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ミッシャ・エルマン(1891年1月20日 - 1967年4月5日)ヴァイオリニスト

1:777 :

2022/06/12 (Sun) 16:18:09

ミッシャ・エルマン(Mikhail Saulovich 'Mischa' Elman, 1891年1月20日 - 1967年4月5日)ヴァイオリニスト


Mischa Elman plays Massenet - Meditation de Thais
https://www.youtube.com/watch?v=C8W2g1ci56E
https://www.youtube.com/watch?v=mHkJtlp_f4w
https://www.youtube.com/watch?v=eL9xlJqd0zQ

Mischa Elman (violin) Percy B. Kahn (piano)
Recorded: 1913
2:777 :

2022/07/20 (Wed) 16:59:10

ミハイル・サウロヴィチ・"ミッシャ"・エルマン(Mikhail Saulovich 'Mischa' Elman, 1891年1月20日:タリノエ - 1967年4月5日:ニューヨーク)はウクライナ出身のヴァイオリニスト。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。

生涯
キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった。幼少期に絶対音感が認められたが、当時の音楽家の社会的地位の低さから、父親は職業音楽家としての行く末を案じていた。ついに父親が折れて小型ヴァイオリンが与えられると、習い覚えた旋律を弾くようになった。その後オデッサの官立音楽学校に入学。アレクザンダー・フリードマンに学んだ後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院の入学審査を受けた際、パガニーニの≪奇想曲 第24番≫とヴィニャフスキの協奏曲を演奏し、レオポルト・アウアーに強い印象を残して入学資格を得た。

1903年には資産家のパトロンの邸宅で演奏会を催すようになり、翌1904年にベルリン・デビューではセンセーションを巻き起こした。1905年のロンドン・デビューは、グラズノフのヴァイオリン協奏曲の英国初演で飾った。1908年のカーネギー・ホールにおけるアメリカ・デビューにおいても、聴衆を圧倒している。1911年からは単身アメリカ合衆国に移住。ロシア革命後は、ロシアに残った一家をアメリカ合衆国に呼び寄せ、1923年に市民権を得た。1921年に初来日。1926年にはエルマン四重奏団を結成するが、所詮は「エルマンの、エルマンによるエルマンのための四重奏団」でしかなく、活動は活発ではなかった。1936年から1937年にかけて、カーネギーホールで主要なヴァイオリン協奏曲15曲をすべて演奏する5回のコンサートを開き、絶賛を浴びる。1937年には2度目の来日を果たしている。1943年には、マルティヌーの≪ヴァイオリン協奏曲第2番≫(エルマンへの献呈作)を初演している。

第二次世界大戦後は同門のヤッシャ・ハイフェッツが「ヴァイオリンの帝王」として君臨する中、エルマンは地味に、しかし精力的に活動を続けた。全盛期にはおよそ半年の間に107回もの演奏活動をこなし、レコードの売上げ枚数は優に200万枚におよんだほどであったが、戦後の活動は往年の勢威にはとても及ばなかった。しかし、エルマンは意に介さず、レナード・バーンスタインなど戦後世代の音楽家とも積極的に共演した。1955年には3度目の来日を果たしている。エルマンは70歳を超えても引退する気はなく、生涯現役を貫いた。彼がいつまで演奏活動を続けるのか、その答えをエルマン自身が出す必要はなかった。


1967年4月5日、心臓発作のため76歳で死去[1]。間近に迫ったリサイタルのためにいつものように練習していた最中に突然倒れて亡くなった。



演奏スタイルとエルマン・トーン

1921年の訪日の際、帝劇を訪れたエルマン
エルマンはハイフェッツの静かなアクションとは対照的な、派手に動く弾き方をしていたと伝えられる。また、エルマンの奏でる「粘っこく、重厚でヴィオラやチェロの響きを髣髴とさせる」音色は俗に「エルマン・トーン」とも呼称されているが、一説にはこの呼称は野村あらえびすが命名したものだと言われ、海外ではエルマンの音色についてあまり熱心には言及していないと言われている。そのあらえびす自身、『名曲決定盤』の中で「エルマン・トーン」を堪能するには機械式吹込みでも電気録音でもダメだという趣旨の発言をしている。音色に関してはアウアー(生前にSPレコードを1枚のみ残している)と似ているとも言われている。

機械録音時代から死の前年である1966年まで、長く録音活動も続けたエルマンのレコードの中で聴くに値するのはモノラル録音時代までとされており、ステレオ録音時代に残した録音は、難しいところではテンポを極端に落とすなど技術的な衰えが甚だしく、いくつかの小品の録音以外で聴く事はお勧めできないものが多いようだが、アラム・ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲など比較的新しいレパートリーも録音している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
3:777 :

2022/07/20 (Wed) 18:06:49

あげ5554
4:777 :

2022/07/20 (Wed) 19:34:13

あげ447
5:777 :

2022/07/21 (Thu) 09:04:37

あげ11111
6:777 :

2022/07/21 (Thu) 10:05:07

Mischa Elman plays Brahms - Hungarian Dance No. 7
http://www.youtube.com/watch?v=GSlI6cNtkqg

今回のCDで演奏しているのは、“エルマントーン”で当時一世を風靡したウクライナ出身のヴァイオリニストのミッシャ・エルマン(1891年―1967年)である。

“エルマントーン”とは一体何か?

