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ヴァイオリニストの系譜――パガニーニの亡霊を追って 三浦 武

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2022/07/25 (Mon) 11:00:08

ヴァイオリニストの系譜――パガニーニの亡霊を追って 三浦 武


小林秀雄に学ぶ塾 同人誌 好*信*楽
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2022/07/25 (Mon) 11:11:05

ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って
三浦 武

その一 ヴァイオリニストの話をする前に
https://kobayashihideo.jp/2019-01/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-1/


「休日は ?」「クラシック音楽を聴いています」「ほぉ ! いいですねぇ」……どこかひっかかる。たしかに「クラシック音楽」は「いい」。ところが、「いい」というそのニュアンスに抗う気分もこちらにはある。ロックにもジャズにも「いい」ものはあるし、クラシックにも、こういっちゃなんだがどうでも「いい」ようなものがたくさんあるような気がするし。そもそも「クラシック音楽」が豊かな趣味的生活の、さらには、ひょっとしたら、その趣味的生活を支える富裕な経済的生活の、その象徴みたいになっていないか。それが「いい」か?

「午後のひととき、クラシック音楽をお楽しみください」……こんな文句がラジオから聞えてきたこともあった。そのとき一緒にいたK君は不自然に黙った。K君は西洋美術史を専攻する若い研究者だが、話が音楽、ことにクラシックになると、哲学者の顔で語り始め、しばしば止まらなくなるので、K君の前でクラシック音楽を話題にするときにはしかるべき覚悟を要するのである。そんなK君の沈黙だ。私は傍らにあって彼の不機嫌を悟った。

「午後のひととき、か」

「僕はそんなふうに音楽を聴いたことはありません」

「同感。では ?」

「ええと……人生の一瞬 !」



最小限の食物が一個の身体を支えるとき、丹念に嚙みしめられる二百グラムのパンは、深く痛切な祈りがこめられた物となる。二百グラムの重さのまま、それをはるかに越えたいわば根柢的な重さを獲得する。

(『小さなものの諸形態』市村弘正)



その「深く痛切な祈り」へと飛翔する想像力がなければ、人は一切れのパンがもつ「根柢的な重さ」などに気づかぬまま、それを単なる消費物へと貶めてしまうだろう。現に今日、パンならぬ芸術でさえ、少なくともこの「豊かな」国では、人々のひとときの感傷に応えるだけの、果敢ない役を担わされていないか。ベートーヴェンが、南京虫に食われながら命がけで音楽を創り、吹雪の日に雷鳴とともに死んだのは、そんなもののためだったのか。そんなはずはないのである。芸術とは、その創造にせよ、あるいはその享受にせよ、人間が人間として生きるために必須の何かだったのである。それともそんなことは、私の狭隘な芸術観に過ぎないのだろうか。



そうかも知れない。しかしながらたとえば、二次大戦中のベルリンでのある出来事は、芸術というものの一つの可能性についてよくよく考えさせてくれるもののように思われる。

1945年1月23日、連日の空襲で壊滅寸前にあったナチス政権末期のこの都市にあって、ベルリン・フィルハーモニーは、なお定期演奏会を開催している。それは政権の矜持を懸けたプロパガンダではあっただろうが、そうした為政者の意図を超え、民衆の切実な思いの凝縮される場にもなっていたであろう。その演奏会は日常として継続されねばならなかった。ただ、一年前の空襲でフィルハーモニーの建物が破壊されたために、演奏会場だけはアドミラルパラストという赤い絨毯の敷かれた劇場に変更されていた。モーツァルトの歌劇「魔笛」より「序曲」、同じく「交響曲40番ト短調」、そしてブラームスの「交響曲1番ハ短調」、以上が当日のプログラムである。指揮、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

既に前年、フルトヴェングラーは、自らの名がゲシュタポのブラックリストに加えられていることを知らされていた。また、ヒトラー側近の建築家として首都ベルリンの設計を担っていた閣僚アルベルト・シュペーアから、ただちに亡命すべきことを示唆されてもいた。そんな差し迫った状況に彼はあった。

連夜の空襲で、その日の開演も午後三時に繰り上げられていた。そしてプログラムはモーツァルトの「交響曲40番」へと滞りなく進んでいた。ところがその第二楽章でのこと、突然、館内は闇に閉ざされた。照明が落ちたのだ。空襲 ? だがフルトヴェングラーは陶酔から覚醒しなかった。突然の停電にもかかわらず、タクトは振り続けられた。団員たちは、一人また一人と弓を持つ手をおろし、口もとから管を離していった。もとよりそれもやむを得ないことであった。暗闇のなか、非常灯がいくつか青く光っている。第一ヴァイオリンだけが少し長く演奏していたようだが、それも束の間のことだった。やがて完全な静寂が訪れ、フルトヴェングラーの視線は音楽家たちの上にさまよい、次に背後の聴衆に振り向けられた。タクトはおろされた。それは……それは何かの敗北であった。

舞台裏にさがった団員たちは、ひとかたまりに佇んだ。その沈黙の真中にフルトヴェングラーは悄然と立っていた。聴衆は数人ずつになってロビーや中庭に散っていた。いつか夜になっていた。煙草に火を点け、手を擦り合わせながらひそひそと言葉を交わすが、彼らには何のあてもなかった。が、会場を離れる者もいなかった。皆、瓦礫を踏み越えてきたのである。これが最後だ、誰もがそう感じていたのである。

おおむね一時間の後、送電の復旧を待たずに、フルトヴェングラーは決断した。団員は持ち場に帰った。灯りのない舞台の上で、振り上げられるタクトがかすかな光芒となり、最後の音楽の最初の音が響いた。ティンパニーによる「運命」の鼓動。それは中断したモーツァルトではなく、プログラムの最後、ブラームスの「交響曲1番」第一楽章であった。それはいかにも必然的な選択であった。居合わせた人びとには、ブラームスを媒介とした沈黙の連帯こそが求められていたのである。フィナーレには黎明の旋律が「歓喜」の楽章のように流れ、聴衆は、おそらく、ベートーヴェンを起源として育んできたドイツ的伝統に陶酔したことであろう。そして緘黙の裡に熱狂したことであろう。と同時に音楽は、生存の意志を訴える叫びともなって、全楽章を貫いたのであった。



ブラームスは、この最初の交響曲の創作に、着想からおおむね20年の歳月を要した。ベートーヴェンの九つの交響曲があったからである。その九曲の正統に続く一曲、「第九」のあとの一曲を音楽史上に現す……ブラームスにとって、少なくとも交響曲を作曲するということは、そういうことに他ならなかった。それゆえ、数年に及んだ推敲を経てようやく発表されたこの作品には、自らベートーヴェンの後継たらんとし、歴史に推参せんとしたブラームスの、その芸術家としての人生を賭した格闘の痕跡があるはずである。ハンス・フォン・ビューローは、この一曲を「ベートーヴェンの十番目の交響曲」と称賛した。「ドイツ3B」だの「新約聖書」だのと、とかく気の効いた言い回しが印象的なビューローの言葉であるから、そのまま受け取るべきではないかも知れないが、またこの言葉によってブラームスはかえって迷惑を被ることもあったであろうから、「交響曲10番」みたいな言い方はやめておくのが賢明だろうが、それでも、そういいたくなるような鼓動は、たしかに音楽の底に脈打っているように思われる。ブラームスは1897年に没したが、その魂はベートーヴェン以来のドイツ音楽史に融け合って生き続けていたかも知れない。そして常に深い畏敬の念と謙譲とを以て史上の作曲家に向き合い、その作品を、既に存在するものとしてではなく、その都度生成されるべきものと考えたフルトヴェングラーが、いま、それを現前させた。ドイツに留まらざるを得ない多くの同胞のために、奈落にあっても生きるべき一つの根拠を提示し続けるために、亡命を選ばず母国に留まったフルトヴェングラー。そのベルリンでのフィナーレに立ち合った聴衆は、演奏会場の外で確実に進行する亡国の激浪に翻弄されながらも、信頼に足る唯一の実在である音楽に依ってそれに耐え、ドイツ民族の系譜に自らを見出したのではなかったか。

1945年のこのブラームスの1番は、フルトヴェングラー専属のレコード・エンジニアであり盟友ともいうべきフリードリヒ・シュナップ博士によって、停電復旧後の第四楽章のみではあるが、録音されている。

Brahms, Symphony No.1 in C Minor, Op.68 ( 4th Movement ) / Wilhelm Furtwangler ( 1945 )
https://www.youtube.com/results?search_query=Brahms+Symphony+No.1+Furtwangler++1945

Wilhelm Furtwangler, conductor
Berliner Philharmoniker
1945 ( BP / New remastering in 2019 )

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注)

1945年1月23日……この日、同じベルリンで、ベートーヴェン「皇帝」も録音されている。ピアノ、ヴァルター・ギーゼキング。最初期のステレオ録音として再生音楽史に遺るものだが、そんなことより、背後に、高射砲か何かの不穏な音が聞こえるのである。



ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)……ベルリン生まれ。1922年ベルリン・フィル常任指揮者に就任。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュの後継である。1933年に帝国音楽院副総裁(総裁リヒャルト・シュトラウス)の地位に就くなど要職にはあったが、ヒンデミット事件での振舞い等から、単純にナチス側の人間だとは断定するわけにはいくまい。しかしながら、大戦勃発後もドイツに留まったということもあって、戦後は所謂「非ナチ化」のための裁判を闘わねばならなかった。アルトゥール・トスカニーニやヴラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン等のユダヤ系の音楽家による批判はその後も続いたが、イエフディ・メニューヒンはユダヤ人ながら、フルトヴェングラーを擁護したのであった。戦後のメニューヒンは「落ちた」との評判が専らだが、少なくともフルトヴェングラーとの共演は、そんなことはない。



ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)……フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)、ついでフランツ・リストの就いて学んだピアニストであるとともに、リヒャルト・ワーグナーの高弟として近代的指揮法を創始した指揮者でもあった。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を担当。ベルリン・フィル常任指揮者。むろんワーグナー派に属したが、妻(リストの娘コジマ)がワーグナーのもとに走った頃から、徐々に一派を離れ、古典派ブラームスに与するようになった。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3B」と名付けたり、またバッハの平均律クラヴィーアがピアノの「旧約聖書」であるのに対し、ベートーヴェンの三十二のソナタは「新約聖書」であると称賛したり、なかなかうまいことを言う、おそらくは当代きっての教養人であったと思われる。ブラームスの交響曲1番を「ベートーヴェンの10番」と賛辞を送ったのも彼だが、それをブラームスの驕りであるかのごとく受けとめる向きもあっただろう。



フリードリヒ・シュナップ(1900~1983)……音楽学を修めた哲学博士。実際の演奏の緊張や均衡を活かすべく、ただ一本のマイクロフォンの絶妙な配置によって優れた録音を実現した。フルトヴェングラーは「何も行わない」シュナップを信頼し、戦中録音のほとんどを委ねている。戦後は北西ドイツ放送局に移り、1951年にもフルトヴェングラーの指揮でブラームスの1番を録音した。このときのコンサート・マスターは、シュナップと同様にベルリンから北西ドイツ放送交響楽団に移籍していたエーリッヒ・レーンであった。1945年1月23日の演奏会のコンサート・マスターは、このレーンか、ゲルハルト・タシュナーか、ということになるのだが、私にはちょっとわからない。タシュナーはチェコの人であるし、1941年に入団したばかりであるから、あのライヴの民族的高揚ということを考えると、やはりレーンか……などと考えてみたくもなるが、根拠があって言うのではない。なおジネット・ヌヴーのソロとハンス・シュミット・イッセルシュテットの指揮によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のライヴ録音があるが、それも、その音質の傾向から、シュナップ博士による録音ではないかと、私は想像している。無私の録音技術こそが、きわめて個性的な表現を実現するという逆説であるか。「そういう風にはみえないでしょうが、私は内気な人間なんです。出しゃばるのが嫌いなんですよ」。
https://kobayashihideo.jp/2019-01/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-1/
3:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:12:33

Oistrakh Sibelius Violin Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=++Oistrakh++Sibelius+Violin+Concerto



Oistrakh Rozhdestvensk Sibelius Violin Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=++Oistrakh++Rozhdestvensk+++Sibelius+Violin+Concerto

David Fyodorovich Oistrakh (1908-1974), Violin
Gennady Nikolayevich Rozhdestvensky (1931-2018), Conductor
Moscow Radio Symphony Orchestra
Recorded 12th July of 1965, in the Grand Hall of the Moscow Conservatory, Moscow, Russia.


Oistrakh Ormandy Sibelius Violin Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=++Oistrakh++Ormandy++Sibelius+Violin+Concerto

David Oistrakh
The Philadelphia Orchestra
Eugene Ormandy
Studio recording, Philadelphia 26.XII.1959


Oistrakh Ehrling Sibelius Violin Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=++Oistrakh++Ehrling++Sibelius+Violin+Concerto

David Fiodorovich Oistrakh (1908-1974), Violin
Sixten Ehrling (1918-2005), Conductor
Stockholm Festival Orchestra
Rec. June 1954


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運命愛のひと~ダヴィッド・オイストラフをめぐる系譜
https://kobayashihideo.jp/2019-03/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-2/


ダヴィッド・オイストラフの音は、真っ直ぐに「来る」。躊躇いがない。ひじょうに率直な、大きな演奏だ。今、私はそう思うようになった。手許にある幾つかのオイストラフ評を引いてみても同じである。「深く、バランスの取れた、音楽家としての技倆のともなった、気高さ、誠実さ、そして、飾り気のなさ」「その音の大きさ、幅、よく伝わる響き、またアーティキュレーションの朗々たる豊かさとビロードのように温かい肌ざわり」「その演奏の説得力と音楽的な純粋さ」「すべすべと肌理こまかく、硬質な力強さ」「ロシアの自然を感じさせる瑞々しい抒情性」……聴けばわかる、とでも言いたくなるようなその感触を、なんとか表現しようと言葉を探し重ねている、その評者の気持がうかがえる。私もまったく同感である。

だが、はじめは別段いいとも思っていなかった。技術的な問題などは私にはわからない。ただ、こっちに「来る」何かがなかったのである。

ところが、である。吉田秀和が、オイストラフのレコードを聴いて愉悦に浸る小林秀雄を描いているのだ。

「数年前、大磯の大岡昇平さんのお宅で、小林さんにお目にかかった。少しお酒が入ると、小林さんが、レコードをききたがり、『名人をきかせろ、名人をきかせろ』と言った。大岡さんが、『そう、何があるかな』といって、探したが、なかなかうまいのが出てこない。失礼だと思ったが、私が立って、大岡さんのコレクションをひっかきまわしてみると、いろいろモオツァルトの珍しい曲とか何とかはあっても、名人の名演と呼べるほどのレコードはほとんどない。やっと、オイストラフの独奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲がみつかったので、それをかけると、小林さんはとても陽気になり、一段と早口になって、『こうこなくっちゃ、いけません』とか何とか言いながら、真似をしたり、陶然とききほれたり、それを見ているのは、本当に楽しかった」(『ソロモンの歌』)

……これは困った。小林秀雄がオイストラフをいいと言ったらしい。となれば、オイストラフが悪いとは、すなわち私が悪いということだ……まさかそんなふうに従順に考えたわけでもないが、オイストラフを聴き直さねばならない仕儀になったとは、これは直ちに思ったことだ。ソヴィエト連邦の巨匠オイストラフなど、東西冷戦の心理的緩和剤として捏造された希望としか、それまでの私には見えていなかったのである。鉄のカーテンの彼方にも存在した尊敬すべき人格者、それはそうかも知れぬが、そもそも生産性至上主義の偏狭な合理主義的空間に芸術など育つはずもないのだから、巨匠オイストラフとはいえ、どうせ大したヴァイオリニストではない、というわけなのだった。事実、いまひとつ覇気に欠けるような、そんな演奏も彼にはある。だから、小林秀雄の称賛も、ひょっとしたら大岡昇平ならびに吉田秀和の親切に報いた挨拶にすぎないのではないか……。

まもなく、私は自らの偏見を糺されることになる。件のシベリウス、ヴァイオリン協奏曲。オイストラフはそれを幾たびも録音している。民族的な香りといい全三楽章の見事な構成といい、多くのヴァイオリニストを誘惑してきた名曲であるから、既に少なからぬ録音があるわけで、そこにさらに一枚を加えるとなれば、さすがに生半可なことはできないに違いない。それを、四回だか五回だか、とにかく呆れるほど繰り返し吹き込んでいる。もとより各地のオーケストラの要請に応えたにすぎないのかもしれないが、やはりオイストラフ自身にも並々ならぬ思いがあったのではないか。私の手許には三種あるが、みなそれぞれに違ってそれぞれにいい。北欧の風と大地の香気が立ち上るストックホルムのもの、いかにもロシアンとでも称すべき怒涛のモスクワのもの、そして美学的な構築が図られたフィラデルフィアのもの。

小林秀雄の聴いたのはどれだろう。それはともかく、「少し」、かどうかは疑わしいが、とにかく「酒が入って」、小林秀雄が「名人をきかせろ」と、おそらくは上機嫌に繰り返した、そのまことに率直な要求は、他でもない、ヴァイオリンが聴きたいということであったろう。音楽で「名人」といえば、少なくとも小林秀雄にとってはヴァイオリニストだし、「私はヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と書いてもいる。そこで大岡昇平と吉田秀和という弟子筋の二人があれでもないこれでもないと棚をひっかきまわした挙句、ようやく鳴り始めたのがたまたまオイストラフだった。シベリウスのコンチェルト第一楽章冒頭である。まずは静謐、北欧の黎明の大気に乗って、一頭の猛禽類が悠然と線を引いて舞う。その切れ目のない一筆書きの旋律を、オイストラフという正真正銘のヴァイオリニストが、そのストラディヴァリウスが、渾身の演奏で描ききるのだ。「こうこなくっちゃ、いけません」……。さてどんなものだろう。もとより私の空想にすぎないが、しかしいずれにせよ、この夜のオイストラフは、師匠の意に見事にはまったようである。



1908年、オデッサに生まれたダヴィッド・オイストラフが、当地の音楽院に入学したのは15歳、1923年である。それは、十月革命後の内戦に赤軍が勝利しソヴィエト連邦が成立した、その翌年だ。そして1924年にはレーニンが没し、ほどなくスターリンが権力を掌握することになる。オイストラフの音楽家としての始動は、かかる転換期に重なっている。しかもその当時、あの、綺羅星の如く居並んでいた国内の「先輩たち」は一人も残っていなかった。エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、そして彼等の師であるレオポルト・アウアーも、皆アメリカに渡ってしまった後だった。サンクトペテルブルクのアウアー一門は去ってしまったが、幸いなことに、アウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーはオデッサに健在だった。オイストラフは五歳でその門下となり、そのままオデッサ音楽院、ストリャルスキーのマスタークラスに入ったのである。

ベルギーのアンリ・ヴュータン、ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキの後継として、1868年サンクトペテルブルクの音楽院にやって来たハンガリーのレオポルト・アウアー、このマジャールのユダヤ人教師によって確立されたヴァイオリン演奏の頂点ともいうべきロシア派は、上に述べたように一門を挙げて亡命、アメリカ合衆国にその拠点を移したが、ストリャルスキーによって本国にもその系譜は遺されていたのである。そこでオイストラフは、よほど大切に育てられた。エルマンやハイフェッツや、さらには後のメニューヒンが、セーラー服に半ズボン姿で活躍したその歳頃に、オイストラフは国家のヴァイオリン部門を担うべく将来を嘱望され、その才能の「時熟」のために第一級の教育を受け続けていたのである。彼が本格的な演奏活動に移行するのは、その教育課程をすべて終えた十八歳になってからだ。

ピョートル・ストリャルスキーが偉大な教師であったことは疑いない。オイストラフ以前にも、ナタン・ミルシテインという俊才を世に出している。となれば、その演奏を聴いてみたくもなるのだが、録音は存在しないようだ。これはよくあることで、殊にかつてのロシアや東欧では、その部門の第一位は教育に専心し、したがって録音活動等はしない傾向とみえる。晩年になって、自分の演奏がままならなくなる頃に、ようやく後継者のために僅かに録音するくらいのものなのだ。アウアーにも公式の録音はない。現代の我々にとっての録音活動が、専ら同時代平面上での、水平軸での普及を眼目とした商行為であるのに対し、二十世紀初頭のそれは、ときに後世への保存と継承を本質とする、縦軸の教育的行為であったことがわかる。ミルシテインは亡命してしまったが、オイストラフはロシアに留まり、師を立派に継承した。だとすれば、ストリャルスキー先生は、もはやご自身の録音のことなどお考えにならなかったであろう。音楽家の最大の仕事は教育だ、自分の名はどうでもよろしい、優れたものが受け継がれ育まれさえすれば……ひたすら個の達成を価値として生きねばならない現代人は、ただ嘆息し、仰ぎ見るばかりである。

ロシア派のロシアでの系譜はダヴィッド・オイストラフに託された。そして彼はモスクワ音楽院教授としてそれに応えた。息子のイゴール・オイストラフの他、ヴィクトル・トレチャコフ、ヴァレリー・クリモフ、マルク・ルボツキー・ヴィクトル・ピカイゼン、オレグ・カガン、ギドン・クレーメル……門下には錚々たるヴァイオリニストの名が並ぶ。が、他方、オイストラフには膨大なディスコグラフィーもあるのである。それは、言ってみれば、ソヴィエト連邦はその文化的内実によっても西側世界を圧倒せねばならない、という国家の方針の表れだ。それに応えたオイストラフはどこまでもロシアの人なのである。すべては、自分を育ててくれた国家のためだと言っている。ソ連を出て西側で暮らすつもりはないか、とメニューヒンに尋ねられて、何から何まで国家の世話になり、国家のお陰でヴァイオリニストになれたのに、その国家を捨てることなどできない旨を答えてもいる。その国家がソヴィエト連邦のことかどうか、それはわからない。しかし、政治体制の如何にかかわらず、祖国はあり、祖国の人々はいる。オデッサに生まれたロシア系ユダヤ人として、彼は祖国のために忠実であったのだ。彼は宿命に抗わず、それをすべてとして受け容れていた。

さて、1954年ロンドン・アルバートホール、翌年ニューヨーク・カーネギーホール。この二つのコンサートの成功で、オイストラフは世界が注目するヴァイオリニストになった。ロンドンでは、ハイフェッツと比較して称賛する批評も現れた。カーネギーホールのコンサートは、これはオイストラフにとっても記念すべき音楽会であったろう。この日のホールのスケジュールは、二時半からミッシャ・エルマン、五時半からがオイストラフで、八時半からはストリャルスキー門下の先輩ナタン・ミルシテインというプログラムであった。三人ともウクライナの出身のロシア系ユダヤ人である。さらに客席にはポーランド系ユダヤ人のフリッツ・クライスラーの姿もあった。「彼が深く物思いに沈んでわたしの演奏に聞き入っており、それから立ち上がって拍手してくれたのを見ると、私は感激のあまり、夢を見ているような気分になった」(マーガレット・キャンベル『名ヴァイオリニストたち』阿部宏之訳)

