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フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日 - 1962年1月29日) ヴァイオリニスト・作曲家

1:777 :

2022/07/20 (Wed) 16:44:20

フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日 - 1962年1月29日) ヴァイオリニスト・作曲家


メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(クライスラー、旧録音) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NNu_sV5PVoo

Fritz Kreisler - Mendelssohn : Violin Concerto e-moll Op.64 (1926) - 再復刻
https://www.youtube.com/watch?v=G1Ml85cVLF4

Berlin State Opera Orch./ cond. by Leo Blech
transfer from Jpn Victor 78s - 8080 / 3
recorded 9-10 December 1926, Singakademie, Berlin
re- transferred


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Kreisler & Zimbalist - Bach Concerto for 2 Violins - 1st Mvt. (1915) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=mXgwb4ri3jw

Bach Concerto for Two Violins and Orchestra in D Minor,BWV1043(Kreisler Zimbalist 1915)
https://www.youtube.com/watch?v=kxK0eWdN1sI

Fritz Kreisler(Violin)
Efrem Zimbalist Sr.(Violin)
Howard Rattay(Violin)
Pasquale Bianculli(Violin)
J. Fruncillo(Viola)
Rosario Bourdon(Cello)
Walter B. Rogers(Conductor)
4 January 1915


BACH: Concerto for two Violins / Fritz Kreisler & Efrem Zimbalist / NYC, 1915 restored
https://www.youtube.com/watch?v=HmtKFzWV98o

Fritz Kreisler
Efrem Zimbalist

NYC, 1915
restored


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「愛の悲しみ」 HMV model156 蓄音機 フリッツ・クライスラー 自作自演
https://www.youtube.com/watch?v=ITHNs14ALT8

フリッツ・クライスラー 自作自演の「愛の悲しみ」
HMVポータブル蓄音機 model101にて。
Fritz Kreisler

Fritz Kreisler _"Schön Rosmarin" 美しきロスマリン (Kreisler)
https://www.youtube.com/watch?v=dVWGfwPMrrg

piano ; Franz Rupp
78rpm / Victor, VA-1-B(OEA-6109)
recorded in 1938
on HMV-163 gramophone


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蓄音機で聴くFritz Kreisler "Thais - Meditation" クライスラー/タイスの瞑想曲
https://www.youtube.com/watch?v=0QkEKMU_nKg


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ユモレスク(ドヴォルザーク)
https://www.youtube.com/watch?v=vvC5TI3qTQk

ヴァイオリン獨奏 クライスラー
ピ ア ノ 伴奏 フランツ・ルップ
ビクター洋樂愛好家協會 RL-41-A
HMV163 関西蓄音機倶楽部


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ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第8番 ト長調 Op.30-3 クライスラー, ラフマニノフ 1928
https://www.youtube.com/watch?v=cCHYqMcKkF0

Fritz Kreisler, violin / Sergei Rachmaninoff, piano 22 March.1928


Kreisler & Rachmaninov - Grieg : Violin Sonata No.3 op.45
https://www.youtube.com/watch?v=vuIx_4GRPCc


Kreisler and Rachmaninoff play Schubert's Grand Duo
https://www.youtube.com/watch?v=0UsL2LcAzQs


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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77

Brahms Violin Concerto Kreisler/Blech
https://www.youtube.com/results?search_query=Brahms+Violin+Concerto+Kreisler++Blech+1927

ヴァイオリン:フリッツ・クライスラー
指揮:レオ・ブレッヒ
ベルリン国立歌劇場管弦楽団

録音:1927年11月21,23,25日 ベルリン・ジングアカデミー



クライスラー&バルビローリ「ブラームス ヴァイオリン協奏曲」
指揮:ジョン・バルビローリ
演奏:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1936年6月18、22日、アビー・ロード第1スタジオ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17505820

http://www.youtube.com/watch?v=urMy1GtoS2I
http://www.youtube.com/watch?v=_zAI7TwgiJ0
http://www.youtube.com/watch?v=Z4nkn5brSD4


Fritz Kreisler (1875-1962) Brahms Hungarian Dance nr.5 rec.1911
http://www.youtube.com/watch?v=N_So6tUlhe8

WE15B:Fritz Kreisler/Brahms-Hungarian Dance in G Minor
http://www.youtube.com/watch?v=WxLNDqu5Lg0

Kreisler plays "Hungarian Dance" by Brahms/Joachim. Acoustic
http://www.youtube.com/watch?v=0iCQjr1Ycxs


Kreisler plays Brahms' Hungarian Dance # 17, f minor
http://www.youtube.com/watch?v=FCeo0gFVYAA


クライスラーのブラームスはバルビローリとの共演による新盤もありますが、どちらの演奏が良いか非常に悩ましいところです。新盤のクライスラーは、やや技術的な衰えがみられるのですが、旧盤の演奏はそのようなことはありません。

しかし、新盤の演奏には旧盤には聴かれない味わいがあります。特に第1楽章展開部のクライスラーのソロの部分は、まるで自作の小品を演奏するような語り口で演奏した新盤の味わいが断然好きです。
また、旧盤は録音も新盤よりかなり落ちます。

結論として、クライスラーのブラームスは新旧両盤どちらも捨てがたいので、いずれも手元に置き、気分によりどちらかを聴くことにしたいと思います。


コメント
クライスラーの歌いまわしは、他の誰にもない(多分真似できない)もので、現代のヴァイオリニストからはあまり聴かれない表現なので、とても新鮮ですよね!
ノイズがないと・・・という感じよく分かります!
また、HMV盤のチリチリノイズは独特の音がしますものね。
2011/4/30(土) 午前 10:03 [ ポンちゃん ]
http://blogs.yahoo.co.jp/ponchan_2007/64419658.html
2:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:01:23

これが ヴィブラート ポルタメント奏法


Fritz Kreisler - Mendelssohn : Violin Concerto e-moll Op.64 (1926) - 再復刻
https://www.youtube.com/watch?v=G1Ml85cVLF4

Berlin State Opera Orch./ cond. by Leo Blech
transfer from Jpn Victor 78s - 8080 / 3
recorded 9-10 December 1926, Singakademie, Berlin
re- transferred



クラシックファンはこの演奏をいい音で再生したいんだよ:


メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(クライスラー、旧録音) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NNu_sV5PVoo


メンデルスゾーンやバッハの協奏曲でクライスラーに匹敵する演奏は100年経っても遂に一つも現れなかったんだよ

クラシックファンはそういう世紀の名盤をいい音で聴きたいんだ

クラシックファンは最近のヴァイオリニストのどうしようもないアホ演奏には関心ないんだ



演奏による音の違い >>>>> オーディオによる音の違い


だから、いくらいい装置で最新録音を聴いても、100年前の伝説の演奏には絶対に敵わないんだ


クラシックの伝説の名盤はその殆どが1920年代から1950年代に集中しているから

クラシックファンが好きなオーディオは SP や モノラル録音を上手く再生できるものに限られる

グッドマン、ワーフデール、ローサーや QUAD が今でも人気があるのは、その時代の音源の再生に一番合っているからだ



音楽もオーディオも100年前から全然進歩してないんだよ。
楽譜が上手く読めても いい演奏ができる訳じゃないんだ。
ヴァイオリンでは、これよりいい演奏は現在、過去、未来を通して絶対に現れない:

Bach Concerto for Two Violins and Orchestra in D Minor,BWV1043(Kreisler Zimbalist 1915)
https://www.youtube.com/watch?v=kxK0eWdN1sI

Fritz Kreisler(Violin)
Efrem Zimbalist Sr.(Violin)
Howard Rattay(Violin)
Pasquale Bianculli(Violin)
J. Fruncillo(Viola)
Rosario Bourdon(Cello)
Walter B. Rogers(Conductor)
4 January 1915


今、音大でヴァイオリンを学んでいるアホは目を覚ました方がいい。
君にいくら才能が有っても、いくら努力しても この100年前の演奏は絶対に越えられない。
この現代に音楽を勉強するのは金と時間の無駄だ。
もう音楽大学も音楽学者も必要無いんだ。


いい音だ:

「愛の悲しみ」 HMV model156 蓄音機 フリッツ・クライスラー 自作自演
https://www.youtube.com/watch?v=ITHNs14ALT8

フリッツ・クライスラー 自作自演の「愛の悲しみ」
HMVポータブル蓄音機 model101にて。
Fritz Kreisler


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ヴィブラートについて

皆さんは今のオーケストラの演奏と、戦前、といっても第1次世界大戦(1914~1918)以前のオーケストラの演奏が全くちがっていたことはご存知ですか。

賢明な諸兄はすぐにヴィブラートの話だと察していただけたことと思います。

かなり昔からトリルと同じくアクセントの延長線上にヴィブラートは存在していました。

しかし現在のような常時ヴィブラートをかけ続ける演奏は、諸説一致してフリッツ・クライスラーが1911年に演奏上取り入れて世界的に広めたということが認知されています。

すごいことですよね、これって。だって私たちがさんざん苦労して手に入れた、もしくは手に入れようとしているあのすべての音にかけるヴィブラートが、1次戦以前はマイノリティどころか誰もやっていなかったというんんですよ。

しかもクライスラー先生という「個人」が、長い時間をかけてという話ではなくて1911年という「特定の年号」にやり始めたということがわかっているというのは凄いことです。

例えは悪いですが「大分県速見郡日出町4丁目50番地の山田さんが1936年のとある日曜日にかつ丼を発明してそれが急速に全国に広がった」なんてことよりもはるかに世界規模なんですよ(例え悪すぎ)。

今でもカペー弦楽四重奏団の古い録音を聴くとポルタメントだけでヴィブラートを使用しない時代を反映した演奏が聴けます。

リュシアン・カペーはベートーヴェンの弦楽四重奏第14番を初演した先生に師事していましたから、演奏スタイルとしてはまさしくピリオドな演奏なわけです。

1911年ってマーラーが死んだ年です。ってことはマーラーの生前はオケでヴィブラートはアクセント程度にしか使われてなかったわけです(至極当たりまえか)。


ロジャー・ノリントンというイギリスの指揮者がいます。

彼はノンヴィブラート奏法で有名な方で、マーラーの交響曲をまさしくノンヴィブラート奏法で録音してますのでぜひご一聴を。

5番とか聞くと、いろんな意味で新鮮です。

ノリントン説では、連続して常時ヴィブラートをかける奏法は、1920年代初期にフランス・イギリスで、1930年代にドイツやアメリカで、1935年にベルリンフィルで、1940年にウィーンフィルで登場したということです。

最新流行の奏法なんですね。私個人的にはヴィブラートでエスプレッシーヴォを表現する方が好きです。

今聴いてもクライスラーのポルタメントとヴィブラートの使い方は神業です。特にそのポルタメントを入れる場所が絶妙です。同じ音程をただ伸ばすところでも見事に入れますからね。

こう考えてみると、ほとんどのクラシック作曲家の活躍当時にはヴィブラートの使用がされていなかったわけで・・・。

チャイコフスキーなんて、どうしてたんでしょうね。ヴァイオリン協奏曲なんて。

確かに私、ヨアヒムやイザイの演奏の録音を持っていますが、表情はアゴーギグとポルタメントでしてます(部分的にヴィブラートはしてます)。

あのブラームスをどうやって・・・あのカンツォーネのイタリア人が、パガニーニが、ヴィブラート抜きの演奏だとしたら、あの5番の協奏曲の第2楽章など面白くないのでは・・・きりがありませんね。

現在の常識は過去の非常識という最たる例なのかもしれませんね。
http://biorin.blog69.fc2.com/?mode=m&no=35


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「さよなら、クライスラー」

クライスラーが西洋音楽史に画した「ヴィブラート革命」

もちろん、クライスラーの革命はヴィブラートだけではない。弓の遣い方だってそうだ。

彼より前のヴァイオリニストたちは、弓をかなり長く遣うのがふつうだったらしい。右手をいっぱいに動かし、その力や速度を加減することで、音の勢いや色を変える。

響きのヴァラエティを豊かに幅広くしようと思えば、とうぜんそのやり方で悪くないのだが、弓と腕を長くいっぱいに動かし、上半身全部を大きく使っていると、いろいろなぶれも起きやすい。弦にかける弓の圧力や、弦をこする弓の速度が、不安定にならざるをえない。結果として、音の粒は揃いにくくなる。

対してクライスラーは、響きのヴァラエティを多少は犠牲にしても、歯切れよく恰幅よく音の粒を揃えることを第一義にした。そのためにどうするか。

弓をなるべく短めに遣えばいい。むろん、たんに短いだけではだめで、右手をそれ向きに改造しないといけない。

弓を長く遣うなら、肩や上腕部に大きな負担がくるが、弓を短く、力加減もなるたけ自在に遣うとなると、弓を持つ手先から手首に下腕部までが、とりわけよく鍛えられていないといけない。

クライスラーはそんな立派な二の腕をもっていた。それで短く弓を遣えば、弓圧や弓速からぶれを追放できる。見た目にも実際にも、小粋さや速度感や安定感が出てくる。歯切れや恰幅もよくなるのである。

(片山杜秀「音盤博物誌」 P293)
http://vivaoke.com/blog-entry-1402.html


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ヴィブラートについて


鈴木 ビブラートのかからない無調の音はウェーベルンの当時は、かなり新奇だったように思いますが。

野々村 このあたりは工藤さんにお伺いしたいのですが、微分音の範疇を越えて音程の揺れを伴うようなヴィブラートが多用されるようになったのは、実は第2次世界大戦後だという話を聞いたことがあるのですが...

