777投稿集 2531894


景色が良い道をドライブしよう _ 塩那道路(栃木県道266号中塩原板室那須線)

1:777 :

2022/08/11 (Thu) 21:20:26

景色が良い道をドライブしよう _ 塩那道路(栃木県道266号中塩原板室那須線)


塩那道路 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%A1%A9%E9%82%A3%E9%81%93%E8%B7%AF

中塩原板室那須線 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%A1%A9%E5%8E%9F%E6%9D%BF%E5%AE%A4%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%B7%9A



中塩原板室那須線の地図
https://www.mapion.co.jp/m2/36.99233726,139.80847057,16/poi=L0388508

中塩原板室那須線 地図 - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e4%b8%ad%e5%a1%a9%e5%8e%9f%e6%9d%bf%e5%ae%a4%e9%82%a3%e9%a0%88%e7%b7%9a+%e5%9c%b0%e5%9b%b3&qpvt=%e4%b8%ad%e5%a1%a9%e5%8e%9f%e6%9d%bf%e5%ae%a4%e9%82%a3%e9%a0%88%e7%b7%9a+%e5%9c%b0%e5%9b%b3&tsc=ImageHoverTitle&form=IGRE&first=1

塩那道路 地図 - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e5%a1%a9%e9%82%a3%e9%81%93%e8%b7%af+%e5%9c%b0%e5%9b%b3&qpvt=%e5%a1%a9%e9%82%a3%e9%81%93%e8%b7%af+%e5%9c%b0%e5%9b%b3&form=IGRE&first=1&tsc=ImageHoverTitle


▲△▽▼


栃木県道266号中塩原板室那須線(なかしおばらいたむろなすせん)は、那須塩原市塩原から板室を経由して那須郡那須町に至る一般県道である。路線の途中には計画の中断によって生じた交通不能区間がある。


当初は有料道路(塩那(えんな)道路、塩那スカイライン)として構想された。工事用道路が完成するも有料道路として完成の日を迎えなかった塩原 - 板室間は山岳区間が廃道化措置が行われているが(後述)、那須山麓有料道路として開通し、やがて無料開放された板室 - 那須間は観光地を結ぶ一般的な県道として供用されている。


路線データ
起点:栃木県那須塩原市中塩原(国道400号交点)
終点:栃木県那須郡那須町大字湯本(一軒茶屋前交差点=栃木県道17号那須高原線交点)
路線延長
総延長:65.303 km(うち交通不能区間:13.742 km)
実延長:65.176 km(うち交通不能区間:13.742 km)


歴史
1962年(昭和37年)
栃木県が塩那道路建設構想を発表
1964年(昭和39年)
建設工事に着手
1968年(昭和43年)
黒磯町板室本村(現在の那須塩原市板室)から那須町湯本までの区間が先行して完成、有料の「那須山麓有料道路」として開通
1971年(昭和46年)
塩原町中塩原の起点から黒磯市百村までの山岳区間の工事用パイロット道路が貫通 (1970年黒磯町が市制施行)
1972年(昭和47年)7月4日
パイロット道路の完成を受けて栃木県が一般県道として認定
1975年(昭和50年)
オイルショックによる景気減速と財政悪化を原因に建設工事が休止
以降、総合保養地域整備法の「日光・那須リゾートライン構想」エリアとなり再注目されるもバブル崩壊により山岳区間の整備計画が事実上凍結
1991年(平成3年)4月
那須山麓有料道路の料金徴収期間が満了し、無料開放
2012年(平成24年)10月17日
板室 - 深山園地間の整備完了に伴い同区間の一般供用開始


路線状況

塩原 - 板室間

塩原 - 板室間の山越え区間は俗に「塩那道路」と呼ばれる[2][3]。 大佐飛山地の標高1,000メートル以上の稜線を縦走する道路で、最高地点は標高1,700メートル[2][3](鹿又岳付近)、道路の麓からの高低差は1,100メートルに達し[2][3]、通常なら登山の対象になるような、集落も人家もない場所を通る[2]。 この区間は高度経済成長期の1962年(昭和37年)[2]に観光道路「塩那スカイライン」として構想された。 当時は急速に普及したマイカー(自家用自動車)による観光が日本中でブームで[2]、全国各地で同様の観光道路の建設が相次いでおり[2]、本道は視界を遮るものがなく見晴らしの良い稜線上を車で通行できるような[2][3]、日本有数の規模の山岳道路が完成する予定であった[2]。 塩原側の起点位置は同時期に道幅拡幅と路線延長が構想されていた日塩もみじライン入口とは箒川をはさんで対岸の位置にあり、開通を果たした際には同道路と接続させる目的もあった。

建設現場の地形は急峻で、民間の業者では機材の搬入が困難であったことから[3]、1966年(昭和41年)10月からは栃木県から土木工事等を受託を委託された陸上自衛隊が訓練の一環として工事に当たり[3]、延べ74,018人の自衛隊員が参加した[3]。路線の途中に資材搬入のためのヘリポートが設けられ、自衛隊の空輸能力を生かした工事が進められたが[3]、ブルドーザーの空輸中の事故によって殉職者が出るなど[3]、工事は困難なものであった。 1971年(昭和46年)にはついに工事用パイロット道路の貫通にいたるが[4]、その後オイルショックによる景気減速と財政悪化を原因に建設工事が中断する[4]。本道は1,100メートルに達する高低差を登り降りするためにつづら折りを繰り返した結果、非常に長い道のりとなってしまい国道400号経由のルートと比較してショートカットとして機能しないため(山越え区間のパイロット道路が約50キロメートルの道のりに対し、(現) 国道400号線 - 県道30号線 - 県道369号線経由ならば20キロメートル以上短くアップダウンも少ない)、有料道路として整備しても通行量が見込めなかった。1982年(昭和57年)には塩那道路の塩原側から少し入った土平(どだいら)園地、および 板室側から少し入った深山園地までの区間を、良好な眺望を得られる地点までの「優先区間」として少しずつ整備を進める方針が決定したが、残りの区間は優先区間の整備を待つものとされた[4]。1980年台後半には、栃木県北部地域は通称リゾート法と呼ばれる総合保養地域整備法の「日光・那須リゾートライン構想」エリアとなり再び注目されるも、バブル崩壊により山岳区間の整備計画が事実上凍結。

山岳区間は未開通のまま4,000万円の年間維持費を費やしながらも[4]、結論は先送りされたまま定まらず、建設の中断から29年目の2004年(平成16年)、ついに観光道路として一度も開放されることのないまま、山岳区間を利用廃止する方針が定まった[5]。 2011年(平成23年)には植生回復工事も完了し[3]、2014年現在、塩原 - 土平園地間、および 深山園地 - 板室間のみが開通しており、それ以外の山岳区間は土砂崩れや環境破壊などを防ぐ措置を講じつつ、自然の回復力に任せ廃道とするとしている[6][4]。

土平園地 - 深山園地間のパイロット道路は那須塩原警察署が通行止(歩行者も含む完全通行止)の規制を敷いており[4]、道路管理関係者と一部の地元住民以外は一切の進入ができない。途中の男鹿岳山頂付近には工事に従事した陸上自衛隊104建設大隊(宇都宮駐屯地)の関係者を列挙した記念碑があるが[4][7]、道路を通ってそこまで行くことはできず、一般の目に触れることはない。 塩那道路塩原側約8キロメートルは上記の通り土平園地までは整備済であるが、4月下旬 - 11月下旬およびそれ以外でも午後6時 - 翌日午前8時は閉鎖されており、該当する期間の通行は不可能である。 また、板室側は5月中旬 - 11月下旬のみの開放となり、それ以外の通行は禁止されている。


板室 - 那須湯本間

黒磯町板室本村(現在の那須塩原市板室)から那須町湯本までの区間は有料の「那須山麓有料道路」として1968年(昭和43年)に先行して開通し、そして塩原 - 板室間の整備計画が事実上凍結された後の1991年(平成3年)4月に料金徴収期間が満了し、塩那スカイラインと接続する可能性も消えたとして無料開放された(→ 無料開放された道路一覧)。

一般県道化後の同区間は、板室温泉・乙女の滝・那須ハイランドパーク・南ヶ丘牧場・那須湯本温泉等の観光地を結ぶ重要な観光道路として機能している。

板室温泉付近では板室街道(栃木県道・福島県道369号黒磯田島線)と、この道路の終点である那須町湯本の一軒茶屋交差点では那須街道(栃木県道17号那須高原線)と接続する。 終点の一軒茶屋交差点から先も県道でなくなった道路が続くが、直進し続けると那須御用邸がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E6%9C%A8%E7%9C%8C%E9%81%93266%E5%8F%B7%E4%B8%AD%E5%A1%A9%E5%8E%9F%E6%9D%BF%E5%AE%A4%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%B7%9A


▲△▽▼
▲△▽▼


塩那道路 (県道中塩原板室那須線)  序 
https://yamaiga.com/road/enna/main.html

日本には、まだまだ凄い道がある。

 それを、私に思い知らせた道がある。


 栃木県一般県道266号「中塩原板室那須線」、

 通称 「塩那道路」

 オブローダーなら、おそらく誰しもが、一度は聞いた名である。


 塩那道路という、愛称とも略称とも取れる道の名前は、そこがただの県道や林道として生を受けた道ではないことを伝えている。
いや、実は塩那道路などという道は、まだこの世には、完全に存在はしていない。
あるのは、将来の塩那道路になるはずだった、パイロット道路と呼ばれる、工事用道路。
そして、辛うじて完成している一部区間である。

塩那道路を一言で言い表すなら、
とにかく凄いところを走る道。

なんと、最高到達高度は海抜1700m。
東北地方には、ここまで高い場所を走る道はない。
塩那道路を擁する栃木県においても、標高でこれを越える道は日光近辺に幾つかあるだけで、稀である。


 そして、塩那道路のもう一つの重要なファクターは、我々オブローダーにとってこの道が「禁断の果実」だということだ。

全長51kmにも及ぶ塩那道路のうち、その大半が、もう何年も前から全面通行止めとなっているのだ。
オブローダーなら、大なり小なり誰しもが興味を持ちそうなこの道、当局としても安全確保を第一に、不必要な交通の全てをシャットダウンしようと、かなり本気で取り組んでいる。
塩那道路を間近に知れぬ遠方に住む私にとっては、特に恐ろしげな話題ばかりが先行して伝わってくる。
例えば、「不法侵入者を撮影するための無人カメラが設置されている」や「常時見回りの車が走っている」などといった“噂”が、ますます塩那道路に不到達のイメージを強くさせるのだ。
そして、重要なことは、これらは噂ではなく、根拠のある事実を含んだ話だと言うことである。

 率直に言えば、私にとって塩那道路攻略とは、その道の長さや高さといった問題よりも、「いかに突破するか」という点に尽きたと言って良い。


 さて、いささか名前が先行している感は否めない塩那道路である。
それも無理はなく、先述の通り、ここ数年は厳重な封鎖が取られており、立ち入った人は限られている。
近年の状況を伝える報告は、WEB上にも殆ど見られない。

 その塩那道路が実際にはどのような道であるかは次回以降の本編に譲るとして、まずはその誕生についてだけ、述べておきたい。

 塩那道路は、「塩那スカイライン」として構想されたのが、その端緒である。
昭和30年代、それまでの鉄道に代わり、自動車を利用した観光が急速に伸びた。
日光・鬼怒川・塩原温泉・那須高原といった一帯の高名な観光地群を連結するため、また道自体を観光資源にするため、さらに資源開発などに資するために、海抜1700mを越える奥羽山脈の稜線に道を設けることを、昭和37年に栃木県が構想を発表した。
 当時は現在のような自然保護の盛り上がりも無く、昭和39年には早々と工事に着手された。
しかし、約51kmにも及ぶ沿道予定地には、他に通じる道が一切無く、人が住むような集落も存在しないことから、工事用資材の補給などの問題に直面し、まずは2車線フル規格の観光道路を建設する前段階として、パイロット道路を設ける運びとなった。
パイロット道路の建設には、自衛隊の支援を受け、昭和46年に完成。
パイロット道路によってではあるが、ひとまず全線が一本に繋がったのである。
 次は、パイロット道路を元に、本格的な道を建設する段階になった。
まずは、昭和47年には一般県道中塩原板室那須線として県道認定を受け、以後は県道整備事業として工事が進められることとなった。
しかし、オイルショックによる財政悪化を原因に、昭和50年には呆気なく建設工事が休止されたのである。

 以後、工事再開の議論が起きたこともあるが、環境保護の声の高まりもあって結局工事が再開されることなく、現在に至っている。
ただし、パイロット道路の保守のみは現在も続けて行われている。


 そんな、塩那道路にはまだまだ語るべき事が沢山ある。
これから、その長いレポートが始まる。
当分は完結しないと思うので、どうか気長に読んでいただきたい。
https://yamaiga.com/road/enna/main.html



塩那計画
https://yamaiga.com/road/enna/main1.html

1-1 男の夢 塩那計画

  塩那道路を走りたい。


 それは、私の長年の夢であった。

 私には、全国に幾つも、そんな道がある。

 生涯で、一度は走りたい道。

 これまでの山チャリ人生十数年間で、そのうちの幾つかは、幸運にも走ることが出来た。
 例えば「仙岩峠」に「万世大路」、それに「大峠」などだ。

 そしてまた、夢の一つの実現を懸け、私は旅立った。

 ターゲットは、東京から北に175kmの地。
走り慣れた東北地方を離れ、関東の北端、栃木県は塩原町。
今回の同行者は、千葉県より参戦のゆーじ氏(サイト『銀の森牧場』)ひとり。
彼とは、丸一年以上もこの計画を温め合ってきた仲だった。

 彼もまた、塩那に取り憑かれた男の、一人だ。



4:15

 2005年10月9日早朝、まだ日の明くる前の道の駅「塩原」に、二人の姿はあった。
残念なことに、天候は雨。

前日夕方に当地に集合した我々は、近くのファミリーレストランで対顔を祝うと共に、今回の計画の成功を誓い合った。

早々に車中泊となったが、いよいよ迫った塩那への挑戦への緊張から、眠れぬ夜を過ごした。



 今回の計画は至って単純である。

道の駅塩原をスタート地点に、まずは国道400号線を西進し、塩原温泉郷に至る。
そこからは、早速塩那道路である。
全長51km、高低差1100mの塩那道路を、無事に突破し板室温泉に到着したら、そのまま最短距離で出発地に戻るという、一周約77kmの周回コースだ。

 この所要時間は13時間程度と見積もっており、塩那道路の走破だけで10時間以上掛かるものと考えていた。
この計画から逆算して午前4時過ぎという出発時刻を決定したわけだが、それだけではなく、出来るだけ早い時刻に塩那道路塩原側入口から約10kmの地点にあるらしい通行止めゲートを、突破してしまいたいという思惑があった。

 ゆーじ氏は昨年の夏にも友人と二人で塩那道路のチャリによる走破を企て、これを成功させている実績がある。
昨年の塩那計画も実は私が言い出しっぺであり、もちろん当初は私も参加する予定であったのだが、結局叶わず一年遅れとなったわけである。
塩那道路を経験した数少ない男は、私にとって最大のアドバイザーであり、相棒となり得た。


 だが、この一年間の間に塩那道路では、我々の興味本位の進入に対する、様々な抑止策が展開・強化されていたのである。


 午前4時15分、道の駅塩原を計画通り、出発。
小雨の降る国道400号線を、塩原温泉郷へ向けて西へ11km。
足慣らしを兼ねた、本日最初の走行である。
二人は、少し距離を置きながら、マイペースで進んだ。

 道は、箒川が潜竜峡と呼ばれる谷間を縫うように進んでおり、途中には二つのトンネルがある。
うちひとつ、猿岩隧道は昭和29年に竣功した古株で、立派な扁額には「猿岩洞」の3文字が刻まれている。
隧道でもなく、トンネルではもちろん無く、「洞」。
ここがいつもの探索の地、東北ではないのだということを、感じた。


 土曜日とはいえ、日も明けぬ早朝、しかも雨の3桁国道。
相当に寂しい展開を想像していたが、意外なほど通行量がある。

ナンバーを何気なく見ると、秋田や岩手、山形など見慣れた物はない。
宇都宮がもちろん多いわけだが、そのほかでは、東京圏のナンバーが目立つ。
私の住む秋田では、いくら著名な観光地のそばでも、この通行量はあり得ない。

 ここはすでに、日本の首都東京の後背地なのだと、少しの先入観はあったかも知れないが、そう感じた。
数千万の圏人口が、週末の度に大挙してこの界隈に幾つもある著名観光地を訪れるのだろう。

 我々は、いつしか巨大なホテルに見下ろされる一角に辿り着いた。



 ここは、塩原温泉郷。
箒川沿いに大小のホテル旅館が点在する、栃木を代表する温泉地のひとつである。
国道400号線が温泉街を東西に貫通しており、分かれて南に向かう「日塩もみじライン」(有料道路)がある。
そして北に向かうのが、夢破れし

 塩那道路だ。

 我々は、一軒だけのコンビニエンスストアに寄り、最後の補給を行った。
これより間もなく塩那道路へ入れば、もはや未来50km以上に亘り、一切の補給は絶たれる。
万一途中で体が不調となれば、自力下山は不可能となる危険もある、そんな長さの道だ。
万全の体制で臨まねばならない。
隣に一度は通り抜けた経験者がいるとはいえ、私が不安を感じないわけではなかった。


ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



1-2 塩那道路 起点

5:30

 午前5時30分、ナトリウムライトに浮かび上がったT型交差点。

国道400号線と、県道266号線の分岐点。
そして、県道266号線の、塩那道路の、起点である。
信号や、行き先を示す青看はない。

 雨は、止んでいた。
口数の決して多い方ではない少し年上のゆーじ氏も、興奮気味だ。
遂に、夢にまで見た、あの塩那道路の、その入口が目の前にある。
私は、興奮は隠そうともしなかった。



 県道266号線について案内しているのは、最近になって各地に設置が進んでいる、この矢印タイプの標識だけだ。
また、沿道にある殆ど唯一の観光施設である「箱の森プレイパーク」の案内看板が、立て掛けられていた。

この時点ではまだ、この県道266号線が、塩那道路と呼ばれ、果てしなく長い山道に続いていることを匂わす物は、何もない。
本当に、何の変哲もない3桁県道の入口を、演出している。
オブローダーや林道ライダーのような、地元や管理者にはあまり喜ばれない来客を呼び込まないための策なのだろうと、穿った考えをしてしまう。


←地図を表示する。 ここは「A」地点。
 塩那道路、その最初の構造物は、箒川を渡る八幡橋だ。

行く手には折り重なるような山脈が、雨雲に接している。
しかし、まだ対岸には沢山の民家が見えており、なお塩那道路としての本性を現すには遠いのか。

平穏な住宅地の朝に、オブローダーという闖入者。
いままでも、我々のような、…武者震いに震え、その興奮を抑えきれず上気した顔で山を見つめる、…そんな変な奴らが、この住宅地の朝を騒がしたのかと思うと、 …不謹慎だが、笑ってしまう。

 なんというか、

「みなさん、凄いところに住んでるんだよ。 我々的にはね。」

塩那道路沿いに住んでいるなんて、オブローダー的にはちょっとメルヘン&ファンタジー。


 あた! あた!アタタタタタタタタタ!!

