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2022/07/19 (Tue) 19:58:44
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アイリーン・ジョイス(Eileen Joyce、1908年1月1日 - 1991年3月25日)ピアニスト
英映画「逢いびき」(1945)
Brief Encounter | David Lean (1945) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HCt8S-Aio5M
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2020年06月13日
ラヂオ
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/52304705.html
終戦後ロンドン郊外ミルフォード・ジャンクション駅の待合室
ふたりのテーブルには紅茶と菓子パン
「これでも自分の専門に関しては野心家でね」
「専門は?」
「予防医学・・知ってる?」
「わからない」
「良心的な医者は若い時は夢を持つが、多くは職業医にとどまる。退屈かい?」「いいえ、わからないけど」
「医者には何より情熱が必要だ、作家や画家と同じく使命感を持つこと、それを忘れてはいけない」
「そうね」
「病気の予防策1つには、50の治療法と同じ価値がある、というのが僕の信念、予防医学は生活、衛生、市民の共通認識、あらゆることに関わってくる」
「例えば炭疽病、ここには炭鉱があるから研究には最適だ」
「あなた、急に若く見えてきた。少年みたい」
「なぜそんなことを?」
「わからない、さあ、なぜかしら」
「聞かせてください」
「えーと、炭鉱の話でしたわね」
待合室のベルが鳴る
「汽車の時間よ、遅れるわ」
「わかってる」
「どうしたの?」
「いや、別に」
「ほんと楽しい午後だった」
「僕こそ、退屈な話をして悪かった」
「理解できなくてごめんなさい」
「・・・また会いたい、来週の木曜、同じ時刻に?」
汽車の音
「向こうのプラットフォームでしょ、走らないと」
「また会いたい」
「ええ、日曜日、ケッチワースの家で、きっと家族も喜ぶわ」
「どうか、お願いです、来週、同じ時間に」
「そんな、無理よ」
「無理は承知、どうか」
「乗り遅れるわ」
「じゃあ」と立ち上がる
「わたし、やっぱり行く」
「ほんと!ありがとう!じゃあ来週!」
アイリーン・ジョイスのピアノでラフマニノフの2番が流れる映画「逢びき」(1945年デイヴィド・リーン監督)をラヂオで聴いた。
ずいぶん前のこと、クーダムの裏通りにある小さな電気店のウィンドウの前に立ち止まったベルリンの友人、「ちょっと見ろよ、いいだろ?」と指さしたのがこのラヂオ。
当時と同じデザインながら最新モデルはBluetooth対応と聞いて、決めた。小さな箱のわりにずっしり重い。タブレットから音声を送ると思い通りの音が出た。まさしくラヂオの音!楽しくて置く場所をいろいろ試した。結局デスクの上の棚が一番空気を震わせてくれた。快適な音の環境が整った。シェーンベルクのピアノの低音が潤ってほぐれている。とても3インチのスピーカの音とは思えない。梅雨の季節、外に出られないとき。ディジタル臭さがないせいか、装置を気にせずにゆたかな音に包まれる。今となっては贅沢な音。棚自体が大きなスピーカボックスとなって、デスクに座れば前の壁に音が舞い降りてくる。映画の音声をラヂオに飛ばして聞く。
夫婦の居間
憔悴しきった妻に
「ローラ」
「なに」
「そんなに思い詰めて。あまり楽しくない夢のようだね?
「ええ」
「私で力になれるかな?」
「ありがとう、あなた」
「ずいぶん遠くへ旅していたんだね」
「そう」
「よく戻ってきた」
映画の主役はラフマニノフ、彼の音楽なしにドラマは成り立たない。セリフと演技だけでは退屈な一本だったはず。ラフマニノフもおかげでレコードが売れた。
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/52304705.html
▲△▽▼
逢びき Brief Encounter 1945年
監督 デヴィッド・リーン
出演者 セリア・ジョンソン、トレヴァー・ハワード
音楽 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ピアノ独奏はアイリーン・ジョイス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9417500
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9416813
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9416338
Brief Encounter music by Sergei Rachmaninoff
http://www.youtube.com/watch?v=odlQU2WjM0E
EILEEN JOYCE plays RACHMANINOFF 2ND CONCERTO 3 MOV 1941
http://www.youtube.com/watch?v=7ZW0XRxLF60
Eileen Joyce Bach Concerto in D minor, BWV 1052
http://www.youtube.com/watch?v=9zEilN_VkFc&playnext=1&list=PLE9C8E719EBB51CC4&feature=results_video
Eileen Joyce Mendelssohn Concerto No.1
http://www.youtube.com/watch?v=9Wr-kiGKl9Y
Addinsell / Eileen Joyce / Muir Mathieson, 1942: Warsaw Concerto - London Symphony
http://www.youtube.com/watch?v=CKlIidCDUtc
Haydn Piano Trio in G: Joyce, Holst, Pini
http://www.youtube.com/watch?v=PdAk1EKy4Lo
http://www.youtube.com/watch?v=zRyFzgGqdvo&playnext=1&list=PLB64301BEBB3F88C6&feature=results_video
http://www.youtube.com/watch?v=qhQ1gKyepX0&playnext=1&list=PLB64301BEBB3F88C6&feature=results_video
Eileen Joyce Mozart Rondo K.386
http://www.youtube.com/watch?v=mtZ-swcYjKo
Eileen Joyce plays Franck Symphonic Variations
http://www.youtube.com/watch?v=jMMD6Kei8Rc&playnext=1&list=PLAA87A59A6C3F96CB&feature=results_video
Eileen Joyce plays Bach Prelude & Fugue in A minor BWV 944
http://www.youtube.com/watch?v=TwXZV_JolbA
Eileen Joyce Mozart Sonata in C K.309
http://www.youtube.com/watch?v=MmwrMip-sPc
Eileen Joyce Mozart Gigue K 574
http://www.youtube.com/watch?v=6sASvtTNEDc
Eileen Joyce Beethoven Sonata No.8 Op.13 ("Pathetique")
http://www.youtube.com/watch?v=gbxHD1K4cC0
