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レオポルト・アウアー(1845年6月7日 - 1930年7月15日)ヴァイオリン教育者

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2022/07/21 (Thu) 08:33:14

レオポルト・アウアー(Leopold Auer, 1845年6月7日 - 1930年7月15日)ヴァイオリン教育者


Leopold Auer - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Leopold+Auer


レオポルト・アウアー(Leopold Auer, マジャル語ではアウエル・リポート(Auer Lipót)。1845年6月7日 - 1930年7月15日)は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリン奏者、教育者、指揮者、作曲家である。

ヴェスプレームに生まれ、ブダペストとウィーンでヤーコプ・ドントらからヴァイオリンを学び、ハノーファーでヨーゼフ・ヨアヒムに師事した。

1868年からサンクトペテルブルクに移り、1917年までペテルブルク音楽院で教鞭を執る。1918年にアメリカ合衆国に移り、最後はフィラデルフィアでカーティス音楽院の教壇に立った。

ドレスデン郊外のロシュヴィッツに客死し、ニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。

レパートリー
多くの作曲家から作品を献呈されており、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もその一つであったのだが、そのときにアウアーは演奏を断わっている。この曲を演奏不可能と考えたためであったが(またはチャイコフスキーが自分にではなく、別人に作曲の助言を受けていたことに立腹したためとも言われる)、後に考え直し、この曲を演奏するようになった。販売用のレコード録音は行わなかったが、生徒に配布する為にSP盤片面をアメリカヴィクターで2枚録音(チャイコフスキーのメロディー、ブラームスのハンガリー舞曲第1番は)した。そのレコードの一曲目は生徒4人に、二曲目はその他の生徒に後に配布したのみで、本人物故後に日本ビクターのマネジャーが未亡人を訪ねたが、一般発売は断られ、LP普及後にやっと許可が出て復刻されるに及んだ。

教育活動

弟子たち
アウアーは最も重要なヴァイオリン教師の一人として知られており、多くの有名なヴァイオリニストが子供時代からアウアーの指導を受けた。その中に、

ボリス・シボー、
エフレム・ジンバリスト、
ミッシャ・エルマン、
ナタン・ミルシテイン、
トーシャ・ザイデル、
ヤッシャ・ハイフェッツ、
ベンノ・レビノフ、
エディ・ブラウン、
キャスリン・パーロー

等がいる。

教育方針
生徒が自分で考えることを重視しており、生徒の演奏でうまくいかない箇所があったときは、すぐに解決法を示すのではなく「なぜ今はっきりしていなかったかわかるかい?」と尋ねた[1]。同様に、エチュードは自分自身で考案することを推奨していた[2]。

また、トーシャ・ザイデルによれば、アウアーの門下生たちは毎日すべての重音で音階練習をしていた[2]。

作曲
アウアーは数少ないがヴァイオリン曲を作曲している。その中にはヴァイオリンとピアノのための「ハンガリー狂詩曲 Rhapsodie hongroise」がある。また、多くの作曲家のヴァイオリン協奏曲(ベートーヴェンとブラームスのものを含む)のためにカデンツァを作った。著書に『Violin Playing as I Teach It 』(1920)、『My Long Life in Music 』(1923)などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
2:777 :

2022/07/21 (Thu) 08:40:07

ハンガリー出身のヴァイオリニスト

 ハンガリー出身の音楽家で、すぐに連想する巨匠連は、なんと言ってもヴァイオリンの分野になりましょう。


 (1)ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)


 (2)レオポルド・アウアー(1845~1930)
    門下生:エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツ、ミルシュテインなど


 (3)エノ・フバイ(1853~1937)
    門下生:シゲティ、ヴァルガ、ヴェチェイ、マルツィ、テルマニー、
        レナー、オーマンディ、エレナ・ルビンシュタイン、ジェルトレル、
        セイケイ、アイターイ、ガイヤー=シュルティース、
        フランシス・ダラニー、エルダリングなど。
    この一連の人脈は、「ハンガリー・ヴァイオリン楽派」と呼ばれる。
 

 (4)カール・フレッシュ(1873~1944)
    門下生:ジネット・ヌヴー、イダ・ヘンデル、ヘンリック・シェリング
        シモン・ゴールドベルグ、イヴリー・ギトリス、マックス・ロスタル
        ヨーゼフ・ボルスタール、アルマ・ムーディなど


 (5)ヨゼフ・シゲティ(1892~1973)
    日本人の門下生:海野義雄、潮田益子、前橋汀子など
      (出典:BEEHIVE楽師「ヴァイオリンとヴァイオリン音楽」
          平成15年7月 敷島工藝社出版 私家本)


 これだけ見ただけで、まさにヴァイオリニストは「ハンガリー人がすべて」 であるような大変な人脈です。
http://freett.com/ncnycy/disc-sp-10-4.html
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2022/07/21 (Thu) 18:06:08

あげ4444
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2022/08/01 (Mon) 13:25:06

あげ333
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2022/08/01 (Mon) 16:03:44

運命愛のひと~ダヴィッド・オイストラフをめぐる系譜
https://kobayashihideo.jp/2019-03/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-2/


