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戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった

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2022/06/28 (Tue) 15:33:49

戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった


関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。

帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。

今も共産主義で全体主義のC国好きで有名な総合商社伊藤忠の元会長が瀬島である。特務機関の原田統吉から、ソ連の「8月上旬侵攻」の至急電文を握りつぶし、婦女子を含む155万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも関東軍の参謀部が、松村知勝や瀬島らのコミュニストに支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪され、レイプさせることを計画的に実行するためだったのだ。それに反して内蒙古を守る駐蒙軍の司令官だった根本博中将は、武装解除を無視し敵の侵入を阻止するため白兵戦を繰り返し、多くの犠牲を出しながら4万人もの邦人を守り抜きました。日本軍人の鏡です。
https://www.youtube.com/watch?v=wl2sBVCXIG8&lc=Ugym7Hf_aBI_lRokWw54AaABAg.9E3heQvDZCU9E5TXEaKV18  

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2015-08-17 daihonnei
参謀本部はアカだらけ
https://daihonnei.com/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists


フェイスブックでFBFが堀栄三参謀の話題を出されてました。
『マッカーサー参謀』と称された超有能な陸軍の情報将校ですね。

彼は海軍の「台湾沖海空戦は大勝利!」って言う嘘(国民に対して、だけでなく陸軍も騙してました)を見抜いて、(陸軍)参謀本部に指摘したんですが、握りつぶされてしまいます。

堀栄三

結果、陸軍はフィリピン防衛線で米軍の戦力見積もりを誤って苦戦することになります。
堀はこのことを
「参謀本部の内部の闇のようなものを感じた。」
と振り返っていますが、『闇』とはいったいなんだろうか?

今回はそんな単純な疑問から出発した私のいわば妄想です。

敗戦一年前の対外政略
昭和十九年の8月8日、参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課は、
「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」
を策定しました。

大東亜戦争の状況は、インパール作戦が惨めな失敗、マリアナ沖で連合艦隊が手も足も出せずに完敗。敵B-29爆撃機が北九州を襲い、サイパン(委任統治領で民間人、民間資本も多かった「準内地」)失陥。
ついに粘り腰の東條英機も首相辞任(7月18日)に追い込まれた事を受けての「要領案」だと思われます。
以下、Wikiより転載しました

今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)昭和十九年八月八日、省部主務者案

「註」本案により省部の思想を調整し上司の外部指導に資するものとす

一、対ソ、支積極方策      

1、概ね本秋頃を其の結実の目途としソをして帝国と重慶(延安を含む)との終戦を、已むを得ざるも延安政権との停戦妥協を斡旋せしめ且独ソに対し独ソ間の国交恢復を勧奨す。

2、速かに有力なる帝国使節を先ずソに派遣す。其の出発の時期は遅くも八月下旬と予定す。之が為日ソ経済提携等を提議し其の折衝の間帝国の新企図達成の為の機を作為するものとす、但し帝国の弱体を暴露しソの対日態度を悪化するが如きこと無からしむ。

別紙第三、対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件

 日蒋和平の仲介若くは独ソ和平斡旋の為左記条件を以て日ソ国交を調整す。(本密約は独ソ不調に終る場合に於ても日ソ国交保全の保証たらしむ)

左 記

一、防共協定廃棄の用意あることを確約す。
二、南樺太をソに譲渡す。
三、満洲をソに対して非武装地帯とするか満洲北半部(概ね賓綏、賓洲線以北)をソに譲渡す。
四、重慶地区は全面的にソの勢力圏とし爾他の支那に於ける我が占領地域(現国民政府治下の地域)は日ソ勢力の混淆地帯とす。此の際汪、蒋、共合作促進に努め蒋応ぜざる場合に於ては中共を支援して重慶に代位せしむることを認む。
五、戦争間及戦後を通し日ソ間特恵的経済交易提携を促進す。

樺太も満洲もソ連に譲る?
簡単に要点をまとめて見ますと。

ポーツマス条約による国境


昭和19年の秋を目指して(本案策定は8月8日である点、注意)ソ連に重慶(蒋介石政権)、延安(支那共産党)との終戦を斡旋させる。延安(支那共産党!)だけとでも可。
日本は独ソ間の和平を斡旋する。

そのために当月の末には特使を派遣する、そしてその条件としてトンでも無いことを言っています。「左記」の太字にしておいた部分ですね。



支那との終戦を斡旋してもらう(成否は別)だけのために南樺太・満洲国北部をソ連に譲渡。
重慶(政府の支配下)地区はソ連支配に任せ、他の支那は日ソ共同支配。
そのため汪(日本の傀儡政権)、蒋(介石政権)、共(支那共産党)に合体を呼び掛けるが、蒋介石が嫌がったら、共産党を助けて、支那を支配させる。

素直に読んだら売国
従来、この「対外政略指導要領(案)」はもう打つ手が無くなった参謀本部が妄想をたくましくした作文、的な扱いを受けてきましたが、素直に読んじゃったら如何でしょうか?

これって、現代の左傾メディアがツイートでもしてるように思えませんか?
現実感のないトンでも論ですし、対ソ譲歩一辺倒で、共産党大歓迎論でもあります。



大日本帝国は米・英・支と熾烈な戦争を戦っていて、ソ連と戦っている訳ではありません。
ソ連は大日本帝国のほとんど唯一の頼りになる同盟国の独逸を追い詰めつつありますが、南樺太や満洲国を無償で譲り渡す事がソ連の力を背後から削ぐ事になるとは思えません。

支那大陸まで、支那共産党を通じてソ連に渡してしまうとは、いったい何を考えていたんでしょうか?

ソ連の対日参戦を知っていた
この決定に先立つ、昭和十九年の3月10日には参謀本部戦争指導班が従来から進めていた研究をまとめ、

「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」

という戦争指導方針を作成しています。
これは作戦部長の真田穣一郎、作戦課長の服部卓四郎、作戦課員の瀬島龍三、参謀次長の秦彦三郎に回覧されて同意を得ていました(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和 十九年六月二十三日の条)。

この「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」では
「ソの対日中立維持への期待度は日独の戦勢好転せざる限り長くも概ね本年末を限度とすべし」
と書かれており、昭和19年の春に彼等は翌昭和20年のソ連の対日参戦を予想していたのです。

瀬島隆三、左から参謀本部・東京裁判・伊藤忠の各時代



責任逃れの臆病者?
「ソ連に降伏・占領される前に共産主義者にゴマすっておこうかな?」と思わなかったと言いきれるでしょうか。
瀬島龍三が絡んでると、つい疑ってしまいます。

いやいや、それではまだ甘い。
日露戦争でふらつき、第一次大戦で疲弊しきったロシアで起こったこと。
この時点より少し後になりますが、大日本帝國との戦いに疲れた国民党支那で起きること。
これを日本でも起こしてやろう、そんな意図はなかったんでしょうか?

参謀本部の考えていることは

レーニンの『革命的祖国敗北主義』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E7%A5%96%E5%9B%BD%E6%95%97%E5%8C%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9

そのものに思えてしまうんですが…

近衛上奏文
https://daihonnei.com/konoe-report-to-the-throne-1945

も素直に読んでみよう



昭和20年の2月14日、重臣(基本的には総理大臣経験者のこと)近衛文麿が昭和天皇に拝謁しています。
東條英樹に至る歴代7名の総理大臣のトップバッターとして近衛は上奏文を手にし、これを読み上げました。
上奏に際して、メモを持って読み上げるなどは本来たいへん不敬とされるのですが、近衛は慎重を期したかったのでしょう。

有名な「近衛上奏文」ですね。
これも、従来は近衛文麿が戦争責任を回避するため・・・といった捉え方が主流です。



確かに、大東亜戦争の開戦までの経緯など、少々無責任で臆病な人に思えます。
戦後、近衛の自決をお耳にされた先帝陛下(昭和天皇)が「近衛は弱いね」と仰せられた事も、積極的な評価を妨げているのかもしれません。

しかし、戦前戦中の日本で、もっとも陛下と親しく話の出来る(家柄の)人物であり、多くの政界や軍内部の情報に触れうる立場にあったことも事実でありましょう。

「アカかぶれ」を見抜いていた
この上奏文で、近衛は
「軍部(主に陸軍を想定しているようです)は共産思想に染まっています」
とはっきり言っています。だから軍部は戦争を止めようとしません、コイツらを一掃して戦争に負けた方が日本のために良い、とも。

ご参考のためにWikiからコピペしておきました。
拙い現代語訳も添付してあります。
コチラのリンクで別窓で開きますので、ご参照用にどうぞ。

先帝陛下は
「もう一度戦果を上げないと、軍部は納得しないよ(もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい思ふ)。」
と、考えてみればわざと少しピントをずらしたような返答をされ、近衛の軍部粛清論を受け入れる事はなさいませんでした。



如何でしょうか?参謀本部がアカだと、東條英樹もアカの可能性は高いですよ。
と言うか、陸軍統制派が全部(少なくとも心情的には)アカだったなんて事も・・・

仮説としてお考えを
もちろん、以上は「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」と「近衛上奏文」を表面的に読んで組み合わせて見たにすぎません。

戦後70年、幾多の優れた研究がこれらを表面的に読んだらいけない、と指摘してきた事も承知しております。

でも浅学の私は、近衛文麿がここまで嘘を吐く必要があったことなど誰も証明出来て無い、と思ってしまうのです。

参謀本部が(少なくとも心情的に)アカだらけだったと思うと、なんだか疑問点が幾つも解けてきそうに思えるんですが、如何なものでしょうか。
https://daihonnei.com/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists


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昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年~1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?

syouwakyoukou01.jpg
 


 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 https://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 


 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。

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私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。

 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  https://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」


売られゆく娘たち

 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。

 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。

 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
**********************************************************
 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2~3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。

 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html


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戦前の”経済格差”エリート会社員は高収入でモテモテだった
http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html


戦前のサラリーマンはこんな恰好で銀座を闊歩していたが、10年後に防空壕で逃げ回る破目になった

引用:http://nakaco.sakura.ne.jp/sblo_files/nakaco/image/kankan5_04.jpg

戦前のサラリーマン社会

戦前というと何もかも暗く陰気で、閉鎖的で人々は困窮していた、と「知識人」たちは言いたがります。

そうしておいた方が自分たちが立派に見えるからそう言うのだが、事実ではないし戦前の人を貶めている。

昭和6年(1931年)頃までの日本では、消費経済や自由主義や平和主義が盛んで、大正デモクラシーと呼ばれています。


昭和5年ごろの世帯平均収入は年800円程で、日本郵船や一流企業の課長クラスは1万円を超えていました。

現在の世帯平均所得は540万円なので、当時の大企業の課長は現在の価値で6,750万円の高所得者でした。

一流企業の中でも三井や三菱はさらに別格で、ある重役の年収は100万円以上、現在の価値で70億円以上だったと記録されています。


するとこうした財閥企業の創業者一族ともなると、一族の収入は年間数百億円にも達していたと推測されます。

当時のアンケートでは女性にもっとも人気がある職業は一流企業のサラリーマンで、次が公務員、医師や弁護士はそれより下でした。

戦前には「サラリーマン」はホワイトカラーの事務職、手が汚れない仕事をしている人を指し、工場作業員は正社員でもサラリーマンではなかった。


油まみれ、泥まみれの作業員に対して、事務職のサラリーマンは女性から見てカッコ良く、おしゃれに映っていたようです。

労働者が日の丸弁当を食べていた時代に、東京のサラリーマンはランチは外で、女子社員を誘って洋食を食べていました。

丸の内のビル街には寿司屋、洋食屋、和食に定食など外食店が所狭しと並び、大変賑わっていたそうです。

儚かった戦前の自由経済

当時のメニューは寿司、カレーライス、丼物、パスタ、パンとコーヒーなどが、現在の価値で1,000円以下でした。

コーヒーと軽食のモーニングのようなのも既に有り、食事の半額の、現在の500円以下程度の値段でした。

都会ではこうした欧米風の暮らしをしていた一方で、9割以上の農村では江戸時代とあまり変わらず、人力と牛馬が日の出から日没後まで重労働していました。


この格差が戦前の日本経済を破綻させた原因であり、東京のおしゃれなサラリーマンはバブルの浮き草のような存在でした。

戦前は凄まじい格差社会で、人件費は安かったがそれ故に経済は脆弱で、米大恐慌が起きると一たまりもありませんでした。

1929年(昭和4年)にNYで大恐慌が起き、1931年(昭和6年)に満州事変が起きてから、日本人の生活は急速に悪化した。


兵士の家族が借金のカタに売られたりしたため動揺し、1936年(昭和11年)には軍部がクーデターを起こし(226事件)日本は軍事独裁に移行しました。

おおまかに言って昭和10年(1935年)から軍事態勢に移行したが、昭和一桁は戦争と無縁の、平和な時代でした。

大正時代から昭和1桁までは自由競争や自由経済、平和主義や共産主義がブームで、現代と似た時代でした。


父親がサラリーマンの家庭は裕福で、子女らもおしゃれな恰好をしていた
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引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20140715/18/biz-suitstyle/d1/67/j/o0500050013004042213.jpg

軍事経済はなぜ失敗したか

好景気の時には自由主義はうまく行っていたのだが、米大恐慌で不況になると、軍人の姉妹が人買いに売られる状況になりました。

行き過ぎた自由主義経済の負の部分が表面化し、日本陸軍の若手将校らが決起してクーデターを起こし、民主主義時代は終了しました。

昭和の軍国主義の原点は、大正時代の行き過ぎた自由主義にあり、破綻した経済を軍部が主導して再建しようとしました。


軍部主導の経済は最初はうまく行っていたのだが、大陸への領土拡大と入植によって成長するプランは、上手く行きませんでした。

例えば朝鮮では急速に人口が増えたため、食料や予算が不足して日本から送る有様で、利益どころか日本の負担になりました。

満州国も同様で開発に膨大な投資をしたが、終戦まで何の利益も上げませんでした。


日本軍は「領土さえ増やせば経済は発展する」と考えていたが、現実には増えた領土の人を養うために、国力を浪費しました。

満州を開拓すれば日本の食糧危機は解決すると言っていましたが、逆に満州を開拓し維持するために、日本の資産が使われました。

これが軍人が考えた経済の限界で、最初は上手く行っていたとしても、早期に軍事体制を終わらせるべきでした。
http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html


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「戦前に似ている」と危機感も|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html

「拝謁記」には、昭和天皇が、東西冷戦や朝鮮戦争の勃発を背景に国内でも共産主義が勢いを増していく状況を戦争に突き進んでいった時代と重ね合わせて危機感を募らせる様子が記されています。


大学生を青年将校と重ね合わせる
昭和25年7月10日の拝謁では、昭和天皇が「共産党の大学生ニ 動機の純眞なるものがあるとの議論ニ非常ニあぶないので 永田鉄山問題でも動機云々(うんぬん)を口実ニ 刑ニハ処しても 甚しく軽きに失し 又他の場合ニハ動機のよきを口実ニ不問に附した事もあり かゝる風が遂に大平洋戦争(原文ママ)を起す事となつた事故 青年将校と大学生との差だけであつて 危険ハ同じ事だ」と述べたと記され、学生運動に参加する大学生を戦前の青年将校と重ね合わせていたことがうかがえます。

「私は実ニ心配しているのだが…」
また、昭和26年12月9日の拝謁では「所謂(いわゆる)反米思想が一般ニある程度あるは已(や)むを得ぬも それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいつて色々やるのは困つたものだ、これハ丁度(ちょうど)戦前ニ軍閥者が 忠君愛国といふやうな当時ニあつては一寸 文句のいへぬ事を看板ニして戦争へと かりたてたのと同じであつて誠に困つた事だ」と語ったと記されています。

また、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復する10日前、昭和27年4月18日の拝謁では、昭和天皇は「私は実ニ心配しているのだが 戦争前の状況といふか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近ハ非常に似てると思ふ。国会は矢張り其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考へたやうな様子でその言論や実勢力を行ひ、政府側の答弁も責任逃れのやうな事ばかりで慨(なげか)ハしい有様ハ 先つ(さっ)きいつた頃と少しも違いない」と述べ、政治家が党利党略で動き国会で責任逃れの答弁する状況も戦前に似ているという認識を示したことが記されています。

そして、「あの頃ハ 血気ニはやる青年将校を此等の事情が刺戟(しげき)して 段々さはぎを大きくしたが、今はこれがソ連の手ニのせられて共産的ニなるか、又は反動として右翼的の戦前と同じ様なものが出現するか、世相ハ誠ニ私ニは憂慮すべきもので、その前徴は歴々あらはれてると私は思ふ」と語ったと記されています。

そのうえで、「蟻の穴から堤が切れるとか、塵もつもれば山といふ諺がある。今私ハその徴候を充分認める。これは過去の過ちを再びせぬと限らぬ徴候だ。まだ徴候の内ニ手を打たなければ、そして重病ニなつては名医も及ばぬ 今の内ニ警告して何とかすればどうかなると思ふが 時機を失しては駄目だ」と危機感をあらわにしたと記されています。

「国会の有様はどういふ事だらうネ」
独立後回復後の昭和27年5月12日の拝謁では、昭和天皇が「日本では民主主義の抽象的言葉に熱心で、何か気に入らぬことがあるとすぐ反動的といふ言葉を使ふ。丁度軍閥時代に其主張に反するものを‘非国民’とか何とか言ふのと同じだ」と述べたと記されています。


また、その翌月(昭和27年6月24日)の拝謁では、田島長官に「国会の有様はどういふ事だらうネ」と語りかけたうえで、「日本が再建する為ニは 此(この)際ハ挙国一致であるべきだと思ふに、国の前途など少しも考へぬやうな風ニ党利党略ニ専念してるやうに国会の有様は、民主化とか、憲法改正とかいふが、少しも戦前の議会のわるかつた処ハ改まつて居らない。これでは国会政治に失望する人が出るのは当然ともいへるので、それが昔は軍部の抬頭(たいとう)の結果を生んだが、それが軍人が独乙(ドイツ)にだまされたのだと同じ様に今では組織労働者や学生を共産ソヴィエツトが丁度独乙(ドイツ)と同じ立場でやつてる。之では国が亡(ほろ)んでもいゝと 国会は考へてるのかともいひたくなる位だ」と憤りをあらわにしたと記されています。

さらに「議会の現状ニ憤慨した往年の軍の一部、独乙(ドイツ)ー軍閥ー戦争ー敗亡といふやうに 今の国会の有様ニ憤慨して学生、労働者ーソ連ー共産党ー戦争ー敗亡といふ 餘(あま)りに相似的な事ニ目をさまさぬのはどうした事か」と述べ 憤りが収まらない昭和天皇を、田島長官が「陛下は政治上ニは御関係なき御立場故、陛下としてハ何も遊バす事ハ出来ませぬ」となだめると、昭和天皇は「それは分つてるが国がこんな事では亡びるのではないか」と述べたと記されています。

田島長官はこの日の拝謁記に、「何とか、陛下として手を打ちたき御心持と、それは出来ぬ現在の憲法の規定では致し方ないが国の亡びゆく経路を 傍観出来ぬとの御心持を拝して誠に恐懼(きょうく)す」と記しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html
2:777 :

2022/06/28 (Tue) 15:39:39

近衛上奏文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

近衛上奏文は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文。


背景
1945年1月6日、アメリカ軍がフィリピン・ルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は内大臣木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていた。木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになった[1]。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた[2]。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であり、木戸が残した日記にも本来の目的は記されていない。

重臣らは以下の順で昭和天皇に意見を述べた。重臣の内、米内光政(海軍大臣)、阿部信行(朝鮮総督)は現職にあるため召集されていない[3]。

2月7日 - 平沼騏一郎
2月9日 - 広田弘毅
2月14日 - 近衛文麿
2月19日 - 若槻禮次郎
同日 - 牧野伸顕 (元内大臣)
2月23日 - 岡田啓介
2月26日 - 東條英機
上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感し、牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。2人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。

近衛の上奏と御下問
1945年2月14日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、

「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」

と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の上奏文を捧呈した[4]。

戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。
最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。

つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出に之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。

蘇聯は欧州に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。

ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現なり。波蘭に対しては予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切りたり。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつもヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権にあらざれば存在し得ざるが如く強要す。イランに対しては石油権利の要求に応ぜざるの故を以て内閣の総辞職を強要せり。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為め外相の辞職を余儀なくせしめたり。

米・英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり。 独逸に対しては波蘭に於けると同じく、巳に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図たるべく、之は英米にとり今は頭痛の種なりと思はる。

ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引摺らんとしつつあり。ソ聯の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野[5]を中心に日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先(一字欠)隊等と連携し日本に呼びかけ居れり。斯くの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政に干渉し来れる危険十分ありと思はる(即共産党公認、共産主義者入閣-ドゴール政府、バドリオ政府に要求せる如く-、治安維持法及防共協定の廃止等)。

飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり。

少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにあり。皇族方の中にも此主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。

職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にして其の多くは共産的主張を受入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引摺らんとしつつあるものと思はる。

抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる。

満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。

支那事変当時「事変は永引くが宜し。事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物なりき。

是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命に迄引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存ず。此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり。

不肖は此の間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為出来る丈け是等革新者の主張も採り入れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を充分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく深く責任を感ずる次第で御座います。

昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり。

一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ空気は次第に濃厚になりつつある様に思はる。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり。

以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり。今後戦局益々不利ともならば此形勢は急速に進展致すべし。

戦局の前途につき何等か一縷でも打開の理ありと云ふならば格別なれど、最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るものと云ふべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す。戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態に迄時局を推進し来りし軍部内の彼の一味の存在なりと存ぜらる。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上アク迄抵抗を続くるものと思はる。若し此の一味を一掃せずして早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志一味と響応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成すること能はざるに至る處れあり。従って戦争を終結せんとせば、先ず其の前提として此の一味の一掃が肝要なり。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚・右翼・左翼の民間分子も影を潜むるならん。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとする者に外ならざるが故なり。故に其本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと思ふ。

尚之は少々希望的観測かは知れざれども、もし是等一味が一掃さるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気は或は緩和するに非ざるか。元来英米及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改まらば、彼等としても戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はる。

それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る。

以上申しげたる点につき間違えたる点あらば何卒御叱りを願度し。
— 近衛文麿、[6]
木戸内府のメモを元に藤田尚徳侍従長は下記のように綴っている。

近衛公は終戦を前提として述べていたが、如何にして終戦に時局を移すのかの具体的な方策については成案をもっておられなかったようだ。ただ共産革命の脅威を、言葉を尽くして述べ、その主力になっているのが他ならぬ軍部の一味であると指摘するのである。一味とは一体、誰を指すのであろうか。陛下も、この近衛公の議論には、内心でその特異さに驚かれたご様子が窺われる。
— 藤田尚徳、[7]
昭和天皇はすぐに近衛へ御下問している。

(御下問)我国体については近衛の考えとは異り、軍部は、米国は我国体の変革迄も考へ居る様観測し居るが、其の点は如何。

(御答)軍部は国民の戦意を昂揚せしむる為めにも強く云へるならんと考へらるる。グルーの本心は左にあらずと信ず。グルー大使離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉等よりみても、我皇室に対しては充分なる敬意と認識を有すと信ず。但し米国は輿論の国なれば、今後戦局の発展如何によりては将来変化なしとは保証し得ず。之戦争終結策の至急に講ずるの要ありと考ふる重要なる点なり。

(御下問)先程の話に粛清を必要とするとのことであったが、何を目標として粛軍せよと云うのか。

(御答)一つ思想あり。之を目標とす。

(御下問)人事の問題に結局なるが、近衛はどう考へて居るか。

(御答)それは陛下の御考へ……。

(御下問)近衛にも判らない様では中々難しいと思う。

(御答)従来軍は永く一つの思想の下に推進し来ったのでありますが、之に対しては又常に之に反対し来りし者もありますので、此の方を起用して粛軍せしむるも一方策なりと考へらる。之には宇垣、香月、真崎、小畑、石原の此の三つの流れあり。之等を起用すれば当然摩擦を増大す。考へ様で何時かは摩擦を生ずるものとすれば、此際之れを避けることなく断行することも一つなるが、若し之を敵前にて実行するの危険を考慮するとせば、阿南・山下両大将の中を起用するも一案ならん。先般平沼・岡田等と会合せし際にも此の話出たり。賀陽宮殿下は軍の建直には山下大将が適任と御考への様なり。

(御下問)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。

(御答)そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。
— 御下問:昭和天皇、御答:近衛文麿、[8]
解説
昭和18年1月、近衛文麿は参考として木戸に書簡を送り「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と告げた[9]。そして同年3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招いた。

当時日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する信頼感が減退し、一部識者の間では、東條英機首相の更迭の必要性が囁かれる中、吉田茂と共に早期講和を画策していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。

近衛は、会談劈頭に陸軍中堅層が抱懐するという以下の『国家革新の陰謀』[10]を打ち明け、小林大将に、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。

満州事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案[11]を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。
石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の新人の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ新人は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。

この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである(中略)。

要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。

翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。
小林大将は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、かねてより岡田啓介海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いており[12]、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった[13]。

同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた[14]。

荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする-」と述懐した[15]。

近衛文麿が小林躋造と三田村武夫に告白したこと及び三田村と警視庁特高第一課長の秦重徳[16]から聴取したことと同じ趣旨の警告と反省が昭和20年2月14日には近衛から昭和天皇に上奏されたのである。

三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」と評し[17]、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多数の証拠資料に依拠して、近衛上奏文に該当する具体的事実を解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀略活動があったことを指摘した[18]。三田村の資料と論究は1950年3月に「戦争と共産主義-昭和政治秘録」(民主制度普及会)として出版され、馬場恒吾(読売新聞社長)、南原繁(東大総長)、島田孝一(早稲田大総長)、小泉信三(元慶応義塾大学塾長)、田中耕太郎(最高裁判所長官)、飯塚敏夫(元大審院判事)の賛辞と支持を得た。これは後に遠山景久によって復刊され、晩年の岸信介(元首相)に大きな衝撃を与えた[19]。

サンフランシスコ講和条約発効後の日本では、近衛上奏文に対する様々な見解が発表されている。近衛は二・二六事件など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っており、この認識は軍部の革新派が満州事変以後の戦争を計画したとする陰謀論へと転換されたという見解[20]、1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて発覚したゾルゲ事件が近衛の対共産党政策への影響を与えたという見解[21]、「マルクス主義者であった近衛文麿がマルクス主義者ではないとの偽イメージを作る自己弁護の文書[22]」などである。

なお、2013年8月12日の産経新聞の報道によると、近衛が「軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候」と警告した通り、統制派を中心とする陸軍中枢の一部(首相秘書官を務めた松谷誠大佐や参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐など)は、ソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、「天皇制と共産主義を両立した国家」の創設を目指す「米国ではなくソ連主導による終戦構想」を持っていたという。また、1945年6月に、駐スイス中国国民政府(蒋介石政権)の陸軍武官(国共合作をしていたため中国共産党員の可能性がある)が、米国のアレン・ダレス(CIAの前身組織である戦略情報局(OSS)欧州総局長)からの最高機密情報として「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書によって判明したという[23]。

脚注

^ 岡 (1966)、上巻 三一頁。
^ 藤田 (1987)、43頁。
^ 藤田 (1987)、73頁。
^ 藤田尚徳 『侍従長の回想』 中央公論社〈中公文庫〉、1987年、55-67頁。
^ 当時、中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)を指す。
^ 木戸日記研究会代表岡義武 編 『木戸幸一関係文書』 東京大学出版会、1966年、495-498頁。
^ 藤田尚徳 『侍従長の回想』 中央公論社〈中公文庫〉、1987年、64-65頁。
^ 木戸日記研究会代表岡義武 編 『木戸幸一関係文書』 東京大学出版会、1966年、497-498頁。
^ 木戸幸一関係文書591~592頁。
^ 近衛文麿の最側近の一人である矢部貞治は、昭和16年5月6日に、米内内閣を倒した陸軍中堅層を「大政翼賛会を親軍的一国一党運動として支持しソ連邦との抱合を企図する革新右翼」と呼んでいた(現代史資料国家総動員2、484~488頁)。
^ 国内革新案とは、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化の実現を目指す「政治行政機構改造案」である。石原莞爾は昭和6年5月に、「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」 と述べ、参謀本部戦争指導課長として昭和11年秋頃に宮崎正義に「産業五カ年計画」と「政治行政機構改造案」を立案させたが、後者の案は検討段階で中止になった(石原莞爾資料国防論策編76~78頁「満蒙問題私見」、秦郁彦【軍ファシズム運動史】246~247頁、伊藤隆【近衛新体制】59~60頁)。
^ 海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた(木戸幸一関係文書257~258頁)。
^ 終戦工作の記録上67~72頁「小林躋造回顧録」
^ 第76回帝国議会衆議院国防保安法案委員会議録第3回昭和16年2月3日。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、28頁。
^ 昭和19年6月、荻外荘に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」と近衛に説明した(岡義武【近衛文麿】202頁)。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、30頁。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義参照。戦後日本において地政学の再評価を行った外交史研究家の曽村保信は、戦争と共産主義-昭和政治秘録(三田村武夫著/民主制度普及会、1950年)を「大東亜共栄圏とマルクス主義との関わりを歴史的に立証した本」と評価し、これに依拠して、「戦前および戦中の日本では地政学は日本に対英米開戦を迫る国際共産主義の一手段として、言い換えればすなわちスターリンの対外政策実現のために知らず知らずのうちに利用されたというあまり香ばしくない過去の閲歴を持っている」と述べ、「日本の大陸政策に最も大きな影響を与えた外来の思想は実はマルクス主義であって、本来の意味の地政学ではなかったように思われる」と結論づけた(曽村保信【地政学入門外交戦略の政治学】130~134頁)。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、311~322頁。岸信介は戦争と共産主義-昭和政治秘録を読み、次のように遺言した。 「知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日、『岸先生、大変な本を見付けました。是非第一読下さい』と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる(中略)。 この本を読めば、共産主義が如何に右翼、軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。 国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結以降は筋書どおりにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らなければならない。往年のラストボロフ事件、又、最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角にすぎないのであろう。これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をがっちりと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。 私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。また、このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」
^ 庄司 (1995) 「それでは何故、上奏文のなかで過剰とも思える革命への恐怖と、それによってもたらせる陰謀説が展開されたのだろうか。元来近衛がこのような傾向を持ち、ゾルゲ事件や軍部憎悪により増幅されたことは否定し得ないが、異常とも言える内容が問題である。むしろ近衛の本音というより、殖田らの影響とともに、当時近衛らのグループが模索していた、さらには二・二六事件以降の宿願である皇道派の復権・組閣のために、皇道派に冷淡な天皇を説得しようとする政略的な意味があったと推測される。そのためには、誇張された表現が必要であった」
^ 藤田 (1987)、58頁。
^ 「『本土決戦』『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論者たち」(平間洋一「中国共産党 野望と謀略の90年」『別冊正論』平成23年6月号) 中川八洋は「近衛文麿が対英米戦争主義者でなかったかのような偽イメージ、あるいは近衛文麿がマルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技の最たるものがあの有名な近衛上奏文であろう。それは日中戦争と日米戦争の八年戦争のすべての責任を軍部に転嫁するに絶妙で華麗な演技の典型であった。この上奏文をもって近衛文麿が従前から英米に対する戦争の回避論者であったと、その証拠としてあげるものが多いが、それは余りにも短絡的である。また読解力に欠陥ありといわざるをえない(中略)。近衛上奏文は、日本の八年戦争とは日本の共産化を目的として共産主義者(マルクス主義者、社会主義者)たちによって遂行されてきたこと、一九四四年頃からのスローガン一億玉砕はレーニンの敗戦革命論に従った、共産革命がし易い荒廃した日本社会をつくるためのものであること、陸士・陸大の秀才組のある部分がソ連軍を日本に導入しての日本の共産化を策謀していること、などの最も深刻な諸状況について最も正確に鋭く核心を衝く省察をなしている。が同時に、この近衛の指摘は、マルクス主義にかぶれた陸士・陸大卒の赤い軍人たちに対英米戦とその継戦の動きのすべての責任を転嫁する狙いであるのは誰しも一読すれば理解できよう。」と近衛上奏文を批評している(近衛文麿とルーズベルト大東亜戦争の真実76、81頁)。
^ 終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」1/42/43/44/4 産経新聞2013年8月12日


参考文献
終戦工作の記録上下巻(江藤淳監修、波多野澄雄編、講談社文庫、1986年)
敗戦の記録(参謀本部編、原書房、1967年)
大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編、錦正社、1998年)
尾崎秀実著作集1~5巻(尾崎秀実著/勁草書房、1979年)
大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1987年、戦争と共産主義-昭和政治秘録の復刻版)
近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著、PHP出版、1995年)
第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から(平間洋一著、錦正社、2007年)
近衛日記(共同通信社開発局、1968年) ASIN: B000JA68IO
道越治・松橋雅平・松橋暉男『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ 、2006年 ISBN: 4901622153
木戸幸一『木戸幸一日記』上巻、木戸日記研究会校訂、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300117。
岡義武『解題』、1966年、一頁-四十三頁。
『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131。
「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁-四九八頁
近衛上奏文を収録。
藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。
当時、昭和天皇の侍従長を務めていた藤田尚徳から見た上奏の経緯と、上奏文の口語訳とが記述されている。
「天皇の終戦秘密工作」43頁-54頁
「陽の目を見た近衛上奏文」55頁-67頁
「御意思に遠い重臣の奏上」68頁-85頁
庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討 国際情勢分析の観点から」『国際政治』109号 終戦外交と戦後構想、日本国際政治学会、1995年5月、 54頁―69頁、 ISSN 0454-2215。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87  


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【沖縄戦:1945年2月14日】近衛上奏─近衛文麿が昭和天皇に早期講和を進言 第32軍、戦備レベルを上昇させる 護郷隊の第三次召集はじまる
2019/02/14
https://note.com/bouheitai1958/n/n6aaba703c765

近衛上奏文と昭和天皇の反応

近衛上奏 近衛文麿元首相はこの日朝、宮中へ参内して昭和天皇に拝謁し、所信を進言した。いわゆる近衛上奏である。近衛の所信は和紙8枚にわたる長文のもので、近衛上奏文と呼ばれる。

 近衛は上奏文において、このたびの戦争の敗戦は必至であるが、米英は「国体の変革」、つまり皇室の廃絶などは行わないだろうとし、ソ連を講和の仲介とすることなく、米英との早期のかつ直接の講和を訴えた。同時に「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」と警鐘を鳴らし、軍部の一部にいるという共産分子を排斥し軍部を立て直し、和平を模索する必要があるということであった。
 近衛上奏の要点をまとめると、

(1)米英は国体の変革を求めていないので、早期に講和すべき。
(2)ソ連の日本や東アジアへの野心は強く、講和の仲介相手としてはならない。
(3)このままでは軍部における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。
といったほどのものとなろうか。
 近衛上奏というと、要点の(3)の軍部における一部容共分子の存在や革命の切迫性などが陰謀論的に語られることがある。確かに近衛は五摂家筆頭という家柄もあってか、革命を恐れ、ソ連を敵視し、反共的態度を貫いていた。その上で日本国内での軍部の一部容共分子がソ連に使嗾されて革命を起こすかもしれないと上奏するわけだが、この部分については近衛がどこまで本気で上奏したかは疑問を呈する指摘もあり(事実として軍内にそうした勢力がいたとは考えられず、仮にいたとしても実際に革命を起せるだけの力はなかったであろう)、米英との和平を進めるためのある種の「煽り」であったともいわれる。
 むしろ注目すべきは、近衛が様々なルートを通じて米英に国体変革の意志はないと見抜いたこと、そしてこのころ小磯内閣はじめ各方面が期待していたソ連の講和の仲介などはあてにならないと断じているところである。近衛は別の文書で戦後の米ソ冷戦まで予測しており、国際情勢を明晰に見通していたといえる。
昭和天皇の反応 しかし、昭和天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に「それではどのような人事があるか」と難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えた。昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛による上奏を退けたのであった。
 昭和天皇のいう、もう一度あげるべき「戦果」を求める戦場は、かかる情勢の中では沖縄と考える以外にない。そうすると昭和天皇が沖縄戦初頭において積極的に戦争指導し、主戦論を唱えたこともよく説明がつく。事実、上奏後の御下問において、昭和天皇は近衛に「梅津(美治郎参謀総長─引用者註)は南西諸島に敵を誘致して叩くといっている」との意味の言葉を発したともいわれている。昭和天皇における「沖縄戦」の位置づけがよく理解できる言葉だ。
 なお近衛は上奏文作成にあたり後に首相となる吉田茂と綿密な打ち合わせをしており、上奏後も吉田邸へ赴き会談している。そうしたこともあり、四月、上奏の内容が露顕し、軍部は反戦的・敗北主義的として吉田らを検挙している。

第32軍司令官、丙号戦備を下令
 第32軍牛島司令官は昨日の米機動部隊に関する情報により、米軍の南西諸島上陸を警戒していたところ、この日早朝、戦備レベルを上昇させ、南西諸島全域を丙号戦備に移行することを命令した。
 第32軍は44年9月、以下のごとく甲号戦備から丁号戦備まで四種の戦備を定めた。

球作命甲第四九号  第三十二軍命令 九月二九日同〇八〇〇 那覇

一 軍防衛作戦ノ為戦備ノ度ハ左記区分ニ基キ之ヲ実施スヘシ
 別命無キ際各隊戦備ノ度ハ丁号戦備トス
 但シ軍隊区分ニ基ク各兵団長ハ状況ニ依リ独断之ヲ下令(解除)スルコトヲ得

(イ)甲号戦備
 敵有力部隊ノ上陸(着陸)攻撃ノ虞アル場合ニシテ全部隊戦闘配備ニ就キ随時戦闘ヲ開始シ得ルノ準備ヲ整フルモノトス

(ロ)乙号戦備
 敵ノ上陸(着陸)攻撃ノ算少ナキモ空襲又ハ砲撃ヲ受クル虞アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニシ所要ニ応シ監視哨ヲ増加スルト共ニ水際戦闘ノ準備ヲ整へ対空射撃ニ任スル部隊ハ全隊戦闘配備ニ就キ爾余ノ部隊ハ警戒連絡ノ処置ニ遺憾ナキヲ期シ砲爆撃ノ損害ヲ被ラサル如ク掩蔽ス
 空襲警報発令セラレタル時ハ別命ナク本戦備ニ移ルモノトス
〔乙号戦備下令間空襲警報解除セラレタル時ハ別命ナク丙号戦備ニ移ルモノトス〕

(ハ)丙号戦備
 敵機動部隊近接ノ徴アルカ又ハ敵飛行機、潜水艦偵察ノ虞アル等警戒ヲ強化スルノ要アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニスルト共二対空射撃ニ任スル部隊ハ一部ヲ以テ警戒配備(高射部隊二在リテハ警急姿勢トス)二就キ爾余ノ部隊ハ迅速二掩薇下二待避シ得ルノ準備ヲ整へ特二我カ配備兵力等ヲ曝露セサル如ク留意スルモノトス
〔丙号戦備下令間警戒警報解除セラレタル時ハ別命ナク丁号戦備二移ルモノトス〕

(ニ)丁号戦備
 我カ哨戒圏及電波讐戒圏内ニ敵ヲ認メサル場合ニシテ各部隊ハ主トシテ対空(電探)及海上監視哨ニヨリ警戒ヲ行ヒ爾他ハ教育訓練築城交通作業其ノ他ノ勤務二従事ス
 但シ常ニ敵奇襲攻撃ニ対応シ得ル如ク所要ノ準備ニ遺憾ナキヲ要ス

二 戦備ノ度下令及解除ノ為ノ通信連絡規定ハ別命ス

(『帰還者報告綴』第二復員局:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より 〔 〕内は10月中旬に追加訂正された)
 通常時は丁号戦備であるから、丙号戦備へ移行したということは、戦局の緊迫度が一段階あがったということである。
 また14時頃、第32軍司令部は球参情電第368号により、「諸情報ヲ綜合スルニ南西諸島十五日払暁以降敵機動部隊ノ大規模空襲ヲ以テ十八日以降上陸攻撃ヲ受クル算大ナリト判断セラル」と警報し、軍司令部以下各隊は対上陸作戦を準備した。

第一護郷隊の第三次召集
 この日、羽地国民学校(現在の名護市立羽地小学校)に北部一帯の15歳から16歳の少年たちが集められ、第一護郷隊に召集された。
 第32軍は第9師団が沖縄から抽出されたため、護郷隊員を正規兵に再召集することで戦力の穴埋めをはかった。これによる兵員不足を補うため、第一護郷隊が第三次の召集をはじめたのであった。なお、第一次召集は前年10月の護郷隊編成時、第二次召集は同年12月ごろの護郷隊の配置変更時である。
 このころの召集年齢は17歳以上であることから、15、6歳の少年の強制的な召集は違法であり、あくまでも志願というかたちでなければならなかった。しかし第一護郷隊の村上治夫隊長は集められた少年たちを前に「護郷隊がいやな者は出てこい」と言い放ち、誰も出てこないことをうけて全員身体検査をして志願ということで召集してしまったといわれる。

参考文献
・『沖縄県史』各論編6 沖縄県史
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説』(榕樹書林、2011年)
・庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討─国際情勢分析の観点から─」(日本国際政治学会編『国際政治』第109号、1995年5月)
https://note.com/bouheitai1958/n/n6aaba703c765


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近衛文麿上奏文 - 電脳 大本営
https://daihonnei.com/konoe-report-to-the-throne-1945

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
https://daihonnei.com/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists


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近衛文麿の上奏文と日本敗戦革命
☆近衛文麿と共産主義とスターリン☆
http://www.jul22.net/kuromaku/index.html

東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。

現代語訳
昭和20年2月14日
近衛文麿公の上奏文

近衛文麿の上奏文
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。

敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしど存候。

国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。

つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。

即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。

ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ聯は欧州に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。

瑞西(スイス)がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

米英占領下の仏蘭西、白耳義(ベルギー)、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。

独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。

ソ聯は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。

かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。

翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。

右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。

職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。

此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。

かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。

以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。

戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。

戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。  尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。

日本敗戦革命
この近衛文麿上奏文の真意をどう読み解くか。ユダヤ問題・歴史評論家の宇野正美さんの訳によりますと...
黒幕 4/6

以下文字お越し

近衛文麿が昭和20年2月14日昭和天皇に出した「自分の考えを論じた」上奏文です。

頭はこう書いてあります
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。」

もう日本は負けます。これに基づいて陛下あなたに申し上げます。みなさんいまの解説聞いたら、近衛さんはこの上奏文を天皇陛下に渡し嬉しくってたまらなかったと思いますよ。日本は敗戦必死で存候といってるんです。

三行目
「つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。」日本も食われますよ。こんなもん天皇陛下にいってるんですよ。

さらにもうすこし左ですね
「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、」だから【二・二六事件】 で天皇陛下を支えていた人たちを殺しちゃったわけですわ。こいつらが悪い奴らだと...こいつらが日本国内をだめにする。こいつらが平等の社会を作らなかったとこうなっちゃったわけだ。

だから 「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、」こういってるわけです。軍人ほど共産主義思想を受けやすいやつはいませんよといってるわけです。この連中が日本が戦争で負けたときどうやるんですが陛下といってるわけです。日本は共産主義革命でやられるよといってるわけです。

もうすこし左のほう
「抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。」自分の計画をいってるわけですよこれは。ものの見事に動いておりまするな....

