777投稿集 2506137


タルコフスキー _ 鏡 1975年

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 17:57:58


「映画の中のクラシック音楽」 
配信日 04年6月29日
取り上げた映画作品 鏡
制作 75年 ソ連
監督 アンドレイ・タルコフスキー
使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-06/04-06-29.html

新約聖書には3人のヨハネが出てきますよね?
まずは、パプテスマのヨハネ。キリストに洗礼を施した人です。例のサロメに首をチョン切られちゃった人。まあ、あの地方の習慣なんでしょうね。
あと、12使徒の一人のヨハネ。キリストが一番かわいがったお弟子さんですね。
キリストが自分のお母さんのマリアの老後の面倒を頼んだくらいですので・・・
あとは、福音書のヨハネ。「ヨハネによる福音書」の作者。また「ヨハネの黙示録」の作者です。

一般には福音書のヨハネと、12使徒のヨハネは多分同一人物だろうとは考えられていますが、証拠はどこにもなかったはず。
新約聖書における「ヨハネの福音書」と他の3つの福音書(マタイ,マルコ,ルカ)とはかなり趣が違っています。

ヨハネ以外の3つの福音書で、記述が一番まとまっていて、詳細なのはルカによる福音書です。
私がルカによる福音書を読んだとき、「ああ、このルカって人は理科系だなぁ・・・」
と思った記憶があります。あとでわかったのですが、どうやら医者出身らしい・・・
やっぱり厳密さとか緻密さを重んじる発想は理科系的。
このメールマガジンをご購読いただいている方ならお気づきでしょうが、かくいう私も出身は理科系。緻密さを捨てられない人間でしょうね。

ルカは理科系でしょうが、福音書のヨハネはまさか理科系とは言えないでしょ?
「始めに言葉ありき」の人なんですから。
ヨハネはむしろ芸術家肌の人でしょうね。一番読んでいて面白い福音書はヨハネですものね。ドラマティックですし、まさに言語的ですし、それに理念的。いわば文学的な福音書。ルカなどがキリストの行動や発言を逐次的に、また学術的に記載していこうとしているのに対し、ヨハネはキリストの精神を直接的に伝えたいと思っているようです。

それに対応するように、福音書を歌詞とするバッハの受難曲において、「マタイ受難曲」は雄大で瞑想的なのに対し、ヨハネの福音書を基にした「ヨハネ受難曲」はドラマティックで厳しい受難曲となっています。

さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・

この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。
実はマタイ受難曲も使われています。
タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。
しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。
では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?

ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。
タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。

映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?
ご丁寧に十字架までかかっている。
おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。

しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。
パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。
だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。

このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。
将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。

あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?

タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。

この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。
作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。
似た容姿の妻。
本人は同じように芸術家。
同じように妻とは不和。

あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?

そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。
芸術家として「語る」こと。
そして「受難」。

「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。いかなる政治体制でも起こっていることです。だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。
それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?
にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。

「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。

しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。
催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。
そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。

しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。
「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。
この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。

ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。

この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。

「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。
神の意思は本人とは無関係にやってくる。
映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。
映画における主人公の父親は、神を意味している。父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。

小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。
だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。

しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。
「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。

あえて「マタイ」ではなく「ヨハネ」を使うことで、いつの時代にも起こっている芸術家の受難を意図した・・・のでは?
そして、自らに降り降りる受難を受け入れる覚悟を示すことで、多くの歴史上の芸術家たちの系譜につながる宣言としたのでは?
いわば、この「鏡」は、タルコフスキーの芸術家宣言とみることができるのでは?
中期の冒頭において、このような芸術家宣言としての作品が作られることがよくあります。
自分自身の使命を実感し、それを受け入る覚悟を示した作品。
中期の冒頭において芸術家宣言としての作品を作ることも、タルコフスキーにとっては、鏡となっているわけ。

(終了)
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発信後記

現在、六本木ヒルズで開催されています、カバコフ展でこのタルコフスキーの「鏡」のシーンの写真が展示されていました。
多くの写真の中のひとつでしたので、意図していたのか?偶然なのかはわかりませんが・・・
図録にも説明が書いてありませんでしたし・・・

同じソ連出身といってもタルコフスキーとカバコフでは、キャラが全然違っていますし・・・
ご興味がある方は、何かのついででも行かれてみては?
R.10/5/3
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-06/04-06-29.html

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