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2022/08/22 (Mon) 17:57:58
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アンドレイ・タルコフスキー 『鏡 ЗЕРКАЛО』 1975年
監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・タルコフスキー、アレクサンドル・ミシャーリン
音楽 エドゥアルド・アルテミエフ
撮影 ゲオルギー・レルベルグ
公開 1975年3月7日
動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863922
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863976
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864040
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864127
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864211
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864281
鏡 (映画) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
『鏡』 (ЗЕРКАЛО [Zerkalo]) は、アンドレイ・タルコフスキーが監督した1975年のソ連映画である。作者の自伝的要素の強い映画であるが、また同時にロシアの現代の歴史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーの作品において、中心をなす代表作である。
キャスト
母マリア/妻ナタリア:マルガリータ・テレホワ
父:オレーグ・ヤンコフスキー
少年時代の作者(アレクセイ)/現代の作者の息子(イグナート):イグナート・ダニルツェフ
幼年時代の作者:フィリップ・ヤンコフスキー
医者:アナトーリー・ソロニーツィン
挿入詩朗読:アンドレイ・タルコフスキー
ナレーション:イノケンティ・スモクトゥノフスキー
概説
オープニング-反響の暗喩
『鏡』は、言語症の少年が回復訓練を受けているTV画面の情景から始まる。女医が話しかけ、少年は吃音でうまく話せない。女医は少年をリラックスさせ暗示を与えつつ、「ぼくは話せます」と言ってごらんなさいと指示する。女医の言葉に合わせて少年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことが出来る。そして同時に「鏡」というタイトルが出てくる。
このオープニングはきわめて示唆に富んでおり、ここにタルコフスキーの映画のエッセンスが表現されているとも言える。無意識のなかに確かに存在するが、何かの障害によって意識にうまく再現されない記憶・情景。このような「心の深層」のイマージュが、ある魔術的とも言える手順を通じて、この現在に、鏡に映る像のように再現され意識化される。これがタルコフスキーの映画の基本的な構造でもある。
フラッシュバックと記憶
映画はそこから一挙に過去にフラッシュバックし、作者 (タルコフスキー) の少年時代に戻る。まだ若かった母が農場の柵に腰掛けている情景が出てくる。医者だと自称する見知らぬ男 (アナトーリー・ソロニーツィン) が現れ、作者の母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その過ぎ去って行く医者の姿と共に、作者の父であるアルセニー・タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。
『鏡』は具体的な筋や物語を持っていない。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行く作者の「枠物語」はあるが、ふとした言葉や出来事が映画の場面を多様な過去の記憶の情景へと引き込んで行く。現在は過去の記憶に浸透される。
様々な魅力的でもあれば象徴性に富んだ情景が、あるときは田舎の自然として、家のなかの薄暗い情景として、印象的な雪のなかの坂道を登る少年の姿として現れる。映画は歴史ドキュメンタリーの映像を挿入しながら過去と現代を交互に行き来しつつ、記憶の積み重ねとして構成されている。展開して行く映像の場面に、詩人であった父アルセニーの詩を朗読するタルコフスキーの声が重なって行く。
個人の記憶とロシアの歴史
過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶が呼び出されると共に、ロシア(旧ソ連)の歴史、過去の時代の政治状況などが描き出されている。祖父の別荘で、夜、納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族から去って行ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人のいのちにも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。
作者の部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。ニュース映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。印象的な情景が幾つもあるが、そのなかの一つは、「魔術的な存在の消失」とも言える、映像の暗喩である。
一人の老婦人の要望に応え、作者の息子イグナートはプーシキンの書簡の一部を朗読する。それは、タタール(チンギス・ハーンなど)の圧倒的な破壊・暴力に対する防波堤となった、ロシア(ルーシ)のヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻って来ると婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた痕跡があり、それが見ているなかで、湯気が消えるように見る見る消えて行く。
記憶のイマージュの交錯と交響
作者は少年時代、雪のなかの道を歩き、射的場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び、ニュース映像が現れ、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落とヒットラーの遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命のニュース。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件の情景。そして再び、現在へと時間は戻って来る。
一つの記憶が無意識から呼び出されると、それは別の記憶を更に呼び出し、記憶と記憶が交錯し、それは現在の情景とも交錯して、複雑なこころのイマージュを形造って行く。これは『惑星ソラリス』において、まさに宇宙空間で起こったことであり、歴史大作『アンドレイ・ルブリョフ』は、15世紀のイコン画家の時代と現代のあいだで鳴り響く、歴史と記憶、イマージュの交響音楽とも言える。
タルコフスキー自身は、第二次世界大戦の戦禍のただなかで生まれ少年時代を送った。この経験と記憶が、後に『僕の村は戦場だった (原題:イワンの子供時代,Ivanovo Djetstvo)』の作品イメージの構成に影響を与えているのは自然である。また父アルセニー(オレーグ・ヤンコフスキー)がタルコフスキー母子を、ある意味で見捨てたことも、彼のその後の芸術家としての主題となって来ている。軍服を着た父が少年タルコフスキーを胸に抱くシーンでは、劇的に音楽が高まる。
