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ヴァイオリニストの系譜

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2022/07/21 (Thu) 04:25:09

ヴァイオリニストの系譜

ヴァイオリン奏者達の系譜を「ヨアヒム・ハルトナック」 の資料により4派に分けて、掲載します。
http://chauchaw.web.fc2.com/hafuna-48-33.html

ヨアヒム・ハルトナックというドイツの人が書いた『二十世紀のヴァイオリニスト』という本。

1970年代初頭に出回っていた本なので、情報源としてはかなり古いです。
しかし、この本の面白いところは、演奏者の住んでた地域や師事関係、そして演奏上の特徴を彼なりに丹念に調べ上げ、ヴァイオリン演奏の歴史的な系譜を編み上げたところにあります。

この本の巻末には、家系図みたいなものが載っており、ヴァイオリニストが大好きな人には、この巻末だけでも十分酒の肴になりうる代物です。

さて、ハルトナックのヴァイオリニストの系譜学によりますと、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(Giovannni Battista Viotti, 1755-1824)は、フランコ=ベルギー奏派のボスだということが分かります。

ヴィオッティ自身はイタリア出身のヴァイオリニストで、ガエターノ・プニャーニの門人。イタリアの宮廷に就職したものの、より華やかな活動の場を求めてパリに行き、パリ随一のヴァイオリニストとして大成功した人でした。

華麗さと気品を身上とするヴィオッティの流儀は、おそらく、18世紀末のフランスの趣味に合わせて研究された流儀でしょう。この流儀は弟子のピエール・ロードらを通じて継承され、伝統的な流儀として確立されていったものと思われます。

そんなヴィオッティは、24曲ものヴァイオリン協奏曲をせっせと作りましたが、その中でもとりわけ名高いのが、第22番の協奏曲です。

この第22番は、ヴィオッティが40代半ば、ロンドンに滞在していた頃に書き上げた作品で、うっとりとするような典雅ななメロディが人気の秘密でございます。19世紀に入っても、ヨーゼフ・ヨアヒムやヨハネス・ブラームスといった人たちが、この曲の素晴らしさを積極的に喧伝していました。ヨアヒムがブラームスの家に行くと、必ずブラームスがピアノの前に座り、ヨアヒムにこの曲を演奏させて嬉しがっていたそうです。

今日では、ヴィオッティの曲は、ヴァイオリン学習者の課題曲として、忘れられることなく弾き続けられています。

このCDでヴァイオリンを演奏するアルテュール・グリュミオー(Artur Grumiaux, 1921-1986)は、ヴァイオリン演奏で爵位まで与えられたベルギーのヴァイオリンの名手です。彼は、ヴィオッティから続くフランコ=ベルギー奏派の継承者であり、ブリュッセル音楽院のヴァイオリン科教授として知られた名教師でした。
ヴィオッティの流儀を今に伝える名人の演奏ということで、確固たる自信と気品を持って名演奏に仕上げています。

伴奏は、エド・デ・ワールトの指揮する、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(国内リリース時は「コンセルトヘボウ室内管弦楽団」名義)。武者修行時代のワールトの仕事です。大先生ににらまれて直立不動な感じの伴奏が、実に初々しいですネ。

ヴィオッティの曲の熱烈なファンとして名前のでてきたヨーゼフ・ヨアヒムですが、彼はまた、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)のニ長調のヴァイオリン協奏曲を名曲の地位に押し上げた人としても知られています。ヨアヒムが初演するまでは、冗長すぎるということで敬して遠ざけられる曲でした。

初演時には、ヴィオッティ門下のロードの名前が出され、ロードの協奏曲の劣化コピーのように評されたようです。

ヴァイオリンのパートは、独奏としてはかなり大人しい仕上がりですが、超絶技巧的な華やかさを駆使しないで存在感を示すことが求められます。

本CDにおけるグリュミオーのヴァイオリンは、その点ではカリスマ性を発揮し、紳士的ながら歌心たっぷりの演奏を聴かせてくれます。

アルチェオ・ガリエラ(Alceo Galliera, 1910-1996)の指揮するニュー・フィルハーモニア管弦楽団の伴奏は、グリュミオーの高踏的なヴァイオリンにメリハリを加え、美しさとダイナミズムを兼ね備えた名演奏に仕上げています。ここでのガリエラは、中島誠之助風に「いい仕事」です。
http://ameblo.jp/albert-jacques-clemens/entry-11022867287.html


