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スタンリー・キューブリック _ ロリータ(1962年イギリス)

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2022/08/22 (Mon) 08:35:17

スタンリー・キューブリック _ ロリータ(1962年イギリス)

Stanley Kubrick Lolita 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Stanley+Kubrick+Lolita+1962&FORM=HDRSC3


映画とクラシック音楽の周囲集
07年7月12日
取り上げた映画 ロリータ(1962年 イギリス)
監督 スタンリー・キューブリック
原作 ウラディミール・ナボコフ
使われた音楽 ショパンのピアノ曲
今回のテーマ パロディ
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-07/07-7-12.html


芸術に限らず、表現の世界ではパロディと言うものがあります。
元ネタのツボを押さえつつ、その元ネタにちょっとヒネリを加えることによって、その元ネタとなった作品を楽しむ新たな視点を提供する。いわば元ネタを解説する効果もあります。また元ネタとの関わり以外の点からも、単独の新たな作品として、楽しむ・・・そんなものですよね?

しかし、このようなパロディは、往々にしてスキャンダルになりやすい。
「なんなんだ!これは!ケシカラン!!」
こんな感じでブーイングが巻き起こる・・・このようなことは実にポピュラーです。

そもそも、パロディ作品と言っても、それが他の作品を元ネタにしたパロディであることがわからないケースも多い。
パロディだとわかっても、元ネタが何なのか?どのようにヒネったのか?その意図は?
そんなことは、一般の人にはわかりませんよ。
多くの人は、そのパロディ作品を単独に認識してしまい、元ネタとの比較の中で理解するなんて芸当はできないわけ。

ここでちょっと実際のパロディ作品の例を取り上げてみましょう。
フランスの画家エドワール・マネ(1832―83)が有名な絵「草上の昼食」を発表した際に大スキャンダルになりましたよね?
「草上の昼食」は、例の、紳士の間でヌードの女性が一緒になってランチをとっている絵。有名な絵ですから、皆さんもご存知でしょう?

あのような衣服を着た男性の間にヌードの女性と言う構図は、ジョルジュオーネの「田園の合奏」と言う絵がまさにそのスタイル。マネはジョルジュオーネやティッチアーノなどのヴェネツィア派の絵を元ネタにした作品を多く作っているのは、ご存知でしょ?ティッチアーノの絵を元ネタにした「オランピア」なんて作品もありましたよね?

絵画的に肉厚で、遠近感を強く打ち出したヴェネツィア派の絵画と、それを元ネタにしたマネの絵を比較すると、マネが遠近感をぼかし、平面的な絵にしていることがわかります。それによってマネらしい洒脱な味わいが出てくるわけ。
このようなマネによる平面的な要素の強調は、元ネタであるヴェネツィア派の絵画をアタマの中にイメージさせ、その対比を考えることによって、よりわかりやすくなるわけです。

しかし、19世紀のパリの、一般の人が、ヴェネツィア派の絵画の代表作が頭の中に入っているとは考えにくい。美術館なんて頻繁には行かないでしょうし、当時は、画集だってあまりなかったでしょうし、それに画集があったとしてもカラーではないでしょ?白黒の絵でヴェネツィア派の絵画について考えるのは無理がある。だから、当時のパリの人が、マネの絵から、元ネタを導き出すことができなくても、これはこれでしょうがいない。

また、この「草上の昼食」の情景・・・林の中でピクニック・・・は、それこそフランス絵画でよくあった「フート・ギャラント」のスタイルですよね?ワトーやフラゴナールなどでおなじみの主題。登場人物が現代的になっているだけ。このような見方は、フランス絵画についての基本的知識があると、よくわかるわけ。だから、マネの絵の位置づけも、より多様な見方ができるわけです。
過激な作品によって、伝統を破壊したのではなく、それこそフランス絵画の伝統の継承者と言う見方だってできるでしょ?だって、服装を現代的にしただけで、テーマは同じなんだから、伝統を継承する際の典型的なスタイルですよ。
それは、元ネタがわかるからこそできるわけ。

そのパロディ作品がパロディとして認識できない理由の一つとして、元ネタに関する知識データー・ベースの量が不足しているという問題がある。
だから、目の前の作品だけで判断してしまい、「ケシカラン!!」と、ご立腹。

このように、作品の受け手が持っている元ネタの知識ベースが少なくて、元ネタそのものを知らず、だからパロディと認識できないケースもあるわけですが、元ネタそのものはアタマの中に入っていても、それをパロディの元ネタとして、取り出すことができないというケースもあります。
このようなケースは、人から説明されて、はじめて「ああ!あの表現って、この元ネタのパロディ表現だったのか・・・言われてみれば確かにそうなのかぁ・・・なるほどねぇ・・・」となるものです。

芸術表現の世界ではありませんが、このようなケースに代表的な例があります。
かなり以前に、パキスタンで外相をしていたブットさんが、日本人のことを「エコノミック・アニマル」と評して、そのような表現を聞いた日本人が、「日本人をアニマルよばわりするのはケシカラン!」と怒ったそうです。
あるいは、「そうだよなぁ・・・日本も経済分野以外にも、もっと文化的な面にも力を入れなければいけないなぁ・・・だから外国の人からエコノミック・アニマルなんて言われちゃうんだ!」と、神妙にコメントした『文化人』が存在したとか・・・

