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ヴィスコンティ _ イノセノト 1976年

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2022/08/22 (Mon) 18:31:17

Visconti L'innocente 1976 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Visconti%20%20%20L%27innocente%20%201976&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&pq=visconti%20l%27innocente%201976&sc=0-25&sk=&cvid=F8A1B1E61C6D415EB1AF0113276A5520&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=


「映画の中のクラシック音楽」 
配信日 04年4月13日
取り上げた映画作品 イノセノト
制作 75年 イタリア
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
使用された音楽 モーツァルト&ショパン&リスト
使用された意図 ありきたりな名曲コンサートの姿
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-04/04-04-13.html

以前からこのメールマガジンではヴィスコンティ監督の作品を多く取り上げております。
そのせいか、ヴィスコンティ最後の作品である「イノセント」も取り上げて欲しいとリクエストもありました。

折角ですから、その「イノセント」について考えてみることにいたします。

この「イノセント」では、貴族のサロンのシーンがあり、そこで簡単な演奏会が開かれております。
最初がピアノのコンサートで、モーツァルトのトルコ行進曲やショパンのワルツやリストの「エステ荘の噴水」が演奏されています。
別の夜では、女性歌手のコンサートのようで、グルックの「エウリディーチェを失って・・・」が歌われています。

今まで取り上げてきたヴィスコンティの音楽の使い方は比較的簡単でした。
まあ、ヒネリがあって、そのヒネリの意味がわかりやすいわけ。
しかし、最後の作品の「イノセント」における選曲はわかりにくい。

女性歌手の「エウリディーチェを失って・・・」という曲は、その後の「妻に逃げられた主人公」を予告していると言っていいでしょう。
これはわかりやすい。
それとも大した意味もないのかな?サロンという場だから品がある古典音楽が必要・・・くらいだったかも?

しかし、ピアニストが弾くモーツァルトやショパンやリストという選曲はどんな意味?
これはわかりにくいわけ。

例えば現実の世界でこのような会話があったとしましょう。
『○○さん!あなたクラシック音楽がお好きなんですって?』
「そうですよ!えっ?あなたもそうなの?」
『ええ、ボクも大好きです!昨晩もオーケストラのコンサートに行って来ました。』
「へぇ・・・、どんな曲だったの?」
『モーツァルトの序曲と、ショパンの協奏曲と、ドヴォルザークの交響曲でした。』

そう言われちゃうと返答に困りますよね?
クラシック音楽が好きなら好きでもいいんですが、どの程度の話をしていいのか?迷ってしまいますよね?
これが何か別の前置きがあれば話は別です。

以前その人と、マーラーの曲の生演奏の話をしていたり、フォーレの室内楽の話をしたことがあれば、モーツァルトやショパンやドヴォルザークの意味もまったく変わってくるわけ。
「モーツァルトとショパンとドヴォルザーク」しか聞かないのか?
たまたま「モーツァルトとショパンとドヴォルザーク」だったのか?

前置きがないと判断がしにくいわけ。

言うまでなく、監督のヴィスコンティは色々なクラシック音楽を知っている人。
この「イノセント」における「モーツァルトとショパンとリスト」という選曲も意図的でしょう。
以前に取り上げた「熊座の淡き星影」においては、サロンで演奏される曲としてフランクの作品などという凝った選曲をしているわけですからね。

だからヴィスコンティとしては「ヒネリ」を何重にも効かせて、ベタベタの元に戻った状態と言えるんでしょうか?
しかし、言わんとするところは明白でしょうね。
このサロンのコンサートのレベルの低さですよね?ピアニストの方も「お座敷に上がった」芸者の気分といえるのかな?まあ、酔っ払い相手に真剣にやってもムダ・・・そのような感じがいたします。
まあ、このサロン・コンサートは貴族の「暇つぶし」と見て間違いないでしょう。別に知的なり芸術的な関心があったわけではないようです。
まあ、書庫に読んでもいないような全集本があるようなもの。

そんな怠惰な生活を送っている貴族たち・・・そんな姿は、ヴィスコンティの作品では、これも以前に取り上げた「山猫」でも出てきたテーマです。

だから、この「規格品的」な選曲は、この「イノセント」という作品において極めて重要とは言えないでしょう。
もし、珍しい曲・・・例えばまさにフランクの曲が演奏され、出席している貴族が的確な感想を言ったりすれば映画的に重要ですが・・・
この「イノセント」ではこんなにメジャーな曲を演奏しているのにもかかわらず、聴いている人間も「あ~あ、つまんな~い。」という感想になってしまう。

精神的にも怠惰で、知的にも感性的にも問題がある状態ですよね?音楽が好きでないのなら、そんなサロン・コンサートなんて行かないで、本でも読んでいればいいだけなんですから。

まあ、音楽について考えるだけだったら、そんなことで終わってしまう。
ということで、今回は別の視点で考えてみたいと思います。

まずはタイトルの「イノセント」・・・
これって、どういう意味なの?
実は私が最初にこの「イノセント」という作品を見た時から疑問に思っていたことでした。
「イノセント」を日本語に直すと?

「イノセント」は「けがれがない」という意味ですから、例えば犯罪が起こった場合には「無実」というときにも使われますよね?
あるいは性体験での「処女」とか「童貞」とか・・・
しかし、いずれの意味にせよ、この主人公とは違っています。
「イノセント」って、本当にどういう意味なんだろう?