一言でいうと「甘いヴィブラートと官能的なポルタメント」が特徴とでも言ったらよいのであろうか。常に音程が揺れ流れており、曲全体が甘く、官能的に聴こえてくるのである。

ここまで徹底して自己のヴァイオリンの音色を主張し続けたヴァイオリニストも珍しいのではないかと思えるほどだ。ちょっと鼻に掛かったようでもあり、ジプシーの音楽を聴いているような感覚にも陥る。多分、今こんなヴァイオリンの奏法したらたちどころに先生に矯正されるに決まっているし、リサイタルを開いたら、古い弾き方だと非難轟々となり、そのヴァイオリニストの将来はお先真っ暗になるのは目に見えている。

ミッシャ・エルマンが生きていた時代はまだおおらかな空気が流れ、充分にその存在価値を主張できたのではないであろうか。でも、今また、ミッシャ・エルマンみたいなヴァイオリニストが登場してくれないかな、と私は密に思っている。
http://blog.goo.ne.jp/classic_2007/e/b1486287087f3db0342b4b394e322b68


これはもう、エルマンの「芸」を聞くべき演奏だ。芸術を聞くつもりでいると、ムチウチ症になること間違いなしだ。

出だしからして普通じゃない。リズムの崩し方がすごい。最初に聞いた時は、のっけからのけぞってしまった。まさに大爆笑の大拍手ものだ。これを採譜しようとすると、無茶苦茶悩むことになるだろう。エルマンは日本でも明治時代から甘美な演奏家として広く知られていたようだが、その芸の集大成ともいうべき演奏だろう。大ヴィルティオーソ時代の最後のあだ花かもしれない。

たしかにこの演奏は技術的にはかなり危なっかしい部分もある。エルマンの全盛期は1930年代にはもう過ぎていたという人もいる。しかし、それでも、これらの欠点はエルマンの「芸」の凄まじさにはかすんでしまう。

エルマンは1940年代後半から1950年代前半までの約10年間、自分のスタイルを変えようとしていたように思える。英 DECCAへの録音による1950年代前半のモノーラル録音にはエードリアン・ボールトやゲオルグ・ショルティによる指揮でチャイコフスキーやベートーヴェンなどの協奏曲が録音されているが、第二次世界大戦後に起こった「楽譜に忠実」派の隆盛によって、エルマンがそういった演奏スタイルに変えようとして喘いで様が記録されている。

それは、1940年代から始まったRCAーVictorのエルマンへの冷遇(それはハイフェッツの録音量に比例している)によってエルマンを悩ませていたようだ。しかし、1950年代後半、米Vangurd と契約した頃には「自分は自分でしかない」という結論に達したようだ。
とにかく、この演奏はエルマンの奏でる「歌」を聞くためのCDだ。ピアニストで言えば、パデレフスキーやパハマンと同じように、楽譜を材料としてそれを如何に料理するかを楽しむための演奏だ。だから、ベートーヴェンやブラームスなどの音楽の根っこにある「観念」を表現しようとする音楽には向かないが、そういう背景があまりない曲では抜群に面白さを感じさせるものになる。

今日、このような演奏はまず聞かれない。それは、学術的研究の成果なのかもしれないし、あるいはコンクール全盛期の弊害なのかもしれない。
エルマンのような音楽家は今の音楽界では決して認められないだろう。

しかし、人間が音楽の上位にいた頃、それがエルマンの時代ではなかったのではなかろうか。そう考えると、果たして今のリアルタイムで聞くことが出来る音楽が当時よりも優れているかどうか、疑問が残る。
http://stokowski.web.fc2.com/jp/nattoku/elman.htm


1月20日は、ミッシャ・エルマンの誕生日です。
◆昔のヴァイオリニストです。美音でした。

しばしば、昔のヴァイオリニストは、個性的で、いまのジュリアードで習った人達はテクニックはあるけど、 つまんない、というような、ことを言います。

それほど、単純では無いと思います。今のヴァイオリニストでも、「あ、これは・・・」と音を聴いて分かる人、 弾き方の特徴(曲の解釈上の個性とでもいうのでしょうか)で、「あ、これは○○だ」と言う人はいます。

ただ、今の方が、世の中がギスギスしているのと、みんなテクニックがどんどん向上していくので、 つい、そちらの方に演奏者も聴き手も気を取られて、何だか少しカリカリしている気がします。

特にコンクールとなると、本来の演奏会じゃなくて、皆同じぐらい上手いので、ミスをした方が負け、のような(実際はそれほど単純じゃないでしょうが)状況ですから、ピリピリしています。