ブットさんによる、この「エコノミック・アニマル」という表現については、皆さんも聞いたことがあるでしょう?
まあ、単細胞な人が、「アニマル呼ばわりしてケシカラン!!」と逆上するのも当然と言えば当然。
その逆上に対し、騒ぎの元となったブットさんは、「アニマルと言う言葉は悪い意味で使ったのではないんだヨ!悪い意味で使うのならビーストという言葉を使うよ!そんなに悪く取らないでくれよ!」と弁明したそう。

しかし、才気の匂いを嗅ぎ取れる人間だったら、「ケシカラン!」なんて単純に逆上しない。
だって、その「エコノミック・アニマル」と言う言葉が、パロディであることがなんとなくわかる。だからアタマの中のデーター・ベースにアクセスし、「あっ!これのパロディなんだな!」とわかり、そのような表現の本当の意味も理解できるわけ。

さて、古代ギリシャの有名な哲学者アリストテレスはこう言いました。
「人間は政治的な動物である。」
ここでの「政治的」と言う言葉は、英語にすると「politic」で、police・・・つまり当時のギリシャの都市国家といえるポリスを念頭に置いたものでしょうから、現在における「政治」と言う意味とは厳密には違っている面もあるでしょう。まあ、「組織的な動物」と訳してもいいのかも?人は一人では生きられない、その関係性が重要だ!・・・そんな意味もあるんでしょうね。
しかし、「人間は政治的な動物である。」なんて言葉は、それこそ高校の教科書にだって書いてありましたよね?

ここで、政治的と言う言葉を、経済的と言う言葉に置き換えてみる・・・というヒネリは、それこそ中学生でもできること。「政治」と「経済」なんて対になる言葉ですからね。だからアリストテレスの『政治的動物』という言葉から『経済的動物』という言葉にヒネって、後はそれを英語にしたらどうなるの?

まさに「エコノミック・アニマル」と言う言葉の一丁上がりでしょ?
そんな表現は、高校を卒業した程度の知識データー・ベースがあれば、難なく理解できるものでしょ?

「アニマル呼ばわりするなんてケシカラン!」「日本人を動物扱いするな!」なんて・・・そんな反論の方が「どーぶつ」レヴェルですよ。
そんな反論をした人間は、高校を卒業していないの?
そもそも「人間は政治的な動物だ!」と言ったアリストテレスに、「我々を動物扱いするなんてケシカラン!」と抗議したの?「ニコマコス倫理学」でも焚書したの?

まあ、ブットさんの「悪い意味で言うのなら、アニマルではなくビーストと言う言葉を使うよ!」という弁明は奥歯にものが挟まっているようで、これはこれで面白い。気を使っているねぇ。
このブットさんの「日本人はエコノミック・アニマルだ。」と言う言葉を、端的に解説すると、「(アリストテレスは「人間は政治的な動物である。」と言ったけど、)日本人は、(政治的と言うより経済的な観点を中心に考えているから、むしろ)エコノミック・アニマルと言えるんだろうね!」
そんなノリになるわけ。まあ、アニマルという言葉を使った意図は、単に英語の意味の問題だけではないんですね。歴史的な意図があるわけです。上記のように説明すると、誰でも理解できるでしょ?

じゃあ、ブットさんはどうしてそのような端的な弁明をしなかったの?上記の文章のようにカッコの中の文章を入れれば、多くの人にわかるようになるじゃないの?
しかし、上記のようにカッコの補足を入れるのはいいとして、ボンクラな人間は、想定外の箇所にも勝手にカッコを入れたりするもの。

それはこんな感じ。
「悪い意味で言うのなら、アニマルではなくビーストという言葉を使うよ!」・・・(アリストテレスの有名な言葉も知らないのか!このタコ!)
ボンクラな人間は、そっちの方だけにはアタマが回ったりするんですね。そして、やっぱり逆上する。だから厄介なわけ。その厄介さを避けるために、ブットさんは奥歯にものが挟まった物言いをせざるを得なかったわけです。

しっかし、「これからは、日本人も経済以外にも文化的な面に目を向けて、エコノミック・アニマルなんて言われないようにしないと!」と、『良識』を振りまいていた、「ブンカジンさん」はすばらしい!!ワタシのような凡人には考えもつきませんよ。
まあ、確かに文化的な面は重要でしょうねぇ・・・
しっかし、そんな良識的ブンカジンさんは、「まず隗よりはじめよ!」「脚下省照」なんて言葉も勉強しないとねぇ。そんなブンカジンさんが言う文化っていったい何?まあ、そんな立派でおめでたい頭脳をしていると、さぞ、生きるのもラクなんでしょうねぇ・・・ああ!ウラヤマシイなぁ!!ホント、すばらしい「良識」ですよ。まさに「凡sens」。

まあ、ブットさんの言葉がアリストテレスの言葉のパロディであることがスグにわからなかった文化人さんも多かったようですが、じゃあ、その文化人さんは高校を卒業していないの?だからアリストテレスなんて古代の哲学者の名前は知らないの?それとも、その文化人の知能レヴェルは、さかんに喧伝されている「ゆとり教育」の弊害なの?

そんなわけはないでしょ?
そのようなボンクラな文化人さんだって、アリストテレスの「人間は政治的な動物である。」と言う言葉くらいは知っていますよ。ただ、それを必要に応じて、アタマの中から引き出せないだけ。そして、ブットさんの言葉に「才気の匂い」を嗅ぎ取れないだけ。

このようなケースは、パロディの元ネタの知識データー・ベースは持っていても、それを使いこなせないケースです。だからパロディとわからず「ケシカラン!」と、お約束の逆上に陥ってしまう。
まあ、別の言葉を使うと、「アタマの回転が鈍い。」なんて言い方がポピュラーですよね?

