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プッチーニ _ オペラ「蝶々夫人」

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 10:15:13

プッチーニ オペラ『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html  



映画とクラシック音楽の周囲集 07年10月4日
取り上げた音楽作品  オペラ「蝶々夫人」
作曲 ジャコモ・プッチーニ
台本 イルリカ&ジャッコーザ
今回のテーマ 閉塞からの脱却
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-10/07-10-04.html

さて、前々回で、ホフマンスタールとシュトラウスによるオペラ「アラベラ」を取り上げました。
「ソフィーの選択」との共通性として、閉塞状況からの脱却ということがテーマとなっている・・・そう書いています。
「アラベラ」を、洗練されて楽しいオペラと思っておられた方も多いでしょうが、よく読むと閉塞状況が「しっかり」書き込まれているでしょ?

さて、そのように「よく読むと」、主人公の閉塞状況が「しっかり」書き込まれている。
そして、その閉塞状況から脱却するために「もがく」有様を描いたオペラとして、今回はプッチーニの有名なオペラ「蝶々夫人(Madama Butterfly)」を取り上げましょう。

と言っても、オペラ「アラベラ」が、一般の方々から、洗練されたラヴコメとして認定されている、それ以上に、「蝶々夫人」というオペラは、日本と言うエクゾティックな舞台における「かわいそうな」蝶々さんの悲劇・・・そのように認識されていますよね?
まあ、それ以外の「見解」なんて、めったにお目にかからない。

唯一、この私がお目にかかったのは、もうお亡くなりになったジュゼッペ・シノポリさんが指揮したCDでの、シノポリさんの見解。
「蝶々さんのストーリーは単に日本の長崎での話ではない。このような事件はヨーロッパにも多くある。」なんておっしゃっていました。
世の中の人は、シノポリさんって、ヘンなことを言うものだなぁ・・・くらいだったのでは?まあ、自分の演奏に「ハク」をつけるために、そんな小難しいことを言い出したのでは?そんな受け取り方をされた方もいらっしゃったでしょう。

しかし、「蝶々夫人」の台本をちゃんと読むと、実際にそうなんですね。単にかわいそうな「蝶々さん」の話ではないわけ。
と言うことで、不肖この私が、お亡くなりになってしまったシノポリさんに成り代わって、そして、ホフマンスタール台本による「アラベラ」との共通性という観点を入れながら、「蝶々夫人」というオペラ・・・と言うより、その台本について考えてみます。

オペラ「アラベラ」において、アラベラやその家族であるワルトナー家がいかに閉塞状況にあるのか?そのことについて具体例を挙げて提示いたしました。
その一例として名前というか苗字の問題を取り上げております。
アラベラが付き合っている男性は、エレメールとかマテオとか・・・ウィーン在住でありながら、外国人由来の名前。つまり明らかに非主流と言えるわけ。
だからこそ、マンドリカというスラヴの名前を持つスラヴ在住のスラヴ人にすがることになる。だってマンドリカはスラヴにおいては主流と言えるでしょ?
名前の問題はワルトナーというベタベタのゲルマン風の苗字によって、際立たせているわけ。

付き合っている男性の名前はいいとして、じゃあ、アラベラという名前は?アラベラのベラ(bella)という言葉はどっちかと言うとイタリア風の言葉でしょ?アラベラという名前はゲルマン風とは言いがたい。マテオとアラベラの恋人同士・・・なんて、とてもウィーンの話ではありませんよ。
それに自分の子供にそんな名前を付ける親って、どんな人?

それこそ今の日本でもありますよね?妙に外国人風だったり、読みにくい漢字だったり。
そんな人とのやり取りって、こんな感じでしょ?
「お子さんの名前を書いてよ!」
『阿羅部羅』
「えっ?この阿羅部羅って、どう読むの?」
『あ・ら・べ・ら』って読むのよ!
「アンタ・・・難しい漢字を知っているねぇ・・・」と、日本人離れした金髪をまじまじ見つめる。
『そうでしょ?』と、吸っていたタバコをフーっと・・・

さすがにワルトナー伯爵家は、ここまでではないでしょうが、まあ、このアラベラという娘の名前だけでも、父親が軍隊を早期に退役しなくてはならない「訳」もわかろうというもの。

それにアラベラの妹のズデンカという名前だって、ウィーンにしてみれば外国人風。ズデンカとかズデンコとかは、旧ユーゴというか、バルカン半島あたりの名前でしょ?もともとそっちの出身なら問題ないわけですが、ワルトナーと言う苗字を持つ伯爵家の娘の名前としては不適でしょ?