ダヴィッド・オイストラフの音は、真っ直ぐに「来る」。躊躇いがない。ひじょうに率直な、大きな演奏だ。今、私はそう思うようになった。手許にある幾つかのオイストラフ評を引いてみても同じである。「深く、バランスの取れた、音楽家としての技倆のともなった、気高さ、誠実さ、そして、飾り気のなさ」「その音の大きさ、幅、よく伝わる響き、またアーティキュレーションの朗々たる豊かさとビロードのように温かい肌ざわり」「その演奏の説得力と音楽的な純粋さ」「すべすべと肌理こまかく、硬質な力強さ」「ロシアの自然を感じさせる瑞々しい抒情性」……聴けばわかる、とでも言いたくなるようなその感触を、なんとか表現しようと言葉を探し重ねている、その評者の気持がうかがえる。私もまったく同感である。

だが、はじめは別段いいとも思っていなかった。技術的な問題などは私にはわからない。ただ、こっちに「来る」何かがなかったのである。

ところが、である。吉田秀和が、オイストラフのレコードを聴いて愉悦に浸る小林秀雄を描いているのだ。

「数年前、大磯の大岡昇平さんのお宅で、小林さんにお目にかかった。少しお酒が入ると、小林さんが、レコードをききたがり、『名人をきかせろ、名人をきかせろ』と言った。大岡さんが、『そう、何があるかな』といって、探したが、なかなかうまいのが出てこない。失礼だと思ったが、私が立って、大岡さんのコレクションをひっかきまわしてみると、いろいろモオツァルトの珍しい曲とか何とかはあっても、名人の名演と呼べるほどのレコードはほとんどない。やっと、オイストラフの独奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲がみつかったので、それをかけると、小林さんはとても陽気になり、一段と早口になって、『こうこなくっちゃ、いけません』とか何とか言いながら、真似をしたり、陶然とききほれたり、それを見ているのは、本当に楽しかった」(『ソロモンの歌』)

……これは困った。小林秀雄がオイストラフをいいと言ったらしい。となれば、オイストラフが悪いとは、すなわち私が悪いということだ……まさかそんなふうに従順に考えたわけでもないが、オイストラフを聴き直さねばならない仕儀になったとは、これは直ちに思ったことだ。ソヴィエト連邦の巨匠オイストラフなど、東西冷戦の心理的緩和剤として捏造された希望としか、それまでの私には見えていなかったのである。鉄のカーテンの彼方にも存在した尊敬すべき人格者、それはそうかも知れぬが、そもそも生産性至上主義の偏狭な合理主義的空間に芸術など育つはずもないのだから、巨匠オイストラフとはいえ、どうせ大したヴァイオリニストではない、というわけなのだった。事実、いまひとつ覇気に欠けるような、そんな演奏も彼にはある。だから、小林秀雄の称賛も、ひょっとしたら大岡昇平ならびに吉田秀和の親切に報いた挨拶にすぎないのではないか……。

まもなく、私は自らの偏見を糺されることになる。件のシベリウス、ヴァイオリン協奏曲。オイストラフはそれを幾たびも録音している。民族的な香りといい全三楽章の見事な構成といい、多くのヴァイオリニストを誘惑してきた名曲であるから、既に少なからぬ録音があるわけで、そこにさらに一枚を加えるとなれば、さすがに生半可なことはできないに違いない。それを、四回だか五回だか、とにかく呆れるほど繰り返し吹き込んでいる。もとより各地のオーケストラの要請に応えたにすぎないのかもしれないが、やはりオイストラフ自身にも並々ならぬ思いがあったのではないか。私の手許には三種あるが、みなそれぞれに違ってそれぞれにいい。北欧の風と大地の香気が立ち上るストックホルムのもの、いかにもロシアンとでも称すべき怒涛のモスクワのもの、そして美学的な構築が図られたフィラデルフィアのもの。

小林秀雄の聴いたのはどれだろう。それはともかく、「少し」、かどうかは疑わしいが、とにかく「酒が入って」、小林秀雄が「名人をきかせろ」と、おそらくは上機嫌に繰り返した、そのまことに率直な要求は、他でもない、ヴァイオリンが聴きたいということであったろう。音楽で「名人」といえば、少なくとも小林秀雄にとってはヴァイオリニストだし、「私はヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と書いてもいる。そこで大岡昇平と吉田秀和という弟子筋の二人があれでもないこれでもないと棚をひっかきまわした挙句、ようやく鳴り始めたのがたまたまオイストラフだった。シベリウスのコンチェルト第一楽章冒頭である。まずは静謐、北欧の黎明の大気に乗って、一頭の猛禽類が悠然と線を引いて舞う。その切れ目のない一筆書きの旋律を、オイストラフという正真正銘のヴァイオリニストが、そのストラディヴァリウスが、渾身の演奏で描ききるのだ。「こうこなくっちゃ、いけません」……。さてどんなものだろう。もとより私の空想にすぎないが、しかしいずれにせよ、この夜のオイストラフは、師匠の意に見事にはまったようである。