ヴァイオリンを勉強してる人じゃないと、あまり触れることがない作曲家年表。

ジョバンニ=バッティスタ=ヴィオッティ(イタリア)  1755年生誕~1824年没

南イタリアフォンタネッタという町の生まれ。鍛冶屋の息子。
ヴァイオリンは、ほとんど独学で始める。
タルティーニ以降パガニーニの登場までの時代に最も影響力のあるヴァイオリニスト、コレッルに始まるイタリアの伝統を受け継ぐ。
同時に、ヴァイオリン演奏19世紀近代フランス学派の創始者。
19世紀のヴァイオリン演奏様式に、多大な影響を及ぼした。

ヴィオッティボウイングなどが有名。
コレルリ門下のプニヤーニに、1770年以降教えを受け、それ以降生涯唯一の師として尊敬していた。

ロドルフ=クロイツエル (フランス) 1766~1831

シュターミッツに作曲とヴァイオリンを学ぶ。
82~83年ヴィオッティに会っているが、教えを受けた証拠はない。
実際演奏を聞いて、書法奏法の影響を受けている。
シュポアー、ベートーベンも絶賛。

バイヨ、ロードとともにフランスヴァイオリン学派の三位一体を形成。
ヴァイオリン協奏曲は、レガートが強調されスピッカートの運弓法が全く使われていなかったと記した資料あり。

クロイツエルの演奏自体、豊かな音を持ち、運弓法も卓越したレガートの様式を用いた。ヴァイオリンのための42の練習曲は、数ある教本の中でも、特異な位置を占めている。左手の流暢な伸張と収縮を部分的に取り入れ、近代ヴァイオリン奏法への道を開いた。


ピエール=ロード(フランス) 1774~1830

フランスのボルドー生まれのヴァイオリニスト。6歳から始める。
フォヴェルに師事。パリで、ヴイオッティの目に留り、愛弟子になる。
ヴィオッティーの作曲した、13、17、18番を師の希望により初演。

ヴィオッティーの古典的技法を吸収し、そこの小気味よさ、当時フランスに特徴的な熱情を加えた。
最盛期には、シュポアーからも絶賛、「ロードは私の理想とするヴァイオリニスト」と言わしめる。7番の協奏曲は、ナポレオンの前で披露。

1812年、ベートーベンのヴァイオリンソナタ作品96を初演。

1814年に結婚。だんだん、技能が衰え始める。
有名な24のキャプリス作曲。1825年には、メンデルスゾーンと会うが、
「ロードは、ヴァイオリンに触れることを拒否している」と記している。

出典)『ニューグローブ 世界音楽大辞典』
   『ヴァイオリンの魅力と謎』 佐々木庸一著  音楽之友社

このあとは、バイヨ、ベリオ、ビュータン、イザイと受け継がれていきます。
http://yurikaviolin.jugem.cc/?eid=1051


ヴィオッティー → クロイツエル → ロード

ときましたので、その続きです。あとで気がつきましたが、ヴィオッティーは、モーツアルトと同年代なんですね。なのですが、あまりモーツアルトへ影響を与えた様子はないそうです。


クロイツエルもロードも練習曲で有名な作曲家ですが、もちろんコンツエルトもあります。

クロイツエル8曲  初期はシュターミッツの影響があり、1790年代は、ヴィオッティーの影響が見られます。

ロードは13曲  フランスのバイオリンコンツエルトの典型となり、その後の時代に大きな影響を与える。ベートーベンも尊重したとか。

バイオリンの勉強と言えば、この作曲家という人ばかりを集めようと思ったのですが、 調べていくうちに、バイヨという作曲家も外せない様な気がしてきました。

ヴィオッティ、クロイツエル、ロード、バイヨ、の影響を受けながら、あのベートーベンのヴァイオリン協奏曲が出来上がっているそうです。

そう思って、お互いを聴くと本当にそうだなあと思えてくる箇所もあり。
おもしろいですね。

ピエール=バイヨ  フランス  1771~1842年

パリに生まれる。その後1783年に父親が亡くなりローマに移り住む。
ローマでナルディーニの弟子、ポッラーにの指導を受ける。

10歳のときに、ヴィオッティーの演奏を聴いて以来、いつも心にあるのは音楽のこと。

1802年(ベートーベンが遺書を書いた年ですね)ナポレオンの私設オーケストラに加わり、ロシアなどの演奏旅行に加わる。

1814年、パリでの演奏会でメンデルスゾーン、シュポアは熱狂的に讃える。

パリ古典学派のヴァイオリニストの最後の代表者。その演奏は気高く力に満ちた音色、巧妙な技巧、純粋な高貴な様式によって際立っていた。

パガニーニが、ハーモニクスや左手のピチカート、スタッカートのパッセージを奏でるのを聴いて、バイヨは顔を背けたと伝えられている。
ヴィオッティーの偉大な弟子、ロードとクロイツエルとともに『ヴァイオリン奏法 1814』に顕著に貢献した。

