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世界の石の彫刻家 流政之 アトリエは瀬戸内海を選んだ!

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2022/06/27 (Mon) 16:04:18

世界の石の彫刻家 流政之 アトリエは瀬戸内海を選んだ!

流政之 ナガレスタジオ - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B5%81%E6%94%BF%E4%B9%8B%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA&sa=X&hl=ja&biw=1155&bih=635&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ved=0ahUKEwjE9u6r-J_RAhVGFJQKHdeCDLkQsAQISA&dpr=1

彫刻家 流政之 オフィシャルウェブサイト
http://nagaremasayuki.com/flash/

流財団 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B5%81%E8%B2%A1%E5%9B%A3/@34.3634013,134.1549786,15z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xa49d511a1100b675!8m2!3d34.3634013!4d134.1549786?hl=ja

流 政之の様々なまとめ - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2138988551378113101

流政之 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B5%81%E6%94%BF%E4%B9%8B+

世界の石の彫刻家 流政之 アトリエは瀬戸内海を選んだ! 2009.03.22
http://plaza.rakuten.co.jp/cmftblwind/diary/200903210001/


 流政之 86歳 1923年2月14日長崎で生まれ彼が13歳のとき京都に移り住む。

1960年瀬戸内の国 香川県庵治にアトリエを構える。

今から6年前の彼の80歳の誕生日に彼の秘書、現在知的ママの案内で2度目の訪問をした。


上の写真はニューヨークワールドトレードセンターのあの爆破事件で倒壊したビルの横で頑強な要塞の如く残った彼の作品『雲の砦』が復旧作業の為に惜しまれながら撤去される事が2001年 art in americaに掲載された。

下の写真はニューヨーク市民に親しまれてきた当時の写真である。


この作品はこの間までワールドベースボールクラシック 第2ステージが開催された米国カルフォルニア サンディエゴ美術館の庭にある有名な『流ばち』である。


彼の庵治のアトリエは270度瀬戸内海を見渡せる素晴しい高台に要塞の如くレンガ造りのビルと広大な庭園がありアトリエの中、外に数多くの作品が飾られている。

特に室内には作品 『かんのん』が多くある。

同氏の説明を思い出したが有名な『流ばち』は女性の股間に出来る空間をモチーフにしたと記憶する。

東洋のミケランジェロと世界から評価される原動力はあくなきエロスへの追求が見え隠れする。

瀬戸内海を臨む彼のアトリエから今日も『防人』が世界平和を願っている。
http://plaza.rakuten.co.jp/cmftblwind/diary/200903210001/


流政之(ながれ・まさゆき)

長崎市生まれ。立命館大在学中に海軍飛行科予備学生になり、零戦パイロットとなる。

戦後、彫刻家として世界的に活躍し、「サムライアーティスト」として知られる。

「地方の助っ人」を自認し、離島や地方でも数多くの作品を手掛ける。

2013年(90歳)現在、高松市郊外の庵治半島の北端近くにアトリエを構え住む。


ナガレスタジオ:特別公開 見事な彫刻群を堪能 県内外から参加、サキモリなど1000点展示 /香川

≪瀬戸芸の目玉になってください。≫ 毎日新聞 2013年05月12日 地方版
http://blogs.yahoo.co.jp/justice2003tikyuusaisei/46900751.html

 高松市庵治町を拠点に活動する世界的な彫刻家、流政之(ながれまさゆき)さん(90)の自宅兼アトリエ「ナガレスタジオ」10+件が11日、特別公開され、県内外から約60人が訪れた。

参加者らは流さんと談笑しながら、敷地内に展示された彫刻作品などに見入った。
 特別公開は、流さんの作品を広く知ってもらおうと公益財団法人「流財団」が09年から実施し、今回で8回目となる。
 流さんは長崎市出身。第二次世界大戦時の1943年には、海軍飛行科予備学生となりゼロ戦の操縦士も務めた。終戦後は彫刻家として国内外で活躍し、作品は石を割った断面をそのまま生かす技法「ワレハダ」が特徴で、国際的に評価されている。

代表作品には、米同時多発テロ事件で崩壊したニューヨークの世界貿易センタービル前広場にあった石の彫刻「雲の砦」(75年)などがある。
 ナガレスタジオはれんが造りの3階建てで、瀬戸内海を見渡せる海岸沿いにある。
66年に造り始め、今でも流さんが自ら改築を続けている。建物内や庭などには石の彫刻「サキモリ」「ナガレバチ」といった作品約1000点を展示。参加者らは作品に触れたり、流さんから説明を受けながら記念撮影などをして楽しんでいた。


