777投稿集 2450403


テレビドラマ 零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】(テレビ東京 2015年)

1:777 :

2022/06/11 (Sat) 10:55:54


テレビドラマ 零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】(テレビ東京 2015年)


原作:百田尚樹『永遠の0』(太田出版)
脚本:櫻井武晴
監督:佐々木章光
音楽:栗山和樹
主題歌:MISIA「桜ひとひら」(アリオラジャパン)
ヴォカリーズ:幸田浩子(東京二期会)
制作:テレビ東京、テレパック


動画

「永遠の0」第1夜
https://www.dailymotion.com/video/x7y93vz
https://www.dailymotion.com/video/x7ydbw6
https://www.dailymotion.com/video/x7ydbw7


「永遠の0」第2夜
https://www.youtube.com/watch?v=_SD62kSz7ws

https://www.dailymotion.com/video/x887509
https://www.dailymotion.com/video/x7yginc


「永遠の0」第3夜
https://www.dailymotion.com/video/x7ygind
https://www.dailymotion.com/video/x7ygine
https://www.dailymotion.com/video/x888yza


終戦60年を翌年に控えた平成16年の夏。弟の健太郎(桐谷健太)は姉でフリーライターの佐伯慶子(広末涼子)に誘われ、慶子の恋人で新聞記者の高山隆司(山口馬木也)が進める「終戦六十周年プロジェクト」のため、自分たちの祖父・宮部久蔵(向井理)について調べ始める。祖母の松乃が6年前に亡くなった時、祖父の大石賢一郎(伊東四朗)は、自分は健太郎と慶子の本当の祖父ではないと告げた。母の清子(高畑淳子)も実の父親について、戦死したことくらいしか知らないという。慶子が厚労省に問い合わせたところ、宮部は神風特別攻撃隊として終戦間際に南西諸島沖で戦死したと、たった一行記されているだけだった。戦友会を調べ、当時の宮部を知る人物を探すと、長谷川梅男(笹野高史)という男から返事をもらう。長谷川を訪ねた2人は左腕を失った姿の長谷川に息を飲む。



テレビ東京開局50周年特別企画として、2015年2月11日 20:54 - 23:18、14日 20:58 - 23:14、15日 20:54 - 23:24の3夜に渡って放送された。視聴率は第1夜が9.0%、第2夜が7.5%、第3夜が9.9%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)でいずれも2ケタには届かなかったものの、テレビ東京の高橋雄一社長は「非常によく作られていたし、こうした骨太のドラマをやりきったという点では評価している」と前向きなコメントを出した[21]。


キャスト
宮部久蔵 - 向井理
宮部松乃 - 多部未華子/上月左知子(現代)
佐伯健太郎 - 桐谷健太
佐伯慶子 - 広末涼子
長谷川梅男 - 中尾明慶(戦時)/笹野高史(現代)
伊藤寛次 - 千原せいじ(戦時)/津嘉山正種(現代)
井崎源次郎 - 満島真之介(戦時)/近藤正臣(現代)
永井清孝 - 賀来賢人(戦時)/小林克也(現代)
谷川正夫 - 金井勇太(戦時)/石橋蓮司(現代)
武田貴則 - 工藤阿須加(戦時)/山本圭[22](現代)
景浦介山 - 尾上松也(戦時)/柄本明(現代)
村田保彦 - 渡辺大(戦時)/竜雷太(現代)
小山實 - 石黒英雄
東野二飛曹 - 澤部佑
遠藤一飛曹 - 阿部亮平
酒井一飛曹 - 橋爪遼
大久保整備兵 - 高畑裕太
岡崎二飛曹 - 池田大
今野二飛曹 - 岡﨑育之介
吉田大尉 - 奥野瑛太
斎藤中尉 - 永嶋柊吾
内田飛曹長 - 須田邦裕
司令官(大佐) - 木下隆行
中尉 - 緋田康人
六藤学 - 大和田健介
藤木秀一 - 原田泰造
高山隆司 - 山口馬木也
佐伯清子 - 高畑淳子/渡邉このみ(幼少時)
大石賢一郎 - 中村蒼/伊東四朗(現代)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE0
 
2:777 :

2022/06/11 (Sat) 10:58:36

映画『永遠の0』ラストシーン
https://www.youtube.com/watch?v=2OFEgOsA5mE

映画『永遠の0』映像集
https://www.youtube.com/watch?v=1vaBEwjncoc


【すごい日本人】零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!遺書に認められた決意とは!
https://www.youtube.com/watch?v=nSXUPatpZus

映画『永遠の0』のラストシーン。零戦を操るパイロット・宮部久蔵は特攻隊として出撃します。これは実在した零戦搭乗員がモデルとなっていると言われています。その男の名は富安俊助。富安中尉は、日本軍を苦しめた米空母エンタープライズをたった一人で大破炎上させました。今回はその栄誉ある活躍を紹介したいと思います。


永遠の0 零戦21型の空母突入シーン 【WarThunder】
https://www.youtube.com/watch?v=hXSBdydZHKw


WT短編映画「Divine Wind ~ たった一人で成し得た偉業」Fighter's Episode.03 Special
https://www.youtube.com/watch?v=z4rO2C4TYu8


《永遠的0》-永遠の0 最後一段
https://www.youtube.com/watch?v=2OFEgOsA5mE


【永遠の0】最後に主人公が笑った理由【岡田斗司夫 切り抜き】
https://www.youtube.com/watch?v=a8LuR-9de-0

【目次】
00:00 映画版「永遠の0」
00:36 飛行技術説明
01:25 ゾクゾクしたシーン
02:23 主人公の覚悟
02:51 山崎監督の撮影技法
03:42 東洋の”縁”に近い人生観
04:41 ラストの主人公が笑う理由
05:33 男として
05:55 百田さんの原作では描けない理由


零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助。アメリカ軍を恐怖に陥れた衝撃の最期! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fWvcahy2Hg0


永遠の0 空母突入シーンのモデル?「エンタープライズ(CV-6)」と富安俊助 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aPG0NWISXh8


伝説のゼロ戦(零戦)パイロット感動の総集編!永遠の0(ゼロ)のモデル富安俊助、坂井三郎、岩本徹三、指宿正信 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8ykkwjDTQCw

今回は過去の零戦(ゼロ戦)の動画の総集編です。
伝説のパイロット達の日本を守る覚悟をぜひご覧下さい!

0:00「ホワイトゼロファイター」の正体に涙が止まらない…!伝説のゼロ戦パイロット・坂井三郎の信念
16:32【すごい日本人】零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!遺書に認められた決意とは!
29:54【すごい日本人】神風特別攻撃隊の指導者にして凄腕の零戦パイロット・指宿正信大尉。戦後、航空自衛隊に命を捧げた武人の最期!
46:43すごい日本人【零戦・軍人の泣ける話】坂井三郎の名言に感動!「大空のサムライ」に記された 零戦への熱い思いと奇跡の生還
1:00:06【すごい日本人】最強の零戦撃墜王・岩本徹三が訴え続けたエースパイロットの信念とは!


▲△▽▼


DIVINEWIND ~神聖な風~                    第六筑波隊隊長  富安俊助中尉

【はじめに】
 1945(昭和20)年5月14日午前6時56分,Big-Eと呼ばれたアメリカ海軍の象徴的航空母艦エンタープライズ(CV6 )に,1機の零戦が体当たりし,大破させた。その結果エンタープライズは米本国へ修理のため曳航され,二度と戦列に復帰 することはなかった。米軍はこの特攻機の冷静沈着かつ,最期の瞬間まで強い意志を感じさせる行動に感懐を覚え,他の KAMIKAZEとは区別してDIVINEWIND,神聖な風と呼んだ。この零戦にはだれが乗っていたのか,そして出撃から突入,さらには 戦後の今日に至るまで,どのようなドラマがあったのか。

