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ヨーゼフ・ヨアヒム(1831年6月28日 - 1907年8月15日)ヴァイオリニスト

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2022/07/20 (Wed) 16:18:24

ヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim, 1831年6月28日 - 1907年8月15日)ヴァイオリニスト


Joseph Joachim plays Brahms Hungarian Dance #1
https://www.youtube.com/watch?v=f-p8YeIQkxs&feature=emb_title

For those of you who have not heard of Joseph Joachim, he was one of the most famous and influential violinists in the 19th century. He is also considered to be one of the first violinist to have recorded (1903).


Joseph Joachim - Brahms' Hungarian Dance No.2 (1903) (RARE!)
https://www.youtube.com/watch?v=lV_YXtUs_Ow



Joseph Joachim plays Bach Sonata #1 Recorded 1903
https://www.youtube.com/watch?v=tixMlx2YOwI&feature=emb_title

Joachim plays Bach - Adagio Recorded 1903
https://www.youtube.com/watch?v=-XQxCLDPB24

Bach Adagio g-minor played by Joseph Joachim 1904
https://www.youtube.com/watch?v=i3wysuAIDGc

Joachim - Bach: Agagio in g (Good Sound)
https://www.youtube.com/watch?v=Fw998QWfcJs

Recorded in 1903. From J. S. Bach’s Unaccompanied Sonata No. 1 in g minor, BWV 1001
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2022/07/20 (Wed) 16:21:04

ヨーゼフ・ヨアヒム(ドイツ語: Joseph Joachim)、ヨアヒム・ヨージェフ(ハンガリー語: Joachim József, 1831年6月28日 - 1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演ヴァイオリニストとして後世に名を残している。

略歴
ヨアヒムは、1831年6月28日、ポジョニやアイゼンシュタットにほど近いハンガリー王国領西部のキットゼー(マジャル語名ケプチェーニ)で生まれた。キットゼーはバッチャーニ=シュトラットマン家(Batthyány-Strattmann)の館のある地として知られ、現在はオーストリアのブルゲンラント州に属している。1833年、ヨアヒムの一家はブダペストに移った。ヨーゼフは5歳になるとブダペストでヴァイオリンのレッスンを受け、続いてウィーンに渡りウィーン音楽院で修行した。

1843年、12歳になるとライプツィヒに出向き、メンデルスゾーンに師事した。なお、ライプツィヒ音楽院の入学試験でヨアヒムが演奏した際の試験官は、学院長のメンデルスゾーンであった。同年8月、ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーン、クララ・シューマンらと共演し、12歳のヨアヒムはライプツィヒの聴衆の知るところとなった。3年後、ヨアヒム15歳の時、メンデルスゾーンに伴われて初めてロンドンで演奏し、成功を収めたが、翌1847年11月4日にメンデルスゾーンは亡くなった。

1848年、17歳になったヨアヒムは、2年間ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍した。その間、オーケストラのみならず、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当した。その後、1850年ヴァイマルに移りコンサートマスターに就任した。ここでフランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーと知り合ったが、1852年にハノーファーに移って以降、彼らの観念主義的音楽とは、歯車が合わず疎遠となり、代わりにロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス(何度かヨアヒムとのリサイタルでピアノを演奏した)らと親しくなり、ヨアヒムとブラームスは共同で、リストやワーグナーおよび彼らの仲間たちの音楽に反対する宣言文を執筆している。またハノーファーで、ヨアヒムは歌手のアマーリエ・ヴァイスと結婚した。

1866年には、王立音楽アカデミーの創設と指導のためにベルリンに招かれた。ヨアヒムは自分のオーケストラを創設し、また1869年には「ヨアヒム弦楽四重奏団」を創設した。この楽団は世界屈指の四重奏団という名声を勝ち得た。1884年に、ヨアヒムは妻がブラームスの楽譜出版者であるフリッツ・ジムロックと関係があったと確信するようになり、離婚した。ブラームスはヨアヒムの疑いには根拠がないと考え、アマーリエを擁護する長い手紙を書いた。この手紙が法廷に証拠として提出されたことから、ブラームスとヨアヒムの友情は壊れ、回復するのは数年後のことであった。ヨアヒムは1907年に死去するまでベルリンに住んでいた。

