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クリングラー弦楽四重奏団 _ カール・クリングラー(1879.12.7 - 1971.3.18)

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2022/07/21 (Thu) 03:37:44

クリングラー弦楽四重奏団 _ カール・クリングラー(Karl Klingler, 1879.12.7 - 1971.3.18)

ベートーヴェンの時代の音を伝えるクリングラー四重奏団


カール・クリングラー(Karl Klingler, 1879.12.7 - 1971.3.18)

ストラスブール音楽院教授だった父にバイオリンを学び、5歳から演奏活動を始めた。1897年からベルリンでヨアヒムに師事し、同時にブルッフに作曲を学んだ。1903-35年ベルリン音楽院教授。1905年には自身の名の弦楽四重奏団、1906年からはヨアヒム弦楽四重奏団のビオラ奏者、ヨアヒム死後はバイオリンパートを演奏した。


Klingler Quartet, Beethoven, Op.18 No.5 (Historical Recording, 1911)
https://www.youtube.com/watch?v=pile0upUa50

Karl Klingler, 1st violin
Josef Rywkind, 2nd violin
Fridolin Klingler, viola
Arthur Williams, cello

Rec. 1911
ODEON 7267 - xxB 5547, xxB 5548, xxB 5549


Beethoven String Quartet No. 5 ~Menuetto & Andante cantabile~(rec1911)
https://www.youtube.com/watch?v=bjrp8Jb5EPU

2nd movement Menuetto
3rd movementAndante cantabile

date 1911

1st violin Karl Klingler
2nd violin Josef Rywkind
viola Fridolin Klingler
cello Arthur Williams

Klingler Quartet





Klingler Quartet | Beethoven: Op.130, "Alla danza tedesca" (1912)
https://www.youtube.com/watch?v=c6qOplMXWio

Karl Klingler, 1st violin
Josef Rywkind, 2nd violin
Fridolin Klingler, viola
Arthur Williams, cello

Historical Recording: 1912



Klingler Quartet plays Mozart K428 Menuetto
https://www.youtube.com/watch?v=lfG-LVZxWIA

Recorded for Odeon, 1912/13.



Beethoven String Quartet No. 12 (rec1935)
https://www.youtube.com/watch?v=6XhzEtcMWSA

date 1935

1st violin Karl Klingler
2nd violin Richard Heber
viola Fridolin Klingler
cello Ernst Silberstein

Klingler Quartet




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クリングラー四重奏団のベートーヴェン

 写真は伝説的ヴァイオリニスト、ヨゼフ・ヨアヒムである。ヨゼフ・ヨアヒムはベートーヴェンによって絶賛されたヨゼフ・べームの高弟であり、そのべームと肩を並べて四重奏を行なった経験を持つという。

 ヨアヒムはベートーヴェン直伝の奏法を体現した人物の一人であり、ウィーン・ヴァイオリン楽派の開祖である。ヨアヒムのカルテットにはヴィオラ奏者としてカール・クリングラーなる人物がいた。ヨアヒムからベートーヴェン直伝の奏法を汲み取った数少ない演奏家のひとりであり、世界最古のベートーヴェン録音を残すことになる。

 カール・クリングラーはクリングラー四重奏団を結成し、1911年に機械録音で作品18-5の二楽章と三楽章を録音した。ベートーヴェンが没して84年後の録音であり、ヨアヒムはこの録音の4年前に世を去っている。

 この録音は現在Testamentが発売している「クリングラーSQアンソロジー」の中には収録されていない。何ということだ!聴きたい!と地団駄を踏んでいたのだが、偶然入ったレコード店(CDショップではない)で、隅のほうに埃をかぶっている新星堂盤を見つけた。そこにはこの二曲のほか、1912年に録音された作品130の四楽章、そして1935年に録音された作品127の全楽章が収録されている。

 音質は覚悟していたのだが(ふにゃふにゃの音だろうと)、思った以上に生々しく鮮明だ。竹やぶの燃える音の中から妙なる楽音が響く。SP初期であるから仕方がない。しかし、この高貴な音はどうだろう。ぴんと張り詰めた高音のきらめきに、繊細なポルタメントがかかる。大時代的な演奏ではなく、あくまで端正に演奏されている。「これがベートーヴェンに一番近い録音だ」と思うと感慨が深い。
 