Eileen Joyce plays Beethoven "Für Elise"
http://www.youtube.com/watch?v=5jNjaGBD20o
EILEEN JOYCE plays Piano Favourites (1950s)
http://www.youtube.com/watch?v=YTSA1k8AAKM
Eileen Joyce plays Schubert Impromptu in E flat Op. 90 No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=Bf8ByqXQRNY
Eileen Joyce plays Mendelssohn Rondo capriccioso Op 14
http://www.youtube.com/watch?v=LRCb4i1DyAo
Eileen Joyce Schumann Papillons Op.2
http://www.youtube.com/watch?v=Dv6X-AgDfqQ
Eileen Joyce plays Schumann 2 Noveletten
http://www.youtube.com/watch?v=e3t77b2MGww&playnext=1&list=PLSL6nM6EfvKPdX9J2dkkXYqkI0g5eiO_R&feature=results_video
Eileen Joyce plays Schumann-Liszt Frühlingsnacht
http://www.youtube.com/watch?v=YellE6TKwOA
Eileen Joyce plays Liszt-Gounod Faust Waltz
http://www.youtube.com/watch?v=UEeWX4KPk0s
Eileen Joyce Liszt Waldesrauschen
http://www.youtube.com/watch?v=BJ5E3vhyTDE
EILEEN JOYCE plays LISZT GNOMENREIGEN
http://www.youtube.com/watch?v=kQiJ4pDjGY0&playnext=1&list=PLE03C667AF3490A4D&feature=results_video
Eileen joyce plays Liszt - La Leggierezza (a very rare recording)
http://www.youtube.com/watch?v=dcWjsOa8UN4&playnext=1&list=PLE03C667AF3490A4D&feature=results_video
Eileen Joyce: Chopin Fantaisie-Impromptu Op.66
http://www.youtube.com/watch?v=T0ntmf4oCso
Eileen Joyce: Chopin Ballade No.1, Op. 23 in G minor
http://www.youtube.com/watch?v=yqcSj9gpMIE
Eileen Joyce: Chopin Ballade No.3, Op. 47 in A flat
http://www.youtube.com/watch?v=Q9Y-toolT4M
Eileen Joyce: Chopin Nocturne Op.9 No.2
http://www.youtube.com/watch?v=6BbN8Aurw08&playnext=1&list=PLA6BDA553F1036051&feature=results_video
Eileen Joyce: Chopin Nocturne Op.32 No.1
http://www.youtube.com/watch?v=lKsSJFM1A0U&playnext=1&list=PLA6BDA553F1036051&feature=results_video
Eileen Joyce: Chopin Etude Op. 10, No. 3
http://www.youtube.com/watch?v=cVkCun28NdU
Eileen Joyce: Chopin Berceuse, Op.57
http://www.youtube.com/watch?v=HlcLNgC5kgU
Eileen Joyce Romancing with Brahms
http://www.youtube.com/watch?v=as9VDme8JIM&playnext=1&list=PLE9C8E719EBB51CC4&feature=results_main
Eileen Joyce plays Brahms Intermezzo in A major Op. 118 No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=xaACtvDl180&playnext=1&list=PLC78C2B56EE4657DA&feature=results_video
Eileen Joyce plays Brahms Intermezzo in C major opus 119 no. 3
http://www.youtube.com/watch?v=R9VQ0magVnI
Eileen Joyce plays Brahms Rhapsody in E flat major opus 119 no. 4
http://www.youtube.com/watch?v=Bbop6bHAWrA
EILEEN JOYCE plays Debussy Clair de lune Suite Bergamasque
http://www.youtube.com/watch?v=h8T6LSw8bxg
Eileen Joyce Ravel Jeux d'eau
http://www.youtube.com/watch?v=qZP3cFq9hBY
Eileen Joyce (1908-1991) plays Faure Impromptu op.31 Rec.1940s
http://www.youtube.com/watch?v=Qg_Pjkv6iNg
Eileen Joyce Grieg Ballade Op.24
http://www.youtube.com/watch?v=N_GvCm6iUF8
Eileen Joyce plays Rachmaninov Two Preludes Op. 23
http://www.youtube.com/watch?v=a0prVMFAWp8&playnext=1&list=PLOAdj6bh1lf7E9MwXN4beD_7_Pg8T4wkW&feature=results_video
Eileen Joyce Bliss Baraza
http://www.youtube.com/watch?v=rz2zWJJNVVk&playnext=1&list=PLE9C8E719EBB51CC4&feature=results_video
Eileen Joyce Arensky Piano Trio No.1 in D minor Op.32
http://www.youtube.com/watch?v=Bx4yZoMJ0Vs
EILEEN JOYCE plays GRANADOS ALEGRO DI CONCIERTO
http://www.youtube.com/watch?v=RHHQfSZlPFE
Eileen Joyce Granados The Maiden and the Nightingale
http://www.youtube.com/watch?v=ff796nTWcx4
Eileen Joyce plays Albeniz-Godowsky Tango
http://www.youtube.com/watch?v=D0IwX5ERJ84
Eileen Joyce plays Scott "Danse Nègre"
