-
1:777
:
2022/06/17 (Fri) 21:07:47
-
つげ義春で有名になった八幡平の後生掛温泉と ふけの湯温泉はダメ温泉だった
八幡平 焼山火口の湯/Point of No Return - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fSFIVYot8xE
秋田焼山 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%84%BC%E5%B1%B1
八幡平で行く価値が有る温泉は 焼山火口の湯 と 硫黄取りの湯 の二か所だけ。防毒ガスマスクを付けて行ってね:
念願の野湯に入湯‼天国と地獄を巡る山「秋田焼山」 - 2021年07月11日 [登山・山行記録] - ヤマレコ
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3337668.html
硫黄取りの湯(秋田焼山) - 2019年07月21日 [登山・山行記録] - ヤマレコ
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1936675.html
温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト » 後生掛温泉と野湯2か所、乳頭温泉
http://www.gunjion1000.com/?p=2839
温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト » 東北の湯治場と野湯4か所 火口の温泉
http://www.gunjion1000.com/?p=2804
紅葉と野湯の秋田焼山 2014年10月 前編 【登・旅】
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/e2aaabca86a1ca9310bf823dec320bd3
紅葉と野湯の秋田焼山 2014年10月 後編 【登・旅】
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/80fe689525053b23d9eff2e6b2d4c1e5
秋田焼山 湯の沢の野湯(硫黄取りの湯) 【野】
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/ccd1f238baa26ed60cf5bdc53683c8bb
▲△▽▼
後生掛温泉
秋田県 鹿角市 八幡平 熊沢 国有林内
電話0186-31-2221
後生掛温泉 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%BE%8C%E7%94%9F%E6%8E%9B%E6%B8%A9%E6%B3%89+
公式HP
http://www.goshougake.com/
後生掛温泉 - 八幡平 (秋田)|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/hachimantai-akita-onsen/onsen000646/
地図
https://www.bing.com/maps?ty=18&q=%E5%BE%8C%E7%94%9F%E6%8E%9B%E6%B8%A9%E6%B3%89&ss=ypid.YN5286x15024201879465294989&ppois=39.97211837768555_140.80023193359375_%E5%BE%8C%E7%94%9F%E6%8E%9B%E6%B8%A9%E6%B3%89_YN5286x15024201879465294989%7E&cp=39.972121%7E140.800223&lvl=16.0&v=2&sV=1&FORM=SNAPST
体が酸化した[後生掛温泉]
しろうさぎさん [入浴日: 2008年10月5日 / 2時間以内]
旅館部の裏の下がったところに湯治部がある。
一周約40分の後生掛自然研究路を歩いて 「泥火山」 などを見学した後で湯治部の 「神恵痛の湯」 に入る。
循環、塩素消毒せずに加水のみのはずだが、ORP439mV。
なぜこんなに高いのか理解出来ない。 体が酸化してしまった。
オナメ・モトメの湯 酸性ー単純硫黄泉
88.4度 pH3.2 メタケイ酸 87.2 メタホウ酸 20.3
酸化還元電位 (ORP) 439 (2008.10.5)
https://onsen.nifty.com/hachimantai-akita-onsen/onsen000646/kuchikomi/0000089451/
▲△▽▼
ふけの湯温泉
秋田県 鹿角市 八幡平 熊沢国有林内
電話0186-31-2131
ふけの湯温泉 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%B5%E3%81%91%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89
公式HP
http://www.ink.or.jp/~fukenoyu/
源泉・秘湯の宿 蒸ノ湯(ふけのゆ) - 八幡平 (秋田)|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/hachimantai-akita-onsen/onsen000627/
ふけの湯温泉
前編 内湯・露天風呂
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/f5e4269505bee4573b58e59c4df121e4
後編 野天風呂
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/dd06aec6e39d0a2271c24134af5bcbd0
地図
https://www.bing.com/maps?ty=18&q=%E3%81%B5%E3%81%91%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89&ss=ypid.YN5286x4520488797750941431&ppois=39.979515075683594_140.800537109375_%E3%81%B5%E3%81%91%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89_YN5286x4520488797750941431%7E&cp=39.979521%7E140.800545&lvl=16.0&v=2&sV=1&FORM=SNAPST
設備は良いが来た甲斐がない[源泉・秘湯の宿 ふけの湯温泉]
しろうさぎさん [入浴日: 2008年10月5日 / 2時間以内]
駐車場を宿と反対の方向に下って行くと、女性用野天、男性用野天、岩盤浴用テント、混浴野天がある。 混浴野天の脱衣所の入り口のすだれは、かなり傷んでおり中が透けて見える。
宿の方はリニューアルされており、ウォシュレットもある。
木の内湯には鉄分を含む酸性泉が、加水掛け流されているがどうも浴感が無い。
ORPは396mV。 この値だと家の水道水の風呂と同じになってしまう。
藤七温泉よりはるかに設備が良いのに残念である。
岩の湯 単純酸性泉
88.8度 pH2.4 鉄(Ⅱ) 11.0 メタケイ酸 156.1
酸化還元電位 (ORP) 396 (2008.10.5)
https://onsen.nifty.com/hachimantai-akita-onsen/onsen000627/kuchikomi/0000089450/
▲△▽▼
酸化還元電位(ORP)については
日本の掛け流し温泉の酸化還元電位(ORP)の比較
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14012669
▲△▽▼
▲△▽▼
後生掛温泉: 湯☆Diary
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2006/05/post_27c9.html
温泉のほうは、高名な割には普通の湯だなと思った。
湯治部と共有の大浴場のお湯は、それほど硫黄を感じない。
少し物足りない浴感でもある。
後生掛温泉はオンドル大部屋の湯治場の印象が強かったのだが、湯治部と旅館部があり、旅館部に宿泊すると、ごく普通の温泉宿であった。いや、普通というより、その応対には至極満足した。とても丁寧で気配りを見せる。料理も値段の割りに満足できるもの。切りたんぽととんぶりを見ると、ここは秋田なんだなと思い出す。写真の内容で一泊1万円しない。
部屋は2人で6畳間だったので狭く感じたが、ちょっと豪華な造りであるし、旅館部の宿泊者専用の小浴場もあるし、マッサージ椅子も無料で使える。また泊まりに来たい宿である。
さて、温泉のほうは、高名な割には普通の湯だなと思ったが、決して悪くはない。かなり熱い湯と温めのジャグジー風呂、泥湯、狭くて閉鎖的な露天風呂、サウナなどからなる。
湯治部と共有の大浴場のお湯は、それほど硫黄を感じない。むしろ、旅館部専用の小浴場のお湯は硫黄泉らしいものであったが、少し物足りない浴感でもある。
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2006/05/post_27c9.html
▲△▽▼
秋田 八幡平 蒸ノ湯温泉(ふけの湯) - 桃猫温泉三昧 2012-08-08
https://momoneko0725.fc2.net/blog-entry-3116.html#more
景色と言い、雰囲気はある意味バツグンですが、、、お湯的には、薄い!
自分的には、あまりヒットしなかった。
東京から遥々、蒸ノ湯温泉=ふけの湯まで来てしまったのである。そういう感慨さえあった。荒涼とした景色、本館から、噴煙があがった賽ノ河原みたいな源泉地へと赴く。どうして、こんなにも離れてるのかと思いきや、かつて、大きな雪崩等によって、本館以外の施設が流されたと言う、悲しいデキゴトの結果なのだという。
その名の通り、もとは、蒸し風呂をウリにしていて、その小屋がたくさんあったらしいが、いまでは、ポツンと青い屋根の小屋=オンドルが2棟あるだけ。混浴露天風呂に至っては、周囲の囲いも外れていて、通りからすっかり丸見えになっている。改修が覚束ないのだろうか?
男女別内湯 : 岩の湯源泉
☆☆☆ 単純酸性泉 66.5℃ PH=2.5 成分総計=620.3mg/kg
外湯と内湯の源泉は別個であるが、さほど違いが有るようには思えない。しかし、ふけの湯の醍醐味と言えば、やはり、本格的な露天風呂、ごつごつした岩山の中にある湯舟に浸かる開放感ではなかろうか?館内の内湯のなかにも、男女別の露天風呂があって、こちらも、つくりが、かなり開放的で、外から丸見えとなっていた。
男女別露天風呂 : 熊の湯源泉
☆☆☆ 単純温泉
79.8℃ PH=5.3 成分総計=96.5mg/kg
景色と言い、雰囲気はある意味バツグンですが、、、お湯的には、薄い!自分的には、あまりヒットしなかった。むしろ本館に奉られた性神が気になった。ふけの湯に着いた途端、真っ青な空に、虹のような彩雲が、ダチョウの羽のように見えた。
https://momoneko0725.fc2.net/blog-entry-3116.html#more
蒸けの湯温泉<ふけの湯>: 湯☆Diary
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2006/05/post_be6a.html
ここのお湯は、割と普通の硫化水素泉という感じ。
ロケーションのほうが泉質に勝った感もある
ふけの湯は八幡平で一番入ってみたいところだった。
こういう直感というのはけっこう当たるもので、今回の八幡平の湯巡りで一番気に入った。
宿の周りは岩場と原野といった感じで寂しいところだが、こんなところでも露天風呂があると素敵な場所に一変するのだから不思議だ。
いや、温泉マニアが不思議といったほうがいいかもしれないのだが…。
宿の中にある内湯と露天は混んでいたので、宿から少し離れたところにある野天風呂の男湯のほうにだけ入った。
野天風呂は、周りに何もない、まるで野外ステージのような混浴風呂と岩場で自然に仕切ったような男女別の風呂と全部で3つある。
ここのお湯は、割と普通の硫化水素泉という感じで、入ったときは39℃もないくらいだったのが、30分もすると急に熱くなってきた。
ロケーションのほうが泉質に勝った感もあるが、硫黄の匂いのする湯も悪くなく、天気のいい日にまた来たい。
そのときは内湯にも入ってみたい。ここのお湯は茶色くなることもあるそうだ。
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2006/05/post_be6a.html
雨にたたられながらも、東北へ4泊5日で湯巡り旅してきました。全部で9湯。ゆっくり入ることを心がけました。
2泊は八幡平で過ごし、未入湯で懸案だった有名な温泉を堪能しました。
しかし、北東北の有名処をクリアしてゆくに連れて、言われているほどのお湯ではないなという感想も正直なところあります。伝統やロケーションのよさに惑わされず、よいお湯を求め続けていきたいと思います。
