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タルコフスキー _ サクリファイス 1986年

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 17:55:39

タルコフスキー 映画『サクリファイス 1986年』

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9?ref=watch_html5



「映画の中のクラシック音楽」 
配信日 03年12月30日
取り上げた映画作品 サクリファイス
制作 86年 フランス&スウェーデン
監督 アンドレイ・タルコフスキー
使用された音楽 ゲンネンヴァイン指揮の「マタイ受難曲」
使用された意図 無私による贖罪
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-30.html

前回の文章においては、タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」でのバッハの音楽の使い方について考えてみました。
今回もタルコフスキー監督とバッハの音楽についての文章です。

今回取り上げるタルコフスキー監督の作品は、彼の遺作となった最後の作品「サクリファイス」です。
正確には「サクリファイス(つまり『犠牲』)/ささげもの」ですね?

このようなタイトルですと、旧約聖書の創世紀、アブラハムが自分の息子イサクを、神への生贄に捧げようとした故事を思い出す人も多いはずです。
あるいは、神が自分の息子たるイエス・キリストを、人類の罪の贖いのために十字架につけたことを思い出す人も多いでしょう。

このタルコススキー監督の「サクリファイス」でも、そのような、「贖罪などの大きな目的のための犠牲」という意味であることは明白です。

さてさて、前置きはともかく・・・
このタルコフスキー監督の「サクリファイス」では、またまたバッハの音楽が使われています。
イエスの受難を扱った「マタイ受難曲」です。

映画においては、この「マタイ受難曲」の第39番のアルトのアリアが使われています。
この歌のシチュエーションについては、皆様も御存知かと思いますが念のため。

イエスが捕らえられて、ペテロ(イエスの第1弟子)が心配そうにしている。そんなペテロを見つけた周囲の人から「アンタもイエスの仲間だろ!」と追及されるわけです。
自分も逮捕されたくはないペテロは、それを否認するわけです。
「オレはイエスなんて男は知らないよ!」ってね。

新約聖書で有名なシーンです。
心ならずもイエスを否認したペテロの心情を歌ったアリアが、この第39番のアルトのアリアですね。
「憐れみたまえ、わが神よ。私のこの涙を。ご覧ください。私の心と目はあなたの御前でさめざめと泣いています。」という歌詞です。

深い悔恨の音楽と言えるものです。
一番重要であるはずの神の子たるイエスを、自分の弱さから否認してしまった悔恨です。
イエスを否定してまで、自分は生きるに値するのか?

「惑星ソラリス」でのバッハの音楽と同じように、悔恨と救いへの希求が伝わってきます。

この音楽を聴いて、そのような「惑星ソラリス」でも感じられた「われ汝に呼びかけん、主イエス・キリストよ。」と言った思いは容易に伝わります。
この映画「サクリファイス」における贖罪や犠牲の意味も・・・
自分自身の弱さから、イエスを否定したペテロは、心の弱さを持つ人類そのものですよね。

ちなみに、この「憐れみたまえ。わが神よ。」のアリアを歌っているのはユリア・ハマリ。ゲンネンヴァインという指揮者のレコードが使われています。

ある意味、このゲンネンヴァイン指揮の「マタイ受難曲」というのもタルコフスキーの意図なんでしょう。
ゲンネンヴァインの指揮のレコードを使うことは、ちょっと意外ですからね。

この86年の当時において、バッハのマタイ受難曲の音源として、どのような指揮者のものを使うか?このことでも多くの選択肢があり、その選択から選定者の意図が見えてくるわけです。

まあ、当時はまだカール・リヒターがバッハの音楽の権威とされていたんじゃないかな?
既にお亡くなりになっていた頃ですが・・・映画では、レコードの音源を使っているだけなんですからね。
あと、カラヤンの演奏もありました。好きかキライかは別として・・・

また86年当時には、今現在盛んになっている古楽器による演奏も登場していましたよね?
同じスウェーデンで製作されたイングマル・ベルイマン監督の78年の作品「秋のソナタ」では、確かグスタフ・レオンハルトの演奏が使われていたはずです。
その作品において演奏されているのはマタイ受難曲ではありませんが、古楽器による演奏は、すでに学問的な領域に留まってはいない状態だったわけ。
そのベルイマン監督の「秋のソナタ」の撮影監督は、スヴェン・ニクヴェスト。
この「サクリファイス」の撮影監督も同じニクヴェストです。