http://www.youtube.com/watch?v=6huBZbBUbnk&playnext=1&list=PLAA87A59A6C3F96CB&feature=results_video
Eileen Joyce - Cyril Scott: Lotus Land
http://www.youtube.com/watch?v=_0VNUp-ezLI&playnext=1&list=PLAA87A59A6C3F96CB&feature=results_video
Eileen Joyce Dohnanyi Rhapsody in C Major Op.11 No.1
http://www.youtube.com/watch?v=Z75gy61zCzI
Eileen Joyce: Moszkowski Caprice Espagnol
http://www.youtube.com/watch?v=TXXL55rz0yE
Eileen Joyce plays Sinding Rustle of Spring
http://www.youtube.com/watch?v=_rtvky6wiYQ
Eileen Joyce plays Richard Strauss Ständchen Op. 17 No. 2 (arr. Walter Gieseking
http://www.youtube.com/watch?v=1bK_GkkQulw&playnext=1&list=PLC78C2B56EE4657DA&feature=results_video
Eileen Joyce plays Scriabin Two Preludes
http://www.youtube.com/watch?v=ANaNra2YXUk
Eileen Joyce plays Domenico Paradisi (Paradies) Toccata
http://www.youtube.com/watch?v=DvfoC5_tsgA
Eileen Joyce plays Schlozer - etude in A flat major op.1 no.2
http://www.youtube.com/watch?v=gFybrQyvKqc
Eileen Joyce plays Tarantella in A minor by Harry Farjeon
http://www.youtube.com/watch?v=e56ehTeZPuQ
Eileen Joyce plays Scott "Danse Nègre"
http://www.youtube.com/watch?v=6huBZbBUbnk
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2022/07/19 (Tue) 20:01:23
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アイリーン・ジョイス
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
アイリーン・ジョイス/ラインスドルフ指揮/LPO
(DUTTON)'46 Mono
この女優については賛否両論、毀誉褒貶さまざまなようです。
プロフィールを読むと、誠に聞くも涙、語るも涙の子供時代から奇跡的?にピアニストになり、そして華麗なる銀幕の女王?への転身。
某所では、「あぁ、あの女優ね・・・。」という意見も聞かれるようである。
しかし音楽家(ピアニスト)が女優になってなぜ悪い。そんな例などゴロゴロしている。ピアニストから指揮者になる奴、指揮者から映画監督になる奴、ヴァイオリニストから露出狂になる奴、歌手からストリッパーになる奴・・・枚挙に暇はない。
しかしながら、それがためにこのピアニストのレコードがもっとたくさん残されなかったのは残念に思う。
野生?で育った故か、勘は悪くないようである。
(この点ではグリモーにも通ずるところがあるか・・・と無茶な論を展開してみる。)
テクにも怪しいところが少ない。この曲では3楽章冒頭がひとつの難所であり、そこをどうクリアするかを聴きどころにしているのだが、満点とは言い難いが、そこそこのうまさでこなしている。
かつ、この曲らしい、それらしい雰囲気を出すことにも成功している。いつも申し上げるが、時代的特徴と思われる力技が見え隠れすることがない。
がぁーっとやって、わぁーっとなることがない。女流らしい女流である。(私の場合、こういう感覚的な語彙しか出てこない。いわゆるひとつのN嶋のようだ・・・。)
それにしてもDUTTON、どうも信用できません。このレコードも例外ではなく、トゥッテイの終わりに「ジュワーン」と音がぼやけて広がります。これは断じてモノラルではありません。インチキステレオであり、すなわちインチキモノラルです。白黒写真に絵の具で色を付けたようなものです。
2002年2月28日(木)
http://www.sun-inet.or.jp/~tchujoh/pianist1.htm
先週、アイリーン・ジョイスのLP盤を聴いて、この洋琴弾きのレコヲドをもっと聴いてみたくなった。早速CDを取り寄せてみた。
デッカ(パルロフォン)の時代がかったゴールドレーベルで聴いた録音も、CDのプラスティックの入れ物だと値打ちを感じないもので不思議だ。それでも最近では、初期版CDなどといふ言葉まで登場し、高いモノでは1枚数万円もするCDがあるやうで、まるで骨董扱いだ。多くのSP盤収集家にとっては笑ってしまふやうな現実のお話である。
さて、演奏の方だが、ショパンについてはLPでは幻想即興曲しか聴けなかったが、CDにはバラードの第1番と第3番が収められてゐた。嬉しくなって早速聴いた。素晴らしいと思ふが、一風変わった表現だ。特に第1番の変化に富んだ表現は他では絶対に味わえないジョイス独自の表現だ。
リストのコンサートエチュードになると、そこら辺のちょっと技巧で名を知られたくらいの洋琴弾きは吹き飛ばしてしまふほどの素晴らしいテクニックと表現の幅を持ってゐて、しかもショパンで少し感じた違和感のやうなものも感じずに聴くことができる。いずれも感情の迸りを直接的に感じることができる演奏だ。現代の平均的な優等生の演奏を幾つも聴くより、こういった個性的な演奏を一杯聴いてインスピレーションを高めていく方が人間的な成長を考える上でもはるかに良い。
この女流洋琴家が12歳まで字も読めず、タスマニアの山で拾ってきたカンガルーの子供と戯れて過ごしてゐたとはとても信じられない。
洋琴の手ほどきは修道院の尼僧から受け、自分の洋琴は持ってゐなかったといふ。そのやうな彼女が、これほどの技術を身に付け天賦の才を花開かせたのは正に奇跡である。
実際、彼女の人生は小説より奇なので映画になった。僕もこの歳まで簡単な計算もできず、街で拾ってきた嫁さんと戯れてきたが、眠ってゐた天賦の才が今から開花するかも知れない。
ここで聴いてゐるリストの録音は、彼女が字を習い始めて僅か8年後の1933年の録音である。全く驚く以外ない。
http://blog.goo.ne.jp/tenten_family6/e/4ac1445693fce3252e72abc439cd9c4e
ジョイス,アイリーン・アランナー Joyce,Eileen Alannah
1908年1月1日・オーストラリア/タスマニア島~1991年3月25日・英国/ウエストハム
1945年制作のデヴィッド・リーン監督映画『逢いびき/Brief Encounter』のサウンドトラックで、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番を担当したピアニスト。
俳優として映画にも出演する程人気があり、そのために一部の音楽評論家からは冷評された。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
タスマニア島の鉱山の町ジーアンに生まれる。(父親はアイルランド出身の採掘技術者)、母親はスペイン人。
タスマニア島ジーアン(1908年当時)
貧困生活のために学校へ行く事が出来ず、母親の手ほどきにてピアノを始める。
