777投稿集 2601124


考古学がロマンだった時代 _ 森浩一

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2022/06/12 (Sun) 06:19:29


考古学がロマンだった時代 _ 森浩一


倭人伝に見る対馬 森浩一 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0gRxgC5XORA


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http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report2017_17/2017massmedia.pdf

 よろしくお願いします。先ほどご紹介があった遺跡保存運動は重要です。平城宮跡での近鉄の施設
建設問題は、今回はおっしゃりませんでしたけれども、行政機関、当時の文部省、それから現在の文
化庁の前身のひとつである文化財保護審議委員会がこの近鉄の建設計画にゴーサインを出した。その
後で、この問題が新聞報道で明らかになった。そして先生方の中から保存に対するアピールが出てき
ました。それまでの行政の方向を逆転させたという、歴史的な運動でありました。

 森先生が一番お元気な 50 歳前後、私は 30 代前半で京都の支局に勤務していましたので、ご指導を
受け、いろいろなことをご一緒したことを中心にお話しします。

 日常的に文化財ジャーナリズムという言い方をするようになるのは 1972 年、奈良県明日香村での
高松塚古墳が見つかりましたのが、一つの大きな意味を持ちます。もちろん、それ以前から考古学関
係の一般的な報道はありました。あることはあったのですが、先ほどの近鉄の問題のような社会的な
事件になるようなものが記事になり、事件的な扱いが中心でした。ところが、高松塚古墳が発見され
て以降が考古学ブームと呼ばれるようになり、本格的な文化財ジャーナリズムが始まったとされてい
ます。

 その頃、森先生が終末期古墳を手掛けていらっしゃって、いろいろな論議がありました。その成
果を生かし真っ先に立ち上がって、先輩たちの論文も含めまして出された本がございます。それが
1972 年3月に高松塚古墳が見つかった直後といってもいい、翌年の 73 年4月に出ています。それが
『論集終末期古墳』という力作、名作であります。われわれも当時、試行錯誤していました。そのため、
これが新聞社やテレビ各社でテキスト代わりになっていきます。それまで終末期の古墳でまとまった
分かりやすい本というのはなかったのであります。そういう意味で私たちの取材のベースになるもの
を提起していただいた。メディアの側が幅広く森先生のお名前を知るようになる時期でありました。
 その直後ぐらいから文化財報道が盛んになるのでありますけれども、そうは言っても、高松塚古墳
が見つかったときには当初、いわゆる大騒動にはなっていないのです。新聞には一応出たのでありま
すけれども、最初は白黒の写真で何でもなかった感じでした。各社による新聞報道があった 3 日後に、
朝日新聞が壁画の内から1ページを使ってカラーで飛鳥美人図を紹介します。

 当時の新聞各社は、実はカラー印刷がほとんどできなかった時代でありました。極彩色の壁画なの
に、多くはカラーで報道するのを思いつくには至らなかったということです。ポジを入手いたしまし
て、一般の印刷会社でカラー印刷をしていただいて、それを新聞に折り込むということで、スタート
したのであります。これが脚光を浴びたて大騒ぎが始まりました。一つのスタートが切られるわけで
あります。

 ところがその当時でも高松塚古墳を全てのメディアが報道したかというとそうではないのです。当

当初、全く書かなかった会社もあるのです。そのような時代でした。他の新聞に出たものですから、慌
てて、追いかけて夕刊に出るとか、そういうことがよくあった、そのような時代でした。まだ牧歌的
な時代でありましたけれども、そのあたりから考古学ブームが始まったということでありました。
 
また話題になった高松塚古墳は、明日香村の中でもやや辺ぴな場所の小さい古墳であって、宮殿域
の中とかではなく、あるいは大古墳でも何でもない、そういう所からこういうものが出るのだという
ものでした。全国のどこにどのような文化財ニュースが眠っているか分からない。行政の側もそうで
したが、メディアでも専門的な勉強をした記者を採用したり、あるいは養成したりというようなこと
で、われわれの体制も作り上げられつつあった時期でありました。そうしている内に、例えば埼玉県
の稲荷山鉄剣が見つかります。そこには雄略天皇の名前が出てくる、鉄剣にそういう文字が刻まれて
いるということが分かった銘文の解読が 1978 年にありました。

 続いて 1980 年には、今日もご当主が来ていらっしゃいますけれども、京都のこの会場・同志社大
学の隣にある冷泉さんの古文書典籍などの調査公開がスタートしました。1983 年には、縄文時代の
重要遺跡であります石川県の真脇遺跡が発見され、同じ年に第 2 の高松塚と言われましたキトラ古墳
が見つかりました。このようにして、文化財が徐々にいろいろな大ニュースとして扱われることが始
まるわけであります。