つまり、タルコフスキーはニクヴェストから、バッハの演奏家について、その演奏スタイルについて色々と知りうる状況にあったわけ。最新の古楽器の演奏スタイルなどもね。

ヨーロッパの映画つくりはハリウッドのような分業スタイルが厳格ではありませんから、ニクヴェストだって多少はわかっていたはずです。あるいは詳しい人をタルコフスキーに紹介することもできた。勿論タルコフスキー本人だって、色々とバッハの演奏家について知っていたことでしょう。だって、それまで散々にバッハの音楽を使っているわけですしね。曲目だけでなく、演奏家についてもわかっているわけ。

あるいは、演奏家を集めて新たに録音し、それを使うことも出来る状況。
タルコススキーの映画に使ってもらえるのなら、演奏家だって「ロハ」で協力しますよ。
歴史に残る作品のエンドクレジットに自分の名前が載るんだから、喜んで協力しますよ。
つまり、演奏家の選定に色をつけたくないという発想を持っていたら、そのような手段が取れるわけ。逆に言うと、既存の音源を使ったということは、演奏家の色も作品に関係があるわけです。

つまりゲンネンヴァインの演奏のレコードを使ったということも、タルコフスキーなりの意図があるわけです。
では、ゲンネンヴァインとはどういった指揮者なんでしょうか?
どんな「色」があるの?

と言っても、ゲンネンヴァインの演奏の特徴など何と言ったらいいのか?
はっきり言って個性がない指揮者といえでしょう。
カール・リヒターの厳格さとエネルギー。
カラヤンのドラマつくり。
古楽器演奏家の学究的なところ。
フランス系の指揮者による柔らかな色彩。

ゲンネンヴァインにはそのような特徴はないといえるわけです。まあ、商業的な「売り」に乏しいと言えるわけです。
かといって、音楽がダレているわけではない。
ゲンネンヴァインはゲンネンヴァインなりに、マジメにコツコツと職人的に、自分の信じるバッハの音楽を作っているわけですね。
ただ、目新しい音楽にはなっていないし、演出が上手であるわけでもないし、何か特別な「売り」があるわけではない。

それは聴衆のためというより、バッハのため。あるいは神のためと言えるのでしょう。
自分を殺して、ひたすらバッハのために、自らが持っている芸術的能力を「捧げる」。
そのような頑固な職人肌のオッサン指揮者なんですね。

ということで思い出すのが画家「アンドレイ・ルブリョフ」。
「アンドレイ・ルブリョフ」のイコンが持つ無私の姿勢は、このゲンネンヴァインの音楽にも共通しています。

自画像を描くようになり、絵にサインを入れるようになったルネッサンス以降の芸術家。
ルネッサンス以降に芸術家が主張しだした個性というもの、あるいは「この作品は私の創造物だ!」そのような発想、その個性の主張や芸術家的な自意識がゲンネンヴァインにはありません。ですから、ゲンネンヴァインはそのような意味ではルネッサンス以降の芸術家とは言えません。

ルネッサンス以降の科学文明に毒されたこの現在の世界を救済し、再生させるに当たって、ルネッサンス的英知の集約である核兵器が使われるのは、ある意味において、当然なこと。
「ルネッサンスの毒は、ルネッサンスによって浄化する。」
そしてルネッサンス以前の「無私」の姿勢によって救済されるというわけです。

人の視点ではなく、神の視点で書かれた古い地図。古い日本の音楽。
そして、ゲンネンヴァインのバッハ演奏。
いずれもルネッサンスの精神とは無縁のもの。

ルネッサンスという人類の放蕩から、「絶対の無私」への回帰。
世界の再生のためには「サクリファイス(犠牲)」が必要だ!
ということなんでしょう。

ちなみに、このアンドレイ・タルコフスキー監督の「サクリファイス」では、膿んだ文明社会を再生させるために、
1.「犠牲(サクリファイス)」をささげる。
2.ルネッサンスとは無縁の日本の文化が参照される。(主人公が日本の着物を着たりする。)
と言ったことが出てきます。

面白いことに、アメリカ(というより、ニューヨークの)ポール・マザースキー監督の作品「テンペスト」(「テンペスト」というと言うまでもなくシェークスピア)でも、主人公が日本の着物を着て生贄を捧げます。