…っまず、餅付け餅付け。

 しかし、あったよ。
塩那道路、その最初の「通行止め」。

内容はと言えば、通行止め18-8この先2.2km
除外は、管理用車輌とのこと。

早速にして、2.2km先からは時間帯通行止めなのだ。
しかし、それ以外の時間帯は、通っていいようだ。


 立て続けに、我々を喜ばせる道路構造物(っても標識だが)が現れた。
次は、栃木県バージョンの県道標識、いわゆるヘキサである。
そこには、路線番号「266」の他に、補助標識には長々しい路線名が記されていた。
本レポートでも、しつこく何度も書いているが、「中塩原 板室 那須線」である。

 ちなみに、この県道は私にとって塩那道路の印象が強すぎるが、実際にはこの道のメインは板室~那須間である。
高級別荘地の立ち並ぶ高原を縦貫する観光道路として、ハイシーズンには渋滞まで起きるほどの道路なのである。
いわゆる、那須観光の主要道路だ。
板室~那須間は、たった14km。
塩原~板室間(塩那道路)は、51km。
その物量差は歴然であるが…。



 民家が連担している区間は僅かで、すぐに上り坂が始まる。
ここで始まった坂は、この先8km先の「土平(どだいら)」という場所で黒磯市界の稜線上に辿り着くまで、一度も休まず登り続ける。
その高低差は500mにも及んでおり、早速ではあるが、全線中でも有数の長い上り坂と言える。

 始まるべくして始まった上り坂。
こんな序盤で、「疲れた」の「つ」でも言おうものなら、とてもではないが全線走破は無理だ。
そう言う覚悟のもの、体力を少しでもセーブするためにチャリの変速を軽い段に合わせ、登り始めた。

 法面に現れたのは、初めて見る六角形のコンクリートブロック。
まるで塩那道路のトレードマークであるかのように、この先も繰り返し、この六角形ブロックは出現することになる。




 眼前には、いよいよ登るべき山肌が迫る。

早速我々の体力を奪おうというのか、きつい直線登りが始まった。
しかも、その行く手に見えるのが、この壁のような山肌となれば、焦っても仕方がない。
これはもう、じっくりと腰を据えて望まねばならないだろう。
とりあえずは、8km先の土平のゲートに、午前8時までに到達することが最初の目標だ。
なぜ8時かと言えば、8時には手前の夜間閉鎖ゲートが開き、観光客(←これはなさそうだが)や、管理車両がゲートの見回りに来るかも知れないと考えたからだ。
その前に、突破してしまいたいのだ。


…そうそう、
右の写真をよく見てみて。




 なんじゃぁ

こりゃー!!

 見えちゃってる。
すっげー先の方まで、見えちゃってる。
山が、スライスされてる~。

…仙岩峠より凄いな…。





5:46
←地図を表示する。 ここは「B」地点。

 入口から1.4km地点、所要15分。
道中唯一の観光地らしい観光地、「箱の森プレイパーク」入口に到着。
ここで一旦、道は1車線になる。
また、周囲には見きれないほどの沢山の標識やら看板やらが、立ち並んでいる。

 まさに、オブローダー(っつーか道路趣味者)にとっては、どこから見ればいいか目移りするような有様だ。

まずは左端の標識、時限ゲートは900m先にまで接近しているようだ。
その少し奥には、「この先大型車通行止」の標識も。


 上の写真のフレームの外、左側にはこの看板が立っている。
環境庁時代に整備した「大佐飛山(おおさびやま)自然環境保全地域」の大きな看板だ。
地図には、塩那道路も赤い実線で描かれている。
しかし、文章は殆ど掠れており、読めない。

 また、その看板のさらに左には、サル注意の看板も。
日光では観光客を襲うサルが有名だが、この塩那道路沿線でもサルの目撃証言は多い。




 次に、右側の標識群。

 右は、「通行制限」。


    通 行 制 限

    この道路は、
    4月25日~11月30日
      8時 ~ 18時
    上記以外は閉鎖になります

    大 田 原 警察署
    大田原土木事務所



 ちょっとひと言いいですか。

 この道って、一年の3分の2以上は封鎖されているんですね。
5ヶ月間の冬期閉鎖プラス、毎日14時間の夜間閉鎖…。
何のためにあるのー?この道って、かんじ。



 キター!!

 遂に、塩那道路がその本性を、予告 し始めた。

 そして、早速釘を打たれる我々二人。

 (歩行者も通行止めです)

 わざわざそう書いているあたり… 感じたくない本気を感じます。




1-3 エンナ ファースト・ゲート “EFG”

5:47

 脇目に見たプレイパークの駐車場もこの時間はがらがらで、人の姿は見られない。
まだ通行止め予告があるだけで実力阻止は無くとも、なんとなく負い目を感じながらの左カーブ。
 ここから、塩那道路を代表する景色の一つ、七重のヘアピンカーブが始まる。
道は、白線の消えかかった二車線に復帰する。
塩那道路オリジナルの「ブルーの距離ポスト」が出現。
現在地点は、1.5km地点だ。



 視界の利かない森の中、一つめのヘアピンカーブが現れた。
勾配は比較的緩やかで、汗をかくこともなくのんびりと走ることが出来る。

なお、塩那道路の名前は、我々オブローダーの他に、某“イニD”読者にも知れ渡っている事が、ゆーじ氏の証言により判明。
作中でどんな扱いを受けているのか私は知らないが、塩那道路で夜間のドライブは出来ないので、お気をつけて…。




5:55

 起点から2km地点。
遂に現れた、塩那道路第一の実力阻止。
夜間閉鎖および冬期閉鎖の時限ゲートである。
ゲートは無人で、ちょっと安心。
馬鹿げていると思うかも知れないが、私はゲートが有人になっている可能性すら危惧していた。

 当然、この時刻、ゲートは施錠され封鎖されている。



 「ここは塩那道路第一ゲートです」
とは、丁寧な自己紹介ありがとう。

 塩那道路で「火災発生は」とか「事件・事故は」とか、「その他の問い合わせ」などなど、色々なケースに応じた連絡先が事細かに記されている。
ちなみに、ドコモのケータイの電波は通じており、何かあったら電話しろと言うのは分からなくもないが、実際にこの看板が役に立つ場面って、謎。
事件や事故なら、まず110番じゃないの?

 



 まだ、こんなゲートは序の口というか、たとえ突破したとしても、まあ、バレることもないだろう。
だから、たいして気が咎めることもなく、また緊張もなく、突破する。

もっとも、意外にゲートは脇もしっかりしており、造りは甘くない。
この段階で、おそらくバイクは不可能だろう。



 山側の脇にもご覧の柵があり、チャリを持ち上げて通り抜けるしかない。
谷側にも、路肩の斜面に1m近く張り出した柵があり、こっちも突破は担ぎ。
どちらを通っても、担ぎは必至だ。

 ちなみに、同じ様なことをする輩はいるようで、写真のとおり山側の柵には、擦ったような傷が無数に付いていた。




 今、塩那道路の一つめのゲートを、突破。

業をまた一つ重ねた我々が、

いよいよ本性を剥き出す塩那道路に立ち向かう。
https://yamaiga.com/road/enna/main1.html


七重連九十九折
https://yamaiga.com/road/enna/main2.html

2-1 十日沢~小曲り

5:57

 塩那道路に塩原温泉側から入ると、一番初めに現れるゲートは、約2kmの地点にある。
このゲートは、冬期間の閉鎖および、夜間(18時~8時)の閉鎖を行う無人ゲートだ。
我々は、午前6時という早い時間にここへ到達し、人の気配のない未だ夜間閉鎖中のゲートを潜り抜けた。

 海抜700mに位置するこのゲートから先、海抜1100mの土平(どだいら)までは、7つの巨大なヘアピンカーブを主とする、極めて規模の大きな九十九折りとなっている。
ゲートは、下から数えて一つめのヘアピンカーブの直後にあり、この写真のカーブはゲート後の最初のヘアピンだ。




 ヘアピンで向きを変えてすぐに、ガードレールには右の写真のような距離標が取り付けられていた。
見ての通り、起点から3kmを示している。
これと同じ物は、土平付近まで1kmごとに設置されていた。
山間部にもかかわらず、細かい番地の付いた地名がある事に意外性を感じた。




 写真を見て欲しい。
ガードレールの奥に見える白い部分が、何であるか分かるだろうか。

いま登ってきたばかりの、この道自体である。

塩那道路の他の道路とは一線を画する象徴的な姿の一つが、この九十九折りのダイナミズムである。
一段一段の高度差が、ただ事ではないのだ。
九十九折りを構成する一つ一つのヘアピンカーブの間隔が、広いところでは1kmを越えている。
そして、下の段との高度差は50mを越える。
僅か7つのヘアピンカーブで400mの高度差を埋めるというのは、こういう事なのだ。

 私自身、この写真の眺めには少なからず驚いたが、実はこれなど序の序だった。


 まだ3つめのヘアピンカーブの手前だが、すでに地上からはこれだけの高度を得た。
足元に見える駐車場やテニスコートは麓の「箱の石プレイパーク」の一部、川を挟んだ対岸の緑に点々と存在するのは塩原の街並み、そして、向かいに聳える裾野を大きく広げた麗峰は、高原山(1795m)である。




 道中の所々には、こんな案内も設置されていた。

「この道路は午後6時に閉まります」

 ゲート内に夜間の取り残しが起こらないようにとの配慮だろうが、実際に6時を過ぎればゲートは閉じられ、14時間もの間麓には下りられなくなるわけで、塩那道路にお越しの際はお気をつけて。



6:15

 4kmポストを過ぎると、やっと3番目のヘアピンカーブが現れ、進路は180°切り替わる。
すでにここの標高は850mに達しており、ゲートからは150mもの高度を登ったことになる。
私は思わず、ゆーじ氏に言った。

「これが、“塩那スケール”というものなのか」と。




 これだけ登っているのに、まだまだ全然上は見えてこない。
見えるのは、一つ上の段が森に敷いた等高線のような影のみ。

 この道、凄まじい高度差を詰めようとしているのに、勾配は比較的緩やかである。
ドライバーに対しては最大限紳士的な方法をもって、一つの山の南向き斜面の全てを蹂躙破壊し、その上に登ろうとする態度。
これぞ、観光開発バブルの遺した、今日ではもはや考えられぬ道だ。



 法面には、所々用途不明の階段が設置されている。

 塩那道路というプロジェクト自体が、無駄なものだったのではないか。
計画から40年を経過してもなお未完成の道を前に、その問の答えは明らかだろう。
しかし、敢えてそのことを殊更に責めたり、あるいは自省するるような論調は、少なくとも、建設や管理を一任されている栃木県サイドには見られないし、県民の間でも、特に大きな問題意識があるようには、私のネット上におけるリサーチの範囲内では感じられなかった。
数百億円を投じてここまで整備され、現在も年間4000万円に近い維持管理費が計上され続けているにもかかわらずだ。




 だが、当時の為政者や建設を推進した有力者達だけを責めるのは、余りにも酷だという気もする。
昭和30年~40年代、関東地方という未曾有の巨大資本は、この地域の隅々まで観光開発という鉈で掘り起こそうとした。
山は切り開かれ、川は埋め立てられた。
口にはしなくとも、栃木の人々は、少なからず被害者意識を持っているのではないか。
これは、栃木県が先見の明を欠いていたということだけでは、済ませられない道だと思う。

 山々の遙か稜線(=スカイライン)を、快適なマイカーでドライブしたいという欲求を一番持っていたのは、都会に住む、人たちだったのだから。



 4つ目のヘアピンカーブが近づいてきた。
背後を見上げると、さらに上の段が見えている。
一面の緑だが山肌自体の傾斜は鋭く、万一この斜面で大規模な土砂災害が発生すれば、一挙に塩那道路の各所が寸断される危険性がある。



 5kmポストあり。
そして、遂に見えてきた4つめのヘアピンカーブ。
遠目に見ても、かなりアールの小さい、鋭いカーブであることが見て取れる。




2-2 小曲り~大曲り

6:42
←地図を表示する。

 ここは、「小曲り」という。

そしてここには、塩那道路のオリジナル標識である、ご覧の標識が立っている。
この先、各所にこの標識は設置されているが、現在残っているものとしてはもっとも塩原側にあるのが、ここの小曲りの標識だ。

 標識の中の地図を見て欲しい。
すでに海抜900mにも至らんとしているにもかかわらず、そこに記された「現在地」の文字は、あまりにも入口に近すぎる。
私が、自ら口にした“塩那スケール”という言葉を、本当の意味で実感したのは、この標識を見た瞬間だった。

 さらに…なぜかテープで覆い隠された部分には、こんな文字が隠されていることが、凹凸で明らかだった。
それは、あまりに衝撃的な数字であった。

塩原側より  4.4km
板室側より 46.4km
…未来46kmあまり、一切補給地なし。

かつて無い 異常な道の、出現だった…。


 そして、これがわざわざ「小曲り」という名前が与えられた特別なカーブ。
4つめのヘアピンカーブである。
ここに来て、やっと土平までの登りの半分をこなしたことになる。

 現在時刻は6時42分。
あと1時間20分で下のゲートが開く。
その際には、朝一の点検で管理車輌が登ってくる公算が高い。
それまでに、土平の本封鎖ゲートを越えてしまいたい。

 我々の目論見は、時間との勝負でもあった。
そもそも、午前8時に下のゲートの解錠と共に塩那道路に入ったとしたら、日のある内に板室へ抜けられぬ可能性さえある。



 何者かが、このカーブの縁に座って、下界を見下ろしつつここでコンビニ弁当を広げたのだろうか。
そのゴミが、そっくりそのままに、下界を見下ろすように散乱していた。
こういう輩がいるから、道路は嫌われるのだ。
妖怪達に…。

 すまん、鬼太郎の見過ぎだな。




 小曲りとは言っても、いやはや、全然小さくない。
スケールの大きな曲がりではないか。
先ほど見た塩那オリジナル標識(以後:「塩那標識」と略)によれば、この次のヘアピンカーブにも名前があり、「大曲り」と記されていた。
果たして、どんなカーブが現れるのか、楽しみである。

 


 小曲りを振り返る。

 走り屋が見たら、その腕が鳴りそうだ。
あるいは、正気の沙汰では攻めたりはしないだろうか…。
ともかく、アスファルト上には全くタイヤ痕は見られない。
日中から攻めるような無謀運転は、さすがに無いということか。

 ちなみに前回、コミック「頭文字D」に塩那道路が登場するという話をしたが、調べてみると、確かにその12巻に登場しているようだ。
また、未確認だがPS2版ゲームソフトにも、このコースが収録されている模様。
塩那を命懸けでなく走りたい御方は、どうぞ…。



 ウワー!  ウワー!  うわー!!

 恐るべし!
 塩那スケール!!


 時刻は7時に近づいたが、厚い雲が垂れ込めており山は薄暗い。
気温も10月上旬にしては低く、風もあるので、雨合羽で防寒対策をしていたが、それでも立ち止まっていると手足の末端から寒さが身に沁みてくる。
とはいえ、チャリを漕いでこの長大な上り坂に挑戦している限りは、寒さに苦しむ心配はない。
むしろ、暑くて上下の合羽を脱いで登った。

 昨年、殆どMTBの経験の薄いご友人一人と共にここを登っている相棒ゆーじ氏だが、そのご友人のしんどさはある程度予想できる。
まして、夏の暑い盛りだったと言うから、灼熱アスファルトに蒸し焼きにされたことだろう。
そう言う意味では、肌寒いくらいの気温や、太陽の遮られた、こんな曇天が、最も攻略には適していたのかも知れない。





2-3 大曲り~小次郎岩~土平

6:55
←地図を表示する。


 海抜950m、起点から6.5km地点にあるのが、通算五つ目のヘアピンカーブ。
「大曲り」の名前が付けられている。
しかし、ここには塩那標識はなく、ちいさな地名標識が立っているだけだ。
また、ガードレールの外側には、さらにもう一列のガードレールが残っている。
かなりさび付いており、塩那道路として最初に設置された頃のものか。




 なんとも、美しい連続曲線。
小曲りが、鋭いカーブだったのに対し、この大曲りは、名前の通り、大きなアールでカーブを描いている。

 大型車は通行止めとはいえ、ここまで殆どの区間が2車線の、これ以上ない立派な道だった。
塩那道路については、昭和57年に建設休止が決定されているが、その際に全長50.8kmのうち、塩原から7.0kmの土平園地まで、板室からは8.7kmまでの深山園地までの区間をそれぞれ整備し、残りの中間部36.0kmの建設を凍結する事が決定されている。
以後、この決定に従って整備が続けられてきたのだ。

 つまり、起点から土平園地までのいま走っているこの区間は、一度塩那道路として建設されたのちに、さらに県道として再整備を受けたことになる。
立派すぎる道の正体は、その辺りにありそうだ。




 ここまで登ってくると、いよいよ山腹の面積が狭まり、九十九折りのスパンも短くなってくる。
周囲の植生にも微妙な変化が見られ、いよいよ1000m近い標高になっていることを感じさせた。
ただし、北東北の場合は大体標高1000mを境に、植生が温帯から亜寒帯に変化するが、北関東のこの山では、その境は1500m付近にあるという。
そのせいもあって、まだそれほど高い場所に来ているという実感は薄い。

 写真前方の岩場の辺りには、「小次郎岩」と言う名前が付けられているが、由来は不明である。




 道端に、「十日沢2号」と同1号のこんな写真の標識が立っているが、何が一号二号なのかは分からない。
橋があるでも、暗渠があるわけでもない。

また、傍らには「立入禁止」の標題で「立木伐採をした場合は規則により処罰する」と警告文が書かれているが、斜面内にはめぼしい立木は存在せず、低木が急斜面に張り付くように生えているばかりである。
また、警告者の名前として「塩那森林管理組合」と書かれており、いろんなところに「塩那」があるものだと、感心した。



 続いて、6番目のヘアピンカーブ。
緩やかで大きなカーブだ。
しかしここにも、タイヤ痕などは全く見られず、通行車は皆、慎重かつ安全な運転を心がけているようだ。
有名コミックで紹介されていることから、どんなに凄い走り屋天国になっているかと思ったが、やはり夜間通行止めの効果は絶大だったのか。


 8km地点を前に、九十九折りはラストスパートとなる。
これが、九十九折りとしては最後のカーブ、7番目のカーブ直前の様子。
法面が、そのまま上の段の路肩となっており、上にはガードレールが設置されている。
もはやこれが、道路として限界の“圧縮度”と言えるだろう。

 ここは勾配も厳しさを増しており、眼前の景色にはまさしく、空に突き刺さっていくかのような錯覚を覚える。


 キテルー!

 7番目のヘアピンカーブ。
海抜はすでに1000mの大台に乗り、1050mに達している。
塩那道路オリジナルかは分からないが、いままで他の道では見たことのない、六角形のブロックが、ここにも利用されている。
しかも新しい。
新しいのもそのはずで、先に述べた塩那道路の整備計画に乗っ取り、塩原側7kmの整備が完成したのは、平成13年のことと、かなり最近である。
 道路構造物による地平の占有率が100%に近いこのカーブの景色は、「小曲り」と共に私の印象に残るものであった。
そして、ここに来て初めて、最初に塩那道路が越えていく稜線が、間近に見えた。
写真奥に写る、高圧鉄塔の建った稜線が、それだ。



 これが
塩那道路だ!

そう、声を大にして言いたい景色。

3次元的なミラクルカーブで、山の険しい地形を物ともせず、その天辺を目指そうとしている。
観光バスが連なって走る景色を夢見ながら作った道だろうに、こんな素晴らしい道も、終わりは近づいている。

写真に写るヘアピンカーブは、先ほど越えてきたばかりの6番目のそれだ。




 8km地点。
九十九折りを全て攻略し、あとは稜線に開いた鞍部を目指すのみ。
残りは、僅かだ。
どうやら、午前8時と言う目標タイムは、軽くクリアできそうだ。

 ここまで総じて道の景色は派手だが、路面や勾配と言った直接疲れに影響する部分ではかなり穏やかに作られており、チャリで走る分にも問題はない。
10kmの連続登攀となる故、それなりの覚悟は必要だが、時間配分と水分補給さえ誤らねば、だれでも塩那道路の「走ってもいい部分」を楽しむことは出来るだろう。



 ついに稜線と正対。
鞍部も間近で、勾配も緩くなる。
東京電力の巨大な鉄塔が、稜線を我が物顔で跨いでいる。
現在の塩那道路の数少ない存在意義の一つが、この鉄塔の管理道としてのそれだ。




 道が久々に1車線となる。
そして、塩原側の道はもはや二度と2車線に戻ることはない。
勾配はここに来てほぼ平坦となり、来るべき、土平のゲートを待つだけの展開となった。

 まだ下のゲートが開く時間ではないので、当分は管理者が現れることもないと思うが、次第にどきどきしてきた。
それは、正直言って、期待などではなく、不安だった。
私は、丸一日かけて秋田からこの塩那を目指し旅してきた。
そして、1年以上も待ち望んだ、このたった一日だけの決行日。
呆気ない幕切れだけは、勘弁して欲しかった。
例えば、ゲートが有人で監視されていたり…、工事中でやはり通れなかったり…、そんな結末だけはゴメンだった。

 こういう言い方は、まったくもって模範的ではないのだが、
「とにかく何が何でも通り抜けをしたい!」 そう願うばかりだった。
そのための最大の障害である、通行止めの処置に関するあらゆる物は、敵としか思えなかった。

 すまん、 不謹慎だよな。



ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



2-4 土平園地

7:19
←地図を表示する。


 よっしゃ!