についてだけ、コメントさせて頂きます。

まず、ヴィブラートという技術自体は、ロカテルリの「ヴァイオリンの技法」という本にも紹介されていますので、ヴァイオリンが現在の形になったのとそれほど遅れずに(あるいは同時に)用いられていたと考えられます。ただ、ロカテルリの本ではヴィブラートはその他の装飾音と似たような記号を用いて、使う場所を明記してあります。また、ロカテルリよりは大分後になりますが、レオポルド・モーツァルトの本にもヴィブラートについての記述があります。しかし、ここにも過度のヴィブラートの使用を戒める文章があったと記憶しています。つまり、この頃はヴィブラートは表現上の技術として、かなり意識した使い方をされていたということでしょう。現在多くの古楽器演奏は、この点において恐らく間違ってはいないと思います。

それが、いつ頃からヴィブラートをかけることが基本となるようになったのかというと、僕の知る範囲でははっきりとした証拠になる文献がありません。ただ、ヴィブラートを始終かけるためには左手の自由がないと無理なので、顎当てが発明されてからのことではないかと推測されます。だとすれば、パガニーニ前後の辺りになるでしょうね。また、当然、ヴィブラートをかけることによって楽器も多少は振動しますので、バロック弓のように軽くて弾くというよりは乗せるといった感じの弓の頃には多用されることは少なかったと思います。現在の弓の形になったのはヴィオッティの頃ですから、先の顎当てのこととも合わせて考えると、ヴィブラート自体が多用されるようになったのは19世紀半ば近くなってからではないでしょうか。

また、19世紀後半から20世紀前半の名ヴァイオリニストと言われた人達の語録を辿ると、「ヴィブラートは必要不可欠なものだ」的な発言が急に増えているように思われます。その人々の多くは現在復刻盤で聴くことができます。


例:
クライスラー、ティボー、イザイ、フーベルマン、ジンバリスト、
サラサーテ、ヨアヒム、フレッシュ(順不同)


上記の人は、全て僕の聴いたことのある人ですが、皆、大きなヴィブラートとポルタメントを多用しています。

※なお、ポルタメントは専ら上昇音形に用いられるのが普通でした。下降音形に用いるのは“下品”とされていたようです。ここがパールマンとは違うところ。

そして、彼らの多くは音程も揺れ動くようなヴィブラートです。ただ、ここで注意しなくてはならないのは、上記ほとんどが技術の衰えた晩年になってから録音していること、また録音技術自体が非常に稚拙であることを考えると、必ずしも彼らの真の姿を記録しているとは言い切れないことです。

さて、野々村さんの発言にある“第二次大戦後”ということになると、おそらくオイストラフやスターンのようなロシア系のテクニックに基づくヴィブラートのことを示すのだと推測されます。クライスラーのような人とオイストラフなどを比べると、明らかに違うのはヴィブラートの“周期”です。前者は非常に細かく(そのため繊細だったり甘美だったり聴こえる)、後者は非常に大きい(そのため雄大だったり豪放だったり聴こえる)という違いがありますが、こと音程の幅という点では実際に差はないと思います。この時期で特徴的なヴィブラートをかけていたのはシゲティですが、彼の場合には完全に技術の低下によるものだと言い切れます。

一方、ジュリアードが輩出しているアメリカ楽派は、上記ロシア楽派の影響を大きく受けつつも、よりムード音楽的な、人によってはだらしない印象を与えるものとなっています。

結局、録音で聴ける範囲において、意識してノン・ヴィブラートを使いこなした演奏家ということになるとクレーメルくらいしか思いつきません。現代音楽の分野ではあまり甘いヴィブラートは用いられていないように聴こえますが、それはヴィブラートを使う類いの歌が曲の中にないことと、押さえるだけで精一杯の演奏家がほとんどである、というだけのことでしょう。


斉諧生 工藤 例:クライスラー、ティボー、イザイ、フーベルマン、ジンバリスト、サラサーテ、ヨアヒム、フレッシュ(順不同) 

上記の人は、全て僕の聴いたことのある人ですが、皆、大きなヴィブラートとポルタメントを多用しています。

何で読んだのか忘れましたが、

「ああいうヴィブラートはクライスラーが始めたことで、ロゼーのような人は用いていなかった。クライスラーが若い頃にウィーン国立歌劇場管のオーディションに落ちたのは、そのためである。云々」

という文章を読んだことがあります。ハルトナックか中村稔か、そのあたりでしょう。

私はクライスラー、ティボー、フーベルマンくらいしか聴いたことがありませんので、詳しいことはコメントできませんが…

でもフレッシュも同様だったとは意外でした。(以下、御存知でしたら失礼)
フレッシュが(いつもの癖で)皆に議論をふっかけているところに偶々、エルマンがやってきた。


皆:(あ、まずいところに…)
フ:「『音』とは何ぞや?」
エ:「…そりゃー、君が持ってないものさ!」


工藤 斉諧生 何で読んだのか忘れましたが、「ああいうヴィブラートはクライスラーが始めたことで、ロゼーのような人は用いていなかった。クライスラーが若い頃にウィーン国立歌劇場管のオーディションに落ちたのは、そのためである。云々」という文章を読んだことがあります。

確かに、ヴィブラートの流儀というものがありますが、クライスラーのものは独特です。でも、それは個性的なスタイルを持っている人なら皆違うといったレベルの話で、ロゼーだって十分甘美なヴィブラートを持ってますよ。新星堂のウィーン・フィル・シリーズやBiddulphの復刻盤で聴くことができます。

完全に余談ですが、Biddulph盤には娘と共演したバッハの二重協奏曲が入っています。3楽章の途中にヘルメスベルガーによる抱腹絶倒のカデンツァが挿入されています (^^)。この娘というのはアルマ・ロゼーで、収容所で死んだのですよね。なんか録音で音が聴けることに不思議な感覚があります。

斉諧生 でもフレッシュも同様だったとは意外でした。
弦楽器では右手と左手とがきちんと同期していることが大事で、右手の流儀は多岐に渡っていますから、当然ヴィブラートもそれに応じて変わってきます。
ただ、

野々村 微分音の範疇を越えて音程の揺れを伴うようなヴィブラートが多用されるようになったのは、実は第2次世界大戦後だという話を 聞いたことがあるのですが....

ということに対しては、録音で聴ける範囲においては“同様”であると述べただけです。ですから、各奏者のヴィブラートに好き嫌いがあるのは当然ですし、音程の幅も人によってまちまちであるのもまた当然ですね。


斉諧生 フ:「『音』とは何ぞや?」  エ:「…そりゃー、君が持ってないものさ!」

こういう話って多いですよね (^^)。


野々村 鈴木 ビブラートのかからない無調の音はウェーベルンの当時は、かなり新奇だったように思いますが。


野々村 このあたりは工藤さんにお伺いしたいのですが、微分音の範疇を越えて音程の揺れを伴うようなヴィブラートが多用されるようになったのは、実は第2次世界大戦後だという話を聞いたことがあるのですが...

工藤 についてだけ、コメントさせて頂きます。(後略)

私は、ウェーベルンの初期無調SQの録音では、ヴィブラートかけまくりのジュリアードQの方が、ラサールQやアルディッティQのノンヴィブラートな録音よりも好きかもしれません。


工藤 野々村 ところで私は、ウェーベルンの初期無調SQの録音では、ヴィブラートかけまくりのジュリアードQの方が、ラサールQやアルディッティQのノンヴィブラートな録音よりも好きかもしれません。

僕もそうです。やはり、あくまでの新「ウィーン」楽派ということなのでしょうかね。ただ、“ノンヴィブラート”を意識して使いこなせる人・団体が出てきたことで、表現の幅が広がったことも確かですね。そして、ウェーベルンの音楽がそのきっかけの一つになったこともまた確かだと思います。



野々村 野々村 ところで私は、ウェーベルンの初期無調SQの録音では、ヴィブラートかけまくりのジュリアードQの方が、ラサールQやアルディッティQのノンヴィブラートな録音よりも好きかもしれません。


工藤 僕もそうです。やはり、あくまでの新「ウィーン」楽派ということなのでしょうかね。
というか、初期無調時代のウェーベルンは、世間で考えられているよりもずっとロマン派に近いと言うべきでは。むしろ、ベルクの作品3などは、ノンヴィブラートでスカッとまとめた方がいい。

工藤 ただ、“ノンヴィブラート”を意識して使いこなせる人・団体が出てきたことで、表現の幅が広がったことも確かですね。そして、ウェーベルンの音楽がそのきっかけの一つになったこともまた確かだと思います。

「ヴァイオリンのノンヴィブラートな音はきれいだなあ」としみじみ感じさせてくれるのが、ケージの『フリーマン・エチュード』ですね。LP時代のネギシーの録音(Lovely Music)も良かったけど、CDで買うとしたらやはりアルディッティの録音(mode, mode 32/37)でしょう。

ノンヴィブラートの音としては、ディスクで入手しやすい人の中ではアルディッティが一番でしょう。クレーメルの音には、どことなく濁った成分が混ざっているんですよね。クラシックで使う分には、それが「味」になる場合もありますが。


工藤 野々村 ノンヴィブラートの音としては、ディスクで入手しやすい人の中ではアルディッティが一番でしょう。クレーメルの音には、どことなく濁った成分が混ざっているんですよね。クラシックで使う分には、それが「味」になる場合もありますが。

クレーメルは、楽器の音がするんですよね。アルディッティは、弦の音、それもスチール弦の音がします。もちろん、悪い意味ではありません。だから、同じようにヴィブラートを抑制した演奏をしていても、クレーメルのピアソラは聴けるが、恐らくアルディッティのピアソラは退屈なものになってしまうだろう、というように明らかな違いが出てきますよね。僕は、曲相とマッチしていれさえすれば、どちらも魅力的だと思っています。
http://pseudo-poseidonios.net/okuzashiki/15_review_7.htm
3:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:01:46

これが19世紀のノン・ヴィブラート ポルタメント奏法


Capet String Quartet - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Capet+String+Quartet



リュシアン・カペー(Lucien Capet, 1873年1月8日 – 1928年12月18日)

リュシアン・カペーはフランスのヴァイオリニスト・室内楽奏者・音楽教師・作曲家。超絶的な演奏技巧と力強く温かみのある音色とを併せ持ち、ヴィルトゥオーゾとして名を馳せた。
カペーは教育者としても一目置かれ、とりわけ運弓技術で名高かった。

著名な門弟にヤッシャ・ブロツキー(またはヤッシャ・ブロドスキーとも)とイヴァン・ガラミアンがおり、いずれも今世紀の最も影響力あるヴァイオリン教師となった。

『ベートーヴェンの17の弦楽四重奏曲(Les 17 Quatuors de Beethoven )』や『希望すなわち哲学的著作(Espérances, ouvrage philosophique )』などの著書があるが、最も重要なのは、ヴァイオリンのボウイング技術のあらゆる側面についての決定的な論文『運弓技術の奥義詳解(La Technique supérieure de l'archet où abondent les exemples et les détails )』(1916年)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9A%E3%83%BC




カペー弦楽四重奏団
http://salondesocrates.com/capet.html

 カペー弦楽四重奏団の素晴らしさについては、既に語り尽くされてをり、ここで改めて申し上げることは、実は何もない。ましてディスコグラフィーなど全12曲の録音しかないのだから、作ること自体意味がない。だから、これは私なりのカペーSQへのオマージュであつて、それ以上の何物でもないのだ。

 弦楽四重奏団の在り方は大きく分けて2つに分類出来る。一つはカペー、レナー、ブッシュ、ウィーン・コンツェルトハウスなどの第1ヴァイオリン主導型。これに対してブダペスト、バリリ、スメタナ、ボロディン、アルバン・ベルクなどはアンサンブル重視型と云へる。後者の第1ヴァイオリン奏者が弱いと云ふのではない。突出してゐないのである。前者の場合、魅力の殆どが第1ヴァイオリン奏者の藝術性にあり、四重奏団の性格を決定してゐる。

 しかし、近年はアンサンブル重視の団体が殆どであり、特に合奏能力の向上は目覚ましく、4つの楽器が見事に融合し、調和を保つた演奏でなければ、弦楽四重奏団として一流と見なされない。実のところ、第1ヴァイオリン主導型の団体は絶滅したと云つても過言ではないのだ。従つて、カペーSQなどの演奏を現在の耳で聴くと、アンサンブルに埋没しない自在な節回しがあり、却つて新鮮である。しかし、反面、団体としての均衡を欠く嫌ひはある。カペーSQにおいて、ヴィオラ奏者には余り魅力を感じない。チェロ奏者も無難と云ふ程度だ。一方、第2ヴァイオリンのエウィットが傑出してゐる。カペーとの対話も互角に行なはれ、実に達者である。大概、第2ヴァイオリンの聴き映えがしない団体の多い中、カペーSQを聴く喜びはヴァイオリン2挺の銀糸のやうな気品ある絡み合ひにある。とは云へ、各奏者はカペーの音楽に見事に収斂され、ひとつの藝術として完成してゐるので、荒を探すのは止そう。

 品格があり聡明な演奏をすると一般的に思はれ勝ちなカペー弦楽四重奏団だが、同時期に活躍した四重奏団の録音を聴くと、意外な点に気が付く。カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団―レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。

 ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。第3に、フレーズの変はり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。

 しかし、電気録音初期に登場したカペーSQの録音が、旧派の名団体のみならず当時最大の人気を誇つたレナーSQの株を奪ひ尽くした理由は、偏にボウイングの妙技による。1910年以前に記録されたヴァイオリニストの録音を聴くと、弓を押し当てた寸詰まりの音、頻繁な弓の返しが聴かれ、時代を感じさせる。ところが、カペーのボウイングからは、響きが澄み渡るやうに程よく力が抜けてをり、だからといつて空気を含んだ浮ついた音にはなつてゐない。凛と張つたアーティキュレーションは大言壮語を避け、ボウイング・スラーを用ゐることでしなやかなリズムを生み出した。

 『運弓のテクニック』なる著作を残したカペーは、エネスクやティボーと並ぶボウイングの大家である。彼らの共通点はパルラント奏法と云ふ朗読調のボウイングを会得してゐることにある。多かれ少なかれ、あらゆるヴァイオリニストは歌ふことに心を砕くが、歌はフレーズを描くために強い呼吸を必要とし、リズムの躍動を糧とする。だから、ためらひや沈思や侘び寂びを表現するには必ずしも適当ではない。これらの表現は、繊細な呼吸、慎ましい抑揚、語るやうに送られる運弓法によつて初めて可能になるのだ。カペーが本格的に独奏者としての活動に乗り出さず、室内楽に没頭したことは同時期のヴァイオリニストにとつては幸運なことであつたらう。出来ることならカペーにはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの録音を残して欲しかつた。

 カペーSQはノン・ヴィブラートとポルタメントを演奏様式とする旧派の一面も持つが、ボウイングに革新的な表現力を持たせたカペーの元に一致団結した名四重奏団である。演奏は、清明で飄々としてゐるが、高潔で峻厳な孤高の世界を呈してゐる。それは丁度雪舟の山水画にも比せられよう。