業績
演奏家として
ソロ・ヴァイオリニストとして知られるヨアヒムであるが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に1848年から1850年まで2年間在籍し、同楽団の首席奏者で構成されるゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当するなど、幅広く演奏活動を行った。

ソリストとしては、バッハからベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(この曲がスタンダード曲になるにはヨアヒムの大きな貢献があった)を経て、年下の同時代人たち(その多くは彼の個人的な知人であった)の作品に至る幅広いレパートリーを演奏した。

これらの演奏に加え、ドヴォルザーク、ロベルト・シューマン、ブルッフからヴァイオリン協奏曲の献呈も受けている。ただし、ドヴォルザークの協奏曲とシューマンの協奏曲を演奏することはなかった。ブルッフの協奏曲第1番も初演は別の奏者が担当した。

ヨアヒムはブラームスと特別に密接な協力関係にあり、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲した時は、技術上の助言を行なっている。この協奏曲は1879年1月1日、ヨアヒムの独奏で初演され、彼に献呈された(ただし公式に演奏したのは6回だけであった)。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演では、独奏ヴァイオリンを演奏し(この曲は離婚問題による仲違いの後、友情修復のために作曲された)、交響曲第1番のイギリスでの初演を指揮した。

ヨアヒムはグラモフォン社に5枚(片面12吋)のレコードを録音している。LPやCDにも復刻されている。録音は1903年であったので、機械式録音であるので、LPやCDでもスクラッチノイズは避けられない。しかしそれを持っても貴重な演奏であり、オリジナルの機械式録音のSPレコードは、高額な値段で取引されている。

作曲家として
ヨアヒムの作曲家としての業績は、演奏者としてのそれほど著名ではない。作曲家としての評価は「優秀ではあるが、個性に欠ける」といったものであり、現在は彼の作品はほとんど演奏されない。作品には多数のヴァイオリン曲(3つの協奏曲を含む)とシェイクスピアの『ハムレット』、『ヘンリー四世』のための序曲などがある。また、多くの他の作曲家のヴァイオリン協奏曲のカデンツァを作っており、その中にはブラームスのほか、ベートーヴェンやモーツァルトの協奏曲がある。

教育者として
教育者としてベルリン高等音楽学校の校長を務めるなど、教師としても人望と名声に恵まれ、レオポルト・アウアーやイェネー・フバイを輩出した。これらの門人もまた演奏家ならびに教師として傑出しており、アウアー門下のエフレム・ジンバリストやヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン、小野アンナ、フバイ門下のヨゼフ・シゲティもヨアヒムの孫弟子になる。日本人ヴァイオリニストの中でも、小野アンナ門下の諏訪根自子、ジンバリスト門下の江藤俊哉、シゲティならびにミルシテイン門下の海野義雄、前橋汀子、ハイフェッツ門下の清水高師など、ヨアヒム直系の演奏家は数多い。

ヨアヒムの姪孫(大姪)にあたる、イェリー・ダラーニとアディラ・ファキーリの姉妹は、フバイに送り出された後ヨアヒムに学び、イングランドで活躍しラヴェルやバルトーク、サマヴェル、ホルストら多数の作曲家からヴァイオリンソナタや協奏曲を献呈された。特に姉のアディラは、教育機関でなく個人教授としてヨアヒムが教えた唯一の門人であり、死後彼の1715年製ストラディヴァリウスを相続した。この楽器は師弟の姓にちなんで「ヨアヒム/アラーニ」と称され、現在はアディラの遺族から買い取った日本財団の所有となっている。