 遂に、土平という鞍部に到達。
ここで塩原町から、塩那道路の最も長い距離を有する黒磯市に、バトンタッチ。

しかし、わたしはイヤーなものを見てしまった。
車がいるではないか。
夜間閉鎖で締め出された車なのか…?
辺りに人の気配はないが、車の中までは分からない。
まさか、まさか管理人?
我々は、気づかれないように声を潜め、周囲を観察した。
結果的には、違かったようだが、ではやはり締め出されてしまったのか?!


 土平と書かれていただろう塩那標識からは、地図以外がなぜか抹消されている。
理由は分からないが、我々オブローダーへの対策の一環かも知れない。
私などは、やはり「板室まで何キロ」とか書かれているのを見ると、より一層そこまで行って見たくなるからな。



 キタキタキタ…
ついに見えきたるは、通年通行止めの塩那道路本ゲート。

100m手前の予告にも、「歩行者も通行止めです」と、念押しが。





 ゲート直前には、土平園地という森林公園がある。
海抜1200m近い一帯の豊富な自然環境を直に体験できることがウリであるようなことが案内板には書かれていたが、無人の森林公園には遊歩道以外の施設は何もなく(電気も来てないので自販機などもない)、この公園自体が、行き先の無くなった塩那道路に後付された目的地なのだ。
わざわざガソリンを消費して10kmも山道を登ってきても、午後6時には閉じこめられてしまうような、何もない公園に需要がどの程度あるだろう。
昭和57年の整備計画において、塩原側の車止めに付随する車輌転回施設として駐車スペースの建設が決定され、この時に初めて、ここに園地を設ける事が決定されたのだ。
これと同じ目的で、板室側にも深山園地の建設が予定され、現在も工事が進められているが、完成のめどは立っていない…。

 


7:22

 土平の駐車場から200mほど進むと、そこに塩那道路の全面通行止めゲートがある。
以前は、単純に封鎖されていただけだったそうだが、最近ではゲートの両脇にも柵が延長され、俗に言う「脇が甘いよ」という状態を完全に脱している。
現状を簡単に言うと、

 「頭上が甘いよ」

と言ったところ。
あ、べつに閉鎖を強化せよって言っているわけでも、煽っているわけでもないからね。
現状でも、封鎖ゲートとしては稀に見る、強固さではある。
ちなみに、心配していたような監視員の常駐するような小屋は見当たらず、無人は無人のようだ。
 山行ががこのゲートを突破する言い訳だが、山行ががレポすることによって、行ったつもりになった読者がいれば、それだけ潜在的なゲート突破因子が減ることはあるのではないだろうか? (← いい訳苦しすぎるし…)

 しつこいようだが、ここにも念を押すように標識在り。
「入ってはいけません(歩行者も入れません)」 …分かったって、もう。




 何ですか?

その、
塩那道路対策工事 っつーのは。

 なんだか、人間が自分たちのために作った道なのに、「対策」されているなんて、涙なしでは語れない気が…。
あんまりだろ、この工事名は。
道路自体が、対策されちゃっているわけで。

 で、この工事の内容はと言うと、これがあの塩那にまつわる噂としては余りにも有名で、実際に噂ではなく事実でもあるところの、
「塩那道路廃道化工事」というものである。



 ゲートの山側には、これだけ張り出したエラがある。
谷側も同様である。

 で、その廃道化工事であるが、簡単に言えば、その名の通り、塩那道路の中間部分36kmは、人工的に廃道にしましょうというものだ。

身も蓋もない結末である。

で、平成15年にその方針が決定され、現在はすでに、その工事が徐々に始められていると聞いていた。
平成16年の夏は、ゆーじ氏が通り抜けているわけだが、この一年で具体的にどの程度廃道化が進んでいるのかは、不明であった。
私が、塩那道路の探索計画を殊更急いでいた理由が、この廃道化計画にあったことは言うまでもない。



2-5 塩原最終封鎖線

 なお、ゲートを越えてみたいという気持ちは、私ほどではないにせよ多くの人たちが持っていたようで、ゲートを少し過ぎた先の山側には、写真のような小道が発生していた。
勘の良い方なら気づいたかも知れないが、この小道の上は、先ほどゲートで前で分かれた土平園地の遊歩道に通じている。
ただし、このルートもすでに当局によって封鎖されてしまっている。
それでも、歩きで塩那に侵入するのは容易いが、このさき40kmを越える道のりを歩き通すことは、日帰りでは困難だ。
やはり、チャリが最低限必要だ。



 塩那道路を描いてある道路地図は多いが、大概県道の色で塗られているのは、この場所まで。
ガードレールには、ここまでずっと1km毎にあったキロポストのラストとして、一回り小さな「8.5」の表示があった。
これで、塩那道路の塩原側整備区間は終了となる。
この先は、昭和46年までに完成した自衛隊開削のパイロット道路が基礎となっており、一部分は昭和50年の建設休止までの4年間に整備されている。
いずれにしても、開通から30年以上も現状維持だけの整備をされてきた区間である。
塩那道路の生まれた当時の姿を伝える、ここから36km(!)が、超ロングダートである…。



7:26

 起点から9km地点、塩那道路塩原側最終ゲートの出現だ。
この数年間は、一般には一切開放されなかったゲートである。
逆に言えば、ここを越えてさえしまえば、あとはマンツーマンの隠れん坊となる。
工事関係者に見つからず36km突破できれば我々の勝ち。
途中で発見されて追い返されれば敗北。
罠として、監視カメラもある。
また、折角突破できたとしても、こうして誰かみたいにWEBでその所行を公開してしまうのは、逆転満塁ホームラン。

 ごめんなさい。
どうしても、どうしてもこの道だけは走りたかったんです。




 ここからはじまる、新しい距離ポスト。
この余りにも粗雑な木製の標柱が、この後数十キロも続くことになるのだ…。
いまの表示は、8km。




 いわば、最後通告。

通 行 止

これより40KM先道路崩壊の
ため、道路補修工事を行っており
ます。全車両(オートバイも含む)の
通行が出来ませんので皆様の深い
ご理解、ご協力の程お願い申し
上げます。


 「40Km先」ってアンタ…。




 最終防衛線だけあって、封鎖の度合いはいままでで一番厳重である。
山側谷側とも、ご覧のように長い柵が延長されており、担げないような物は乗り越せない。

 バイクを分解して越えることは、出来るかも知れないが、オススメできない。
なぜなら、我々はこの先で何度となく、工事現場に遭遇するからだ。
オブローダーにとっては残念ながら、塩那道路は、万年工事中なのだ。
例外は一つ、我々が探索している曜日に注目である。

 
ゲートを乗り越しレポをしている私が言っても説得力がないですが、この先は自己責任と言う言葉では片付かない、犯罪行為(道路法・道路交通法違反)です。
法の裁きを受ける可能性もあります。
くれぐれも、突破される場合は覚悟の上で望んでください。
身勝手なお願いですが、万一あなたがこの道に関して警察等の指導を受けた場合も、「山行がのレポを見て来た」などと言うことの無いよう、どうかどうかお願いします。





 このゲート自体はかなり古い物らしく、おそらく塩原側にある三つのゲートの内一番古いだろう。
工事期間外は、周囲に寄せられている巨大なコンクリートブロックでさらに強固な封鎖が行われる模様。
警察署からの警告文も、半ば朽ちているが、存在する。

 最終ゲートを、午前7時30分、速やかに通過。
https://yamaiga.com/road/enna/main2.html



熾烈! 塩那街道!!
https://yamaiga.com/road/enna/main3.html

3-1 土平 ~ 水車小屋

 塩那道路に塩原側より進入した我々は、延々と続く9kmの九十九折りに耐え、海抜1100mの土平に到達。
土平には、重厚な通行止めゲートが2基設置されており、関係者以外の全ての交通を遮断している。
通行止めの警告文には、繰り返し繰り返し「歩行者も進入禁止」と書かれており、ただ事ではないムードである。

 しかし、我々はどうしても塩那道路の、まだ見ぬ奥地を見たかった。
その様子が殆ど明かされたことのない、塩那道路の中心部を、何としても走りたかったのだ。

 覚悟を決め、我々はゲートを突破。
遂に、入ってはならぬ道へと、足を踏み入れたのである。
このとき、塩那道路走行開始から2時間が経過していた。




7:33

 ゲートの先に広がっていたのは、道幅の三分の一ほどを夏草に隠されはしているが、十分な広さを持った道だった。
路面はダートだが、そこに轍の凹みはまるっきり無く、代わりに、鮮明なキャタピラの足跡が。
塩那道路を通っている車が、相当に少ないことは、この時点で明らかだった。
法面には、どこまでも続くと思われるような、長い長いコンクリブロックの壁。
妖怪屋敷のように絡み付いたツタが、みなまちまちの色で彩っていた。

 我々には、不安な気持ちが常に付きまとっていた。
いつ、管理車両が通りかかり、我々のこの違反行為を咎めるか分からない。
いまの私にとっては、引き返せなどと言われるのは、大袈裟でなく、しねと言われているくらいに、心苦しいに違いなかった。
そのことが予想できたから、なおさら、聞こえもしない車の音にビクつき、オドオドしながら、走ったのだった。
そして、その心の弱さを隠そうとするかのように、私はペラペラとゆーじ氏に話しかけた。
去年の様子などよく分からないくせに、「最近は管理者が入っている様子もないなー」なんて、根拠のない戯れ言を口にしたりして、少しでも、安心を得ようとした。




 この写真を撮ったときの私をはたから見ればおそらく、顔は青ざめ、胸はバクバクと動悸し、いまにもその臓物を吐きださんとするような、苦悶に満ちた表情だったに違いない。

 私は、たまたま、ゆーじ氏の30mほど前を走っていた。
振り返れば、そこにゆーじ氏がいると思える距離だった。
そして、聞こえてきたのだ。
一番、恐れていた、音が。
車の、接近してくる、音だった。

 あんなに胸が締め付けられるように苦しい数秒間は、今までそうはなかった。
永遠にも思える苦しい刻が、私の背後から徐々に大きくなって迫ってくる車のエンジン音と共に、私の鼓動を揺さぶった。
音は、一度背後で止まった。
私は思った。
ゆーじ氏が、捕まった。
いま、誰何を受けているに違いない。

 そして、周囲の草むらに隠れるとか、自分だけでも助かる道を模索する暇もなく、再び鳴りだしたエンジン音が、今度こそ、私を捕らえようとしていた。
私は、それでもなお振り返ることなく漕ぎ続けていたが、遂にすぐ後ろに車が迫ったのを感じ、せめて最後に残念無念の瞬間を撮影してやるとばかりに、迫り来る車にシャッターを切ったのが、右上の写真である。


  ブロロロロロ…

 驚いた。
背後に迫った軽トラは、やや速度を落としただけで、そのまま私の横を素通りし、次のカーブに消えていったのだ。

 激しい脱力感におそわれると同時に、顔にはニヤケが張り付いて離れなくなった。

塩那道路なんて … アハ アハ  アハハハハ。
別に、心配するほどヤバく無いんじゃないか。
アハハハハ、普通に軽トラが走っていったよ。

 アハ アハハハ…。



 緊張のあまり、この辺りはよく道のことを覚えていない…。

だが、写真を見る限りは、別に変わったところのない、緩いアップダウンの連続する道だったようだ。
地図上では、ゲートを過ぎると一度は上り坂で1150mほどの高さまで登り、そこから今度は下りに転じるようになっている。
この写真の広場が、その頂上の辺りだ。
路肩には、「五工区」とだけ書かれた小さな標識が立っていたが、塩那道路の工区境界だったのだろうか。

 それにしても
2:777 :

2022/08/11 (Thu) 21:58:29

路肩には、「五工区」とだけ書かれた小さな標識が立っていたが、塩那道路の工区境界だったのだろうか。

 それにしてもさっきの車だ。
緊張が少し解れるにつれ、謎が大きくなってきた。
厳重に施錠されていたゲートが3箇所もあったのに、車でどうやって入ってきたのか。
鍵を持っているとしたら、それは管理者ではないのか?
しかし、もし管理者だとしたら、我々を見逃すだろうか?
さきほどは、挨拶程度の言葉を交わしたというゆーじ氏も、その答えは持っていなかった。



7:48

 そして、塩那道路に入ってから初めて、長めの下り坂がそこから始まった。
距離にして約2km、標高1150mから1050mに緩やかに下る、下り坂。
そして、その始まりで我々を待っていた景色は、


 塩那道路の、真の幕開けを告げる、途方もない景色だった。

 ここは、一体どこなのか?
目の前に広がる広大な山並み自体が、塩那道路だけに許された、巨大な巨大なキャンバスだった。
見える範囲に、何一つ人工的な物はない。
雲に煙る稜線も、かの上高地のような美しい川にも、細かな凹凸が無数に刻まれた一面の緑にも…。
ただひとつ、塩那道路の行く末が山肌に描く優美な曲線だけが、そこにある人工物だった。

 この景色には、本当に胸を打たれた。
この景色を見れただけでも来て良かった、と満足さえ感じた。




 カメラの望遠で見てみると、そこはまるでギニアか何処か、まさしく人跡未踏の世界のようにさえ見えるではないか。

地図で確認してみると、いま遠くに見えている山肌の道は、当地から5km前後も先のそれである。

道自体は見えねども、決して覆い隠せぬ、その傷跡。

塩那道路は、いま足元に現れたばかりの小蛇尾(こさび)川の源流部を、なんと延々8kmも“巻き”ながら、最大標高1800mへの地道かつ大胆なアプローチをはじめる。
これが、塩那スケールなのか…。



 森の中の道の景色からは想像も付かないが、実はこの辺りはしばし稜線と並行して走っている。
塩原町と黒磯市の境界線ギリギリを、頻繁に蛇行しつつ道は通っている。
 しかし、下りの速いペースではあっという間に、その“底”が近づく。
最後に、思い出したかのような急傾斜の九十九折りを2・3こなすと、そこはもう、「水車小屋」の塩那標識が立つ、小蛇尾川に最も近づく地点だ。





3-2 水車小屋 ~ アンドン沢

7:58
←地図を表示する。


 海抜1050mと、土平から少しだけ低い「水車小屋」広場。
ここが、塩那道中塩原側では唯一の“底”になっている。

 水車小屋とは名ばかりで、人工物と言えば標識一本があるだけというここを過ぎると、塩那道路は未来12km標高差750m強の、峠まで続く弛まざる登りを開始する。
起点から12kmポストが設置されたこの場所こそ、塩原側登りにおける、距離的・標高的両方の中間地点である。
2時間半殆ど登り続けて、やっと登りの半分か…。
セーブしつつ登っているので、体力的な消耗はまだまだ少ないが、この長さは魔物だ。

 現在時刻は、ちょうど8時。
いまごろ、入口のゲートの夜間閉鎖が解除された筈だ。
もう30分もすれば、工事関係車輌や管理車両などが、この辺りまでなだれ込んでくる可能性もある。
少しでも先へ進んでしまえば、もし見つかっても、情状酌量の余地が生まれる可能性がある。
そんな甘い考えを、我々は持っていた。



 カーブを曲がると、先には車の姿。
一瞬ギョッとさせられたが、よく見ると、前に我々を追い越していった軽トラで間違いない。
荷台には、山菜採りに使う籐籠が乗せられており、主の姿は車中にない。
周囲を見回すと、道から沢の方へ少し入った雑木林の中に、オヤジの姿を発見。
我々を咎める意図がないことは承知していたので、安心して声を掛けてみた。
なぜ、彼はここまで車で来れたのか?

 話によれば、仕事として山には入る人は、鍵を皆持っているとのことのようだ。
彼も地元の住民の一人で、旅館を経営していると言っていたと思う。
そして、山菜採りも仕事として行っているものだと。

 なるほど。
これで、かなり合法的に塩那を走る方法が判明したではないか。
その方法とは、ずばり。


 地元に住み、地元で山に関する仕事をすること。


 どうだ。




 オヤジはとても親切で、我々にどこまで行くかと問うてきたので、板室まで抜けたいと言うと、道は通じているから抜けられると思うが、つい数日前にも近くの山で熊に襲われた人がいるから、注意しろよと、そんな助言までくれた。
我々は、礼をすると彼の車を追い越し、再び分かれた。

 もっとも小蛇尾川に近づいているとはいえ、それでも川面が間近に見えるほどではなく、谷側の木々の向こうにときおり水面が見えたか見えないかという、その程度の距離はある。
そして、その距離さえ、進むほどに離れ、特に高度差はハッキリとしてくる。
間もなく源流で行き止まる小蛇尾川と違い、塩那道路はこの谷をスイングバイして、さらにさらに上、いま見えている全ての山の天辺の高さを目指さねばならぬのだ。

 この辺りには、ごく最近まで工事が続けられていたと思われる、写真のような補修箇所が数箇所見られる。
年4千万円近い「最低限の維持管理費」とされていたもので、このような工事が、開通するあてのない道で何十年も続けられてきたことになる。
そして平成15年頃にやっとその愚を行政も直視し、「塩那対策工事」と言う廃道化工事が、始められたばかりである。



 道は、二つの規格が入り交じるように交互に現れる。
塩那道路としての規格を有し、鋪装すればおおむね完成するだけの道と、
パイロット道路として建設されたままの、道幅も狭く、法面も素のままの道。

アンドン沢が近づくと、殆どがパイロット道路のままの、荒々しい道になってきた。



スポンサーリンク

ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



3-3 出現! 「天空魔城」

8:13
←地図を表示する。

 ここは、「アンドン沢」。

海抜1100m、起点より約14kmの地点だ。
小蛇尾川の支沢の一つで、極めて急峻なアンドン沢の基部を、巨大な暗渠で乗り越えていく。
この辺しばらくは、大したアップダウンもなく体力の温存が図れていた。


 アンドン沢を過ぎると、勾配は少し厳しくなり、源流に近づいたせいか周囲の景色も明るくなる。
そして、前方をそびえ立つ山並みがぐるりと取り囲み、このてっぺんを越えていかねばならないのだと思うと、軽く目眩を感じた。

 だが、そんな目眩など、次に現れた景色の前では、ぬるいものだった。
もはや、一切言い逃れの出来ぬ景色が、そこにはあったのだ!