シャルル=オーギュスト=ド=ベリオ 
ベルギーのルーベン生まれ 1802~1870

ヴァイオリン演奏史において重要な位置を占めている。

彼は、パガニーニの卓越した技法を優雅で気の利いたパリ風の様式に適合させた。
ヴィオッティーが確立し、ロード、クロイツエル、バイヨが脈々と伝えてきた、 古典的フランス学派を近代化した。フランスベルギー学派として知られる新しい、本質的にロマン派的な方向を開拓した。

ハーモニクス、左手のピチカート、リコシェ、などベリオの技法の多くは、パガニーニに影響されたもの。その一方で、ベリオに特徴的な甘美で優雅な様式は、初期のエール集(エアバリエ集)やコンツエルト1番に見られる様に、パガニーニに出会う以前の20年代にすでに形成されていた。

彼の演奏は人の心を和らげる温かみがあり、それがハイネをして

「彼の亡き妻の魂がそのヴァイオリンを通して歌っているようだ」

と感嘆せしめた。

旋律は甘く感傷的で、技法的な聴かせどころはパガニーニより易しいが、独創的なきらめきがある。彼の音楽の優雅さと妖精の様な魅力は、新しいヴァイオリン音楽の道を開く一助となり、その様式は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲にも反映されている。

「ヴァイオリン奏法 1858」や、「ヴァイオリン超絶練習曲」など、有益な教本をいくつか残した。 最も有名な弟子には、アンリ=ヴュータンがいる。

あとは、ヴュータン、ヴィエニャフスキ、イザイへと続けばいいのかな?
http://yurikaviolin.jugem.cc/?eid=1053

アンリ=ヴュータン  ベルギー  1820~1881

4歳よりヴァイオリンを始める。28年初め(8歳のとき)

ブリュッセルで数度演奏を行い、そのときに師となるベリオの目に留まる。ベリオは、ヴュータンをパリに伴い、ロードの第7番の協奏曲でデビューさせる。33年、父とともに音楽の視野を広げるために、ドイツで演奏旅行をする。

そこで、シュポアに会い演奏を何度か聴く。

33年から34年の冬に、ウイーンに落ち着き、そこで対位法を学ぶ。

ベートベンと親交のあった音楽家サークルに入る。当時忘れ去られていたベートーベンのヴァイリン協奏曲を知って練習に取りかかり、2週間後に素晴らしい演奏を披露する。

シューマンから、パガニーニに匹敵すると論評される。

パガニーニ(1782~1840)は若きヴュータンの演奏を聴き、彼の輝かしい未来を予言したと記録がある。

ヴュータンは、「ヴィオッティーの協奏曲の壮大な形式と近代の技法上の要求との結合」を目標とした。その努力は、2番の協奏曲として実を結ぶ。パガニーニの影響も見られる。

46年から51年まで、ロシアに滞在し皇帝つきのソリスト、バイオリン教師として過ごす。4番は、このときに作曲される。ベルリオーズは、その後その曲をパリで聴き、「オーケストラと独奏バイオリンのための壮大な交響曲」と呼んだ。

第5番は、ブリュッセル音楽院の「コンクール用の作品」として、完成され、

後にヴィエニャフスキのおきにいりの作品となる。

ベルギーバイオリン楽派の発展に全力を注ぎ、弟子の一人にイザイがいる。

ヘンリク=ヴィエニャフスキー ポーランド  1835~1880

42年秋にパリ音楽院のオーディションに見事な成績で合格。48年に弟とともに、パリ、サンクトベルクと演奏会を成功させる。当時宮廷のソロヴァイオリニストだったヴュータンかえあ称賛を受ける。49年にパリ音楽院に再入学し、和声学を学ぶ。

