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レナード・バーンスタイン (1918年8月25日 - 1990年10月14日)指揮者・作曲家

1:777 :

2022/07/23 (Sat) 16:21:02

レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918年8月25日 - 1990年10月14日)指揮者・作曲家


Leonard Bernstein - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Leonard+Bernstein



Mahler - Symphony n°4 - NYP - Bernstein - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xAkrnXNrvKA

Reri Grist
New York Philharmonic
Leonard Bernstein
Studio recording, New York 1960
 

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マーラー
Mahler's 9th Symphony (Audio + Score) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ah3mcaRpc9Q

Berlin Philharmonic Orchestra cond/ Leonard Bernstein (live recording)



GUSTAV MAHLER SYMPHONY NR 9 Bernstein - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wWxX-kf-2MI

レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1971年3月のライブ
2:777 :

2022/07/23 (Sat) 16:27:58

レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。


バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。

ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』
ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』
リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)
リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー
交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られる。

1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌1990年6月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。

これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。



1990年6月には札幌で自ら創設した国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。満72歳没。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF(7月3日)、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。逝去する3ヶ月前、PMFのために札幌芸術の森で行われたリハーサルの模様や最晩年の様子はNHK特集「バーンスタイン」に収録され放映された。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。

エピソード
ヘビースモーカー
ヘビースモーカーとしても有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲む事を日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。

カラヤン
バーンスタインがカラヤンと初めて会ったのは1948年、彼がまだ30歳の時であった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色も多い。

ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。佐渡裕の話によれば、1988年秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。

カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌1989年7月16日にカラヤンが死去した時、パリの演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の9月16日にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の弦楽合奏版を指揮した。

特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲はモーツァルトの交響曲第40番、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」など。

なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンから持ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。

これを受けてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィルを指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によって遂にこれは果たされることはなかった。

カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザールにカラヤンを訪ねた時のことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。

トスカニーニ
バーンスタインの若い頃、自宅で「トスカニーニの指揮する」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはその事を聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。

フルトヴェングラー
1950年、フルトヴェングラーがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きに行き、特にブラームスの交響曲第1番に呪縛された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、ナチスの協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きに行き、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。

ライナー
前述の通り、若き日のバーンスタインはカーティス音楽院でライナーに師事して指揮法を習っている。バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。「ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。彼こそまさに天才だった。指揮で私が高い水準に達することができたのは、ライナーの指導の賜物である。だからこそ私は、今も彼を崇拝しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴は天才だ」と評して指導に力をいれ、卒業の時には他の弟子には決して与えることがなかった最高ランクの「A」評価をつけた。

チェリビダッケ
同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られるセルジュ・チェリビダッケの矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなった時、ちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだと言われている。

カルロス・クライバー
12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、1992年1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。

共産主義への傾倒
バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として共産主義に傾倒していた。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していた。

同性愛
バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人がガンだと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密に振る舞うことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのはホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と答えたという。また、ファーリー・グレンジャーは2007年に出版した自伝のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。

最後のコンサート
最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「ピーター・グライムズ 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。 ( 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636)

その他
小惑星(4476) Bernsteinはバーンスタインの名前にちなんで命名された[1]。


指揮活動
レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。

1943年-1958年 デビュー・コンサートからニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者就任まで
1958年-1969年 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者時代
1969年-1990年 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者辞任から晩年まで

バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、アメリカ国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた者たち(トスカニーニ、ワルター、モントゥー、オーマンディなど)であり、ブルーノ・ワルターのように第二次世界大戦の難を逃れてきた者も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。1953年12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノ・スカラ座の客演指揮に招かれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮した。1950年代前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインとイタリアのグィド・カンテルリの2人だった。

1954年11月18日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957年に代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。

ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代、バーンスタインの主要レパートリーはCBSレコード(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は1963年作曲の交響曲第3番『カディッシュ』と1965年作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」1964年-1965年のシーズンは休みを取ったほどである。1966年にバーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。