また映画の後半部でもっとも重い主題となっているのは、母と共に疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、少年タルコフスキーを伴って、販売交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年であった作者が垣間見た、豊かで暖かい家庭。ここにタルコフスキーの映画世界の始源点があると言える。
エピローグ-そしてはじまり
『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。 他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。
かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。
記憶と現在-永遠と鏡像
タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。
タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio)』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。
作中挿入音楽
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 『オルガンのためのプレリュード』,『ヨハネ受難曲』 断章
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ 『スターバト・マーテル』 断章
ヘンリー・パーセル 『弦楽組曲』
テーマ音楽作曲:エドゥアルド・アルテミエフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
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2025/05/13 (Tue) 12:04:18
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アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。
父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。
両親はモスクワの文学大学に学ぶ。
タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。
ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。
しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。
一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。
アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。
1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。
戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。
一家は、1943年にモスクワに戻った。
そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。
戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。
死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか?
しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。
息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。
芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。
音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。
1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。
これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。
1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。
タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。
この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。
後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。
こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。
彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。
大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。
タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。
映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。
『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。
伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。
それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。
しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
http://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
▲△▽▼
「魂の映像詩人~タルコフスキー」
「僕のみる夢は、いつも同じだ。
僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。
そして白いテーブル・クロスの食卓がある。
家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。
薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。
そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。
時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる
。
夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。
夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」
『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。
なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。
物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。
母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。
そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。