次に「何故に主人公がジャンカルロ・ジャンニーニなのか?」という点です。
見ている人はスグにわかると思いますが、ジャンカルロ・ジャンニーニは背が低い。妻役のラウラ・アントネッリとほとんど同じくらいの身長。いわば蚤の夫婦に近い状態。

ドラマをヴィジュアル的に表現する場合、このような身長の問題はきわめて重要ですよね?

私は以前とあるドイツオペラ作品の舞台を見ていたら、元恋人の男女の言い争いのシーンでびっくりしたことがあります。
日本男児のテノールは背が低い。それに対し昨今の巨大化?した日本女性のソプラノは背が高い。男性より女性の方が頭ひとつ背が高い状態。
見ている観客にしてみれば、元恋人の言い争いというより、「お母ちゃん!飴を買ってよ!」と息子が母親に対して駄々をコネているようにしか見えないわけ。

あるいはドイツのオペラハウスで、ワーグナーの「ワルキューレ」のヴォータン役を日本人のバスはやらせてもらえない、とグチっている人もいましたけど、それは差別とは言えないでしょう。
ただでさえデカイ人が多いドイツ人ソプラノより、頭ひとつ以上背が低かったらどうなるの?
最後に娘のブリュンヒルデにキスするとき、つま先だってキスするの?
とても父親と娘のシーンのヴィジュアルではなくなっちゃいますよね?
今までの感動もぶち壊しでしょう?

ヴィスコンティともあろう人が、そんな極東のオペラハウス並みのバカをするわけがない。
この「イノセント」という作品において、監督のヴィスコンティとしては、主人公の貴族の役はヴィスコンティが寵愛する?ヘルムート・バーガーを起用することだってできたはずです。ヘルムート・バーガーだったらアントネッリと身長も釣り合いがいいはずです。彼はイタリア人の顔ではありませんが、メークをすればいいだけなんですから身長の問題よりは小さいはずです。

何故に、ヘルムート・バーガーではなくジャンカルロ・ジャンニーニなの?

ジャンニーニはヴィスコンティの「ルードヴィッヒ」でも主役をやっています。
「ルードヴィッヒ」での主役はそれこそヘルムート・バーガーじゃないの?って思われるでしょう?
しかし、ジャンニーニでもあるんです。

だって、ジャンニーニやヘルムート・バーガーのイタリア語の吹き替えをやっているんですからね。
この「イノセント」だって、ヴィジュアル的にはヘルムート・バーガーで、音声的にはジャンニーニでもよかったわけです。

背が低いジャンニーニだったらどうしても、ヴィジュアル的に夫婦には見えなくなってしまいます。
むしろ母と息子に近くなる。

むしろヴィスコンティはこの効果を狙ったのでしょう。
ジャンニーニ演じる主人公の貴族・・・実に子供っぽい。
妻に自分の女性関係をペラペラしゃべったりする。
しかし、しゃべる相手が、妻ではなく母親だとしたら、そんな行為も不自然ではないわけ。

妻が浮気をしたことを聞かされ、涙を流して泣いてしまう。

自分の子供ではないとはいえ、妻が産んだ子供に対する扱い・・・・これは「お母さんはボク以外をかわいがっちゃイヤだ!」といった類のものですよね?

また最後のピストル自殺のシーン。実に猪突ですよね。結局は意地を張っているだけ。信念とか絶望などの精神的な理由が原因とは言えないようです。

本当に子供なんですね。
ただ単に、母親に甘えている子供と同じ。

だからこそジャンニーニのような背の低い俳優が必要だったのでしょう。
ヴィジュアル的に母親と息子に近いものに見せたかったのでしょうね。

つまり「イノセント」という言葉を日本語に訳すと「無邪気」という言葉が適切なのでは?
だって、この主人公は実に無邪気ですからね。

イタリア男性は基本的にマザコンといわれますが、この主人公は本当にガキですよね?
名曲コンサートのレベルの音楽にも反応せず、何をするでなし・・・この主人公がやっているのは女性遊びだけ。

この「イノセント」という作品でヴィスコンティはイタリア男性の典型的な姿を描いたのかもしれません。まあ、ヴィスコンティ自身の自嘲も多少入っているのかな?「マンマ!ミア!」といつまでも母親に甘ったれるイタリア男。まあ、いつまでたってもガキというのはその他の国の男性にも共通しているのかも?

しかし、無邪気(イノセント)であることは、無実(イノセント)なことなのか?
この映画を見終わった後に考えるのは、そのような感想です。
この主人公の貴族の「イノセント」のおかげで、周囲の人は多くの「罪」を背負うことになった。イノセントであるがゆえにギルティー(有罪)であるともいえるわけですね。

ヴィスコンティはその最後の作品で、大いなる謎を残して去っていったように思います。

(終了)
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発信後記

「イノセント」って日本のアニメでも同じタイトルの作品が公開されていますよね?
押井監督は、日本におけるポストモダンな映画つくりの代表選手ですね。まあ、ウディ・アレンやペドロ・アルモドヴァルとスタイルが大変よく似ています。
そのうち見に行こうかな?
R.10/5/6
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-04/04-04-13.html

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