1969年を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人気を集めた。1970年代半ばにはCBSレコードとの独占録音契約を離れ、ドイツ・グラモフォンおよびEMIと録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカの様々なオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタインの最期のコンサートのライブ録音まで続くこととなる。CBSレコード時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人により、また曲によりまちまちである。

グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時にユニテルや放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979年から1981年に発表されたベートーヴェンの交響曲全集と序曲集・弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)および『ミサ・ソレムニス』は、マクシミリアン・シェルとバーンスタインによる楽曲解説を含むオーストリア放送協会ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。

この時期、1979年10月4日・5日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と1度限りの共演が行われた。曲目は、マーラーの交響曲第9番で、バーンスタインの没後1992年に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手も今なお多い。

若い頃には情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団であった。

2000年10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。中には正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され(ワーグナー『神々の黄昏』、ブルックナーの交響曲第6番など)、ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)とのシューマンのチェロ協奏曲などの珍しい共演も正式な録音として発売された。


主要作品

交響曲
第1番『エレミア』 (Symphony No.1 "Jeremiah") (1942年)
第2番『不安の時代』(ピアノと管弦楽のための) (Symphony No.2 "The age of anxiety") (1947年-1949年/1965年改訂)
第3番『カディッシュ』(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (Symphony No.3 "Kaddish") (1963年/1977年改訂)

バレエ『ファンシー・フリー』 (Fancy Free) (1944年)
ミュージカル『オン・ザ・タウン』 (On the Town) (1944年初演)
ミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town) (1953年初演)
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』 (West Side Story) (1957年初演)
ミュージカル『キャンディード』 (Candide) (1956年初演/1989年最終改訂)
オペラ『タヒチ島の騒動』 (Trouble in Tahiti) (1952年)
この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (A Quiet Place)となった。(1983年)
クラリネット・ソナタ (Sonata for Clarinet and Piano) (1942年)
5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (I Hate Music) (1943年)
合唱曲『チチェスター詩篇』 (Chichester Psalms) (1965年)
歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players) (1971年)
合唱曲『ソングフェスト』 (Songfest) (1977年)
前奏曲、フーガとリフ (Prelude, fugue and riffs) (1949年/1952年改訂)
映画『波止場』 (On the Waterfront)の音楽 (1954年)
セレナード (Serenade) (1954年)
バレエ『ディバック』 (Dybbuk) (1974年)
政治的序曲『スラヴァ!』 (Slava! A Political Overture) (1977年)
オーケストラのためのディヴェルティメント (Divertimento for Orchestra) (1980年)
ハリル (Halil) (1981年)
ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (Touches - Chorale, Eight Variations and Coda) (1981年)
アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (Arias and Barcarolles) (1988年)

バーンスタインの作品の特徴
初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。

いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージを孕みながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴と言える。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。

作風はひとことで言えば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中で、ジャズやクラシックなどの様々な音楽の要素を巧みに織り交ぜることで、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。


バーンスタイン自身の著書
『音楽のよろこび』(The Joy of Music, 1959年)
吉田秀和訳、音楽之友社、1966年、のち新版
『青少年コンサート』(Leonard Bernstein's Young People's Concerts, 1962年)
『青少年コンサート 音楽鑑賞の新しい試み』、岡野弁訳、全音楽譜出版社、1976年
『音楽の無限の多様性』(The Infinite Variery of Music, 1966年)
『バーンスタイン音楽を語る』、岡野弁訳、全音楽譜出版社、1972年、新版1990年、1998年
『答えのない質問』(The Unanswered Question, 1976年) 当時の初版には、画期的なサンプル・レコード盤がついていた。
和田旦訳、みすず書房、1978年、新版1991年。1973年度ハーヴァード大学詩学講座
『発見』(Findings, 1982年)
『バーンスタイン わが音楽的人生』、岡野弁訳、作品社、2012年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
3:777 :

2022/07/23 (Sat) 16:33:44

レナード・バーンスタイン作曲

ミュージカル『ウエスト・サイド物語』 (West Side Story) (1957年初演)

『ウエスト・サイド物語』(West Side Story)1961年
https://www.bing.com/videos/search?q=West+Side+Story++1961&FORM=HDRSC3

