777投稿集 2509341


タルコフスキー 映画『ストーカー 1979年』 

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 18:07:54

タルコフスキー 映画『ストーカー 1979年』 

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC?ref=watch_html5


『ストーカー』でゾーンが出来た説明の1つとして、4号炉の崩壊が挙げられていた。
6年後にチェルノブイリ原子力発電所の4号炉とその建屋が爆発しようとは…
この映画、タルコフスキーが祖国で撮った最後の映画は、予言と予兆に満ちあふれている。

ちょうど20年前に『ストーカー』はスクリーンに映し出された。

…ストルガツキー兄弟もタルコフスキーも名を挙げていない地域に突然ゾーンが出現した…

謎が出現し、それと軌を一にしてそこを調査したいと願う人々が現れた。

ストーカーもまた出現した。

ストルガツキー兄弟によると、ストーカーはうろついている観光客にゾーンの謎を売る略奪者だ。

タルコフスキーによると、ストーカーは、失われた魂をゾーンに導く運命にあり、彼の目標はそうした魂の救済である。

…『ストーカー』が封切りとなり、ゾーンに注がれる観客の関心がいっこうに冷めることもなく、20年が経過した。

何たることか! 映画に大きな貢献をした人たちはほとんど誰もこの世にいない。

偉大なロシアの芸術家アンドレイ・タルコフスキーは 墓地で眠っている。

ラリッサ夫人もまたこの世を去った、『ストーカー』の助監督だった。

編集のリュドミラ・フェイギノーワは悲劇的な焼死をした。

才能豊かなカメラももういない。ゲオルギ・レールベルクが最初のカメラだった。

撮り直しをしたアレクサンダー・クニャジンスキーもいない。

主役の俳優たちも死んだ。

傑出した俳優たち、アレクサンダー・カイダノフスキー、アナトーリ・ソロニーツィン、ニコライ・グリンコ…『ストーカー』に関わった数少ない生き残り、音響デザインを手がけたウラジミール・イヴァノヴィッチ・シャルンは、『ストーカー』の長期に及んだ過酷な撮影スケジュールこそ、キャストとクルーの状況に影響を及ぼして、それが彼らの若死にを招いたのだと、考えたくなるという…


耐えられないタルコフスキー


ヴラジミール・シャルンはこう回想する。

偶然タルコフスキーと仕事をする者はいなかった。

この人物がまさしく手強い人物であると誰もが知っていた。

一方で誰もが彼の厳しい要求を恐れていた。

もう一方でタルコフスキーの映画はひどい時間超過になることも知られていた。

ソ連時代にクルーは残業しても金にならなかった。

そしてタルコフスキーの「欠点」のなかで最も重要なものは、この偉大な芸術家が何でもかんでも自分でやろうとすることだった。

結局彼は『ストーカー』のセットデザイナーも務めることになった。

撮影の全ショットで草の葉先の一本いっぽんまで彼自身の手で位置を決められたものである。

私が『ストーカー』の仕事の契約に署名したとき、同僚はこう警告した。

「ダビングが始まって、プリントの準備をしようとすると、ますます困ることになるぞ。

最後の最後の瞬間に何か新しいアイデアが浮かんで、あんたは独りですべてをやり直すような羽目になるぞ。」


作曲家エドゥアルド・アルテミエフはこう想い出す:

「私がタルコフスキーに初めて会ったのはー『ソラリス』の時だったがー私は困り果ててしまった。

自分に必要なのは、音楽ではなく、音楽的にアレンジされた一連のノイズだと言明したのである。

おまけに、『アンドレイ・ルブリョフ』と『僕の村は戦場だった』のスコアを書いたヴャチェスラフ・オフチンニコフ以上の作曲家は想像できないと宣言した。

タルコフスキーと仕事をしている間ずっと、信頼されてないのではないのかという思いが私を去らなかった。

一作ごとに試験を受けて、自分のベストを絞り出そうとしている感じでした…」


タルコフスキーとUFO


「タルコフスキーは奇蹟があると信じていた、それは間違いない。」とシャルンは続ける。

「彼は空飛ぶ円盤の実在を堅く信じていたし、リャザン郡のミアスノエにある自宅の近くで見たと主張すらした。

彼の確信を覆すことは誰にも出来なかった。

地球外生命の存在にタルコフスキーは何ら疑念を差し挟もうとしなかった。

ちなみに、こういうことが神への信仰と見事に合わさっていました。

聖マタイと聖ルカ福音書を文字どおり暗唱していて、全文を空で言うことが出来ました。

「尋常でないものならタルコフスキーは情熱を傾けたので、エドゥアルド・ナウモフという男がいつの間にか私たちの仲間に入ってきました。

彼は超常現象に関して人気のある映画を何本か作っていて、超常現象に関する講座をやっていました。確か、彼はこういう自分の大規模な集会のチケットを不法に販売したために実際に臭い飯を食ったことがあります。