ルイ=リュシアン・カペー

Biography & History of Quartet
 ルイ=リュシアン・カペーは、1873年1月8日パリの貧しい家に生まれた。15歳の時、パリ音楽院に入学、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を初演したといふピエール・モーラン教授に師事した。1893年に満場一致の1等賞にて卒業すると、直ちに四重奏団を結成して活動を開始した。ラムルーに見出され、コンセール・ラムルー管弦楽団のコンサート・マスターを勤める。1903年、ベートーヴェンの協奏曲で大成功を収め、独奏者としても名を馳せた。1904年には、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲連続演奏会を行ひ大反響となつた。欧州各国への演奏旅行は絶賛を博したが、1911年にボンで開催されたベートーヴェン音楽祭にはフランス代表で参加した。1907年よりパリ音楽院の室内楽科教授、1924年からはヴァイオリン科の教授も勤めた。1923年以降毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏を行なつた。1928年12月18日パリで急逝した。医師の誤診による為といふ。作曲も手掛け、作品に弦楽四重奏曲やヴァイオリン・ソナタなどがある。

 カペーを除く四重奏団員の変遷は次の通りで、括弧内は順に第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロである。第1次(1893~99、ジロン、アンリ・カサドシュ、カルカネード)、第2次(1903~10、アンドレ・トゥーレ、アンリ・カサドシュ、ルイ・アッセルマン)、第3次(1910~14、モーリス・エウィット、アンリ・カサドシュ、マルセル・カサドシュ)、第4次(1919~28、モーリス・エウィット、アンリ・ブノア、カミーユ・ドゥロベール)。


Discography
1 1928/6/12? Columbia Debussy String Quartet g-moll,Op.10
2 1928/6/14-15 Columbia Beethoven String Quartet No.7 F-dur,Op.59-1 "Rasumowsky"
3 1928/6/15-19 Columbia Ravel String Quartet F-dur
4 1928/6/19-21 Columbia Schubert String Quartet No.14 d-moll,D.810 "Der Tod und das Mädchen"
5 1928/6/21-22 Columbia Beethoven String Quartet No.10 Es-dur,Op.74 "Harfe"
6 1928/10/3 Columbia Schumann String Quartet No.1 a-moll,Op.41-1
7 1928/10/? Columbia Haydn String Quartet D-dur,Op.64-5 "Lerchen"
8 1928/10/? Columbia Beethoven String Quartet No.5 A-dur,Op.18-5
9 1928/10/5-8 Columbia Beethoven String Quartet No.14 cis-moll,Op.131
10 1928/10/8-10 Columbia Beethoven String Quartet No.15 a-moll,Op.132
11 1928/10/11 Columbia Mozart String Quartet No.19 C-dur,K.465 "Dissonanzen"
12 1928/10/20? Columbia Franck Piano Quintet f-moll with Marcel Ciampi (p)

 カペー弦楽四重奏団の録音は上記12曲しかない。録音は1928年の6月と10月のみで、同年12月にはカペーが急逝して仕舞つた。テイク数は殆どが1か2で、ライヴ録音のやうな感興とむらがあり、音程の狂ひや弓の乱れなどもありのまま残された。まさに一期一会の記録なのである。

 カペーSQを語るのにベートーヴェンから始めなくては申し訳が立たない。それも後期2作品から始めるのが礼儀といふものだらう。古来より、第15番はカペーSQの最高傑作とされてをり、現在に至るまでこの演奏を超えたものは一切ないと断言出来る。分けても第3楽章、ベートーヴェンが「病から癒えた者の神性への聖なる感謝の歌」と書き添へた曲を、カペーSQのやうに神妙に演奏したものを知らない。ノン・ヴィブラートによる響きの神々しさは如何ばかりであらう。感謝の歌では飛翔する精神が弧を描く。第2ヴァイオリンのエウィットが奏でる憧れに、カペーの清らかなトリルが応へ、スタッカートの軽妙洒脱な戯れが福音を語る。音楽が静かに下つて行くパッセージで、音色が侘び寂びを加へて行く様は至藝と云ひたい。好敵手ブッシュSQも相当の演奏をしてゐるが、カペーSQに比べれば青二才だ。第1楽章では、哀切極まりない音楽を感傷に貶めず、一篇の叙事詩のやうな風格を持たせてゐる。真一文字に悲劇に対峙するカペーのソロが印象的な第4楽章。緊張の糸が持続する天晴な合奏を聴かせる終楽章。何れも極上の名演。

 初演者であるモーラン直伝による第14番の演奏をカペーSQの頂点とする方は多いだらう。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の頂であるこの曲の神髄に迫ることは、19世紀においては不可能とされ、名曲かどうかも議論にされたやうな曲である。諦観、静謐、彼岸と云つた世界を音楽に持ち込み、未だに独特の位置を保持し続ける。カペーの弾く冒頭を聴いて、精神が沈思しない者は立ち去るがよい。これから始まる儀式には参列出来まいから。この神韻縹渺としたパルラント・アーティキュレーションは空前絶後の至藝であり、変奏曲形式による第4楽章に至つては天衣無縫の奥義を示す。終楽章は一筆書きのやうな閃きに充ちた名演である。第14番はブッシュSQが霊感あらたかな名演を成し遂げてゐる。ドイツ人の手堅さと熱情が渾然となった大伽藍のやうな楷書体の演奏で、フランス人カペーの力の抜け切つた草書体による絹糸のやうな演奏とは対照的である。全体に隙がなく立派なのはブッシュSQの方だ。しかし、断言しよう。藝格としてはカペーが一枚上手で、何人も及びの付かない美しい瞬間がある。

 第5番は清楚で若やいだ演奏であり、後期作品2曲に次いで仕上がりが良い。甘さと低徊さを排したストイックな歌が、青春の芳しい詩情をもたらす。繊細でさり気ない明暗の移ろひが取り分け美しい。この曲の表現として、これ以上適つたものはないだらう。「ラズモフスキー」はヴィブラートを抑制したトーンと厳しいスフォルツァンドによつて大味になるのを避けてゐる。緊密なアンサンブルと内燃する力強さが素晴らしい。特に第3楽章のパルラント奏法による沈痛な趣が甚く心に残る。しかし、全体的に線が細く、音が軽く聴こえる嫌ひがある。「ハープ」は引き締まつた造形と柔らかなフレージングが魅力で、特に第1楽章の清廉な味はひは絶品である。第2楽章は珍しく甘美で、時代を感じさせる。第3楽章と第4楽章はやや平凡な仕上がりだ。この曲にもっと豊かさを求める人は多いだらう。カペーSQの演奏は脂が少ない。

 ハイドンは天下一品の名演である。冒頭におけるカペーのボウイングには畏敬の念を禁じ得ない。ヴィブラートの誘惑を潔癖に遠ざけ、凛とした運弓で清明な音を創る。非常に個性的な奏法だが、繰り返し聴き、他の団体の演奏と比べて聴くと、カペーの凄さが諒解出来るだらう。第2楽章は細部の彫りが深く、神経が行き届いた名演である。終楽章の目にも止まらぬ軽快なアンサンブルに、上手ひなどといふのも烏滸がましい。この演奏に心躍らぬ者がゐれば、凡そ音楽には無縁の者であらう。モーツァルトも立派な演奏であるが、カペーの特徴である毅然と張つたボウイングが後退してをり、柔和に歌ふことに主眼を置いた甘美な演奏である。カペーならではの高潔で気丈な演奏を期待したのだが、終楽章と第3楽章のトリオを除いては感銘が希薄であつた。しかし、カペーSQ以上の演奏を挙げることが困難なのも事実だ。

 シューベルトとシューマンは、ドイツ系の団体とは異なる厳しいアーティキュレーションと制御されたヴィブラートによる辛口の演奏である。シューベルトは尋常ならざぬ演奏で、仄暗く甘いロマンティシズムを期待してはならない。勿体振つた表情は皆無で、快速のテンポで畳み掛けるやうに捌いて行く。フレーズの最後で掛けられる常套的なルバートも一切ない。硬派だが、雑な演奏だと感じる方もゐるだらう。しかし、これは焦燥感に溢れた、絶望的な熱病を想起させる見事な解釈であると感じる。録音される機会が少ないシューマンに関しては、カペーSQを越える演奏があるとは到底思へない。冒頭から喪失感が漂ひ、悲劇の回顧と夢想への逃避が綾なされてゐるが、軟弱な甘さはない。第2楽章は疾走するギャロップで、カペーの弓捌きが閃光のやうに輝く。他の演奏が聴けなくなつて仕舞ふ逸品である。第3楽章ではヴィブラートを抑制した渋い音と、音型の最高音になる前に始まるディミュヌエンドによつて、侘しい詩情が惻々と胸に迫る。終楽章は情熱的なアジタート、自在なアゴーギクと多彩なアーティキュレーションが素晴らしい。コーダ前のノン・ヴィブラートによるオルガン・トーンの神々しさは追随を許さない。

 フランクでは、シャンピのピアノが独創性と詩情においてコルトーやフランソワに及ばないとは云へ、カペーSQの合奏はフランクの神髄に迫つた究極の演奏と云へる。冒頭の張り詰めたカペーのボウイングから厳しく屹立した音楽が刻み込まれる。ふと力が抜ける際の絶妙さは比類がない。終楽章コーダで循環主題が地の底から湧き上がる瞬間に見せるカペーの霊感には凄みがある。

 ドビュッシーは今もつて最高の演奏ではないか。カペーSQの演奏はドビュッシーが生きてゐた時代の空気を吸つた強みがある。よくあるやうに印象派の絵画を意識して、輪郭をぼかした演奏ではない。第1楽章は剛毅な芯が通い、アルカイックな趣に充ちた名演。陰影と抑揚が自在で瀟洒この上ない。第3楽章におけるノン・ヴィブラートの神聖な光沢は類例を見ない。月に捧げる音楽があるとすれば、凡そこのやうなものだらう。半ばでカペーが瞬間的に見せるエスプレッシーヴォは狂ほしい詩人の涙である。ラヴェルも高次元の演奏である。第1楽章は時代がかつたポルタメントが冒頭から妖艶な息吹を掛けるが、次第に鬱屈した情念の絡み合ひとなり頂点を築く。躊躇ひ勝ちに始まる再現部は官能的な倦怠に充ちてゐる。アンサンブルの試金石のやうな第2楽章では緊張が漲つてゐる。第3楽章で織り成す不安気な綾も絶妙だ。神々しい原初的な響きで魅了するドビュッシー、近代人の憂鬱を感じさせるラヴェル、と両曲に対するカペーの読みは実に深い。全音音階を主体とした楽曲であるドビュッシーでは音楽を解放させ、旋法性と部分的に半音階を特徴とした楽曲であるラヴェルでは音楽を緊縛する。実はこれとは逆の演奏が意外と多い。演奏効果の上がるラヴェルでは輝かしく豪奢に演奏され、ドビュッシーでは繊細なニュアンスを作らうとして軟弱に演奏される場合が殆どではないか。

 カペー弦楽四重奏団の残した録音は全て神品であり、各々の曲の最も優れた演奏であると云つても過言ではない。録音が貧しいことに頓着しない方なら皆そうおっしゃるだらう。しかし、それでは贔屓の引き倒しだ。カペーSQの最高の遺産は、何と云つてもベートーヴェンの後期四重奏曲であり、第1に第15番を、第2に第14番を推す。そして、御家藝である近代フランスの作品に止めを刺す。第1にドビュッシーを、第2にラヴェルを推す。次いで、カペーの妙技を讃へる為にハイドンを加へておこう。更に比類なきシューマンも忘れてはならない。これ以上挙げることは全てを挙げることに繋がるから止すが、個人的にはシューベルトに愛顧を感じる。

 カペー弦楽四重奏団のCDは、国内では東芝EMI、新星堂から発売されてゐたが、Opus蔵から優れた復刻が出たので当分はこれを第一に推そう。海外では、Biddulphからマーストンによる良質な復刻が出てゐたが、現在では入手困難である。この他、Chaconneから出てゐた箱物が、実在感のある音質で、霞がかつた印象ばかりあるカペーSQの復刻から芯の強い音を聴かせてくれた。しかし、これも入手困難だ。
http://salondesocrates.com/capet.html
4:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:02:53

ビブラートの悪魔
小説や映画で悪魔が登場するとき、彼はしばしばヴァイオリンを弾いている。「悪魔のトリル」というヴァイオリン独奏曲があるし、ストラヴィンスキーが作曲した「兵士の物語」でも悪魔はヴァイオリンと共に現れる。

何故悪魔はヴァイオリンを弾くのか?その理由のひとつはあのギーギー擦る音が耳障りであるということと、もう一つはそのビブラートが気色悪いということが関係しているのではないかと僕は推察する(「悪魔のトリル」では音を上下に揺らすダブルストップのトリルが多用されている)。

世の中には絶対音感を持っている人が少数ながらいる。彼らは「バイオリンの音を聴いていると気分が悪くなる」と言う。

ビブラートは音の波である。単音をビブラートで延ばすとその周波数には一定の振幅が出来る。そのゆらぎが絶対音感を持つ人にとっては我慢ならないのだろう。

チェンバロ/オルガン奏者でバッハ・コレギウム・ジャパンの指揮者、鈴木雅明さんは

「終始ビブラートを掛けっぱなしの弦楽四重奏の演奏は頭が痛くなって聴くに堪えない」

という趣旨の発言をされている。恐らく雅明さんも絶対音感を持っていらっしゃるのではないだろうか?

こうして考えてみるとビブラートというのは一種の誤魔化しの行為ともいえるだろう。合奏前のチューニングで多少ピッチがズレていても、ビブラートを掛け続ければあたかも合っているように聴こえるのだ。

音楽の先生はビブラートのことを「音色を豊かにする手段」だと生徒に教える。
でも、果たしてそれは本当だろうか?

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代、弦楽奏者はビブラートを掛けずに演奏した。現代フルートはビブラートを掛けるが、バロック・フルートであるフラウト・トラヴェルソはノンビブラートで吹く。

ではいつ頃からオーケストラはビブラート演奏を始めたのだろう?