△▽

映画『波止場』 (On the Waterfront)の音楽 (1954年)

エリア・カザン『波止場』(On the Waterfront)1954年
https://www.bing.com/videos/search?q=On+the+Waterfront+++1954&FORM=HDRSC3


4:777 :

2023/09/03 (Sun) 07:45:04

あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ
バーンスタイン氏の痛烈なひと言
大友 直人
https://president.jp/articles/-/32167

NHK交響楽団(N響)は日本最高峰のオーケストラだ。しかし指揮者の大友直人さんは、世界的指揮者のレナード・バーンスタイン氏に会ったとき、「ああ、そのオーケストラは知っているよ。ひどいオーケストラだ」と言われ、ショックを受けたという。氏はなぜそんなことを言ったのか――。

※本稿は、

大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)
https://www.amazon.co.jp/-/en/%E5%A4%A7%E5%8F%8B-%E7%9B%B4%E4%BA%BA/dp/4120052613

の一部を再編集したものです。


憧れの指揮者と話をした夜
私が大学を卒業した年、小澤征爾先生に推薦していただき、アメリカ、マサチューセッツ州のタングルウッドで開催される、タングルウッド音楽センターに参加したときのことでした。これは、名門ボストン交響楽団が開催するタングルウッド音楽祭の一環として毎年行われる夏季講習会ですが、ここに参加したことが、私の指揮者人生にとって一つの大きな分岐点となるのでした。

この夏季講習会は、1940年、当時ボストン交響楽団の音楽監督だったセルゲイ・クーセヴィツキーによって、バークシャー音楽センターという名前で創設されました。1970年には、小澤征爾さんが所長に就任。20世紀を代表するアメリカの大人気指揮者、レナード・バーンスタインを総合アドバイザーとして招くなどしながら、精力的に若者の指導にあたっていました。

バーンスタインは、当時、私にとって憧れの指揮者の一人でした。彼はバークシャー音楽センターに参加したことをきっかけにクーセヴィツキーから才能を見出され、指揮者としての道を拓いていきました。そのため、彼にとってこの音楽祭は出発点というべき重要な場所でした。

私がタングルウッド音楽センターに参加したのは、1981年のことでした。受講生はみんな、夏休みで使われていない近くの女学校のドミトリーに宿泊します。講習会が始まって間もないある夜、その1階のリビングにバーンスタインが来て、受講生を相手にいろいろな話をしてくれたことがありました。


「世界のバーンスタイン」が笑ったN響
若者たちが車座になって彼を囲み、彼がおもしろおかしく語るさまざまなエピソードを聞いていました。そのときパッと、バーンスタインと私の目が合った。そして「君はどこから来た? 名前は? 何をしている?」と尋ねられました。ドキドキしながら、ナオト・オオトモと答えると、フィンランド人かと聞かれました。なにか、オットーモのような、フィンランド風の響きに聞こえたのかもしれません。そこで、自分は日本から来た、今はN響の指揮研究員をしていると答えたところ、バーンスタインはこう言ったのです。

「Oh, I know that orchestra. Horrible orchestra!(ああ、そのオーケストラは知っているよ。ひどいオーケストラだ!)」

そして彼は、学生たちを前にこんなふうに説明しました。

「このオーケストラのことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」

バーンスタインを囲んでいる受講生たちは、その話を聞いて皆大笑いです。

プロフィールに書かれない「日本」での実績
N響は、そんなふうに言われるようなオーケストラではない。悔しくて反論しようとしましたが、私が何も言えずにいるうちにその話題は終わり、すでに彼は次の学生との会話を始めていました。

おそらくバーンスタインは、N響と小澤先生のトラブルを耳にしていて、それをもとに、大げさにおもしろおかしく話をしたのだと思います。若き日の小澤先生は、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者をつとめたのち、1962年にN響と指揮者契約を結ぶも、関係がうまくいかず、指揮をボイコットされるという事態を経験していました。