 1983 年の真脇遺跡ですが、このときは前夜、森先生からご連絡をいただきまして、明日の北陸線
の特急に乗れと、何時何分京都の列車だとご指定されました。「何ですか。」と言ったら「乗れば分か
る。」大体先生はそういうことが多かったのです。「梅原猛さんも行くんや。」ということでした。「梅
原さんが何で?」と言うと、「最近縄文に凝っていてなあ。」能登半島の七尾湾に面した所に真脇遺跡
というのがありまして、そこにお二人に連れられて行くわけです。行ってみて驚きました。縄文人の
イルカ漁の遺物群、それから祭りの跡、巨大な木の柱を環状にめぐらした、のちにウッドサークルと
命名されます。そういった変わった、北日本との関係がうかがえるような遺構が出土していました。
後には、この遺跡から木のお棺ではないかといわれている、確実に板を下に敷いている墓も確認され
ます。縄文時代はそのようなものはありません。

 こうして地元を担当している熱心な記者と共に、真脇遺跡を紹介するわけであります。そのいきさ
つは次の通りです。当時、田んぼの区画整備事業をやっているうちに縄文土器などがたくさん出てく
ることが、北陸考古学会に伝わる。そして考古学を学んだことがある地元の高校教師が責任者となっ
て発掘調査が始まっていた。石川は考古学ファンの方々が厚い層をなしている地域で、当時の支援学
校の先生が会長をやっていらっしゃいました。いわゆるアマチュア団体が森先生に情報を提供し、そ
こから始まっていったのです。平地というか、田んぼの少ない能登での開発と遺跡保存が問題として
浮上していたのです。

 森先生は大体遺跡の概要をよくご存じでした。タイミングを見て行動に当たれば、結果的には保存
に結び付くのではないかという期待からだったのでしょうが、我々にも教えていただいた。結果的に
はリークの形になったということでありました。

 ところで、森先生はあらゆる遺跡、時代を問わず手がけられるわけでありますけれども、やはりこ

れは縄文で、私がいろいろ言うのはおかしいという人もあるだろうとおっしゃいまして、國學院大学
の小林達雄さんを紹介されました。その後、小林先生が中心になって遺跡の保存と整備があって、現
在も計画的な調査が続いています。そして当初から計画的に調査の現場がそのまま公開展示されてい
ます。そして公園化され、温泉も見つけて、真脇遺跡の周辺は能登半島では一大観光地になっている
わけであります。先生たちによって重要な遺跡が広く社会に紹介される。これが遺跡の保存につなが
る。そういうスタートが切られた、余り知られていない一つのエピソードでもあります。

 先ほど、宮川さんのお話では、保存運動が一つのキーワードでありました。とりたてて「保存運動」
という言葉を森先生はあまりおっしゃらなかったようです。ただ、それは表向きの、活字になってい
るものでということでありましたが、保存運動という言葉自体が新しかった。開発ブームに伴う、遺
跡の記録を追いかけるのが精一杯な時代であったということでありました。

 ちょうどそのころ、先生は私たち新聞やテレビなどの記者たちを集めて出版計画をしまして、日本
の遺跡発掘物語というシリーズものを出します。社会思想社から出たもので、1983 年から 1985 年に
かけてであります。これが非常に面白いのは、県紙といいますか、例えば京都新聞のようなところで
ありますけれども、地域紙も含めて新聞各社、テレビ、通信社、そういったところの文化財報道に携
わることが多い記者たちを、のべ 60 人ぐらいを動員しまして、それまでの重要遺跡の発見を紹介す
る内容でありました。遺跡はざっと森先生が選ばれて、原稿の分量とか締め切りなどは、出版社の担
当の方が指示されて、それで「内容は全部君たちに任す。」というわけです。分量さえ決まっていれ
ばどうにかなるだろう、というようなものでありましたけれども、そうはいきませんから、森先生に
相談するわけです。

 先生は「誰か権威者の見解を借りるだけではなく、もちろん客観的なデータを抑えないといけない
けれども、自分たちの考えをそこにどう盛り込んでいくかというのを工夫したらいい。」とおっしゃる。
もう一つは、「その遺跡がどのようにして見つかって、現在どのようになっているか、ということを
付け加えたらいい。」ということでありました。つまり、保存されているかどうか、ということです。
それから、その遺跡の発見者は誰であって、それをどのような形で調査に持っていって、遺跡として
認識されるに至ったかというプロセスを最低限、書いてください、というご指導でした。