 友人と訪れた観音寺市豊浜町の主婦、黒田和子さん(73)は「瀬戸内海を望みながら作品を見られるなんてぜいたく。流さんとも話すことができて良かった」と満足げだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/justice2003tikyuusaisei/46900751.html

2012年 06月 12日 流政之スタジオ
http://jyoh33.exblog.jp/17646027


彫刻家 流政之氏のスタジオを訪問出来ました。

要塞のような屋敷、自動扉の門から坂道を登って駐車場に・・

次の門から庭園に入るとそこは無数の彫刻群。
http://jyoh33.exblog.jp/iv/detail/?s=17646027&i=201206%2F12%2F75%2Ff0127675_6423638.jpg

屋島沖、瀬戸の海が広がるこの高台に並ぶ彫刻は圧巻です。
http://jyoh33.exblog.jp/iv/detail/?s=17646027&i=201206%2F12%2F75%2Ff0127675_6432578.jpg


高台に並ぶ彫刻は圧巻、館内もところ狭しと作品と展示、そして応対の部屋が・・・
http://jyoh33.exblog.jp/iv/detail/?s=17646027&i=201206%2F12%2F75%2Ff0127675_6454434.jpg

2013年06月28日 ナガレスタジオ
http://blog.livedoor.jp/munimuni1/archives/51998415.html

ケア・フレンズ岡山の今年の親睦旅行は
四国高松の庵治町にある彫刻家・流政之氏のアトリエ「ナガレスタジオ」です

ナガレスタジオは住居も兼ねている為、日頃は非公開ですが成羽美術館館長の澤原氏が特別に案内をしてくださる事になり

昼食はスタジオの中にバーべキューができる設備があるから使えば良いと言っていただき以前岡山国際ホテルに居られた湯浅シェフが料理をお願いしました


旅行の前に下見にいった企画のメンバーが

「流さんがお茶室があるから使えば良いと言われているけどあなたお茶を点ててくれない?」

とナガレスタジオから電話をしてきました

「私達が食後にお茶を楽しむだけ」だそうでそれなら何とかやってみるけど

「水が何処で使えるか
お茶碗を洗う場所とか、お湯を沸かす場所なんかを
しっかりと見てきてね」と返事をしました

帰ってから見せて貰った茶室の写真
とても素敵です

ポットのお湯でお茶を点てればいいから
と言われてたけど

この独特な雰囲気の中にポットを持ち込む気にはなれない
丸い茶室の四角い炉に据えるなら
三角型の富士釜が映りが良さそう

モダンな茶室だから、海外で求めた茶碗が似合いそう
菓子器もタンザニアやメキシコ、インドなどのを持っていこう

海の側だから、釜の蓋を置く蓋置は貝殻を使おう

お香はニジェールで買った乳香にしようか
それとも、チベットの香草か、エチオピアの市場で買ったお香がいいか

お香は、イエメンで求めた乳香入れに入れよう
花は途中で野の花を摘んで
花いれは、  昨年さくらの会で使った建材にしよう
薬缶にお湯を入れて足していけば早いし・・・
と、イメージをしながら準備をしました


ナガレスタジオ・プロムナードナガレスタジオ・坂をあがる

当日のナガレスタジオ
バスが止まった道の横が玄関と思ったら
そこから坂道を登ります
道の脇はレンガの壁がそびえ立ち、楼閣みたいです
上を見れば作品が塀の上から見下ろしています

「ちょっと隠れるようにして置くんです 中からは敵がよく見えるが
敵からはこっちがよく見えないというふうに  男の虚栄心です」
と、後で読んだ本の中の対談で語っておられ

