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アーノルド・シェーンベルク _ モーゼとアロン

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 09:55:07

Schönberg - Moses und Aron
https://www.youtube.com/results?search_query=Schoenberg%3A+Moses+und+Aron++++boulez++Concertgebouworkest+

Royal Concertgebouw Orchestra · Pierre Boulez
Chorus Of The Netherlands Opera



07年9月27日
取り上げた音楽作品  
モーゼとアロン (1954年 初演)
台本&作曲 アーノルド・シェーンベルク
今回のテーマ 理解者と協力者の乖離
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-09/07-09-27.html

前回の文章において、映画「ソフィーの選択」を、オペラ「アラベラ」との共通性の観点から、考えてみました。
「理解者と協力者の乖離」という観点です。
今回も、その観点から、別のオペラを取り上げてみます。
新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。

このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。

この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」の場合よりも、はるかに容易ですよね?
何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、アロンは、モーゼが神から受けた言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。

シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる・・・そのことは前回書きました。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?
それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。
20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?

オペラ「モーゼとアロン」ですが、前にも書きましたが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。
簡単にまとめると、下記のとおり。

1. モーゼが神から言葉を受ける。
2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。
3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。
4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。
5. 民衆は、モーゼよりもアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」
6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。
7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。
8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。
9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。
10. ここでモーゼが乗り込んできて、「こらぁ!ええ加減にせんかい!」「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」
11. アロンは、「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」と反論。
12. モーゼは「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」

基本的なあらすじは、こんなところ。
いやぁ・・・笑える。
モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。

さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。
作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?
それは演奏家でしょ?

作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。それに演奏家は直接的に聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?それについては言うまでもないことでしょ?音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。だから、衝突することになる。

演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?
まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。

作曲家も演奏家も、本来は、音楽の神を同じ父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。
あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!

この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。
基本的には、こんな調子。

1. 作曲家が神から霊感を受ける。
2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。
3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。
4. 演奏家は見事に演奏する。
5. 見事な「演奏」に民衆は感激!「感動した!これぞ奇跡だ!」
6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。
7. 作曲家は、「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」と、引っ込んで、新たな作曲活動。
8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。
9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。
10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、「こらっ!ええ加減にせんかい!手を入れるにも限度というものがあるんじゃ!楽譜に忠実に演奏しろよ!」
11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」と反論。
12. 演奏家からの反論を受けながら、作曲家は「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」と締める。

私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?
逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?

オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。
しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、「モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 」という役割を考えなかったわけがないでしょ?

そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。
シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。

もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。
音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。

しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。

この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?

ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。
しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?

そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、シェーンベルクにしても身に染みていた頃でしょ?
あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。

最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は別の人に任せることもできるでしょ?翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。

しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。

シェーンベルクは台本を書きながら、「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。
アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?それこそ作曲しながら、「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・

まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?
しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。
そうして大規模な演奏会へ!

第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。
「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、
酩酊や恍惚がなんたるかということだ。
変わらぬものはいない。皆が高められている、
感動せぬものはいない、皆が感動している。
人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」

このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?
皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?
まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。
まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?
だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。
なんとも、気持ちが入ったギャグだねぇ・・・

まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。

これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・
私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。
ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」なんて質問しているインタビューがあります。

いやぁ・・・エゲツナイ。
ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。
「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」と思ったのでしょうね。
シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。

もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、「タコはオマエだろう!」そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?

たとえば、シュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。

ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?
後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・
まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?

そうなんですね!
シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。
「ああ!オレもタコだったんだぁ~!」
これは色々な意味でそのとおり。

しかし、まさにアロンのように、「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」と言わざるを得ない。
しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?
民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?

表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。それを一般聴衆がどう聞くの?
もう、とんでもない伝言ゲーム状態。
最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?
最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?

「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」
第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。

この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに音楽における演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。
しかし、そのセリフの前の部分「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。

言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。
言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。
その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。

言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。
そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。

そして、その共通性は、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィトゲンシュタインと全く共通しています。「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」と言うウィトゲンシュタインの言葉と、「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。哲学者ウィトゲンシュタインについては、前回のシリーズの最後で、デレク・ジャーマン監督の映画を取り上げ、書いています。ウィトゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。

シェーンベルクは、前に書いたように、ユダヤ人なのに、当初はカトリックで、後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗した人です。それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?

言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」というウィトゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。

真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。
じゃあ、どうして表現するの?アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・

まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・
それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。
語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?
これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?

このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。
わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。しかし、だからこそ、ますます閉塞する。

そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。
そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィトゲンシュタイン」におけるウィトゲンシュタインもまったく同じ。
いやぁ!苦笑いせずにはいられない。

「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!

そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?
このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。
まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?
そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?

(終了)
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次回も、20世紀のオペラを取り上げ、閉塞からの脱却について考えてみます。
取り上げるオペラは、きわめて有名なオペラです。
R.10/8/7
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-09/07-09-27.html
2:777 :

2022/08/22 (Mon) 10:18:55

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追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
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オペラの台本について・・・興味深いオペラの台本についての文章のリスト
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③MediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」

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したがって、山崎奨は著作者ではありません。
記事は全てミラーサイトから、誤字脱字等も修正することなく、MediumのPublicationに転載しています。

「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
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