777投稿集 2553182


「ブスの人生は損」は本当か

1:777 :

2022/07/10 (Sun) 18:26:25

池上彰が解説「ブスの人生は損」は本当か
2018/7/27(金) 9:15配信 プレジデントオンライン

「私たちの評価は9割が外見」
「同じ失敗をしても“顔面偏差値”が高い人ほど許される」
「結局、美人には勝てないのですか? 」

そんな働く女性たちからの切実な問いに対し、ジャーナリストの池上彰氏が答える。

 アメリカの大学教授ダニエル・S・ハマーメッシュ氏は、著書『美貌格差-生まれつき不平等の経済学』(東洋経済新報社)において「美人はそうでもない人よりも生涯約3000万円得をする」という調査結果を発表しています。

 お隣の韓国は、外見による所得格差が非常に顕著な国のうちのひとつです。“整形大国”とも呼ばれ、美容整形手術の経験がある女性は4割以上もいるそうです。しかも、術後の事例写真を見ると、どれもよく似た印象を受けます。

 韓国女性はなぜ、整形手術をしてまで同じような顔にするのでしょうか。その理由で最も多いのは、採用試験のためだそうです。韓国の就職ポータルサイトの調査によると、「容姿が面接試験の結果に影響する」と答えた企業の人事採用者が、なんと84%もいました。韓国政府もこの風潮を問題視し、企業側に能力重視の面接試験を導入させる措置を取っていますが、なかなかうまくいかないのが現状のようです。

 容姿重視の採用だと、美人というだけで待遇のいい企業に入社できますから、必然的に金銭面で得をすることになります。実は、日本でも容姿重視の採用が堂々と行われていた時代がありました。

例えば、1960年代の新聞の求人広告には、「美人ウエートレス募集」といった見出しが躍っています。採用条件も

「身長157cm位、20歳前後、スマートな美しい方」

と、ほぼ容姿の項目ばかりです。


 また、1983年の新聞記事には、ある大手企業が全国の営業所に通達していた、女性社員採用基準の文書が掲載されています。そこには

「採用不可の女子として

(1)ブス、絶対に避けること
(2)チビ、身長140センチ以下は全く不可
(3)カッペ、田舎っぺ
(4)メガネ」

と明確に記されていました。

 これはすぐさま社会問題となり、当時の国会でも議論されたほどでした。しかし、このような容姿重視の採用が、少なくとも30年前には存在していたことは事実です。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180727-00025717-president-soci





外見が良ければ圧倒的に得する?

「隣の芝生は青く、みんな自分よりも幸せに見える」中で、どのように生きるか?
2022.07.02
https://blackasia.net/?p=13053


誰でも他人よりも優れた「何か」がある。誰にも負けないという得意分野がある。ただ、本人がそれに気付いていなかったり、その国では誰も評価しなかったり、才能とは関係のない世界で生きていると、せっかくの才能が磨かれない。己を知って、生き方を考えるのは重要だ。(鈴木傾城)

美しくて幸せそうな他人の姿が目に飛び込んでくる
最近、ルッキズム(外見至上主義)の弊害が非常に話題になってきており、賛否両論の話題が尽きない。(ブラックアジア:ルッキズム論争? 「外見こそすべて」の社会を簡単に終わらせる方法とは?)

ルッキズムが是正されるのかどうかは分からないが、多くの人は「外見が良ければ圧倒的に得する」という認識だけは持っている。

確かにそういう面はあるかもしれないが、外見などどのみちすぐに衰えるし、外見を生かし切れないで愚かな人生に堕ちる人も多いし、外見が良ければ絶対に幸せになるわけではない。

ただ、隣の芝生は常に青く見えるし、他人はみんな自分よりも幸せに見えるし、上を見ればいくらでも自分の上がいる。今は他人のプライベートがSNSで可視化される時代になっているので、余計に美しくて幸せそうな他人の姿が目に飛び込んでくる。

彼らはSNSでそうした自分の美しさや人生の充実ぶりを誇示する。そのため、自分の目に入ってくる他人は、誰もが自分にはない才能を持ち、自分にはないモノを持ち、自分にはない賞賛や幸せを得ているように見える。

この世は確実に「運の良し悪し」があるのだが、それを見せつけられるのだ。その結果、多くの人たちが他人と比べて今の自分に劣等感や不運を感じていく。感受性の強い人ほど、無意識に他人と自分を比較して落ち込む。「自分は運が悪いのではないか」と悩む。

