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エフレム・ジンバリスト(1889年4月9日 - 1985年2月22日)ヴァイオリニスト

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2022/07/21 (Thu) 10:03:32

エフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist, 1889年4月9日 - 1985年2月22日)ヴァイオリニスト


ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 Op.77(1946ライヴ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18499471

http://www.youtube.com/watch?v=AW8kwVeEuJ8
http://www.youtube.com/watch?v=V0pK5_1MBGY

胸に沁み、心に沁みる ― ジンバリストのブラームス/協奏曲&ソナタ3番

YouTubeにエフレム・ジンバリストの「トロイメライ」のSP盤を蓄音器再生・マイク収録したものが公開されているのに先日気付いた。この形式の録音はあまりうまくいかないことが多いのだが、このトロイメライはよかった。蓄音器の再生音の強靭さ、味の濃さが非常によくわかる収録になっている。入力レベルが高すぎて音が割れたりするが、それを補ってあまりある魅力がある。それ以上に、ここでのジンバリストの演奏がことのほか素晴らしく、この名人の魅力が最大限に集約されて発揮されているのが嬉しい。というのは、私はこの地味な往年の名人ヴァイオリニストに肩入れしている数少ないひとりだからである。

ジンバリストといえばヤッシャ・ハイフェッツ、ミッシャ・エルマン、ナタン・ミルシテインらとともにレオポルド・アウアー門下の筆頭格と目される名手だが、この中では一番人気がなく、録音も復刻も非常に少なく、今日ではほぼ忘れられた感がある。ハイフェッツは今もってヴァイオリニストの中のヴァイオリニストとして尊敬されているし(アンチも多いだろうが)、エルマンは古臭いとか前世紀の遺物などと言われながらも息の長い演奏家生活を送り、戦後も数多くの録音を残し、いまだ根強いファンが多いことはCDとしてもたびたびその録音が復刻されていることを見てもわかる。一方でジンバリストはほとんど復刻がなく、一般の愛好家の方々はもとより通ぶったマニアの間ですらほとんど話題にのぼらない。親日家だったらしく戦前何度も来日し録音まで残しているのに、日本に熱心なファンがいるというわけでもない。ジンバリストの魅力を知る者としては、この忘れられ方、存在感の薄さは残念でならない。

もっとも、無理からぬ面はあり、何しろ残っている録音が少なく、レパートリーもよくない。時代のせいもあるのだろうが、ヴィルトゥオーソ・ヴァイオリニストが名技を披露するショー・ピースか、親しみやすいメロディーを美音とともにふりまくアンコール・ピースのような曲目ばかりが並ぶ。こうした曲ではエルマンやハイフェッツにずっと分がある。SP後期からLP時代にかけて本格派・正統派の曲目も録音できる状況になった頃にはこのひとはさっさと引退してしまい、米カーティス音楽院での教職に入ってしまっていた。十分にひける年齢で技巧の衰えもさほどなかっただろうに、もったいない話である。

SP時代の人気ヴァイオリニストというと、クライスラーやエルマンを筆頭とする「歌謡派」とフーベルマン、ハイフェッツ、プシホダのような「名技」派に二分される感がある。その間に、純音楽派というか高踏派といおうか、通俗曲をほとんどひかないシゲティやブッシュがいて、独自の存在感を持っていた。まあ、こういうのはファンの間で自然と醸成される、あるいはマネージメントが売り込みの都合上仕立て上げるイメージに基づいたもので、実際の演奏家の在り方にはあんまり関係のないカテゴライズなのだが、経緯や妥当性はともあれ、そうした序列や位置付けは確かに存在し、聴く側の理解や認識を意外に大きく左右するものだから、あまり軽視はできない。


