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クレメンス・クラウス(1893年3月31日 - 1954年5月16日)指揮者

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2022/07/24 (Sun) 11:31:30

クレメンス・クラウス(Clemens Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)指揮者


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クレメンス・ハインリヒ・クラウス(Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)は、オーストリアの指揮者[1]。

ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスの私生児として、ウイーンで生まれたクラウスは、外交官だった祖父の下で育った。クラウスの容姿から父親はハプスブルク家の人物ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵(ルドルフ皇太子と心中したマリー・ヴェッツェラの叔父で当時稀代のプレイボーイ)、ヨハン・ザルヴァトール大公、あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われている。

10歳でウィーン少年合唱団に入団し、1912年からウィーン音楽アカデミーで作曲家リヒャルト・ホイベルガー、およびグレーデナー、ラインホルトらに学ぶ[1]。ブルノ、リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、グラーツ、など各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、1922年にウィーン音楽アカデミーの教授に就任した[1]。また、1922年から1924年にかけてはウィーン国立歌劇場の指揮者を、1924年から1929年にかけてはフランクフルト市立劇場の総監督を務めた[1]。また、1929年にはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、フィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカデビューも果たした[1]。

1929年にはフランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に、また翌年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任した(クラウスが辞任後、ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、現在も常任指揮者制度はない)。

ウィーン国立歌劇場では、1930年にはアルバン・ベルクのオペラ『ヴォツェック』を作曲者の立ち合いのもとで演奏したり、1933年にはリヒャルト・シュトラウスのオペラ『アラベラ』を初演したりするなど、新しい稽古をいくつも行った[1][2]。また、オーケストラ団員の採用試験で審査委員長を務めたり、他の場所で有能だと思った音楽家を自分の責任で(オーディションなしで)採用するなど、若い才能の確保に努めた[3]。クラウスにより登用された者としては、コンサートマスターに就任したリカルド・オドノポソフ、ウィーン交響楽団首席奏者からウィーン国立歌劇場管弦楽団ならびにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者に転身したチェリストのリヒャルト・クロチャック、第2ヴァイオリンの末席から同首席奏者となったオットー・シュトラッサー、同じく第2ヴァイオリンの末席から首席ヴィオラ奏者となったアルフォンス・グリュンベルク、同じく第2ヴァイオリンの末席からバレエ公演時のソロ・ヴァイオリニストとなったウィリー・ボスコフスキーらがあげられる[4][3][5][6]。

ただし、世界恐慌の影響で客足は鈍り、無料切符が発行されるほどであった[2]。

1934年に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、1935年にナチスと衝突して辞任したエーリヒ・クライバーの後任として、ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任する。また1937年には、ナチスによって辞任に追いやられたハンス・クナッパーツブッシュの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任する。1939年からはモーツァルテウム音楽院の院長となり[1]、1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の総監督に任命されている(これが災いし、戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指弾されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。

第二次世界大戦終結直前の1944年、空襲が激しくなったウィーンに戻ってウィーン・フィルと行動を共にする。1945年、ソ連軍がウィーンを目前に迫った4月2日にウィーン・フィルと戦中最後の演奏会を行う(曲目はブラームスの『ドイツ・レクイエム』)。そしてソ連軍によるウィーン占領直後、オーストリア独立宣言の日(4月27日)には、解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する(曲目はベートーヴェンの『レオノーレ』序曲第3番、シューベルトの未完成交響曲、チャイコフスキーの交響曲第5番)。その後、ナチスに協力したという容疑で連合軍により演奏活動の停止を命ぜられたが、1947年に非ナチ化裁判において無罪となり、活動を再開した。復活後最初の舞台はアン・デア・ウィーン劇場であった[1]。1954年に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや中南米で活動した。

