信仰なんかより、煌びやかなドレスを纏ったプリンセスに目を奪われる。華やかな美智子妃は、雑誌社と連携して写真集の乱発だ。

  新しい平成時代と民主化の日本に浮かれた国民は、チャラい礼宮殿下を目にしても気にしなかったし、ちょくちょくタイへ渡航する宮様を温かく見守っていた。ただ、皇室の伝統を尊重し、皇族の威厳を求める保守派国民は、心の中で不満を募らせていたのかも知れない。もし、皇室の儀式に無知な国民が、皇太子殿下と一緒に歩くシリントン王女を見れば、「文仁殿下にはタイに愛人がいるんじゃないか?」と疑うのも当然だ。一般国民は内情を知らないから、「シリントン王女の妹であるチュラポン王女が第1夫人なんだろう」と噂話をする。

  貴族のセックス・スキャンダルは珍しくないから、野次馬国民が色々と勘ぐるのも無理はない。「非公式でも“男女の契り”を結んでしまったから、文仁殿下の儀式に“親族”として参加させろ、と迫ったんじゃないか? チュラポン王女本人が出席できないから、代理としてシリントン王女が来日したのかも知れないぞ」と。内縁関係の発覚を恐れた宮内庁と天皇陛下が、“特別枠”で参列を許したとも考えても不思議じゃない。しかし、雑誌の記事が本当でタイの王女が愛人なら、代理人が来日しても参列を許さないだろう。どんなにシリントン王女から要求されても宮内庁が却下するはず。そもそも、誤解を招きかねない要求を通した宮内庁が悪い。

  当時、参列の映像を目にした時、筆者も驚いたけど、内情が判らないから推測しかなかった。「いくらなんでも愛人というのはないだろう」と思いつつも、ヨーロッパの王族を直ぐに思い出したので、「まぁ、日本の皇族だって下半身事情は変わらないから」と心配したのを覚えている。

  例えば、イングランド国王ウィリアム4世は、ザックス・マイニンゲン公爵ゲオルグ1世(Herzog Georg I. Friedrich Karl von Sachsen-Meiningen )の娘アデレイド(Adelaide)を娶ったが、53歳の時だから、27歳のアデレード妃からすれば、父親みたいな亭主だ。でも、この王様には内縁の妻というか愛人のドロセア・ジョーダン(Dorthea Jordan / 本名Dorothy Bland)がいて、なかなかの美人女優であったらしい。アデレイドは娘を二人出産したが、どちらも夭折したので、二人の間には後継者がいなかった。

William IV of EnglandDorothea Bland (Jordan) 02Prince Akihito & Princess Kiko 3964
(左 : 国王ウィリアム4世 / 中央 : ドロセア・ジョーダン / 右 : 秋篠宮夫妻)

  一方、ドロセアとの間には既に10人の庶子をもうけていたというから凄い。しかも、非嫡出子の子供なのに、「フィッツクラレンス(FitzClarence)」という名をもらっていて、息子のジョージは初代ムンスター伯爵になった。娘のソフィアはフィリップ・シドニー(Philip Sidney)男爵と結婚したし、エリザベスはウィリアム・ヘイ(William Hay)伯爵家に嫁いだ。末っ子のアメリアはルシアス・ケアリー(Lucius Cary)子爵と結婚し、息子をもうけている。だが、ドロセアはウィリアムよりも前に別に二人の男性と懇ろになり、女優業を続けながら子供を授かっていた。リチャード・フォード(Richard Ford)との間には二人居て、リチャード・ダリー(Rihchard Daly)との間には一人の息子が生まれている。ただし、このドロシーはウィリアム王より4歳年上だった。

  「日本の皇族は清廉潔白で誰もが立派な人物」とは思わないが、秋篠宮殿下が過去に色々な「お遊び」をしていたから、国民からの信用を失ったのだろう。秋篠宮家に対する批判が激しくなったのは、度重なるタイへの旅行や小室問題が切っ掛けであったが、それでもまだ修復する機会はあった。しかし、秋篠宮家は独自の考えを貫き通す。もし、NYへ移住した娘婿を援助していなければ、皇籍離脱の時点で非難は沈静化したのに、裏でコソコソ支援するから雑誌に感づかれ、外務省や日系人の暗躍を書き立てられるのだ。一橋大学やフォーダム大学への工作もそうだし、小室圭がローウェンシュタイン・サンドラーズ社で未だに雇用されている実態を見れば判るじゃないか。