さて、話を戻してわがジンバリストが当時どこに位置していたかだが、一応はアウアー門下の神童ヴィルトゥオーソということで名技派に属するということになっていたようだが、そのポジションでのこのひとのインパクトはハイフェッツらに比べると随分見劣りするのは否めない。技巧は非常に老朽で安定しているが、きき手を圧倒し、征服し、感嘆させるような強烈さは感じられない。では翻って歌謡派かといえば、クライスラーやエルマンのような開けっぴろげの親しみやすさ、あるいは万人受けするわかりやすいエンターテインメント性もこのひとには乏しい。派手な、人目につくような存在感、ひとことでいえばスター性がないし、かといってブッシュやシゲティのようなカリスマ性もない。つまり、地味なのだ。

こんな書き方をしてしまうとわざわざきく気にならない愛好家の方も多いだろう。それでいいとも思う。というのは、上記のようなカテゴライズから抜け落ちてしまうが、しかし熱心なファンにひそかに、こよなく大切にされているヴァイオリニストたちが存在するからであり、ジンバリストもその中に加えていいひとりだからだ。あえてレッテルを貼るなら純情派というか文芸派というか、ヨゼフ・ヴォルフシュタールやゲオルク・クーレンカンプ、少し時代を下ってリカルド・オドノポソフやペーター・リバールといったヴァイオリニストたちがそれに当たるといえば、好きなひとにはああなるほどとすぐに通じるであろう。何のことやらわからない向きには、多分説明してもわからない。生憎なことではあるが、これも彼らを愛する好楽家には同感していただけるだろう。あえてレッテルに書き込める共通項を挙げるなら、その純真でデリケートなカンティレーナの可憐さだろうか。微かに酸味と苦味を含み、翳りを帯びた独特の甘美さ。これが何とも心に沁み、愛好家の心をひきつけてやまないのだ。そして、ここに貼り付けたYouTubeの「トロイメライ」をきけばおわかりになる(ひともいる)だろうが、ジンバリストのカンティレーナには、エネスコやブッシュ、シゲティらのみが比肩し得るような深沈とした高貴さと同時に、この独特の酸味と苦味を含んだ甘さがあり、私はむしろそこに強くひかれる。

繰り返しになるが彼らはスターではなく、超絶技巧をふるって聴衆を征服するというタイプには最もほど遠い。大衆に通じやすい「売り文句」を付けるのが難しい演奏家たちなのだ。かといってインテリやスノッブの「箔付け」になるような権威性もない。スターや権威になるには「もののあはれ」に感じすぎるデリケートさ、繊細すぎる何かを備えていて、それがきき手の心の奥深い琴線に触れる。そういうごく私的でインティメートな共感の中でのみその魅力を実感でき、その魅力をわかりやすい売り文句に変えてしまえばすべてが嘘になってしまうような、そういう存在である。

なんだかくどくどとした煮え切らない前置きになってしまったが、私にとってジンバリストというヴァイオリニストはそういう意味で個人的に大切にしている数すくないひとりだ ― ということを書きたかったのである。そして、彼の数少ない録音の中から、この言葉にし難い魅力を一番端的に伝えてくれるものを選ぶとすれば、今回公開するブラームスのソナタ3番とヴァイオリン協奏曲であろう。

コンチェルトはクーセヴィツキー、ボストン響との1946年のライブ演奏で、知る人ぞ知る同曲屈指の名演であり、比較的よくきかれ、ぽつりぽつりとではあるがLP時代から何度か復刻されている。名演の多い曲だし私自身も好きな演奏はいくつもあるが、この曲をききたいと思った時に手が伸びるのはクライスラーの旧録音か、このジンバリストであることが多い。