戦後の活動で注目に値するのは、1952年のザルツブルク音楽祭においてリヒャルト・シュトラウスの『ダナエの愛』の初演を行ったこと(1944年にすでに作曲家自身の前でゲネプロまで行ったが、ナチスの指示により公演中止となった)、および1953年にバイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』『パルジファル』を指揮して大成功を収めたことである。バイロイト出演は、ヴィーラント・ワーグナーが音楽祭再開後に推し進めたいわゆる「新バイロイト様式」に、クナッパーツブッシュが抗議して出演をキャンセルしたことに伴い実現した(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して呼び戻した)。

戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定のウィーン国立歌劇場の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルのエーリヒ・クライバーに対する妨害工作を行ったといわれている(ちなみにクライバーは後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。しかし最終的に、時の文部大臣の指示によりカール・ベームが次期監督に決定し、このショックがクラウスの死を早めたと言われている。決定の直後に失意のクラウスはメキシコへ演奏旅行に出かけ、演奏会直後に心臓発作のため急逝した。61歳没。最後の演奏会の曲目は、ハイドンの交響曲第88番(クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』、ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンの『レオノーレ』序曲第3番であった。クラウスはメキシコには行きたくなかったので、わざと主催者側に高額の報酬を要求したが、その要求が受け入れられてしまったため行かざるを得なくなったと言われている。ウィーンの市民はみな悲しんでクラウスのために半旗を掲げたと伝えられる。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第2ヴァイオリンの首席奏者を務めたオットー・シュトラッサーは、クラウスはブルーノ・ワルターと並び「歌の方面でも真に何かを理解していた指揮者」であったと評している[7]。

演奏スタイル
クラウスの演奏スタイルは、細部まで極めて緻密に仕上げられ、かつ速めのしなやかなテンポによる緊張感にあふれたものである。モーツァルトのオペラ、リヒャルト・シュトラウスの交響詩やオペラ(たとえば『ばらの騎士』『サロメ』『アラベラ』など)、ヨハン・シュトラウス2世のワルツ・ポルカなどにその特色が見いだせ、ウィーンで非常な人気を誇った。

クラウスの指揮ぶりはリヒャルト・シュトラウスと同様、非常に無駄のない小さい身振りでオーケストラから最大限の能力を引き出すというものだった。クラウスに師事したオトマール・スウィトナーによれば、当時の指揮者でバトン・テクニックに優れていたのはクラウスとハンス・クナッパーツブッシュであったという。

また、芸術に対する厳しい姿勢もあり、ハンス・ホッターは「舞台上演の後に練習をすることもあった」と語っている。

ウィーン生まれの指揮者で大成した存在は意外に少なく、戦後まで活躍した中で世界的大指揮者の域に達したのは(現在もなお)クラウスとエーリヒ・クライバーしかいない。クライバーは(ウィーンに居住したことのない息子のカルロスはもちろんのこと)むしろウィーン的伝統とは距離を置いた革新派と見られていたこともあり、強い個性の中にもウィーンの香りを忘れなかったクラウスの名は「最後のウィーンの巨匠」として今なお懐旧と畏敬を込めて語られ続けている。

レパートリー
クラウスのレパートリーは非常に広範であるが、主に次の3つに大別することができる。すなわちモーツァルト、ハイドンなどのウィーン古典派、自身と縁の深いリヒャルト・シュトラウス、そしてベルク、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、オネゲル、ラヴェル、プロコフィエフといった近現代の作曲家による音楽である。

特にクラウスとリヒャルト・シュトラウスは非常に緊密な関係を保ち、『アラベラ』『平和の日』『ダナエの愛』などの初演を任された。シュトラウス最後のオペラである『カプリッチョ』のリブレットはクラウスによって書かれ、初演も彼の手に委ねられた。なお、クラウスの妻ヴィオリカ・ウルスレアクは『アラベラ』の初演でタイトルロールを歌うなど、夫婦揃ってシュトラウス後期の舞台作品を支えたと言ってよい。また、戦前から近現代の作曲家の紹介に非常に積極的だったが、ウィーン国立歌劇場監督時代にベルクの『ヴォツェック』などの意欲的なレパートリーが保守的な聴衆に歓迎されず、彼の任期を縮めさせる要因になった。ベルリンを拠点に活動していた晩年のレハールに初のウィーン国立歌劇場初演作品『ジュディッタ』(最後の作品となった)を依嘱したこともある。オペラという名目になっているが、ミュージカルに近いオペレッタであり、原則オペレッタを上演しない(『メリー・ウィドウ』ですら1990年代まで取り上げなかった)同劇場としては異例であった。