  これだけでも困った問題なのに、裏口入学の計画まで実行したんだから、秋篠宮家が批判されるのは自業自得だ。皇族には「信用」が大切で、国民から揺るぎない信用を得ていれば、週刊誌が何を掲載しようが国民は信じない。逆に、「嫌われる皇族」や「いかがわしい宮様」となれば、マスコミが垂れ流すコシップ記事に信憑性が出てしまうだろう。論より証拠で、兄の今上陛下には国民からの篤い信頼感がある。ところが、弟宮になると首を傾げる国民が多く、週刊誌にスキャンダル記事が出れば、「もしかしたら本当かも?」と信じてしまうのだ。「あの宮様ならやりかねない!」と思う人が多くなれば、宮内庁の広報担当者がいくら火消しに廻っても無駄である。秋篠宮家は「信用第一」という言葉を肝に銘じるべきだ。

謎が多い将来の天皇

  父親と息子は性格や癖が似てくるのか、悠仁殿下にも奇妙な点があった。悠仁親王は形式的に筑波大附属高校の筆記試験を受けるため、一般受験生と一緒に試験会場に向かったことがある。(既に推薦入学が決まっていたが、「実力テストを受けた」という印象を国民に植え付けるため、受験生のフリをしていたということだ。) 試験会場に繋がる道には、雑誌記者とカメラマンが待ち受けていたので、カメラマンは歩いている殿下の写真を撮っていた。

  だが、悠仁殿下の頭を見ると、奇妙な髪型に気づく。殿下の左側頭部の髪をじっと見つめると、後頭部の旋毛から無理矢理に髪を左耳の前に流していたのだ。背後から頭を見れば判るけど、左側面に「附け毛」というか「部分鬘(かつら)」があるように思え奇妙だった。なぜ、左側頭部の髪だけ、あんなに盛り上がっていたのか? 左側の頭皮にハゲがあったのか? ベテラン刑事やレンジャー部隊の自衛官が、殿下の頭部を目にすれば、左側の髪型に気づくはずだ。あのヘアスタイルは意図的なものだから、普通の少年が好む髪型ではない。

Hisahito 93204Hisahito hair 2Hisahito hair 11Hisahito hair 33


  とにかく、秋篠宮家には 不審な点が多い。疑惑と不正の倉庫だ。皇室支持派の国民でも、密かに疑問を抱いている人も多いんじゃないか? ただ、不敬になるから口に出さないだけで、「秋篠宮はおかしい!」と思っている人が結構いたりする。保守派国民ほど正直な気持ちを隠し、嫌な記事を否定するから、何かの切っ掛けで皇室への信頼が揺らぐこともある。

  本来なら、秋篠宮殿下が厳しい質問に答えるべきなのに、お誕生日会見はいつも脚本通りの“茶番劇”となっている。ジェャイアント馬場のキックやチョップじゃあるまいし、八百長会見にはウンザリだ。提灯持ちの記者じゃなく、独立系のジャーナリストを招いて、疑惑追及の「手加減無用会見」にすべきだろう。ベテラン刑事による取調みたいな尋問に耐えるなら少しはマシだけど、秋篠宮殿下は忖度無しの生本番に応じられるのか? 何かの口実をもうけて逃げまくる腰抜けなら、国民の疑惑は益々深くなるだろう。
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html
27:777 :

2024/10/22 (Tue) 06:31:34

2024-10-16
『日本のいちばん長い日』 -- 天皇の「わたくし自身はいかようになろうとも」発言はあったのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231

日本のいちばん長い日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5


映画『日本のいちばん長い日』(1967年)
https://www.dailymotion.com/video/x8obxsl
https://www.bing.com/videos/search?q=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&lq=0&pq=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&sc=10-15&sk=&cvid=07A7D05E8AC044729CB84C60768D9D5F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=


岡本喜八監督による映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作、と評価されている。

ただし、私はこれが名作とはまったく思わない。その理由は以前こちらの記事に書いておいた。

『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516



この映画の「感動的」シーンの一つに、最終的にポツダム宣言受諾を決めた御前会議(1945年8月14日)の席上、天皇裕仁が涙ながらに降伏を決意した理由を語る場面がある。