この頃、オイストラフはヴァイオリニストとしての人生の頂点にいた。そしてこの後、さらに高まる国家の要求に、演奏会とレコーディングの、息つく暇もない苛酷なスケジュールに、ただただ翻弄されていったのである。しかもそれに何の不満も抱かず、いつも上機嫌で、ときにはヴィオラを構えたりタクトを振ったりしながら、演奏家として、プロフェッサーとして、故郷と故郷の人々のために、幸福に生き抜いて、そして疲れ切ってしまったオイストラフ。その晩年の人生は悲劇的である。遺された音源に、その本領とは隔たるものがあるのもやむを得ない。しかしながら注意深くその演奏に耳を傾ければ、やはりオイストラフという人の人となりが見えてくるのである。



ソヴィエトでの録音に、ヴィターリのシャコンヌがある。聴けば一瞬で救済されるような、どんな人生も肯定されるような、そういう健全な音楽である。その感触は生涯を通じて変わらない。



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注)

ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)……ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市オデッサに生まれる。ユダヤ系。父はアマチュアのヴァイオリニスト、母は合唱団の歌手。家は貧しくストリャルスキーはレッスン料を免除した。

1934年モスクワ音楽院助手、1935年国内コンクールで優勝し、そのまま必勝を期して、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場するが、カール・フレッシュ門下のジネット・ヌヴーの熱演に一位を譲った。しかし、1937年のブリュッセルの第一回イザイ・コンクールでは優勝してその地位を確乎たるものにし、1938年にはモスクワ音楽院教授に就任、続く戦時中には多くの慰問演奏会を行い、1941年スターリン国家賞を受賞した。戦後1946年のプラハの春音楽祭での成功で世界の注目を浴びるが、まもなく東西冷戦構造のなかで国際的なキャリアは中断、1951年のフィレンツェの音楽祭で西側の舞台に復帰した。1958年には国連総会で演奏、1960年レーニン賞、1961年カザルスのプラド音楽祭に招待。ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフのヴァイオリンとピアノのためのソナタ等、オイストラフに献呈された作品の多さが、彼の国家における地位を示唆している。また、ソロ活動の他、第一回ショパンコンクールの覇者レフ・オボーリンとのデュオや、それに同年で同僚のチェロ奏者スビャトスラフ・クヌシェヴィツキ―を加えたトリオでも活躍した。

1974年、コンセルト・ヘボウの指揮者を務めるべく訪れていたアムステルダムで、一日がかりのリハーサルの後急死した。享年六十六。



シベリウスのヴァイオリン協奏曲……ニ短調、作品47。1903年発表、1905年改訂。オイストラフのものとして紹介した三種はそれぞれ、シクステン・エールリンク指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(1954年)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(1970年?)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1959年)。



エフレム・ジンバリスト(1889-1985)……ロシア・ロストフ州出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。



ミッシャ・エルマン(1891-1967)……ウクライナ・キエフ近郊出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。



ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)……現リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1917年にアメリカ合衆国に移った。



レオポルト・アウアー(1845-1930)……ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1868年よりサンクトペテルブルク音楽院のヴァイオリン科教授となり、ロシア派を確立する。1918年にアメリカ合衆国に移った。



ナタン・ミルシテイン(1903-1992)……オデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ピョートル・ストリャルスキー門下、のちレオポルト・アウアーに師事。1925年にアメリカ合衆国に移った。



イエフディ・メニューヒン(1916-1999)……ニューヨーク出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ルイス・パーシンガー門下。のちジョルジュ・エネスコ、アドルフ・ブッシュに師事。



フリッツ・クライスラー(1875-1962)……ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父はポーランド・クラカウ出身である。ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガーⅡ世に師事、のちパリ音楽院でランベール・マサール門下。

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2022/07/25 (Mon) 11:13:41

その三 浪人時代の記憶~ミッシャ・エルマン
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青年男子は不満の塊だ。むき出しのダイナマイトみたいなもので、火気は厳禁である。目の前の一切が、理不尽で不純でばかばかしく苛立たしい。親や教師など、どんなにもっともらしいことを言ったところで、所詮は、夾雑物で視界が曇ってしまった、いわば「終わった」人たちである。そして、そのように世の中を鑑定する自分のことは疑いもしない。そこには、絶対に純粋な自己と愚かで不純な他者があるばかりだ。青年期特有のこういった感情は、どうせ未熟な自分自身に対する不満の、その屈折した投影にすぎないのだろうが、そんな話は薬にもしたくない。鑑定を共有できる二、三の友人があれば、彼等だけが信頼に価する存在なのである。もはや世間との和解に至る途は断たれている――そう確信した者同士が、ともに引きこもり、たとえば音楽を聴き、文学を語り、少女に恋をする。そのときの音楽や文学や少女が、ありふれた凡庸と不純から遠く隔たったものであることは言うまでもない。かかる意味で、彼らのありようは、陰にこもってはいるが反逆的だ。それは、親や教師や学校や勉強や社会や、およそあらゆる「不純な」制度に対する離反なのである。(青年諸君、そんな顔をしなさんな。私は自身の青春を顧みて書いているだけだ)

もっとも、その青年たちも、やがて大学に進んだり就職したりするうちに、なし崩しに社会化していくことになるのだが、その途中にちょっとした「逸脱」の一時期が挟まることがある。「浪人」だ。思い返せば、それはなかなかに思い出深い有意義な人生の挿話なのだが、その最中にいる諸君にとっては、もとより意義など検証している場合ではない。ただただつらい。それは、社会的属性を剥奪された宙ぶらりんの一年ないし数年であり、社会に反逆し得ていたはずのその自意識が呆気なく挫かれた、自己喪失の一年ないし数年である。公認の制度によって組織化された人生の文脈から、突然逸脱を強いられてしまった「白紙」の自分……そんな切実な場所に思いがけず立たされてしまった、そう言いたげな顔が、たとえば予備校の教室にはちらほら見える。しかしながら、諸君、自意識を挫かれ、自己を喪失した諸君だからこそ、真に意義ある自己探求の途に就けるということでもあるのである。

青年期の、わけても浪人時代の心理的現実というものは、今も昔も、そう大きくは変わらないのではないか。たとえば梶井基次郎2。その学生時代の日記や書簡などを拾い読みしていると、およそ一世紀の隔たりを越えて、その切ない気持や荒んだ心が、こちらの胸にも沁みてきて、やり切れない。おどろくほど純度の高い詩的な結晶をなすあの作品群の底にあるのは、ありきたりだが切実な、逃れようのない苦悩だったのだ。かくも美しい秩序を拵えあげなければ、とても耐えられぬほどの混沌だったのだ。

梶井もまた「浪人生」であった。第三高等学校に入る前に、大阪高等工業学校の受験に失敗している。その前に、異母弟が高等小学校を終えたばかりで奉公に出されたことから、あるいは父の放蕩が家計を苦しめていたことから、それらに対する義と反逆とで、中学を退学したこともある。また三高でも、選んだのは理科であった。彼の進路にはしばしばある種の無理ないし不自然を感じる。そして、町人の子だから学問に打ち込めないのだと悲観してみたり、かといって、打ち込める何ものも見つからないと焦燥を訴えてみたり。さらに怠惰、悔恨、早くも兆した肺病の不安……。

二日夜エルマンと握手す

ああ此感激に過ぐるものなし。

(1921年3月3日 友人宛はがき)


当時の梶井に信じられたのは、二、三の友人を別にすれば、漱石、谷崎、学内で見かける西田幾多郎先生、それに、友達と金を出し合って買う舶来盤のレコードくらいだ。彼にとってそれらは皆、現実の醜悪と塵埃から隔絶した、純粋で高貴な存在だったろう。そんな梶井の前に、折よく現われたのが、エルマンだったのである。演奏会当日は進級のかかる試験の最中であったが、かまってはいられなかった。

京都は一日二日エルマンの演奏会あり、二円だ。京都で聞く気はないか。大阪なんぞよりずつと気持がいいだらう。しつかりお互ひに勉強しておいてどちらかの日にカンフオタブルに享楽しようぢやないか。

(同2月16日 友人宛はがき)


その夜、エルマンのストラディヴァリウスは、梶井の耳にどんなふうに鳴っただろう。濃密で柔らかな、エルマン・トーンと称されたあの音。ひょっとしたら、京都市公会堂のエルマンは、「幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛」のなかで、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」3、そんな純度の高い音色を響かせてくれたのだったか。梶井はその感激のまま、会場の外でエルマンを待った。ややあって姿を現し、車に乗り込もうとするヴァイオリニスト。梶井は群衆のなかから飛び出し、やや腰をかがめて、しかし無遠慮に手を差し出す。すると、ロシア生まれの偉大なその人は、貧し気な学生の無作法に、わざわざ手袋をはずして応えたのである。感極まって涙した。温かい手やった、匂いがこの手に残ってるわ。



レオポルト・アウアー4教授は、その日滞在するロシア南部エリザベートグラードのホテルで、未知の父子の来訪を告げられた。いつものことだ。ヴァイオリンを抱えた息子とその天才を信じる父親の不意の訪問。だが、たいていは、貧しい親子の果敢ない幻想なのだ。憂鬱なことである。演奏会直前の教授はその支度に忙しいこともあって、その応接を弟子に委ねた。わずかな時間でも仮眠をとらねばならない。それから演奏会用の衣装に着替え、さてストラディヴァリウスと指を馴らしておこうか……本番直前のそんな時、部屋の扉は叩かれたのであった。「教授! あの少年の演奏は絶対お聴きになるべきです」。……翌朝再びやってきた少年――それは、通い始めたばかりの音楽学校があるオデッサ5から、アウアー教授がたった一晩滞在するだけのこの街まで、長い旅路をやって来た、しかもその旅費を、衣服を売って工面しなければならなかったという父親に連れられた、小柄なユダヤ系の少年であった――彼はひと息をつく暇もなく楽器を取り出しヴィエニャフスキのコンチェルトを弾き始める。アウアー教授は、旅立ちの荷物をまとめながら聴くつもりであった。が、ほんの数小節進んだところで片付けの手を停め、身体を起こさねばならなかった。なるほど、これは確かに聴くべき演奏だ。そして机に向かい、躊躇なくペンを執りあげたのである。ペテルブルク音楽院グラズノフ院長宛に、ただちに一筆啓上せねばならない6。

タリノエという小さな村の、ヘブライ語教師の父にヴァイオリンの手ほどきを受け、その後パブロ・サラサーテの推薦を得て、オデッサ音楽院フィデルマン教授の生徒となっていたミッシャ・エルマン、彼の世界的ヴァイオリニストへの途は、この瞬間に開かれたのであった。1904年、エルマン十三歳であった。

もっとも全てが順風満帆だったわけではない。この頃のユダヤ人は常に朔風に曝されていた。首都サンクトペテルブルクにも居住制限があり、エルマン少年が父親とともにその街に住んで音楽院に通うということさえ容易ならざることであった。アウアー教授は当局に対し、エルマンが入学できないなら教授を辞すると、脅迫まがいの啖呵を切ったと伝えられている。アウアーは「皇帝のソリスト」であるから、これには役人たちも黙従するほかはなかったであろう。また、アウアー自身の出自も、ハンガリーの貧しいユダヤ人の家庭である。エルマンの他、エフレム・ジンバリスト、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン7と、才能において突出したユダヤ系ヴァイオリニストがそのクラスに参集したのは、偶然ではなかった。

アウアー教授の下でエルマンは、なんでもたちどころに出来てしまうというような、神話的な天才ではなかった。そのかわり、どんなに困難な課題を与えられても、必ず次のレッスンまでには克服して来るという、並外れた学習能力を示した。その結果、彼は、その歳のうちに、ロシアを代表するヴァイオリニストの一人になっていったのである。

サンクトペテルブルクでのデビューは、レオポルト・アウアー急病につきその代演という形式であった。形式? そう。これはアウアー教授の仮病であり常套なのだ。自分を目当てに集まってくる「一流」の聴衆を裏切り、失望の色を浮かべる人びとの前に無名の少年を立たせ、その思いがけない演奏によって聴衆の失望をもう一度、逆から裏切って喝采させるという筋書きである。それは、二重の裏切りによる一種の賭けだ。エルマン少年はメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききって、その賭けに、おそらくそれが賭けであることに気づきもせずに勝ち、そのままロンドン・デビューまで、一直線に駆け抜けるのである。

以後半世紀をかるく越えて、エルマンは一流であり続けた。ヴァイオリニストの世界においてこれは稀有と言っていいだろう。もっとも彼の少年時代、ヨーロッパはフリッツ・クライスラーとブロニスワフ・フーベルマンが主役であった8。またロシア革命を機に、アウアー一門の拠点はアメリカに移り、それとともに同門の後輩ヤッシャ・ハイフェッツの時代が幕を開ける。さらに十年後、今度は同じロシア系ユダヤ人イエフディ・メニューヒンの登場だ9。つまり、エルマンはいつも二番手だったと評する向きもあるのである。少年ハイフェッツがニューヨークに登場した日の、よく知られたエピソードがある。その熱狂の演奏会場で、エルマン「今夜はばかに暑かないか?」ゴドウスキー「ピアニストは平気さ!」10。また、エルマンがしばしば上機嫌に語ったというこんな一つ話もある。コンサートにやって来ては必ずサインをもらって帰る少年に、エルマン「どうしてそんなに僕のサインが要るんだい?」少年「友達と交換するのさ。エルマン五枚でクライスラー一枚!」。

しかしながらエルマン自身、エフレム・ジンバリストとともに、ロシア系ユダヤ人ヴァイオリニストとして初めて世界を席巻した人であり、また器楽奏者として初めて、レコードでその盛名を確乎たるものにした人である。実際、二十世紀初頭の栄光のテナー、エンリコ・カルーソー11と吹き込んだマスネ「エレジー」などは記録的なベストセラーだ。

Elman Caruso Massenet Elegie - YouTube
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かくしてアメリカ商業主義の最中にあってその恩恵を受けながら、彼には、それに翻弄されない強靭さがあった。エルマンが途を拓いて、のち多くの、特にユダヤ系のヴァイオリニストが活躍するようになり、たぶんそのせいで、エルマンはソリストとしての活動から遠ざかり、四重奏などに比重を移した時期もあった。が、晩年はやはりソロに戻り、最後まで一流の演奏を披露し続けたのである。それを可能にしたのは、神童でありながらさらに研鑽を重ねた、サンクトペテルブルクでの日々だろう。レオポルト・アウアーは多くを教えない。何はさておき、自分自身で考えさせ克服させる教師だ。その許で、神童エルマンが、格闘して身につけたものの尊さと実現したことの偉大さを思う。彼は言う、「今のヴァイオリニストたちは、もっと私に感謝すべきだ」。エルマンは「二番手」だったのではない。先駆者であり、牽引者なのである。それは今でも変わらない。


最晩年に、ヘンデル「ソナタ四番ニ長調」の録音がある。これは不朽だ。

Elman Handel Violin Sonata D major - YouTube
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エルマンの代表的な録音と言えば、まずは、先に触れたカルーソーとの録音、そして自らの出自に根差す「エリ、エリ」や「コルニドライ」「ヘブライの旋律」といったユダヤの音楽、それにアウアー因縁のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」12などが挙がるだろう。もとより異議のないことだ。が、それらを措いてあのヘンデル、と言いたい気持ちが私にはある。故郷の大地の香気と古典の高次の統合。それがヴァイオリン音楽というものであり、その点で、彼は一貫してエルマンなのである。その確信に満ちた演奏が人生を貫く。そして、世に翻弄されつつ生きねばならない人たちを救済し続けている。



音を記憶するのは難しい事だから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば噓になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、又何処からか聞えて来る様な気持ちになる。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

小林秀雄もまた、このとき「浪人生」であった。名門府立一中では学校生活が一高受験に一元化されてしまうために、その風潮に反発して、文学にマンドリンそれに硬式野球、要するに勉強以外のことに明け暮れていた。妹の高見澤潤子は、「兄のレジスタンス」だったと言っている。そうに違いない。そしてたぶんそのせいで、小林秀雄は一高の受験に失敗したのであった。

兄は中学卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人した。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。

(高見澤潤子『兄 小林秀雄』)

小林秀雄にも、高を括る、というような、そんな生意気な少年時代があったわけだ。その生意気の鼻をへし折られて、浪人の一年が始まった。では、あの小林秀雄はどんな浪人生であったのか……まことに興味深いが、その間のことは、何ひとつ書き遺されていない。何もわからない。何もわからないが、やはり、この世を凝視しつつ自分をゼロと見定めるというような、そんな謙虚な「没落」の時間を過ごすことはあっただろうと想像してみる。

……莚を敷いた、薄暗い船室がある。周囲に船に酔つた時の用意らしく、十五六の瀬戸引の洗面器がずらりと掛けてあつた。それが、船の振動で姦しい音を立てて居た。顔色の悪い、繃帯をした腕を首から吊した若者が石炭酸の匂ひをさせて胡坐をかいて居た。その匂ひが、船室を非常に不潔な様に思はせた。傍に、父親らしい瘦せた爺さんが、指先きに皆穴があいた手袋で、鉄火鉢の辺につかまつて居る。申し合はせた様に膝頭を抱へた二人連の洋服の男、一人は大きな写真機を肩から下げて居る、一人は洗面器と洗面器の間隙に頭を靠せて口を開けて居る。それから、柳行李の上に俯伏した四十位の女、――これらの人々が、皆醜い奇妙な置物の様に黙つて船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。それが堪らなかつた。然し自分だけ慄へない方法は如何しても発見出来なかつた。

(小林秀雄「一ツの脳髄」)

世の中や世の人々を醜く思うのは、青年の特権だ。しかし、そのような世の中や世の人々を、対象化しようとしてしきれず、眼差しが自分自身へと折れ曲がってくるまでには、ある種の成熟が必要だろう。自分もまた例外ではあり得ない。等しく醜く愚かな存在である。「自分だけ慄へない方法」などありはしないのだ。もとより「一ツの脳髄」は1924年の発表というから、1920年の「浪人生小林秀雄」からはなおしばらく隔たる。が、小林秀雄も「浪人生」なら、特権の放棄と健全な没落は、そのときすでにその視野に入っていただろうと思う。

さて、その浪人生活の終りを飾ったのがエルマンである。1921年2月帝国劇場の公演に、受験勉強追い込み最中の小林秀雄は出かけている。その小林秀雄の耳にどんな音が鳴ったのだったか。「音を記憶するのは難しい事」だが、今、振り返って「何処からか聞えて来る様な気持になる」というその音は。それはやはり、青春の混沌にとって救済となるような、純度の高い、高貴なものであったに違いない。帝劇の椅子に身を委ねたまま陶然となった、あの甘美でしかも端正なスラヴの音色。濃密な音響のなかで見るヴァイオリニストの光景が、夢のように生々しい。しかしながらそれは、その帰らぬ時代への愛惜の念であると同時に、惜別の記憶でもある。というのは、このエルマンの演奏会の一か月後、まさに一高受験の最中に、小林秀雄は父親の急逝に遭わねばならなかったからである。

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だつた。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだらう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿つてポロポロ涙を落し乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると、医者がギュッと胸を押したがポカンと口を開いた儘息をしなくなつた父の顔が浮ぶ。「家に持つて帰る」と京都の伯父が赭い壺からお骨を半紙に移すのを見て身慄ひした事、葬式の済んだ晩、母と妹と三人で黙りこくつてお膳を囲んだ時の、三角形の頂点が合はない様な妙にぎごちない淋しさ。――謙吉の追懐は風船玉の様に後から後から出来てはポカリ、ポカリと消えて行つた。

(小林秀雄「蛸の自殺」)

一般に、男子の青春が、父との対決を通して社会に対峙しつつ自立していく過程であるといってよければ、小林秀雄は、父との関係を経由することなく、何の庇護もないなかで、直接に社会との対峙を強いられ、その中で己の自立を図らねばならなかったということになる。漸次的に経験されるはずの人生の転機が一挙に訪れたわけだ。小林秀雄は父の死に際して「こんなに悲しいことはない」と言った。その悲しみは、四十六歳で死なねばならなかった父その人の悲しみであることは無論だが、同時に、自分の青春を青春たらしめてくれるはずの父という存在、それを唐突に奪われたという悲しみ、いわば青春喪失の悲しみでもあったのではないか。

小林秀雄にとって、ミッシャ・エルマンの思い出は、その鮮やかな切断面である。それは、なにかしら原点のような豊富さも含む歴史であった。

たしかルッジェーロ・リッチ13が、フィドル14は名人の楽器だ、と言っている。ヴァイオリンと身体の完全な調和。そういうことは、たとえば私などには、実際にステージを見ないとわからないところがある。まさに「名器を自在にあやつる名人の演技」に「目のあたり」接してはじめてわかるというわけだ15。小林秀雄もその夜帝劇のステージに、正真正銘の「名人」を見た。「ヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した」との述懐があるが、誇張のないところだろう。また、「人々の魂を奪う感動を創り出すのに、彼には民謡の一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである」とも言っている。もっともこれはパガニーニについての記述だが、この確信の起源こそ、まさしく帝劇のエルマンなのではないかと思う。マスネの瞑想曲、ドヴォルザークのスラヴ舞曲、ユモレスク……どれも名曲というのでは必ずしもないかも知れない。いや、名曲であるかどうかは問題ではないのだ。名人の名演であれば足りる。すなわち、曲目などなんでもよろしいということになる。さらに言えば、「一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せた」という、その「乗せる」という感じは、エルマンの演奏風景にぴったりだ。エルマンの弓のさばきというのか、その軽さは印象的である。弾きながら音楽に合わせてよく動く人だったようだが、そもそも弓の動きそれ自体が、もはや舞踏そのものである。

その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない、それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒してはくれなかった。

(「ヴァイオリニスト」)

我が国の音楽的光景においても、エルマンは一つの原点をなす。エルマンは、何といっても、日本にはじめてやって来た、掛け値なしに第一流のヴァイオリニストであり、名人である。そして彼に続いて、ジンバリストもクライスラーもハイフェッツもティボー16も来日したのである。その後の、戦争を挟んだ「十何年」の中断は、むろん不幸なことではあったが、それがかえってヴァイオリン音楽というものへの愛惜を、そして愛惜としての歴史というものを、ささやかながら教えてくれたことであった。

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1 Mischa Elman(1891-1967)

2 梶井基次郎(1901-1932)……『檸檬』の作家。梶井基次郎については、『梶井基次郎全集』(新潮社)、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(河出書房新社)を参照させていただいた。

3 梶井基次郎「檸檬」より。

4 Leopold Auer(1845-1930)……オーストリア・ハプスブルク家統治下のハンガリーに生まれた。同じユダヤ系マジャールのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟としてサンクトペテルブルク音楽院の教授を務め、後、ロシア革命を機に渡米。アウアーについては、角英憲訳『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)を参照させていただいた。

5 ウクライナ黒海沿岸の港湾都市。音楽院があり、ダヴィド・オイストラフをはじめ、多くの逸材を輩出した。

6 Aleksandr Glazunov(1865-1936)……作曲家。ロシア革命までサンクトペテルブルク音楽院の院長を務めた。手許の資料では院長就任は1905年。アウアーとエルマンとの出会いはその前年だが、アウアーの『自伝』には、エルマンの自分のクラスへの編入と奨学金の給付を求める推薦状を「……院長として音楽院を率いていた偉大なるアレクサンドル・グラズノフ」に宛てて書いた旨の記述がある。