指揮者のロジャー・ノリントンはそれは20世紀初頭だと言う。

ロマ(流浪の民。最近では「ジプシー」という呼称は差別用語とされている)のヴァイオリン奏法を取り入れ、それが急速に広まったのだと主張している。

彼の説が正しいかどうか僕には分からない。しかし、リストの「ハンガリー狂詩曲」が出版されたのが1853年、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」が出版されたのが1869年。彼のピアノ協奏曲第2番、第4楽章にもロマの旋律が登場する。さらにドヴォルザークには「ロマの歌」という歌曲集がある。

このように19世紀半ばよりロマの音楽に対する関心が高まり、そのヴァイオリン奏法も次第に取り入れられるようになってきたのではないかと想像する。


今、僕の手元にラフマニノフが自作自演したピアノ協奏曲のCDがある。
録音されたのは1929-41年。

驚くのはそのテンポの速さである。現代では、この疾走するテンポでラフマニノフが演奏されることはない。考えるに、そのロマンティックな文脈を強調するために、時代と共に次第にテンポが落ちて溜めて弾くスタイルへと変化してきたのではないだろうか?

テンポが遅くなると、ひとつの音を延ばす時間も長くなる。
ノンビブラートだと間が持たない。
これこそがビブラートで弾くのが好まれるようになった真の理由なのではなかろうか?

「テンポの遅延とビブラートの多用(乱用)は相関する」
というのが僕の提唱する仮説である。


ベートーヴェンの交響曲のスコアには詳細なメトロノームの指示が明記されている。しかし、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、朝比奈ら20世紀の巨匠達はこれを無視し、はるかに遅いテンポで振ってきた。その理由は、驚くべきことに20世紀にはベートーヴェンが指示したメトロノーム速度は間違っていると信じられて来たからである。

その考えに異を唱えたのが20世紀後半に台頭して来た古楽器オーケストラの指揮者アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン、そして延原武春たちである。彼らはベートーヴェンの指示通り演奏可能であり、それこそが作曲家の頭の中に響いた音楽なのだということを示した。

そしてその速いテンポで演奏するとき、ビブラートの存在意義は消滅したのである。その潮流は現在、モダン・オーケストラにも押し寄せて来ている。これこそがピリオド・アプローチであり、21世紀の古典派音楽ルネッサンスなのだ

(参考までにベートーベンのメトロノーム指示に対するノリントンの考察をご紹介しておく。こちらからどうぞ)。
http://www.kanzaki.com/norrington/note-sym9.html

20世紀の音楽教育のあり方は正しかったのか?ということが今、問われようとしている。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_bf7e.html


知られざるヴィブラートの歴史

ルネッサンスからバロック期、そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン(1827年没)の時代に至るまで、装飾音以外で弦楽器や管楽器に恒常的ヴィブラート(伊: vibrato)をかける習慣はなかった(当時の教則本などが根拠となる)。

それを現代でも実践しているのが古楽器オーケストラ、例えば日本で言えばバッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、大阪ではコレギウム・ムジクム・テレマン(テレマン室内管弦楽団)等である。

19世紀半ばになると、ロマ(ジプシー)の音楽に関心が高まる。リスト/ハンガリー狂詩曲(1853)、ブラームス/ハンガリー舞曲(1869)、ビゼー/歌劇「カルメン」(1875)、サラサーテ/ツィゴイネルワイゼン(1878)等がそれに該当する。

それとともにジプシー・ヴァイオリンのヴィブラートを常時均一にかける奏法(continuous vibrato)が注目されるようになった。これは従来の装飾的ヴィブラートが指でするものだったのに対し、腕ヴィブラートへの変革も意味した。


ここに、continuous (arm) vibratoを強力に推進する名ヴァイオリニストが颯爽と登場する。フリッツ・クライスラー(1875-1962、ウィーン生まれ)である。20世紀に入り急速に普及してきたSPレコードと共に、彼の名は世界的に知られるようになる。

音質が貧弱だったSPレコードに於いて、甘い音色を放つヴィブラートという武器は絶大な威力を発揮した。その”ヴィブラート垂れ流し奏法”と共に弓の弾き方(ボウイング)にも変化が起こる(このあたりの事情はサントリー学芸賞、吉田秀和賞を受賞した

片山杜秀 著/「音盤博物誌」-”さよなら、クライスラー”
http://www.amazon.co.jp/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%9C%E7%A7%80%E3%81%AE%E6%9C%AC-1-%E9%9F%B3%E7%9B%A4%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6/dp/4903951049/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1368433753&sr=1-1&keywords=%E9%9F%B3%E7%9B%A4%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6

に詳しく書かれている)。

一方、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はノン・ヴィブラートを貫いていた(1938年にレコーディングされたワルター/ウィーン・フィルのマーラー/交響曲第9番でもヴィブラートはかけられていない)。

クライスラーはウィーン・フィルの採用試験を受けるが、審査員の一人だったコンサートマスター、アルノルト・ロゼは「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と言い、「音楽的に粗野」という理由でクライスラーを失格させた。

しかしマーラーの妹と結婚し、自身もユダヤ人だったロゼはナチスのオーストリア併合直後に国外追放となり、ロンドンへ逃れ客死。娘のアルマはゲシュタポに捕らえられアウシュビッツで亡くなったという

(オットー・シュトラッサー 著/「栄光のウィーン・フィル」音楽之友社)。
http://www.amazon.co.jp/%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E2%80%95%E5%89%8D%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E9%95%B7%E3%81%8C%E7%B6%B4%E3%82%8B%E5%8D%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC/dp/4276217806/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1368433848&sr=1-1&keywords=%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB


第2次世界大戦後、1950年代に入りオーケストラは大きな転機を迎える。スチール弦の普及である(これは鈴木秀美さんのエッセイに詳しい)。

それまで弦楽奏者たちは概ね羊の腸を糸状に縒ったガット弦を使用していた(パブロ・カザルスもガット弦でバッハ/無伴奏チェロ組曲をレコーディングしている)。ガット弦よりスチール弦の方が強度に優れ切れにくく、湿度の影響も受けない。おまけに値段も安価である(消耗品だからその方がありがたい)。だから皆、一気に飛びついた。しかし柔らかい音色のガット弦に対し、金属製のスチール弦は硬質な音がする。

ヴィブラートの普及には様々な説があるが、その音質の違和感を緩和するために恒常的ヴィブラート奏法(continuous vibrato)が推奨されるようになったのも、理由の一つに挙げられるだろう。


その過程に於いて、フルートやオーボエなど管楽器にもヴィブラートが普及していった。フルートの場合、以前は木製のトラヴェルソであったが、19世紀半ばからリングキーを採用したベーム式が普及し始め銀製の金管楽器に取って代わられる。故に木管らしからぬ金属的響きを、ヴィブラートによって緩和する目的もあったのではないかと推測される。


ヴィブラートの普及に呼応して、オーケストラの演奏速度は遅延の方向に向かう。速いテンポではヴィブラートを十分に効かせられないからである。

ここに1920年代から40年にかけ、ラフマニノフがオーマンディやストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団と共演した自作自演によるピアノ協奏曲の録音がある。驚くべきは、現代とは比較にならないくらい速いそのテンポ感である。20世紀の間にラフマニノフがロマンティックな文脈で捉えられるよう変化していった過程がそこに垣間見られる。

ベートーヴェンの交響曲も次第にロマン派以降の価値観で解釈されるようになり、遅くなっていった。ベートーヴェンがスコアに指示した極めて速いメトロノーム記号に則して演奏すると、ヴィブラートをかける暇などない。

そこで、

•ベートーヴェンの時代は器具が正確ではなかったのでスコアに記されたメトロノーム表記は必ずしも信用できない。

•耳が聞こえなくなってから、ベートーヴェン本人が考えているテンポより速い表記になっている可能性が高い。


などといった、こじつけにも等しい説が登場した。しかし、考えてみて欲しい。まず作曲者本人を疑うとは何と無礼なことであろうか!
スコアに記されたテンポで十分演奏可能であることは、延原武春、ブランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンら古楽系の指揮者たちが既に証明済みである。


こうやってヴィブラートの歴史を見ていくと、現在盛んに行われるようになってきたピリオド奏法(=モダン楽器を使用して古楽器風に演奏すること)は理に適っているのか?という疑問も生じてくる。つまり、

金属的響きのするスチール弦をノン・ヴィブラートで演奏することに果たして意味はあるのだろうか?

という問いである。そういう意味でピリオド奏法をする弦楽奏者達は今一度原点に立ち返り、スチール弦からガット弦に張り替える勇気を持つ必要もあるのではないかという気が僕にはするのだ。

ちなみにダニエル・ハーディングやパーヴォ・ヤルヴィが音楽監督を務めてきたドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは奏者全員がガット弦だそうである。また名ヴァイオリニスト ヴィクトリア・ムローヴァも、最近ではガット弦を張り、バロック弓を使用している。

ヴィブラートにまみれ、スコアに記されたメトロノーム指示を無視した、遅くて鈍重なベートーヴェンを未だに「ドイツ的で重厚な演奏」と褒め讃える人々がいる。ドイツ的って一体、何?僕には皆目、理解が出来ない。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/20-7b10.html
5:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:03:16

「ピリオド奏法について考える」

ヴィブラートについていえば、そもそもニコラウス・アルノンクールが、子供のころ(1920年代~30年代)に生で聞いていた演奏というのは、20世紀半ばからのようなヴィブラートではなかったと証言している。

また、その頃は現在の様なスチール弦オンリーではまだなかったことは、日本において当時使われていた楽器が屋根裏物置から発見されるたびに裸のガット弦を張った状態だということからも、ある程度は察しがつく。1920年代を体験した人がまだ現役でがんばっている。決して貧弱な録音だけからなんとか想像できるような遠い昔のことではない。

1920年代以前の録音を聴いても、人によってバラバラ。いまの古楽器奏者と同じようなボウイングやヴィブラートをする人もいれば、20世紀後半の「巨匠スタイル」の人もいる。そして、忘れてはならないのは、20世紀はじめであっても、曲によって弾き方をかなり使い分けているということ。

ヨアヒムもブラームスの曲とバッハの曲では全然弾き方が違う。そしてロマン派の典型的装飾であるポルタメントを多用する時には決してヴィブラートと同時に使わない、という鉄則をきちっと守っている人もいる。いずれにせよ、19世紀から20世紀はじめにかけてもなおノンヴィブラート奏法が行われていたことは否定はできないということ。

それよりも、記譜法の変化や和声や音型のとらえ方、アーティキュレーション、舞曲のリズム等について述べているものがほとんどないというのには驚きました。少なくとも、バロック、古典派、前期ロマン派までの記譜法というのは、時代だけでなく地域によっても、作曲家によってもかなりばらつきがあったということ、そして当時の記譜法についてある程度勉強しないと楽譜に書かれたそれぞれの記号の持つ意味(または可能性)を理解できないこと。記号の意味がわからなければそもそも楽譜を正しく読んだことにはならない。これは古楽器か現代楽器かという問題などではない。まして、好き嫌い、趣味の問題では到底ない。意味、可能性がわかってその範囲内で趣味が問われる。

当時の響き、演奏など再現できるわけではなく、あくまで現代の聴衆の耳、感性に合わせて演奏するしかないというのはごもっともな意見であり、古楽器奏者もそのことは十分に承知している。ただし、それは、楽譜に書かれた記号の意味を学んだうえでのことというのが前提である。

平安時代の源氏物語や枕草子は、そこまでさかのぼらなくても江戸時代の作品は、現代人には理解できないかといわれれば、現代人は現代人なりに理解して楽しむより他はない。しかしながら、そもそも「をかし」とか「わろし」のように、言葉のもつ意味が現代と違うまたは文法が違う場合には、同じ漢字、ひらがなで書かれていたとしても、現代の言葉の意味で理解してはいけないと言うことは、中学生でも知っている。古語辞典を引きながらでないと読めない場合もある。せめてそのくらいのことはわかった上で、現代人の感覚で理解、楽しんでください。これが、ピリオド奏法をやっているまともな指揮者の考えていることだと思います。

モンテヴェルディは徳川家康と同時代人、バッハは徳川吉宗と同時代人、モーツァルトはは松平定信と同時代人である。かなり昔の曲を我々は演奏している。やはり古語辞典が必要なのでは、と思うのは極自然な流れです。

これらを学んだ上で、なおかつ、楽譜に書かれた記号の意味をあえて別の意味に解釈して演奏することの是非についてはここでは問いませんが、それってよほど自信、確信がないとできないのでは。

それはともかく、たぶん、ピリオド指揮者(エセ、にわかを除き)は、こう思っているでしょう。

「ヴィブラートなんかなくたって、彼らの音楽はこんなにすばらしく、魅力的なんですよ!」

って。やるべきことをやっていれば(でもそれがなかなか技術的にも難しくて、コンクール優勝者クラスでも一朝一夕にはできないことは、トッパンホールでも実証済なのではありますが)、ヴィブラートがなくたっていくらでも表現できる。ボウイングテクニックで表現できることはいくらでもあるということでしょうか。確かに、ヴィブラートがなければこの曲は魅力的じゃないなんて言ったら、作曲家は怒りそうですね。作曲家はヴィブラートを聞かせるために曲を書いているわけではないですから。「ヴィブラートをかけないで」という指揮者の指示は、きっと「ヴィブラートがなくたって、あなた方ほどの実力(技術、音楽性)があれば十分に魅力的な表現ができるでしょう?」という問いかけでもあるのでしょう。演奏家もプライドにかけて「自分たちには無理」なんて口に出せないものだから、「やります」ということになる。すると、ヴィブラートをかけたときにもっと魅力的になる。

ヴィブラートがなくたって十分に魅力的だけど、もっと魅力的にするためにヴィブラートを使うのってありだと思います。他の方法による表現のじゃまにならない限り、あまり本質的なことではないのかなとも思います。

それと、ピリオド奏法にはモダン楽器にバロックボウ、またはクラシカルボウなどという発想には正直「?」です。安物のバロックボウでモダン楽器を鳴らしきるのはかなり大変です。高級モダンボウに比べて魅力的な音色が出るなどという保証はまったくありません。音楽の本質を崩さない範囲内で、モダンボウを使ってボウイングテクニックでカバーする方がよいのでは、と個人的には思っています。私自身はモダンボウでそこまでやるほどの腕がないので、泣く泣くクラシカルボウで妥協しましたが、音色はさびしい限りでした。弓の形云々もあまり本質的なことではないと思います。特に古典派以降の場合には。弦を裸ガットにするというのはそれなりに意味があるのかもしれませんが。

ピリオド奏法って、日本ではまだまだきちっと理解されていないのだなあ、誤解、偏見がまだまだあるのだなあ、と改めて感じて、ちょっと怖くなりました。このシリーズやめようかな・・・。
http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2008/03/post_7000.html