さてさて、マネの絵のように、元ネタの知識データー・ベースの問題で、パロディが理解できないケースがあったり、あるいはブットさんの言葉のように、パロディを理解するのに必要な元ネタが、アタマの中にあるのに引き出せないケースもあったりするわけ。だからパロディであると判断できず、元ネタとの比較の中に、その作者の意図を読み解くことができない。

これらのように、その表現がパロディであること自体がわからないというケースが多くあるわけです。
しかし、パロディであることはスグにわかっても、どのような意図でこのようなパロディを製作したのか?それが、わからないケースもあったりするわけ。

また、美術の世界で例示してみましょう。
フランス人でアメリカに渡った美術家でマルセル・デュシャンという人がいます。彼の作品で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」の顔にヒゲを追加して描いた作品がありますよね?1919年の作品で、タイトルは「L.H.O.O.Q」。
そんな作品を見て、お約束の「ケシカラン!」と言う反応。まあ、これは予想できることでしょう。
「神聖なレオナルドの芸術に対する冒涜だ!」
このような逆上の文句もお約束。

このケースだと、パロディの元ネタはスグにわかります。誰が見たってレオナルドの「モナリザ」。そしてヒネリの部分もわかりやすい。ただヒゲを付け加えただけ。
そもそも、パロディと言うものは、あまりヒネりすぎると、わけがわからなくなる。ちょっとヒネるから、元ネタとの関連がわかり、味わいが出てくるわけ。

このようにマルセル・デュシャンのその作品がパロディであることはスグにわかる。
だからわからないのは、その意図でしょ?

まあ、ボンクラな人は、「前衛芸術家マルセル・デュシャンが大芸術家のレオナルドに挑戦したんだ!」とか言ったりするんでしょうね。
しっかし、ヒゲを付け加えたくらいで、挑戦になるわけがありませんよ。そんなことは本来なら小学生でもわかること。だから、マルセル・デュシャンの意図は全然別のところなんですね。

さて、美術や音楽に限らず「作品を受容する」ことって、どう言うこと?
単に、その作品を「すばらしいわ!」と絶賛することなの?

そうじゃないでしょ?
作品から、作者の意図を読み取って、自分なりに会話することでしょ?
物言わぬ「モナリザ」とだって、会話すればいいじゃないの?

「モナリザ」を見ながら、それこそ「アンタ・・・どうして笑っているの?」「アンタはいったい誰なの?」と言ったポピュラーなものから、
「どうして油絵なの?どうして水彩とかテンペラじゃないの?」
「どうして横向きではないの?」
「どうして、こんな色の服を着ているの?」
「背景がお花畑だったら、キレイなのに・・・」
「意外に小さい絵だなぁ・・・どうして、この大きさの絵なの?」
「手に何か持ったほうが、目立つのに・・・」

こんな問い掛けがあってもいいのでは?レオナルドが開拓したスフマート技法が、この「モナリザ」という作品にどのように生かされているのか?あるいは、構図的にどのような工夫があるのか?なんて美術のプロの見方じゃなくても、素人レヴェルでも、色々と考えることだってできるでしょ?

絵と言うものだって、「これを、こうしたら、もっとこうなるのに・・・」などと、頭の中で試行錯誤することによって、作者の意図がよりわかってくるわけ。そうすることで、新鮮な目で作品と接することができるわけでしょ?

物言わぬモナリザとだって会話できるわけですし、会話することによって、知性のある鑑賞者としてその作品を楽しめるわけでしょ?
「これが有名なモナリザなのね!わあ!キレイ!」って・・・それでは、どーぶつ並ですよ。

そのような芸術作品との会話への導きとして、マルセル・デュシャンの作品があるわけ。
それこそ、「手に、本でも持ったらシブイんじゃないの?」とか「この人の顔にエクボがあったらどうなるのかな?」などと頭の中で会話するように、「この人にヒゲがあったら、いったいどんな顔になるかな?」と頭の中で会話してもいいわけでしょ?

それが芸術に対する冒涜なの?
むしろ、そのような様々な会話をすることこそ、その作品に対する尊敬でしょ?だって、つまらない作品だったら、そんな会話だって成立しませんよ。一流の作品だからこそ、そんな会話が成り立つわけ。一流の作品だからこそ、いつでも新鮮なんでしょ?それだけいつの時代でも絵の中から語り掛けがあるわけ。作品から発せられる語り掛けに対し、鑑賞者が問い掛けをする・・・それが作品を受容することじゃないの?
芸術作品に限らず、物事や表現されたものを新鮮な目で見ることは難しい。しかし、新鮮な目で見て、自分自身で作品と会話しないと、作品と接しても面白くないでしょ?