7 Eflem Zimbalist(1889-1985),Toscha Seidel(1899-1962),Yascha Heifetz(1901-1987), Nathan Milstein(1903-1992)

8 Fritz Kleisler(1875-1962),Bronislaw Huberman(1882-1947)

9 Yehudi Menuhin(1916-1999)

10 Leopold Godowsky(1870-1938)……ポーランド系ユダヤのピアニスト。

11 Enrico Caruso(1873-1921)……イタリア・ナポリ出身のオペラ歌手。

12 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは、はじめレオポルト・アウアーに献呈されたが、アウアーは「演奏不能」としてこれを拒否したという。アウアーはこのことについて、作品には「大きな価値がある」ものの「まったく弦楽的な語法で書かれていない非ヴァイオリン的な箇所がいろいろとあった」ために「全面的な改訂の必要を感じた」が、その作業を「先延ばしにしてしまった」、「私が悪かったと率直に認めるものである」と前掲の『自伝』に記している。

13 Ruggiero Ricci(1918-2012)……アメリカ合衆国のイタリア系ヴァイオリニスト。

14 擦弦楽器、特にヴァイオリンを指すが、あえてフィドルというときには、その民族音楽との関係が強調されるようだ。ヴァイオリンは歌い、フィドルは踊る。

15 「名器を自在にあやつる名人の演技」およびそれに続く引用は、小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

16 Jacque Thibaud(1890-1953)……フランスのヴァイオリニスト。「最後に来たのはチボーだったが」とあるが、ティボー来日の翌1937年にエルマンが再訪している。

(了)
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5:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:14:25

その四 秋の日のヴィオロンのため息~ジャック・ティボー
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……やがて窓が明るみ、二人は店を出る。

――雨は降り止まず、街全体が中国の水墨画のように霞んでいた。リュクサンブール庭園にさしかかった時、不意に、彼は庭園の木々を差し示した。よく見ると、その指差す先にぽつんと一点、秋には珍しい小枝の緑である。それは清々しく私の心を打った。

「あの小さな緑を御覧……。世の中は、あたかもこの雨や風のように灰色だが、我々は、必ず、あの緑でなければいけないね……」

その時、その人、ヴェルレーヌの口から零れたこの呟きは、そのまま飄然と霧雨の彼方へ消えて行った寒々とした後姿とともに、今なお、私の胸に耐え難い郷愁を疼かせる。

それから三月ほど経った一八九六年一月九日、新聞は僅か十行ほどで、この詩人の訃を報じたのであった。

(ジャック・ティボー『ヴァイオリンは語る』)



詩人の眼にこの人の世は、蒼然たる暮色であった。そしてその灰色の光景に、一点仄かに光る緑があれば、彼はそれに執着した。十七歳のランボオは、まずヴェルレーヌによって見出されたのである。この二人の愛の彷徨は、ブリュッセルでのとある日、撃鉄の音とともに突然終わった。もっともヴェルレーヌの放蕩は止まず、その後の学校教師時代にも、教え子の美少年と出奔している。が、六年に及んだその漂泊も友の死によって終わり、自ら破壊した家庭との和解は果たされず、その転落の晩年は、パリの娼婦に救済されるようにして、辛うじて露命をつないでいたのである。

ティボーは、この時十五歳。パリ音楽院マルタン・マルシック教授のクラスに入って二年が過ぎようとしていた。が、いま一つ結果を出せずにいた。ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキは入学して六ヵ月でプルミエ・プリを獲得し卒業したのだ……まさかそんな神話的な列伝に自らの名を連ねようと思っていたわけではなかったにせよ、八歳にしてシャルル・ド・ベリオとアンリ・ヴュータンの曲で最初の演奏会を成功させ、さらには巨匠ウジェーヌ・イザイにその才能を保証された身としては、出世に少々手間取りすぎていはしないか、このままでは市井の凡庸な一ヴァイオリン奏者として終る他ないのではあるまいか、つまりは自分には特に秀でた芸術家たるの資格などなかったのではないか……街のカフェでアルバイトの演奏を済ませた後、驟雨に遭って店先に佇んでいたティボーの胸中に、そんな不安はなかっただろうか。たぶんそんな気分のところに、先ほどまで客席にあって演奏を聴いていた一人の詩人――ヴェルレーヌがやって来たのである。ティボーは誘われるままに近くの酒場に赴き、そこで語り明かしたのであった。ティボーもまたなかなかの美少年であったから、詩人はそこに眼をつけたのであったかも知れない。いずれにせよ、文学、芸術、分けても音楽……話題は尽きなかったことであろう。ひょっとしたら、ヴェルレーヌは、持てる最後の情熱を、この美少年の芸術家に、その芸術家の魂に注いだのであったかも知れない。事実、ほどなくティボーは一等賞を得てパリ音楽院を卒業するのだから、この夜の思いがけない邂逅こそが、少年ヴァイオリニストの人生をその閉塞から救ったという、その可能性もないとはいえないわけだ。

さて、驟雨の中の緑。それが芸術の本性ならば、ティボーの音楽はまさにそういうものであった。故郷のボルドーからパリにやって来たばかりのティボーに、よく知られた伝説がある。パリでは当初叔父のアパルトマンに居候した。その叔父は、人生に意欲を失った無気力な人であった。ところがある時、ティボーがヴァイオリンを取りあげて一曲奏でると――それはバッハ「G線上のアリア」であった――叔父はにわかに陽気になり仕事に励むようになった。またアパルトマンの他の住人たちも、廊下を渡り階段を伝って響いてくるその音を聴いて、離婚の危機を忘れて仲直りをしたり、自殺を思いとどまったり、つまりは悉く救済され、皆、幸福を指して生き始めたのであった……。

「澆季の世に枯渇した尊い夢を私たちへ齎すためにこの地上に現れた人こそ、ヴェルレーヌだった」とはティボーの述懐だが、ティボー自身もまた、その混濁の時代にささやかな「夢」を齎すべく、大衆の前に現れた人であったのだ。



「ビクター洋楽愛好家協会」と銘打たれた戦前日本のレコード・コレクションがある。これは志の高い企画だ。全八巻。1935年に始まる第1巻から1940年の第6巻までは、毎年10月から月一枚ずつ、一年をかけて各巻十二枚、予約制で頒布された。艶やかなその盤面から、質のよいシェラックであることが見てとれる。もっとも途中から盤質が劣化しはじめるが、レコードなどは戦費調達のための課税政策の恰好の標的であったから、それもやむを得ないことであったろう。続く第7巻と第8巻はそれぞれ六枚頒布となって企画も縮小し、1942年、計八十四枚をもって完結した。

第1巻の最初の一枚RL-1はヤッシャ・ハイフェッツだ。これは、当時の日本において、クラシック音楽の主役が、まさにヴァイオリンであったことを示唆している。ヴァイオリンを携えた旅芸人とその末裔たち……村の辻に立っていたヴァイオリニストが、街に出、カフェで弾き、やがて国境を越えてとうとう海を渡った……彼らは、少なくとも二十世紀の半ばまでは、漂泊者の魂を受け継いでいたように思われる。そのお陰で極東のこの国も、1921年のエルマンを皮切りとして、以後続々とその第一級の奏者を迎えることができたわけだ。

もとよりこの企画、ヴァイオリンだけでは無論ない。RL-7はあのシャリアピンだ。その十八番というべき「ヴォルガの舟歌」と「蚤の歌」の熱唱は、コレクター志望の青年が古いレコードを聴き始める頃、その道の先輩たちに、「マスト・アイテム」だと念を押されることになる一枚である。シャリアピンは、1936年2月、来日公演の折にこれを録音し、その年の暮れに亡くなった。つまりこの日本盤が、不世出のバスの、最後のレコーディングになったのだった。

しかしながら、やはり、今でもひと際人気の高いのは、ヴァイオリン独奏のRL-11であるらしい。曲はヴェラチーニのソナタ。ジャック・ティボーがたった一曲、日本の音楽好きの大衆のために遺してくれた貴重な日本録音、もとより「マスト」である。

この「ビクター洋楽愛好家協会」盤はよほど売れたようで、今でも、たとえば神田あたりの老舗のSPレコード店を訪ねれば容易に見つかるし、よほど都会から隔たった寒村の旧家の蔵に眠っていたりもする。第1巻から3巻までは専用の豚革のアルバムがあるが、「そのせいで日本中から豚がいなくなってしまったのよ」とは、某レコード店の偉大なるおかみさんである。

私の郷里の実家にも、その第1巻はあった。たぶん今でも、探せば家の何処かに見つかるであろう。



それを蔵の奥から掘り出したのは、受験勉強最中の夏であった。私はそこに籠って勉強漬けを装っていた。蔵の中はいつも涼しいのである。少しは勉強もしたけれど、古い漆器をくるんだ戦前の新聞紙だの早逝した祖父が遺した本だの書簡だの、そちらの方が面白いのは当たり前で、そんなものを不思議な情熱をもって読み耽ったり、漸くそれに飽く頃には気持のよい午睡に身を任せたり。そんな、後になれば苦しい後悔に襲われるとわかっていて、しかしどうにもならないという、焦燥を内包した安逸のある日、驚くほどの存在感をもってそいつは出現した。如何にも重厚なアルバムである。もとより開いてみてはじめてレコード・アルバムと知れたので、最初はなんだかわからなかった。アルバムの一頁一頁がレコードのスリーヴになっている。ハイフェッツ、フィッシャー、そしてシャリアピン……その時分の私はクラシック音楽など聴いてはいなかったが、聞き覚えのある名前ではあったから、一枚ずつ捲っては、順番にレーベルの文字を読んでいった。ところが、それがおおむね終わろうという最後の方の一頁、そこだけが空になっている。裏表紙の一覧表で確認すると、それはジャック・ティボーの盤、ヴェラチーニのソナタであった。

「ビクターのレコード、一枚なくなってるね」

晩酌を始めた父に私は言ってみた。そのいきさつに興味があったわけではない。珍しく親父と話す話題がある、それだけのことだった。父は私を見た。

「ビクターのレコード?」

「蔵の中のだよ。昔の」

「ああ、あれはもう聴きようがないやつだ。捨ててしまえばいい」

「そう?聴けないのか。一枚だけなかったよ」

父の眼は宙を彷徨うようだ。

「……ベラチーニ、だな。チボー」

「そうそう、そう書いてあった」

「べラチーニのソナタ、あれは俺が学生の頃好きだったんだ」

「……」

「それで海軍に持って行った」

「……戦争に」

「そう。聴くことなんかないのだけれど」

「……」

「でも一回だけ聴けた。昼飯にレコードをかける習慣で、そのときにかけてもらったんだ」

「案外さばけているもんだね」

「海軍はな」



ジャック・ティボーは戦前に二度来日している。一回目は1928年のことだ。1921年エルマン、22年ジンバリスト、23年クライスラーとハイフェッツ……続々とやって来た一流ヴァイオリニストは、そのほとんどがユダヤ系の、秀でたメカニックをもつ腕利きだ。エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツはロシア系ユダヤで、サンクトペテルブルクからアメリカに移ったレオポルト・アウアー門下、クライスラーは言わずと知れたウィーン派だが、その出自はポーランド系ユダヤである。そうした文脈のなか、ユダヤ系以外の、フランス派のヴァイオリニストとして初めてやって来たのが、ティボーだった。



「本日世界的大提琴家ティボー氏入京す! 欧米に赴かずかくの大芸術家の神技に接し得るは日本現代人の幸福なり。妄りに料金額の高きを責むるは愚かなり。芸術の真価と来演の諸費とを考へれば、寧ろ二円、五円、七円は廉なり。廿六日よりの開演を御期待あれ」

(『読売新聞』昭和3年5月23日付 帝国劇場広告)

「……彼の演奏は実に繊細と典雅の二字に尽きる。……ウイーンの古謡やそこの優雅な舞曲を何人もウインナ人のようには弾く事が出来ないように、フランクやフォーレやサン=サーンスの作品は正に彼のために書かれたものの感がある。……」

(「ティボーを迎えて」近衛秀麿)

「……久しぶりで本当の芸術家の芸術に接したという感じがいたします。たしかにそれはクライスラーと並び称せらるべき第一流のヴァイオリニストです。宣伝沢山で来る旅芸人達と一緒にしてはいけません。ティボー氏の演奏が=その風采までが=全く予期した通り精錬し切った「フランセ―」そのものであった事は、うわさで聞いた通り、レコードを通してあこがれていた人達にとって、どんなに親しさと満足とを感じさせたでしょう。アウアー門下の人達の派手な技巧や、強大な音になれた日本人にティボー氏の粋な、むしろ渋過ぎる演奏が本当に受容れられるものであろうかという事は、在留フランス人をはじめ、ティボーを知る程の人達が心配していた事のようでした。が、実際ティボー氏の演奏に接して見ると、それは全くき憂で、今更ながら、日本人ほどフランス趣味のわかる国民はないという事をつくづく感じさせます。……」

(「ティボー氏を聴く」野村胡堂あらえびす)



「日本人ほどフランス趣味のわかる国民」云々はともかく、ジャック・ティボーの抒情性は、たしかに日本の民衆の裡にある感受性に深いところで共鳴する、親和的な性格のものであった。

二回目の訪日は1936年、この年は先述のシャリアピンの他に、チャップリン等も来日した。また16歳の諏訪根自子が単身渡欧した年でもある。他方、二二六事件も日独防共協定締結もこの年で、どうやら得体の知れないエネルギーが充満した、華やかで危機的な、そんな季節だったようだ。

その最中にティボーはやって来た。批評家たちは悉く絶賛、ことにフランクのヴァイオリン・ソナタを称える文面が目立つが、これは第一回来日公演のときと同じである。ティボーといえばフランス気質、パリ気質なのである。もとよりティボー自身はフランス南西部ボルドーの出身であるから、彼のパリ気質は、彼自身のパリへの憧れによる創造物であるかも知れない。



「……従来エルマン、ジンバリストはもとよりあの完璧な巨匠クライスラーに至るまで、来朝した世界的ヴァイオリニストの中に私はいわば芸の切売りの如きものだけしか見出せない淋しさを感じていた。しかしティボーが来て初めて私は、一人の人間がヴァイオリンを弾くのに接したのであった。音楽家がヴァイオリンを弾くのですらない。人間がヴァイオリンを弾くのだ。……」

(「ティボー」河上徹太郎)

「……其の後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない。それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラヂオも、私の渇を癒してはくれなかった。……」

(「ヴァイオリニスト」小林秀雄)



実はティボーは「最後」ではない。翌1937年にも、エルマンが二回目の来日を果たしている。しかし、小林秀雄にとって「最後」は「チボー」だったのだろう。後にふり返れば、それはやはり「最後」というべき光景だった。

フランスからやって来たヴァイオリニストが、身体としてこそ実存する人間として、工匠の肉体が確かに作り出し、二百年の時間を超えて持続するヴァイオリンを、今まさに混沌の世を生きつつある自分の、その目の前で奏でている。このような偶然の邂逅が、一回性の切実な邂逅への愛惜こそが、信じるに値するヒューマニズムというものがもしあるとするならば、その唯一の根拠なのではないか。



ところで、私の父が海軍応召に際して持参したレコードというのは、この1936年5月27日に録音されたものである。ヴェラチーニ作曲ソナタホ短調、ピアノ伴奏タッソ・ヤノプロ。ヴェラチーニなどという作曲家は、ロックばかり聴いている青年には全く無名であるから、蔵の一件の時には、どんな曲かもわからなかった。

それから十年も経った頃、私は大学を終え、かといって次の人生の展望も定まらぬまま、まことに頼りなく生きていたのだが、そんなところに親父が上京して私の下宿に泊まるということがあった。あの時は弱った。大学だか海軍だかの集まりで、引っ込んでいた東北の郷里からいそいそと上京なさったわけだが、狭い部屋で面突き合わせても、「おう、どうだ」「どうって、まあ元気にやってますよ」「そうか」「……」、まことに気まずいことであって、つまりコミュニケーションというものが、ない。もっとも親父と息子というのは、いつの世もそんな感じなのに違いない。せがれどもを見ていても、私と何かのはずみで二人きりになったときなど、たしかに困惑している。もっとも私の場合、親父がその胸の裡に帝国海軍という青春の誇りを温存していたから、それを焦点にただ対決していれば格好はついた。戦争だの封建主義だのと言って侮蔑し拒絶するという態度をとることで、自分の位置を定めることができたわけである。それに対して我が家の諸君は、その親父が帝国海軍でも企業戦士でさえもないから、対決するにもしようがないらしい。頑固親父というのは、息子を困惑させぬための配慮であるかも知れない。

その頃の私は、親父と対決する時期はむろんとうに過ぎていたから、それなりに友好的にやってやろうと思っていた。それでちょっと悪戯心を起こした。あのヴェラチーニの盤を親父に聴かせてやろうか。その少し前に、私は小さな蓄音機を手に入れていて、ジャズやロックの古いレコードを聴いたりし始めていたのである。私は自分の思い付きに心が弾んだ。どんな顔をするだろう。親父はあの出征の時を最後に、学生時代に好きだったという「チボー」など、一度も聴く機会のないままに生きて来たに違いない。そう考えると、もう躊躇などない、早速神保町に出かけたのであった。すると目的の盤はすぐ見つかった。試聴させてもらうと、いかにも甘く感傷的な旋律である。びっくりした。あの親父が、如何に青年時代とはいえ、こんなものを好むだろうか。それも死を覚悟した出征の時に。

親父がやって来た日は、朝から雨で、彼は近所の史跡の木立を散策する予定を立てていたのだが、結局のところ億劫がって、寒い部屋で煙草を吸ってばかりいた。

「……なんだ、それは……蓄音機か」

「そう」

「そんなものを持ってるのか」

「なにか聴いてみますか」

「いや、いい。俺には珍しくもない。しかし、そんなもの、今でも売ってるのか」

「売ってるんだよ。いい音がするもんだね」

「いい音がするって、ステレオみたいなのに比べたらダメだろう」

「そんなことはないよ。こっちの方がいい」

「懐古趣味だ」

「御冗談。そんな過去はオレにはないよ。歴史との邂逅です」

私はレコード棚から件の盤を取り出してターンテーブルに置いた。クランクを回して発条を溜め、サウンドボックスを慎重におろした。シェラックに刻まれた溝を鉄針が滑る。そのノイズがしばらく続いた後、優しく微笑ましい、舞曲風の誘うような旋律がぱっと輝く。親父は顔をあげた。遠くに森でも見るような、そんな眼をして、凍結した。演奏はメヌエットから活気あるガヴォットへと移り、やがて片面が終わった。私はレコードを取りあげ、裏返し、針を付け替えて後半の演奏に取りかかる……。

「もういい」

「……」

「もういい、ありがとう」

親父は、ほとんど灰になった煙草を指に挟んだまま、しばらくは、ターンテーブルに回り続ける「べラチーニ」の盤を見ていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 三度目の来日を行程に含む演奏旅行に発って間もなく、搭乗機エール・フランス・コンステレーションがフランスアルプスのモン・スメ峰に激突。妻から贈られて以来、手許から放すことがなかったストラディヴァリウス「バイヨー」とともに不帰となった。1953年9月1日。パリでは音楽葬が、日本でも追悼演奏会が行われた。

ヴェルレーヌ……Paul Marie Verlaine 1844-1896
秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/ひたぶるに/身にしみて/うら悲し

ランボオ……Jean Nicolas Arthur Rimbaud 1854-1891 フランス、アルデンヌ出身の詩人。

マルタン・マルシック……Martin Marsick 1848-1924 ベルギー出身のパリ音楽院教授。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

プルミエ・プリ……一等賞。

シャルル・ド・ベリオ……Charles de Beriot 1802-1870 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps 1820-1881 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

ウジェーヌ・イザイ……Eugene Ysaye 1858-1931 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

大衆の前に現れた人……たとえば「国際大芸術家協会」というティボーのプロジェクトがある。1935年に設立されたその組織は、シネフォニーと称する音楽短編映画を構想し、一般大衆に音楽芸術を普及するために聴覚に視覚を加えた音楽鑑賞の場を作り出した。ティボー自身も、タッソ・ヤノプロの伴奏でシマノウスキの「アレトゥーズの泉」やアルベニスの「マラゲーニャ」を収録、他にニノン・ヴァランやコルトーらも参加している。

シェラック……二十世紀前半のレコードの原料で、カイガラムシの分泌物から精製する樹脂状の物質。

それで終了となった……シャリアピンやティボーの盤等、人気のあったものは、戦後再発されている。なお「ビクター洋楽愛好家協会」については、神田富士レコード社のSさんに教えていただきました。

シャリアピン……Fyodor Chaliapin 1873-1936 ロシアのオペラ歌手。

ヴェラチーニ……Francesco Veracini 1690-1768 イタリアのヴァイオリニスト。

SPレコード……二十世紀前半に普及したレコード。スタンダード・プレイング。この呼称は日本独特のものだ。二十世紀後半に普及したLPレコードが一分間に約33回転であるのに対して、これはおおむね78回転である。78rpm。

アルバム……レコード複数枚にわたる組み物を収納する冊子状のもの。78回転時代のレコードは片面四分強の演奏時間であったから、交響曲などは一曲が数枚に及ぶことになる。それを収めるのがアルバムである。LPレコード一枚をアルバムと呼ぶのはその名残である。

フランク……Cesar Franck 1822-1890 フランクのソナタはティボーの代名詞で、アルフレッド・コルトーとの二度の録音があるし、この来日直前のモスクワ公演では、聴衆が客席にいたコルトーを歓声と拍手で促して、急遽このデュオによるフランク・ソナタのライヴが実現したそうだ。

アルフレッド・コルトー……Alfred Cortot 1877-1962 ティボーとのデュオ、それにカザルスを加えたトリオは一種の伝説になっている。大戦中、ヴィシー政権やナチスとの関りから絶縁状態となった。戦後、ティボーは関係の修復を望んでコルトーを訪ねたが、拒まれたようだ。しかしながら、ティボー遭難の報に接して、コルトーは悲痛なコメントを寄せている。「近いうちに、友よ、あの世で!」
https://kobayashihideo.jp/2019-07/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-4/
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2022/07/25 (Mon) 11:17:21

その五 パリのヴァイオリニスト~ジネット・ヌヴー
https://kobayashihideo.jp/2019-09/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-5/


新しい靴かチョコレートか……靴にしろと親父はいう。チョコレートは食っちまえばそれで終わりだ。だが、その、食っちまえば終わりのチョコレートこそが13歳の少年を魅惑するのだ。困惑のあまり彼は泣きだした。主催者は、身体は逞しいがどうにも幼い、アルジェリアからやって来たらしいこの少年に、靴とチョコレートの両方を手渡して片目をつぶった。KOできるのに攻め切れなかった。優しい子だ。だが、たしかにいいパンチをもっている。こいつは強くなるぞ……マルセル・セルダンの初めての「ファイト・マネー」である。

カサブランカでの「デビュー」から十数年、セルダンは連戦連勝のプロボクサーになり、アフリカ北部に駐留した連合軍の兵士らによって、その「怪物」の噂は大西洋を越えた。北アフリカだけじゃない、ヨーロッパでも敵なしさ。前のめりの凄いファイターだ。負けたのは二回きりでそれも反則負け、もう百勝以上も稼いでいるらしいぜ。ウェイト?ウェルターかミドル。ミドルならトニーが相手だ。鋼鉄の男トニー・ゼール。さすがにトニーには……。