映画のこの場面での天皇の発言全文は以下のとおり。

(阿南陸相の受諾反対論を聞いた後で)

反対論の趣旨は、つぶさによく聞いた。

しかし、わたくしの考えは、この前も言ったとおりで、変わりはない。

これ以上戦争を続けることは、無理である。

陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領は耐えられないであろう。

国民が玉砕して国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる。

しかし…(ここでポケットからハンカチを出して涙を拭う)しかし、わたくし自身はいかようになろうとも、国民を…国民にこれ以上苦痛を舐めさせることは、わたくしには忍び得ない。(涙声)



できることは、何でもする。

わたくしが、直接国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立つ。

陸海軍将兵を納得させるのに陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけて、なだめて説き伏せる。

(鈴木総理に向かって)鈴木、内閣は至急、終戦に関する詔書を用意してほしい。

(列席者一同すすり泣き)

いかにも、苦しむ国民を救うために我が身の危険もかえりみずに決断を下す指導者、というイメージだが、裕仁は本当にこんなことを言ったのだろうか?



敗戦後は保身に汲々とし、マッカーサーに媚びていた裕仁の姿を知っていれば、こうした疑問が出てくるのは当然だろう。

原作である半藤一利の『日本のいちばん長い日』では、この天皇発言についてこう注記している。[1]

(9)天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている 。

「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。

 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」

本文での御前会議の描写もこの内容に基づいたものとなっており、映画版の天皇発言は、脚本を書いた橋本忍(戦後日本人の被害者意識をくすぐって大ヒットした『私は貝になりたい』の脚本家でもある)による、この内容の見事な要約と言えるだろう。

ところが、半藤はこれに続けて御前会議に出席していた陸軍参謀総長 梅津美治郎によるメモの内容も載せていて、こちらの天皇発言は大きく違うのだ。[2]

 なお梅津参謀総長の鉛筆書きのメモが残されている。それによれば、天皇の発言は、

「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ

 内外ノ情勢、国内ノ情態、彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々二考へタモノデハナイ

 国体二就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ 敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹ノ不安ガナイデハナイガ 戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモ子モナクナル

 今停戦セバ将来発展ノ根基ハ残ル

 武装解除ハ堪へ得ナイガ 国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉二対スルト同様ノ気持デヤラネバナラヌ

 ドウカ賛成シテ呉レ

 陸海軍ノ統制モ困難ガアラウ

 自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ

 速二詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ伝へヨ」

と要約されている。

こちらには「わたし自身はいかになろうとも」云々の言葉はないし、降伏を決めた理由も、降伏しても「国体(天皇制)」は維持できると確信しており、逆に降伏しなければそれが「元も子もなくなる」からである。

大本営『機密戦争日誌』には、同じく御前会議に出席していた陸軍省軍務局長 吉住正雄から伝達された、「御言葉」の要旨が記録されている。[3][4]

十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。

自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。

内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較二附テモ軽々二判断シタモノデハナイ。

此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否しかラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題卜思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵二我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之二附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ラスレバ、多少ナリトモ力ちからハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。

――以下御涙卜共ニ――

忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。

ドウカ賛成ヲシテ呉レ。

之ガ為ニハ、国民二詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

内容は梅津メモとよく一致している。

また、こちらの発言要旨からは、裕仁が涙を流したのは国民の苦難を思ってのことなどではなく、自分の軍隊である皇軍を武装解除させられる屈辱からであったことも分かる。

御前会議の席上でリアルタイムに書かれたメモや当日中に伝達された内容と、戦後になってから関係者(単にその場にいた人ではなく、裕仁を免責したいという強い動機を持つ利害関係者である)の手記や聞き取りをもとに書かれた内容と、どちらが信用できるだろうか?

常識的に考えて、答えは自明だろう。

ついでに言えば、下村宏がまとめた天皇発言自体からも不自然さは読み取れる。

裕仁は「明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」と言っているのだが、三国干渉とは、西欧列強の圧力により日清戦争で日本が清から強奪した権益の一部(遼東半島)を返還させられたものだ。

確かに明治天皇睦仁にとっては屈辱だっただろうが、天皇その人が戦犯として裁かれるかどうか(処刑もあり得る)という事態とでは比較にもならない些事だろう。三国干渉がどうこうと言っている時点で、裕仁には「わたし自身はいかになろうとも」などという覚悟はないのだ。(ちなみに映画版ではこの「三国干渉」云々はカットされている。)