 あの上まで登るんですか…。
 地図で調べてみると、空中に見えた「崖を横切る道」までの直線距離は、わずか1300mである。
しかし、塩那道路を辿って行って、あの場所に立てるのは、なんと7500mも先だ。
しかも、あの辺りまで行けば、その標高は1500mに達しており、これはもはや、山行ががかつて経験したことのない高々度である。

 何食わぬ顔で、あんな所まで登ってしまう塩那道路…、 お、おそるべし。




 アワワワワ…

 またも、心臓が口からにゅるっと出かけたが、すんでの所で絶命は回避。
しかし、心臓に悪い景色だ。
土曜日だったことが幸いして(←もちろん計算ずくだが)、この現場は工事を休んでいた。

 この先でも、何度も「現場」に行き当たったので、平日ともなれば、本当に毎日何処かでは「塩那対策工事」が行われている模様。
これでは、ゲートを突破したとしても、通り抜けは出来ないだろう。
「塩那対策工事」対策は、やはり休日に限るな。




8:26

 瓦礫のうずたかく積まれた沢底を、道がそのまんま横断している。
橋や暗渠は存在せず、洗い越しと呼ばれる構造だ。
ここにはお馴染みの塩那標識はないが、右上の写真の朽ちかけた標識が、岩場に突き刺さるように立っていた。
そこには、掠れた赤ペンキで「熊の穴沢」の文字が。
おそらくは、現在多くある塩那標識は、比較的新しいものだと思う。平成に入ってからのものかと。
一方、この黄色い標識こそ、もともと設置されていたものではないだろうか。

 我々は、この洗い越しの水を汲み、ここまでに失ったペットボトル内の隙間に補充した。




 真新しいガードレールの向こうには、緑の壁が。
日留賀岳と長者岳とを結ぶ海抜1500m超の稜線で、塩那道路はあの斜面を二度、通ることになる。
一度目は、左から右に、そして2度目にはその真上の斜面を右から左に。
そこにあるのは、おそらくスパン長日本最長の九十九折りだ。
そのスパンの長さは9000mにも及び、高低差も500mに達しているのだから!

 そして、我々は見逃さなかった。
その、日本一の道が見せる、僅かだが確かな、痕跡を。


 はっ、橋だ!


 もはや、まともな道を望むべくもないと思っていた、塩那パイロット道路の中に、巨大な橋がある!

 果たして、あそこにはどんな景色が待っているのだろう。
私は、ゆーじ氏が期待したとおりのリアクションをしたに違いない。
この橋の出現には、胸が躍った!

 だがまだ、それだけではなかった!
塩那道路の、もっとも象徴的な景色が、出現寸前!!



 むわッ

 思わず開眼!

 くわッ

 思わず、sikkin!

 え? 分からなかった?


 あんな所に、道が!




 ヤバイよ、この見え方はヤバイ。
写真では今ひとつその圧迫感まで伝えきれないのがとてももどかしいのだが、小蛇尾川の最も奥まった辺りから、遙か頭上の日留賀岳付近を走る道が見えるのだ。
その標高差たるや500m。しかし水平距離では僅か600m。
これって、単純計算で斜度80%超。
え、そんなの有り得んの?!
だって、地図上ではそうだよ。 マジで。

 いずれにしても、その数字を信じたくなるような、圧倒的な高度感なのは確かである。
あそこまで行くには、なお9kmも登らねばならないのだ。
そして、あそこはもう、峠の傍。
海抜1700mという、山行が未踏の高さである。

 はっきり言おう。

塩那道路は、凄かった。



8:44
 小蛇尾川の源流を、再び洗い越しで越える。
そして、ここで道は進路を150°反転。
突如険しさを増した勾配(ここは塩那道路では珍しく、本当に厳しい上り勾配。15%クラス)で、一気に頭上の稜線を目指し始める。

 道から小蛇尾川の源頭を見上げる。
そこはもう、川や沢などと言う生ぬるいものではなく、谷川岳ばりの巨大な竣谷が。
この谷をたった500m登れば、9kmも道のりをショートカットできるわけだが…、絶対に死ぬだろうな。
おそろしい、谷だ。


 キターーー--!
https://yamaiga.com/road/enna/main3.html



空に届け! 塩那街道!
https://yamaiga.com/road/enna/main4.html

4-1  3号橋

8:51
←地図を表示する。


 塩那道路51kmにおける、ただ一つだけの橋。

それがこの、「3号橋」である。


意外であろう?
これだけ山中を長々と走っているのに、まともな橋がただ一つしかないなんて。
私も、厳密に設計書を見て「一つだけ」と断じているわけではないのだが、少なくとも、こうして欄干があって、一目見て橋だと分かるようなものは、この一つしかない。

 … 3号 と、 そう呼ばれる、この橋しか、ない。





 3号橋には、まず親柱が一つも存在しない。
また、銘板も一つもない。
だから、今現在、この橋の名を「3号橋」と呼ぶ根拠は、各地に設置された「塩那標識」による他はない。
また、わずか1年前にはここにも塩那標識が立っていたが、今回は幾ら探しても支柱すら見当たらなかった。
この一年で、撤去されたのか?

 ともかく、谷をU字型に跨ごうとする道の一部となっている本橋は、橋自体こそ直線なれど、両方の取り付け部分の路面が谷側に拡張され、全体では蛇行しているようなイメージを持たせる。
将来は、この上にセンターラインが敷かれ、2車線の観光道路の一部となった筈のものが、こうして前後の道がまともに完成しないまま、ここに取り残されているのだ。




 おそらく、塩那道路が廃止され、現在始まったばかりの「廃道化工事」が進められたとしても、この橋が撤去される可能性は低い。

 ここいらで、塩那道路の廃道化工事について、少し詳しく書いておこうと思う。
私などは、結構行き当たりばったりで探索しているので、一口で廃道化といっても、どんな工事をするというのか、分かっていなかった。
その分からなさが、「もしや今を逃したら、全線を辿るチャンスは二度と無いかも知れない」という不安を執拗に駆り立てたのだった。



 読者の皆様についても、もしチャンスがあれば行ってみたいと思うなら、塩那道路の廃道化工事の正体を知っていて損はないだろう。

(写真は、橋の上からいま来た小蛇尾川の谷を見晴らす。道のラインがかすかに見える。)

 昭和57年に正式に工事の休止が決定された時、作りかけの塩那道路をどうするかという議論がなされた。

そして、ある程度の利用が見込めるとして(折角作ったんだからという意図が働かなかったわけもないだろう)、塩原側から7km、板室側から9km弱を県道として続行整備し、その中間部分36kmについては、廃止するか、議論を先延ばしにするかという選択を迫られた。
結局、平成15年に廃止の方針が固まるまで、中間部分については完成していたパイロット道路の維持だけが行われてきたのは、これまでも述べたとおりだ。
なぜ、昭和57年当時に中間部分の廃止を決定しなかったかと言えば、最大の理由は、廃道化工事にかかる経費の問題だった。
当時の試算では、36kmをもとの緑の森に戻すのに75億円あまりの予算が必要だとされた。
これは、われわれ素人が最も廃道化工事としてイメージしやすい工法、すなわち、客土(余所から持ってきた土)を道路上に盛り、さらに植栽を行うという方法だ。(この方法で廃道化された道の例→(国道289号甲子道路工事用道路))
これが、大変な予算を要するだろう事は、容易に想像が付く。
数百億をかけてそこまで作った矢先に、また75億をかけ廃道化というのも、あんまりだと言えばあんまりだ。
同じく当時の試算で、全線を2車線で完全整備するのに必要な予算がもう200億円、1車線に規模縮小すると120億円だと言われていたのだから、その差は必ずしも大きくない。

 なお、このような建設と廃道を両天秤にかけた試算は、最近の議論の中でも改めて行われている。
平成14年頃の試算によれば、「客土+植栽」による完全な廃道化工事に要するのは133億円。
一方、当初計画を縮小し1車線の舗装路としての整備だと、やはり同じ133億円が掛かると試算されている。(プラス年間維持費は1.3億円と試算)
これだったら、建設しちゃって活用した方が良いという議論も生まれそうだが、結局廃道化が決定された。
その理由は、はい ↓
2005/12/13追記



 では、なぜ平成15年からの議論では、遂に廃道化が決定されたのか。
その答えは、当時試算に用いた工法ではなく、もっと低コストな廃道化工事が考案されたためだ。
その方法とは、「森の自然治癒力」にかなりの部分を任せる方法。
つまり、人が一切立ち入らなくなれば、あとは長い年月をかけ道は廃道化するだろうというのだ。
たしかに、それが事実であることは、われわれオブローダーなら痛いほど知っている。
どんな立派な道も、最後は激藪…森に帰っていくことを知っている。
まして、未舗装の塩那道路ならば、おそらく50年も完全に放置すれば、おそらく大半が森と区別が付かないようになるだろう。

 こうした考え方で試算された廃道化費用は、約20億円。
従来の現状維持ですら、年間3000万からの費用がかかっている事を踏まえれば、延々とそれを続けているわけにも行かないのだろう。
結局、自然の回復力に期待する廃道化工事が決定され、今始められたばかりである。



 さて、森の自然回復力に任せるといっても、まるっきり放任ではない。
それだったら、20億円の予算も必要ないだろう。
この予算の大部分が、放っておいては元に戻れないほどに破壊されてしまった自然を、人為的に復旧することに用いられるという。
そんな「自然が破壊された区間」というのも、「ここからここまでがそうだ」と、公開されている。
それはもっぱら、これから進もうとしている最高高度の稜線方面に集中している。
それ以外の部分では、所々に小規模な対策工事を要する部分がある程度だ。
この3号橋は、いずれの対策工事にも予定されていない。

 そして最も重要なことは、この時間をかけて行われる廃道化工事では、その経過を見守るために、引き続きパイロット道路を最低限度維持していく必要があると決められていることだ。
この予算も込みの、20億円という試算である。

 つまり、我々本意の穿った見方をすれば…
塩那道路はまだ暫く、存続する。

ただ…、あくまでも人の手を出来るだけ入れないことを目的とした事業になるので、本当に今までよりも厳しい入山規制が敷かれる可能性はあるが…。


 さてこの3号橋、その全容を見ることができる展望所がなかなか見つけられなかった。
木々も生えない崩壊地の瓦礫の山をよじ登り、なんとか全容を捉えたのは、折角来たんだからと言う私の意地だった。
この写真は、そうして撮影されたものだ。

 真っ直ぐに谷を跨ぐ「方杖ラーメン」3号橋の勇姿。
小蛇尾川源流が楓の葉っぱのように四方に広げた支谷の一つを、こうして跨いでいる。
前後には、やはり同じ様な谷を跨ぐ箇所があるものの、そこには橋が無く、斜面に沿って谷を迂回し暗渠や洗い越しで水流を跨いでいる。
建設されなかった1・2号橋は、おそらくそうした谷に架けられる予定だったのではあるまいか。
そのなかでも、一番険しく、迂回の困難だったこの谷だけに、パイロット道路としてではなく、本用の橋を設置したのだと考えられる。

 もし、無事に全線が開通していたなら…。
この橋は、絵葉書に登場しただろうか?
銘板の一つも、取り付けられただろうか?
もっと、粋な名前が与えられただろうか?
 



 私は、銘板すらないこの橋で、どうしても見つけたいものがあった。

そして、それを発見するために、橋の欄干と土台の隙間から、猫のように身を伸ばし乗り出すと、ヒューヒューと風に吹かれながら、一杯に伸ばした手の先に持ったカメラで、 それ を探した。

肉眼ではどうしても見れない場所だけに、何枚も写真を撮り、橋の右も左も、何度も何度も身を乗り出しては、手探り… いや、カメラ探りの捜索を行った。

そのなかでは、こんな失敗写真が沢山生産された。

おにぎりを頬張るゆーじ氏も、なんだかあきれ顔だった。





 やった! 遂に見つけたぞ!

名札無き橋の、隠されし名札。

橋の上からは決して見えない、鋼鉄の桁の側面に取り付けられた建造銘板だ。

そこには、いままで橋の上からでは決して知り得なかった、橋の諸元が明かされていた。

1971年3月
栃木県建造
建示(1964)一等橋
製作 川田工業株式会社
(以下略)

 橋は、昭和46年3月に完成したようだ。
これは、パイロット道路の開通した年。この年の10月に、初めて塩那道路が一本に繋がったのだった。
施工主は、栃木県。当初から県営の有料道路を想定していたのか。この道が県道に指定されるのは、翌昭和47年である。
「一等橋」というのは、昭和31年から平成5年まで使われていた橋の強度に関する規定によるもので、二等に比べてより頻繁な交通量に対応するように定められていた。
つまりは、この橋が「幹線道路並みの交通量を見込んでいた」ことの左証となる、貴重な表記である。
いまでは、工事車両がときおり通ったり、あとは冬の間常に大雪が大加重になっている程度か。
完全に、一等橋はオーバースペックだろう。




4-2  3号橋 ~ ヘリポート入口

9:09
 橋の袂で、自分たちの成し遂げた道程の長さと、塩那道路の主要な構造物である3号橋を得た感慨と一緒に、握り飯を頬張った我々は、午前9時をいささか回ってから、再度出発した。
塩那道路入口からは、すでに15kmほど入っている。
普通の道なら、いい加減終盤戦にさしかかっても良い頃だろう、標高も1200mを越えている。
だが、ことこの塩那道路に関しては、まだ中盤が始まったばかりだ。
なお登りは600mも高度差を有し、延長に至っては35kmも残っている。
やっと、三分の一かと言ったところ。

 写真は、橋を過ぎて間もなくの「上滝沢」付近。
平日は盛んに工事が行われているらしく、資材などが路傍に置き去りのままになっていた。

 


 キャタピラの跡だけが目立つ路面。
未舗装路になってから6kmほど走ったが、この路面状況には全く変化がない。
山側には、草むらでやや隔てられた場所に立派な六角コンクリートブロックの法面。
もうすでに、塩那道路では見飽きた景色となりつつあった。
六角コンクリートブロックも、新しいものもあれば古いものも見られる。
他の道路では見たとがないが、塩那用に必要があれば随時作っているのだろうか。

 おそらく、このようにコンクリートの法面がある場所は、パイロット道路が、将来予定された本用路と重なっている場所なのだろう。
逆に、荒々しい法面のままの場所は、本用路は別に切り開くとか、大規模な改修を予定していたのだろう。

 あまりに長い道中は、こうしてレポを書くためにモニタの前で写真を見ながら思い出し、考えることの大半を、すでに路上で経験させていた。




 複雑に凹凸を繰り返す山襞を、緩急を付けつつも一方的に登り続ける道。
その途中、なんてことはないような路肩に、弔いの跡があった。

 自然石の祭壇の周囲に、風雪で倒れてしまったらしい香炉や、お供え物の空き缶、タバコの吸い殻やらが散乱している。
綺麗に整えようかと咄嗟に思ったが、なにか、手を付けるのが申し訳ない気持ちになり、両手を合わせ軽く黙祷しただけで、すぐに立ち去った。

 塩那道路が、現在のように厳しく入山を制限されるようになった経緯には、通行止めを突破して通ったライダーが事故死した一件があると言われている。
この祭壇との関連性は不明だが、一気に気持ちが引き締まる気がした。



 相棒ゆーじ氏。
彼は、私より年上だが、普段からチャリで廃道を探索する活動をもっぱら千葉で続けており、なかなかに健脚である。
二度目の塩那という余裕もあっただろう。
ただ、塩那道路を出来るだけ疲れないで走りたいのならば、やはりチャリの変速の段数が重要だと感じた。
とにかく軽い段があった方がいい。
私は24段、彼の愛車は21段、昨年彼と同行したご友人は18段だったというから、この段数に逆比例して疲労したのではないかと思われる。
我々はこの塩那で、疲労でどうにもならなくなるような場面はなかったが、気温などの条件に恵まれていたことと、十二分に水分を持っていたこと、普段からチャリを使っていたことなど、最低限の条件はある。
ただ長いだけの道だと思って立ち入れば、本当に長い苦しみを味わうことになると思うので、注意していただきたい。


 ごく最近まで工事が行われていた感じの場所が、断続的に現れる。
いまにも、カーブを曲がった先には稼働中の重機が唸っていたり、現場があるのではないかと、どきどきしながら進んだ。
しかし、休日だったことが幸いしたのか、それらは杞憂に終わった。

 それにしても、ガードレールは本当に真新しく、落石の傷一つ無い。
これを本当に、廃道にしてしまうつもりなのかと訝しく思った。
また、路肩の段々になった施工は、「フトン籠」と呼ばれるもので、金属の網に砕石を詰めたものをブロック状に配置してある。
この施工では、長い年月を経て植生が復活すると言う。
塩那の廃道化工事の主たる施工のひとつが、このフトン籠で法面や路肩の裸地を覆うことにあるようだ。
一年前よりも、設置された数は増えてるようだ。



 特に塩那標識にも名前が無く、何という沢なのかは分からないが、二本の小蛇尾川の支沢を連続する暗渠で跨ぐ場所。
周囲は、荒々しい赤茶けた岩盤が点在しており、難工事であったことを感じさせる。
写真に写るゆーじ氏の体と比較しても、その規模の大きさが分かるだろう。
 また、この二本の沢は、いずれも連続した砂防ダムが、段々に連なっており、地形を大幅に変容させるに至っている。
林道工事で最も環境を破壊する場面は、山奥の砂防ダムにあると聞いたことがある。





画像にカーソルを合わせると変化します。

 しでー!!!!!

 あ、おもわず秋田弁が…。

すんごいなー。

ほんと、しでー所にきちまッたよ。

足元から、向かいの山肌までの広い谷間が小蛇尾川。
向かいの山肌を淡々と登る、1時間前に通った道が横断しており、その天辺のとんがりは、黒磯市と塩原町、それに藤原町とが接する、日留賀(ひるが)岳。
そして、一番の驚きは、小蛇尾の谷底から見上げて絶叫した稜線近くの道が、ここからもくっきりはっきりと眺められたこと。
いよいよ稜線に至ろうとする、海抜1700m超級の行く手の塩那道路が、見えるのだ。

 本当に、この山、地形全体が、塩那道路の巨大なキャンバスのようだった。




 主稜線上の「立岩」付近の拡大写真。

木も疎らな高所を、痛々しい傷跡を山肌に穿ちながら通っているのが見える。

この先、約5km先に自分自身があるべき場所だ。

しかし、本当にあんな場所まで登っていけるのか、漠然とした不安を感じさせさえする寒々とした景色である。

こりゃ、通行止めにもなるよな…。

自然が、泣いてるもん。


ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



4-3  ヘリポート入口 ~ 長者平

10:07
←地図を表示する。


 現地にこそ塩那標識は立っていないが、大体「ヘリポート入口」というのは、小蛇尾沢を延々と迂回しながら高度を稼いできた道が、進路を180°切り替えて、今度は目指すべき主稜線へと向き直る地点である。
起点からは、約20kmの地点だ。
その標高は、いつのまにやら1500mを越えており、これはもう、山行ががかつて体験した最高高度を大幅に更新している。
小蛇尾の谷底からは、ずうっと2kmで100mというペースをコンスタントに守りながら、その内訳には多少の緩急はあれども、道は上り一辺倒で続いていた。
平均勾配5%と言ったところだ。

 進路が変化したことは、景色を見ても明らかで、今までずっと道の傍らのどちらかにはあり続けた小蛇尾谷が視界から消えた。
代わりに、正面には小高い丘。
丘と言っても、道が比肩しうるほど高くなってしまっただけで、れっきとした長者岳(海抜1640m)山頂である。



  嗚呼 惜しい!

 もし、もしも。
今日が快晴だったなら、この“天空の窓”からは、どんな景色が見えたのだろう。

小蛇尾谷の開けたその向こうには確かに、見たこともない広大な平野が、日光を斑に反射しながら広がっていた。
その方向には、見渡す限り山は見えなかった。
あれが、あれこそが、20年近く帰っていない、かつて私の住んでいた地。
関東平野の姿なのだろう。
そこから来たゆーじ氏が隣にいる。
でも、私は遙か遙か背後の山また山の向こう、秋田に住んでいる。
後悔なんて無くて、秋田は大好きだが、感慨は深かった。
遂に、私もここまで来たんだと。
関東へ凱旋する(住むという意味ではなく)ことがあったら、その時は必ず、チャリで峠を越えてから関東平野に入りたい。

 話が脱線したな。
ともかく、秋田平野なんかとは比べものにならないような平野が、はっきりいって目では見えないんだけど、曇っているからね。
でも、気持ちの中では見えていた。
雲に、靄に覆われて、見えないが。 見えていた。



 そんなに私に見られたくないか!
関東地方よ!!