1948年9月21日ニュージャージー州ジャージーシティ、「伝説」は「歴史」になる。鮮烈な左フック、かろうじて立ち上った王者トニー・ゼールだが、次の第12ラウンド、開始を告げるゴングが鳴ってもコーナーに座ったままだった。チャンピオン・ベルトははじめてフランスにもたらされた。パリは熱狂した。セルダンこそ英雄だ。あのカルパンティエが出来なかったことをやったんだ。

ところが初防衛戦には敗れてしまう。1949年6月デトロイト、「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタ戦であった。激戦最中に肩を負傷、肝心の左が使えない。そして第10ラウンド、試合の続行は、最早不可能だった。

むろん、このままでは終われない。セルダンは再戦を望んだ。そして新チャンピオンはそれを受け入れた。勝つか、死ぬかだ……セルダンは、雪辱のチャンスに恵まれた喜びをそう表現した。



セルダンに会ってはいけない、あなたがいないと何もできない男になってしまうから……占い師にそう言われた。「だから彼から離れないの」。エディット・ピアフは男から離れられない女だ。そして離れずには済まない女だ。

パリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれた女。アクロバットの大道芸人とカフェを流す歌手が両親だったが、若すぎる母親に棄てられて、祖母の手で、ノルマンディーの娼婦の街で育てられた。ある日突然目が見えなくなった幼い彼女に、たくさんの歌を教え、光が戻るように祈ってくれたのは娼婦たちだ。やがて奇跡のように視力が戻り、貧しい街角で、小さなからだを震わせて、雀のように歌っていた。

そんな彼女にも幸運は廻って来た。二十歳になる頃だ。シャンゼリゼ通りでナイトクラブを経営するルイ・ルプレの目に留まり、その店「ジェルニーズ」で歌えるようになった。ピアフという芸名はルプレにつけて貰ったものだ。翌年にはレコーディングもした。それからたくさんの恋をし、別れ、その度に泣いた。彼女にとって恋は、いつもひとときの、せつない、悲しい物語だった。

悲しみに暮れて歌うピアフに、パリは喝采を贈り続けた。彼女の歌には人生の真実がある。コクトーもボーガットもピアフのために書こうと思った。

たくさんの歌手を育てもした。イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴール、ジルベール・ベコー……。イヴ・モンタンとの出会いは、パリ解放の1944年、モンマルトルのムーランルージュだった。この子はうまくなる。共演者に抜擢し、アパルトマンの部屋に呼び入れて、一緒に暮らして歌を仕込んだ。そして稀代のシャンソン歌手イヴ・モンタンが誕生した。と同時に、ピアフは身を退こうと思った。彼と暮らした日々――薔薇色の人生! それは郷愁ではない。楽観でも、希望でさえもない。決意である。私はこの人生をこそ薔薇色だというのだ。



ある晩、楽屋にやって来たのは、がっしりした体格の、優しい目をした男だった。なぜ悲しい歌ばかり歌うんだい? なぜ人を殴るの? ピアフは欧州チャンピオン、マルセル・セルダンを知っていた。それからは毎晩のように手紙を書いた。

その後、セルダンはアメリカで世界チャンピオンになり、まもなくアメリカでベルトを失う。雪辱を期したリベンジ・マッチはニューヨーク、1949年12月2日に決まった。

「はやく会いたい。飛んで来て」。試合までにはまだ日があった。セルダンはニューヨーク近郊に籠って、人生を賭けた一戦に万全を期すつもりであった。途を急ぐわけではないのだが、ちょうどニューヨークにいたピアフの、その電話の声には、なにか胸がしめつけられるものがあった。航路の予定を急遽変更し、オルリー空港に向かった。はやく行ってやらないと。

しかし、ピアフは既に「別れ」を思っていた。彼にはカサブランカに家族がある。いつまでも一緒にいてはいけないのだ。彼が世界チャンピオンに返り咲くとき、そっと彼から離れよう。それは別離を急ぐかのような電話だった。「もう待っていられない」。この青空が崩れ落ちても、この大地が割れてしまっても、あなたの愛さえあれば、わたしはかまわない……《愛の讃歌》は、本当は「おわり」の歌だ。あなたが死んで遠くへ去っても、あなたの愛があるなら、わたしはかまわない、そのときわたしも死ぬから……。



ジネット・ヌヴーは、ドラクロアの絵画に描かれたマリアンヌに似ている。それは民衆を導く「自由」、フランスの象徴である。

音楽を宿命として生れて来た。曾祖父にシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴィドールは、セザール・フランクの後任としてパリ音楽院オルガン科の教授になった人であり、ダリウス・ミヨーやマルセル・デュプレの師である。ヌヴーの母親はヴァイオリンの教師、父親もヴァイオリンを弾き、兄はピアノを学んだ。5歳でエコール・シュペリウール・ド・ミュジークのマダム・タリュエルに入門、はじめての演奏会でシューマンの《コラールとフーガ》を披露した。公式のデビューは7歳、パリのサル・ガヴォーでブルッフの協奏曲を弾いた。その二年後にはパリ高等音楽院一等賞とパリ市名誉賞を受賞し、スイスの公演では「ペティコートをつけたモーツアルト」と称えられた。さらに、ジョルジュ・エネスコのレッスンを受けた10歳のとき、この偉大な師の助言を、「私は自分で理解したようにしか弾かない」と言って撥ねつけ、エネスコ先生が微笑んで許した話、その三年後、これもまた偉大な教師カール・フレッシュに入門した際、「君には天から授かった才能がある、私はそれには触れたくない、私にできるのは純粋に技術的な忠告だけだ」と言わしめた話……ヌヴーの少女時代は、栴檀の双葉の頃の芳しさを語る逸話に事欠かないのである。

エネスコもフレッシュも、この少女には、何か既に確定した音楽的性格というものがあると判断したのではないかと思う。彼女はそれを表現するしかないのだし、またそうしなければならないのである。それは信念とか信仰と呼ばれる態度に近い。音楽家としての出発点に当って、その表現を志すべく許されたのは、ヌヴーにとっていかにも幸福なことであっただろう。後年、ジャック・ティボーは、ヌヴーを「女司祭」と評している。また、同じフレッシュ門下のイダ・ヘンデルが、ヌヴーを称して「カリスマ」だったと言っている。ヌヴーが弾くと、それが正しいのだと皆信じてしまうのだ、と。その悪魔的な感化力は、ヌヴーその人の、溢れんばかりの情熱と揺るぎない確信とに由来していたに違いないのである。

もっとも、信念と情熱だけでは、一時代のヴァイオリニストたるには不足だろう。カール・フレッシュに入門する前、ヌヴーは11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入り、わずか八か月でプルミエ・プリを獲得している。これはヘンリク・ヴィエニャフスキ以来の快挙であって、ヌヴー神話の頂点をなすエピソードだ。しかしながらその翌年のウィーンのコンクールでは4位に敗れるのである。ヌヴーの母親はそれを不当だと言っているが、審査員であったカール・フレッシュは、ヌヴーが滞在するホテルに手紙を届け、自分のレッスンを受けるように促し、同時にその将来を約束したのであった。入門は、ヌヴー家の経済的な事情で二年後になったが、その際のフレッシュの言葉が、先に紹介した、技術的な忠告云々であったということには、見逃せない意味があったわけだ。事実ヌヴーは、ベルリンやブリュッセルで、約四年にわたってフレッシュのレッスンを受けた後の1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際コンクールでは、大本命ダヴィド・オイストラフ、地元ポーランドのアンリ・テミヤンカ等を抑えて優勝したのである。それはヌヴーが何かを克服したことを意味するだろう。とはいえヌヴーの本領は、やはりその憑依的な雰囲気だ。バッハのシャコンヌ、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調協奏曲、その他の課題曲、そしてラヴェルのツィガーヌ……2位に甘んじたオイストラフは妻に宛てて、ヌヴーの演奏を評して「悪魔的にすばらしい」と書いた。若い日のオイストラフの、あの繊細な技巧と圧倒的なスケールを上回るものがヌヴーにあったとすれば、それはやはり、その「カリスマ」的な「感化力」だったのではないか。

そしてこのときから、ジネット・ヌヴーは「フランスのヴァイオリニスト」になるのである。ジャック・ティボーが、ヌヴーの師ジュール・ブーシュリに宛てた手紙がある。そこに、この16歳の少女にかけられた期待の大きさと性格とがうかがわれようというものだ。



旅行から戻り、ワルシャワで開催されたヘンリク・ヴィエニャフスキ生誕百年を記念する国際コンクールで、我々の愛しきフランス人少女ジネット・ヌヴーが成し遂げた快挙を伝える『ル・モンド・ミュジカル』誌の記事を読ませてもらった。この記事は我が国の輩出した新進気鋭の若手演奏家を正当に評価する一方で、この成功が全面的にはフランスのものではないかのようにほのめかしている。というのも貴誌によれば、ジネットが我々の最上の友人で極めて偉大な二人の芸術家、ジョルジュ・エネスコとカール・フレッシュのもとでコンクール曲に磨きをかけたとされるからだ。……しかしながら私は、彼女が我々の偉大なフランス学派の申し子であると認識している。彼女の本当の指導者であるジュール・ブーシュリが、パリ音楽院の優秀な一等賞受賞者の一人に育て上げたからだ。……ジネット・ヌヴーの輝かしい優勝はまさにフランスのものであり、そのように万人の心に刻まれるべきだ。……

(ジャック・ティボー ジュール・ブーシュリ宛書簡 1935年4月22日) 



以後のヌヴーは、往くとして可ならざるはないといった趣である。ハンブルク、ベルリン、ミュンヘン、モスクワ、アムステルダム、もちろんパリ……バロックから現代曲まで、何処で何を弾いても絶賛された。大西洋も渡った。アメリカで、カナダで……モントリオールでは《ラ・マルセイエーズ》に迎えられた。レコーディングも行われた。1938年ベルリンでのことだ。ジョセフ・スークの小曲やリヒャルト・シュトラウスのソナタ、そしてタルティーニのヴァリエーションに大好きなショパンのノクターン、そんな演奏が稀少なSP盤に遺されている。しかし1940年、ナチス・ドイツが侵攻しフランス第三共和政が崩壊すると、ヌヴーはドイツ軍からの演奏要請をすべて拒絶して、民衆の前から姿を消し、自宅アパルトマンに蟄居したのであった。その間のヌヴーの生活はわからない。彼女は音楽を自らの宿命としていたであろうから、その意味をあらためて考えていたかも知れぬ。単に音楽一族に生まれた、というようなことではなく、まさに民衆の生きる糧としての音楽、それを担わねばならぬという覚悟を生きること、それこそが「フランス流」の宿命であり、ヌヴーはそれを責務として、自らにあらためて課したのではなかったか。

1944年8月、パリ解放。ヌヴーも解き放たれて、旺盛な演奏活動に戻る。1945年11月から翌年8月にかけて、ロンドン・アビィロード・スタディオで録音された、シベリウスとブラームスのコンチェルトを含む9曲は、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストが、音楽の使徒として、全身全霊をうちこんで、民衆に伝え、未来に遺そうとした人生の記録である。どの一曲どの一小節にも、「ジネット・ヌヴー」が貫かれている。

ところで、幾つか遺されたライヴの音源は、それらを凌いで一層見事であるように私には思われる。ヌヴーはやはりライヴの人だ、と言いたくなる。たとえば、1948年5月3日ハンブルクでのブラームスのコンチェルト、1949年1月2日ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……それらは凄まじいばかりのコンセントレーションで、聴く者たちを圧倒する。常軌の裡にはらまれた奔放の気配……破壊と創造が一体となって押し寄せて来るのである。

「ヴァイオリンは私の職業ではない。使命です」。その使命を果たさんがために、ヌヴーは世界を駆け廻った。そしてパリに戻った1949年秋、10月20日はサル・プレイエルでの演奏会であった。プログラムには、バッハ、ヘンデル、ラヴェル、それにシマノフスキの名が並ぶ。バッハのシャコンヌは、あの幼い日、エネスコ先生の「伝説の」レッスンで「自分が理解したように」弾き、ワルシャワのコンクールではイザイ以来の名演と激賞された曲だ。ラヴェルのツィガーヌも、やはりワルシャワで熱狂の渦を作り出したにちがいない、ヌヴーのいわば代名詞だ。

ところでこの演奏会は、特にConcert d’adieuと題されていた。「さよなら演奏会」。ヌヴーは一週間後に訪米をひかえていたのである。



空港に到着するや、セルダンはすぐに新聞記者たちに取り囲まれた。船での渡米と聞いていましたが?――急ぎの用事だ。小さな雀を放っておけないんだ。――ピアフさんですね?――そう。彼女もラガーディア空港まで羽ばたいて来るよ。ニューヨークからね。――世界再挑戦に向けてコメントを。――勝つか、死ぬか、だ。それがチャンスをくれたチャンピオンに対する礼儀だろう。……あそこにも記者諸君が集まっているようだが……。――ジネット・ヌヴーさんです。――これは光栄だ。ニューヨークでコンサートなんだね。私もこの次はカーネギーホールで防衛戦かな。道を教えてもらわなくちゃ。

……こんばんは!ヌヴーさん。ボクシングのマルセル・セルダンです。奇遇ですね。演奏会ですね?――ええ。コンサートです。兄のジャンと。――これはこれは。私はマディソン・スクエア・ガーデンで試合です。もっとも少し先なのですが。演奏会はやはりカーネギーホール?まだ行ったことがないのですが、どうやって行くのでしょう?地下鉄?バス?――練習!ものすごく練習するんです!――ははあ。なるほど。僕も今回はずいぶん練習したから、行けるかな。――行けますとも!でもその前にヴァイオリンをお持ちにならないといけませんね……ご覧になります?――それは是非!……これが?――ええ、ストラディヴァリウス。ストラディヴァリウス・オモボーノ。1730年につくられたそうです。――ほお……それにしても随分小さいし華奢なものですね。こんな手で持ったら壊してしまいそうだ。――だいじょうぶですよ。お持ちになってみて!――いいのですか……感激だなあ。これからあんなに素敵な、しかも大きな音が出るんですね。雀みたいに……

実際にどんな会話が交わされたのか、それはわからない。が、冗談好きのセルダンと快活なジネットのあいだのやり取りが髣髴とするような写真がある。セルダンがヴァイオリンを持って、いたずらっぽい目をして何か話している。ジャンはこみあげてくるような笑顔でセルダンを見ている。ジネットはその話に惹きこまれたり、破顔一笑したり。それはひとときの、まことに和やかな光景であった。



この直後の奇禍については人も知る通りである。10月27日21時、ニューヨーク・ラガーディア空港行エール・フランス国際定期便ロッキード・コンステラシォン機は、定刻通りパリ=オルリー空港を発った。が、数時間後の翌28日未明、経由地のポルトガル領アゾレス諸島サンタマリア空港から60マイルほど離れたサンミゲル島の山麓に墜落し、11人の乗員と37人の乗客は残らず死んでしまったのであった。午後、空港には、ピアフが、恋人を迎えるべくやって来た。親友マレーネ・ディートリッヒが先に来て彼女を迎えた。それが「救い」だ。



ジネット・ヌヴーの墓所は、パリ20区ペールラシェーズにある。小高くなった所に、やや湾曲した長方形の、白く簡素な墓碑が立っており、横顔が彫られた円形のブロンズが、その中央にはめ込まれている。足許には、十字とヴァイオリンのレリーフが施された、墓碑と同じ石材の白い棺、その両側は小さな赤い実をつけた常緑の低木が、包むように、斑の入った葉を繁らせている。清潔で慎ましい風情である。幼い彼女が「悲しいのが好き」と言って愛したショパンの墓もごく近い。

エディット・ピアフも、1963年10月、このペールラシェーズにやって来た。パリで最も愛された二人の女性の、14年目の邂逅だ。こちらは黒の御影石。平らな広いところに横たわり、棺の上にはいつも、パリの誰かが手向けた、赤い薔薇である。





……………………………………………………………………………………………





ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949 フランスのヴァイオリニスト。

マルセル・セルダン……Marcel Cerdan 1916-1948 フランス領アルジェリア出身のボクシング選手。

ジョルジュ・カルパンティエ……Georges Carpentier 1894-1975 フランスのボクシング黎明期の英雄。ライトヘビー級世界チャンピオン。ヘビー級のタイトルを賭けてジャック・デンプシーに挑み、4ラウンドKO敗戦。美しい容貌と華麗なステップで「蘭の男」と呼ばれた。なんと10月28日に亡くなっている。

エディット・ピアフ……Edith Piaf 1915-1963 フランスのシャンソン歌手。しばしばパリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれたとされるが、病院での出生が書類の上では確認されている。「ピアフ」は俗語で「雀」。

ジャン・コクトー……Jean Cocteau 1889-1963 フランスの詩人、作家。ピアフの死に衝撃を受け、その晩、心臓発作で死去。

ジャック・ボーガット……Jacque Bogut ? フランスの詩人。

ジョルジュ・エネスコ……Georges Enesco 1881-1955 ルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944 ハンガリー出身のヴァイオリニスト。

ジュール・ブーシュリ……Jules Boucherit 1877-1962 フランスのヴァイオリニスト。

ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 フランスのヴァイオリニスト。カール・フレッシュ、ジョルジュ・エネスコ、ジャック・ティボーは、パリ音楽院マルタン・マルシック教授の同門である。

イダ・ヘンデル……Ida Haendel 1925- ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ハンブルクでのブラームスのコンチェルト……ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、ハンブルク・北ドイツ放送交響楽団。

ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……シャルル・ミュンシュ指揮、フィルハーモニック交響楽団。

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7:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:49:03

その六 蓄音機の一撃~ジネット・ヌヴーと出会った夏
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いつだったか、電話を寄越した勤務先の若い職員が、その通話の最中に唐突に言いだしたことがあった。

「おつかれさまです、センセエ、あの、明日の打ち合わせのことなんですが…………あの、スミマセン、その、後ろで鳴ってるの、なんですか」

蓄音機の音は格別だ。受話器越しでもわかってしまう。気の毒に、以来彼は、蓄音機という得体の知れない機械に心を奪われたままのようで、今でも顔を合わせればその話だ。早く買えばいいのにと思うのだが、何を恐れているのか、なかなか買わない。

私自身の蓄音機との出会いも同じようなものだった。もう三十年も昔のことだ。

夏の最中の夕暮れ時、私は下駄をつっかけてアパートを出た。煙草を切らしたのだったか、夕涼みがてらにぶらぶら歩く路地裏の、傾きかかったような三軒続きのひと部屋から、それはとつぜん聞こえてきた。ヴァイオリンか。だがそんなことが問題でもなかった。なにか非常に濃密な、手でつかめそうな音があふれ出していたのである。私は、植物の生い茂った小さな庭越しに、開け放された縁側を見た。薄いカーテンに電球の灯り、外から透けて見える小さな部屋の、いったいどこで鳴っているのか。あたりを領するような、それでいてむしろ静かな、そんな不思議な音……。

ふと、カーテンがめくられ、四十くらいの男性が半身を現わした。

「いい音でしょ。聴いていかれません?」

気づかれて私はうろたえたが、いいんですか、ありがとうございます、ではちょっと……促されるままに庭に入り、縁側にあがりこんだ。庭には茄子が生り、トマトが植えられ、向日葵が丈高く育っている。人のよさそうなメフィストフェレスは関西弁だった。

「知っとる? 蓄音機」

「いえ……」

「針、付け替えんねん」

彼が針を外しにかかると、そのごそごそいう音が、もう部屋いっぱいに鳴るのである。そして新しい針をとり付け、クランクを回してゼンマイを捲き、針をそっと下した。レコードと針との摩擦音が「ちりちりちり」と鳴って、これも部屋を満たす。すぐそこで鳴っているのだけれど、どこで鳴っているのかわからない。既に空間は変容しはじめている。まもなく、舞曲風のピアノの旋律が鮮明繊細に奏でられ、そこに突然、ヴァイオリンが鳴り渡った。緻密で伸びやかな、圧倒的な弦の響き。これはなんだ。聴いたことがない。しかしなんという郷愁……世界は一変した。

異様な興奮のなかで、これならわかる、と私には思われた。何が? それはよくわからない。よくわからないが、レコード一面の演奏が済んで、自分の人生が、新たな次元に入り込んだことは確かであった。

「ジネット・ヌヴーや。知らん?」

「いや、クラシックはあんまり……」

「知らんか、そやけど関係ないやろ?」

「関係ないですね、すごいもんです」

「今日はこの人の誕生日や、8月11日、70歳。ボクひとりでお祝いしとったんよ。もっともこの人、30で亡くなったからなぁ……飛行機事故や」

私はビールを買ってくることにした。

「ハバネラ形式の小品」というラヴェルの曲だと言っていた。が、私は果して「音楽」を聴き、それに感動したのだろうか。どうも怪しい。そんなことよりも、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストにまさしく出会った、その奇妙な感触の方が確かだ。彼女は間違いなくあそこに現れた……ジネット・ヌヴーという、かつて存在したヴァイオリニストによる、疑う余地のない、それは強烈な一撃だった。



小林秀雄は「演奏会の聴衆」について、「これはもうはっきりした或る態度を持って、音という事件に臨んでいると言えるだろう」と書いている。「演奏会の聴衆」と「レコード・ファン」とを対比させた文脈だ。「レコード・ファン」は「いつも同じ音を発する機械」に対して「全く受身な知的な且孤独な態度をとらざるを得ない」。しかし「演奏会の聴衆」はというと、それは「音という事件」の渦中にいるというわけだ。

「音という事件」、それは演奏というものの一回性を示唆している。ライヴでの演奏家は、白紙にも喩えられるべき「無」をその立脚点として、自らのそれまでの人生を賭した演奏を、線と形と色彩として、不可逆性の裡に描き出さねばならないのである。その宿命に服するように、レコーディングを拒み、ひたすらライヴに賭けた演奏家もいる。自ら「ノー・レコード・カタログ」と称したフィリップ・ニューマンなどはその典型だ。他方、苦しい格闘を強いられた演奏家もいるのである。ウラディミール・ホロヴィッツはその全盛期の12年間、ステージに立つことができなかった。グレン・グールドは遂にステージを去ってスタジオに籠ってしまった。厳格な一回性を強いる純白の舞台は、最高度の実現を可能にする条件であると同時に、第一級の演奏家にとってさえ、いや第一級であればこそ、想像を絶する危機的な場所でもあるらしい。そう気づかされて、粛然とする。人生の一回性という決定的に切迫した真実、人は、虚無にも誘われかねないこの真実から眼をそらすべく、現世に集中するという「知恵」の発動を許されているが、演奏家は、むしろその現実に敢えて直面すべきことを強いられている、といっていいだろうか。いずれにせよ、演奏家はその一回性における高次の達成という使命に挑み、聴衆は演奏会場でその現場に立ち会い、演奏家の人生と己の人生との感動的な交点を幻想しつつあるのである。



ところで、古いレコードを蓄音機で聴く「レコード・ファン」の体験は、もとより反復可能なものに相違ないが、彼らは、それがあたかも一回性のものであるかのごとき感慨の裡にいるもののようだ。言い換えれば、おそらく彼の胸は、この演奏がかつて行われたのだというその歴史的一回性に衝きあげられているのである。それを「音という事件」と呼ぶことに私は躊躇しない。彼は今や「レコード・ファン」の特権であるはずの「知性」を、演奏を対象化し冷静な分析を試みる賢明なる「知性」を奪われている。それはおそらく、蓄音機によって再生されるのが、音楽そのものであると同時に、その演奏家の肉体であり、またその時間その空間でさえあるからだろう。彼はその時空にさらわれて、演奏家その人に出会っていないともかぎらないというわけだ。