私はあのとき、バーンスタインと話をしているだけで舞い上がっていたと同時に、その発言に相当ショックを受け、悔しさに震えました。まず、彼が日本のオーケストラに対してそういう認識を持っていたということ、そしてこの話が、日本を知らない外国の若者たちから一笑に付されてしまったということも、ショックでした。

そんなとき、私はあることに気がつきました。

タングルウッド音楽センターには、当時東ドイツでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めていたクルト・マズアもゲストで参加し、学生の指導やコンサートを行っていました。

彼はよく日本に来て日本のオーケストラと何度も共演し、1979年には読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任していました。しかし彼のプロフィールを改めて見てみると、日本や読響という言葉が、一切書かれていないのです。

驚くほど低かった「日本のステイタス」
他にも注意して見ると、たとえば当時のヴォルフガング・サヴァリッシュの英語のプロフィールには、最後に一言、「His activity includes Far East(彼の活動には、極東も含まれる)」と書かれているだけでした。彼は1960年代からほぼ毎年来日し、1ヵ月間日本に滞在してN響と共演し、1967年にはN響の名誉指揮者に就任しているにもかかわらずです。

これが世界における日本のクラシック音楽界のポジションなのだ。私はそう認識せざるをえませんでした。

日本におけるクラシック音楽の歴史を一口に語ることはできませんが、それでも明治以来、すでに長い歴史を刻み、特に戦後の音楽界の発展には目を見張るものがあったと思います。そして、1970年の大阪万国博覧会を境に、日本社会は大きく変わり、海外のオーケストラやアーティストが大挙してやってくるようになっていました。私が学生時代を過ごした1970年代後半になると、すでに東京にいながらにして、世界中のオーケストラの演奏を日常的に聴くことができる環境となっていました。日本のオーケストラも、N響をはじめとする数々のオーケストラが活動するようになっていましたし、世界の一流指揮者やソリストが常に共演していました。

それなのに、世界の音楽界における日本のステイタスが、理不尽なほど低い状況に置かれているのは一体なぜなのだろう。そんななかで、私は指揮者としてどんな道を辿たどるべきなのだろう。そんな問題意識が強く芽生えました。

留学をすれば成長できるのか
どの分野でも同じだと思いますが、勉強する、自分を磨くということは、究極的には自分自身との闘いです。音楽についていえば、自分の部屋で、目の前にある譜面と向き合うということが、音楽づくりの本質です。そうやって自分を深く掘り下げていく作業を行ううえでは、ウィーンにいても東京にいても変わりません。

もちろん、環境は大切です。外国の歴史、言語、町並みなど生活環境に刺激を受けながらそれを咀嚼し、糧にしていくことも重要です。しかし、単に海外に留学すれば何か起きて自分が成長できるとは限りません。

高校を卒業して大学に入るとき、留学を考えた時期もあります。当時お世話になっていた岡部守弘先生が、ヨーロッパの音楽学校めぐりをするから一緒に来てみないかと誘ってくださり、春休みに2週間ほどヨーロッパを旅行しました。良い先生や学校に出会えたら留学を考えてみようと思って見てまわりましたが、そのときにはここだという場所を見つけることはできませんでした。

また、定期的にお目にかかっていた渡邉暁雄先生に、留学することに興味があるとご相談したことがありました。渡邉先生がおっしゃるには、常時学校で教えている先生には一流の指揮者はなかなかいない。現場が忙しい演奏家はあまり学校には行けないのだということでした。それで、留学といっても、行けば必ず何かを学んで大きく変わることができるという単純な話ではないのだと知りました。


「東京は捨てたものではない」日本を主戦場に決めた
日本人がクラシックの音楽家を目指すというと、日本で基本的な勉強をしたあと、欧米に留学し、キャリアを積んで、その実績をもって日本に凱旋する、または日本と海外をまたにかけて活動するというのが、いつの間にか王道のパターンとなっていました。そこにあるのは、クラシックにおいては欧米が一流の現場で、そこで勉強し、活動して認められることこそが最高だという価値観です。これが未来永劫続いていくならば、日本という国や日本の音楽界は、常に二流、三流ということになってしまいます。