 私が、少しでも多くのものを見てやろうと、見えざる平野に目をこらしていると、まるで「駄目だ駄目だ」と言わんばかりに、厚い雲が下界からも上空からもこちらに押し寄せてきて、あっという間に視野を奪ってしまった。
嗚呼、もっと見せてよ関東平野。 (ヨッキ心の句)

 ところで、塩那道路から富士山は見えるのだろうか?
この地点と富士山を結ぶ直線上、ここから11kmほど富士山寄りには高原山という海抜1800m弱の山が聳えているが、そのやや西よりの「ハンターマウンテン塩原」にあるロープウェイの終点、「明神岳山頂駅」からは、物理的には見えるらしい。(そしてそれが、殆ど日本最北の富士山ビューポイントでもあるらしい)
実際には、そこから見えたという話は聞かないが…。
 で、この塩那道路からは見えるのか…?
どうなんでしょうねぇ?
見える可能性はあると思うけどねー。
少なくとも、富士山には高原山自体は被らないはず。
その富士山までは、約210kmと言ったところ。




10:22

 ヘリポート入口からさらに500mほど緩い登りを進むと、峠と言うほど峠らしくはないが、ちょっとしたピークになる。
ここで、いままでずっと右側にあった谷が、今度は両方になる。
つまりは、稜線に達したのだ。
塩那道路の最高所がある主稜線から分かれ、すぐ傍の長者岳に繋がる枝の稜線の上を、暫く走ることになる。
以後、この稜線を利用しながら、主稜線まで高低差200m、距離4km弱の道となる。
やっと、塩那道路の本当のピークが、感じの上では見えてきたと言ったところか。

 我々は、このちょっと広くなったピークでも、一休みした。
ここまで来れば、登りのピークは過ぎている。




 一瞬道は下るが、すぐに稜線に従い、またも登りが始まる。
長者岳直下にある「長者平」の塩那標識を目指して。

 いよいよ風は本当に冷たく、そして強い。
立ち止まっていると、すぐに手足が凍えてくる。
震えさえ走る。

 今年の紅葉は、例年より数週間も遅れていると、途中で何度も追い越し追い越されたあのオヤジさんが言っていた。
いつもの年なら、今頃が紅葉の見頃だと言うが…。

見たかったな~~。





 稜線の景色は幾らも続かず、やや稜線を西に下った斜面の急な部分を、岩肌を削りながら進む道となる。
この辺は、殆どコンクリの施工はなく、ガードレールも少ない。
道幅も林道に毛が生えた程度の4mほどで、非常に轍が薄いことを除けば、現役の林道のようだ。

 そして、驚きの景色がまたも我々の前に現れる。









 ゴウカイザー!

って、ネタが古すぎる上に、オタクっぽい?
いや、このネタ分かるアンタもオタクだし。
とりあえず、それはさておき、かなり豪快な道が刻まれている。
おそらくこれらは、だいぶ前に下界から見上げて、「うひょー」とか「むひょー」とか言っていた岩場の一つだろう。

 写真では、その大きさを明らかにするために、ゆーじ氏に立っていただいておりまする。
ゆーじさんちっちぇー!
…んではなく、崖がでかいのだ。




10:30

 うむ、近づいてみると、かなり熱い場所である。

秋田市内の「畑の沢林道」にとてもよく似た景色があるが、あっちは海抜400m、こちらは1500m。
規模が違う。

 当然のように、チャリを止め、下を伺ってみたくなる。
チャリをスタンドを立てて止めたちょうどその時、強い風が吹き、私のチャリの前輪を少し谷側に流した。
相当に冷や汗をかいた。
あのままチャリが転倒して谷に落ちていったら、泣いただろうな。


 いやー、ロープが張ってあって、本当に安全ですねぇ。
安全対策、ばっちりですね!



 

 またしても、
 sikkin!!!



 大きく見えているのは、日留賀岳。
そのピークの右の鞍部を、塩那道路は越えていく。
あそこに至って、やっと塩那道路は半分。
25km地点となる。

小さく、道も写っているが、見えるだろうか?

 これぞまさに、スカイラインと呼ぶに相応しい景色だと思う。
秋田県のどこぞの「茂谷スカイライン」とか、全国各地の名前ばかりのスカイライン達よ、

見たか!
 これが俺の実力だ!
 (意味不明)


 明らかに、パイロット道路ならではの状態になっているこの場所。
将来は、どんな道に改良する予定だったのだろう。
もし、ここに2車線の道を作るとしたら長い桟橋になるのか、もし山側を削るとしたら、その土工量は想像を絶するものになりそうだ。

 塩那道路。

おまえは一体何を考えていた?!

あの三島だって、こんな道は、“ときどき”しか作らないぞ。

 




 次々に現れる絶景に、心のネジがあちこち緩み始めていた。

 そんな無防備な状態のまま、

 我々は、遂に、


 塩那道路の真骨頂。


 天空街道へと、近づいていたのだった!
https://yamaiga.com/road/enna/main4.html




塩那 “天空” 街道
https://yamaiga.com/road/enna/main5.html

5-1  長者平 ~ 立岩

10:39
←地図を表示する。


 21.8km地点、長者平。
いよいよ、残りの距離も30kmを切った。
海抜は1500m。
主稜線から東に分かれて、長者岳(海抜1640m)を経て小佐飛(こさび)山に繋がる稜線上の小さな鞍部に位置する、狭いが平らな地形だ。
稜線上なので、路傍の笹の向こう側には、大蛇尾川(おおさびがわ)の深い谷が広がり、道路側には今までずっとその周囲を巡るように走ってきた小蛇尾川(こさびがわ)の谷が落ちている。

 この地点での撮影では、かならず手を合わせるのがしきたりとのことなので(ゆーじ氏ルール)、私もそれに倣った。
長者のイメージとのことだが??
これは、修験者では?




 10分ほど休憩し、緩い登りの稜線上に漕ぎ出す。
この先も、海抜1800mの頂点へ向けての登りが続いており、稜線には達したとはいえ、先は短くない。

 手の届く位置(右手)に稜線の痩せたスカイラインを見ながら、林道らしい塩那道路を少々進むと、まるで登山の示道標のようなビニルテープが道の上に覆い被さる枝に、括り付けられているのを、見た。
 それを見、何だろなと思いつつも、そのままチャリの速度をゆるめず、そのテープの揺らめく下を通過した私は、

撮られた~!
盗撮されたー!!



 噂には聞いていた、塩那道路の監視カメラは実在した!

 道から2mほど刈り払われ、その奥の立木の幹に括り付けられたカメラが、無人のまま道の様子をうかがっている。
そして、このカメラは道に動く物があると、自動的にシャッターが切られる。
いわゆる、センサーカメラだ。
確実に、撮られたという実感があった。
なぜなら、私がその前を通過したとき、フラッシュが点灯し、しかも、パシャっという独特の音が耳に届いたのだ。

 とられたYO!! 
 どーするYO!!

 後続のゆーじ氏にも、「そこにカメラあるぞ」と伝えはしたものの、前を通らねば先には進めず、彼も自らカメラの前に進み出てパシャリ。
二人とも、これでタイーホ間違いないしか?!



 帰宅後、ある読者からこんなニュースが届いた。
栃木県のローカル紙「毎日新聞栃木版」に、今年12月10日、あるニュースが記載されたという。
そこには、こんな記事が…。

撮影された写真は、近く同署のホームページに解説をつけて掲載し、一般に公開する方針だ。

 終わった…。

なんとまあ、いつの間にかそこまで話が進んでいただなんて…。
まさか、公開手配されることになるなんてな…。
ここでこうしてその犯罪を公開している私の前に、白黒の車が訪れるのは、もう時間の問題かと、そう、絶望した…。


 私が、その記事の全文を読み、「同署」とは、「林野庁塩那森林管理署」。
公開される写真は、このセンサーカメラが捉えた動物たちの姿であることを理解したのは、その数分後だった。

 このようなカメラが、塩那道路沿線上に合計7箇所設置され、撮影された写真は692枚(今年6月~11月)にも及んだという。
これは、林野庁が進める「野生動物の移動経路:緑の回廊」指定予定に沿った、事前調査。
そこに撮影された動物たちの内訳は、記事のまま引用すれば次の通り。

▽野ウサギ310匹▽テン176匹▽ニホンザル160匹▽ハクビシン14匹▽ニホンジカ11匹▽カモシカ7匹▽タヌキ6匹▽ツキノワグマ4匹▽アナグマ2匹▽イタチ2匹の計10種が確認された。

“▽ヒト2匹” が無いのは、武士の情けか。
はたまた、その写真(2枚)だけは、本当にあっちのほうの“署”に?!



 猥褻目的の盗撮で肖像権を不当に侵害された我々は憤慨しつつ(嘘)、その先へと進んだ。
もう、ドクヲクラワバサラマデ。
何度でも激写されようじゃないか。

 海抜1600mが近づき、いよいよ周辺の森の様子が変わってきた。
薄く色づいた広葉樹が疎らに立つ森は、その土壌を一面の笹林に隠している。
森林限界が近いことを知らしめる、景色と言える。
気づくと、少し前まではあんなに傍にあった稜線が、ふたたび道との比高を取り戻し、前方にそそり立っている。



 そそり立つ稜線に、道はへばり付くようにして、主稜線へ近づいていく。

道幅4~5mの路肩には、ガードレールなどは一切無く、そのまま崖に落ちている。
そこから下を覗き込むと、もの凄く急な森が果てまで続いていて、最後は緑の樹海に消えている。
地図で見ると、ここの崖側に水平距離で400m行くと、7km前に走っていたこの道にぶつかる。
しかしその高度差は300mもある。
さらにその直線をもう400m伸ばすと、小蛇尾の谷底に達するが、その高低差は500mにも及ぶ。
谷底から稜線まで、まるで屏風のように切り立った地形だ。
この地形を克服するために、塩那道路はワンスパン9kmという、前代未聞のカーブをここに置いたのである。




画像にカーソルを合わせると変化します。

 この方向に富士山が見えるのかも…?

 いよいよ塩那道路は、その最大の見せ場である大パノラマを我々に解放しつつあった。
その眺めの数々は、苦難を押し、リスクを冒し、塩那に挑んだ者達が得られる、ただ一つの褒美だ。
もし、これで天気が快晴だったら、私はまたもお漏らししていたかも知れない。

 塩原の街を挟んで睥睨する高原山(海抜1794m)を、今まで越えてきた塩那の山々を枕に見渡す。
このあと我々が到達する最高高度は、あの山頂を僅かに超えている。

 



 キターーー!!

つにい!

いや、遂に!!
遂に、塩那の頂上の景色が間近に感じられるようになってきた。
あの、木の生えない頂上が、塩那の頂上の高さ(海抜1800m)だ。

 それにしても、なんという場所に道が通っているのか!
自然破壊だ何だという議論が大して交わされることもなく、昭和30年代末から50年にかけて、一心不乱にこの場所に道が穿たれ続けたのだ。
自衛隊の力を借り、人跡未踏の奥羽山脈中枢部に、51kmものオリジナルロードが生み出されたのだ。
塩那道路などと言えばなにやら連絡道路らしい名前だが、実際には殆ど観光のためだけの道で、里を経由して塩原と那須を結ぶのは20数キロの道のりなのだ。

この塩那道路構想を殆ど一人で考えたと言われる、当時の栃木県知事 横川信夫 (昭和50年没!)は、もしかして、某“鬼県令”に憑かれてた?!




 遠目に見ると、どんなにひどい道なのかと思うような場所でも、実際に近づいてみて、そこに立ってみると、なかなかまともに作られていて驚く。
将来的には、この全てを2車線にして整備しようと考えていたのだから、唖然とする。

 なお、この辺りから先8kmほどが、私が「天空街道」と呼称する、塩那道路の頂上区間にしてハイライトだ。
気候帯も関東にありながらここはもう、亜寒帯。
森林限界も超越しており、塩那道路の廃道化計画において、「重点的に環境の復元が必要だ」とされているのもこの先の区間だ。
あまりに植生環境が厳しく、このまま何年間放置し続けても、元の自然に戻る力がないのだそうだ。




 遂にこんなところまで登ってきたかと、思わず感慨に耽る景色だ。

入山から、距離にして24km。
時間にして6時間を経過しようとしている。
登った高さは、1100m。

小蛇尾の谷を、関東平野を、遠くの山を見渡し、なおも寒風の未完道路は奥へ奥へと、続いている。





 そして、そんな寒々とした道の途中、路傍にポツンと取り残されたような、大岩がある。

斜面に切り取り残された、尖った岩場だ。

これが、立岩。

やっと来た、塩那の中間地点である。(25km地点)



ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



5-2  立岩 

11:28
←地図を表示する。

 やっと半分だ。

まだ登りの途中ではあるが、海抜1650mの立岩で、起点から25.0km。
残りは25.8kmと、傾いた塩那標識が語る。




 立岩は明らかに、道路工事のために誕生した景観である。

将来、2車線の本用路(いまある塩那道路の大部分は、昭和50年までにパイロット道路として暫定開通した工事用道路である)に改築する事があれば、完全に立岩は切り崩され消滅すると思われる。
高さ10mほどの岩塔はふきっさらしにあり、僅かに生えた緑も早々と冬枯れを見せている。
また、最近まで生きながらえていただろう小さな針葉樹の骸が、荒涼としたムードをより駆り立てている。





 下を見下ろすと、そこは小蛇尾川の源頭部。
この川は、一本沢違いの大蛇尾川と里に下ってから出合い、蛇尾川として那珂川に注ぐ。
那珂川はいずれ、ひたちなか市で太平洋に注いでいる。
その百数十キロの水の巡りの始まりが、この塩那の道端にある。
 また、麓で蛇尾川を渡る、主要地方道30号線の橋は、ちょうど塩原町と黒磯市の境になっていることもあってか、そのものずばり、塩那橋という。
小さいが実用的な、もう一つの、塩那の話である。



 立岩から稜線を見ると、あまりに険しく、まるで城壁を見上げているようだ。

強力な季節風が年中ぶつかる奥羽山脈の稜線には、火山地形さながらの凄寥感が満ちていた。

この岩脈の天辺は、海抜1800mに届く。
塩那の頂点がある高さだ。
こうやって見ると、まだかなり登ることが分かる。
しかし、不思議と登りにウンザリする気持ちにはならない。
むしろ、この登りが終わり、下りに転じてしまう時が来ることを、心の何処かで寂しく思っていた。
足はかなり疲れてきても、気持ちはどんどんと若返る。
それは、塩那一流のスーパーマジックだった。



 これまで上ってきた道を見渡す。
ちょうど森林限界に達した、その境目がはっきりと分かる。

 塩那道路の廃道化工事が進めば、おそらくこの景観は一変するだろう。
自力での回復が望め無い場所については、フトン籠を大量に設置し、道を埋める計画のようだ。
ただ、その場合も作業道路として僅かに車道は残されると思うが。




 その異様な景観にしばし心を囚われ、立ち止まりはしたが、吹き上がってくる霧混じりの風の冷たさに目を醒まし、再びチャリに跨った。

もうここまで来れば、主稜線はすぐ傍だ。






  来た…




  来た

雲の海にに顔を出そうと喘ぐ、日留賀(ひるが)岳(海抜1849m)。

しかし、峰の向こうからは、白い塊の様な雲が、覆い被さるように、幾らでも幾らでも流れてきた。
それが、頂にぶつかると、不思議と白さを失い、急速に消えていく。

荘厳なり、主稜線の峰。

二等三角点座、蛭岳。
地形図には、日留賀岳と記されし山である。
塩那26kmの果て、遂に、その頂を捉える。




 六角ブロックが妙に白々しい、主稜線へ続く最後の登り。

塩那道路的には何故か無名ながら、走破者にとっては重要な意味を持つ、主稜線への到達点。
私称「日留賀峠」が、眼前に迫った。


 次回、遂に始まるハイライト!!
https://yamaiga.com/road/enna/main5.html




続 塩那“天空”街道
https://yamaiga.com/road/enna/main6.html

6-1  日留賀峠 ~ 鹿の又坂

11:41

 海抜1720m。
塩原の入口から1200mも登ったことになる。
26kmも走って我々はやっと、塩那道路の核心部にある「5kmの特異な道」に、辿り着いた。

この、日留賀峠から先の5kmを、私は「天空街道」と呼んでいる。
もはや、この名前の他には思いつかない。

それは、東北には比肩するもの無く、関東地方でも有数と言える高所の道。
観光道路に宿命づけられ生まれた道の、成れの果て。


今や、廃なるを宿運とす、天空の道である。




 上の全体図はかなりの低縮尺だが、その中でも一際存在感のあるカーブ…

そう言って良いだろう、この日留賀峠のターンカーブ。

これまで稜線を目指し登ってきた道が、遂にその目的を果たし、ここから先は稜線の西側に進路を取る。
“天空街道”区間は、黒磯市と藤原町の境界線に掛かっていて、その前半の半分はギリギリ藤原町に含まれている。
全長51km中、20分の一だけの藤原町内の道中だが、そこにこれといった案内はない。
藤原町では、自分たちの町域の屋根だけをかすめるこの道をどう、思っているのか…?


 日留賀峠から、日留賀岳に続く稜線を望む。
くの字に曲がった稜線の突端の出っ張りが日留賀岳で、海抜は1848mある。
これは、塩那道路の掛かる稜線にあっては最も高い。
見たところ稜線は穏やかで、歩いて山頂に立つことは比較的容易に見える。
また、山歩きのサイトを見たところ、日留賀岳には塩原町から登山道が山頂に達しているという。

つまり、この稜線と登山道を経由すれば、塩那道路のこの地点に、ノーゲートでたどり着けると言うことになるが。
歩くなら、そっちの方が楽だろう。26kmも車道を歩くよりは。
ただ、稜線上に踏み跡は見られない。
そこを冒して歩くというのは、どうも…気が引けるな~。



 これまで、決してみることが出来なかった藤原町側の眺め。
足元からすらりと落ちる山襞の先は、薄緑色が帯状に広がる谷がある。
男鹿川やその上流の横川に沿った集落や田畑だろう。
目をこらせば、建物の一つ一つも見える。

 その先に目を遣れば、あとはもう、見える限り延々に山である。
地図で確認すると、この山並みは栃木と福島とを隔てる県境の山々だ。
そして、おそらく視界の果てに見える一際高い山脈が、尾瀬だ。

いままで、山行がとは全く接点の無かった、日本一の観光地、尾瀬沼。
塩那のこの地点からの直線距離は、わずか43kmだ。
 


 日留賀峠を越えても、峠を越えたという景色ではない。
実際、まだ少し登りは続く。
本当の塩那の頂点は1km先の「鹿の又坂」を登った先のピークだ。

 それにしても、こんな場所にも重機が数台止められていた。
平日は、ここまで車で作業員が登ってきて、工事が続けられているのだろう。
フトン籠に採石を詰めて、これを設置する工事のようだ。
塩那廃道化工事(正式名「塩那道路対策工事」)の一部である。


 初めて塩那道路の本当の頂上が見えた。
今見える果ての、あのカーブこそが、塩那道路の最も高い場所。
海抜1805m地点だ。
ここから1kmの緩い登り。
稜線直下の西向き斜面に築かれた、
いや、穿たれたと言った方がしっくり来そうな、強引な道である。

 そして、
読者の皆様、お待たせしました!!
 こっから、塩那のハイライトシーン。いきます。



 荒々しい道の周囲の施工状況。

岩肌も露わなそそり立つ稜線に、へばり付く様に作られた道だから、右を見ても左を見ても、平坦な場所はない。
特に、谷底方向の眺めは絶景である。
なにせ、足元の谷までの比高は900mもある。
東京タワーの3倍の高さ、セリオンの6倍(何だと、セリオンを知らんだと? 田舎者め!)、うちのネコの背丈の2700倍の高さから見る下界の景色は、もうそれだけで、一級の展望台に立っているようだ。

 



 ちょっと、奥さん!