ちなみに、オペラ「アラベラ」の素材となった作品に、ホフマンスタールの短編「ルツィドール」と言う作品があります。ちなみに、その作品における主人公のルツィドールがオペラ「アラベラ」においては、妹のズデンカに相当しています。「ルツィドール」と言う作品は、アラベラではなく、いわばズデンカを主人公とした作品と言えるわけ。作者であるホフマンスタールが、姉のアラベラではなく妹のズデンカの方に共感を持つのは、前々回の文章をお読みいただければスグにわかることでしょう。

この「ルツィドール」では、妹の名前はルツィドールですが、姉のアラベラは、やっぱりアラベラ。変更されている・・・と言うか、オペラによって変更されたのは、苗字の方。
オペラ「アラベラ」ではワルトナー伯爵ですが「ルツィドール」では、ムシュカという苗字です。ムシュカというから、明確にスラヴ系でしょう。
つまり、「ルツィドール」という作品においては、アラベラとルツィドール姉妹の家庭は、ウィーン内では、もとから完全な主流とは言いがたい。それに苗字が外国風なんだから、娘の名前をアラベラという非ゲルマン風にすることも、それほど異常ではないわけ。逆に言うと、閉塞状況に陥っているということも、強調されることはないわけ。だって元から外国由来なんですからね。

逆に言うと、オペラ「アラベラ」では、ワルトナーというベタなゲルマン風の名前によって、アラベラという名前の異常性や、もともとは主流に属していた貴族一家が「陥ってしまっている」疎外や閉塞感・・・それが強調されているわけ。

さて、さて、今回考えるのは、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」。
アラベラがホフマンスタールとR.シュトラウスの黄金コンビの最後の作品になったように、この「蝶々夫人」はイルリカとジャッコーザとプッチーニの黄金トリオの最後の作品になりました。
もちろん、2つのオペラの共通項としては、その点は微々たること。

さて、オペラ「アラベラ」におけるワルトナー家の閉塞状況について考えましたが、では、蝶々さんの閉塞状況は?

これも、実に的確に書き込まれています。
1. 近所との関係が疎遠。
2. 父親が自殺。叔父2人のうち、一人はアルコール中毒。そしてもう一人は宗教に入れ込んでいる。
3. 影の薄い母親。

明らかに現実社会との関係に障害がある状態。だからこそ、まさにアラベラと同じように外国人にすがらざるを得ないわけ。
日本では閉塞状況が脱却できないとわかっているんですね。

単に若い蝶々さんが、アメリカ軍人のピンカートンに弄ばれるという「かわいそうな」話ではないわけ。だって、そんな「かわいそうな」話としてオペラにするのなら、近所との疎遠な関係なり、叔父の問題なんて描く必要がありませんよ。ドラマとしてややこしくなるだけ。このことは購読者の皆さんが台本作者になった気分で考えればスグにわかることでしょ?

最も重要な点は「影の薄い母親」の問題。
そもそも、自分の娘が外国人と結婚する。それも軍人さん相手。このことの「意味」を、15歳の娘に説明するのが親の義務でしょ?
ただ結婚式に出て挨拶すればいいってものではないでしょ?

それに結婚式でモメた時には、体を張ってでも娘を守らなきゃね。それに第2幕では何やっているの?娘のピンチでしょ?母親は生きているの?死んでいるの?
と言うか、結婚当日になって、新郎に「初めまして!娘をよろしく!」なんて挨拶するような母親って、結婚前は何やっているの?
あるいは、その15歳の娘は、親と同居していなかったの?芸者家業であっても、同居くらいはしてもいいのでは?
結局、この母親は、娘が結婚する前から、娘と疎遠だったわけ。だから娘も相談できないわけでしょ?そもそもそんな挨拶のシーンがわざわざあるということは、それ以前に挨拶がないということを表現するためのものとなりますよね?