タルコフスキーのサークルは彼を可能な限り援助していました。

一度ナウモフは彼の映画の1本を見せてくれました。

当時有名なサイキックであったニネル・セルゲイエヴナ・クラギナを扱ったものでした。

戦時中彼女は戦闘機の射手ー航空士でしたが、ドイツ人にパイロットもろとも撃墜されました。

そのパイロットとそれから結婚して、3人の子どもをつくりました。

3人目の子どもが出来た後、テレキネシスの能力があることに彼女は気づきました
ー視線で物体を動かせたのです。

スクリーンに映ったクラギナは、科学者のような人々に囲まれて、透明のテーブルの向こうで腰掛けていました

ーいかさまと言われるのを避けるためにです。

テーブルの上にはライター、スプーン、その他のものが載っていました。
クラギナの顔が緊張で暗くなりました。

瞬き1つしない視線をライターに向けると、ライターは彼女の視線のままに動いたのです。

タルコフスキーは興味深げにナウモフのフィルムを見て、上映が終わるや否や叫びました。

「やあ、どうだい、これは『ストーカー』のエンディングだぞ!」

「あいにくセットにサイキックはいなかった。

ストーカーの娘の半ば呆けた視線を受けて動くことになっているカップは、見えない糸1本で結ばれていて、テーブルの向こうから私たちがそれを引っぱりました。

私はこの引っぱる仕事をしっかりやろうとしたのですが、タルコフスキーは私を蹴飛ばしてー犬の鳴き声の録音に行かせた。

それでカップは自分で引っぱったのでした。」

『ストーカー』の数々の拷問


「『ストーカー』にはいくつか問題があった。

映画の運命は不思議なものだった。

西ベルリンにガンバロフというプロデューサーがいた。

彼はタルコフスキーのいくつかの映画の世界配給権を持っていて、タルコフスキーに、当時まず手に入らないコダックのストックを供給した。

『ストーカー』のために、出たばかりの新しいコダックフィルムを送ってきた。

ゲオルギー・レルベルクがその頃『ストーカー』のカメラマンだった。

彼はタルコフスキーの『鏡』の撮影を務めたカメラマンだ。

しかしそこで災いが襲ってきた。

モスフィルムの掘り抜き井戸が壊れて、フィルムを加工するのに必要な水がなかった。
連中は私たちに何も言わずに、フィルム素材は現像されないまま17日間ほったらかされた。

感光されたまま現像されないフィルムは質が落ちる。感度が落ちて劣化する。

簡潔に言うと、第1部の素材の全部がスクラップの山になった。

おまけにーこれはアンドレイ本人が私に言ったことを繰り返しているのですータルコフスキーはフィルムをぱくられたと信じていました。

『ストーカー』のために特別にガンバロフが送ってきたこの新しいコダックは盗まれて、どうわけなのか、タルコフスキーの敵である、さる著名なソ連映画監督の手に入った。

そして、連中はアンドレイに普通のコダックを与えたが、誰もそれは知らなかった。
それで彼らはいつもと違う現像をやった。

タルコフスキーは敵の計略の結果だと思っていた。
しかし私は、日常的なロシアの怠惰さの結果にすぎないと思います。」

「おシャカになったフィルムの試写はスキャンダルになった。

タルコフスキー、レールベルク、ストルガツキー兄弟、ラリッサ夫人が映写室に集まっていた。

突然ストルガツキー兄弟のひとりがレールベルクのほうを向いて、ナイーブに訊いた。

「ゴーシャ、なぜここで何も見えないのかな?」

レルベルクは、自分のやることには一点の非もないといつも自負しているので、こう言った。


「うるさいぞ、黙っていろ、お前だってドストエフスキーじゃないだろ!」


タルコフスキーは怒りで我を忘れた。

しかしレールベルクの気持ちも分かりますね。

カメラマンにとって素材のすべてがおシャカになっているのを見るのがどういう意味か、想像してみてください! 

レールベルクはドアを乱暴に開け閉めして、車に乗ってどこかへ行ってしまった。
二度とセットに現れなかった。

それでカメラマンのレオニード・カラシニコフが登場した、間違いなく名人だ。
2週間一緒にいて、最後に、タルコフスキーが自分に何を望んでいるのか、分からないと正直に認めた。カラシニコフは自分から現場を離れたが、タルコフスキーはそういう誠実で勇気ある行動のために、彼に感謝していた。

それから、アレクサンドル・クニャジンスキーが加わった。」

ゴスキノUSSRの前代表議長ボリス・パヴリオノクの回想録から:


「タルコフスキーが映画を再撮影するチャンスを与えられないなら、映画が出来上がらないのは明らかだった。

政府は決定を下した:映画を再撮影せよ、必要な資金を供出せよ(40万ルーブルほど)…」

予想外の撮影日

タリンでの撮影が新たに始まったが、クルーはあまりうまくやっていなかった。

6月のある日に雪が降った。

木の葉が一枚残らず散ってしまったので、撮影機会もまた散ってしまった。

またぞろ製作中止の問題が持ち上がった。

クルーは2週間何もすることがなかったので、退屈をまぎらすために多くの者が酒瓶を愛するようになった」とウラジミール・シャルンは回想する。

「タルコフスキーはこの状況がどれほど危険であるか、承知していたので、行動する決意を固めた。

私たちはタリン郊外のひどいホテルに泊まっていた。

部屋に電話があるのは私だけだった。

ある夜タルコフスキーは私を呼んで、明日の7時から撮影を開始するとみんなに言ってくれといった。

しかし言うのは簡単ですよ! 

この間私の助手は退屈を紛らすために「トロイナヤ」というオーデコロンに砂糖で味付けをして飲んだくれていたんだ!
 
ソロニーツィンの部屋にはいると、トーリャと彼のメーキャップもすっかりへべれけだった。

明朝の撮影の話をすると、彼はパニックになった!
 
彼はアンドレイ・アルセェーニヴィッチを神のように崇拝していたからね。

彼のメーキャップは優れた技術をもっていたので、ジャガイモを3キロすぐ持ってくるように求めた。

下ろし金でおろして、2週間も飲んだくれてむくれてしまった顔につけるためだった。

しかし早朝3時のホテルのどこでジャガイモが手にはいるだろうか? 