【Big-E 空母エンタープライズの受難】
 TF58(Task Force58 =第58任務部隊)は5月14日に大きな被害に苦しむこととなる。夜が明けてまもなく,26機の日本機が来襲して来た。 6機が対空砲火で撃墜され,19機がCAP(上空哨戒機)によって撃墜された。だが,0656(午前6時56分),これらをすり抜けて きた生き残りの1機がエンタープライズの前部エレベータの後部に突入した。それはエレベーターホールを吹き飛ばし,飛行 甲板の大きな張り出し部分を持ち上げた。爆弾は飛行甲板を突き抜け,そこから 50フィートも奥(3階下のフロア)の船の深部に達して爆発した。エレベーターは破壊され,その部品 (飛行機を載せて上下する板状の台)は400フィート(130メートル)の上空まで吹き上げられた。格納甲板の前部とエレベーター 室に火災が発生した。火災は短時間で制御可能の状態になり,30分で鎮火した。物的大損害の割には人的損害は比較的に軽微 で,13名が戦死し,68名が負傷した。エンタープライズは大修理のため,海軍工廠に送り返さなければならなかった。米軍の あるパイロットは,この日の戦闘状況をつぶさに書いているが,この零戦はCAPや弾幕にやられそうになると雲の中に隠れ,時 々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認し,すぐそばまで近づいてからダイブ(急降下)を始めた。高速,機首上げ でオーバーシュートしそうになると背面飛行を行って修正し,母艦の最も弱点とするエレベーターめがけて突入している。エ ンタープライズは大破炎上し戦線離脱を余儀なくされた。彼はこれまで日本海軍の先輩ベテランたちがよってたかって 3年かかってもできなかったことを,たった一人で一瞬の間にやってのけたのだ,と称賛の言葉を述べている。また別の者は, この特攻機をDIVINEWIND(神聖な風)と呼び,他の特攻機と区別している。いわゆるカミカゼが無謀という意味合いを含むのに比し,この零戦の類まれなる計画性と巧妙精緻な技術は米軍に特別な尊敬の念と大きな感動を抱かせたともいえる。

50番爆装した富安機(零戦五二型丙)
富安機により大破したエンタープライズ

【搭乗員確認の経緯】
 ことの発端は海兵77期出身の菅原完氏が,海兵63期の中井一夫氏の戦績についてアメリカ側の関係者に 取材している時,アメリカ側から「1945年5月14日0656(午前6時56分),トミザイという中尉が零戦の特攻機 (爆戦)でエンタープライズに突入しているよ」と知らせてきたことから始まった。突入のあった5 月14日夕刻,エンタープライズでは,特攻機の突入によって戦死した13名の乗組員を星条旗で包んで水葬にしたあと,特攻隊 員も艦尾から水葬にしたとのことである。その際遺体の飛行服の階級章から海軍中尉であることが判り,ポケットに入っていた複数の名刺から,日系二世の通訳がtomi-zaiと判読したそうである。 ところで当日,爆戦で未帰還になった者の中にトミザイという名前はない。一体誰だろう,ということで,日米双方で確認調 査が始まった。防衛研究所の資料によれば,当日未帰還になった爆戦搭乗員の中尉は4名で,そのうちの2名はエンタープライ ズへの突入のあった0656には別の場所で生存中だったことがわかり,あとの2名は第6筑波隊の富安俊助中尉と第11建武隊の楠 本二三夫中尉であった。このことから,トミザイはトミヤスに違いないと判断されるに至った。日本側では富安中尉(戦死後 少佐に特進)の遺族,秀雄氏(弟)と白鴎遺族会,筑波海軍航空隊記念会が相談した結果,富安機の破片を返してもらおうとい うことになり,菅原氏を日本側の窓口として交渉することとなった。

【友部町歴史民俗資料館特別展】
友部町(現笠間市)では,2003年8月,「筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊-平和への願いを込めて-」と題する特別展を開催した。 中央公民館1階ロビーにて,零戦の破片,突入機搭乗員であった富安俊助海軍中尉(予備13期)の遺品・遺書を中心に展示, 元筑波空操縦教官で神雷部隊桜花隊分隊長,海軍大尉だった林冨士夫氏(海兵71期,元航空自衛隊一等空佐,筑波空記念会会長)による, 「特攻の起源と筑波海軍航空隊」と題した講演が行われた。なおこの講演会には約140名が出席(定員150名)している。

「平和への願いをこめて  このたび友部町立歴史民族資料館特別展として,「筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊―58年ぶり日本へ,空母エンタープライズに突入した 零戦の破片」展を開催いたします。  太平洋戦争の最激戦地沖縄周辺のアメリカ軍に,神風特別攻撃隊の攻撃が繰り返されました。昭和20年(1945)5月14日,第6筑波隊の富 安俊助中尉の零戦がアメリカ軍の猛攻をたくみにかわして,空母エンタープライズに突入しました。この突入で乗組員14名が戦死,60名が負傷しました。輝かしい戦果をあげ ていたエンタープライズは,再起不能に陥ってしまいました。

 エンタープライズの乗組員ノーマン・ザフト氏が,突入した零戦の破片とプロペラの一部を所持していました。 ノーマン氏は,長い間,日本やカミカゼに対して良い感情を持っていませんでした。それは,氏の同僚3名が戦死したからです。50年以上たって,この悪感情も薄れ,2個の貴 重な思い出の品のうち,零戦の破片を日本の遺族に返還することを決意されました。

 日米の友人を通して,零戦の搭乗員とその遺族の調査が進められ,今年搭乗員が富安 俊助尉,遺族が東京にいることが判明し,7月上旬,零戦の破片が返還されました。

 この展示会は,富安中尉の遺族富安秀雄氏,筑波海軍航空隊記念会林冨士夫氏,木名 瀬信哉氏,白鴎遺族会野崎武治氏,返還の交渉に当たられた菅原完氏のご好意で,富安中尉が所属していた筑波海軍航空隊のあった友部町で開催する運びとなりました。

  この小さな破片から,わたしたちは歴史の重み,人命の尊さを痛感いたし,平和への願いをこめて,生命の大切さのメッセージとして,この展示会を開催いたします。」


【海外誌にも掲載】
 U.S.NAVAL INSTITUTE(USNI)発行の『NAVAL HISTORY』誌2008年4月号には,「Who Knocked the Enterprise Out of the War?」と題し,8ページにわたる詳細な記事 を掲載している。菅原完氏が寄稿したものである。エンタープライズはアメリカ海軍の象徴的空母であり,数々の戦歴を残してきたにもかかわらず,富安中尉の攻撃による大破 で,戦列を離れたばかりか,3ヵ月後の8月15日,第二次世界大戦の全戦線での戦闘終結により,1947年の退役,1960年5月の解体まで二度と戦闘に参加することがなかった。ちな みに世界初の原子力空母となったCVN65に,Big-Eの愛称と共にエンタープライズの名は受け継がれている。 そのこともあってか,戦後63年を経過した今日でさえ,エンタープライズを大破させた特攻隊員,Real Tomi-Zai,すなわち富安中尉に対する特別なものがあるのではないか。


【富安俊助中尉の遺書】​
 父上様
 母上様

 突然,某方面に出撃を命ぜられ,只今より出発します。

 もとよりお国に捧げた身体故,生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。

 御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。

 私が居らなくなったら淋しいかも知れませんが,大いに張切って元気で暮らしてください。

 心配なのは皆様が力を落とすことです。

 海軍に入る時に,当然死を覚悟していたのですから,皆様も淋しがることはないと思います。

 秀雄には便りを出す予定ですが,家からもよく言ってやって下さい。

 近藤中尉が訪ねていく予定故,会ってやって下さい,

 では

 大いに頑張りますから,その点御安心下さい。                  俊助

〔予備学生13期,早稲田大学政治経済学部〕
富安俊助 海軍中尉


参考文献
『第二次世界大戦における米海軍作戦史 第14巻  Victory in the Paciffic第16章 May days at Okinawa第2節 The Fast Carrier Force 』米海軍中将サミュエル・エリオット・モリソン
『筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊』
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課から加筆引用
https://uptheriver0405.wixsite.com/mysite/blank
3:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:30:22


神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた


特攻作戦を主導した昭和天皇

特攻第一号神風隊の関大尉の別れの杯、

特攻隊員に対する昭和天皇の「よくやった」というお言葉

を隊員に紹介する隊長、「見事に死んでもらいたい」と訓示する上官、そして

昭和天皇は大元帥であったことを再確認する馬に騎乗し閲兵する姿
http://anarchist.seesaa.net/article/49087839.html


最初の特攻であった、海軍神風特別攻撃隊の隊長である関大尉。

戦後出版されてきた、捏造戦記では、特攻を命ぜられて、すぐに

「ぜひ、私にやらせてください」

と答えたなどと都合よく書かれていたが、実際は違った。

「一晩、考えさせてください」

と言ったのが真実。今も昔も変わらない。上司からの命令は絶対であった。雪印や三菱のような不祥事が続く悪しき温床は、昔から続いている。

艦爆乗りで腕に自信があった彼としては、戦闘機零戦に乗ること自体が納得いかず、特攻は新婚の兵士に命ぜられることはないと聞いていたので、がっかりしたというのが本音であった。

実際、彼は同盟通信特派員につぎのように語っている。

「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。

ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA(妻)のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」


まったくもって無念であったろう。彼は、戦死するが、みごと軍神となった。残された貧しい母は軍神の母となって、絶望的な戦局の中、国民を欺くプロパガンダに利用された。敗戦となると、あれほど近所から尊敬された『軍神の母』は、周りから罵声を浴びせられ、ひどい仕打ちを受けたそうだ。
http://www.asyura2.com/0406/war57/msg/880.html 