小林秀雄が勘違いしているのではない。生きた時代が違うというに過ぎない。なにしろあの頃のレコードといえば、おおむね同時代の演奏家のその演奏の記録であったのだから。たとえば音楽青年小林秀雄が蓄音機で聴いていたに違いない、ミッシャ・エルマンやフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーといった、歴史に名を留めるヴァイオリニストたちは、その全盛期に日本を訪れ、小林秀雄は「その都度必ずききに行った」し、「それは又見に行く事でもあった」と述懐するのである。ところが、言うまでもないことだが、かかる人々の演奏は、今日の我々にとっては、既に過ぎ去った遠い時代の記憶なのである。加えて、エルマンもクライスラーも不世出だということがある。最早優れた音楽家は出現しないなどといいたいのではない。そういうことではなく、彼らは「最初の」演奏家なのだ。彼らこそが、今日のすべての演奏家の原点であり、例外なく、切実な動機をもって、人生を賭けて時代を拓いたのだ。そして、そういう人々に対する敬意が、私に蓄音機のゼンマイを捲けというのである。

ところが、「でもやっぱりナマには敵わないでしょう?」という問いを、私は幾度も受けてきた。蓄音機愛好家であるという私に対する、これは一種の反駁なんだろうと思う。しかしながら、蓄音機で聴くのと演奏会で聴くのとでは、今日では、その経験の意味がまるで違っている。双方のあいだには単純な比較を拒絶するものがあるのである。

言うまでもなく演奏会は楽しい。そんなことはわかりきったことである。この私にしても、演奏会一般の楽しみを否定することなどありえない。習いたての子供らの「スリリングな」ピアノ発表会であっても、演奏会は楽しい。近所の小さなお嬢さんなら、その盛装に応じて、こちらもきちんとネクタイを着用し花束なども拵えて、いそいそと出掛けようかというものだ。まして一流の演奏家が、蒼ざめた面持ちで、覚悟を決めて白紙に臨む、そんな、まさしく一回性の演奏会に立ち会えたなら、それは一生の宝である。

ところが蓄音機で音楽を聴くというのは、そのような時空の共有などもはや叶わぬ過去への、想像力の飛翔なのである。失われたはずの過去との思いがけない邂逅、それは歴史に推参する契機をさえ与えてくれると言っても、あながち誇張ではないであろう。



書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。

(小林秀雄「読書について」)



レコードを聴くことと書物を読むこと、これらをすっかり同じだということはできないかも知れない。しかしながら、書物なりレコードなりを介して、その向こうにいる人間に出会い得るという点ではよく似ているだろう。ヴァイオリニストから出て来たものを、再び元のヴァイオリニストに返す事が、レコード音楽を聴く技術の全てであるか、そういう問いは残るが、元のヴァイオリニストが、ふと見えてしまうということ、少なくともそんな気がするというくらいのことなら、それはどうやらありそうだ。

二十代も終わりにさしかかったあの夏の宵、私は、蓄音機が再生するジネット・ヌヴーの音楽に身を委ねながら、まったく未知の人である彼女に邂逅したと思ったのだった。それは、レコードを通して、既に亡いジネット・ヌヴーに思いを馳せたというようなことではなかった。彼女は蓄音機によって再生される音の最中に、たしかにいたのであった。かくして死者は、あるいは過去は、現在に持続するのかも知れない。そしてそれは、失われたはずのものでもある。その狭間に私どもは置かれ、救済されながらも翻弄されて、せつない思いにとらえられる。蓄音機の音楽は、いつも、哀しみのような感動を連れて来る。

(了)
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8:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:50:12

その七 収容所の音楽~シモン・ゴールドベルク
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ベートーヴェンといえばわが国ではまず第九、その交響曲第九番作品125の日本初演は、1918年、板東俘虜収容所でのことだそうだ。日独戦で捕虜となったドイツ兵のうち約千人が収容されたこの徳島の収容所では、所長、松江豊寿陸軍中佐(のち大佐)のもと、いわば武士道精神に基づいた人道的な運営がなされていた。松江は下北半島斗南生まれの反骨の人である。斗南といえば、戊辰戦争で朝敵賊軍とされた会津藩士らが封ぜられたところ、松江の胸にはその先人の悲痛な記憶が刻まれていたことであろう。このドイツ兵たちもまた祖国のために戦ったのだ――戦争における敬意と尊厳、それが松江の反骨だ。もとよりそんなものは、今日の我々にはむろん、当時において既にお伽噺のようなものであっただろう。ともあれドイツ兵たちは、故郷を遠く離れた異国の地に、各自の技芸を揮って一つの豊かな共同体を築き、土地の日本人たちと交流しつつ、板東を、暫時の、もうひとつの故郷としたことであった。もとよりドイツ人である、生活に音楽は欠かせない。収容後まもなく心得のある者が集って幾つかの楽団が編成され、音楽会も定期的に開催されるようになる。そうして収容所に鳴り渡った音楽は、板東の民衆と松江とともにある、彼らの歓喜の歌であった。

それから二十年、第二次大戦の最中となると、もうそんなお伽噺は見つからない。たしかに、あのアウシュヴィッツの強制収容所でも、虜囚ユダヤ人の音楽活動が許容されることはあった。しかし、言うまでもないことだが、そこに牧歌的な雰囲気などは微塵も見出せないのだ。むしろ、民族殲滅の危機に晒されたユダヤ人らの、一人でも多く生き延びねばならないという、土壇場の、まことに切迫した現実がうかがわれるばかりである。

アルマ・ロゼというユダヤ人女性、彼女の母親はあのグスタフ・マーラーの妹、父親はルーマニア出身のヴァイオリニスト、アルノルト・ロゼである。アルノルトがアルマを伴い、伸張する第三帝国の強迫からロンドンへと逃れていったのは1938年のことだ。ところが、自身優れたヴァイオリニストであったアルマは、音楽活動を継続すべく大陸に戻って時機を見誤り、ゲシュタポに捕縛されるところとなってしまったのである。

ビルケナウの収容所にあっても、生来の音楽の使徒アルマは、女性囚人のオーケストラを組織して音楽活動を継続した。さすがは、ウィーン・フィルのコンサートマスターを57年にわたって務めた人の娘だ。その指導は厳格だったが、それはオーケストラの水準をごく高いものにしなければ「危険」だったからである。ナチスの「文化」政策の一翼を担うとみせて、団員たちの「存在理由」を確乎とし、「虐殺」の危機を遠ざけようとしたわけだ。

アルマは1944年、病に斃れるが、その名は、彼女の唯一のレコーディング、父アルノルトと演奏したバッハ作曲ドッペル・コンチェルトとともに不朽である。



シモン・ゴールドベルクが、楽旅の途上、それまでオランダ占領下にあったジャワ島で日本軍に捕えられ、その地の収容所に収監されたのは1942年のことである。楽旅とは言ったが、むろんロマンティックなものではない。彼はポーランド系ユダヤ人である。すなわち、ナチズムが台頭するなかでの、まことに不本意な流浪の生活だったのである。ジャワの先にはオーストラリアがありアメリカがあったはずだ。だが、妻のマリアとピアノのリリー・クラウスを伴ったその解放の旅は、開戦とともに東南アジアに侵攻した日本軍によって、突然、頓挫させられたのであった。

ところで、収容所においても、ゴールドベルクはなお上機嫌であった。おそらく彼には、不満というものがないのだ。かつてはあった他の可能性などという幻想を顧みない。与えられた今の現実を全てとし、受け入れ、その環境と条件の下で、能うかぎりの知恵を尽くして力を揮うのである。いささか唐突だけれど、私はふと「西遊記」の孫悟空とか三蔵法師を思ったりする。

凡そ対蹠的な此の二人(三蔵法師と孫悟空)の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人が其の生き方に於いて、共に、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。更には、その必然を自由と見做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質から出来上っているそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方の甚だしい此の二人の生き方が、共に斯うした現実の受取り方の上に立っているのは面白い。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼等が天才であることの徴でなくて何であろうか?

(中島敦「悟浄歎異」)

三蔵法師には、所与の現実をそのまま肯ってたじろがぬ強靭さがある。悟空には、その現実に躊躇なく対処する身体的な実行家の楽観がある。その「天才」二人を前にして羨望し、実践的たり得ない我が身を顧みて落胆するインテリが沙悟浄なのだろう。俺は、事態を観念的に対象化し正確に分析して、それで済ましているだけではないのか。沙悟浄の歎きが聞こえてくるようである。そして私はシモン・ゴールドベルクという音楽家に、この二つの「天才」の高次の統合を見るのである。

シモン・ゴールドベルク8歳の写真がある。利発で明るい子供……そんな形容だけでは、その肖像が示唆する決定的な何かが抜け落ちてしまう。どこか無邪気でしかも神々しく、将来に輝かしい何かが約束されているような、ということは、もう何らかの使命を負っているといったような、そんな顔だ。彼はこの写真の貼られたパスポートを携えて家族に別れを告げ、ポーランドの故郷ヴォツワヴェックからベルリンへと旅立ったのであった。むろんヴァイオリニストとしての将来を嘱望されてのことである。それは、二十世紀にチェンバロを復活させた演奏家ワンダ・ランドフスカに見出されての首途であった。

ベルリンでは、稀代の名教師カール・フレッシュの門に入る。ゴールドベルクはもとより神童に違いなかっただろうが、フレッシュは神童とか天才という価値に懐疑的な人であった。それを認めないのではない。そんなものは、それだけでは若年期の栄光という、あまりに虚しい商品的性格に過ぎないというわけだ。幼いゴールドベルクはフレッシュの許で、妥協のない修行の日々を送ったことであろう。青年期を過ぎ、あからさまに色褪せていく天才ヴァイオリニストが少なくない中、彼は生涯を通じてその輝きを失わず、それどころかさらなる高みに昇りつめていくのだが、その根底には、この時期の徹底した基礎訓練があったものと思われる。

そしてさらに、オーケストラでの鍛錬。これもフレッシュの教育方針である。この頃、欧州の主要なオーケストラのコンサートマスターは悉くフレッシュ門下、ゴールドベルクもまもなく名門ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者エーリッヒ・クライバーの要請を受けて、その地位に就くことになる。そのとき16歳。前例のない若きコンサートマスターの誕生であった。しかし伝説はそこに止まらない。翌年にはベルリンのウィルヘルム・フルトヴェングラーの注目するところとなり、1929年、19歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するのである。これも史上最年少だ。最年少であることが強調されることの中には、彼がヴァイオリン奏者として史上稀な卓越を若くして示したというだけではない、別の意味がある。権威あるオーケストラの誇り高い音楽家達を統率するには、演奏家としての技量だけではなく、音楽そのものに対する深い教養と、団員に信頼に値すると思われるだけの高い人格、そういったものも求められるであろう。そしてこの青年にその資格があったということである。

さて、かく順風満帆とみえる船出だが、しかし時は1930年代、世界恐慌を端緒として、不穏な空気が色濃くなってくる。ソリストとして、あるいはパウル・ヒンデミット、エマヌエル・フォイアマンとの室内楽で、全欧にその存在が知られると同時に、ユダヤ人としてベルリンに居続けることの困難もいやまして来る。フルトヴェングラーはドイツ人として、その音楽的ナショナリズムの構築と存続を、最も若く最も優れたこのポーランド出身のヴァイオリニストに懸けていたから、ぎりぎりまで慰留に努めたようだが、1933年、ナチス独裁体制が確立し、ユダヤ人に対する弾圧が始まると、さすがにゴールドベルクのドイツ脱出の要望を受け入れざるを得なくなった。ゴールドベルクは、他の多くのユダヤ人音楽家と同様にロンドンに赴き、そこを出発点として、先述のトリオやリリー・クラウスとのデュオを主とする演奏活動を、ドイツ圏を除く全欧で展開し始めた。1936年には日本にも足を延ばした。それは一見すると、オーケストラの一員としての義務を解かれた彼の、待ち望まれた旺盛な音楽活動と見える。一応それはそうに違いないのだが、そこにはある事情が、ポーランド国籍の者は一つの国に3か月以上滞在できないという理不尽な制約が背景としてあった。すなわち強いられた彷徨でもあったのであって、彼は音楽のために割くべき時間の多くを、役所の待合室でヴィザの発給をただ待つことに費やさねばならなかったのである。それでもようやくオーストラリアを経由してアメリカ合衆国に移住する見通しがたち、オランダ領東インドへとやって来たのだが、折悪しく侵攻してきた日本軍に捕縛され、その後その地のヨーロッパ人らとともに、終戦まで3年におよぶ抑留生活を強いられることになる。

収容所にあっても彼は音楽活動を継続した。オーケストラも組織した。まずは楽器を搔き集める。ヴァイオリンが十数挺、しかしながら弦がない。ギターの弦があってそれで代替する。弓が足りない分は、ちょうどいい、ピツィカート専用だ。ピアノは半ば壊れていたが、それでも音の出る鍵はあった。さて次は楽譜だ。これは彼の頭の中にある。それを書き出せばいいのだけれど、さて紙は……収容者は入所時に書籍二冊の携帯を許可されていた。本には余白がある。そこを切り取って繋ぎ合わせればいいのだ。一冊また一冊と供出され積み上げられた本の余白を、皆で手分けして切り出し、大小の紙片を揃える。ゴールドベルクは苦笑した。彼は自分が持ち込む書籍の選択にあたって、読み飽きることがないであろう辞書を選んでいたのである。しまった。辞書の余白はあまりにも少ない……。ともあれそうやって仕上がった白紙に、これも密かに持ち込まれていた鉛筆の芯の提供を得て、彼はスコアを一曲書き上げたのであった。それは、少年の頃、カール・フレッシュ先生に叩きこまれたベートーヴェン、そのたった一つのヴァイオリン・コンチェルトであった。

此の男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。其の火は直ぐに傍にいる者に移る。彼の言葉を聞いている中に、自然に此方も彼の信ずる通りに信じないではいられなくなって来る。彼の側にいるだけで、此方までが何か豊かな自信に充ちて来る。

(「悟浄歎異」)

人々はゴールドベルクのストラディヴァリウスを連係して守り抜いた。監視がやや緩やかな女性の収容棟に移して赤ん坊の寝床の下に隠し、窓から外にそっと落として、収容を免除されていた近隣のスイス人の医師に託した。また強制労働に際しては、敬愛するヴァイオリニストの手を傷つけぬために、その仕事を皆で分担した。微笑を絶やさず、いつも今なし得ることを考え、身体を動かしている。それが多くの人々を惹きつけ、協調を産み、人間の豊かな共同性を育む。真の教養人の姿がそこにあった。人々はどんなにか愉しく幸福であったろう。生き生きと躍動する収容者たちの姿が髣髴としてくるようだ。

音楽は楽しむだけのものではなく、その存在が必然的な価値をもつものであり、さらに、人が最も過酷な現実に晒され生きることへの危機に直面した時、人間が人間として求める〈不可欠な何か〉であるのだ。

(シモン・ゴールドベルクの言葉)

この時のコンチェルトは、さてどんな演奏だったろう。絶対に再現されることのない、一回きりの、かけがえのない音楽。ゴールドベルクの音と音楽は、澄み切った漆黒の天上に、銀の線条をもって縁取られた、彗星の、あるいは無数の恒星の軌道である。今、ドイツ退去の年に録音されたドヴォルザークの小品(スラヴ舞曲ホ短調作品26の2、ピアノ伴奏アールパード・シャーンドル、1934年)と戦後まもなくロンドンで録音されたヘンデルのソナタ(第四番ニ長調作品1の13、ピアノ伴奏ジェラルド・ムーア、1947年)を蓄音機で聴いてそのことを確かめた。地上から垂直方向に延びていくようなその美しさは、ストラディヴァリウスを奏した青年期も、その後のグァルネリウスの時代においても変わらない、ゴールドベルクの音であるように思われる。大地から立ち上がった人間が、目下の現実を超えて広大な大地と宇宙を遠望しつつその永遠を瞑想したとき、彼は、自分と自分を含む人間という地上の存在の無常とそれゆえのかけがえのなさとに思い至った。その天と地を媒介するものとして音楽というものが生れたとすれば、ゴールドベルクの演奏は、まさにそのようなものだ。それは真の救済である。

やがて終戦。解放されてシンガポールに赴き、そこで妻に再会した。ストラディヴァリウスも戻って来た。このストラドはベルリン・フィルのコンサートマスターに就任した頃、その給料をはたいて月賦で購入したものだ。まだ勘定は済んでいなかったが、そんなものは大戦の混乱のなかで有耶無耶になっていたに違いない。しかし律義者のゴールドベルクは自ら楽器商に出かけて行ってその支払いを続けた。かくしてすべてはもとに戻ったか。むろんそんなことはない。故郷の家族は一人の兄を除いて皆帰らなかった。ホロコーストという宗教的な比喩で語られるが、そんなものではあるまい。単なる虐殺であろう。ジャワに抑留されたシモンと、シベリアの収容所に送られていた三番目の兄だけが生き延びたのであった。敬愛するフルトヴェングラーとも再会したが、マエストロが肩を抱いて「酷い目に遭ったなあ、お互いに」と言った、その「お互いに」という一言が引っかかった。

しかし、ゴールドベルクの音楽は変わらなかった。芸術は、状況に翻弄されないためにこそある。この大宇宙の隅っこで束の間の人生を生きる他ない人間の、その脆さと哀れさをよく知って、その悲劇性ゆえの貴さを嚙みしめながら、正しく美しいものを求め続けた無私の芸術家、それがシモン・ゴールドベルクなのだと思う。

80歳を前にして、パリ音楽院に学んだ邦人ピアニスト山根美代子と再婚し、最晩年は北陸の立山に住んだ。ゴールドベルクによると、これは日本による二度目の捕囚ということになるらしい。その頃の彼の風貌は、また一段と美しい。そしてその姿のまま、しかも現役のヴァイオリニストのまま、その地を第二の故郷として生涯を閉じたのである。墓所は護国寺、まことに質素清潔な墓であった。

(了)



注)シモン・ゴールドベルク(1909~1993)の伝記、逸話およびその言葉等については、ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』(幻戯書房2009年刊)を参照し、引用させていただいた。

https://kobayashihideo.jp/2020-01/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c%e2%80%95%e2%80%95%e3%83%91%e3%82%ac%e3%83%8b%e3%83%8b%e3%81%ae%e4%ba%a1%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd-2/
9:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:51:24

その八 一瞬の閃光~ヨーゼフ・ハシド
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彼は、その生涯を、たった八曲の小品に、合わせて三十分にも満たないその演奏時間に凝縮させて、二十六で死んでしまった。

わずかにレコード四枚八面、それも十六歳の録音である。そしてその十六歳が、彼の、そのヴァイオリニストとしての人生の最晩年であった。なぜなら彼は、そのレコーディングの後まもなく精神を失調し、ヴァイオリンも音楽も、自分自身をも否定したまま終わったから。それはいかにも傷ましい。天才であったからその早逝が惜しいというのではない。そういうことではなく、自分が自分として生きることを許されぬ人生とは何であるか……そんなことを思うのである。



1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール、それが首途であった。ヴィエニャフスキという人は、あの、周知の、というような音楽家ではないかも知れない。しかし、ピアノにフレデリック・ショパンがいるように、ヴァイオリンにはヘンリク・ヴィエニャフスキという、これもまた民族派の傑物がいる、それがポーランドという国なのである。その生誕百年を記念して創設されたコンクールの第一回は、周知のように、ジネット・ヌヴーの華々しい出現によって記憶されることになる。ソヴィエト連邦のダヴィド・オイストラフは、たしかに世界に向けて強烈なインパクトを与えたが、しかし第一位の栄光だけは、パリからやって来た十六歳の少女に譲ったのであった。ところで、その鮮烈な物語の傍らで、一人の、ちょっと内気な巻き毛の少年も、まことに印象的な演奏を披露していたのである。ヨーゼフ・ハシド十一歳。ディプロマ賞。地元ポーランド、ショパン音楽院の神童は、ワルシャワのユダヤ人コミュニティの英雄になった。

翌年、巨匠として世界を席巻してきたフーベルマンは、ハシドの演奏に立ち会い、直ちに稀代の名教師カール・フレッシュに入門すべきことを勧めた。故国に留まっていてはいけない。君は世界に勇躍すべきヴァイオリニストだ。それにファシズムの危機も迫っている。ブロニスワフ・フーベルマンもまた、ポーランド出身のユダヤ人であった。ところが、貧しいハシド家は、その忠告に従うことができない。希望は潰えたかにみえた。そこで、やはりポーランド生まれのユダヤ人で、既にフレッシュ門下にあったイダ・ヘンデルの父親が、幼い娘のライヴァルのために、師に推薦状を認め、学費の減免をも願い出てくれたのであった。



かつて見たことのない才能だ――フレッシュは感嘆した。その脳裡に幾人かの、かつての生徒の面影が映る。たとえばマックス・ロスタル、あるいはシモン・ゴールドベルク……両人とも、同じポーランド系のユダヤ人である。ロスタルはフレッシュの助手を務め、ゴールドベルクは十九歳でベルリンフィルのコンサートマスターに招聘された、疑いなく門弟中の双璧である。ただしもう一人、彼らに先立って活躍したヨーゼフ・ヴォルフスタールという青年のことも忘れてはならない。このウクライナ出身のユダヤ人は、素行に問題あって破門に遭い、しかも既に早逝していたが、もとはフレッシュの助手であり、居並ぶフレッシュ門下のなかでも、ひと際傑出した俊才であった。ともあれ、二十世紀のヴァイオリン界に確乎たる地位を占める、歴代の、まったく別格というべき高弟たち……この少年は、いつか彼らに伍する位置にまで昇りつめる、そんな日が来るのではないか。

ベルギーでのサマースクールで門下生となったハシドを、翌1938年、フレッシュはイギリスに呼び寄せた。その稀有の才能はまもなく噂となって大陸を巡り、ハンガリーのヨーゼフ・シゲティや、フランスのジャック・ティボーが、ロンドンのレッスン・スタジオに見物に来た。ポーランドの血を引くユダヤ人ヴァイオリニスト、皇帝フリッツ・クライスラーも、そこにやって来た一人だ。そのとき彼がもらした一言は、今日、ハシドについて語られるとき、必ず引用される言葉である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは百年に一人は現れるものだが、ハシドは二百年に一人だ――クライスラーは、この少年の遠からぬデビューのために、自分のヴァイオリン・コレクションの中から、ジャン・バプティスト・ヴィヨームを用意した。

1940年4月3日、ロンドンの聴衆は、戦火と迫害を逃れてポーランドからやって来たというヤング・ブリリアント・ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシドの、そのファースト・リサイタルに集まった。伴奏はジェラルド・ムーア。プログラムは、シューベルト「ソナチネ」、コレッリ「ラ・フォリア」、バッハ「無伴奏ヴァイオリン」より「アダージョ」と「フーガ」、ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」、サラサーテ「プライエラ」と「ザパテアド」、そして最後にパガニーニの変奏曲「イパルピティ」……古典から近代の曲まで、ヴァイオリンの精髄を問うような曲目が並んでいる。技量においても音楽性においても成熟したヴァイオリニストが選ぶプログラムだ。殊に最後の「イパルピティ」に興味を引かれる。あの妖しいほどの序奏と変奏……。それにバッハだ。アダージョに続くあの目くるめく遁走……。