そもそもオペラを、というかオペラ台本を作る際には登場人物の数を極力減らすのが基本的な考え方。そもそも登場人物が少ないほうが上演しやすいことはプラグマティックな意味で当然のこと。役に立たない登場人物なんて、ストーリーがややこしくなるばかりですよ。それに母親がいるという設定だったら、第2幕でも「オイオイ!娘がピンチになったら、親として助けてやれよ!」と突っ込みを入れる観客もいるでしょ?

だったら、最初から、この母親は、蝶々さんが結婚する前から、すでに死んでしまっていることにすればいいじゃないの?蝶々さんが5歳の頃に病死してしまったとか、夫に殉じて一緒にお亡くなりになったとか。それだったら蝶々さんの孤独ぶりが強調されて、愛への、そして家庭生活への渇望がより生き生きしてくるわけでしょ?「かわいそうな」ドラマとしては、より引き締まってくる。プッチーニだって、それくらいは考えますよ。

しかし、蝶々さんが現実との適合性に支障をきたしていること。つまり現実離れした夢だけに生きざるを得ないこと。そんな情況を説明するには、影の薄い母親が、舞台上で「ぼんやり」と存在する必要があるわけ。
オペラ「蝶々夫人」における蝶々さんの母親は、「母親の役割を果たしていない母親」と言う重要な役割を果たしているわけです。

そんな影の薄い母親だからこそ、娘は死んでしまった父親にこだわらざるを得ない。「ワタシの父親は立派だった・・・」。しかし、心の奥底ではこう続くわけ。「それに比べて母親ときたら・・・」

しかし、もっとも身近に存在し、そして自分と同じ性別の親への否定的な感情が何につながるの?
だって、自分だって母親になるわけでしょ?母親になった自分とどう付き合うの?子供と言うものは、所詮は、親と似てしまうもの。じゃあ、どうやって親と似ている自分自身と付き合っていくの?そんな蝶々さんは、親との心理的な距離を確定できない。ピンカートンとの結婚に際しても、「母親を見返してやるんだ!」と思っている。もちろん、周囲の人とも疎遠なので、「周囲の人を見返してやる!」とも思っている。だから「ピンカートン夫人とお呼びっ!」と言い出す。

あるいは、自分が母親になったとき、どんな感じで子供と接すればいいの?この手の女性は母親になった時にやたらと力を入れて育児をして、疲れ果ててしまう。自分の親が適切な見本にならないので、上手に手を抜くことができないわけ。だって「自分の母親のような親にはなりたくない!」そう思っているわけですからね。ちょっとでも上手く行かないことがあると、収拾がつかなくなってしまう。あるいは、親と似ているところを発見するとパニックになってしまう。自分の欠点を受け入れることができないわけ。しかし、じゃあ、結局は、自分自身はどうしたいの?他者をどう思うかは別として、自分自身の希望は?自分自身とどう接するの?

娘が母親に向ける否定的感情は、結局は、自分自身への否定的感情になっていくわけ。つまり自己否定の感情を持ってしまっているんですね。すでに死んでしまった、もういない存在である父親への尊敬と、現在、目の前に存在する母親への否定的感情。遠くの存在だけを受け入れる、この蝶々さんの発想は、ドラマの中で終始一貫しているでしょ?蝶々さんは、一貫して、自分の身近なものを否定している人なんですね。では、自分にとって最も身近な存在って何?それは自分自身でしょ?自分自身を徹底的に否定すること、つまりある種の自己破壊の衝動をもともと持っているわけ。
つまり、蝶々さんは、結婚する前から、自殺に近いところにいるわけです。ピンカートンから捨てられたなんて、単なるトリガーに過ぎないわけ。

そして、母親という、自分と近い存在への否定的な感情があるゆえに、「自分自身はどうしたいのか?」が自分でもわからずに、常に何かを否定して「違う!違う!違うのよ!」なんて否定形で言うばかり。
母親との距離の不確定は、自分自身との距離の不確定につながり、現実世界との距離の不確定につながる。なにも「蝶々夫人」だけでなく、そんなキャラクターが出ている作品ってあったりしますよね?