外の店まで走っていったら、その女性警備員は警備を私に任せて、ジャガイモを取りに自宅に行ってくれた。

私は一生懸命ソロニーツィンのためにボウルいっぱいのジャガイモを下ろし金でおろした。

おかげで私の両手は切り傷だらけで血まみれですよ。

よくやったという思いで私の助手に、おろしたジャガイモを渡した。

で、戻ってみると何を見たと思いますか。

メーキャップの奴は酔いつぶれて床にころがり、ソロニーツィンがジャガイモのローションを自分で顔につけていたのです!」

骸骨の話


ヴィチアという名前の監督官が私たちのグループにいた。

悪い奴じゃなかったが、行動が読めない。

ある日タルコフスキーは時間をかけて、[映画の]登場人物達が藪の中に、まるで愛し合う瞬間にあるかのように絡み合っている ひと組の骸骨を発見する場面を準備していた。


むきだしの頭蓋骨に白髪が生えたー奇妙な女性の骸骨があって、その上に男性の骸骨が乗っている。

爆発なのか何なのか、ゾーンを創造したものの後に残ったのがそれだけだった、というわけだ。


タルコフスキーはずいぶん前からそのシーンの準備をしていた。

カツラも自分で見つけてきた。

2体の骸骨はなかなか見つからないし、おまけに値が張った。

とうとう撮影の用意がととのった。

白いシーツを広げて、その上に2体の骸骨を寝かせて、撮影の準備をした。

ところがここで監督官ヴィチアがセットに姿を現し、シーツを見るや、横になってすぐに眠ってしまった。彼は骸骨に気づかずに、2体とも壊してしまった。

タルコフスキーの4日がかりの仕事がおじゃんになった。

鼻息の荒い監督官のいろいろな難癖にずっと苦しめられていたから、タルコフスキーはもう我慢できなくなり、ヴィチアを荷造りしてモスフィルムに即刻送り返した。

奴は空港に車で送られたが、タルコフスキーは私の所にやって来て、言った。

「いいかい、あの馬鹿たれを連れ戻してこい、そうしないとまた厄介なことになる。」

それで私がヴィチアを連れて帰ってきた。

クルーの全員はタルコフスキーの善意の発露を喜んだ。

しかし骸骨の場面はタルコフスキーが本来望んだ形にはならなかったのである。

4号炉の崩壊

『ストーカー』では、ゾーンが実は何なのか、何がゾーンをつくり出したのか、はっきりとは説明されていない。

フィルムではゾーンの出現理由がいくつか挙げられている。

地球外生命が残した物である。落下した隕石が創造した。

作家(ソローニツィン)が主張しているようにー4号炉の崩壊で出来た。

インタビューでタルコフスキーは、プロットには全然興味がない、厳密に言って映画の出発点が唯一ファンタジーと関わる要素なのだと述べている。

映画が完成した6年後にチェルノブイリの4号炉と建屋が爆発して、30kmのゾーンが実在となった。

フィルムの美術監督としてタルコフスキー自身がゾーンの荒れ地の風景の複雑なパノラマをデザインした。

そうしたショットのひとつには、カレンダーからちぎれた12月28日という日付の紙が水に沈んでいるのが見える。

この日はタルコフスキーの人生最期の日だった。
彼は1986年12月29日に死んだ。


「私たちはタリンの近くで、半分稼働している水力発電所があるピリテ河という、そう大きくない河の周辺で撮影していました。」

とウラジミール・シャルンは言う。

「上流に化学工場があって、有害な液体物質を垂れ流していました。

『ストーカー』にこんなショットがありましたね:夏に雪がちらついて、白い泡が川面に浮かんでいる。

実際にあれは恐ろしい毒だったのです。

多くの女性クルーの顔面にアレルギー反応が出ました。

タルコフスキーは右の気管支のガンで死にました。

トーリャ・ソロニーツィンも同じです。

『ストーカー』のロケ現場とすべてがつながっていることが私にはっきりしたのは、ラリッサ・タルコフスカヤがパリで同じ病気で亡くなったときでした…」

「死んだら途端にタルコフスキーには友人が増えました。

私は自分がそういう一人だとは思わなかった。

私たちは『ストーカー』で一緒に仕事をしただけです。

アンドレイが祖国で撮った最後の作品です。

彼は私とアルテミエフを『ノスタルギア』の仕事に招きましたが、残念ながら、彼はイタリア人のクルーと仕事をせざるをえなかった。

写真は、ゾーンを出来るだけリアルに見せるために指導するタルコフスキーの姿。
http://homepage.mac.com/satokk/chernobyl.html


●ゾーンの謎

映画「ストーカー」で大きな謎はゾーンです。ゾーンとは何でしょうか?

81年日本公開時の映画パンフレットのあらすじから言葉を三つ拾い上げます。
その言葉からゾーンの正体を連想してみることにします。

                鉄条網が張られ
                発電所の跡
                足の動けない娘


この映画の完成は1979年。この時点でゾーンの正体を連想することは困難です。
事故は1986年に起こりました。タルコフスキーが予言者にも思えてきます。
ゾーンはチェルノブイリ原発事故跡地です。


  ●ストルガツキ―兄弟

原作と脚本は旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟。

映画「ストーカー」の脚本をめぐってのアルカジー・ストルガツキーの証言。


サイトより引用
-------------------------------------------------------------
「アルカジー、『路傍のピクニック』を10度も書き直すのはうんざりするだろ
うね。」

「うん」私は慎重に、そして、全く誠実に答えた。
-------------------------------------------------------------

脚本はうんざりするほどの書きかえが行われたようです。原作のオリジナルタイトルは「路傍のピクニック」。原作と映画はまったく違う話になっていて、共通点はゾーンという設定だけのようです。


サイトより引用
-------------------------------------------------------------
彼は、時間をかけて読んでは読み返す。彼の口ひげがぴんとなっている。
そして、ためらいがちに言う。

「まあ、今のところはこれで間に合う。少なくとも、とっかかりができた・・・・
この対話は書き直すことができるし。」

何だか私がしづらい言い訳をやっているかのようだ。
それを、その前後のエピソードに合うようにしなければ。

「合ってないよね?」「うん、合ってない」
「会話の何が気に入らないのですか?」
「分からない、とにかく直してよ。明日の夜までに仕上げて」

とうの昔に公式の許可と承諾を得ていたこの脚本をめぐる私たちの共同作業はこんな具合だった。
-------------------------------------------------------------

タルコフスキーに促されながらも、ストルガツキー兄弟は脚本を書きかえていたようです。


サイトより引用
-------------------------------------------------------------
「どうだろう、アンドレイ、この映画にSFがどうして必要なんだ?
SFはやめよう」
-------------------------------------------------------------

脚本の書きかえで、SFとしての形すらなくなってしまったようですが、映画「ストーカー」はSF大作として知られています。

この映画は「不自然なSFの意匠」をまとっている。ということが言われています。

また、この映画は「原作が意匠」である。と言う人もいます。
さらに、この映画は「脚本すら意匠」である。と言えるかもしれません。

なぜタルコフスキーはこのような意匠を映画「ストーカー」にまとわせる必要があったのでしょうか?


  ●ゾーンの設定

冒頭のタイトル。パンフレットのシナリオより引用
-------------------------------------------------------------
”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。そこがゾーンだ。

軍隊を派遣したが、かれらは全滅してしまった。
それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。
手の打ちようがないんだ・・・・

ノーベル賞受賞物理学者ウォーレス博士がライ記者に語った言葉より”
-------------------------------------------------------------

戦車の残骸シーンが映画には出てきます。
しかし、原発事故が発生したら「軍隊を派遣」しないはずです。
「全滅してしまった」はわかります。放射能で汚染された地域だからです。

なぜ、ここに戦車や軍隊が出てくるのでしょうか?