 作品127になると、もうSPの録音も完成されているために、凄く良い音がする。一楽章は何の思い入れも劇的表情もつけず、あっさりと速いテンポで導入。端正にきびきびと運ぶかと思えば、ぐっと旋律の終りでリタルダンドし、寄せては返す波のような心地よい流れを生む。格調高い高雅な響きにしっとりとしたポルタメントをかけ、何ともいえない風情を残す。

 二楽章は、この演奏ではじめてこの楽章の素晴らしさがわかった!何という神々しさだろう。脱俗の境地そのものの音空間が広がる。クリングラーのヴァイオリンの美しさ!作品132の長大な緩徐楽章よりも洗練され、磨き上げられた音楽だと思わせるほどだ。

 三楽章冒頭のピッチカートからして他の演奏と全く違う。別世界が現出するのだ。天の世界で天使達と遊ぶような気持ちになるや、高雅な響きだけではなく、ずっしりとした音のドラマが展開されていく。雄弁この上ないベートーヴェンの音楽が最高に美しく奏されている。

 終楽章の主題が面白い。ここでも途中でテンポを波立たせるのだ。個人的な好みで言えば、ここはすっきりと演奏するほうが良いように思うのだが、これがクリングラーの味なのだろう。

 参考までに演奏時間を載せておく。
1st 7'20'' 2nd 16'31'' 3rd 7'17'' 4th 7'34''
 
 私はこれまで作品127がそれほど好きではなかった。第9の後に書かれた弦楽四重奏といえども、なぜ13番以降の傑作と同じ高みにあるものとして扱われるのかと不思議でならなかった。しかし、今は違う。クリングラー四重奏団の二楽章を聴いてしびれてしまった。こりゃあ、すごい。

 昔のカルテットを聴くと、くつろいだ気持ちになるのはどういうわけなんだろう。SPやLPを気軽に聴くことができれば、私はどんどんこの道にはまりそうだ(泣)。
http://kitakentobeethoven.blog.so-net.ne.jp/2007-12-15


▲△▽▼


クリングラー弦楽四重奏団/録音集(1912年~1936年)/グスタヴ・シェック(fl) [TESTAMENT SBT 2136]

ヨアヒムと弦楽四重奏を組んだクリングラー―当時はヴィオラを担当―はヨアヒムSQの伝統を継承する生き証人であり、19世紀の弦楽四重奏団の姿を伝へる貴重な記録なのだ。

録音は3種類に分類出来る。1912年と13年のオデオン録音と1922年と23年のヴォックス録音は、全て楽章単位の録音である。真摯なメンデルスゾーンやシューマンの演奏には聴くべきものがある。侘びたモーツァルトやケルビーニにも面白みがある。

しかし、録音としての価値は電気録音である1935年と36年のエレクトローラ録音にある。ベートーヴェンとレーガーのセレナードの全曲録音で、両曲ともフルートを伴ふ三重奏だ。滋味豊かで気品のある演奏はドイツ・ロマンティシズムの粋を聴かせる。(2008.4.11)

クリングラー弦楽四重奏団/録音集(1912年~1936年) [TESTAMENT SBT 2136]

再びクリングラーSQを聴く。2枚組の2枚目。最後期の録音であるエレクロトーラへの録音より、レーガーの弦楽三重奏曲とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番が聴け、クリングラーSQの真価を確認出来る。

クリングラーSQはスラー・ボウイングを用ゐず短いブレーズによるアンサンブルを優先してゐるのが特徴だ。トーンの均一性を重視し、高貴なロマンティシズムを醸し出すヴィブラートは練り込むやうにゆるりとした速度で掛けられ、ブッシュSQとの類似点を感じさせる。

レーガーは晦渋さと幻想性を融合させた極上の名演で、渋みのある語り口が見事だ。大曲ベートーヴェンにおける老巧で深みのある表現はブッシュSQと比べても遜色ない。余白に収録されたハイドンのラルゴはクリングラーSQの禅定の境地を聴かせて呉れる絶品だ。(2008.5.17)
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/chamber.html

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なんと1904年のティボーのものだという音源がネット上にありました。

この盤、普通の蓄音機ではかかりません。どうやって再生したんだろう。


ところで、パルテータ3番のプレリュード。

あなたの演奏はエネスコのように シ ミ 強調 (あってるかな?)