▲△▽▼


特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
http://blogos.com/article/270009/

フィリピンの基地から出撃した陸軍特攻隊「万朶隊」の佐々木友次伍長機(写真=佐々木友次氏提供)

「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人がいます。名前は佐々木友次。作家・演出家の鴻上尚史さんは、92歳の佐々木さんに5回会い、その証言を著書『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)にまとめました。鴻上さんは取材を通じ、「志願して死んでいった」という話は、特攻を「命令した側」の見方だったのではないか、と考えました――。


※本稿は、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)の第4章「特攻の実像」を一部再編集したものです。

■「命令した側」が作り上げた特攻隊のイメージ

佐々木友次さんの人生を知ることは、特攻隊を理解していくことでもありました。

調べれば調べるほど、「特攻隊とはなんだったのか?」という質問は成立しないと考えるようになりました。

特攻隊は「命令した側」と「命令された側」があって、この両者をひとつにして「特攻隊とはなんだったのか?」と考えるのは無意味だと思うようになってきたのです。

「特攻隊は『志願』だったのか、『命令』だったのか?」という今も続く論争も、この二つの視点を明確にしなければ、意味がないと考えるようになりました(佐々木友次さん達『万朶隊』(※)は明確に「命令」でしたが)。

※編注:佐々木さんは日本陸軍の特攻隊『万朶隊』の第一回出撃隊に選ばれた。

『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。

英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。

それには、第2章で紹介した関行男大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。

深夜、寝ているところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井浅一中佐は、肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、


「『零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?』

と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。(中略)目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。―一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……

と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

『ぜひ、私にやらせてください』

すこしのよどみもない明瞭な口調であった」

陸軍の『万朶隊』のように、いきなり体当たりを命じられてはいません。

これを「志願」という人もいるかもしれません。けれど、厳しい階級社会の軍隊において、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか?」と言われて断るのは本当に難しいと思います。

ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜のやりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。

のちに、僧侶になった元副官の玉井氏が、関大尉の中学時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」と証言していたのです。

また、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀 文春文庫)には、同じことを猪口参謀が大西中将の副官だった門司親徳氏に戦後、話したと書かれています。

「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、できれば、明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。

そして、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。

これは、「志願」のふりをした「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。

■『神風特別攻撃隊』の多数の欺瞞

『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。

初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。


「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成である。かれらは若い。(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」

ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。


「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」

玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。

反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、

「行くのか行かんのか!」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。

それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。

玉井副官は、その風景を見て「よし判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人社NF文庫)。

それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。

「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。

けれど、やはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、

「志願制を取るから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。

中島だけに分かるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います。

当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団指令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。

■なぜ部下の内面に一歩も踏み込まないのか

『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。

酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやって下さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。

隊員達の状態は次のように描写されています。


「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とがからみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。

こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

死ぬことが前提の命令を出す指揮官が、「動揺するようである」という、どこか他人事と思われる推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。

猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。

どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。

けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦悩も見せないのです。それは、今読み返してみると、異常に感じます。

隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。

特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。

大西瀧治郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。

■秘密裏に「回収」された隊員たちの遺書

2012年8月28日に放送されたNHK『クローズアップ現代』は奇妙な内容でした。海上自衛隊第一術科学校の倉庫の奥深くから大量の特攻隊員の遺書が見つかったことが始まりでした。

鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E6%AD%BB%E8%BA%AB%E3%81%AE%E7%89%B9%E6%94%BB%E5%85%B5-%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%8A%E5%AE%98%E3%81%AB%E5%8F%8D%E6%8A%97%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%B4%BB%E4%B8%8A-%E5%B0%9A%E5%8F%B2/dp/4062884518


なぜここにあるのかと調べていくうちに、1949年(昭和24年)、特攻隊員の遺書を遺族から回収して歩いた男がいたことが分かります。男は、特務機関の一員だと名乗り、このことは口外しないようにと遺族達に言いました。もちろん、戦後ですから、もう特務機関などというものは存在しません。

集められた遺書は、1000通余り。2000近くの遺族を訪ね歩いていました。どうしても遺書を渡すのが嫌だと拒否した場合は、その場で書き写したそうです。けれど、多くの遺族は従いました。

発見された遺書を初めて見た遺族が番組で紹介されていました。両親が死に、遺書を渡していたことを知らず、初めて兄の自筆の遺書を見た妹でした。

60年以上、大切な遺書は倉庫の奥で忘れられていたのです。

遺書に押されていた「二復」の文字から、この男は海軍を事実上引き継ぐ組織である「第二復員省」から情報をもらって遺族を訪ね歩いていたと分かりました。

その男と頻繁にやりとりをしていたのが猪口力平でした。

なんのために遺書を集めたのか、何が目的だったのか。

1951年(昭和26年)、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた時に、『神風特別攻撃隊』は、その風潮に対抗するように出版されました。

この本の中には、特攻が現場の兵士達の熱望によって生まれ、出撃の志願者が後を絶たなかったということの裏付けとして、遺書7通が引用されています。

これらは、すべてこの時に回収された遺書でした。

猪口は、本の中で「海軍の特別攻撃隊員の慰霊巡拝のため、全国を行脚して歩いた篤行の士に、近江一郎という人があったが」と書き、彼が連絡、送付してくれたとして、遺書を紹介しています。「慰霊巡拝」の人物が、特務機関から来た、口外しないようにと遺族に言って回ったというのですから、不思議な話です。

番組に出た専門家は、どうしてこんなことが起こったのかという番組の問いに対して、こう考えを述べました。

この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。

その時、唯一、海軍としては軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があったのではないか。

なので、日本全国の遺族の手元に遺書があると、これは孫の代になっても、ひ孫の代になっても、自分の祖父は、曽祖父は、こういう形で死んだんだというのがずっと残る。海軍はそれがつらかったんじゃないか。

と、分析しています。

真相は闇の中です。

■遺書に本当に書きたかったこと

本の中で紹介されている遺書は、「戦場における異常心理」などに支配されず、「意外なほどしずかな落着いた精神のたたずまい」が見られると猪口は解説しています。

けれど、遺書に本音が書けなかったことは、少し調べればすぐに分かります。

特攻が「志願」だったと強調する人は、特攻隊員の遺書や遺稿に溢れる「志願」「喜び」「熱意」を根拠にしますが、それは当時の状況を無視しすぎています。

『死にゆく二十歳の真情 神風特別攻撃隊員の手記』(読売新聞社)の著者、元特攻隊員の長峯良斉氏は「(遺書は)それが必ず他人(多くの場合は上官)の手を経て行くことを知っており、そこに(中略)『死にたくはないのだが……』などとは書けない」と書いています。

上官の目に触れなければ何を書くか。そのひとつの例が、『陸軍特別攻撃隊』の著者、高木俊朗氏が執筆を依頼し、軍部の目を盗んで直接遺族に届けることができた、上原良司氏の「所感」です。

明日出撃する『振武隊』の中にいた上原の表情があまりにも思い詰めた様子なので、高木氏は「君、ちょっと何か書いてくれ」と紙と鉛筆を渡します。

慶応大学から学徒動員で特攻隊員になった22歳の上原が、この時書いた文章は、『きけわだつみのこえ』の冒頭に収録されて、とても有名になりました。

上原氏は「自由の勝利は明白な事だ」「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家(日本・ドイツ・イタリア三国同盟の諸国)において見る事が出来ると思います」と書くのです。

特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬ、自殺者とでもいうか、精神の国、日本においてのみ見られる事と書いた後に、「こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」と、苦悩と思考の流れを吐露しているのです。

所感の冒頭は、陸軍特別攻撃隊に選ばれたことを「身の光栄これに過ぐるものなき」と書き、終わり近くは「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」としました。

■黙殺された「命令された側」の言葉

上原氏の言葉は、猪口・中島が決して聞こうとしなかったものだと思います。『神風特別攻撃隊』という本は、徹底的に「命令した側」の視点で、特攻隊を世界的に広めたのです。

ちなみに、猪口力平と中島正は、それぞれ昭和の終わりと平成まで生き、80歳と86歳で亡くなりました。

----------
鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)
作家・演出家。1958年愛媛県生まれ。早稲田大学在学中の81年に劇団「第三舞台」を結成。87年「朝日のような夕日をつれて’87」で紀伊國屋演劇賞団体賞、95年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞。10年に戯曲集「グローブ・ジャングル」で第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。舞台公演のかたわら、エッセイや演劇関連の著書も多く、ラジオ、テレビ、映画監督など幅広く活動。日本劇作家協会会長。
----------