1911年(3歳) 家族に伴って西オーストラリア州に移住。
1918年(10歳) 聖ヨセフ女子修道院附属学校に入学。メアリー・モニカ・バトラーの指導により初めて正規の音楽教育を受ける。
1921年(13歳) 家庭の経済的事情により聖ヨセフ女子修道院附属学校を退学。ロゼッタ・スプリッグズ(ドヴォルザークの子孫に当たるピアノ教育家)の個人レッスンを受ける。
スプリッグズの知人チャールズ・シルスキー(ヴァイオリニスト。当時トリニティー大学客員教授)の計らいにより、パース市の大司教推薦を得て同市クレアモントのロレート女子修道院に入り、パース市のピアノ教育家ジョン・モアに師事。
1926年(18歳) パース市で開催された音楽コンクールにて第1位受賞。
同年、西オーストラリアに演奏旅行中のヴィルヘルム・バックハウス(Backhaus,Wilhelm 1884年~1969年/ダルベール門下。1926年当時は米国フィラデルフィアのカーチス音楽院教授に就任したばかりだった。)に認められ、ライプツィヒ音楽院への留学を奨められ、同音楽院への紹介・推薦状を渡される。
1927年(19歳) ドイツに留学。ライプツィヒ音楽院にてマックス・パウアー(Pauer,Max von 1866年~1945年)、ロベルト・タイヒミュラー(Teichmuller,Robert 1863年~1939年/瀧 廉太郎の留学時代の担当教授)に師事。
1930年(22歳) 英国に移り、ロンドンの王立音楽院にてトビアス・マッセイ(Matthay,Tobias Augustus 1858年~1945年)と、マッセイの指導アシスタントのマイラ・ヘス(Dame Hess,Myra 1890年~1965年)にピアノを、トーマス・ゴフ(Goff,Thomas 1898年~1975年)にチェンバロを師事。。
同年9月6日、ロンドンのBBCプロムス(ロンドンで毎年夏開催される8週間のクラシック音楽コンサート・シリーズ)に出演し、同年創立したばかりのBBC交響楽団とプロコフィエフ・ピアノ協奏曲第3番を演奏(指揮:ヘンリー・ウッド)。実質的な英国デビューを果たす。
以降、BBCプロムスに定期的に出演する様になる。
1931年(23歳) 3月23日、ロンドンにて初のソロ・リサイタル開催。
同年、アデリーナ・デ・ララ(Lara,Adelina de 1872年~1961年/クララ・シューマン門下)に短期間師事。
1932年(24歳) ドイツのベルリンにて、アルトゥール・シュナーベル(Schnabel,Artur 1882年~1951年/レシェティツキ門下。当時ベルリン音楽大学教授)の主宰した2週間のマスタークラスを受講。
1933年(25歳) プライベートな自費録音の目的で英国パーロフォン社のスタジオを訪れ、リスト「演奏会用練習曲」その他を録音(SPレコードとして同社から正式リリース)。ジョイスの演奏に驚嘆した同社のディレクター達が録音代金の請求書の代わりに「録音契約書」を提示し、英国パーロフォンと契約に至る。
(以降、英国コロムビアや英国デッカとも録音契約)
1935年(27歳) オーストリアのテノール歌手リヒャルト・タウバー(Tauber,Richard 1891年~1948年)のソロ公演ツアーのピアノパートを担当。
1936年(28歳) 1月4日、ショスタコーヴィッチ・ピアノ協奏曲第1番を英国初演(ヘンリー・ウッド指揮BBC交響楽団)。
同年、母国オーストラリアおよびニュージーランドに公演。オーストラリア・ツアーではウィリアム・ケイド指揮アデレード交響楽団と共演。
1940年(32歳) 7月18日、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の財政再建コンサートに出演し、ベイジル・キャメロン指揮にてグリーグ・ピアノ協奏曲イ短調を演奏。
第二次世界大戦中はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の「ブリッツ・ツアー」 (Blitz Tours/ 空爆被害を受けた都市を慰問巡回する公演)に参加し、ベンノ・モイセイヴィッチ(Moiseiwitsch,Benno 1890年~1963年/レシェティツキ門下)と交代でソリストを務める。
またマイラ・ヘスの企画によるナショナル・ギャラリー・コンサート(1939年~1946年にかけてナショナル・ギャラリーで開催された、一般市民の慰安のためのランチタイム・コンサート)にも協力出演。
1945年(37歳) 1945年制作のデヴィッド・リーン監督映画『逢いびき/Brief Encounter』のサウンドトラックで、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番を演奏。同映画の封切りによって、クラシック音楽がより一般的になるきっかけを作った。
1947年(39歳) 海外公演。フランス・ドイツ・オランダを巡演。
1948年(40歳) 1948年(40歳) ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(約8.000人収容)における個人の年間公演記録を更新(17回)。
同年、イタリア公演(初)。
また、故郷タスマニア島(オーストラリア)にてタスマニア交響楽団のガラ・コンサートにゲスト出演し、グリーグ・ピアノ協奏曲イ短調を演奏(ジョゼフ・ポスト指揮/同交響楽団)。
1949年(41歳) ドイツ公演。
1950年(42歳) ベルギー・ノルウェー・南アフリカ共和国・米国を巡演。
同年、チェンバロによるリサイタルを初開催。
以後、数台のチェンバロによる公演を時折企画し、バッハ「3台のチェンバロによる協奏曲」等を演奏。
1951年(43歳) オランダ・スウェーデン・旧ユーゴスラビアを巡演。
1952年(44歳) フィンランド・ベルギー・ブラジル・アルゼンチンを巡演。
1954年(46歳) スウェーデン・スペイン・ポルトガルを巡演。
1956年(48歳) 旧ソ連にて初の公演。
1958年(50歳) 9月5日、ショスタコーヴィッチ・ピアノ協奏曲第2番を英国初演(マルコム・サージェント指揮/BBC交響楽団)。
この年は、ニュージーランド・ドイツ・旧ソ連・デンマーク・スカンディナヴィア諸国を巡演。
1960年(52歳) インドおよび香港を巡演。
1967年(59歳) 天才少年の呼声の高い当時10歳のテレンス・ジャッド(Judd,Terence 1957年~1979年)の活動支援を開始する。
1971年(63歳) ケンブリッジ大学より名誉博士号(音楽芸術)を授与。
1979年(71歳) 西オーストラリア大学より名誉博士号(音楽芸術)を授与。
1981年(73歳) 4月21日、英国政府より叙勲(聖マイケル・聖ジョージ勲章/CMG)。
同年8月、オーストラリアのシドニーで開催された第2回シドニー国際ピアノコンクールの審査員として招聘される。
同年11月29日、ロイヤル・オペラ・ハウスに於いて、ジェフリー・パーソンズ(Parsons,Geoffrey 1929年・オーストラリア/シドニー~1996年)とピアノ・デュオ公演(チャリティ・コンサート)を行う。これがジョイス最後のコンサート出演となった。
1982年(74歳) メルボルン大学より名誉博士号(音楽芸術)を授与。
1985年(77歳) 第3回シドニー国際コンクールの英国予選の統括責任を引き受け、シドニーでの本大会では審査員副委員長を務める。
1988年(80歳) 第4回シドニー国際コンクールを後援。
※ジョイスはこのコンクールのために、合計2万ドルもの個人的支援を行っている。
1991年3月25日逝去。享年83歳。
晩年は慢性のリューマチを患っていて骨が脆くなっていた事に加え、逝去の数日前に浴室で転倒して骨盤を骨折したのが致命傷であった。
ジョイスは、英国パーロフォンを始めとするレーベルに多数の録音を遺したが、SPおよびLPレコードは現在入手困難かつ高値がついている。復刻CDでも2万円を超えていたりして、現在でも衰えていない人気を誇る。その中で比較的容易に入手出来る復刻CDは「EMIグレート・アーカイヴ・シリーズ/No.40 」だろう。