エピソード
ヘンレイのヴァイオリン製作者名鑑によると、ヨアヒムはフランス滞在中にはフランスの弦楽器製作者シャルル・ジャン・バティスト・コラ=メゾン制作のヴァイオリンで演奏したとのことである。
1905年10月19日にドイツで行われたシベリウスのヴァイオリン協奏曲の改訂版の演奏は、周囲の人々が絶賛したにもかかわらず、ヨアヒムは『とてもつまらなかった』と評している。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を最も偉大なヴァイオリン協奏曲と称しており、世間に知れ渡って以降もヨアヒムは生涯を終えるまで演奏したとされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0
3:777 :

2022/07/24 (Sun) 11:01:42

20世紀初めはこういう時代だった


Brahms Plays His Hungarian Dance No.1 (Excerpt), 1889
https://www.youtube.com/watch?v=BZXL3I7GPCY


上掲左のCDはブラームス自身のピアノ演奏が録音されている貴重な記録なのです。

とはいえその録音はエジソンが発明したエジソン式ロウ管蓄音機を使ってその発明から12年後の1889年に録音されているとはいえエジソンのロウ管蓄音機の性能というよりもひとつにはエジソンの蓄音機の発明に関心をもったブラームスが自身のピアノ演奏の録音を後世に残そう…と思った時にはもはや自らのピアノ演奏の技巧が衰えてしまっていることに気付き友人のフェリンガー氏の家での録音セッションでも

 「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」

と自らを揶揄する言葉を発して勝手に演奏を始めてしまったために慌てて録音技師が録音を開始するとともに慌ててフェリンガー氏が

 「ピアノ演奏はブラームス博士です!」

と叫び直した?ところから記録されていますので、十分なセッティングではなく
ひとつにはそのロウ管の保存状態も非常に悪くもう一曲収録された録音(シュトラウス『とんぼ』)では世界大戦によるひびがロウ管に入ってしまっています。
(上掲CDでは未収録です)
 
ブラームスが既述の様な自虐的な録音状況にあってもなお

 いかに音響を豊かに響かせるか
 いかに音楽を流麗に運ばせるか

 ということに腐心し尽くして演奏していたのかが既述の様なロウ管の保存状態の悪さにもかかわらず聞き取れます。
http://shyouteikin.seesaa.net/article/75839248.html



上掲右のCDは
 
 JOACHIM and SARASATE THE COMPLETE RECORDINGS
 YSAYE:A SELECTION OF HIS 1912 RECORDINGS 
 OPAL CD 9851

 というCDでヴァイオリン弾きのみならずクラシック音楽ファンであれば誰もが知る

 ヨアヒム
 サラサーテ
 イザイ  

の3人の伝説の名ヴァイオリニストの自身の演奏が記録されていますが、このCDも、やはり古い録音ですので、とても鑑賞に耐えるものではないとはいえ、このCDは、既述のブラームスの自作自演に比べれば、はるかに細かく聴き取れます。

そしてそこから聞こえて来る録音を耳にする時

 様々な点で、ヴァイオリンの楽器の製作・修復・調整技術が圧倒的に向上し
 色々な点で、ヴァイオリンの奏法の方法・練習・演奏技術が圧倒的に向上し

ている現代にあってなお私たちはこれら歴史的名ヴァイオリニストたちの前には完全に脱帽するしかないことが判り、驚かされます。


ヨアヒムの演奏では

Joseph Joachim plays Bach Sonata #1 Recorded 1903
https://www.youtube.com/watch?v=tixMlx2YOwI&feature=emb_title

Joachim plays Bach - Adagio Recorded 1903
https://www.youtube.com/watch?v=-XQxCLDPB24

Bach Adagio g-minor played by Joseph Joachim 1904
https://www.youtube.com/watch?v=i3wysuAIDGc