そしていま読んだ、線ひっぱってある後数行
「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなると公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。」此の一味の中心人物に御座候。だれなのよ!!自分なんですよ。そう、読めばわかるでしょう。こんな文書天皇陛下に向かっていえるのが彼なんですよ。だから僕はさっき大貴族といった。公侯伯子男の内の公です。もっと遥か昔から貴族中の貴族ですよ。ちよっと一歩進んでいいですか、藤原という名前を与えたのは、藤原氏という名を与えたのは中国人なんですよ。あとで話しするけど、藤原氏はそれが大嫌いだった。藤原氏というのは早くやめたくってたまらない、中国人にもらった名前だから。だから時来て藤原をやめる。さっきいった近衛になる、一条になる、九条になる。そう名前を変えるわけです。あるとき中国人にへつらいながら、中国人に支えられたこの大貴族が、俺は日本の支配者になりたいと思ったんですよ。そして自分の苗字を変える。

上の段の終わりのほう
「是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)」彼いってるんですよ。右翼というけども共産主義者ですよって...

括弧の後は
「意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」日本の軍人は単純だよって、ほんとうに国を思っているはずだんだけども共産主義思想がじわじわっと入ってくる。共産主義思想の怖さはユダヤ問題がわからないから。共産主義は、ええことで愛情に溢れてヒューマニズムそのものだと思うんですよ。ヒューマニズムってわかるでしょう、可哀想な人が豊かになって金持ちが落とされてこりゃいい世界だとそれを考える。それは陳列のウインドウにすぎない。その中身はユダヤ解放理論ですから....

下の段いきましょうか
「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。」さっきいったでしょう、本土決戦で日本が大混乱になったらその後ろからごっそさんと入ってくるのが共産主義者ですよと、自分でないのこれ...

もう一ついっていい。ロシア革命から世界大恐慌・日中戦争・大政翼賛会・本土決戦まで大貴族がこんな道楽にはいってこれに侵されてしまった。近衛さんどうしたんですか、知ってますか?自分の長男をモスクワに送ってるんですよ、モスクワへ...共産主義理論を日本でやりますから、その節には息子をよろしくと。スターリンはどうしたの、終戦直後近衛の息子を殺しちゃったんですよ。覚めてますからスターリンは、さっきのゾルゲもそうよ、スターリンはゾルゲなんか信じてないですよ。結局ゾルゲはスターリンに裏切られたといって自分が取り調べのときいってるでしょう。スターリンというのはほんとうに恐ろしいほど覚めた男なんですわ。だから近衛がどんだけ自分の思想に愛着をおぼえて息子をモスクワに送って、よろしくよろしくといっても、そんなもん殺しますよ。だから自殺したんですよ、近衛は。もう一つここまで共産主義を願ってやった...マッカーサーは共産主義者でなかったんですよ。だから東京裁判に呼んだ彼をだから青酸カリを飲んだんですよ。自分の夢は破れた。もう一つは昭和天皇が御聖断なさったから、もうこれ以上戦争はしな
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2022/06/28 (Tue) 15:48:37

もう一ついっていい。ロシア革命から世界大恐慌・日中戦争・大政翼賛会・本土決戦まで大貴族がこんな道楽にはいってこれに侵されてしまった。近衛さんどうしたんですか、知ってますか?自分の長男をモスクワに送ってるんですよ、モスクワへ...共産主義理論を日本でやりますから、その節には息子をよろしくと。スターリンはどうしたの、終戦直後近衛の息子を殺しちゃったんですよ。覚めてますからスターリンは、さっきのゾルゲもそうよ、スターリンはゾルゲなんか信じてないですよ。結局ゾルゲはスターリンに裏切られたといって自分が取り調べのときいってるでしょう。スターリンというのはほんとうに恐ろしいほど覚めた男なんですわ。だから近衛がどんだけ自分の思想に愛着をおぼえて息子をモスクワに送って、よろしくよろしくといっても、そんなもん殺しますよ。だから自殺したんですよ、近衛は。もう一つここまで共産主義を願ってやった...マッカーサーは共産主義者でなかったんですよ。だから東京裁判に呼んだ彼をだから青酸カリを飲んだんですよ。自分の夢は破れた。もう一つは昭和天皇が御聖断なさったから、もうこれ以上戦争はしないと日本人を守ると本土決戦はありえないとだから近衛は生きていられなくなった。みなさん指導者が狂うとこんなんになっちゃう。

こっちみてください。多民族国家日本といったんです。多民族国家日本というのは、縄文時代日本にはいろんな民族が来ておったわけですわ。蒙古、朝鮮半島、中国、いろんなところから。その中に大きな集団として前からいってるけども古代ユダヤ人が来ているんですよ。国がないから。だから最近になったらあの奈良のですね、宮殿の下に石をひきつめた建物が見つかったと朝日新聞が、これはペルシャの建物だと書いてあった。ペルシャってどこだ、いまのイランなんですね。イラン人が作ったんではないですよ。それよりも前にユダヤ国家は滅びてますから、ペルシャにたくさんのユダヤ人が来ておったんですよ。シルクロードを通って中国から日本にやってきたんです。奈良時代の宝物が集まっているところ正倉院、聖武天皇の正倉院、あの中は全部中東の物なんですよ。あのガラス製品全部中東の物なんですよ。日本なんかで作ってないですよ、ということは世界の貿易商であるユダヤ人が日本にどっと来てたということなんですよ。それだけでなくってその前からユダヤの人がたくさん日本に来ていました。言葉だとかいろんなことを考えると日本にたくさん来ているということは事実です。あるとき秦氏が来たんです、中国の秦「シン」の始皇帝とは違う。秦これ「ハタ」と読む、これ中国語ではないです。アラム語ですよ。ハタ、この人たちが日本にやって来て後に藤原氏から平安の都、つまり京の都を盗られて追っ払われてしまった。おまえたちどっか行けといわれて、それまで京都を治めていたほんとうのユダヤ人の一つの群れ、つまり太秦にいた一部の群れは丹波に逃げてきたんです。その他中国山脈に逃げる、東に逃げる、四国に逃げる、散らされたんです。これが秦の流れです。丹波篠山の戦国時代の殿様は波多野、秀治はハタのユダヤ人ですよ。三木ってあるでしょう、別所、別所長治。兵庫県の三木市と丹波篠山、八上城の波多野秀治とは親戚関係です。別所、別のところに住んでいる人、ユダヤ人ですよ。そんなことで苗字だけ見ても古代ユダヤ人がたくさん日本にいたことがわかるんですが...

ちょっと話そらしますが、3月11日に大きなテロがスペインであった。後にモロッコのイスラムがやったといわれてますが、その前にバスクの連中がやったとやってたでしょう、憶えてませんか?バスクはスペインとフランスの間のピレイネイの山の中にある小さな地域なんです。そこの人たちは絶対にスペイン人にもならないしフランス人にもならない。バスクはバスクです。バスクの文化、バスクの言葉、バスクの誇り、どんなに迫害されてもバスクはバスクなんですわ。ほんとうのユダヤ人です。いわゆるアシュケナージ「ヨーロッパ白人系の偽のユダヤ人ではない」ほんとうのユダヤ人なんです。だからヨーロッパ白人系のユダヤ人とは絶対に交わらない。前にテレビでやってましたが以前の国連大使で波多野さんという人がいた。その人がアメリカにいってもヨーロッパにいっても白人たちが波多野さんの顔をじーと見るんだって、どういうかといったら、お前ははバスクだ、お前の顔はバスクだと...
http://www.jul22.net/kuromaku/index.html


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2013年8月15日木曜日
近衛上奏文現代語版(加筆しました)

 昭和20年という終戦の年の今で言うバレンタインデーに元首相近衛文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」です。
 私が初めて読んだ時すごくショックでした。
 これをきっかけに「太平洋戦争」が「大東亜戦争」に私の中で変わっていったのです。この内容が多くの人に触れられるように現代語にしてみました。細かい間違いはあるかもしれませんが、要旨は間違っていないと思います。


近衛文麿公の昭和天皇への上奏文
昭和20年2月14日

木戸幸一内大臣が侍立(後に近衛文麿や真崎甚三郎のグループの人が逮捕されている)

 敗戦は残念ながら、最早必至であると考えます。以下この前提の下に申し述べます。敗戦は我が国の国体(国柄、国のあり方)破壊につながる可能性があるものの、イギリスやアメリカの世論は今日までのところ、(日本の)国体の変革(を求める)とまでは進んではいません(もちろん一部には過激論もあり、また将来どのように変化するかを予測することは困難です)。従って、敗戦だけならば、国体上はそうまで心配する必要はないと考えます。国体を守るという建前より、最も危惧すべき事は、敗戦よりも敗戦に伴って起こりうる共産主義革命であります。

 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段(階)革命戦術(ブルジョワ革命の後プロレタリア革命を起こす)の採用以来、ことに最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著です。しかし、これは表面的かつ容易な見方であると思います。ソ連が究極において、世界赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策謀により明瞭となりつつある次第です。

 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国には「ソヴィエト」的政権を樹立しようとし、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。
 ユーゴのチトー政権は、最も典型的で具体的な表現であります。ポーランドに対しては、あらかじめソ連内に準備していたポーランド出国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在イギリス亡命政権を問題とせずに押し切りました。ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見ると、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエト」政権でなければ、どうすることもできないようになっています。

 イランに対しては、石油利権の要求に応じないという理由によって、内閣総辞職を要求しました。スウェーデンがソ連との国交開始を提議した事に対して、ソ連はスウェーデン政府に対して、親枢軸的であると一蹴し、この理由で外相の辞職が余儀なくなりました。

 英米に占領されているフランス、ベルギー、オランダにおいては、対ドイツ戦に利用した武装蜂起団と政府との間で深刻なる闘争を続けられ、かつこれらの諸国はいずれも政治的危機に見舞われつつあります。そうしてこれらの武装団を指揮しているのは、主として共産系(の人達)であります。これは英米にとり、今日の頭痛の種となっていると思われます。

 ソ連はこの通りヨーロッパ諸国に対し、表面上は内政不干渉の立場を取っていますが、事実においては、極度の内政干渉を行い、国内政治を親「ソ」的方向に引きずりこもうとしています。

 ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に延安(中国共産党の本拠地)にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊と連絡し、日本に呼びかけていました。
 このように形勢から推測すると、ソ連はやがて日本の内政に干渉するようになる危険性が十分にあると考えられます(即ち共産党が公認した「ドゴール」政府、「パドリオ」政府に要求したように、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止など)。

 翻って国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらの内、特に憂慮すべきは軍部内一味の(事実上国家社会主義を目指した)革新運動であります。

 少壮軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた、ここにあると思われます。職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立をもって、彼らを引きずり込もうとしつつあります。そもそも満州事変を起こし、これを拡大して、遂に大東亜戦争にまで導いてきたことは、軍部内の意識的計画であったことは、今や明瞭であると思われます。支那事変当時も「事変が長引くのがよく、事変解決したら国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心であり、これら軍部の革新論者の狙いは、必ずしも共産革命でないとしても、これを取り巻く一部官僚および民間有志(これを右翼というも良いし、左翼というも良い、右翼は国体の衣を着けた共産主義者です)は、意識的に共産革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知単純である軍人がこれらの人達に踊らされていたと見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。この結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らして見た時、そこに思い当たる節々が非常に多いと感じるのであります。私はこの間、三度まで(総理大臣の)大命を拝したが、国内の相克摩擦を避けようとしたため、できうるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の実を挙げようと焦慮した結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に看取することができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります。

 昨今、戦局の危急を告げたとともに、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを増しつつあると考えています。このような主張をしている者は、いわゆる右翼者流であっても、背後よりこれを煽動しつつあるのは、これは例によって国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達しようとする共産主義分子であるとにらんでいます。一方においては、徹底的に米英撃滅を唱える反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつあるようにあります。軍部の一部は、いかなる犠牲を払ってもソ連と手を握るべしとさえ論じている者がいました。また延安(中国共産党)との提携を考えているものもあったとの事であります。以上のように国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば、形勢は急速に進展するでありましょう。

 戦局の前途につき、何ら一縷でも打開の望みありというならば別ですが、敗戦は必至の前提の下に、論じてみても勝利の見込みはありません。戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと思われます。従って国体護持の立場より見れば、一日も速やかに戦争終結を講ずべきものであると確信いたしました。

 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた、軍部内のそれら一味の存在であると考えています。彼らは既に戦争遂行の自信を失っていますが、今までの面目上あくまでも抵抗するであろうと思われます。もし、この一味を一掃せずに早急に戦争終結の手を打とうとした場合、右翼左翼の民間有志がこの一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、企図した目的の達成が困難になる恐れがあります。従って戦争を終結しようとすれば、まずその前提としてこの一味の一掃が肝要であります。この一味さえ一掃すれば便乗の官僚、並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むようになるでしょう。確かに、彼らは未だ大なる勢力を結成しておらず、軍部を利用して野望を達成する以外方法がないため、その本を断てば、枝葉は自ら枯れるものと思います。

 なおこれは希望的観測かもしれませんが、もしこれら一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶(国民党)の空気が、あるいは緩和するのではないでしょうか。元来米英及び重慶(国民党)の目標は「日本軍閥の打倒にあり」と言っているので、軍部の性格が変わりその政策が改められれば、彼らとしても戦争の継続について考慮するようになるのではないかと思われます。

 それはともかくとして、この一味を一掃し軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提、先決条件であるとすれば、非常のご勇断をこそ(天皇陛下に)お願いしたいと思います。
                                     以上

 中川八洋氏は「近衛文麿こそ共産主義者であり、大東亜戦争を起こした最大の黒幕である」と主張しています。この上奏に加わったグループの人達の中の認識では近衛文麿は理知的であるがいろいろな人の影響を受けやすい優柔不断な人、そして「革新(共産主義もしくは国家社会主義)からの転向者」となっています。

 しかし、近衛文麿が首相として行ったことは、支那事変時にすぐに軍に予算を付けたり、三国同盟を結んだり、国民党政府との交渉を拒絶したり、南インドシナへの進駐を進めたりと、やっていることはあくまでも戦争を継続し拡大するという動きです。しかも近衛文麿は絶妙なタイミングで首相を辞め、東条英機らにその責任の多くをなすり付けています。もし近衛文麿が確信犯的に大東亜戦争を起こしたのであれば、スターリン並の謀略家ということになります。もしそうでも真実を知っていたのは第一次内閣時の書記官長の風見章(共産主義者)と内大臣の木戸幸一(京都大学時代からの共産主義仲間)ぐらいかもしれません。多くの共産主義者も知らなかったかもしれません。味方をも騙す天才謀略家だったのでしょうか。

 この説が正しいとなると、近衛上奏文は大事な部分が欠けていることになります。つまり、「共産主義者による敗戦革命を目論んでいた最大の黒幕は、この私近衛文麿である」という部分です。共産主義者による敗戦革命謀略を暴露し、その責任を自らは逃れ、陸軍の統制派に押し付けるという絶妙な上奏文になっています。敗戦後責任者を別に押し付け、自分が敗戦革命を最後まで完遂するつもりだったのでしょうか。今となってはなかなか証明が難しい問題です。

 近衛文麿の家に掲げられた「黙」と言う字は死んでもこの謀略を黙っているという意味だったとしたら、亡くなった300万人の人達はどう思うのでしょうか。

http://hiizurutokoroshinbun.blogspot.com/2013/08/blog-post.html
4:777 :

2022/06/28 (Tue) 15:52:04

2・26事件は共産革命だった


昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

2・26事件は金の亡者の昭和天皇が為替相場を不当に操作して儲けるために意図的に起こさせたものだった.


「二・二六事件の全貌 」 2019年8月15日 
克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C

<極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>
NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」  


事件1週間前に海軍が掴んだ情報は詳細を極めており極秘文章には襲撃される重臣の名前、首謀者の名前までも明記されてた。

海軍は二・二六事件の詳細を掴んでたが事実は闇に葬られた。不都合な事実は隠される。


私たちが知っていたのは、“真相”の一断面に過ぎなかった―。

今回NHKは、あの歴史的事件の一部始終を記録した「極秘文書」を発掘した。

1936年2月26日、首都・東京の中枢で首相や大臣が襲撃された、近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。これまで、事件に関する主な公的記録は、完全非公開で“暗黒裁判”と言われた陸軍の軍事裁判資料とされ、事件をリアルタイムで記録した1次資料はなく、多くが謎とされてきた。

事件から83年がたった今、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなったのだ。

文書を密かに記録していたのは海軍。事件発生直後から現場に解き放った「調査部隊」や、密かに設置された「見張所」からまさに分単位で緊迫の状況を記録していた。陸軍の幹部が事件の裏で行っていた知られざる会談や、海軍が、反乱を超えた大規模な内戦まで想定して備えていたことなど、文書に残されていた「新事実」の数々に、解析に当たった専門家も息を呑んだ。 

 

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html


2・26事件の背景は


第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

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金の亡者だった昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 


2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。


 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm


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鬼塚氏が8・15の偽装クーデターを徹底検証した『日本のいちばん醜い日』には、狂言回しとして憲兵中佐・塚本誠が登場します。 後の電通の取締役です。
塚本誠と懇意にしているのが松本重治。国策通信社『国通』の上海支局長です。


この二人を中心に人間関係を描くと次のようになります。

当時の松本重治の人脈は「上海クラブ」の上流階級、すなわち、

長州5を英国に留学させた麻薬王ジャーデイン・マセソン商会の子孫ケジック兄弟、
兄弟を紹介してくれたロイター極東総支配人クリストファー・チャンセラー、
秘密工作で一緒に奔走してくれる麻薬王・里見甫、
西安事件の大スクープネタをくれた義父の親友・須磨弥吉郎。


やがて須磨はスペイン大使になって「天皇のスパイ」べラスコを発掘。
べラスコが一方的にトモダチだと思っているのがキム・フィルビー。
キムはヴィクター・ロスチャイルドのスパイ組織に属するホモダチ。
スターリンが「ご主人様」と呼んでいるのがヴィクターその人。
つまりキムはヴィクターの根城に避難しただけです。
この点、高橋五郎『天皇のスパイ』はかなりパースペクテイブが狂っていて、ベラスコを天皇のダチッコとして大物扱いしていますが、ヴィクターに遠隔操作されていた小物スパイに過ぎません。


そしてヴィクターの忠実なポチがロックフェラー三世。
ロックは日本の敗戦直後に日米文化交流という名の侵略を開始。
松本重治が国際文化会館を創設してバックアップ。
塚本誠は電通に潜り込んで反乱分子を監視。
塚本誠と松本重治が諜報組織で繋がっている構図が見えます。


今回登場する大宅壮一、半藤一利、秦郁彦もこの構図の中にいます。
かつての三島由紀夫もこの構図の範疇にいます。
ここからはみ出すものはメジャーにはなれません。


では815の概略を見ていきましょう。

鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋します。

ポツダム宣言が米中英三国により共同宣言として発表されたのは一九四五年七月二十六日だった。その日、塚本誠憲兵中佐を日本に呼び戻す命令が台湾に打電された。塚本誠は『ある情報将校の記録』(一九七一年私家版・一九七九年芙蓉書房刊)(注 序文を松本重治が書いています)の中で次のように書いている。


「私は東京転勤のため、七月二十六日午後、海軍機に便乗、台湾飛行場を福岡へ飛び立った。・・・この日早朝にポツダム宣言が放送されることを、私は終日知らずじまいであった。・・・翌二十七日夕、福岡に着き、ポツダム宣言を知った。米中英三国首脳が連名で、日本に無条件降伏を要求しているが、この宣言は軍をゆさぶるに違いないと思った。」

塚本誠憲兵中佐はさりげなく書いているが、彼はある目的をもって帰国命令を受けたのであった。彼は特別任務を与えられての帰国であることを知っていた。八月十五日を中心とする終戦秘史を書いた本は多い。しかし、塚本誠に注目し、彼の行動について書いた本は皆無に近い。どうしてか。彼がポツダム宣言の発表直後に帰国命令を受けた意味を知ろうとしないからである。


この件について具体的に追及したのは、私の知るかぎりにおいて、デイヴィッド・バーガミニとレスター・ブルークス。バーガミニは日本の歴史を勉強し、日本の暗殺がなにゆえに行われ、どのような方法で構成にその暗殺が伝えられるかについて考察し、記録にとどめた稀有の学者でもあった。バーガミニの書く文章の意味が、私がこれから描く事件の経緯のなかで判然としてくるであろう。塚本は「日本の最良の警察」の役割をすべく、宮中の偽装クーデターの見届人として登場するのである。


デーヴィッド・バーガミニ

『天皇の陰謀』より写真転載


警察の見届人塚本が加わったがゆえに、陸軍の愛国的な少佐や中佐が急速にクーデターに熱中していくのである。このクーデターが秘密の会合から誕生したものでないことを何よりも証している。塚本はクーデターを計画しているといわれる井田正孝中佐に会見する。塚本は「私の東京転勤の陰の推進者はどうやら彼(井田中佐)だったようである」と書いている。だが、真の推進者が誰であったのかについては書いていない。一介の陸軍省事務局の中の軍事課員にすぎぬ一人の中佐が、塚本憲兵中佐を台湾から強制的に帰還させることはできない。彼の帰還命令の背後には大いなる実力者がいなければならない。この大いなる実力者が真のクーデターの実行者であるはずである。この物語は真の実力者が暗躍する過程を描くことになろう。

塚本の本からの引用を続けよう。「やがて二人の見知らぬ佐官が、井田中佐の横の両脇に座った。彼の紹介によると、一人は椎崎二郎中佐(45期)、もう一人は畑中健二少佐(46期)、共に軍務課員ということであった。」彼らの計画を塚本は書きとめた。

「降伏が最後になる前に、宮城を占拠し、天皇に不名誉を受け入れるよう助言した君側の奸から天皇を救い出すべくクーデターを決行する。もし、彼らの陰謀が失敗した時は自決する。私たちは、阿南と直接に幾度も討論した。阿南は終始加担しなかったが、彼らの大義に同情を示した。私たちは近衛師団長と東部軍司令官にも進言した。二人の将軍は、軍隊の規律についての適当な見解を開陳して応えたにとどまり別に私たちを止めようとしなかった」

塚本はこの三人からクーデター計画の内容を聞きだし、自分の仕事がなんであるかを知った。この物語は、塚本中佐が台湾から帰還し、竹下正彦中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐の三人の軍務局少壮課員に会った時をもって始まる。塚本が指摘する竹下中佐が、彼らと陸将のパイプ役であった。


畑中健二少佐

『日本のいちばん醜い日』より


椎崎次郎中佐

『日本のいちばん醜い日』より


バーガミニの説とブルークスの説がわかれる分岐点がこのあたりにある。バーガミニはこの日(十三日)から始まるクーデターを最初から偽装クーデターと認識し、塚本憲兵中佐をこのクーデターの記録係とし、井田正孝中佐を誘導及び報告係りとする点である。ブルークスは井田正孝が塚本憲兵中佐に語った言葉を信じている。バーガミニは疑っている。


後述することになるが、バーガミニは八月十四日の昼過ぎから起きるクーデターを宮廷がらみの偽装クーデターであり、首謀者とされる井田正孝以下の将校たちは、宮廷グループ(この人々については、ゆっくりと説明していく)の面々により誘導されたと見る。その最大のイベントが森近衛師団長の惨殺事件であったと。それゆえ、大城戸(注 塚本に指示を与えている上役)も塚本も井田も、宮中のスパイであり、彼らが若手将校や近衛氏団の歩兵たちを操って事件を起こしたと見る。しかし、あの宮中事件について書いた他の本はすべて、あの八・一四および八・一五の事件は真実のクーデターであった、という点で一致をみている。

ブルークスは憲兵司令官大城戸三治中将の存在をご存知ないらしい。彼は宮廷の飼い犬である。すべての彼の行動は内大臣木戸幸一の指示のとに動いている。従って大城戸は政治への参与をゆるされない。塚本中佐も陸軍省に入り込んだ井田中佐も内大臣木戸の手先である。内大臣木戸はこの憲兵隊のデータを天皇に報告する義務がある。『木戸幸一日記』には、この憲兵隊司令官がたびたび登場する。情報を知り、その情報を天皇に伝奏する様子が書かれている。しかし、終戦直前の記録から、この「憲兵隊」という言葉がかなり消える。木戸は意識して憲兵隊の名を伏せているとしか見えない。

バーガミニは書いている。「塚本の到着によって、阿南の幕僚の狂信者達は、公式の見届人が与えられた。このことは彼らにとっては、彼らの行為が記録されて、死んだ場合には例会で祖先から嘉せられることを意味しているが故に、重要なことだった。」森師団長と同じように惨殺された多数の軍人たち、空襲で命を失った数多くの民間人たちは霊界でどうなっているのか・・・。まわりくどい言い方を止めよう。私はこれから“天皇タブー”に挑戦する。この本はそのためにのみ書かれたものである。

半藤一利の『日本のいちばん長い日』(決定版)・・・の中に、三笠宮は二回ほどしか登場しない。しかも「これらの人々が憂いていたのは、軍の反抗である」と書かれている人物は三笠宮と蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長である。私はこの重要人物が故意に書かれざる存在であると思えてならないのである。どうしてか。答えは塚本憲兵中佐の台湾帰還を命じた人物こそ、三笠宮か、三笠宮に近い皇族の東久邇宮ではないかと思えるからである。

塚本が、誰が自分を直接に命令を出して帰還させたかを全く書いていないのも不条理であろう。彼はその人物を知っていた。そして、その人物から直接に命令を受けた、と私は考える。なぜなら、彼は“儀式”の見張り役を命じられたのである。いわば、このクーデターの進行係のような行動をとるからである。塚本は、「陸軍大臣室での模様については、終戦直後に井田中佐から直接聞いたことがある」と書いている。しかし、終戦直後とはいつの日なのか。八月十四日を終戦とする説があるのだ。私は、塚本は陸軍大臣室に入り、ペンを執って模様を写していたと見ている。彼は陸軍大臣とその部下たちのもとにへばりついていたからである。

『日本のいちばん長い日』の中の、ある“気になる文章”のことを書いてみる。私は半藤のミスかと思ったが、そうでもないらしい。故意であろうと確信するにいたったのである。以下、大宅壮一編になる『日本のいちばん長い日』を「大宅本」とし、半藤一利著なる本を「半藤本」または「決定版」としたい。

(@_@;)
○一九六五年発刊『日本のいちばん長い日』大宅壮一編→「大宅本」
○八年後角川文庫本として発刊→「角川文庫本」
○一九九五年発刊『決定版 日本のいちばん長い日』半藤一利著→「半藤本」「決定版」

まずは「大宅本」からの引用文を見てほしい。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時を十分か十五分過ぎたころになって、中佐が二人、少佐が一人やすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。よくよく注意すればそこに事件の匂いをかぎとることができたかも知れない。」

次に、八年後に出た「角川文庫本」から‐。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校の姿を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時をとっくに過ぎたころになって、中佐がひとり、少佐がふたりやすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。」

「大宅本」では「中佐が二人、少佐が一人」となっているが、「角川文庫本」では「中佐がひとり、少佐がふたり」となっている。決定版たる半藤本も角川文庫本と同じである。このちょっとした文章の故意としかおもえないところに、大きな問題が含まれているのだ。


(@_@;)
中佐が二人、少佐が一人→中佐がひとり、少佐がふたり
わざと平仮名にしているところに不自然な作為を感じます。

大宅本には※(注)がついている。「曽我音吉氏のはっきちした記憶から類推すると、少佐は畑中、中佐の一人が椎崎であることは間違いない。しかし、もう一人の中佐が誰であるかわからない。他に事件関係者の中佐といえば、竹下正彦氏と井田正孝氏ということになるが、両氏とも後に述べる事情からすればこれは該当しないのである。従ってここでは不明としておく。」

角川文庫には「注」がついていない。曽我音吉氏は少佐の畑中と中佐の椎崎を記憶し、もう一人の中佐を思い出せないとは、不可解以上の何かを思わせる。では、この“某中佐”について半藤一利本人はどのように考えていたのであろうか。『昭和史が面白い』(一九九七年)の中で、半藤一利は高木俊郎(作家)とともに岩田(旧姓・井田)正孝と会談している。この中で“某宮様”が登場する。

高木
「このときの青年将校は判明しているのが、畑中少佐、椎崎中佐のほか、近衛師団参謀の小賀秀正、石原貞吉の両少佐、それに久保田兼三少佐、上原重太郎大尉の六名です。しかし本当にこの人たちだけであったのか。実は明らかにされていない影があるのではないか。」

岩田
「何もありません。立ち上がったのはその六名だけです。それに私が森近衛師団長説得のため、手を貸した」

半藤
「実は『日本の一番長い日』を書いたあと、妙な話を耳にした。あの夜、宮城の近衛師団の『守備隊大隊本部』に、参謀懸章をつった中佐、それも某宮様によく似た人がいた、と言うのです。確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下ではなく、別の天皇陛下をいただいて、という計画がひそかにあったのではないか。」

岩田
「驚きましたね、そんな話は。今はじめて聞きました。六人以外に同志はいなかったですよ。椎崎中佐を見間違えたと思いますよ。それに天皇陛下が弱気だからなんて考えたこともない。弱気だったのは外務大臣ですよ。」

半藤
「しかし、時日は、宮城占拠の近衛兵たちは御文庫に機関銃を向けているんですよ。」

岩田
「これは想像ですけどね。暗くて、どっちに御文庫があるかわからなかったのでは。」

半藤
「いや、いつも警備任務についている近衛兵ばかりなんですよ、占拠しているのは。」

岩田
「御文庫にいた侍従や女官たちの恐怖にかられた想像、いや妄想ですよ。近衛兵は泣いていますよ。」

半藤一利は「確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下でなく、別の天皇をいただいて、という計画があったのではないか」とも語る。ここから近衛兵たちが(後に詳述するが)わけもわからず、宮中のそれも天皇の住まいである御文庫まで「行け!」と命じられるのである。多くの軍人たちがその某宮様の指示、否、命令で動いたのである。しかし、つねに無名という名を与えられているのだ。岩田正彦はこの某宮様(この本では某中佐)と行動を共にしていたのである。時は流れ過ぎゆくも、この某中佐の存在すら否定しえ、偽証の生き証人として彼は生きてきたのである。私は、この“某中佐”の行方を追ってみようと思う。どうしてか?私は“天皇のタブー”い果敢に挑戦し、このタブーを打ち破る以外に、日本の未来への道は開けないと確信するからである。

三笠宮崇仁(終戦当時二十九歳)が雑誌「文藝春秋」(二〇〇五年九月号)の「特集・運命の八月十五日」に「玉音放送までの苦しかった日々」を寄稿している。

「昭和二十年八月寿五日といえば、中高年の日本人にとって忘れられない日であろう。もちろん私もその一人である。それから六十年経った今、頭に何が浮かぶかと聞かれれば、それはいわゆる玉音放送をラジオで聞いた時の、『やっと辿り着いたなぁ、という安堵感』と答えるしかない。・・・当時、私は航空総軍参謀として勤務していたが、私の部屋に来て、目の色を変えて抗戦の決意を述べる将校もいた。また自宅‐といっても家は消失したので、防空壕の前におかれた椅子と卓‐に来られた将校もおり、話しているうちにやがて大激論となった。・・・また、要職にある某将軍が前期の自宅にみえたことがあった。話の要点は、『大元帥陛下が、降伏の決心を翻して、戦争を継続していただくよう』陛下に申上げてくれとのことであった。私は、その温厚な顔つきや話し方を聞きながら、将軍が依然、侍従武官をしていたことを思いおこして、陛下(昭和天皇)を、かわいいわが子のごとく想っているのではないかという印象を受けた。しかしこの要請を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。はっきりとお断りした。将軍は肩をおとして退出された。防空壕は低地にあったので、坂道を上らなければならなかった。妻は将軍の後姿を見て、感傷に堪えなかったという。そのすぐ後、将軍は自決された。大元帥陛下と、蹶起にはやる陸軍将校たちとの間にたって、苦悶されたであろう将軍の心の内を思いはかると、あまりにも悲愴な出来事であったというしかあるまい。あんな戦争は今後あってはならない。」

三笠宮と陸軍大臣阿南惟幾を終戦工作で結びつける資料は非常に衝くない。しかし、最後の最後まで三笠宮が阿南を動かしていたと思われるのである。大森実『戦後秘史(2)天皇と原子爆弾』(一九七五年)の中に「大森実直撃インタビュー」が入っている。そこで大森は阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大正未亡人)をインタヴューしている。このなにげない大森と阿南夫人の対談は、八月十四日に起きた事件が、今までに考えらえていた事件とは全く洋装の異なったものであることを暗示している。

その第一の点は、十四日、三笠宮と阿南が何かの目的のためにかなりの長時間会っていたことを示している。陸軍省にも陸軍大臣官邸にも、阿南のいそうな場所に阿南夫人はたびたび電話している。要件も彼の部下に話しているにちがいない。自分の息子の死を知らせる息子の友人の話を、せめて電話を通してでも聞きたいと思わない親がどこにいようか。しかし阿南夫人が「はあ、十四日は、三笠宮様のところに伺ったり、あちこちおりましたらしいんでございますよ・・・」と語るように、その居場所さえはっきりしないのである。後述するけれども、森近衛師団長も同じようにはっきりしない時間帯がある。ひょっとすると二人は監視下におかれていたのかもしれないのだ。


阿南惟幾大将

『日本のいちばん醜い日』より


森赳近衛師団長

『日本のいちばん醜い日』より


木戸幸一(当時内大臣)は戦後戦犯となり巣鴨プリズンに収監された。彼はこのプリズンの中でも「日記」を書いたが、『木戸幸一談話』が残っている。その中で木戸は奇妙なことを語っている。「極東軍事裁判に関する談話」から引用する。彼とは阿南陸相をさす。

(十)阿南惟幾
よく識(し)っている。立派な人で終戦も彼が陸相でよかった。我々の立場もよく諒解してくれた。彼の自決の八月十五日の朝、私のところに来て「もう一度考え直してもらえないか」と云うので、私は「事情でも大きく変わったら兎に角、既定の線で押し切る外ない」と答えると「君の立場はよく判る」と笑って辞去した。

なんとも不思議な文章ではないか。木戸ははっきりと“自決の八月十五日の朝”と書いている・三笠宮も“十五日”と書いている。以下は私の推理である。八月十五日の早暁(夜中の零時~一時ごろ)に、三笠宮邸の防空壕の中にいたのは、木戸内大臣、阿南陸相、畑中、椎崎、上原たちではなかったか。阿南は畑中たちの命を救ってやりたい。それで、「もう一度考え直してもらえないか」と三笠宮と木戸内大臣を説得した。

阿南は十四日午後十一時三十分、鈴木首相に最後の言葉を告げるために残っている。首相官邸を辞した後に、三坂宮の防空壕に行くと十二時をすぎ、十五日となるだろう。そこで重大な論議を、三笠宮と木戸をはさんで阿南陸相がしたのであろう。結論は出なかったに違いない。三笠宮が有末(精三)に語った“陛下のおたのみ”が論議されたと私は考える。三者は口論となり、話はまとまらずに別れたのちがいない。

午前一時すぎに、近衛師団長室の二階に向かって暗闇の中を車が走った。そして、某中佐と畑中、椎崎、上原が二階に向かってかけよった。そこに銃剣を持った井田中佐がいた・・・。某中佐は畑中が森師団長をピストルで撃った後、暗闇に消えた。そして、どこへ行ったのか。それを暗示する文章がある。下村海南の『終戦秘史』(一九五〇年)を引用する。