 大変な物を発見してしまいました。
滅茶苦茶大きな、不法投棄物… じゃないよな。

50mも下の斜面に、この道路から転落したものと思われる、水色の塗装が残る鉄のカタマリが。
よ~く目をこらすと、なんとこれ、ミキサー車だよ。
滅茶苦茶ひしゃげている上に、接近する術が無く、詳細は不明ながら、明らかに工事車両。
しかも、かなり古い型のような予感。

この塩那道路から、落ちたんだ…。

ま、新しい物だったらそれはそれで、大きな問題だと思う。
それにしても、運転者は無事だったのだろうか…。
今更そんなことを想像しても何の意味もないのは分かっているが、それが気がかりだ。


 日留賀峠から鹿の又坂までは、非常に険しい場所を通っている事もあり、大半の道が当初から幅広に作られている。
パイロット道路として中途半端な道を作り、後からまた大規模な土木工事を含む改良をするよりは、最初から本用路に近い規格で道を作ったのだろう。
とくに、このような険しい場所では。

 そんな配慮が、廃道化が決定された塩那道路には、堪らなく、痛い。

写真の場所は、珍しく狭い。
カーブの突端には、「つらら岩」の塩那標識が取り付けられていた。
空に臨むカーブだ。
 


 これで、長かった、長すぎた登りも、最後だ。

そう言い聞かせても、活力は湧かない。

むしろ、何か寂しい。

むろん、一生登っていたいと願ったわけでも、登りが楽だったわけでもない。

しかし、登りに慣れ、登ることで新しい景色を開拓し、その度に感動を得てきた、塩那道路二十数キロの「成功体験」は、私の中に擦り込まれ、遂に下りに転じてしまう事実を目前に、足元を失ったような不安を覚えたのは事実だ。

もう、二度と来れないかも知れない塩那。

もっと、味わいたい気持ちは、確かにあった。



 無名峰(海抜1846m)山頂の基部を削り取り、代わりに城壁のようなコンクリートの壁をあてがった、塩那最後の登り。

その、偉容。


よくもまあ、こんな場所に道を作ったものだ。

ありふれたそんな感想が、ここを訪れた全ての者に共通するものだろう。

正気の沙汰ではない。



 山頂が、手の届きそうな場所にある。
下界から見れば、ここはもう雲の中の世界だ。

あとはもう、鋪装を待つだけの状態で、幅広の砂利道が直線的に続く。
もう、登りは殆ど感じられぬほどに緩く、走りながら色々なことを思い出す酸素量的余裕を、私の脳に与えた。

まるで、走馬燈のように、ここまでの塩那の半分の道のりが思い出された。
思えば、最初の連続九十九折りなど、遠い遠い話のようだ。
実際、もう既にあの辺を走っていた頃からは4時間を経過している。
こんな調子で塩那道路を走り終えた頃には、もう記憶なんて殆ど残っていないんじゃ?

そんな気がして、いつも以上に頻繁にデジカメのシャッターを切った。


 一帯は急速に霧に隠され始めた。
最高所からの景色だけは、我々に見せまいと言う魂胆か。
だが、いずれ私はまたここに来るような気がしていた。
願わくば、一面の快晴の日に、富士山をこの道から見てみたい。
見えるか知らないが、見える可能性のある富士山を。そして、遠く上越、信越の山々も。
関東の首都の姿も。
…見えないのかも知れないけど…
この厚いベールが、次への活力になったといえば、言い過ぎか。

 26kmポストが出現。
ここから峠までは、驚異の道幅がある。
 


 綺麗に整地された、幅20mの道。

塩那道路初まって以来、最大の道幅だ。

コンクリの壁に挟まれた、無機質的な道と、無駄に広い路肩。


 ゆーじ氏は、閃いたように言った。

「おそらく、ここは駐車場にしようとしたのだろう」と。

なるほど、合点した。



 正午を回って12時12分。
入山から6時間40分。

 26km地点
  塩那道路最高所
    鹿の又坂

      制覇


 標高1805m。

 

ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



6-2  日本版 「万里の長城」 

12:12
←地図を表示する。
 景色は良いが、とにかく寒い。
福島県や新潟県の方から、冷たい風がばんばんぶつかってくる。
着用し
3:777 :

2022/08/11 (Thu) 22:04:41

景色は良いが、とにかく寒い。
福島県や新潟県の方から、冷たい風がばんばんぶつかってくる。
着用している雨合羽(雨は止んで久しいが)の裾が、ばたばたとはためくほどだ。

 垂直に落ちるコンクリートの路肩に座り、寒さを我慢して昼食。
ちょうど、良い昼時に峠にたどり着いた。
残りの道は、初めのうちこそ平坦に近いが、いずれは嫌になるほど下るだけだ。

 塩那道路を半分制覇したというのに、この寂しさは何だろう。
終わらない道など無いのは分かっているが、どうやら、私はこの道に…

 恋 をしてしまったようだ。
 


 ちょうど雲が薄くなった一瞬を見計らって、やっと撮れた一枚。

いま走ってきた稜線を見通している。

奥の高い部分が、稜線の最高峰日留賀岳。
その手前の鞍部に見える白いのが、日留賀峠の道。
そこからずっとここまで、稜線に沿って道が写っている。

この眺めは、塩那道路に沢山ある好きな景色の中でも、特に好きなものの一つだ。





 20分ほど休憩し、寒さに耐えられなくなり12時33分、再出発。
道中最高所は、ご覧の通り、全くもって穏やかな峠だった。
最高所だというのに、何の標識も案内もない。

奥に見えるのが鹿の又岳(1817m)で、この先3.5kmは引き続き稜線に沿って、海抜1700m以上の高所を進む。
ここから先、塩那道路の景色はまた大きく変容を遂げるが、ハイライトシーンは続く。



 峠を振り返る。

左奥は無名峰(海抜1846m)。
歩いていっても簡単に山頂に立てそうだったが、やはり踏み跡らしいものは見当たらない。
この山や鹿の又岳などは、塩那道路を使わねば現実的な登山は出来ないだろう。
だがもし、塩那道路が観光道路として完成していれば、山頂を気軽に楽しむ観光客でかなり賑わったことだろう。
麓から電気も引かれ、自動販売機が稼働し、売店さえ出来ていたかも知れない。

 いま、「緑の回廊」に林野庁が指定しようとしている一帯の自然環境は、間一髪で壊滅を間逃れたのかもしれない。



 稜線から黒磯市側(東側)の山容を臨む。

深く切り込まれた谷は、大蛇尾沢(おおさび)だ。
我々が半日近くその周囲を巡り続けた小蛇尾沢と共に、この山域の主要な谷である。
そして、左奥の高い山が、稜線からは離れた独峰でありながら、海抜1908mで一帯の最高峰たる大佐飛山(おおさび)だ。
あの山を中心とし、塩那道路の走る稜線を含む一帯が「大佐飛山自然環境保全地域」に指定されており、基本的に人間の介在しない純粋な自然環境が保持されている。

 いま、我々が目前にしている山並み、塩那道路無くしてはまず目にすることの出来なかった、里からは遠く離れた深山だ。


 やや下り基調となりながらも、しばらくは殆ど現状の高さを維持しながら、稜線を辿って進む。

先ほどまでの厳ついイメージからは一転し、笹が茂る穏やかな稜線。
道がかすめている小高い丘が鹿の又岳(1817m)の山頂であるが、あんまり道に近く、山頂という印象はない。
あそこだけだったら、それこそ塩那道路から1分で登山できそうだが、ま、道の外に出ることは謹んでおいた。

 なんというか、この道はちょっと申し訳ない気持ちになってくるのだよ。

自然に対し。


 自然が牙を剥いて人間の成そうとする事に対峙しているうちは、そこを辿る私も、まるで応戦するかのように、人の所作を応援したくなる。
そんな気持ちに自然となる。
険しい山河を蹂躙し、岩場を破壊し切り開かれた道に、ある種の快感を覚えもする。
 だが、それが行き過ぎ、自然環境との調和や復元力を無視した道を目の当たりとしたとき、そこを辿る私の気持ちが変化した。
そんな殊勝な気持ちが私にあったのかと、自分でも驚くほど、私は「借りてきたネコのように」行儀良く、この道を辿った。
声さえあまり立てず、砂利をまき散らさぬよう注意までして。

 塩那道路は、ちょっとやり過ぎだと思う。
いくら何でも、観光用の景色を得るためだけに、無遠慮な場所に道を作りすぎでは。
本当に、ここに2車線の舗装路が出来ていたら、深刻な生態系の分断など問題が起きていただろう。


 そこまで考えが至ったとき、

「ああ、三島とは根本的に違うんだな。」

そう思った。

 県民の理解を超えて道路行政に邁進し、半ば強制的に労働力を搾取して、各地の峠に道を拓いた三島通庸(明治の人)は、赴任先の山形や福島で鬼県令と恐れられた。
彼は晩年(明治18年~)、この栃木県の第4代県令(県知事)にも赴任し、その手腕を発揮している。
だが、当時彼の議事録に、塩那の言葉はひと言も出ていない。
彼が執拗に作ろうとしていた道は、県土の発展のためにどうしても必要な道だった。
その証拠に、彼の作った道は、いまも全てが活用され続けている。
彼の最終的な目的が国力の増強の一点にあったとしても、県民の生活向上にとってこそ最大の意義があったことは間違いない。
 塩那に道を通そうと初めて構想したのは、第40代知事の横川信夫に他ならないだろう。
彼の代(昭和34年~)になると、道は観光の道具としても重要になっていた。
そして、街道としては何ら価値のない塩那の峰に、斯様に遠回りで遠大な道が築かれたのである。



万里の長城

私には、そのイメージに見える。

本場の万里の長城のように万里はおろか、一里もないけど。
人工的な城塞も石垣もないけれど。

だが、天然の要害たる稜線を丁寧に辿り、その天辺にグネリグネリと蛇行する道がある。

その姿は、日本版の、万里の長城。

そう見えないか。


  天空街道、ここに極まれリ。
https://yamaiga.com/road/enna/main6.html




空との別れ
https://yamaiga.com/road/enna/main7.html

7-1  それは神への挑戦なのか?! 

12:43

 もう、言い飽きた。

 そして、聞き飽きただろう。


 でも、それでも言うしかない。

 凄い景色だ、と。


道は、何と畏れ多いことに、唯一無二なる稜線を、そのまんま車道にしていた。

こんな激しい景色、見たことがない。

これまで私の見てきた、あらゆる道の常識を、覆す景色だ。

海抜1700mの奥羽山脈稜線上に、それをなぞるように車道がある。

一般の観光客達の無遠慮な往来を免れたことだけが、せめてもの救いのように思われる。

もう、作ってしまった道はどうしょうもないが、それでも、今後この道を廃道に戻そうというのは、なるほど理性的な判断のように思う。

私がどうしても来たかった道。
あなたも、リスクを背負ってでもどうしても来たいなら、どうぞご自身のお力で来て、この景色を見て欲しい。
これは、無責任な誘いではない。
挑発などでは毛頭無い。

ただ、どうしょうもなく、こんな道があったということを、伝えたい衝動に私は駆られるのだ。
こうしてレポートをしている傍から、私の心は、あの景色のただ中に、いまもいるのだ。

それほどに、衝撃的な、道の姿だった。

人間が、空を目指して建築し、神の怒りをかった「バベルの塔」。
これは、道路版「バベルの塔」だ。



 東西に遮る物無くひらけたる稜線からの眺望。
それもそのはず、この場所は天然の展望台。
「大蛇尾展望台」の塩那看板が、半ば雪に押しつぶされながらも路傍にある。

 写真は、東側黒磯市方向の景色。
左の高い山が大佐飛山、右の稜線は、塩那道路の辿ってきた尾根で、その奥の一際高いところが、小佐飛山である。
大佐飛と小佐飛に挟まれた谷が、大蛇尾沢だ。
その名の通り、大蛇の尾のように長く複雑に屈曲した沢筋が、方々の山から集まっている。
どこまで行っても、決して人の住む街など無いのではないか。
そう思わせる山深な景色だが、塩那道路の帰り道は、この方向にずっと続いている。


 塩那道路の最高所だった鹿の又坂からは、すでに1.5kmほど来ている。
余りにも衝撃的かつエキサイティングな景色の連続に、またも路傍のカメラに撮影されたにも関わらず、気にならなかった。
道は、稜線の微妙なアップダウンに合わせて緩やかに上下しており、海抜は1700m程度を行ったり来たり。

 どんなに愛した恋人との蜜月の日々にだって、いつか終わりがあるのと一緒で、塩那道路のハイライトも、いよいよ終わりが近づいていた。

 


 いま辿ってきた道を振り返る。
道の上に出っ張ったピークが、鹿の又岳だ。

 この稜線の区間は、塩那道路全線中でも、最も道幅が狭く抑えられている。
もしここに、2車線の観光道路を作っていたら、稜線の景色は一変していたことだろう。
ただ、道からの景色の良さは折り紙付きで、文句なく、日本有数の「スカイライン」(本当にスカイラインを通っているスカイラインとしても)になり得たろう。
あの有名な、「日本百名道」への登録も、堅かったかも。

 この塩那道路や、私を史上最も苦しめた伝説の「八甲田山十和田湖連絡道路」など、観光道路として建設したが実を結ばなかった道は、どれも半端無い。
誰しもが胸を打たれる山の景色の醍醐味をファミリードライブの車窓に届けるため、日本各地で人間側自然側両方に多大な犠牲が払われていることを忘れてはいけない。
戦いの結果、どちらが勝利しても、取り戻せない破壊は、ある。


…なんか、説教じみてゴメン。


 幾つかのコブを越えたとき、行く手の尾根に森が見え始めた。

緩やかだが、確実に下りの途にあった我々が、いよいよ、「空」と別れを告げ、再び、長く 深く 永遠に思えるような、森の道へと帰って行くのだ。

それをリアルに予感すると、私は最高に寂しく…
 いや、悲しくなった。

 これが今生の別れにはしたくないぞ塩那道路…。
ゆーじ氏も、快晴の時にもまた来たいと、力強いお言葉。

 たとえ塩那道路が廃道化したとしても、日本道路史上からその名を消してはいけない。
観光開発の享楽に溺れた地方行政が、こんな道さえ国土に刻んだのだという、反面教師になろう。
こんな道は、規模の大小こそあれ、地方の至る所にあるものだ。



7-2  記念碑 

12:52
←地図を表示する。

 一際広い鞍部が現れ、道もそこで大きく広がり、傍らにはプレハブの小さな小屋が。
ここは「記念碑」という場所で、塩那標識も立っている。

 この小屋の建っている広場が、稜線上の最後の地点といって良い。
正面には、栃木と福島との県境となる男鹿岳(1777m)の、頂上まで針葉樹に覆われた扁平な山容。
塩那道路のこれまでの苛烈な道のりを考えれば、男鹿岳のゆったりした山頂など余裕で越えれば越えられそうに見えるのに、ここで進路を東に取り、いよいよ那須・板室へ向けての下りとなる。
全長51km中、たった5kmの“スカイライン”、まもなく終了だ。


 その名も、スペースハウス!

なんか、力まなくて良いところで思わず力んでしまった。

工事現場なんかによく見るプレハブ小屋だが、造りはしっかりしており、中を覗いてみるとガランとしてはいるが、雨風を凌ぐにはぴったりだろう。
なぜか、鍵もかかっていないし。



 で、この地名の由来となったのが、この石碑である。

塩那道路にただ一つだけの、記念碑だ。

正式には未完成のままの塩那道路だが、自衛隊が開削に携わったパイロット道路の開通記念碑として、この地にある。

また、何故かここの塩那標識だけは、地図が記載されておらず、妙に白い。
塩原からは、29.2km。
板室までの残りの距離は、それでもなお21.6kmもある。
 



   104建設大隊 
     塩那の峻険を拓く
           栃木県知事 横川信夫著

自衛隊によって建設された事が、短い文章で顕彰されている。
その下には極小さな文字で、塩那道路の生みの親、第四十代栃木県知事の直筆のサインがある。
彼は昭和46年、三期在職中にパイロット道路開通を見届けるも、建設が財政難で休止された昭和50年、その年にこの世を去っている。
塩那道路の顛末を見届けることなく。


   塩那山岳道路開設の経緯
塩那山岳道路は栃木県が陸上自衛隊に委託し東部方面れい下第一施設団の
第1建設群に属する第104建設大隊(宇都宮駐とん地)が昭和41年から昭和46年に
亘り全長約50粁の中約35粁のパイロット道路を拓きこの道路の礎を築いた
ものである
工 事 参 加 部 隊
昭和41年 作業隊長 (第3中隊長)1等陸尉 安東 弘 以下 67名 2.5粁
 〃 42年    〃   (第1中隊長)  〃   小林一郎 〃  62名 3.1粁
 〃 43年    〃   (第2中隊長)  〃   三宅誠八 〃  57名 2.2粁
          〃   (第3中隊長)  〃   福井正● 〃  48名 2.0粁
 〃 44年    〃   (第1中隊) 2等陸尉  薄井 貢  〃  41名 1.0粁
 〃 45年    〃   (大隊長)  2等陸佐  小田利八郎 〃 190名 8.2粁
 幕  僚  3等陸佐  木田久夫  3等陸佐  阿部 恒
              1等陸尉  菅原慶治
      板室区隊長 (第2中隊長)1等陸尉 菊池貞三
      塩原 〃   (第3中隊長)  〃   島田三郎
昭和46年 作業隊長 (副大隊長) 3等陸佐 佐川一男 以下 150名 16.0粁
 幕  僚  3等陸佐  辻 昭三  (読み取れず)
      横川区隊長 (第1中隊長)1等陸尉 (読み取れず)
      板室区隊長 (第3中隊長)  〃   (読み取れず)
 のべ650人あまりの自衛隊員が、人跡稀なこの地に篭もり作業をしたことになる。
工事が、始めはゆっくりとしたペースで、昭和45,46年には一気にペースアップしていることも読み取れる。
そして、一つ聞き慣れない言葉が出てきた。

「横川区」という言葉だ。

塩那道路が、塩原と板室の両方から同時に建設されていた事は周知の通りだが、この「横川区」とはどこのことなのだろうか?