でも、少しぐらい間違えたっていいですよね。全部デタラメでは、お話になりませんけど。

そのようなことを、ロシア生まれのアメリカの往年のヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマン(1891-1967)の小品集を聴いていると、感じます。

エルマンの美しい音は「エルマン・トーン」と呼ばれた、と言われています。

私は生で聴いたことがないので、本当はどういう音だったのか、分かりませんが、 そんなの今更どうしようもないんですから、ムキになることはない。


いや、失礼。


何を独りで怒っているかというと、

Wikipediaでミッシャ・エルマンの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3


を読んだら、 要するに上手かったのは、若い頃で、晩年はテクニックも衰えて、音色も、さほど大したことはなかったと、 珍しく情緒的な説明だったので、何かエルマンに恨みでもあるのか? と少々不愉快だったからです。

失礼を致しました。


◆エルマンより今の日本の若い人の方がテクニックはあるかも知れませんが・・・。


純粋に早いのを正確に弾けるかとか言うことで言ったら、それは今の学生さんの方が、 これからお聴き頂く晩年のエルマンより上手いでしょう。


そこが、逆に貴重でして、エルマンのヴァイオリンを聞くと、音楽家というのは、テクニックは身につけなければいけませんが、上手ければ良いというものではない、ということが分かります。

◆【音楽】アンコール集 エルマン(vn)セイガー(p) より。


CDは、AmazonでもHMVでもTowerRecordでも買えますが、Amazonだけ試聴できないので、 HMVのアンコール集 エルマン(vn)セイガー(p)と、 Towerのヴァンガード名盤選38::ヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリン・マスターピースにリンクを貼っておきます。


ガヴォット(ゴセック)
http://www.youtube.com/watch?v=EqkRbC4EC-8
http://www.youtube.com/watch?v=y3ztkHOYtDc

エルマン先生、1拍目から弾かないで、前の拍のウラからシンコペーションにして弾いてます。

たしか、楽譜はそうなっていないはず。でも良いんです。これぞ「エルマン節」なんです。


今時、こういう可愛い小品を弾いてくれる、プロのヴァイオリニストっていませんよね。

或る意味では、大変怖いかも知れません。プロを目指して所謂「英才教育」を受けた子など、小学校に入学する前に弾けていたと思います。易しい曲ですから、誰でも弾けます。素人ですら、兎に角弾くだけなら弾けます。そういう曲を大勢の前で弾くのは、間違えたらすぐにバレますから。


2曲目はこれまた泰西名曲、ドヴォルザークの「ユーモレスク」です。

N響の第1ヴァイオリンで30年弾き続けた鶴我裕子さんは、仕事ではやれ、マーラーだ、ブルックナーだ、ショスタコーヴィッチだ、バルトークだ、と難しいのを弾いておられたのに、著書「バイオリニストは肩が凝る」の中で、エルマンの「ユーモレスク」を聴くと、ホッとする、と書いています。プロですらそうなのか、と、何だかこちらもホッとしたことを思い出します。


ユーモレスク 変ト長調 Op. 101 No. 7 (ドヴォルザーク--編曲:アウグスト・ヴィルヘルミ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7897609
http://www.youtube.com/watch?v=20xtbVx8sn8
http://www.youtube.com/watch?v=MrdrXJ73Xa4

エルマンが来日した時、日比谷公会堂かどこかで、リサイタルがあり、アンコールでエルマンは、この「ユーモレスク」を弾いたそうで、それを実際に見て、聴いた人によると、今の若いヴァイオリニストだったら、照れちゃってこんなの弾きませんが、エルマンは、実に気持ちよさそうに楽しそうに弾いたそうです。


ベートーヴェン 「ト長調のメヌエット」
http://www.youtube.com/watch?v=TwjzTHF2jgw
http://www.youtube.com/watch?v=iwE_40PrJ0c
http://www.youtube.com/watch?v=n7tuuEzLvBg


お聴きになれば、「ああ、あれか。」と思われる筈です。


ここまでの曲、いずれも「ヴァイオリンが歌っ」ています。その「歌心」が、聴き手の心の琴線を震わせます。


以上は技術的には易しい曲ばかりです。このレコードは1958年にエルマンのアメリカデビュー50周年を記念して作られたとか。


エルマンの晩年ですが、Wikipediaで批判的な文章を書いている人物は「チゴイネルワイゼンに至っては、技術が衰えているため、難しいところは思い切りテンポを落として弾いている」という意味のことを書いていますが、私はそれはどうかな?と思います。

聴いて頂きましょう。


サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
http://www.youtube.com/watch?v=eFtNt0d7KHo

ハイフェッツと比べたら、それは確かにテンポは遅いです。最後モルト・ヴィヴァーチェ。ハイフェッツは一番速いところでは、テンポ180近い。全盛期のハイフェッツと比較したら気の毒です。