1908年、オデッサに生まれたダヴィッド・オイストラフが、当地の音楽院に入学したのは15歳、1923年である。それは、十月革命後の内戦に赤軍が勝利しソヴィエト連邦が成立した、その翌年だ。そして1924年にはレーニンが没し、ほどなくスターリンが権力を掌握することになる。オイストラフの音楽家としての始動は、かかる転換期に重なっている。しかもその当時、あの、綺羅星の如く居並んでいた国内の「先輩たち」は一人も残っていなかった。エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、そして彼等の師であるレオポルト・アウアーも、皆アメリカに渡ってしまった後だった。サンクトペテルブルクのアウアー一門は去ってしまったが、幸いなことに、アウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーはオデッサに健在だった。オイストラフは五歳でその門下となり、そのままオデッサ音楽院、ストリャルスキーのマスタークラスに入ったのである。

ベルギーのアンリ・ヴュータン、ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキの後継として、1868年サンクトペテルブルクの音楽院にやって来たハンガリーのレオポルト・アウアー、このマジャールのユダヤ人教師によって確立されたヴァイオリン演奏の頂点ともいうべきロシア派は、上に述べたように一門を挙げて亡命、アメリカ合衆国にその拠点を移したが、ストリャルスキーによって本国にもその系譜は遺されていたのである。そこでオイストラフは、よほど大切に育てられた。エルマンやハイフェッツや、さらには後のメニューヒンが、セーラー服に半ズボン姿で活躍したその歳頃に、オイストラフは国家のヴァイオリン部門を担うべく将来を嘱望され、その才能の「時熟」のために第一級の教育を受け続けていたのである。彼が本格的な演奏活動に移行するのは、その教育課程をすべて終えた十八歳になってからだ。

ピョートル・ストリャルスキーが偉大な教師であったことは疑いない。オイストラフ以前にも、ナタン・ミルシテインという俊才を世に出している。となれば、その演奏を聴いてみたくもなるのだが、録音は存在しないようだ。これはよくあることで、殊にかつてのロシアや東欧では、その部門の第一位は教育に専心し、したがって録音活動等はしない傾向とみえる。晩年になって、自分の演奏がままならなくなる頃に、ようやく後継者のために僅かに録音するくらいのものなのだ。アウアーにも公式の録音はない。現代の我々にとっての録音活動が、専ら同時代平面上での、水平軸での普及を眼目とした商行為であるのに対し、二十世紀初頭のそれは、ときに後世への保存と継承を本質とする、縦軸の教育的行為であったことがわかる。ミルシテインは亡命してしまったが、オイストラフはロシアに留まり、師を立派に継承した。だとすれば、ストリャルスキー先生は、もはやご自身の録音のことなどお考えにならなかったであろう。音楽家の最大の仕事は教育だ、自分の名はどうでもよろしい、優れたものが受け継がれ育まれさえすれば……ひたすら個の達成を価値として生きねばならない現代人は、ただ嘆息し、仰ぎ見るばかりである。

ロシア派のロシアでの系譜はダヴィッド・オイストラフに託された。そして彼はモスクワ音楽院教授としてそれに応えた。息子のイゴール・オイストラフの他、ヴィクトル・トレチャコフ、ヴァレリー・クリモフ、マルク・ルボツキー・ヴィクトル・ピカイゼン、オレグ・カガン、ギドン・クレーメル……門下には錚々たるヴァイオリニストの名が並ぶ。が、他方、オイストラフには膨大なディスコグラフィーもあるのである。それは、言ってみれば、ソヴィエト連邦はその文化的内実によっても西側世界を圧倒せねばならない、という国家の方針の表れだ。それに応えたオイストラフはどこまでもロシアの人なのである。すべては、自分を育ててくれた国家のためだと言っている。ソ連を出て西側で暮らすつもりはないか、とメニューヒンに尋ねられて、何から何まで国家の世話になり、国家のお陰でヴァイオリニストになれたのに、その国家を捨てることなどできない旨を答えてもいる。その国家がソヴィエト連邦のことかどうか、それはわからない。しかし、政治体制の如何にかかわらず、祖国はあり、祖国の人々はいる。オデッサに生まれたロシア系ユダヤ人として、彼は祖国のために忠実であったのだ。彼は宿命に抗わず、それをすべてとして受け容れていた。

さて、1954年ロンドン・アルバートホール、翌年ニューヨーク・カーネギーホール。この二つのコンサートの成功で、オイストラフは世界が注目するヴァイオリニストになった。ロンドンでは、ハイフェッツと比較して称賛する批評も現れた。カーネギーホールのコンサートは、これはオイストラフにとっても記念すべき音楽会であったろう。この日のホールのスケジュールは、二時半からミッシャ・エルマン、五時半からがオイストラフで、八時半からはストリャルスキー門下の先輩ナタン・ミルシテインというプログラムであった。三人ともウクライナの出身のロシア系ユダヤ人である。さらに客席にはポーランド系ユダヤ人のフリッツ・クライスラーの姿もあった。「彼が深く物思いに沈んでわたしの演奏に聞き入っており、それから立ち上がって拍手してくれたのを見ると、私は感激のあまり、夢を見ているような気分になった」(マーガレット・キャンベル『名ヴァイオリニストたち』阿部宏之訳)