で弾いていましたね。

いろいろな音源からエネスコが気に入ったのでしょうか?

ガボットとかほかの曲はまだ個性的というところまでは達してはいませんでした。

これはいろんな版や日本とドイツでの教育の誤差なんかで混乱してるという発言もあって、どうしたらいいのかなぁ。の段階なんでしょう。

秘数術の話も出て、バッハの隠しメッセージを知らないで演奏することへの抵抗もあるんでしょうね。

実は日本でも八卦の占いの方が「日本書紀」を八卦で読み解く。という記事を書いています。

ttp://www.maroon.dti.ne.jp/uqmk/k_e/index.html

古事記となっていますがテキストは日本書紀のようです。

わたしはこれはかなり当たってるところとそうでないところが混在してると思いますが大変面白い記事です。

世界中に秘数術はある…いや元々は八卦なんでしょうね。

でも、秘数術を極めなくても自分なりに演奏してみてはどうでしょうか?

いつぞや名古屋でちょっとやってみたように。

あれはかなり面白かったですョ。


たとえば、このあいだ載せたヨアヒムのバッハは決して単旋律志向の演奏ではありませんがそんな批評をしてる人がいます。

今のバッハ演奏はポリフォニーだからヨアヒムのは駄目だというんですね。

あの曲は大体ほとんどが単旋律だからあたりまえなのに…。

ブラームスは「バッハは旋律がひとつに繋がるからすごい。」と言っています
まあ美しいメロディが続かないブラームスらしい発言ですが…。

こんな批評が目立ってヨアヒムについて誤解されると困るなぁ…。

ロゼーの頃からほとんど今の演奏様式と変わらないと思います。
ロゼーより古い世代は ヨアヒム イザイ クリングラーなどでしょう。
イザイは当時の今風のヴィブラートも取り入れていますがノンビブラートでなんでも弾けたでしょうし地味なグラッベリみたいな指ビブラートをかけてますね。

私はミルシティンのバッハが好きですが、いまや聴く人少ないのかなぁ。

会場もシェリングかハーンあるいはマルツィ…(笑)

シェリングからハーンは同じ系統です。すべての音をひとしなみに出す。

いかにも技が冴えたように聴こえやすい。

ハーンは技巧は素晴らしいが解釈ではラクをしてると思うな。

ミルシティンはもっと繊細に必要な音を選んで少しだけ優遇してます(笑)
(あなたの名古屋のバッハはとても面白い声部を優遇してましたね。)

コンクールでシェリング冷遇は審査委員の大人の事情でしょう。

演奏の歴史なんかは学ばないといけませんが知識は知識として、自分なりに読んで自分なりに演奏すればいいと思いますよ。

エネスコが気に入ったのでしたら、そのままコピーではなくエネスコがなぜそんなふうに演奏したのかを考えて自分なりに演奏する。

残念ながらもうエネスコに習うことは出来ませんから。

G線上のアリアはフラウタンドですか?

なかなかいい音がしてました。あとはどこをシャキッっとしめてフーベルマンのように端然とした演奏とするかですね。

これもレコードにするに足りる人は現代にはなかなかいません。

私にとっては大変な曲ですがプロは簡単に弾いちゃうと思います。
秋のロンドンデリー。ポルタメント楽しみにしています。
http://teokuredesu.seesaa.net/article/218036136.html
2:777 :

2022/07/21 (Thu) 03:45:21

カール・クリングラー(Karl Klingler 、1879年12月7日 - 1971年3月18日)は、ドイツのヴァイオリニスト、コンサートマスター、作曲家、音楽教師、講師。[1][2]