岩城宏之さんの「棒振りのカフェテラス」という本に書いてありますが、ハイフェッツですら最晩年は、小品すら通して弾くことができず、編集でつないでいたそうですから。


エルマン先生は思いきり遅いですが、音質は乱れていないし、音を飛ばすこともない。

左手ピチカートもきちんと鳴らしている。曲の最後の最後ではアッチェレランドをかけて非常に高いポジションの音程が狂っていない。ただ、何度も出てくる、和音が三つ続くところで、あまりにテンポを落とすし、演りたい放題なので、これは伴奏者、ジョセフ・セイダー氏の健闘を讃えるべきでしょう。


最後です。


マスネー:歌劇「タイス」 - 第2幕 瞑想曲
http://www.youtube.com/watch?v=nYsSrhamhb0
http://www.youtube.com/watch?v=eL9xlJqd0zQ
http://www.youtube.com/watch?v=eaonFKJKG7U
http://www.youtube.com/watch?v=3dL3Ozdn1SE


全体としてお分かり頂けたかと思いますが、エルマンの音は決して、刺激的に鳴らないのです。

録音が古いこととは無関係だと思います。奏者が常に「美しい音」をイメージいていなければ、ヴァイオリンのみならず、どんな楽器でも良い音が出せるようにはなりませんし、それを維持できない。

エルマン氏は、一生、理想の音を追い続けていたのかも知れません。

好き好きですが、このCDはお薦めです。とにかくエルマン聴いたこと無い、じゃ、問題外でっせ。


コメント

しばしば、言われることですが、昔のヴァイオリニストって、本当に音に個性があるのですよね。

音を聴いて、「あ、○○の音だ!」とすぐ分かるような音色や、歌い方の個性は、何故か技術の進歩と共に埋没してしまいます。

ゴセックの「ガヴォット」やドヴォルザークの「ユーモレスク」など、素人でも弾くだけなら弾ける曲でなおかつ、聴衆を魅了するということは、プロコフィエフやショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲で高度なテクニックで人を「驚かせる」よりも難しいことだと思います。

今の時代にエルマンを愛好して下さる方がいらっしゃって、とても嬉しく思いました。
投稿: JIRO | 2011.04.18 23:12


昨日、私もエルマンのジュビリーアルバムとクライスラー愛想曲集を買い、同じように、ガボットの快活さに舌を巻き、音の素晴らしさに酔っていました。そして、同じくWikipediaの分かったような解説に腹を立てていたところです。
こんなに素晴らしい小品集は他にないと思います。
投稿: kuma | 2011.04.16 23:57
http://jiro-dokudan.cocolog-nifty.com/jiro/2010/01/12018911967-566.html
7:777 :

2022/08/01 (Mon) 16:17:38

あげ987
8:777 :

2022/08/01 (Mon) 16:17:54

その三 浪人時代の記憶~ミッシャ・エルマン
https://kobayashihideo.jp/2019-05/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-3/


青年男子は不満の塊だ。むき出しのダイナマイトみたいなもので、火気は厳禁である。目の前の一切が、理不尽で不純でばかばかしく苛立たしい。親や教師など、どんなにもっともらしいことを言ったところで、所詮は、夾雑物で視界が曇ってしまった、いわば「終わった」人たちである。そして、そのように世の中を鑑定する自分のことは疑いもしない。そこには、絶対に純粋な自己と愚かで不純な他者があるばかりだ。青年期特有のこういった感情は、どうせ未熟な自分自身に対する不満の、その屈折した投影にすぎないのだろうが、そんな話は薬にもしたくない。鑑定を共有できる二、三の友人があれば、彼等だけが信頼に価する存在なのである。もはや世間との和解に至る途は断たれている――そう確信した者同士が、ともに引きこもり、たとえば音楽を聴き、文学を語り、少女に恋をする。そのときの音楽や文学や少女が、ありふれた凡庸と不純から遠く隔たったものであることは言うまでもない。かかる意味で、彼らのありようは、陰にこもってはいるが反逆的だ。それは、親や教師や学校や勉強や社会や、およそあらゆる「不純な」制度に対する離反なのである。(青年諸君、そんな顔をしなさんな。私は自身の青春を顧みて書いているだけだ)

もっとも、その青年たちも、やがて大学に進んだり就職したりするうちに、なし崩しに社会化していくことになるのだが、その途中にちょっとした「逸脱」の一時期が挟まることがある。「浪人」だ。思い返せば、それはなかなかに思い出深い有意義な人生の挿話なのだが、その最中にいる諸君にとっては、もとより意義など検証している場合ではない。ただただつらい。それは、社会的属性を剥奪された宙ぶらりんの一年ないし数年であり、社会に反逆し得ていたはずのその自意識が呆気なく挫かれた、自己喪失の一年ないし数年である。公認の制度によって組織化された人生の文脈から、突然逸脱を強いられてしまった「白紙」の自分……そんな切実な場所に思いがけず立たされてしまった、そう言いたげな顔が、たとえば予備校の教室にはちらほら見える。しかしながら、諸君、自意識を挫かれ、自己を喪失した諸君だからこそ、真に意義ある自己探求の途に就けるということでもあるのである。