(作家・演出家 鴻上 尚史 写真=佐々木友次氏提供) 


▲△▽▼


モチベーションややる気は、無くて良い


モチベーションで勝てるという上司は、「竹やりで米軍に勝てる」というのと同じ
引用:https://img.cnread.news/uploads/20170508/E2/E2EE168F7D42w640h426.jpeg


モチベーションは根性論か

一時期スポーツや会社で「モチベーション」が重視されていた事がありました。

最初にモチベーションを連発したのはサッカーだった気がするが、「モチベーションが低いから負けた。モチベーションを上げなくてはいけない」と選手たちが言っていました。

日本語では「動機づけ」だが、「やる気」「根性」と同じ使い方がされているようです。

モチベーションを上げれば勝てるというのはスポーツではあるのかも知れないが、それを労働者に当てはめるのは問題がある。

スポーツはせいぜい2時間で終わるが、仕事は一生であり、一生涯「やる気」「根性」でペースを上げ続けることはできない。

「モチベーションを上げろ」と指示するのは会社の上層部や上司だが、「モチベーション」が高い上司や経営者は決して言わない。


その会社では間違いなく社内のモチベーションが低く、無気力が蔓延し、やる気も覇気も感じられない筈です。

だから上層部は「モチベーションを上げろ」と命令するが、問題を悪化させる場合が多いといわれています。

社内が沈鬱なムードなのには原因が在るはずなので、原因を解決するか取り除くのが「モチベーションを上げる」事になります。


例えば上司が適切な指示を出さないとか、機械の性能が低いとか、物理的あるいは組織的な原因は他にある筈です。

ところが本当の原因は放置して「やる気と根性が足りないんだ」というのでは、戦前の精神論と同じです。

日本の社会は戦前からグルっと一周して、また戦前の精神論に戻ってしまったのでしょうか?


モチベーションが低い原因を解決すべきなのに、「モチベーションを上げろ」と怒鳴る
bp1020-01-min
引用:https://biz-shinri.com/wp-content/uploads/2015/04/bp1020-01-min.png


大本営と現代の経営者の発想が同じ

戦時中の有名な出来事として「特攻」があり、戦闘機などに火薬を詰め込んで軍艦に体当たりします。

実に勇敢だが、物理的にはこの攻撃方法は理に叶っておらず、何の戦果も挙げていません。

まず爆弾は上空から落下させるから装甲を貫いて艦内で爆発するが、飛行機は装甲で跳ね返されるので、機体は外で爆発してしまいます。


艦内に食い込んだ爆弾は火薬庫を誘爆させ、一発で戦艦や空母を撃沈する可能性があるが、船外で爆発する戦闘機は表面を焦がすだけです。

しかも技術的に体当たりの方が困難で、何しろ練習する事ができないので上達しません。

しかし敗戦濃厚になった日本軍では「精神」「根性」が重視され、特攻を批判すると「必勝精神が足りない」とされました。


まさに今の日本企業の幹部が言っている「モチベーション」と戦時中の日本軍幹部が言った「必勝精神」は同じではないだろうか。

ミッドウェイ作戦という日本の敗戦を決定づけた海戦があり、日本は主力空母のほとんどを失い、事実上ここで戦闘能力を喪失しました。

敗因は暗号を解読されたなどあったが、開戦のハワイ作戦から休み無く働かせた事で、人間も機械も疲弊しきっていました。


大本営は空母機動部隊に休暇を与えず整備もせず、東南アジアからインド洋、オーストラリア攻撃までやらせました。

乗組員や搭乗員が疲弊していたら必要なのは休養させる事で、機械が故障したら整備や修理をしなくてはなりません。

ところがここで出てきたのが精神論で「休みたいなどというのは精神が弛んでいる」と言われて余計に働かされました。


おかげでミッドウェイ作戦では作業員がミスを連発し、南雲長官は疲労からか何度も作戦ミスをおかし、挙句に偵察機は故障して索敵もできませんでした。

暗号以前に負ける条件が揃っていたのであり、もし真珠湾攻撃から十分な休養と整備を取っていたら、暗号を知られていてもミッドウェイで勝っていた筈でした。

このように「モチベーション」や「精神、根性」は百害在って一理なしで、むしろ無いほうが問題が早く解決して良いほどです。

他に問題があるのに「精神力でやれ」と言っているのが現代の経営者であり、そういうのは大本営と同じなのです。
http://www.thutmosev.com/archives/74451805.html

因みに、神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が発案したと言われています


▲△▽▼


改革の不条理 日本の組織ではなぜ改悪がはびこるのか (朝日文庫) – 2018/5/7
菊澤研宗 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%94%B9%E6%82%AA%E3%81%8C%E3%81%AF%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8F%8A%E6%BE%A4%E7%A0%94%E5%AE%97/dp/4022619279/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1528334849&sr=8-1&keywords=%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86


日大アメフト部問題と「旧日本軍の組織と論理」の共通点が見えた
軍隊をまねた体育会系部活の不条理
菊澤 研宗 慶応義塾大学商学部教授
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55967

今日、多くの人たちが、いま話題になっている日本大学アメリカンフットボール部の反則タックル事件が、安倍政権の森友問題や加計学園問題と重なるという。

首相は不正な指示をしていないといい、官僚が勝手に忖度して不正を働いたという。同様に、日大の監督もケガをさせろと命令した覚えはないといい、選手が思い詰めて行ったものだという。

一方で、このような上司と部下の関係は、実は旧日本軍が遂行した非人道的な作戦つまり特別攻撃命令とも似ているのだ。

戦後、生き残った海軍軍令部の幹部たちは、特攻を命令していないという。特攻は、あくまでも若者たちの志願だったというのだ。しかし、当時の部下たちは、特攻は明らかに命令だったという。

もともと日本では部活と軍隊は密接に関係している。反則タックル命令と特攻命令といった2つの異なる事例には、共通するリーダーの行動原理が見いだせる。

それについて、以下に説明してみたい。いずれもリーダーたちが不条理に陥り、その不条理を若者たちに実行させたのである。


体育系部活と軍隊の関係

まず、かつて日本中の学校にある部活が軍隊と密接に関係していたことを忘れてはならない。本来、楽しいはずのスポーツが、日本では軍隊の訓練や兵士予備軍としての男子学生の心身を鍛練する手段として利用された歴史が日本にはある。

特に、戦前の日本が軍国主義化するとともに、スポーツは「体育」という言葉で置き換えられ、日本人の間には「スポーツ」と「体育」は同じ意味をもつ言葉として定着した。

特に、軍国主義時代には、部下は上官に絶対服従する必要があり、厳しい上下関係による規律が求められていた。それゆえ、命令と服従という組織原理が、学校という教育機関で「体育」という教科を通して、徹底的に叩き込まれていったのである。

そして、残念ながら、戦後もこの傾向はなくならなかった。いまだに継続されている。特に、ラグビー、野球、サッカー、テニスなどの体育会系運動部では、年功序列の上意下達型の縦社会組織が形成されているように思える。

そこでは、いまも目上の者に対する絶対的服従は当然であり、目下の者はいかなる命令にも背くことは許されない。非科学的な根性論や精神論がはびこっている。
このような関係のもとに、必然的に起こったのが、戦時中の特攻であり、今回の日大アメフト部の事件なのだ。


日本軍の特攻命令と服従関係

戦後、旧海軍将校たちによって行われた海軍反省会では、興味深いテーマが議論された。戦時中では、上下関係が厳しくて口をきくことすら許されない立場にあった下級将校たちが上官に向かって声を挙げはじめたのである。それは、特攻についてであった。

一般に、特攻というと、海軍の大西瀧次郎が提案したものとされている。しかし、旧海軍の若手将校たちによると、非人道的で無意味な特攻作戦はそれ以前から軍中央から指示されていたという。

というのも、神風特攻隊以前から、人間の体を兵器に変える人間魚雷「回天」、人間爆撃機「桜花」、人間爆弾ボート「震洋」、そして人間機雷「伏龍」などの様々な特攻兵器が開発されていたからである。

それにもかかわらず、戦後、海軍軍令部の中枢にいた人たちは、中央から特攻を命令したことはないと主張する。特攻は、あくまで若者たちの志願であったという。そして、戦後もそういった話をいろんなところで広めているというのだ。

当時、軍隊という上下関係の厳しい組織では、決して主張することができなかった青年将校たちが、戦後、かつての上官たちを問い詰めている。非人道的な特攻作戦は、明らかに上からの命令だったと。