その時本当に、見られている!と殺気を感じたので
あながち外れではなかったと思いました

ナガレスタジオ・流氏が迎えてくださいましたナガレスタジオ・作品が点在①

ナガレスタジオ・作品が点在②ナガレスタジオ・下から見えた作品

坂を登りきると、流さん自ら門の外に出て迎えてくださっていました
どうぞと言われて中に入ると、緑の中に作品が並び
そこは美術館です

下から見上げた作品は海がバックになる高さに置かれていました


ナガレスタジオ・ご紹介ナガレスタジオ・レンガの建物

ナガレスタジオ・建物①ナガレスタジオ・建物②

ナガレスタジオ・色の付いた壁ナガレスタジオ・作業場

改めて流さん、澤原さん、スタッフの方のご紹介
今日一日どうぞ宜しくお願い致します

3万3千平方メートルの敷地に建つ三階建てのナガレスタジオは
規格外のレンガを用いて66年から約40年かけて建てたもの

スタジオ内に彫刻の庭、展示場、作業場等があり
約1000点もの作品が展示してあります

「たまたま工場で出来損ないのレンガを見ていたら
”これで家を作れば、(同じ煉瓦造りの)鑑別所に入った時に馴染みになって好いですよ”
なんて冗談で言われてもらったもの」
と、何かに書いてあった
くすっと笑えるお話です


ナガレスタジオ・天台に置かれた作品ナガレスタジオ・芝の庭

早速庭から案内をして下さいます
瀬戸内海を望む芝の庭は「天台」といって
出来上がった作品を海にも見てもらい
自然の中で耐えうるかをここに置いて試すのだそうで
作品が禊をしている様に見えました

一番海に近い所にはサキモリがすくっと立っています

サキモリは、「防人」「崎守」とも書き
国を守る人、また国の為に逝った人という意味

「Samurai Artist」の異名を持ち
海軍予備学生出身の零戦搭乗員として終戦を迎えた流さんは
どういう想いでサキモリの胸に風穴を開けたのでしょうか
戦争体験の無い私には、その胸のうちは知りようもない


ナガレスタジオ・雲の砦ナガレスタジオ・ナガレバチ①

ナガレスタジオ・ナガレバチ②ナガレスタジオ・海を背にして立つ


芝の庭にはその他に大きな作品が並んでいます
4つ並んだ左端の彫刻は、行き先が決まっているとか

世界貿易センター前に置かれた巨大彫刻「雲の砦」の縮小も
置いてあったし

ナガレバチを中心にした台座の上は
親子や生命の躍動が感じられ
ナガレバチが「リンガ」にも見えました


ナガレスタジオ・ポーズナガレスタジオ・中庭

ナガレスタジオ・ポスト②ナガレスタジオ・ほっこりする

ナガレスタジオ・陰にあるものナガレスタジオ・ポスト①

芝の端にはレンガで内側を紫で塗った囲いがあり
真ん中にゼロ戦プロペラが立っています
プロペラが回ったイメージで丸くしてあるのかしら

誰かが「ポーズをとって!!」と流さんに声をかけると
手を上げてくださるお茶目な流さん

建物の陰にもちょこっとした物が置いてあり
うふっと笑えてきます


次は中庭をくぐって建物の中に移動です
中庭には作品「天に向かって井戸をほる」が
お日様に向けて首を持ち上げています


ナガレスタジオ・中の作品ナガレスタジオ・作品①

ナガレスタジオ・作品②ナガレスタジオ・作品③

ナガレスタジオ・作品④ナガレスタジオ・作品⑤


外だけでも作品の多さにびっくりしているのに
中に入ると数の多さに圧倒されてしまいます

ナガレスタジオ・内側の骨組みナガレスタジオ・中から外を見る


作品は触って下さいとの事
これは約250トンの巨大彫刻「雲の砦」の内側の骨組みです
と澤原さんの説明


ナガレスタジオ・コレクション①ナガレスタジオ・コレクション②


ナガレスタジオ・説明ナガレスタジオ・2階の作品


ナガレスタジオ・へや

丁寧に作品の解説をしていただきながら
1階、2階と見て回ります
縮尺された作品の間に、流さんのコレクションや
ゼロ戦に航空母艦が置かれていました

ゆっくり拝見したかったのですが
私はお茶室の用意をしなくてはならないので
気になってそれどころではない

お茶室はバーべキュー用のかまどの横にあり
写真で見た通り雰囲気のある部屋です


ナガレスタジオ・バーベキューナガレスタジオ・茶室


湯浅シェフが先に到着して炭をおこして奮闘中
肉の煙がもうもうと上がるので、茶室の襖を閉めきって
先ず香を焚いてから道具を出します

まるい茶室ナガレスタジオ・摘んだ花


ナガレスタジオ・流さんの茶碗ナガレスタジオ・並べた道具

花は先に立ち寄った「天皇寺」の近くで摘んだもの
かまどの脇で炭をおこし、
持ち寄った茶碗を広げ、お菓子を盛り付け準備を整えます
澤原氏が持ってきて下さった流氏の茶碗も使わせていただきました