青年期の、わけても浪人時代の心理的現実というものは、今も昔も、そう大きくは変わらないのではないか。たとえば梶井基次郎2。その学生時代の日記や書簡などを拾い読みしていると、およそ一世紀の隔たりを越えて、その切ない気持や荒んだ心が、こちらの胸にも沁みてきて、やり切れない。おどろくほど純度の高い詩的な結晶をなすあの作品群の底にあるのは、ありきたりだが切実な、逃れようのない苦悩だったのだ。かくも美しい秩序を拵えあげなければ、とても耐えられぬほどの混沌だったのだ。

梶井もまた「浪人生」であった。第三高等学校に入る前に、大阪高等工業学校の受験に失敗している。その前に、異母弟が高等小学校を終えたばかりで奉公に出されたことから、あるいは父の放蕩が家計を苦しめていたことから、それらに対する義と反逆とで、中学を退学したこともある。また三高でも、選んだのは理科であった。彼の進路にはしばしばある種の無理ないし不自然を感じる。そして、町人の子だから学問に打ち込めないのだと悲観してみたり、かといって、打ち込める何ものも見つからないと焦燥を訴えてみたり。さらに怠惰、悔恨、早くも兆した肺病の不安……。

二日夜エルマンと握手す

ああ此感激に過ぐるものなし。

(1921年3月3日 友人宛はがき)


当時の梶井に信じられたのは、二、三の友人を別にすれば、漱石、谷崎、学内で見かける西田幾多郎先生、それに、友達と金を出し合って買う舶来盤のレコードくらいだ。彼にとってそれらは皆、現実の醜悪と塵埃から隔絶した、純粋で高貴な存在だったろう。そんな梶井の前に、折よく現われたのが、エルマンだったのである。演奏会当日は進級のかかる試験の最中であったが、かまってはいられなかった。

京都は一日二日エルマンの演奏会あり、二円だ。京都で聞く気はないか。大阪なんぞよりずつと気持がいいだらう。しつかりお互ひに勉強しておいてどちらかの日にカンフオタブルに享楽しようぢやないか。

(同2月16日 友人宛はがき)


その夜、エルマンのストラディヴァリウスは、梶井の耳にどんなふうに鳴っただろう。濃密で柔らかな、エルマン・トーンと称されたあの音。ひょっとしたら、京都市公会堂のエルマンは、「幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛」のなかで、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」3、そんな純度の高い音色を響かせてくれたのだったか。梶井はその感激のまま、会場の外でエルマンを待った。ややあって姿を現し、車に乗り込もうとするヴァイオリニスト。梶井は群衆のなかから飛び出し、やや腰をかがめて、しかし無遠慮に手を差し出す。すると、ロシア生まれの偉大なその人は、貧し気な学生の無作法に、わざわざ手袋をはずして応えたのである。感極まって涙した。温かい手やった、匂いがこの手に残ってるわ。



レオポルト・アウアー4教授は、その日滞在するロシア南部エリザベートグラードのホテルで、未知の父子の来訪を告げられた。いつものことだ。ヴァイオリンを抱えた息子とその天才を信じる父親の不意の訪問。だが、たいていは、貧しい親子の果敢ない幻想なのだ。憂鬱なことである。演奏会直前の教授はその支度に忙しいこともあって、その応接を弟子に委ねた。わずかな時間でも仮眠をとらねばならない。それから演奏会用の衣装に着替え、さてストラディヴァリウスと指を馴らしておこうか……本番直前のそんな時、部屋の扉は叩かれたのであった。「教授! あの少年の演奏は絶対お聴きになるべきです」。……翌朝再びやってきた少年――それは、通い始めたばかりの音楽学校があるオデッサ5から、アウアー教授がたった一晩滞在するだけのこの街まで、長い旅路をやって来た、しかもその旅費を、衣服を売って工面しなければならなかったという父親に連れられた、小柄なユダヤ系の少年であった――彼はひと息をつく暇もなく楽器を取り出しヴィエニャフスキのコンチェルトを弾き始める。アウアー教授は、旅立ちの荷物をまとめながら聴くつもりであった。が、ほんの数小節進んだところで片付けの手を停め、身体を起こさねばならなかった。なるほど、これは確かに聴くべき演奏だ。そして机に向かい、躊躇なくペンを執りあげたのである。ペテルブルク音楽院グラズノフ院長宛に、ただちに一筆啓上せねばならない6。

タリノエという小さな村の、ヘブライ語教師の父にヴァイオリンの手ほどきを受け、その後パブロ・サラサーテの推薦を得て、オデッサ音楽院フィデルマン教授の生徒となっていたミッシャ・エルマン、彼の世界的ヴァイオリニストへの途は、この瞬間に開かれたのであった。1904年、エルマン十三歳であった。