この頃、オイストラフはヴァイオリニストとしての人生の頂点にいた。そしてこの後、さらに高まる国家の要求に、演奏会とレコーディングの、息つく暇もない苛酷なスケジュールに、ただただ翻弄されていったのである。しかもそれに何の不満も抱かず、いつも上機嫌で、ときにはヴィオラを構えたりタクトを振ったりしながら、演奏家として、プロフェッサーとして、故郷と故郷の人々のために、幸福に生き抜いて、そして疲れ切ってしまったオイストラフ。その晩年の人生は悲劇的である。遺された音源に、その本領とは隔たるものがあるのもやむを得ない。しかしながら注意深くその演奏に耳を傾ければ、やはりオイストラフという人の人となりが見えてくるのである。



ソヴィエトでの録音に、ヴィターリのシャコンヌがある。聴けば一瞬で救済されるような、どんな人生も肯定されるような、そういう健全な音楽である。その感触は生涯を通じて変わらない。



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注)

ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)……ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市オデッサに生まれる。ユダヤ系。父はアマチュアのヴァイオリニスト、母は合唱団の歌手。家は貧しくストリャルスキーはレッスン料を免除した。

1934年モスクワ音楽院助手、1935年国内コンクールで優勝し、そのまま必勝を期して、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場するが、カール・フレッシュ門下のジネット・ヌヴーの熱演に一位を譲った。しかし、1937年のブリュッセルの第一回イザイ・コンクールでは優勝してその地位を確乎たるものにし、1938年にはモスクワ音楽院教授に就任、続く戦時中には多くの慰問演奏会を行い、1941年スターリン国家賞を受賞した。戦後1946年のプラハの春音楽祭での成功で世界の注目を浴びるが、まもなく東西冷戦構造のなかで国際的なキャリアは中断、1951年のフィレンツェの音楽祭で西側の舞台に復帰した。1958年には国連総会で演奏、1960年レーニン賞、1961年カザルスのプラド音楽祭に招待。ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフのヴァイオリンとピアノのためのソナタ等、オイストラフに献呈された作品の多さが、彼の国家における地位を示唆している。また、ソロ活動の他、第一回ショパンコンクールの覇者レフ・オボーリンとのデュオや、それに同年で同僚のチェロ奏者スビャトスラフ・クヌシェヴィツキ―を加えたトリオでも活躍した。

1974年、コンセルト・ヘボウの指揮者を務めるべく訪れていたアムステルダムで、一日がかりのリハーサルの後急死した。享年六十六。



シベリウスのヴァイオリン協奏曲……ニ短調、作品47。1903年発表、1905年改訂。オイストラフのものとして紹介した三種はそれぞれ、シクステン・エールリンク指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(1954年)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(1970年?)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1959年)。



エフレム・ジンバリスト(1889-1985)……ロシア・ロストフ州出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。



ミッシャ・エルマン(1891-1967)……ウクライナ・キエフ近郊出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。



ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)……現リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1917年にアメリカ合衆国に移った。



レオポルト・アウアー(1845-1930)……ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1868年よりサンクトペテルブルク音楽院のヴァイオリン科教授となり、ロシア派を確立する。1918年にアメリカ合衆国に移った。



ナタン・ミルシテイン(1903-1992)……オデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ピョートル・ストリャルスキー門下、のちレオポルト・アウアーに師事。1925年にアメリカ合衆国に移った。



イエフディ・メニューヒン(1916-1999)……ニューヨーク出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ルイス・パーシンガー門下。のちジョルジュ・エネスコ、アドルフ・ブッシュに師事。



フリッツ・クライスラー(1875-1962)……ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父はポーランド・クラカウ出身である。ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガーⅡ世に師事、のちパリ音楽院でランベール・マサール門下。

https://kobayashihideo.jp/2019-03/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-2/
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2022/08/01 (Mon) 18:45:17

その三 浪人時代の記憶~ミッシャ・エルマン
https://kobayashihideo.jp/2019-05/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-3/


青年男子は不満の塊だ。むき出しのダイナマイトみたいなもので、火気は厳禁である。目の前の一切が、理不尽で不純でばかばかしく苛立たしい。親や教師など、どんなにもっともらしいことを言ったところで、所詮は、夾雑物で視界が曇ってしまった、いわば「終わった」人たちである。そして、そのように世の中を鑑定する自分のことは疑いもしない。そこには、絶対に純粋な自己と愚かで不純な他者があるばかりだ。青年期特有のこういった感情は、どうせ未熟な自分自身に対する不満の、その屈折した投影にすぎないのだろうが、そんな話は薬にもしたくない。鑑定を共有できる二、三の友人があれば、彼等だけが信頼に価する存在なのである。もはや世間との和解に至る途は断たれている――そう確信した者同士が、ともに引きこもり、たとえば音楽を聴き、文学を語り、少女に恋をする。そのときの音楽や文学や少女が、ありふれた凡庸と不純から遠く隔たったものであることは言うまでもない。かかる意味で、彼らのありようは、陰にこもってはいるが反逆的だ。それは、親や教師や学校や勉強や社会や、およそあらゆる「不純な」制度に対する離反なのである。(青年諸君、そんな顔をしなさんな。私は自身の青春を顧みて書いているだけだ)