流政之さんは茶道裏千家の千玄室大宗匠と同い年の大正12年生まれ
海軍飛行予備士官として、いわゆる零戦特攻隊の訓練を共に受けた戦友です

千玄室さんが持って行った携帯用の茶箱で
多くの仲間が茶を点てくれと言い、
一服のお茶を飲んでゼロ戦に乗って飛び立ったそうです

一方流さんは、明日飛び立つようにと指名され
ガタガタ震えている仲間を女性のもとに連れて行ったと何かに書いてありました
女性に抱かれた後は、すっきりした顔に変わり空に飛び立って行ったとか

ナガレスタジオ・外から見た茶室ナガレスタジオ・お茶を点てる

ナガレスタジオの茶室には
海軍の士官搭乗員として過ごした頃の記憶が残っている様に思え
鎮魂の気持ちも込めてお茶を点てました

にじり口から覗いた茶室は雪国の「かまくら」の様でもあり
秘密基地の様でもあり、女性の体内のようにも見えました

お茶の接待に夢中になっていたら
「あなた何も食べていないのでしょう」と
仲間が食事を運んでくれました


ナガレスタジオ・並んだ料理①ナガレスタジオ・並んだ料理②

ナガレスタジオ・並んだ料理③ナガレスタジオ・テラスで


ナガレスタジオ・ゆっくりくつろぐ


せっかくの料理、ちょっと行ってくると上に上がると
ベランダには湯浅シェフの料理が並べられ
海風に当たり彫刻を眺めながらワインを飲んだりと
切り取った様な時間を過ごしていました

ナガレスタジオ・茶室前の床机


中に篭りっきりなので、外の様子は分からなかったのですが
流さんは正座が出来ないので、茶室の外に出して下さった縁台に腰掛けて
お茶を飲まれたようです

今日はこれで終了とばかり思っていたら
澤原さんが、「お茶の方達は片づけが済んだら流さんの部屋に案内します」
と言われます

え? まだ案内してくださるの?とびっくりです
急いで道具を片付け終えると
エレベーターで3階に連れていって下さいます


ナガレスタジオ・上から見た部屋ナガレスタジオ・ゼロ戦

ナガレスタジオ・ナガレチェアーナガレスタジオ・まあるい階段


流さんの部屋にはゼロ戦があっちこっちに置いてあります
白いピアノの上には、サキモリを先頭に
ゼロ戦がいつでも飛び立てる様に配置してありました

ピアノの前に置いてある椅子は
流さんがデザインしたすわり心地の良いナガレチェアーです


部屋の真ん中にはまるい階段があります
澤原さんの説明では、建物は航空母艦を表しているのだとか
3階の窓からの眺めは最高でした


ナガレスタジオ・外が眺められる部屋

ナガレスタジオ・窓からの眺めナガレスタジオ・部屋からの眺め


「夕日に映える作品を見て欲しい」と
下見に伺った時に流さんが言われたそうですが
ここから眺めた作品
夕日を背にして立つサキモリ
見たかったです


ナガレスタジオ・本ナガレスタジオ・サイン

ナガレスタジオ・握手ナガレスタジオ・感謝でお別れ

本にサインをいただきお別れですが
帰りに一人ひとり握手をしていただき感動しました

人を大事になさる流さんだから
作品も暖かいのですね

大勢が押しかけ、お疲れだったと思いますが
とても贅沢で楽しい時間を過ごす事が出来ました

流さん 澤原さん 湯浅さん スタッフの方達に感謝です


ナガレスタジオ・くぐり滝ナガレスタジオ・鬼屏風

ナガレスタジオ・どたま獅子

そして最後は瀬戸大橋記念公園にある
流氏の作品「鬼屏風」「くぐり滝」「どだま獅子」を見て帰りました
流さんの作品は、自然と同化して景色を作り出していました

ナガレスタジオでは多くの作品を一度に見すぎて
消化不良でしたが
帰ってからサインをしていただいた「流政之作品論集」を読んでみると
流さんと森村康昌さんの対談が面白く