もっとも全てが順風満帆だったわけではない。この頃のユダヤ人は常に朔風に曝されていた。首都サンクトペテルブルクにも居住制限があり、エルマン少年が父親とともにその街に住んで音楽院に通うということさえ容易ならざることであった。アウアー教授は当局に対し、エルマンが入学できないなら教授を辞すると、脅迫まがいの啖呵を切ったと伝えられている。アウアーは「皇帝のソリスト」であるから、これには役人たちも黙従するほかはなかったであろう。また、アウアー自身の出自も、ハンガリーの貧しいユダヤ人の家庭である。エルマンの他、エフレム・ジンバリスト、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン7と、才能において突出したユダヤ系ヴァイオリニストがそのクラスに参集したのは、偶然ではなかった。

アウアー教授の下でエルマンは、なんでもたちどころに出来てしまうというような、神話的な天才ではなかった。そのかわり、どんなに困難な課題を与えられても、必ず次のレッスンまでには克服して来るという、並外れた学習能力を示した。その結果、彼は、その歳のうちに、ロシアを代表するヴァイオリニストの一人になっていったのである。

サンクトペテルブルクでのデビューは、レオポルト・アウアー急病につきその代演という形式であった。形式? そう。これはアウアー教授の仮病であり常套なのだ。自分を目当てに集まってくる「一流」の聴衆を裏切り、失望の色を浮かべる人びとの前に無名の少年を立たせ、その思いがけない演奏によって聴衆の失望をもう一度、逆から裏切って喝采させるという筋書きである。それは、二重の裏切りによる一種の賭けだ。エルマン少年はメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききって、その賭けに、おそらくそれが賭けであることに気づきもせずに勝ち、そのままロンドン・デビューまで、一直線に駆け抜けるのである。

以後半世紀をかるく越えて、エルマンは一流であり続けた。ヴァイオリニストの世界においてこれは稀有と言っていいだろう。もっとも彼の少年時代、ヨーロッパはフリッツ・クライスラーとブロニスワフ・フーベルマンが主役であった8。またロシア革命を機に、アウアー一門の拠点はアメリカに移り、それとともに同門の後輩ヤッシャ・ハイフェッツの時代が幕を開ける。さらに十年後、今度は同じロシア系ユダヤ人イエフディ・メニューヒンの登場だ9。つまり、エルマンはいつも二番手だったと評する向きもあるのである。少年ハイフェッツがニューヨークに登場した日の、よく知られたエピソードがある。その熱狂の演奏会場で、エルマン「今夜はばかに暑かないか?」ゴドウスキー「ピアニストは平気さ!」10。また、エルマンがしばしば上機嫌に語ったというこんな一つ話もある。コンサートにやって来ては必ずサインをもらって帰る少年に、エルマン「どうしてそんなに僕のサインが要るんだい?」少年「友達と交換するのさ。エルマン五枚でクライスラー一枚!」。

しかしながらエルマン自身、エフレム・ジンバリストとともに、ロシア系ユダヤ人ヴァイオリニストとして初めて世界を席巻した人であり、また器楽奏者として初めて、レコードでその盛名を確乎たるものにした人である。実際、二十世紀初頭の栄光のテナー、エンリコ・カルーソー11と吹き込んだマスネ「エレジー」などは記録的なベストセラーだ。

Elman Caruso Massenet Elegie - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=+Elman+Caruso++Massenet+Elegie


かくしてアメリカ商業主義の最中にあってその恩恵を受けながら、彼には、それに翻弄されない強靭さがあった。エルマンが途を拓いて、のち多くの、特にユダヤ系のヴァイオリニストが活躍するようになり、たぶんそのせいで、エルマンはソリストとしての活動から遠ざかり、四重奏などに比重を移した時期もあった。が、晩年はやはりソロに戻り、最後まで一流の演奏を披露し続けたのである。それを可能にしたのは、神童でありながらさらに研鑽を重ねた、サンクトペテルブルクでの日々だろう。レオポルト・アウアーは多くを教えない。何はさておき、自分自身で考えさせ克服させる教師だ。その許で、神童エルマンが、格闘して身につけたものの尊さと実現したことの偉大さを思う。彼は言う、「今のヴァイオリニストたちは、もっと私に感謝すべきだ」。エルマンは「二番手」だったのではない。先駆者であり、牽引者なのである。それは今でも変わらない。


最晩年に、ヘンデル「ソナタ四番ニ長調」の録音がある。これは不朽だ。

Elman Handel Violin Sonata D major - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=+Elman+++Handel++Violin+Sonata+++D+major


エルマンの代表的な録音と言えば、まずは、先に触れたカルーソーとの録音、そして自らの出自に根差す「エリ、エリ」や「コルニドライ」「ヘブライの旋律」といったユダヤの音楽、それにアウアー因縁のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」12などが挙がるだろう。もとより異議のないことだ。が、それらを措いてあのヘンデル、と言いたい気持ちが私にはある。故郷の大地の香気と古典の高次の統合。それがヴァイオリン音楽というものであり、その点で、彼は一貫してエルマンなのである。その確信に満ちた演奏が人生を貫く。そして、世に翻弄されつつ生きねばならない人たちを救済し続けている。