何にせよ、デビューは上々であった。まもなくレコーディングも行われた。6月に、エルガー「気紛れ女」、チャイコフスキー「メロディ」、サラサーテ「ザパテアド」「プライエラ」、11月には、クライスラー「ウィーン奇想曲」、アクロン「ヘブライの旋律」、ドヴォルザーク「ユーモレスク」、マスネ「瞑想曲」――天才なのだ。こんな才能とは一緒にやったことがない……ジェラルド・ムーアの述懐である。前途は洋々であった。



そう。前途は洋々、順風満帆と見えた。

それに恋もしていた。同門のエリザベス・ロックハート。二つ年上の美しい少女。ベルギーでのサマースクール以来だろうか、良好な関係だった。

ところが、この頃からその雲行きが怪しくなる。おそらくヨーゼフの恋慕が性急で執拗だったのだ。ありそうなことだ。神童ヨーゼフ・ハシドは十歳で母を亡くしている。そしてまもなく人も知る「天才」となり、大人の、成熟したヴァイオリニストとして立たなければならなかった。そんな彼にとって、ちょっとだけ年上の少女への恋というのは、どんな意味をもっていただろう。ヨーゼフの激情が負担となってエリザベスは居所を変えるが、彼はそれをも追った。なぜ僕を避ける? 君は僕と一緒にいなけりゃならない人だ……そんな十七歳の恋の破局は、エピソードには止りえない。人生そのものの破綻になってしまうのである。

含羞と微笑を漂わせていたいつもの表情は失われ、陰鬱に閉ざされた無表情で、街をさまよい、あるいは部屋に籠った。それでもクイーンズ・ホールでは、ブラームスとベートーヴェンのコンチェルトで喝采を浴び好評を博した。が、本当は、そんなことにはもう関心がなかった。そもそも、ヴァイオリンに触れるのも忌まわしかった。ナイフをもって父親に躍りかかった。不治と診断され、病院に収容された。一時的に回復したこともあったが、それも一度きりだ。自分はユダヤ人ではないといい、ヴァイオリニストであることさえも、どうやら忘れてしまったようだ。十年の後、前頭葉を一部切除するというロボトミー手術を受け、その後遺症で亡くなったのだが、当人とすれば、何をいまさら、といったところかも知れない。



「早く快復するように、その若い意志の力の限りを尽くして、できることは何でもやりたまえ。再起することは、君のような偉大な芸術家の、この世界に対する義務なのだ。」

(カール・フレッシュの書簡 1943年6月6日)

師匠としては精一杯の激励であったろうが、ハシドは、読みもしなかったのではないか。読んだとしても、何の感慨も覚えなかったことであろう。たしかに自分は偉大な芸術家であったかも知れないが、それ以前にひとりの少年だったのだ。その少年に添えられるはずの手の温もりも優しい言葉も知らずに来てしまった。

ヨーゼフ少年を置き去りにして、天才ハシドは永遠になった。レコードから聴こえてくる、あの高く張り詰めた緊張、切実な響き……ちょっと類例がない。一音一閃、その極限値を追求し続けるような演奏は、まさに天才のものなのだろう。しかし、その種の天才は早逝を宿命としているのではないか。天才は、本当は、乗り越えられなければならないのではないか。そしてそれには歳月を必要とする。年齢を重ねて、命を磨いて、天分ははじめてその本来の姿を現す。

「よき細工は少し鈍き刀を使ふと言ふ」――兼好『徒然草』にある言葉だが、ハシドを二百年にひとりと言ったクライスラーこそは、そういうことをよくわきまえたヴァイオリニストであった。稀有の才能は、それだけで幸福というわけではない。むしろ警戒を要するのかも知れない。切れすぎる才能にこそ必要な「鈍き刀」……そうして手渡された1845年のヴィヨームで、しかしハシドは、徹底的にその音を研ぎ澄ましていった。「よき細工」たるべく、歳月をかけて命を育む余裕というものが、彼には最初から許されていなかったのかも知れない。それこそが、彼の天分であり、同時に不幸であった。だから、ハシドの音楽は、私にいささかでも享楽的な聴衆たることを禁じる。

――如何に倐忽しゅっこつたる生命の形式も、それを生きた誠実は、常に一絶対物を所有するものだ。

(小林秀雄「富永太郎」)

それは確かだ。しかしもう充分だろう。ハシドの音楽について語ることには、いつも後ろめたさのような感傷がつき纏うのである。
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10:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:52:55

その九 パッセージ
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ストラディヴァリのヴァイオリンを独奏者の楽器として自立させたのは、ボローニャのヴァイオリニスト、アルカンジェロ・コレッリである。コレッリのおかげでヴァイオリンは自由になったが、百年後のヴァイオリニストは、信仰や伝統や、さまざまな共同性との絆を断たれ、独り彷徨する孤独を引き受けることにもなった。後のヴァイオリニストの栄光も哀しみも、みなこの近代的な孤絶に由来する、そのように私には思われる。



パガニニという宗教も哲学も信じない放蕩者は、ヴァイオリンに独特な歌を歌わせる果敢無い芸しか信じてはいなかった。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)



「果敢無い芸」である。「音楽という目的は、弓が絃に触れて初めて実在し、又忽ち消える」、その一回性の、孤独な、奇跡のような芸術、その象徴が、すなわちニコロ・パガニーニなのだ。そして「パガニニの亡霊」こそが、今日に至る所謂ヴァイオリン音楽の一つの核をなしている。そのような自覚が、二十世紀前半までのヴァイオリニストたちにはあっただろう。私などは、そんな彼らがやってのけた再現不可能な達成の、せめてその痕跡に出会えたら……そんなことを思いながら、古いレコードを漁ってきたにすぎない。これは矛盾だが、失われた過去への追憶には、やはり何かしらの手がかりが必要なのである。



この連載のタイトルを「ヴァイオリニストの系譜」としたとき、私の頭にあったのは、パガニーニの後継たらんとして消えていった多くの、または名を遺し得た幾人かのヴァイオリニストの名前である。

そのうち、音源によって確かめ得る最も古い名前は、1831年ハンガリーに生れ、ライプチヒでメンデルスゾーンに師事し、やがてベルリン音楽大学の創設にかかわったヨーゼフ・ヨアヒムである。ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを復活させ、ブラームスのコンチェルトを完成に導き、最晩年にバッハの無伴奏2曲をレコーディングしたこの古典派こそ、現代に連なるヴァイオリニストの偉大な礎石である。

次に挙がる名前は、「ツィゴイネルワイゼン」のパブロ・サラサーテだろう。スペインのバスクからパリにやって来たこの男は、ヨアヒムより13歳年少の1844年生れ、ひたむきにパガニーニの後を追い続けた、いわば民族派の巨人である。そしてこのサラサーテを宵の最後のきらめきとして、19世紀のサロン音楽は頽廃の裡に幕を閉じたのであった。

ヨアヒムが黎明なら、サラサーテは蒼然たる暮色なのである。しかしながらヴァイオリンという楽器は、ヨアヒムによって権威を与えられた「近代的な」クラシック音楽の向こう側で、クラシック本来の民族音楽としての記憶を、あのプリミティヴな姿態の裡に辛うじて繋ぎとめてきたのである。もとよりヨアヒムにしても、畏友ブラームスが自分の故国のジプシー音楽に取材し編曲したハンガリー舞曲集をヴァイオリン用に編曲し、冒頭2曲を録音している。あの「ツィゴイネルワイゼン」もジプシーの旋律に由来していることを思うなら、サラサーテもヨアヒムも、その魂胆はかわらない。やはり彼らの出自は、かつて村の辻で歌や踊りの伴奏をしていた伝統的なヴァイオリニストの系譜にあるのだ。彼らは大地に立っている。

大地との紐帯を断って、空虚な技巧に溺れ、ひと時の盛名の後に忘れられていった幾多のヴァイオリニストは、パガニーニの後継たらんとして、その形骸しか見ていなかった。真の近代的ヴァイオリニストは、パガニーニの孤独を、信仰を失った人間という生きものの、救済のない無常を見ていたはずである。その果てに現れてくる芸術至上主義にこそ、ほんとうの芸術があるのではないか。



「パガニニの亡霊」を追いながら「ヴァイオリニストの系譜」をたどるうち、私はいつかそういう考えにとらわれはじめていた。これは観念の遊戯であるか。まあそうである。そうではあるのだけれど、そのような思いを確認しつつ、「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば」それで足りるというようなパガニーニの何処か朗らかな変奏曲を古いレコードであらためて聴いてみると、これまで経験しなかったような、ほとんど救済のような感動を覚えたのであった。もとより、1945年のベルリンフィルのブラームスから始めたこの連載に通底する主題ではあるのだけれど、ここにきてその手応えが変わってきた。たとえば、私をこの世界に導いてくれたという意味で、私には最も重要なヴァイオリニストであるジネット・ヌヴーだが、彼女については、私の全霊の感謝を捧げつつ、1938年のベルリン・デビューのレコード、それだけを手許に遺せればいいのではないか、そんなふうに思い始めているようなのだ。

これは困った。恩人に対してあまりに非礼と言われねばならない。しかし、むろん、ヌヴ―を捨てたわけではない。そんなことはできない。私の音楽的感性は、彼女の演奏の記憶を身体化しつつ持続しているだろう。しかし、そのように変容を遂げつつある自分を、今はまだちょっと持て余しながら、ヴァイオリニストの系譜を眺め直さねばならなくなったことだけが確かなのである。



そんなわけで、この連載も、なかなか困難な局面にさしかかってきたらしい。次のテーマもまだ定まらない。いましばらく考えあぐむ時間をいただいて、いよいよ本論へ、そんな感じがしている。

(了)



(注)

本文中の引用はすべて、小林秀雄「ヴァイオリニスト」(1952年)から。

ストラディヴァリ……Antonio Stradivari 1644-1737

アルカンジェロ・コレッリ……Arcangelo Corelli 1653-1713

ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini 1782-1840

ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907

パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate 1844-1908

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949

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11:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:53:19

その十 黎明~ヨーゼフ・ヨアヒム
https://kobayashihideo.jp/2020-10/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C%E2%80%95%E2%80%95%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%81%AE%E4%BA%A1%E9%9C%8A%E3%82%92/


机の上に木製の写真立てが一つ、十九世紀末の髭もじゃの男がこちらを見下ろしている。ご本人は澄ましているだけかも知れないが、睥睨へいげいという趣である。いかにも頑強な骨格、それに鋼鉄の意志と非妥協的な不機嫌。小柄な人だったというが、どう見ても巨人だ。



われわれがこんにちモーツァルトのコンチェルトやバッハのソナタを、あるいはまたベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトあるいはソナタを演奏会場で聞くとき、本来は、一分間、彼のことを思い出すべきなのである。

(J・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』松本道介訳)



同感である。なるほど、せめて一分間目を閉じて、「彼」に思いを馳せるべきだ。「彼」とは、すなわち、写真立ての偉丈夫、ヨーゼフ・ヨアヒムである。ヨアヒムに捧げられるべき一分間の瞑目……「一分間」というのはそれなりに長い時間だが、ヨアヒムの、ヴァイオリン音楽史上の功績を思えば、むしろ短すぎるくらいのものである。

ところで「本来は」と、ハルトナックは断ってもいた。一分間の瞑目など、今日では誰も思いつきもしないということだろう。そう、ヨアヒムのことなど、みな、忘れてしまった。サラサーテのことは覚えているのに。「これは本来は妙なことなのである」(ハルトナック)。たしかにパブロ・サラサーテはある種の音楽的傾向の達成に違いない。それは妖しいまでに美しい。が、やはりそれはひとつの時代の終焉、落日なのだ。夕映えなのだ。それに対してヨアヒムは、今日のすべてのヴァイオリニストを照らし出す曙光である。そしてその一閃は鮮烈だった。



八歳の少年ヨーゼフ・ヨアヒムに関してわれわれは、この少年とその腕前に真の奇蹟を見、また聞いたという以外にない。彼の演奏、そのイントネーションの曇りのない美しさ、そして困難な個所の克服ぶり、リズムの安定性といったものは、聴衆をうっとりさせ、彼らはただ絶えず拍手をして、第二のヴュータンに、第二のパガニーニに、第二のオール・ブルになると、おのおの予言したのであった。

(『二十世紀の名ヴァイオリニスト』に引用された《シュピーゲル》紙の記事)



1838年、ブダペストでのデビューの直後に現れた批評である。引用しつつハルトナックは、ここに二つ誤りがあるとしている。まず、このときヨアヒムは未だ七歳であったこと。次に、「第二のパガニーニ」ではなく、むしろ「パガニーニの克服者」というべきであったということ。

たしかに「第二」の称号は、たとえばサラサーテのようなヴァイオリニストにこそふさわしい。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニのように、サラサーテは、故国スペインの旋律やジプシーの歌謡を、演奏の度毎に、芸術音楽へと高めてみせた。が、その傍では、少なからぬサロン系のヴァイオリニストたちが、パガニーニの幻影を追いながら、いつか切実な芸術的動機を見失って、つかの間のきらめきと喝采とを思い出に空虚な頽廃へと落ち込んでいったように見える。伝承されてきた趣味や教養が、新時代との葛藤を忌避して自閉し、ナルシスティックに「進化」しつつ滅びていく……パガニーニに潜む魅惑的な陥穽だ。その傾斜の最中にあってそれに抗い、放浪のヴァイオリニストの魂を己の本領として輝いた宵の明星……サラサーテは、私には、そういう奇跡的な個性と見える。

さて、ヨアヒムもまた、きわめて個性的な神童として登場したのであった。だが、その眼差しは、パガニーニのさらに向こう、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった古典の系譜に注がれていくことになる。

ブダペストでの衝撃のデビューの後、聖地ウィーンに向かったヨアヒムだったが、音楽院の最高権威ゲオルグ・ヘルメスベルガーⅠ世にはその将来性を悲観されたらしい。さすがにハインリヒ・エルンストはその可能性を見抜いて、自らの師であるヨーゼフ・ベームを紹介している。

そのウィーンでの修業時代を経て、次に向かったのはライプツィヒであった。神童としてはパリに学ぶのが常道だが、東欧ハンガリー、キトシュという村の貧しいユダヤ人一家にそんな財力はなかった。また親戚筋のヴィトゲンシュタイン夫人がライプツィヒ行きを勧めたともいう。ライプツィヒにはゲヴァントハウス管弦楽団があり、新設の音楽院があり、それらを主宰するフェリックス・メンデルスゾーンがいた。十二歳のヨアヒムは、そのメンデルスゾーンによって、もはや音楽院で勉強する段階ではないと評され、メンデルスゾーン自身やフェルディナンド・ダーヴィト教授、さらにはエルンストやアントニオ・バッジーニといった一流奏者との交流を通して、後にはシューマン夫妻との交際も加わって、その天稟の芸術性を高めていったのである。エルンストもバッジーニも、パガニーニの系譜だが、ここではメンデルスゾーンのバッハへの傾倒が決定的な影響となった。

その影響は、1847年のメンデルスゾーンの死後、フランツ・リストの招聘に応じてワイマールに赴き、オーケストラのコンサートマスターとして恵まれた生活を送る中で、次第に結晶していった。やがて、リヒャルト・ワーグナーとともに、「新ドイツ楽派」の首領として「未来の音楽」を主張することになるリストとの親密な友情のなかでこそ、ヨアヒムはかえって自らの古典への志向を自覚し、より強くしていったのではないか。二人は、後に訣別することになるが、それは、それぞれの音楽観の建設的な展開の必然的帰結だ。以後、ヨアヒムは、音楽の倫理性を求め、古典の媒介者ないしは継承者としての道をまっすぐに歩き始める。

そしてその同行者、それが、正真正銘の古典派ヨハネス・ブラームスだった。自分の音楽などには懐疑的で、むしろ過去の巨匠たちへの、わけてもベートーヴェンへの敬意を動機のすべてとして、彼らを仰ぎ見つつ、無私を得んとし続けたブラームス。ヨアヒムに宛てた手紙のなかで彼はこんなふうに自問自答していた。

「ヨハネスは何処だ。彼はまだティンパニさえ響かせないのか。ベートーヴェンのシンフォニーの冒頭を思いながら、彼はそれに近づこうと努力することになるだろう」。

ヨアヒムもまた、ブラームスに出会う少し前に、こんな言葉をしたためている。

「どうやらぼくは音楽にとって何の役にも立たないように運命づけられているみたいだ……しかも自分の芸術の向上を真剣に考えている。それはぼくにとって神聖なものだ……それにもかかわらず、事実上何も成就していない。まるで、何か悲劇的な運命がぼくの上にのしかかっているみたいだ。それと闘う力がないんだ! この運命は一生つきまとうのだろうか? ……しかし、征服してやるぞ。何としても芸術に対して大きな貢献をしたいのだ!」

メンデルスゾーンによってバッハへの目を開かれ、その無伴奏のヴァイオリン・ソナタを再発見していたヨアヒムにとって、あるいはワーグナーのベートーヴェンへの眼差しに対峙し、楽聖の未知の展開などより、その魂魄こんぱくにこそ迫ろうとしていたに違いないヨアヒムにとって、ブラームスは恰好の同志であり、あるいは自らの志の半分を投影するに充分な相手だったかもしれない。ヴァイオリニスト・ヨアヒムは既に作曲家でもあったが、その一面は、半ばはブラームスに委ねられたのではないか、そんなふうにも見える。ブラームスもまた、ヨアヒムという知己を得て、作曲家として生きる人生を確信したことだろう。他人の干渉を徹底的に拒むために、すべてに敵対しつつ古典の世界を幻想する、どこまでも非妥協的なこの作曲家の伴侶は、古典に推参するその姿に敬意を払い、かつそこに遠く及びえない天才を認めるヨアヒムの、その謙譲と寛容をもってして、はじめて務まる役柄であった。

1869年、三十八歳になる年、ヨアヒムは新設のベルリン音楽大学の学長に就任した。学長は学内外で猛烈に働き、学生は年毎に増えていった。「真に世界的なヴァイオリニストを一人も育てなかった」と、カール・フレッシュは後に酷評したが、一定の技量をもち、かつ古典を教養とする多くのヴァイオリニストを輩出することで、ベルリンの、ひょっとしたらヨーロッパ全土のオーケストラの質を飛躍的に高めた功績は見逃せない。それと同時に自らの演奏活動も精力的に行い、聴衆に迎合してきたヴァイオリン音楽のプログラムを、ただただ技巧的であったり過剰にロマンティックであったり空虚な感傷を楽しんだりするだけの小品が並んだ従来のプログラムを、クラシックを軸にした厳粛なものへと改革した。現代のクラシック・コンサートの会場には、良くも悪くも、たとえばミサのような緊張した雰囲気が満ちているが、その萌芽はどうやら、ヨアヒムが築いたその音楽文化、サロンの小部屋から解放された新興都市ベルリンという芸術空間にこそあるようだ。そしてその間にもブラームスと議論を重ね、シューマンやメンデルスゾーンのエピゴーネンと貶められたこの作曲家を支えた。たとえばブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは、ヨアヒムの音色とその圧倒的な技量とを念頭に書かれたものだ。

かくして十九世紀までの漂泊のヴァイオリニストたちに芸術家としての地位を与え、また今日に持続するクラシック音楽の伝統を再構築した巨匠こそ、ハンガリーに現れ、バッハ終焉のライプツィヒを経て、ベルリンを新たなクラシック音楽の拠点としてそこに躍動した、このヨーゼフ・ヨアヒムなのである。

もはや歴史の彼方の人物だが、幸いにも五曲、古いレコードで今もその演奏を聴くことができる。1903年、もとより晩年のドキュメントであって全盛期のそれではないが、贅沢を言ってはいけない。オリジナルの分厚いレコード盤にごく上質の鉄針を落とせば、一世紀ほど前まで確かに生きていた真の巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムの、その奏でる音響、誠実で瑞々しい音色が、時間を超えて溢れてくる。ありがたいことである。ヨアヒム先生のレッスンは、まずは生徒に弾かせ、何か批判すべきことがあると、直ちに自分で弾いて規範を示すというものだった。「まったく神々しいような態度でみずから問題の個所を弾いて」みせたとは、同じハンガリーを出自とする高弟レオポルト・アウアーの述懐だが、ヨアヒムはいつも自分で弾いたのだ。だから彼のレコードは、自ら演奏してみせることのできない、未来の「門弟」に向けられたものであっただろう。そしてその「教材」に選んだのは、まずはバッハ無伴奏から二曲、次にブラームスのハンガリー舞曲集から二曲、そして自作の一曲であった。

ヨアヒムは作曲家としても知られていたから、その一曲の自演が遺されたことは幸いである。しかしながら、一般にヨアヒムの作品は、今日ほとんど顧みられていない。もっともその「作品」の定義をほんの少し広げれば、事情は違ってくるのである。ブラームスの、モーツァルトの、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトにあるカデンツァだ。ことにベートーヴェンのカデンツァは、いかにも古典派らしい名品である。ヴィルトゥオーゾ的名人芸とクラシックの高次の統合。残念ながらヨアヒムの録音はない。私は、ヨーゼフ・ヴォルフスタールの1929年の音源で、それを確かめたのだった。ベートーヴェンはこの曲のカデンツァを書いていないというから、ヨアヒムが代わりに書いた、そういう趣である。そして、ヨアヒムの演奏が遺されていないから、ヴォルフスタールが弾いたのだ。

1844年5月27日、ヨアヒムは、ロンドンのフィルハーモニー協会のコンサートで、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを、そのカデンツァをつけて「復活」させた。十三歳になるひと月前のことである。指揮をしたメンデルスゾーンは、「前代未聞の成功」と称賛した。1806年のフランツ・クレメントによる初演では、長い第一楽章の後に休憩が入ったというから、それは「復活」どころか、初めての完全な形での「初演」であったかも知れない。

ところでこのコンチェルト、ニコロ・パガニーニが少なくとも一度、その演奏会のプログラムに載せているそうだ。この事実は、思いがけず深い意味を持つかもしれない。パガニーニが一度だけ弾いた。言い換えれば二度と弾かなかった。何故か。それはつまり、聴衆に理解されなかったということではないか。聴衆が好むのはあくまで享楽的なショートピースであって、構成的なクラシックの大曲なんかではない。それでも一度はこの名曲を演奏した、が、断念した。そういうことではないか。すなわち、パガニーニは聴衆に迎合した。迎合しつつ、彼の心は、もはや、聴衆から離れ、再び還らなかったのだ。そうだとすれば……。

ヨアヒムは、「パガニーニの克服者」である。それは、パガニーニをも含む前世紀のヴァイオリニストの限界をクラシックの文脈に統合して超克したということである。そして、パガニーニが断念したところから出発して、クラシックを、新たな時代の聴衆に開いたということである。ヨアヒムは、自分にも他者にも求めるものが高く、したがって常に悲観して、寛容の裡にも不機嫌を潜ませていたというが、それはつまり、彼が、その時代と聴衆から離れることなく、非妥協的に奮闘していた、その証だ。そしてその眼差しは、今日の私のような者にも届いている。





注)

ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim1831-1907 ハンガリー・キトシュ出身

パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate1844-1908 スペイン・パンプローナ出身

アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps1820-1881 ベルギー・ヴェルヴィエ出身

ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini1782-1840 イタリア・ジェノヴァ出身

オール・ブル……Ole Bull1810-1880 ノルウェー・ベルゲン出身(オーレ・ブル)