いろいろと考えてみました。いろいろと考えてみた結果は・・・・、
ゾーンは果たして原発事故跡地なのか?ではなく、ゾーンは果たして原発事故跡地だけなのか?です。

ゾーンにはもう一つの設定があったのです。そのもう一つの設定と原発事故跡地との組み合わせによって、国家批判が発生します。

映画に意匠をまとわせることによって、タルコフスキーはこの国家批判を隠そうとしていたのです。

冒頭のタイトルは、おおまかにゾーンを説明したような文章です。
このゾーンの設定が二つあるために、おかしなことになっているわけです。
二つの設定がぶつかってパラドックス(矛盾)になっています。

「”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。
そこがゾーンだ。」

これは原発事故発生のことです。もう一つの設定では何にあたるのでしょうか?

「軍隊を派遣した」

これはもう一つの設定に関係します。ここから連想できることは?

「それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。手の打ちようがないんだ・・・・」

これは、原発事故跡地ともう一つの設定と両方に共通します。


パンフレットのあらすじより引用
-------------------------------------------------------------
「部屋」を眼前にして、三人とも無事にここにたどりついたことを喜ぶストーカー。

がこの時、教授は、かって友人と共に製造した爆弾をリュックから取り出す・・・・。

かれは、人間が胸に秘めている最も大切な夢をかなえるというゾーン内の「部屋」が、犯罪者に利用され、人類が不幸に襲われるかもしれないという危倶を抱いていたから、「部屋」を爆破することを目的にゾーンに来ていたのだ。
-------------------------------------------------------------

「部屋」は原発事故の中心部、事故をおこした原子炉のあった部屋です。
もう一つの設定でも、「部屋」は中枢部にあたります。

「軍隊を派遣した」から連想するのは軍事体制。
「奇怪な現象が起きた」は、軍事体制の始まり。

タルコフスキーはゾーンを原発事故跡地との組み合わせによって、もう一つの設定を放射能で汚染され、立入禁止になった手の打ちようがない地域に喩えたのです。

そして事故を起こした原子炉のあった「部屋」をもう一つの設定の中枢部として、これを爆破しようとしたわけです。

ゾーンのもう一つの設定は、スターリン体制後のソ連です。


  ●ノスタルジア

チェルノブイリには放射能汚染地域に今でも住み続ける人々がいます。
また、避難先から戻って来た人々もいるそうです。
チェルノブイリはそこに住む人々にとって故郷です。


ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
「さあ、着きました。この静けさ。ここが一番ですよ。
いま、ご案内します。きれいな所で、人ひとりいません。」
-------------------------------------------------------------

この映画は単なる国家批判ではありません。
タルコフスキーの故郷に対するノスタルジアのようなものが感じられます。


あらすじより引用
-------------------------------------------------------------
ゾーンには鉄条網が張られ、警戒厳重な警備隊がゾーンを守っていた。
だが、このゾーン内には、人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるといわれていた。
そこで、禁を犯してゾーンに侵入しようとする者たちが現われる。
彼らを「部屋」まで案内する者はストーカー(密猟者)と呼ばれた。
この日も、ストーカーは妻が引きとめるのを振り切って、ゾーンヘと出発する。
-------------------------------------------------------------

ストーカーもチェルノブイリに住む人々と同じく、ゾーンへと戻っていくのです。

しかし、タルコフスキーはこの映画の次の映画「ノスタルジア」完成後、亡命を宣言しました。


  ●母なる大地

映画では、教授、作家、ストーカーが「部屋」へと進む道筋を決定するのに、ナットに白くて細長い紐を結んだものを投げ、それが落ちた場所へと一人ずつ進み、3人がその場所に揃ったら、もう一度同じことを繰り返す。これを何度も繰り返して、「部屋」へと進みます。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは何を意味するのでしょうか?

ところで、「部屋」に到着して、ゾーンの外へ出る行程のシーンがないことを不自然だと言う人がいました。


シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
3人の男たちは"部屋"の前に、互いに背を向けあったまま坐り、考えこんでいる。
ひとしきり雨が降って、"部屋"の中の水面が波紋で光る。
-------------------------------------------------------------

ポスターにも使用された印象的なシーンです。
このあと数分のシーンの後、すぐゾーンの外です。
これは何を意味しているのでしょうか?

ある人は眠っているストーカーが胎児のようだ、と言います。

別のある人はゾーンとは子宮ではないか?と言います。

ゾーンにはもう一つの設定があります。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは男性の精子。
「部屋」はゾーンの出口、女性の性器です。


あらすじより引用
-------------------------------------------------------------
かれらは、水が滝の如く流れ落ちる「乾燥室」という皮肉な名を持つトンネルを通り、何人もの生命を奪った「肉挽き機」と呼ばれる非常に危険で恐ろしい管(バイプ)をくぐりぬけ、深い井戸をもつ、波紋が連なる砂丘の部屋を通過し、ついに「部屋」の入口にたどりつく。
-------------------------------------------------------------


胎児のシーンは「乾燥室」と「肉挽き機」の間に入るシーンです。
「管(パイプ)」とは産道です。

母なる大地という言葉があります。ゾーンの三つめの設定は母体。
彼ら3人は胎内回帰をはたし、そしてもう一度新しく生まれたのです。


  ●ラストシーンの謎

この映画のラストシーンは、ゾーンとともに大きな謎です。

大江健三郎の小説「案内人」で、このラストシーンと関連するシーンを指摘しているようです。

それは冒頭シーンです。

シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
ベットには娘をはさんでストーカーと妻が寝ている。
かすかに汽笛が聞こえくる。

ベットの傍の椅子の上には綿や水を入れたコップが置いてある。
列車の近づく音と振動につれて、コップが静かにずり動く。
-------------------------------------------------------------

ラストシーンは超能力でコップが動きますが、冒頭シーンは列車の振動でコップがずり動きます。


  ●20世紀の精神

想像力―ベケット『ゴドーを待ちながら』 より引用
-------------------------------------------------------------
このヴラジーミルの言葉は、夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる。
決して分からないゴドーを、まるで会う約束をしていて、彼に会うと救われるような相手として人格化しているのも夢と似た置換ではないか?