生涯

初期
カール・クリングラーは当時ドイツにあったストラスブールで、両親の6人の子供のうち5番目として生まれました。父親のテオドール・クリングラー(1845年 - 1905年)はプロのヴィオラ奏者で、音楽院で教鞭を執っていた。クリングラーはまだ幼い頃、父親からヴァイオリンのレッスンを受けており、その後、音楽院の父親の同僚であるハインリッヒ・シュスターからヴァイオリンのレッスンを受けていた。クリングラーは5歳でコンサートを始めた。1897年、ストラスブールでの学校教育を終えたとき、彼はベルリンに引っ越し、ベルリンの芸術大学(「ベルリン・キュンステ大学」/UdK)の学生であり、17歳になった彼は、感動的な教師であり、すぐに個人的な親友であるヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリンを学んだ。作曲についてはマックス・ブルッフとロバート・カーンに教えられた。1899年、まだ19歳でメンデルスゾーン国立作曲賞を受賞。[4]

初期の成功
1901年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に入団。1904年(またはそれ以前)に彼はオーケストラの副コンサートマスター「ツヴァイト・コンツェルトマイスター」に任命され、アーサー・ニキッシュの下で働いた。同時に、彼はクリングラーの友人で元教師のジョセフ・ヨアヒムによって1869年に設立された「ヨアヒム四重奏団」でヴィオラを演奏していました。そのため、彼はまだ20代前半でベルリンのトップミュージシャンの間で高い知名度を獲得しました。さらに、まだ23歳でしたが、1903年に彼は大学でバイオリンのクラスを引き受け、1908年に彼は正規の教職に任命され、1910年に「プロイセン王教授」(ヨーゼフ・ヨアヒムの後任で)の正教授になりました。 第一次世界大戦中の兵役によってのみ破綻したクリングラーのUdKでの教職は30年以上続き、1936年に終了した。演奏と教育に加えて、彼はまた、1907年にベルリンフィルハーモニー管弦楽団と初演されたホ長調の歌、室内楽、ヴァイオリン協奏曲を制作し、作曲に才能を向けました。[2]

彼はまた、何年も前にヨアヒムが所有していたストラディヴァリウスのヴァイオリン「De Barreau」(1714年)を手に入れることに成功しました。戦前の数年間、彼は批評家から熱烈な評価を受けており、特に1911年にはウェールズのチェリスト、アーサー・ウィリアムズとガリシアのピアニスト、アルトゥール・シュナーベルとのベートーヴェンの三重協奏曲の演奏で熱烈な評価を受けていた。[6]

彼のキャリアは、1914年7月の第一次世界大戦の勃発によって中断されました:彼は兵士として戦うために召集されました。戦争の終わりに向かって、彼は軍隊を支援するために音楽の仕事に移ることができました。彼はソフィエン通り(現在のベル通り)の自宅で、コルンゴルト、ヴィルヘルム・ケンプ、エミール・フォン・レズニチェクなどの仲間の音楽家と定期的に音楽の夜を手配しました。1917年、彼は裕福な銀行家・貴族アルトゥール・フォン・グウィナーの娘マルガレーテ・フォン・グウィナーと結婚した[de]。この結婚により、アーサー、ヴォルフガング、マリアンヌ、シャーロットの4人の子供が生まれ、1918年から1926年の間に生まれた。[2]

鈴木真一
1920年、クリングラーは鈴木真一という日本の若い音楽家に探されました。その後の8年間、クリングラーは鈴木に教え、最初の4年間はエチュードと協奏曲をカバーし、その後の4年間は室内楽をカバーした。クリングラーは、普段は私立の授業料にまで活動を広げないことを知ったので、鈴木は唯一の私立の弟子となった。このように、クリングラーは鈴木のヴァイオリン教授法に直接的かつ肯定的な影響を与えた。

ナチス時代
1933年1月のレジームの変更は、ドイツに新しい侵入的なスタイルの政府を導きました。過去10年間にナチスのプロパガンダの特徴であった人種差別主義と激しい反ユダヤ主義は、今や漸進的かつ急速に日常生活に統合されました。クリングラーはナチスの態度に自然に惹かれるわけではなく、1933年には芸術大学で「ハイル・ヒトラー」の挨拶を交わす習慣を身に付けていないと教えていました。彼の妻は「半ユダヤ人」(「ハルビュディン」)と特定され、彼自身は「ユダヤ人の造幣」(「ユディッシュ・ヴェルシプト」)として識別され、これは彼のユダヤ人の教師、偉大なヨセフ・ヨアヒムへの言及であった可能性がある。それにもかかわらず、彼はナチスの乗っ取り後数年間、音楽の公的なキャリアを維持することができました。彼はドイツ文化のための戦闘連盟(Kampfbund für deutsche Kultur (KfdK))の活動に参加しました。彼はリヒャルト・シュトラウスによって、ライヒスムシッカンマー(「国立音楽室内楽」)の上級管理職に採用されました。「ドイツコンサートアーティスト連盟」の元会長として、彼はこれらの機関や他の文化ベースの機関の政治化された音楽政策に精通していたに違いありません。[4]