 結果的にその中から我々が学んだことは、報道する以上責任を持てということであったと思います。
後々それがどうなっていくかということをしっかり見守ってほしいということです。私は大阪の社会
部に居て、岸和田や堺の方面を担当することもありました。森先生ほか石部、宮川先生をはじめとす
る方々が、泉州の文化財の保存運動を始められ、さらに全国的な保存運動に発展させ始めた注目の場
所です。その最初の頃の担い手の一人でありました森先生が、特に若手を中心にしていろいろな方々
を紹介してくれました。文化財と自然を守るというスローガンが流行った時代でありました。そういっ
た分かりやすい形で遺跡を守るための関心を呼び起こし、打ち出してくれたのも森先生だったのです。

 遺跡発掘物語を進める中で、各マスメディアの記者たちが、それぞれの会社の壁を乗り越えて仲良
くしたりするような、そういう一つの流れ、80 年代の大きい流れが出てくるのであります。しかし、
マスメディアの一つの問題点が当時出てきます。メディアは競争関係にあるわけです。ですから、競

争が行き過ぎて、ずさんな報道合戦になりやすい訳です。それからもう一つは、手っ取り早く報道す
るために、有名大学の有名な先生の名前を利用する、その一言で決定的に印象づけてしまうという、
権威主義的な報道にも陥りやすい面がありました。

 森先生がマスコミ考古学とおっしゃる場合はたいがい、非難が込められていました。お酒を飲んだ
時でもマスコミ批判になるのですけれども、マスコミ考古学とおっしゃったときにはびくっとしま
す。何の理由もなく三角縁神獣鏡がある所が邪馬台国だというような言い方、そういうような見出し
になったりもする。結果的に、それを推進している連中、特に国立大学、あるいは国立研究機関系の
人たちの強い主張に乗ってマスコミが展開するときに、マスコミ考古学という話し方をされました。
 
私たちも、危ないと思っていたことでもありました。結局、森先生が当時おっしゃりたかったのは、
特に新聞はいろいろな功績も大きいけれども、戦時中などに問題を犯してきた歴史があるということ
でした。また、自らが携わっていることですから、それをあまりにも過大評価して、それで確定的に
なったかのような報道になりがちだということです。そういう報道、その整理の仕方を利用して、一
定の方向付けをしていく例が多いということをおっしゃっていたと思います。

 もう一つ、これは有名な日本の古代遺跡シリーズであります。保育社から全部で 50 巻以上出たの
です。1982 年から 1997 年ぐらいにかけまして、あと一歩で全部完成するところでした。これには、
全国各地の文化財行政をされている担当者の方や先生方、あるいは地元の小中学校教師をつとめてい
る研究者らを動員して、それぞれ都道府県シリーズで別に史跡を紹介する内容でありまして、それま
で基礎的な分かりやすい本がなかった中で、これは一つの基礎を作ったものでありました。

 それから、年末に朝日新聞から出版させていただいていたアサヒグラフ『古代史発掘総まくり』は
1978年からです。これが 2000年で一応休刊ということになっています。しかしその後も時々、何かあっ
たときに出ています。森先生がこれらの全体的な総指揮官として当たられました。そういう形で、朝
日新聞だけでもそういう大変なご指導をいただいたのでした。

 先ほどの真脇遺跡のこともそうでありますけども、当時私たちはどこへ行っても森先生が現場に来
ているということで、現場の三傑という言い方がありました。森先生が一番多いのですが、今の兵庫
県の考古博物館の館長をされていました石野博信先生、それから今はリタイアされましたけれども、
国立歴史民俗博物館にいらっしゃいました春成秀爾先生、この3人がどこへ行っても会う三傑と言わ
れていました。それほど現場が好きで、現場に必ずといっていいほどいらっしゃいました。

 しかし森先生は授業に絶対穴をあけない。そのころまだ各地に夜汽車がありまして、急行とは名ば
かりの鈍行みたいな夜汽車で、よく徹夜で各地を、特に日本海側の遺跡にはそれで行っておられまし
た。50 歳を過ぎても、そういう困難なことをやっていらっしゃいました。そういった形での遺跡の
調査、史跡の行脚を何の苦もなくやってのけていらっしゃったというのが私たちの印象でありました。
 その他、年末にいつもやられるようになりますけど、東アジアの古代文化を考える大阪の会で毎年
の総括的な講演をされたり、あるいは愛知県の春日井シンポジウムで、市民向けの活動に参加された
りしています。いろいろな市民向けの講座とか、マスメディアに登場されるときには、権威主義に対
する反発を延べられる。しかし実は先ほどの梅原さんとは後に梅原さんが日文研の所長になられてか

ら、ちょっと疎遠になられます。でも梅原さんをはじめ、上田正昭さん、井上光貞さん、大林太良さ
ん、岸俊男さん、江上波夫さん、佐原真さん、福永光司さん、水野精一さん、といった京大や東大系
の方々と結構、親交を続けられておられました。ご本人が時々酔っぱらって「国立とか権威は嫌いだ。」
とおっしゃる割には権威者も多く、ご本人がおっしゃるほどの徹底的な権威ぎらいではないというこ
とも分かりました。