「モナリザ」を見て、「わあ!キレイ!」なんて歓声を上げるだけの人こそ、芸術に対する冒涜ですよ。
まあ、マルセル・デュシャンも、美術館などに跋扈する、「わあ!キレイ!」と言うだけのオバチャン連中を見て、ビックリしたんでしょうね。

あの「ヒゲのモナリザ」は、「新鮮な目」を持って美術作品と会話することへの誘いであると同時に、会話をしない人の存在を「あぶりだす」効果があるわけ。

パロディと言うものは、元ネタの知識データー・ベースの問題だったり、その知識データー・ベースから必要な情報を引き出す能力の問題があったりするので、ある種の「分水嶺」になるわけです。
パロディを理解でき楽しむ人と、理解できずに逆上する人。
パロディの受容レヴェルよって、明確に線引きがされてしまう。

逆に言うと、その分水嶺としてのパロディを、意識的に利用するケースだってあるわけ。マルセル・デュシャンの「ヒゲのモナリザ」だって、多くのボンクラな人が「ケシカラン!」と言い出すことはわかりきって、あのような作品を作っているわけ。ちょっとした変更だったら、たとえばエクボを追加したくらいだったら、あんなスキャンダルにはならないでしょ?小さくてもパンチのあるヒネリによって、惰性の「ものの見方」を打破したかったわけです。
そして、新鮮な目で絵画と会話することの楽しさを提示すると同時に、会話をしないで歓声を上げるだけの存在を浮かび上がらせている。
そんなボンクラな人間を浮かび上がらせることによって、パロディを楽しむことができる人は「そう言えば・・・そんなオバチャン連中って美術館にいたりするよな!」と、見事に線引きが完成する。

刺激的で怒涛の長文の前振りですが・・・
今回の文章で取り上げる映画は、スタンリー・キューブリック監督の作品で、ウラディミール・ナボコフ(1899-1977)原作による62年の映画作品「ロリータ」。原作は1955年の出版です。
ナボコフは、ロシアのペテルスブルクに生まれ、後にアメリカに帰化した作家です。
あの「ロリータ」と言う小説が「ケシカラン!」という非難を浴びた・・・のは歴史的事実。
私は学生時代に、その「ロリータ」を読んで、大笑いしたものです。

あの「ロリータ」と言う小説自体も、一種のパロディの面があって、そのような元ネタとの比較の中で、あの作品の面白さも出てくるわけ。

と言うことで、元ネタについて考えてみましょう。

フランスの文芸作品に多いものに、「運命の女(ファム・ファタール)」と言うものがありますよね?有名なオペラの原作であるメリメの「カルメン」がそうですし、やっぱりオペラになっているアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」もフランス的な運命の女。あと時代が下って、ドビュッシーの友人だったピエール・ルイスによる「女とあやつり人形(欲望のあいまいな対象)」なんて作品がありました。こちらの方は、ルイス・ブニュエルによって映画になっています。「運命の女」は、国によって、タイプが違うようです。イギリスのラファエル前派の画家たちが描いた運命の女は、重い宿命を背負ったオーラを漂わせている。
それに対し、フランスの「運命の女」は、そんな宿命とは無縁。

フランスの「運命の女」は、むしろ自分の欲望に正直な女性。世の中の規制や良識などに全く頓着しないで、自分のやりたいことをどんどんとやって行ってしまう。
そんな「自分に正直」で「軽い」女性が、フランスの「運命の女」のキャラ。
そんな感じでしょ?

この「自分に正直」で、「お軽い」キャラがフランスのファム・ファタールであることを有効利用したのが、イギリスのオスカー・ワイルドによる「サロメ」。あの「サロメ」が英語ではなくフランス語で書かれていることはご存知の方も多いでしょう。実際にあのサロメは実に自分に正直でしょ?サロメは決してイギリス的な運命の女ではなく、フランス的な運命の女なんですね。だからワイルドはフランス語を使ったのでしょう。サロメは別に既成の倫理に挑戦しようなんて大それたことを考えているわけではなく、ただ自分の欲望に忠実なだけ。だから、むしろ大阪のオバチャンに近いキャラと言えるくらい。
「アンタ・・・ええオトコやなぁ・・・ちょっとアンタの顔に触らせてぇーなぁ・・・」
大阪のオバチャンならいかにも言いそうですし、実際に言われたことのある人もいらっしゃるのでは?

まあ、一般の人間は、ここまで自分に正直には行きませんよ。
大阪のオバチャンは、新たな価値を打ち立てる野心があるわけではなく、単に自分の欲望に正直なだけ。周囲の人間にしてみれば、ちょっと戸惑ってしまうけど、ただそれだけの存在。大阪のオバチャンは決して、男を破滅させる「魔性の女」ではありませんよ。

フランスの「ファム・ファタール」ものにおいては、そんな自分に正直な「運命の女」に対し、そんな女性に魅了されてしまう男性は、「自分を押し殺している」キャラ。名家の人間で、背負っているものも大きい。それこそマノン・レスコーに惹かれてしまうデ・グリューは、貴族でしょ?カルメンに魅了されるドン・ホセだって、ドンがつくお人。ピエース・ルイスの「欲望のあいまいな対象」のコンチータに魅了される人も、大変なブルジョア。皆さん背負っているものが大きく、自分で自分を縛っていて、自分に正直には行かないわけ。

だからこそ、自分に正直な人間に惹かれてしまう。

さて、自分で自分を律する人間を、別の言い方で言うとどうなるでしょうか?
それって、「大人」と言うでしょ?

周囲のことなど考えずに、自分の欲望に正直な人間をどのように言うでしょうか?
それって、「子供」でしょ?

つまり、フランスのファム・ファタールものは、精神的に大人の男性が、精神的に子供の女性に魅了され、その女性の魅力によって、自分自身を見失っていく・・・
そんな構図になっているわけ。
実際に、そうでしょ?