ドビュッシー『トッカータ』、ラヴェル『水の戯れ』、ラフマニノフ『前奏曲ト短調Op.23 No.5』は絶品の演奏。レパートリーの数だけではなく、どの国のどの作曲家にも対応出来るオールマイティな演奏スタイルを持っていた事がわかる。
残念なのは、70曲以上のレパートリーを誇ったピアノ協奏曲の録音が非常に少ない事だ。1回の公演で2~3曲のピアノ協奏曲を演奏する事もあったというから、自家薬籠中にしていたピアノ協奏曲は少なくなかったはずである。にもかかわらず、ピアノ協奏曲の録音を余り遺さなかったのはいかなる理由なのだろうか。
現代では珍しくない『曲に合わせてステージ衣裳や髪型を変える演出』の先駆けでもあり、持ち前の美貌もあって映画女優としても起用された。
実力、実績ともに文句なしに大家・巨匠の一人であり、テレサ・カレーニョやゾフィー・メンター等と比肩し得る名手であった事は疑う余地が無い。
http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/s/Joyce.html
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アイリーン・ジョイス(英語: Eileen Alannah Joyce CMG、1908年1月1日 - 1991年3月25日)はオーストラリア出身のピアニストである。主にイギリスを中心に活躍し、その類稀な美貌のためもあって[1]イギリスやヨーロッパ、オーストラリアで卓越した人気を獲得した。
その人気は第二次世界大戦前後に頂点を極め、最盛期にはポピュラー音楽におけるグレイシー・フィールズやヴェラ・リンの人気にも比較されたほどだった[2]。映画『逢びき』のサウンドトラックにおいてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏したことでも知られる。
アイリーン・ジョイスは1908年1月1日にタスマニア州の鉱山の町、ジーアンの貧しい家庭に生まれた。父はアイルランド系、母はスペイン系である。
テントの中で生まれたとする資料もあるが、実際には彼女が生まれたのはジーアン地方の産院である[3]。
彼女はしばしば自身の生年月日を1910年、もしくは1912年の11月21日だと主張した[註 1]が、タスマニア州の出生登録の調査により彼女の正しい生年月日は1908年1月1日であることが判明している[3]。アイリーンは七人兄弟の第四子で、姉の一人は生後まもなく死亡しており、弟の一人は2歳で死亡している[4]。
一家は1911年に西オーストラリア州に移住した。彼らは初め Kununoppin に居を定め、後にカルグァリー・ボウルダ市に移った。貧しい境遇にも関わらず、両親は彼女が音楽の才能を伸ばすのを奨励し、ジョイスは10歳の時に音楽のレッスンを受けるようになった[4]。彼女は聖ヨセフ女子修道院附属学校に入学し、メアリー・モニカ・バトラーの指導を受けた。
13歳の時に家計の事情から学校から離れなければならなくなったが、代わりにドヴォルザークの曾孫弟子にあたるロゼッタ・スプリッグズの個人レッスンを受けるだけの費用を捻出することができた。スプリッグズはジョイスをトリニティー・カレッジの客員教授を務めていたチャールズ・シルスキーに引き合わせた。
コンセール・ラムルーに所属したこともあるヴァイオリニストであるシルスキーはジョイスから強い印象を受け[註 2]、パースの大司教に連絡をとってジョイスがクレアモントのロレート女子修道院で学ぶことができるように取り計らった。ジョイスはそこでジョン・モアの指導を受けた。1925年と1926年にはパースの音楽コンクールに出場し、1926年にはグランド・チャンピオンに輝いた。
シルスキーはさらに彼女の名を広めることに尽力し、パースの新聞社にパリで学ぶことができるよう力説する手紙を送った。1926年5月には西オーストラリア州知事のフィリップ・コリアーが彼女の将来のために1000ポンドを集める目的でアイリーン・ジョイス基金を設立する事態に至った。1926年8月にはモアによって演奏旅行中のパーシー・グレインジャーに引き合わされた。ジョイスの演奏を聴いたグレインジャーはパース市民に宛てた公開の書簡を発表した[5]。
アイリーン・ジョイスの演奏を聴きましたが、彼女はあらゆる意味において私がこの四半世紀に聴いた若いピアニストの中で最も卓越した才能に恵まれていると断言できます。彼女の演奏は、オーストラリアの若い才能に特有の、ほかでは見出すことのできない音の溶け合い、弾力のある表現を備えています。
グレインジャーは彼女がテレサ・カレーニョやギオマール・ノヴァエスにも並ぶほどの名声を手にするだろうとも示唆した[3]。彼はジョイスに「ヨーロッパ風の」もしくは「大陸的な」色合いに染まらないよう、オーストラリアの名匠に師事することを推奨した。彼の考えでは当時ニューヨークで教えていたアーネスト・ハッチソンが最適の選択だった[3]。
グレインジャーが去ってしばらく後、ヴィルヘルム・バックハウスが西オーストラリアへのツアーに訪れた。彼もまたジョイスの演奏を聴き、当時ピアノ教育のメッカと見なされていた、ライプツィヒ音楽院で学ぶことを薦めた(ハッチソンもかつてここで学んでいた)[3]。
なお、この年に彼女はチェリストのジョン・ケネディ(ナイジェル・ケネディの父)とともに南西オーストラリアの演奏旅行を行っている[4]。
こうして彼女は1927年から1929年までライプツィヒ音楽院で学ぶことになった。ここで彼女は初めマックス・パウアーに、後にはロベルト・タイヒミュラーに師事し、マックス・レーガーのピアノ協奏曲やリヒャルト・シュトラウスの「ブルレスケ ニ短調」といった比較的めずらしいレパートリーをも学んだ。その後彼女はロンドンの王立音楽大学でトバイアス・マテイに師事した(マイラ・ヘスが指導助手を務めていた)。1931年にはアデリーナ・デ・ララにも短期間学んでいる[4]。
デビュー
ジョイスは1930年9月6日にロンドンでのBBCプロムスにおいてプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を演奏し、プロのピアニストとしてのデビューを飾った。彼女のイングランドでの最初のソロ・リサイタルは1931年3月23日のことで、奇しくも同郷のソプラノ歌手、ネリー・メルバがシドニーで亡くなったのと同じ日だった[6]。1932年にはベルリンでアルトゥル・シュナーベルのマスタークラスに2週間出席した[4]。
イギリスでの活動
40周年に当たる1934年のプロムスでジョイスはブゾーニの「インディアン幻想曲」を演奏した[7]。 彼女はBBCに定期的に出演するとともに、地方への演奏旅行にも呼ばれるようになった。1935年にはリヒャルト・タウバーの伴奏を務めた。
財政的に苦境に陥ったロンドン・フィルハーモニー管弦楽団が1940年7月18日に資金集めを目的としたコンサートを開催した際にはベイジル・キャメロンとの共演でグリーグのピアノ協奏曲を演奏した[8]。 第二次大戦中はジャック・ヒルトンの企画によりロンドン・フィルがマルコム・サージェントなどとともに行った、空爆の被害を受けた都市を巡回する「ブリッツ・ツアー」 (Blitz Tours) においてピアノのソリストをベンノ・モイセイヴィチと交代で務めた[9][10]。またマイラ・ヘスの企画したナショナル・ギャラリー・コンサートに定期的に出演した。
1948年にはジョイスは一年にロイヤル・アルバート・ホールで17回もコンサートを行うという新記録を達成した[11]。彼女は一つのコンサートで協奏曲を2曲演奏することも多く、1940年代末から1950年代初めにかけて行われた「マラソン・コンサート」のシリーズでは一晩に4曲の協奏曲を演奏することさえあった。例えば1948年12月10日のバーミンガムでのコンサートではフランクの交響的変奏曲とファリャの「スペインの庭の夜」、ドホナーニの童謡の主題による変奏曲、グリーグの協奏曲を演奏した。1951年5月6日のロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートではミラン・ホルヴァート指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演でハイドンのチェンバロ協奏曲ニ長調とチャイコフスキーの第1番、ジョン・アイアランドの協奏曲、グリーグの協奏曲を演奏した[4]。ショパンの第1番とラフマニノフの第2番、アイアランドの協奏曲、ベートーヴェンの第5番を一日で演奏したこともあった[7]。