レコード録音
クラウスは同時代の指揮者たちに比べて録音が非常に少ないが、代表的な演奏は以下の通りである。特にスタジオ録音は両シュトラウスに偏しており、ベートーヴェンの少なさなどはドイツ圏の指揮者としては際立っている。ワーグナーとブラームスも少なく、彼の生前には今日のような人気作曲家では全くなかったとはいえ、ブルックナーとマーラーも残していない。ドイツ圏外の大作曲家についても同様である。こうした、人気の主流を大きく外した録音歴のせいか、ウィーン、ベルリン、ミュンヘンとドイツ圏の三大歌劇場の総監督をすべて歴任し、ウィーン・フィル最後の常任でもあったという、フルトヴェングラー、カラヤンに劣らないキャリアを誇った指揮者ながら、日本ではこれに見合った位置づけがほとんど行われていない。たとえば古今の指揮者500人を5つのランクに分けて紹介した音楽之友社のムック『指揮者とオーケストラ2002』では第5ランクだった。ちなみに、同様に録音の少ないドイツ系の故人でクラウスほど大型ポストを歴任することがなかったヨーゼフ・クリップス、フェルディナント・ライトナーらが第4ランクである。伝記や研究書の翻訳、出版もこれまで1冊も行われていない。その一方で、根強い支持者も存在する。高崎保男は『こうもり』全曲盤に対し、数度目の再発売であるにもかかわらず「オペラというものがこれほどまでに甘美な悦楽を生み出す芸術であったのかと信じ難い思い」などと激烈な賛辞を書いている[8]。宇野功芳なども、一見淡々とした中に深いニュアンスや香りをこめるスタイルが彼の美意識と一致することもあり、クラウスの録音への絶賛が多い。

ハイドン:交響曲第88番『V字』(バイエルン放送交響楽団 1953年)
モーツァルト:オペラ『フィガロの結婚』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1942年)
モーツァルト:ハフナー・セレナード(ウィーン交響楽団 1950年)
ベートーヴェン:荘厳ミサ曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1940年)
シューベルト:交響曲第8(9)番『ザ・グレイト』(ウィーン交響楽団 1950年)
メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』抜粋(ウィーン交響楽団 1950年)
ワーグナー:楽劇『ニーベルングの指環』全曲(バイロイト音楽祭 1953年)
ワーグナー:舞台神聖祝典劇『パルシファル』全曲(バイロイト音楽祭 1953年)
ヨハン・シュトラウス2世:オペレッタ『こうもり』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1950年 - 1953年)
ヨハン・シュトラウス2世:オペレッタ『ジプシー男爵』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1950年 - 1953年)
ヨハン・シュトラウス・ファミリー:ワルツ・ポルカ集(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1929年および1950年 - 1953年)
リヒャルト・シュトラウス:楽劇『サロメ』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1954年)
リヒャルト・シュトラウス:楽劇『ばらの騎士』全曲(バイエルン国立歌劇場 1944年)
リヒャルト・シュトラウス:オペラ『アラベラ』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1942年)
リヒャルト・シュトラウス:楽劇『カプリッチョ』全曲(バイエルン放送交響楽団 1953年)
リヒャルト・シュトラウス:楽劇『ダナエの愛』全曲(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1952年)
リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1950年)
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲(バイエルン放送交響楽団 1953年)
リヒャルト・シュトラウス:弦楽のための『変容』と歌曲集(前者はバイエルン放送交響楽団 1953年、後者は1952年 ヴィオリカ夫人のソプラノを伴奏したもので、クラウスのピアノを聴けるほとんど唯一の音源)
プッチーニ:歌劇『ラ・ボエーム』全曲(バイエルン国立歌劇場 1940年)(数少ないイタリア・オペラの録音。ドイツ語による上演)
プッチーニ:歌劇『ラ・ボエーム』全曲(バイエルン国立歌劇場 1951年)(同じくドイツ語上演。ミミを歌うのは両録音ともトルーデ・アイッペルレ de:Trude Eipperle)