しかし、当時の私は多少生意気だったこともあって、日本の音楽界は本当にそれでいいのだろうか、変えていかなくてはならないのではないかと強く思ったのです。

東京は音楽的な環境としては豊かで、演奏会に好きなだけ足を運ぶことができました。さらに、N響の指揮研究員としてあらゆるリハーサルに立ち会うことができる私にとっては、とても恵まれた環境でした。そう考えると、音楽的な刺激を受ける場として、東京は捨てたものではないというのが、そのときの私の認識でした。

「すぐに振れ!」小澤征爾さんに胸ぐらをつかまれる
タングルウッド音楽センターでは、もう一つ印象深い出来事がありました。

講習会の期間中は、毎日、指揮科の授業がありました。ところが私は指揮科の先生との折り合いが悪かったこともあって、だんだんとクラスに出なくなり、1日中、タングルウッドの芝生の上に寝っ転がっているようになっていました。あわせて、前述のような想いがだんだん強くなっていったものですから、さまざまなことに想いを巡らせながら、日本に帰ってがんばるしかないと考えるようになっていました。

あるとき、指揮科の生徒を対象に、翌年の講習会の参加者を決めるオーディションが開催されることになり、私もこれを受けるようにと言われていました。しかし当日、私は大胆不敵にもオーディションをボイコットして、やはり芝生の上で寝っ転がっていた。すると友人があわてて呼びに来て、小澤征爾さんがものすごい剣幕で怒っているから、いますぐ戻ってこいと言うのです。

仕方ないと思って会場に戻ってみると、舞台の下に、他の学生が指揮している様子を見ている小澤先生の姿がありました。近づいていくと、小澤先生に胸ぐらをつかまれました。

「お前、何やっているんだ! すぐに振れ!」

しかし私も意固地になっていたので、絶対にやらないと抵抗したのです。あまりに私が頑ななので先生もあきらめて、もういい、今夜、家に来るようにと言われました。


使命は「日本の音楽界を変えること」
こうなったら、ここまで溜め込んできた想いのたけをすべて小澤先生に話してみよう。そう思い、その夜、私は意を決して先生のお宅に出かけました。

大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)
小澤先生の家では、その晩ホームパーティーが行われているところでした。思いつめている私の気持ちなどつゆ知らず、先生はどうやら、私があのような態度をとるのは、ホームシックにかかっているからだろうとお考えになったようで、「うちに寅さんの映画があるから、観ていきなさい」とおっしゃいました。

私はそうしてその夜、小澤先生の部屋で、特に観たいわけでもない寅さんの映画を、延々観るハメになったのでした(寅さん映画は大好きですが)。

小澤先生がそのときおっしゃったことを、私は今でも覚えています。

「君、こんなビッグチャンスをつぶすなんて、どういうことなのかわかっているのか。僕はチャンスをつぶしたことも、そこで失敗したことも、一度もないぞ!」

音楽家として、チャンスをつぶしたことは一度もない。そう思えるのは、本当にすごいことだとつくづく思います。もっとも、「ああ、結婚は一度失敗したけれどネ」なんて冗談もおっしゃっていましたが。

そのとき、いくら小澤先生から厳しい言葉をかけられても、自分にとっての使命は世界を舞台に活躍することより、日本の音楽界を変えていくことだという考えは変わりませんでした。

それから数年後、小澤先生にお会いしたとき、いくつになったのかと聞かれたので30歳だと答えると、「君、まだ日本にいるのか。もう手遅れだな」と言われました。これにはショックを受けたところもありましたが、私はすでに我が道を行くことを心に決めていたので、自分はこれでいいのだとすぐに思い直しました。

その後、小澤先生とは何度かお会いする機会がありましたが、現在に至るまで私が自分の心情を吐露したことは、結局一度もありませんでした。
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2023/09/03 (Sun) 07:47:23

バーンスタインで良くないのはベートーヴェンです。NHKホールでの「3番」を聴いたことがありますが、非常に浅い、ヤンキーのベートーヴェンだった。アメリカの大衆性が悪く出てしまう。だけれども、ウィーン・フィルを振った全集はオケがしっかりしているから、あれはあれなりに優れた演奏のひとつだと思う。
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