1957年11月28日に行われた音楽家慈善基金のための集いでは、彼女はマルコム・アーノルドの「おもちゃの交響曲」作品62の初演に参加した。この作品には12のおもちゃの楽器のためのパートがあり、作曲者自身の指揮の下、ジョイスをはじめエリック・コーツ、トーマス・アームストロング、アストラ・デスモンド、ジェラード・ホフナング、ジョゼフ・クーパーといった著名な人物が担当した[12][8]。
チェンバロ奏者として
彼女はチェンバロにも関心を抱き、トーマス・ゴフのレッスンを受けた。1950年には初のチェンバロ・リサイタルを開き、1950年代に開催した4台のチェンバロによるコンサートのシリーズではジョージ・マルコムやサーストン・ダート、デニス・ヴォーン、サイモン・プレストン、レイモンド・レッパード、ジェフリー・パーソンズ、ヴァルダ・アヴェリングなどと共演した[4]。
1960年のインドへのツアー[註 6]中に、ジョイスは同年5月18日のスターリング(スコットランド)での音楽祭への出演[註 7]を最後に引退することを表明した。しかし彼女はその後も21年間に亙って何度もコンサートの場に復帰した。1967年にはアナトール・フィストゥラーリ指揮のロイヤル・フィルとの共演でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏し[註 8]、別の日には三人のチェンバロ奏者とともにネヴィル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団と共演した。またこの年には当時十歳だったテレンス・ジャッドのキャリアの支援を開始した。
1969年にはロンドンのオーストラリア・ハウスでの2台のピアノによるリサイタルでジェフリー・パーソンズと共演した。1979年にはやはり2台のピアノによるリサイタルでフィリップ・フォークと共演した。1981年11月29日にロイヤル・オペラ・ハウスで行われた募金を目的としたコンサートではまたパーソンズと共演した[6]。これが彼女のピアニストとしての最後の出演となった[註 9]。
レパートリー
ジョイスは70を越える協奏曲のレパートリーを誇り、その中にはアイアランドやリムスキー=コルサコフのピアノ協奏曲といっためずらしい作品も含まれる。
彼女には特別にお気に入りの協奏曲が三つあった。
グリーグの(唯一の)ピアノ協奏曲、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、そして何よりラフマニノフのピアノ協奏曲第2番である。
彼女はラフマニノフの他の協奏曲は演奏しなかった。第3番も習得し、弾けないわけでは全くなかったが、単に気に入らなかったのである。
ジョイスが共演した著名な指揮者には以下のような人物がいる。
エルネスト・アンセルメ、ジョン・バルビローリ、トーマス・ビーチャム、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、エイドリアン・ボールト、ワーウィック・ブレイスウェイト、ベイジル・キャメロン、セルジュ・チェリビダッケ、アルバート・コーツ、コリン・デイヴィス、ノーマン・デル・マー、アナトール・フィストゥラーリ、グジェゴシュ・フィテルベルク、アレクサンダー・ギブソン、ダン・ゴドフリー、ハミルトン・ハーティ、バーナード・ハインズ、ミラン・ホルヴァート、エンリケ・ホルダ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エーリヒ・クライバー、ヘンリー・クリップス、コンスタント・ランバート、エーリヒ・ラインスドルフ、イーゴリ・マルケヴィチ、ネヴィル・マリナー、ジャン・マルティノン、シャルル・ミュンシュ、ユージン・オーマンディ、ジョゼフ・ポスト、ヴィクトル・デ・サバタ、マルコム・サージェント、カルロス・スリナッチ、ヘンリー・ウッドなど。
1969年のインタビューで、彼女は共演した指揮者の中で最も偉大なのはセルジュ・チェリビダッケだと述べている[4]。ジョイスによると「彼は私の魂の奥深くにまで入り込むことのできた唯一の人」だったという。
録音
ジョイスは1933年にパーロフォン社からフランツ・リストの「演奏会用練習曲ヘ短調」と Paul de Schlözer の「練習曲変イ長調作品1の2」のレコードを発表した[4]。彼女は当初契約してくれるレコード会社を見つけることができず、自身の練習のために私的な録音を行う目的でパーロフォン社と接触した。
しかし彼女の演奏に感銘を受けた同社のディレクターたちは、彼女に代金を請求する代わりに演奏家としての契約を申し出たという[7]。以後彼女は同社及びコロムビア・レコード社、デッカ・レコード社へ多くの録音を行った。これらの録音にはピアノ独奏曲が多く、70を超えるレパートリーを誇った協奏曲についてはわずかな数の録音しか残っていない。
彼女が残した録音のうちいくつかは1980年代にLPとして再発売されたほか、1990年代になってからCDとして復刻されている。
映画音楽での業績
二人目のパートナーとなった男性の影響もあり、ジョイスはいくつもの映画のサウンドトラックの演奏を手がけた。特にデヴィッド・リーンの『逢びき』でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏したことはよく知られている(共演はミューア・マシソン)。
同じく1945年の『第七のヴェール』でもピアノ演奏を担当したが、映画にはクレジットが表記されなかった。この映画でもやはりラフマニノフの第2番が用いられたほか、グリーグのピアノ協奏曲やモーツァルト、ショパン、ベートーヴェン[註 10]のピアノ独奏曲が使用された。
1946年の映画『Men of Two Worlds』[19][註 11]ではアーサー・ブリス作曲の「Baraza」をマシソンとの共演で演奏した。ピアノと男声合唱とオーケストラの編成によるこの作品は、ブリスの説明によるとアフリカの酋長たちの間の討議を表現しているのだという。ブリスはこれを単独のコンサート用の作品としても発表しており、1945年にやはりジョイスによって初演された。翌1946年には録音もされ、この録音は映画自体よりも人気を博した[20][21]。1947年にはダーク・ボガードのアンソロジー映画、『四重奏』の「変り種」においてジョイスの演奏によるシューベルトの即興曲変ホ長調が使用された[4]。
彼女はサウンドトラックのみならず、いくつかの作品では映画自体への出演も果たしている。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の戦時中の奮闘ぶりを描いた1943年のドキュメント仕立てのドラマ、『Battle for Music』[22]では他の多くの著名な音楽家たちとともに本人役で出演した[4]。
1946年の映画『A Girl in a Million』[23]にはピアニスト役として出演し、フランクの「交響的変奏曲」の一部を演奏した。1952年の『トレント最後の事件』では本人役で出演し、ロイヤル・オペラ・ハウスにおいてアンソニー・コリンズとの共演でモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を演奏した[4]。後述のように彼女の伝記を元にした1953年の映画、『追憶の調べ』では作品の最初と最後に少しだけ本人役として出演している。
音楽家や評論家による評価
ジョイスが1947年にベルリン・フィルハーモニー・オーケストラと共演した際、著名なドイツの評論家は彼女をクララ・シューマンやゾフィー・メンター、テレサ・カレーニョになぞらえた[11]。1950年にアメリカをツアーした際にはアーヴィング・コロディンが彼女を「世界で最も偉大な知られざるピアニスト」と呼んだ[24]。1950年代になると彼女の名声はより広く知られるようになり、ロンドンだけで年に50回も行われたリサイタルはいつもソールド・アウトとなった[24]。