そして、上官は若者を送り出すとき、必ず後に続くからといって送り出したが、結局、続いたものは誰もいなかったと批判している。


日大反則タックル命令の矛盾

この同じことが、今回、日大アメフト部の監督・コーチと選手たちとの間にも起こったように思える。

日大アメフト部の選手が、試合中、ルールを無視してボールを持っていない無防備な状態にあった相手チームの選手に、背後から反則となるタックルをしてケガを負わせた事件である。

この事件について、5月22日、反則タックルをした日大の宮川泰介選手が、弁護士同席のうえで記者会見を行った。

彼は、一連の経緯や監督やコーチからどのような指示や発言があったのかなどについて詳細に説明した上で、監督やコーチの指示があったにせよ、指示の是非を自分自身で判断することなく反則行為をしてしまったなどとして自己反省し、相手選手に対して改めて謝罪したのである。

これに対して、翌5月23日、選手が所属する日本大学チームの内田正人監督と井上奨コーチが記者会見を行った。

宮川選手の主張に反して「クオーターバックをつぶしてこい」といった発言は認めたものの、内田監督による指示ではなく、また怪我をさせる目的で発言したものでもないと説明した。

とくに、「つぶせ」という言葉は、内田監督と井上コーチによると、これまで日常的に使用されてきた表現であり、それは反則を容認したり、ケガをさせたりすることを意味するものではないとして、宮川選手の主張を改めて否定したのである。


リーダーが陥っている不条理

おそらく、いずれもケースも上層部が指示命令し、部下がその命令に忠実に従ったのだろう。

しかし、なぜ上司はそもそもこのようなルール違反で非人道的な命令をおこなったのか。答えは簡単だ。彼らはいずれも損得計算し、その結果、その方が得だと考えたからである。

つまり、不正なことを命令し、実行させることが合理的だという「不条理」に陥ったのである。(このメカニズムについては拙書『改革の不条理』に詳しく解説している)

戦時中、日本軍の上層部は、海軍航空隊の若手兵士たちの実力では、到底敵を攻撃することはできないことを認識していた。それゆえ、損得計算すれば、若者たちを直接敵に体当たりさせる方が合理的だったのである。

同様に、日大アメフト部の監督・コーチは、現在の日大の選手の能力では関西学院大学には勝てないと思ったのだろう。それゆえ、損得計算すると、相手選手を直接ケガさせた方が合理的だと判断した可能性がある。

このような上司たちが行う損得計算の結果を部下に実行させることは、命令と服従の原理が浸透している組織では容易なことだ。

しかも、このような損得計算にもとづく意思決定は、ある意味で合理的で客観的で科学的かもしれない。というのも、この同じ状況に置かれれば、だれでも同じ損得計算を行い、同じ結果をえる可能性があるからである。

それゆえ、そのような損得計算にもとづいて客観的に命令しているリーダーは、その責任を取る必要性を感じないのである。

しかし、このような損得計算を行うには、はじめから人間を物体や備品のような消耗品として扱う必要がある。

損得計算の中に人間を組み入れるには、一人ひとりの人間がもつ固有の価値、個性、歴史、そして尊厳など、はじめかから無視する必要があるのだ。そうでないと、損得計算ができないのである。

このような損得計算を行動原理として、上層部は徹底的に行動していたために、戦時中、日本軍は世界でも最も人間の命を粗末にしていたのであり、特攻という人間を兵器の代わりにする前代未聞の作戦を行う鋼鉄の檻のような冷酷な組織だったのである。

その結果、どうなったのか。その過ちからいまだ学んでない組織として日本の一部の体育会系運動部があるように思える。


損得計算原理から価値判断原理へ

では、このようなルール違反で非人道的な命令に出くわしたとき、われわれはどうすべきか。

今回、加害者である日大アメフト部の宮川選手がその答えを示している。

彼は、命令を受けたとき、その命令に従うことが人間として正しいかどうか価値判断すべきであり、問うべきであったと述べた。それを問わずに、ケガさせれば試合に出しやるという上からの指示のもとに、彼自身が損得計算して得する方を選んでしまったのだという。

確かに、人間の行動原理として経済合理的な損得計算は必要ではある。しかし、それは人間の究極的な行動原理にならないことが、今回の日大アメフト部の事件で明らかになったのだ。

やはり、人間は、常に正しいかどうか、適切かどうか、価値判断する必要がある。そして、もし正しいと価値判断するならば、次にわれわれは何をなすべきか。その価値判断が、われわれに実践的行為を要求してくるのである。

このような内なる理性の声を聴いて行動したいものだ。そうすれば、悪しき命令はなされないし、それに従うこともないだろう。

このような価値判断にもとづく実践的行為は、それが主観的であるがゆえにまったく非合理的に思えるかもしれない。それゆえ、多くの優秀な人たちはこれを恐れ、避けようとする。

しかし、恐れるべきことはない。この主観的な価値判断、そしてそれにもとづく実践的行為に対して、われわれは責任をとればいいのだ。ここに、実は人間らしさ、人間の自由や自律があり、人間固有の尊厳や気品がある。

もちろん、無制約な価値判断にもとづく行為は、単なる子供のわがままな行動にすぎない。啓蒙された大人として主体的に価値判断にもとづく実践行為を行うためには、以下の2つの条件を常に満たす必要がある。

1) 価値判断にもとづく行為はその原因が唯一自分自身にあるので、その行為の責任は他でもなくすべて自分にあるということを自覚すること。

2) 価値判断にもとづく行為を実践するために、他人の自由や主体性を無視してはならないこと、つまり他人を単なる道具や手段として扱ってはならないこと。

これである。

以上のような原理に従っていたならば、冷たい鋼鉄の檻のような組織も、もっと温かいものになっていただろう。


▲△▽▼


投下できないはずの爆弾が… 新証言で明かされる特攻隊のリアル
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180809-00000063-sasahi-soci
AERA dot. 8/14(火) 7:00配信 週刊朝日  2018年8月17-24日合併号

咲き乱れる花を意味する「万朶隊」の佐々木友次伍長と握手をし激励する冨永恭次司令官(c)朝日新聞社


鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)(左)/1958年、愛媛県生まれ。作家・演出家。新作音楽劇「ローリング・ソング」(8月11日~9月2日)を紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて上演。福岡・大阪公演もあり。

吉田 裕(よしだ・ゆたか)/1954年、埼玉県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科特任教授、専攻・日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』『兵士たちの戦後史』など。


 版を重ねて18万部を突破した『不死身の特攻兵』の著者で作家の鴻上尚史さんと、13万部を数える『日本軍兵士』を著した吉田裕さんが、特攻隊について新たな証言が出てくる背景について語り合った。

*  *  *

吉田:10年ほど前から、不時着したり、わざとエンジントラブルを起こしたりして戻ってきた特攻隊の人たちの話が出てきた。特攻の多様な事実が明らかになってきた。

 大岡昇平の『レイテ戦記』は立派な本ですが、体当たりに成功した人を偉大だと讃えている。それによって、生きて戻ってきた人たちに沈黙を強いる結果になった。それだけに新たな証言が出てきたことの意味は大きい。

鴻上:「志願」だったのか「命令」だったのかというのも調べてみると、たしかに志願した人もいたんです。しかし、それは予科練のように14、15歳から軍隊教育を受けた一部の人たち。陸軍の整備兵だった人たちの話では、多くの人は特攻の指名を受けた途端、顔色が本当に真っ青になったといいます。

吉田:軍隊以外の社会を知らないまま、17、18歳で特攻に行った人たちはそうかもしれないですね。

 特攻をめぐる新たな証言が出てくるようになった背景には、戦友会などが相次いで解散したことも大きい。これまでは、日本軍の恥部に触れることは言わないという空気がありましたから。南京事件などの戦争犯罪の場合でもほとんどの人が出身地に帰って暮らしていたので、匿名で証言をしても誰が言ったのかすぐにわかってしまう。「おまえ、なんであんなことを言うんだ」と電話がかかってくる。そうした圧力が薄れてきたということもあるんでしょうね。

 陸軍の特攻に朝鮮の人たちがいたことも少しずつわかってきています。

鴻上:吉田さんの『日本軍兵士』がすごいと思ったのは、身体に即して書かれているところ。たとえば水虫にかかった兵士が半年間、靴を脱げなかったという話。どんな理屈を口にされるよりも「行軍中、水虫に苦しめられるんだよ」と言われたほうが、戦争はいやだと思いますよ。

吉田:そうですね(笑)。

鴻上:戦地ではろくに歯も磨
4:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:31:37


鴻上:吉田さんの『日本軍兵士』がすごいと思ったのは、身体に即して書かれているところ。たとえば水虫にかかった兵士が半年間、靴を脱げなかったという話。どんな理屈を口にされるよりも「行軍中、水虫に苦しめられるんだよ」と言われたほうが、戦争はいやだと思いますよ。