このとき夢という言葉は、当人にも分からない願望から、ある種のメカニズムを経て形成されるものをさしている。
ベケット劇に固有な性格は、不在の中心(ゴドー)があり、すべての行為、すべての科白は、この不在の中心との関係であるが、決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。
-------------------------------------------------------------

「決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。」

これは映画「ストーカー」にもあてはまります。
映画の登場人物の科白も「夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる」ようです。

 
無意識-フロイト『精神分析入門』 より引用
-------------------------------------------------------------
無意識はすべての意識的に生きている人びとが、それぞれの精神世界を生きているときに気づかずにもっている願望が宿る心的な領域である。

無意識に関係する重要な研究のひとつは夢の形成に関するものである。

いうまでもなく夢には奇妙なところがある。
たとえば何人かの人が一人の人物に合成されていたり、出来事が不明瞭で非合理的なのに、夢のなか
ではそれなりに物語になり、一向に不思議に思わないのである。

夢思考が夢内容に変換する際に、夢内容にこうした歪曲を生み出す過程を「検閲」と名づけた。
「検閲」という言い方が出てきたのは、彼の時代ではまだ政府による検閲が新聞にたいして行われていたからである。

フロイトは『夢判断』の終わりで次のように述べている。

「夢形成に際しての心的作業は二つの仕事に分かれる。

夢思考〔潜在思考〕の生産とそれの夢内容〔顕在内容〕への変容である」とし、

後者、すなわち潜在夢を顕在夢に置き換える作業、つまり材料の省略、模様変え、編成変えが「夢の作業」と呼ぶに相応しい、と。

それと反対の方向、つまり顕現夢から潜在夢に到達しようとする作業が「解釈作業」である。


フロイトによれば「夢の作業」には四つの機制が働いている。

まず「圧縮」である。顕現する夢は「潜在する夢の、一種の短縮された翻訳である」。

第二に「置換」がある。

夢の作業はフロイトを超えて、言語化の方向に発展させられている。
ラカンはさらに発展させ、置換を換喩、圧縮を隠喩と見なすようになる。


第三に思考の「形象性への配慮」がある。
つまりすべてが視覚化されるとは言えないにしても、多くの場合、思考は視覚像に置き換えられる。
われわれの通常の思考の前段階は感覚的印象の記憶像であるとするなら、夢の作業とは、思考になんらかの退行的な処理を行って記憶像にまで戻ることを意味する。

言語によって論じられることと、視覚的イメージは食い違う。
したがって視覚化は、思考を変容させる。
しかし夢内容は、なんらかの方法によって因果関係を仄めかす方法をとっている。

第四に「二次的加工」と呼ばれる夢の作業がある。
これはむしろ顕現夢に関するものだと言えよう。
つまりこれまで述べてきたような夢の作業の直接の結果は知的に理解することが困難な結果をもたらすが、右の三つの夢の作業の結果にたいして働きかけ、それを一種の物語に整えていくもうひとつの作業がある。

三つの作業の結果を組み立て直し、「ある全体的なものとし、ほぼ調和したものとする」ことである。

-------------------------------------------------------------

ゾーンには、さらにもう一つの設定があります。

四つめの設定、それは夢の中です。

  ●夢

感覚的に上の引用文と映画「ストーカー」を結びつけてみました。

無意識は「部屋」。3人は無意識へと向かっていたのです。

検閲は文字通りソ連当局の検閲。

換喩と隠喩はゾーンの設定。
タルコフスキーの父親は詩人です。
タルコフスキーも映像において換喩と隠喩を用いる、いわば映像詩人です。

そして、潜在夢は冒頭シーン、顕在夢はラストシーンとすると、3人は「夢の作業」をしていたことになり、顕現夢を冒頭シーン、潜在夢をラストシーンとすると、3人は「解釈作業」をしていたことになります。

3人はゾーン内で冒頭の列車の振動でコップがずり動くシーンを、ラストの超能力でコップが動くシーンへと、置き換える作業をしていたわけです。


  ●眠り

この映画には多くの眠りのシーンが出てきます。冒頭シーンも眠りです。

作家と教授、そして、胎児も眠っています。

シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
妻の声「"私が見ていると大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のようになり、月は血のようになり・・・・」

ストーカーうつ伏せになって眠っている。
(画面は変わってモノクロとなる)
ストーカーのあお向けの寝顔のクローズ・アップ。
-------------------------------------------------------------

画面がモノクロとなり、ゾーンの外でストーカーは夢を見ています。

そして、画面はカラーとなり、ゾーンの中。


シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
(画面は再びカラーとなる)
コンクリートの広場に坐っていた黒い犬、突然、立ちあがる。
-------------------------------------------------------------

黒い犬も謎です。

シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
眠っているストーカー、夢うつつでため息をつきながら、目を覚まし、上目づかいにちょっと見て、起きあがる。

ストーカー(つぶやく)

「この日、ふたりの弟子が・・・・」

眠っている教授に重なるようにして横になっている作家。

ストーカーの声(つぶやくように)

「エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、語りあい、論じあっていると、イエス自身が近づいて来られた。

しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」

折り重なるように横たわっていた作家と教授、すっかり目を覚まし、ストーカーに注視している。

ストーカーの声

「イエスは彼らに言われた。
互いに語りあっているその話は、何のことか?」
-------------------------------------------------------------

胎児が目を覚し、ストーカーが生まれかわる。


  ●再びストルガツキ―兄弟

ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
ストーカー、草叢にひざまずいて、溜息をもらす。
やがて草叢に顔をうずめ、大地にうつ伏せになる。
そして静かにあおむけになり、額に手を当てて何か瞑想している。
-------------------------------------------------------------

「瞑想」という言葉は、ストルガツキー兄弟がタルコフスキーの意図を理解せず、ストーカーを観念論者として脚本を書いている為です。

アルカジー・ストルガツキーの証言。サイトより引用
-------------------------------------------------------------
私たちは、SFのシナリオではなく、寓話を書いた。
(寓話では、登場人物が時代の典型であり、典型的な理念と行動を担う者として登場するお話であると理解するならば、の話である。)