これは映画作品ですと、ジャン・ジャック・ベネックス監督の1986年の「ベティ・ブルー」のベティもその典型でしょ?蝶々さんとベティが同じ結末になるのは偶然ではないわけ。もともと彼女たちは似た精神状況なんだから当然のことなんですね。自分で自分自身を否定しているから自分自身で問題を解決するというより、誰かを他の人を頼ったり、あるいは、子供に頼ることによって、問題を解決しようとする。だからこそ、相手に求めすぎて、ますます閉塞してしまう。蝶々さんだって、「結局は、自分はどうしたいのか?」考えようともせずに、「あの人は帰ってくるわ!」と一点張り。清清しいほどに他力本願。

そのような閉塞状況から脱するというか、その閉塞状況を見ないようにするには、現実から離れて夢に生きざるを得ない。現実とのやり取りがうまくいかないわけですから、夢だけが希望や喜びになる。だからこそ、より現実感のない外国人が必要になる。だからやたら外国かぶれ。だって現実を拒否する精神構造なんですからね。現実を拒否しているから、やたら極端な行動を取ってしまう。それこそ宗教の改宗なんて必要も無いのにやるわけ。そもそも親と仲がいい子供は自分から改宗なんてするわけがありませんよ。現在でもそんなものでしょ?それだけ親から受けついだものを否定したいわけ。それだけ現実と向き合うことを怖がっている。そして現実によって、夢が壊されると、その人自身の存在を支えているものまで崩壊してしまう。そうなると、もともと持っていた自己破壊衝動が抑えられない。
「こんな自分は、本当の自分じゃない!」
だから・・・

何もオペラや映画だけの話ではありませんよ。
それこそ、この蝶々さんに実に近い精神状況の有名人が日本にいるじゃないですか?
それは田中真紀子さん。
非業の死を遂げたと言える父親。影の薄い母親。同じ性別である母親との距離感が確定できないがゆえに、自分自身から逃避する。そして「違う!違うんだ!」と叫ぶばかり。「違う!違う!」否定しているから、否定している対象を破壊しようとする。今のところは、その破壊衝動を自己ではなく、他者に向けている状態。だからやたら他者を攻撃して壊そうとする。何か議論で突っ込まれると、感情的に逆上するだけ。
「どうして、アナタはワタシのことをわかってくれないのっ?!」
「まあっ!信じていたのに裏切られたわ!」

実に典型的な事例でしょ?
この手の人が一番苦手な質問はコレ。
「で、結局、アナタはどうしたいの?」
蝶々さんも、ベティも、真紀子さんも、この質問には答えられない。そんな質問をされると、こんな感じで逆上するだけ。
「どうしてアナタはそんなイジワルな質問をするのっ?!」
そう言われても・・・実際にわかならいんだから、しょうがないじゃん。しかし、「かわいそう」だから助けようとしても、その人自身が「自分は何をしたいのか?」わかっていないのだから助けようがない。オペラ「蝶々夫人」におけるシャープレスの心情は、こんなところでしょ?

この手の人は、遠くから見ていると、「かわいそうだなぁ・・・」と同情しますが、スグ近くにいると、とてもじゃないけど、不快な存在なんですね。だって、何をしたいのか?自分でもわかっていないのに、周囲にはやたら攻撃的なんだから、たまったもんじゃあありませんよ。

あるいは、日本赤軍の幹部の重信房子氏は自分の父親を尊敬しているそうですが・・・まあ、この影の薄い母親のパターンと見ていいのでは?影の薄い母親に対する反発が、破壊衝動につながる典型的な例でしょ?まあ、重信氏は外国人との結婚も含めて、蝶々さんと実に似ている。蝶々さんの精神状況は、まさにシノポリさんが言うように、ヨーロッパにもあるということではなく、日本にも多くあるんですね。というか、親の役割を果たしていない親の家庭が引き起こす事件って、長崎で頻発している事件ですよ。

この「蝶々夫人」の母親だって、事件前には子供へのサポートは何もしていないのに、事件があった後では「どうして、ワタシたちがこんなことに?!」「あの○○を許さないぞ!」なんて大騒ぎして、手記でも発表しそうな感じでしょ?