笹谷温泉「一乃湯」(泊)、鶯宿温泉「うぐいす旅館」、銭川温泉(泊)、玉川温泉、ふけの湯、後生掛温泉(泊)、松川温泉「松楓荘」、横向温泉「中の湯旅館」(泊)、土湯温泉「富士屋」
以上の9湯。お湯のよさは横向がダントツで、ロケーションでは「ふけの湯」の露天(建物と離れているほう)、お湯の鮮度では横向と「うぐいす旅館」といったところ。後生掛はお湯はともあれ宿泊満足度高いです(湯治棟ではなく旅館のほう)。なお、宿のぼろさにおいて、横向を超えるところはない。ということで、同行者と意見が一致しました(^^;
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2006/05/gw_f40a.html
▲△▽▼
詳細は
『見張りの湯』 から玉川源流へ _ 八幡平の温泉 _ 失われゆく湯治文化
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/314.html
玉川温泉では癌は治らない
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/405.html
恐怖の玉川温泉 _ 本当に怖いのは強酸性のお湯ではなく玉川温泉信仰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/308.html
▲△▽▼
旅・ツーリング - 1ページ目2 - We Will Rise 人生はオルタナティブ
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-2.html
2020旅ツーリング - We Will Rise カオスからの統合
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-49.html
2019旅ツーリング - We Will Rise カオスからの統合
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-56.html
2017旅ツーリング - We Will Rise カオスからの統合
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-32.html
2016年旅ツーリング - We Will Rise カオスからの統合
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-30.html
2012旅ツーリング - We Will Rise カオスからの統合
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-category-55.html
-
2:777
:
2022/06/17 (Fri) 21:10:50
-
湯治文化が失われたのではなく、病気が治らないダメ温泉が淘汰されただけ(嘲笑い)
八幡平の温泉 _ 失われゆく湯治文化
1. つげ義春の世界
『つげ義春旅日記』
この絵はつげ義春のマンガ「オンドル小屋」の冒頭シーンである。
雑誌『ガロ』に1968年4月に発表した作品で、その前年67年10月に東北の湯治場を単独旅行した取材をもとに描かれたものである。
マンガはストーリーらしきものもなく、「蒸の湯」(ふけのゆ)の地熱を利用したオンドル小屋に一泊して見聞した状景を、ありのままに絵にしたもので、湯治客の男たち数人が傍若無人の騒々しい振る舞いをしているのを皮肉をもって描いている部分が、唯一話らしい部分である。
そこは、いまの秋田県鹿角市八幡平である。現在の「ふけの湯温泉」はすっかり温泉地らしくなっているのだろうが、つげ義春が訪れた40年前は無残なくらい粗末なオンドル小屋に寝泊まりした貧者の湯治場の様相だった。
『颯爽旅日記』には、「颯爽」どころか、陰鬱な湯治場に、さすがのつげ義春もショックを受けたと見える文章を綴っている:
『到着の日、ミゾレが降っていた。山のふもとでみられた紅葉も、ここまでくると落葉している。八幡平頂上は登山観光客で賑わっているようだが、蒸の湯は、地の果て旅路の果てといった観がある。オンドル小屋でムシロを敷いて毛布にくるまっている細々とした老人をみると、人生のどんづまりを見る思いだ。
売店でムシロと毛布を一枚20円で4枚ばかり借りて寝る。
地面から噴き上る蒸気でムシロはびっしょり濡れる。
温泉の地熱を利用した天然の岩盤浴がオンドル小屋だ。そこで汗をかきながら寝るのである。
若い頃は仲間と馬鹿騒ぎばかりしながらも、まさに人生のどん底への憧れも強くあった。薄暗い、豚小屋みたいなオンドル小屋で、ヌクヌクと体だけは暖めながら、グダグダと淪落の淵に腰を掛け、まっ逆さまに落ちて、野垂れ死にたいと思いう憧れがあった。
八幡平観光にやってきたツアー客たちが、湯治場を物珍しく、大勢がぞろぞろと覗きにやってくる。オンドル小屋の内部を覗きながら、
「ひでえな、豚だ、豚だ」
と失敬なことを言う。なかには、ブー、ブーと豚の鳴き真似をして、湯治客をからかうマナーの悪い連中もいる。』
つげの作品に、となりの部屋に寝起きする女の子の裸を見るシーンがあるが、それも事実だったようで、日記にはつぎのように書いている。
『同じ棟の片隅に、食堂で働く女の子の寝起きする場所がある。ロープを張り、そこに毛布や着物を掛け周囲の視線を遮っているが、すき間から見ると裸で床の中へ入った。誰でもそうするのだが、下着が汗で濡れると風邪をひくからだ。
彼女は地方から働きに来ているのかしら。小さな鏡台が置いてある。』
オンドル小屋の少女より、もっきり屋の少女の方がいいよね。
コメント(6)
オンドルというと、韓国の暖房方式として使用されていますが、
日本では、湯治として随分前から利用されていたのですね~。
つげさんの日記には、観光客が湯治客を「豚」とはやし立てていますが、当時、湯治をする人を低くみる傾向があったのでしょうか。。
。。昔は、湯治を行っていたのは権力者など、一部の人に限られていたと聞きます。。ただ、江戸時代になると、梅毒に苦しんでいた町人が多く湯治に訪れたといいますから、その辺りを捉えてのことなのでしょうか。。
。。この頃、地方から働きに来たオンドル小屋の少女を思うと金の卵と言われてた時代をフッと思わせますね。。ちょっと、もの哀しい。
2008/9/19(金) 午後 6:17
つげさん特集で嬉しいです。^ ^
オンドル小屋を不快な気持ちで後にしたつげさん
旅の思い出は後から思い出したら楽しいことばかり思い出すものだけど、この旅行だけは思い出しても腹が立つって書いていましたね笑
そんなことも何も知らない少女が印象的でした。
2008/9/22(月) 午前 0:47 [ コモコモ ]
えりっぺさん、湯治客とは別に、オンドル小屋で寝起きしうる少女にとって、そこは「暖房つき従業員宿舎」というわけです。プライバシーのない哀れな環境です。あのころ、日本はまだまだ貧しい国でしたから。
2008/9/22(月) 午前 1:01
コモコモさん、このオンドル小屋の描写はマンガなのに「笑える」ところがないです。つげさんの厭世的な一面が出ているんでしょう。
2008/9/22(月) 午前 1:09
どっちもどっちも!
自分の味方だとばかり思っていた爺さんが、裸になると花札の刺青を入れていて、実は若いころには博打打のヤクザものだとわかるところが、面白い。つげ義春はこの旅で、心底、東北の貧しげな湯治場に一気に惹かれていってしまうんですね・・・。
つげの魂が大地の温もりに羊水の温かさを敏感に感じ取ったようです。つげにとって帰るべきところを発見したのは大きい。
2012/2/2(木) 午後 10:23 [ aut**n_snak*_*99* ]
http://blogs.yahoo.co.jp/morioka_hisamoto/43888527.html
つげ義春の温泉 (ちくま文庫)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480429530/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4905943515&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=10D5E2WMKEHP5T92AN7T
http://www.mugendo-web.com/y_tsuge/onsen.htm
ある日の夜、突然つげ義春さんが私の住まいにやってきた。登山靴を脱ぎ捨て、部屋に入るなり東北旅行の一部始終を語り出したのである。たぶんつげさんは、数日前からの「旅の興奮」というようなものを伝えたかったのだろう。蒸ノ湯、後生掛、小安峡、二岐、岩瀬湯本など秋田、福島の温泉を何日もかけてまわってきたのだった。つげさんにとっては、はじめてのひとり旅だったようだ。
https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/775/
1967年10月、彼は東北地方の湯治場をめぐる旅をして、「オンドル小屋」「もっきり屋の少女」、「二岐渓谷」などのつげ義春らしい作風の三篇を翌68年に発表したが、その旅について、『貧困旅行記』に付した「旅年譜」に、彼は次のようなメモをつけている。
(写真はつげが撮影した蒸ノ湯の湯治宿)
古い旅の本で東北地方の湯治場の写真を見て、あまりに惨めで貧しそうで衝撃を受ける。自分の奥の何かが揺さぶられたような胸騒ぎを覚え、じっとしておれない気持ちで出かけた。
八幡平の蒸ノ湯(ふけのゆ)で馬小屋のようにみすぼらしい宿舎に泊り、乞食の境涯に落ちぶれたような、世の中から見捨てられたような気持ちになり、奥深い安心感を覚えた。
このとき以来ボロ宿に惹かれるようになったが、それが自己否定に通底し、自己からの解放を意味するものであることはずっと後年まで理解が及ばなかった。
そういう貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる。そして侘びしい部屋でセンベイ蒲団に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。
そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには「自己否定」しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。
貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようといていたのかもしれない。
(略)
湯野上から岩瀬湯本にいたる鶴沼川の懸崖に、家畜小屋のように惨めな家屋が五、六戸固まって雨に濡れているのをバスの窓から見て、そのボロ家に抱きつき頬ずりし、家の前のぬかるみに転げ回りたい衝動を覚えた。
あそこはマタギやサンカのようなひとたちの集落でもあったのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/morioka_hisamoto/44890515.html
万力のある家:つげ義春旅写真 下北半島ー1 1970(昭和45)年 9月
辺鄙な地方へ出かけ貧しい暮しを目にすると、いつものことながら、そこで自分も暮したい思いを抱く。自分の気質を対象に投影して勝手なことを言うのは気がひけるけれど、貧しい暮しは人もその周囲の景観も佇いも貧相に見え、やがては廃れ無に帰す無常感を漂わせている。そういう雰囲気に馴染み惹かれるのは、自分も無常の存在にすぎないので感応するのだろうか。
この世のすべては、人間も自然もただ現象しているだけで、何か理由や意味があるわけではない。自分も意味のないまま現象して現れているだけで、いずれは消えていく。それはまぎれもない事実で否定することはできない。けれどもその思いをいつも意識しているわけではなく、廃れていくものに無意味性を想起されると思わず反応するのかもしれない。
近頃は「廃墟」が人気を集めているそうだが、似たような傾向が窺える。廃墟は役に立たぬ存在価値のない無意味性を晒している。そこに自分の無意味性が同化されることを無意識に希求しているように思える。
同化するとは、主体性の喪失を意味するものではなく“意味化され社会化されていた自己”から、意味を脱色することで、本来の自己に立ちかえり、生の回復を求めているのではないかと考えられる。
廃墟やそれに類似した貧しい暮しの佇まいは、意味化やさまざまな制約も崩れつつあり、無秩序で解放されている。それを対象化せず、経験して実感を得たいために、そこに住みつきたくなるのかもしれない。
http://manriki.sanpal.co.jp/tsuge/shimkita1.html
万力のある家:つげ義春旅写真 篠栗霊場-4 福岡県(1970年10月・1972年1月)
社会の枠組みから排除され、実際に存在しながら存在しないとみなされた存在とはややこしいものだ。フト自分も番外者になってみたいものだ、などとあらぬことを思ってしまった。
誰にも認められず、どこにも帰属しない存在とは、無意味、無価値、無目的、無根拠ということになり、それこそ『存在』の実相といえるのではないだろうか。
http://manriki.sanpal.co.jp/tsuge/sasaguri_4.html
「つげ義春の旅」を行く
バスを降り、宿へ向かう山道を歩いて下って行きながら、こう考えた。
(夏目漱石風?)