 特にその『バッハ/無伴奏パルティータ 第1番 ブーレ』での力強く朗々と響く重音奏法を耳にするとき この様な奏法が可能なヨアヒムであったからこそ
 その独特の運弓は“ヨアヒム・ポーイング”と呼ばれていたということのみならず、この様な奏法が可能なヨアヒムであればこそそのバッハの無伴奏作品が時としてヴァイオリン・ソナタのスケッチ(下書き)ではないか?
 などと言われることもあったなかをこのバッハの無伴奏作品がまさにヴァイオリン一挺においてのみ奏でられる作品であることの真価を初めて世に知らしめ得たことが聞かれて感動的であるとともに


サラサーテの演奏では 

Sarasate Plays Sarasate Zigeunerweisen recorded around 1904
https://www.youtube.com/watch?v=ABm7nMVyNh4


特にその『ツィゴイネルワイゼン』の自作自演での前半部分のジプシー風の自由な作風の箇所でしかしながら、今日聞かれる様なラプソディ風の演奏ではなくまるで、バッハかベートーヴェンのソナタでも演奏しているかの様な厳格な演奏を聴く時

 まず、その様な音楽への確固たる様式感に驚かされるとともに併せて、その厳格なまでの拍子の中に、あまたの細かい音形を確実にはめ込んでいく演奏技術に圧倒され(なお、その『ツィゴイネルワイゼン』の中間部分の「ジプシー・ムーン」と呼ばれる民謡部分はサラサーテ自身の指示によりカットされているためにサラサーテの肉声が聞かれますが サラサーテの喋りもまた、下述の演奏ぶりを彷彿とさせるものなのですが)

 さらにその『バッハ/無伴奏パルティータ 第3番 プレリュード』を聴く時

"Prelude" (Bach) Played by Pablo de Sarasate HMV No 2 Series Rec 1904 HMV E183
https://www.youtube.com/watch?v=eeP6fxsa3fI

Sarasate plays Bach - Prelude Recorded: 1904
https://www.youtube.com/watch?v=ZEyHfPR3b8k

Sarasate plays Bach on Disque Gramphone recorded 1904
https://www.youtube.com/watch?v=UTKBxTGqjIg

 (またしても第3番とはCDに記載されていませんが)
  録音原盤の回転数の歪みから、音程がズレて聞こえてしまう点は残念ですが
 驚くべきはその一曲をまるで一拍の様に弾ききってしまっている…では大袈裟でも(笑)その曲の音符総てをまるでトレモロ(通常は同じ音を細かく急速に刻む奏法)かの如くの速度でそれでいて鮮やかに弾ききってしまっている演奏を耳にする時

 あまたの作曲家がこのサラサーテに捧げた作品において時として現代の演奏では冗長になりかねない細かい音形の連続部分もこのサラサーテが奏でた際にはさぞや鮮やかであったろうと容易に想像されるものの

 現代のヴィルトゥオーソと呼ばれる奏者のいかなる者をもってしてもとてもこのサラサーテの演奏には遠く及ばないことも聞かれて愕然とします。


そして最後のイザイの演奏では特にその

『メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 終楽章』
Eugene Ysaye Plays Mendelssohn Concerto (mov. 3) Recording around 1912
https://www.youtube.com/watch?v=v9Zk66YL24c&feature=emb_title


を聴く時そこではピアノ伴奏で弾かれているとはいえその軽妙洒脱で自由闊達な演奏を耳にする時

 現代のヴァイオリニストがその演奏技術においてもその音楽表現においても
 それがたとえ極めて高い水準であったとしても皆が皆、平準化されてしまった傾向にある中かつては勿論、確固たる様式感と、堅固な演奏技術の裏打ちがあってなおそれぞれのヴァイオリニストがぞれぞれにまったく独自の演奏表現をしていたことが聞かれ現代のヴァイオリニストたちが失ったものの大きさを痛感させられます。

いずれにせよ冒頭にも書きました様にこれらのCDは歴史的に貴重な記録としては、一聴に値する、音楽的な資料としては、様々なことを考えさせられるまさに“温故知新”な録音だと感じています。
http://shyouteikin.seesaa.net/article/75839248.html

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