もっとも、その青年たちも、やがて大学に進んだり就職したりするうちに、なし崩しに社会化していくことになるのだが、その途中にちょっとした「逸脱」の一時期が挟まることがある。「浪人」だ。思い返せば、それはなかなかに思い出深い有意義な人生の挿話なのだが、その最中にいる諸君にとっては、もとより意義など検証している場合ではない。ただただつらい。それは、社会的属性を剥奪された宙ぶらりんの一年ないし数年であり、社会に反逆し得ていたはずのその自意識が呆気なく挫かれた、自己喪失の一年ないし数年である。公認の制度によって組織化された人生の文脈から、突然逸脱を強いられてしまった「白紙」の自分……そんな切実な場所に思いがけず立たされてしまった、そう言いたげな顔が、たとえば予備校の教室にはちらほら見える。しかしながら、諸君、自意識を挫かれ、自己を喪失した諸君だからこそ、真に意義ある自己探求の途に就けるということでもあるのである。

青年期の、わけても浪人時代の心理的現実というものは、今も昔も、そう大きくは変わらないのではないか。たとえば梶井基次郎2。その学生時代の日記や書簡などを拾い読みしていると、およそ一世紀の隔たりを越えて、その切ない気持や荒んだ心が、こちらの胸にも沁みてきて、やり切れない。おどろくほど純度の高い詩的な結晶をなすあの作品群の底にあるのは、ありきたりだが切実な、逃れようのない苦悩だったのだ。かくも美しい秩序を拵えあげなければ、とても耐えられぬほどの混沌だったのだ。

梶井もまた「浪人生」であった。第三高等学校に入る前に、大阪高等工業学校の受験に失敗している。その前に、異母弟が高等小学校を終えたばかりで奉公に出されたことから、あるいは父の放蕩が家計を苦しめていたことから、それらに対する義と反逆とで、中学を退学したこともある。また三高でも、選んだのは理科であった。彼の進路にはしばしばある種の無理ないし不自然を感じる。そして、町人の子だから学問に打ち込めないのだと悲観してみたり、かといって、打ち込める何ものも見つからないと焦燥を訴えてみたり。さらに怠惰、悔恨、早くも兆した肺病の不安……。

二日夜エルマンと握手す

ああ此感激に過ぐるものなし。

(1921年3月3日 友人宛はがき)


当時の梶井に信じられたのは、二、三の友人を別にすれば、漱石、谷崎、学内で見かける西田幾多郎先生、それに、友達と金を出し合って買う舶来盤のレコードくらいだ。彼にとってそれらは皆、現実の醜悪と塵埃から隔絶した、純粋で高貴な存在だったろう。そんな梶井の前に、折よく現われたのが、エルマンだったのである。演奏会当日は進級のかかる試験の最中であったが、かまってはいられなかった。

京都は一日二日エルマンの演奏会あり、二円だ。京都で聞く気はないか。大阪なんぞよりずつと気持がいいだらう。しつかりお互ひに勉強しておいてどちらかの日にカンフオタブルに享楽しようぢやないか。

(同2月16日 友人宛はがき)


その夜、エルマンのストラディヴァリウスは、梶井の耳にどんなふうに鳴っただろう。濃密で柔らかな、エルマン・トーンと称されたあの音。ひょっとしたら、京都市公会堂のエルマンは、「幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛」のなかで、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」3、そんな純度の高い音色を響かせてくれたのだったか。梶井はその感激のまま、会場の外でエルマンを待った。ややあって姿を現し、車に乗り込もうとするヴァイオリニスト。梶井は群衆のなかから飛び出し、やや腰をかがめて、しかし無遠慮に手を差し出す。すると、ロシア生まれの偉大なその人は、貧し気な学生の無作法に、わざわざ手袋をはずして応えたのである。感極まって涙した。温かい手やった、匂いがこの手に残ってるわ。



レオポルト・アウアー4教授は、その日滞在するロシア南部エリザベートグラードのホテルで、未知の父子の来訪を告げられた。いつものことだ。ヴァイオリンを抱えた息子とその天才を信じる父親の不意の訪問。だが、たいていは、貧しい親子の果敢ない幻想なのだ。憂鬱なことである。演奏会直前の教授はその支度に忙しいこともあって、その応接を弟子に委ねた。わずかな時間でも仮眠をとらねばならない。それから演奏会用の衣装に着替え、さてストラディヴァリウスと指を馴らしておこうか……本番直前のそんな時、部屋の扉は叩かれたのであった。「教授! あの少年の演奏は絶対お聴きになるべきです」。……翌朝再びやってきた少年――それは、通い始めたばかりの音楽学校があるオデッサ5から、アウアー教授がたった一晩滞在するだけのこの街まで、長い旅路をやって来た、しかもその旅費を、衣服を売って工面しなければならなかったという父親に連れられた、小柄なユダヤ系の少年であった――彼はひと息をつく暇もなく楽器を取り出しヴィエニャフスキのコンチェルトを弾き始める。アウアー教授は、旅立ちの荷物をまとめながら聴くつもりであった。が、ほんの数小節進んだところで片付けの手を停め、身体を起こさねばならなかった。なるほど、これは確かに聴くべき演奏だ。そして机に向かい、躊躇なくペンを執りあげたのである。ペテルブルク音楽院グラズノフ院長宛に、ただちに一筆啓上せねばならない6。