ところで、半藤が「いちばん忠実に写しとっているとされている」と評する内容を記した下村宏は、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁である。つまり、玉音放送の直前までデタラメを流し続けてきた大本営発表の親玉なのだ。

映画『日本のいちばん長い日』で描かれた感動シーンは、下村宏がでっち上げたシナリオを半藤一利がもっともらしく修飾し、橋本忍が感動ストーリーに仕上げた醜悪なフェイクでしかない。

[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.73-74
[2] 同 P.74-75
[3] 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』 錦正社 1998年 P.763-764
[4] 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』 祥伝社 2021年 P.225-226
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231


▲△▽▼


2021-04-08
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516

半藤一利の原作をほぼ忠実に映画化した、岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作と評価されている。

以前見たときは確かに私もそう感じたのだが、最近改めて見直してみたところ、もう、この映画はただの茶番劇にしか見えなくなっていた。

脚本や演出が悪いのではない。役者の演技が大根というわけでもない。実際、この映画では、錚々たる名優たちがそれぞれの役を熱演していた。

鈴木貫太郎首相 - 笠智衆
阿南惟幾陸相 - 三船敏郎
米内光政海相 - 山村聡
天皇裕仁 - 松本幸四郎
下村宏情報局総裁 - 志村喬
井田正孝中佐 - 高橋悦史
畑中健二少佐 - 黒沢年男
徳川義寛侍従 - 小林桂樹

ダメだったのは、彼らが演じた人物たちそのものだ。

号泣する男たち
この映画では、いい大人の、それも責任ある地位にある男たちが、実によく泣いている。

たとえば、ポツダム宣言の受諾にあたって、天皇および日本政府の権限は連合国軍最高司令官に「subject to(従属)」する、という条件を受け入れるかどうか、閣議では決められないまま8月14日11時頃から開かれた御前会議の場面。

裕仁が立ち上がり、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたくしには忍び得ない。できることは何でもする。わたくしが国民に直接呼びかけることがよければ、マイクの前にも立つ」と語ると、居並んだ閣僚たちはみな嗚咽をもらし、ある者など椅子からくずれ落ちて絨毯に膝をつき、泣き声を上げる。裕仁本人もしきりにハンカチを頬に当てて涙をぬぐっている。

バカじゃなかろうか。

事ここに至ったのは、戦局が既に絶望的になっているにもかかわらず戦争をやめるという決断ができず、何の見通しもないままずるずると事態を引き延ばしてきたこの者たちの無能・無責任のせいではないか。

もちろんこの無責任集団には裕仁本人も含まれる。半年前の45年2月、近衛文麿元首相が「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と上奏して終戦交渉を促したとき、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこれを拒絶したのは裕仁だったのだから[1][2]。仮にこの時点で降伏に向けた交渉を始めていれば、東京大空襲も沖縄戦も原爆もなく、国民に無用の苦痛をなめさせずに済んだはずだ。

「わたくし自身はいかようになろうとも」という裕仁のご立派な発言も、せいぜいその場の雰囲気にのまれて口走った程度でしかなかったことは、その後責任回避に汲々とし、退位すら拒否したその行動から明らかだろう。

御前会議から戻った阿南陸相に無条件降伏が決まったと聞かされ、陸軍省の幕僚たちが号泣するという場面もあった。

彼らが呼号してきた本土決戦が不可能になり、(もともと成算はゼロだったのだが)上陸してきた連合軍に痛撃を加えて有利な講和に持ち込むことも、最後まで戦って「悠久の大義」に散ることもできなくなった痛憤からだろうが、なんという幼稚さか。

お前たちが安全な内地で非現実的な作戦計画にうつつを抜かしていたころ、前線ではロクな補給も受けられないまま兵たちがばたばたと餓死し、あるいはバンザイ突撃で無意味な死を強いられていたのだ。

だいたい、大事な夫や息子や父親や兄弟を徴兵された家族たちは、彼らが白木の箱に収められた一片の骨、ひどい場合には珊瑚のかけらや石ころになって帰ってきても、お国のために命を捧げた名誉なこととして、泣くことすら許されなかったのだ。そんな非道を強いてきたお前たちに、自分らの妄想が実現できなくなっただけで泣く資格などありはしない。