自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。
そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。
作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。
「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・
われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ。
世俗のことばかり忙しくて・・・」と。
内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。
人間としての良心。善悪や恥に対する認識。
『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。
自己を見つめるための『鏡』、
自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡』。
鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。
スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。
そのため奔走した母。それを攻める同僚。
観ているものには理不尽さを感じないではいられない。
それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。
ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。
しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。
また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。
そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。
≪父の詩≫
「私は予感を信じない
前兆を認めない
中傷も毒も恐れない
この世に死は存在しないのだ
すべては不死だ
すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない
ただ現実と光あるのみ
この世に闇もなく、死もない
我々はみな海辺に出る
不滅の海の広がり
我々は力をあわせて綱を引く
家というものも永遠だ
私は好きなときに呼び戻し
その時代に生き 家を建てる・・・
それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる
もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる
光も永久に残るだろう
過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた
私は自らこの世紀を選ぶ・・・」
鏡《ストーリー》
私の夢に現われる母・マリア。
それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。
うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。
一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。
母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。
鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。
息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。
1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。
私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。
彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。
私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。
両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。
妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。
妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。
赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。
同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。
そして、哀れだった母のこと。
大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。
母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。
イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…
そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。
http://acusco.cocolog-nifty.com/higurasi/2008/07/post_20eb.html
▲△▽▼
アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー
―1985年3月、ストックホルム― 『鏡』に関して
Q. 『鏡』であなたはご自身の生い立ちを提示されました。どのような鏡をあなたは使われたのですか。
その鏡は、スタンダールの鏡のように、道中をたどる鏡ですか。それとも、その中に自分自身を発見し、それまで知らなかった自分自身について何かを学ぶことになった鏡ですか。
言い換えますと、この作品はリアリスティックな作品ですか、それとも、主観的な自動創造なのですか。あるいはもしかすると、壊れた鏡の破片を集めて、映画的なイメージの枠内に収めて、完全な総体を構成する試みなのでしょうか。
映画というものは、部分を集めて一個の総体にする可能性をいつも創造してくれます。
映画は結局、モザイクのように、切り離されたショットから構成されています。
色彩とテクスチャーの異なる個々の断片で構成されています。
ですから、断片の一つ一つはそれ自体では、無意味かもしれません。またそう見えることでしょう。
しかしその総体の中に収まると、断片が絶対に必要なエレメントになるのです。
個々の断片はその総体の枠内でしか存在しません。だから映画は、私にとって最終的な結果を見る目で考えぬかれていない、いかなる断片もフィルムに存在しない、存在し得ないという意味で、重要なのです。
個々の断片のひとつひとつは、まったき総体によって共通の意味にいわば彩色されているのです。
言い換えると、断片は自立した象徴として機能せず、ある独自の、唯一無二の世界の一部としてだけ存在するのです。
そういうわけで、『鏡』はある意味で私の理論的な映画観に最も近いものです。
ご質問は、どのような種類の鏡なのか、でしたね。
ええ、まず第一に、この映画は創作されたエピソードをまったく含まない私自身の脚本に基づいています。
エピソードのすべてが実際に私の家族の歴史のものです。そのすべてです。例外はありません。
唯一創作されたエピソードは、ナレーター、作者の病気です。
作者はスクリーンに映りません。