「矢部理事のもとへ兵士がかけて来て、『あなたもこちらへ』という。何事が起ったかと引き返し、将校の前に出ると、大隊長は、『今あの室の入口に上衣をぬいでいた人は高松宮殿下ではないかと思うがどうだ』と聞く。この深夜に高松宮様が宮内省の一室に宿直しているなどとはとんでもない錯覚だが、たずねられるままに茶目気を出した矢部理事は、『そういえばいかにも似ていますね』と答えた。大隊長はまじめな顔で、『○○中尉、あのお方のところへ行って伺って来い、失礼のないように』○○中尉は『ハイ』と答え、帽子を直したり、ボタンをかけたりして、あわただしく走っていった。すぐ引きかえして、『高松宮殿下でないそうであります』」

どうして下村海南(本名宏、当時情報局総裁)は、こんな妙な文章を挿入したのであろうか。下村の本を読むと(これも後述する)、この本は森赳(もりたけし)に捧げられているような気がするのである。彼は事実を残したいという、やむにやまれぬ気持ちを後世に伝えるために、一見意味不明のこうした文章を入れたと私は信じている。

ブルークスの『終戦秘話』の中の一文を引用したい。十五日午前三時ごろの“ひとりの将校”のことが書かれている。たぶん、ブルークスは某中佐のことを書いていると思うのだ。

「午前三時ごろ、ひとりの将校が御文庫の入り口に現れて、側衛隊長に、その五人の部下の武装を解除をするように要求した。側衛隊長は狼狽して、その要求を入江(相政すけまさ)侍従に告げた。」

ブルークスは姓名をすべてつけて記述している。このように“一人の将校”と書くのは例外である。しかも天皇が住む御文庫の入り口である。下村海南がかいているごとく高松宮によく似たある将軍が二時半ごろに登場する。それは間違いで別人となる。しかし私は、この人物と三時過ぎの“一人の将校”は同一人物に思えてならない。この“ひとりの将校”は皇居警察の側衛隊の武装解除を要求する。この皇居警察の部長の上官として、侍従部長の蓮沼蕃大将がいる。それを承知の上で、武装解除を要求できるのは、皇位に非常に近い“某中佐”以外にいないと思う。高松宮によく似たとされる某中佐は森赳殺害現場から去り、宮中で服を着がえ、侍従武官長と木戸内大臣と会い、それから外に出て、いろいろと武装解除について皇居警察部長に指摘したのであろう。『すべての窓や出入り口の鉄扉を締めろ。偽装クーデターの近衛兵がやってくるが、彼らを取り締まらずに見て見ぬふりをしろ・・・』と言い残して、消えるのだ。それも「将校が向かって行ったかなたの闇のざわめきが、いるのは彼ひとりではない」という闇の中へだ。

さて、この項の最後に、「This is 読売」(一九九七年五月号)での三笠宮崇仁と平山郁夫画伯の対談「大戦の芽は明治健軍の時代にあり」からアカンベ宮様の思想の一面を紹介したい。「この狭い島国における共同生活では、伝統的な風習を守らないと村八分にされるおそれがある。そこでふだんから目立たない言動をし、控えめにふるまうことが身に付いてしまったのですね。」

三笠宮殿下には申しわけないが、私は村八分を少しも恐れない。文筆業の人々は、妙な事を書いて飯が喰えなくなるのではと思っている。即ち、“天皇タブー”をよけて飯を喰っている。私は貧乏の底をはいつくばって生きてきた。それでも生きてペンを執っている。村八分にしたけりゃ、それでよし。そんな連中にめぐり合ったら、“アカンベ”をするだけだ。


以上、鬼塚氏前掲書より転載。
http://perimari.gjpw.net/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%A4%9C%E8%A8%BC/20130226_122
 

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日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt&v=eugXzHoKnes

昭和天皇が自身の秘密や財産を守るための戦争をした。完全に天皇が指揮していた。おま­けに米国、スターリンそして西洋銀行家とも天皇が内通していたのである。


DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は-それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン-後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など-との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くはバイシュン婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本の
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2022/06/28 (Tue) 15:53:54

『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派-あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派-の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ~だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html




2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物


2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物 From 得丸

皆さん、ちょっとびっくりしたのでお知らせします。

2・26事件の磯部・村中が軍を追われることになる昭和9年の11月事件と、昭和10年の永田鉄山惨殺事件と、昭和20年の8・15宮城事件に共通する人物がいることがわかりました。

なんと鬼塚さんの本に引用されていました。

鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日」の14ページに、バーガミニからの引用が紹介されています。

「塚本は、1934年に、陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。

彼はそれから1935年の間じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その一つは、裕仁の防空室を描いた鈴木記念館の絵のなかで時代錯誤の幽霊となって現れているあの永田軍務局長の殺人であった。」

この1934年の陸軍大学における陰謀というのは、磯部浅一と村岡孝次が陸軍をクビになる11月事件であると思われます。

そして、永田鉄山惨殺事件(=相沢事件)にも、塚本が関係したという記述がバーガミニの本にあったということは、いったいこれは、、、、、、、

2・26事件について、浜田政彦さんが考えている以上の根深い陰謀があるのではないかという気になりませんか


とくまる
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2・26事件の首謀者である磯部、村中と、8・15宮城事件の陰謀の筋書きを書いた塚本は、意外に近い関係だったのですね。

得丸

以下、ネットよりコピペ


塚本誠(陸士36)、村中孝次(陸士37)、磯部浅一(陸士38)は、陸軍士官学校の一年ずつ先輩後輩です。

磯部浅一
・ 山口県出身。陸士(38期)卒。陸軍経理学校卒。
・ 早くから北一輝のもとに出入りし「皇道派」青年将校の先駆的
  存在の一人。
・ 士官学校事件で、村中孝次らとともに、辻政信ら「統制派」の
  陰謀に陥り逮捕。のち停職処分。
・ 冤罪を訴え続け、村中とともに「粛軍に関する意見書」を作成
  、配布。これにより免官となる。
・ 真崎教育総監更迭、相沢事件ののち、相沢を支援しつつ、活動
  を活発化される。
・ 二・二六事件に際しては、栗原安秀とともに時期尚早論を抑え
  、計画を指揮。
・ 獄中で「行動記」「獄中遺書」を書き、決起の正当性を主張。
  刑死。


村中 孝次(むらなか たかじ、1903年10月3日-1937年8月19日)は、戦前日本の軍人、国家社会主義者。北海道旭川市出身。

札幌中学を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経て、1932年歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。
この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。1934年大尉。同年磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。

翌1935年磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った。1936年の二・二六事件の首謀者の一人となり、1937年に西田や磯部らと共に射殺された。


塚本 誠
明治36・9・24~昭和50・8・6
大13・7 陸士卒(36期)
13・10 任歩兵少尉・歩兵第59聯隊付
昭2・10 任歩兵中尉
6・5 仙台教導学校付
7・11 任憲兵中尉・仙合憲兵隊付
7・12 岡山憲兵分隊長
8・8 任憲兵大尉
9・3 憲兵司付
10・3 大阪憲兵隊付
10・4 上海駐在
12・8 上海派遣軍司付
12・12 中支那派遣憲兵隊付
13・3 台北憲兵分隊長
13・7 任憲兵少佐
14・3 参本付仰付(上海駐在)
14・9 支那派遣軍総司令部付
16・3 中支那派遣憲兵分隊長
16・8 東京憲兵隊付(特高第2課長)
17・8 任憲兵中佐
18・8 宇都宮憲兵隊長
19・5 ビルマ方面軍憲兵隊長
19・12 第10方面軍司付
20・4 第10方面軍参謀
20・6 任憲兵大佐
20・8 東部憲兵隊司部員兼憲兵参謀
20・9 軍務局付
20・12 予備役
24年 電通入社
48年 電通取締役で退社

憲兵練習所甲種学生 首席
* 11期:昭和7年11月14日/塚本誠 歩兵中尉
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2・26事件も結局、天皇が仕組んだ陰謀だったのでしょうか、、、、

とくまる
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の陰謀

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳


私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。

だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。


私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。

だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。

裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L2/220216.htm
6:777 :

2022/06/28 (Tue) 15:55:59


太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』
2017/07/18
https://www.youtube.com/watch?v=-vnJveq6lBQ



70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた2・26事件の真相、全面開示
太田龍(週刊日本新聞)
2008年1月25日 日本義塾公開講義

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。


謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日


っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。


「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。

そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万~500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万~500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。

つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。


これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。

それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6~7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828~1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835~1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844~1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。


という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856~1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。

大正天皇のクーデタ

大正天皇が明治11年に生まれ、昭和天皇が明治35年(1901年)に生まれ、教育を受ける頃には、宮中のワンワールド支配が濃密に丹念に入念に準備されていたわけです。その結果、どういう現象が起きたか。大正天皇が32歳で天皇に即位する。その時にバーガミニは大正天皇の失敗・未発に終わったクーデタについて書いてます。それはこの本の第2巻で、いいだもも訳には省略されてる部分。

いいだももの要訳では、昭和天皇の時代は昭和3、4年ぐらいから始まる。それまで大正天皇の時代、摂政になる時代、昭和天皇が即位して最初の2,3年。この時代の記述はいいだももの訳には省略されてる。ところが重要な事がたくさん書いてあり、それを追って行かないと話が結びつかないのに、カットされてます。

大正天皇の不発のクーデタなんて、私は日本人の書いたものでは読んだことがない。クーデタとは何を意味するか? 山縣有朋は当時の元老です。大正天皇の時代の元老では、西園寺公望、山縣有朋、大隈重信、主要なのはその3人ぐらいです。大正天皇が山縣有朋と衝突するというんです。衝突って何を意味するかというと、西洋式のナポレオンとかアレキサンドル大王とかいった人物が大正天皇の理想像になったと言うんです。つまり、大正天皇はそういうふうに日本を、国家を、改造する気なんですよ。明治憲法によって作られた議会制度は余計だっていうわけですよ、大正天皇は。そんなものは廃止して天皇の絶対独裁の国家体制にしたいって大正天皇は考えた訳です。それがクーデタです。明治憲法(大日本帝国憲法)の議会で予算が審議されるでしょ。議会が予算を否決すると困っちゃうんです。政治的な焦点は、予算について言えば、日露戦争やって日本は莫大な外債(借金)を背負ってヒーヒーするわけですよ。それで国力を養わなくちゃならないというのが国民、政治家の大多数の意見だけど、しかし、それとは全然逆の方向、つまり日本を西洋をモデルとした帝国として建設に向かって急速に前進すべきだ、その為には陸軍と海軍を増強しなければならない、そして、それに反対する議会ってのは邪魔な奴だ。こんなものは蹴散らかして天皇絶対の国家体制にすべしと大正天皇は考え、それが大正天皇のクーデタだというのです。山縣有朋は、そんなとんでもない事を言うなという訳です。大正天皇に。山縣有朋と大正天皇が正面衝突しかかり、その時点では山縣と長州閥の勢力が圧倒的に強いから、大正天皇は押さえつけられて未発に終わったと書いてある。

こんなことは私は日本人が書いたこれまでの歴史で読んだことがないです。そして、裕仁は大正天皇の不発に終わったクーデタを諦めないで実行しようとする訳です。それが要するに基本なんです。立花隆が『天皇と東大』という本を書いたでしょ。文芸春秋に連載して、いろいろ補足して厚い本を出した。東京帝大の憲法学の教授が二人いて、その一人の上杉慎吉は議会を撲滅せよと言うんですよ。上杉憲法学の根本的なアジェンダは「議会なんていうのは天皇を神聖化する日本の国体に全く反するものだから議会を一刻も早く撲滅せよ」というもの。そこから右翼的な組織が出来たりどうのこうのと立花さんは説明してますけど、それは現象を言ってるだけであって、上杉っていう学者の話じゃありませんよ。もっと根の深い話で、大正天皇が傀儡として議会は邪魔だって言い始めたんですから。邪魔だっていうのは、大正デモクラシーの時代にはとんでもないアナクロニズムで、問題外だと多くの人が思ったかもしれないけど、ところがそうはならないですよ。


昭和になってクーデタ、暗殺、その他、諸々わっと出てきて、二・二六を昭和天皇が完全に圧殺・抹殺した後は、文字通り議会は消えて、お前ら消えて無くなれってふうになって、大政翼賛会でね、陸軍にちょっとでも逆らうような政治家は暴力的に黙らせるというふうに、実現してしまう。イルミナティのワンワールドの意思が働かなければ、日本の純粋な国内の状況でそんな現象は起きないですよ。

ザビエル以来の日本全滅計画

しかしそういう事が何故要求されるのか? 私の『ユダヤの日本侵略450年の秘密』という本に書いてますが、ザビエルが日本に来て「日本はこの地上から抹殺されるべきだ」「日本人はこの地上で生きていてはならない民族だ」「これは我々にとって極めて危険な強力な敵になる可能性があるから一刻も早く一人残らず皆殺しだ」と、ザビエルはイルミナティ本部に申告しているんです。450年あまり、イルミナティの対日アジェンダはずっと継続してます。


家康が鎖国をして次にペリーがやってきたでしょ。ペリーがやってきたら、日本の内部から崩れて、孝明天皇が殺されて日本は既に仮死状態ですよ。神経麻痺してます。ゾンビ人間みたいなものですね。その後に出来た日本の天皇を中心とする支配階級はイルミナティの檻の中に入っている実験動物のネズミのようなものです。孝明天皇弑逆事件以降、主体的な意志を持つことは許されていないんです。

しかし、彼らが日本を完全に抹殺するには日本の独自の軍隊を完全に破壊しないとだめです。独自の武力を破壊して日本全土をイルミナティの軍隊が占領しないと、話は先に進まないです。それはなかなか難しいです。米国は太平洋の遥か向こうにいるでしょ、英国に至っては太平洋どころか延々と日本にやって来て英国が日本を占領する大軍隊を日本に派遣するなんてことは夢物語にもならないです。したがって英国は別のエージェントを使って日本を占領させないとだめでしょう。英国を本部とするイルミナティは、あれこれ謀略の限りを尽くしているわけですよ。

ペリーが来て日本はイルミナティの資本主義のルールの中に取り込まれた。それだけでは話は全然進まないですから、日本全土を占領して日本の陸軍も海軍も一兵も残さず一掃する、消してしまう。話は簡単だけど実行するのは難しいですよ。その為には日本を扇動して、西洋式の帝国主義になる、成り上がるという気持ちを起こさせ、その為に強大な軍隊が必要、陸軍も海軍も強くしなければということにしないといけない。そんな事をすると一般の日本人は汲々として生きていかれないような状況になります。当然ながら一般は日本人はそんな事は嫌だと言うでしょう。そんな事はヤダよと言わせないようにしないといけませんよ。そもそも議会というのが邪魔だとなります。

陸軍でも海軍でも良識的な優れた軍人はね、負けるに決まっている戦争はやらないです。そんな戦争はやるな、自分は反対だというでしょう。そういう反対する良識的な軍人は全部抹殺しないといけません。そしてイルミナティの命令どおり、最終的に日本は満州を占領して、中国全土を占領して、東南アジアも占領して、英国と戦争して、アメリカとも全面戦争して、ソ連とも全面戦争してと、そういうふうにするアジェンダというか、そういう軌跡というか、そういう方向に日本を突き進めないとだめですよ。

普通の日本人、日本の指導者でも政治家でも官僚でも陸軍の軍人でも海軍の軍人でも、多少でもまともな良識持っていれば、そんな事は自分は反対だって言うでしょうよ。そんな事やったら日本が全滅するのは子供だってわかる道理ですから、反対だって言いますよ。だがそんな事でイルミナティは諦めない。そこを何とかして謀略の限りを尽くし、良識的な官僚、政治家、知識人、陸軍軍人、海軍軍人を、みな追放して、イルミナティの挑発、プロパガンダ、謀略にほいほい乗ってくれるアホを日本のトップにして、全世界を敵にして百戦百敗の戦争に突っ込むようにもっていかないといけない。

そんな事は普通の国家体制では出来ませんよ。ほとんど全国民が嫌がることをやらせるには仕掛けが必要です。その仕掛けが絶対主義的天皇制度だった。天皇とは天照大御神から直系した現人神であり、日本の精神をすべて支配し、権力をすべて支配し、天皇の為に死ぬ事が最高の名誉であって、天皇に一言でも批判したり何か言うだけで特高警察がやって来て撃ち殺されても当然だという具合に日本の空気を持っていかないといけません。そういう仕掛けが二・二六の後、日本に完成したんですよ。

そういうふうに二・二六を見ないといけません。二・二六までは陸軍の将官の圧倒的多数は中国との戦争には反対です。当たり前です。最終的に日本はずるずる中国大陸に引きずり込まれて、昭和20年敗戦の時には、日本の陸軍は約100万人の軍を中国全土に占領軍として派遣した。100万の軍隊というのは口で言うのは簡単だけど途轍もない事ですよ。しかも、100万の陸軍の兵隊を中国戦線で維持しながら、さらに英国(英国がアジアに向ける国力は少しだが)と、モロに国力の半分を日本に向けるアメリカと、そういう戦争に向かって突入していく。気が狂ってなければこんな事はしません。普通の日本人であればこんな事はしません。しかしそれに反対すると天皇が出てくる訳です。天皇の命令に反すると直ちに死を意味する。殺されて何も言えないって具合になる。そういう仕掛けが完成したのが二・二六の後です。

二・二六、そして日支事変があって、その後どんどん戦争が拡大していくでしょ。それで予定通り日本は敗戦してイルミナティが日本全土を占領したんです。今に至るまで占領体制下にあります。占領してしまえば、日本は完全に籠の中の鳥、檻の中のネズミとして彼らがどうするのも自由自在。そうなってるでしょ。

根本的な当事者は裕仁だ

日本人には今に至るまでその歴史が一向に釈然としない。釈然としないから二・二六について非常に多くの人がいろんなことをあれこれ言うけどね、しかし一向に問題の真相、本丸に迫らないんですよ。鳥居民という人が『近衛文麿、黙して死す』という本を一昨年出しています。近衛文麿と木戸幸一が元宮中の中枢に近い二人の人物でしょ。近衛文麿は陸軍の一部(統制派)による中国に対する全面戦争には全く反対したんです。一方、木戸幸一は統制派の陸軍とともに陸軍による中国全土占領政策に舵を切るんです。にもかかわらず、大東亜戦争、東京裁判のあと、日本では近衛が悪玉で木戸が善玉になっている。非常におかしい。全くおかしな世論操作が行われているんじゃないかと、この人(鳥居民氏)は言った。


二・二六についても決起青年将校の趣旨が若干でも日本の国家に取り入れられれば、その後、日支事変、中国に対する戦争も開始しないし、その後の全面的な戦争とは全然別の路線を日本はとったはずだけど、その時点で昭和天皇に対して方針・政策を提案する決定的な立場にあった木戸幸一は、二・二六に対して即時徹底的に鎮圧すべきという方針を提起して、昭和天皇はすぐにそれに賛成して、そういうふうに進んでしまったっていうわけで。

近衞は全く別の方針だったけれど、近衞は全く排除されたという風なことを言ってます。だから木戸は二・二六の後の方針についても、それから日本が米国との戦争を回避するかという議論でも、近衞は全く反対したんですね。近衞は、日本は中国から陸軍を全面的に撤兵して、米国と交渉し直して、米国と戦争しないような方向に持っていくべきだと言ったけれども、木戸は陸軍中枢部の線に沿って、中国からの撤兵反対、アメリカとの戦争辞さず、そして実際にアメリカとの戦争というふうに持っていった主犯であるとこの人は言っている。

しかし日本人は、今更そういうことを言われても全然ピンと来ない。というか、今更そんなことを言ってもしょうがないんじゃないかということで終わりになっちゃうわけです。

木戸幸一じゃなくて根本的な当事者は昭和天皇なんです。鳥居って人はそのことには触れることはできない、そのことに触れるとそれはたちまち現代日本の体制を支配している絶対的なタブーと衝突して、自分の方がぺっちゃんこになるかもしれない、だからそういうことはしないというわけです。従って今まで昭和天皇を弾劾する、昭和天皇の政策を告発する、それを否定する、昭和天皇が反日本的な方針を強行したということについては一言も言えない、そういう呪縛が日本人を縛り続けているんですね。

どの識者にもイルミナティ(英・米・露という国家の枠を超えた存在、
自由主義・共産主義という思想の枠を超えた存在)が見えていない

バーガミニは、昭和初年以降の、満州事変以降の日本の戦争の主犯は、その主たる決定者は昭和天皇だという説を立てて、論証していく。だから昭和天皇の陰謀ってわけだ。日本ではいかなる実力者もいかなる人間も政治家も軍人も官僚も、昭和天皇の意思に異議を唱えることはできない。満州事変以降、日本の戦争期間中に総理大臣がたくさん替わっているでしょう。一年か二年ぐらい、ひょっとすると一年未満で辞めたりして、非常にたくさんの総理大臣が替わってます。そういう人たちが共同謀議をして一貫した日本の戦争拡大を遂行するなんてありえない。その方向の主犯、謀議の中心は昭和天皇なんです。昭和天皇は側近を通じてその政策を実行したと一応バーガミニは書いている。その(表面の)現象は書いてある。昭和天皇の背後に存在する勢力についてはバーガミニには分からないんですよ。だから本当にちゃんと調べて自分は解明した、昭和天皇の時代の日本の歴史の真相を解明したと思ったところが、それにアメリカのためにもすごく大きな仕事をした、みんな褒めてくれるよと思ったところが、たちまち背後から襲われて、なんだか訳のわからないうちに潰されちゃうんですよ。彼には見えないイルミナティのアジェンダの中に日本が設定され、日本が取り込まれていて、その結果いろんな現象が出て来るってことがバーガミニには分からない。

私は『ユダヤの日本占領計画』という本の中で、日支闘争計画について割と詳しく説明してます。渡部悌治先生の『ユダヤは日本に何をしたか』という本の中にも日支闘争計画については説明してあります。日支闘争計画というのは1918年の秋、モスクワで全ユダヤ会議の代表とボルシェビキ政権の代表と、イルミナティの代表が集まって日支闘争計画という長期計画を立てた。それは日本と中国を戦わせる。日本と中国の全面戦争に持っていく。その過程で共産主義が中国の中で主導権を取るように持っていく。そしてその次に日本に対してアメリカとの戦争、英国との戦争、最後に共産ソ連との戦争、に持っていく、そして最終的に中国も日本も同時に我々が支配する、そういう計画を立てたというんですね。それがロシア語の新聞に載っていたものを日本の諜報機関が手に入れて、東京に報告したけど、その意味が全然わからないままになっていると渡部先生は言ってます。渡部悌治先生が仰るには、その問題の情報が載っているロシア語の新聞は、1918年の秋に行われたのですからそのあとなんでしょうね、国会図書館にありますよとおっしゃっていました。あいにく私はそれを調べてないんですけど、国会図書館にまだ保存されているなら、ロシア語のわかる人が見れば出てくるでしょう。


それで日支闘争計画というのは、ボルシェビキ共産政権、コミンテルン、共産主義の勢力だけじゃなくて、全世界のユダヤ人組織の代表が入ってる。それからイルミナティの代表が入ってると説明されています。日支闘争計画というのは、ソ連共産主義政権の単独のプログラムではない。全世界のユダヤ人組織、イルミナティの世界組織の計画でもある。真相に迫ろうとする人は、そのところで止まってしまっているんです。

二・二六事件研究家の山口富永(ひさなが)氏。國民新聞という右翼の月刊新聞をずっと購読してて、この山口という人の文章を読んだら、面白いことを言ってると思ったんですけど、最近バーガーミ二の本を読んだら、改めてこの人を注目しなくちゃと思ったんです。

平成2年に出版された『二・二六事件の偽史を撃つ』を最近山口さんから送って頂いた。山口さんは1924年生まれですから、戦争末期軍隊に徴集されたんですね。少年時代、中学生の頃からでしょうか、真崎甚三郎大将と交流があって手紙のやりとりをして、真崎大将と皇道派の志と方針に全面的に共鳴した人なんです。たいていの人は少年時代の話はしばらく経つと忘れちゃって、捨てちゃってサヨナラするのが普通ですけど、この人は84歳に至るまで真剣にそのことを追求しています。


これは最近、連載されたものです。皇道派の真崎大将は、日本の国力相応の軍備強化(口先だけの外交は不可)、戦争の拡大は絶対に反対という人ですからね。真崎大将はイルミナティからすれば、大変邪魔なんです。無自覚的にイルミナティのエージェントにならされた統制派の人たちは、裕仁の直系の軍人でもあるんですよ。統制派の最たる者が有名な永田鉄山少将で、相沢中佐に陸軍省の中で惨殺された(1935年)。永田鉄山がイルミナティの道具として使われた最も代表的な軍人でしょう。

イルミナティにとって真崎は邪魔だから排除しようとした。二・二六事件を奇貨(きっかけ)にして、二・二六事件の共犯者だと称して(真崎を)逮捕して調べたんですけど、陸軍の司法部、陸軍の軍事裁判は無罪の判決を下したんです。もともと何の関係もないですから。皇道派の真崎大将は、イルミナティが日本の完全抹殺に向かって決定的に歩を進めようとするときに、日本の陸軍の良識的な部分として、しかも陸軍の軍人から絶大な信頼を得ていた。そういう人物の排除が、至上命令だったことがよくわかります。

したがって、私は、昭和天皇が二・二六事件の主犯である、日本を滅亡に追い込んだ国賊である、日本の歴史上もっとも顕著なもっとも極悪の国賊である、という風に昭和天皇・裕仁にレッテルを貼り付ける必要があると思います。そういう風に価値観を変えないとダメです。

明治天皇と昭和天皇は全然異質なんです。明治天皇は15歳までは、大室寅之祐、普通の日本人ですからね。傀儡とされたけども、薩長の藩閥の傀儡なんです。それを通じてイルミナティの傀儡に位置づけられたけど、少年時代は日本人として教育されているから、そう簡単には動かされないんですよ。西南戦争で、大久保・木戸一派が、とにかく「西郷を殺せ」っていうけど、明治天皇は本心では絶対反対なんですよ。大久保と木戸は、明治天皇に、西南戦争の最前線に立って、大本営を広島辺りに持っていって、天皇の威光でとせっついたけれども、明治天皇はそれを拒否して、宮中に篭ったまま外に出てこない。これは歴史に残ってます。明治天皇は反対なんですよ。

西南戦争で西郷さんが死んだ後、木戸が途中で病死、大久保は明治11年に殺され、岩倉は明治16年に病死した。その後、明治天皇は西郷隆盛の名誉を回復しろと命令し、それは実行されたんです。「西郷隆盛の遺族はどうしてる?」と明治天皇が尋ねて、調べたら、妻子は山中に隠れてひっそりしていたことがわかって、どうこうとなるわけです。一刻も早く名誉を回復させよと、明治天皇が言うわけです。次に日清戦争を起こすでしょ。明治天皇は日清戦争は反対なんです。しかし、薩長藩閥政権はイルミナティの傀儡だから、明治天皇がなんと言おうとも問題にしないんですよ。明治天皇の意思に反して、日本は日清戦争に突っ込んだわけですよ。

私が『長州の天皇征伐』という本を書いて出すときに、出版社が「明治天皇国賊論」という案をいってきたんですが、明治天皇を国賊と言い切るわけにもいかないんですよ。しかし、昭和天皇は、明々白々、歴然たる日本史上最悪の売国奴です。日本全土を今に至るまでイルミナティの占領下において、日本はその命令通り日銀の利子をゼロに近づけて十何年やっているんですからね。そのお金をユダヤ・アメリカ・イルミナティがただ持っていって盗っていることに、日本の国家は何も言えない。日本の占領はますます強化されてますよ。そういう状態にしろと言われ、その通りに実行したのが裕仁なんですよ。裕仁は日本史上極悪の売国奴だと私は考えてます。裕仁については「国賊・昭和天皇」と言うべき時だと思います。そういう風に日本人の価値観を変えないとだめです。明治天皇は違いますよ。昭和天皇はイルミナティの傀儡として百点満点というわけです。


二・二六でイルミナティの傀儡としての昭和天皇を独裁者としておくことが必要だった。そうしないと、百戦百敗、完全に惨敗して、日本が滅亡することが決まっているような、中国に対する戦争、中国に対する全面戦争はやがて、松岡洋右が当時言ったように、必ず米国との戦争に日本は引っ張り込まれ、最終的にソ連との戦争となる。日本は全世界を敵にして、滅亡するしかない。松岡洋右はそう言ってます。松岡は外務大臣で、昭和天皇が大嫌いなんです。裕仁は松岡についてあれこれ悪態をついてます。

日本を全世界に対する無謀な、惨敗して滅亡するしかない状況に持っていくために、裕仁は使われ、その通りに裕仁は演技したんですよ。これを売国奴と言わずして何と言うんですか? 二・二六事件は、それを象徴的に表しているんです。陸軍の将官が全員、決起将校の心情、政策、志をちゃんと評価すべきだと言ったんです。しかし、昭和天皇はそんなものは問題外だと排除した。バーガミニはそれを「政治戦に裕仁は勝利した」って言ってるんですけど、その通りです。

日本の蘇生には真崎大将の名誉回復が絶対必要条件

二・二六事件についてそう考えると、真崎甚三郎大将の遺志が、今、非常に重要になっている。日本人が、真崎大将の名誉回復をすることが、滅亡寸前の日本の再生と蘇生のために絶対必要条件だと、私は、山口さんの本を読んで気が付いたんです。

この山口さんが、昭和19年に陸軍に徴集されて入隊する時に、真崎大将を訪問した。山口さんが、真崎大将に「今、日本に天皇陛下はおられるのですか?」って聞いたそうです。そしたら真崎大将は「二・二六の将校もそれを嘆いて死んでいった」と言われたと。昭和19年のことです。山口さんは皇道派の志に同調してたから、「今の天皇というのはなんだ?」「あれは本物の天皇なのか?」「今は日本に天皇はおられるんですか?」という疑問が出てきたわけですよ。本当にその通りですよ。実際、銃殺刑に処せられる青年将校十何名の中には、天皇を公で批判した人もいるし、批判しない人もいるけど、と言ってますね。山口さんは非常に重要なことにちゃんと迫ってます。しかし、「裕仁は国賊だ、売国奴だ」とはっきり言い切るのは、日本人にとっては難しいです。左翼はイルミナティの虎の威を借りて「昭和天皇は戦犯だ」とわめくんです。彼らはイルミナティの手先ですからね。イルミナティの虎の威を借りてあれこれ言っているだけのくだらない人達です。左翼そのものがイルミナティのエージェントとして日本をイルミナティに売る売国奴ですから、こういう人たちは問題外。日本人の立場として日本民族の立場から見て昭和天皇とは一体なんだ? そのことに今までで一番接近しているのは、二・二六事件に全然関係ないのに逮捕された皇道派の首領である真崎大将ですね。

真崎大将が「東條ごときはものの数でもないが、自分に対する圧迫が宮中からずっと来た、そのことが一番難しい、苦しいところだった」という趣旨のことを言ったと書いてあります。宮中ってなんですか? 木戸内大臣は天皇の番頭であって、権力そのものじゃないです。宮中ってのは昭和天皇でしょ。しかし真崎大将も昭和天皇に対してストレートにそれを告発する、それを批評することが心理的にできないんですよ。

それを超えることができなければ日本の民族はもう終わりですよ、と私は思います。つまり、イルミナティは孝明天皇を弑逆させて、その辺りに傀儡を作って、明治天皇はなかなかイルミナティからすれば素直じゃないでしょ。大正天皇は明治11年生まれですから、それを教育する宮中はワンワールドの手先。完全に支配してるんだからね。昭和天皇に至っては明治34年生まれですから、ワンワールドによる宮中の支配は完璧になってます。裕仁はイルミナティの純粋培養の作品です。イルミナティの傀儡として終始し、摂政の時代も、昭和前期も、占領中も、一応講和回復後も、イルミナティの言う通り期待通り百点満点と評価していい存在だった。

そうして日本は敗戦、講和回復しても昭和天皇の言うとおりに、ずっと占領下にあります。その件について多少真相に迫った学者などが2~3名存在します。その学者の研究によれば、朝鮮戦争が起きて米国政府が日本との講和条約交渉を始める。その時に吉田茂首相は常識として当たり前だけど、講和が締結すれば戦争は終結だから米軍は全部撤退する、それが当然と思って進めていた。ところがなんと昭和天皇が吉田首相の頭越しに、吉田首相の知らないところで裏取引、秘密交渉をやるわけですよ。秘密交渉の相手はダレスです。ダレスは共和党系だけど、民主党政権でも有力な外交顧問になってた。対日講和条約はダレスが主任となった。ダレスと言うのは1920年代からロックフェラー財団の最有力者で、イルミナティのコンコンチキですよ。そういう人物と裏取引、直取引して昭和天皇は吉田茂の方針を否定して、講和条約締結後も無期限に日本は米軍に軍事基地を提供する、というよりも米軍に無期限に日本に駐留してもらいたい、と言うわけです。沖縄に至っては50年くらい、事実上半永久的に米国の領土として日本は認める考えがあるということをダレスに対して昭和天皇は言うわけですよ。

これは何なんですか?

これを売国奴と言わずして何というんですか?

日本人が正式に選んだ吉田茂首相とその内閣、吉田茂は常識として戦争終結したら米軍は日本全土から撤退する、そういう当然の前提のもとに講和交渉を始めたんです。当たり前のことじゃないですか。それを昭和天皇が横やりを出して、ダメだというわけです。率直に言えば、日本は米国に無期限に占領してもらいたいと言うわけです。

これは何なんですか? その結果、今のようになってんですよ。これは何なんですか?

しかしこれは昭和天皇の日本に対する無数の裏切りの一つに過ぎません。しかしながら日本人はそのことを公然と報道し、論評し、批評する自由を全く与えられてないんです。というよりは、日本人がその言論の自由を行使する気力を奪われているんです。これは日本が刻々急速に滅亡していく、そういう絶対的な心理的条件以外の何ものでもないと私は思います。しかしそうなった歴史的背景は何なのか? そういうことを日本人には真剣に考える必要があります。

天皇=イルミナティの傀儡、として歴史の再検証を

別の話になるんですけど、日本でユダヤ・フリーメーソン批判を最初にやってずっと最後まで主要な指導的な役割を果たした、四王天延孝陸軍中将〔1879~1962年〕は、士官学校、陸軍大学を出た日本の陸軍のエリートコースの一人です。そして第一次世界大戦中フランスに観戦武官として派遣されていたんですね。そうしているうちにフランス人にいろいろ友人ができて、その友人から「この戦争はお前、ユダヤが始めた、主体はユダヤだということを知っているか?」って言われるんです。それを聞き逃す人もいるかもしれないけど、四王天さんは真剣に受け止めて研究をはじめるわけです。一体これは何だ? 今は違うでしょうけど、その頃のフランスには非常にたくさんのユダヤ・フリーメーソンに批判的な文書・言論があったんです。そういうものをたくさん集めて、真剣に研究調査していくわけです。

第一次大戦中の観戦武官として派遣されるのは、紛れもない軍のエリートコースですよ。第一次大戦以降日本はシベリア出兵するんですけど、四王天さんは満州の北部に陸軍の諜報機関の事務所を作って、反ボルシェビキ、反共産主義的ロシア人と接触していろいろ情報を得たり工作したりするんです。そういうことを通じてボルシェビキ共産革命が国際ユダヤによって計画され実行されたという話を聞いて、たくさん情報を集める。そうして四王天さんは最も早い時期から日本でユダヤ・フリーメーソンに対する批判、思想戦、それに対する対策、そういうものをずっとやってたわけです。

国際連盟ができると、日本はその頃の世界の主要5カ国の一つになるんですね。その主要5カ国が国際連盟の軍事委員会を作る。日本の陸軍はその国際連盟の軍事委員会の日本軍の代表として四王天さんを派遣するんですよ、ジュネーブに行きます。その頃、陸軍少将になってるんじゃないでしょうか。そういうコースは、軍のエリート・コースですよ。


ところが、ジュネーブから帰任すると、すごく露骨に左遷されるんです。名古屋師団付といっても特別な仕事は何もない、完全な閑職、クビ寸前の地位に置かれる。それでも、四王天さんは日本全国を奔走して、一般の日本人に対して、ユダヤ・フリーメーソンの危険を警告する講演会をたくさんやっているんです。そしたら、上原勇作元帥がじきじきにやってきて、「お前はユダヤ問題なんていうくだらないことはもうやめろ」と言うんだって。「いや、それはできません」と言ったら、たちまちのうちに四王天さんは、陸軍退役ですよ。陸軍からクビです。だから、上原勇作って言う人は何かって思うでしょう。

四王天さんは、昭和16年、大東亜戦争が始まる年に有名な『猶太(ユダヤ)思想及運動』という本を出したんです。その本の序文のなかで、四王天さんは、以前はユダヤ問題を自分がやっていくと、上のほうからやめさせる圧力が非常に強くかかってきて、最近はその頃に比べればずいぶん違ってきた、そんなことを書いていますよ。一番上ってどこかって言ったら、天皇と宮中以外にないですよ。日本のシステムでは。

落合莞爾(かんじ)さんの話では、上原勇作はフランスに留学中にフリーメーソンに加入している。上原元帥は明確なワン・ワールド、フリーメーソンだと言っています。従って、日本では、陸軍・海軍・財界・その他、明治以降の中枢部に、ワン・ワールド、フリーメーソンの指揮系統がずっと機能している、機能していたと見ることができます。

渡部悌治先生は『ユダヤは日本に何をしたか』のなかで、二・二六も背後では、ユダヤ国際資本が操っていたと言って、あまり詳述してないですけど、そう言っています。従って私たちは、地球を支配している、ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティといった勢力をちゃんと確認して、明確に意識して、デーヴィッド・アイクは『グローバル・コンスピラシー』という本を出してますが、そういう枠組みのなかで、もう一度日本の歴史を見直すことが必要です。グローバル・コンスピラシーという大きな枠組みのなかで、孝明天皇弑逆と、それ以降イルミナティの傀儡として作られた歴代天皇、こういうものを批判的、客観的、詳細に検証していく精神的・心理的な力が必要です。


今の日本では、天皇をあれこれ批判したりすること自体が絶対禁止されている。別に法律で禁止されているわけではないけど、自分の内心で押さえつけている。あるいはイルミナティの有力な御用機関として、右翼と称する反日本的な売国奴集団が暴力で脅迫する、そういうことを通じて、発言・言論を抑えてるんです。しかし私は、その精神的呪縛を断ち切らないと日本は完全に滅亡していくだけだと思います。

「今、日本に天皇はおられるのでしょうか?」

私は山口富永(ひさなが)さんを國民新聞で読んでたんですけど、そういうことに最近気がついて、ちゃんとやることにしようと思って連絡しました。この本は平成2年に国民出版社から出てもう絶版で、国民出版社には在庫はなくて、山口さんの手元に若干在庫はあるそうですから、私がほぼ全部50冊くらい買取ることにしたんです。だから、是非皆さん読んで頂きたい。山口さんは、昭和19年、軍隊に入るという時に、「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」っていう大胆な質問を真崎大将にしたというんですから、この人の心はちゃんとしていますよ。だから六十数年経った現在でも、しっかりした文章を書いておられるんでしょう。しかしこの人も、世界のイルミナティ・フリーメーソンの陰謀、グローバル・コンスピラシーの存在にはまだ気がついておられないんです。

でも、それは私達がちゃんとやっていく事であって、この人が成し遂げられた仕事は評価していく必要がある。それから、真崎大将の名誉を復権することが絶対必要条件だと私は思います。真崎大将も、昭和天皇がおかしいんじゃないかと内心確信されたじゃな
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2022/06/28 (Tue) 15:57:04