音楽界で職に就いていたにもかかわらず、クリングラーは政治的圧力の高まりにさらされた。その好例が、クリングラー弦楽四重奏団のメンバーだったチェリストのエルンスト・シルバーシュタインでした。クリングラーは大衆啓蒙大臣ヨーゼフ・ゲッベルスから一連の警告と脅迫を受けたが、これはおそらくナチス・ドイツの音楽管理者トップであったヘルベルト・ゲリグクからの連絡に裏付けられたものである。ユダヤ人のチェリストは置き換えられなければなりません。クリングラーは、1934年3月にヒンデンブルク大統領が立ち上げた音楽イベントで、短いながらもアドルフ・ヒトラーと実際に会っていたが、1934年11月22日付の手紙をアドルフ・ヒトラーに宛てて個人的に手紙を書き、指導者がユダヤ人のチェリストを含むクリングラー四重奏団の芸術的およびドイツ的資質に感謝することを望んでいた。シルバースタインは、国家文化庁によって発行された一連の「特別許可証」のおかげで、公共啓蒙省からの反対にもかかわらず、1936年3月17日に最後の登場までカルテットでチェロを演奏し続けました。それにもかかわらず、1933年から1936年の間に、カルテットの演奏数は大幅に減少し、収益は1933年以前よりも不安定でした。[4]

1936年3月9日、数人の学生の前で、クリングラーは彼の(ユダヤ人の)師ジョセフ・ヨアヒムの胸像が取り除かれたことを発見したとき、大学で抗議しました。この時点で大学経営陣は早期退職を提案しました:「健康上の理由」での彼の引退は1936年4月7日に受け入れられました。1936年5月1日から終戦までの間、彼はささやかな公務員年金を受け取っていた。おそらく大学長のフリッツ・スタインの勧めで、クリングラーは引退直後に妻と娘たちと海外に出て、アローザに数ヶ月間滞在し、後に娘のシャルロット・フォン・コンタスが共有した回想によると、彼は認識されないようにひげを生やした。[4]

ドイツに戻り、渡航禁止令で従軍した彼は「国内移住」に入った。彼は作曲に身を捧げることができ、合唱団、ソリスト、ピアノのための大きな作品を制作しました。彼は物理学者マックス・プランクと友情を結び、二人は幾何学の特定の問題について深い議論を交わした。[2] それにもかかわらず、クリングラーは公的な生活から完全に書き出されたわけではない。1938年1月、兄のフリドリン・クリングラーとフラウト奏者のグスタフ・シュチェックとトリオで、ブレーメン・フィルハーモニー協会が主催した室内楽の夕べで演奏した。1940年5月、彼は国家文化庁から「芸術的根拠」に関する「特別許可証」を発行されましたが、その許可が何のためにあったのかは、現存する情報源からは明らかではありません。[4] ある情報源には、彼が「非常に必要とされていた軍隊の娯楽に使われた」という言及がある。[9]

1943年、ベルリンの家族の家は空襲によって居住不能になり、クリングラー一家は1931年に父親が亡くなった後、マルガレーテが相続したオスターブルク(アルトマルク)のすぐ外にあるクルムケの小さな田舎の不動産に恒久的に引っ越しました。彼らがここに住んでいる間、カール・クリングラーの机はゲシュタポによって捜索され、彼は彼の友人マックス・プランクとエーリッヒ・ヴァグツについて尋問されました。彼のアドレス帳は押収された:それは彼の友人の息子アーウィンプランクの連絡先の詳細を含んでいた、彼はこの頃、指導者を暗殺する広く報道された陰謀に関与したために死刑判決を受けた。元地方政府職員の証言によると、クリングラーの郵便物はクルムケに住んでいる間、警察の監視下に置かれていた。戦争が終わりに近づくにつれて、彼は「飛行の危険」として特定されたため、ゲシュタポの逮捕状の対象となったが、戦争が終結すると、1945年5月に正式には、その地域が連合軍によってオーバーランされる前に令状を執行することができなかった。[4]