ノンヴィブラートを斬る

ノンヴィブラートといえば、ピリオド奏法の象徴。アーノンクールやノリントンの練習風景でも、「もし可能であればヴィブラートをかけないでいただきたい」というところが必ず映し出されますし、ピリオド奏法の特徴として最初に挙げられるのもノンヴィブラートです。

L.Mozartはもちろん、19世紀後半から20世紀はじめの大提琴奏者でありJ.ヨアヒムの弟子でもあるL.アウアーがなんと1920年ころ(アーノンクールは1929年生まれ。そのころはすでに初期の古楽器復興運動が起きていた)に執筆した「ヴァイオリンの奏法」ですら、まだノンヴィブラートを推奨しているということ、さらにJ.ヨアヒムのバッハ演奏や戦前のオーケストラの録音などを聞くとノンヴィブラートだなどという色々な理由で、ノンヴィブラートが古典は以降の音楽についても推奨されます。

馬場二郎さんが1922年に実際にアウアーとやり取りしながら翻訳した「ヴァイオリンの奏法」からヴィブラートに関する記述をご紹介しましょう。なお、1998年にシンフォニアから新しい翻訳が出版されていますが、1922年当時の日本における受容も合わせて雰囲気を知っていただくために、あえて当時の訳を使わせていただきます。ただし、旧字体は新字体に直します。

四.音の出し方 三.震音(Vibrato)

震音-(中略)-の目的は或る樂句に對して-そして又、その樂句内の単音に對してさへも-もつと印象的な資質を与へるためなのです。此震音はポルタメントと同じやうに、始めは其効果をたかめて、歌うやうな美しい樂句乃至は単音を装飾し美化するためのものでありました。所が、今では不幸にして、歌者も絃楽器の演奏家も(中略)此震音の効果を濫用いたします。従って、そのために最も非芸術的な性質の災禍に巻き込まれてしまうのです。(中略)

この震音を濫用する癖のある演奏家乃至は演唱家の中には、それが自分の演奏乃至は演唱にさらによい効果を与えつつあると思ひ込むで居る人達もあれば、又、もっとひどいのになりますと、この震音を用ひる事が自分の演奏-悪い音の出し方や、間違った発声法-のあら隠しには至極便利な発明方案であると信じて居る人達さへもあります。然し、こんな小細工は無用と云ふ度を越えて、遙かに有害です。(中略)

如何なる場合にでも、震音は出来得る丈け謹み深く用ひられるのが最も望ましい事を記憶して居て下さい。この方法を余りに惜しまずに用ひますと、反ってあなた方がそれを用ひる眞の目的を破壊してしまいます。(中略)私は一つの樂句の中で互に連絡を保って居る持続音の場合にでも、決してそれを濫用しないやうに忠告して居ます。

とこんな感じです。途中ではもっと延々とヴィブラートを濫用する人々と其の弊害について述べています。ノンヴィブラートが基本で、ヴィブラートは必要な時にコントロールしてかけるものであって、無意識にすべての音にかかってしまうのは病気、肉体上の欠陥とすら言っています。

これは、1760年代にL.Mozartが述べていることとほとんど同じです。我々が1950~60年代に「伝統的だ」と思っていた演奏スタイルについて、そのわずか30年前には真っ向から反対する大提琴家がいたというのです。「伝統」というのがいかにあいまいなものかがおわかりいただけると思います。アーノンクールの子供のころは、まだこんな時代だったのです。

皆さんはこれをお読みになってどのように感じられるでしょうか?
この記述をもって、ノンヴィブラートが正しいといいきることはできるでしょうか?

しかし、よく読んでみてください。L.Mozartもアウアーも、ヴィブラートを無意識にすべての音にかける人が少なからずいることを嘆いているのです。つまり、ヴィブラートをすべての音にかけるべきという意見や演奏もかなり存在していたということです。たとえば、ジェミニアーニなどはこれよりはヴィブラートの使い方について積極的です。ヴィブラート積極派の残した文献はあまり紹介されないので、ノンヴィブラート派の意見ばかりがすべてであるような印象を受けますが、そうではありません。では、どちらが一般的で、どちらが「よい趣味」として適切なのでしょうか?

結局、過去のヴィブラートに関する記述だけでは、実際の演奏でヴィブラートをどう処理するかという結論は出ないのです。また、先日のアーノンクールの来日公演を聴いても、ウィーンフィルはもちろん、CMWですら実はかなりヴィブラートを使っています。では彼らはピリオド奏法ではない?

はっきりといえることは、「ノンヴィブラート奏法」というのは厳密に言えば間違いであり、ヴィブラートが無意識にかかってしまうのではダメで、ヴィブラートは音楽的に必要な時に自らが使いたいようにコントロールして使うことができ、音楽的に使いたくない時には使わないことができることが必要(アウアー流に言えば、「あなた方の主人としてでなく、あなた方の従僕として震音を適宜用いる」)だということです。

指揮者からここはヴィブラートかけないで、と言われたときにノンヴィブラートで演奏できるということです。ノンヴィブラートを表現の手段として使えるということです。これが簡単そうでいてなかなか難しい。無意識にかかってしまっていたので、慣れないうちは意識してかけないようにすることにかなり神経を使ってしまいます。一方、ヴィブラートであら隠しをしていたところが隠せなくなることで、音程やボウイングによる表現にもより一層注意を払わなければなりません。

それでは、具体的に何がヴィブラートをかけるかノンヴィブラートで行くのかを決めるのでしょうか?他にも色々ありそうです。
http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2007/01/post_7c58.html
6:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:03:45

ヴァイオリンなどの弦楽器は17世紀から18世紀にかけて一旦完成したのだが、19世紀から20世紀にかけてかなり改造されて今日に至っている。改造の目的はおもに音量の増大であった。その成果は歴然としている。

筆者は映画「耳をすませば」の音楽録音のおり、モダンヴァイオリンと古楽器であるヴィオラ・ダ・ガンバやリュートのセッションを行ったことがあるのだが、モダンヴァイオリンの音が大きすぎて他の楽器の音をかき消してしまうのに驚いた。ヴィオラ・ダ・ガンバの音などは蚊の鳴く音のように感じられてしまうほどで、ヴァイオリンの音が如何に強大になったかを思い知らされた。
音の大きさの違い以外での大きな違いは、弓の形状の違いからくるフレージングの違いである。
図の上がバロック・ボウ、下がモダン・ボウである。バロック・ボウは短いだけでなく毛の量がモダンの3分の1ほどしかない。短くて毛の薄い弓で、なるたけ派手に鳴らそうとすれば弓を大きく使って素早くアップダウンを繰り返す、ということになる。

ヤープ・シュレーダーの教本によると、リズムの重心になる強拍はかならずダウン・ボウで弾くように勧めている。こんなわけで、バロック時代の弦楽器は音は小さいけれど、歯切れのいいリズムを強調した感じのフレージングを用いていたとされるのである。まあ当時はマーラーのシンフォニーに出てくるような息の長いメロディーは滅多に無かったので、話の整合性はとれているわけだ。


もう一つ重要なポイントは、ヴィブラートの扱い方だ。

ヴァイオリンというと、どの音にもヴィブラートがべったりとついているイメージがあるが、実はこれは20世紀に入ってからの慣習だったのだ。20世紀になったばっかりの頃の、猛烈に古い録音を聴いてみると確かにヴィブラートを殆どかけずに弾いているのが確認できる。

このことは声楽についても同じなのだ。ヴィブラートべったり演奏がはびこるようになったのは1920~30年代あたり、ちょうどヴァイオリンの弦がガットからスチールに変わり始めた頃とかさなるらしい。バッハの頃も、もちろんノンヴィブラートが普通で、特に音を強調したいときだけ装飾音としてヴィブラートを使っていたらしい。

ジャズ歌手でもアニタ・オデイやチェット・ベイカーなどを聴けば、そんな風にヴィブラートを効果的に使っている。こんな風にバロックとジャズやポップスの共通点は結構多い。
http://www.jizai.org/wordpress/?p=243

ノン ヴィブラートはうまいヴィブラートに劣らぬ表現力があると思う!

ヴァイオリン演奏においてヴィブラートを常にかける伝統は実は最近出来たもので、ブラームスのヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1907没)の録音では、ロマンチックな曲をノン・ヴィブラートで弾いてる。

その代わりポルタメントを多用してる。

1900年代半ばの巨匠たちのスタイルももう今のスタイルとは違うし、50年後ヴァイオリン演奏はどうなってるか分からないね。
http://ameblo.jp/gentlemennet/entry-11140003334.html


残念ながら現在の世界中の名弦楽器奏者の大半が、19世紀までに確立されて来た、大切な本来の弦楽器奏法の基礎を学ばなくなってしまったのです。言い換えれば伝統が受け継がれなくなってしまったのです。もうそういう状態になって数十年いや百年近くにもなりましょうか。もちろんそういった残念な事態に陥ってしまっていること自体、彼らは気付いてすらいません。

19世紀までの弦楽器の先生から見ると何と怠惰な演奏だって一喝されてしまうでしょう!! あの有名なヨーゼフ・ヨアヒムもサラサーテもヴィニェアフスキーも、今演奏を聴いてみると、そういった基礎ができていました。でなければ事実上のノンヴィブラート奏法であった世紀の大ヴァイオリニストの響きなど、誰にも賞賛されなく、もちろん現在にまでその名声が受け継がれるなどという現象はおきなかったでしょう。

ただ、基礎が失われてしまった現在のオーケストラで、完璧にピリオド奏法、すなわち弦楽器においては、弓使い(管楽器では息使い)のみによる微妙なニュアンス付けだけで音楽を、espressivoを表現するという本来の姿を再現しようとしても、現実には残念ながら限られたわずかな練習時間では、その基礎を徹底できなく、結果として中途半端でただヴィブラートが無いだけの寒々とした非音楽的な響きになってしまう
http://www.naito-akira.com/archives/230


20世紀に流行った即物主義的演奏態度のおかげでチャイコフスキー作品の演奏にはインテンポが定着してしまったように思う。また、テンポとともにポルタメント奏法も徹底的に排除されてしまった。

今日、ヴィヴラート奏法の是非が云々されている中、ポルタメントやテンポルバートの問題がまったく問題になっていないことには大きな疑問を感じる。

ノンヴィブラートの姿勢だけで自分は正しいと思い込んでいる演奏家の不勉強さと無責任さには疑問を感じる。
http://mine21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/10/64_f6f3.html

バイオリンのテクニック (ビブラート)
http://www.youtube.com/watch?v=O0Ju1_3aPvs

バイオリン ビブラートの練習 atsushi-violin.avi
http://www.youtube.com/watch?v=supkzL3v5Rg

バイオリン ビブラートのかけ方【実践編】
http://www.youtube.com/watch?v=y0a9ZaLl508

ポジション移動とポルタメントの関係atsushi-violin.avi
http://www.youtube.com/watch?v=JOsqOtVAOUQ
7:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:04:12

私は70歳台の“青年”ですが、学生時代に弦楽器をやって以来ますますクラシックに傾斜しております。特にヴァイオリンものが好きですが、ヴィブラートは絶対必要と感じています。

例えばシューマンのチェロで弾く「白鳥」などをヴィブラートなしで聴くことを想像すると、何と味気ないものになることでしょう。バッハのあるジャンルの曲などはヴィブラートなしでもそれなりに聴けますが、モーツアルト以降ロマン派までの曲には絶対ヴィブラートが必要と感じています。
投稿: 小嶋重雄 | 2007/01/21 11:53
バロック時代も含めて、ヴィブラートをまったく使うべきではないということを主張している人は、私の知る限り誰もいません。一方で「濫用」は、塩や胡椒を入れすぎた料理のようなもので、辛いばかりで味わいがないし、素材のうまみも消してしまうのと同じように、常時均等均質なヴィブラートは音楽のうまみを消してしまいかねないということはアウアーはじめ多くの方々が述べているところです。

さて、私は演歌歌手のヴィブラートがピリオド奏法のヴィブラートにとても似ていると思っています。彼ら、彼女らは、すべての音、言葉に均等均質なヴィブラートをのべつかけるということは決してありません。森進一のヴィブラートは独特ですが、「おふくろさん」と歌う時にヴィブラートはかかっているでしょうか?まさにおふくろさんに語りかけているわけで、美声にヴィブラートをかけなくても心にしみる表現ができるいい例です。初期バロックで使えそうな表現です。美空ひばりの歌い方は、ピリオド奏法における理想的なヴィブラートの使い方に極めて近いのではと思います。ヘンデルとかでも使えそうです。

ヴィブラートの大きさや早さも雰囲気に影響を与えますね。音のはじめはノンヴィブラートで、弓でクレッシェンドしながら徐々にヴィブラートをかけていくようなやり方もよく使われます。逆に言えば、常に同じようなヴィブラートをかけるというのは、弓でクレッシェンド、デクレッシェンドをやらずにいつも同じ音量で同じ音色で弾いているのと同じようなものです。

というように、まずボウイングでの表現があって、その効果をさらに高めるためにヴィブラートを添えるというのが、ピリオド奏法に見られる考え方ですが、演歌歌手に見るように、決して特別なことではありません。世界中の歌のほとんどは(シャンソンもバラードもジャズも)演歌のようなヴィブラートの使い方をしているのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2007/01/post_7c58.html


うーん、音楽ファンはみんなヴィブラート大嫌い、ポルタメント大好きなんだけど、弦楽器をやっている人は反対に みんなヴィブラート大好き、ポルタメント大嫌いなんですね。

要するに、二流演奏家にはポルタメント奏法は無理という事ですね。
8:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:05:26

バイオリンの発展

バイオリンの聖地、クレモナ

16世紀後半から18世紀前半にかけて、北イタリア・ロンバルジア地方の小都市クレモナはバイオリン?製作の中心地になり、約2万個の名器が作られました。そしてクレモナのバイオリン製作家は家ごとに一派を成し、その技術は代々受け継がれたのです。最も有名な製作家の名前を挙げると、アマティ一族が5人、ストラディヴァリ一族が3人、グァルネリ一族が5人。他にもカルロ・ベルゴンツィ作のバイオリンは名器として知られています。

これらのバイオリンは現代にいたるまで一流のバイオリニストに弾き継がれ、今でも有名なバイオリニストの多くが、このクレモナの名器を愛用しているのです。


名器の特長は製作者にそっくり?