さて、カルメンも、マノンも、身体的には大人でも、精神的にはガキンチョ。自分の欲望のまま生きている。
ここでヒネリを加えてみましょう。

『精神的にはガキンチョであっても、身体的には大人』と言うフランスのファム・ファタールもののツボにヒネリを加えて、『精神的にガキンチョで、身体的にもガキンチョ』と、作品の主人公のキャラの設定をちょっといじるわけ。
そんな、自分に正直な女性によって、自分自身を律していた人間の「たが」が外れてしまって、国中を放浪の旅に出かけることになる・・・
そんなストーリーになりますよね?

このストーリーって、まさに「ロリータ」そのものでしょ?前にも書きましたが、パロディと言うものは、あまりヒネりすぎるとパロディであるとわからなくなる。だからヒネる部分が最小限であることが理想。
実際に、アベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」のマノンの図体を子供にしたら、ほぼそのまま「ロリータ」のストーリーになるでしょ?

一目惚れし、奪い取り、愛の放浪、そして犯罪・・・男性が周囲のことを気にして色々と説得するが、自分勝手な女は、わがままで言うことを聞かない。
これらは「ファム・ファタール」のツボですよね?
「ロリータ」もちゃんとツボを押えているわけ。

「ロリータ」の読者は、「ロリータ」を読みながら、「ああ!こんなシーンは『マノン・レスコー』にもあったなぁ・・・」と思い出しながら読んで笑うこともできる。そうやって、「ロリータ」と言う小説を読みながら、「ロリータ」単独ではなく、複数の作品を比較しながら楽しむことができるわけ。
それって典型的にパロディの楽しみ。

さて、今回取り上げるのは、スタンリー・キューブリック監督の映画「ロリータ」であって、ナボコフが執筆した小説の「ロリータ」ではありません。
映画の脚本にはナボコフも参加しています。

実は、原作である小説の「ロリータ」と、映画の「ロリータ」は、かなり大きな違いがあるわけ。一番大きな違いは主人公であるハンバート・ハンバートのキャラ設定です。小説でも、映画でも、フランス文学の教授であることは同じですが、違いがあるわけ。
映画版の「ロリータ」ではハンバード・ハンバートはボンクラ。
それに対し、原作の小説版の「ロリータ」でのハンバート・ハンバートは、かなり才気がある。

実は、映画版の方が、この「ロリータ」が持つパロディという性格を強調しているわけ。
ですから、今回の文章では、主に映画版について考え、必要に応じて、原作に戻りたいと思います。

さて、マルセル・デュシャンによるヒゲのモナリザについて考えた際に触れましたが、パロディというものは、ある種の「分水嶺」の役割を果たすことがあります。
才気があって、パロディを理解できる人と、バカ正直でパロディを理解できずに、スグに「ケシカラン!」とご立腹する人。
パロディによる反応によって、人間だって明確に分類できるわけ。

だから、イジワルな作家は、その微妙な分水嶺に作品を置いて、読者の反応を楽しんだりするわけ。
ボンクラな読者が立腹することがわかりきっているパロディ作品を作って、案の定「ケシカラン!」と立腹させる。そんな反応を、パロディを理解できる人に対して「おいおい!見てみなよ!あんなに怒っちゃって・・・アイツらってバカだよな!面白いだろう?」とウィンクするようなことをするわけ。

普段は、本なんて読まないのに、わざわざ本を読んで逆上しちゃって・・・なんて奇妙な生き物なんだろうねぇ・・・でも、ヤツラのこの反応が楽しいんだよな!

「一部の」読者に対する、このような語り掛けがあるわけ。いわば「ロリータ」と言う作品は読者参加型の小説なんですね。立腹するボンクラな読者そのものも「作品」の一部。
その荒唐無稽な立腹振りも、面白い。そもそも、そんなにケシカランのなら、読まなきゃいいじゃないの?わざわざ読んで逆上しちゃって・・・

そもそも、この「ロリータ」という小説だって、タイトルを「マノン」としたらどうなるでしょうか?あるいは「カルメン」とか・・・

そんなわかりやすいヒントがあれば、より多くの人が、フランスの「ファム・ファタール」との関連において読むことができますよね?だから、「ケシカラン!」と言われることも、少なくなる。何もドラマの設定を変えるわけではないでしょ?女の子の名前を変えるだけでしょ?それでスキャンダルが回避できるのなら、それくらいすればいいじゃないの?

なぜ、しないの?

それは、スキャンダルを避ける必要がない、むしろスキャンダルを起こしたかったからなんですね。ナボコフとしては、より「わかる人には、わかる。」状態にしておきたかったのでしょう。
誤解される可能性が高いのに、ヒントも出さずに、読み手を怒らせて、その怒っている姿を楽しむ。
「ナボコフって、なんてイジワルなヤツなんだ?!」
と思われる方も多いでしょう?
バカ正直な読者をからかって喜んでいるわけですからね。

しかし、このようなことは、今このメールマガジンの文章をご購読されておられる紳士淑女?の皆さんもやったことがあるんですよ。

えっ?ワタシは、そんなひねくれたことはしたことがないわ!
アンタと一緒にしないでよ!