「しまった・・・やっぱりレンタカーでも借りてくればよかった。」
・・・ こりゃ、帰りは大変だなあと思いつつ歩いてると、道の途中に廃墟と化したホテルなどがあり、ちょっと不気味に感じた。 う~ん、いよいよ雰囲が出てきたなあ・・と思いつつ、なおも歩いて行くと、 車で宿に来た人のための駐車場に、やっとたどり着いた。
目的の宿までは、あと少しだ。 もう、向こうの方にその姿が見えている。
見覚えのある、その外観。
その日私は
つげ義春という漫画家のお気に入りの宿「北温泉旅館」に向かっていた。
北温泉旅館
栃木県那須郡那須町湯本151
TEL 0287-76-2008
http://www9.ocn.ne.jp/~kitanoyu/mokuj.htm
那須温泉郷 北温泉旅館
http://www.youtube.com/watch?v=1CKxywSfu1A
http://www.youtube.com/watch?v=nlcJ86HSI8k
http://www.youtube.com/watch?v=-Svq3k2KE0I
http://www.youtube.com/watch?v=cz-kg3Qm2wc
http://www.youtube.com/watch?v=EmjQ8AuQvNM
http://www.youtube.com/watch?v=2yp6r9Eli-8
http://www.youtube.com/watch?v=uYKxH0kLIZ4
http://www.youtube.com/watch?v=bjiDnbJcYUk
http://onsen.nifty.com/cs/catalog/onsen_255/catalog_onsen001093_1.htm?area=03&pref=09&sflg=03
http://tabelog.com/tochigi/A0905/A090501/9005631/
http://www.dankami.net/kitaonsen.htm
http://www.rakuda-j.net/onsen/tochigi/kita.htm
http://yaplog.jp/gomagoma/archive/84
http://jake.cc/onsen/tochigi/kitaonsen/kitaonsen.html
http://www.yumeguri.com/tabi/0206/kita.html
http://www.geocities.jp/nara_no_daibutu2/spa-4/21-nasu-kitaonsen.html
http://www.food-travel.jp/tochigi/kitaonsen.html
http://www41.tok2.com/home/iyasiyu/kitaonsen.html
http://www.yuge-marumi.com/index.php?%E5%8C%97%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E5%8C%97%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%97%85%E9%A4%A8
源泉名:那須北温泉天狗の湯。
単純温泉。緩和性高温泉。pH=6.3。泉温55.9℃。湯量220リットル/分。
陽イオン202mg(ナトリウム・イオン107mg、アルミニウム・イオン35mg、カルシウム・イオン27mg等)
陰イオン643mg(炭酸水素イオン425mg、硫酸イオン214mg、クロール・イオン4mg)。
遊離成分のうちメタケイ酸164mg、遊離炭酸ガス60mg。溶存物質総計1010mg/kg。
1956年検査。
源泉名 芽の湯(温泉の湯)
単純温泉 (中性低張性高温泉) 50.8度、PH: 6.3
湧出量(揚湯量) 69.7㍑/分 (自然湧出)
成分総計 833mg/kg
分析日:平成13年1月
北温泉(笹の湯) 単純温泉(Ca・Na-SO4・HCO3型) 49.9℃ pH=7.0 TSM=0.54
地図
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?id=undefined&cond=url%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.rakuda-j.net%2Fonsen%2Ftochigi%2Fkita.htm%3Blat%3A37.11855166146006%3Blon%3A139.99473948374617%3Bdatum%3Awgs%3Bz%3A15%3Bmode%3Amap%3Btype%3Ascroll%3Bpointer%3Aoff%3Bhome%3Aon%3Bhlat%3A37.124197784764%3Bhlon%3A139.99649901286%3Bfa%3Aks%3Bp%3A%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%9C%AC%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%3Bei%3AUTF-8%3Bb%3A1%3Bn%3A10%3Bs%3A1345990450%3Bwidth%3A728%3Bheight%3A480%3Blayer%3Apl%3B&p=%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%9C%AC%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91&b=1&zoom=15&bbox=139.9652995575987%2C37.10253491160791%2C140.02417940989372%2C37.13080150368859&lat=37.11855166146006&lon=139.9946536530577&z=15&mode=map&active=true&layer=&home=on&hlat=37.124197784764&hlon=139.99649901286&ei=utf8&v=3&title=Yahoo!%E5%9C%B0%E5%9B%B3
この北温泉は、特に先生のお気に入りらしく、つげ関係の読み物から度々名前が出てくる山奥の一軒宿だ。 先生の描いた、この北温泉のイラストは私にとって強く印象に残っていたので、ぜひ行ってみたいと思っていた。
北温泉を描いた、先生のイラストは私の知る限りでは2点ある。
1点は、宿に通じる道を歩いてきた人物(先生?)が、宿の少し手前に後姿で立っているイラスト。 その人物は、今まさに宿に向かおうとしている。わけあり風(笑)。
そしてもう1点は、夜の露天温泉プールを描いたイラスト。 絵の中の、闇に同化したプール風呂は独特の世界観がある。 向こうに描かれた小さな灯りが、寂しさと郷愁が交わったような、つげ先生ならではの幻想的な雰囲気を醸し出していて、いつもながらお見事!
さて、テクテク私が歩いていくうちに、宿が目の前でアップになってくる。
北温泉旅館が、その細かい部分まで姿をあらわにする!
まったく、つげワールド(?)の外観ではないか。
建てられてどのくらいたっている建物なのだろうか、とても古い。
だが、その風情の魅力はどうだ!
あまりに先生のイラストのムードがそのままだったので、ちょっと感動した。
思い描いていた、あのイラストの実物が、今目の前にある。
長い山道
を歩いてきた疲れ(?)は、もうどこへやら。 はやる気持ちを抑えて宿の中へ。
・・・ むむ!これは・・・。
・・・暗い・・・古い・・・妖しい。
どこだ、ここは?
現実の世界なのか?
私は摩訶不思議な世界の中に放り込まれたような気分だった。 正直言って、物の怪(モノノケ)の類さえ、ここでは住人として居住権を与えられているのではないかと、錯覚を覚える。
だが、誤解のないように。 怖いわけではない。 むしろ、なんと言うか、ぬくもりを感じる・・とでも言ったらいいのか。 懐かしい暖かさも感じる。
「時の経過」というものに逆らっているようにも思えるし、「時の経過」を優しさで包んでいるようにも思える。「古さ」に媚びてる・・・とか、「古いもの」を大事にしてる・・とか、そういう表現でもないような。 「ここまできたら、古いものは古いままでいい」・・・そんな、いい意味でのおおらかさみたいなものを感じた。 ただ・・妖しい(笑)。
何気に宿の傍らを見たら、なぜかエスニックな物が並べられている。
??
よく見たら、これらは売り物のようだった。 どうなっているんだ、どういう取り合わせなんじゃ、こりゃ・・? ・・・もう、ワケがわからないが、そこがまたいい! ・・・ということにしておこう。(笑)
その時、つげ先生が、フラッと宿の中を通りがかるような気がした。
いよいよ部屋に案内される。 まるで館内は迷路のようだ。 で、迷路の脇には小さな神社のようなのがあり、薄暗い館内を妖しい灯火で照らしている。
普通、こういう宿だと不気味な感じがしそうなもんだ。 だが、これが。 この妖しさが楽しくて、嬉しささえ感じてワクワクしてくるから、あら不思議。
案内された 小さな部屋に荷物を置いて、いざ迷路(?)散策へ。
探検(笑)してると、いつの間にか天狗風呂の前に出た。 廊下を歩いていると妙な暖簾を見つけ、その暖簾を掻き分けて先に進むと、 暖簾をくぐったとたん、左に天狗風呂が現れた。
だが、この風呂、風呂へのドアがない。 と言うよりも、まず、風呂場と館内を遮る壁らしきものがない。 暖簾のあった廊下がそのまま風呂の横を通り過ぎ、先に続いている。 一応廊下と風呂の区切りはあるのだが、いかんせん、その区切りときたら、大きな透明の窓ガラスがあるだけ。
つまり、こういうことだ。
風呂に続く廊下を進んでいくと暖簾があり、暖簾をくぐると左に、遮るものがないに等しい、むき出しの風呂が現れ 、その風呂の横を廊下はその先まで何事も無かったかのように続いてる。 その廊下からは、内部を隠す術のない風呂が丸見え・・。
そういうことだ。 いいのか、これで(笑)。 一応、室内風呂なのだぞ(爆)。
おまけに混浴・・ときたもんだ。
室内風呂ということで外と内を隔てる壁らしきものはある。 して、その影には大小二つの天狗の面が飾られている。
面と言っても、人間が被れるような大きさの面ではあらず。大きい方の面は一メートルくらいあったかもしれない。 小さい方の面とて、普通の人間が被れるようなサイズではない。
入浴して見上げてみると、天狗のそそり立つ鼻が目につく。
なんか、二人の天狗にジ~~~ッと見られているような気分だ。 そそりたつ天狗の鼻が「ナニ」を暗示させ、ちょっと卑猥で楽しい。 いや、妖しい!
で、目の前のむき出しの廊下を見ると、館内通行人が通って外へ出て行く。
子供も大人も。
大人は顔を向けずにそそくさと歩いていくが、子供は正直なもんだ。
しっかり風呂を「なんだ、こりゃ?」って感じでチラリと見ていく。
いやあ、これまた妖しい・・・。
夕飯は質素である。 だが、安い宿泊費を考えれば(私が行ったときは一万円以下だった)、あまり贅沢は言えない。
で 、夕飯後しばらくして。 私は一番楽しみにしていた、夜の「温泉プール風呂」に入ることにした。 ここは水着も着用可なので、女の人にも安心だ。
前述した、つげ義春先生の北温泉を描いたイラストの一つ、夜の温泉プール風呂。 そのイラストの世界を体験するのが、この旅の私の一番の目的だった。
で、風呂に行くと・・・。
まんま、あの幻想的なイラスト世界そのまま。
イラストはモノクロで、現実世界はカラー(笑)であるが、
なにやら現実世界までモノクロっぽく感じてくるから面白い。
夜が更けていたせいもあり、他の入浴客がいなかったので、ゆうゆうと泳ぐ。
気持ちいい。 周りは山奥の闇の世界。 泳ぐ音以外に近くに音は無し。
縦に泳いで行くと、だんだん向こう岸が近づいてくる。
そして・・たどり着く。
振り返り、岸によっかかってまん前を見ると、正面には宿のこちら側正面の全景が浮かび上がり、視界に落ち着く。 湯面に立ち昇るわずかな湯気が、宿の下部をかすかに幻化させている。
左右を見渡せば、夜の闇に紛れ、影絵化した山が。
黒い姿で左右から私を見下ろしている。