ストラディヴァリ(左)とグァルネリ(右)

アントニオ・ストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスは、ほとんど同じ時代にクレモナで活躍したバイオリン?の名工で、どちらも史上最高の製作家と呼ばれ、今も彼らの作った名器が珍重されています。けれども彼らの楽器を比べてみると、音の性格はかなり異なっているようです。

アントニオ・ストラディヴァリは1644年ごろ生まれて90歳過ぎまで生き、最晩年までバイオリンを製作していたといいます。推定製作本数は約1100本。現在約600本が残っていますが、これは1人がつくった数としては驚異的です。彼の楽器は隅々までていねいに作られていて、華々しく艶(つや)のある音が特徴です。

一方、グァルネリ・デル・ジェスは1698年から1744年の生涯を破天荒に生きた人。お酒もよく飲み、刑務所に入ったこともあると伝えられています。製作本数は推定約300本で、そのうち約140本が現存しています。彼のバイオリンは、作りも荒々しく、エネルギッシュで深い、迫力のある音がするんですよ。

モダンとバロック、その違いは?

バイオリン?は誕生した時にすでに完成された姿をしていました。そのためその後の改良もごくわずかです。その改良というのは、19世紀に、時代の流れに対応するために行われたもの。ひとつは指板を胴の中央まで長くしたこと。これは特にE線の高音をもっと多く弾けるようにするためでした。もうひとつは、音量と輝かしさを増すために、駒を高くし、同時に指板の位置も高くして、弦の張力を増すようにしたこと。

古い名器にこの改良を加えた楽器や、それを真似て新しく作った楽器を一般に「モダン・バイオリン」、そうした改良を加えない、古いかたちのままのものを「バロック?・バイオリン」と呼んでいます。現在では、ストラディヴァリやグァルネリの名器でも、ほとんどすべてがモダン・バイオリンになって使われています。
http://www.yamaha.co.jp/plus/violin/?ln=ja&cn=10102&pg=2

古楽器とピリオド奏法   小池はるみ

■バロックヴァイオリンとモダンヴァイオリンのちがい

 まずは楽器のお話を。

 モダンヴァイオリンに比べるとバロックヴァイオリンはネックがやや太く、駒は低くカーブがなだらか(重音が弾きやすい)。指板は短く、表板に対する角度も緩やか(派手なポジションチェンジの必要がなかった)。顎当て、肩当ては使わず(金属製のネジがなかった)楽器は鎖骨の上に乗せるだけ。初めはグラグラして落としそうになりますが、慣れるとその方が良く鳴るし軽やかに弾けるようになります。バロックヴァイオリンは実際軽いのです。

 指板が長くなったのはパガニーニ以降。ストラディバリウスも元々はバロック楽器だったのを今はみんなモダンに改造してあります。革命によって貴族社会が終わり、音楽が市民のものになると、コンサート会場もやがて宮殿からホールへと移り、より大きな音が求められるようになり、楽器のテンションも高くなっていきました。今では現存するオリジナル楽器はほとんどないので、バロックヴァイオリンを手に入れるには、古い楽器を再改造するか新作のバロックヴァイオリンを注文しなければなりません。でもいきなりバロックヴァイオリンを買わなくても大丈夫。手持ちのモダンヴァイオリンにガット弦を張り、バロック弓で弾くだけでかなりバロックの響きに近づきます。私もそこから始めました。当時も、ある時一斉に楽器が変わったわけではなく、様々な段階を経ながら少しずつ変わっていったのです。

■ガット弦について

 古楽器にはガット弦を張ります。ガットは羊の腸(牛の腸もある)を乾燥させたもので、そのまま使うのがナチュラルですが、夏などは汗ですぐに「裂きイカ」状態になって切れていまうので、ワックスのようなものをコーティングして切れにくくしたものや銀を巻いたもの、二本をより合わせたものなどを使うこともあります。 長さは120センチ。チェロは一本を一回で使いますがヴァイオリンは半分に切って二回使えるのでちょっと得をした気分になります。弦はヴァイオリン用チェロ用という区別はなく、太さを自分で選んで購入します。太さは音色やピッチ、楽器との相性や弾きやすさなどを考慮して選びます。ガット弦を楽器に張る時は自分でループを作ります。弦の端をライターで焼いておくとほどけません。


■弓(ボウ)について

 バロック・ボウは元々、あの矢を引く弓と同じアーチ形をしていました。木は弾力の強いスネイクウッドを用い、ネジはなく、弓の毛を張る時は手元にフロッグをはめ込み、緩める時には外すというシンプルな仕組みでした。 毛は馬の尻尾で、白毛だけでなく黒毛も使いました。やがて張り具合をネジで調節できるようになり、丈も長くなり、またアーチがだんだん毛と平行になり(クラシカル・ボウ)、さらに逆反りになり(モダン・ボウ)、ダウンとアップ、弓の先・中・元の音量差をなくすことに成功しました。産業革命で工業製品が出回るようになり、どの製品も同じ品質が保証されるようになると、人々は音楽にも均一を求めるようになったのです。でもそれはハンドメイドの味わい、つまりバロック弓がもたらしていた陰影や躍動感を失うこととなりました。これが、現在私達がモダン楽器でピリオド奏法をする上での大きな問題です。   


■ピリオド奏法  

 ピリオド、つまりその「時代」に演奏されていた方法を再現し、作曲家の意図をより忠実に表現しようというのがピリオド奏法です。演劇の世界で言えば、時代劇には時代考証(暮らし、衣服、言葉使い、立ち居振る舞い、等々…)が欠かせませんね。それと同じです。

 ピリオド奏法については文献が色々出ているので、ここでは実際に私達の演奏の際に心得ておきたい基本的なものだけを取り上げることにします。基本がわかると、ソリストや先生方の指摘がバロックとしての常識なのか、先生独自の解釈なのかが判別できるようになります。

(1)ピッチと音律

・音律について。
 音律は平均律、純正調、バロッティ、ヤング、ピタゴラス、ミーントーン等々多種ありますが、ターフェルではバロッティ音律で演奏していますね。私は今まで純正調と平均律しか知りませんでしたので慣れるのが大変でした。バロッティの5度は純正調よりも狭いので、Aから順番に純正5度で調弦してしまうとGやCで誤差が生じてしまいます。Aより低い弦は少し高めに、E線はやや低めに調弦します。でもこれもやはり個人の感覚の差があってピッタリ一致しないので、各自が「古典音律チューナー」(古楽器奏者は大抵持っています)を買って練習するのが一番ですが、わざわざ買うのはちょっと…という方は、調弦の時に弦を一本ずつオルガンに合わせ、合奏の時には極力オルガンを聴いて合わせ(特に通低)ればかなりバロッティに近づくことができますので是非試してみて下さい。そうすれば全体に音程がもっともっとスッキリして和音が透明になると思います。


・ピッチについて。
 ご承知の通り、バッハの頃のバロック・ピッチは a=415、モーツァルト・ベートーベンの頃の古典ピッチは a=430~435、モダン・ピッチが a=440~443(ヴィヴァルディの頃のイタリアでは a=460前後との記録があります)と少しずつ上がってきています。 これも、よりダイナミックに、よりソリスティックに、という時代の要請でしょう。ターフェルではモダン・ピッチでバッハを演奏していますね。バロック・ピッチとモダン・ピッチとの差は約半音。聴いているとあまり違和感がないように思いますが実際に弾くとテンションが全然違います。私達もできればあまり力まずに、バロック・ピッチのイメージで弾きたいものですね。


(2)メッサ・ディ・ボーチェ

 鳴り始めが弱く、次第に真ん中が膨らみ、最後に減衰して消えるのがメッサ・ディ・ヴォーチェで、これがバロック時代最も美しい音のシェイプと考えられていました。

 バロック弓はまさにこの形をしていますね。モダンに比べ元が軽く、真ん中の張りが強く、先が弱いのでメッサ・ディ・ヴォーチェに最適なのです。 でもバロック弓を持てば自動的にメッサが出来るわけではありません。 私の最初のレッスンも、大半がa=415のバロッティ音律による調弦とこのメッサ・ディ・ヴォーチェの弾き方に費やされました。 もちろんイメージさえあればモダン弓でもメッサは可能です。是非美しいメッサ・ディ・ヴォーチェを練習してみて下さい。


(3)ヴィブラートとトリル

 モダンでは全ての音にヴィブラートをかけ続けますが、バロックではヴィブラートはトリルの一種とみなされ、装飾として部分的効果的に使われました。ですからまずは全ての音をノンヴィブラートで弾けるようにしてからバロック式ヴィブラートを練習すると良いのですが、実際には自分では全くかけていないつもりでも無意識にかけていたり、ノンヴィブにした途端に音程が悪くなるなど、なかなか一朝一夕にはいきません。

 ヴィブラートは立ち上がりからいきなり速く掛けるのではなく、ちょうど大きな鐘を打った時のようにロングトーンの後半から自然に揺らして消えるのが良いのです。また細かい音符には決してかけないのが原則です。

 一方、トリルには様々な種類があり、その弾き方も実に多彩で驚くばかり。符点音符のように揺らしてかけたり、右手でトントントトト…とかけたり、特に初期バロックでは単純なメロディーラインを自由自在にトリルで飾り、演奏者の腕を披露します。それが次第に作曲家自身が装飾を楽譜に記すようになりました。ですからバッハなどを弾く時には、どの音がメロディーの芯となる音でどの音が装飾なのかを判別しなければなりません。また各フレーズの最後のカデンツには楽譜に書いてなくてもトリルを付ける習慣が残っているので、フレーズの始まりと終わりをしっかり把握して弾きたいと思います。


(4)表と裏、対比、イネガル、繰り返し、装飾など

 バロックでは同じ音形や類似するフレーズが繰り返される時には必ずどちらかを裏にして表と対比させるようにします。二回出てくる時はエコーにする場合が多いですが、まず弱く弾いてから二回目念を押すように強く弾くこともありますし、三回繰り返される場合には強ー弱ー強にするなど、ニュアンスも変えて必ず陰影を作ります。(ゼクエンツはまた別の項で扱います)

 ひとつの音形の後に違う音形が出てきたらアーティキュレーションをはっきり変えて、音形の違いを際立たせます。 8分音符や16分音符が連続する時には強拍を長めに弱拍を短めに(符点でもなく三連でもない感じで)弾き、不均等(イネガル)を心がけます。 リピート記号で繰り返したり、ダ・カーポした場合にはトリルや装飾で変化をつけます。 このように、隣り合った音、音形、フレーズ、パターンなどを決して同じように弾かないのがバロックの原則です。

 考えてみますと、当時は不平等、不均一が当たり前の時代でしたから、人々にとっては音楽もその方が自然だったのでしょう。いびつな真珠(バロック)を味わい、いびつを生かして美しく配置することにこの時代の美意識を感じます。


(5)拍子のヒエラルキー

 二拍子は強・弱
 三拍子は強・弱・弱
 四拍子は強・弱・中強・弱

 これが拍子の力関係です。なんと拍にも身分の違いがあるんですね!今でこそ男女平等、子供達も全員平等ですが、日本も家長である父親と跡取りの長男が偉かった?時代がありましたから、それを連想すると分かり易いかも知れません。 1と3は神を表すので強く、2と4は人間を表すので弱く…とも聞きました。ご参考までに。

 ただ、これを実際に演奏するのは大変です。基本的には強をП(下げ弓)で弱を∨(上げ弓)で弾きますが、モダンボウではどうしても∨が大きくなってしまうので、細心の注意が必要です。私も初めは一生懸命頭で考えながらゆっくり弾いてみて、次第にテンポを上げて練習しました。今もまだちょっとぎこちないです。でもこの拍感こそ、バロックの生き生きとした躍動感を生み出す基本なので、是非とも身につけたいものですね!


(6)フレーズ(カデンツァ、タイ、和声など)

 バロックでは楽譜は右から左へ見よと言われます。つまり、まずフレーズの終わりがどこかを確認してから弾き始めるのです。行き先のわからない電車に乗る人はいませんね。また目的地に着く前に降りたり乗り過ごしたりすると迷ってしまいます。

 フレーズにはポイントになる音がいくつかあるのでその音を道標にして前へ前へ進みましょう。ポイントになる音は、強拍、最高音、最低音、不協和音など。これらの音を中心に(>をつけるとフレーズが立体的になります。同じ音形を繰り返しながら上がっていく(下がっていく)ゼクエンツなどはその到達地点がポイントになりますし、7、56、246、9、ナポリの6などの不協和音も重要ポイントです。

 タイの終わりに不協和音がある場合には、途中で音が抜けてしまわないように保ち、しっかり音をぶつけるとその後の解決が非常に気持ちいいですね!和声は私もまだまだ勉強中ですが、和音によって様々なキャラクターがあるのがとても面白いと思います。ちなみに普通の6の和音は広がるイメージなのであまり力まないで弾きましょう。

  目的地の直前にカデンツァが出てきたら流さずしっかり終わります。
第一拍目の頭の音がフレーズの終わりで裏拍から次のフレーズが始まるというケースもよくありますね。弦楽器も歌や管楽器のようにそこで軽くブレスをしてみてはどうでしょうか?

 ところで「小節線を踏まない」というルールをご存知ですか?私はそれを聞いた時とっさに、和室で畳の縁を踏まないのと同じだな(笑)…と思いました。初めは意識し過ぎてフレーズがぶつ切りになるのですが、知っておくとアウフタクトが弾きやすいし、終止もスッキリして、全体が美しいフレーズに仕上がります。


(7)上行形と下行形、順次進行と跳躍進行

 上行形では次第に気持ちが高まり(クレッシェンド)下行形では徐々にクールダウン(デクレッシェンド)します。また、二度で動く順次進行の時にはレガートで、三度以上飛ぶ跳躍進行の時には切って弾くのが基本です。 特に完全五度上は天上を表すのでキッパリと、それに対して二度は地上を表すのでタラタラと、だそうです。面白いですね!