私は山口富永(ひさなが)さんを國民新聞で読んでたんですけど、そういうことに最近気がついて、ちゃんとやることにしようと思って連絡しました。この本は平成2年に国民出版社から出てもう絶版で、国民出版社には在庫はなくて、山口さんの手元に若干在庫はあるそうですから、私がほぼ全部50冊くらい買取ることにしたんです。だから、是非皆さん読んで頂きたい。山口さんは、昭和19年、軍隊に入るという時に、「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」っていう大胆な質問を真崎大将にしたというんですから、この人の心はちゃんとしていますよ。だから六十数年経った現在でも、しっかりした文章を書いておられるんでしょう。しかしこの人も、世界のイルミナティ・フリーメーソンの陰謀、グローバル・コンスピラシーの存在にはまだ気がついておられないんです。

でも、それは私達がちゃんとやっていく事であって、この人が成し遂げられた仕事は評価していく必要がある。それから、真崎大将の名誉を復権することが絶対必要条件だと私は思います。真崎大将も、昭和天皇がおかしいんじゃないかと内心確信されたじゃないかというふうに推測するんです。しかし、それを言葉に出して言うことは出来ないんですよ。だから、東條ごときは、せいぜい少将どまりの馬車引きくらいが適当な男で、問題視しない。しかし「宮中」が問題なんです。「宮中」とは裕仁のこと。それを何とかしないと、日本はどうにもならないんじゃないか?ということを真崎大将ははっきり認識していたと私は思います。

山口さんが昭和19年に軍隊に入る時に「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」と聞くって事は、天皇はいないんじゃないかという気持ちがないと、そういう質問は出てこない。いや、昭和天皇と称する者はいったい何だ?となるでしょう。内心、心の奥にはそういう失望があるわけですよ。そういう必然的な思考の過程、行動の過程として、私がそろそろ問題を前面に押し出さなければならないと思っています。

二・二六事件については、完全に真相が隠蔽されているのみならず、Disinformation(偽情報)が日本人に徹底的に刷り込まれてます。それを転覆するには我々の価値観を変える必要があります。真崎大将の名誉回復は、とっかかりとして重要であり、意味があると思います。

鳥居民という人の本を、まともに読んだことがないけど、この本はざっと読んだ。そしたら木戸幸一を一所懸命叩いてるわけですよ。今更木戸幸一をぶっ叩いてどうなるんですか? 東京裁判で終身刑、その後釈放されて昭和天皇に即優遇されて頭をなでられた木戸幸一を叩いても何も生まれない。この人はすごく臆病な人ですよ〔為清註:臆病だからこそ慎重・入念に策謀するわけで、木戸という人物は決して侮れないと思う〕。臆病というのが今の日本民族にとって一番危険な心理なんですよ。臆病を克服しないと日本はもう生き延びる事も蘇生することも出来ないです。臆病、恐怖を超えるってことをデーヴィッド・アイクは一所懸命言ってます。李洪志の法輪功でも言ってますね。恐怖を超えるには大変高い心理的、精神的次元が要求されます。恐怖を超えるということの意味は中々一筋縄ではないですね。その話はまた別にしましょう。

私は二・二六事件について、初めて本格的に、日本人が真相に迫る動きを始めないといけないと考えてます。私の話を一応終わりにして、皆さんの質問を紙に書いて頂いても口頭でもいいですけど、ちょっと休憩して質問を受けます。何枚か重要な文章のコピーを配りましたので、よくお読みください。

近衛上奏文を無視した裕仁

それでは私の話を続けますね。

日本の国家の中枢部は天皇ですね。中枢に一番近いのは近衛公爵と木戸幸一内大臣。そして木戸と近衛の対立については少し言われてることがありますけど、この鳥居さんの本で比較的詳しく説明されている。しかし鳥居さんの著述家としての立場は大変臆病で、私はあまり感心しないです。

山口富永さんが国民新聞の一面欄に連載物語でいろいろ書いている。昭和19年(20年の誤り)の初め、有名な「近衛上奏文」というのがあるでしょう。近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出したって言うんです。その上奏文の筆者は岩淵辰雄という政治評論家だと山口さんは言っています。岩淵辰雄って名前、聞いたことありませんか? この人は戦前、戦時中、戦争後しばらくの間、非常に活躍した重要な政治評論家です。岩淵さんは、真崎大将、皇道派に近い立場の評論家なんです。

それで、近衛文麿が昭和20年の初めに昭和天皇に提出した上奏文の作者は岩淵辰雄であると言ってます。岩淵辰雄は近衛さんを中心にして終戦工作をやったと言うんです。終戦工作とは、単なる評論活動ではなく、岩淵さんと近衛公爵を中心とするグループは、昭和天皇を説得して真崎大将を陸軍大臣にする考えだった。小畑敏四郎というのは皇道派で、退けられていた人です。陸軍中将で予備役になったのではないでしょうか。その小畑敏四郎中将を参謀総長、そして近衛さんを首相って訳です。

そういう体制で日本の国策を完全に一変させる方針を立てたと山口さんは説明してます。もしもそういう構想が実現した場合には、真崎大将は皇道派の総帥として中国との全面戦争にも米英の戦争にも絶対反対の立場ですから、なすべきじゃない戦争を実行した陸海軍(特に陸軍)の主要な指導者ら戦争責任者を何百人も一斉に逮捕して裁判にかけて、日本の国策・外交方針を完全に一変する、そして中国から撤退して米英と講和交渉する、という方針を立てていたと書いてます。

その一環として岩淵辰雄が書いた近衛さんの上奏文を天皇に提出したけれど、天皇はぜんぜん相手にしない。そして東條内閣、憲兵隊の操作を通じて、そうした謀略をした連中を一斉に逮捕する。その逮捕した中に吉田茂も入ってたんじゃないですか。で、この構想は実現しなかったと言ってます。これは東條がどうこうという話ではないです。首謀者は昭和天皇ですから。昭和天皇に上奏文を出してもお話にならないです。だけど、何もしないでいる訳にはいかないから、そういう計画を立てて動いたということでしょう。しかし、その計画にとって決定的な障害物は昭和天皇自身ですから、それは無意味です。

近衛上奏文はその時点で東條政権の憲兵隊を通じて弾圧して、近衛上奏文そのものが見えないように、無いことにされてしまったんじゃないですか。だから日本人は未だに近衛公爵の工作とか背景とか、その構想とか上奏文そのものとか、普通の日本人は知りません。近衛上奏文という言葉はチラッと目についた人もいるかもしれませんけど、普通の日本人は今何も知りません。

しかしそういう事が万が一実現され、真崎陸軍大臣という政権が実現されたとしたら・・・。小畑敏四郎という人は色々因縁があるんですよ。バーガミニは、1920年(大正9年)、ドイツのバーデンバーデンという温泉地でヨーロッパ在勤の陸軍の少佐クラスの将校が集まって国家改造計画を立てたっていう訳です。有名な話です。その中心人物は永田鉄山(当時は少佐)。小畑敏四郎は、そのバーデンバーデンの三羽烏(永田と小畑ともう一人)の一人です。小畑敏四郎のほうは、昭和になるにつれて、中国に対する戦争、中国全土を占領してさらに南進するという基本的な国策に反対の立場だった。だから永田鉄山、東條とは反対の立場だった。したがって、昭和10年前後、小畑敏四郎は中将で退けられて失脚、というか排除された訳です。

それで小畑敏四郎を参謀総長っていう話が出てくる。そういう体制だったら、真崎大将が、統制派、日本を中国、全世界との戦争に引きずり込んだ主要な責任者を全員逮捕して裁判にかけ、一掃するだろうと書いてあります。そうして日本が国家体制・基本政策・国策・外交政策・戦争政策を完全に一変する、そして中国から全面撤兵して蒋介石と講和することを目標に立てた訳です。

そうなると、戦争を実行してきた東條たち統制派の軍人にとっては自滅ですから、絶対に抵抗して排除する、芽を摘むという行動をとるでしょう。東條の憲兵隊は当時はちゃんと生きて働いているから忽ち摘発されて潰された訳です。

「軍部に操られた平和主義者の天皇」というイメージ作り

しかし、昭和天皇とその側近はそれとは全く別な形で米英との平和交渉に入っていく。そのやり方については鬼塚さんが『日本の一番醜い日』という本の中で詳しく書いてます。つまり昭和20年8月15日、昭和天皇はラジオ放送で「敗戦」といった放送をする。その時にまったく偽装の対天皇、対日本政府のクーデタを演出して、危ないところで昭和天皇の放送が実現したという話を作っているけど、それは裕仁と、三笠宮が主たる助手になって、でっち上げた話。そのクーデタによって、昭和天皇は、昭和初年来の戦争また戦争、全世界を敵にして日本が全滅する戦争を推進した軍国主義者の姿から、平和と民主主義の人、連合国の忠実なエージェントへと、一夜の内に変身する。そうした目的の偽のクーデタを実現し、連合国とは裏取引をして、昭和天皇は戦争犯罪から免責されて、占領軍の協力者として温存・保護される、という具合にひょいと変わる事を目的とした偽のクーデタを実行する訳です。それが裕仁のやり方です。


裕仁は、皇道派を復権させると自分の身に火の粉が降りかかる、自分の身すらやばい可能性が大であるし、名誉も何もおかしくなるから、東條を使って完全に消した。近衛さんを中心とする皇道派を復権させて日本が全面的に戦争を停止し、中国から自発的に撤兵して蒋介石政権と講和して、という方向に転換するのを阻止した訳です。

もしも近衛・真崎のラインで日本が方向転換すれば、敗戦後の日本は今のような状況にはなってない事は確実です。すべてを失い、民族の魂を失い、どんどん堕落して滅亡に転落していく方向になってないですよ。しかし裕仁はそこでも明確に日本民族を裏切ったんですよ。日本民族をイルミナティに売り渡した。売り渡した事によって裕仁と一族の身の安全を担保し、保障してもらった訳です。こうして裕仁と一族は日本を裏切って裏切り続けている。その裏切りが日本民族によって完全に暴露され裁かれない限り、決着がつかない限り、日本民族はイルミナティの、天皇という傀儡を使った精神的呪縛に掛けられたまま、まあ、死んでいくしかないですね。今でも日本は精神的にはゾンビ人間です。日本民族は自分の精神を失ってますからね。近衛さんの動きが実現されればそうはなってないでしょう。近衛さんが最後のところで日本の貴族の根性、やる気、勇気を表明しようとした事は評価できるんじゃないですか。

鳥居民という人の本は、私が申し上げたレベルから見ると低い次元で現象をあれこれ言ってるだけです。その程度の話でも、今の日本人につぎ込まれている戦争と敗戦のプロセスに関するデマ情報と比べれば遥かにマシでしょう。

近衛さんが皇道派寄りだったこと、皇道派に同情・同調的だったことは、歴史資料にも少し出てきますよ。それをさらに突き詰めて研究する、考える、そういう事は全くなされてない。なされてないというか、それを突き詰めるとただちに裕仁が標的になりますから、その遥か手前で止まってしまうんです。それを先へ進めないといけないんですよ、私達は。そのために私達に手がかりとして与えられているのは「真崎大将」なんです。

皇道派の荒木貞夫がワンワールドのエージェント? 話は一層複雑に

田崎末松という人の真崎大将の評伝はかなりマシです。皇道派でも荒木大将っているでしょ。荒木大将は皇道派のNO.1、代表と当時言われていた。ところが荒木大将というのは、大変危なっかしいというか、奇妙というか、いかがわしい存在なんですよ。この人はずっと陸軍大臣をやってて、二・二六後も処罰されることもなく、昭和天皇に追放されることもなく、戦時中大臣をやった事もあるんじゃないでしょうか。


私は荒木大将とは非常に奇妙な人物だけど、何だろうと思ったんです。落合莞爾の「ニューリーダー」の連載を読むと、この人が上原勇作元帥の後継者に指名されたとあるんですよ。これは非常に奇妙です。上原勇作はれっきとしたフリーメイソン、ワンワールドのエージェントですよ、日本の軍の中で。単なる薩摩派閥でもないです。そうして上原元帥は全く目に見えない秘密の特殊工作をやったということですが、その後継者に荒木大将が任命されたというのはとても奇妙に思えるでしょ。彼が皇道派というのは辻褄が合いません。上原勇作の後継者という事は荒木大将もワンワールドの紐がついてる事を意味します。

真崎大将にはそういう事が全くない。山口さんの国民新聞の連載の中で、戦時中に英国のスパイとして逮捕され、ビルから投身自殺したコックスという人がいます。そのコックスを警察が取り調べたときの話が色々あるみたいですけど、そのコックスという英国のスパイが自供して、「われわれは日本の陸軍の主要な指導者、軍人を全て接近・工作して取り込んだ」と言うんです。しかし、「真崎大将だけは、全く取り付く島がない、工作する事が出来なかった」と供述したという。幕末から明治初年、フリーメーソンが薩長の維新政権の主要人物を全部取り込んで何らかの形で紐をつけたけど、西郷隆盛だけは頑としてフリーメーソンの誘いにも工作にも応じなかった。それでフリーメーソンは西郷隆盛の排除を指示したという事が「月刊ユダヤ研究」に載ってます。そのことを想起しましたね。真崎大将という人は、現代日本において本当に重要な人物なんです。

「わからない奴はわからないんだ。ほっとけ」

非常に重要な日本民族の指導者であり、指導者たるべきところを排除された真崎大将について、山口さんが言うには、二・二六事件の前から、敗戦後、現在に至るまで、一貫して真崎大将についての偽情報、誹謗中傷、全くの嘘の情報、デマ情報がまかり通っている。その偽情報を振りまいてる主要人物、ジャーナリストの代表格が、半藤一利とか、ハタ何とか(秦郁彦)とか、年中マスコミに出てくる、昭和史についてくだらない話、偽情報を振りまいてる作家ですよ。体制側で持て囃されてる人達。こういう人達を通じて、真崎大将と皇道派についての偽情報をばら撒いてる主要勢力は、左翼だと言ってます。左翼ということは朝日新聞と岩波書店ですね。こういう連中はなぜ皇道派の悪口を言わなければならないのか? 大変興味のあるところでしょ。なぜ左翼、岩波・朝日は、皇道派の悪口を言うの? 全くの嘘八百を並べ立てて、皇道派・真崎大将を貶めてどうしようと? どういう理由でそういう事をするんですか? それは大きな事なんですよ。左翼は決して信用してはなりません。もっともらしい事を言っても、左翼はイルミナティの紐付きですからね。心を許してはいけませんよ、左翼には。リベラル派もね。

山口さんは、少年時代から真崎大将が亡くなるまで親しく交流して、真崎大将の死後も孤軍奮闘して皇道派の旗印を守ってる訳です。こういう人がいるとは本当に改めて見直しました。それで戦後ずっと皇道派が正しかったと伝えようと、活動し続けてる訳です。そしたら、真崎大将に「おまえ、もうわからない奴はわからないんだ。ほっとけ」「もういいよ」「いい加減にもういいんじゃないか」って言われた。「その内、時代が皇道派(我々)の正しさを発見するだろうから」と何度も言われたと書いてあります。しかし、体制側・権力側が垂れ流してる情報以外全く存在しないとすれば、日本人は皆それに洗脳され、何となくそんなもんかという気になります。私も(今まで知らずにいて)ずいぶん恥かしい話だと反省してます。本物の情報がなければ、日本人は洗脳されっぱなしですよ。今、日本は土壇場に追い詰められ、精神的に腐敗が進行してますから、それが一番危険で致命的ですよ。それで、私達は再生・蘇生する方法を見つけなければいけませんが、まずは皇道派・真崎大将のことを日本人が真剣に見直して、名誉回復の動きを起こすことです。

真崎大将の名誉回復ということは、裕仁を告発することになります。ここに山口さんが書いてる真崎大将の言葉がある。「東條ごときは物の数でないけど、しかし自分を弾圧する根源が宮中から来た。その事が一番自分にとっては苦しい事であった」と。宮中ってなんですか? 裕仁ですよ。昭和天皇によって真崎大将はキュウキュウに追い詰められ弾圧される。二・二六と関係ないのに、寺内陸軍大臣は真崎大将を逮捕する。陸軍大臣が陸軍の軍事裁判の委員長だから、陸軍大臣が決定する訳です。寺内陸軍大臣は、青年将校と北一輝の裁判をする前に、判事団(軍事裁判の裁判官、軍人)に判決書を渡してる。判決は有罪で死刑です。事前に死刑の判決を出せと陸軍大臣(軍事裁判の長)の名で紙を配っていた。出来るだけ判決は重く執行は早くとの基本方針を陸軍大臣が与えて、二ヶ月の暗黒裁判で死刑判決、直ちに死刑執行。その後、真崎大将を逮捕。そういう命令を受けていたにも関わらず、裁判官も検察官も(検察官と裁判官は一人二役です)、真崎大将を有罪とする何の証拠もない。寺内陸軍大臣は、真崎は銃殺刑だ、死刑だと大声で喚き立てたそうだ。それでも裁判官・検察官は、「いくら何でも全く関係のない真崎大将を死刑判決には出来ない」という訳で無罪釈放にした。寺内陸軍大臣の方針は裕仁の意思でもありますからね。裕仁は全く無実の真崎大将を殺せって言った訳です。そこで裁判長・検察官のホサカ〔為清註:軍法会議で首席検察官をつとめた匂坂(サキサカ)春平?〕という人は、言われた通り17名、青年将校、北一輝、西田税に死刑の判決を下して、その事に死ぬまで鬱々と苦悩してる。敗戦後は自宅に篭ったきりで、比較的早く死んだと言われてます。この検察官が最高責任者でしょう。しかしそれをやらせたのは誰ですか? 裕仁以外の何者でもない。裕仁は何の為にそうしたんですか? イルミナティの命令を実行したんですよ、裕仁は。

そうして二・二六の時に日本の運命が決定されたんです。陸軍の将官の絶対多数は、決起将校の趣旨は酌むべきものがあり、統制派と裕仁が強行するような中国との全面戦争は絶対してはならないという気持ちだった。日本の軍事専門家は自分たちの軍事力の限界をよく知ってますよ。そういう日本の軍事的・経済的力で、中国全土を占領なんて、どんな戦争をするんだ? 自分達の責任上、絶対賛成できないと思った訳です。日本の国民もそうです。今の様に選挙で投票したら、そんな事に賛成する国民はただの一人もいないですよ。政治家にも。にもかかわらず裕仁は、日本に絶対独裁制を敷き、イルミナティの指揮通り、日本を必敗、百戦百敗、必ず壊滅する戦争へと、日本が滅びる方向に引きずり込んでいったのです。これが日本に対する売国奴でなくて、日本民族に対する裏切りでなくて、何なんですか?

二・二六の時に決定的に転換させられたんです。その頃、日本人の絶対多数、日本の権力層の軍人も、そんな事はしてはならない、出来ないという良識・常識があったんです。当時の日本の国家権力の最も強い力は陸軍が握っていたでしょう。陸軍の絶対多数もそういう考えです。良識の代表は真崎大将です。そういう者を排除して、裕仁はいったい何をしたんですか、日本民族に対して。日本民族に対する裏切りと言わずして、何と言えるんでしょうか?

裕仁と称する人物は日本人ではない。天皇を詐称するイルミナティの傀儡です。イルミナティは、日本という国は彼らにとって最も危険な、致命的・驚異的な存在となるであろうから、絶対抹殺しなければならないと、ザビエルが来た時に既に決定してる。彼らイルミナティのアジェンダ通り、450余年、日本は攻撃され侵略戦争を仕掛けられているんですよ。その侵略戦争の傀儡、道具として、裕仁は百点満点を与えられた存在なんです。

そしてその事が、二・二六事件の全経過を通じて完全に暴露された。

真崎大将もついでに死刑にしようとしたが、陸軍内部の良識が幾らなんでも出来ないといって無罪釈放にした。その後も真崎大将は完全に干されて監視されることになった。近衛文麿が皇道派を復活させ、真崎を陸軍大臣にして、日本の国策を完全に一変し、統制派・裕仁がずっと追求してきた政策を否定してやり直す、一変する方針を立てようとしたら、裕仁は拒否・否定した訳です。

最近になって私がバーガミニの本を読み始めたのは、鬼塚さんの『日本の一番醜い日』を読んでる内に、あれはあの通りだろうけど、それで全てという事でもないしと思ったからで、この半年ほどいろいろ考えて、次第に物事が見えてきました。今日はいろいろ話しましたけど、参考文献や私の話などを参考にして、日本人として、今、何をすべきか、それを真剣に考えて頂ければありがたいと思います。(講義終わり)
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php
8:777 :

2022/06/28 (Tue) 15:57:37

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928~1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200~500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889~1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明~昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php
9:777 :

2022/06/28 (Tue) 15:58:21

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
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2・26事件

忍び寄る大詰め


 皇位周辺の我欲旺盛な古参忠臣たちにとって、身の危険を心配するもっともな理由があった。というのは、裕仁が実際に彼らが暗殺の標的であるかのように言い、暗殺を準備中の者たちに行動を起こす動機を与えていたからだった。暗黙のうちに繰り広げられてきた北進派との三年間にわたる内紛は、もはや充分長引いており、いよいよ決着の時を迎えていた。裕仁とその一族は、公然たる叛乱のみが、国民を恥入らせ、その不平、不満を根こそぎ払しょくさせるに足る大義名分となりえると見ていた。同様に、北進派の荒木、真崎の両将は、同期の古つわものたちと共に、兵卒層の叛乱が充分に大規模で長続きしうるものならば、大衆の支持を獲得でき、裕仁に影響を強いうると考えていた。

 来る対決のために選ばれた暗殺実行者たちは、前年に士官学校事件を起こした若手国体原理派の反ファシスト尉官たちであった。彼らが騒動の中で献身的穏健派と見なされたのは、名目的に北進派と連携していたものの、彼ら自身は対外戦略なぞにはとんと関心はなく、国内の改造と公明さをのみ欲していたからであった。

 これらの国体原理派の若手らは、その決起を1935年11月とする可能性を探るため、酒場や場末の待合で、会合を持ち始めていた。その会合の首領は、二人の元陸軍の同僚、村中と磯部で、この二人がこの三月に、1931年の三月事件への永田の関わりを喚起させるための扇動小冊子を書いていた。この小冊子は、7月に真崎大将を追放する闘いの最中、閑院参謀総長に宛てられたものだったが、それは閑院を怒らせてしまった。この二人の小冊子作者を陸軍から除隊させる許可を天皇より得るため、7月30日、閑院親王は林陸相を葉山の御用邸に送った。現役の兵士を予備役に移籍させることは、陸軍内の問題分子への処罰としては特異な扱いではなかったが、陸軍から完全に除隊させてしまうのはいかにも異例だった。彼らの同僚たちは、除隊で新民間人となった憤懣やる方ないこの二名に大いに同情していた。

 裕仁の弟、秩父親王は、士官学校の同期生である四人を通じて、国体原理派の計画を個人的によく承知していた。彼はこの四人を、いつも自邸に呼んでは歓談していた。またこの後、この四人に銃殺刑の処罰が決まった際、自分たちは秩父親王から勇気付けられたのだと、空しい訴えを行うこととなった。その内の一人は、次のように記した悲嘆の一文を家族に残した。「秩父親王は私にいった。 『クーデタの時、私は君が仲間の先頭に立ち、兵営から行進して出てゆくところを見送らせてほしい』 」。他の一人は、刑務所で書いた一連の詩を残した。この詩は、憲兵隊が押収し、秩父親王の馬番に手渡された。秩父親王は、それに目を通し、それをその若者の家族に返した。その際、秩父親王妃がその内の数編を自ら選び、それを美しい台紙に張り、額にまで入れて返還したため、後に残された両親は、それを身に余る名誉と受け止めていた。

 天皇の二人の叔父、東久邇親王と朝霞親王は、その若い策謀者たちとしばしば語り会い、彼らの憤懣に同情を表した。しかし、彼らに最大の激励を与えた人物は、北進派に手先を浸透させようとの宮廷からの命を受けていた、マレーの虎こと、山下少将だった。山下は、よくその若い策謀者たちと酒場で会い、酒を飲み交わした。そこで山下は彼らに、一般参謀諜報部長をしている三番手烏の岡村少将と、陸軍省報道対策班の根元大佐――永田が殺害された時、剣士相沢に祝福を与えた――を紹介した。山下少将やその同僚は、そうして得た彼らの観察結果をすべて、閑院参謀総長に報告した。

 国体原理派のその若者たちは、天皇の側近から受けた注目に歓喜していたが、用心すべきことは知っていた。彼らは、友人たちから、利用されないようにと警告され、「貴様らは、まるで左翼の衣を着た右翼だな」 と冗談まぎれに言われていた。そうして彼らは、北進派の指導者、元陸相の自宅に代表を遣った。荒木は笑顔で彼らを迎えて激励したが、自分の言質をあたえることのないよう、慎重に対応した。彼らは山下少将――南進派のスパイ――のもとに戻り、「周到な準備なくしては行動しないよう」 との助言をもらった。彼らは、決起の日を、欧米の外交武官が祝福休暇に入っている1935年のクリスマスの日に暫定的に設定した。(36)

 12月20日、彼らは、北進派の第二の指導者、真崎のもとに遣いを送った。彼は遣いに、叛乱を考えるのはおろかなことで、それを、すでに打撃を受け、常時警察の監視下にあると解っているはずの自分のところに相談にくるとは、二重におろなかことだと言い渡した。彼らはさらに、三番目の北進派の将官# 1に会い、いっそう明瞭な助言をもらった。 「天も、陛下も、そして大地も、すべてが君らに反対している。統制派(南進派)の連中は、生煮えの準備で決起する君らを、大掃除のいい機会だとして、手ぐすね引いて待ち受けているのだ」(37)。

 # 1 この将官とは、荒木陸相の下で副大臣であった、柳川平助中将である。彼は、天皇には穏健北進派として知られ、顔の広い鈴木大佐の親しい友人であった。この時、彼は、台湾軍司令官として、厳格な寺内に代わり、台湾に赴任するところであった。後の1937年、彼は、日本軍の南京制圧を可能にした杭州湾上陸作戦を立案して、天皇の目から、北進派の汚名を取り除くこととなる。

 南進派部隊からの潜入者、山下少将は、12月22日に、東京北部の高級割烹で若手理想主義者たちと会うことに同意していた。しかし彼は、その約束を守らず、その夕べを通して、彼が現れるのを空しく待たされている間に、その謀議者らは、クリスマスの日の蜂起の計画は無理だということに決めてしまった。そしてその帰路途上、その内の一グループは、ある警察署に立ち寄り、自主的に自分たちの計画について、全面的に報告することとなった。(38)

 まだ泳がされていた謀議者らは、クリスマスの前夜、北進派の理論家で、強靭な急進的著述家、北一輝の自宅に立ち寄り、慰労にと、酒を少々ふるまわれることとなった。北は、1922年に裕仁の教化機関である皇居内の大学寮への参加を断り、天皇の特務集団から最初に離脱していた。憲兵により数年間にわたって鍛えられた経験から、北はそうした若手に、辛抱強く、時期を待つようにと諭した。そして彼は、前首相の斎藤が内大臣に任命されたことに抗議する小規模な集会に参加してはどうかと、彼らに持ちかけた。北は彼らに、斎藤は1934年の帝国人絹疑獄にからんで賄賂を受け取っていることを確信させた。12月30日、その抗議集会は予定通りに開催され、これまた予期した通り、警察によって解散させられた(39)。その際、若手将校の幾人かが拘留されたが、彼らの計画を満たさせるかのように、数日後に釈放された。

 その年の暮れ、大兄で内大臣秘書の牧野侯爵は、自分の日記に、謀議者の最新の叛乱計画についての警察報告を書き込んでいる。それは例えば、歩兵第一連隊第一中隊は内務大臣公邸を掌握、歩兵第三連隊第三中隊は首相を殺害、歩兵第一連隊第二中隊は斎藤内大臣を捕縛、等々(40)。幾つかの詳細を除き、それは1934年の士官学校事件計画と事実上同じで、それはまた、その通りに、その二ヶ月後に実行されたものであった。かくして、その運命的新年を迎えるまでに、宮中の侍従たちは、暗記しているほどに、その計画を知り抜いていた。

 もし、思いこみの強い宮廷人の誰かが、陸軍将兵の意識の程度について疑いを抱いていたとしても、一月のある日、日本の歩兵の全連隊がその任務中、非任務中の将校ともども、満州国境を越えてロシアに入り、赤軍に投降してしまい、その疑念が現実のものとなってしまうとは予期していなかったろう。そうした将校たちは、国家政策を北進へと変えさせようと、事件をおこそうと望んでいた(41)。その将兵たちは、ただ、その職務執行にあたる満州国の拷問と殺人の地獄から脱け出そうと欲していた。かって日本軍の兵士の誰も、外国軍のもとへと脱走することなどなかったが、いまや、政権の誰もが、絶望のみが彼らをそうした行動に駆ったのだと覚らされることとなった。


もの言う大神(42)

 まさに発生しそうな出鱈目な叛乱に備えて、裕仁のしたたかな叔父、東久邇親王は、過去に裕仁を歯に衣を着せずに批判した貴族を土着宗教を使って脅し、口を封じた。1935年11月22日、東久邇親王は、宗教取り込み詐欺師で腹話術師の、小原たつお、別名、小原竜海〔りゅうかい〕を、皇居南端の明治天皇旧御所にある、当時未使用の一室に呼んだ。そこで東久邇は竜海に、皇室の式服一式や、裕仁の手袋や菊の紋章入りの煙草ケースなどを、彼の好意の印として与えた。竜海はこれらの品々に、口をきく観音像――少なくとも、彼はそう見せることができた――を加え、東京郊外椎名の入船に御堂を設けてそこに祀り、神託所としての事業にした。

 東久邇の紹介によって、竜海は、元宮廷女官長の島津治子――1933年に赤化事件と妾問題に絡んだために皇居を追われた――の後援を獲得した。しかし島津夫人はただ、精神を高揚させ身震いのする彼の交霊術を気に入っていただけだった。彼女の親しい友人も同様であり、また、彼女は理想的な人脈をもっていた。皇后良子の母のいとこ、そして、裕仁の母の貞明皇太后の親友として、彼女は、貴族階級の高齢世代で、―国政に高度な倫理的関わりをもつ、ほぼあらゆる親近的集まりと、強固な霊魂的関係を保っていた。伯爵、伯爵夫人に加えて、彼女の知人たちには、退役陸海軍大将、在郷軍人会の指導者、反機関説論者などなどがいた。そのうちの最も懇意な友人が、神道神主の秦真次で、彼は真崎を追放する争い中の南進派に不利な資料を提供した元東京憲兵隊々長であった。

 1月半ばまでに、島津夫人は、竜海の観音像の腹話術的神託を聞き、霊魂の顕現に参加するため、彼女の友人たちをたくさん連れてきていた。竜海のきらびやかな御堂の外には、本物の刑事が立ち、夜を通し、参加者に関しての記録をつけていた。後の警察報告では、老いた海軍大将山本英輔が、その「集まり」 の常連として、目立っていたとしている。彼は、国体原理派の若手叛乱者が政権を握ろうとした際の首相として、第一の候補者にあがった者の一人だった。他の際立った常連参加者たちは、東京の上流階級の夫人たちだった。その誰もが、そうすることで、数ヶ月先の身の安全が得られると説かれていた。

 降霊会では、貴族階級の一同は、竜海がさずける東久邇親王についての堕落と哲学の合成物を聞かされた。そしてゴシップ談が一同を楽しませ、また、おじけさせもした。1936年12月に療養所に収容された後の警察記録に残された元宮廷女官長の島津治子の話では、参加者の前に生者死者双方の霊魂が現われ、あらゆるたぐいの皇室を冒涜するような話を、次のように告げたという。

 難波大助 (1923年に裕仁の暗殺に失敗して処刑) の死霊が秩父親王 (裕仁の一番目の弟)の生霊と共に現れ、秩父の霊が、難波は自分の婚約者の処女を奪ったと言った# 2。

 高松親王 (裕仁の二番目の弟) が霊となって現れ、彼の実母は、大正天皇にはべった女官の一人の、何某様だ・・・・

 皇太子時代の裕仁仕え、切腹した侍従(乃木大将)が現われ、その霊は、 「秩父親王が正式の皇太子に着くべきだと主張したが退けられた・・・」と、親王自身の服装を着けて言った。

 大正天皇の侍従の霊が現われ、自分は貞明皇太后(裕仁の母)の愛人だった、と言った・・・

 九条家の人たち(貞明皇太后の兄弟と義理の妹)が質問をした。

 秩父親王の生霊が現われ、礼子(伊藤礼子で学習院での赤問題に絡んでいた)との情事関係を話した。

 あらゆる鏡には、表と裏の両面がある。我々の鏡の表面には、我々が大神を崇拝すれば我々は守護されると公に刻まれている。だがその裏では我々は、皇族の役目は、最終的に、天皇維新への道を清め照らし出すことと信じている。裏面はそうした意味をはらみ、表面がいつの日か裏面にお目見えできると平民に説いている。信仰心の篤い人でも、裏面に達するのは序々にである。そのさらに鏡の裏の先には、ひまろぎ等といったさらなる光明があって全き天啓をもたらしている。最も意識の高い人のみがそこに到達しえ、それはめったにあることではない・・・

 7月17日に、この世のあらゆる霊魂の集いがある。五光が初めてお集まりになる・・・ 明治天皇の御霊は、貞明皇太后の用件にさかれ、今回は参加されない# 3。この集いで、国体明徴と維新――神の治世と神の世――への道が開示される。

 五光がなす使命は、摂政を決め、年少の皇太子(現天皇、明仁)のために補佐を選ぶことである。霊魂の世では、皇太子は明治天皇の霊魂を引き継がれ、同時に、偉大なご自身でもおられる。これは我々に明示されてきていることだ。従って、秩父親王は高松親王に道をゆずって引退し、高松親王が補佐と摂政になられる。現天皇は、15年後(1951年)に亡くなる・・・ 現天皇は前世からの罪をあがなう因縁があり、国体明徴の道と維新の実現はできない。彼は早い逝去が避けられない。我々は、大神の維新と国体明徴をなしとげるために、開明をなしとげ、我が国土の大神に至高をささげねばならない。これがいわゆる天の岩戸開きであり、我々がそのための鍵を持っている・・・五光は十、二十、四十の光となる・・・我々は信奉を続け、広げなければならない。


 # 2 兄弟を混同しているようだ。皇后良子の兄、朝融は、1924年、婚約を破棄した。それは、その婚約者が難波の近親者と関係をもっていたからであった。(43)

 # 3 貞明皇太后は、息子の裕仁に対する小陰謀事件に巻き込まれた。五光の正体は不明である。ある教育ある日本人の推測では、4人は数世紀昔に天皇のために死んだ忠臣であり、一人は最近犠牲となった、一番手烏の永田であろうということだ。

 島津夫人が警察で思い出したことは、かくもとりとめのないことだった。しかし、たとえ話が猥雑でつかみどころがなくとも、その話を反論もなく聞いた者には、大逆罪を確信させるに充分なものであった。また悪いことに、その神秘主義は、裕仁を排除することを確かに欲し、裕仁の統治の間の多くの殺人の罪を裕仁にきせているように、いっそう見せてもいた。


最後の扇動

 1936年1月27日、東久邇親王は、1933年の神兵隊事件に連座した疑いで投獄されてきたおよそ500名の屈強な剣士が釈放された時、新たな脅迫の手段に出た。東久邇に忠実な使い走り、安田予備役中佐の監視下で、仮釈放中の彼らが拠点を設立し、叛乱部隊――もし、来る叛乱に何らかの不発が生じた場合、その代役に使える「選りすぐりの部隊」 ――として何時でも動ける用意を整えていた(44)。東久邇の手下の安田は、その動向の情報を使いを通じて東久邇の屋敷の門衛# 4に逐次伝えた。実際には、この予備部隊が役立つことはなかったが、彼らは、この予備部隊となることで、刑の執行からは逃れることができた。

 # 4 東久邇の守衛班長は清浦末雄大尉だった。彼は、1924年の長州閥排除の際、裕仁が閑職から引き立てて政府を率いた、清浦元首相の八男。(45)

 1936年1月28日、永田の殺害者で、東久邇の部下の相沢少尉の軍法会議の裁判手続きが開始された。この手続きは、第一師団の兵営で、感情的に最も高ぶった雰囲気の中で進められた。第一師団は、東京に拠点をおく、二つの師団のひとつで、反ファシストの国体原理派の若手将校がもっとも結集していた師団であった。またそれは、過去の陰謀計画の中で、どの師団より多数の叛乱軍を提供することが期待されていた師団でもあった。軍法会議の相沢被告は、1926年から1931年まで、その師団で大尉と少佐を勤め、その師団の将兵は、その12月に、満州の守備隊任務に直ちに移駐されることが通告されたばかりであった。第一師団はそれまで、戦時下の作戦行動を除き、海外に派遣されたことはなかった。

 暗殺者相沢を担当した弁護人は、満井佐吉中佐だった。彼は、二年前、三井財閥の幹部宅に押し入り、また、数ヶ月の間、北進派の兵卒の中で、南進派のスパイ、山下少将と緊密に共同して働いた。1937年には、満井は、1936年の叛乱に参加した罪で、三年間の執行猶予の判決を受ける。さらに1942年の戦時下、彼は国会議員に選出される。

 相沢の公判では、彼は満員の法廷で活躍した。 「もし、この裁判に誤りがあれば、それは深刻な結果をもたらしましょう。・・・もし、この法廷が、相沢が従った精神の理解を誤れば、第二、あるいは、第三の相沢すらが現れてくるでしょう。・・・圧倒的多数の下士官は、陸軍が影響力を失っているとしてその一掃を決断しており、国民も、陸軍が真に天皇の軍隊であることを証明するよう、心底から望んでいます」、彼は演説した。

 暗殺犯相沢は、被告席に着かされ、同情的な反対尋問を受けた。彼は、東久邇親王と朝霞親王と会ったことについては、ひと言も漏らさなかった。しかし、永田を殺すためではなく、警告するための最初の上京について証言し、「私は車中では眠れず、翌朝、あたかも空から聞こえてくるような声で、早すぎる行動はするな、と言うのを聞きました。・・・後になってから、私は、永田があらゆる悪の根源だと知りました。もし、彼が辞任しようとしないのなら、するべきことは、ただ一つでした。私は、自分を鬼にし、一刀で彼の命を終わらせると決心しました。・・・統帥権により、教育総監が軍事参議院の名誉職に転任させられた時、私には、皇軍を私兵化したかに感じました。」

 大兄で内大臣秘書の木戸は、相沢裁判の進路を閉ざし、その行方に懸念をもたらした。しかし、2月2日、入念な調査の後、彼は、すべてに問題はないと決断した。彼は、弁護人の満井中佐を、満州征服を計画した石原莞爾大佐や、後にアメリカの小型砲艦パナイ号沈没させた火付け役の橋本欣五郎大佐らと比べてみた。三人は皆、国内改造の必要を感じており、国体原理派に同調していた。「しかし、いざという時においては、彼らは外部者と統一戦線を形成するだろう」、と木戸は結んでいる。(47)

 相沢裁判が進行する一方、国会が解散し、国は1932年以来の二度目の総選挙戦に入った。陸軍の北進派は、伝統的な武士道精神の綱領を掲げて〔機関説排除を訴えた〕政友会を押した。反政友会、裕仁の統制派そして清軍運動は、現職の岡田首相を押した。彼らは、ファシストに傾き、「議会政治かファシズムか」とのスローガンのもとで運動した。人々は、そのスローガンに動かされ、205議席のうち、174議席を政友会に与え、地滑り的勝利をもたらした(48)〔訳注〕。それは、裕仁の公式の表明が支持され、彼が密かにもてあそぶファシスト構想が拒絶されたことは明らかであった。