黄昏の年
戦争が終わると、クルムケの家族の家は徴用され、最初にアメリカ兵を収容するために、次にイギリス兵を収容するために、明け渡さなければならなかった。1945年6月までに、この地域はソビエト占領地域の一部として管理されていました。田舎の不動産は1945年の土地改革の後援の下で永久に没収され、結核療養所として使用するために変換されました。クリングラー一家は、家具や必需品を救出し、小さな森の家に少しの間引っ越した。6月、彼らは何とか近くのガルトウに向かい、フォン・ベルンストフ家が所有する家に収容されました。1ヶ月後、彼らはハノーファーの南側にあるキルヒローデに到着し、そこで捕虜としての任期から最近釈放された息子のヴォルフガングと再会しました。クリングラー家のもう一人の息子アーサーも生き延びていた。ハノーファーではカール・クリングラーがクリングラー弦楽四重奏団を改革するために元学生、アグネス・リッター、フリードリヒ・ハウスマン、オットー・ガルヴェンスを募集したが、この頃にはカール・クリングラー自身は定年を過ぎていた。[2]

1949年秋、カール・クリングラーは家族とともにハノーファーからミュンヘンに引っ越しました。彼はまだ室内楽を書くことができ、音楽をテーマにした散文本も出版しました。エルンスト・シルバーシュタインはアメリカ合衆国に移住し、文通を続けたが、二度と会うことはなかった。カール・クリングラーは1971年3月18日に91歳の誕生日を迎えてから数ヶ月後に亡くなりました。死の直前まで、彼は妻と定期的にソナタを演奏し続け、家族や友人と室内楽を演奏し続けました。[2]

クリングラー四重奏団
クリングラー四重奏団は、伝説のヨアヒム四重奏団の音質と音楽スタイルを再現し、維持するという明確な目的で1905年に設立されました。ヴァイオリニストはカール・クリングラー自身とロシア人のヨーゼフ・リューキンドでした。カール・クリングラーの弟フリドリンがヴィオラを演奏し、「チェリストはウェールズ人のアーサー・ウィリアムズでした。ウィリアムズの師匠で長年ヨアヒム四重奏団で演奏していたロバート・ハウスマンもアドバイザーとして採用され、クリングラー自身と共に、四重奏団のアプローチはヨアヒム四重奏団のアプローチに忠実であり、細部に至るまで忠実であることを確認した。第一次世界大戦中、カルテットは4人のメンバーのうち2人がドイツと戦争していた国から来たため、解散しなければならなかった。[10]

1918年に平和が戻った後、クリングラーはクリングラー四重奏団の伝統を再開し、現在はリチャード・ヒーバーとマックス・ボールドナー[de]がチェロを演奏して第2ヴァイオリンパートを取った。バルドナーの席は1926年にフランチェスコ・フォン・メンデルスゾーンによって取られた。ヨアヒム四重奏団が、その音色とスタイルの特質から世界でも有数の強力な四重奏曲の一つとして特定されたように、その精神的な後継者であるクリングラー四重奏団は、当時の最高の録音のいくつかを制作することによって、その地位を確認した。[12]

ナチス時代は、「チェリスト」の席に別の「非アーリア人」を見つけました。ヒンデンブルク大統領の招待で、1934年3月、「チェリストのエルンスト・シルバーシュタイン」を含むクリングラー四重奏団は、アドルフ・ヒトラーの前で演奏しました。1936年、クリングラーはシルバーシュタインを「アーリア人」のチェリストに置き換えるよう圧力に屈することを拒否し、今や世界的に有名なクリングラー四重奏団は代わりに「辞任」した。[4]

ナチスの12年間が終わった後、クリングラー四重奏団は生まれ変わり、クリングラーと3人の元弟子、アグネス・リッター、フリードリヒ・ハウスマン、オットー・ガーフェンスが登場しました。しかし、クリングラー自身が定年を過ぎたため、カルテットは戦前の伝統に合わせることができませんでした。[10]