 バロックの時代は自動車も飛行機もエレベーターもありませんから、坂道も階段もすべて徒歩でした。その目線で弾いてみて下さい。自然にそのような奏法になるはずです。

(8)アーティキュレーション

 2つの音符にスラーがついていたら、最初の音を重く次の音は軽く弾きます。音符が3つ、4つ、それ以上に増えても常にスラーの最初の音を重くし、あとは自然に減衰させます。私はモダンのポルタート癖が抜けず、気づかないうちに均等になってしまって苦労しました。

 スタッカートも均等に弾かずに、拍の裏と後半を軽く短めにすると躍動感が出ます。特にスタッカートは弓のスピードが速くなりすぎないよう、弓を使いすぎないよう注意しましょう。

  重音をアルペジオで弾く時には常に低い音を重く高い音を軽く弾きます。
  スタッカートもスラーも何も書いていない場合は、音形を良く見て判断します。バロックではよく「音形通りに」「音形が見えるように」弾けと言われます。同じような16分音符の連続に見えても実は様々な音形が組み合わされているのです。

 文章に句読点があるように、フレーズの途中で音形が変わる時に一瞬間を取ることを「アーティキュレートする」と言います。これも音形の変化に敏感になってフレーズの把握が的確に出来るようになると、どこでアーティキュレートすべきか自ずと解ってきて、音形の違いに応じて効果的な対比を作り出すことができます。

 「鳥の目と虫の目で見る」という言葉がありますが、バロックもまさに、鳥のように空から全体の曲の構造、フレーズを把握した上で、今度は地上の虫のように順次進行や跳躍、上行と下行、落とし穴のような不協和音、音形の違いに一つ一つ反応しながら進んで行けるようになれば実に愉しいと思います。 …と口で言うのは容易いですが実際に弾きこなすのは至難の業ですよね。私もなんとかもっと自然に表現できるようになりたいと精進の毎日です。
http://tafel.exblog.jp/18083238/
9:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:06:05

ピリオド・アプローチと歴史的録音(上) - ヨーゼフ・ヨアヒムを軸に -


同じピリオド・アプローチでも印象は大きく異なる「ジーグフリート牧歌」

改めてノリントンのワーグナーをじっくり聴くと、入念かつ自由自在なリズムやフレージングの設定が極めて印象に残ります。例えば「ジークフリート牧歌」、ノリントンと同じく、ピリオド系アプローチによる演奏であるフロリアン・メルツ/クール・ザクセン・フィルのワーグナー作品集とは、演奏時間は似通っているものの、受ける印象は極めて異なるものです(ノリントン盤は16分11秒、メルツ盤は16分56秒)。後者は初演時の室内楽版によるものですが、違いはそれだけには留まらないように思います。

前者のノリントンによるワーグナー作品集の解説は、神崎さんのサイトにて翻訳されています

ノリントンのワーグナー演奏ノート
http://www.kanzaki.com/norrington/note-wagner.html

気になるのは「演奏スタイル」の次の言葉。

今日との決定的な違いは、木管と金管のアーティキュレーションと、スタッカートと[弓を]弦にのせたレガート、ポルタートと飛ぶようなスタッカートを区別する弦の弓使いでした。何よりも注目すべきは、ビブラートはオーケストラのどのパートでも使われず、一方ポルタメントは明らかに用いられていたという点でしょう。

明確なアーティキュレーションの区別を施す弓使いと、ビブラートの抑制、そしてポルタメントの活用。これら19世紀末に特徴的とされる表現要素は、実際にノリントンの演奏だけではなく、メルツの演奏からも、はっきりと聞き取ることができます。

しかしながら、バロックから古典へ歴史を辿った延長としての位置づけなのか、ノリントン・LCPの録音から聞こえるフレージングは、ピリオド的というか、極めて立体的なのに対し、メルツの演奏では濃密な音色が平面的に広がってその中にフレージングが浸透していくような印象を受けます。その2つの表現はあまりにも異なっているため、どちらがその時代に即したものなのか、そんな意味のない質問をついつい建ててしまいたくなるのですが、その質問を敷衍させてくれる格好の素材があります。それはヨーゼフ・ヨアヒムが1903年に残した歴史的録音です。


ヨーゼフ・ヨアヒムの録音から聞こえる姿

Joseph Joachim plays Brahms Hungarian Dance #1
http://www.youtube.com/watch?v=f-p8YeIQkxs
http://www.youtube.com/watch?v=2YsG4r-PzW8

Joseph Joachim - Brahms' Hungarian Dance No.2 (1903) (RARE!)
http://www.youtube.com/watch?v=lV_YXtUs_Ow
http://www.youtube.com/watch?v=FZjVnURl6Fk
http://www.youtube.com/watch?v=lkgEwB5fdck

Brahms: The 1889 recordings (& Joachim 1903 recording)
http://www.youtube.com/watch?v=H31q7Qrjjo0

Joseph Joachim plays Brahms on Schallplatte Grammophon
http://www.youtube.com/watch?v=wlamh1HCBlI


ヨーゼフ・ヨアヒムの録音は恐らく、現在我々が聴ける最古のヴァイオリン録音の一つ。バッハの無伴奏2曲とブラームスのハンガリー舞曲2曲、そして自作の計5曲の演奏を、テスタメントから出されているCDを通じて聴くことが出来ます。

ブラームスやメンデルスゾーンとの関係を語るには欠かせないこのヴァイオリニスト、この粗末な録音から聞こえてくるヨアヒムの演奏は、先に記した要素(明確なアーティクレーションの区別とヴィブラートの抑制とポルタメントの活用)を確かに聞き取ることが出来るように思います。

特に印象的なのは、ヨアヒム自身が編曲したブラームスのハンガリー舞曲第1番、前半の有名な主題の繰り返しがあるのですが、その繰り返しの二回目、一回目では控えられていたヴィブラートの振幅と、ポルタメントによる下降音型の強調が、繰り返し前後の明確な違いとなって表れています。しかし、それらの要素が表現となって伝達されるのは、その背後にある厳格に表情を抑制されたフレージングがあるから。だから、バッハの無伴奏の演奏では、その禁欲さ(と、あからさまなモノフォニック志向)に物足りなさを覚えることもありましょう。

先の「ジーグフリート牧歌」の2つの演奏、どちらがヨアヒムのそれに近いかといえば、その控えめなフレージングはメルツの演奏に近いように感じられるものの、やはりどちらとは言い切れません。それは当然の事であって、どちらかに帰することは、ヨアヒムやノリントン、そしてメルツに対しても失礼な事。

とはいえ、ビブラートの抑制は、ヨアヒムの録音からも明らかに感じられることで、実際ヨアヒムは自身の教則本の中で、次のように語っています。

ヴィプラートが癖になることを強く警告しても、し過ぎるということはない-とりわけ間違ったパッセージにおいて。上品で健康で繊細なヴァイオリニストは、いつも一定した音造りを正常なものと認め、ヴィブラートは表現の内部からの必要性が指示した時だけにもちいるのである

バッハの無伴奏に感じられた、その禁欲さ。それは「一定した音造り」という言葉に表れた見識の発露だったのかもしれません。そして、ヴィブラートに対する見識、常に施すものではなく、表現手段の一つとしてヴィブラートを捉えることの重要性が語られているのは、次のエントリーで紹介するケネス・スロゥィックのある意味衝撃的な論文を読んだ後では、特に痛切に感じられるものです。

ヨーゼフ・ヨアヒムの録音と現代の録音の繋がり

実際にノリントンは、山尾敦史さんとのインタビューにて、ワルター/VPOによるマーラー第5番アダージェットを引き合いに出しているように、過去の歴史的録音を自らの演奏の手掛かりの一つとして把握しています。ですので、このヨアヒムの録音もまた、そのように捉えられいると思います。そして、メルツもまた、ロマン派以降のピリオド系アプローチを追求している一人であることを踏まえれば、このヨアヒムの録音を参照しているはずでず。そのヨアヒムの録音をどう捉え、実際はどのように演奏するのか。ピリオド系アプローチとはいっても、多様な広がりがあることが、ここでも認識することができます。
http://seeds.whitesnow.jp/blog/2005/02/06-125518.html

ピリオド・アプローチと歴史的録音(下) - スロウィックとメンゲルベルク -

アメリカのピリオド系チェリスト兼指揮者のケネス・スロウィック。
そのスロウィックの活動の中心となっているのは、スミソニアン博物館付属のスミソニアン室内音楽協会。モノに拘らずに歴史的遺産の収集スミソニアン博物館の音楽団体だけあって、博物館が所蔵する楽器を活用した演奏活動を展開しています。

リヒャルト・シュトラウスやマーラーをガット弦で演奏

このエントリーで主に取り上げるのは、そのスロウィックが指揮者として「スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ」を率いた、"METAMORPHOSIS"と"TRANSFIGURATION"と題された2つのディスク。

これら2つでは、後期ロマン派の弦楽アンサンブル向け作品を対象に、当時はまだ使われていたガット弦による演奏を記録したもの。これらは19世紀末から今世紀前半の作品に対するピリオド・アプローチの可能性を示した貴重な試みの記録であり、丁寧な文献研究と歴史的録音の検証の成果が、ふんだんに取り入れられているように思います。

ガット弦による演奏は、その甘美かつ高貴な音色が非常に魅力的に聞こえるのですが、その演奏以上に貴重なのは、スロウィック自身による演奏の解説。

"METAMORPHOSIS"では、今世紀初頭にガット弦がスチール弦に取って替わられるプロセスが詳細に描かれており、"TRANSFIGURATION"では、歴史的録音(特にメンゲルベルク)を通じて、現代では失われた演奏習慣と、スロウィックのめざす表現の方向性が、こちらも詳細に記載されています。


ガット弦がスチール弦に取って代わられる経緯

注目の解説に書かれているのはガット弦がスチール弦に移行する経緯と、その交代と共に変わったヴィブラートの位置付け。とてもユニークな文章なので、以下にその要約を示します。

ヴァイオリン族が発明された16世紀初頭から1900年はじめまで、ガット弦は素材の標準だった。

カール・フレッシュの教本「ヴァイオリン演奏技法」の第一巻(1928年)で書かれているように、コントロールの難しさや寿命の短さの点で、ガット弦は演奏者に困難を与えている。特に寿命の短さは、経済的な理由によってスチール弦に入れ替わる主要な原因となる。

1920年代以降、徐々にガット弦はスチール弦に入れ替わっていったが、ジークフリート・エーバーハルトの議論にもあるように、1940年代になっても、ガット弦対スチール弦の論争は続いていた。ガット弦の時代の終わりは恐らく、ステレオ録音の開始の約10年前と考えられる。

このディスクに収録した作品については、エルガーの作品は確実にガット弦が主流だった時代に属する作品だったと考えられる。バーバーの「アダージョ」については、ガット弦とメタル弦の間で奏者の選択が揺れ動いた時期である。「メタモルフォーゼン」については、戦時中ガット弦の入手は極めて困難であったと考えられるが、シュトラウスが記そうとしたドイツ文化に関わるオーケストラの弦楽の音色は、ガット弦のそれであったことは絶対に確実である。

ガット弦が使われていた時代の録音では、この弦の利用とは異なる別の観点、即ちヴィビラートの使用についても、示唆を与えてくれる。例えば、ヨーゼフ・ヨアヒムの録音や教則本で自身が強調しているように、ヴィブラートの使用には十分な注意が行われている。同様のヴィブラートの抑制は、アルノルト・ロゼーが残した録音からも伺うことが出来る。

20世紀初頭の教則本では、ガット弦の場合とスチール弦の場合の2通りの運指法が記載されている。

スチール弦の運指では、金属の耳障りな音の発生を押さえるために、開放弦の回避や圧倒的なヴィブラートが求められている。イザイは、連続的なヴィブラートを用いた、最初の重要なヴァイオリン奏者であり、その後は、大幅なヴィブラート使用の方向へ進むことになった。しかし、リュシアン・カペーやレオポルド・アウアーが記したように、ヴィブラートの乱用を厳しく諫める意見も多かった。

フリッツ・クライスラーは、より早いパッセージでもヴィブラートを用いる、今日の音楽教育がモデルとする音へのきっかけを作った。しかし、クライスラーの落ち着いて漂うヴィブラートは、ヤッシャ・ハイフェッツのより力強く、神経質で絶え間なく連続するヴィブラートとは著しく対照的である。

ここには、ガット弦からスチール弦への移行は表現的な要請よりも、実用的な要請から行われたこと、

そしてスチール弦の音色の問題を覆い隠すために、ヴィブラートが多用され始めた

という、私のような素人にはショッキングな話が。

なお、ほぼ同じ趣旨のヴィブラートに関する論文をノリントンが書いています。

(Time to Rid Orchestras of the Shakes)
http://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html

これらの事実を踏まえると、より良い表現を追求するために、作品の作曲年代に関係なく、恒常的にガット弦を使うアーティスト(例えばビルスマやイッサリース)がいることも至極当然のことでしょう。


メンゲルベルクへの傾倒

Willem Mengelberg, 1926 - Mahler, Adagietto, Symphony 5
http://www.youtube.com/watch?v=qdEAuw87XV4
http://www.youtube.com/watch?v=CIss8Tnv7hY
http://www.youtube.com/watch?v=2HQpJdORX6w

Bruno Walter, 1938 - Mahler, Adagietto, Symphony 5
http://www.youtube.com/watch?v=QbdJjSqgUog
http://www.youtube.com/watch?v=-Flxoq67BsE
http://www.youtube.com/watch?v=dZzN8We546c


そして、次のディスクである"TRANSFIGURATION"では、彼らによるマーラーの交響曲第5番のアダージェットの録音と共に、メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管の1926年録音と、ワルター/ウィーン・フィルの1938年録音の冒頭が納められています。その解説では、スロウィックは次のように語り、メンゲルベルクへの傾倒を臆面もなく示しています。

1926年の録音はオーケストラの「ルバート」と「ポルタメント」が魅力的で、そのどちらもが骨身を惜しまずに準備されたメンゲルベルクの、アムステルダムの解釈の商標となっている。ちょうど7分を超えるこの演奏は、近年の明らかに哀調的な演奏の約半分の長さである。CDでの短い見本は、メンゲルベルクのリズムの驚くべき融通性と生命力へのアプローチだけではなく、旋律中のある音同士の注意深い結び付きや、耳に聞こえる滑らかな移行への彼の固執が、音楽の叙情性と意味深長さを高める企てとなっている。

ブルーノ・ワルターのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との1938年の録音は、マーラ一の門弟という当然の評価にもかかわらず、それに較べてほとんど不毛のものである。

(中川註: 音楽ファンの間ではブルーノ・ワルターの1938年録音の方がメンゲルベルクの1926年録音より人気が有ります)