ところで、この非常に興味深いエピソードは、作者の精神的な危機、彼の魂の状態を伝えるために、必要だったのです。
ひょっとすると、彼は命に関わる病気なのです。
ひょっとするとそれが映画を作り上げるさまざまな回想を生み出す理由なのです。
死ぬ間際に人生の最も重要な瞬間の数々を思い出す人のようにです。
ですから、これは作者が自分の記憶に加えた単純な暴力ではありませんー私は私が欲するものだけを覚えているのですーそんなものではありません、これらは臨終の時の男の回想なのです。
自分の思い出すエピソードを良心の秤にかけているのです。
このように、唯一創作されたエピソードは、他の完全に真実である回想に必要な先行条件になったのです。
この種の創造、このように自分自身の世界を創造することがこの真実かどうか、そうお訊ねなのですね。
ええ、もちろん真実ですが、私の記憶に反射したものとしての真実です。
例えば、撮影に使われた私の子ども時代の家を考えてみましょう。
映画であなたが目にする家です。あれはセットです。
つまり、あの家は昔、私の家が建っていた全く同じ場所にもう一度建てられたのです。
あそこに残っていたものは、基礎すらなかった、かつてそこにあった穴ひとつでした。
まさにその場所に家がもう一度建てられたのです。写真から再建したのです。
これは私にはきわめて大切なことでした。
私が何らかの自然主義者になりたかったからではありません。
そうではなく、映画の内実に対する私の個人的な姿勢の総体がそれにかかっていたからです。
もし家が別物に見えたなら、それは私にとって個人的なドラマになったことでしょう。
もちろんこの場所で樹木はずいぶん生い茂りました。すべてが生え放題で、ずいぶん切り倒さねばなりませんでした。
しかし、私がママをあそこに連れて行くと、ママはいくつかのシークェンスに出ていますから、彼女はあの風景にひどく心を動かされたので、私は正しい印象が創造されたのだとすぐに分かりました。
こう思うでしょうね。なぜまた、過去を念入りに再構築することが必要だったのか、と。
それもまた、ただの過去でなく、私が覚えていること、そしてそれを私がどのように覚えているか、それを再現することが必要だったのか。
私は、いわば、内的で主観的な記憶のために特定の形式を探求しようとしたのではありません。
私は昔のままにすべてを復元しようと努めました。
つまり、私の記憶に固定されたものを文字どおり繰り返そうと努めました。
その結果は非常に不思議なものでした。私には何とも奇妙な経験でした。
観客の興味を引くために、関心を引きつけるために、観客に何かを説明するために、構成されたり創作されたエピソードは何ひとつない映画を私は作りました。
エピソードのすべてが、まさしく私の家族に関する、私の生い立ちの、私の人生の回想だったのです。
そして、それが実は非常にプライベートな物語であるという事実にもかかわらずーもしかすると、まさにそのためにー私は後でたくさんの手紙を受け取りました。
映画を見た人たちは「どうやってあなたは私の人生で起きたことが分かったのか」と訊いてきたのです。
これは非常に重要です、ある内的な意味で、非常に重要です。
これはどういう意味なのでしょう。
これは、道徳的で精神的な意味で非常に重要な事実であると私は言いたいのです。
なぜなら誰かが自分の真実の感情を芸術作品で表出するなら、それは他者にとって秘密のままであることはありえないからです。
もし監督や作家が嘘をついているなら、ものごとを人工的に作り上げているなら、彼の作品は完全に-
Q. 「洗練の極み」
そう。イタリアでは、cervellotico, troppo cervellotico と言う。
「人工的に、よく工夫されている」という意味です。
そんな仕事は誰の心も動かさない。
だから、作家と聴衆の間の相互理解は、それがなければ芸術作品は存在しないのですが、創造する者が誠実であるときにのみ可能なのです。
しかし誠実な作家が自動的に傑出した作品を生むという意味ではないですよ。
能力と才能が基本的な予備条件なのは確かです。
ただし、芸術家の誠実さが欠けていたら、真の芸術的創造は不可能です。
本当のことを言えば、何らかの内的な真実を言えば、必ず理解が得られると私は信じています。
お分かりになりますか。提示された問題がきわめて複雑でも、イメージのシークェンスが、作品の形式構造がきわめて複雑でも、創造者にとって根本的な問題はいつも誠実さなのです。
構造の点で、『鏡』は私の映画で全般的にもっとも複雑なものです?構造としてです。
個々に考えられた断片としてではなく、まさしく一つの構造としてです。
そのドラマツルギーはなみはずれて複雑で、内転したものです。
Q. 夢や追憶の構造に似ていますね。結局これは普通の省察ではありませんね。
ええ、これは普通の省察ではありません。そこには、そういう込み入ったものがたくさんあります。
自分でもよく理解できないものもあります。
例えば、母に出演してもらうというのが私にはとても重要でした
。
映画にイグナーツ少年が座っているエピソードがあります-イグナーツじゃない-何て名前だったけ?
作者の息子、彼がだれもいない父親の部屋で座っている。これは現在です、今現在です。
この少年は語り手の息子です。その少年は作者の息子と、少年時代の作者自身の両方を演じています。
で、彼がそこにいるとき、ドアベルが鳴ります。
彼がドアを開けると、女の人が入って来て、「あら、家を間違えたようね」と言います。
家を間違えたのです。これが私の母です。
で、彼女はドアを開けるこの少年の祖母です。
しかしなぜ彼女は彼が孫だと分からないのでしょう。なぜ孫は祖母が分からないのでしょう。
さっぱり分かりません。つまり?
第一にこれはプロットで、台本で説明されていません。
第二に、私にもこれは明確でないのです。
Q. 人生のすべてが理解出来るわけでも、明確なわけでもありません。
そうですね、私にとって、それは?どう言えばいいのかな?
さまざまな感情の絆と折り合いをつけることなのです。
私にとって、母の顔を見ることがきわめて大切なことでした。
この映画は結局彼女についての物語なのです。
彼女は玄関を不安げに、何かおずおずと、入って来ます。
ドストエフスキーの流儀で、マルメラードフの流儀でね。
それから彼女は孫に言う。
「家を間違えたようね」
あなたはこの心理状態を想像出来ますか。
私にとって、このような状況に落ちた母を目にすることが大切だったのです。
混乱した時の、気後れした時の、恥ずかしがっている母の顔を見ることが重要だったのです。
しかしちゃんとしたサブプロットを作るには遅すぎると私は分かっていました。
なぜ孫を認知できないのか、明らかにしてくれるように脚本を書くにはすでに手後れでした。
目が悪かったからとか何とか、ね。それを説明するのは非常に簡単なことだったでしょう。
しかし私は自分に言い聞かせました。
何もでっちあげないぞ。
母にドアを開けさせて、家に入り、息子[原文のママ]を認知できないようにしよう。
少年は彼女がだれか分からない。
この状態で彼女は外に出てドアを閉めることになります。
それは、私にとりわけ身近な人間の魂の状態です。
何か不如意の状態。精神的に縛られた状態です。
これを目にすることが私には大切だったのです。
一種、辱められた状態の人間の肖像です。
おとしめられたという感じです。
これを、彼女の若き日のシーンと並べてみると、そうすると、このエピソードは私に別のエピソードを想起させます。
つまり、若いころにイヤリングを売りにあの医者のところに行きます。
彼女は雨の中で立っています。何か説明しています、何かについて話しています、なぜ雨の中でなのでしょう。何のためなのでしょう。
もしかすると、このような謎が何もなければずっと良いのでしょうね。
しかし全く説明のない、理解不可能なこのようなエピソードがいくつかあります。
で、私たちにはその意味を探る手がかりがないのです。
例えば、人々はこう言うでしょう。
「向こうに座っていて、少年にプーシキンがチャーダーエフにあてた書簡を読むように言うこの年配の女性はだれなのか?」
この女性はだれなのでしょう? アフマートワか??