60年、ジョージオズボーンの姪と結婚。有名なレジェンでは妻に捧げられる。

このころ、アントーンルービンシュタインは、ロシアの音楽状況の改善に力を尽くすことを決意。ヴィエニャフスキは、協力を要請され60年から72年まで、サンクトペテルブルグに滞在。ロシアヴァイオリン楽派の発展に決定的に影響を与える。

エチュードキャプリシス、華麗なるポロネーズ第2番、協奏曲2番はこの頃作曲されている。厳格な批評家、キュイでさえ、友人バラキレフに「私はあの最初のアレグロの衝撃からいまだに立ち直れていない」と書き送った。75年、ヴュータンの後任としてブリュッセル音楽院でヴァイオリンの教授を務める。

パガニーニ後の世代のヴァイオリニストの頂点。彼の演奏は、フランス教育とスラブ人気質が結合して形成された。彼はきらびやかな技巧的難技をたやすく弾いてのけたが、一方聴衆の心を動かし、感涙を誘うこともできた。その音色は情緒豊かな特質が備わっており、凝集力の強いヴィブラートがそれをいっそう高めた。クライスラーは、このヴィブラートについて、「ヴィエニャフスキによって、未踏の高みにもたらされた」と語った。

彼のボウイングは、「言葉で表現しがたいほど硬い」と言われ、若い世代に悪影響を及ぼしていると批判をされたこともあった。実際、当時としてはかなり伝統的な方法を逸脱したもので、右ひじをかなり高く保持し、ひとさし指の第2関節より上で弓を押さえるのである。

腕を完全に硬直させることによって驚異的なスタッカートを奏した。この方法は、ロシア楽派をはじめとする何人かのヴァイオリニストによって取り入れられた。カールフレッシュは、これを「ロシアの弓の持ち方」と称したが、遡ればヴィエニャフスキまでたどれるのである。


作曲家としては、パガニーニの革新的技巧を、ロマン主義的なイマジネーションとスラブ的な色彩感に結合させた。彼のポーランド人としての民族主義はマズルカとポロネーズに顕著に顕われている。第2番の協奏曲は、サラサーテに献呈された。
http://yurikaviolin.jugem.cc/?eid=1056

以前に書きかけていたこのシリーズ、今日で最終回です。

うちに文献社から出ている『THE STRINGS』~伝説の響きをもとめて~というCD全集があるのですが、その付録で「ヴァイオリニストの系譜」という付録がついています。

ずっとこの人とこの人は、師弟関係にあるようだというのを、事典で調べていっただけでしたが、これである程度頭の中がすっきりしました。

ヴィオッティ→ロード→つづく

これと別師弟関係で

ヴィオッティー→バイヨ→ベリオ→ヴュータン→イザイ→パーシンガー(アメリカ)

と、ここでアメリカ人に継承されて、

メニューイン、ルジェロリッチ、アイザックスターン(3人とも同時代)

につながっていく様です。

で、サラサーテはどこかというと、また別の師弟関係で

ヴィオッティー→バイヨ(フランス)→アブネック(フランス)→アラール(フランス)

→サラサーテ(スペイン)


クライスラーは

ヴィオッティ(イタリア)→クロイツエル(フランス)→マサール(ベルギー)→

クライスラー(オーストリアとアメリカ)


ハイフェッツは

ヴィオッティ→ロード→ベーム→ヨーゼフヨアヒム(ブラームスのお友達)→アウアー

(教科書書いてる人@ハンガリー)→ハイフェッツ

ハイフェッツと同時代でジンバリストとエルマンは同じ系列

だそうです。

参考文献:『ヴァイオリニストの系譜』文献社


ということで、最後はイザイで締めくくりたいと思います。

ヴィオッティー→バイヨ→ベリオ→ビュータン→ヴィエニアフスキー→イザイです。

バイヨの次に、ベリオと枝分かれしているダンクラも発見。

エアバリエで、みんなお世話になっていますね!