遺産
室内楽はカール・クリングラーの芸術的遺産の焦点を構成しています。これは、とりわけ、1905年から1936年の間にクリングラー四重奏団によって制作された録音から明らかであり、中期とベートーヴェンの後の弦楽四重奏を中心に構築された古典的なコアレパートリーを特徴としていますが、より最近の作曲家、特にマックス・レーガーにも広がっています。解釈の面では、クリングラーの目的は、ヨアヒム四重奏団によって確立された資質と伝統を継続することでした。批評家のアレクサンダー・ベルシェは、カルテットを「私たちの時代の数少ない本物のベートーヴェン通訳者の一人」(eines der "wenigen echten Beethoven-Interpreten unserer Zeit")と表現し、彼が成功したと信じていました。クリングラーのエッセイ「ヴァイオリン演奏の基礎について」("Über die Grundlagen des Violinspiels")が1990年にいくつかの追加テキストとともに再出版された後、彼が出版した楽譜版のほとんどはブラームス四重奏団のものでした。ピアノ五重奏曲変ホ長調を含む彼自身の室内楽作品のいくつかは、作曲家の生涯の間に出版され、いくつかは再リリースされました。1979年以来、マリアンヌ=ミゴー・クリングラーが父親を称えるために設立したカール・クリングラー財団は、弦楽四重奏音楽を支援するための奨学金を提供してきました。[4]

カール・クリングラー財団
カール・クリングラー財団は、クリングラーのかつての弟子である鈴木真一が開発した鈴木法[7]を適用し、弦楽四重奏を支援し、弦楽奏者の早期育成を促進するために1979年に設立されました。カール・クリングラーの娘、マリアンヌ=ミゴー・クリングラー[de](1922-1991)が財団を設立し、初代会長を務めた。[14]

この財団は、(1)早いスタートを切れば、(2)より良い方法に基づいて授業料を受け取り、(3)より良い教師から受け取った場合、すべての子供たちがバイオリンを弾くことを学ぶことができるという鈴木の根底にある教訓を提示するための手段を提供します。さらに、人類への奉仕は芸術的努力の最高の使命であり、最高の目的であり、人間社会の改善は常に財団の目標の中心になければなりません。[7]

最初のカール・クリングラー弦楽四重奏コンクールは、1979年、1981年、1983年にハノーファーで開催されました。受賞した参加者には、ドイツのケルビーニ四重奏団、シュトゥットガルト四重奏団、マンハイム四重奏団、イギリスのグアダニーニ四重奏団とフェアフィールド四重奏団、ルーマニアのヴォーチェス四重奏団が含まれていました。奨学金はドイツのオーリン四重奏団とポーランドのヴォーチェス・アカデミア四重奏団に授与されました。[15] 数年の休憩があった。第6回コンクールはベルリンの現在のハンス・アイスラー音楽アカデミーで開催され、受賞者はドイツのクス四重奏団とフランスからはヨハネス四重奏団とディオティマ四重奏団でした。[15]

https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Klingler
3:777 :

2022/07/21 (Thu) 18:45:51

あげ3469
4:777 :

2022/07/24 (Sun) 19:44:48

あげ9997
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/20 (Fri) 20:06:55

Der Klang vom Theater (ドイツ~劇場の音と音楽)
作曲当時の演奏スタイルと言ったって実は、最新の解釈じゃ無いのか?と考えたんだけど
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-540.html#comment

Ludwig van Beethoven (1770-1827) 独 作曲家

没年は幕末の文政年間
むかーしのえらい音楽家先生  音楽室の壁に難しい顔をした肖像画がかかっている事で有名

Joseph Böhm (1795-1876) 澳 ヴァイオリニスト 音楽教師

没年は明治の中頃
ベートーヴェンの音楽仲間  弦楽四重奏曲 第12番の初演時(正確には1ヶ月後の2回目)のメンバー
交響曲 第9番の初演時にもオーケストラに加わっていた
ウィーン音楽院の初代学長 弟子にヨーゼフ・ヨアヒム他 多数