「民謡の一旋律を……」……小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

ハインリヒ・エルンスト……Heinrich Ernst1814-1865 パガニーニの演奏を見て「ネル・コル・ピユ・ノン・ミ・セントの変奏曲」を習得し、パガニーニのいる演奏会で弾いたという。

ヴィトゲンシュタイン夫人……ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの祖母。

アントニオ・バッジーニ……Antonio Bazzini1818-1897 イタリア・ブレシア出身

カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身

レオポルト・アウアー……Leopold Auer1845-1930 ハンガリー・ヴェスプレーム出身

「幸いにも五曲」……バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ一番よりアダージョ
バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・パルティータ一番よりブーレ
ブラームス作曲ハンガリー舞曲一番
ブラームス作曲ハンガリー舞曲二番
ヨアヒム作曲ロマンス

ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal1899-1931 ウクライナ・レンブルク出身
https://kobayashihideo.jp/2020-10/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C%E2%80%95%E2%80%95%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%81%AE%E4%BA%A1%E9%9C%8A%E3%82%92/
12:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:56:10

その十一 ウィーンのコンサートマスター~アルノルト・ロゼー
https://kobayashihideo.jp/2021-01/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c%e2%80%95%e2%80%95%e3%83%91%e3%82%ac%e3%83%8b%e3%83%8b%e3%81%ae%e4%ba%a1%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd-5/

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツとかポルカだとか、私はもうまったく無関心であった。「美しく青きドナウ」に「皇帝円舞曲」そして「アンネン・ポルカ」……無関心どころか、半ばは軽蔑していたかも知れない。

「そう馬鹿にしたもんじゃないよ」

「そうかねぇ。優雅な方々向けの御用音楽じゃないのかい、所詮は」

「そりゃあそう扱われてきたというだけのことさ。偏見だよ。そもそも、ベートーヴェンの悲劇性こそが音楽だ、みたいなところがあるからな、君には。けれどブラームスは、ベートーヴェンからの直接の主流だと評したらしいぜ?」

「シュトラウスを?」

「シュトラウスを、さ。ワグナーも、モーツァルトからまっすぐに連なるウィーンの伝統だと言ったそうだ。ベートーヴェンの後継たらんとしたお二方、そろって絶賛みたいだぜ」

「……」

たしかに、私の耳に鳴るヨハン・シュトラウスは、「珠玉の名曲 クラシック・ホームコンサート」みたいなLPレコードの記憶と分かち難く結びついていたのかも知れない。ヨハン・シュトラウスすなわち俗流という定式が、頭の中に出来上がっていたのかも知れない。

「何かいいレコードがあるかい?」

「あるよ。とっておきが」

そんな次第で、まんまと一枚買わされる羽目になったのだが、後日届けられたその「とっておき」は、まさしく十インチの小さな爆弾であった。演奏はむろんウィーン・フィル。指揮クレメンス・クラウス。1929年録音の、他でもない「アンネン・ポルカ」が、私の雑然とした狭い部屋で、朗らかに炸裂した。頭上を天球が廻った。その眩暈のなかで、私は舞曲の意味を了解できたと思った。踊るのは人間だが、鳴っている音楽は、それは宇宙なのだ。満天の星。コスモス。だとすると、それがウィーンの伝統なのか。



「ロゼーがソリストとして躍進しようとしなかったことは、他の全てのヴァイオリニストにとって幸運であった」

この方面のコレクターの多くは、音源ではなく、たとえばイザイのこの言葉を介してロゼーというヴァイオリニストに出会うのではないか。もとより、その名に出会うだけでは済まない。ウジェーヌ・イザイはロゼーとほぼ同世代のヴァイオリニスト、しかも斯界の巨匠と目された人であったから、その発言には、演奏家としての切実な実感と正確な評価とが反映されているに違いない……皆そう信じ込まされてしまう。そして、すなわち、聴いてみたくもなる、というわけだ。

その「聴いてみる」ということが、ロゼーの場合、既にして容易ではないのである。録音自体が僅少なのではない。僅少どころか、クライスラー以前のヴァイオリニストで最も多くレコーディングしたのはロゼーだ。ソロだけで三十面以上もある。ところが、それが手に入らない。手に入るどころか、見かけることすら稀なのである。おおかたヨーロッパあたりの血統書付きのコレクターが、確と秘蔵して手放さないのだろう。だから、たまに海外のオークションなんかに出てきても、それはもうべらぼうな高騰ぶりで、極東の貧しい蒐集家なんかが手を出せる代物ではないのだ。そんなわけで、言うまでもないが、ますます「聴かずにはいられなくなる」のである。この際、真っ二つに割れたような盤でも可としよう。ロゼーの音、一瞬でもいい、誰か聴かせてくれないか……。

聴けるのである。それこそ「一瞬」でいいなら、ロゼーの音が、ちょっと努力しさえすれば、オリジナルの盤で聴けるのである。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」より第二幕のワルツ。演奏ウィーン・フィル、指揮カール・アルヴィン。少しだけれど、正真正銘のロゼーのソロが聴こえてくる。二枚組のレコードだが、海を越えてやって来るそれは、その面ばかりが聴きこまれているようだ。ふと、どこの誰とも知れぬ同好の先輩に思いを馳せてみたりする。そして私も、はじめてのロゼーの音を聴き取ろうと耳を澄ませたのであった。これがロゼー入門。

そうこうするうち、鈍感な私にもやがて気が付くことがあった。待てよ。そうか。アルノルト・ロゼーは、ウィーン音楽史に燦然たるヴァイオリニストだ。1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合で亡命を余儀なくされるまでのなんと五十七年余にわたって、ウィーン国立歌劇場と、途中約十年のブランクはあるがウィーン・フィルと、その二つのオーケストラのコンサートマスターの地位にあった人である。ということは、その時代のウィーン・フィルの交響曲なんかのレコードにヴァイオリン・ソロの部分があれば、それはやっぱりロゼーだということになるのではないか。もっとも、1931年録音の「薔薇の騎士」のレーベルにはその名がクレジットされていて、ソリスト・ロゼーの情報に間違いはないのだが、しかしながらそういう気の利いた盤が他にもあるという話は聞かない。すなわち、自分の耳で聴き分ける他ないということになる。もとより、私には、とても聴き分ける自信などないのだが、ひとりでこっそり、これはロゼーか、この音の純度はロゼーではないのか、おお、などとぶつくさ言っている分には、何もかまうことはあるまい。というわけで、そんなレコードを一枚取り寄せては、たまにおっと思ったり、たいていはああとがっかりしたり、そんなことを繰り返してきたというわけである。

そんな酔狂も、レコード・コレクションの醍醐味の一つみたいなもので、まことに愉しいのだが、そうは言ってもやはり煩悩は断ち難い、イザイの言葉が忘れられないのである。ソリスト・ロゼーの芸が聴きたい。その思いは、募りこそすれ、止むことはなかった。



ロゼーのレコーディングは1900年の四曲を嚆矢とする。ポッパーの夜想曲、サラサーテのスペイン舞曲八番、ブラームスのハンガリー舞曲五番、それにシモネッティのマドリガルである。興味深いことに、ポッパーの夜想曲は1902年に、他の三曲については1902年に加えて1909年にも、その録音が繰り返されている。サラサーテのツィゴイネルワイゼンにも二回の録音があるが、こういったことは、いかにも、レコード文化の黎明期らしい事象だといえそうだ。音盤製作技術の顕著な向上が背景にあるのであろう。また、規範となるような演奏をよりよいカタチで遺さねばならい――そんな責任感のようなものがうかがわれもするのである。

さて、それらのうち、スペイン舞曲の二回目および三回目、ハンガリー舞曲の三回目、さらにツィゴイネルワイゼンの二回目などの盤が、いま、私の手許にある。例の「べらぼうな高騰」というやつに幾度か乗っかってしまったというわけだが、それはそれとして、これらのレコードは、私の曖昧な音楽観に対する、まことに痛烈な一撃であった。そのどれもが、大地から生えてきたような舞曲を、その出自を活かしたまま音楽的に高め、結晶させている。この「音楽的に」というところが肝心で、19世紀のサロン系ヴァイオリニストの多くが、それを、過剰にエモーショナルな装飾や感傷にすぎないものに安易に置き換え、結局は芸術的頽廃に落ち込んでいったのに対して、ロゼーは、先達ヨーゼフ・ヨアヒムと同じ道を行ったのだ。ウィーンの聴衆は、コールド・ロゼーと綽名したそうだが、これは、大衆的志向に合わせることのできないこのヴァイオリニストの、その本質にある芸術観に対する倒錯した批評である。なるほど、情緒に媚びることのない彼の音楽は、しばしば冷淡な印象を与えたかも知れない。が、それはまことに浅薄な批判だ。ロゼーの本領はそんなものを超えたところにあるのである。

たとえば、ロゼーの演奏するハンガリー舞曲五番、まことに格の正しいその演奏は、彼が、ブラームスの盟友ヨアヒムの、その正統な系譜にあることを証明している。ハンガリーのキッツエーからベルリンにやって来たヨアヒムと、ルーマニアのヤシからウィーンにやって来たロゼー。新興都市と古都の違いはあるが、いずれにせよ近代という時代に投げ込まれた孤独な人たちである。その根源的な孤独の支えとなる、確かな出自としての音楽性が、彼らの演奏にはあるように思われるのである。もとよりそれは単なる郷愁なんかではない。民族的土壌と都市的な知性、それらの高次の統合が彼らの本領だ。

ロゼーも、ヨアヒムと同様、大衆に寄り添いながら、しかし迎合することはなかった。その精神において古典派だったのだ。彼が、郷愁とか感傷とかいうものに積極的であったなら、もっとウケていたに違いない。イザイは、ロゼーを「ソリストとして躍進しようとしなかった」と言ったが、案外そうではないのではないか。たしかにロゼーはオーケストラのコンサートマスターとしてこそ、あるいはヨーロッパ随一の室内楽団ロゼー・クァルテットの主宰者としてこそ、時代に名を刻んだとはいえるが、同時に豊富なソロ・レコーディングも行っているのだから。つまり、コールド・ロゼーは、ソリストとしての躍進を志し、その本領をもって時代を超えたが、むしろそのゆえに、同時代の大衆にはウケようがなかったのではないか、そんな気がしてくるのである。

さて、古典派ロゼーの面目が躍如とする録音といえば、まずベートーヴェンである。ロゼー・クァルテットはブラームスの信頼厚く、1890年には弦楽五重奏二番などの初演を託されたが、当然、ベートーヴェンを主なレパートリーとし、その弦楽四重奏から四番と十番、それに十四番をレコーディングしている。それらの演奏は、ヨアヒムが、あるいはその後継ヘルメスベルガーが受け継ぎ伝えたであろうベートーヴェンの、その音楽を彷彿とさせるものである。また独奏ではロマンスの二番がある。なぜ古いレコードばかりを、しかも蓄音機なんかで聴いているのか――この一枚は、そんな問いに対する答えになるかも知れない。この盤から聴きとれるロゼーの音は、十九世紀生まれの第一級のヴァイオリニストだけがもつ、ほとんど強靭とも形容すべき明晰さをもった、しかし繊細なものだが、それによって、甘美な旋律に随伴するある種の危うさが、むしろ高い倫理性へと昇華されているかのようだ。コールド・ロゼーでなければできない芸当である。

次にバッハ、二丁のヴァイオリンのための協奏曲である。1910年を最後に、ロゼーにソロの録音はなく、その後のレコーディングはおおむねクァルテットに限られているから、1928年のこのドッペルの収録は、きっと、第二ヴァイオリンを務めた娘のアルマのために行われたのだろう。稀代のヴァイオリニストを父とし、グスタフ・マーラーの妹を母として生を授かった娘も、やはり一級の音楽家に育っていたのである。この曲の、よく知られた古いレコードといえば、たとえばエネスコとメニューインによる師弟の交感であったり、カール・フレッシュとシゲティによる同郷の対決めいたものだったりして、それぞれに面白みがあるのだが、ロゼー父娘によるこの共演は、やはり庇護と自立、つまりいかにも親子らしい対話なのである。アルマの羽ばたきが聞こえてくるようだ。

彼女はその後どのように飛翔したか――残念ながらアルマのレコーディングは、この一曲だけで終わってしまった。もっとも、録音がないというだけで、彼女の音楽的使命感は強く、たとえば1930年代には女性オーケストラを組織して高い水準に育てあげ、欧州各地で旺盛な演奏活動を行っている。また、ナチスの脅威が迫る中、偉大なコンサートマスターである父を亡命させ得たのも、彼女の責任感と行動力があってのことだったらしい。彼女の使命は、個の栄光にではなく、人間を人間たらしめる芸術的空間の創出と存続にこそあった。しかし、その強靭な意志が、かえって災いすることにもなった。1938年、父親とともにイギリスに亡命した後、彼女自身は、周囲の制止を振り切って、自らの使命を果たすべく大陸に戻るのだが、やがて囚われて、強制収容所へと送られたのである。しかし、そこでも彼女は邁進する。女性囚人のオーケストラを鍛え上げ、絶望のビルケナウにあって、なお彼女たちの生存のために奮闘したのであった。

1944年、アルマはアウシュヴィッツで病没した。ユダヤ人たちはむろん、ナチの将校たちも、その死を惜しんで涙したという。彼女は誰を救ったのだろうか。このドッペルは、アルノルト・ロゼーにとって、アルマの無私の生涯の、哀しく温かな記念となったことであろう。

なおこの曲はSP盤五面を要する大曲だが、空いた一面のフィルアップには、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ一番よりアダージョが収められている。ドッペル第三楽章のカデンツァと、1909年に録音されたG線上のアリアとを合わせて、アルノルト・ロゼー独奏による貴重なバッハの記録である。



かくして、ヴァイオリンの本領ともいうべき舞曲とクラシックの継承において、ヴァイオリン演奏史に銘記すべき功労のあったロゼーだが、彼はコンサートマスターとして、ウィーンの伝統に連なる同時代の音楽にも貢献している。殊にウィーンの一時代の指揮者でもあったマーラーは、義弟アルノルトを信頼し、オーケストラの音作りを彼に委ねていた。

ブルーノ・ワルターの指揮による1938年1月16日のライヴ録音は、そのマーラーの大曲、交響曲第九番ニ長調である。それはロゼー亡命の年だ。おそらく、彼の、五十八年になんなんとするウィーンでの音楽人生に対する告別のコンサートとなっただろう。そのヴァイオリン独奏部分はロゼーのものとしてよく知られている。第一楽章の終盤や終楽章、ヴァイオリンの旋律が聴こえてくると、ああ、ロゼーだ、と思う。やっぱりこういう音なのだ。優美な、純度の高い、ストラディヴァリウスの音。

このマーラー最後の交響曲は、作曲家自身の過去の作品からの、あるいはベートーヴェンやワグナーら先達からの引用を多く含みつつ、長大な無時間を構成している。まさに終焉を示唆するかのような「第九」であり、おそらくは「死」という永遠を主題としたひとつの宇宙なのである。ただしその宇宙はどうも形而上学的だ。音楽思想家マーラーの集大成らしいといえばそうだが、かつて舞曲の高度な結晶を実現することで、大地に生きる人間と天上とを媒介していたロゼーの音楽とは、根本において相容れないところがあるように思うのだが、どんなものだろう。

そういえば、クレメンス・クラウスの「アンネン・ポルカ」も、ロゼーの時代のウィーン・フィルではないか。今日の私にとって、あの舞曲はいっそう魅惑的だ。ドラマのない舞曲。音楽も人生も、始まりがあって終わりがあるからドラマが生まれる。旋回する舞曲にそれはない。あるのは永遠の反復であり、それが人生を祝福している。束の間の人生を支え救済する宇宙は永遠の円運動である。「ポルカ」の裏面は「無窮動」であった。いずれにもロゼーのソロはないが、間違いなく、ロゼーが、その身を捧げて、グスタフ・マーラーやフェリックス・ワインガルトナー、あるいはクレメンス・クラウスらと創り上げてきた、ウィーンのオーケストラの精髄であり、ウィーンの、止むことのない伝統である。



注)

アルノルト・ロゼー……Arnold Rosé1863-1946 本名アルノルト・ヨセフ・ローゼンバウム。ルーマニア・ヤシ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1881年にウィーン宮廷(のち国立)歌劇場管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1938年まで務めた。ただし1902年~1928年の期間はウィーン・フィルのメンバーからは外れており、1925年と26年にゲスト・コンサートマスターを務めたのみである。妻ユスティーネは、ウィーン宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーGustav Mahler1860-1911の妹。娘のアルマAlma1906-1944の名はマーラーの妻の名前である。なお、アルノルトの弟も、マーラーの妹と結婚している。

クレメンス・クラウス……Clemens Krauss1893-1954 オーストリア・ウィーン出身。1929年ウィーン国立歌劇場音楽監督、翌年ウィーン・フィル常任指揮者。1934年に失脚するが、1944年大戦末期のウィーンに戻りフィル・ハーモニーと行動をともにした。

イザイ……Eugène Ysaÿe 1858-1931 ベルギー・リエージュ出身のヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler1875-1962 オーストリア・ウィーン出身のヴァイオリニスト。ウィーン・フィルの入団試験を受けたが、「音楽的に粗野」「初見演奏不十分」として、他でもない、ロゼーに失格させられた。自分の地位を脅かしかねない逸材をロゼーが恐れた、という見方もあるが、やはり、音色もヴィブラートも、当時のフィルハーモニーに合っていなかったのだと思う。

エネスコ……George Enescu1881-1955 ルーマニア・リヴェニ出身の作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト。最初に学んだのは、ロゼーの故郷ヤシの音楽学校であった。

メニューイン……Yehudi Menuhin1916-1999 アメリカ・ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身のヴァイオリニスト。きわめて多くの、かつ多様な逸材を育てたプロフェッサー。

シゲティ……Joseph Szigeti1892-1973 ハンガリー・ブダペスト出身のヴァイオリニスト。

無窮動……常動曲。ペルペトゥム・モビレ。モト・ペルペトゥオ。一定の旋律が無限に反復される音楽。

ワインガルトナー……Felix Weingartner1863-1942 マーラーの後任として、ウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの音楽監督を務めた。

(了)

https://kobayashihideo.jp/2021-01/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c%e2%80%95%e2%80%95%e3%83%91%e3%82%ac%e3%83%8b%e3%83%8b%e3%81%ae%e4%ba%a1%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd-5/
13:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:57:36

その十二 越境するプロフェッサー~カール・フレッシュ
https://kobayashihideo.jp/2021-04/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c%e2%80%95%e2%80%95%e3%83%91%e3%82%ac%e3%83%8b%e3%83%8b%e3%81%ae%e4%ba%a1%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd-6/


画面中央に二人の紳士、背後に小暗い森、その右から手前には白亜の建築……これは学校だろうか。両人は、よく手入れのされた前庭のプロムナードに立ち止まって何やら話し込んでいる。右の男は山高帽に三つ揃い、ズボンのポケットに左手を突っ込み、瘦せた背を屈めて相手を半ば見下ろしている。しかし表情は固く、神妙といった面持ちである。左手の男は、がっちりとした骨格、仕立てのいいスーツに眼鏡をかけ、右手に握られたステッキが、きりっと、足許の地面を突いている。精神が立っているといったような長身瘦躯に対して、こちらは心身が高次に統合した、威厳ある人物とみえる。

このスナップ写真の裏面には、W.Furtwängler Baden-Baden c.1930とある。山高帽はフルトヴェングラーなのだ。もっともそれはその立ち姿から見当がついていた。そこであらためて観察すると、なるほど己の信念に忠実な情熱家らしい、彼独特の雰囲気が漂っている。しかしながら私の眼は、やはり、この偉大な指揮者に対峙するステッキの人物の方に惹きつけられる。そして間もなく思い当たるのである。キャプションに言及はないが、信頼に足る医師かあるいは妥協のない科学者といった風貌のこの男、彼こそはまさしく、稀代の名ヴァイオリニストにして名教師、あのカール・フレッシュではないか。



わたくしは何人かの教師を渡り歩いたが、やはり最大の教師は、カール・フレッシュの「ヴァイオリン奏法全四巻」であった。この本にめぐりあっただけでも、わたくしはヴァイオリンを習った甲斐があると思っている。

(伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」)



思えば、私が知るヴァイオリニストは、長いことカール・フレッシュただひとりであった。音楽の話ではない。名前だけのことである。他のヴァイオリニストの名はちっとも知らなかった。そもそもクラシック全般についておよそ無関心だったのだが、そのなかでこの固有名詞だけは、少年の頃に愛読した伊丹十三の一文によって記憶されたのであった。



この本によって、わたくしは論理的な物の考え方というものを学んだ。自分の欠点を分析してそれを単純な要素に分解し、その単純な要素を単純な練習方法で矯正する技術を学んだのである。どんな疑問が起きようと、答は必ずカール・フレッシュの中に見出すことができた。

(同)



ほとんど「方法」序説である。清々しい、いい文章だと思う。彼岸にあるがゆえに清潔な、合理的知性に心を惹かれる思春期の少年の眼に、この一文がどんなに知的にかつ美しく映ったか。しかし私は、残念なことに、カール・フレッシュはおろか、ヴァイオリンやクラシックの世界に赴くこともしなかった。伊丹十三という、すばらしく知的な大人を発見したこと、そのことだけに満足していたのかも知れない。たぶんそうである。また、自分がそうなるべく努めるには、私はあまりに怠惰だったのかも知れない。

それから十数年の後、私は思いがけずカール・フレッシュの名前に再会した。私にとってはじめてのクラシック音楽となったヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーとの偶然の邂逅のときである。30歳で早世した彼女の伝記に、決定的な意味をもって登場するのが、他でもない、カール・フレッシュ教授なのである。ウィーンの国際コンクールで四位に甘んじたヌヴーは、その後カール・フレッシュを師とすることで自らの限界を突破し、まもなく第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場、大本命のダヴィド・オイストラフを抑えて待望された栄冠を勝ち取ったのであった。1935年のことだ。まさしくこの写真の時代のフレッシュ門下だったということになる。そのとき、「ヴァイオリン奏法」は既に書かれていたから、フレッシュ教授によって完成された近代的なメソッドが、ヌヴーを国際的な舞台へと飛翔させたにちがいない。ヌヴーだけではない。ポーランドに生まれメキシコに帰化した外交官ヘンリク・シェリングや、同じくポーランド出身でバッハ・シャコンヌの伝説的な録音を遺した女流イダ・ヘンデルらが、やはり幼くしてバーデン=バーデンのフレッシュの門を叩いている。亡命先のロンドンには、二百年に一人と言われた逸材ヨーゼフ・ハシッド少年が、やはりポーランドからやって来た。皆、この教授の、おそらくは確信に満ちた知的な指導の下で、その才能を開花させていったのであった。さらに加えれば、フレッシュの、プロフェッサーとしての出発点であるブカレスト音楽院時代には、ロマのヴァイオリニストであり作曲家であるグリゴラシュ・ディニークが門下の筆頭にいた。また「ヴァイオリン奏法」執筆の頃、ベルリン音楽院時代の名簿には、ヨーゼフ・ヴォルフスタール、マックス・ロスタル、シモン・ゴールドベルクという、先生生涯の門人三傑とでも称すべき俊才たちの名を見出すことができる。まさに多士済々、その門葉の豊かさは、ペテルブルク音楽院で、ジンバリスト、エルマン、ハイフェッツらの師であったレオポルト・アウアー教授や、ブダペストで、シゲティ、ヴァルガ、マルツィらの師であったイエネー・フバイ教授を凌ぐと言って、とくに異論は出ないであろう。まさしくヴァイオリン史上第一等のプロフェッサー、それがカール・フレッシュなのである。