だれもがそう言います。彼女は実際アフマートワに少し似ています。
横顔が同じなので、彼女を思い出させるのです。
あの女性を演じたのは、タマーラ・オゴロードゥニコワです。私たちの製作マネージャーです。
実際すでに『ルブリョフ』の製作マネージャーでもありました。
彼女は私たちの大の友だちで、彼女の姿は私の映画のほぼすべてに映っています。
彼女は私にとって護符のようなものでした。
この女性がアフマートワだと私は思いませんでした。
私にとって、彼女はある種の文化的な伝統の継続を表象する「彼方」からの人物でした。
彼女はこの少年を何としても、そうした文化的な伝統と結び付けようと努力しています。
文化的な伝統を、まだ若く、今この時代に生きている人間と結び付けようと努力しています。
これはとても大切なことです。
簡潔に言うと?それは、ある種の傾向、ある種の文化的な根っこなのです。
ここに家があります。
ここには、そこに住んでいる男がいます。作者です。
そしてここには、この雰囲気に、こうした文化的な根っこに影響を受ける彼の息子がいます。
結局、この女性がだれであるのかは、明確に指示されてはいません。
なぜアフマートワなのでしょう?
ちょっと衒いすぎです。この女性はアフマートワではありません。
簡単に言うと、この女性はまさしく、時の、切れた糸を繕うのです。
シェークスピアの『ハムレット』の場合と同じです。
彼女はそれを文化的、精神的な意味で回復させるのです。
それというのは、近代と過去の時代との絆です。プーシキンの時代と、です。
もしかするともっと後の時代と、かもしれませんーそれは重要ではありません。
私がこの映画で獲得した非常に重要な、きわめて重要な経験は、私にとって同様に観客にとってもこの映画が重要であると判明したことでした。
私たちの家族だけの物語であって、それ以外ではありえないということはどうでもいいことです。
この経験のおかげで私は多くのことが見えるようになり理解したのでした。
この映画は、監督としての、こういってもいいなら芸術家としての私と、私の仕事が奉仕する人々との間に絆があるということを証したのでした。
そのためにこの映画は私にとってとても重要だと分かったのです。
なぜなら、私がそれを理解したとき、私が大衆のために映画を作っていないと誰も私に不服をならすことができないからです。
まあ後になってもいろいろな人がぐずぐず言いましたがね。
しかしそれ以来、私はそういう不服を自分に申し立てることができなくなりました。
芸術と実人生ーロシアの伝統
Q. あなたとご家族の人生はリアリズムが典型的に必要とするものに従って形成されていません。
あまり典型的な家族とは言えません。
おっしゃったように、観客は自分の人生が反映された映像をそこに見いだしたのですが。
あなたのご家族、あなたの家、最も身近な家族はあなたに何を与えてきたのでしょうか。
そして後になって、何があなたの芸術的で文化的な霊感の源になったのでしょうか。
この質問をするのは、ポーランドの観客はロシアの芸術家の生い立ちや背景を何も知らないからです。これは大きな特徴です。一方、西側の芸術家はしばしば生い立ちしか知らされていません。
それは正確ですが、不正確でもあります。ある意味で、正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくないですね。
生い立ちを何も知らないという意味で、ロシアの芸術家に関するあなたのご意見は正しくありません。もちろん、現代の芸術家と比較するなら、もしかすると正しいのでしょう。
しかし、私は自分自身と現在の芸術家との比較を考えたことは一度もありません。
私はいつも、19世紀の芸術家と自分が結びついていると感じてきました。
例えば、トルストイ、ドストエフスキー、この流れの作家たち、チェーホフ、ツルゲーネフ、レールモントフ、やブーニンを挙げるなら、彼らの生がどれほど唯一無二のものであり、彼らの作品が人生と、彼らの運命とどれほど密接に結びついていたかがお分かりになるでしょう。