で、ふとゆっくりと上を見上げてみれば、山あいの夜空には満天の星が輝いている。 澄んだ夜空には、こんなにたくさんの星達が住んでいるのだ。
横にも上にも囲いが無い、山奥の露天ならではの贅沢さよ。
後ろを見てみれば、つげ先生のイラストにも描かれていた、たった一つの闇に浮かぶ小さな電球が、イラストそのままに健気に闇の一部分を照らしている。
つげ作品に出てくる、はかない美少女、けなげな美少女、あどけない少女、 妖しい色気の女性・・・などが幻となって、館内や屋外の風呂の片隅に佇んでいるような気がした。
http://www.emitefil.com/tamba/tsuge_y.html
情緒と妖しさを併せ持つ那須・北温泉旅館
北温泉は、その名の通り、那須温泉郷の一番北の端にあります。 古い木造建築が立ち並ぶ様子からは、いにしえの湯治のにぎわいが感じられ、隠れ里に紛れ込んだような気になります。
つげ義春のイラストにも描かれている名物の「温泉プール」は、いまも健在でした。 玄関でネコがお出迎え。薄暗いのでピンぼけです。
玄関を入ると、古くて雑然としています。ストーブで干しているゴム手袋がいい味を出しています。
帳場も江戸時代の雰囲気で、まるでタイムスリップしたかのようです。
建物は、昭和時代・明治時代・江戸安政期の三種類ありますが、古い建物が好きなぽん太とにゃん子は、迷わず江戸安政期を選びました。値段も一番安いです。なるほど江戸末期の温泉宿とはこういうものだったのかと、感心することしきりです。
夜も更けて寝る態勢入っていると、なにやら戸の外側でにゃ〜にゃ〜と呼ぶ声が。戸を開けるとネコのご訪問です。玄関にいたのとは別のネコようです。しばらくくつろいで帰って行きました。ぽん太とにゃん子はすっかり癒されました。
さて温泉ですが、冒頭の写真が名物の天狗の湯。混浴です。お湯は無色透明で、湯量がとても豊富。もちろん源泉掛け流しです。並んで打たせ湯と家族風呂もあります。そしてこちらの写真は、男性用の露天風呂(河原の湯)です。背後には砂防堰堤があります。砂防堰堤というと、環境破壊の構造物の代表と思っていたのですが、温泉成分のせいか肌色に変色しており、キリコの世界のようなシュールな寂寥感があります。堰堤に叙情を感じたのは、生まれて初めてです。
こちらは温水プールの横にある浴室(相の湯)です。明治時代の物だそうで、木造の浴槽が風情があります。源泉は何種類かあるようで、天狗の湯は無色透明でしたが、どれだか忘れましたが鉄分を感じるものもありました。湯量はとにかく豊富で、もちろんすべて源泉掛け流しです。
こちらは夕食です。けっして豪華ではありませんが、湯治場風の雰囲気にあっています。こちらがお食事処。古い天井の高い建物で、明治チックな写真やオブジェがいっぱいあります。
こちらが朝食。おいしゅうございました。
天狗の湯のさらに奥に、鬼子母神が祀られています。建物は新しく作り替えられてますが……
古い彫刻が保存してありました。極彩色に塗られており、日光東照宮のようです。
江戸時代の湯治の雰囲気を現代に伝え、素朴でひなびた雰囲気、格安のお値段、豊富なお湯とバラエティーに富んだ浴室など、ぽん太の評価は文句無しの5つ星です。
北温泉は、つげ義春が好んだことでも有名です。ぽん太が知る限り、つげ義春が描いた北温泉のイラストは4枚あります。3枚は白黒のペン画で、『桃源行』という題のイラスト集のなかに入っています。『ポエム』(すばる書房)に1976年(昭和51年)9月号から半年間連載されたもので、詩人・正津勉のエッセイがついていたそうです。この年に二人は取材のために北関東・東北の温泉を巡りました。
この年には「夜が摑む」や「夢日記」を発表しており、つげ義春は翌年あたりから「ノイローゼ」で苦しむようになるのですが、「桃原行」にはその予兆が感じられ、夜の温水プールに小さな人影があるイラストなどは寂しさを超えた恐怖感を感じます。
『つげ義春の温泉』(カタログハウス、2003年)には、さらにこのときつげ義春が写した写真が2枚掲載されています。1枚は天狗の湯の隣にある打たせ湯です。もう1枚にも浴室が写っておりますが、この写真は胸をはだけた女性が描かれたイラストの元になっているようです。
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2009/06/post-1b2e.html
私が青林堂に入社して数日後、水木プロダクションにつとめていたつげ義春氏と話す機会があった。
「もうマンガは描かないのですか?」
と私はたずねた。氏は、
「あの作品もあまり評判は良くなかったんですよ。
マンガを描くのは辞めようかなと・・・・・・・。」
と低い声で、自信なさそうに答えた。私の周囲では〝すごいマンガ家が現れた〟とささやきあっていたものだから、氏のそんな話を聞いて我が耳を疑った。そして、これはなんとかせねば、と思った。
つげ作品は一部の読者の心を捉えたに過ぎなかった。〝暗く〟〝難解である〟というのが大半の読者の受け止め方であったのかもしれない。
しかしそれ以後、つげ義春は「紅い花」「西部田村事件」「長八の宿」「二岐渓谷」「オンドル小屋」と矢継ぎ早に発表していく。もはや私は驚嘆する以外にはなかった。
「旅もの」ユーモアの背後には“暗い現実”が露出しており、つげ作品の本質に大きなな変化はなかったのだが、「旅もの」が多くの読者を魅了することで、方向転換を余儀なくされるかなあ、という危惧を少しは持った。もしかすると、私は遠まわしの言い方でつげ氏にそんなことを言ったような気がする。たまには「沼」や「李さん一家」や「海辺の叙景」のような硬質な作品を描いて欲しい、と。
「二岐渓谷」や「オンドル小屋」を描き継いでいた頃のことだ。学芸書林という出版社から「現代文学の発見」というシリーズの小説集が出ていた。そこには忘れられた作家を含む、鋭い光芒を放つ戦前・戦後の文学作品が収められていた。それらの作品についてつげ氏と語り合ったことがあった。ある日、氏は突然、
「抽象的なマンガを描いてはいけないですかね。」
と尋ねた。私は、「沼」だって「山椒魚」だってとりようによっては極めて抽象度の高い作品だと思う、と答えた。しかし氏が頭に描いているのはもっと進んだ作品らしかった。
「植谷雄高さんの『虚空』だかに非現実的な場面が出てくるんですね。そんなシーンをマンガで表現してはいけないんですかね。」
とも言った。
「女の子が深夜に裏道を歩いてくるんですね。それを青年が二階の部屋から見下ろしているんです。青年の窓の下を通り過ぎたとたん、女の子の首がガクッと折れて、顔が空を見上げるんです。」
つげ義春がこだわる非現実的な光景には、ある種の暗さとエロティシズムが混在していた。
1968年の春に『ガロ』の増刊として「つげ義春特集」を出すことになった。旧作ばかりでは売行きに不安がつきまとったので描きおろしを収録することにした。だが、新作はいっこうに進まなかった。時に氏は観念的な作風を示した筋立てを話し終わったあと、
「こういう作品を描いてもあんまり意味はないかも知れないね。」
とつぶやいた。それは「沼」や「チーコ」を発表した後の読者の否定的な反応を思い出しての言葉だったのだろうか。
「旅もの」を発表し続けている頃だったと思う。『ガロ』にアンケート用紙がはさまれ、好きなマンガ家の統計がとられた。
白土三平、水木しげるの順位は予想どうりだが、その後には手塚治、石森章太郎、永島慎二の名があり、勝又進、つりたくにこ、楠勝平がそれに続いた。つげ義春は十番目前後であった。指摘を待つまでもなく、アンケートに答える読者の大多数は若年層であるから、読者全体におけるつげファンはさらに数パーセント上積みしてもいいだろう。だが、
「つげ義春のような無意味な暗い作品は載せないでほしい」
といった感想が添えられた葉書は一、二枚には留まらなかった。当時マンガは〝楽しいもの〟〝おかしいもの〟でなければならないという観念がまだ支配的であったからだ。
「ゲンセンカン主人」は、「ねじ式」や「ほんやら洞のべんさん」の翌月に発表された。「もっきり屋の少女」はその翌月であり、この三ヶ月は月一作以上のハイペースである。この間、作者は想像力と精神力の全面展開を試みたことになる。
「ゲンセンカン主人」も「もっきり屋の少女」も、前作を完成させた後で構想されたのではない。「ゲンセンカン主人」は「ねじ式」が思い描かれたと同時であり、「もっきり屋の少女」は「方言について」の延長線上に位置していた。
ところでつげ氏は「ねじ式」という冒険作を発表した後でも、少なくないとまどいを見せていた。つまり「ゲンセンカン主人」の最後の一頁を描くかどうかで足踏みをしていたのだ。最終頁を描いてしまうと単なる絵解きになってしまう。しかし、従来のマンガ観はそれを強要する。当時はまだ説明過多がマンガ成立の第一要件であったのである。つげ義春は、
「そこを描かないとまた難解だと言われるんじゃないかなあ。でもやはり描きたくはないんですよね。」
と言った。私は、全ての読者にわかるということは不可能なことだし、作家が描きたいように描くのが最良ではないかと、つげ義春が希望する方向で進めるよう助言した。やがて「ゲンセンカン主人」は、作者が満足する作品として結実した。
全力疾走を続けたつげ義春は、次第に疲れを見せ始め、「もっきり屋の少女」を描き上げると休筆期間に入った。ようやく〝つげ義春の世界〟が『ガロ』の読者の多数に支持されそうな気配が感じられた時期であり、残念であった。
だが、つげ義春が精神的に追い込まれていたのは事実で、
「どこか知らない土地でくらしたい」
と口走るようになっていた。ある日曜日の朝、つげ氏から電話があり、
「マンガをやめたい」
とつぶやいた。その翌日青林堂に出社した私に水木しげるさんから電話が入り、
「つげさんが旅に出ると言っています。」
http://www.mugendo-web.com/y_tsuge/nejiyawa.htm
つげ義春『蒸発旅日記』
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%A4%E3%81%92-%E7%BE%A9%E6%98%A5/dp/4101328129/ref=pd_sim_b_1
「蒸発旅日記」という第1章の書き出しでは、九州に旅行したときのことを記しているのだが、一面識も無かった九州の女性と結婚して九州に住み着くつもりであるということが書かれていて、緩くだが驚かされる。
嘘か冗談かと思いつつも、つげさんの旅日記の記述には気負うところなど無く淡々と進められていくために、いつの間にか「それもあるかな…」というつげ世界の住人にされてしまうのである。
緩い衝撃の後には、ストリップ小屋でのあれこれやら見込み結婚相手の女性との関係やらが綴られていき、結局は日常生活にあっけなく戻ってきてしまう。ただその戻り方は、旅というものを通り過ぎた後だけに、それまでの日常とは異質な世界となって立ちはだかってしまうのだ。
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1651
万力のある家:つげ義春旅写真 秋葉街道(1973年4月)
蒸発とは自己を規定し束縛している関係としての自己を棄てる具体的行為であるが、一切が関係に拠るならば死との関係も含まれる。
ふだん死をリアルに意識することはめったにないけれど、誰もが死によって生涯を限定され、制限されることによって存在している。関係とは限定や規定を意味し、関係なくして独立自存する存在はありえない。
生は相対関係としての死によって規定され支えられている。自己を規定する関係を断つ蒸発は死をも断ち、死に支えられている生も同時に失う。死の支えを失った存在は、存在しながら存在しない<空>となる。死からの解放は「生からの解放」でもあり、生の放棄こそが絶対の至福であり、すべての宗教の目標である。蒸発は、はからずも「生死を超える」手取り早い方法なのであった。
蒸発経験者として私はそのように理解しているのだけれど、「生死を超える」手応えはまるでない。むしろ呆けて生も死も忘れてしまうことを願っている。
http://manriki.sanpal.co.jp/tsuge/AKIBAKAIDO.html
蒸発旅日記
1981年『夜行』10号 随想・つげ義春より