そう言いたいでしょ?
しかし、あえて「軽い」チョッカイを出して、相手を怒らせ、その反応を楽しむ。
あ~あ、無視すればいいのに・・・わざわざ絡んじゃって・・・それに、この真剣な絡みっぷり!
コイツ・・・普段は何も考えないで生きているのに、こんなに真剣になることもあるんだねぇ・・・

多くの人は、このようなチョッカイを実際にやったことがあるんですよ。

それは、ネコの前に綿毛をふらふらさせる遊び・・・いわゆるネコじゃらし。
綿毛がふらふらしているだけなんだから、ネコだって無視すればいいのでしょうが、そこはネコの悲しさ。普段以上の真剣さで綿毛に向かってくる。その真剣さが、なんともまあ面白い。
そんなものでしょ?

ナボコフが「ロリータ」と言う作品でやったのは、この「ネコじゃらし」と言う面もあるわけ。だって、予想通りの展開になりましたよね?そんなこと誰だって予想できるでしょ?ナボコフだって予想できますよ。前にも書きましたが、女の子の名前をカルメンとかマノンにするだけで、このようなスキャンダルは回避できるわけですからね。
このようなネコじゃらしを積極的に仕掛けたわけ。

目を血走らせて、「ケシカラン!」と言っているバカ正直な読者の姿を、「見せ」ながら、「面白いだろ!コイツら!普段は『ぐーたら』なのに、こんな時だけ真剣な表情をしちゃって、まあ!」

さて、さて・・・
ここで、映画版の「ロリータ」に行きましょう。
映画版の方が、よりパロディという面を強調している・・・前にそう書きました。
音楽においてもパロディって、ありますよね?
音楽におけるパロディって、あのバッハが自作の音楽を使いまわししたこと?
そんなご大層なものではなく、誰にでも経験があるポピュラーなものがあるでしょ?

それは替え歌。
元歌のツボを上手に生かしながら、ちょっと歌詞をヒネルことによって、実に面白い歌が出来上がる。そんな替え歌に接したものは、元歌をアタマにイメージしながら、その比較も含めて楽しむことができる。
これって、まさにパロディの醍醐味。

実は、映画版の「ロリータ」の冒頭に、ある種の替え歌が出てきます。
映画版で重要な役割を与えられている、クィルティと言う人(ピーター・セラーズが演じています。)が、「オレが作曲した面白い歌を聞かせてやるよ!」と主人公のハンバート・ハンバートにピアノを弾きながら歌うわけ。
その歌とは、ショパンのピアノ曲に勝手に歌詞を付けたもの。曲はポロネーズか何かかな?このショパンの曲は本来は純然たるピアノ単独の曲です。当然のこととして歌詞はない。それに即興で勝手に歌詞をつけたわけ。
まあ、これっていわば替え歌でしょ?

「ショパンを聞かせてやるよ!」と言ってショパンを弾いたのではなく、「オレが作った歌を聞かせてやるよ!」と、ショパンのピアノ曲に歌詞を付けて歌ったわけ。

このようなフィーリングは、「ファム・ファタールのパロディの小説だよ!」と言って「ロリータ」を発表したのではなく、「まったくオリジナルの小説だよ!」と「ロリータ」を発表した誰かさんと全く同じでしょ?

と言うことで、映画において、その替え歌を歌ったクィルティさんは、ハンバート・ハンバートに殺されてしまうし、小説「ロリータ」を発表したナボコフは、周囲から非難を浴びることになる。予想通りにね。

実は、この映画版でピーター・セラーズが演じているクィルティは、原作者のナボコフ自身のメタファーなんですね。
才気があって、教養があって、イジワルで、茶目っ気がある。

映画版で、このクィルティが、ハンバート・ハンバートに絡むやり口を見てみましょう。
付かず、離れず・・・チョロチョロっとチョッカイを出すわけ。
別に命にかかわるような、過激な手口ではない。
忘れた頃になったら現れて、チョロチョロっとやるわけ。

このような「軽い」チョッカイのやり方って、まさに「ネコじゃらし」そのものでしょ?
ハンバート・ハンバートも、無視すればいいのに、そのチョッカイに真剣に絡んでしまう。その真剣な反応が、またチョッカイを掛ける方には面白くて仕方がない。

さて、映画版では、そのクィルティが、持ち前の才気を如何なく発揮して、ハンバード・ハンバートを「ネコじゃらし」しているシーンが多くあります。
代表的なのは、ホテルにおける「普通づくし」のシーン。
「アンタは普通(normal)で・・・」
と、「普通」と言う言葉を様々に展開しているわけ。
この普通づくしのシーンを見ていた観客がまず思い出すのは、やっぱり才気の人シラノ・ド・ベルジュラック。
有名な鼻づくしのシーンがありましたよね?この映画版の「ロリータ」も、シラノ・ド・ベルジュラックの才気を意識しているのでしょう。

ロリータの普通づくしのシーンは映画版だけにあり、原作の小説版にはありません。映画版では、「普通」づくしのシーンにおいて、いわば「普通」と言う言葉が強調されているわけ。
この「普通」という言葉は、実に「普通じゃない」言葉なんですね。
それをわかって使っているのか?わからないで漫然と使っているのか?
その「普通」という言葉の使い方で、その人の知性がわかるものです。