 〔訳注〕 この選挙結果は誤り。1936年2月の総選挙結果は、政友会が敗北し、他方、解散前3議席であった無産政党が、社会大衆党をはじめ21議席に増やした。これは、軍部と戦争政策への有権者の批判と読みとれる。ここに述べられているように政友会が大勝したのは1932年の選挙の結果で、著者は両選挙結果を混同している。


土壇場の勇気

 一月中に、反目する国体原理派の若手将校たちは、秩父親王、川島陸相、北進派の真崎大将のもとを訪問した。三人はいずれも友好的ではあったが、支持も邪魔もしないといった、どっちつかずの態度であった。たとえば、真崎大将は、彼らに金を貸してもよいと言いながら、「何が生じても、誰から提供されたかは言わないように」 とつけ加えた。

 1月28日夕刻、謀略者たちは、同調的な中隊長、山口一太郎大尉――裕仁の侍従武官長本庄大将の娘婿――と会った。2月10日に彼らは再び、山口大尉と彼の勤務する第一師団、第一連隊の参謀室で会った。そこで初めて、彼らは叛乱の計画の具体的な作戦行動について話し合った。その翌日、北進派の理論家、北一輝の自宅に代表を送り、彼の弟子で従事である西田力に会った。彼らと同じく、西田も秩父親王の友人であり同窓生であった。1921年に秩父親王のために書かれた一輝の急進的な論文を最初に謄写版刷りにして知識人に配ったのは西田であった。今、彼は謀反者らを歓迎し、彼らのために大衆的な支持を集めることを約束した。

 2月15日、消極的な叛乱兵士たちは、宮廷から送り込まれている監視役、山下少将と再び会った。その翌朝、若手将校らは、自連隊の兵器庫の武器を得る手順を確認した。また翌々日には、安藤輝三大尉――山下少将に最も親しい陰謀首謀者――は、仲間の会合において、 「私はもうあえて決起する気はない」# 5と率直に吐露して、陰謀計画に冷水をあびせた。

 # 5 1932年、犬養首相暗殺の後、山下の命令で、安藤は、東京大学の学生で血盟団と牧野内大臣の間の連絡係であった四元義隆を自分の住居に数日間かくまった。
 安藤が一同を白けさせた後、他の陰謀者たちはなんとか、 「次週の半ば」 を決行日と決めた。そしてその翌日の2月19日、陰謀者間のさらなる会合で、東海道を下った豊橋の陸軍学校の同魂同志が計画に加わり、老公西園寺親王を暗殺することを引き受けたと知らされて元気付けられた。

 2月21日、一年前に扇動小冊子を書いて軍を追われた磯部と村中は、侍従武官長の娘婿の山口と再び会って、再確認をとった。第一連隊の週番司令として、山口は、自分の連隊には、叛乱に参加しない者でも、それを制圧する命令は誰も受け取らないことを確約した。その夜、週番司令の山口は、北の理論の謄写刷版発行者の西田――北進論の第二の理論家――を自宅に招き、師の北に、決起の日は2月26日に暫定的に決まったことを伝えるように頼んだ。(49)

 決起日4日前の翌朝、若手将校たちは集まり、互いに緊迫していることを認め、そして、東京を占拠しえた時、壁に掲示し、ラジオで放送するつもりの趣意書の最初の文案を書いた後、散会した。(50)

 決起日3日前の2月23日、若手将校たちは、彼らの兵器庫から2,000発分の弾薬を運び出し、また、新たな大尉や中尉を数名、仲間に迎えた。西園寺親王を暗殺する計画は、政治に長けた叛乱の支持者から異論が出た。そこで同日、本庄の娘婿の山口は、失墜した北進派の真崎大将に相談をもちかけた。すると真崎は山口に、情報屋の亀川哲也――政友会の一部# 6から叛乱への資金援助を得る仲介役をしてきていた――に会うように助言した。(51)

 # 6 ことに、日立財閥の創設者、久原房乃助。彼は、株式と広範な資本財の保有に基ずくアメリカ式資本主義の熱心な主唱者であった。

 決起日2日前の2月24日、情報屋の亀川は、相沢の裁判を担当する民間人弁護士を訪ねて蜂起計画の全てを明かし、追放された真崎大将を次期首相に推薦するよう西園寺親王を説得するよう、協力を依頼した。その弁護士は、名を鵜沢聰明という西園寺の友人で、出来るだけのことをし、西園寺には暗殺されようとしていると警告するとすると約束した# 7。(52) この警告は、西園寺の執事で国会議員の津雲国利と、西園寺の以前の秘書である事業家中川小十郎をはじめとする、入り組んだ経路を経て、興津に届けられた。(53)

 # 7 一年後、法務大臣のおひざ元の秘密軍法会議において、憲兵隊は鵜沢弁護人を叛乱の共犯者としてその告訴を試みた。しかし、鵜沢がタイミングよく西園寺に警告を与えていたことが、彼を投獄から救った。というのは、数回の審判の後、西園寺に感付かれることなく鵜沢の裁判を続けることは困難なため、彼に対する裁判は取り下げられたからであった。(54)

 西園寺はその警告の信頼性を疑うことなく、即座に対応した。そして、興津と東京の宮中との間に敷かれている、スパイ秘書の原田という 「確実な連絡回路」を作動させることにした。西園寺は、使用人たちに、あたかも何も知らないよう、また、あたかも老いた主人が何事もなく在宅しているかのように、自然にふるまって電話に出るように指示した。その上で自分は、椅子かごに乗って、密かに、自宅の裏山に移動した。そうしてその人目につかない道で公用車に乗り移り、警護の厳重な静岡県知事公邸へと運び去らせた。(55)

 一方、同じ決起日二日前、野中大尉――秩父親王と親しい叛乱将校の一人――は、趣意書案を北進派理論家の北一輝宅へと届け、それに手を加えてくれるよう依頼した。北は、その軍人たちが書いた無骨な文章を、火炎のような論理と難解な漢文調の文体に改め、古典風名文に作り替えた――これが数日後、天皇裕仁に読み上げられることとなる――。この手直しの後、野中大尉は、北の手下の西田と北の仕事部屋にこもり、その文案を清書し、皇位に提出するための巻物に仕上げた。(56)
 その夕刻、本庄の娘婿の山口大尉は、第一連隊の指令室で謀反者らと会い、叛乱計画の詳細をつめ、陸軍大臣公邸、陸軍省、そして一般参謀本部の警護地図を謄写版印刷したものを200部与えた。

 決起日前日の朝、謀反者らは、かねてからの陰謀の黒幕である前内大臣の牧野が、二時間ほど隔たった湯河原の田舎旅館に隠れているところが発見されたと伝える彼らの一妻からの手紙を受け取り、活気づけられた。この情報に基づき、一人の若手将校が、同志が東京で決起するのと同時に襲撃する準備を整えるため、湯河原へと車で送り出された。(57)

 同じ朝、追放された北進派の真崎大将は、相沢の裁判の弁護側証人として呼び出されていた。彼は、相沢に代わって、宮中の要職にあった者が天皇の許可なく執務中に知り得たことを暴露することは出来ないことを理由に、問われた質問に答えることを拒否した。そして法廷では、真崎は多くをしゃべらずに50分を過ごし、新聞記者の質問にも、その返答を拒否した。その日の午後、相沢の軍人弁護人、満井佐吉中佐は最終弁論を述べたが、能弁ではあったものの、事実はには言及せず、ただ心証を述べただけであった。(58)

 かくして、裁判が開かれていた第一連隊の兵営では、相沢は絞首台に送られるのを黙って受入れ、真崎は沈黙のうちに退役し、そして結局、南進派が勝利するだろうことは、誰の眼にも明白となっていた。第一連隊の若手将校たちは、信念上の望みの余り、自分たちと同世代の天皇が、現実を充分に知っていないのだろうと感じていた。だからこそ、山下少将を通じ、あるいは、侍従武官長本庄の娘婿である山口大尉を通じ、あるいは、秩父親王を通じて、彼らは、裕仁には真実を示し得るだろうと考えていたのだった。(59)


ついに流血(60)

 高貴な人々の勇気付けから三ヶ月以上が過ぎた時、謀反者らは遂に、面目躍如に行動を開始した。その夜を通し、一団をなしていた19人の尉官は、第一および第三連隊の同朋将官たちに号令を発した。秩父親王は1922年から1935年8月まで第三連隊に属しており、彼の名は彼らによって〔同志として〕自由に使われたが、新たな参加者は、いずれも少尉である二名を獲得しえたのみだった。それに、謀反者たちが同僚たちから引き出しえたものも、良くても、邪魔をしない誓い程度だった。

 2月26日、午前2時、皇居からおよそ20区画離れた麻布の第一、第三連隊の兵営に公然と起床ラッパが鳴りわたった。それからの一時間に、まだ眠気に捕らわれていた兵士たちは、陰謀者からの長広舌と、反陰謀者からの警告の双方に見舞われた。それでもなお、兵士たちは高揚した気持ちをもって行動を起こし、午前3時30分頃には、1359名の兵士と91名の下士官たちが、計画に関わってきた2名の大尉、8名の中尉、11名の少尉に従っていた。午前4時には、装備を着けた叛乱兵らは出発を始めた。彼らは、およそ8,500名兵士を兵営に、まだいびきをかいている将校多数を近くの上官宿舎に残していた。彼らはまた、侍従長本庄の娘婿の山口大尉を、邪魔をしないという誓約を守らせるために残していた。

 二月の朝の厳しい寒さの中、兵営の外では、皇居の聖域内の兵営から、精鋭近衛師団第三歩兵連隊第七中隊が彼らに合流した。この合流部隊は、他の部隊と違って、自分たちが叛乱を起こしているとは知らなかった。秩父親王の友人で彼らの指揮官である中橋基明中尉は彼らに、明治神宮での神事のために行進すると説明していた。13台のトラックが先遣隊を運ぶために待機していた。三人の見習い医師が、負傷者が出た場合に備えて同行していた。

 東京は一面、雪に覆われ、まだ雪が降っていた。雪を踏みしめる兵士たちの靴音が、まだ暗く人けのない街路に響いていた。彼らの兵営から皇居までは、1マイル半〔2.4km〕もなかった。午前4時30分までに、堀に囲まれた皇居に近い東京の官庁街の神経中枢のすべてに、偵察兵の列による無言の警戒線が張られた。そこには、国会、陸軍省、幕僚本部、警視庁、国土地理院、内務省、外務省、そして、海軍省と軍令部が位置していた。さらにその警戒線内には、閑院親王、高松親王、内大臣、正副陸軍大臣、正副外務大臣、内務大臣、そして首相の公邸があった。


 午前5時までには、叛乱軍は、主要な目的地を占拠し終わっていた。前線司令部を設置する予定の山王ホテルでは、宿泊客――2,3名の西洋人が含まれていた――が起こされた。それらの客は、ホテルの交換台に配置された人員により、丁重に東京の他のホテルや旅館に新たな部屋がとられた。陸軍大臣公邸では、叛乱兵士は自分たちの存在を川島陸相に通告したが、重い風邪で寝ている必要があるとの要望があり、彼らは、面会のために大臣が起床できる午前7時まで、そのままにしておいた。警視庁では、夜勤にあたっていた巡査たちに彼らが加わって、外部の歩哨が二倍となった。

 参謀本部では、灯りがこうこうとともされ、今や作戦課長の石原莞爾大佐――満州作戦の戦略家――が、遅ればせに届いた決起の報を受け取り、部下と会議を持っている最中だった。午前5時頃、石原大佐は自室から飛び出してきて、外で任務についていた叛乱軍の歩哨一人を撃ち、自分の公用車で自らがすべきことを成しに出て行った。しかし、時はすでに遅しであった。(61)

 暗殺部隊は、 「君側の奸」〔天皇の傍に使える悪人〕 を殺すために、5派に分かれてすでに出発していた。午前5時5分、その第一派が襲撃を開始した。近衛師団の中橋基明中尉に率いられた百名の兵士は、もじゃもじゃの髭を蓄えた日本金融界の “サンタクロース” かつ、秀でた異端派経済専門家である大蔵大臣高橋是清、81歳、の自宅を取り囲んだ。屋外で守衛に当たっていた警官を負傷させた後、中橋中尉は住居内に押し入って老蔵相の寝室に駆け込み、布団をはぎとって 「天誅」と叫んだ。高橋が眼をさました時、中橋は彼に三発発射し、さらに周到に、刀で二度、突き刺した。彼は即死した。

 同じころ、200名の兵士と一人の中尉、三人の少尉からなる第二派の殺人部隊は、新たな内大臣で元首相の斎藤実大将宅を包囲していた。物腰柔らかく、好人物のその老貴族は、前夜遅くまで、アメリカ大使館でグリュー大使夫妻とジャネット・マクドナルド=ネルソン・エディーの映画、 「Naughty Marietta」 を鑑賞し、ぐっすりと寝込んでいた。 (62)

 若い尉官たちが駆け込んでくる音を聞き、斎藤子爵夫人は夫の脇からとび起き、彼らの眼前で寝室のドアを閉じ、 「ちょっとお待ち下さい」 と叫んだ。
 尉官たちがドアを蹴破ると、斎藤大将は起きて、夫人の後ろに寝巻姿で立っていた。三人の尉官はほどんど同時に彼を撃った。夫人は夫の体に被さってしっかりとしがみつき、泣き伏した。尉官たちは、彼女を引き離すことができないため、その体の下に武器を差し込み、ヒステリックにさらに銃弾を撃ち込んだ。後の裁判で、彼らはその老人の喉を切ろうとしたが、婦人が邪魔でそれが果たせなかった、と証言している。 (63)

 全部で47発の銃弾が斎藤大将の体に撃ちこまれ、夫人は両腕と肩に傷を負った。暗殺者らは、引きあげる際に玄関の前で静止し、天皇陛下に 「万歳」を三唱して立ち去った。

 暗殺部隊の第三派は、山下少将の手下、安藤輝三に指揮され、侍従長の鈴木貫太郎大将宅を襲撃した。彼らは、門前での守衛警官との小競り合で手間取り、10分ほど遅れた。鈴木侍従長もその前夜、グリュー夫妻といっしょだった。安藤は、彼が夫人といっしょに寝ているところを発見し、彼と国策について議論してさらに時間をくった。侍従長はなかなかの口上手で、安藤大尉と10分ほどの遣り取りを交わした。

 だが、公式記録によると、午前5時10分、ついに安藤は、拳銃でその議論を断ち切り、その68歳の侍従長に三発を発射した。彼は、脇に居た夫人に、 「まだ脈がおありなので、彼に刀でとどめを与えたい」 と言った。

 武士道を心得ていた夫人は、 「どうしても必要というなら、私がそれを致します」 と答えた。 「恥じ入った」 安藤は、そこでその部屋を後にしたという。

 その後二日間、叛乱軍の同志が雪の中を警戒している間、安藤は近くの料亭 「後楽」 で時間をつぶしていた。そして、叛乱が不成功に終わった時、彼は自殺を試みたが失敗した。明らかに、彼はその狡猾な老被害者と取引をしていた。侍従長鈴木は、四日後、危篤状態を脱して生き延び、後に、戦時中最後の首相となった。

 鈴木は、後に好んで話したように、 「みっともない」 死にそこないを演じた。彼に発射された弾丸の一発は、彼の急所に残っていたらしく、彼を手術した外科医は、「金玉から鉛玉」 を摘出した自分の処置の手際の良さを、偉業めいた歌にして書き残した。

 侍従長の鈴木が苦痛と格闘している時、300名の兵隊と五人の尉官からなる第四派の暗殺部隊は、三人目の南進派海軍大将、岡田啓介首相を襲った。彼の公邸は、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルを模した奇怪な建築物で、四年前、犬養首相がそこで、霞ヶ浦の飛行士によって撃たれていた。先の悲劇や数々の警告話にも拘わらず、わずか4名の警官が警護についているのみだった。襲撃部隊はその四人を射殺し、五人の尉官は公邸の迷路のような廊下や各部屋を手分けして捜索し始めた。

 73歳の首相は、前夜を名高い芸者の妾と過ごした後で、自分を守ろうという気概はもうなえていた。そして、 「万事休す。何をさわぎ立てる」 と、悲惨げに言った。

 だが、彼の女中や秘書官で義弟の松尾伝蔵大佐は、彼を寝床から引っ張り出し、彼の部屋を出て使用人区画へと急ぎ連れて行った。捜索する兵隊の足音が聞こえると、彼らは首相をそこの便所に礼儀もなく押し込め、そして彼に、内側からかんぬきをかけて閉じるようにと言った。そうしておいて松尾大佐は、英雄的な行動に出て付近の中庭に跳び出して「天皇陛下万歳」 と叫んだ。彼は瞬くうちに機関銃弾の雨を浴び、彼の顔はほとんど識別が出来ないほどの様相と化した。

 彼を撃った兵士たちがその遺体を岡田の寝室に運び、吟味した。彼らは写真とその顔を見比べ、女中たちの機転も手伝って、それが岡田首相だと判断した。

 その朝、憲兵隊員が叛乱軍によって占拠された皇居の堀に沿った地域に入りこみ、兵士たちと平穏に接触した。そうして捜査をしているうちに、憲兵隊は、首相公邸の女中から、岡田首相がまだ生きていることをつかんだ。岡田の秘書官の娘婿やその付添いが、首相の身代りとなった松尾の葬儀をするようにと、叛乱軍の警戒線を越えて呼び出された。他方、ようやく落ち着きを取り戻した岡田は、もっと居心地のよい、押し入れの中に移されていた。松尾の会葬者たちには同情が寄せられ、叛乱軍の監視も緩んでいた。

 翌朝、岡田の生き残った秘書官の福田耕は、お棺運搬係として、フロックコートを着た二十人ほどの年配の憲兵隊員を官邸に連れこんだ。空腹で疲れ切った岡田は、持ちこまれたマスクと丸縁眼鏡で変装し、義弟の葬儀の会葬者に紛れこんだ。棺が官邸から運び出される際、憲兵とともに連れてこられた一人の老いた棺運搬係が心臓マヒを装って倒れ、担架で運び出された。そうした混乱にまぎれて、困憊していた岡田首相を車に押し込み、脱出させた。

 東京での暗殺と時を合わせて、近県でも襲撃が行われた。蜂起の夜、兵士と予備役と士官候補生の一団が、老西園寺を暗殺するために興津に結集したが、警察によって解散させられた。一方、前内大臣の牧野は、20歳の孫娘の和子――戦後の首相、吉田茂の子供――とともに、湯河原の温泉旅館に身を潜め、事前の警戒はしていなかった。午前5時40分、夜中に使命を与えられた叛乱兵の一団が、その旅館に到着し、玄関前に機関銃を据え付け、宿の使用人に弾丸の雨をあびせ、牧野を要求した。すぐに牧野の一人の護衛官が現れ、拳銃を撃ちまくった。彼は、襲撃隊々長の河野寿大尉に傷を負わせたが、機関銃弾で穴だらけにされた。掃射された銃弾は、日本の旅館のやわな構造を貫通し、牧野の看護婦と彼の使用人が負傷した。 (64)

 その短い銃撃戦の間、老いた策謀家牧野と孫娘は、他の泊り客や従業員と一緒に、旅館の裏口から抜け出し、裏山に登った。負傷した河野大尉――逮捕された後に死亡――は、その建物に火を付けるように命じた。建物が燃え上がっている間、兵士たちは、斜面を這い登ってゆくのが見える人影に、機関銃を向けていた。

 後に牧野によって語られ、また、牧野の娘婿の後の首相、吉田茂が幾度も繰り返した話によると、牧野が裏山のある地点に達した時、彼の息はあまりに絶えだえで、それ以上先に進もうにもあまりに急こう配だった。彼はそこにしゃがみ込んでしまい、眼下の処刑執行者らを見やっていた。孫娘の和子は、彼の前に立ちふさがり、着物を広げて彼を隠した。二人とも、炎が彼らを照らし出しており、てっきり、もう最後かと思ったという。彼らからは、兵士たちが明るい炎を背景に、きびきびと動いているのが見えたが、そうした兵士からは、暗い山肌に溶け込んだ彼らはほとんど見えなかった。

 機関銃は発射されず、襲撃が始まってから40分間後、山中にあって牧野は無事やりすごしていた。消防隊が消火を始めたころ、若い叛乱軍兵士は機関銃をしまい、やってきた地域駐屯地に引きあげ始めた。

 東京では、叛乱軍部隊は、その当初の目標を果たし、第二の段階に移っていた。午前6時、斎藤内大臣に47発の弾丸を撃ち込んだ血に飢えた部隊の一部が、渡辺錠太郎大将――前年夏、真崎に代わって教育総監の地位についていた――の自邸前でトラックから跳び降りた。そうした彼らを渡辺夫人が玄関先でさえぎり、その出身部隊の名を要求した。彼らは夫人を脇にどけ、渡辺大将が立って彼らがくるのを待ち構えている居間へと走り込んだ。彼が「止めろ」 と命ずる間もなく、彼に最初の弾丸が撃ち込まれ、そして、いっせい射撃を受けて彼は倒れた。一人の少尉が、自分の刀で大将の喉を切り、その襲撃を終わらせた。


ポーカーの手の内

 暴力沙汰は終わった。その朝も昼近く、叛乱部隊は、五大新聞社の建物を占拠し、そのうち、最も保守的な朝日新聞社の印刷を止めさせたが、人を殺すことはもうなかった。事件を目撃した西洋人を驚かせたことは、そうした叛乱劇が、突然に麻痺状態となって叛乱が終幕すると、1,483名# 8の兵士たちは東京中心部の完璧な占拠地帯に、〔それ以上の作戦展開もなく〕取り残されたことだった。

 叛乱軍が日本帝国の中枢部を掌握したそれからの三日間、裕仁は自分の対処に不満な高官全員を相手に、暗黙の権力闘争を繰り広げていた。そして裕仁は自ら、ほとんど独力でそれを闘い、三つの主要な政治抗争に勝利をあげた。すなわち、彼は、叛乱軍が降伏するまで、次期政府のいかなる政策や人事にも譲歩することを拒否した。次に彼は、陸軍が、叛乱軍の鎮圧のみならずその蜂起そのものにも全面的責任があり、その責任をとる場合も、現人神としての裕仁の力に何らの依頼もあってはならない、と釘を刺した。さらに彼は、宮廷高官や皇族に断固とした態度をとり、公然と異論を表す者らには、それを厳しく圧した。

 # 8 1,359名の兵士、91名の下士官、21名の将官、3名の医師見習い、8名の民間人、そして、1名の予備兵。 (65)

 叛乱が鎮圧された時、裕仁の宮廷人たちは、この三日間に宮中で生じた諸事についての見解を宮廷内に広げたが、彼らの日記が物語るように、それは虚偽であった# 9。つまり 〔そうした見解とは〕、来る戦争という賭けが裏目に出た場合の反作用から天皇を守り、また、裕仁は任務のない叛乱軍兵士に仕事を与え、対中戦争の準備に同意することを強いられていたため、と言うものだった(66)。だが真の状況は、侍従長の本庄の日記に如実に表現されている。すなわち、蜂起の前日の2月25日、天皇は、戦時の足がかりを固めるために北中国の天津駐屯軍の編成拡大を認めた、と本庄は記している。そして天皇は本庄に、その編成拡大は、「外国の不信感を刺激してはならず」、かつ、「(満州征服の前に)我々が関東軍を再編成した場合のように、統制を不便なものにしてはならない」 と、〔その真意を〕告げている。

 裕仁が本庄に説明したところでは、 「要は、我々が何をするかでなく、我々のすることへの世界の反応だ」、だったのである(67)。

 # 9 最近まで、文献証拠がないために、歴史家はそれを受け入れるしかなかった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_2.htm


鎮圧(1936)
叛乱の夜明け

 叛乱兵やその支持者に対する裕仁の圧倒的勝利は、早朝の最初の暗殺の数分前からすでに始まっていた。午前5時、本庄侍従長は東京北西部の自宅で、第一師団の少尉によって揺り動かされて目を覚ました。その少尉は、同師団の500名の士官と兵士が叛乱をおこしてすでに兵営を出発し、それ以上の将兵がそれに続いている、との娘婿の山口大尉からの知らせを持ってきていた。本庄は立ち上がると、ただちに戻り、山口大尉に、兵士に叛乱をやめさせ、兵営に戻させるよう、その少尉に命じした。

  「しかし、もう手遅れです」 と少尉は答えた。

  「最善をつくせ」 と本庄は命じた。そして電話に向かい、憲兵隊司令官と、天皇の寝室の近くに控えている宮中の夜勤番の侍従に電話をかけた。二人とも落ち着いており、当たり障りのない返答だった。本庄は車を呼び、宮中へ向かった。その途中、皇居のすぐ西にある英国大使館付近で、ほぼ一中隊の兵士たちと遭遇した。彼は、その兵士たちの軍服から、精鋭の近衛部隊の宮廷護衛部隊ではなく、彼の娘婿の属す第一師団の叛乱兵だと判断した。だが彼は、車を止めて彼らにそれを確かめようとはしなかった。

 本庄は、午前6時、内宮に到着し、裕仁がすでに起床し、執務に付いているのを知った。数分して天皇に謁見すると、天皇は彼に、 「直ちに事件を終わらせ、この災いを転じて福となしなさい」、と告げた。そしてとがめるよう加えた。「侍従長、お主のみが、この事件が起こると予期し、案じていたね。」

 自分の娘婿のことを想い浮かべながら、本庄は答えた。 「若手士官たちはただ、自分みずから、すべてをおおう天皇の正しき世界の中に、彼らの正義感を託す場所をみつけようとしているだけなのです。」(68)

 木戸幸一侯爵――二ヶ月前までは牧野内大臣の、15分前までは斎藤内大臣の秘書――は、午前5時20分、その斎藤内大臣が襲撃されたと伝える宮廷からの電話で起こされた。木戸は即座に、「重大事件であることをさとった」。彼は警視庁に電話を入れたが、叛乱軍に包囲されていて、誰もが制約を受けずには話せないでいることを知った。 そこで彼は、公用車の車庫に電話し、直ちに宮廷まで行ってっくれるように頼んだ。その車の到着を待つ間、木戸は、近衛親王と西園寺のスパイ秘書の原田に電話して、そのニュースを伝えた。

車が到着すると、彼は用心深く、叛乱軍が占拠していると思われる地区を迂回して、遠回りするように指示した。(69)

 午前6時、皇居外苑にある宮内庁の自分の机に着いた。そこで彼は、状況を掌握するため多くの電話をかけたが、その一本は、6時40分の興津の西園寺宅にかけたものだった。電話に出た女中は、確かに老主人とその家族は静かに就寝中であると告げた。木戸は、西園寺が数マイル離れた静岡県知事公邸にいることを、知っていたかどうかについて、どこにも明らかにしたことはない。木戸は自分の日記に、「大いに安心した」 とのみ記入しているだけであった。(70)

 あまたの電話で出来る限りの情報を得た後、木戸は、宮内庁内で、スパイ秘書の原田の到着を待った。彼は、叛乱軍兵士に検問された時に備えて、宮内省の証明書を手に、午前7時ちょっと前に、徒歩でやってきて、木戸からの指示を受け取った。その受領後、原田は、皇居北の門に向かうのでも、また、任務として西園寺に仕えるため興津に向うのでもなく、叛乱兵士の占拠する地区の自宅に戻り、次の二日間を、近所家の隠れ家から、通常のように電話をかける作業で費やした(71)。

原田は察知していなかったかもしれないが、彼は、 「お節介な小男男爵」 として、叛乱士官の持つ 「発見次第射殺」 のリストにあがっていた(72)。そういう彼は、自分の近所宅に潜みながら、勇敢なスパイ役を演じていた。彼は木戸と綿密に電話連絡を取りながら、夜には危険をおかして外出し、叛乱軍の野営を監視していた。

 木戸は、原田に指示を出した後、皇居内の庭園を歩いて横切り、内宮の裕仁の居住兼執務区画に入っていった。そして、裕仁の執務室の外にすでに集まっていた、侍従武官、湯浅宮内省大臣、広田副侍従長に合流した。彼らは、木戸が電話でその情報提供者より収集したものより、さらに新しい情報を彼に与えた。それによると、侍従長、首相、蔵相、そして内大臣、の全員が襲撃されていた。信頼されている天皇の他の寵臣と同じく、木戸はその後一週間、宮廷にとどまりつづけた。彼には、皇居図書館の裕仁の執務室から廊下を行った先に、仮の小寝室が与えられた。彼は、その侍従の部屋の畳部屋に、布団をしいて寝た。彼は、24時間、いつでも天皇の呼び出しに備えていた。(73)


蹶起趣意書

 2月26日午前7時、川島陸相は、自分の寝室からようやく階下に降りて来て、邸宅の一階を占めた叛乱軍士官と言葉を交わした。彼らは陸相に、蹶起趣意書の正本を渡してそれを天皇に提示するように要求し、その写しの文書は、占拠地区のいたるところに張りだされていた。そこに明記されていた要求事項は、政府は天皇の執権の全面回復を宣言し、陸軍は派閥主義を撤廃し、それまでの陰謀の「首謀者」 である南、小磯、建川、そして宇垣各将を逮捕し、裕仁の特務集団の将官は軍職から追放され、荒木大将を関東軍の司令官にして 「ロシアを威圧し」、そして、陸相はこうした要求を天皇に提示するに先立って、北進派指導者の真崎と協議するよう求めていた。その文書はまた、陸相が、副陸相で天皇が信頼する航空専門家である古荘幹郎中将、および、宮廷の隠れたスパイ――叛乱軍人たちには知られていなかった――である山下奉文少将と話し合うことを推していた。川島陸相はそうした要求を重々しく聞き取り、自分ができるだけのことをする旨、約束した。(74)

 午前8時、海軍軍令部総長の伏見親王が宮中に到着し、すぐさま裕仁に謁見した。彼は、各艦隊は、横須賀海軍基地から東京湾へと航行中であり、天皇の号令ひとつで、叛乱軍地区への砲撃の準備が整っている、と報告した。そして同時に彼は、新内閣を直ちに組閣し、叛乱軍に少々の譲歩を見せるよう助言しようと考えていた。叛乱軍の多くは、秩父親王の親しい友人であり、彼らを余りに過酷に扱うのは良くなかった。天皇は同意したのだろうか?(75)

 それまで伏見には賛成できないことが多くあり、また、議論にも巻き込まれていたことを知っていた裕仁は、ただこう答えた。 「私は海軍の状況について、貴殿の報告を求めただけだ。この事件に関する私の意見については、すでに宮内省大臣の湯浅に述べてある。」

  「それでは、湯浅に伺ってよろしいでしょうか。」
  「その要望については、返答はまたの機会にしよう」 と裕仁は返答し、伏見親王は退席した。憤懣やる方ない伏見は、大兄で賞勲局長の木戸のところに直行し、すべたの親王たちに、そのいざこざの件をつたえるよう、命じた。
 午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書# 1の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。(76)

 # 1 私 〔バーガミニ〕 は、蹶起趣意書の原文を以下に引用する。その深遠で近づき難い印象は、要約を許さないためである。そして、これまでに存在する唯一の翻訳版は、1936年にニューヨークタイムスの東京事務所で日本人翻訳者によってなされた独特の文体をもったものである――それは、日本近代史の数冊の文献に様々な形で引用れている――。それは、原文の内容をおおむねは表わしているが、手が加えられ、その灼熱地獄のような特性は失われている。

 〔訳注〕 以下には、英語訳の邦訳に加えて、原文のままの引用も掲載。(ただし、カタカナ書きをひらがな書きに改め) 。

         国体を護持する直接行動のための趣意書 (77)
 永遠の神、天皇に、その統率の下にある我々は、神国の子のそまつな見解でありながら、この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。

 先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての人々の創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。

 (中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。

 今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、幾度にわたって、生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、一触即発状態にあり、神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)

 第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。


 同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。

 昭和十一年二月二十六日

                 蹶起趣意書(原文)
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく
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2022/06/28 (Tue) 15:59:07

然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。

 皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日


 裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。

  「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」(78) と、裕仁は冷たく言い渡した。

 川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。


戒厳令初日(79)

 川島陸軍大臣が自分の苦境について考慮するために退席すると、直ちに裕仁は、軍事参議院のすべての将官と、個々に面会を始めた。彼らはその途上、陸軍の叛乱兵によって支障はうけず、また、皇位に自らの忠誠を示し助言を献することに篤い自負を抱く彼らは、全員、まだ閣僚や大将の欠席が目立ったその朝早くから、宮廷に参上してきていた。裕仁は、陸軍は彼ら「暴徒」 を鎮圧して責任を果たせと、彼らにその一点のみを強調した。もしそれができないのなら、海軍に命令を出し、それでもだめなら、自ら現地に出向く積りであった。

 天皇が、責務を負う陸軍長老らに自ら指示を与えている間、陸相公邸で指揮に当たる六名の若手将校は、要求に対する回答を待ちながら、中庭において、助言や希望を言って絶え間なくやって来る上官たちに対応していた。実際、それは信じがたいことであったが、陸相公邸や近くの陸軍省、参謀本部での業務は、叛乱兵たちがその戸口のいたるところに立って警備線を設けているにも拘わらず、順調に続けられていた。

 午前10時、片倉衷〔ただし〕少佐――満州事変当時の南陸相の甥――が川島邸に通常連絡任務でやって来た時、そうした状況の不調和が露呈した。片倉少佐は、1934年の士官学校事件を暴露する手助けを行い、その際、今度の叛乱に参加している多くの若手士官を裏切っていた。驚くまでもなく、そのうちの一人で、小冊子を作成した磯部――不名誉な退役処分となった――が、その彼の頭への一発の弾丸でそれを迎えた。片倉は、後にビルマで不運にも連合軍の捕虜となり、1944年に殺された 〔これは誤りで1991年死亡〕 が、その時は浅い傷で済み、回復した。彼の同僚の士官たちは、その負傷は当然のこととして受け取り、それ以降も、公邸に出入りする訪問者は続いた。

 正午、最後の軍事参議官が謁見をおえた時、川島陸相は、山下少将を宮中の侍従武官室から叛乱軍へと派遣し、返答を与えた。それは簡単なもので、 「天皇は諸君の意図はお聞きになった。陸軍大臣は諸君の動機の真摯なるものを認める。軍事参事会が招集され、国体の保持が決定された。」

 この通知ほどの致命的なものはなかった。血に染まった若い叛乱者は、彼らに対する天皇の、氷のような態度を感じ取った。彼らの敗北であった。もし彼らが空しく死ぬのであるなら、彼らは、最後の一人まで占拠を守り通すことを、山下に宣言するしかなかった。

 山下は宮廷へ電話した。彼は対話を続けよと言われ、部隊の増強が確約された。そしてすぐ後、顔の広い鈴木貞一大佐――天皇に近い人物として知られ――と、第一師団司令官、小藤恵大佐――時分の指揮下にある若手士官への責任を負っていた――が、交渉チームに加わった。

 交渉が、愛国的精神論に足をとられて遅々としている間に、裕仁は、国中で最高の各諮問団を招集し、その午後を彼らとの対応で過ごした。つまり、宮廷のある一室では、天皇の臨席のもとに枢密院会議が開かれ、他の一室では、ようやく宮中へと到着した内閣閣僚が集まっていた。第三の部屋では、軍事参議院が招集されており、北進派指導者の荒木や真崎が参加していた。内閣は、天皇から、岡田首相――その時はまだ押し入れの中に居た――を欠いた政府の継続について問われた。

 それは、長い午後だった。裕仁は、政府における何らかの変化は、改造への一歩であり叛乱の成果とみられかねないため、新首相の指名はしたくなかった# 2。それに、軍事参議官の責務を軽減することも、たとえ口先だけの懐柔だとしても、それを望まなかった。叛乱兵が兵営にもどった時、裕仁は建設的な政府を再開するつもりだった。従ってその時まで、何らの署名もせず、ただ不満足でいる以外、いずれの側にも立たないとの姿勢を維持した。

 # 2 岡田首相が生きているとの知らせは、憲兵がその日の午後早く裕仁に知らせたものと推定される。しかし、首相が占拠地区から脱出に成功した午後遅くになるまで、その存命の知らせは裕仁の周囲の宮廷人には知らされなかった。

 内閣は、内務大臣の後藤文夫を首相代理に選んだ。また、軍事参議院は、ついに、 「説得文」 と 「勅令」 を叛乱軍に発することに同意した。説得文は、「諸君は天皇の注意を喚起することを望み、それは達せられた。諸君の国体の顕現を望む真摯な願いは注目されている」 とのみ述べられていた。勅令は、「1935年度の国防計画にのっとり、諸君らの師団の他部隊とともに、諸君らは、東京防衛のための所定配置につくべし」 というものだった。

 一方、枢密院の御前会議では、天皇からの直接命令を出すことで、叛乱軍を解散させるのがよいのか、それとも、戒厳令を宣言し、鎮圧の責任を陸軍に与えるのがよいのかをめぐって討議された。裕仁は、自由な議論の外見を維持するための必要から、注意深く聞くのみで、何らの発言もしなかった。そこで彼は、採るべき第二の行動を起こし、簡単な便法に出た。すなわち、20ないし30分ごとに侍従武官長の本庄を呼び、あたかもニュースを聞くかのように、「陸軍は、気違いじみた叛乱兵の鎮圧に成功したかね」、と彼に尋ねた。そうしてついに枢密院は、しぶる陸軍に戒厳令を引くよう勧告することに同意したのであった。

 午後3時、第一師団は1935年度の緊急事態計画にもとづき、兵士を防衛配置につかせ、叛乱をおこした同僚兵士と切り離した。午後5時、実りのない半日の交渉の後、山下少将は、報告のために宮中にもどった。その際、三名の叛乱軍士官がその聖域内に入ろうと彼に続いたが、警備兵によって阻止されねばならなかった。

 山下の落胆する報告を聞いた後、湯浅宮内大臣は、信頼に足る家臣はすべてその夜は宮中に宿泊し、軍事参議院が先に決定した戒厳令をその真夜中より発令する、との裕仁の要求を伝えた。川島陸相はそれに従うことを確約したが、戒厳令が効果的かどうかを疑った。彼は湯浅内大臣に、次期内閣に陸軍が望む人物のリストを天皇に提示してもらえないかと要望した。湯浅はその要望を憤慨して拒否し、それを、天皇の大権の干犯であると決め付けた。川島陸相は、「狼狽した様子」 で、戒厳令本部の設置に取りかかった。大角海軍大臣が、午後6時30分、謁見を許され、暫定内閣と暫定首相を指名することで、国民の不安を解消してはどうかと嘆願した。

 天皇はこれを拒否し、 「もし陸軍がこの緊張を避けたいと望むのなら、言葉による確約をもらいたい」 と述べた。その夜、陸相公邸の五名の叛乱軍士官は、林、真崎、荒木、寺内ら、少なくとも七名の将官と対談した。こうした上級制服組の登場でも、膠着状態は打開できなかった。叛乱軍は先の要求を繰り返し、逆賊とすら呼ばないようにとつけ加えた。

 その夜、内閣は、二度にわたって解散した。最初は、午後9時、後藤代理首相が内閣総辞職を宣言した。それは、国家的な災難があった後に行われる、通例的な対応であり、天皇は、これも通例的にそれを却下したものだった。「平和と秩序が回復されるまで、むしろ真剣にその責任を果たすべきだ」、天皇は言った。