先天的に聡明な頭脳を持って生まれる人もいるが、自分にはない。容姿端麗に生まれる人もいるが、自分にはない。超人的な運動能力で生まれる人もいるが、それも自分にはない。

まわりを見回すと自分よりも優れた人、自分よりも豊かな人、自分よりも条件が良すぎる人が確かに存在する。まわりは、自分が持っていない何かを持っているのだ。


爆撃に震えながら生きている今のウクライナ人
もっとも、運が悪いと思っているのは自分だけで、本当は自分もまたまわりから見ると、自分もまた「運が良い人間」だと思われているのかもしれない。

たとえば、ロシアに軍事侵攻を受けて爆撃に震えながら生きている今のウクライナ人は、私たちが「日本で生まれ、日本で生きている」というだけで運が良いと思うはずだ。

少なくとも日本に住んでいるのであれば、戦乱で住んでいる家を追われることはないし、自分や家族が爆撃で手足が吹き飛ぶようなことを心配する必要もない。ウクライナでは突如としてそれが日常茶飯事となったのだ。

「戦争のない日本人はいかに運が良いのか」とウクライナ人が思っても、私たちは否定できないだろう。

同じ理由で、極貧に沈んでいるアフガニスタン人々も、インドの低カーストの人々も、やはり日本人を「先進国に住んでいる」というだけで「運の良い人」だと思っている可能性はとても高い。

私はインドネシアの極貧のスラム街にいた時、「あなたは日本人で良かったわね。私も日本人として生まれたかったわ」と現地の女性に言われた。

さらに私は東南アジアでは何度も現地の女性に結婚してくれと言われたが、それは私自身に魅力があって愛されたからではなく、ただ単に私が日本人で一緒に日本に行けば貧困から脱することができるという彼女たちの打算があったからだ。

会ったその日に「結婚して欲しい」と言われたこともある。彼女は私の名前を聞くこともなく結婚を口にした。私がそれを断ると、彼女は雨に打たれてずぶ濡れになったまま私から去っていった。(ブラックアジア:名前も国籍も知らないのに、あなたと結婚したいという女)

貧困国の貧困層の中で生まれてしまうと、這い上がるのはとても難しい。生まれた環境が悪すぎることで、辛苦の人生を歩まなければならなくなってしまう。

先進国に連れて行ってもらえて貧しい境遇から抜けられるかもしれないと思えば、知らない男と結婚することすらも彼女たちには幸せに思うほど荒んだ人生がそこにあったということだ。

個人の能力では克服できない「運」というもの
私たちがアフガニスタンに生まれていたら、まったく今とは別の人生を歩んでいたはずだ。ソマリアに生まれていたら、もっと違ってたかもしれない。どんなに向上心があって頭が良くても、アフガニスタンでは男は戦士や農民、女は無教育であることが一般的な人生である。

ソマリアで生まれていたら、男は海賊か失業者、女は男の財産として人生を全うする確率が高い。そう考えると、個人の能力では克服できない「運」というものは確かにあるのだ。

運が悪ければどうしたらいいのか。
運の悪さを克服するにはどうしたらいいのか。

多くの国で、どん底に堕ちて這い回っている人たちを見ていると、彼らがそこから這い上がるにはどうしたらいいのか、よく考えるようになる。あるいは自分がそこに堕ちた時、自分に何ができるのかをよく考えることがある。

途上国の貧困に暮らす人たちであっても、彼らをよくよく観察すると面白いことが分かる。彼らは気付いていないけれども、個人的な資質から言うと、彼らは彼らなりにずっと恵まれた物を持っていると思うことがあるのだ。

彼らの中には、すさまじく壮健で無尽蔵な体力を持っている人もいる。話をしてみると、日本人には到底及ばないような頭の回転と度胸を持っている人もいる。女性にしても、思わず息を飲んでしまうような美しさを持った女性もいる。

彼らは確かに運が悪くて貧困地帯で暮らしているものの、個人的な資質から言うと、先進国の誰よりも優れているものをたくさん持っている。先進国で生まれていたら成り上がれた「潜在能力」を持った人がごろごろしていたのだ。

多角的に見ると、彼らも「運が良い」と思える何らかの長所をそれぞれ持ち合わせている。決してその存在の100%が不運なわけではない。ここに突破口があるのではないかと私は思ったものだった。