ウジェーヌ=オーギュスト=イザイ(1858~1931)ベルギー

指揮者、作曲家、ヴァイオリニストであった父に4歳からヴァイオリンを習う。

ブリュッセル音楽院で、ヴィエニフスキに師事。76年、病気でやや回復したヴュータンがパリで少数の生徒を受け入れることになり、イザイは即座に弟子になった。

3年間ヴュータンのもとで勉強。レッスンでは、テクニックよりも「美学的助言」を受けたという。

82年には、ピアニストのルービンシュタインとスカンジナビアを回り、その後ロシアでもコンサートを行った。イザイはルービンシュタインから多くのことを学び、「演奏の真の師」と呼んだ。

83年から86年までパリに住み、フランク、ショーソン、フォーレ、サンサーンス、ドビュッシーらと親交を結ぶ。

イザイは彼らのヴァイオリン音楽の熱心な演奏者となり、多くの曲を献呈される。

フランクのソナタ、ショーソンのポエム、ドビュッシーの弦楽四重奏など。

その後12年間、ブリュッセル音楽院でヴァイオリンの教授を務める。

その後イギリス、アメリカでも演奏。

シンシナティー交響楽団で指揮者も4年間務める。ドイツ志向であったレパートリーに、フランスベルギーのレパートリーを多く取り入れ、大成功をおさめる。

ブリュッセルに帰り、病気などで衰弱していたが、最後のコンサートに迎えたソリストは、カザルスだった。


カールフレッシュによれば、イザイは「今まで聴いた中で最も傑出した個性的なヴァイオリニスト」だったらしい。

イザイに心酔した世代のヴァイオリニスト

クライスラー、ティボー、シゲティー、エネスコなど多くの人々に共通のものである。

ヴュータンとヴィエニフスキの伝統を現代化し、20世紀のヴァイオリン演奏のパイオニアとなった。ヴィニアフスキ風の強烈なヴィヴラートを完成し、独特の音色を作り出した。それを見事に取り入れたのがクライスラーだった。

イザイの出す豊かな音は、親指と真ん中の3本の指だけで、鉄の様に硬く弓を握りしめることから生まれていた。フレッシュは、この弓の持ち方は正しくないと思っていたが、やはり晩年弓のコントロールが十分にできなくなった原因となった。


イザイの音楽的成長は一つの上昇線を描いていた。

最初はヴィルトゥオーゾ風のレパートリーを身につけ、フランスの作曲家と接触して成長し、最後に古典に対して、見事な解釈を示すに至った。

31歳になるまでベートーベンの協奏曲を弾かず、40歳までブラームスの協奏曲に取りかかっていない。


1937年、ウジェーヌ・イザイ国際コンクールがブリュッセルで創始。

現在のエリザベート王妃国際コンクールで、初代の優勝者はダビードオイストラフだった。

イザイの演奏したCDを聴いたのですが、クライスラーに似てるなあと思っていました。
それは逆さまで、クライスラーがイザイの真似をしたんですね。
http://yurikaviolin.jugem.cc/?cid=47


ユーディ・メニューインという天才ヴァイオリニストがいました。10代前半でベートーベン、ブラームス、バッハの協奏曲をオーケストラと共演するほどでした。

その10歳そこそこのメニューインは母親に連れられて当時の巨匠、ウジェーヌ・イザイの元にやってきました。ウジェーヌ・イザイはヴァイオリンの皇帝といわれたほどの巨匠でした。当然多くの若き天才ヴァイオリニストが皇帝の下にレッスンを受けにやってきました。

イザイは幼少のメニューインがブラームスやチャイコフスキーの協奏曲を非常な完成度で演奏できることには関心を示さず、まず、3オクターブの分散和音を弾いてほしいといいました。

メニューインはこれができなかったのです。これでレッスンは終了で親子は逃げるようにイザイの元を去っていったと伝えられています。ヴァイオリンの愛好家であれば後年のメニューインの演奏がどうであったか知っていると思います。
http://uae-ivr.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html

生まれながらの資質だけでパガニーニ、サラサーテの難曲を煙の如く弾き去ってしまう天才少年の後ろ姿に、世間の評判とは裏腹の

「ヴァイオリニストとしての将来性はない。もう手遅れだ」

と痛烈な烙印を押したのは巨匠イザイである。 師として彼にヨーロッパ音楽の伝統を伝授したエネスコもブッシュも、メニューイン坊やの天与の資質に目をくらまされて、彼がヴァイオリンという楽器を生涯の友とするために不可欠な職人的基礎訓練(例えば音階とアルペジオ奏法の完璧な習得)を欠いているということに気付かなかった。

同じユダヤ系でも、ハイフェッツやミルシテインなどのロシア学派(レオポルド・アウアー門下)は、生涯にわたり「世紀のヴァイオリニスト」として栄光を保ち続けた。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/53255821.html