一方で3番ソナタはジンバリスト盤など話題になっているのをほとんど見ない。何せ有名曲で名演とされる演奏も数多いからだろうが、ブラームス好きの私にして昔からなぜかこの曲はどうも気に入らず、そうした名演といわれる盤をいろいろきいたがどれもぴんと来なかった。このジンバリストの演奏をきいて初めて、私がブラームスをきく時に求めているものをこの曲でもようやく感じることができた。1楽章のあの冒頭からして、名人・名手といわれるようなたいていのヴァイオリニストでは実に俗悪で我慢ならぬものにきこえ、そこで私はたいてい先をきくのが嫌になってしまうのだが、ジンバリストにかかるとこれが何ともいえず胸に沁み、心に沁みる真実の声になる。要は先に述べた「心の奥深い琴線」に触れてくる演奏なのである。この曲の代表的名演とかベスト演奏とか、そういうことを言い立てる気はしない。そういう言葉は何かそらぞらしく、真実を損ねる。そこには言葉にすれば嘘になるしかないずっとパーソナルなものがあるのだ。

前置きはもういい加減十分すぎるだろうから、後はやはり音に自らを語ってもらうべきだろう。ついでながら、公開する音源は現状で最良と思われるものを選んだ。現在市販されている某レーベルのCDにも同じ組み合わせで収録されているが、呆れてしまうのを通り越して途方に暮れ、悲しくなるほどの酷い音だった。見かけたら燃やしておいてほしい。

ダウンロードは

「音源ライブラリー」
http://www.mediafire.com/?86miaczc2hxtn



「ジンバリスト」のフォルダー
http://www.mediafire.com/?rk53fdb2mofom

からどうぞ。
http://blog.livedoor.jp/thetatoshi/archives/5874582.html

エフレム・ジンバリストといふヴァイオリニスト
アウアー門下の提琴家を多く取り上げながら、ジンバリストは初めての登場だと思ふ。1910年に、20歳でニキッシュ指揮するゲバントハウス管絃團で華々しくデビューした彼は、1949年には紐育で引退コンサートを開き、カーティス音楽院で後進の指導に専念した。弟子にはシュムスキーが居る。

今回入手したCDは、前回取り上げたトッシャ・ザイデルによるショーソン作曲「詩曲」のライブ演奏がお目当てだったが、クーセヴィツキとのブラームスの協奏曲が余白に入ってゐた(逆かも知れない)ので聴いてみることにした。

引退の3年前といふこともあってか、技術的には心もとない。しっかりしたクーセヴィツキの音楽とは対照的である。第1楽章の235小節でジンバリストが第2主題を歌い終える場面では、音程の誤差も半音くらいは許容範囲なのだらう。それとも本当に耳がお悪いのか、はたまた楽譜を覚え違えたのかよく分からないが、可能性はまだある。僕の耳が壊れてゐるのかもしれない。さらに、361小節からのスタカート、アクセント、付点音符のモティーフも独特だ。こういった解釈なのか、技術的な衰への為なのか、僕には分からないが、コルトーも晩年はこのやうなことをよくやってゐたのを思ひ出す。そして再び、470小節付近から音程の怪しい例の部分が再現されるが、今回も全く同じ不具合を生じる。それでも聴衆は、楽章が終わる度に惜しみない拍手を送るので聴いてゐて悲しくなる。

ジンバリストといふ提琴弾きは、ブラームスのやうな大曲よりも小品に真価を発揮するタイプだと思ふ。終楽章のやうにラプソディックな曲想だと持ち味が出てゐるやうに僕は感じた。特に第1楽章のやうに構築的な作品は聴いてゐて時間を持て余してしまふ。

レコヲドの方も放送録音ではあるが、いろいろと不可解な問題点がある。136小節から独奏提琴が第1主題を静かに歌う箇所でLP盤の傷のやうなノイズが延々と入るし、473小節には編集上での機械音だと思ふが「ピー」といふノイズも混入してゐる。

文句ばかりになってしまったが、クーセヴィツキ指揮ボストン響のブラームスはとても良い。同門のエルマンも晩年の演奏は精彩を欠いた。大曲の演奏は「今ふたつ」といふところも似てゐる。これは仕方のないことだ。

盤は、Eklipseが1946年3月30日の放送録音をCD化したものEKR CD1401。
http://blog.goo.ne.jp/tenten_family6/e/c6e32b6e94b071f382fc7537aed7f732

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