誰でも、他人よりも優れた「何か」がある。誰にも負けないという得意分野を持っていたり、才能を持っていたり、能力を持っている。

ただ、本人がそれに気付いていなかったり、その国では誰も評価しなかったり、才能に気付いていても貧困で稼ぐのが精一杯で才能を磨く環境になかったりする。



隣の芝生は青く、みんな自分よりも幸せに見える

世の中は多角的なのだが、その中で「外見こそすべて」という一面で社会を見ると、外見が良い人だけが得するようにしか見えなくなる。しかし、人間の社会は他に様々な面を持っており、本当は外見だけがすべてではない。

外見よりも「他の何か」が重要視される世界も確かにある。そして、その「他の何か」が得意な人も大勢いる。

自分の持っている「得意分野」は、実はそれを一番過小評価しているのは自分だったりする。他人よりも早く走れるとか、他人よりも何倍も視力があるとか、他人よりも音感が優れているとか、そんなものは何ら意味がないように自分は思う。

しかし、自分には先天的に優れているものや得意なものが1つでもあって、それが自覚できるのであれば、それを軸にして運をつかむことができるかもしれない。

何もないと思っていた自分を振り返り、自分の中の「得意分野」を見つけられると、それにフォーカスし、それを活かせる生き方を考えるべきなのである。得意を活かせる環境に動く。あるいは、得意を活かせる環境を作る。

そして、得意分野から離れない。

他のものを切り捨てて、ただ得意分野に絞ってその方向に焦点を合わせて真っ直ぐに突き進んでいくようにする。そうすることによって、自分が持っていた潜在能力を活かすことができるようになる。

自分の得意分野や才能があるのに、それを活かせない環境や仕事に就いていると、永遠に浮上することができないし、うまく生きることもできない。

得意でないことや本位でない環境にいるというのは、それだけでうまくいかないのは当然のことだ。

自分の中の潜在才能を自覚して、それを活かすのか活かさないのかで、運の良し悪しは変わってくる。そんなことは当たり前であり、シンプルな原理だと思えるが、多くの人たちを見ていると、かなりの人が「自分の得意を活かさないで生きている」のが分かる。

隣の芝生は青く見えるし、他人はみんな自分よりも幸せに見えるし、上を見ればいくらでも自分の上がいる。しかし、見るべきはそこではない。見るべきものは、常に自分なのである。

自分が何を持っていて、それでどう戦えるか。自分が持ち合わせている大切なものを見れば、そこから突破口も見えてくるはずだ。

https://blackasia.net/?p=13053
2:777 :

2022/07/15 (Fri) 08:13:45

◆なぜアンダーグラウンドの男たちは、美人をそこらへんの石ころ扱いするのか?
2022.07.15

若く美しい女性は、自分の意志に関係なく世間から注目を浴びる。だから、美しい女性は自分の容姿が金になるというのを若いうちに知る。

実のところ、美しい女性はそうでない女性に比べて人生で約3億円分の得をするという試算もある。この3億円という数字にどれくらいの正確性があるのかは分からないのだが、「美人は得する」というのは間違いない。

彼女たちは子供の頃から美しいことが武器になることを学習し、自然と自分の持って生まれた美貌を活かせる仕事に就くのを望むようになる。

たとえば、彼女たちの多くはタレントやアイドルやモデルに憧れ、そういった世界を目指そうとする。普通の仕事に就くにしても、受付嬢や接客業など、無意識に美貌を活かせる仕事の方に向かう。

美しい女性は華があり、どこの世界でも好まれる。そして多くの男たちの目を惹きつけ、交際や結婚やセックスを求めて群がっていく。そのため、美しい女性には主導権があり、選択肢もある。彼女は相手を選ぶ立場になるのだ。

その結果、こうした女性たちと付き合うのは「表社会の男たち」にとっては非常に難関と化す。あまりにもライバルがたくさんいて彼女に振り向いてもらうには多大な努力と誠意が必要になってしまうのだ。

そして生まれるのが「美人崇拝」だ。

崇拝するというのは、「自分には手に入らない」から崇拝するわけで、それが表社会の男たちの無意識の概念となっていく。ところが面白いことに、若く美しい女性はアンダーグラウンドの男たちには大した存在ではない。

アンダーグラウンドの男たちにとって、美しい女など「そこらへんの石ころ」みたいなものである。だから、彼らは美しい女を手に入れても大切にするわけでもないし、飽きて他の女が見つかったらゴミのように捨てる。

なぜ、アンダーグラウンドの男はそうなのか?
それには大きな理由がある。
https://blackasia.net/?p=1099

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.