ニューイヤーコンサート
クラウスはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と最もかかわりの深い指揮者の一人であるが、ウィーン・フィルが楽友協会大ホールで毎年1月1日に行う、世界的に有名なニューイヤーコンサート(Neujahrskonzert)を1939年に始めたのはクラウスである。当初は12月31日に行われ、1941年から1月1日にも開催されるようになった。ニューイヤーコンサートのプログラムは、主にシュトラウス一家の陽気で美しいワルツやポルカで構成されており、12月30日(公開総練習)と12月31日(ジルベスターコンサート)も同様のプログラムが繰り返される。クラウスが最後に指揮した1954年1月1日の演奏はライヴ録音(OPUS蔵レーベルでCD化)として残されている。クラウスが突然この世を去った後、ウィーン・フィルのコンサートマスターであるヴィリー・ボスコフスキーに指揮が委ねられたが、マゼール時代を経て輪番制となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
2:777 :

2023/09/02 (Sat) 02:50:11

クレメンス・クラウス デッカ録音全集
https://tower.jp/item/5289152/%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AB%E9%8C%B2%E9%9F%B3%E5%85%A8%E9%9B%86%EF%BC%9C%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%9B%A4%EF%BC%9E

オーストリアの指揮者クレメンス・クラウスがデッカに行った広範囲にわたる全録音が初めてまとめられ発売されます。このCD16枚組BOXで、新たにこの指揮者の比類なき才能に触れることができるでしょう。新規リマスタリング。オリジナル・ジャケット仕様。限定盤。
クレメンス・クラウスは1947年、ロンドンでブラームスの作品を初めてデッカに録音し、その中にはキャスリーン・フェリアーが華麗な歌声を披露する『アルト・ラプソディ』もありました。その後録音が行われたのは、クラウスが1954年5月、メキシコでの演奏会の数時間後に心臓発作で亡くなるまでの7年足らずの間でしたが、数々の名録音が遺されました。特にリヒャルト・シュトラウスとヨハン・シュトラウスの両シュトラウスを得意とし、ここにもR.シュトラウスの『アルプス交響曲』以外の交響詩、クリステル・ゴルツが歌う『サロメ』、クラウスの妻であるヴィオリカ・ウルスレアクが終幕の三重唱を歌う『ばらの騎士』、そして「ニューイヤー・コンサート」の曲が収録されています。R.シュトラウス自身とは緊密な関係にもありました。また、クラウスはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関わりも深く、「ニューイヤー・コンサート」の創始者としても知られています。
バックハウスとのベートーヴェンの協奏曲3曲はマニアの間でずっと愛され続け、さらに有名なのが『レオノーレ』『フィデリオ』序曲集で、『サロメ』とともに亡くなる直前の貴重な録音となります。
ユニバーサル・ミュージック/IMS


【曲目】
《CD 1》
ベートーヴェン:
1)『レオノーレ』序曲第1番Op.138*
2)『レオノーレ』序曲第2番Op.72a
3)『レオノーレ』序曲第3番Op.72b
4) 歌劇『フィデリオ』序曲Op.72
5-7) ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.19
[演奏]
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(5-7)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1954年3月(1-4)
1952年5月(5-7)
ウィーン

《CD 2》
ベートーヴェン:
1-3) ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58
4-6) ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.73『皇帝』
[演奏]
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1951年5月(1-3)
1953年5月(4-6)
ウィーン