彼女のモーツァルト演奏は「申し分のない趣味と印象」と称され、「堂々たる威厳ある」バッハ弾きであり、「詩情と華麗さを兼ね備えたリスト弾き」でもあった[24]。彼女の『逢びき』や『第七のヴェール』におけるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏はこの作品を普段こうした音楽にふれる機会のない人々の間でも馴染み深いものにした。
スティーヴン・ハフはジョイスがその実力に十分見合った評価をされていないことに驚きを表明している。リチャード・デイヴィスによる伝記『Eileen Joyce: A Portrait』への前書きの中で、ハフは「彼女は過去の多くの偉大なピアニストたちが発揮してきたまばゆく輝くばかりのヴィルトゥオジティを全て披露している。…彼女の名は過去の偉大なピアニストたちのリストに書き加えられるべきだ」と述べている。
類稀な美貌
ジョイスは小柄な体格ながら栗色の髪と緑色の目をした類稀な美人だった。そして彼女自身、自らの恵まれた容姿を楽しみ、利用することをためらわなかった。演奏する音楽に合わせて衣装を変えたりもした。
ベートーヴェンには青[9]、チャイコフスキーには赤[5]、リストには薄紫、バッハには黒、ショパンには緑、ドビュッシーにはスパンコール付きの、シューマンには赤と金[26][11]、といった具合に。
彼女は髪型も作曲家に応じてアレンジした。ベートーヴェンではアップに[26]、グリーグやドビュッシーでは下ろし[26]、モーツァルトでは後ろに束ねる[5]など。批評家は冷笑したが、聴衆はそれを好んだ。
1940年まで彼女は自身の衣装をデザインしていた。しかし8月にボランティアとして務めていた空襲に備えた火災警備員の作業によって慢性のリューマチが再発すると、ロンドン・フィルとのツアーでは肩から背中にかけてギプスをはめなければならなくなった。彼女はノーマン・ハートネルによって特別に作られたギプスを覆う衣装を着用し、それ以後しばしばハートネルを着るようになった[4]。
彼女が1948年にオーストラリアをツアーした際、シドニーで音楽を学ぶ学生だったリチャード・ボニングは次のように証言している[5]。
彼女はステージで実に魅力的だった。我々は彼女のコンサートに群がって通ったものだが、それは彼女が気前よく披露してくれていた胸元に惹き付けられたという理由もないわけではなかった
私生活
ジョイスは1937年9月16日に株式仲買人の男性と最初の結婚をし、1939年9月4日には男児を出産した。しかしやがてこの結婚は破綻し、二人は離婚した[2]。別れた夫はイギリス海軍に従軍し、1942年4月30日[4](もしくは1942年6月24日[27])に乗船していた軍艦がノルウェー沖で爆撃を受け戦死した。ジョイスはどういうわけか彼が戦死した場所を北アフリカ沖としていたが、1983年に記録を訂正した。
彼女の二人目のパートナーとなったのは、ノルウェーの女優、グレタ・ギュントの元夫で、マデリーン・キャロルのマネージャーを務めていたこともある[4]、映画会社重役の男性だった。彼らは法的に結婚したと主張していたが、それを裏付ける書類は存在しない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9
上記 Wikipedia の原文
Eileen Joyce From Wikipedia, the free encyclopedia
Personal life
On 16 September 1937 Eileen Joyce married Douglas Legh Barratt, a stockbroker. Their son John Barratt was born on 4 September 1939, the day after the start of World War II. The marriage failed and they separated.[1]
Douglas Barratt served with the British Navy, and on 30 April 1942[7] (or 24 June 1942[28]), he was killed on active service off Norway when the ship he was on, HMS Gossamer, was blown up. For reasons she never explained, Eileen Joyce always said he had died off North Africa, but in 1983 she corrected the record.
Her second partner was Mayfair Film executive Christopher Mann. They lived together from late 1942 until his death in 1970. They both claimed they were legally married, but there is no documentary evidence of this. Mann had previously been married to the Norwegian actress Greta Gynt, and had been Madeleine Carroll's publicist and manager.[7]
Mann proved an unsympathetic stepfather to Eileen Joyce's son John Barratt, and Eileen herself, between punishing touring schedules and bouts of ill-health, also found little time for him.[9] From the early age of three years and three months, John was sent to boarding school. Eileen's guilt over her neglect of her son, combined with overwork, contributed to a breakdown in 1953.[6] John himself developed severe psychiatric problems, owing in part to his feelings of abandonment from a very young age. He was estranged from his mother from an early age, and he was left nothing in her will, the bulk of her estate going to her grandson, John's son Alexander.[4]
In 1957, Eileen Joyce and Christopher Mann bought Chartwell Farm (not the Chartwell historic home) and Bardogs Farm, Kent, from Sir Winston Churchill. Their home in London was bought by the actor Richard Todd.[7] In 1978[29] at Aylesbury, Buckinghamshire, Eileen using the name of Eileen Barratt, married Christopher E Mann. She died in 1991[30] at East Surrey Hospital, Westerham, Surrey.