最後の場面に至ってなお字句の修正に執着する愚か者たち
無条件降伏が決定し、「玉音放送」で裕仁が読み上げる「終戦の詔書」を作成する段階になると、閣僚たちは今度はその細かな字句の修正にまた貴重な時間を費やしていく。

大して長くもない詔書なのに、修正は何十箇所にも及んだ。

とりわけバカバカしいのは、原案のまま「戦勢日に非にして」とするか「戦局好転せず」と修正すべきかをめぐって争われた論戦だろう。


阿南陸相は、「個々の戦闘では負けたが、最後の勝負はまだついておらん」「陸軍は小さな島で戦いをやっただけで、一度も本格的な会戦はやっておらん」「しかるに負けたという、この戦勢非にしてというのでは、その死んでいった三百万の人々になんとして申し訳が立つ」と言って修正を主張するのだが、「戦勢日に非にして」であろうが「戦局好転せず」であろうが、どちらにしても、負けっぱなしでもうどうしようもない、という意味に違いはない。こんな字句にこだわることに何の意味があるのか。

ちなみに、映画ではセリフとして出てこないが、阿南は「この原案のままではいままでの大本営発表がすべて虚構であったということになる」とも述べたようだが[3]、詔書の文面をどういじろうが大本営発表が嘘だらけだったことに変わりはない。字句をいじって現実を糊塗しようとするその手口は大本営発表そのままであり、そういうことをしているからこんな事態に追い込まれたのだ。

すったもんだの末、詔書は裕仁本人も数箇所修正してようやく完成するのだが、粗末なラジオで雑音だらけの玉音放送を聞かされた国民には、どうやら戦争に敗けたらしい、とおぼろげに理解できただけで細かな文言など聞き取れなかったのだから、もはや笑うしかない。

戦争犯罪の証拠を燃やす隠蔽行為をあっさりスルー
降伏と聞いて号泣したり虚脱状態に陥っていた陸軍中央の一部若手将校たちは、やがて宮城を占拠して玉音放送の録音盤を奪取し、天皇に翻意させて戦争継続に持ち込もうという、クーデター計画に走っていく。

彼らが陸軍省で愚かな計画を練っていた頃、その背景として、裏庭にせっせと省内にある文書を持ち出しては焼き捨てる光景が映し出されていた。

これは、侵略戦争の犯罪性を示す証拠を隠滅しようとする、それ自体重大な犯罪行為である。後に、主犯の一人である奥野誠亮が次のように平然と述べている。(読売新聞 2015/8/11)

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

だいたい、政府・軍部はこの戦争を、欧米の植民地支配からアジアを解放する正義の戦いだと言ってきたではないか。それが事実なら、ここで燃やされている膨大な書類は、たとえ敗けても裁判の場で連合国に対して日本の正当性を主張するための貴重な証拠となったはずだ。それを自分で燃やしてしまうというのは、「正義の戦い」など大嘘だったことを自ら白状しているに等しい。

しかしこの映画では、そうした犯罪性には一切言及することなく、まるで当然のことのように燃やされる書類の山を淡々と映しているだけだった。

エンディングから垣間見える独善的歴史観
ある映画が何を描いてきたのかは、そのエンディングに集約した形で示される。

この映画の終わりでは、廃墟となった街や戦死者の姿に重ねて、次のような文字列が映し出される。

「太平洋戦争に兵士として参加した日本人 1,000万人(日本人男子の1/4)」

「戦死者200万人 一般国民の死者100万人 計300万人(5世帯に1人の割合いで肉親を失う)」

「家を焼かれ 財産を失った者 1,500万人」

そしてナレーションで「いま私たちは、このようにおびただしい同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、そして、日本と日本人の上に再びこのような日が訪れないことを願うのみである。ただそれだけを…」と締めくくられるのだが、そこに、日本がどれほどの惨害を近隣アジア諸国に与えてきたかの言及は一切ない。ただひたすら、戦争で日本人はこんなにひどい目にあった、だから平和が大事、というだけである。

この映画は、自分たちが何をしてしまったのかへの反省がまったくない、最後まで独善的な茶番劇でしかなかった。


[1] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.22
[2] 山田朗 『昭和天皇の戦争 ー「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』  岩波書店 2017年 P.244-245
[3] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.124
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
28:777 :

2024/11/25 (Mon) 11:51:10

雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021~2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885~1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻~第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015~2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949~1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、 国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.