深沢七郎の「風雲旅日記」を読むと――旅行は見物をしに行って帰ってくるのだが、私の場合は、ちょっとちがって、行ったところへ住みついてしまうのだった――というすごい旅のしかたをしているが、私も以前これと似たような旅のしかたをしたことがある。住みつきこそしなかったけれど、住みつくつもりで出かけたのである。
昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。九州を選んだのはそこに私の結婚相手の女性がいたからだった。
といっても私はこの女性と一面識もなかった。二三度手紙のやりとりをしただけの、分かっているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。
「どんな人かなあ」と私は想像してみた。
「ひどいブスだったら困るけど、少し位いなら我慢しよう」
と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮そうと考えた。
「離婚をした女なら気がらくだ。」
彼女はきっと「結婚してくれるだろうと私は一人決めしていた。
二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこみ身軽に新幹線に乗りこんだ。私の間借りしていた部屋はそのままだが机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろう。
名古屋で紀勢線に乗替え松阪で松阪牛を食い一泊した。翌日近鉄で大阪に着いたのは昼前だった。九州行きの列車の発車時刻まで一時間あった。私は駅の地下でコーヒーを飲みながら不安を静めようとしていた。名古屋までは調子よく出て来たが、大阪から先へは行ったことがなく急に心細くなってしまったのである。これが普通の観光旅行なら気持も浮かれるのだが、そうではないので決意が鈍りそうであった。松阪に寄道をしたのも迷いが生じたからだった。
「やっぱりやめようかな」。
そう思い、私は駅前の中央郵便局へ行った。中止をするにしてもこのまま東京へ引返しては面白くないので、千葉へ行こうと思ったのだ。千葉には落着いて昼寝でもしていられる宿屋がある。そこへ予約の手紙を出したのである。大阪近辺で二三日見物をし、それから千葉へ行くつもりでいた。
また大阪駅へ行くと九州行きの発車の時刻がせまっていた。手紙を出したものの私はまだ迷いが残っていた。今決行しなければもう二度とチャンスはないかもしれない。このまま日常に戻ってはまたウツウツとした日を過さねばならない、それもうっとうしいことだ。そう思うと、私は役者が舞台へとび出して行くような気持ちで、小倉行の切符を買い列車にとび乗った。
列車が動きだすと私はもう観念したが
「蒸発をするのは案外むつかしいものだな」
と思った。それは現実の生身の役者が舞台へとび出し別の人間になりきるのに似ている。役者は舞台のそでで緊張と不安のあまり吐気や便意をもよおすそうだ。しかし舞台は幕がおりる。蒸発は幕がおりないから演じ続けなければならない。そしてやがて演じ続けることが日常となり現実となるだろう。そうわかっていても私はもうとび出してしまったのだ。
列車はウーンウーンと鈍い音を響かせていた。私は急には別の人間になりきることはできないで、まだ緊張が続きずっと目を閉じていた。広島を過ぎると安芸の宮島を紹介する車内放送があった。そのとき目をあけ窓の外へ視線を移すと、大きな蠅が一匹窓ガラスにとまっていた。車内は冷房がききすぎて、蠅は弱っているのかじっと動かないでいた。私は宮島を眺める気もなく蠅を見続けていた。
――この蠅は私と同じように大阪から乗ったのだろう。するとこのまま九州へ行くことになる、九州へ行ったらもう戻ることはできない。そうしたら九州でどのような生きかたをするのだろうか――そんなことを私は考えていた。
小郡を過ぎたあたりで、通路をへだてた隣りの若い女性に私は声をかけた。
「九州はどんなところですか」
と尋ねると、気さくそうな女性は、
「九州見物ですか、それなら水前寺公園がいいですよ」
と教えてくれた。
「その公園はどこにあるのですか?」
と、また尋ねると、
「熊本です。私は熊本に帰るのでよかったらご案内してあげます」。
と云った。彼女は大阪で女工をしていて熊本に帰るのだと云う。私は
「熊本もいいな」
と思った。そして、この女性について行って彼女と結婚しようと考えていた。相手は誰だっていいのだ。
私はまた迷った。小倉にいる看護婦さんはまだ見たこともない人だ。こっちの彼女はもうだいたい人柄もわかり悪くない感じだ。ただ気になるのは、この女工さんは熊本の実家に帰るのだと云う。実家には親も兄弟もいるだろう、そうなると面倒くさいことになる。けっきょく私はあきらめて小倉で下車をした。
小倉は日が暮れていた。駅前はネオンの海である。私は繁華街で宿探しをするのは慣れていない。どの方向へ行ったらよいのか見当もつかずうろうろしていた。すると旅館案内所が目にとまり、申込むと新月旅館を紹介された。旅館からの迎えは小肥りの中年女が歩いて来た。駅を背にして右の方角に並んで行くと魚町商店街にはいった。小倉で一番の盛り場らしい。新月旅館はパチンコ屋の向いにあった。盛り場の中の宿という連込みを想像し佗しくなるが、中に通されると堂々たる商人宿だった。入れかわり立かわり四五人の女中さんが部屋に来たが、皆中年の気さくそうな人柄なのでほっとした。私は旅に出て宿を決めるまでは安心できない性分なので、ようやくくつろいだ気分になれた。
夜九時頃、看護婦の(仮りにS子としておこう)のいるT医院に電話をすると、日曜日なのでS子は休みだった。住込みのはずなので何処かへ出かけたのだろう。
翌日は早々に朝食を済ませ外へ出てみると、通勤通学の人々が忙しげに行交い通りは混雑していた。これから一日が始まろうとする活気が満ちていた。私は自分だけ生活から離れた気分でいることがうしろめたいような寂しいような気持になった。
私はこれからこの九州で生活をすることになるのだからそれらしく振舞ねばと思った。さいわい私の服装はよそ行きのそれではなく普段着のジャンパー姿であった。私は土地の人間になったような気持を装い駅前の上島珈琲店に入った。店の中は早朝にもかかわらずざわついていた。私は隅に席をとり、他所者の緊張が現われないよう気を配りながら新聞をひろげた。早朝の忙しさの中で新聞をひろげるということは時間をおしみいかにも用ありげで、そこここに私と同じように新聞をバサバサさせている者がいる。私は職業欄と貸間に目をやった。まず第一に必要な問題であったが、職業欄と貸間に目をやることで自分をカモフラージュしようとする気持が働いた。
上島珈琲店を出ていったん宿に戻り昼食時に再び外へ出た。また自分を試すかのように土地の者が利用する一膳めし屋で昼食をすませた。めし屋のおばさんは愛想よく客に話しかけているので、もし私に声をかけて来たらどうなるか、私の言葉使いは東京弁である。地所者であることがバレたらと思うと、私は内心ヒヤヒヤしていた。
そのあと時間つぶしに街を散歩したりパチンコをしたり、本屋をのぞいたりしているうちに次第に緊張がほぐれ、私は身も心も解放されて行くのを覚えた。どうゆうものかいっぺんに気がらくになってしまったのである。本屋では「人間存在の心理学」という本を買った。退屈しのぎに宿でねころんで読んでみたが、面白くない本だった。人間の存在について解説しているのだが、いくらリクツをこね回しても、生身の感情はどうすることもできないのだから「役に立たぬ本だな」と思い、途中でなげだしてしまった。
夕食前またS子のいるT医院に電話をするとS子が出た。私が小倉にいることを告げると頓狂な声を出して驚いていた。S子はすぐとんで来た。小柄でやせ型の美人であった。私はまぶしいほどであったが少し失望した。美人にはちがいないが、私のあまり好みのタイプではなかったのである。早口のお喋りだった。
「私の弟がねツゲさんの大ファンなの。それで私もファンになったのです。私は○○町に六畳と三畳と台所の部屋を借りてあるんです。冷蔵庫やテレビもあるんですけど、勤めが住込みのような状態だからたまにしか部屋に帰ることができないんです」
と、なにがおかしいのかやたら笑声をあげながらまくしたてた。私は陽気な人だなと思った。少し気にいらない点もあるが、部屋も所帯道具も揃っているのなら結婚してしまおうかなと思った。しかし、
「私の部屋にくれば弟も喜んで来るわよ」
と云うのでがっかりした。私は弟なんかがのっそり現れては困るのだ。私は深刻なのである。九州まで蒸発して来たのだからもっと私の深刻さに同調してほしいと思った。
彼女はなおも早口で離婚をしたいきさつ、その失意で山陰の萩へ旅行をし、自殺を考えたことなどをベラベラと疲れもせずに続けた。私はうんざりした。早く寝てしまいたいと思った。
「それで今夜は泊れるんですか」
とたずねた。だが無断で外泊は禁じられているとのことだった。また来週の日曜日でないと会えないといって十時頃帰っていった。私は一週間待たされることになった。
三日間はパチンコをしつづけていたが、どうにも退屈で旅行に出た。宿のおかみさんに杖立温泉、湯布院、湯の平温泉を巡るコースを教えられ出かけた。別府まで行きそこからバスで湯布院へ行き一泊し、二日め湯の平の白雲荘に投宿した。
湯の平は湯治場だった。年寄りばかりが多かった。私は夜、空腹を覚え散歩に出てバナナをひとふさ買った。そしてストリップ見物に出かけた。宿の眼下を流れる川の対岸の木造の宿屋でストリップは行なわれていた。私はバナナを浴衣のふところに入れ、宿の離れの二階へ上って行った。
離れにはいくつかの部屋があったが、宿泊客は一人もいないようであった。電気も消えうす暗い中に一ヶ所電灯のついている部屋があったので、障子の隙間からのぞくと、ベレーをかぶった小柄な初老の男と、踊子らしい三十前後の女と二人だけでテレビを見ていた。私は隣りの十畳ほどの部屋に案内された。客はほかに一人もいない。
部屋にはベニヤで一段高く粗末な舞台が造られていた。その下にはテーブルとアルミの灰皿が三ツと大きな空の火鉢があるだけだった。舞台のそでに(一回の公演時間=レコード七曲=約二十五分右ご諒承願います)と下手な文字でかいてある。舞台の背景は隣室の楽屋との境いである襖だけで、その中央に花輪が一ツあるだけのさみしいものだった。私は煙草をふかしながらねそべって待っていると、楽屋からテレビの野球の音が聞え、踊子と初老のマネージャーが野球の話をしているのが聞えた。話をしながら仕たくをしているらしい。やがてマネージャーが「長らくお待たせ致しました」とカン高い声で一言挨拶し、レコードが演歌調の音を佗しげに流した。
踊子はカツラをつけ紫の着物で現われた。下手な踊りで三曲までは着物の裾を乱す程度であったが、四曲目に帯をほどき、朱色の肌着のあわせを開きチラチラ陰部を露出させた。
私はバナナを買った残りの小銭を千七百円舞台に乗せ、股を開くよう手振りで指示した。彼女は真面目な顔でちらとそれを見た。私は助平な気持だけでそんなことをしたのではなかった。佗しげな雰囲気に酔い、佗しげな客になってみたかったのである。しかし、そんな大胆な真似ができる自分が不思議でならなかった。私は九州に来るまでは緊張と不安のかたまりだった。それが急に開き直ったような気持になってしまったのである。
舞台の光に大きな蛾が一匹舞っていた。踊子は恐ろしげにマユをしかめ蛾をさけるように踊っていた。舞台の端に蛾がとまったので私は灰皿をすばやくかぶせてやった。彼女は少し歯を見せ笑った。そして私の目の前に来て大きく股を開いてみせた。私は思わず苦笑をしてしまった。
終了後舞台の電気を消しにマネージャーが出て来たので、三人で舞台の端に坐りバナナを食べた。彼女は「王と長島はどうだったの」と野球の結果を気にしていた。大股開きの舞台が終ったあと、何事もなかったように、こうして野球の話をしていられる生活も(いいな)と私は思った。
(この人たちにこのままついて行きドサ回りでもして暮そうか)
とも思った。自分なら看板を描くこともできるし、その気になれば呼び込み位いできるかもしれない……。
「景気はどうですか」
と私はたずねてみた。マネージャーは、
「この町はさっぱりです。だけど契約だからしかたがありませんわ」
と、まだしばらくここに滞在するようであった。私はすぐにでもドサ回りに出発するかと思ったのでがっかりした。