流行作家、及び、傑出した科学者が、自分の最も大事にしている夢を実現してくれるであろうゾーンに入る。2人を導くのは、新しい信仰の使徒、一種の観念論者である。
-------------------------------------------------------------


あらすじより引用
-------------------------------------------------------------
わが家に帰って、ストーカーは

「あんな作家や学者ども、何がインテリだ!・・・・骨折り損だった」

と絶望的に叫ぶ。
-------------------------------------------------------------

  ●ラストシーンと黒い犬の正体

映画「ストーカー」はタルコフスキーの一種の「芸術論」に近いものとして観ることもできます。


3人がゾーンの外へ出て、画面はモノクロとなり、そして、しばらくして画面は再びカラー。

黒い犬が夢の中からゾーンの外までついて来る。ストーカーは眠る。

カラーは夢の続き。

そしてラストシーン。


シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
机の脇に少女が本を読みながら腰かけている。
やがて少女はふと眼をあげ本を膝に置いて、じっと窓の方を見据える。

少女のモノローグ

「ふと、まなざしを上げ、まわりを閃光のごとく、君が眺めやる時その燃える魅惑の瞳を、私はいつくしむ
だが一層まさるのは、情熱の口づけに目を伏せそのまつ毛の間から、気むずかしげでほの暗い、欲望の火を見る時・・・・」
-------------------------------------------------------------

黒い犬は原作からの置き換え。
そして黒い犬は映画「ストーカー」へとさらに置き換わり、映画「ストーカー」そのものが自らのラストシーンへと置き換わる。

シナリオより引用
-------------------------------------------------------------
犬が鼻を鳴らす声が聞こえる。
少女はいったん、窓の外に眼をやると、その眼差しを机に置かれたコップに注ぐ。

コップはひとりでに静かに机の上を滑りだす。少女は机の上のコップと花びんに次々と視線を向ける。
視線を受けると、コップが静かに動き出し、床に落ちる。
少女は机の上に頬を載せて、眼を凝らしている。
ベートーヴェンの”歓喜の歌”が響き、やがて消える。
-------------------------------------------------------------
http://www.he.mirai.ne.jp/~ssrc/stalker.htm


タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:あなたのフィルムに登場する人物はロマン派のヒーローに似ています。いつも旅の途上にあり、この旅ー巡礼が秘儀参入になる。例えば『ストーカー』は典型的なロマン派の秘儀参入のパターンに沿ってつくられています。

その場合-ドストエフスキーがロマン主義者だとあなたが主張するとは思いませんが。
彼は全然ロマン主義者ではないー彼が生きた時代、彼の人生観が示しているように。
しかし、彼の主人公はいつも旅の途上にありましたね。

Q:むしろ迷路に入ったような。

それはどうでもいいです。
いつも、探求する人間の物語です。

目標に向かって進んでいく人間です、カンテラを下げたディオゲネスのように。

『罪と罰』のラスコーリニコフーこれももちろん同じ事です、いささかの疑いもない。
アリョーシャ・カラマゾフも、そうです、もちろん。

彼もまたいつもどこかを目指しているーしかし彼は全然ロマン主義者ではない。

こういう訳で、「いつも旅の途上にある人間」とあなたが言うとき、それは必ずしもロマン主義の決定する特徴ではないのです、それはロマン主義でもっとも重要なことではありません。

物質の崩壊と精神の創造


Q:あなたの主人公たちについて話しているとき、私たちは彼らを放浪者、巡礼と呼びました。ここで疑問があります:あなたの主人公、放浪者、巡礼者にとって、彼を脅かす混沌とした出来事から抜け出すチャンスはあるのでしょうか? あなたの作品に現れる時間は無慈悲です。すべてを廃墟に変えてしまいます。つまり、時間と出来事が登場人物を害し、無力にしてしまう、すべての物質的なものを損ない、無力にする。あなたは、誠実さ、個人の尊厳の感覚、個人の自己実現の権利といった価値の永続性を信じますか?


うーん。これを質問というのは難しい。

あなたは、おびただしい、さまざまな問題を列挙したといったほうが良い。

そんなおおざっぱに組み立てられた質問に答えるのは、私にはとても困難です。

一方では、登場人物を無力化する無慈悲な時間に言及されるー
それから「すべての物質的なもの」と言われる。

これが私にははっきりしません。

結局、あの登場人物たちはもっぱら「物質的な」ものではない。

物質的なものはすべて破壊にさらされますが、これらの登場人物は物質だけではないー
何よりも彼らは精神なのです。

Q:もちろんです。


だから、私はいつも大切だと考えてきましたーどの程度人間の精神は不壊であるのか、破壊不可能なのかー崩壊と破壊を被る物質を示すこと、破壊不可能な精神に対立するものとして、物質を示すことが、です。

まだ『ルブリョフ』には見つからないでしょう。

明らかにあそこで私たちは破壊、無力化を扱っていますが、それは或る意味で道徳的な破壊です。

物質性と精神性の対立ではありません。

一方『ストーカー』では、いやすでに『鏡』には、例えば、もはや存在しないあの家があります。

そしてもしかすると、永遠に残るその場所の精神の感触があります。

母は、外へ出るときー覚えていますかーいつも同じです。

母のこの姿、魂は朽ちない、不死であると示すことが私には重要だったのです。
それ以外のものは崩れ去ります。

もちろんこれは悲しいことですー
魂は、時には自らが身体を離れつつあるのを見守りながら、悲しく感じるものですから。

そこには何かノスタルギアのこもった憧れがあります。

アストラルの悲しみです。

この破壊が登場人物に関わるものではない、物質だけに関わるものだということは私には自明のことなのですが。

だからこそ、この対比を獲得することが重要だったのですー
移りゆくものの視点から現実を提示するために、です。

それが古くなったとか、その時を生き抜いたとか、或る特定の時期のその存在を生き抜いたといった狙いがないとしてもです。

一方、人間のほうはいつも同じです、いやもっと正確に言うと、同じままではなく、発達を続けます、無限にまで。

尊厳と言われましたね。

明らかに人間の尊厳はとても大切です、きわめて大切です。

それから、道のことも、旅のことも。

もし旅を、比喩的な意味でも、語るとするなら、どこにたどり着くか、は実は重要でないと言い添えておかねばなりません。

重要なのは、旅をはじめたということです。

『ストーカー』をめぐって

Q: 例えば『ストーカー』で-

いつでもそうです。いかなる状況でも。

『ストーカー』の場合は?
 