 しかし、今回はこれでは終わらなかった。天皇の前から退出した閣僚たちは、その午後をそこで議論して費やした控えの間に戻った。その朝の暗殺で怖れを抱き、また川島陸相になにがしかの同情を抱いて、各自の辞表をとりまとめた。彼らはその提出を午前1時に行った。裕仁は、それを受け入れる以外に選択はなく、それぞれの大臣に、「新内閣が組閣されるまで、政務に留まるよう」 命じた。彼は明らかに、困っていた。彼はその日、もう疲れ切っていた。

 裕仁自身の家族さえ、裕仁が危険なほど非妥協な態度をとっていることを案じていた。伏見親王と朝香親王は、皇族会議の開催を求めており、裕仁の弟、秩父親王は、彼らの肩を持ち、地方からその会議に参加するために呼び出されていた。内大臣秘書の木戸は、朝香親王と東久邇親王の立場を感じ取るため、その夕を二人とともに過ごし、彼らの忠誠を再確認して報告した。

 しかし裕仁は、再確認を受け入れる雰囲気ではなかった。彼は、その朝から着ているしわくしゃとなった軍服をまだ着けており、午前2時少し前、内閣から出された辞表を読むために座った。午前2時、彼は侍従武官長の本庄に電話し、寝床にいる彼を起こした。「川島陸相は辞表を出し、他の閣僚も同じだ。彼は、誰も同じ責任を負うと考えているのかね。そんな感覚で、陸相が務まるとは思えん。」

 本庄は、 「殿下はその後で、格子戸を通り、ご自分の寝室へ入られたのだと思います」 と、裕仁との電話を切ったのち、日記に記入した。


二日目(80)

 2月27日の夜が明けた、決起二日目、雪はやんだものの、寒さは続いていた。戒厳令はその未明、2時50分に公布された。午前5時、侍従武官長本庄は、伏見親王の私的訪問によって、宮中の間に合わせの寝具の中で、寝たりぬ目を覚まさせられた。伏見は本庄に、若手士官たちが夜中、伏見邸を訪れ、叛乱を解決する条件として内大臣の地位を求めてきたと報告した。むろん本庄は、それに言質は与えなかった。午前7時、裕仁の叔父、朝香親王は、裕仁の弟の高松親王を海軍士官学校に訪ね、裕仁が新内閣を早急に指名するよう、彼の後押しを求めた。だが高松はそれを辞退した。

 宮中では、侍従たちの控室が、まるで難民収容所の様相をていしていた。高齢の閣僚、将官、親王、侯爵らが寝巻姿で朝飯や茶をとり、寝心地の悪かった一夜の後、それぞれの会話を交わしていた。皇居の門外では、叛乱軍の歩哨が、雪の中を行き来していた。地下鉄〔「省線」 のことか〕の 「中央線」 は、運行を停止していた。ビジネス街や東京南部の港湾地区に通う通勤人たちは、皇居周辺の占拠地区を避けるため、何度も乗りかえを強いられていた。裕仁は遅くまで眠っていた。いつものオートミールと玉子のたっぷりな朝食の後、彼が机には向かったのは、8時と9時の間であった。

 侍従武官長の本庄は、天皇に朝の挨拶をしに行った際、彼の率直なほとばしる意気に圧倒された。 「もし、叛乱の暴徒たちが、陸軍最高司令官の命令にただちに従わないならば、私は自ら、彼らのところに出かけるつもりだ。」

 それに答えて本庄は言った。 「直接行動部隊の士官は、天皇の部隊に勝手に命令し勝手に出動を命じました。それは、天皇の統帥権を犯すことです。当然、それは許されざることですが、彼らを行動させている精神は考慮に値するものです。彼らは完璧に愛国的確信と国民に成り代わる思想によって行動しております。彼らの心には、陛下を強要しようとが、陛下の力を悪用しようとかと考える積りは毛頭ありません。」

 しばらくした後、裕仁は本庄を呼んで言った。 「彼らは私の右手である家臣たちを殺した。そうした凶暴なる士官には、いかなる心的動機があろうとも、微塵の弁明もありえない。私の最も信頼しうる家臣を倒すことは、真綿をもって私の首を絞めるに等しい勇気だ。」(81)

 本庄は答えた。 「老いた家臣を殺したり傷つけたりすることは、最悪の犯罪であることは言うまでもありません。しかし、彼らは混乱し誤解はしているものの、国のために行っているものと信じております。それが彼らの信念であります。」

  本庄は日記にこう記している。 「私はこう、いろいろ違った方法で陛下に申し上げた。」

 裕仁は、 「侍従長、そなたは、彼らの行動が、単に、私利私欲によるものだということが認められないのかね」、 と首をふりながら言った。

 本庄は、ふさわしい返答ができぬまま、日記にこう書きとめている。 「この日はまた、陛下はたいへん昂ぶっておいでで、行動部隊を鎮圧する陸軍の努力は、どこにも見られぬと言われた。そして私に言われた。『朕# 8は、近衛師団に命令を出し、自ら、叛乱部隊を鎮圧する』」(82)。

 # 8  「朕」 とは、中国のかっての皇帝が用いた 「我々」。この表意文字は、天の耳に話しかける月を表している。(83) 〔この説明はあやしさは脚注のように著者も気付いている。 「朕」 については、翻訳の他の個所ではあえてこの用語は用いず、 「私」 で通している。〕

 その日は丸一日、国民は緊迫にさらされた。そのさ中、裕仁は執拗に、少なくとも13回は本庄を呼びつけ、陸軍が行動を開始したかどうかを尋ねた。川島陸相と老将官のほぼ全員は、皇居から数地区北にある憲兵隊本部に、戒厳令司令部を設置する準備に追われていた。午前10時30分、近衛師団が叛乱軍占拠区画の北西角に、向かい合って陣取った。また、第一師団の忠誠を維持している部隊が、その南西および南東地区に配置された。占拠区画の北東部は、皇居のお堀でさえぎられていた。その日の午後、叛乱軍は皇族会館に押し入り、居合わせた人たちを片っぱしから取調べ、16人の侯爵、伯爵、子爵、男爵たちをひとまとめにして、その夕刻まで、拳銃を突きつけていた。

 西園寺のスパイ秘書の原田は、叛乱軍の警戒線を突破して潜入し、拘束されている皇族の幾人かと接触したが、その帰路、彼の顔を知る叛乱軍士官に阻止された。その士官は後にこう証言している。「もし彼が怖がっている様子を表わさず、あるいは、嘘をついて逃亡を図ったならば、自分は彼を殺しただろう。しかし、彼は、警告するだけで見逃してほしいと、いかにもか細い声で話していた。」(84)

 午後、事が沈静すると、誰もが、裕仁の弟で叛乱軍指導者たちの友人である、秩父親王が東京に到着するのを待ち受けた。秩父親王は、その夜に予定されていた皇族会議で、裕仁に何かを言ってくれるものと期待されていた。内大臣秘書の木戸は、ほぼ丸一日を費やして、朝香、東久邇両親王と 「打開策」 について話し合った。午後5時17分、秩父親王の列車が上野に着いた時、叛乱軍もしくは陸軍が親王を誘拐するとの噂があったため、彼は侍従や警察の厳重な警護で迎えられた。そして彼の車列は、およそ4マイル〔6.4km〕の市街を、サイレンを鳴らしてフルスピードで走り抜け、30分で皇居に到着した。彼は直ちに天皇に謁見し、天皇、皇后との内輪の夕食をとった。

 午後7時頃、彼らに他の親王たちが合流して、皇族会議が開催された# 4。侍従たちの話によれば、発言は申し合わされたもので、その雰囲気は上品なものであった。裕仁は、各々の親王に次々に質問をあたえ、用意された短い見解表示――中国をはじめとする様々な時事、長期軍事計画、そして国政改造など――に耳を貸した。しかし、その主要な懸念は、新内閣が早期に組閣されず、陸軍とともに譲歩が打ち出されなければ、叛乱軍の勢いが地方に広がらないかということだった。裕仁は親族に礼を述べ、そうした諸意見について検討することを約束し、午後8時30分、さしたる盛り上がりもないまま、会議は散会した。その後、秩父親王は大兄の木戸と、およそ30分間、話し合った。(85)

 # 4 皇室典範によると、 「皇族は天皇の配下にあり」、皇族会議は、 「成年に達した男子皇族によって構成される」 とある。加えて、天皇は、外部の立会者、ことに、内大臣、宮内大臣、法務大臣、最高裁長官の出席を求めることが予定されている。1936年段階では、16親王がその資格を有していた。そのうち、6名が「親王」、10名が「王」であった。6名の親王とは、裕仁の3兄弟に、皇族選挙によって親王となる、次直系の家族の3名の王子――陸軍参謀総長の閑院親王、海軍軍令総長の伏見親王、そして、1934年にヒットラーに会った狂信的な賀陽親王――を加えた面々であった。この2月27日の皇族会議に参加した親王たちは、弟の秩父、弟の高松、従兄の伏見、(全員が親王)、そして、叔父の東久邇、叔父の朝香、従兄の梨本、そして、閑院親王の息子の春仁〔はるひと〕(全員が王)であった。(86)

 その皇族会議は、二つの結果をもたらした。そのひとつは、小田原の別荘で意気消沈していた陸軍参謀長の閑院親王が東京に呼ばれ、 「たとえ都合が悪くとも」、天皇の背後に着くことを求められたことだった。翌日、閑院はそれに従ったが、どうしたことか、それから一週間、彼の君主とは会わせてもらえなかった。第二は、会議の夜、秩父親王が、友人で叛乱軍の最高の地位にある、野中大尉あての私信を書き、彼の部隊の撤退を懇請したことだった。野中は、一日考えた末、自分の口に拳銃をくわえて引金を引くという返答を行った(87)。侍従らは、親王たちが自分と叛乱軍下士官たちとの交友や交際関係がゆえに狼狽させられていながら、それでもそうした紛糾の中で、裕仁の側についているのを見て安堵していた。秩父親王は、午後9時10分、警察の護衛とともに宮廷を後にした。

 翌朝、裕仁は、皇族会議についての見解を、宮廷の公式記録とするため、大兄の木戸――賞勲局長――に次のように報告した。 「高松宮が最も良ろしい。秩父宮は、5・15事件の時以来、大きく成長した。梨本宮は、〔この叛乱軍に〕私の恩赦を求めた時、涙を浮かべていた。私は彼を立派だと思う。春仁〔閑院の息子〕は気品がある。朝香親王は、正義の個人にとっての意味と、皇位の大義におけるその位置をのべたが、過激思想の影響を受けており、欠点がある。東久邇親王については、いい感覚を見せていた。」(88)

 裕仁は、一族の模範を示す者として、東久邇親王の最近の恐喝事件と宗教詐欺に関する警察文書を読むことを求められていた。だが天皇は、自分の親族を、通常の日本人の道徳観によってではなく、いかに忠義であるかどうかという基準で判断した。平穏な皇族会議で彼は、自分の親族にただならぬ支配力を証明して見せたのであった。

 会議が解散してしばらくして、真崎、阿部、西の将官たちは、陸相公邸におもむき、その一階で指揮をとる五人の叛乱軍士官に、望みを捨てて天皇の意志に従えと告げた。もし、彼らがそれに従わない場合、北進派の指導者真崎は、彼らを鎮圧するため、自ら特派部隊を指揮せねばならぬと宣告した。疲労し、悲嘆にくれた若き兵士たちは降伏に合意した。午後11時30分、三将官は、近衛師団と第一師団の歩哨に、その夜、叛乱軍占拠地区から脱出しようとする一般兵士には寛大であるようにと命令を出したと、宮廷に報告した。

 しかし、それで事が終わったわけではなかった。叛乱軍は、あらゆる機会を通じて、東京郊外の隠れ家にいる急進的北進派理論家北一輝と、無線連絡を取り続けていた。職業革命家としてのそれまでの長い経歴の中で、北は、クーデタの策謀への表立った参加は避けてきていた。しかし今回は、彼はもう深く関わり、もし叛乱が失敗した場合、処刑される恐れがあった。それまでの二日間、彼は無線機に付きっきりで、その度ごとに叛乱軍を勇気付け、政治的駆け引きの助言を与え、また、霊媒の力をもつとの評判のある妻によるお告げを伝えていた。

 その2月27日の夜、三将官が陸相公邸を引き上げた後のほぼ深夜、北は二人の叛乱士官と話し、まだあきらめてはならず、宮廷への圧力は高まっている。しかし、もしすべてが裏目に出た場合、彼らには審判なしの略式の死刑が科されるだろうと告げた。そして北は、その若手士官たちに、妻が見た夢の話を付けくわえた。それは、貧困のない極楽浄土で若手士官たちが勝利を祝い会っていた。叛乱軍はそれに聞き入り、それに賛同した。

第三日(89)

 決起二日目の2月28日は、再び、曇天だった。侍従武官長の本庄は、午前7時、反乱事件の核心が変化したことを知らされた。すなわち、反乱軍は鎮圧されなければならぬ、というものとなった。ということは、本庄の娘婿、山口一太郎大尉が、いまや明白な反逆者と化した者たちに援助の手を貸したということで、刑務所送りとなることであった。それはまた、本庄自身の長年の忠義の経歴が恥辱にまみれるということでもあった。後に、彼の知人たちが語った話によれば、彼はその日一日で、一挙に、十年以上も年老いたということだった(90)。

 午前11時頃、山口は戒厳令本部へ行き、叛乱軍を武力鎮圧する発令に対し、ほとんど一時間もかけて、それに反対する演説を行った。将官たちは、それに完全な同情をもって聞き入ったが、何も発言はしなかった。正午前、戒厳令参謀の石原莞爾大佐――満州作戦を立てた頭脳明晰な〔日蓮宗〕信者で、以来、対中和平を唱導してきた――は、長い会議机の端から立ちあがって言った。「我々は、出来る限り速やかに、鎮圧せねばならぬ」(91)。 そして彼は部屋を出て、外の使いに、発令書を配達するよう命じた。

 第一および近衛師団は、一団となって鎮圧にあたり、叛乱軍のバリケードを爆破する計画に入った。叛乱軍士官は、 「降伏せよ、さもなくば鎮圧される」とのラジオ放送を聞いた。それに対し、叛乱軍は、 「皇意を過させる機関説論者によって成された命令には従えぬ」 と返答した(92)。

 この段階では、秩父親王の伝言が野中大尉に伝えられ、また、山下少将が妥協に持ちこむ最終案を持っていたため、包囲する鎮圧軍には、 「待機」 と命令されていた。バリケード内での交渉の後、山下は川島陸相を伴って、午後一時、宮中の侍従武官室に戻った。そして山下は本庄侍従武官長に、叛乱軍士官からの誓約――それが作法に則ったものであると天皇に伝える勅使の立会のもとで、全員が自決する――を伝えた。本庄は直ちにその提案を裕仁に報告した。

  「もし彼らが自殺したいのなら、勝手にさせなさい。そうした物たちに宮廷から立会人を送るのは、ともあれ、ありえないこと」、と裕仁は言った。

 本庄は、自分の娘婿が士官を勤める第一師団は、以前の同僚に対して行動をしかけるのを嫌がっています、と哀れっぽく訴えた。

 裕仁は声に鋭利さを込めて言った。 「もし第一師団の司令官が有効に行動できると考えないのなら、彼は自分の責任が何かが解っていないことだ」。

 本庄は 「陛下に、そのような厳しさと怒りを見たのはかってなかった」 と目を見張らされていた。陸軍の指導者たちは、自決提案への裕仁の拒絶に唖然とさせられていた。娘婿の山口は、悲嘆と不可解の中で本庄に電話し、再度、天皇に働きかけてもらうよう懇願した。本庄は山口に、天皇はすでにいかなる曖昧さも含まない決断をし、さらに表すものは何もないだろう、と説明した。それでも、なおも働きかけを求める娘婿に、本庄は、悲しげにその電話を切った。(93)

 午後3時、無頓着な参謀次長の杉山――その表情は 「まるで湯殿の扉のようにぼやけていて」 ――は、裕仁に謁見を求め、さらなる説明を願い出た。誤解があると彼は言い、叛乱者は、自分たちの自決に勅使の立会いを求めているのではない。ただ、ある家臣が、彼らの遺体を見届け、陛下に、決まり正しく腹切りの儀式を果たしているかを報告してほしいのみである。裕仁は、怒りを再燃させて、その新たな面子作り措置を見捨てた。この報が知らされた時、叛乱軍のある士官は、「しかし、飛行機事故ですら、陛下には報告されるだろうに」、と嘆きながら言った。

 杉山参謀次長が天皇のもとに戻り、ほぼ一時間を要して、天皇をもっと慈悲深くさせようと、あらゆる手練手管の努力を行った。そして最後には、廊下に身を横たえ、天皇に、自分を踏みつけてもらいたいとすら訴えた。天皇はただ、彼をまたいで通り過ぎ、隣室で待ちうけている次の用件に取り掛かった。午後4時30分、結局、杉山と戒厳令軍# 5司令官、香椎浩平〔かしい こうへい〕中将は、その日の鎮圧行動はすでに遅すぎ、翌朝、一番に第一行動がとられると天皇に確約した。だが裕仁はそれを素っ気なく却下し、本庄侍従武官長を呼び、陸軍指導層のおしなべての不服従を非難した。

 # 5 少なくとも23,491の兵卒と350の将官が、1,483の叛乱軍に対し集結していた。

 裕仁は、 「陸軍は天皇に属すという話もあるが、陸軍は事件の重要さを意図的に回避しているとの話もある」、と言った。

 それに本庄は、 「軍事政府を樹立しようとの意図のもとで、目下、陸軍は陛下のご意思に従うことを回避していると、この数時間、人々は申しております。こうした声は天皇の陸軍を極めて侮辱し、事件を速やかかつ平和裏に解決しようとしている陸軍の真摯な努力を無視するものです」 と返答した。本庄は後に、日記に次のように記している。

 私は陛下に、陸軍に対する世論の誤解は、聞くに堪えられぬほどに厳しい、と申し上げた。そう言いながら、感情を押さえることができず、悲嘆にくれてしまい、話すこともままならなかった。陛下は一言もおっしゃらず、部屋を出ていかれた。

 ひと時して、陛下は私を呼び、おっしゃられた。 「侍従武官長、陸軍に対するふとどきな非難が高じ、そちはそのように涙して、その理由を示してくれた。だが、もしこの事件がすみやかに解決されねば、よろしくない事態が起こる。すでに三日が過ぎ、政府の地位は揺らいだままだ。外国為替はほぼ停止し、銀行取引がそうなるのも近い。政情不安は首都以外にも広がり、叛乱の危険もある。第一師団の忠誠部隊も、我が部下を殺し、長老たちに野蛮な行いをした同志たちと合流するやも知れぬ。ゆえに私は貴殿、侍従武官長に、自身の異論と感情を軍事参議院で表明するよう許可を与え、状況を直ちに解決するように求める。」

 本庄は、軍事問題に関し、すべての天皇の見解に成り代わる公的責任を負う立場にあった。過去において、この両者の間に見解の違いがあった時、裕仁がその老将をなだめたり、自分が譲歩したりしてその違いを埋めてきた。だが今や、裕仁は特別に、その本庄をそうした責任から解き、〔軍事参議院にのぞみ〕その彼の異論を公式記録に残させようと求めていた。そして同時に裕仁は、本庄に厚く信頼をおいており、腹心としての任務から解こうとしていたのであった。

 (本庄の日記によると) その求めに従い、私は軍事参議院に、代表者を私の部屋によこすようにと求めた。北進派の荒木大将がやってきたので、私は彼に、一方で自分自身の心情と、他方で、天皇のご意志を伝えた。すると荒木大将はこう言った。 「これまで、天皇の命令は、軍事作戦を除き、有無を言わせぬものであると心得ておりました。」

 59歳の荒木、60歳の本庄の二人の大将は、たがいに物悲しく見つめ合った。二人は、1989年に陸軍士官学校を卒業した同期生であり、それ以来、参謀本部において、さまざまの任務を共に果たしてきていた。二人は、過去において裕仁が、異なる意見の助言者の間から選んできたのを知っていた。また二人は、裕仁が、自分が欲する行動を提案している助言者を見つけるために、自分の道を外すことも知っていた。しかし裕仁は、それまでに決して、軍事参議院の助言を無視したことはなかった。だが今や、その35歳の現人神は、菊の御簾の内から出現し、専制的責任の全てを負おうとしていた。その二人の年長の大将は、互いに軽く礼をした後、その皇意に頭を下げた。その後、陸軍のすべての長老は、あたかも自らの責任はないかのように行動し、ただ、他の者に追随するようになった。それは歴史的瞬間であり、その二人の大将は、まゆをわずかに動かす以上の食い違いもなく、それを認めたのであった。

 軍事参議院は、裕仁を危険な地位にさらすことから予防するための一つの努力を行った。午後7時30分、一組の代表団――荒木陸相、前陸相の林大将、そして参謀次長の杉山中将ら――は、小田原からの列車で着いた閑院親王と会い、裕仁の考えを変えるよう彼に説得してもらおうと試みた。閑院親王はそれを断り、自邸へと引き上げていった。陸軍長老からなる代表団は戒厳令本部へおもむき、そこで将校との会議を開き、状況を説明し、「陸軍の軍紀を破壊する武力制圧は、いかなる犠牲を払ってでも避けねばならない」 という意見を共有することに努めた。

 戒厳令軍参謀、石原莞爾大佐――満州作戦立案者――は、正午以降、自分の発した命令が遮られていることを見ていた。その意図は理解されておらず、石原はそこで立ち上って、その代表団を率いる荒木大将を凝視し、そして言い放った。「これは統帥権の干犯である。貴殿の名前と階級を名乗られたい。」

  「貴様は私が荒木大将とよく心得ておろう。貴様は上官に無礼を働こうとするのか。口を慎め。」

 それに石原は、 「できませぬ。皇軍を皇位に対して用いることは、断じて許さざることであり、常識を越え、軍紀どころの問題ではありません。貴殿は自ら大将と称されるが、日本にそうした愚かな大将がおられるとは、信じがたい」、と応じた。(94)

 この信義厚い憤激の表出がゆえ、石原は、数ヶ月後の大粛軍において、陸軍内に留まり得た。その後石原は、 「最後の北進論者」 と認識されるようになった。彼がつかつかと指令室から出て行った後、荒木やその他の大将たちは、翌朝に計画されている鎮圧行動を阻止する何の手だてもなかった。しかし、彼らは香椎戒厳令司令官に、武力によらず、叛乱軍を出来る限り説得するようにと説いた。その夜を通じ、ラジオ放送や叛乱軍の周囲を走るトラックが、「降伏か、さもなくば鎮圧化」 と繰り返した。上空を飛ぶ爆撃機からは、下士官や兵卒は恩赦されると書いたビラが投下された。夜明けには、叛乱軍に、妻や子供たちのために降伏せよ、と示したアドバルーンが上げられた。

 その夜、山口大佐――本庄侍従武官長の娘婿――は、憲兵により大逆罪の嫌疑で逮捕された。


裕仁による解決 (95)

 翌2月29日、蹶起3日目の朝、第一師団の部隊は、叛乱軍の境界線の無防備な部分を通って移動し、予想される戦闘地区から民間人を非難させ始めた。また、叛乱軍側は、しだいに占拠地区の主要拠点へと集結した。午前9時、香椎〔かしい〕戒厳令司令官は、ラジオを通じて国民にこう通告した。 「若手士官たちは遂に、叛乱者と見なされる事態に至った」。午前10時、部隊と鉄条網によって彼らは閉じ込められ、動揺した叛乱軍兵卒が、二人、三人と、彼らの占拠地点の回りの雪の積もった芝生や広場を横切り、脱出を始めた。正午、秩父親王の友人の野中大尉は自殺した(96)。2時過ぎ、すべての部隊が降伏し、憲兵隊によって拘留された。

 裕仁は、最後の最後まで、疑念を頑固にも解こうとはしなかった。朝8時30分、陸軍の行動開始が最初に明らかになった時、内大臣の木戸は、裕仁に、「新内閣を指名して、国民を安心させては」 と助言した。だが裕仁は、 「制圧が完了するまで待ちたい」 と返答した。そして、制圧が終わった時、彼はそれでも満足していなかった。午後2時、彼は、興津に公式の使者を出すのではなく、電話でもって、西園寺親王に従来の要請――上京して首相を奏薦――を行った。腰痛を理由に、西園寺は、上京するまでに少しの時間が欲しいと返答した。午後4時、裕仁は西園寺に再び連絡し、組閣は緊急に必要で、出来るだけ早く上京するようにと告げた。

 西園寺が気持ちを整理している間に、一日が過ぎて3月1日を迎えた。この日は日曜で、東京はこの日曜ばかりは、、西洋伝来の休日を楽しんだのみならず、本当に疲労回復と休養の一日となっていた。だが、裕仁は例外だった。彼は朝早くに起床し、軍服を着け、夕方遅くまで机に向かっていた(97)。それは、その先の数週間に自分に課すつもりの日課だった。彼は毎日一時間の運動を断念し、3月18日には、主要家臣の代表がやってきて、掛け替えのない身体に配慮するように懇願しても、なおも格別な注意は払わなかった。裕仁は、最後の兵が降伏するまで容赦なく攻め立てない限り勝利は危うい、という軍事的金言をそのまま実行していた。

 3月2日、老公西園寺が東京に到着した時、裕仁の大兄たちが整えていた段取りは、ジュリアス・シーザーよろしく、彼らの指導者、近衛親王に、最初は首相の座、次に内大臣の座への就任を、それぞれ拒否するよう準備したものであった。それは、いざ中国との戦争が開始された時、その首相を近衛にする準備としての、手の込んだ芝居だった。近衛はそれまでいかなる公職にも着いたことはなく、ただ貴族院の指導者としてのみ知られていた。つまり国民には、彼が首相にふさわしい器であるとの考えが浸透する必要があった。そして、従順な人々は彼を受け入れたかも知れなかったが、陸軍が厳しい粛軍に面している時、彼はそれを受諾するわけにはいかなかった。だが、このことは、戦争中、彼の陸軍に対する指導性を弱めることにもなった。

 西園寺は、近衛の首相受入れの不誠実を明らかにさせようと努めた。近衛が各方面の有力政治家から推されているのを知って、西園寺は近衛と会い、彼がその気でないことを知った。新聞報道では、近衛の奥ゆかしさと称賛されたが、西園寺は近衛の辞退をよそに、それでも公式に彼を天皇に推薦した。裕仁は自ら、近衛の健康が充分でないとして拒否することで、前例をくつがえした。だが西園寺は、なおも自分の推薦を繰り返して主張したため、裕仁は慣行上やむをえず、3月4日、近衛を呼んで組閣を求めた。

 天皇との謁見を終えた近衛は、内大臣秘書の木戸に、 「まったく困っている」 と打ち明けた。一晩たった翌日、近衛は西園寺に再び会い、容赦を求めた。彼はその時、自分の医者の診断書を持参していた。それは、少なくともあと三ヶ月、その健康は職務を成し遂げ得るものではない、と述べていた。三ヶ月後とは、陸軍の粛正が完了する時だった。

 そこで西園寺は、近衛はこの危機の時にあっても、政府を引き受けるという天皇の命に従うことを拒否したと公表し、自分を後継する血縁者の経歴を台無しにすることも、不可能ではなかった。だが、長い議論の後、そうする代りに、西園寺は態度を和らげた。彼は、国のためとはいえ、自らの健康を犠牲にできない大政治家の苦しい立場を見たと、新聞記者に語った。そうする一方で、彼は謁見室に戻り、実に困惑させられることですが、自分の推薦を変えなければならないと報告した。そうして今度は、裕仁の側近集団のより下位の中年者、広田弘毅外務大臣を推薦した# 6。

 # 6 生え抜き外交官の広田は、地下組織の首領、頭山の手下としてその経歴を始めた。1921年に近衛親王と知己の関係となり、黒龍会の内部より、彼の情報提供者の一人となった。

 広田は、3月5日、裕仁より内閣を組閣するよう命じられたが、3月9日になるまでその職は与えられなかった。というのは、その4日間、軍および政界は、内閣の政治、人事の両面について、それぞれに無理な要求を突き付けていたからだった# 7。「広田の困難」、「政府を組めない日本」と、新聞の見出しを埋めている間に、裕仁は自らの強固な外交諸政策を押し通した。

 # 7 陸軍の強要で、牧野伯爵の娘婿、吉田茂――1946年から1954年の間、5度にわたって首相をつとめる――は、警察を管轄する内務大臣の地位より下ろされた。

 3月4日、裕仁臨席のもとでの枢密院は、叛乱軍の若手士官を非公開の軍法会議にかけることと決めた。ということは、その上告はできず、その刑の執行も直ちになされるということを意味していた。3月2日、陸軍の各大将は、「最近の許し難い事件」 の遺憾の意を皇位に表わすため、その全員が職を辞任した。3月6日、裕仁はその大量辞任を受入れた。それは、単なる形だけのものではなく、4月23日付をもって実行されるものであった。さらに、裕仁は三名の軍規上の例外を残すという規定上のきまぐれを認めた。すなわち、粛軍派指導者、寺内大将とその同僚である西大将および植田大将は辞任しなかった。その寺内は陸相となり、西は教育総監に、そして植田は関東軍司令官となった。

 宮廷の廊下を満たした抗議の声と小走りする足音が静まった時、自身の義務的退職を前に面子を失った苦痛な二週間を待たされていた侍従武官長の本庄は、その例外は「天皇の大権の行使」 とその日記に記している。同様な流れで、3月9日、裕仁は、軍事参議院と陸軍最高司令官のメンバー、閑院元帥、朝香中将、東久邇中将は辞職する必要がないとの措置をとった。

 3月9日、広田内閣がようやくに組織を固め、機能を成し始めた時、裕仁は国威の統一に専念し、朝から真夜中まで、反対派に対し、非機関説に立った教育をほどこした。そして彼は、国事文書の公式署名を、「大日本帝国大権」 から 「大日本帝国神聖天皇」 へと改めた# 8。彼は、その叛乱に加担した4連隊の廃止を考えていたが、天皇への忠誠に対する雅量を見せるため、連隊旗を残し、一部の部隊を維持することは認めた。

 # 8 それは、裕仁が一月末から考えてきた進展だった。

 それと同時に、裕仁は、国防のための新たな徴兵計画を案として承認した。それは、四つの部門からなるもので、その国防体制下にはさまざまな部署が設けられていた。その四部門とは、① 「憲法条項に従い」 国会に図られる財務部門、②内閣に報告される戦略と総合計画部門、③首相に報告される動員および人事部門、そして④天皇と少数の参謀将官のみが関与する詳細作戦部門であった。そしてこの1936年3月に組織された専門部署のひとつが、北京近郊での夜間作戦計画で、これは中国との全面戦争への口火となるもので、また16ヶ月後には実際にそうなった計画であった。

 この新国防計画の発足は、対中国戦に備えるというより、国の総合的戦力を構築するために寄与するものだった。日本は、中国戦に勝たねばならないだけでなく、西洋諸国からの介入を阻止せねばならなかった。広田内閣は、すでにその当時「準戦時経済」 として知られた統制計画を打ち立てていた。そして軍事支出はその後の12ヶ月間に三倍以上に膨れ上がった。赤字予算――叛乱で暗殺された賢明蔵相、高橋によって最低限に抑えられてきた――は、いまや時代の要請となっていた。工場の生産割り当てから為替交換まで、経済のあらゆる部門は、安易なお金の増刷と政府の厳しい統制に隷属するものとなった。

 これと同時に、陸軍の規模を17師団から24師団へと拡大するため、詳細な秘密措置がこうじられた。新設された7師団は、予備役から徴用された。対中国戦が開始される先立つ数週間のうちに、余りに手際よく、供給物資、将校、そして再訓練施設が用意されたので、そうした新師団は、一夜にして戦闘準備を整えることができた。こうして、もし公式記録をそのままに信用するならば、第114師団は1937年10月に創設され、ひと月も経たないうちに、中国内にあって、南京にむけて進軍していた。(98)

 陸軍の総体規模の41パーセントにもなるこの劇的な拡大が計画されている間、叛乱に憤慨していた裕仁は、それを指揮した士官の容赦のない粛清を命令し、それにより、その後の二年間、訓練将校に深刻な不足をもたらすほどであった。だが、その粛軍の必要に疑いはなく、また、3月3日の閑院親王と西園寺のスパイ秘書原田との会話に如実に語られているように、「過日の暴動に喚起されなければ進められなかったように――即ち、それが誰であれ、自らの内の臭いものにはふたをせよとの傾向の除去について――、我々には、陸軍の粛清を、容赦無き水準まで、徹底して成し遂げることが求められている。」(99)

 大掃除という誰も嫌がる仕事を担ったのは、粛軍派の寺内新陸軍大臣であった。1936年の3月から8月の間に、陸軍の八千人余りの士官のうち、二千人をお払い箱にした(100)。北進派の拠点部隊とともに、陸軍の戦略的頭脳の優秀な半数が、ほぼ一掃された。この粛清は軍の上層部にもっとも打撃を与えたが、その見返りに、新しく若い人材に昇進の道を開く結果となった。

 この天皇の専制的対処の後に不可避的に噴き出した憤慨や新たな政軍連携に対して、大兄たちの11人クラブはひとつの策を編み出した。それは、裕仁がふさわしいと判断できない内閣には彼が拒否権を持ち、また、その件に一切の形跡も残さないでそれが秘密のうちになされるというものだった。どの内閣も、陸軍および海軍大臣を含めなければならなかった。1913年に改定された法律は、現役および予備役の陸・海両軍大将の中から、その両大臣を選ぶことができた。ところが、現役将校のみが天皇の命令による拘束をうけたので、理論的には、西園寺が推薦する首相候補者には、天皇の許可を受けなくとも、閣僚大臣の一人を指名することができた。天皇は、当然に、そうした内閣の承認を拒否することはできたが、それは儀礼慣行にそうものではなく、彼の偏狭性を見せることにもなりかねなかった。5月初め、枢密院は、天皇臨席のもとで、陸海軍大臣は現役軍人のみに限るという法律改正を広田内閣に推奨した。

内閣はその改正に同意し、裕仁は直ちにそれに署名して改正法が成立した。5月18日、その改正は既成事実となり、ただそれがいつ発効するかのみが報道界と世間に知らされた。裕仁と宮廷内部集団は、その発効日議論を、望ましくない内閣の組閣を阻止したり、独自に〔宮廷の意にそわない〕目的を進める内閣をつまづかせるための常套手段とした。かくして 「軍」 という正体不明の怪物が跋扈をはじめ、恐怖をいだき、敬虔で、タブーを避ける国民は、そうした――叛乱以降、裕仁が名実ともに軍の最高司令官となった――現実にしだいに無知であるようになった。# 9

 # 9 1913年から1936年の23年間に、そうした選任は可能であったにも拘わらず、予備役軍人から両軍大臣が選ばれた事例はなかった。しかし、1944年、厳密には違法でありながら、裕仁は、ただ海軍人事部を呼び、米内という名を現役名簿に復活させるだけで、予備役の海軍大臣を生みだした。

 そうした重大な改変が日本の構造に加えられている一方、2・26事件の主唱者たちは、沈黙のうちに姿を消しつつあった。本庄侍従武官長は、最初、寺内陸相によってその職にとどまるよう勧められていた。3月8日、陸相は本庄に、「私こそ、多くの問題をかかえる地位におります。どうか辞職はなさらんでもらいたい」 と留意を勧めた。

 しかし3月16日、本庄は日記にこう記している。 「寺内が来て、娘婿の山口の罪状についての詳しい情報をくれ、心配していると言ってくれた。・・・その日、山口の家族が私の家に引っ越してきた。彼らの家具は、山口の実家にあずけた。娘とその子供たちを私のところで暮らさせたい、というのがその実家からの要望だった。」

 翌日の3月17日、本庄は皇位に自分の辞任の意志を伝えた。 「陛下は 『どの程度、そちの家族は関与したのか』と聞かれた。私は、 『どの程度は存じませぬが、目下お状況において、優先事項は陸軍の粛正であり、もし事例を示さねばないらならば、辞任する責任を感じます』とお答えした。陛下は、『それはそうであろう。よく考えておく』 と答えられた。」

 3月28日までに、その辞任は受理された。本庄には、お金、美術品、自身の机上の一対の文珍などが贈られた。 「これらを貴殿に贈りたい。私が長く使ったものなので」と天皇は言った。皇太后は、プラチナのカフスボタン、鮮魚、そして、彼女がこしらえたお餅を贈った。4月22日、本庄は、南大将――満州事変時、本庄が仕えた陸相――と伴に、予備軍に着くことを命じられた。

  「愛着の情を禁じえない」 と彼は記した。

 他の被疑者は、はるかに厳しく扱われた。無骨だが誠実な北進派の二番手指導者の真崎大将は、一年半にわたり、憲兵によって拘束された。1936年の最後の週、あくまでも罪状を認めぬ彼は、一ヶ月のハンストを行い、その最後には、水さえ拒否した(101)。病院に担ぎ込まれ、薬品の効果で健康を回復させられた彼は、結局、友人の荒木大将――北進派の一番の指導者――が 「歴史上もっとも長文の法文書」と言う判決をもって、無罪放免となった。その文書は、真崎の大逆罪へのすべての関わりを克明に指摘し、取って付けたような主文により、無罪を判決していた。彼の赦免は、近衛親王の努力――分派主義の傷を癒し、戦争に備える国民的一致を作ろうとする――が大きく寄与していた(102)。

 山下少将――宮廷のために北進派の兵卒をスパイし、若手士官の叛乱にはどっちつかずの態度を示した――は、朝鮮軍の旅団司令官に再任命された。それまでの数ヶ月間、彼は、宮廷からの指示を余りに広く解釈し、叛乱を煽り過ぎたためにその沈静化を難しくさせてしまったのではないかと案じていた。彼の妻によれば、彼は落胆し、民間の仕事を探し始めていたという。そして1936年12月、彼の宮廷での接点であった元侍従武官の川岸文三郎が、彼の上司の司令官として朝鮮に赴任してきた。川岸はその際、天皇からの感謝と激励の文書を持参していた。それを読んだ後、山下は大いに元気付けられた。そして彼はしだいに裕仁からの信頼を得るようになり、1942年には、帝国のためにマレーを征服することとなる。(103)

 叛乱に加わった若手士官は、銃殺刑に処せられた。相沢中佐――一番烏永田を暗殺した――は、叛乱後は閉廷されていた軍法会議に戻され、5月7日、死刑の判決が下り、6月3日、執行された。9日後、生き残っていた叛乱軍の19人の士官のうちの13人が、相沢に続いて銃殺された。彼らは全員、法廷でその意志と意義の申し立てをしたいと希望していた。だが彼らは、開廷の一時間前、軍法会議法務士官より、それが完全非公開で開かれるのを知らされた(104)。

 彼らのほとんどは、その死の直前、天皇に 「万歳」 ――天皇の永久の命を祈る――を献上した。うち何人かは、失望させられた友人、秩父親王に、せせら笑う万歳を加えた。「自分の遺体は貴殿にお任せします」 と言い残した者もいた。ある一人は、 「自分はそうした特権階級者らの深い反省を願う」 と叫んだ。別の者は、もの静かにこう言い残した、「天国行きを前に、皆が天皇陛下のために万歳を唱している。ゆえに自分も、天皇陛下万歳、皇国万歳を繰り返します。」 (105)