ところで、今しがた名を挙げたレオポルト・アウアー、イエネー・フバイ両先生はともにハンガリー出身、同郷の先達、あのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟である。カール・フレッシュもその出自はハンガリーであり、アウアーを重要な師の一人と考えていた。どうやら、おそるべきはハンガリーの系譜、ということになりそうだ。



そのカール・フレッシュの最初の先生は近所の馬具職人、次は町の消防士だったという。ハンガリー北西部、オーストリア国境に近いモションという町では、ヴァイオリンという楽器が民衆の生活とともにあったということだろう。そしてその群衆の中から、時に神童が現れる。キッツェーのヨアヒムも、ヴェスプレームのアウアーも、いずれも貧しいユダヤ人家庭に出現した、正真正銘の神童であった。彼らと同じユダヤ系ではあるが、カール・フレッシュは比較的裕福な医者の息子、ピアノのある家に生まれた。しかしながら、既に兄姉がいる中でピアノのレッスンに入り込む余地はなく、六歳の末っ子は、やむを得ずヴァイオリンの稽古に取り掛かったのであった。そしてまもなく国境を越えてウィーンに行こうというまでに上達し、十三歳になる年にはウィーン音楽院の名教師ヤーコブ・グリュンの生徒となったのである。

当時のウィーン音楽院は、ユダヤ嫌いで知られたヨーゼフ・ヘルメスベルガー院長の専制時代、ユダヤ系のグリュンとその生徒たちは目の敵にされたようだ。カール・フレッシュも例外ではなかった。彼がウィーン楽友協会所属ヴァイオリニストの候補にあがったとき、院長は、その名簿に「盲目」と書き添える陰湿な攻撃に出たのである。それは、当時の了解にしたがえば、街の辻やカフェでは弾けても、宮廷の楽団で演奏する資格は与えられないということを意味しただろう。失意のカール・フレッシュはこのとき十七歳、ウィーンを去って単身パリに向かったのであった。そしてこの移住が、彼自身にとってはもちろん、ひょっとしたらヴァイオリン演奏史上においてさえ、決定的だといわれねばならない転機となったのである。

パリ音楽院で師匠となったマルタン・マルシック教授は、ベルギー・リエージュの人である。その師ユベール・レオナールもランベール・マサールも、同じリエージュの出身である。パリにおけるヴァイオリン演奏の系譜は、リエージュおよびその周辺からやって来たベルギーのヴァイオリニストによって基礎づけられて来たのだ。また、フレッシュが生涯を通じて敬愛したウジェーヌ・イザイもまたリエージュ出身であることまで思い合わせれば、カール・フレッシュも、出身地こそ遥かに隔たってはいるが、やはり、フランコ・ベルギー派の本流にいるヴァイオリニストだということになるであろう。

一応それはそうに違いないのだが、しかしその実現するところの音楽は、その先達諸氏とは一線を画しているようにも思われる。もっとも、19世紀にその生涯を閉じたマサールとレオナールは言うまでもなく、直接の師マルシックについてもその演奏は遺されていない。イザイに晩年の記録が僅かにあるばかりである。「一線を画している」などと判定する根拠は実際にはないのだが、ただそのイザイとの、あるいは同じマルシック門下のジョルジュ・エネスクやジャック・ティボーとの比較において、カール・フレッシュの、格の正しい、輪郭の鮮明な音楽は、目指す方向が、彼らとは少々隔たっているように私には聞こえるというまでだ。つまり彼は、ハンガリーからウィーンを経由して、何か異質なものをパリに持ち込んだのだ。もとよりそれは、頑ななナショナリズムのようなものではない。むろんハンガリー系ユダヤの民族的な感性や土俗的な雰囲気はその肉体に染みついているだろう。が、それらを昇華して国境を越えていく力、それがヨアヒムからアウアーを経てフレッシュにも受け継がれているのではないか。すなわち彼は、自己主張とはまったく違った意味合いで、優れて個性的な、それゆえに国際派的な演奏家なのである。

そういう自分をよく承知していればこそ、教師となった彼は、やがて、自らのメソッドが、生徒を均質化してしまいはしないかと悩みもした。そこには新鮮な教育観がある。伝統的な師弟関係において、師匠は弟子の到達点であり、そこでのまなざしは、主に生徒から教師に向けられるものであった。が、この近代的な教師は、むしろ、自らのまなざしを生徒の個々に注ぎ、その個性を多様性のままに育んだのであった。ヴォルフスタール、ロスタル、ゴールドベルクにシェリング、そしてヌヴー……みんなちっとも似てないのである。どうやら先生にも似ていない。そしてそういうまなざしが、千人を超えるフレッシュ派を可能にしたのである。

近代に取り残されたまま大陸を放浪していたフィドル奏者たちは、こうして、ヴァイオリニストという芸術家に生まれ変わっていった。名人芸から芸術へ。その道を拓いたのはヨアヒムであった。それはアウアーによって大西洋を越え、カール・フレッシュによって全面化されたといえるだろう。また、そのプロセスには芸術の観念化という陥穽も現れる。大地を離れて浮遊する音楽を彼らは許容しなかった。たとえばフレッシュは、音楽を、芸術を詐称する雰囲気程度のものに堕落させないための、大地と芸術を媒介する身体的な鍛錬としての「方法」について、きわめて厳格な教師であった。その物質的な基礎がなければ、芸術性など問題にならないからである。感情の熱に浮かされたような小児性からは最も遠いところに立たねばならない。そしてそのような芸術には、時間による成熟が必要である。



六十歳を越えたカール・フレッシュのレコードに、二曲のヴァイオリンソナタがある。一つはヘンデルの5番イ長調、もう一つはモーツァルトの26番変ロ長調。いずれも日本ポリドールの委嘱を受けて、ドイツポリドール社が、1936年2月26日、パリで録音したものだ。伴奏フェリックス・ヴァン・ダイク。良質の分厚いシェラックに金のラベル、三枚組で、アルバムの表紙にはカール・フレッシュのポートレートが貼られている。当時としても随分奢った造りである。むろんその内容も印象的だ。当時の広告に「日本のファンよ! 正純演奏派の代表フレッシュの力作に遙かに敬礼せよ!」とあるが、そしてこれは、フレッシュをドイツ派と看做したうえでの、純粋主義的、扇情的コピーに違いないが、「正純」とか「力作」とか言いたくなる感じはよくわかるのである。

彼のモーツァルトを久しぶりに聴いて、ちょっとわかりかけたことがある。「何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか」――これは小林秀雄「モオツァルト」の一節である。白状すれば、私にとってモーツァルトは、ただ小ぎれいで退屈なものに過ぎなかった。それがこの度、モーツァルトのヴァイオリンソナタ中、たぶん最もよく知られたK378の第一楽章を、フレッシュの彫の深い音の陰影であらためて聴いて、「発見された単純極まる形式」へと想到する契機を得たように感覚されたのであった。フレッシュもこんなことを言っている。「若い者は、モーツァルトを単純で退屈だという。人生の嵐によって純化された人だけが、その単純さにある崇高さと霊感の直接性とを理解するのだ」

小林秀雄の言うように、「彼の音楽を聞きわけるにはいわば訓練された無私がいる」ということか。日は暮れて、なお、道は遠いが、夜の散策もわるくはないという気になってきた。

(了)


カール・フレッシュCarl Flesch 1873-1944
フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler 1886-1954
ジネット・ヌヴー Ginette Neveu 1919-1949
ダヴィド・オイストラフ David Oistrakh 1908-1974
ヘンリク・シェリング Henryk Szeryng 1918-1988
イダ・ヘンデル Ida Haendel 1928-2020
ヨーゼフ・ハシッド Josef Hassid 1923-1950
グリゴラシュ・ディニーク Grigoraş Dinicu 1889-1949
ヨーゼフ・ヴォルフスタール Josef Wolfsthal 1899-1931
マックス・ロスタル Max Rostal 1905-1991
シモン・ゴールドベルク Szymon Goldberg 1909-1993
ジンバリスト Efrem Zimbalist 1889-1985
エルマン Mischa Elman 1891-1967
ハイフェッツ Jascha Heifetz 1901-1987
レオポルト・アウアー Leopold Auer 1845-1930
シゲティ Joseph Szigeti 1895-1973
ヴァルガ Tibor Varga 1921-2003
マルツィ Johanna Martzy 1924-1979
イエネー・フバイ Jenő Hubay 1858-1937
ヨーゼフ・ヨアヒム Joseph Joachim 1831-1907
ヤーコブ・グリュン Jacob Grün 1837-1916
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー Joseph Hellmesberger 1828-1893
マルタン・マルシック Martin Marsick 1848-1924
ユベール・レオナール Hubert Léonard 1819-1890
ランベール・マサール Lambert Massart 1811-1892
ウジェーヌ・イザイ Eugène Ysaÿe 1858-1931
ジョルジュ・エネスク George Enescu 1881-1955
ジャック・ティボー Jacques Thibaud 1880-1953

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14:777 :

2022/07/25 (Mon) 11:57:56

その十三 詩魂の行方~ヨーゼフ・ヴォルフスタール
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1827年3月26日、ベートーヴェン逝去。その日は嵐、吹雪の空を雷鳴が切り裂いたというが……ほんとうだろうか。あのあまりにも有名な「運命」のテーマが、ふと耳元で鳴る。ヒュルリマン編『ベートーヴェン訪問』の最終章「フェルディナンド・ヒラー」には、たしかにそのような記述がある。だが、どうもちょっとうますぎる。伝説だとしても、その出来はあまりよろしくないと思えるほどだ。もっとも、どちらにしても同じことかも知れない。そのほんの数日前にベートーヴェンを見舞ったヒラー氏の胸にあったのは、その劇的な終焉を伝記に遺したいという意思の真実であり、もしくは、そんなふうにでも語らねばすまないという情熱の真実である。死に至るまで嚇怒せるベートーヴェン。ウィーンに対して、市民に対して、そして自分の人生に対して。ひょっとしたら、楽聖の境地は、最後の弦楽四重奏曲に聴きとれるような、穏やかな達観でもあったかも知れないのに、私などはやはり、朔風にむかって立つかのごときあの風貌を思い、それにふさわしい物語を探してしまう。



そのベートーヴェンに所縁の音楽家といえば、直門カール・チェルニーや、上述ヒラーとともに瀕死の楽聖を訪ねたモーツァルトの直系ヨハン・フンメルといったピアニストがあり、「第九」を復活させ音楽史上に定位したリヒャルト・ワーグナー、そして「第九」に続く交響曲の達成をかけて苦闘したヨハネス・ブラームスといった作曲家がある。しかしながら、「ヴァイオリニストの系譜」の執筆者としては、ここはやはり、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61に、自作のカデンツァを添えて復活させたヨーゼフ・ヨアヒムの名を思い出しておきたい。

パガニーニの記憶がまだ鮮明な頃、民衆が「第二のパガニーニ」を待望しているその最中にヨアヒムは現れた。その時13歳、しかしながら既に、まったく独自の存在であったという。演奏だけでない。ヴァイオリニストとしての志向も当時としては独特だった。パガニーニが遺したプログラムは、専らヴィルトゥオーソを期待する聴衆のためのものであった。そこにバッハ、モーツァルト、あるいはベートーヴェンといったクラシックの曲を並べるのは無粋というべき愚行である。ヨアヒムは、フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でその愚行に挑んだというわけだ。ただし、これは、パガニーニに対する反逆ではない、と私は思う。パガニーニの胸裡に秘められたまま終わった彼の意思の継承ではなかったかとさえ考えてみたい。パガニーニのカプリース集は、正銘の古典派ジョコンダ・デ・ヴィートが言ったように「音楽的に美しい」し、そもそもパガニーニ自身、ベートーヴェンへの敬愛を語っており、少なくとも一度はそのコンチェルトを自分の演奏会のプログラムに入れているのである。しかし彼は何かを断念し、おそらく大衆に迎合した。そして喝采を満身に浴びながら、孤独だったはずだ。なるほどヨアヒムは、ついにやって来たというべき「第二のパガニーニ」だが、それはパガニーニ自身の正確な鏡像だったのである。

いずれにせよ、ヨアヒムの出現が、音楽史における古典復興を支え導いたことは確かだろう。今日のクラシックの聴衆は、ヨアヒムが建てたコンサートホールに座っているのである。

ところで、言うまでもないが、1844年のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に始まる古典再興の劇を、ヨアヒム自身の「音」で知ることはできない。ただ、かつてヨアヒム少年が作曲したその曲のカデンツァが、彼の詩魂を、今日の私どもに伝えてくれているばかりである。そしてその最初の記録は、1925年、驚嘆すべき鮮烈さで、ベルリンの若きコンサートマスター、ヨーゼフ・ヴォルフスタールによって果たされたのであった。



ヨーゼフ・ヴォルフスタール。今となっては誰も知らない。名前はご存じでも演奏はとなると、たいていはお聴きではない。もとより仕方のないことで、CDはおろか復刻のLPさえほとんど存在しないのではないかと思う。

いわゆるクラシックファンの人たちと昔のヴァイオリニストの話になって、クライスラーやハイフェッツあたりの名前を挙げているうちは平和だが、うっかりロゼーとかヴォルフスタールとか口に出そうものなら、いかにも困った人たちというふうな目で見られてしまう。こりゃあ物数奇のマニアである、と。まともな音楽の話などできないお方である、と。それはそうかも知れないが、ロゼーにしてもヴォルフスタールにしても、同時代のヨーロッパでは圧倒的な存在だったのだ。時代を超える実力がなかったなどということはあり得ない。ただアメリカに渡らなかったというだけである。商業ベースの話なのだ。そんな彼等のレコードは、ヨーロッパの一流のコレクターたちががっちり抱え込んでいる。思えばストラディヴァリウスにしてもグァルネリウスにしても、それら第一級のヴァイオリンがさして散逸することなく現代に遺された、その最大の功労者のひとりは、ルイジ・タリシオという困ったコレクターなのである。逸早くそれらの価値を見抜き、自分の審美眼だけを頼りに、どこかにほこりをかぶっていたようなのを集めに集めて、当人はそれらに埋もれて朽ち果てるように死んでいった。本望というべきだろう。まことに酔狂な話であるが、どうやらレコードの世界にもそんな気配が漂うのである。自分の耳だけを頼りに、これはと思うものを一枚一枚集めては、夜陰に紛れてひとりひそかに聴いている輩がいる。そのうちの一枚が何かの拍子にふと表に出て、流れ流れてこんな私のところにまでやって来たりするのである。困った人たちのおかげである。

その私が、もはや歴史の闇に紛れつつあるヨーゼフ・ヴォルフスタールに辿り着けたのは、他でもない、ジネット・ヌヴーを聴いていたからであった。ヌヴーの師はカール・フレッシュだが、そのフレッシュ門下の筆頭がヨーゼフ・ヴォルフスタールだったのだ。ウクライナのレンブルクに生まれたのが1899年、間もなくウィーンに移り、10歳のときにベルリンのカール・フレッシュ教授に入門した。公式のデビューは16歳。その後、ブレーメンやストックホルムのオーケストラで弾き、再びベルリンに戻って国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに就任した。また26歳でベルリン音楽大学の教授となって、多くの門弟を育ててもいる。エリートコースである。順風満帆である。フレッシュ門下三傑のうち残りの二名、シモン・ゴールドベルクは彼を驚くべき魅力といい、マックス・ロスタルは傑出した才能と評した。しかし、そのような伝記や挿話は知り得ても、彼のレコードを聴く機会はなかなか来なかった。

やっと手に入れた一枚は、ベートーヴェン1798年作曲のロマンス2番ヘ長調作品50。マイクロフォン以前のいわゆるラッパ吹込みで、ヴォルフスタール25歳頃の録音である。きわめて純度の高い、明晰で、しかも柔らかい音が、遠い過去からやって来るようであった。もう覚えた、と思った。ちょっと格がちがうぞ、とも。ベートーヴェンの後期、たとえばピアノソナタの32番とか弦楽四重奏の14番とか、そういうもののある種の深刻さを楽聖の本領と信じていた私には、白状すれば、この「ロマンス」など、端から侮っていたようなところがあったのだが、まったく不見識であった。薄っぺらなことであった。

ヴォルフスタールのレコードは、実は極端に少ないというのではない。それなりにあるのだが、先に述べたように、明確な価値観と審美眼をもったコレクターは、それを手に入れたが最後、もう手放しはしないのだ。それで市場にも現れず、滅多なことではこっちまで回ってこないというわけだ。ところが日本では、ある限られたレコードではあるが、専門店などでたまに見かけることがある。日本盤があるのである。上述のロマンス、それに協奏曲三曲、すなわち、メンデルスゾーン(ピアノ伴奏版)、モーツァルトの5番、そしてベートーヴェン。ただし、ベートーヴェンの協奏曲は件の1925年のものではない。ベルリン国立歌劇場管弦楽団、指揮マンフレート・グルリット、1929年の録音である。

この5枚組は宝である。1806年、絶望的な難聴が決定的となった頃の、ひょっとしたら、それによってかえって一次元上昇したかも知れないベートーヴェンの詩魂が、まっすぐにこちらにやって来るようだ。ことに、第一楽章を締めくくるヨアヒムのカデンツァから第二楽章への移行、そこにその昇華がみえる、といったら牽強だが、そう言いたくなるような切実な緊張と平穏である。私などには、音楽的素養が不足しているせいか、たいていのカデンツァは、ソリストの自己主張としか聞こえないのだが、彼は違う。1925年の録音にはまだうかがわれるヴォルフスタール的自意識が、四年後のこの録音ではすっかり超克され、作曲者に統合されている……錯覚かも知れないが、そういう感慨をもたらすのである。そして、なぜこんなものが埋もれつつあるのか、それが信じ難いという気持ちにもなって来る。私の耳がそのように聴いているだけで、世間や歴史の評価はまた別にあるのだろうか。しかし考えてみればこの時代、楽聖ベートーヴェンの、しかもヴァイオリン協奏曲という大曲を、ドイツで、しかも二回に亘って録音するなどということが、二流の音楽家に許されるはずがないのである。しかも1925年と1929年である。これは実に、斯界の王者フリッツ・クライスラーの同曲2回の録音年とほぼ重なっている。クライスラー自身、新時代の栄光であったが、さらにその次の時代の輝きを期待されたヴァイオリニストこそ、ヨーゼフ・ヴォルフスタールだった……示唆されているのは、そういう事実だ。

しかし、クライスラーもヴォルフスタールも、まもなくその名前をドイツの音楽名鑑から抹消されることになる。1933年のことだ。すなわち、ナチス政権にとって、ユダヤ人が音楽界の頂点にあるなどということは、絶対に許されざる錯誤なのだ。もっともクライスラーは、ドイツ圏外に拠点をもつことができていた。かくしてその名は今日に至るまで不滅となった。他方ヴォルフスタールにおいてはそれがなされなかった。



あの1929年が、すでにヴォルフスタールには晩年なのである。1931年2月、彼は31歳で死んでしまった。ベートーヴェンは彼の白鳥の歌だ。寒い日に、誰かの葬儀に参列して罹ったタチの悪い風邪がもとだそうだ。

思えばあのシューベルトも、ある人の葬儀、それはベートーヴェンだが、そこに出かけた晩、「この次に死ぬ奴に乾杯だ!」などと言って酔っ払って、翌年やはり31歳で、自ら「この次」の奴になってしまったのだった。こんな符合に意味があると言いたいのではない。シューベルトもその最期の年に、交響曲「グレート」すなわち彼自身の「第九」を書いたり、ベートーヴェンの弦楽四重奏14番への衝撃を語りながら弦楽五重奏を作曲したり、どうやらベートーヴェンへの思いの深い「晩年」であったらしいから、つい比べてしまう、というだけのことである。シューベルトは不幸だが、彼の周囲にはその死を悼むボヘミアンを気取ったような友人たちがたくさんいた。その死後にはなってしまったが、音楽史上の重要な地位を与えられてもいる。

ヴォルフスタールはどうか。ちょうどその頃、周囲の人びとをして、実の親子のようだと言わしめた師匠フレッシュとの関係に、何らかの理由で修復不能の決裂が生じていたらしい。そのうえそれに病臥が重なって、ヴォルフスタールの門弟は、すべてマックス・ロスタルの許に移されてしまった。つまりヴァイオリン史上最も優秀な教師の、その後継者の地位を失ったわけである。また、ヴォルフスタールのキャリアを支えてきたのは、クライスラーから貸与されていたグァルネリウス・デル・ジェスだが、重篤の病床にあってクライスラー夫人の厳命を受け、返却の止むなきにいたってもいる。どうも切ない。美的なものは一切ない。身ぐるみはがされて酷すぎて、話にも何もなったものではないのだ。もっともヴォルフスタール自身、スポーツカーでアウトバーンをぶっ飛ばすような、ちょっと破滅的なところがあったとの噂もあり、楽聖への敬虔さの分だけ、現世の人びとに対しては傲岸だったような気配もあり、つまり自業自得みたいなところがあったのかも知れない。それはそうかも知れないが……。

思いがけずシューベルトの名前など出てきたので、ついでに言っておこう。彼の「アヴェ・マリア」の澄明な演奏などは、ベートーヴェンの「ロマンス」とともに、今でも、そのレコードさえ聴ければ、その何か非常に強靭な倫理性と思しきものに触れることができるのである。しかしもはや、それも容易なことではない。そもそもヨーゼフ・ヴォルフスタールその人の、その名を耳にすることさえ稀なのだ。逝いて90年、せめてその冥福を祈りたい。







ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal 1899-1931。

『ベートーヴェン訪問』……酒田健一訳。1970年白水社刊。

フェルディナンド・ヒラー……Ferdinand Hiller 1811-1885。ドイツの作曲家。フンメルに師事した。

最後の弦楽四重奏曲……弦楽四重奏曲16番ヘ長調作品135。

カール・チェルニー……Carl Czerny 1791-1857。ベートーヴェンの弟子。リスト、レシェティツキの師。

ヨハン・フンメル……Johann Nepomuk Hummel 1778-1837。モーツァルトに師事した。

ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ジョコンダ・デ・ヴィート……Gioconda De Vito 1907-1994。イタリアのヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler 1875-1962。ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父の出自はポーランド、クラカウ。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、自作のカデンツァを付けて、二回録音している。

ハイフェッツ……Jascha Heifetz 1901-1987。リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ロゼー……Arnold Josef Rose 1863-1946。ルーマニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ルイジ・タリシオ……Luigi Tarisio 1796-1854。イタリアのヴァイオリン・ディーラー、コレクター。先行するコレクターではサラブエのコツィオ侯爵、後継ではジャン・バプティスト・ヴィヨームが知られている。

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1939。フランスのヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

シモン・ゴールドベルク……Szymon Goldberg 1909-1993。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

マックス・ロスタル……Max Rostal 1905-1991。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

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15:777 :

2022/08/01 (Mon) 16:16:21

あげ478

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