プッチーニは単なるお涙頂戴のオペラを作ったわけではないんですね。この「蝶々夫人」と言うオペラ作品における母親の役割の不自然さ・・・それに注目するだけで、蝶々さんの心理の一端が見えてくるでしょ?オペラ「蝶々夫人」では、この「影の薄い母親」が、このドラマ全体を支配している。破局に至るこの蝶々さんの悲劇は、すべて、この母親から発生していると言っていいくらい。
役割を果たしていないがゆえに、大きな影響がある・・・このようなことは、現実でもよくある事例ですし、閉塞状況を生み出す典型的なシチュエーションと言えます。
ちゃんと普遍的な人間心理に通じているオペラなんですね。

そして、この「蝶々夫人」と言うオペラにおいて真に悲劇的な人物は、蝶々さんではなく、むしろ蝶々さんのメイドのスズキさんだったり、領事のシャープレスさんの方ですよ。だって「こうなる」ことがわかっていて何もできないわけですからね。洞察力があるがゆえに、事態がどんどんと悪くなっていくのが見えてしまって、閉塞していく・・・そのような点において、ホフマンスタール劇に出てくるようなタイプの人物。

しかし・・・ホフマンスタールが、そのことを誰よりもわかる能力がありながら、自分の息子の問題がわからなかったように、プッチーニも自分の目の前で起こっている修羅場が見えなかった・・・これも事実。
オペラ「蝶々夫人」と、プッチーニ家のメイドさんの自殺事件は直接関係ありませんが、本来ならプッチーニ・クラスの洞察力があれば、それくらいわかるはず。

さて、オペラ「蝶々夫人」の、原題は、「Madama Butterfly」です。これってヘンでしょ?
だってMadamaはイタリア語。Butterflyは英語。合いませんよ。
本来なら、伊伊で「Madama Falfare」なり、英英で「Mrs.Buttefly」の方が適切でしょ?あるいは「Mrs.Pincarton」でもいいわけ。あるいは、せめて伊日で「Madama CHO-CHO」でも、「CHO-CHO san」でも、「Madama Pinkerton」でもまだまし。まあ、常識的な選択は「Madama Cho-Cho san」なのでは?

イタリア語と英語が結びついた不自然さ。
これは、まさに蝶々さんの存在の、不安定さそのものでしょ?蝶々さんは決して「Mrs.Buttefly」でも「Mrs.Pinkerton」にもなれなかったわけです。

蝶々さんは「恋に恋して」地に足がついていない人間の典型でしょ?
チョーホフの戯曲「かもめ」の中で、夢ばかり見ている若い女性ニーナが自戒して言うセリフが「ワタシはかもめ。」。そのセリフのように言うと「蝶々さんは、まさに蝶々。」と言うわけ。地に足がつかずフワフワとお花畑で生きている。
そんな人は、おぼろげな夢に生きるために、現実での出口を自分で塞いでしまう。自分の夢の世界へ現実が流入することを防ぐための行動が、自分自身の解放を防ぐ閉塞につながっていくわけ。

本来なら、蝶々さんを閉じているものは、まさに、このオペラの最初に強調される「障子」のようなもの。本人が「その気」になれば、打ち破ることは簡単。しかし、この手の人間は、当人が「その気」にならないものなんですね。結局は、そんな閉塞感の中で、終結するしかない。

台本を読む能力は、人によりけりでしょう。しかし、このオペラにおける母親の位置づけの不自然さや、タイトルの不自然さに気が付かないとしたら、素人のオペラ愛好家さんはともかく、少なくともプロのオペラ解説とは言えないでしょ?

もちろん、一般の観客が「まあ、蝶々さんってなんてかわいそうなの?!」と涙するのは勝手でしょう。しかし、単にそのレヴェルだと、蝶々さんが全人生の間に積み重ねてきた苦悩が理解できなくなってしまう。彼女の苦悩は生まれた時から始まっているわけ。

こうやって見てみると、オペラ「蝶々夫人」の台本って、すばらしいものでしょ?
お涙頂戴の三文芝居なんてとんでもない!
お涙頂戴なんて言う人は、単に台本が読めないだけ。
しかし、この「蝶々夫人」については、「お軽いピンカートンに捨てられて!」「かわいそうな蝶々さん!」なんて・・・随分モンキリな解説があったりしますが・・・・
そんなオペラ解説をした人は、短剣の銘文でも読まないとね。

(終了)
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次回も、母と娘の関係を扱った作品を取り上げます。
小説を映画化したものです。
次回は、その映画を中心に考えます。
R.10/4/26
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-10/07-10-04.html
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2022/08/22 (Mon) 10:18:26

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「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
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