吉田:そうですね(笑)。

鴻上:戦地ではろくに歯も磨けない。歯医者も兵士4千人に1人しか配置されず、歯痛の治療も受けられなかった。

吉田:戦争の悲惨さを語ることで平和の尊さを訴えるよりも、戦争の評価について迷いのある人に読んでもらいたい。そんな思いから、だれにとっても一番身近な問題である身体に関わるものを紹介するように心がけたんです。あの戦争では1944年以降に亡くなった人が大部分なんですが、それさえ「初めて知りました」という読者が多い。歴史の基本的な事柄が継承されてこなかったんです。

鴻上:議論の大前提となるものが損なわれていますね。

 僕は、『不死身の特攻兵』でインタビューした、9回出撃して9回生還した元特攻兵の佐々木さんがどうして生き残れたのか、そこを知りたくて何度もお会いして話を聞いたんです。佐々木さん自身はそういう言い方はされませんでしたが、結局、飛行機に乗るのが好きだったからじゃないかと思うんです。彼は戦場に行くのを怖いと思ったことがない。いつも、わくわくドキドキしていたという。

吉田:そうですか(笑)。

鴻上:佐々木さんの乗った「九九式双発軽爆撃機」というのは評判の悪い飛行機だったんですが、熟練すると鳥の羽のようになる。空を飛ぶのが好きで、こんなにも飛行機を愛している。だから、特攻で愛機をダメにするというのは嫌だと思ったんじゃないか。でも、軍隊という“超ブラック組織”の中で「好きだ」という実感を語ることは難しい。

吉田:なるほど。

鴻上:企業が新製品を発売するとき、「ビッグデータから見るとこうで……」などと理屈を並べるんだけど、中心にいる人間は「だってこれおいしいんだもの」と言いたいだけだったりする。佐々木さんがラッキーだったのは、どんなに理不尽な上司がいても、空では腕が一番ものをいう。「死んでこい」と言われながらも、行くたびに爆弾を投下して戻ってくる。これが歩兵だったらそうはいかなかったでしょう。好きでなおかつ技術をもっていたのは大きいと思います。

吉田:陸軍の場合は、正式な特攻部隊を形成していなかったために指揮権があいまいで、懲罰を含め上下関係の圧力が少なかったということもあったでしょうね。

鴻上:佐々木さんのようなパイロットは、仲間が何人も殉職するような激しい訓練を受けてきた。それなのに、「急降下爆撃なんかしなくていいから体当たりしろ」と言われて憤ったわけです。70数年前の彼らも自分たちと変わらない人間だと思えましたね。特攻機は爆弾を機体から切り離せないつくりでしたが、整備兵たちは爆弾を投下できるように手を加えました。現場レベルのリアリズムは「落とせない爆弾はありえない」だった。そこにはわずかな希望を感じましたね。(構成/朝山実)
5:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:32:03


これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡
8/15
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec2358d65039c2cabb217440f3db353ff6a15628
太平洋で、米軍艦艇に突入を試みる日本軍の特攻機=1945年5月

 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。

 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に満ちないと敵艦には突入できなかった」と相可さん。「実証」にこだわった研究を、冊子の記述と相可さんの言葉からたどる。引用は原文のままとした。(共同通信=真下周)

 ▽「一口食べてカッと体が熱くなった」

 2016年9月、相可さんは平和学習会で戦争体験者から思いがけない話を聞いた。「兵隊さんに送るチョコを包む仕事と言われ、プレハブ工場に連れて行かれました」「チョコを一口食べ、カッと体が熱くなったのを覚えています」

 大阪府高槻市在住の梅田和子さん(90)は、1945年の春、茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の学生だった。父は弁護士で、大阪市内の裕福な家に生まれ育った。空襲がひどくなり、祖母と高槻に疎開していた。

 隣の同府茨木市にあったゴルフ場は陸軍の食糧補給機関になっていた。備蓄用の食料品が保管され、ここから戦地に運ばれていった。市内の山間部に海軍関連の倉庫として建設された地下トンネルにも、特攻隊が出撃前に食べるための覚醒剤入りのチョコ(チューブ型)が保管されていたようだ。

 茨木高女には、食糧補給機関の支所が置かれ、校舎も軍需工場として稼働していた。運動場の片隅に小さなプレハブ小屋が建てられ、梅田さんは包装作業をしながら勤労奉仕の女学生らを監督する任務に就かされた。


女学生らは15センチほどの棒状のチョコバーをクラフト紙で包んでいた。チョコバーには菊の御紋が付いていた。初日、梅田さんは上級生らに校舎の屋上に呼び出され、「これを食べろ」と迫られた。戦時中は裕福な家庭でもめったに食べられなかったチョコ。一口食べるとカッと体が熱くなったことを今でも鮮明に覚えている。上級生らは「特攻隊が最後に食べるもので、何か入っているみたい。食べたからにはおまえも同罪。先生にはゼッタイに言うな」と口止めした。

 ▽恐ろしい「機能性食品」

 教員として生徒を送り出してきた身近な高校で、過去にこのような出来事があったことに相可さんは衝撃を受けた。背景や実態を調べようと思い立ち、最初に参考にした本が「50年前日本空軍が創った機能性食品」。陸軍航空技術研究所(東京・立川市)の研究員として戦時中、空軍の携行食開発に従事していた岩垂荘二氏が93年にまとめた著書。ヒロポン入りのチョコの話が記されていた。

 43年ごろ、ナチス・ドイツ空軍がヒロポン(覚醒剤)入りのチョコを製造し、飛行士に食べさせ効果が上がっているとの報告があり、上官である川島四郎大佐から「すぐにつくって補給したい」と命令され、棒状のヒロポン入りチョコをつくり、特別に補給したという。「今考えると、とんでもない、おそろしい機能性食品である。(中略)これも戦争という残酷な状況のなせるわざであろう」と岩垂氏は回想している。

 ヒロポンは大日本住友製薬の前身の大日本製薬が開発した覚醒剤の商品名だ。戦争中、兵士や夜間勤務者らの間で「ヒロウ(疲労)がポンと回復する」との効果で知られていた。戦後民間に出回り、大量の中毒者が若年層にも出たことで51年に制定された覚醒剤取締法により厳格に規制された。

 ▽注射で「勇躍機上の人に」

 相可さんは「『名将』『愚将』大逆転の太平洋戦史」(新井喜美夫著)に「かつて筆者は某製菓会社の重役から聞いたことがある。そこではヒロポンが大量に供給され、回りをチョコレートでくるみ、菊の紋章を刻印したものを、定期的に軍に納めていたという」というくだりを見つけた。梅田さんの経験と一致した。


チョコ以外にも覚醒剤はいろいろな形で提供されていたようだ。ミュージシャン大貫妙子の父親大貫健一郎少尉は、鹿児島・知覧基地から沖縄特攻に出撃した時の話を記している。「菊の御紋が入ったタバコ、沢の鶴の二合瓶…(中略)…。長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、『元気酒』と名づけられていました」(共著書「特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た」より)という。

 「(チョコやタバコの)菊の紋章を見た特攻兵たちは、自分たちへの天皇の期待を感じ取っただろうし、覚醒剤効果で恐怖心はかなり軽減されていたのでは」と相可さんは推測する。

 「突撃錠」と呼ばれていた丸薬を飲み「腰の軍刀を振り回しながら、離陸していく士官もいた」との証言を記したノンフィクション作品(日高恒太朗作「不時着」)もあった。「特攻とは」(沓名坂男著)に収められた元白菊特攻隊の一等飛行兵曹の手記には「定刻になって出撃隊整列、(中略)腕をまくり注射、今まで酒でふらついていた身体がみるみる立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔などどこへやら、神経は昂り身内から闘志が湧いてくるのを感じる。そして水盃をいっきに呑み干し、その盃を地面に叩きつけ、勇躍機上の人となる」と記されている。

 出撃前に整列して杯を飲み干し、杯を地面にたたきつけるシーンは、2013年12月に公開された映画「永遠の0(ゼロ)」でも、印象的な場面として描かれている。

 ▽後遺症に悩まされた元操縦士

 「重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話」(渡辺洋二著)には、戦後、覚醒剤の後遺症に悩む戦闘機の元操縦士が取り上げられていた。首都圏を夜間に空襲する米軍のB29爆撃機を打ち落とす任務のたびに“暗視ホルモン注射”を軍医官に打たれた。「眠気もよおさず、妙に頭が冴えわたり、帰投後は強い睡眠薬を定量よりも多く服薬して無理に横になるときもあった。また、食欲の減退もはっきり現れてきた」