もちろん、私が述べたことは、私が自分をソ連の60年、70年、80年代の、いわば、文化の流れから完全に除外しているという意味ではありません。そうではありません。
しかし私は革命後に突然巨大なギャップが出来たという意見には、原則的に反対です。
この深い溝は、ロシア文化の発達に新段階をもたらすために、意図的に創造されたものです。
しかし私は文化が真空状態で発達できるとは信じません。
貴重な植物を移植しようと努力することは出来ます。
その根を掘り起こして植え替えるのです。
しかし、枯れてしまうでしょう。何も生長しないでしょう。
だから、転換期の作家は自分の運命を非常に悲劇的に経験したのです。
革命前に作家活動をはじめて、その後も仕事を続けた作家たちです。
アレクセイ・トルストイ、ゴーリキー、マヤコフスキー、ブローク。
文字どおりのドラマでした。ブーニンも-。
これは何もかもがもう恐ろしいドラマです。アフマートワも-。他にどんな人がいたか、神のみぞ知るです。悲劇です。ツヴェターエワ-。何も得るものはなかった。
移植は不可能だった。移植はすべきではなかったのです。
文化にこんな恐ろしい実験をするのを許すべきではなかったのです。
こういう生体解剖は、精神を幽閉してしまうので、人体に暴行を加えるよりもさらに酷いことなのです。
プラトーノフを例に取りましょう。
彼は、言うなれば、ロシアにおけるソ連期の発達時代に完全に帰属しています。
また彼は典型的なロシアの作家です。
彼の人生もまた典型的なもので、彼の作品にくっきりと反映しています。
だからあなたのご意見は全面的に正しいと言うことは出来ません。
このような文脈で私のことを言うならば、古典ロシア文化と私との絆は私にとって非常に大切です。
この文化は当然連綿と続いて、今日に至っています。古典ロシア文化が死んだと私は思いません。
私は、人生と作品を通じてーもしかすると無意識のうちにーロシアの過去と未来の間をつなぐこの絆を現実化しようと試みる芸術家のひとりでした。
この絆をなくすことは私にとって致命的でしょう。それなしに私は生き続けることは出来ないでしょう。
過去を未来と結びつけるのはいつも芸術家なのです。
芸術家は或る瞬間に生きているだけではありません。
芸術家は媒体なのです、いわば、過去から未来への渡し守なのです。
ここで私の家族について何が言えるでしょうか。
父は詩人です。
彼は革命が起きたときまだ小さな子どもでした。
革命前に彼が大人であったと言うことは実際出来ません。それは全く正確ではありません。
彼はソ連時代に成長しました。1906年生まれですから、1917年の革命時には11歳でした。
まだ未熟な子どもです。しかし彼は文化的伝統をよく知っていました、教養がありました。
ブリューソフ文学研究所を卒業し、多くの、主導的ロシア詩人のほぼ全員を知っていました。
言うまでもなく、彼をロシアの詩の伝統から切り離して想像することは出来ません。
ブローク、アフマートワ、マンデリシュターム、パステルナーク、ザボロツキーの系譜から切り離して想像することは出来ません。
これは私にとってとても重要な事でした。或る意味で私はこのすべてを父から受け継いだのです。
私を育てたのは、私の両親、特に母です。
なぜなら父は私が3歳の時に母の元を去ったからです。
そういうわけで、私は実は母に育てられたのです。
詩人として父が私にどのように影響したのか、はっきりとしたことを言うのは難しいでしょう。
もっと生物学的な意味で、無意識のレベルで、私に影響しました。
もっとも私はフロイトの信奉者ではありませんが。フロイトにはちっとも感心しません。
ユングも又私の趣味ではありません。
フロイトは俗悪な唯物論者です。切り口が違うだけで、パブロフと同じです。
彼の理論は人間の心理を説明するひとつの可能な唯物論的異稿にすぎません。
父は私に何ら影響しなかった、内的な影響力を持たなかったと思います。
何もかもが概ね母のおかげによっています。
私が自分自身を見いだすのを助けてくれたのは母です。
映画でも私たちの生活状態がとても厳しかった、とても困難であったことがはっきりと分かります。
そういう時代でもありました。
まさにその時に、母は独り残されたのです。
私は3歳、妹は1歳半、母は私たちをずっと育ててくれました。
再婚もせず、いつも私たちと一緒にいました。
母は2度と結婚しなかった。
彼女は夫を、私の父を、一生愛していました。
彼女は並外れた女性でした。実際聖女でした。
最初母は生活に対して全く準備が出来ていなかった、全くです。
そして、この無防備な女性をとりまく全世界が崩壊したのです。
つまり、まず第一に2人の子連れだというのに手に職が何もなかったのです。
私の両親はブリューソフ文学研究所で勉強をしていましたが、そのとき母は妹を妊娠しました。
それで母は免状を何も持っていないのです。
教育を受けた女性として準備する時間が全くなかった。
彼女は文学で自分の才能を試しました。
私は彼女の文章をいくつか見たことがあります。
彼女を襲ったあのカタストロフィが起きなければ、母は全然違った形で自己実現が出来たでしょうね。
だから本当に家に資産がまったくなかったのです。
母は印刷所の校正の仕事をしました。そこで最後まで働いていました。
つまり、戦後も、ずっとです、退職するまでです。
どうやって母がやりくりできたのか、どうやってがんばり抜いたのか、どうやって身体がもったのか、私にはまったく理解できません-分かりません。
どうやって私たちに教育を受けさせることができたのでしょうか。
私はモスクワの美術造形学校を出ましたが、そのためには金がかかる。
どこからその金を捻出したのでしょうか。
私は音楽学校も出ましたし、先生からレッスンも受けましたが、それも母が払ってくれました。
Q. それは戦前ですね?
戦前と戦中と戦後です。
誰もが音楽家になるものだと思っていましたが、私はなりたくなかった。
とにかく、どうしてこんなことが可能だったのか、私には理解できません。
まあ、こう言う人もいるでしょう、何か財産があったんだ、教育のある一家の子どもだから、当たり前でしょう。
ーしかし、ここには当たり前のことは何もなかった。
私たちは文字どおり裸足で歩いていましたからね。
夏には全然靴を履かなかった。靴がなかったんです。
冬になると私はフェルトのブーツを履きました。
それで、母が外出しなければならないときには-私たちは-貧乏なんてもんじゃなかった。
赤貧でもまだ言い表せない。
まったく分かりません、母は-分かりません。
母がいなければ、私はこんなふうにはならなかったでしょう、言うまでもないことですが。