音を記憶するのは難しい事だから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば噓になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、又何処からか聞えて来る様な気持ちになる。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

小林秀雄もまた、このとき「浪人生」であった。名門府立一中では学校生活が一高受験に一元化されてしまうために、その風潮に反発して、文学にマンドリンそれに硬式野球、要するに勉強以外のことに明け暮れていた。妹の高見澤潤子は、「兄のレジスタンス」だったと言っている。そうに違いない。そしてたぶんそのせいで、小林秀雄は一高の受験に失敗したのであった。

兄は中学卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人した。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。

(高見澤潤子『兄 小林秀雄』)

小林秀雄にも、高を括る、というような、そんな生意気な少年時代があったわけだ。その生意気の鼻をへし折られて、浪人の一年が始まった。では、あの小林秀雄はどんな浪人生であったのか……まことに興味深いが、その間のことは、何ひとつ書き遺されていない。何もわからない。何もわからないが、やはり、この世を凝視しつつ自分をゼロと見定めるというような、そんな謙虚な「没落」の時間を過ごすことはあっただろうと想像してみる。

……莚を敷いた、薄暗い船室がある。周囲に船に酔つた時の用意らしく、十五六の瀬戸引の洗面器がずらりと掛けてあつた。それが、船の振動で姦しい音を立てて居た。顔色の悪い、繃帯をした腕を首から吊した若者が石炭酸の匂ひをさせて胡坐をかいて居た。その匂ひが、船室を非常に不潔な様に思はせた。傍に、父親らしい瘦せた爺さんが、指先きに皆穴があいた手袋で、鉄火鉢の辺につかまつて居る。申し合はせた様に膝頭を抱へた二人連の洋服の男、一人は大きな写真機を肩から下げて居る、一人は洗面器と洗面器の間隙に頭を靠せて口を開けて居る。それから、柳行李の上に俯伏した四十位の女、――これらの人々が、皆醜い奇妙な置物の様に黙つて船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。それが堪らなかつた。然し自分だけ慄へない方法は如何しても発見出来なかつた。

(小林秀雄「一ツの脳髄」)

世の中や世の人々を醜く思うのは、青年の特権だ。しかし、そのような世の中や世の人々を、対象化しようとしてしきれず、眼差しが自分自身へと折れ曲がってくるまでには、ある種の成熟が必要だろう。自分もまた例外ではあり得ない。等しく醜く愚かな存在である。「自分だけ慄へない方法」などありはしないのだ。もとより「一ツの脳髄」は1924年の発表というから、1920年の「浪人生小林秀雄」からはなおしばらく隔たる。が、小林秀雄も「浪人生」なら、特権の放棄と健全な没落は、そのときすでにその視野に入っていただろうと思う。

さて、その浪人生活の終りを飾ったのがエルマンである。1921年2月帝国劇場の公演に、受験勉強追い込み最中の小林秀雄は出かけている。その小林秀雄の耳にどんな音が鳴ったのだったか。「音を記憶するのは難しい事」だが、今、振り返って「何処からか聞えて来る様な気持になる」というその音は。それはやはり、青春の混沌にとって救済となるような、純度の高い、高貴なものであったに違いない。帝劇の椅子に身を委ねたまま陶然となった、あの甘美でしかも端正なスラヴの音色。濃密な音響のなかで見るヴァイオリニストの光景が、夢のように生々しい。しかしながらそれは、その帰らぬ時代への愛惜の念であると同時に、惜別の記憶でもある。というのは、このエルマンの演奏会の一か月後、まさに一高受験の最中に、小林秀雄は父親の急逝に遭わねばならなかったからである。

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だつた。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだらう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿つてポロポロ涙を落し乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると、医者がギュッと胸を押したがポカンと口を開いた儘息をしなくなつた父の顔が浮ぶ。「家に持つて帰る」と京都の伯父が赭い壺からお骨を半紙に移すのを見て身慄ひした事、葬式の済んだ晩、母と妹と三人で黙りこくつてお膳を囲んだ時の、三角形の頂点が合はない様な妙にぎごちない淋しさ。――謙吉の追懐は風船玉の様に後から後から出来てはポカリ、ポカリと消えて行つた。

(小林秀雄「蛸の自殺」)

一般に、男子の青春が、父との対決を通して社会に対峙しつつ自立していく過程であるといってよければ、小林秀雄は、父との関係を経由することなく、何の庇護もないなかで、直接に社会との対峙を強いられ、その中で己の自立を図らねばならなかったということになる。漸次的に経験されるはずの人生の転機が一挙に訪れたわけだ。小林秀雄は父の死に際して「こんなに悲しいことはない」と言った。その悲しみは、四十六歳で死なねばならなかった父その人の悲しみであることは無論だが、同時に、自分の青春を青春たらしめてくれるはずの父という存在、それを唐突に奪われたという悲しみ、いわば青春喪失の悲しみでもあったのではないか。