膿んだ文明社会の再生というテーマも両者共通。
まあ、マザースキーの方は、膿んだ文明社会での『生活』と言う点に焦点が当てられていますが・・・

マザースキー監督はタルコフスキーのマネをしたのかな?と思ったのですが、マザースキー監督の「テンペスト」は82年の作品で、タルコフスキーの「サクリファイス」より4年前なんですね。

このようなことを書くと、タルコフスキーはマザースキー監督のマネをしてケシカラン!とお取りになる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことは重要ではありません。

大体「人間の創造するものは、神の創造したものに比べれば取るに足らない。」というのがタルコスキーの考えなんですから、他人のアイデアを利用することは芸術的に何ら悪いことではないわけ。

ルネッサンス以前では、人まねなんて芸術の世界では当たり前のことでした。だって、本当に創造したのは神様なんですからね。

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発信後記

9月からこのメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」を発行して、もう3ヶ月以上です。ご購読ありがとうございました。
サスガに今回で今年最後です。
皆様よいお年を!!

さて、今年の最後の2回はタルコフスキー監督作品ということで、重苦しく晦渋な世界になって来ましたが、新年からはしばらく「軽い」話が続きます。

今のところの予定では
新年第1週(1月6日)・・・60年代のフランス映画です。
第2週・・・かなり前のイタリア映画。歴史モノです。
第3週・・・90年代のフランス映画。クラシック音楽とのつながりは間接的なんですが・・・ただかなり長い文章です。

いずれもどっちかというとニヤニヤ読めるような「男と女」のお話が出てきます。
と言ってもエロティックなものでは全然ないんですが。

では、来年もよろしくお願いいたします。
R.10/5/7
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-30.html
2:777 :

2022/08/22 (Mon) 18:11:46

『ノスタルギア』の撮影前に書かれた、『魔女』と題された『サクリファイス』の最初の脚本コンセプトは、癌にかかった人間の治癒をめぐって展開した。

不治の病と知り、自暴自棄の状態になると、アレクサンデルは不思議な人物と出会う。

彼はアレクサンデルに、回復の唯一の希望は、魔力をもつ魔女と噂される女性のところに行って、彼女と寝ることだと告げる。

アレクサンデルがそうすると、彼は驚異的な治癒を経験し、医者は茫然自失することになる。

ところが、ある日その魔女がひょっこり姿を現し、雨にうたれながら家の外で待ち受けて、彼をさらおうとする。

脚本のこの段階で、アレクサンデルの犠牲は、家族と所有物を捨てて、貧者の姿に身をやつし、この女性と家を去ることだった。

『ノスタルギア』の撮影中に、タルコフスキーは、当時映画で気になっていることと自分の実生活との数多い平行関係に驚いた。

映画の主人公、アンドレイ・ゴルチャコフは短期間滞在するだけの予定でイタリアを訪れたが、望郷の念に消耗していく。

そして、ロシアに帰ることは叶わず、最後にはイタリアで客死する。

タルコフスキー自身、最初は、映画が完成するとロシアに戻るつもりだったが、 彼もまたイタリアで病気になり、滞在を延ばすしかなかったのだ。


タルコフスキーは、また、アナトーリ・ソロニーツィンの死にひどく心を痛めていた。

タルコフスキーの作品の多くで主役を演じたソロニーツィンは、『ノスタルギア』でもゴルチャコフの役を演じる予定だった。

また最初から『魔女』のアレクサンデルの役がふられていた。

ソロニーツィンは、物語の第1版でアレクサンデルの人生に転機をもたらすあの病気で死んだ。

そして「今では、数年後に、私もまたその病気で苦しんでいる」

林の木の下でアレクサンデルが、小さな息子に話す言葉は、痛いほどの意味を秘めている。

「死なんてものは存在しない。死の恐怖だけが存在する」

http://homepage.mac.com/satokk/pgreen.html


タルコフスキーは家にほとんど異常なほど愛着があった。

『サクリファイス』で家が焼け落ちるのをワンシーン、ワンカットで撮影するのは、それ自体が彼にとって目的になった。

我々は、『サクリファイス』で焼け落ちる家が、潜在的に実生活で病魔にむしばまれつつある彼の肉体の映像になるのを実感し、それを目撃する。

撮影は1度失敗して、2度目に成功した。
http://homepage.mac.com/satokk/house.html

サクリファイス製作風景
http://homepage.mac.com/satokk/offret/offret.html

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