私が今あるのはすべて、母のお陰なのです。
そのために、母は私に非常に強い影響を及ぼしましたー影響という言葉でも足りないー世界のすべてが私にとって母と結びついているのです。
ただし、私は、母が生きているときには、そのことに本当には気づかなかった。
母が死んでから、母の死後に、私は突然そのことに気づいたのです。
それに、あの映画を作っているときでも、もちろん当時母はまだ生きていましたー私は映画のテーマを十分には理解していなかった。
私は自分自身を語る映画を作っていると思っていました。
自分の幼年時代、少年時代、青年時代を書いたオデッサ時代のトルストイのように。
映画を撮り終えたとき、この映画が私ではなく、母についての映画だと分かりました。
これはー私の見方から言うとー本来の理念よりもこのようにして相当高貴な精神のものになりました。この理念をかくも完璧に高貴なものにした変化は、映画の製作中に生じました。
つまり、映画は私と共に始まりました。
私があれらの回想の、いわば、眼なのですから。
しかしそれから、まったく異なることが生じました。
この映画に携わる期間が長くなるほど、この映画が何をテーマとするのか、私にははっきりしてきたのです。
Q. 映画館を出たとき、私はこの映画が一編の詩として作られたのだと思いました。
つまり、映画では不可能なものに思えたのですー親密な抒情的な独白であると。
そうかもしれません、私には分かりません。
私は当時形式について何も考えていませんでした。特別なものを考案するつもりはなかったのです。
私が追求していたのは、記憶における復活です。
いや正確に言うと、記憶ではなく、スクリーンに私にとって重要であるものたちが復活することでした。
一般に、最も重要なことはこの道をたどるということで、例えば、自分の想い出を構築するアラン・レネの道をたどることではなかった。
あるいは、現代文学から例を引くなら、ロブーグリエの道を採ることでなかった。
ロシアの芸術家にとって芸術創造の非常に重要な側面は、必ずしも、より美しいものを創造することではなく、道徳的な責任感であったのです。
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html
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オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー
映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。
俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。
時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。
例を挙げましょう。
『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。
つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。
彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。
もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。
あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。
これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。
そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。
この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。
だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。
彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。
「解決のマニュアル」に触れることはありません。
与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。
幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。
映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。
つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。
別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。
俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。
例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。
人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。
俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。
例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。
彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。
出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…
まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。
http://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html
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「映画の中のクラシック音楽」 配信日 04年6月29日
取り上げた映画作品 鏡
制作 75年 ソ連
監督 アンドレイ・タルコフスキー
使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難
新約聖書には3人のヨハネが出てきますよね?