タリノエという小さな村の、ヘブライ語教師の父にヴァイオリンの手ほどきを受け、その後パブロ・サラサーテの推薦を得て、オデッサ音楽院フィデルマン教授の生徒となっていたミッシャ・エルマン、彼の世界的ヴァイオリニストへの途は、この瞬間に開かれたのであった。1904年、エルマン十三歳であった。

もっとも全てが順風満帆だったわけではない。この頃のユダヤ人は常に朔風に曝されていた。首都サンクトペテルブルクにも居住制限があり、エルマン少年が父親とともにその街に住んで音楽院に通うということさえ容易ならざることであった。アウアー教授は当局に対し、エルマンが入学できないなら教授を辞すると、脅迫まがいの啖呵を切ったと伝えられている。アウアーは「皇帝のソリスト」であるから、これには役人たちも黙従するほかはなかったであろう。また、アウアー自身の出自も、ハンガリーの貧しいユダヤ人の家庭である。エルマンの他、エフレム・ジンバリスト、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン7と、才能において突出したユダヤ系ヴァイオリニストがそのクラスに参集したのは、偶然ではなかった。

アウアー教授の下でエルマンは、なんでもたちどころに出来てしまうというような、神話的な天才ではなかった。そのかわり、どんなに困難な課題を与えられても、必ず次のレッスンまでには克服して来るという、並外れた学習能力を示した。その結果、彼は、その歳のうちに、ロシアを代表するヴァイオリニストの一人になっていったのである。

サンクトペテルブルクでのデビューは、レオポルト・アウアー急病につきその代演という形式であった。形式? そう。これはアウアー教授の仮病であり常套なのだ。自分を目当てに集まってくる「一流」の聴衆を裏切り、失望の色を浮かべる人びとの前に無名の少年を立たせ、その思いがけない演奏によって聴衆の失望をもう一度、逆から裏切って喝采させるという筋書きである。それは、二重の裏切りによる一種の賭けだ。エルマン少年はメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききって、その賭けに、おそらくそれが賭けであることに気づきもせずに勝ち、そのままロンドン・デビューまで、一直線に駆け抜けるのである。

以後半世紀をかるく越えて、エルマンは一流であり続けた。ヴァイオリニストの世界においてこれは稀有と言っていいだろう。もっとも彼の少年時代、ヨーロッパはフリッツ・クライスラーとブロニスワフ・フーベルマンが主役であった8。またロシア革命を機に、アウアー一門の拠点はアメリカに移り、それとともに同門の後輩ヤッシャ・ハイフェッツの時代が幕を開ける。さらに十年後、今度は同じロシア系ユダヤ人イエフディ・メニューヒンの登場だ9。つまり、エルマンはいつも二番手だったと評する向きもあるのである。少年ハイフェッツがニューヨークに登場した日の、よく知られたエピソードがある。その熱狂の演奏会場で、エルマン「今夜はばかに暑かないか?」ゴドウスキー「ピアニストは平気さ!」10。また、エルマンがしばしば上機嫌に語ったというこんな一つ話もある。コンサートにやって来ては必ずサインをもらって帰る少年に、エルマン「どうしてそんなに僕のサインが要るんだい?」少年「友達と交換するのさ。エルマン五枚でクライスラー一枚!」。

しかしながらエルマン自身、エフレム・ジンバリストとともに、ロシア系ユダヤ人ヴァイオリニストとして初めて世界を席巻した人であり、また器楽奏者として初めて、レコードでその盛名を確乎たるものにした人である。実際、二十世紀初頭の栄光のテナー、エンリコ・カルーソー11と吹き込んだマスネ「エレジー」などは記録的なベストセラーだ。

Elman Caruso Massenet Elegie - YouTube
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かくしてアメリカ商業主義の最中にあってその恩恵を受けながら、彼には、それに翻弄されない強靭さがあった。エルマンが途を拓いて、のち多くの、特にユダヤ系のヴァイオリニストが活躍するようになり、たぶんそのせいで、エルマンはソリストとしての活動から遠ざかり、四重奏などに比重を移した時期もあった。が、晩年はやはりソロに戻り、最後まで一流の演奏を披露し続けたのである。それを可能にしたのは、神童でありながらさらに研鑽を重ねた、サンクトペテルブルクでの日々だろう。レオポルト・アウアーは多くを教えない。何はさておき、自分自身で考えさせ克服させる教師だ。その許で、神童エルマンが、格闘して身につけたものの尊さと実現したことの偉大さを思う。彼は言う、「今のヴァイオリニストたちは、もっと私に感謝すべきだ」。エルマンは「二番手」だったのではない。先駆者であり、牽引者なのである。それは今でも変わらない。