 また、他の者は、陸軍に関するいっそう困難なメッセージを発しようと試みた。 「日本人が皇軍への絶対的信頼をおこうとすればするほど、その信頼は裏切られる。ロシアは中央アジアでは無敵であり、それが日本に破壊をもたらすのだ」。北進派は、その東端のウラジオストックへのみ、ロシア攻撃を考えていた。中国の主要都市と農業生産地帯の掌握の後、裕仁がモンゴル砂漠を横切って、ロシアの脇腹、中央アジアに攻撃をしかけるべきだった。だがそれは、試みないで終わろうとしていた。

 2・26事件に関わった民間人が銃殺刑に処された時、北一輝――北進派の老練理論家――は、その居並ぶ銃口を見下して言った。 「座らなければならんのか、それともこのままで構わんのか」。そこで銃殺班が座らそうとすると、彼は叫んだ。「座らせたいのか。キリストや佐倉宗吾(1645年に磔刑にされた義民)のようには、立たせておくわけにはいかんのだな」。 だが、彼のこの皮肉に耳を貸す者はおらず、1937年8月19日、報道陣に注目されることもなく、彼の処刑は実行された。それまで、日本人は彼の苦難の運命論の精神を共有していた。それまで、日本人は自らを、隊列を組んで前進させてきた。そしてかくして、日本人は、中国との戦争開始を、あと一ヶ月後に迫らせていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_2.htm#kaiketsu
11:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:00:38

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm



天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
https://saiba.tistory.com/3133

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928~1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200~500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889~1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明~昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
https://saiba.tistory.com/3133
12:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:01:04

二・二六事件 2014.02.13 by フジッコ
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48
真実を探すブログより引用

かなり確信に近い情報を見つけたので、メモも兼ねて紹介します。当ブログでは世界の裏事情と真実について、だれでも分かりやすいように少しずつ説明していますが、最終的には太田龍氏が述べているようなことに行き着きます。
ちなみに、彼が述べていることの大半は、それを示す資料などがあるので信憑性は高いです。もちろん、一般常識に染まっている人は無理に信じようとしなくても構いません。今は「こんな情報があるんだな」程度に思って、読んでみてください。


☆とある写真
URL http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

☆太田龍 二・二六事件の真相、全面開示
URL http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/721.html
引用:
太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (1/14)
http://www.youtube.com/watch?v=bxpAeRC6rvQ


SuperObakeさんがアップロード


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (2/14)
http://www.youtube.com/watch?v=H5ctMIV__js

SuperObakeさんがアップロード


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (3/14)
http://www.youtube.com/watch?v=dHNX0N867qk

ultramarinewaterfallさんがアップロード


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (4/14)
http://www.youtube.com/watch?v=qU6r9R-Epk4

orugondouさんがアップロード


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (5/14)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4YkACG9v48

waraukado27さんがアップロード


太田龍 二・二六事件の真相、 全面開示 (6/14)
http://www.youtube.com/watch?v=3p0VzYhU_sg


02. BRIAN ENO 2013年2月24日 21:08:42 : tZW9Ar4r/Y2EU : yhmbAsnuyo
2・26事件の全容を知り、天皇の呪縛を解こう

故太田龍氏の公開講義の録音テープを関係者の方から頂いた。太田龍氏の遺志を汲み取り、これについては自由に広めてもらってよいということなので、今回は、その中から、二・二六事件に関するものを紹介したいと思う。

これは日本人にとって超弩級に重要な内容だが、太田龍氏の話は少々聞き取りにくい上に、内容が難しいときている。それで音声だけでは伝わりにくいと思っていたが、今般、有志の方のご協力により、全部を文字起こしし、わかりやすい画像と字幕にしてYouTubeにアップすることができた。


全部で2時間15分ある。以下に講義の要約、続いて文字起こし全文を掲載する。これに関する私の解説は後日リリースする予定である。

講義のポイント

アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928~1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200~500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889~1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明~昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万~500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万~500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6~7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828~1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835~1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844~1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856~1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48
13:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:02:11

山本五十六の真実⑤鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密-2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は-それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン-後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など-との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くはバイシュン婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派-あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派-の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ~だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。
14:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:02:43

2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略

イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
15:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:03:06

戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった

96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
16:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:03:51

評論家 中野剛志:悲劇は繰り返す!忍び寄る「令和恐慌」
景気後退にもかかわらず、消費増税を断行。自分で自分の首をしめるがごとく、ことさらに不景気を造っている。

2020年2月号 BUSINESS by 中野剛志(評論家)

「昭和恐慌」招いた井上準之助の愚行


野心にとり憑かれた井上準之助蔵相


国内外が不況であるにもかかわらず、緊縮財政を断行するという愚行の記録は、日本の近代史にもある。最悪の例は、昭和初期に、民政党の浜口雄幸内閣の下で、井上準之助蔵相が断行した「金(輸出)解禁」である。「金解禁」とは、第一次世界大戦を契機に離脱していた金本位制への復帰を指す。金本位制とは、自国通貨を固定レートで金と交換することを約束する制度である。金本位制下の国は、一定量の金準備を必要とする。したがって、例えば、財政支出の拡大が輸入増を通じて国際収支の悪化をもたらすと、金準備が不足してしまうので、財政支出を制限して輸入を減らさなければならない。こうして金解禁(金本位制復帰)は、財政規律を強制したのである。

当時、金本位制は、言わば文明の根幹をなす基本的な制度と信じられており、大戦後の欧米諸国も、順次、金本位制への復帰を果たしていた。こうした潮流の中で、日本も金本位制への復帰を目指していた。しかし、当時の日本は、27年の金融恐慌の爪痕がまだ残っており、為替レートも低位の状態であった。このため、金本位制への復帰は見送られてきたのである。

だが、井上蔵相は、金解禁の断行へと邁進した。彼の論理は、こうだった。政府が財政を緊縮し、国民も消費を節約すれば物価が下がり、輸入も減る。そうすれば、為替レートが上昇する。そういう準備を行った上で、金解禁を実施すれば、問題ない。これは、当時の主流派経済学の教科書通りの論理ではある。しかし、要は、金解禁の準備のために、デフレ政策を行うというのである。そんなことをすれば大不況になるのは当然であった。しかも、もっとまずいことに、金解禁実施の直前の29年10月、世界恐慌の端緒となったニューヨーク株式市場の大暴落が起きていたのである。それにもかかわらず、30年1月、金解禁は断行された。その結果、金が大量に流出し、世界恐慌の影響が日本を直撃し、昭和恐慌が勃発した。しかし、井上蔵相は、緊縮財政を強硬に押し通した。翌31年9月18日には満州事変が勃発し、さらに、その直後には、金本位制の守護者であったイギリスが金本位制から離脱した。それでもなお、井上は路線変更を拒み続けた。

結局、31年12月に民政党政権(第二次若槻礼次郎内閣)が倒れ、政友会の犬養毅内閣が誕生したことで、緊縮財政路線は終わった。そして、蔵相高橋是清の下で、金輸出再禁止が実行され、「高橋財政」と呼ばれるケインズ主義的な積極財政政策が行われた。この高橋財政が昭和恐慌からの脱出を実現したのは、周知の通りである。しかし、井上は、下野した民政党の筆頭総務としての立場から、高橋による金輸出再禁止を攻撃し続けたのであった。

後知恵で考えるならば、国内外ともに不況というタイミングで、緊縮財政を行った井上の政策は愚行と言うほかない。しかし、浜口内閣が金解禁を掲げた時、それに反対する声は、財界、学界そしてマスメディアにおいても、少数だった。当時、金本位制は、欧米諸国においても、文明の根幹をなす制度であると固く信じられていたからだ。当時の主流派経済学においても、金本位制は疑うべからざる仕組みであり、それに異を唱える経済学者は、日本のみならず海外でも、異端であった。こうした当時の知的・政治的環境の下において、大勢が金解禁に傾いたのも無理はなかった。しかし、注目すべきは、かかる状況においても金解禁に反対し、緊縮財政の危険性を理論的に理解していた者が少数とは言え、存在したという重要な事実である。
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「緊縮財政」に松下幸之助の嘆き

最も有名なのは、言うまでもなく、高橋是清である。高橋がケインズ主義的な「高橋財政」を行ったのは、ケインズの主著『雇用・利子・貨幣の一般理論』が刊行される前のことだった。高橋は、ケインズの理論を知らずして、ケインズと同じ理解に達していたのである。例えば、高橋の次の言葉は、ケインズ経済学の有効需要の原理や乗数効果を先取りしたものとして、後世の研究者を驚かせたものである。

〈緊縮といふ問題を論ずるに当つては、先づ国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。(中略)更に一層砕けて言ふならば、仮にある人が待合へ行つて、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。(中略)即ち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであらうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使つたとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それが又諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなつて働く。ゆゑに、個人経済から云へば、二千円の節約をする事は、その人にとつて、誠に結構であるが、国の経済から云へば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなつて働くのであるから、むしろその方が望ましい訳である。茲が個人経済と、国の経済との異つて居るところである〉

高橋は、この洞察を経済理論からではなく、自身の豊富な実務経験から得たのであろう。だが、このような発想は高橋だけのものではなかった。政友会の大物政治家三土忠造も『経済非常時の正視』(1930年)の中で、緊縮財政が消費の減退とデフレを招くメカニズムを正確に示していた。

〈先づ政府が一番大きな消費者であり、次は地方公共団体である。この大なる消費者が急に財政を緊縮して事業の中止又は繰延を行ひ、物資の購入を激減し、事業に従事する多数の人々の収入を杜絶する結果として、生産者及商人に大影響を及ぼし、これ等の人々の購買力を減退せしめることは明かである。又政府の奨励に従つて多数国民が消費を節約することになれば、これが生産者及販売者の利益を減少せしめることも云ふを俟たない。即ち国家及び公共団体並びに多数国民が急に消費を減少するだけでも、経済上に相当大なる打撃を与へ、不景気を招来することは初めより明かであるが、それよりも更に不景気を深刻ならしめるものは、之に依つて起る所の物価先安見越である。(中略)苟も常識あるものは如何なる品物でも今買ふよりも後になつて買ふ方が利益であると云ふ打算をする。かくの如くにして物価先安見越が強くなつて来れば、一般に差当り止むを得ざるものゝ外は購入を見送る気味に一致する〉

実務家のセンスから、ケインズと同じ洞察に達したのは、高橋や三土のような政治家だけではない。かの松下幸之助も、当時、こう考えていたという。

〈緊縮政策もここまでくると、自分で自分の首をしめるがごとくことさらに不景気を造っている(中略)物を使った上にも使ってこそ、新たなる生産が起り、進歩となって不景気が解消され、国民には生気がみなぎり、国力が充実されて繁栄日本の姿が実現するのだ。それにはかかる政策はことごとくその反対の結果を招来するものである。私のような学理を知らない者にとっては不思議でならなかった〉

「学理を知らない」松下が訝しんだ緊縮政策を断行した井上は、エリート中のエリートであった。二高で高山樗牛と首席を争い、東大法学部に進み、卒業後は日本銀行に入り異例の昇進を遂げる。19年日銀総裁、23年には大蔵大臣、27年から28年にかけては再び日銀総裁を務めた。しかし、この経歴から明らかなように、井上もまた豊富な経験をもつ実務家であった。しかも奇妙なことに、彼は29年夏に民政党に入党する直前までは、金解禁は「肺病患者にマラソン競走をさせるようなものだ」と述べていたのである。それが、民政党政権で蔵相となるや、突然、金解禁論者の最右翼に豹変し、少なくとも公式には、死ぬまで自説を改めなかった。なぜ、井上はこのような頑迷な姿勢を貫いたのか。
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「怨念」吸い上げるポピュリスト勢力

井上は、浜口内閣の蔵相に任命され、金解禁を政策課題として与えられた際、かつて誰も為し得なかった金解禁を実現して、歴史に名を刻みたいという野心にとり憑かれたのだ。そして、その政治的野心が、冷静な情勢判断を妨げたのである。金解禁後、その失敗が明らかとなったが、失敗を認めることは政治的敗北を認めることに等しい。批判の声が高まれば高まるほど、井上はますます己の立場に固執せざるを得なくなるというディレンマに追い込まれた(中村隆英『昭和恐慌と経済政策』)。

しかし、井上が自らの政治生命を守ることに執着したせいで、国民、特に中小企業と農民層が絶望的な困窮に追い込まれた。既存の支配層に絶望した彼らは、過激な右翼思想へと引き込まれていった。井上の緊縮財政がもたらした危機がファシズムを生み、日本を軍国主義へと駆り立てたのだ(長幸男『昭和恐慌:日本ファシズム前夜』)。
https://facta.co.jp/article/202002024.html
17:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:04:21

【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(10)分かれ道の兄妹 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
Foresight 2020年5月31日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/05310530/?all=1

〈昭和六年、東北一帯はひどい冷害だった。夏、八月というのに、毎日毎日、冷たい雨がしぶいて、日のさした日といっては、ほんの二、三日しかなかった。

 秋になって、田圃の色だけは、黄金色にかわったが、毎朝、田を回っては心配そうに、稲の穂をしごいて見る百姓の掌に、穂はさらさらと軽く、噛んでみると、むなしいしいなだけが舌に残った。〉

 1897(明治30)年に青森市に生まれ、弾圧と闘った農民運動の活動家、戦後は社会党代議士として昭和を生きた淡谷悠蔵は、1931(昭和6)年の記憶を著書『野の記録』(春陽堂書店)にこうつづった。

ケカツ鳥の啼く年 

 青森の農民たちの間で「凶兆」と先祖から伝わったケカツ(飢渇)鳥(アカショウビン・カワセミ科)のヒョロローンという啼き声に、

〈「やっぱりな、このヤマセ(冷たい北北東の風をヤマセという)では、今年もケカツ(凶作)にきまったじゃ」

 溜息が一座を流れると、その百姓はケカツ鳥が啼いた年の、凶作の経験を、あれこれと話し出し、みんなが、ガヤガヤとそれに和して、しばらく落ちつかなかった。〉

 1930(昭和5)年の世界恐慌による農産品価格の下落、地主の過酷な小作料取り立てに東北の農村は窮迫の一途をたどった(本連載9回『満州事変前夜』=2020年4月25日=参照)。

 翌年は、2月23日の青森市の最低気温が零下24.7度と、現在も破られていない記録的な寒さで始まったが、豊作を念じた農民を絶望の淵に追い込んだのが、ケカツ鳥が呼んだ冷涼な季節風ヤマセの夏だった。

 同年7月の、東北6県の平均気温は18.8度。青森県でコメの収量が8割減となり、窮乏農家2万8210戸と記録された1913(大正2)年の大凶作当時の同19.7度をも下回った。

 隣の岩手県では、7月24日の『岩手日報』が次のように報じた。

〈土用三郎になつてもお天気はまだぐらついて薄ら寒くなか/\浴衣などは着られさうもない 

 今年は何時夏が来るやら――殆ど見当がつかない、全く憂慮される天候であるが盛岡測候所もこれにはホト/\困り切ってゐる

(中略)昨今の日中平均温度は例年に比し三四度低く雨量も多く日照時は二割方少ない、それで稲作に必要な条件たる気温低く日照少なく雨量が多く稲作の発達を非常にさまたげてゐる

 丁度今日までの状況は大正二年の凶作にほぼ似通つてゐるので実に憂慮されてゐる〉(注・土用三郎とは、土用の入りから3日目を指し、晴れなら豊作、雨なら凶作とされた)

 それは、1934(昭和9)年まで続く未曽有の「東北大凶作」の始まりと記録されることになる。

たまさんの上京

 連載の主人公、青森出身の対馬勝雄=1936(昭和11)年、二・二六事件の蹶起に加わり銃殺刑=はこのとき、22歳。陸軍歩兵第三十一連隊の少尉、連隊旗手として弘前にいた。

 部下の教育と演習に明け暮れながら、農村の苦境と政党政治腐敗への憤り、前年のロンドン海軍軍縮会議への反発から、青年将校たちの「国家改造」運動にのめりこんだ(本連載9回参照)。

 青森市相馬町の実家では、勝雄の妹である長女タケさんが、父嘉七さんの郷里田舎館村の地主の娘が嫁いだ先の女中として請われ、1927(昭和2)年5月に上京。この物語の語り部である次女のたまさん(昨年6月、104歳で弘前市で死去した波多江たまさん)も、後を追うように1930(昭和5)年春から東京で暮らし始めていた。

 たまさんが戦後、遺族の手で編んだ本『邦刀遺文 二・二六事件 對馬勝雄記録集』(自費出版)のために書き起こした膨大な「記憶のノート」から、昭和5~6年という時代をたどってみる。

〈兄は(注・任官から間もない給料で)私達の面倒はみられませんでしたけれども、末の妹(きみ)だけでも自分で学校を出してやると云い出しました。之からは女でも学問はなくてはならないと云うのです。その後、妹は兄の仕送りで女学校に入りました。

 私達姉妹は、苦労している母の姿を見て育ちました。この貧乏からのがれて、手に職をつけようと考え始めました。私は婦人服(の仕立て)を習う事にし、女の職業として将来有望だと考えたのです。母(なみ)は私の考えに賛成してくれましたが、父の頑強な反対でなかなか上京できず、一、二年が過ぎてしまいました。そこで東京にいる姉と連絡を取り、着々と準備して上京しました。昭和5年4月、17才の春でした。〉

 たまさんが目指した洋裁は、モダンな都会生活スタイルが開花した大正デモクラシーの時代以降、事務職やタイピストなど、女性の社会進出を象徴する職業の1つだった。

 しかし、男が妻子を養うのが当然で妾を持つのが「甲斐性」といわれた時代、女性の自立の萌芽である「職業婦人」には世間の風当たりが強く、蔑視さえされたという。田舎はなおさらだった。

 対馬家では、小作農家の出で元軍人の嘉七さんが「女に学問はいらない」を口癖にし、たけさん、たまさんが尋常小学校を出ると貧しい魚加工の家業を手伝わせ、「女は家にいるべきだ。年頃になったら嫁にやるのが一番いい」を口癖にしていたが、母なみさんは正反対の考え方の女性で、娘たちを応援した。記憶のノートにはこんな記述がある。

〈母は開放的で時代を先取りするようなところがありました。従って、女といえども家にこもる事はなく、之からはどんどん世に出て手に職をつけて自立しなさい、とよく云われました。(嘉七さんと同郷の)裕福な家庭から、いきなり貧乏をいやというほど味あわされた母の経験から産み出た結論だったと思います〉

 父と同じ軍人の道を選んだ勝雄には、国家改造運動に見える激しさの半面、母親譲りの柔らかな感性、貧しさに耐える妹たちへの温かな愛情が宿っていた(連載8回『昭和4年 運命の出会い』=2020年2月18日=参照)。

 旧制青森中学を中退してまで自らの前途を変えた決意もまた、早く家族を楽にさせたいという思いからだった。守るべき者たちへの無私の優しさは、この先に待ち受ける戦場で勝雄自身を苦しめていく。

恐慌下の東京

 たまさんは上京した1930(昭和5)年春、タケさんの身元引受人になっていた鷺宮の英語教師・安部金之助の世話で、新宿の洋裁学校に通った後、王子の洋裁店に住み込みで働いた。

 同年秋に四谷の婦人服仕立て業の家に移り、翌31年春から3軒目になる目白の婦人服仕立て店に勤めた。もっとも、たまさんが初めて出合った東京は、大正のモボ・モガが闊歩した花の都ではなかった。

 王子の洋裁店で、たまさんは奥さんから野原のハコベを摘まされ、何をするのかと思ったら、味噌汁の具とおひたしになって出てきた。店主の家には、近くの王子製紙の工場労働者が頻繁に出入りしていた。泊めたりもするので、縁側に寝させられたという。

〈製紙工場では「働く者に相應する報酬を与えよ」と訴えてストライキが絶えず、官憲に追われる労働者を、主人はよくかくまってやりました。身なりも汚く、田舎の労働者と殆ど同じでした。その頃は、働かざる者食うべからずと云われて、とても不景気な時代でした〉

 折からの恐慌で、全国の失業者は1929年9月の27万人から1930年4月に37万人、1931年5月には40万人を超えたと内務省社会局「失業状況推定月報」は発表した。

 だが『エコノミスト』誌(1930年7月15日号)は、「日本の失業者總數百二十万突破 恐るべき失業時代の到來」と独自試算の特集記事を出し、さらに200~300万人に上ったと推定する学者もいる。失業して浮浪者になった人々もおり、たまさんは東京の夜道での体験をつづった。

〈歩道を歩いていますと、歩道(の端)を枕にして寝ている労働者らしい人の頭を、あやうく踏みつけるところでした。(中略)屑拾いらしく箱のついた荷車があり、其の中に拾ってきた紙屑が沢山入っていました。おどろいたことに其の紙屑の中にも誰か寝ているらしく、がさがさと動いたのです。私は急に怖くなり駆け足で通りぬけました〉

〈今度は違う道を通りました。そしてガードの近くに来た時、異様な臭いに立ち止まりました。するとガードの下がぼうと明るく見え、火をたいている浮浪者らしい三人が鍋をかけて何か煮て食べているのです。臭いは其処からだったのです。私は気づかれないように夢中で横道を通って帰りました。東京にもかなり貧しい人々が多いと次第に判ってきました〉

 貧困の蔓延する東京には、しかし、全く別の世界があることも四谷の仕事場で知った。

〈御主人の弟さんが遊びに来ていました。すごくハンサムで背が高く、黒の背広に紋入りの蝶ネクタイをし、私達針子によくおみやげを持って来てくれました。あまりにあかぬけているので、何の仕事をしているのかと思ったら、自動車の運転手だと云うのです。まさか、こんなハイカラな運転手などいるわけがないと云ったら、元天皇陛下の運転手をしていて今は○○家(華族)の運転手をしているというのです。本当におどろきました〉

〈そんな立派なお屋敷ではどんな暮らしをしているんだろうと云いましたら、「一ケ月に何回かパーティーがあって大広間の絨毯が片づけられ、ダンスが始まるので、とてもにぎやかできれいだ」と話してくれました。美しい夜会服を着て踊っている様子が浮かんできました。農村では食う為に娘を売っていると云うのに、之はどういうことなのかと溜息がでました。と同時に私は、自分の今の仕事に矛盾を感じ考えさせられました〉

兄と青年将校運動

 四谷の店で働いていたある日の夕方、弘前の連隊にいるはずの兄勝雄がひょっこり訪ねてきた。驚いたことに軍服ではなく、当時はやった鳥打帽(ハンチング)に二重マント(インバネスコート)という姿。誰がどう見ても、軍人とは思えなかった。

 その刹那の勝雄の肉声を、たまさんは「記憶のノート」に残している。

〈この時兄は、仕事が辛くないか、困っていることはないかと聞くので、私は大丈夫、心配しないで、と云いました。兄は、それなら安心だ、一日も早く仕事を覚えて自立しなさい、其の時は必ずミシンを買ってやるし援助もするから、辛いだろうががんばりなさい、体に十分気をつけなさい、と云って二十分くらいで帰っていきました。其の頃ミシンは非常に高価で、普通のサラリーマンには買えませんでした。私は将来が楽しみでした〉

 ただ、後で店の人たちからは、

「たまちゃんの兄さんは将校と聞いていたが、本当なのか」

 と疑わしそうに言われた。その唐突さ、奇妙さが腑に落ちたのは、二・二六事件が起きてからだ。たまさんはこう記した。

〈いまになって考えますと、革新将校の集まりがあって弘前から上京したのではなかったかと思います〉

〈それで憲兵の目を逃れたのでしょう。思い返してみますと、昭和5年以前から仲間を集めたのも判りました。村中さん(孝次大尉・二・二六事件の首謀者として銃殺刑)等も。(中略)当時は全く気がつきませんでした。兄が要注意軍人の1人だった事等本当に驚きました〉

 勝雄は陸軍士官学校にいた1929(昭和4)年1月、仙台陸軍教導学校の教官だった大岸頼好中尉を初めて訪ね、国家改造運動を志す青年将校の精神的支柱と目された大岸に心酔する(本連載8回参照)。

 農民と皇軍兵が天皇の下で平等一体となる国家改造の闘争を求め、雑誌『日本』に檄文を発表していた大岸は、翌1930(昭和5)年4月、『兵火』というパンフレットを発行して同志たちに配った。民政党の浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結し、これを海軍軍令部や野党政友会、国家主義者、在郷軍人らがこぞって「統帥権干犯」と攻撃する矢先だった=以下、引用は『現代史資料23』(みすず書房)より=。

〈百姓の起す火を“ポロン火”と云ひ、兵隊の起す火を“兵火”と云ふ。同じ火にかはりは無い。“ポロン火”が燃え出す“兵火”が燃え出す〉

 これは、民衆と軍が1つになった蜂起を呼び掛ける烽火を意味し、海軍の「盟友」に連帯しての国家改造の革命戦を呼び掛けたものだ。

〈此の問題が革命作業の過程として政党財閥亡国的支配階級、指導階級の撃滅への方向に役立つ限り我等陸海の盟友は海軍々令部を支持すべきである〉

〈農民労働者…在郷軍人を第一戦に軍隊を基本隊に戦闘的統一を要す〉

〈東京鎮圧し宮城を護り天皇を奉戴するを根本となす。この故に陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす〉

 ほぼ同時に、海軍の急進派将校のリーダーだった藤井斉中尉が『憂国慨言』という印刷物を頒布し、

〈我等は外敵の侮辱に刃を磨くと同様にこの内的――然り天皇の大権を汚し、民衆の生命を賊する貴族、政党者流及財閥――の国家滅滅の行動に対して手を空しうして座視するの惨酷無責任を敢てすべきではない。〉

 と異口同音の激しい叫びを響かせた。

 急速に接近した陸海軍の青年将校、民間や農村の国家主義活動家の大同団結を目指す集会が1931(昭和6)年8月26日、東京・日本青年会館で開かれた。「郷詩会」という。そこに弘前から遠路、勝雄も参加していた。

蹶起に焦がれ

 勝雄の日記(『邦刀遺文』所収)には、同年7月23~27日に「東行」と称して盛岡、山形、秋田の各連隊を巡り、目ぼしい将校たちを「革新派」へ誘う工作をしたこと、それが東京の同志たちと呼応した活動だったことが記されている(本連載9回参照)。だが、それ以降「郷詩会」など青年将校との交流に関する記述はない。

 当時、教導学校から第五連隊(青森市)に移った大岸と同じ連隊の同志で、勝雄とも親しかった末松太平中尉(二・二六事件で禁固4年、免官)が戦後、青年将校たちの素顔、事件までの行動を克明に記した著書『私の昭和史』(みすず書房)に、郷詩会のくだりがある。

 それによると、「蹶起」の具体的行動へ密議を期待した藤井ら海軍側に対し、後の二・二六事件の中心人物たちがそろった陸軍の側は「組織固めでよい」という認識で、雑然とした顔合わせの会合に終わったという(これを不満とした海軍側の参加者らは翌年、五・一五事件を起こす)。

〈もちろん陸軍にも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の対馬勝雄少尉などがそれで、対馬はこの会合を赤穂浪士の討入り前の会合のように思って上京していた。

「このまま弘前に帰れというのですか」と目を据えていって、眼鏡ごしに私を見つめもした〉(『私の昭和史』より)

〈しかしこんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね…〉

 と、郷詩会で醒めた感想を漏らしたという戦略家の大岸に比べると、勝雄にはいかにも東北人の一途な、思い詰めるような生真面目さがあった。

『私の昭和史』にはまた、同年10月17日、陸軍の急進派組織「桜会」を率いる橋本欣五郎中佐らが一斉検挙された、政党内閣打倒のクーデター未遂事件「十月事件」の際も、蹶起に加わろうと上京した勝雄の姿が刻まれている。

〈大岸中尉が(青森に)帰ると一足違いで、これも和服に軍刀の対馬少尉と菅原軍曹が下宿に現れた。対馬少尉は仮病を使って(弘前の)留守部隊に残っていたが、抜け出して、秋田の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。〉(注・菅原軍曹は大岸中尉から仙台教導学校で薫陶を受けた教え子)

 1931年9月18日夜、海を越えた満州・柳条湖で満州鉄道の線路が爆破された。 蹶起に焦がれたような勝雄は、さらなる歴史の大状況に呑みこまれる。

〈十八日夜一〇時半ごろ、奉天北方、北大営側において、暴戻なるシナ軍は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い、駈けつけたるわが守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向い出動中なり〉

 陸軍中央部への第1報とともに始まり、燎原の火のように拡大した満州事変だ。

満州への出征

 たまさんの「記憶のノート」には、東京での洋裁修業の日々を突然、断ち切るように「兄の出征を見送る」という長い一節が出てくる。

 この年の暮れが近い11月14日、青森の父嘉七さんから電報で、勝雄の満洲出征と、第三十一連隊など混成第四旅団の列車が15日朝9時45分、品川の駅を通過する、と知らされた。

〈やっと兄の乗っている列車の前に行く事が出来ました。兄は元気いっぱいでしたが、友人や知人に囲まれて近づくことが出来ませんでした。すると其処に南(次郎)陸相が来たとかで、兄達将校はホームの控え室に入ってしまいました。私達ははらはらしました。もう発車十分前です。すると将校達は控え室から、あわてて次々と汽車に乗りました。私達は近くの将校さんに案内していただき、やっと兄と言葉を交わすことが出来ました〉

〈兄は、「生きて帰ると思うな、後を頼む」と云いました。安部(金之助)先生は「命を粗末にしないで、元気で」と云いました。別れの言葉の終わらないうちに、汽車はながい汽笛を鳴らして、がたんと動き出しました。涙は不吉だとこらえました。万才万才とホームの人々の旗は右に左にゆれました。車中の兵士達は一斉に立ち上がり、整然として挙手の礼をしました。〉

 人がこぼれ落ちるほど騒々しいホームを、兵の声1つ残さず離れる列車。自分が暮らす場所とは違う世界に勝雄が旅立っていくことを、たまさんは感じた。(つづく)
18:777 :

2022/06/28 (Tue) 16:04:41

2021年05月29日
岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_31.html
 小学館より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。

https://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E4%BC%9D-%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A7%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%9D%9E%E6%88%A6%E6%80%9D%E6%83%B3-%E5%B2%A9%E4%BA%95-%E7%A7%80%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4093887470

本書は、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎の伝記です。渡辺については、学者肌の軍人だったことと、二・二六事件で殺害されたことくらいしか知らず、愛知県出身であることも、子供の頃に母親の実家に養子に入ったことも知りませんでした。厳父と賢母に育てられて鍛えられた渡辺は、養子に入って養父には愛されたものの、養母は渡辺を歓迎しなかったようです。

 渡辺は家業の手伝いのため小学校には満足に通えなかったものの、読書には熱心だったようです。というか、渡辺は子供の頃から向学心が強く、貧しく中学に通えないなか、1894年、優秀な成績で士官学校に合格します。渡辺を見下す役人もいましたが、渡辺を支える身近な人もおり、渡辺は努力家であるだけではなく、子供の頃から人格も優れていたようです。渡辺の士官学校の同期には、林銑十郎がいました。士官学校卒業時の渡辺の成績は206人中4番で、林は15番でした。士官学校8期生ではこの2人が大将まで昇進します。

 渡辺は士官学校卒業後、鯖江に4年間赴任し、その間に陸大に入学し、主席で卒業します。日清戦争が始まった年に士官学校に入学した渡辺は、日露戦争時には大尉に昇進しており、乃木希典司令官の第三軍に属する中隊長として出征します。第三軍は旅順攻防戦で多数の戦死者を出し、渡辺は1904年8月の第一回旅順要塞総攻撃で負傷し、野戦病院へ搬送されます。渡辺の部隊は第9師団に属しており、第9師団は旅順攻防戦で全滅に近い損害を受けたので、渡辺も負傷しなければその後の運命はどうなったか分からない、と本書は指摘します。渡辺は後に日本に送還され、傷が完治した後、大本営陸軍幕僚附、参謀となり、終戦を迎えます。

 日露戦争後、渡辺は山県有朋の副官となります。渡辺は山県に気に入られ、渡辺は山県を尊敬していたようです。細かい山県により、渡辺は終世勉強する習慣を身に着けたのかもしれない、と本書は評価します。軍人として渡辺にとって大きな転機となったのは第一次世界大戦でした。渡辺の最初のヨーロッパ留学先はドイツでした。日本の軍人(の一部)にも大きな衝撃を与えた第一次世界大戦の視察のため、渡辺は1917年にオランダ国公使館付後武官として派遣されます。ドイツではなくオランダなのは、日本とドイツが交戦関係にあったからです。ドイツ降伏後、渡辺は講和条約履行委員としてドイツに入国します。渡辺は1919年4月から約1年ドイツに滞在しました。

 渡辺は第一次世界大戦に大きな衝撃を受け、総力戦となった以上、負けた場合はもちろん勝っても国民は悲惨な目に遭うと考え、非(避)戦のための軍備を主張するようになります。第一次世界大戦を踏まえた渡辺の教訓は、安易な戦線拡大や精神論偏重の不可、情報通信の重視など、多岐にわたっていました。中将昇進後に陸大校長に任命された渡辺は、自身の軍事思想に基づいた教育を進めようとしますが、軍上層部には容れられず、1年も経たずに旭川の師団長に転任となります。渡辺はこの時、退役が近いと覚悟していたようです。

 航空機の重要性に早くから着目していた渡辺は、1929年3月に航空本部長に就任します。渡辺は、空襲の脅威とそれによる国民の動揺を強く懸念していました。国民の動揺は合理的な軍事および政治外交判断を制約し、戦況に悪影響を及ぼしかねない、というわけです。こうした懸念の根底にあるのが、第一次世界大戦により総力戦の時代に突入した、との認識で、それ故に渡辺は、防空には軍民一致が必要と主張します。その後、台湾軍司令官に就任した渡辺は、霧社事件の鎮圧で批判も受けましたが、昭和天皇からは労われたことにたいへん感激したそうです。

 渡辺は台湾から本土に戻った後、再度航空本部長に就任し、1931年8月、大将に昇進します。渡辺が大将に昇進した頃の陸軍には、「革新」を主張して政治的野心を隠さない軍人がおり、この後から二・二六事件にかけて、派閥争いが激化しました。渡辺は政治活動には関わろうとせず、三月事件後に橋本欣五郎からクーデタへの参加を誘われたさいにも、これを一蹴しました。このように陸軍の派閥争いから距離を置いていた渡辺ですが、皇道派の荒木貞夫と真崎甚三郎の専横を苦々しく思っていたようで、同期の林に協力する形で皇道派を陸軍中枢から追いやり、1935年7月、真崎は教育総監の座を追われます。真崎の後任は渡辺でした。こうして林を支えて粛軍に乗り出した渡辺ですが、翌月に林が頼りにしていた永田鉄山は殺害されてしまいます。これは渡辺にとっても大打撃となりましたが、渡辺は永田殺害に怯むことなく、真崎を追及し続けます。これにより、渡辺は「反皇道派」の中心的人物の一人として攻撃対象となります。

 この時期、渡辺に対する批判をさらに強めた原因になったのが、天皇機関説問題でした。渡辺の将校への訓示が、天皇機関説養護として大問題になりました。しかし、渡辺は天皇機関説についての議論を整理し、軍人は山県有朋のように慎重な態度をとるべきで、本来の職務に専念すべきというものだった、と本書は指摘します。またこの時期、林陸軍大臣の後継として渡辺を推す動きもあり、渡辺は陸軍における権力闘争に関わっていくことになります。渡辺に身の危険を知らせる人は少なくなかったものの、渡辺はすでに死も覚悟していたようです。

 こうして皇道派の主要な標的の一人とされた渡辺は二・二六事件で殺害されましたが、殺されなければ、その後の日本の動向は変わっていた、と評価する人もいます。本書は最後に、渡辺の遺族と渡辺を殺害した遺族との間の交流も取り上げており、考えさせられるところがありました。本書は、さまざまな史料から渡辺の人物像を描写するとともに、渡辺を時代の大きな流れ・構造の中に位置づけており、たいへん興味深く読み進めることができました。本書を読み、渡辺の勤勉さと自律には倣うべきところが多々あるとは思うものの、率直に言って、怠惰な性分の私にはとてもできない、とも思います。情けない話ではありますが。

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_31.html
19:777 :

2022/08/09 (Tue) 16:21:30

2022年08月08日
支那と米国は裏で繋がっているのかも?! / 戦前から続く赤い絆
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html

米支共通の敵だった日本

John Paton Davies center & Mao & ZhouPhilip Jaffe & Owen Lattimore & Agnes Smedley
(左 : ジョン・デイヴィスと親しくなる周恩来と毛沢東 / 右 : 支那大陸に赴いたフィリップ・ヤッフェとオーエン・ラティモア)

  日本の保守派言論人というのは、目の前の事件に振り回されるばかりで、世界政治を歴史的に鳥瞰することはない。つい最近、テレビや新聞では下院議長のナンシー・ペロシが台湾を訪問したことで、ちょっとした政治騒動になっていた。だが、大局的に観れば大したことじゃないだろう。一部の政治評論家やジャーナリストは、「台湾を巡って米支の熱い対決が起こるのでは?」と心配しているが、合衆国海軍が本腰を入れる大規模な軍事衝突にはならないだろう。おそらく“プロレス”のような“喧嘩”程度じゃないのか。

  令和の小学生や中学生は知らないと思うが、1973年11月5日、「狂える虎」との異名を持つインド人レスラー、タイガー・ジェット・シンは、倍賞美津子と一緒のアントニオ猪木を新宿の伊勢丹前で発見し、猪木夫人に罵声を浴びせル暴挙に出た。猪木にライバル心を燃やすインド人レスラーは、いきなり猪木を襲撃したというが、両者の乱闘は警察沙汰にはならなかった。(良い子のみんなは、お爺ちゃんかお父さんに当時の話を訊いてね。昔は、夜9時台のテレ朝で放映されたほど大人気だった。ちなみに、報道番組のアンカーマンをしていた古舘伊知郎は、元々プロレス中継のアナウンサーであった。)

  たぶん、新宿の警察署も「ヤラセ」と判っていたのだろう。この喧嘩は無料のTV宣伝になったらしい。だいたい、街中で乱闘騒ぎを起こした「猛虎」が、宿泊先の京王プラザ・ホテルに帰ると、仔猫のように“おとなしかった”なんておかしいじゃないか。警官の方も馬鹿らしくなったと思う。そう言えば、シンは試合のリングに現れた時、いつも愛用のサーベルを持っていたけど、それを使って猪木や藤波辰巳、坂口征二を刺すことはなく、グリップの部分で叩くだけだった。試合の無い時は、猪木とシンは結構仲良しだったというから、日本のプロレスは微笑ましい。

  脱線したので話を戻す。大東亜戦争の前から、日本は既に米国の仮想敵国だった。共産主義に好意的なフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)大統領は、西歐列強の支那進出くらいは容認できても、東洋の異国である日本が満洲支配を握り、支那大陸での権益を拡大する事には我慢がならなかった。彼が日本人を嫌い、銭ゲバの支那人を好んだのは祖父(Warren Delano)からの伝統だろう。(尚、デラノ家の闇歴史に関しては、「James Bradley, The China Mirage, New York : Little, Brown and Company, 2015」の第1章が詳しい。)


Warren Delano 001Sara Delano & FDR 009932FDR 4432FDR & James Roosevelt & Sara
( 左 : ウォーレン・デラノ / サラ・デラノ / フランクリン・D・ローズヴェルト / 右 : 父のジェイムズと母のサラ、息子のフランクリン)