じゃあ、そもそも「普通」って、どう言う意味?
漫然と「普通」と言う言葉を使っている人に対し、「アナタの言う『普通』って、どういう意味なの?」って聞いてごらんなさいな。
大体の人は、こう答えるものです。私はこれ以外の回答をもらったことがありませんよ。
その回答とは、「・・・普通って・・・普通のこと・・・」。
私などは、もう何回もその回答?をもらっていますよ。
さて、その「・・・普通って・・・普通のこと・・・」という論理命題については、次回、集中的に考えてみたいと思います。この言葉から見えてくる作品もあるんですね。

まあ、「ロリータ」を考える今回の文章においては、「普通」と言う言葉が持つ、「微妙な」意味をアタマに入れておいていただければ、とりあえずOKです。
さて、この映画版の「ロリータ」では、原作者ナボコフを象徴する存在であるクィルティが、ハンバート・ハンバートに向かって、「アンタは普通の人だ!」などと暴言を吐いています。

いや!まあ!スゴイ!
このワタシでも、言えないような暴言ですよ。
じゃあ、それこそ「普通」って何?どんな意味なの?

ここで「普通」と翻訳されている言葉は、映画で使われているもともとの英語のセリフではnormalと言う単語です。
だから、「アンタはnormalだ!」と言っているわけ。
よりにもよって「ロリータ」の主人公たるハンバート・ハンバートに対して「アンタはnormalだ!」なんて、ある意味面白いでしょ?だって、少女性愛の嗜好者に対して、「アンタはアブノーマルだ!」ではなく、「アンタはノーマルだ!」って、わざわざ言っているんですからね。

こんな刺激的で重要なヒントに反応しなかったら、あらゆるジャンルの作品なんて理解できませんよ。
じゃあ、それこそ、normalって、どう言う意味なの?

「普通」なんて、訳すと、焦点がボケてしまう。
私が訳すと、このような言葉になります。
『規格品』

「アンタは規格品だヨ!」って言っているわけ。
別の言い方をすると、「一般人だ!」って言っているわけです。

勿論、一般人が悪いわけではない。
しかし、ハンバート・ハンバートはフランス文学の学者さん。これは映画版も小説版も共通。芸術を考える人間が、規格品じゃあダメでしょ?
規格品の人間って、別の言い方をすれば、「その他大勢」とでも言えますからね。

実は、映画版では、このハンバート・ハンバートの「普通」振り・・・別の言い方をすると、規格品振りが明確に強調されているわけ。

そもそも、冒頭のショパンの替え歌にも反応しない。
才気がある人間だったら、「おい!ショパンのピアノ曲に歌詞なんか勝手につけて、ふざけているんじゃないよ!」なんて反応してもいいでしょ?そもそもフランス文学の教授だったら、ショパンの主なピアノ曲くらい知っていないとマズイでしょ?
あるいは、このハンバート・ハンバートは、自分の専門領域であるフランス文学についての言及が、悲しいくらいに、ない。

だって、ちょっと考えてみてくださいな。
この「ロリータ」の基本的なシチュエーションは、
1. 背徳的な愛
2. 愛の逃避行
でしょ?
これって、別の言い方をすると、典型的なフランス文学のシチュエーションとも言えるでしょ?

それを表現するような修辞なんて、本来は山ほど持っているはずでしょ?だって、その分野の専門家なんだから。
ところが、映画版での「ロリータ」では、そのような修辞なり引用は全然出てこない。
唯一出てくる文学的名称は、高校の名前。なんと「ビアズリー高校」なる名称。
あらまあ!なんと道徳的な名称だこと!!まあ、この名前は、ロリータとサロメのキャラクターの相似性から持ち出したのでしょうね。
しかし、この修辞は、登場人物のハンバート・ハンバートが自分の才気で取り出した修辞じゃない。

本来なら、自分自身の背徳的な愛なり、愛の逃避行を、自分が知っている文学作品と関係付けて語ることができるわけでしょ?
「おお!この禁じられた愛への懊悩は、○○が書いた△△と全く同じだ!」
とか、
「この逃避行の焦燥感は、☆☆の作品である□□を思い出させる!」
あるいは、
「今までわからなかった◎◎の気持ちが、今、初めてわかった!!」

それくらい言えるはずでしょ?そうやって、自らの感情や境遇をより多彩に表現できるわけでしょ?
逆に言うと、そのような修辞がないのは不自然ですよ。
映画を見ながら、
「アンタ・・・バカじゃないの?もっと気の利いた言葉で言いなよ!」って思う人も多いはずです。
作者としては、そのような疑問は、あえて起こしたいわけ。
だって、そのような疑問を観客に持ってもらいたくないのなら、ハンバート・ハンバートの職業を、フランス文学の研究家ではなく、弁護士なり建築家にでもしますよ。
弁護士だったら、そんなフランス文学の修辞が出てこなくても不自然ではないでしょ?