最晩年に、ヘンデル「ソナタ四番ニ長調」の録音がある。これは不朽だ。

Elman Handel Violin Sonata D major - YouTube
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エルマンの代表的な録音と言えば、まずは、先に触れたカルーソーとの録音、そして自らの出自に根差す「エリ、エリ」や「コルニドライ」「ヘブライの旋律」といったユダヤの音楽、それにアウアー因縁のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」12などが挙がるだろう。もとより異議のないことだ。が、それらを措いてあのヘンデル、と言いたい気持ちが私にはある。故郷の大地の香気と古典の高次の統合。それがヴァイオリン音楽というものであり、その点で、彼は一貫してエルマンなのである。その確信に満ちた演奏が人生を貫く。そして、世に翻弄されつつ生きねばならない人たちを救済し続けている。



音を記憶するのは難しい事だから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば噓になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、又何処からか聞えて来る様な気持ちになる。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

小林秀雄もまた、このとき「浪人生」であった。名門府立一中では学校生活が一高受験に一元化されてしまうために、その風潮に反発して、文学にマンドリンそれに硬式野球、要するに勉強以外のことに明け暮れていた。妹の高見澤潤子は、「兄のレジスタンス」だったと言っている。そうに違いない。そしてたぶんそのせいで、小林秀雄は一高の受験に失敗したのであった。

兄は中学卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人した。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。

(高見澤潤子『兄 小林秀雄』)

小林秀雄にも、高を括る、というような、そんな生意気な少年時代があったわけだ。その生意気の鼻をへし折られて、浪人の一年が始まった。では、あの小林秀雄はどんな浪人生であったのか……まことに興味深いが、その間のことは、何ひとつ書き遺されていない。何もわからない。何もわからないが、やはり、この世を凝視しつつ自分をゼロと見定めるというような、そんな謙虚な「没落」の時間を過ごすことはあっただろうと想像してみる。

……莚を敷いた、薄暗い船室がある。周囲に船に酔つた時の用意らしく、十五六の瀬戸引の洗面器がずらりと掛けてあつた。それが、船の振動で姦しい音を立てて居た。顔色の悪い、繃帯をした腕を首から吊した若者が石炭酸の匂ひをさせて胡坐をかいて居た。その匂ひが、船室を非常に不潔な様に思はせた。傍に、父親らしい瘦せた爺さんが、指先きに皆穴があいた手袋で、鉄火鉢の辺につかまつて居る。申し合はせた様に膝頭を抱へた二人連の洋服の男、一人は大きな写真機を肩から下げて居る、一人は洗面器と洗面器の間隙に頭を靠せて口を開けて居る。それから、柳行李の上に俯伏した四十位の女、――これらの人々が、皆醜い奇妙な置物の様に黙つて船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。それが堪らなかつた。然し自分だけ慄へない方法は如何しても発見出来なかつた。

(小林秀雄「一ツの脳髄」)

世の中や世の人々を醜く思うのは、青年の特権だ。しかし、そのような世の中や世の人々を、対象化しようとしてしきれず、眼差しが自分自身へと折れ曲がってくるまでには、ある種の成熟が必要だろう。自分もまた例外ではあり得ない。等しく醜く愚かな存在である。「自分だけ慄へない方法」などありはしないのだ。もとより「一ツの脳髄」は1924年の発表というから、1920年の「浪人生小林秀雄」からはなおしばらく隔たる。が、小林秀雄も「浪人生」なら、特権の放棄と健全な没落は、そのときすでにその視野に入っていただろうと思う。

さて、その浪人生活の終りを飾ったのがエルマンである。1921年2月帝国劇場の公演に、受験勉強追い込み最中の小林秀雄は出かけている。その小林秀雄の耳にどんな音が鳴ったのだったか。「音を記憶するのは難しい事」だが、今、振り返って「何処からか聞えて来る様な気持になる」というその音は。それはやはり、青春の混沌にとって救済となるような、純度の高い、高貴なものであったに違いない。帝劇の椅子に身を委ねたまま陶然となった、あの甘美でしかも端正なスラヴの音色。濃密な音響のなかで見るヴァイオリニストの光景が、夢のように生々しい。しかしながらそれは、その帰らぬ時代への愛惜の念であると同時に、惜別の記憶でもある。というのは、このエルマンの演奏会の一か月後、まさに一高受験の最中に、小林秀雄は父親の急逝に遭わねばならなかったからである。

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だつた。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだらう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿つてポロポロ涙を落し乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると、医者がギュッと胸を押したがポカンと口を開いた儘息をしなくなつた父の顔が浮ぶ。「家に持つて帰る」と京都の伯父が赭い壺からお骨を半紙に移すのを見て身慄ひした事、葬式の済んだ晩、母と妹と三人で黙りこくつてお膳を囲んだ時の、三角形の頂点が合はない様な妙にぎごちない淋しさ。――謙吉の追懐は風船玉の様に後から後から出来てはポカリ、ポカリと消えて行つた。

(小林秀雄「蛸の自殺」)

一般に、男子の青春が、父との対決を通して社会に対峙しつつ自立していく過程であるといってよければ、小林秀雄は、父との関係を経由することなく、何の庇護もないなかで、直接に社会との対峙を強いられ、その中で己の自立を図らねばならなかったということになる。漸次的に経験されるはずの人生の転機が一挙に訪れたわけだ。小林秀雄は父の死に際して「こんなに悲しいことはない」と言った。その悲しみは、四十六歳で死なねばならなかった父その人の悲しみであることは無論だが、同時に、自分の青春を青春たらしめてくれるはずの父という存在、それを唐突に奪われたという悲しみ、いわば青春喪失の悲しみでもあったのではないか。