さあ、どうでしょう。

ただ、私は別の事を言いたかった。

つまり、重要なことは、最後にひとが達成したことではなく、最初にそのひとがそれを達成する道に足を踏み入れたということです。

なぜ、どこにたどり着いたのかが、重要でないのでしょうか。

なぜなら、この道に終わりはないからです。

そのために、まだ出発点に近いか、すでに終点に近いかはまったくもってどうでもいいことなのです。

あなたの前には旅があり、それに終わりは決してないのです。

で、もしあなたがその道に足を踏み入れていないなら?

そのとき、一番重要なことはそこに足を踏み入れるということです。

これこそ問題なのです。


そういう訳で、私にとって重要なのは、道そのものではなく、人がその道に、どの道でもいいです、踏み込む瞬間なのです。

 例えば『ストーカー』の場合、もしかするとストーカーは私にはそれほど重要ではありません

私にとってずっと重要なのは作家です。

冷笑家として、プラグマティストとして、ゾーンに入って、自分は善人でないと悟って、人間の尊厳を口にする人間になって帰って来る作家なのです。

初めて彼は次の問いに直面します。

人は善なのか悪なのか?
 
で、もし彼がすでにそのことを考えていたなら?

こうして彼は道に踏み込むのです-

ストーカーが自分の努力のすべては無駄に終わった、だれも何も理解していない、だれも自分を必要としていない、と言う時?彼はまちがっているのです。

なぜなら作家はすべてを理解したからです。

そういうわけで、ストーカー自身もそれほど重要でないのです。


この文脈で、もう一つ重要なことがあります。

実は、私はもう1本映画を、『ストーカー』の続編を作りたかった。

まあ、そんなことはロシアなら、ソ連なら出来たでしょうが、もはや不可能です。

ストーカーとその妻は同じ役者が演じる必要がありますから。ここでは別のことが重要です。

つまりストーカーはひとが変わります。

人々が、この幸せにたどり着くことができる、自己変容の浄福、内なる変化に向かって進んでいけると、もはや信じていません。

それで彼は人々を力づくで変えはじめます。

怪し気なやり方で人々をゾーンへと拉致しはじめます?

彼らの生活をよりよいものにするために、です。

彼はファシストになります。

ここには、純粋な理想が?
純粋にイデオロギーと関わる理由から?
その否定になりはてる姿があります。


つまり、目的が手段を正当化すると、ひとは変わるのです。

ストーカーは3人の男を力づくでゾーンに連れて行きます。

これこそ続編で描きたかったことです。


彼は自分の目標を達成させるためには流血も辞さない。
これはすでに大審問官の理念です。

大審問官は自ら犯罪を引き受けます、いわば-

Q:救済

救済の名において。このテーマはドストエフスキーがいつも問題にして来たことです。

Q:『悪霊』-


『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』で。

『悪霊』ではそれに触れてすらいない?

あそこで彼は一般にそうした最初の衝動すら否定している。

どんなものであれ、たとえきわめて高貴な衝動であれ-。
彼はそれすら否定している。

Q:それは『悪霊』ですね。


そうです、『悪霊』です。

しかし『カラマーゾフの兄弟』で彼は社会主義について、大衆の幸せの名において暴力の罪を引き受ける人々について 、書いています。

Q:あるいは、何らかの理念の名において。


そう、理念。それは重要ではありません。

この意味で、私にとってそれよりずっと重要なものは、道そのものではありません?
もちろんそれも重要ですが?

むしろ、道に足を踏み込む人、踏み込まない人の問題全般です。

彼らが旅を引き受けるか否か、なのです。

精神の自由

ですから、ここに挙げたこれらの側面のすべてが私には当然重要なのです。

あらゆる人間の特質が私にはきわめて重要なのです。

尊厳、自由-内的な自由ーご承知のように政治的な自由と精神的な自由は2つの異なる概念だからです。

政治的な自由について話すときには、実は自由の話をしていないのですー権利の話をしているのです。

私たちの良心に好ましいやり方で生きる権利、私たちが必要と考えるやり方で生きる権利。

社会に奉仕する権利ー私たち自身がこの課題を理解する限りでですが。

自由に感じる権利。権利です。いくらかの義務ももちろん伴います。

他のものとは関係なく、人は権利を有していなければなりません。

しかし私たちが自由について話すとき、私たちが心に描くのは-わからないなあーもし自由になりたければあなたはいつでも自由なのです。

人間は、牢獄に閉じこめられても、自由でいられるのだと私たちは知っています。

また自由を進歩と結びつけるべきではありません。これは絶対だめです。

人間の意識と個我が始まって以来、人間は自由であるか自由でないか、どちらかしかありえないー自由という言葉の内的な意味においてですよ。


こういう訳で、自由を話題にするときには権利の問題を、自由、内的な、精神の自由と混同すべきではないのです。

ここまで来ると、このテーマについて私が何を言っても連中には分からない。

先頃私はそういう会合に出ていました。

彼らは新聞に書きました。

「タルコフスキーが精神性について語るとは非常に不思議だ。」ー

彼らには不思議なのです、彼らにはさっぱり分からない、私が何を言っているのか、理解できないのです。

私が精神性について語っているとき、人間は、なぜ自分が生きるのか、知るべきである、自分の生の意味について考えるべきである、という意味なんですが、それがまったく理解できない。

それについて考え始めた人は、或る意味で、すでに精神の光に照らし出されているのです。

彼はこの問いを二度と忘れることはないでしょう。

この問いを投げ捨てることはないでしょう、彼は道に足を踏み入れたのです。

しかし、彼がこの問いを決して自分に問いかけないなら、精神性が剥奪されているのです。

動物のように、功利的に生きるのです。

こうなると人は何も決して理解することはないでしょう。

連中にはこういうことがまるっきり理解できない。

あの記事を書いたジャーナリストということになるとー私にはとにかくショックでした。

彼は確かに考えています。

つまり、精神性に触れていますから、これは間違いなく、正教会に関わっているものでしょう。

聖職者主義に関わっていると言ってもまず差し支えないでしょう。

彼にとっては、人間の魂とか人間が生きている間に果たすべき道徳的な努力といった疑問はまったく存在していないのです。

Q:彼らは自由の奴隷、進歩の奴隷に思えますね。

そうです、その通りです。そういう人には自由の理念は-

Q:価値である。

その通り。

それで、私が彼に自由とは何かと訊いたら、決して答えてくれないでしょうね。
なぜなら分からないのだから。

なぜならそれをどう扱えばよいのか、この自由をどうしたらいいのか、知らないからです。

でも脱線しましたね。質問はこんな風には述べられなかった。

しかしこの問題は私には恐ろしく重要なのです。

私は人間の権利の問題を決して持ち出そうとはしなかった。
私には興味のないことです。私は内的な自由の問題に興味があるのです。
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」