あくる日は杖立温泉の千歳旅館に泊った。また宿の近くにヌードスタジオをみつけ、夜の七時頃行ってみると、まだ時間が早いせいか客は一人もいなかった。舞台の脇の廊下で踊子が一人で化粧をしていたので話かけてみると、九時頃に来てくれというので出直すと今度は満席だった。といっても客席は十人ほどしか坐れない。
踊子はネグリジェ姿で舞台に現われると、いきなり、
「そちらのお兄さんすましてないで前へいらっしゃい。
東京から私を見に来たんでしょう」
と私に冗談をとばした。開演前、私と二人きりで話を交したときは無口で恥かしそうにしていたのが、舞台に出ると人が変わったように大胆だった。湯の平の踊子とくらべると若くてグラマーで均整のとれた体つきをしていた。私は熱心に彼女を見つめた。彼女もなぜか私ばかりを見ながら踊り続けた。私は(脈があるぞ)と思った。
宿に戻ってからも、私は彼女の視線が意味ありげに思え寝つけなかった。睡眠薬を常用していたがそれでも寝つけず、酒に酔ったような気分でもう一度ヌードスタジオに出かけた。一回の公演の終ったあとで客席は空だった。私は次の開演まで客が集まるのが待ちきれず、一人で五人分の料金を払い舞台を独占した。
彼女はバタフライ一つをつけただけで踊ろうとしたが、私はやめさせ自分の目の前に坐らせた。私は客席の椅子に腰をおろし、彼女は舞台の前に出て正坐した。ちょうど目の前に彼女の太ももがあったので私は手を乗せ、感情が高ぶり、次に頬を寄せた。互いに無言のままであった。私はなぜかせつなさがこみ上げてきて、彼女の腰に手を回しすがりつくように抱きしめた。彼女もやさしく私の髪をなぜた。舞台に流れる甘いメロディの効果もあったのだろう、私は、
「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」
と甘いセリフがすらすら口をついて出た。そして、
「今夜つきあってよ」
と云うと、彼女はこくりとうなずいた。
「でもネエさん(座長)に無断で外泊はできないので相談してみてくれる?」
と云うので私はまごついた。だがネエさんは楽屋で見ていて察知したのか「話はついたの?」と苦笑まじりに承諾してくれた。そして、こうゆう商売柄バイシュン行為と誤解されると困るから、彼女を宿に出向かせるのはやめ、別に宿をとってくれと云った。
私はいったん宿に戻り、彼女の舞台のハネるのを待った。それにしてもまさかストリッパーとこういう成行きになるとは思いもよらなかった。ああゆうヒトには決って恐いヒモがついているものだが、私はそんなことはおかまいなしに感情のおもむくまま行動をしていた。ふだんの自分では考えられないことで、私は蒸発をしてしまってから自分の心がどこかへ消えてしまったような、すべての拘束から解放され宙ぶらりんのような状態になっていた。鎖の切れた小舟のようにただ波まかせであった。
彼女は十一時に舞台がハネそれから風呂に入ってくるはずだった。私は頃合をみて指定の宿へ出かけた。宿は連込み専門だった。私は部屋で寝ころびながら雑誌を見て待った。(彼女は本当に来るのだろか、話が少しうますぎやしないか)と私は少し心配だった。
彼女は約束の時間より三十分ほど遅れて来た。風呂で化粧を落とし、髪も短く別人のように現われた。舞台ではかつらをつけていたのだった。素顔の彼女はごく平凡な娘のようだった。二十才前後だろうか恥ずかしそうにうつむいているだけだった。私も話題に困り、おきまりの身の上話を訊ねた。彼女は博多で女工をしていたが、男にだまされこの杖立温泉に売りとばされたのだった。
「たびたびこの宿を利用しているの?」
ときくと、
「ずっと前一度お爺さんと、嫌だったけど無理やり頼まれて………」
と答えた。私は少し気がらくになった。彼女は、
「東京の人はやさしそうだね」
と云った。
「なぜ?」
ときき返すと、
「言葉がやさしいからね」
と云うのである。
彼女は舞台の淫猥な姿態とはほど遠い未熟さで、まるで棒のようだった。私は彼女がいとおしくなった。 翌朝十時頃目ざめると彼女はいなかった。枕元の私の飲んだ睡眠薬の効能書の裏面に置手紙が走り書きしてあった。
あなたと文通がしてみたいのでお便り下さいませ。
あなたが云ったように髪を長くします。
黙って帰ってしまって申訳ありません。
でも気持良さそうに眠っていたのでさよならしました。
あなたもいろいろ考えずに頑張って下さい。
お手紙くらい下さいね。
住所 小国町××× M・T方 F・M子
私はこのまま別れてしまっては悪いような気がした。いったんもとの宿に戻り、身支度をしてスードスタジオに挨拶に行った。お礼もしたかった。だが彼女は散歩に出たとかでいなかった。
私はバスターミナルへ行き十二時発のバスに乗った。今日は土曜日、小倉でS子と逢う約束がしてある。土曜の夜から日曜の夕方までがS子の自由時間なのだ。
バスは発車まで十分ほど間があった。私は最後部の座席に掛けM子に会えないで良かったと思った。こんな場合の別れの挨拶は苦手なのだ。だが名残りおしい気持もないではなかった。それは彼女への思慕ではなく、彼女と結婚をした場合を想像してのことだった。私はまた、
(ストリッパーのヒモになって方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな)
と思ったのである。
私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面もちで、バスの後方に近ずいて来た。私は身をかくすように座席に体を沈め、後髪をふりきるように目をとじた。バスは発車した。
日田で汽車に乗りつぎ四時に小倉に着いた。七時にS子が来て、今日は実家に戻るつもりで外泊の許可を得てきたと、いいわけがましく云う。彼女は弟のほかに実家まである。なぜこんなときに親兄弟の話をするのか、私はまたしても失望した。しかし蒸発をする条件としては、部屋も借りてちゃんとした勤めもしているS子が最も適当な相手に思えた。彼女は働き者で男につくすタイプである。私は怠け者だからちょうど良いかもしれない。
私は迷った。迷ったままS子と寝た。彼女は翌日も実家へ帰らず一日中宿で過し、夕方五時頃、患者の食事の用意をするため帰って行った。S子はこのまま私と生活を共にするとは考えていなかったようで、ひとまず東京に帰り、ゆっくり考えてくれという意味のことを云って別れた。
東京へ戻ってからも私は真直ぐ家に帰る気がせず、神田の宿に二日間泊まり考え続けたが、蒸発がいったん元に戻ってしまってはもうおしまいだと思った。その後S子からは度々手紙が来たが、ついに私は一通の返事も出さなかった。
いま思うと軽薄な真似をしたものだと恥いるばかりだが、私の蒸発はまだ終わってはいない。ものは考えようで、現在は妻も子もあり日々平安だが、私は何処かからやって来て、まだ蒸発を続行しているのかもしれない、などと考えることもある。
http://www.mugendo-web.com/y_tsuge/tabinikki.htm
うーん、今考えれば誰の目にも明らかなのですが、この蒸発行は所謂『死と再生の旅』なのですね。 但し、
死んだのは 『強烈をオーラを発する天才芸術家 つげ義春』
再生したのは『才能は失ったが社会人として成長した人気漫画家 つげ義春』
なのですね。 若い時に精神分裂病すれすれだった画家のエドヴァルト・ムンクやジョルジョ・デ・キリコと全く同じ経過を辿っています。
そういえば、シンガーソングライターの中島みゆきも全く同じですね。 30歳迄の中島みゆきの歌とそれ以降の歌ではとても同一人物だとは思えない極端なオーラの差があるのです。
要するに、このタイプの天才は若い頃は境界性人格障害か初期の統合失調症だったのでしょう。 それで普通の人は気付かない現実の背後にあるディープな世界を見る能力が有ったので優れた作品を次々に作っていったのですね。
しかし、若さを失うと脳は正常になる代わりにそういう能力も一緒に失われてしまうのです。
何れにしろ、つげ義春が蒸発行以降に書いた作品はすべて過去の作品の注釈という意味しか無くなってしまっています。 残念ですが。
31 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 10:04
オンドル式の風呂っつーかサウナっつーか、入ってみたいねぇ。
実際あるのか? どこだっけアレ。
33 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 11:00
秋田県と岩手県にまたがる八幡平には奥羽背梁山脈上に噴出した那須火山脈系に属し周辺には特色のある温泉群が散在する。
特に秋田県側の活火山 焼山付近には灼けただれた地肌や泥火山
大湯沼 大噴湯などのめずらしい火山現象がみられ
それらをとりかこむ玉川 後生掛 蒸の湯などの各温泉にはオンドル式という奇妙な入浴(?)法がある。
34 名前: キング・グレムリン 投稿日:2000/05/23(火) 13:27
オンドル式って、もともとは朝鮮半島の温泉の楽しみ方らしいですね。
35 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 13:34
オンドルは朝鮮半島が本場だよね。一種の床暖房でしょ。
旅行記といえば、どこかの温泉場の風景のなかで田中コミマサが酔っぱらってる
絵を、つげ義春
-
3:777
:
2022/06/17 (Fri) 21:11:44
-
35 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 13:34
オンドルは朝鮮半島が本場だよね。一種の床暖房でしょ。
旅行記といえば、どこかの温泉場の風景のなかで田中コミマサが酔っぱらってる
絵を、つげ義春がかいてたのが、なぜか思い出される。
忠男は千葉でジーンズ屋やってるけど、まだあるのかなあ?
古本屋で一山当てて、株式上場までした誰かとは大違いだね。
37 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 18:40
(温突)とは朝鮮・満州地方で行う一種の暖房装置で床下に仕切を設けて火気の通る坑を作り 焚口から火をたいて室を温めるものである
それと似たような天然の現象をオンドル式というのだそうだ
38 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 18:59
「後生掛(ゴショガケ) オンドル式の湯治棟があり、長期滞在可」
初心者には耐えがたい熱さだそうだ。経験者います?
秋田在住の人とか。
入ってみたいねェ。
http://www.geocities.jp/bbtugeken/2ch1.htm
56 :列島縦断名無しさん:02/01/21 22:04 ID:a4UMtg0H
つげ漫画と「混浴」は切っても切り離せない。ああ、彼が旅路の頃はまだまだ荒らされていない素朴な混浴が日本にはイパーイあったんだ(T-T)
57 :列島縦断名無しさん:02/01/23 01:45 ID:tJiFqFH6
秋田県八幡平の「蒸の湯温泉」でオンドル小屋でむしろにくるまって寝たい
当時の小屋は土砂崩れで無くなったらしいのが残念
59 :列島縦断名無しさん:02/01/23 20:12 ID:UMu8xqe7
>>57
後生掛温泉には つげ義春が描いたようなオンドル小屋がまだ残ってると思うのですが・・
72 :ちょろ:02/03/14 10:57 ID:QGEzpTpD
つげの行ったとこ 僕も行って見ました。
オンドル小屋(蒸けの湯)漫画に出てる小屋 行ったこと有る。
あの絵とおんなじだった。
深浦 下北
今神温泉は結界が張ってあって入れなかったけど もともとレプラの湯治湯だよ。 今でも看板などないから 車で行くとルートを見失う。最後の1本道にでると両側が切りとおしになったようなゲートみたいになったところを通ります
そこを入ると 湯治の予約客以外は帰れという看板が2箇所 最後には強行突破するなら訴訟すると書いてある。あきらめて 切りとおしゲートのところに戻ると入ったときには気付かなかったけど そこはお墓だった
湯治にきて帰れなかった人たちの お墓だと 思う。
西山温泉 木賊
利根川べり羽生
湯宿温泉
犬目宿は 山梨県の上の原の奥じゃないかと 僕は思っています。
つげの絵は昭和24年~35年頃の風景だと思う。
94 : :02/07/04 12:20 ID:7sghgAz4
>>72
オンドル小屋どうでしたか?
つげさんの漫画のように極楽な気分になれましたか?