何であんなに一杯作品を置いているんだろう
在りすぎ と思っていたのは

武道の稽古でも同じ エイヤエイヤと何百回と反復するうちに
その世界に没入した状態になる
すごい勢いで制作を続け、何が何だか分からなくなるうちに「何だこりりゃ」という物が出てきたり
それが意外に良かったりするわけです。
と書いてあるのを読んで、なんとなく納得


ナガレスタジオ・黒い石①ナガレスタジオ・黒い石②


黒い石についても
ヨーロッパを始め、殆どの彫刻家は白い石を使います
大理石を用いると写真写りもいいし、説明しやすい
ところが黒は写真に撮っても、カメラマンの顔まで写ってしまってやりにくい

黒い石は模様がない分、作り手の人間的な気持ちがはっきり出る
黒々と重苦しくて非常に残酷に見せ付けられる
それでも、中から湧き出てくる迫力というのは黒の方が強い

と書いてあったのを読んで
利休が晩年に黒の楽茶碗を好んだのと同なのかしら?

サキモリの胸に穴をあけたのも
何もない空虚とも取れるし、
逆に、海も空も全てのものを含んでいるのかも・・・とか

重くて硬い石を使って
あえて形のない風とか雲とか柔らかなものを表現するって
陰陽をあらわしているんだろうか・・とか
いろいろ思いました


後、興味深かったのは
「よき趣味に死ぬことなかれ」という流さんの言葉です

「時々趣味の悪い仕事をしないと、大作家にはなれないものなのです
グッドテイストだけではダメ。
だから、仕事の節目には、こういった「何でこんなの作ったんだ?」と思われるものを作ると決めています」

「悪い趣味を失うと、人間じゃなくなるし国もおかしくなる
時々アホなことをしなさい」ですって

お堅いだけ、真面目すぎてもダメ
遊びをもたなくては壊れてしまうよと言っているのでしょうね
壁を紫に塗ったりしているのも、そういった訳だったのかも


ナガレスタジオ・割れ肌①ナガレスタジオ・割れ肌


流さんの作品の特徴「割れ肌」は
ベテランの石屋はアタリが正確すぎて割れ肌が出てこない
自然な割れ肌を出すには、下手な職人さんがやらなければならない
のだそうで、これも印象的な言葉でした


90歳を過ぎてもカクシャクとしておられます
まだまだ作品をいっぱい造ってい下さい
http://blog.livedoor.jp/munimuni1/archives/51998415.html

彫刻家・流政之氏、「攻撃の美学」好きになれぬ(戦争と私)
戦後70年インタビュー、元零戦パイロット 2015/8/12付


 「サムライ・アーティスト」として世界的に有名な彫刻家、流政之氏(92)は元零戦パイロットで、戦没者を追悼する作品も多く手掛けてきた。

瀬戸内海に面した高松市庵治町のナガレスタジオで、空に散った戦友への思いを聞いた。

 ――軍隊経験を教えて下さい。

 「親父(おやじ)は立命館大学の創設者、中川小十郎で、私も立命館大に入れられた。もともとグライダーをやっていたこともあり、1943年に『日本危うし』との思いで第14期海軍飛行科予備学生になった。佐世保や土浦、筑波、霞ケ浦などを転々とした。

本当は零戦のパイロットにはなりたくなかった。偵察機などは何人も乗員がいてさぼれるが、零戦は1人乗りだ。ところが試験を受けたら『戦闘機操縦士を命ず』と来た。なんとか免れようと抵抗したが、人相が零戦向きだという理由で『貴様は戦闘機だ』と言われた」

 「最初から『お前らは死ぬんだ』と言われ、みんな帰ってこなかった。戦闘では、敵機が50機以上いて空が真っ黒に見えた。こちらは数が少なく、とても戦いにならないこともあった。もう逃げるしかない」

 「零戦パイロットというと、悲惨な、悲壮なイメージが強いかもしれないが、実際には男たちがエンジョイしていた部分だってある。当時は夜間飛行したり、長距離飛行したりすると、別途、手当てが出た。で、実際には飛んでないのに飛んだことにしたりね。レーダーなどもそんなに上等じゃなかったから、ごまかせた。

日本の軍隊はそんなに暗いばかりじゃなかったんだ。ただ、そこに『天皇陛下のために』という話が入るとおかしくなる。『気をつけ、礼。陛下のために』で、議論の余地がない。誰も『違う』とは言えなくなる」


