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シュナイダーハン(1915年5月28日 - 2002年5月18日)ヴァイオリニスト

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2022/07/21 (Thu) 16:42:58

ヴォルフガング・シュナイダーハン(Wolfgang Schneiderhan、1915年5月28日 - 2002年5月18日)ヴァイオリニスト

Bach Partita No. 2 played by Schneiderhan - 5 Chaconn
http://www.youtube.com/watch?v=ZUg-7hwdsAM&list=PLC59F096350A01C00&index=2
http://www.youtube.com/watch?v=6om3hiDe23Y&list=PLC59F096350A01C00&index=1
http://www.youtube.com/watch?v=Jqk-y7o7af4&list=PLC59F096350A01C00&index=3
http://www.youtube.com/watch?v=3E2Hl-wBCQ4&list=PLC59F096350A01C00&index=4
http://www.youtube.com/watch?v=Cq5Vxo4ieVo&list=PLC59F096350A01C00&index=5
http://www.youtube.com/watch?v=GTQKlpzcGmo&list=PLC59F096350A01C00&index=6


ウォルフガング・エドゥアルト・シュナイダーハン(Wolfgang Eduard Schneiderhan[1][2], 1915年5月28日 - 2002年5月18日)[3]は、オーストリアのヴァイオリニスト。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めた。

1915年、ウィーンで生まれ、最初はウィーン音楽院ヴァイオリン科の主任教授であったオタカール・シェフチークに、ついでユリウス・ヴィンクラーに学んだ。10歳の時に公開演奏会でバッハのシャコンヌを弾いた。翌年の1926年にコペンハーゲンでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏してデビューした。

1933年から1937年までウィーン交響楽団のコンサートマスターを務めたが、1937年からは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にコンサートマスターとなる。なお、この移動は指揮者のクレメンス・クラウスによるものであり、シュナイダーハンの実力は折り紙つきであったため、入団試験は行われなかった[4]。ナチスによって、第1コンサートマスターであったアルノルト・ロゼがロンドンへ亡命せざるを得なくなったため、1938年に第1コンサートマスターに就任した。

1938年3月、ウィーン・フィルの首席奏者らと弦楽四重奏団を結成し(シュナイダーハン四重奏団)、1951年8月2日まで活動を続けた。

1949年にソリストとして独立するためにウィーン・フィルを退団。

また、ザルツブルク、ウィーン、ルツェルンでヴァイオリンの教職にもあった。1956年、ルドルフ・バウムガルトナーとともにルツェルン音楽祭弦楽合奏団を創設した。

室内楽の分野でも、前述のシュナイダーハン四重奏団での活動の他、カール・ゼーマンとデュオを組んだりした。当時から「クーレンカンプの後継者といえたのはウィーン出身のヴォルフガング・シュナイダーハンだけだろう」(ハンス・ハインリッヒ・エッゲブレヒト)と言われており、エトヴィン・フィッシャー、ゲオルク・クーレンカンプ、エンリコ・マイナルディとのトリオは、ゲオルク・クーレンカンプ没後にシュナイダーハンに交代した。

2002年、ウィーンで没。

兄はウィーン交響楽団のコンサートマスターを務めたワルター・シュナイダーハン。妻のソプラノ歌手、イルムガルト・ゼーフリートとは1988年に死別。妻との間に3人の娘がおり、うち一人は女優のモナ・ゼーフリート(de)。甥にドイツ連邦軍総監を務めた同名のヴォルフガング・シュナイダーハンがいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3

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