あの漫画だと、寝る時も起きてる時もあのスペースにいるようだけど、そうなんですか?
違う場所に宿泊して、何時間かオンドル小屋に行くのかと思っていたから。
本当に素っ裸であそこに寝るのかなあ。何か虫とかいそうでちょっと恐いけど。当方一応女性なもので・・・・・
97 :列島縦断名無しさん:02/07/17 01:30 ID:zVBjU4pp
>>94
蒸けの湯は「オンドル小屋」の2~3年後に山崩れで消滅したんですよね。
今は山小屋風のおしゃれなホテルがあります。
横にある後生ヶ掛温泉があの作品の世界ですよ。湯治部はオンドル小屋ですし。
後生ヶ掛温泉-玉川温泉のハイキングコースはおすすめ。
水蒸気を上げてる焼山火口内がルートにあるし、秋はブナの紅葉が見られます。
オンドル式だった近所の澄川温泉が水蒸気爆発で消滅しているし、10年もすればオンドル温泉は消えているかもしれませんよ。
98 :94:02/07/18 23:55 ID:AMfRoGfi
>>97
ありがとうございます。後生ヶ掛温泉のことをネットで調べました。
すごくいい雰囲気ですね! 秋に行ったら、本当に良さそう・・・・
そうか、オンドル温泉って、いつまでもあるとは限らないんですね
早めに行ったほうがいいってことですね。
125 :列島縦断名無しさん:02/09/09 14:17 ID:7yt/r26j
秋田の玉川温泉は、昔ながらのオンドルがあるらしい。
しかし、あの温泉は危険すぎる。素人には(以下略
何でも、水力発電の為に温泉の水を下流の田沢湖に引き込んだら、
あまりにも酸が強くて田沢湖の魚が全滅したそうだ。
314 :列島縦断名無しさん:03/09/11 14:08 ID:1PcFMkGI
今年の5月の連休に後生掛行きました。
オンドルの大部屋は、ほんとに「ガンバレチヨジ」まんまの世界。
大部屋が不安なら個室オンドルもあるが、狭くて雰囲気はいまいちです。
湯治のジジババばかりなので、不安がらずに大部屋泊まるべし。
316 :列島縦断名無しさん:03/09/13 21:29 ID:c7FPIC0d
>>314
たしか近くの蒸けの湯が土石流で流される前に題材にした奴があったね。
宿の従業員の女の子が大部屋のはしっこにいて着替えのシーンがちらっと見れる話。 ここでどっちもどっちもの歌が出てくるんじゃなかったけ?
333 :列島縦断名無しさん:03/10/10 02:32 ID:PcxBDkr7
この夏に東北旅行をしてきたのですが、その途中に泊まった宿が完璧につげワールドでした(リアリズム系)。 岩手県花巻から山に入っていったところにある「高倉山温泉」という一軒宿です。
高倉山温泉
〒025-0253 岩手県花巻市下シ沢字大久保26-4
電話番号 0198-25-2026
地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E141.0.20.140N39.27.15.200&ZM=8
http://blog.goo.ne.jp/lonewolf-pochi/e/00f51e9bb92e31b00f6303c002398315
http://jake.cc/onsen/iwate/takakura-horaku/takakura-horaku.html
http://blog.goo.ne.jp/yamadera1015/e/02d765482ed70813b4ead3dd88daeb5f
http://www.geocities.jp/oyu_web/t1552.html
http://kurorinno.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-f18f.html
http://yutabi.exblog.jp/3007356/
http://plaza.rakuten.co.jp/caesarsug/diary/201112300000/
昔は湯治で賑わったという2棟の立派な建物の片方は廃墟で私が泊まった棟も、半分は廃墟と化してました。 廊下は内装工事の途中のまま数年放置されている様子で部屋のテレビ台はコンパネ剥き出しの手作りでした。
壁は薄く、隣の部屋の知的障害児の奇声に悩まされました。
宿の外に怪しい観音像が立ってたり
エントランスの屋根を大きな赤鬼が支えてたり
浴室にはコンクリートのコテ絵(レリーフ)があったりして
つげ的雰囲気をかもしだしてます。
コテ絵は男湯が人物で、女湯は何故かゾウでした。
朝風呂で居合わせた地元の爺さんがトツトツとこの温泉の衰勢を話してくれました。
「熱心だった先代が亡くなって、継いだ娘夫婦がこの宿を駄目にした。
お湯は良いのに、勿体ない勿体ない…」と。
この旅行で、秋田の八幡平後生掛温泉のオンドルにも泊まったけど
高倉山温泉のほうがつげ感があったように思えました。
野田尻も通ります。
336 :列島縦断名無しさん:03/10/13 12:24 ID:tCWTzXIj
>>333
検索してみたけど、想像とは違ってそんなに廃墟っぽくないような…
木造の家屋を想像してました。 客は多かったですか?
338 :ピョンちゃん:03/10/14 01:40 ID:Y1sAHHYM
高倉山温泉、写真に騙されてはいけません。
紹介写真は綺麗に撮れてますから。
今年の盆休みの前半の一番込み合う時期の夕方6時頃に花巻駅から行ける温泉宿に片っ端から電話かけまくって にべもなく断られ続ける中、唯一「空いてますよ」と答えた宿です。 しかも、たまたま一部屋空いてたという訳でなく、ガラガラでした。
家屋は木造でした。私達の泊まった棟の奥の部屋は、修復不可能ではないかというくらい荒れたまま放置されてました。 朝になってから建物の中を歩いてみたのですが、もし夜だったら恐ろしさに変な夢でも見てたかもしれません。
北温泉みたいな旅情のある宿ではなく あくまでもリアリズム系の宿です。
誰か行ってみて欲しいなぁ。 お湯は良いです。
337 :列島縦断名無しさん:03/10/13 22:39 ID:nUHL8YxY
群馬の湯宿温泉も、つげ義春っぽい雰囲気があるそうですが、
どなたか行かれた方はいらっしゃいますか?
339 :ピョンちゃん:03/10/14 02:22 ID:Y1sAHHYM
湯宿について。
初めて訪れたのは10年程前の真冬のことです。。
思わぬ大雪に立ち往生し、仕方なく探した近くの宿が大滝屋旅館でした。
古い木造の大きな建物で、雪に埋もれた様はとてもつげ的でした。
汚れたコタツ、ショボい食事、薄っぺらい布団、隣の音が筒抜けの障子。
とても生活感たっぷりで感激しました。
確か一泊二食四千円ほどだったと思います。
川を渡った橋のたもとに小さな本屋があって
埃にまみれた本棚を物色してたら、パノラマ文庫でしたっけ?
昔の文庫版の「赤い花」が出版当時のまま並んでました。
誰も買う人もなく何年も何年も並んでいたんでしょう。すっかり日に焼けてました。
もちろん当時の定価で買いましたよ。
前のほうで誰か書いてましたが、大滝屋旅館は現在改装して新しくなってます。
今年の初夏に10年振りに訪れてニュー大滝屋を見て愕然としました。
本屋も廃業してました。
賑やかな猿ヶ京温泉に隠れて、ひっそりとした湯宿は
今も風情のある良い温泉街なのですが、
昔の大滝屋を知っている身としては魅力も半減というか…。
とはいえ、ご自分の目で確かめるのが一番かと。
大滝屋旅館がゲンセンカンのモデルだったということを
このスレで初めて知りました。
感激…。
496 :列島縦断名無しさん:05/01/29 10:17:11 ID:MYT3wu5u0
私は木賊温泉と後生掛温泉に泊まったことがある。
木賊はなぜか彼女との最初の旅行で。寂れた温泉旅館、ということで、つげ義春とは無関係で。静かで何も無いところで、良い雰囲気だった。 食事も結構美味しかったよ。山の幸で、これといった特徴はないけど。
川沿いの露天風呂になぜか彼女と混浴で入った記憶が…
後生掛温泉はとにかく風呂が素晴らしいし、オンドル部屋も本当にお年寄りがいっぱいいて、まさにつげ義春な世界だったなあ。
相部屋は結構込んでいたんで、個室のオンドルにしたんだけど、熱過ぎて夜眠れなかった。
つげ義春的な温泉としては、東北の鉛温泉もいいですね。自炊部が。
自炊部に泊まっても、食事を出してくれるようになっているし、安いよ。
http://mimizun.com/log/2ch/travel/1003246766/
-
4:777
:
2022/06/17 (Fri) 21:33:56
-
湯治文化が失われたのではなく、病気が治らないダメ温泉が淘汰されただけ(嘲笑い)
失われゆく湯治文化
2008-12-29
鹿角市八幡平の湯治宿「銭川温泉」のおばあちゃん阿部ツマさんが亡くなったことを、偶然アクセスした八幡平在住の方のブログで知った。
私がツマさんに初めて会ったのは、1986年の春。秋田県内の温泉を紹介するガイドブックの取材で訪れ、一泊した時だった。この時に触れたツマさんの人柄、湯のよさ、宿の素朴であたたかな雰囲気が気に入った私は、愛してやまない八幡平の湯宿のひとつとして、その後も何度か宿泊するようなになった。
拙著『東北の湯治場 湯めぐりの旅』(無明舎出版)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B2%BB%E5%A0%B4%E6%B9%AF%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%B0%B8%E4%BA%95-%E7%99%BB%E5%BF%97%E6%A8%B9/dp/4895443353
では、「おばあちゃんが育てた長寿の湯」と題して銭川温泉を取り上げ、「ツマさんにはいつまでも長生きして、この湯を守り続けてほしい」と書いている。そんな経緯があるので、ツマさんと銭川温泉には特別な愛着を持っていた。
数年前から宿は高齢のツマさんに代わって、息子さんのお嫁さんの阿部初枝さんが切り盛りしてきた。初枝さんのお話によると、亡くなったのは10月23日。直接の死因は肺炎ということであったが、91歳というから、天寿を全うしたといえるのではないだろうか。帳場の奥の棚の上にツマさんの写真が飾ってあったので、手を合わせ、冥福を祈った。
オンドル部屋に身を横たえると、22年前に初めてこの宿を訪れた時のことが思い出された。季節は5月。宿のすぐそばを流れる熊沢川の新緑がまぶしかった。自炊部の混浴のお風呂は透明でとろりとした私好みの湯で、八幡平の緊張性の高い湯をめぐり歩いてきたあとだったので、ほっとしたことを覚えている。ツマさんはこのお湯が自慢だった。
「今年になって湯治客がめっきり減った。冬場も続けるかどうか迷っている」
と、初枝さんが言う。御主人(ツマさんの息子さん)は10年ほど前に亡くなっているので、今後の銭川温泉の存続は初枝さんひとりの肩にかかっているといっていい。だが、ツマさんが亡くなったこともあってか、さすがに弱気になっているようだ。
確かにここ数年、私が歩いた範囲だけでも、湯治場・湯治宿の衰退が以前に増して目につく。いや湯治宿だけではなく、一般客を対象とした温泉宿も厳しい状況のように見受けられる。休業・廃業する宿も多い。最近では青森県平川市碇ヶ関にある湯ノ沢温泉郷の湯治宿「でわの湯 湯の沢山荘」が先月末で休業したのがショックだった。今年の夏に宿泊して美人の女将さんと温泉談義をした時には、まったくそんな気配はなかったのだが。