  また、以前にも紹介したように、大富豪のロックフェラー家が財団を通して支那大陸に食指を伸ばしていた。つまり、4億ないし6億の人口を擁する支那は、涎(よだれ)が出るほどの巨大市場であったから、アメリカのエスタブリッシュメントは何としても支那を独占したかったようである。(註 : FDRの母親サラ・デラノはウォーレン・デラノで、フランクリンの祖父は「Russel & Company」に雇われた密輸業者であった。彼は冒険商人のように支那大陸で阿片貿易に携わっていたという。一時は財産を失ったものの、ウォーレンは香港で財産を築き、戦争省の医薬部局に阿片を納入していたそうだ。)

  ローズヴェルト政権は真珠湾攻撃を画策して大東亜戦争を引き起こしたが、「敵の敵は味方」ということで、合衆国政府は日本軍と対峙する国民党軍を支援した。重慶の蒋介石には二人の強力な参謀が附いており、その一人が支那・ビルマ・インド・ルートの戦線で総司令官を務めていたジョセフ・スティルウェル(Joseph Warren Stilwell)大将である。もう一人は「フライング・タイガース」を率いていたことで有名な陸軍航空隊のクレア・シェノールト(Claire Lee Chennault)少将であった。共産党に敗れた蒋介石と一緒に台湾へ逃れたシェノールト少将は、戦争終結を機に軍を退き、民間航空会社を創設する。そして、1946年、彼は最初の妻であるネル・トンプソン(Nell Thompson)と離婚した。ちょっとビックリするけど、二人の間には8人の子供ができていたというから凄い。これじゃ「猛虎」はなく「種馬」みたいだ。

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( 左 : ジョセフ・スティルウェル / 中央 : 蒋介石と宋美齢と一緒のスティルウェル / 右 : クレア・シェノールト )

  英国系アメリカ人の妻と別れたシェノールト少将は、これまた鰥(やもめ)の中年男らしく、赴任先の支那で現地妻を娶ることにした。彼は「アンナ(Anna)」と呼ばれる陳香梅という支那人と再婚し、二人の子供をもうけた。(夫が54歳で妻は22歳。) この新妻は元々通信社に勤めるプロパガンダ記者であったが、やはり単なる平民じゃない。彼女は結構、裕福な家庭に生まれた御嬢様。「アンナ」の父親である陳應榮は外政官で、メキシコの領事をしていたらしい。上流階級の支那人は老獪で利益に目敏く、子供達には西歐の教育を授けたりする。彼も客家のように国際的であったから、娘を香港の学校に入れて英語を習わせることにした。ところが、西洋の勉強をしていた香梅は、日本軍の進撃によって香港を逃げ出す破目に。

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( 左 : 陳香梅とシェノールト少将 / 右 : 子供をもうけたシェノールト夫妻)

  年の離れた亭主と結婚すれば、若い女房は早めの未亡人になりやすい。23歳も年上だったから、シェノールト少将は1958年に他界する。夫を亡くした陳香梅は、専業主婦で終わる気など更々無く、米国に移住してチャイナ・ロビーの活動家となった。如何にも在米の支那人らしいが、この通訳未亡人は、反共主義の共和党に目を附け、大統領候補になったバリー・ゴールドウォーターを支援すべく、彼の資金集めに奔走したそうだ。反共のユダヤ人と銭ゲバの支那人がタッグを組むなんてゾッとするが、冷戦時代には民族を超えたイデオロギーで異民族が結束することもあったし、狡猾な民族は共通の利益で悪党になることもある。

  外国での諜報活動と謀略戦ともなれば、OSS(戦略情報局)や国務省の役人が黙っちゃいない。心理戦の尖兵となれば、モスクワ本店に忠誠を誓う赤レンジャーや桃レンジャーの出番となる。丁度、その頃、米国本土から軍事顧問団の『ディキシー・ミッション(Dixie Mission / U.S. Army Observatopn Group)』が延安に派遣されたので、OSSは身内の局員を米国代表団に潜り込ませようと謀った。派遣隊長となったのは陸軍のデイヴィッド・バーレット(David Dean Barrett) 大佐で、彼のもとには数名のOSS要員が送り込まれていた。その中でも卓越していたのは、国務省から選抜された「三人のジョン」と呼ばれた役人達だ。支那通のジョン・S・サーヴィス(John Stewart Service)に、同類のジョン・P・デイヴィス(John Paton Davies, Jr.)、そして日本通のジョン・K・エマソン(John Kenneth Emmerson)という面々である。

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(左 : デイヴィッド・バーレット大佐と若き周恩来 / 右 : バーレット大佐と若き毛沢東)

  支那研究者の間で有名なジョン・サーヴィスは、1903年に四川省の成都で生まれた。支那で育ったから当然なんだけど、彼は7歳で支那語をマスターし、上海のアメリカン・スクールに通ったそうだ。15歳になるとアメリカへ帰国し、カルフォルニア州の高校を卒業する。進学先はオハイオ州にあるオーベリン大学であった。その後、外政官の試験に受かって、雲南省の昆明にある領事館に勤めたという。

  5歳下のジョン・デイヴィスも四川省で生まれている。彼の両親はパプティスト教会の宣教師で、少年時代を支那の田舎で過ごした。アメリカ人の子供がいない僻地なら、現地語が上手になるのも当然だ。後に「チャイナ・ハンド」と呼ばれるデイヴィスは、米国のウィスコンシン大学に入るが、その途中で北京に赴き、燕京大学で1年ほど勉強したという。しかし、卒業したのは編入先のコロンゴア大学だった。まぁ、さすがに難解な漢字を使っての論文は書けまい。

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(左 : ジョン・S・サーヴィス / 中央 : ジョン・P・デイヴィス / 右 : ジョン・K・エマソン )

  一方、日本語が達者なエマソンは、日本じゃなくコロラド州のキャノン・シテイー生まれ。学んだ大学もフランスのソルボンヌやコロラド、ニューヨークの大学だ。1932年に外政官の試験を受け、見事合格するが、不運なことに世界恐慌のせいで外政官の募集が無かった。しかし、1935年の秋、国務省から採用の知らせが届いたのでワシントンに赴くことに。だが、そこでは国内の勤務か異国での海外赴任かを迫られたそうだ。当時、国務省は東アジアの専門家を欲しがっていたので、支那語か日本語を選ぶ役人が求められていた。そこで、エマソンは日本語を選ぶ。英語とは似ても似つかない言語を選んだ動機には、ハリーという伯父の影響があったらしい。少年時代のエマソンは、伯父が持ち帰った極東の珍しい話や写真に興味を持ったそうだ。若くて希望に満ちたエマソンは、極東の日本で冒険的な生活をして見ようと思ったらしい。(ジョン・エマーソン『嵐のなかの外交官』宮地健次郎 訳、朝日新聞社、1979年、 pp.2-3.)

  ところが、エマソンは日本にやって来ると、いきなり「二・二六事件」に遭遇して当惑する。それから後に支那へと派遣され、対日工作の任務を命じられたそうだ。重慶から延安へ向かったエマソンが面会を求めたのは、「岡野進」という偽名を使っていた野坂参三である。令和の高校生だと野坂の名前を聞いても判らず、「誰それ? 吉本のお笑い藝人?」と尋ねてしまうが、この共産主義者はコミンテルン日本支部(俗に言う「日本共産党」)で第一書記となり、名誉議長にもなった大物だ。しかし、晩年になるとソ連のスパイだったことが発覚し、1992年に共産党から除名処分を受けてしまった。一部の知識人はもっと懐疑的で、「米国や支那のスパイも兼ねていたのでは?」と思われている。まぁ、野坂のような狡賢い奴なら、自分の利益を考えて二重・三重の裏切者になってももおかしくはない。

  日本の敗戦後、ジョン・エマソンは再び日本へ派遣され、ダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問となった。エマソンは支那大陸にいた時から、既に戦後処理の方針に着手していたそうだ。彼は重慶の頼家橋(らいかきょう)にいた鹿地亘(かじ・わたる)に会いに行き、「米国に協力する意思があるのか?」と尋ねた。というのも、鹿地はプロパガンダ作戦で使えそうな「駒」であったからだ。彼は治安維持法で検挙された共産党員であった。牢獄の中で思想転向したものの、その本質には変わりがなく、釈放後に武漢へ渡り、重慶で「日本人反戦同盟」を作っていたという。ただし、彼は「籠の中の鳥」状態。一応、鹿地研究室を与えられていたが、実質的には載笠(たいりゅう)による半隔離状態に陥っていた。

  日本語を流暢に話すエマソンは、鹿地に向かって日本軍に対する宣伝工作を語り、その協力者になってはくれないか、と頼んだらしい。話を聞いた鹿地は納得したのか、「同じ目的なら協力を拒む理由はありません」と答えたそうだ。プロパガンダ作戦を担当するOSSの第三部門は、日本の文字で書かれた新聞を作りたかったようで、依頼に応じた鹿地は米国から派遣された日系人志願兵等と一緒に働いていた。しかし、米軍のキャノン機関とへ移された時、彼と米軍の相違が明らかになってきた。朝鮮戦争を迎えた米軍は、北鮮に対する後方攪乱を求めていたが、野望に燃えた鹿地は「祖国革命工作」に専念したかったようだ。(大森実『赤旗とGHQ』講談社、昭和56年、 p.47.) 後に、彼は自殺を図り、沖縄の知念に移された。晩年の鹿地は日本で執筆活動に励み、1982年に亡くなっている。

Kaji 002Kaji in ChinaNosaka 22324
(左 : 鹿地亘 / 中央 : 支那での鹿地 / 右 : 野坂参三 )

  もう一人、エマソンが協力者にしたかったのは野坂参三である。エマソンは日本の天皇制をどうしたらいいのか、野坂に意見を求めたという。「日本革命の三段階論」を説いた野坂は、意外なことに、終戦に伴う天皇制の廃止に反対した。なぜなら、日本の人民はまだ、天皇制廃止に伴う心の準備ができていないからだ。野坂曰く、急激な天皇制打倒は得策ではないという。

  しかし、野坂は無条件に天皇制を認めた訳じゃなく、標的に対するアプローチを述べていた。

 (1) 天皇に代表権を全く持たせないこと。これは連合国側の直接軍政を意味し、天皇の全権能を停止すると共に、皇族を軟禁することを意味する。天皇の主権は否定しないが、事実上の植民地化にする。
 (2) 天皇の代表権能は認めるが、天皇を軟禁状態にする。これは天皇の名を用いて軍政を進める方法だ。
 (3) 天皇や皇族を軟禁し、連合軍の軍政下における責任を天皇に課す。(上掲書、 p.38.)

  共産党の戦略を体現する野坂は、「天皇制廃絶」の方針に反対していたが、だからといって皇室を擁護したり温存する気持ちは微塵も無かった。コミュニストどもは表面上、「民衆政治と平和祈願」を口にするが、その本音は相も変わらず君主政の撲滅にある。ただ、日本国民の大多数が配線にもかかわらず天皇陛下を敬愛し、皇室の存続を熱望しているから、もし占領軍が無理矢理にでも廃絶しようとすれば、いつ何時、激昂した民衆が暴動を起こしてもおかしくはない。それなら、徐々に天皇の権能を削ぎ落とし、実権の無い「お飾り」にした方が悧巧である。野坂は「天皇制打倒」というスローガンを掲げることで、旧来の支配層を刺戟し、支配階級と庶民が再び天皇のもとで結束するんじゃないか、と恐れていた。

  かつて会田雄次先生がぼやいたように、我が国は米国によって「嬲(なぶ)り殺し」の目に遭ってしまった。しかし、対日戦争は八月の停戦で終わらず、国民精神を改造するという静かな攻撃が続いていた。日本が永続的に米国の属州になるよう工作したのは、主に深紅やピンクの左翼分子であったけど、それを裏から操っていたのは、軍服を身に纏ったニューディーラーの一団であった。これはトルーマン政権の狙いなのか、それとも単なる嫌がらせなのか、日本に派遣された法律家や行政官の多くは、アメリカでも毛嫌いされるような劣悪な人物ばかり。つまり、アメリカで拒絶される左翼思想を日本で実現させたいと望む連中であった。これなら、日本人に対するロボトミー(脳内改造)が陰湿だったのも当然だ。

  以前紹介したように、占領軍にはチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)やセオドア・コーエン(Theodore Cohen)とった赤いユダヤ人に加え、ローズヴェルト大統領に共感する革新派や人権派が数多く潜んでいた。仕置き憲法の中に結婚条項をネジ込んだベアテ・シロダ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)も、褌よりも赤い極左であった。彼女は戦前、日本に流れ込んだ根無し草のユダヤ人。これまた、ベアテの上司もゴリゴリの人権派で、ピーター・ロウスト(Pieter Kornelis Roest)中佐はネーデルラント出身の左翼リベラル派であった。

Charles Kades 3243Beate Sirota Gordon 66Pieter K Roest 99912Robert Guillain 001
( 左 : チャールズ・ケーディス / ベアテ・シロダ・ゴードン /ピーター・ロウスト / 右 : ロベール・ギラン)

  公式的には特定の思想に組みしていないと表明するエマソンも、本音ではニューディール政策の共鳴者で、米国共産党(CPUSA)に属していないが、共産主義に好意的なリベラル派であった。しかも、彼は日本国内の共産主義者達を釈放する方針に前向きなんだから、どんな人物なのか普通の国民でも解るだろう。在日フランスにも共産党に親近感を抱く左翼がいた。『ル・モンド(Le Monde)』から東京に派遣された記者、ロベール・ギラン(Robert Guillain)はエマソンよりも一足先に府中刑務所を訪れ、徳田や志賀と会っていた。ギランには後れを取ったが、エマソンも日本の悪党に興味を抱き、政治顧問となっていたジョン・サーヴィスやカナダ人外政官のハーバート・ノーマン(Egaeron Herbert Norman)を伴って府中刑務所を訪ねることにした。彼らは徳田球一や志賀義雄、そして朝鮮人の金天海と面会し、日本共産党の過去や未来について事情聴取を行ったそうだ。エマソンによれば、徳田と志賀は、訪れたコーエンを完全に「味方」だと思っていたらしい。やはり、隠れ共産主義者のユダヤ人には同類の臭いが漂っていたのだろう。

Herbert Norman 111(左 / ハーバート・ノーマン)

  ちなみに、このハーバート・ノーマンは限りなくコミュニストに近い人物であった。彼は軽井沢で生まれ、17歳くらいまで日本で過ごしていたから、日本語や日本人の生活に関して詳しかったようだ。その後はケンブリッジ大学やハーバード大学に入り、歴史学を勉強したそうだが、再び日本に戻ることになった。彼は東京にあるカナダ大使館に務めていたが、公務の傍らでちょいと東京帝國大学に立ち寄ることがあると、あの羽仁五郎を教師にして日本史を学んでいたという。しかも、その交際相手が凄い。例えば、マルキストの英文学者たる中野好夫、フランクフルト学派の政治学者になっていた丸山眞男、日本の國體を憎む憲法学者の鈴木安蔵などである。さらに、ノーマンの親友というのが、これまた凄く、左翼の巣窟たる一橋大学で経済学を教えていた都留重人。もう聞いただけで目眩がしそうになるが、ノーノマンは反共主義者のチャールズ・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)少将に目を附けられ、ジワジワと窮地に陥るようになった。1958年、ノーマンはソ連のスパイじゃないかと疑われ自殺を遂げる。こんな奴を持ち上げた加藤周一と工藤美代子は頭がおかしい。

  我々日本人が第二次世界大戦を学ぶ時、必ず頭に浮かぶのは「自由主義を掲げるデモクラシー陣営vs独裁政治で世界征服を目論む全体主義陣営」という図式である。しかし、これは常識的に考えれば間違いだ。むしろ、「共産主義のソ連を守る英米vs共産主義と闘う独伊」といった構図にすれば解りやすい。米国は支那大陸でも共産党の味方で、ソ連軍や八路軍と戦う日本を打ちのめした。しかも、戦後はジョージ・ケナン(George F. Kennan)の「封じ込め政策」に従って、ソ連を攻撃せず、核大国になるよう見守っていた。もちろん、米軍の正常な将兵や本国の一般人は、共産主義なんておぞましくて、とても決して容認できない。ステイルウェル将軍達は仕方なく蒋介石を支援していたが、本音では毛沢東や周恩来といった共産主義者を味方にしたかったそうだ。

George Kennan 1133Philip Jaffe 324Frederick Vanderbilt Field 1121
( 左 : ジョージ・ケナン / 中央 : フィリップ・ヤッフェ / 右 : フレデリック・ヴァンダービルト・フィールド )

  普通のアメリカ人とは違って、エマソンやサーヴィス、デイヴィスらは、毛沢東が民衆主義者に見えたようで、共産党への支援を本国の政府にそれとなく説いていた。それもそのはずで、彼らは思想的に共産主義のシンパ。特に、ジョン・サーヴィスは「アメラシア事件」でFBIに疑われた過去を持つから、この役人が国務省の赤い同志と連携していても不思議じゃない。この『アメラシア(Amerasia)』というは、ユダヤ人コミュニストのフィリップ・ヤッフェ(Philip Jacob Jaffe)とフレデリック・ヴァンダービルト・フィールド(Frederick Vanderbilt Field)が創刊した雑誌である。そして、これまたソ連贔屓のエドワード・カーター(Edward Clark Carter)が副主幹を務めており、共産主義者の巣窟となっていた。

  ちなみに、このカーターは「太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations / IPR)」の研究者でもあった。また、ヤッフェの相棒となっていたフィールドは、アメリカの名門財閥であるヴァンダービルト家の出身者である。日本の赤い華族と同じで、フレデリックは共産主義に惹かれる上流階級のリムジン・リベラルであった。一方、ヤッフェはロシア帝國生まれのユダヤ移民の息子だ。1915年には「米国社会党(Socialist Party of America)」に入り、図々しくも彼は1923年にアメリカ国籍を取っていた。

Andrew Roth 77342(左 / アンドリュー・ロス )

  支那贔屓のジョン・サーヴィスが、ソ連贔屓のヤッフェと知り合ったのは、元IPR研究員だったアンドリュー・ロス(Andrew Roth)の仲介によるものだった。このロスはハンガリー系ユダヤ人の両親から生まれ、左翼の牙城であるコロンビア大学で東歐史と支那語を学んでいた。卒業後、彼は合衆国海軍諜報局の極東担当者になったが、その親ソ連的な思考は拭いがたく、反共主義者のFBIのエドガー・フーヴァー長官に怪しまれ、スパイ容疑を掛けられてしまう。だが、狡猾なロスはフーヴァー長官の嫌疑を掻い潜り、英国で活動するジャーナリストに鞍替えだ。彼は世界的に有名な主流メディア、例えば「ガーディアン」紙とか「インディペンデント」紙に寄稿していた。一般の日本人は気づかないが、歐米のマスコミには正体を隠すユダヤ人がウジャウジャいる。

  戦後、OSSの局員が『アメラシア』のNY事務所をガサ入れし、編集部に連なるジョン・サーヴィスやアンドリュー・ロス、マーク・ゲインなどを検挙する快挙があった。検察側は容共色の強い『アメラシア』が、合衆国政府の内部資料や機密文書をソ連に流したんじゃないか、と疑っていたのだ。(M. Stanton Evans, Blacklisted By History : The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America's Enemies, New York : Crown Forum, 2007, p. 113.) しかし、サーヴィスらは有罪とされず、起訴は証拠不充分で却下されてしまった。もし、ジョン・サーヴィスがソ連に通じる赤色スパイと判明したら、少なくとも国家機密をソ連に渡す人物ということでブラックリストに載っていたら、米国の対支那政策は違ったものになっていただろう。

Andrew Roth 8832Mark Gayn 546stanton Evans 222
( 左 : ジャーナリストに転向したアンドリュー・ロス / 中央 : マーク・ゲイン / 右 : メドフォード・スタントン・エヴァンス )

  ちなみに、『ニッポン日記』で有名なマーク・ゲイン(Mark Gayn)は、ユダヤ人の赤色ジャーナリストで、本名は「ジュリリアス・ギンズバーグ(Julius Ginsberg)」という。日本人読者層には、著者の素性に無徳着という人が多い。実際、ゲインの著書は知っていても、彼の血統を知っている者は少なかった。米国の左翼に関しては上記で紹介したメドフォード・スタントン・エヴァンス(Medford Stanton Evans)の本が詳しく、アメリカの政治思想に興味のある人は是非とも読むべきだ。

  エヴァンスの著書は日本人にとっても非常に有益なんだが、なぜか大手の出版社から和訳されず、彼の経歴すらも紹介されることはない。彼はルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ(Ludwig von Mises)のもとで経済学を学び、保守派雑誌の『National Review』や『Human Events』に記事を投稿する知識人であった。彼は若い頃から保守的活動に勤しみ、「自由アメリカ青年(Young Americans for Freedom / YAF)」という政治サークルに属し、1970年代には「米国保守同盟(American Conservative Union)」の会長を務めていた。YAFの集会は、よくウィリアム・バックリー(William Buckley, Jr.)の家で開かれ、この団体には若き日(1960年代)のロナルド・レーガンも属していた。

Ludwig von Mises 002William Buckley 552Ronald Reagan 213Evans Carlson 213
(左 : ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ / ウィリアム・バックリー / ロナルド・レーガン / 右 : エヴァンス・カールソン)

  脱線したので話を戻す。不思議なことに、アメリカは共産主義を「敵」と見なしていたのに、なぜか政府の対支那政策では蒋介石の国民党を見限り、毛沢東の共産党に支配権を譲っていたのだ。本来なら、重慶の国民党を支援し、劣勢にあった八路軍を叩くべきだろう。ところが、重慶にいるジョセフ・スティルウェル将軍や彼のスタッフ達は、国民党よりも共産党の方が優れていると述べていた。シェノールト少将によれば、将軍の取り巻き連中は大っぴらに共産党を褒め称えていた、というのだ。確かに、スティルウェルとジョン・デイヴィスは1938年以来の友人であったし、漢口にいた海兵隊のエヴァンス・カールソン(Evans Carlson)大尉も共産主義者に好意的であった。そして、ジョセフ・マッカーシー議員によれば、スティルウェルとカールソンは極東の戦争において、共産主義者から英雄扱いされていたそうだ。(ジョセフ・マッカーシー『共産中国はアメリカがつくった』本原俊裕 訳、成甲書房、2005年、p.121.)

  確かに、合衆国政府へもたらされる支那情報というのは、支那大陸に派遣された国務省やOSSの赤色分子からの報告であったし、本国の省庁や大学にも共産主義のシンパが至る所に潜んでいた。支那やソ連の宣伝係となっていたのは、『大地の娘(Daughter of Earth)』や『支那赤軍の行進(China's Red Army Marches)』を執筆したジャーナリストのアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)や、『支那の赤い星(Red Star Over China)』で有名になったエドガー・スノー(Edgar Snow)である。彼ら以前だと、支那で宣教活動をしていた作家のパール・バック(Pearl Buch)だ。彼女も支那人の本質を判っていながら、本国のアメリカ人を欺き、支那人に有利な偽情報を教会の仲間に送っていた。

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(左 : アグネス・スメドレー / 中央 : エドガー・スノー / 右 : パール・バック )

  アメリカの行政機構にも多くの赤色分子が跋扈しており、有名なのは国務省のアルジャー・ヒス(Alger Hiss)で、「米国共産党」に属していたというから呆れる。彼はソ連諜報機関(GRU)のエージェントになっていた。重慶の延安派には、ジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン・ジョン・デイヴィスらに続いて、支那学者のジョン・フェアバンク(John King Fairbank)が加わることになった。こんな連中が「専門家」となっていれば、米国の支那政策が毛沢東に傾いても当然だ。このフェアバンク博士も容共主義者で、IPRと繋がる左派の知識人であった。こんな光景を目にすれば、誰だって「アメリカのチャイナ・ハンドは共産党の応援団なのか?」と言いたくなる。

Alger Hiss 9921John King Fairbank 001Joseph McCarthy 088
( 左 : アルジャー・ヒス / 中央 : ジョン・フェアバンク / 右 : ジョセフ・マッカーシー)

  日本ではアカデミック界の大御所みたいに扱われているが、フェアバンクはマッカーシー議員からも目を附けられ、共産主義者のエージェントではないかと疑われていた。(Leonard H. D. Gordon and Sidney Chang, 'John K. Fairbank and His Critics in the Republic of China', The Journal of Asian Studies, Vol. 30, Issue 1, 1970, p.139) さらに、このフェアバンクは支那の歴史や言語に関する知識も疑われており、漢字だって300語くらいしか読めないんじゃないか、と疑われている。(上掲論文、p.146.)

  支那学の専門家として知られるオーエン・ラティモア(Owen Lattimore)も非公式の共産主義者で、これまたIPRの一味だった。国務省には他にも赤色分子がいて、ラティモアと繋がる外政官、ジョン・カーター・ヴィンセント(John Carter Vincent)も要注意人物だったが、それよりも深刻なのは、トルーマン政権で国務長官になったジョージ・マーシャル(George C. Marshall)将軍やディーン・アチソン(Dean G. Acheson)が容共主義の大御所であったことだ。特に、マッカーシー上院議員は支那を共産化したマーシャル長官を激しく批判していた。

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(左 : オーエン・ラティモア / ジョン・カーター・ヴィンセント / ジョージ・マーシャル / 右 : ディーン・アチソン )

  話を戻す。普通のアメリカ人なら到底信じられないが、ジョン・サーヴィスの現地報告書は明らかに“支那寄り”であった。毛沢東と会談したサーヴィスの見解を要約すると以下の通り。

 (1) 支那と米国の人民は、共に民主的で個人主義的だ。両国民とも元来、平和を愛し、非攻撃的、非帝国主義的である。それゆえ、相互理解が可能である。

 (2) 支那は経済発展を望むが、それを達成するための資金や技術を独自に調達できない。だから、アメリカには経済支援をしてもらいたいし、アメリカは支那の経済発展を助ける最も適した国家だ。将来、支那が重工業国家になっても、アメリカの競合国になることはないし、今のところ、支那は人民の生活水準を上げることに精一杯であるから、高度工業国家であるアメリカの敵になることはない。

 (3) 支那人口の4億5千万のうち3億6千万人は農民だから、支那はこれからも長期間に亙って農業国であり続けるだろう。

 (4) 国民党は人民の声を無視している。国民党は内戦の構想を持っており、それは国民党の自殺を意味する。米国は蒋介石の実態を解っていない。蒋介石は米国の力だけに頼っている。もし、アメリカがその支援を止めれば、人民からの支持が無い蒋介石は瀕死の状態隣、国民党は崩壊してしまうだろう。
(『赤旗とGHQ』pp.37-38.)

  こんな報告書はガセネタどころか、悪質な偽情報である。支那人が平和の愛好者なんて大笑いだ。もし、サーヴィスが「毒蝮は入れ歯だから危険じゃない」と言ったら、国務省のアメリカ人は彼を信じるのか? 旧約聖書の創世記ではヘビがイヴを唆したが、現実の世界では支那人がルシファー(悪魔)を手玉に取るくらいの詐欺師となっている。しかも、アメリカ人を歓迎する毛沢東は、インテリ風のマルクス・レーニン主義者ではなく、秦の始皇帝を何倍も残酷にした20世紀の独裁者でしかない。理知的な知識人に見えた周恩来だって、一皮剝けば伝統的な支那人の策士だ。周が温厚な紳士を演じていたのは、毛沢東の狂暴性を熟知していたからで、「この男だけには刃向かってはならない !」と解っていたのだろう。笑顔の毛主席が、急に冷酷な表情に変わった時の瞬間ほど恐ろしいものはない。

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(左 : 支配者となった毛沢東 / 中央 : 主席の右腕となった周恩来 / 右 : 長征時代の毛と周 )

  とにかく、ジョン・サーヴィスは明らかにアグネス・スメドレーやエドガー・スノーと同じ赤いムジナである。もちろん、アメリカの一般国民や正常な軍人は、共産主義の拡大に反対していたが、ローズヴェルト路線に共感するニューディーラーや財界の大御所、CFRのようなシンクタンクの知識人などは、密かに「赤い支那」を望んでいたのだろう。それゆえ、田中角栄や竹下亘たちが、せっせと日本の税金を北京に貢いでも、これといった折檻は無かったし、「お咎め無し」という処分が罷り通っていたのだ。

  これはちょっと過去を振り返れば判るだろう。例えば、東芝はイチャモンとも思える「ココム違反」で袋叩きに遭った。本当に東芝の技術で、ソ連の潜水艦の音が消えたのか? 一方、田中派や創政会の連中は大っぴらに私腹を肥やし、加藤紘一や中曾根康弘も支那利権で幅を利かせていた。支那利権を巡っては米国でも同じで、民衆党や共和党の区別は無い。政治家のパトロンであるウォール街の旦那衆は、常に支那のマーケットを念頭に置いていた。ネルソン・ロックフェラーの子飼いであるヘンリー・キッシンジャーは毛沢東と密約を結んだし、実質的な「駐支那大使(Head of U.S. Liaison Office)」を務めていたジョージ・H・W・ブッシュも、将来性のある支那との関係を損ねないよう気を配っていた。だから、ブッシュ大統領は天安門事件の後、小姓の宮澤喜一首相を使って関係修復に努めたのだろう。徴兵逃れの宮澤が天皇陛下を江沢民に売り渡したのも、ワシントンからの「OK」サインがあったからだ。いきなりブッシュが訪問すれば、米国の世論が沸騰するから、属州の日本を使って事態の改善を図った方が「お得」という訳である。

Henry Kissinger & Zhou Enlai 223George Bush in China 111
(左 : 周恩来と ヘンリー・キッシンジャー / 右 : 支那に赴任したジョージ・H・W・ブッシュ夫妻 )

  アメリカは形式上、 共産主義国の支那と対立する。だが、テーブルの下ではしっかりと脚を絡めて愛情を確かめ合っている。たとえ、台湾周辺で軍事衝突が起こっても、それがエスカレートして大規模な戦争、あるいは核攻撃にまで発展することはない。たぶん、バイデン政権は台湾海峡で波を高くして日本人の恐怖心を煽り、高価な米国産兵器を売りつける魂胆なのかも知れない。とにかく、日本の保守派知識人は人民解放軍の侵掠に騒いでいるけど、案外これは米支共同のプロレス・イベントなのかも知れないぞ。

  次回に続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html
20:777 :

2022/11/28 (Mon) 02:45:01

ウォール街 と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898
21:777 :

2023/05/28 (Sun) 13:59:42

雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、 「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
22:777 :

2023/07/30 (Sun) 20:35:16

瀬島龍三、統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

昭和の軍部はなぜ暴走したのか?【CGS 茂木誠 超日本史 第29回】
2019/10/03
https://www.youtube.com/watch?v=RxcRfRiO20s&list=PLrhni2Vgrbr0OweawRqEJ2aAjHoyMmpak&index=29

日米戦争 破局への道【CGS 茂木誠 超日本史 第30回】
2019/10/10
https://www.youtube.com/watch?v=TmyOlzE1wE4&list=PLrhni2Vgrbr0OweawRqEJ2aAjHoyMmpak&index=30
23:777 :

2024/02/11 (Sun) 13:49:45

戦争中の軍人が実は相手側と通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした

本当にその気があったのか歴史の謎だが ソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている

また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html
24:777 :

2024/02/12 (Mon) 13:51:42

2024.02.09XML
米国の軍事顧問団が金門や澎湖に駐留、台湾の特殊部隊を訓練との報道
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202402090000/

 ​アメリカでNDAA 2023(2023年度国防権限法)が2022年12月に成立した後、アメリカの軍事顧問団が金門諸島と澎湖諸島に駐留、台湾の特殊部隊を訓練している​と伝えられている。こうした島々は中国を威嚇するだけでなく、軍事侵攻、あるいは秘密工作の拠点として想定されているはずだ。

 また、ロイターによると、アメリカ軍は中国との衝突に備え、昨年7月と8月に行われたタリスマン・セイバー演習の際、オーストラリアに装備を新たに備蓄したという。

 アメリカはオーストラリアを西太平洋における軍事的な拠点にしつつある。すでにオーストラリア、インド、そして日本と「クワド」を編成したほか、オーストラリアやイギリスと「AUKUS(A:オーストラリア、UK:イギリス、US:アメリカ)」なる軍事同盟を組織、NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言している。ただ、アメリカが考えているのは日米韓の軍事同盟だろう。

 ベトナム戦争を始め、東アジアから東南アジアにかけての地域における軍事作戦や秘密工作でアメリカは沖縄を拠点にしていた。沖縄の軍事基地がなければアメリカがこの地域を支配することは難しい。その沖縄と同じように台湾もアメリカにとって重要な拠点だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、イギリスのウィンストン・チャーチル政権は第2次世界大戦でソ連を主敵と考えていた。そこでドイツ軍のソ連への軍事侵攻を傍観、ドイツ軍がソ連軍に敗北すると、慌てて動き始め、シチリア島上陸作戦を強行したのだ。

 反ファシズムのフランクリン・ルーズベルト米大統領が1945年4月12日に急死した翌月にドイツは降伏、チャーチルはJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を奇襲攻撃する作戦を立てるように命じた。そして作成されたのが「アンシンカブル作戦」だ。その年の7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団でソ連を奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始める想定だったが、参謀本部の反対で発動していない。理由のひとつは、ソ連と日本が手を組む可能性にあったという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 アメリカはソ連の参戦に合わせ、8月6日に広島へ、8月9日には長崎へ原爆を投下したが、いずれもソ連を意識してのことだ。ルーズベルトが死亡したことで副大統領から大統領へ昇格したハリー・トルーマンが許可しての投下だ。

 1945年夏の段階でアメリカ空軍はソ連を「敵」と表現(Daniel Yergin, “Shattered Peace”, Houghton Mifflin, 1977)、48年後半には特殊部隊の産みの親とも言われている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」ている。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)この段階でマックルア将軍のソ連攻撃計画が現実的なものだったかどうかは不明だが、1952年11月にアメリカは水爆実験に成功、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。



 しかし、核兵器を使うためには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段はSAC(戦略空軍総司令部)の爆撃機だ。1948年から57年までSACの司令官を務めたカーティス・ルメイ中将は大戦中、日本の諸都市に焼夷弾を落として市民を焼き殺し、広島や長崎に原爆を投下、さらに朝鮮戦争で3年間に人口の20%以上を殺した人物だ。

 SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連や中国のほか東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。

 攻撃目標とされた大都市にはモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市のほか、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、そして中国の北京が含まれている。

 アメリカ軍は中国も核攻撃する計画だったが、その出撃拠点は沖縄。その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていている。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。当時、すでにベトナムへの軍事作戦がアメリカでは検討されていたはずだが、中国への核攻撃も想定されていた。

 核攻撃の前にアメリカは朝鮮半島から中国へ軍事侵攻する計画を立てていたようだ。日本を兵站の拠点にしなければならないが、そのためには輸送に不安があってはならない。つまり国鉄の労働組合にストライキさせるわけにはいかない。そうした時、アメリカにとって好都合な3事件が国鉄で引き起こされた。

 そして朝鮮戦争だが、大戦中に日本の情報機関で活動していた人物によると、それと並行して中国でも秘密工作が進められていたという。事件のあった1949年に中華人民共和国の建国が宣言されているが、天安門に中国共産党の幹部が並んだところを砲撃して暗殺、それに合わせて偽装帰順させていた部隊を蜂起させ、国民党の体制を樹立するという計画があった。その計画は中国側に漏れて失敗したという。

 大陸で敗れた国民党は台湾へ逃げ込み、反撃のチャンスを狙う。その準備のために蒋介石たちは1949年に岡村寧次大将など旧日本軍の幹部に接近している。処刑された日本軍の軍人も少なくないが、その一方でアメリカに保護された軍人も少なくない。そのひとりが岡村だ。

 蒋介石は1949年4月に曹士徴を密使として岡村の下へ派遣、東京の高輪で岡村や富田直亮少将と会談、「台湾義勇軍」を編成することで合意し、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。

 白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡っている。

 白団へ軍事情報を渡していたのは「富士倶楽部」、 つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たちだ。1969年に解散するまで白団は台湾で大きな影響力を維持していた。

 その後も台湾はアメリカの帝国主義者にとって中国を侵略するための拠点であり、沖縄問題とも密接に関係している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202402090000/
25:777 :

2024/02/19 (Mon) 11:32:13

日本人を捨てて逃げた皇軍 終戦後に在住日本人がやらされた事
2024.02.19
https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg
ソ連兵に妻や娘を差し出して命乞い

第二次大戦終了後の満州などで、ソ連や中国が日本人に強要していた戦争犯罪があったが世界史のタブーになっていて日本政府も触れようとしない

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、ソ連は勝ち目がないと見て攻撃しなかったので本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った

ソ連は独ソ戦に注力したので極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので日本軍が下がるのを待ったのでした

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と在住日本人100万人以上をだまして夜逃げしました

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民がソ連との決戦を信じて涙を流して日の丸の旗を振って送り出したが、実は関東軍は朝鮮半島まで我先に脱走した

関東軍は決戦に行くと在住日本人に信じ込ませる一方で「必ず勝つからその場から動いたり脱出してはならない」と指示し、実はこれは日本人を囮としてソ連軍に襲わせて時間稼ぎをする作戦でした

関東軍に騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘や妻を差し出して「接待」をさせました

特にソ連兵の規律は悪く金目のものや居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部の民間人被害は深刻でした

政府や軍隊を信じるとこういう目に遭う
最悪だったのは満州の荒野を開拓させられた満蒙開拓団で約27万人のうち約8万人が現地で襲われてなくなり、生き残った人も妻や娘を差し出して逃げ帰りました

満蒙開拓団は表向き志願だが実際は強制で、貧しい農村を中心にノルマとして人数を指定し長男は跡継ぎなので次男夫婦が強制的に満州へ移住させられました(小作人の次男が選ばれるのは最初から決まっていた)

関東軍が逃げ出したのは大本営の指示で、大本営と日本軍は満州在住日本人100万人を囮にしてソ連軍を足止めさせ、全員をみごろしにして関東軍だけを本国に帰還させる作戦を建てた

終戦直前の日本は食糧難だったので満州の日本人が帰って来ては困るので現地に捨てて来ることにし、関東軍60万人は本土防衛のために必要なので帰還させることにした

当時兵士の家族も満州に住んでいたので兵士の家族だけを列車に運び、他の在留日本人は列車に乗るのを禁止し移動も禁止した

関東軍の移動が終わると列車が再開し、38度線の南側は日本軍が駐留し規律が守られていたが、日本軍が撤退した北側は無政府状態になった

関東軍が黙って逃げ去ったので満州の日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった

愚かな事に「お昼ご飯を食べたいから」「夜は旅館で寝たいから」のような理由で北朝鮮側で列車を降りた人が相当数いて、降りた人はシベリアの収容所に送られてほとんど亡くなった

北朝鮮側はソ連兵が徐々にやってきて、北朝鮮の人民はきのうまで日本人に従っていたのにロシア人の歓心を買うために日本人を襲撃し始めた

北朝鮮に残った日本人はやはりソ連兵や現地人に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘や自分の妻を差し出しました

現地人も日本人をおそって金品を奪ったり、日本人の娘をさらったりしてソ連兵に差し出し、そのような人間が北朝鮮で権力階層に出世していった

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占め、その子孫が現在の金正恩政府でも支配階層として君臨している

ソ連や中国や朝鮮で酷い目に遭って命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった

このような行為をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった

帰還者は故郷に帰っても GHQの統制によって「侵略者」と石を投げられたり村から追い出されたり、へき地に追いやられたりもした

そして満州に置き去りにされた人々は今も「侵略者」のレッテルを貼られ、政府は日本人の被害に見て見ぬふりをし続けている

https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

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