マーラー「アダージェット」以外に"TRANSFIGURATION"に納められているのは、ベートーヴェン/マーラー編曲の「セリオーソ」弦楽合奏版とシェーンベルク「浄夜」。ガット弦で響く「浄夜」の抑制と高貴さが同居した演奏も素晴らしいのですけど、やはりメインはアダージェット。

そのあからさまなポルタメントが印象的なスロウィック達によるアダージェットは、ノリントンやメルツ達の演奏を聴いた耳には、極めて魅力的に響きます。スロウィックの言う通り、メンゲルベルクは過去の演奏習慣を受け継いだ存在だったのでしょうか。とはいえ、メンゲルベルクの表現に比すると、スロウィックの演奏は大人しく聞こえます。とくにアダージェットの展開に相当する箇所、4分を過ぎた辺りでは、メンゲルベルクの演奏ではポルタメントの嵐とでも言いたくなるような、濃密な表現が錯綜するのに対し、スロウィックのそれは、ポルタメントは明らかに控えめです。

そこはどのような意図があるのか、私には良く解らないのですが、ヨアヒムの次の言葉

「上品で健康で繊細なヴァイオリニストは、いつも一定した音造りを正常なものと認め、ヴィブラートは表現の内部からの必要性が指示した時だけにもちいるのである」

を踏まえると、スロウィックとメンゲルベルクの内発的な表現の必要性、その違いが表れたものとも言えるのではないかと。芸術家としてのスロウィックは、なにもメンゲルベルクのパッションまで、なぞる必要性は無いのですし。


メンゲルベルクを通じて更にマーラーの演奏へ迫る

スロウィックは「マーラーからワーグナーにまで遡る、指揮におけるオーストリア=ドイツ19世紀ロマン派の正統を示」す存在として、メンゲルベルクの表現の方向性を、さらに丹念に探って行きます。そのメンゲルベルクが残したマーラーの交響曲録音は、この第5番のアダージェット以外には、第4番のみ残されているのはご存じの通り。

Mengelberg, - Mahler, Symphony No. 4 in G Major
http://www.youtube.com/watch?v=BVT-F8nhM1w
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17772083


この第4番の録音では、スロウィックは、マーラーとメンゲルベルクの関係を詳細に分析し、メンゲルベルクをロマン派の正当を示す存在という抽象的な正統性を踏み越えて、マーラーの演奏意図を直接読み込もうとしているようです。そのプロセスもまた、スロウィック自身による長大な解説に記載されています。


1895年に24歳でコンセルトヘボウ管の指揮者に任命されたメンゲルベルクは、コンセルトヘボウを世界最高のオーケストラの一つに仕立て上げただけでなく、数多くの同時代の作品を最も熱心に取り上げた存在でもある。しかし、その中でも、マーラーは特別の存在だった。

メンゲルベルクがマーラーの作品に始めて触れたのは1902年。マーラー自身の指揮による第3交響曲だった。自らの演奏の理想とする姿を見た若いメンゲルベルクは、1903年から1909年の間、マーラーをアムステルダムへ何度も招待する。

マーラーの客演では、メンゲルベルクは事前にリハーサルを行い、マーラーがリハーサルをする際は、指揮台の横に陣取り、オーケストラに対するマーラーの指示を克明にスコアに記録していった。その甲斐あってか、第4交響曲では、メンゲルベルクの指揮による演奏をマーラーは客席で心地く聴き、自宅にて自分自身が演奏しているようだという言葉をアルマに漏らしている。そのような状況にマーラーは極めて満足し、仕事や家族の責務から解放されるのであれば、アムステルダムへ移住したいという事まで語っている。

1911年にマーラーは亡くなるが、メンゲルベルクはその後もマーラーの作品を取り上げ続け、彼は約400回もマーラーの作品を実演で取り上げた。特に第4交響曲は約100回に登り、それに「大地の歌」と第1番が続く。

1920年、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ管の関係の25周年を記念し、アムステルダムにてマーラーフェスティバルが行われる。第一世界大戦開戦のの6年後に行われたこの祭典では、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ管はマーラーの管弦楽作品の殆どを取り上げ、それを聴いたエードリアン・ボールドは

「メンゲルベルクは、マーラー作品演奏において最も優れた指揮者である。それは、恐らくマーラー自身以上に」

と語っている。


メンゲルベルクによるマーラー演奏の録音は、第4番と第5番のアダージェット、そして「さすらう若人の歌」しか残されていない。しかし、マーラー全作品を含む、メンゲルベルク自身のスコアは、ハーグのメンゲルベルクアーカイブに700点あまりが残されている。メンゲルベルクは同じスコアを繰り返し使ったために、その譜面は書き込みによって極めて煩雑に見えるが、第4交響曲の場合、マーラー自身の指示の記録は赤のペンで、メンゲルベルクの自身の書き込みは、赤の鉛筆で書き込まれている。

この録音で使われている弦楽器は、17世紀にアマティによって作られている。これらは1998年にスミソニアン協会に寄贈され、定期的にスミソニアン室内音楽協会の演奏に使われている。これら以外にスミソニアン協会が保有する世界的なコレクションと同様、弦には「ガット弦」を用いている。

なお、ここでの「ガット弦」とは、金属線の周りにガットを巻いた弦も含む。このガット弦は第二次世界大戦後にスチール弦に取って変わられたのであって、マーラーやメンゲルベルク、シェーンベルクが聴いていた弦の音はほぼガット弦によるものである。

この演奏では、第4番のスケルツォで、ガット弦とスチール弦の違いを活用した試みを行っている。すなわち、スコルダテューダの指示があるヴァイオリンを、ガット弦を張ったアマティではなく、スチール弦を張ったモダン仕様のヴァイオリンを使っている。これはベルクがヴォツェックにて、フィドルを「スチール弦を張り、半音高く調弦したヴァイオリン」と指示しており、マーラーも更に10年健在であればこのような指示を下した可能性がある。また、この楽器選択は、メンゲルベルクの「ヴァイオリンは常に優勢で」「ソロヴァイオリン(死)の導入箇所は荒々しく、fffでなくてはならない」という指示にも、完全に見合ったものである。

この演奏を、メンゲルベルク自身による録音と聴き比べてみると、確かにメンゲルベルク独特のルバートやポルタメントを、十分に反映させた演奏に聞こえます。また、スケルツォでのスチール弦によるヴァイオリンの利用は、確かにガット弦を張ったアマティとは異なるもの。スチール弦によるヴァイオリンで表現した、「死」を巡る荒々しいイメージは、その後に続く第3楽章冒頭の、甘美なチェロの音色を聴くことによって、回想するかのように印象に残ってきます。
http://seeds.whitesnow.jp/blog/2005/02/12-001111.html


スチール弦か、ガット弦か、それが問題だ

バイオリンなどに使われる弦は、現在では一般にスチールを素材としたスチール弦(最近ではナイロン弦も)が使用されます。しかし、スチール弦が使用されるようになったのは20世紀も半ば近くになってからでした。それまでは、羊の腸の筋をよって作ったガット弦が広く用いられていたのです。

スチール弦は19世紀の末から知られていましたが、広く普及するまでに多くの時間が必要でした。特に1920年代前後には、演奏家の間で「スチール弦か、ガット弦か」という優劣論争が繰り広げられました。ガット弦特有の柔らかい響きを重視する演奏家がいる一方で、より力強い音が可能でしかも耐久性の面で特性を発揮するスチール弦の優位を主張して止まない演奏家もいたのです。しかし、音量と耐久性の面で特性を発揮するスチール弦に軍配が挙がったのはその後の歴史に見る通りです。

ところが、作品の作られたものと同様な楽器で演奏する、いわゆる「オリジナル楽器」の演奏家が増えてきた現在では、ガット弦の復権にも目覚ましいものがあります。古き良き時代の音を髣髴とさせるガット弦の良さが再び注目されてきたのです。
http://www.yamaha.co.jp/plus/violin/trivia/?ln=ja&id=101004

知られざるヴィブラートの歴史

これはここ数年、

「ビブラートの悪魔」
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_bf7e.html

「ウィーン・フィル、驚愕の真実」
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_a919.html

「21世紀に蘇るハイドン(あるいは、ピリオド奏法とは何ぞや?)」
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/21_f86b.html


等の記事を通して僕が考えてきてこと、そして本やインターネットを調べるなどして分かった新たな事実を総括したものである。

ルネッサンスからバロック期、そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン(1827年没)の時代に至るまで、装飾音以外で弦楽器や管楽器に恒常的ヴィブラート(伊: vibrato)をかける習慣はなかった(当時の教則本などが根拠となる)。それを現代でも実践しているのが古楽(器)オーケストラ、例えば日本で言えばバッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、大阪ではコレギウム・ムジクム・テレマン(テレマン室内管弦楽団)等である。

19世紀半ばになると、ロマ(ジプシー)の音楽に関心が高まる。リスト/ハンガリー狂詩曲(1853)、ブラームス/ハンガリー舞曲(1869)、ビゼー/歌劇「カルメン」(1875)、サラサーテ/ツィゴイネルワイゼン(1878)等がそれに該当する。それとともにジプシー・ヴァイオリンのヴィブラートを常時均一にかける奏法(continuous vibrato)が注目されるようになった。これは従来の装飾的ヴィブラートが指でするものだったのに対し、腕ヴィブラートへの変革も意味した。

ここに、continuous (arm) vibratoを強力に推進する名ヴァイオリニストが颯爽と登場する。フリッツ・クライスラー(1875-1962、ウィーン生まれ)である。20世紀に入り急速に普及してきたSPレコードと共に、彼の名は世界的に知られるようになる。音質が貧弱だったSPレコードに於いて、甘い音色を放つヴィブラートという武器は絶大な威力を発揮した。その”ヴィブラート垂れ流し奏法”と共に弓の弾き方(ボウイング)にも変化が起こる(このあたりの事情はサントリー学芸賞、吉田秀和賞を受賞した片山杜秀 著/「音盤博物誌」-”さよなら、クライスラー”に詳しく書かれている)。

一方、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はノン・ヴィブラートを貫いていた(1938年にレコーディングされたワルター/ウィーン・フィルのマーラー/交響曲第9番でもヴィブラートはかけられていない)。クライスラーはウィーン・フィルの採用試験を受けるが、審査員の一人だったコンサートマスター、アルノルト・ロゼは「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と言い、「音楽的に粗野」という理由でクライスラーを失格させた。しかしマーラーの妹と結婚し、自身もユダヤ人だったロゼはナチスのオーストリア併合直後に国外追放となり、ロンドンへ逃れ客死。娘のアルマはゲシュタポに捕らえられアウシュビッツで亡くなったという(オットー・シュトラッサー 著/「栄光のウィーン・フィル」音楽之友社)。

第2次世界大戦後、1950年代に入りオーケストラは大きな転機を迎える。スチール弦の普及である(これは鈴木秀美さんのエッセイに詳しい)。それまで弦楽奏者たちは概ね羊の腸を糸状に縒ったガット弦を使用していた(パブロ・カザルスもガット弦でバッハ/無伴奏チェロ組曲をレコーディングしている)。

ガット弦よりスチール弦の方が強度に優れ切れにくく、湿度の影響も受けない。おまけに値段も安価である(消耗品だからその方がありがたい)。だから皆、一気に飛びついた。

しかし柔らかい音色のガット弦に対し、金属製のスチール弦は硬質な音がする。ヴィブラートの普及には様々な説があるが、その音質の違和感を緩和するために恒常的ヴィブラート奏法(continuous vibrato)が推奨されるようになったのも、理由の一つに挙げられるだろう。

その過程に於いて、フルートやオーボエなど管楽器にもヴィブラートが普及していった。フルートの場合、以前は木製のトラヴェルソであったが、19世紀半ばからリングキーを採用したベーム式が普及し始め銀製の金管楽器に取って代わられる。故に木管らしからぬ金属的響きを、ヴィブラートによって緩和する目的もあったのではないかと推測される。

ヴィブラートの普及に呼応して、オーケストラの演奏速度は遅延の方向に向かう。速いテンポではヴィブラートを十分に効かせられないからである。

ここに1920年代から40年にかけ、ラフマニノフがオーマンディやストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団と共演した自作自演によるピアノ協奏曲の録音がある。驚くべきは、現代とは比較にならないくらい速いそのテンポ感である。20世紀の間にラフマニノフがロマンティックな文脈で捉えられるよう変化していった過程がそこに垣間見られる。

ベートーヴェンの交響曲も次第にロマン派以降の価値観で解釈されるようになり、遅くなっていった。ベートーヴェンがスコアに指示した極めて速いメトロノーム記号に則して演奏すると、ヴィブラートをかける暇などない。

そこで、
•ベートーヴェンの時代は器具が正確ではなかったのでスコアに記されたメトロノーム表記は必ずしも信用できない。
•耳が聞こえなくなってから、ベートーヴェン本人が考えているテンポより速い表記になっている可能性が高い。

などといった、こじつけにも等しい説が登場した。しかし、考えてみて欲しい。まず作曲者本人を疑うとは何と無礼なことであろうか!スコアに記されたテンポで十分演奏可能であることは、延原武春、ブランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンら古楽系の指揮者たちが既に証明済みである。

こうやってヴィブラートの歴史を見ていくと、現在盛んに行われるようになってきたピリオド奏法(=モダン楽器を使用して古楽器風に演奏すること)は理に適っているのか?という疑問も生じてくる。つまり、金属的響きのするスチール弦をノン・ヴィブラートで演奏することに果たして意味はあるのだろうか?という問いである。

そういう意味でピリオド奏法をする弦楽奏者達は今一度原点に立ち返り、スチール弦からガット弦に張り替える勇気を持つ必要もあるのではないかという気が僕にはするのだ。ちなみにダニエル・ハーディングやパーヴォ・ヤルヴィが音楽監督を務めてきたドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは奏者全員がガット弦だそうである。また名ヴァイオリニスト ヴィクトリア・ムローヴァも、最近ではガット弦を張り、バロック弓を使用している。

ヴィブラートにまみれ、スコアに記されたメトロノーム指示を無視した、遅くて鈍重なベートーヴェンを未だに「ドイツ的で重厚な演奏」と褒め讃える人々がいる。ドイツ的って一体、何?僕には皆目、理解が出来ない。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/20-7b10.html
10:777 :

2022/07/21 (Thu) 18:25:18

ageあげ

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