使われた音楽 バッハ「マタイ受難曲」 等
使われた意図 芸術の荒廃と受難


20年ほど前に「ゾーン」という「思いがすべて実現される領域」が出現した。

ここで主人公はそのゾーンの案内人でストーカーと呼ばれる。

今回そのゾーンに連れて行く人間は、小説家と学者(いずれも固有名詞はなし)の2人。
ストーカーはこの2人を苦心のはてにゾーンに導くが・・・

今回は79年の作品「ストーカー」を取り上げます。
この作品のあと、タルコフスキーはソ連から亡命となったわけです。

ちなみに、ストーカーという言葉は、元々は「領域侵犯者」という意味ではなかったかな?
「入っちゃいけないところへ入っていく。」

その点では、女性を付回すストーカーと基本的には同じ意味なんですね。


このタルコフスキー監督の「ストーカー」では、クラシック音楽が4つ使われています。


ワーグナーのオペラ「タンホイザー」から巡礼の合唱。
バッハの「マタイ受難曲」から「哀れみたまえ。わが神よ」。
ラヴェルの「ボレロ」。
ベートーヴェンの「第9交響曲」。

まず、このゾーンへの旅の前にワーグナーの「タンホイザー」の「巡礼の合唱」が鳴らされます。

つまり、このゾーンへの旅は一種の巡礼である。

そのことをタルコフスキーは示しているわけですね。
「聖」なるものへの巡礼。


ソーンは「聖」なるものの象徴ではないか?
映画を見ている観客はそのように予感することになるわけです。


次に使われるのはバッハの「マタイ受難曲」からの第39番のアルトのアリア

案内人たるストーカーに導かれながら、ゾーンを進んでいく小説家が口笛を吹くわけです。


イエスが捕らえられて、ペテロ(イエスの第1弟子)が心配そうにしている。
そんなペテロを見つけた周囲の人から「アンタもイエスの仲間だろ!」と追及されるわけです。

自分も逮捕されたくはないペテロは、それを否認するわけです。
「オレはイエスなんて男は知らないよ!」ってね。

新約聖書で有名なシーンです。

心ならずもイエスを否認したペテロの心情を歌ったアリアが、この第39番のアルトのアリアですね。

「憐れみたまえ、わが神よ。

私のこの涙を。ご覧ください。

私の心と目はあなたの御前でさめざめと泣いています。」


という歌詞です。

深い悔恨の音楽と言えるものです。

一番重要であるはずの神の子たるイエスを、自分の弱さから否認してしまった悔恨です。

イエスを否定してまで、自分は生きるに値するのか?

自分自身の弱さから、イエスを否定したペテロは、心の弱さを持つ人類そのものですよね。


映画では小説家が口笛で歌っています。まあ、口笛には不向きな曲ですよね?

「サクリファイス」でも使っていることとも合わせて、よっぽどの意図があるわけですね。

イエスを否認したことについてのペテロの悔根の曲を使って、この「ストーカー」という作品においては、誰が何を否認したの?

鼻歌でうたっているのは小説家なので、小説家が否認したとみるのが自然ですね。

では、何を?

多分小説家が否認したのは神なのでしょう。

あるいは超越的な存在と言い換えることもできるでしょうか?

それとも「聖」なるもの?あるいは「良心」と言えるものかも?

映画を見ていた観客の方ならスグわかるでしょうが、この小説家はなかなかに鋭い洞察を持っている。

特に意識が朦朧としている時には、実に的確なことを言う。

今日における芸術の位置づけとか、
芸術家の創作の原動力とか・・・

例えば

「人間がものを書くのは苦しみ、疑うからだ。
自分自身や周囲に自分の価値を証明しようとするからだよ。」


とか・・・

このあたりの言葉はタルコフスキー自身の考えと全く共通でしょう。
そのような意味では、この映画における小説家とタルコフスキーは同じ問題意識を持っているわけです。

しかし、小説家は否認した。
イエスを、というより神を否認したわけ。


映画においては、この小説家はこのマタイ受難曲を口笛で吹いて、「イエスの否認」を示すだけでなく、様々な堕落した様相を見せています。

敬虔さがないし、
意思が弱いし、
妙な自意識がある。

つまり、この名前も与えられていない小説家は「堕落した芸術家」の象徴なんでしょうね。

そして同行する学者は物理学者という設定ですが、どうやらテクノクラート(官僚)のような組織内のインテリを象徴しているようです。

つまりこの「ストーカー」という作品は極めて知性の高い人間2人を、「聖なる場所」に導く巡礼の旅を描いた作品なんですね。

そして結果はどうなったの?

見事に大失敗ですよね?


2人のインテリは「望みがすべてかなう場所」に到達しても何もできなかった。

望むことができなかったわけです。

人間が最高の歓喜に至ることができるはずの場所で、どうすることもできない。

案内したストーカー(これも名前なし)の労苦は徒労に終わったわけですね。

人々の望みがすべてかなう場所。
「聖」なる場所であるゾーン。

これが「芸術」の世界を象徴していることは明白。
人々をその芸術の世界に導くストーカーはまさに芸術家。

世俗のことに全く無能で、できることといったら、聖なる世界への案内人。
この設定はまさにタルコフスキー本人を象徴しているわけですね。

そして、散々な労苦のあとで、人々に文句を言われることもタルコフスキーと同じでしょう。
特にタルコフスキーはソ連の人でしたし、周囲から色々と文句を言われたはずです。

その「芸術家」を象徴するストーカーにとって、今までに行った案内で、一番苦労した案内が、その小説家と学者を案内した旅の

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.