 戦後、通勤の満員電車で奇妙な感覚にとらわれた。「押し合いながら乗っている周りの人々の手や鼻が、自分の目に飛び込んでくる感じ」。40年ほども症状に悩まされ続けた。症状がよくなってから数年後、かつての軍医官が現れ、暗視ホルモンの正体はヒロポンだったと告げ、謝罪したという。覚醒剤は人体をむしばみ、生き残った人にも、取り返しの付かない影を落としていた。

軍国主義教育で染め上げられた社会の中で、徹底的に粗末に扱われた若者の命と対照的に、上官や軍部の無責任さも浮かび上がる。「最後の一機で必ずおまえたちの後を追う」と部下を鼓舞しながら、敗戦となると「後始末も大事だ」と言葉を翻し、戦後を長く生きた上官らもいた。

 ▽「永遠の0」の危うさ

 特攻隊を考える時、相可さんの頭にはいつも映画「永遠の0」の存在がある。「映画館には若い人がいっぱいで、終了後には感動のため息が漏れていた。私は非常に複雑な気持ちだった」と述懐する。優秀なパイロットを死なせる特攻作戦のまずさ、軍司令部の愚かさは表現されていたが、「死」を受け入れる心情の美しさ、自ら犠牲になる気高さが強調されることで戦争責任をあいまいにし、日本がやった戦争への反省から目を背けている、と厳しく批判する。

 相可さんは1950年、三重県生まれ。大阪府摂津市の小学校教員となり、84年から定年退職の2010年まで中学校で社会科を教えてきた。

 忘れられない体験がある。ロールプレイを見て「日中戦争は是か非か」を生徒たちが判断する授業を見学した。最初は「非」の立場の生徒が圧倒的に多かった。だが「戦争はやむを得なかった」論が展開されると、オセロのように意見がひっくり返っていく。立場を変えた生徒らは「納得できた」と生き生きした表情を見せ、最後まで「非」を表明した少数の生徒たちはしょんぼりしていた。

 「是」の理屈が「非」を上回る“説得力”を持っていると痛感した。「戦争はダメ、平和は尊い」と情緒に訴えるやり方では不十分で、「非」を表明した子どもたちを支える論理が必要だと悟った。相可さんがリアリズムに徹する原点はここだ。戦争の実相を伝え、なぜこうなったのか事実から論証することを肝に銘じてきた。

 「いつの時代も右側の人もいるし、左側の人もいる。しかしほとんどは真ん中にいる人たち。その人たちがどちらの側につくかで世の中は変わる」。退職後、教科書問題に取り組み、戦争を美化しようとする言説に徹底的に目を光らせてきた。国内外の情勢や時代状況で、雪崩を打つように中間層が「戦争やむなし」の言説に傾斜し、好戦論者を生んでしまわぬよう引き留めるのが役目と自任する。

 調査を終えた今、こう語る。「戦争で命の奪い合いを兵士にさせる時、国家権力は残酷なことをする。隊員たちは死を前に苦しんでいた。面目もあった。(果たさぬことで)家族に累が及ぶことも考えた。彼らの心情にウソはなかった。普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない。美談がいかに危険な論理か。特に若い人には、きちんとした歴史認識に結びつけて考えてもらいたい」

 相可さんが著した冊子「『ヒロポン』と『特攻』 女学生が包んだ『覚醒剤入りチョコレート』 梅田和子さんの戦争体験からの考察」は、1冊500円。連絡はo-fumiyo@kdt.biglobe.ne.jp

6:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:33:24

[2019.7.29放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ffcFIkJDkSg


今週のテーマは『「特攻隊」から考える、日本の再生。』です。

週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ
第29回 2019年7月29日(月)放送


▲△▽▼


2019/07/05 藤井聡 京都大学大学院工学部研究科教授
不条理な大和特攻という大本営決定
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/257604


 この週末、ある雑誌の企画で吉田満氏の「戦艦大和の最期」という文学作品についての座談会を行った。


戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) – 1994/8/3
吉田 満 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%BA%80/dp/4061962876


この作品は、先の大戦末期、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の、出撃命令が出てから撃沈されるまでの数週間を描いた物語だ。吉田氏はこの大和の乗船員で、上官の脱出命令を受ける形で九死に一生を得て奇跡的に生き残り、無事生還した後に、たった一日でその初稿全文を書き上げたという。

 この作品には、この大和の出撃に対して「現場」が猛反発していた様子が克明に描かれている。大和には一機の戦闘機の護衛もなく、ほぼ丸裸の状態で何百何千というアメリカの雷撃機・攻撃機の猛攻を受けることが必定であり、一切何の戦果を上げること無く轟沈することは、誰の目にも明らかだったからだ。

 しかし、そんな現場の大反対を完全に無視する形で、大本営からの大和出撃令は覆らなかった。そして案の定、誰もが予期した通り大和は徳之島沖で米軍機の猛攻を受け、攻撃開始からたった数時間であえなく撃沈した。


 一気に3000人を超える特攻死をもたらした、この史上最大の「特効作戦」の全容を記した『戦艦大和の最期』からは、現場が如何に必死に闘ったかが克明に浮かび上がってくる。そしてわれわれ読者はその戦いに対して、その初稿の最後に書かれていたという『天下に恥じざる最期なり』との結語を繰り返す他にない。


 ただし、そうした現場の兵士達の勇猛果敢な戦いぶりは、その大本営の判断を正当化する論拠にはなり得ない。そもそもわれわれは、「軍事作戦の成果」の視点から現場の幹部全員が猛反対していたという事実、そして、現実は彼らが主張した通りの顛末に終わったという事実をけっして忘れてはならない。

 
▲△▽▼


特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。

こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/hasep/yh-seminar/2002/Fukushima_20425.html



▲△▽▼


「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言 時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/17/warb21/msg/582.html


2018.01.24 栗原 俊雄  現代ビジネス

「何とか生きて帰ろう」と思ったが…

「燃料は半分。飛行機の護衛はない」

今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。「特攻だ」と。

「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」

実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、連合艦隊の機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦、その連合艦隊自体が事実上壊滅したフィリピン沖海戦、さらには護衛していた巨大空母「信濃」が米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。

第二次世界大戦末期、劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」について取り上げたものだ。

しかし、特攻にはそれ以外にも水上の軍艦による特攻(水上特攻)や小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。

ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは知られていないだろう。だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど多くの兵士たちが死んでいった。

「水上特攻」の代表は、戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに取材をしてきた。本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。

「世界最強」のはずが…

1941(昭和16)年12月に始まった米英などとの戦争で、大日本帝国は当初、勝利を重ねた。だが連合国軍が体制を整え本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。決定的だったのは1944年。ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による日本本土爆撃が可能になった。

そのことを、日本の為政者たちは知っていた。だが、戦争をやめなかった。そのため被害は拡大した。戦争による日本人死者310万人のうち、実に9割が1944年以降と推算されている(『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕著・中公新書)。

同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。

「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。「世界最大」の戦艦であった。また戦艦の存在価値は主砲で決まる。「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。



「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。「世界最強」と謳われた所以である。

これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という戦術思想に基づくものである。また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機とそれを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊に移っていった。

「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅することはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。

「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、海軍が使い道を対水上艦隊にこだわり続けたせいでもある。たとえば早くから機動部隊の護衛として、あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、それなりの戦果を挙げただろう。

水上部隊だけ何もしないわけには

ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、帝国海軍にとっても最悪の年になった。まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で米海軍に惨敗。かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で連合艦隊そのものが事実上壊滅した。「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。

為政者たちがずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、敵は日本本土に近づいてきた。そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる「第二艦隊」の10隻であった。

航空機の援護を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。勝てないどころか惨敗を喫する。そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。

さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。無謀そのものの「作戦」だった。

このため海軍内部では反対論が強かった。第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。

こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、いくつかの背景がある。まず、底が見えてきた燃料事情だ。開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、運ぶことができない。備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は「厄介もの」扱いされつつあった。

さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば「一部の者は激化する敵空襲に曝して何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。

つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。

昭和天皇への「忖度」

さらに、昭和天皇の影響もあった。

2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。

「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。

さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。

及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。

「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」

宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。

とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。

しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。

「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」

一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。

自分の命が削られていく音

1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。

「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。

皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」

この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。

自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。

筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。

根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。

艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。

「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」

1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。

同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。

連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。

そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。

水上特攻の成果は…

「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。


この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。

無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された(12日に実施し失敗した)。

宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。

「全軍の士気を高揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無謀の挙と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)

士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。

さらなる苦難

さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、さらなる苦難があった。

「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。生き延びるためには、その海を漂いながら駆逐艦に救助されなければならない。疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。

西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして兵士たちを収容した。人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。

助けられる方は「疲れているし、重油ですべるからなかなか上がってこられない」。1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。叩かれた兵士は海に落ちた。その後どうなったのかは分からない。「そういう業(ごう)があるんですよ……」。西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。

特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体はほとんどの場合、回収されない。第二次世界大戦ではおよそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、人によっては国会議員などになり再び国策遂行に関わったことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。

さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。沖縄戦を振り返る中で、「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」とし、「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた(『昭和天皇独白録』)。

筆者に特殊な能力があったら、4000人以上の死者たちにこの評を知らせたいものだ。
7:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:34:22


2020-01-12
「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/01/12/083333


何をどう間違うとこんな妄想脳が出来上がってしまうのだろうか?