小林秀雄にとって、ミッシャ・エルマンの思い出は、その鮮やかな切断面である。それは、なにかしら原点のような豊富さも含む歴史であった。

たしかルッジェーロ・リッチ13が、フィドル14は名人の楽器だ、と言っている。ヴァイオリンと身体の完全な調和。そういうことは、たとえば私などには、実際にステージを見ないとわからないところがある。まさに「名器を自在にあやつる名人の演技」に「目のあたり」接してはじめてわかるというわけだ15。小林秀雄もその夜帝劇のステージに、正真正銘の「名人」を見た。「ヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した」との述懐があるが、誇張のないところだろう。また、「人々の魂を奪う感動を創り出すのに、彼には民謡の一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである」とも言っている。もっともこれはパガニーニについての記述だが、この確信の起源こそ、まさしく帝劇のエルマンなのではないかと思う。マスネの瞑想曲、ドヴォルザークのスラヴ舞曲、ユモレスク……どれも名曲というのでは必ずしもないかも知れない。いや、名曲であるかどうかは問題ではないのだ。名人の名演であれば足りる。すなわち、曲目などなんでもよろしいということになる。さらに言えば、「一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せた」という、その「乗せる」という感じは、エルマンの演奏風景にぴったりだ。エルマンの弓のさばきというのか、その軽さは印象的である。弾きながら音楽に合わせてよく動く人だったようだが、そもそも弓の動きそれ自体が、もはや舞踏そのものである。

その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない、それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒してはくれなかった。

(「ヴァイオリニスト」)

我が国の音楽的光景においても、エルマンは一つの原点をなす。エルマンは、何といっても、日本にはじめてやって来た、掛け値なしに第一流のヴァイオリニストであり、名人である。そして彼に続いて、ジンバリストもクライスラーもハイフェッツもティボー16も来日したのである。その後の、戦争を挟んだ「十何年」の中断は、むろん不幸なことではあったが、それがかえってヴァイオリン音楽というものへの愛惜を、そして愛惜としての歴史というものを、ささやかながら教えてくれたことであった。


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1 Mischa Elman(1891-1967)

2 梶井基次郎(1901-1932)……『檸檬』の作家。梶井基次郎については、『梶井基次郎全集』(新潮社)、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(河出書房新社)を参照させていただいた。

3 梶井基次郎「檸檬」より。

4 Leopold Auer(1845-1930)……オーストリア・ハプスブルク家統治下のハンガリーに生まれた。同じユダヤ系マジャールのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟としてサンクトペテルブルク音楽院の教授を務め、後、ロシア革命を機に渡米。アウアーについては、角英憲訳『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)を参照させていただいた。

5 ウクライナ黒海沿岸の港湾都市。音楽院があり、ダヴィド・オイストラフをはじめ、多くの逸材を輩出した。

6 Aleksandr Glazunov(1865-1936)……作曲家。ロシア革命までサンクトペテルブルク音楽院の院長を務めた。手許の資料では院長就任は1905年。アウアーとエルマンとの出会いはその前年だが、アウアーの『自伝』には、エルマンの自分のクラスへの編入と奨学金の給付を求める推薦状を「……院長として音楽院を率いていた偉大なるアレクサンドル・グラズノフ」に宛てて書いた旨の記述がある。

7 Eflem Zimbalist(1889-1985),Toscha Seidel(1899-1962),Yascha Heifetz(1901-1987), Nathan Milstein(1903-1992)

8 Fritz Kleisler(1875-1962),Bronislaw Huberman(1882-1947)

9 Yehudi Menuhin(1916-1999)

10 Leopold Godowsky(1870-1938)……ポーランド系ユダヤのピアニスト。

11 Enrico Caruso(1873-1921)……イタリア・ナポリ出身のオペラ歌手。

12 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは、はじめレオポルト・アウアーに献呈されたが、アウアーは「演奏不能」としてこれを拒否したという。アウアーはこのことについて、作品には「大きな価値がある」ものの「まったく弦楽的な語法で書かれていない非ヴァイオリン的な箇所がいろいろとあった」ために「全面的な改訂の必要を感じた」が、その作業を「先延ばしにしてしまった」、「私が悪かったと率直に認めるものである」と前掲の『自伝』に記している。

13 Ruggiero Ricci(1918-2012)……アメリカ合衆国のイタリア系ヴァイオリニスト。

14 擦弦楽器、特にヴァイオリンを指すが、あえてフィドルというときには、その民族音楽との関係が強調されるようだ。ヴァイオリンは歌い、フィドルは踊る。

15 「名器を自在にあやつる名人の演技」およびそれに続く引用は、小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

16 Jacque Thibaud(1890-1953)……フランスのヴァイオリニスト。「最後に来たのはチボーだったが」とあるが、ティボー来日の翌1937年にエルマンが再訪している。



(了)
https://kobayashihideo.jp/2019-05/%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e7%b3%bb%e8%ad%9c-3/

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