小林秀雄にとって、ミッシャ・エルマンの思い出は、その鮮やかな切断面である。それは、なにかしら原点のような豊富さも含む歴史であった。

たしかルッジェーロ・リッチ13が、フィドル14は名人の楽器だ、と言っている。ヴァイオリンと身体の完全な調和。そういうことは、たとえば私などには、実際にステージを見ないとわからないところがある。まさに「名器を自在にあやつる名人の演技」に「目のあたり」接してはじめてわかるというわけだ15。小林秀雄もその夜帝劇のステージに、正真正銘の「名人」を見た。「ヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した」との述懐があるが、誇張のないところだろう。また、「人々の魂を奪う感動を創り出すのに、彼には民謡の一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである」とも言っている。もっともこれはパガニーニについての記述だが、この確信の起源こそ、まさしく帝劇のエルマンなのではないかと思う。マスネの瞑想曲、ドヴォルザークのスラヴ舞曲、ユモレスク……どれも名曲というのでは必ずしもないかも知れない。いや、名曲であるかどうかは問題ではないのだ。名人の名演であれば足りる。すなわち、曲目などなんでもよろしいということになる。さらに言えば、「一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せた」という、その「乗せる」という感じは、エルマンの演奏風景にぴったりだ。エルマンの弓のさばきというのか、その軽さは印象的である。弾きながら音楽に合わせてよく動く人だったようだが、そもそも弓の動きそれ自体が、もはや舞踏そのものである。

その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない、それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒してはくれなかった。

(「ヴァイオリニスト」)

我が国の音楽的光景においても、エルマンは一つの原点をなす。エルマンは、何といっても、日本にはじめてやって来た、掛け値なしに第一流のヴァイオリニストであり、名人である。そして彼に続いて、ジンバリストもクライスラーもハイフェッツもティボー16も来日したのである。その後の、戦争を挟んだ「十何年」の中断は、むろん不幸なことではあったが、それがかえってヴァイオリン音楽というものへの愛惜を、そして愛惜としての歴史というものを、ささやかながら教えてくれたことであった。


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1 Mischa Elman(1891-1967)

2 梶井基次郎(1901-1932)……『檸檬』の作家。梶井基次郎については、『梶井基次郎全集』(新潮社)、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(河出書房新社)を参照させていただいた。

3 梶井基次郎「檸檬」より。

4 Leopold Auer(1845-1930)……オーストリア・ハプスブルク家統治下のハンガリーに生まれた。同じユダヤ系マジャールのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟としてサンクトペテルブルク音楽院の教授を務め、後、ロシア革命を機に渡米。アウアーについては、角英憲訳『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)を参照させていただいた。

5 ウクライナ黒海沿岸の港湾都市。音楽院があり、ダヴィド・オイストラフをはじめ、多くの逸材を輩出した。

6 Aleksandr Glazunov(1865-1936)……作曲家。ロシア革命までサンクトペテルブルク音楽院の院長を務めた。手許の資料では院長就任は1905年。アウアーとエルマンとの出会いはその前年だが、アウアーの『自伝』には、エルマンの自分のクラスへの編入と奨学金の給付を求める推薦状を「……院長として音楽院を率いていた偉大なるアレクサンドル・グラズノフ」に宛てて書いた旨の記述がある。

7 Eflem Zimbalist(1889-1985),Toscha Seidel(1899-1962),Yascha Heifetz(1901-1987), Nathan Milstein(1903-1992)

8 Fritz Kleisler(1875-1962),Bronislaw Huberman(1882-1947)

9 Yehudi Menuhin(1916-1999)

10 Leopold Godowsky(1870-1938)……ポーランド系ユダヤのピアニスト。

11 Enrico Caruso(1873-1921)……イタリア・ナポリ出身のオペラ歌手。

12 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは、はじめレオポルト・アウアーに献呈されたが、アウアーは「演奏不能」としてこれを拒否したという。アウアーはこのことについて、作品には「大きな価値がある」ものの「まったく弦楽的な語法で書かれていない非ヴァイオリン的な箇所がいろいろとあった」ために「全面的な改訂の必要を感じた」が、その作業を「先延ばしにしてしまった」、「私が悪かったと率直に認めるものである」と前掲の『自伝』に記している。

13 Ruggiero Ricci(1918-2012)……アメリカ合衆国のイタリア系ヴァイオリニスト。

14 擦弦楽器、特にヴァイオリンを指すが、あえてフィドルというときには、その民族音楽との関係が強調されるようだ。ヴァイオリンは歌い、フィドルは踊る。

15 「名器を自在にあやつる名人の演技」およびそれに続く引用は、小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

16 Jacque Thibaud(1890-1953)……フランスのヴァイオリニスト。「最後に来たのはチボーだったが」とあるが、ティボー来日の翌1937年にエルマンが再訪している。

(了)
https://kobayashihideo.jp/2019-05/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-3/

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