八幡平でも
先月初め「東トコロ温泉」が休業(事実上の廃業)。
「志張温泉」「トロコ温泉」「新鳩ノ湯温泉」も今は営業しておらず、
「赤川温泉」「澄川温泉」にいたっては、土石流災害で跡形もなく消滅してしまった。
私にとっての温泉の原点、ホームグラウンドといえる大好きな八幡平の温泉群(特に国道341号沿い)は、私が盛んに温泉行脚をしていた80年代当時と比べると、今は見る影もない。341号沿いで現在営業しているのは、「玉川温泉」と「銭川温泉」だけとは、かつての八幡平の温泉を知っている身にとっては、信じられない思いがする。
景気の低迷が影響しているというが、それだけではなく、温泉産業全体を揺るがすもっと大きな地核変動がジワリジワリ起こっているような気がしてならない。
熊沢川の渓流に沿った「銭川温泉」。
http://www.hachimantai.org/zenikawa.html
今回泊まった自炊棟のオンドル部屋。オンドルが気持ちよくて、ここではいつもぐっすり眠れる。
自炊棟の浴室。ホウ酸を含む湯は、かつては眼病に特効ありといわれた。
玄関と窓に板が打ち付けられた「東トロコ温泉」。今年(2008年)11月をもって閉館した。
http://toshibon28.exblog.jp/9128311/
失われゆく湯治文化 2007-08-18
他の地方と比べて東北では湯治場と呼ばれる温泉が多い。今でも湯治は行われているが、私が温泉を訪ね歩くようになった1980年ころと比べてみると、湯治客は激減している。特に80年代の後半から目に見えて減りはじめ、バブル経済の崩壊した90年代で、湯治の衰退が確かなものになったように思う。
その原因は、人々の労働環境、経済の変動、公共の日帰り温泉施設の増加など、いろいろな要素がからみあっているが、もっとも大きな要因としては、農家の方たちをはじめとする第一次産業従事者の生活様式、生活サイクルが大きく変わったことが挙げられる。
正月湯治にはじまって、
寒の湯(大寒のころにお風呂に入ると風邪をひかないといわれた)、
春湯治、
田植え前の湯、
早苗振りの湯(田植えが終った後の慰労を兼ねた)、
泥落としの湯(泥の中での田植えは体が冷えきってしまうので、その冷えた体を温めるために温泉に行った)、そして
丑湯治(7月の土用の丑の日に温泉に入ることが、特に東北では盛んだった)、
盂蘭盆の湯、
取り入れ前の湯、
刈り入れ後の湯、
秋湯治、
冬湯治…。
農繁期と農閑期を巧みに使い分けたこうした温泉の全年的利用は、東北だけではなく、かつては日本各地で行われていた。しかし、これまで長い間かけて培われてきた独特の湯治文化も、湯治客の減少で徐々に廃れ、失われつつあるのが現状である。
東北の湯治場では、今でも自炊宿が普通にみられる。かつて日本の宿は木賃宿と旅籠屋に大きく分かれていた。旅籠は食事を提供する宿のこと。木賃というのは薪代のことで、自炊するために薪で火を焚くことからそう呼んだ。湯治するには何日も、時には1ヵ月も滞在するわけだから、食事代を払っていたらとてもお金がもたない。そのため温泉宿は木賃宿が多かった。
車がまだ普及していないころ、人里離れた山奥にあるような温泉には、米、味噌、醤油はもちろん、食器、調理器具から蒲団にいたるまで馬に背負わせて長い道のりを通ったものだが、その場合、燃料の薪も持参すれば宿に払うのは場所代だけでよく、木賃さえ必要なかった。
東北の温泉はこうした自炊を主とした制度によって発達した歴史があるので、自炊部と食事付きの旅籠部(旅館部)の料金は大きな開きがある。
今は古くからの湯治宿であっても自炊部だけというところは少なく、旅館部と併設させているところがほとんどだ。
最近の平均的な温泉宿の1泊2食付き料金は、だいたい10,000円~15,000円くらいが相場のようだ。
ところが自炊部に泊まると2,500円~5,000円ほどで、旅館部の約3分の1という安さ。
やはり旅籠のほうが儲かるのか、当初は自炊部のほうが規模が大きかったところも、一般客の増加に対応してどこも旅館部が自炊部を凌駕するようになっている。
自炊部は旅館部とちがって廊下と隔てるのは明かり障子、隣室とは襖仕切りで区切っている部屋も珍しくない。鍵もかからず声も筒抜け。防犯意識が高く、プライバシーが気になる現代人が利用するには抵抗感があるのも、影響しているのかもしれない。
ただ、旅館経営で一番経費がかるのが仲居さんなどの従業員の人件費。なかでも板前さん。腕のいい料理人は高給取りなので、食事に力を入れている宿であればあるほど経費もかかるというわけである。私は温泉宿で出される品数がやたらに多い料理が苦手だ。食べきれなくて残してしまう場合が多いので、料理にお金を使わずに、その分宿泊費を安くしてくれたらいいと思うのだが…。
自炊部でプライバシーがないといえば、相部屋も湯治客が多かったころは当たり前であった。初めて会った見ず知らずの他人同士が、狭い部屋の中で何日も寝起きをともにするなんて、とてもできないと思う方もいるだろう。だが、かつてはそれが普通で、相部屋になったのをきっかけに毎年の湯治にしめし合わせて来るようになったり、家族ぐるみの付き合いに発展して、親戚、兄弟のように仲良くなったという話を何度か耳にしたことがある。
ただ現在相部屋を勧める湯治宿は、玉川温泉(仙北市)など一部の人気宿を除いてほとんど見られなくなった。
湯治場で見られなくなったものは、混浴も同様だ。私が盛んに温泉を訪ね歩いていた25年前ころは、湯治場は混浴が普通で、むしろ別浴のほうが珍しかったくらいだった。村の共同浴場も混浴が多かった。そうしたところでは、お年寄りだけでなく結構若い方も入浴していて、それが特別なことでも何でもなく、混浴を問題視したりすることもなかった。
それが80年代の終わりころになると、バブルの狂騒の中で温泉ブームというのが始まって、若い人たち、特に女性たちが湯治客以外は見向きもされなかった山奥の辺鄙な温泉にまで出かけるようになった。私が20代のころは、温泉へ行くのは年寄り臭いことと思われていて、今のように若い女の子が温泉めぐりをするなんて考えられなかったものである。
若者たちだけでなく、それまで温泉に興味がなかった中年女性、主婦の間にもブームが広がっていった。ただし、私のこれまでの観察では、若い女性よりも、むしろ中年女性のほうが混浴に対する拒否感、抵抗感が強いように見える。テレビ、雑誌などのマスコミの影響もあって、混浴目当てという不純な目的で温泉にやって来る連中がいたり、そんなこんなで80年代末から90年代にかけて、混浴だった浴槽を半分に仕切ったり、新しく女性用の浴槽を作る温泉宿が急増、あっという間に混浴風呂が姿を消してしまった。
青森県八甲田にある酢ケ湯温泉には、千人風呂という有名な混浴の大浴場がある。その名物風呂での男性客のマナーの悪さが問題となり、混浴の維持とマナー改善に腐心しているということが、昨年、地元の新聞に大きく取り上げられていた。長年、酸ヶ湯に通っている湯治客たちが「混浴を守る会」を発足させ、館内に「異性入浴者は好奇の目で見るべからず」という看板を設置し、マナーを呼びかけているという。以前には考えられなかったことである。
混浴は日本人の美風のひとつであり、東北の湯治場では確かに混浴文化というものが存在していた。しかし、現実問題としてこのご時勢に混浴を維持していくのは難しい。酸ヶ湯の千人風呂などのように、構造上どうしても別浴にできないところは、女性専用時間帯を設けるのがここ数年の傾向となっている。このままでは純粋な意味での内湯の混浴は、近いうちなくなってしまうだろう。老若男女が湯船のなかで地元の民謡を歌いあう、そうした東北の湯治場ならではのリラックスした混浴風景が失われてしまうのは、大変寂しいことではあるが、これも時代の趨勢であろうか。
鉛温泉(岩手県花巻市)の混浴風呂
http://tabunoki.exblog.jp/5990625
山の湯治場めぐり 2009-01-08
秋田・岩手両県にまたがる八幡平一帯は、火山活動が活発で、その結果いたるところに火山性の温泉が湧出している。特に秋田県側は、湯治を主体として発達してきた温泉が点在し、古くから山の湯治場として賑わってきた。
私が初めて八幡平の温泉を訪れたのは、今から35年前、まだ高校生のころだった。あちらこちらと旅をすることが子どもの時分から好きだった私だが、そのころは温泉に関してはまだ未熟者で、知識も経験もゼロ。そんな温泉初心者の私にとって、オンドル小屋が何棟もゴチャゴチャとかたまった湯治場の奇異なたたずまいは、初めての混浴風呂の体験とともに、今に至るまで強烈な印象として残っている。
現在も八幡平の秋田県側には、後生掛温泉、銭川温泉、大深温泉など私もたびたび訪れる大好きな温泉宿が湯けむりをあげ、湯治客を集めている。中で中心的存在といえるのが後生掛温泉で、6棟あるオンドル宿舎(自炊の湯治棟)は、いつも湯治客で大賑わいだ。
オンドルとは、地熱を利用して身体を温める一種の蒸し風呂のようなもので、ほとんどの湯治客はこれを目当てやってくる。1カ月、2カ月居るのは珍しくなく、なかには半年、1年と滞在する人もいるという。
1泊2000円前後の低料金、オンドルだから暖房費はかからないし、もちろんお風呂は入り放題。考えてみれば、高い家賃を払って都市のアパートやマンションに住むより、はるかに安上がりで健康的に暮らせるのだから、これぞ究極のリゾートといえるのかもしれない。
後生掛温泉に限らず、自炊の湯治場で私が一番好きな場所は共同炊事場だ。料理を作りながら湯治客同士の身の上話や、かかえている病気のことなどを聞くとはなしに聞いているうちに、おかあさん、おばあちゃんたちと仲良しになって、料理を分けてもらったりすることが多い。
私はどちらかというと初対面の人はニガ手で人見知りするタイプなのだが、湯治場に来ると、不思議に何でも受け入れる穏やかな感情に満たされてしまう。きっとこうした場所では、相手を思いやる、いたわる、互いに助け合うといったふるまいを、誰もがあたりまえのように身に付けているからだろう。
後生掛温泉からさらに100メートルほど上った八幡平5合目、標高1150メートルの高所には、純然たる山の湯治場、大深温泉がある。温泉の建物は受け付けとなっている事務所と湯小屋、それにオンドル式温浴の自炊棟が2棟あるだけで、湯に入り、寝るための施設以外、余計なものは何もない。
ここのオンドル宿舎は通路の両側にゴザやカーペットを敷いただけの仕切りのない雑魚寝スタイルで、オンドル小屋の旧態をとどめている。一見不潔そうでプライバシーも保てないので、若い人や女性は尻込みするようだが、この環境に慣れてしまうと不思議と気にならなくなる。何よりもポカポカ温まって心身ともにリラックスでき、本当に心地よい。
大深温泉には私が高校生のころ訪れた八幡平の、素朴で原始的な湯治場の雰囲気が今も残っている。オンドル宿舎でごろんと横になっていると、見るもの聞くもの何もかもが新鮮だった10代の旅の感触が甦ってくる。私の温泉の原体験、湯治場めぐりの原点が、ここにあるからだろう。
後生掛温泉のオンドル宿舎
http://tabunoki.exblog.jp/9171692/
-
5:777
:
2022/06/21 (Tue) 22:45:55
-
あげ16
-
6:777
:
2022/08/10 (Wed) 08:35:26
-
あげ0301