…塩那道路には、まだ知らない世界が、どうやら、あるようだ。




 なぞの、「横川区」の文字。

だが、その答えと思われる物は、意外に近くにあった。


次の地図を見て欲しい。




 これは一帯の拡大図である。
よく見て欲しい。

 この記念碑が建つ地点のすぐ北から、塩那道路と別れ藤原町の男鹿川の谷底へ下っていく、九十九折りの道が描かれている。
その行き先は紛れもなく、会津西街道沿いの横川地区だ。

塩那道路のほぼ中間地点であるこの稜線上から、分かれる道が存在しているというのだ。
道路地図はその存在を強く物語っているが、地形図にも点線ではあるが記載がある。
なんらかの道があることは確かなのだろう。
だが、ゆーじ氏はそのような分岐があったことに、昨年全く気がつかなかったと言うではないか。

 その捜索は後ほどに回すとして、性格的にはこの道、塩那道路の中間部へと直結する工事用道路だったのではないかと思われる。
とはいえ、先ほどの記念碑の碑文によれば、この横川区の道路が本格的に建設されたのは、パイロット道路完成の年である。
となると、工事用道路というよりもむしろ、塩那道路を塩原と那須だけではなく、横川下流の鬼怒川とも結びつけようという、壮大な新線建設の色香も感じるではないか。

 その真相は、いまはまだ闇の向こうだ。




 付近をよく見ると、記念碑のすぐ傍に、分かれ道を発見した。
しかし、その分かれ道は10mも行かないうちに砂利が途絶え、高山植物が薄く生える堅い地肌の道となる。
これでは、夏場など殆ど草地と区別が付かないだろう。

 そして、この分岐地点には、未発見だった道路標識が、発見されたのである。
写真は、枝道を背にして分岐地点を写している。
正面に、黄色い看板が見えるだろう。



 付近の紅葉に一体化しており、分岐に気がつけなければ、おそらくこの標識にも気がつかなかっただろう。
しかし、そこには確かに文字が記されており、辛うじて判読が可能だ。

 その文字は、「板室方面」と読める。

色は、どっからどう見ても、黄色。
故に、これは世界初の「黄看」かと言うことになるが、いや、単にペンキが剥げ、下地の色が出てしまっただけではないかと思う。
おそらく、文字の形などから想像して、これはもともと白かった… 白看なのでは?
真相は、またも闇の中だが…。



ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



7-3  もう一つの塩那道路 

12:57

 塩那道路から分かれ、鞍部の西側へとそろりそろりと下りていこうとする道。
それは、間違いなく、地図に描かれている道である。
しかし、一般には開放されずとも管理され続けている塩那道路に対し、まったく見捨てられた存在となっているこの「横川工区」の道は、廃道だ。

 砂利の跡が辛うじて残る高原の道を50mほど進むと、その先は一面の笹藪となり、道の形を判別するだけでも一苦労な有様だ。



 チャリを置き、二人で歩いて先へ進んでみた。

そこは、森林限界を辛うじて超えており、低木と笹藪が幅を効かせる、廃道としてはかなり困難な状況だった。

だが、我々の目には確かに、緩やかな斜面に沿って続く、浅い掘り割りの道が見えていた。

道幅は、車が通ったと言っても不思議はない幅がある。




 これが進むべき道ではないと分かっていながらも、なかなか引き返す決定打を得られなかったが、100mほど進んだところで、一つめのヘアピンカーブと思われる、急カーブに突き当たった。
全く人の行き来している気配はなく、背丈よりも高い灌木や笹藪が、視界を覆ってしまった。
もはや、その先へ進むには、足元の状況をつぶさに観察し、一歩一歩確実に道を辿らねば、遭難しかねない。
ここは、普通なら登山のフィールドに十分なりうる、高山なのである。

 我々は、今回は塩那道路を素直に辿ろうという計画だったので、それに従った。
だが、この道はぜひとも、全容を解明したい。
もし、この道をチャリごと通過することが出来れば、塩那道路の中枢部に忌まわしいゲート破りなどしなくても、堂々と立てることになる。
男鹿岳や鹿の又岳などに大手を振って登山したいという登山者達の先鞭にもなろう。

 この塩那2次計画は、2006年度中に予定している。
目標はただ一つ、塩那道路横川支線(仮称)の全容解明である。
地図上では、男鹿川沿いの林道の支線として実線で描かれた林道の終点まで、約5kmの九十九折りで塩那道路と下界を結んでいる。
その先の林道も状況は不明だが、国道まではさらに8kmほどある。
南八甲田の悪夢が、繰り返されるような予感がする…。

 チャリごとでの走破は達成できなくても、怒らないでね~(笑&弱気)




 往復200mほどの寄り道を終え、塩那道路本線に戻った。

時刻は午後1時をまわり、自然に帰途に就きたい時間となっていた。

まだ、先行きは長いのだ。
下りとはいえ、油断は出来ない。

なんと言っても、ここは塩那道路なのだから。
https://yamaiga.com/road/enna/main7.html




空よりの帰還
https://yamaiga.com/road/enna/main8.html

8-1  記念碑 ~ 那須見台 

12:57

 プレハブ小屋と寄り添う記念碑の前を、午後一時に我々は出発した。
「横川支線」を攻略した暁には再会も出来よう。
それを楽しみに、一時の別れだ。

 何度も繰り返して書いたが、「天空街道」と私が呼んでいる塩那道路の最も特徴的かつ、圧倒的存在感を見せる5kmは、大変に惜しまれながらも、間もなく終わりとなる。
現在の標高は、1700m。
最高所の海抜1800mから殆ど下らず踏みとどまってきたが、いま正面に県境の男鹿岳(1777m)を見据え、稜線はその頂へと緩やかに近づこうとしているさなか、塩那道路は、ついに、戦意を喪失したかのように…、右へと流れ始める。

稜線を離れ、板室へと残り20kmの下り坂だ。
特に、前半11kmは一度も休まずひたすらに下り続けるという展開。


 もう、下り始めたら、この高さには二度と戻れない。
どんどんと、稜線から離れ、間もなく、その姿を遠望することも難しくなる。
こんなに、離れがたいと思った峠は、初めてだった。

 そして、そんな私の気持ちを推し量ってか、塩那道路には天空街道のラスト1kmに、殆ど名前だけで実のない「ひょうたん峠」と「男鹿峠」の塩那標識がある。
どちらも、峠と呼べるような地形ではなく、僅かばかりのアップダウンに過ぎないのだが、離れようとする我々を少しでも足止めしようとしているかのようで、それさえも愛おしかった。


 ひょうたん峠の失われた塩那標識の支柱の傍に立つ、おそらく塩那道路開通当時の林野標識。
各地の山道や林道でお馴染みの、造林地の位置などを示した地図だ。

殆どさび付いており、その文字は読めない。
だが、一番読みたかった部分だけが、辛うじて判読できた。
堪らず、歓声を上げた。

 

 部分拡大写真であるが、読めるだろうか?


 そう。

「塩那スカイライン」の文字が、辛うじて読める。

その名前は幻。
いまや二度と表舞台に戻る可能性の潰えた、塩那道路の観光道路名。

赤茶けた一枚の畑違いな標識だけが、その名を今に伝え続けている。

もう、誰も呼ばなくなった、 その名を。

 


 進路を緩やかに変えた道は、登ってきた道ほど変化に富んではいない。
あとはもう、板室に達するまでひたすらに、この尾根の右壁に張り付いて、徐々に高度を降ろして行くのみだからだ。
もし、逆から辿って登ってきたなら、かなりダルまっていたと想像できる。
そんな道だ。

廃道化工事の結果としてフトン籠が路肩に山と積まれた道は、やる気無さ気なガードレールと共に、このまま廃道になっても全く可笑しくないようなムードだ。


 振り返ると、すでに天空街道が過去の物になってしまったことを知る。

あの稜線は、すでに遠かった。

下りは、堰を切ったように現れ始める。



 塩那道路が板室へと下りていく道すがらずっと平行しているのが、木の俣川だ。
この川は、まるで塩那道路がそうであるように大佐飛山を回り込み、その西側で、塩那道路と同山の隙間の鞍部に端を発している。
そして、10km以上にも亘り、塩那道路とは高度差300mをぴったり維持しながら、並流し続けるのだ。

 写真は、木の俣川の源流部の谷を跨ぎ見る、大佐飛山のそそり立つ山腹。
谷底から大佐飛山頂まで、その高低差は800mにも達しており、見ているだけでゾクゾクするものがある。


 路傍に立つ、那須見台の塩那標識。
塩原からは32.6km地点であり、残りはついに20kmを切って18km台となる。
海抜は1300mと、稜線からたった4.5kmの道のりで、高度は一気に400mも下がっている。

 この区間の写真が殆ど無いと思えば、そうかそうか。
立ち止まるのも億劫なほどに、猛烈な下り坂が続いていたというわけだな。
何か下るのが惜しい気がして、悶々と下っていたっけ。
ただ、この先も下りが長く続きすぎており、まあ、チャリので下り坂というのは得てしてそう言うものだが、印象は薄い。




8-2  那須見台 ~ 貫通広場 

13:24
←地図を表示する。

 那須見台などと言っても、残念ながら那須方面の眺望は優れない。
寄り添う稜線が邪魔をしていて、那須山の方向は道路から見えないのだ。

写真は、路傍の豊かな森の紅葉の様子。
2005年はこれでも、紅葉の色が全般にやや冴えない年だった。
夏が涼しく、秋との気温差が少なかったせいだ。



 那須見台の先も、眺望のあまり利かない下り坂がひたすらに続く。
路面状況は余りよいとは言えず、砂利道というよりは、ブルが均したまんまの土道の場所が多い。
連日工事車両が行き来しているようだが、このまま二度と一般車両には解放されずに、最後は土に帰っていくのだろう。

 


 半日掛けて溜め込んだ位置エネルギーを、下り一辺倒の道に倣い運動エネルギーに変換しながら、労せず進む。
それにしても、所々にはちょっとハードな勾配が見られる。
おそらく、乗用車には易々とは上れまい。
そう言う部分はパイロット道路として建設された仮の道で、将来はもっと緩やかな道を作る予定だったのだろう。

 私とゆーじ氏は、お互いの下り高速走行で邪魔にならないよう、やや距離を置きながらそれぞれのペースで下った。
私は、未だにちょっと命知らず気味に飛ばして歩いていたようだ。
それでも、子供の頃から見たら、全然大人しく走っているつもりだが。

 ともかく、飽きるだけ下りは続く。
 

 私は、久々に視界の開けた木の俣川の谷間を見たとき、思わず間の抜けたことを言ってしまった。

 「おおっ、 遠くに道が見える~ すげー」
となかんとか。
何がスゲーのかは、私にも謎だったが、条件反射的に、ずっと遠くに見えた山道を、なんとなくそう表現してしまった。
もちろん、それは他人行儀で無責任なリアクションだった。

 しかし、実はここから見えている、あのもの凄く遠い道は、

塩那道路自身なのである。

実のところはね。


 暫く走ったときに、私は自分の誤りに気がつき、ゆーじ氏に気づかれないように一人恥ずかしがった。

下りに入ってから暫く走っており、もうそろそろ下界が見えてくるかななどと思い始めていた矢先だっただけに、まさか、あんな霞むほど遠くに、しかもかなり高い位置に、自分たちの行き先があるだろうとは、思わなかったのだ。

現実に、ここから見えた「灰色の法面の道」は、我々が6kmほど先に通過する事になる、「川見曽根」付近であった。



 で、気がつけば「貫通広場」。

なんだかそそる名前のこの場所は、おそらく名前の通り、塩原・板室の両方から建設されてきた塩那道路が最終的に一本になった、記念すべき地点なのだろう。
塩原からは37.3km、板室からは13.5kmと、かなり板室寄りではあるが。

この辺りまで下ってくると、等高線に沿いつつ細かなアップダウンを繰り返すようになる。
しばらくは、海抜1200m~1100m付近を維持する。
線形的にも、ひたすらに同じ様な景色が続く。
それは、山襞の凹凸に倣う、日影と日向の繰り返しである。
 


ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



8-3  貫通広場 ~ 本部跡 

13:57
←地図を表示する。
 岩場を削って拓かれた幅4mほどの道が続く。
特に険しい部分にはガードレールが設置されていたりと、それなりの整備は成されている。
残念ながら、チャリで走って面白いと感じられる道では無くなってきた。
ここまでが、あまりに変化に富んだ、期待以上の道でありすぎたと言うこともあろう。
もう、淡々と淡々と下っては上って、また下ってを繰り返し、少しずつ、板室の終点に近づいていく。


画像にカーソルを合わせると変化します。

 思い出されるのは、あの天上の道の美しさと厳しさばかり。

そんな寂しさを少しだけ満たしてくれるのが、塩那天空街道の、最後の“見返り”風景だ。

天空街道から離れ9km。
なんと、こんなところからも、あの稜線の道がまだ、見えていた!

そればかりではない、稜線から下りに下ったこれまでの道のりが、巨大な山並みのそこかしこに見えるではないか!
まるで、塩那道路の辿ってきた軌跡そのものが、山肌に化けているかのよう。

塩那のダイナミズムを、最後にもう一度感じさせてくれた…。  感激!





 「三度坂」の塩那標識を過ぎると、その名の通り、上り返しが始まる。

ただし、それは僅かな距離で再び下りの大いなる流れに呑まれて終わる。




 立ちはだかる岩場を砕き、幾つもの切り通しを交えて、捻り込むように道を穿った。

いまもって安定せず、重機の入らざるを得ない岩場。

まるで賽の河原の石積みのように、終わりの見えない、誰の為とも分からぬ、維持管理が続けられてきた塩那道路。

しかし、それもついぞ終わりが見えてきた。

「廃道化」という県の決断が、この塩那に、長らく失われた安穏をもたらす日は、いずれ来るだろう。


 「見晴台」の塩那標識のカーブからは、木の俣川の対岸の黒滝山が小気味良いほど一望の下に納まった。

黒滝山(1754m)は、大佐飛山から連なる、やはり人の立ち入らぬ山だ。
この塩那道路さえなければ、山頂を蹂躙された鹿の又岳も、間近に見えた日留賀岳も男鹿岳もみな、同じように人跡稀な山並みだったに違いない。




 このように、ただの林道にしか見えぬ場所もある。



 かと思えば、右の写真のようにがっちりと固められた路肩が現れたりもする。
お金がなかったのか、パイロット道路だからなのか、どうにも規格の定まらぬ塩那道路であった。





 何故立っているのか分からないような場所にも、塩那標識がひょっこり立っていたりもする。

例えば、この岩場は「ダルマ岩」の標識がある。
また、すぐ傍には何の変哲もない岩場に「熊の穴岩」や「石楠花岩」などの地名もある。

まあ、労せず下れる我々には無意味に思えても、20kmも上り続けなければならない逆からの登攀者にとっては、こんなちょっとした標識でさえ心の拠り所になるかも知れない。

実際、板室側から入る方が、我々のように塩原側から入るより高低差も天辺までの距離も短いが、景色の変化がやや乏しいことから、疲労度は板室側の方が大きいかも知れない。想像の域を出ないが。




 塩那道路ではここにしかないかと思われる、珍しいコンクリート吹きつけの壁。
廃道化工事の一環なのか、ただの吹きつけではなく、わざと植物が根付ける隙間を格子状に設けた吹きつけとなっている。

 それにしても、塩那道路の51kmの全線の中で、我々は一体何回稼働中と思われる工事現場を通ったのだろう。
県では、対応の定まらなかった塩那道路について、年間3000万~4000万の経費を掛けて道路維持を続けてきたというが、栃木県民の血税を20年も吸って吸って吸いまくって、結局は土に帰ろうという塩那道路も、なかなか薄情なやつだ。




 ゲートだ! 
塩原側の3番目のゲートを突破して以来、33kmぶりのゲートである!

しかも、なぜかやる気無さそうに開いている。

あんなに緊張しながらゲート破りをして突破してきたのに、これで板室側のゲートがこれ一箇所だけだったら、笑える。

ともかく、このゲートを過ぎて100mほどの地点が、「本部跡」の塩那標識が立つ広場だ。


 そして、この広場「本部跡」こそが、随分前にこのレポでも書いている、「県道として整備されることが決定されている板室側の区間(8.7km)」の終点である。

 つま~り!
この開放されているゲートこそは、板室側の県道終点となる“予定”の場所だ。

 予定と書いたのには、理由があって、
まだ県道としての整備工事が、ここまで届いていないのだ。
塩原側の工事が、万全に近い形ですでに完了しているのとは、対照的だ。



 さらにこの話には続きがある。
昭和57年の整備計画(中間36kmは建設休止、塩原側7km、板室側8.7kmそれぞれは県道として整備する)において一度は、板室側8.7kmの整備区間(この整備というのは、幅5.5mの2車線舗装路ということだったようだ)の終点に指定され、ここには「深山園地」と言う公園を建設する予定だった「本部跡」なのだが、その後6.6kmほど作ったところで、工事が止まったままになっていたのだ。
おそらくは、予算の都合だろう。
なにせ、ありもしない公園のために、行き止まりとなる定めの道をわざわざ整備するような無駄に、そうそう予算が下りてたまるかってんだぃ。
 で、平成13年頃から再び塩那道路の処遇について様々な議論が交わされ、結局中間部分の廃道化が決定されたことは何度も書いたとおりなのだが、そこで、未完成だった板室側の2.1kmについても、延長と道路規模を縮小することが決定されたのだ。
延長は400m短くなり、幅も1車線に改められるという。

 話が長くなったが、その結果として、「本部跡」は今後の塩那道路については何の意味もない、廃道区間の一部という位置づけに格下げとなったのである。
ちょうど本部跡は小さな鞍部にあり、静かな森の公園を整備するにはうってつけだったのだろうが、その目論見は消えた。

 そうして、新しく終点となる予定なのが、この「川見曽根」の塩那標識に近いあたりの、小さなピークである。
数年後には、計画通りなら、ここまでは車で来れるようになるはずだ…。
いま現在は、まったくもって、将来公園が建設されるようなムードもなく、何の面白みもない場所なのだが…。


 もう、いい加減にしたら?
塩那道路の失敗を隠そうという魂胆の見え透いた、無駄な追加投資は。
イイじゃん、全部廃道にしたらさー?

なんで、こんな中途半端な場所に公園を新たにわざわざ作ってまで、生きながらえさせようとするわけ?
https://yamaiga.com/road/enna/main8.html



路の終わりに 見たもの
https://yamaiga.com/road/enna/main9.html

9-1  未だ造られ続ける塩那道路

14:43

 42.9km地点の「川見曽根」は、あの天空街道から下り続けてきた塩那道路が、「本部跡」の開いたゲートを境に久方ぶりに上りに転じた、その登りの頂点にある。
この約700mの上り坂は、興奮醒めやらぬままに下り初めて以来、気づく場面の無かった己自信の疲労を、しっかりと実感させる、重みのあるものだった。
だが、その上りも、これまでに塩那道路で体験した25kmを越える上り坂を思えば、もはや残り僅かになりつつある本道の最後の足掻きのように思えて、寂しささえ感じるのである。
事実、この上りを終えると、残り7.9kmは、ひたすらに下り続けて終点に至る。



 川見曽根の標高は、海抜1100m。
実は、実際ここにいる時には、自分たちはもっと低い位置まで下りているものと、想像していた。
すでに、ピークの海抜1800m地点からは14kmほども殆ど下りに費やしていたし、残りは僅か8km足らず(8kmを“僅か”と言うのは、チャリ乗りとしては些か塩那に毒された感はあるが…)。
終点である板室は海抜500mより少しくだった場所である。
故に、残りの距離で、高低差600mを詰めていくことになる。
これは、塩原側が開始から8kmで550mほどを、あの7連続九十九折りでクリアしたの以上の大坂が、あって然るべきなのだ。

 では、見て参ろう。
長かった塩那、最後のシーンだ。



 幅5mほどの踏み固められたダートを勢いよく下り始めると、間もなく、路傍の予想外の場所にいままでも繰り返し見てきた距離ポストが、ポツンと立っているのを見た。

なぜ、あんな道路外の場所に立っているのだろう?