Eileen Joyce experienced considerable ill health throughout her adult years, particularly severe rheumatism in her shoulders, which at one time necessitated a plaster cast, and sciatica. Towards the end of her life, she suffered from senile dementia.[4]
上記の Wikipedia アイリーン・ジョイスの翻訳について
もう何ヶ月も前から取り組んでいた英語版Wikipediaのアイリーン・ジョイスの項目の翻訳作業をやっと終えて、16日に日本語版に新規項目を投稿しておいた。英語版の項目はかなり熱心なファンの方が執筆しているらしく、出典も詳細につけられた充実した記事なのだけど、細々とした情報があまり整理されずに延々と書き連ねられているのでとても読みにくく、全体を整理しながら翻訳を進めていくのがなかなか大変な作業だった。
本当は私生活についての節などは実名入りでもっと細かいことが書かれていたのだけど、あまりいい趣味と思えなかったので大幅に簡略化してしまった。その他冗長と感じた部分もかなり端折って訳しておいた。それでもまあそれなりに人様の役に立つ項目にはなったかと自負している。このピアニストに関する日本語の資料としてこれほど詳しいものはかなり希少な存在なのではないかと思う。これはGFDLというライセンスの効力のなせる業でもあり、その影響力の大きさを再認識した次第である。
作業の完成を祝して彼女の録音を聴き直してみたが、その豊かな音楽性にあらためて感銘を受けた。グリーグやチャイコフスキーの作品と並んで愛奏したというラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音は、そのテクニックの確かさを感じさせるとともにノーブルな気品が香り立ってくるような演奏である。両端楽章は雄渾な詩情と力強いダイナミズムに溢れる一方で、中間楽章では繊細な叙情を情感豊かに歌って聴かせており、それぞれの曲想に即した演奏を志向した様子が感じられる。アクセントの置き方にやや個性的なところが見られるのも興味深い。現在CDとして入手できるものは共演者が違うので映画『逢びき』で使用されたのとは別の音源のようだが、この高名な映画との関わりも含めて、この曲の演奏史について語る上で彼女の名は欠かすことのできないものだと思う。
英語版を読んでみてわかったことなのだけど、ジョイスについては日本であまり知られていないというばかりでなく、英語圏でも半ば忘れられた存在となっているようだ。貧しい境遇から一流の演奏家に育った経緯とか、類稀な美貌とか、映画音楽での活躍とか、話題性には事欠かない人であることを考えると、これはやや解せないところである。もっとこの(いろいろな意味で)美しいピアニストの業績が世に知られるようになり、その力量に相応しく評価されるようになって欲しいものである。
コメント
Wikiの翻訳されたんですね!読ませて頂きました。
有り難うございました。彼女の伝説は果たしてどこまでという真偽の程は謎ですが
掛け値なしにピアノの腕は一流です。
グールドも彼女のモーツァルトの演奏は好きだったという話が伝わっています。
ところで彼女の小品録音集大成がリリースされます。私もSPで何枚か所有していますが今から楽しみです。
投稿者: juさん | 2011年8月30日 01:23
-> juさん
はじめまして。コメントありがとうございます♪
ジョイスの生涯については豊富なエピソードにいろいろと尾ひれがついて出回ってしまっているようですね。ウィキペディア英語版の項目は主に西オーストラリア大学による調査資料に基づいているので、ある程度信頼してもいいのではないかと思っています。拙訳を読んでいただけたようでうれしいです。
グールドからも評価されていたというのは知りませんでした。近年ではスティーブン・ハフが積極的に彼女のことを称揚していますが、決して忘れられてはならない名ピアニストですよね。リリースの情報ありがとうございます。こうしたこともきっかけとなって再評価の気運が盛り上がっていくといいですね!
投稿者: sergei | 2011年8月30日 23:38
http://blog.vita-cantabile.org/2009/06/post_476.html
類稀なピアノの演奏技術のみならず、類稀な美貌を持ち合わせてスクリーンでも活躍したアイリーン・ジョイス。
彼女のリサイタルでは曲ごとにドレスを着替えたり、いろんな演出が試みられていたようです。
まぁ私なんかは脳天気に「おー・おー(^^)/」なんて喜んじゃうんでしょうけど、一途な音楽愛好家からすれば「ぶー・ぶー」と言いたくなるような振る舞いだったことも十分理解できるところではあります。
http://blog.goo.ne.jp/sjester/e/2df6ce5e6f21c7d2371abc228e9f533b
Eileen Alannah Joyce 画像
http://www.google.co.jp/search?q=Eileen+Alannah+Joyce&hl=ja&sa=X&tbas=0&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=qVdcUavZMaaeiAe9rYDABA&ved=0CEQQsAQ&biw=998&bih=892#hl=ja&tbm=isch&sa=1&q=Eileen+Joyce&oq=Eileen+Joyce&gs_l=img.3..0i19l2.62468.62468.0.62721.1.1.0.0.0.0.144.144.0j1.1.0...0.0...1c.1.8.img.S3pLy_ugP20&bav=on.2,or.r_qf.&bvm=bv.44697112,d.aGc&fp=384cc1845948453&biw=998&bih=892
▲△▽▼
しかし、山出しで学問や教養がゼロだった20歳のアイリーン・ジョイス嬢が何故それだけのピアノを弾けたのでしょうか?
その答えは以下のアイヌ女性の話からわかると思います:
アイヌ女性には「ノイポロイクシ」と呼ばれる能力もあるそうで、著者の藤村さんがご存知でそれができるという方はお二人いて、まずある古老の方は、
・あるときに「頭痛」がして、そうすると五分以内に来客が来ることがわかる。
・その来客も遠方から来る見知らぬ人に限って起こる。
・必ず頭痛する部位が、頭の右か左に偏り、
左の場合は位の高いような大切なお客であるし、右の場合は並の人である。
・「はげしい頭痛」がある場合は、とてつもなく偉い人の来客である。
ということであり、もう一人のおばあさんの場合は、
・来客する1時間か30分くらい前に頭痛が走る。
・荒々しい頭痛の場合は女性の来客で、緩やかなときは男性の来客である。
・訪問理由の概略と来客の年齢まで分かる。
という感じで、来客に関して分かるという共通点はあるものの、細部の情報の伝わり方はそれぞれ違うようなのですね。
それで、「どうして分かり方がちがうのか?」というのは、私の考えでは、おそらく頭痛が走るようなやり方で、その方々の「憑き神」、つまり「守護霊」さんたちが教えているのからなのではー?と思うわけですね。
つまり、憑き神さんたちとその受け取る人の能力差によって、サインの受け渡し方法が違うのだろうと思うのです。
ですから、いろいろ便利そうだからと若い人などが興味本位で超能力を伸ばそうとしてもそうならないのは、きちんとそれぞれの憑き神さんが受け取る人の能力や人格を配慮して、受け取る準備ができている人のみに、お知らせを送っているためと思われます。
ちなみに後のおばあさんの場合は、嫁いだ先のお姑さんがそういう能力があった方で、離婚した後、自分の故郷に帰ってからご自分にも能力が出てきた、ということですから、霊能力には実際の血のつながりだけでなく、さまざまなご縁も非常に大切なのかもしれませんね。
そのほか、この本にはカラスの鳴き方でもって来客や死別、向かいの家でご馳走がある、それが自分の家に回ってくるか、こないか(笑)、天気のよしあし、豊漁の有無などもわかる、ということですから、カラスさんもいろいろ考えておしゃべりしているものなのだなーとも思いますが、今ではすっかり忘れられている以心伝心的なコミュニケーションがあったおかげで、昔の人々も厳しい自然の中で生き延びて来られたのかもしれないと思いましたね。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/024/
要するに、文盲でないと人間が本来持っていた動物や植物と会話できる様な直観的な感覚が消えてしまうのですね。
詳細は
イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html