まずは、パプテスマのヨハネ。キリストに洗礼を施した人です。例のサロメに首をチョン切られちゃった人。まあ、あの地方の習慣なんでしょうね。
あと、12使徒の一人のヨハネ。キリストが一番かわいがったお弟子さんですね。
キリストが自分のお母さんのマリアの老後の面倒を頼んだくらいですので・・・
あとは、福音書のヨハネ。「ヨハネによる福音書」の作者。また「ヨハネの黙示録」の作者です。
一般には福音書のヨハネと、12使徒のヨハネは多分同一人物だろうとは考えられていますが、証拠はどこにもなかったはず。
新約聖書における「ヨハネの福音書」と他の3つの福音書(マタイ,マルコ,ルカ)とはかなり趣が違っています。
ヨハネ以外の3つの福音書で、記述が一番まとまっていて、詳細なのはルカによる福音書です。
私がルカによる福音書を読んだとき、「ああ、このルカって人は理科系だなぁ・・・」
と思った記憶があります。あとでわかったのですが、どうやら医者出身らしい・・・
やっぱり厳密さとか緻密さを重んじる発想は理科系的。
このメールマガジンをご購読いただいている方ならお気づきでしょうが、かくいう私も出身は理科系。緻密さを捨てられない人間でしょうね。
ルカは理科系でしょうが、福音書のヨハネはまさか理科系とは言えないでしょ?
「始めに言葉ありき」の人なんですから。
ヨハネはむしろ芸術家肌の人でしょうね。一番読んでいて面白い福音書はヨハネですものね。ドラマティックですし、まさに言語的ですし、それに理念的。いわば文学的な福音書。ルカなどがキリストの行動や発言を逐次的に、また学術的に記載していこうとしているのに対し、ヨハネはキリストの精神を直接的に伝えたいと思っているようです。
それに対応するように、福音書を歌詞とするバッハの受難曲において、「マタイ受難曲」は雄大で瞑想的なのに対し、ヨハネの福音書を基にした「ヨハネ受難曲」はドラマティックで厳しい受難曲となっています。
さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・
この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。
実はマタイ受難曲も使われています。
タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。
しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。
では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?
ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。
タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。
映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?
ご丁寧に十字架までかかっている。
おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。
しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。
パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。
だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。
このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。
将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。
あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?
タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。
この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。
作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。
似た容姿の妻。
本人は同じように芸術家。
同じように妻とは不和。
あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?
そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。
芸術家として「語る」こと。
そして「受難」。
「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。いかなる政治体制でも起こっていることです。だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。
それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?
にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。
「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。
しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。
催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。
そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。
しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。
「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。
この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。
ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。
この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。
「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。
神の意思は本人とは無関係にやってくる。
映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。
映画における主人公の父親は、神を意味している。父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。
小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。
だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。
しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。
「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。
あえて「マタイ」ではなく「ヨハネ」を使うことで、いつの時代にも起こっている芸術家の受難を意図した・・・のでは?
そして、自らに降り降りる受難を受け入れる覚悟を示すことで、多くの歴史上の芸術家たちの系譜につながる宣言としたのでは?
いわば、この「鏡」は、タルコフスキーの芸術家宣言とみることができるのでは?
中期の冒頭において、このような芸術家宣言としての作品が作られることがよくあります。
自分自身の使命を実感し、それを受け入る覚悟を示した作品。
中期の冒頭において芸術家宣言としての作品を作ることも、タルコフスキーにとっては、鏡となっているわけ。
(終了)
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発信後記
現在、六本木ヒルズで開催されています、カバコフ展でこのタルコフスキーの「鏡」のシーンの写真が展示されていました。
多くの写真の中のひとつでしたので、意図していたのか?偶然なのかはわかりませんが・・・
図録にも説明が書いてありませんでしたし・・・
同じソ連出身といってもタルコフスキーとカバコフでは、キャラが全然違っていますし・・・
ご興味がある方は、何かのついででも行かれてみては?
R.10/5/3
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-06/04-06-29.html