《CD 3》
ブラームス:
1) アルト・ラプソディOp.53
2) 大学祝典序曲Op.80*
3-12) ハイドンの主題による変奏曲Op.56a*
13) ハンガリー舞曲第1番ト短調*
14) ハンガリー舞曲第3番ヘ長調*
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集第1集Op.46より
15) 第3番変イ長調*
16) 第5番イ長調*
17) 第8番ト短調*
[演奏]
キャスリーン・フェリアー(コントラルト)(1)
ロンドン・フィルハーモニー合唱団(1)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1)
ロンドン交響楽団(2-17)
[録音]
1947年12月(1)、10月(2-12)
1949年1月(13-17)
ロンドン

《CD 4》
R.シュトラウス:
1) 交響詩『ドン・ファン』Op.20
2) 交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』Op.28
3-8) 交響詩『英雄の生涯』Op.40
[演奏]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1950年6月(1, 2)
1952年9月(3-8)
ウィーン

《CD 5》
R.シュトラウス:
1-9) 交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』Op.30
10-21) 交響詩『ドン・キホーテ』Op.35
[演奏]
ピエール・フルニエ(チェロ)(10-21)
エルンスト・モラヴェク(ヴィオラ)(10-21)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1950年6月(1-9)
1953年6月(10-21)
ウィーン

《CD 6》
R.シュトラウス:
1-7) 家庭交響曲Op.53
8-16) 組曲『町人貴族』Op.60
[演奏]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1951年9月(1-7)
1952年9月(8-16)
ウィーン

《CD 7》
R.シュトラウス:
1-4) 交響的幻想曲『イタリアより』Op.16
5) 交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』Op.28*
6) 交響詩『死と変容』Op.24*
[演奏]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1-4)
ミラノ・スカラ座管弦楽団(5)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(6)
[録音]
1953年12月、ウィーン(1-4)
1947年7月、ミラノ(5)
1947年12月、ロンドン(6)

《CD 8-9》
R.シュトラウス:楽劇『サロメ』Op.54
[演奏]
ユリウス・パツァーク(テノール/ヘロデ)
マルガレータ・ケニー(メッゾ・ソプラノ/ヘロディアス)
クリステル・ゴルツ(ソプラノ/サロメ)
ハンス・ブラウン(バリトン/ヨナカーン)
アントン・デルモータ(テノール/ナラボート)
エルゼ・シュールホフ(メッゾ・ソプラノ/ヘロディアスの小姓)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1954年3月、ウィーン

《CD 10》
1) ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』序曲Op.72*
ワーグナー:
2) 楽劇『トリスタンとイゾルデ』より前奏曲と「愛の死」
3) 舞台神聖祝典劇『パルジファル』より「聖金曜日の音楽」
4) R.シュトラウス:楽劇『ばらの騎士』Op.59より「私が誓ったことは」
モーツァルト:
5) 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』K.527より「窓辺においで」*、歌劇『フィガロの結婚』K.492より
6)「もし踊りをなさりたければ」*
7)「恋とはどんなものかしら」
8)「とうとう嬉しい時がきた~恋人よ、ここへ」
9) 歌劇『イドメネオ』K.366より「たとえ父上を失っても」
10)「もういいの、すべてを聞いてしまったの~恐れないで、愛する人よ」K.490
11) ヴェルディ:歌劇『リゴレット』より「慕わしき御名」
12) 歌劇『リゴレット』より「いつも日曜日に教会で」
[演奏]
ティアナ・レムニッツ、エルナ・ベルガー、ヴィオリカ・ウルスレアク(ソプラノ)(4)
パウル・シェフラー(バス・バリトン)(5, 6)
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)(7-12)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1-3)
シュターツカペレ・ベルリン(4)
ナショナル交響楽団(5, 6)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(7-12)
[録音]
1949年1月(1-3)
1947年9月(5, 6)
ロンドン
1936年4月、ベルリン(4)
1951年9月、ウィーン(7-12)