Joseph Joachim (1831-1907) 洪 ヴァイオリニスト  音楽教師

没年は明治末
ブラームスのお友達、後にちょっとケンカする。でも仲直り。ヴァイオリン協奏曲の初演者
ベルリン高等音楽学校の校長 弟子にカール・クリングラー他 多数

Karl Klingler (1879-1971) 独 ヴァイオリニスト

亡くなったのは・・・つい先日だ、長生きだったねえ
ヨアヒム・カルテットのヴィオラ奏者

後に「クリングラー・カルテット」を結成
1911年(ベートーヴェンの没後84年)にOp 18-5を録音する

_DSF1417_convert_20210602161509.jpg

そのクリングラー・カルテットの1911年録音が収録されたCD
子供の頃のイメージだとベートーヴェンなんてはるか昔の偉人の印象だったけれど、年表に落としてみると結構最近の人なのね


上記ヨゼフ・ベームさんはベートーヴェンの生前に一緒に演奏をやって本人からOKを貰っていたのだから

「作曲された当時の演奏スタイル」で正しいかどうかの議論なくズバリ!の人だよねえ

で、ベームの弟子のヨアヒムと一緒にカルテットを演奏していたクリングラーは、孫弟子に当たるのだけどプロの演奏家としては一世代だけ下なので周りの先輩や音楽関係者、もしかしたら下宿のおばちゃんとかベートヴェンその人と親交があったり触れ合った人がまだまだ沢山残っていた時代である

そのクリングラーはつい先日まで生きていたのだ
ノリントンの録音が1987年だから、あと15年ほど長生きしてくれていたらどんな感想だったか聞いてみたかった
(勿論プロの演奏家が他のプロに対して自己の意見を言う訳はないので、コッソリ耳打ちで)



と言う事で、CDを聞いてみました

端正で清涼感のある凛々しい演奏です 
ウィーン風というのかポルタメントのチャーミングな面とインテンポの追い込みの対比がとてもはっきりしている

際立って感情的に歌い上げるのではなく、だからと言って即物主義に徹した機械的なんてとんでもない
勿論アゴーギグやデュナーミクを殊更強調して、どうだ!オレって先鋭的だろ。なんて自己主張からは対極にあると言っていいと思う


ベートーヴェンの没後90年経った時点でどれ程演奏スタイルの変化があったのか今となっては知る由もないが、最も作曲家に近い演奏として時代の空気感を想像するための良い資料であるのは間違い無いと思う

ただし演奏はとても素敵だけれど、機械吹き込み時代のSP盤を復刻したCDしか無いので音響的には少々の食い足りなさを感じてしまう

なのでこれをテキストにしてベートーヴェンの隣りに座って聞いている気分になるにはどのレコードが近しいか

ブタペストSQ アマデウスSQ スメタナSQ ズスケSQ ブッシュSQ バリリSQ A・ベルグSQ を纏めて聞いてみた

文句なしにバリリSQに相似点を一番多く感じた
自分はウィーン人でもなんでもないくせになんだか手前味噌の様で恥ずかしいのだけれど
W・バリリ  O・シュトラッサーもウィーン音楽院の出身でヨゼフ・ベーム先生の直系の弟子になるのですね

ウィーン・フィルハーモニーに脈々と伝わる頑固なウィーン風の伝統はことある度に言われるが、室内楽ユニットであってもそのまま当てはまる様ですね

ただし大きな問題がある、バリリのレコードはバカ高いんだ、とても手が出ない



今回の記事を書くに至った動機は
クリングラーSQの演奏がベートヴェンの生きた時代の演奏法の継続であろうに、学究的でなくリリカルでロマンチックであった事と

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このクルレンツィスの演奏を聴いて、前世紀の古楽演奏の基本理念とされた「作曲された当時の演奏スタイルに回帰する」を離れて「最先端の新解釈による古典派、ロマン派の新たな演奏スタイルの構築」に移っているんだなと感じた事によります


まあ、そりゃそうなるわね
どんなに正しいと主張したって、演奏家自身も含めて誰も正否を検証できないんだから

結局は演奏家個々の到達した解釈によって演奏するしか無いじゃない


その意味でもクリングラーSQの伝統に則ったと伝わるCDを聴けたことは、私自身にとって一つの指標となる貴重な体験でした

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