フランス文学の専門家なのに、フランス文学の修辞が出てこない「不自然さ」・・・これをあえて作り出しているわけ。

実に、興味深いことに、小説版では、ハンバート・ハンバートは、才気がある。
このような文学的な修辞は、頻繁に出てきます。
それこそカルメンなども言及されます。
これって当然でしょ?
ロリータとハンバート・ハンバートの関係を、カルメンとドン・ホセとの関係にたとえるなんて、ちょっとアタマが回る人だったらスグにできること。

映画版と小説版では、このハンバート・ハンバートのキャラが大きく違っているわけ。だから映画版において、ハンバート・ハンバートを演じているのは、ジェームズ・メイソン。
はっきり言ってボンクラが「さま」になる俳優さん。
もし、「禁じられた愛」の苦悩を描きたいのなら、他にもっとましな俳優がいるでしょ?
それこそ、バート・ランカスターとかローレンス・オリヴィエとか・・・

キューブリックは、映画版においてハンバート・ハンバートのボンクラな面を強調しているんですね。
ボンクラだから、まさに「アンタは普通だ!」なんて言われちゃう。

映画版では、才気のないハンバート・ハンバートと、才気煥発のクィルティが対比されているわけ。
実は、小説版では、ハンバート・ハンバートは才気煥発に近い。
小説版におけるハンバート・ハンバートのキャラが、映画版においては、実際にロリータと関係を持つハンバート・ハンバートと、才気を持っているクィルティの2人に分割されているわけです。

小説版のハンバート・ハンバートはダジャレなどを飛ばしたり、芸術作品などから引用を自在にこなし才気煥発。映画版ではそんな才気は全くない。
小説版のハンバート・ハンバートにあったその才気は、映画版ではクィルティに受け継がれているわけ。

そのクィルティの才気の一例として、ショパンのピアノ曲に歌詞を付けるなんて芸当のシーンが出てくるわけです。
このシーンは小説版にはありません。
そもそも小説版では、クィルティは、あまり重要な登場人物ではない。映画版ではきわめて重要な存在。小説版にない、そんな才気豊かなシーンを見て、観客は「おお!コイツなかなかやるわい!」なんて、そのクィルティに注目することになるわけです。
と同時に、そんな才気にも何も反応しないハンバート・ハンバートのボンクラぶり、別の言い方をすると規格品ぶりがその時点でわかるわけ。

ハンバート・ハンバートは、少女性愛者であっても、所詮は規格品のnormalな人間と言うわけ。それに対しクィルティは規格外。
そもそも、譜面も見ずに、ショパンのピアノ曲をピアノで弾けるなんて大したものでしょ?それに、即興で歌詞までつけて・・・
それに、そのクィルティが住んでいる家は、ヨーロッパの雰囲気を漂わせている。
ロリータを描いたような、ケインズボロ風の絵があったりする。

まあ、その絵はホンモノではないでしょうが、ヨーロッパへの憧れ、そして知的伝統の継承の意識・・・が感じ取れる住まい。

知的伝統の継承と言うことで、この「ロリータ」と言う作品自体に、ヨーロッパとアメリカの差が描かれていることは確実でしょう。
それは文化的な厚みの差であって、その厚みの差は、単に知識の量と言うだけでなく、パロディを作り出せ、受容できる才気の差という形でも現れているわけ。
まあ、アメリカからイギリスに逃げ出したキューブリックにしてみれば、切実な問題なんでしょうね。そもそもキューブリックはあの有名な『2001年宇宙の旅』では、英語とアメリカ語の厳密な使い分けをやっています。それだけイギリスとアメリカの違いを意識していることがわかります。
イギリスとアメリカの間の才気の受容能力の差は、両国に横たわる大西洋より大きい・・・キューブリックはそんなことを考えていたんでしょうね。
まさに分水嶺。

冒頭のショパンの替え歌を聞くだけで、この映画が、いわば「才気」と言うものを扱っている作品であることがすぐにわかる。
そして、そのクィルティの才気を存分に楽しむことができる。
その才気は、ハンバート・ハンバートのボンクラ振りによってさらに際立つわけ。

ちなみに、この「ロリータ」は、単なるパロディ作品ではない・・・作者のナボコフはそう言っているようです。
小説版の巻末に作者の「あとがき」がありますが、ここで、
<私にははっきりわかっているが、これらや他の場面は、本書を『ある遊女の回想記』とか「グロスヴィット公の愛の遍歴」といった系列のものだという印象の下に読み始める読者には、読み飛ばされるか気がつかずに終わるか、あるいはそもそもそこまでたどりつかないのが落ちだろう・・・」>
この『ある遊女の回想記』とか「グロスヴィット公の愛の遍歴」とかのタイトルがいかにも古典的なフランスの「ファム・ファタール」ものの典型的なタイトルであることは、スグにわかります。
ナボコフは、この私のような読み手に対して、「それは違うよ!」と言っているんでしょうね。

かと言って、パロディの面を強く持っていることは確かでしょ?
そして、一般の読み手を怒らせることをわざとやっている。

そのパロディの面は、小説版より映画版でより強く打ち出されているわけ。
その集約が、まさに冒頭のショパンの替え歌のシーンと言うわけです。
クィルティがその才気でからかい、ハンバート・ハンバートが怒る、怒るから、面白がって、ますますからかう・・・そんな構図が、映画の中でずっと続いている。
クィルティは冒頭シーンから、その才気と教養でハンバート・ハンバートを猫じゃらししている。しかし、猫じゃらしって、調子に乗って、やりすぎると手を引っかかれてしまうもの。まさに、この「ロリータ」のように・・・

この「ロリータ」においては、原作者ナボコフが言うように、「いかなる道徳の問題も含んでいない。」ことは明白ですが、「猫じゃらしも調子に乗りすぎるとアブナイよ!」って、教訓は含んでいるのかもね?
まあ、人をからかうクセがある性格の悪い人は、気をつけてくださいな。

(終了)
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次回は、この「ロリータ」と関係のある作品を取り上げます。
これもまた、実に有名な作品です。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-07/07-7-12.html
2:777 :

2022/08/22 (Mon) 08:56:54

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「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
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「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
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