広義の意味で、ゴシック時代のヨーロッパに存在したフィドルと呼ばれる擦弦楽器に、ヴァイオリンの原型を求めていくのは現実的でないとしても、1550年代にはほぼ完成されたヴァイオリンという楽器が誕生しており、そこからヴァイオリンの歴史は始まっているわけです。ただし、演奏家としてのヴァイオリニストの存在・・・これは宮廷お抱えの限定的な存在から、一般聴衆を対象にした演奏活動へと変わっていったことが、今日のヴァイオリニストの基礎、系譜をほぼ形づくったと見て差し支えありません。

そうすると、パガニーニは絶対に抜かせません。そして、もう一方は演奏者の立場としてブラームスなど大作曲家たちにも影響を与えた

ヨーゼフ・ヨアヒム → アンリ・マルトーの流れ。

サラサーテやイザイも落とせない。

ヴァイオリニストの系譜を考えるときに、絶対に忘れてはならないことの一つは流派です。


上記ヨアヒムの奏法・・・ドイツの音楽のメイン・ストリームとなる流派

アンリ・ヴュータン(パガニーニの影響)、ヴィエニアフスキから派生するフランス・ベルギー派・・・

ここの巨人はイザイで、マルティン・マルシックを通じてティボーやエネスコといった大巨匠に受け継がれていくもの。

あるいは、そうそうたる門下生を持つイエネー・フバイはヨアヒムとヴュータンの両派。


ロシア流派・・・ペテルブルク方式といわれるボウイングの創始者=レオポルド・アウアー(ハイフェッツやミルシテイン、ジンバリストなどはこの門下)。


そうしてもう一つのヴァイオリン教則の手本、ドイツのカール・フレッシュ。


なおクライスラーについては、この意味で、当時のドイツ語圏で主流だったヨアヒムの奏法を継いでいない異例の演奏家でもあります。

ヴァイオリンの歴史を語る歴史書となれば、上述の名前、これが基本スタンスだろうと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441173509?fr=rcmd_chie_detail


ハンガリー出身のヴァイオリニスト

 ハンガリー出身の音楽家で、すぐに連想する巨匠連は、なんと言ってもヴァイオリンの分野になりましょう。


 (1)ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)


 (2)レオポルド・アウアー(1845~1930)
    門下生:エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツ、ミルシュテインなど


 (3)エノ・フバイ(1853~1937)
    門下生:シゲティ、ヴァルガ、ヴェチェイ、マルツィ、テルマニー、
        レナー、オーマンディ、エレナ・ルビンシュタイン、ジェルトレル、
        セイケイ、アイターイ、ガイヤー=シュルティース、
        フランシス・ダラニー、エルダリングなど。
    この一連の人脈は、「ハンガリー・ヴァイオリン楽派」と呼ばれる。
 

 (4)カール・フレッシュ(1873~1944)
    門下生:ジネット・ヌヴー、イダ・ヘンデル、ヘンリック・シェリング
        シモン・ゴールドベルグ、イヴリー・ギトリス、マックス・ロスタル
        ヨーゼフ・ボルスタール、アルマ・ムーディなど


 (5)ヨゼフ・シゲティ(1892~1973)
    日本人の門下生:海野義雄、潮田益子、前橋汀子など
      (出典:BEEHIVE楽師「ヴァイオリンとヴァイオリン音楽」
          平成15年7月 敷島工藝社出版 私家本)


 これだけ見ただけで、まさにヴァイオリニストは「ハンガリー人がすべて」であるような大変な人脈です。
http://freett.com/ncnycy/disc-sp-10-4.html
2:777 :

2022/07/21 (Thu) 18:07:13


レオポルト・アウアー(1845年6月7日 - 1930年7月15日)ヴァイオリン教育者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14024618

イェネー・フバイ(1858年9月15日 – 1937年3月12日)ヴァイオリン教育者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14024619

カール・フレッシュ (1873年10月9日 - 1944年11月14日)ヴァイオリン教育者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14024572

イヴァン・ガラミアン(1903年1月23日 – 1981年4月14日)ヴァイオリン教育者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14024745

ドロシー・ディレイ(1917年3月31日 - 2002年3月24日)ヴァイオリン教育者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14024747
3:777 :

2022/07/21 (Thu) 18:22:05


ヴァイオリニストの系譜――パガニーニの亡霊を追って 三浦 武
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14026009
4:777 :

2022/07/24 (Sun) 11:03:54

あげ6365
5:777 :

2022/08/01 (Mon) 16:47:59

あげ77777

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