 「45年8月、広島に新型爆弾が落とされたとの情報があった。(元陸軍中将の)石原莞爾の『世界最終戦論』を思い出したね。それで状況がよく分からないから、広島を見てこいと命令を受けた。8月10日ごろに広島に入ったが、みんな原爆で焼けて灰色の世界だった」

 ――55年、初めての個展「飛行空間」で戦没パイロットを追悼した。

制作拠点の「ナガレスタジオ」で、戦死したパイロットを慰霊する作品「飛(とび)」を前に語る彫刻家の流政之氏(高松市)


制作拠点の「ナガレスタジオ」で、戦死したパイロットを慰霊する作品「飛(とび)」を前に語る彫刻家の流政之氏(高松市)

 「軍隊では『航空』と呼ぶのに対して、私は『飛行』をテーマにしたんだ。東京に出てみると、駐留軍の米国人もたくさんいて、何か殺伐とした雰囲気があった。誰も飛行機乗りの追悼をしようなんてことは考えていない時代だった。

『じゃあ俺がやらなきゃだめだ』と思って、日本軍だけじゃなく、米軍も含めて、戦争で死んだパイロットの弔いをしたんだ。

国内ではあまり反響を呼ばなかったが、英字紙が『ゼロ・ファイター』の個展だと報じた。負けた国のパイロットとしては、おもしろい気分はしなかったが、それがきっかけになって米国でも名前が知られるようになった」

 ――60~70年代は米国で大活躍された。

 「ロックフェラー3世夫人に作品を購入してもらったり、米国の美術館に作品が並べられたりと評価されるようになった。戦争で負けたという悔しさと同時に、米国にはあこがれのような思いもあって、必死で仕事をした。負けた国の軍人が、米国に乗り込んで活動するなんて、ほかにいなかったからね。米国でも尊敬された。

ニューヨークに拠点を持って、67年には米タイム誌で日本を代表する文化人として、三島由紀夫、川端康成、丹下健三、黒沢明と一緒に紹介された。75年には世界貿易センターに7年の歳月をかけた作品『雲の砦(とりで)』が完成した。米国でお金もだいぶ稼いだ」


 「でも日本に帰国したきっかけはベトナム戦争だよ。この頃、ニューヨークのダウンタウンで米国人の仲間たちと飲んでいて、議論になった。

『東洋で戦争があるなら、俺は東洋の味方だ』と言って、『では戦場で会おう』という話になった。米国もおかしくなってきたな、と感じて帰国することにした」

 ――日本各地に戦没者を追悼する作品を作っている。


 「2006年に北海道七飯町の流山温泉彫刻公園ストーンクレージーの森に、海軍飛行予備士官の青春をとどめようと『もどり雲』を建てた。ここでは同じ土浦海軍航空隊に所属した裏千家の前家元、千玄室氏と一緒に平和を祈る茶会もやった」

 「学徒出陣した戦没者を追悼する作品を東京・明治神宮に作ってほしいという依頼もあったが、これは断った。東条英機の主導で、学生たちが行進した明治神宮外苑競技場は、ふさわしくない。これとは別に高知県大月町に学徒出陣した戦没者を鎮魂する作品『雲が辻』を作った。

北海道奥尻島には、北方領土の国後島を脱出した人々が入植した歴史がある。あまり知られていないが、戦争による『難民』が日本にもいたんだ。望郷のモニュメントを奥尻島の北追岬公園に作った」

戦争への思いを語る流政之氏(高松市)


 「代表作の『サキモリ』シリーズは内臓部分が空洞になった人型の作品だ。私が作るまで、そういうヌードはなかった。空洞の中に、生命とか夢を入れて考えるんだ。サキモリは文字通り『防人(さきもり)』が題材。防人は守る側で、自分から攻撃はしない。防衛する存在だ」

 「少年時代、親父から古流武道を習わされた。武道には『受けてたつ』という武士道の思想がある。これも自分からは攻撃をしない。

私が高松にいるのも、受けてたつ、の考えからだ。彫刻家として攻撃的に生きるなら、東京のような大都市に住めばいいんだ。攻撃の美学は好きになれないね。日本が再び武力の問題を考えるのなら、守ること、受けてたつことに、きっちりけじめをつけておかないといけない。そうしないと、また戦争することになる」
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO90128090U5A800C1000000/

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