わざわざスピードの乗っているのを制動するのも面倒に思えたが、見たことのない奇妙な光景に意を決し、急ブレーキをかけた。
そして、戻って撮影してみると…。

   …やはり、変な場所に、ちゃんと立っている。

 


 ミソは、「ちゃんと立っている」と言うことだ。

決して、路盤から滑り落ちてあそこにあるわけではない。
間違いなく、最初からあそこにあったのだ。
そう思える理由は、幾つもある。
例えば、しっかりと根を張った立ち姿もそうだし、立っている場所のすぐ崖よりに、フトン籠の人工的な路肩があることも、その理由だ。

つまり、私はこう考える。

塩那道路の、この写真の場所などの一部区間は、すでに廃道化の為の工事を受けているのだと。

具体的には、元々の幅広い路盤をフトン籠を土台にした土砂で埋め、道幅を作業用の最小限度に狭める。
それだけ自然更新による緑化スペースが広くなることにもなるこの施工方法は、おそらく、ここまで確信を得られる場面に出会わなかっただけで、各所にあったと思う。
実際、昭和30年代から地表に顔を出し続けている路面とは思えぬ、新しげな盛り土で小刻みにアップダウンしている場所などは道中に何度もあった。

特に、この板室側の下りには。

我々の知らないところで、ちゃんと塩那道路は“対策”され始めているようだ。




 そしてさらに下ると、久々に長い六角ブロック壁が現れた。
そして、そこはいまも工事の途中であるかのように、沢山の工事標識が、立ち並んでいた。

決して、一般車両の立ち入れぬ領域に、殆ど工事関係者だけをターゲットにした、十分すぎる数の標識整備。

おそらくこれが規則通りであり、悪いことであるはずがないが、なんとなく間の抜けたように見えてしまうのもまた、事実だ。




 この工事名の標識を前に見たのは、土平のゲートだった。
それからもう、30数キロも来た。
工事期間はほぼ同じ、あちらには「その1」の文字、こっちには「その2」の文字が見える。
また、こちらには区間や工事内容も細かく記されていた。

工事延長は、長いL=15km。
「路面整正工 1.00式」とは何だろう?
工事期間はいわゆる、冬期閉鎖外の殆ど通年だ。
施工業者は、塩原側とは異なっているようだ。


 来るべくして、来た。

鋪装の再開。

塩那道路の、板室側の絶え絶えな息づかいが、ここで聞こえ始める。

前回「その8」のラストで長々と語ったように、この鋪装&整備工事は、現在も進行形なものである。
川見曽根付近まであと1.7kmほどの整備が予定されているのだ。
しかし、付近にはダート路面を均すためと思われる重機が一台止まっているだけで、舗装工事の延長は今のところ止まっているようだ。

塩那道路の連続長大ダート32kmが、いま静かに終焉を迎えた。


 私とゆーじ氏は、無事に塩那道路を攻略できる見通しを完全に得た。
現在時刻は午後2時52分。
夕刻にはまだ些かの余裕がある。
計画を全うしつつ、時間的にも予定内の内容だった。
山行がレポとしては、いつも以上に予定通り進んだの感はあるかも知れないが、これはひとえに、我々が丸一年以上も、数名の読者さんの情報提供と供に支えられつつ、計画を温め続けてきた、その甲斐あってのことと信じる。
この計画だけは、失敗したくないと本気で丸一年間願ったのだから。

 綿密に計画を立て、十分な協力者がいれば、こうして、何の綻びもなく計画を達せられる可能性は高くなる。当たり前だ。
塩那道路は、「無計画が許されうる道ではない」ということだけは、読者の皆様にも感じていただけたのではないかと思う。

 長い道中だった。
そして、もうちょっとだけ、お付き合い願いたい。
塩那の最後のシーンは、ぜひ、見て貰いたいのだ。



9-2  塩那道路に散った魂 

14:52

 先ほど述べたとおり、この区間の勾配は、かなり厳しい。
九十九折りが少ない分、直線的な高速下りが連続し、あっという間にダート区間では絶対にあり得なかった速度になる。
この調子なら、あとはもう、ものの数分で下界に達するだろう。




 申し訳ないが、金は掛かっている。
センターラインさえ引けば2車線化も出来る道幅には、1車線分のタイヤ痕しかない。
そして、道の両側からは路肩を覆い隠すように雑草が繁茂している。
一箇所、写真の構造物が鎮座している。
遠くから見えたときには、一瞬洞門かと思ったが、これまで見たことのない、巨大な落石・雪崩防ぎだった。
そこまでして守るべき塩那道路には、終点がこれだけ近づいているにもかかわらず、我々以外の人影は無い。
 



 山肌に沿って、大きなうねりのようにカーブしながら、みるみる高度を下げていく。
未だ山々が白いのは、霧などではなく、雲である。
海抜はやっと3桁になったところだ。

 そんな46.3km地点、終点からは4.5kmの地点の路肩は、待避所以上に大きく広げられている。
その路傍には、塩那道路パイロット道路建設の慰霊碑が、ひっそりと立っている。
 


 塩那標識にもしっかりと記載されている、慰霊碑。

己が命を落としたその道を、下流にも上流にも大きく見渡せる尾根の高台に、一基の慰霊碑がしっかりと地に足を降ろしている。
後ろは木の俣川の200mを越える急谷となっており、その向かいには大佐飛山・黒滝山と続いてきた稜線の先端にある百村山があり、その稜線を遠く広がる樹海に降ろしている。
そして、樹海の中には、人間の住む村々が見える。


 いまも関係者によってビールやお酒の差し入れの絶えない、慰霊碑。
その裏面の碑文を、全文拾ってみよう。

陸上自衛隊宇都宮駐とん地第104
建設大隊故三等陸曹高久修二君群馬
県出身は昭和45年8月7日午後4
時40分塩那道路の建設作業中この
地において殉職された行年22歳痛
恨哀悼の意措くにあたわずこの道路の
開通を期しここに160万県民とと
もに永遠に銘記する


   昭和46年10月 建之



ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。



9-3  閉塞突破  

15:04

 ここまでの塩那道路での我々の無事を感謝し、しばし黙祷を捧げたのち、慰霊碑を後にする。

県境の男鹿岳から木の俣川の左岸にずうっと続いて来た稜線の中腹を、塩那道路は辿ってきた。
いま、稜線が急速に高度を落とし、平野に沈みつつある。
塩那道路の道筋は、いつの間にか、稜線にあった。
塩那道路の象徴的な稜線の景色を、ほんの少しだけ思い出させる、最後の稜線区間は、本当に僅か、カーブ一つ分だけである。




 慰霊碑を振り返って撮影。

麓からは遙かに見上げる位置に、たった一人だけの魂が弔われている。
いまはまだ、遺族さえ勝手には近づけぬ場所だ。
数年後には、その縛りは解けるだろうか。
そうなるなら、無駄に思える塩那道路部分整備の、ただ一つの救いに思えてならない。
“160万県民”の悲願の道だったかは大いに怪しい塩那道路、日の目を見ずに消えゆく塩那道路、しかし命を懸けてその建設にあたった大勢の人々がいた。
それだけは、動かせぬ事実なのだから。



 ついに、山だけしか見えなかった路傍の景色に変化が訪れた。
長らく見なかった高圧鉄塔が路上を高く跨いでいる。
木の俣川の対岸には百村山のどこか荘厳な姿。
その雲にけぶる姿は、塩那道路のあの天空街道の雰囲気を我々に思い出させた。
殆ど下り一方の道だったというのに、記念碑からはかれこれもう2時間も経っていた。




 そして、百村山を境に落ち込む稜線は、どこまで続いているのか際限の見えぬ広大な平野に呑まれている。
それは、いま我々がいる稜線もまた、全く同じである。
永遠に思えるほどの深い山々も、こうして終わりの地を迎える。
この広大な平野は、いずれ関東平野にさえ続いていくものだ。
米所の秋田なら、この平野は皆水田となっていそうだが、まるっきり景色は異なる。
首都機能移転計画の候補地にも、この広大な緑の…まるで樹海のような平野は、選ばれたことがある。




15:15
←地図を表示する。


 そして、最後の扉が現れる。

47.7km地点、最後の塩那標識の立つ、その名も「ゲート」。
残りは、3.1kmだ。
海抜700mの、塩那道路黒磯側で唯一閉じられている、ゲートである。
黒石側で唯一なだけあって、常時閉まっているゲートが二つ、時間帯ゲートが一つあった塩原側に比べると、より厳重である。




 コンクリートの法面と、ガードレールの置かれた路肩斜面に挟まれたアスファルトを、完璧なゲートが封鎖している。
これは、山行がの知りうる無人ゲートとしては、最もセキュリティレベルが高いものの一つだ。
ポイントは、脇を有刺鉄線を絡み付かせた鉄パイプの格子で覆ったことと、ゲート本体の高さがあるだけでなく、下部に横棒を二本通し、足回りを強化したことにある。
この足回りの強化は、かつてバイクを倒して進入しようとした痕跡を発見した当局が設置したものとも伝えられる。
有刺鉄線についても、昨年は存在しなかったらしい。

 まあ、どう抜けたかは、ご想像にお任せするが、何も奇抜なことはしていない。




 ゲートを越えて、現行犯逮捕の恐れは消える。
我々はここでやっと、大声で互いを祝福しあった。
序盤には、私に異常な動悸さえさせた緊張も、やっと解れた。

 ゲート正面の様子。
あまりゴテゴテとごたくは述べられて居らず、シンプルだ。
しかし、南京錠は二つ取り付けられていたり、本気度は高い。




 ゲートを抜けて最初のカーブ、ゲートからは目と鼻の先にある、最後の塩那標識。

これで、塩那道路も終わりだと。
そう思った我々だったが、最後の最後まで、お楽しみは …あった。
いよいよ、ラストスパートだ。






9-4  おわり  

15:17

 ゲート前で暫く佇んだのち、のこり3.1kmの下りに入る。

 もう、誰に気兼ねすることなく大手を振って走れる公道。
県道266号線の一般区間である。
ただしそれは、出会い頭の交通事故の危険性を孕んでおり、今まで以上に慎重に走る必要は、あると思った。

 しかし実際には、誰もいなかったが、最後まで。




 一般者の目にとまる区間は、わずか3.1kmだけ。
そして、その区間にはご覧の通り、何度も何度も、しつこいくらいに、通行止めの予告が出されていた。
これでは、一般のドライバーならゲートまで行く気にもならないに違いない。
写真では、ゲートから200m、500m、そして1.5km地点の3枚を撮っているが、路傍には他に、1kmと2kmの地点にも立っていた。

なにも、そこまでしなくてもねぇ?
あれだけのゲートを造っておきながら、なお自信がないのだろうか(笑)



 勾配は、むしろ下るほどに厳しさを増している感がある。
最後の3kmで200mと少しの高さを一気に下るので、それは感覚的な物ではなく事実だろう。
また、ここには黒磯側には数少ない九十九折りのカーブも2.3ある。
ゲートの中に引き続き、2車線の道幅の半分近くが、草むらに覆われている。
観光バスが列を成してここを上っていく光景など一度も実現しないまま、道路としての命脈も尽きつつある様に見える。



 残り1.5km地点。
直線路の途中で、道が不自然に両側に広がっている箇所がある。

もしかしたら、ここに料金所を設置するつもりだったのかも知れない。

塩那道路ならぬ、日塩道路として塩那道路の前に構想され建設された、現在の「日塩もみじライン」(鬼怒川・塩原間)は、全長28kmで普通車600円と比較的安めの料金設定である。(2005年現在)

「塩那スカイライン」(全長51km)が実現していたとしたら、果たしてどんな料金で通れたのだろうか。
想像してみるのも面白い。




 片側通行の工事標識が立っているので何だろうと思えば、その先にあったのは、単に路肩の水溜まりだった。
見たところ、アスファルトが3cmほどの深さで楕円形に幅広く凹んでおり、地盤の強度の問題があるとして、路肩側の通行を防いでいるのだろう。
とはいえ、その水溜まりには落ち葉が沢山浮き、そこを囲むコーンが一部倒れたままに放置されているなど、もはや「どうでもイイ感」が溢れだしている。一応、ここは現役の県道なのだが…。

 同じ命運にある塩那道路の部分整備区間でありながら、いち早く整備された塩原側(7.0km)と比べると、いまだ未完成の黒磯側(8.9km)は、どうにも惨めな感じがする。
景色的にも、塩原市街を一望し高原山を俯瞰する塩原側の圧倒的なそれには、劣る気はするが、それにしても、この差は酷い。
黒磯市と塩原町の塩那道路整備に対する積極性の違いだろうか。



 周囲のどの山よりも自分のいる場所が低くなり、本当に終わりが近いことを実感する。

次のカーブで最後の景色が現れるか、はたまたその次か。

高速で駆け下りながら、その瞬間を待った。


 分岐地点が見えてきた。

塩那道路51km目に現れた、信号もない小さな分岐地点。

これが、終点だ。

塩那道路、終点。
無人で車通りの全くない、終点。

 時刻は午後3時30分。
入山から、ちょうど9時間での通過だった。

余りにも寂しすぎる。
我々の攻略完了を祝福する者がいないのまでは当然としても、花形観光道路を嘱望された道の一方の果てが、これとは…。

 塩那道路の51kmは、余りにもしょうもない景色の中で、最後を迎えたのである。
3.1km先の通行止めを告知する、汚れ果て、だらしなく道を半分だけ塞ぐバリケードだけが、この道がただの道ではないことを、語っている
…か?

語ってないよなー。
これじゃ、ただのダメ道路にしか見えない。
 

 とりあえず、この場所は県道同士の合流地点であり分岐地点である。

直進は塩那道路こと、一般県道266号(中塩原板室那須)線。
右は、一般県道369号(黒磯田島)線である。
この369号線というのも県下有数の曲者県道であるらしく、数キロ先のダム湖の先は何年も前から通行止め、行き着く果ては、塩那道路さえ越えようとしなかったあの男鹿岳であるという。
男鹿峠が奥羽山脈を東西に横断し、福島県会津の田島町に通じている、現在廃道(今後の探索予定あり)。


 手前は二つの県道の重複区間となるが、あと100m下るとまた二手に分かれ、369号線は黒磯市街へ下り、266号線の方は那須高原へと再び進路を北に切り替えている、そしてその先は、主要道路らしい姿となっている。
ここに立っているだけで、背後からは車の通る音が響いてくるときがあった。

 左の写真は、塩那道路終点から100mほど下った先の、266号線(←)と、369号線(→)の分岐地点(T字路)。
ここは、車通りが多い、那須高原観光の主要道路である。
我々は、ここで起点から走り続けた266号線と別れを告げ、右折した。
そして、道の駅塩原へと、戻ったのである。




16:17

 道の駅塩原までの帰路。
最短距離で県道を走ったわけだが、その途中、ちょうど板室と塩原の中間地点のあたりに、蛇尾川を渡る塩那橋がある。

蛇尾川は、塩那道路を走った者には忘れられない名前である。
なにせ、小蛇尾沢を10km以上も取り巻いて走り、大蛇尾沢を深く見下ろしながら、大佐飛山に小佐飛山を遠望しながら辿る道だったのだから。
大蛇尾小蛇尾を合流させたその川が、那珂川になるまでの区間が、蛇尾川である。

 そこに掛かる橋の名は、塩那橋。
かたや、51kmの山岳道路で塩那を結び、かたや、僅か15kmと一本の橋だけで、結んでいる。
 

 塩那橋から見る、大佐飛・小佐飛の山々。
あの奥の奥、一番奥の稜線を、塩那道路は通っている。
ここからでは、稜線までは見えなかった。


 この後、最後の力で我々は道の駅へとたどり着くと、祝勝会もそこそこに温泉で汗を流し、その晩のうちに別れた。
たった24時間の同行ではあったが、計画成功と言うだけではない実りある邂逅を果たせたように思う。

私の夢の一つ、塩那道路完全制覇の立役者、ゆーじ氏には、心から感謝する。
(参考>ゆーじ氏の塩那レポが読める「銀の森牧場」はこちら)
 



15:33

 
ちょっと待て!

今回、私が終点で見つけた物を紹介するのを忘れていた。

塩那道路の、最後の最後の贈り物。

私の涙腺がかなり緩んだその発見とは、ご覧の、





 道路情報表示板である!!

 きたーーーー!
やっぱ、これでしょーーー。
やっぱりこれがないとね、峠道の前にはこれだよね。
小綺麗に整備されてしまった塩原側には存在しない、塩那道路ただ一箇所現存する、道路情報表示板。
終点の藪の中に、すっかり埋もれておりました。




 かなり昔のタイプで、バスの行き先表示の方向幕のような構造になっている。
つまり、扉の中の樹脂製のシートが必要に応じて機械内部でスクロールして、表示内容を切り替える仕組み。
そのシートの裏には蛍光灯が取り付けられていて、夜間でも表示が見える仕組みになっている。

 すでに電源からは切り離されてしまっており、現役県道でありながら代替の表示板もないわけだが、この機械には鍵が掛かっていなかった。

 ちょっと、イタズラしちゃおうかなー。







 お わ り

 って(笑)!


巻物状のシートを全て手動で巻き取ってみると、最後に出てきた文字は、「おわり」の3文字であった。

こんな表示、みたことないよね?!


では、レポの締め、行きますよ。



https://yamaiga.com/road/enna/main9.html
4:777 :

2022/08/11 (Thu) 22:27:40


補完レポート 塩那道路 冬の遠景
https://yamaiga.com/hosoku/hosoku_1.html

 
公開日 2006.01.19
撮影日 2006.1.某日

 福島県にお住まいの福太郎さまが、ごく最近に撮影された、塩那道路の写真を送って下さいました。

 もっとも、ご存じの通り塩那道路は冬期間閉鎖される道路であり、それどころか夏場だって一般には立ち入ることが出来ない道だ。

 彼が撮影したのは、塩那道路を遠くから眺めた景色である。
しかしそれはある意味、塩那道路内で私が撮影したどの写真以上に、衝撃的なものだったのである。

 日本随一の巨大観光廃道の、誰でも見ようと思えば見られるその姿を、福太郎さんのカメラと、私の語りで、ご覧頂こう。


塩那道路 冬の遠景 

 見えます?

 黒磯市の郊外から、塩那道路のある奥羽山脈方向を撮影したこの写真に、アノ塩那道路の尋常でないほどに長いアプローチが、くっきりと写っている。

 まるで、山肌に付いた擦れ傷のような、横の筋…。

 あれが、塩那道路の黒磯側延々20km続く登りの、前半部分のようだ。

 いやー、確かにあの辺りを走っているときには、麓の世界がまるで樹海のように見えてはいたけど、逆からもこんな風に鮮明に見えていただなんて…。




 これは同じ黒磯市内でもまた別の場所から望遠で撮影された写真で、上の写真よりも起点方向(塩原方向)が写されている。

 雪のラインとして写っているのが全て道路というわけではく、送電線なども混ざっているのだが、中央奥の山肌の水平ラインと、右の裏の方の山のやはり水平のラインは、おそらく塩那道路の姿だ。



 それにしても、あの塩那道路の核心部分にかなり近い辺りが、麓からこんなにも鮮明に見えるのだとは、知らなかった。

 栃木県民のみなさまは、朝の出勤に仕事中の移動にと、この辺りを通る度に、塩那道路を見ているわけで…。

 だからなんだと言われればそれまでだけど、栃木県民の塩那道路への注目度が高いという事実も、納得できる気がする。

 これは、タダの道路の姿ではないぞ、明らかに。



 ズズイッとカメラを引いて。
塩原側から上ってきた塩那道路が、最初の峠である土平(写真左端の辺り)から、小蛇尾沢を足元にどんどこどんどこ山腹を上り続けていく様子が、こんなにもはっきりと写っている。

 やっぱり、これは凄い道だ。




 うぐっ。


もー
 だめでんわ。


  おっ、思わず茶魔語が出る凄まじさだ。

 これは、夏でもかなり鮮明に道なりが見えていた、塩原側の七重九十九折りである。
https://yamaiga.com/hosoku/hosoku_1.html
5:777 :

2022/08/11 (Thu) 22:30:46

中塩原板室那須線の近くの名湯

栃木県 那須塩原 板室温泉
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14013349


塩原温泉郷 福渡温泉 不動の湯 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/kyoudouyu/58429/

中塩原温泉 松の井荘 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/dayuse/65217/

塩原温泉 塩の湯 柏屋旅館 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/stay/58364/

塩原元湯温泉 大出館 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/stay/58255/

塩原温泉 明賀屋本館 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/dayuse/58100/

奥塩原新湯温泉 湯荘白樺 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/dayuse/48351/
6:777 :

2022/08/11 (Thu) 22:33:19

景色が良い道をドライブしよう・花鳥風月Visual紀行 _ まとめ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14032292


▲△▽▼


北海道一周車中泊の旅 _ 北海道には見るべき風景なんか何も無い
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14025888

北海道は底が浅い、東北の方が、風景、食べ物、温泉、女性、すべてが遥かに素晴らしい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014159

北海道車中泊旅 _ 軽自動車N-VANで暮らす20代夫婦の生活
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14026554

北海道に移住するとこういう目に遭う
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016282


▲△▽▼


日本の掛け流し温泉の酸化還元電位(ORP)の比較
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14012669

温泉・旅館関係ブログへのリンク
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/257.html

車中泊で温泉巡りしよう
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008086

車中泊 - 5ちゃんねるスレタイ検索
http://find.5ch.net/search?q=%E8%BB%8A%E4%B8%AD%E6%B3%8A

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.