 その他、森先生には例えば権威的な考古学の元祖としての浜田青陵批判があります。浜田さんが亡
くなって今年でたかだか 77 年目なのです。日本考古学はこのように短い歴史なのです。しかも体系
的な日本考古学は戦後から始まっただけです。そして、皆がごく身近かく感じるようになったのは近
年、新聞やテレビでよく出てくるようになったのは高松塚以降なのです。

 その歴史は、森先生が深く担ってこられたということです。いうならば、先生が一つの権威ではあっ
たわけであります。私は、森先生に「あなたも権威では」と問うと、あまりいい顔をされませんでし
た。仕方なさそうに「権力が伴う権威ではない。」と主張されました。もちろん生前、森先生が権威
であると新聞で書いたことはないのです。森先生は自由闊達な、大きな存在だったというのがぴった
りだと思います。

 亡くなられる前の 2012 年に、森先生は三つ講演会をやっていらっしゃいます。一つは大阪でやら
れました『海でつながる倭と中国』。もう一つは、春日井シンポジウム、『この国の歴史と形-東海を
視座にすえて-』というものでありまして、11 月が南方熊楠賞講演でありました。これは全て奥さ
んもご同行されたようであります。

 最後の大阪での講演会でご一緒したのでありますけれども、そのとき邪馬台国問題を取り上げるの
に当たって、特別講演の魏志倭人伝は、講演ではなくて講義という形のお話をしていただきました。
もう一つの春日井シンポジウムは基本的なところをやられていまして、先生は特に晩年になられてか
らは、「全て一からもういっぺんやってみようやないか」という姿勢を打ち出されるようになってい
たと思います。

 先生が体を壊された何十分の1かの責任は、私たちにもあるわけであります。けれど、その割に私
たちは自分勝手なことを申し上げて、あまりお手伝いすることができなかった。先生がいつも気になっ
ていらっしゃったのは、権威的で行政中心の風潮、発表ジャーナリズムが増えているのではないか。
どこの新聞もどこのテレビも大体同じような官報みたいだなと批判されていました。これは、バリエー
ションのある報道をすると、最近では、なぜ朝日新聞だけそんな変わったことを書くのかという、苦
言が来るのです。そういうことも面倒なものですから、ついどこも同じとも見える報道になりがちな
面が背景にあります。最近、さらに一方的な歴史認識のかたがたのクレームもあります。新聞なども
かつての勢いはありません。メディアにも盛衰があります。片方でせっかく 80 年代以後、森先生た
ちに頑張っていただいていて市民権を得つつあった文化財ジャーナリズムが、やはり一つの曲がり角
に来ているということであります。

 もう一つは、先生がいつもおっしゃいましたけれど、ちゃんとした日本考古学をつくらないといけ
ないだろうということであります。そのために先生の、私たちに対する指導もあったわけでありま

す。先生も自分自身がどういう役目を担っているかということをよくご存じだったと思います。その
中でも、私たちに対する文化財ジャーナリズムの先生であったわけであります。森先生のような文化
財ジャーナリズム、メディアの指導役もされる方々が、今後も続いて出ていらっしゃることを期待し
たいのであります。

 今から考えますと、森先生は開拓者の時代の幸運な方だと思っています。そして森先生がいらっしゃ
らなかったら、日本考古学はどうなっているのだろうかということを時々思うのであります。日本考
古学の中でゆるがせにできない、多くの業績を積み上げられてきたことは確かであります。先生はい
ろいろなことをおっしゃりたかったようで、「三角縁神獣鏡が棺の外にあるのに何でこれがそんな重
要なものか。あれほど島根県で青銅器が見つかっているのに、なぜ近畿から青銅器を全国的に配った
といえるのか。」ということを、盛んにおっしゃっていました。

 そういったことを自由に、新聞にも建設的なクレームをつけていただいて、我々も今日に至ったと
思っています。先ほど申し上げたように私たちは曲がり角に来ている、文化財関係の報道も危機的な
岐路に立っているが今の段階だと思います。決して私たちは十分にやってきたとは思っていません。
 しかし森先生は間違いなく、寺沢薫・知子さんをはじめ、優れた多くの研究者を育て、宮川さんや
文化財行政の関係者、そういった方々の中に自立した考古学の同志を作り、確かな考古学、古代史の
ファンを作っていった。そしてこういう人たちの中に今も、森先生が生きていると思っています。
 
少し時間がオーバーしましたけども、これで終わらせていただきます。どうもありがとうございま
した。
http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report2017_17/2017massmedia.pdf


2:777 :

2022/06/21 (Tue) 22:12:00

あげ2

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