《CD 11-12》
J.シュトラウス2世:喜歌劇『こうもり』
[演奏]
ユリウス・パツァーク(テノール/ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン)
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ/ロザリンデ)
アルフレート・ポエル(バリトン/ファルケ博士)
ヴィルマ・リップ(ソプラノ/アデーレ)
ジークリンデ・ワーグナー(コントラルト/オルロフスキー公爵)
クルト・プレガー(バリトン/フランク)
アントン・デルモータ(テノール/アルフレード)
アウグスト・ヤレッシュ(テノール/ブリンド伯爵)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1950年9月、ウィーン

《CD 13-14》
J.シュトラウス2世:喜歌劇『ジプシー男爵』
[演奏]
アルフレート・ポエル(バリトン/ホモナイ伯爵)
カール・デンヒ(バス/カルネロ伯爵)
ユリウス・パツァーク(テノール/シャンドール・バリンカイ)
クルト・プレガー(テノール/カールマン・ジュパン)
エミー・ルース(ソプラノ/アルゼーナ)
ステッフィ・レヴェレンツ(ソプラノ/ミラベッラ)
アウグスト・ヤレッシュ(テノール/オットカール)
ロゼッテ・アンダイ(コントラルト/ツイプラ)
ヒルデ・ツァデク(ソプラノ/ザッフィ)
フランツ・ビールバッハ(バス/パリ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1951年4月、ウィーン

<ニューイヤー・コンサート>
《CD 15》
1) J.シュトラウス2世:ワルツ『ウィーンの森の物語』Op.325
ヨーゼフ・シュトラウス:
2) ポルカ・マズルカ『とんぼ』Op.204
3) ワルツ『わが人生は夢と喜び』Op.263
4) ポルカ・シュネル『騎手』Op.278
J.シュトラウス2世:
5) ポルカ『ハンガリー万歳』Op.332
6) エジプト行進曲Op.335
7) ポルカ『クラップフェンの森で』Op.336
8) ポルカ『観光列車』Op.281
9) J.シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカ
J.シュトラウス2世:
10) ワルツ『芸術家の生活』Op.316
11) ワルツ『春の声』Op.410
[演奏]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1951年9月(1-9)
1950年6月(10, 11)
ウィーン

《CD 16》
ヨーゼフ・シュトラウス:
1) ワルツ『オーストリアの村つばめ』Op.164
2) ポルカ・フランセーズ『小さな水車』Op.57
J.シュトラウス2世:
3) ワルツ『朝刊』Op.279
4) 歌劇『騎士パズマン』Op.441より「チャールダーシュ」
5) ポルカ・シュネル『狩り』Op.373
ヨーゼフ・シュトラウス:
6) ポルカ・シュネル『憂いもなく』Op.271
7) ポルカ・フランセーズ『鍛冶屋』Op.269
J.シュトラウス2世:
8) ポルカ『町と田舎』Op.322
9) 常動曲Op.257
10) ワルツ『わが家で』Op.361
11) ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ『天体の音楽』Op.235
12) J.シュトラウス2世:ワルツ『美しく青きドナウ』Op.314
ヨーゼフ・シュトラウス:
13) ポルカ・シュネル『おしゃべりなかわいい口』Op.245
14) ポルカ・シュネル『休暇旅行で』Op.133
15) J.シュトラウス2世:アンネン・ポルカOp.117
16) J.シュトラウス1世:ラデツキー行進曲Op.228
[演奏]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
[録音]
1952年5月(1-3)、9月(4-9)
1953年12月(10-16)
ウィーン

【演奏】
クレメンス・クラウス(指揮)
https://tower.jp/item/5289152/%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AB%E9%8C%B2%E9%9F%B3%E5%85%A8%E9%9B%86%EF%BC%9C%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%9B%A4%EF%BC%9E

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