まあ、ウヨさんたちは情念と妄執の世界に生きているのでマトモな理屈など通用しないのだが、それにしてもこの認知の歪みはひどい。
まず、「今私達が生きているのは特攻隊が護ってくれたから」というのは生物学的にあり得ない。特攻隊には航空特攻だけで4千名ほどが投入されたが、彼らが特攻などせず生きていてくれたら、今はもっと多くの「私達」がいたはずである。逆に、日本がポツダム宣言を受け入れず「一億特攻」などという当時のカルトスローガン通りの事態になっていたら、上のツイートをした「桜」さん本人も生まれていなかったかもしれない。

また、これは経済的にもあり得ない。特攻という無駄死にをさせられたのは、みな前途有為な若者たちだった。彼らが生きて戦後の復興に加わっていてくれたら、「私達」の国はより豊かになったはずである。
それとも、死ぬと分かっているのに爆弾を抱えて突っ込んでくる特攻が米軍を畏怖させ、「追い詰めると何をするか分からない」民族だからと、敗戦後の日本に対する扱いが良くなったとかいうポエムを信じているのだろうか。
確かに、フィリピン戦で特攻作戦が始まった当初は、常識では考えられない異常な戦法が米兵たちを恐怖に陥れた。しかし、特攻がそれなりの戦果を上げられたのは始めのうちだけで、米軍側が適切な対策を講じるようになると戦果は急速に減っていった。その上、特攻では出撃した機体も搭乗員も必ず失われるのだから、特攻をやればやるほど生産力でもパイロットの養成力でも劣る日本が不利になっていくのは当然だった。

大戦末期の沖縄戦の段階では、もはや旧式戦闘機や練習機に数ヶ月の速成教育を施しただけの搭乗員を乗せた特攻機は、ただ撃ち落とされるために出撃していくのも同然の状態となっていた。この頃になると米軍側は、畏怖どころか、無意味な自殺攻撃を繰り返すしか能のない日本軍をバカにしていたと言っていい。それは、神風パイロットを米兵が何と呼んでいたか、その呼び名からも分かる[1]。
(略)アメリカ軍の艦艇の乗組員たちの間では、神風パイロットに対してさまざまな言い方をした。前述の「バカ・ボン」などはそういう例であったが、それ以外にもまだ多くの蔑称があったのである。大体は「カミカゼクレイジー」という語で語られることが多かっだが、次のようにいわれた(ウォーナー書からの引用)。
「連合軍の艦艇では、神風パイロットにたいして、それぞれ彼ら自身の呼び名を持っていた。『オーストラリア』で特攻機を『ゾンビ』(間抜け)、『アランタ』では『カッツェンジャマー・キッド』(二日酔い坊や)と呼んでいた。米軍では彼らを、(中略)悪魔の烏や地獄の烏とか、四字綴りの蔑称などで呼んでいた」
当時、特攻隊員となった学徒兵の中には、「アメリカさんはわれわれを見てどう思うだろうか。またバカが飛んできたと思うだろうよ」とつぶやく者もいた。[2] 海外の情報から一切遮断され、翼賛マスコミのプロパガンダと軍隊による洗脳教育の中に置かれていても、まともな判断力のある者にはそれがわかったのだ。
さらに、理解不能の特攻作戦は米兵たちの中に日本人への畏敬どころか憎悪を引き起こしたことも知られている。米兵たちの間では、「(この戦争の)主要目的は日本を降伏させることではなく、できるだけ多くの日本人を殺すことにある」「そんなに死にたきゃ皆殺しにすればいい」といった会話が公然と交わされていたという。[3]

大戦中とは違って知ろうと思えばいくらでも情報が手に入る現代に生きていてこのざまなのだから、ネトウヨの愚かさというのは本当にどうしようもない。

[1] 保阪正康 『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 2005年 P.210
[2][3] 同 P.212-213
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/01/12/083333
 
8:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:34:57



2019-11-17
【トンデモ】中学校の道徳の授業で特攻隊を礼賛?!【世も末】
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/11/17/115221

特攻隊を美化するバカウヨは珍しくもないが、先日、中学校の、それも道徳の授業でそれが行われているという話が流れてきたのには驚きかつ呆れた。

この授業では、「特攻の父」大西瀧治郎中将の言葉や特攻隊員の遺書などを題材に、特攻隊が犠牲となってくれたおかげで今の日本がある、といった類のありふれた詭弁が垂れ流されたようだ。

ネタかと思ったのだが、この投稿者のTLを辿ってみると、とても大人が中学生を装って書いたとは思えない発言が並んでいるうえ、実は同じような授業が以前から行われていることを既に産経が報道していた。

授業で使われている遺書もまったく同じものであり、もしかするとこの授業内容がテンプレ化されて流通しているのかもしれない。
このようなお涙頂戴の情動的教育、それも理不尽な作戦によって死を強制された被害者の思いを悪用するような教育にさらされ続けると、物事の原因と結果を正しく認識して論理的に考えることができなくなってしまう。実際、同じ投稿者の下記のツイートには頭を抱えてしまった。

特攻によって米軍を撃退し戦争に勝ったとでもいうならともかく、現実には特攻では正規空母一隻すら沈めることができないまま敗戦に至ったのだから、特攻のおかげで生まれた日本人などいない。いるのは、親となるべき若者が特攻させられたせいで生まれることができなかった何千人者もの隊員の子どもたちと、親が特攻させられる前に敗戦を迎えたおかげで生まれることのできた子どもたちだけである。

特攻に関して「道徳の授業」で教えるべきことがあるとしたら、それは自殺攻撃させられた特攻隊員の遺書などではなく、こんな狂気の作戦を立案し推進した責任者たちが、その後どうしたかだろう。
ところで、徳島大学総合科学部の饗場和彦教授が、問題の道徳授業についても取りあげた講義用のスライドを公開してくれている。

 特攻隊の遺書による授業にも、「火垂るの墓」の自業自得論にも、「それはそうだけど、なんかなあ…」と、違和感もった人いますか?

 その違和感が重要です。

 二つの例とも同じ特徴があります。

 部分だけとらえて全体を見失った判断にとどまっている、という点です。
 確かに特攻兵士がわが子を思う心情には感動しますが、なぜ兵士は愛する子をおいて死ななければならなかったのでしょうか。

 確かに兄妹は親戚宅にいれば助かったかもしれませんが、なぜ兄妹は孤児になってしまったのでしょうか。

 つまり、戦争の実態について、文脈・大局が看過されているのです。
 各部分にはそれぞれ一定の意味や合理性はありますが、そこだけ抽出して判断が止まると、ことの本質を見誤ります。

 「木を見て森を見ざる」の不適切な判断。戦争と平和の問題について、こうした近視眼的・視野狭窄の見方が最近多い。

大学生向けなのでちょっと難しいかもしれないが、例の投稿者には、これでも読んで手遅れになる前に考え直して欲しいと願うばかりだ。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/11/17/115221
9:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:36:49


神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた


明治維新と太平洋戦争の真相

鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  


▲△▽▼


鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、


一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み
二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか
三、その根拠たる文献資料を示されたい。


鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


鬼塚氏を中傷するコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。


秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
10:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:38:19


鬼塚英昭とディビット・バーガミニの学説は既に定説になっています:
鬼塚 英昭とディビット・バーガミニの二人は昭和天皇の研究者として有名ですね。タブーに触れるので他の研究者はその分野は全く研究していないから、現在では二人の学説が定説になっています、既に関係者が全員死んでしまって、当時の話を聞けないので新しい調査・研究はもう不可能なんですね:


鬼塚 英昭の著書
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E9%AC%BC%E5%A1%9A+%E8%8B%B1%E6%98%AD


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.ht


▲△▽▼


明治維新は朝鮮系の人たちの日本乗っ取り
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/358.html

表に出始めた明治維新の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html

イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html

日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/136.html

戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

麻薬王 岸信介
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1170.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

からゆきさん
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/315.html

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html

山本五十六の真実
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html

ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html

寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html

餓死した英霊たち
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/975.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

近衛上奏文
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html

天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html

鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1051.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html

関東大震災とJPモルガン
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html

独裁者列伝 _ 昭和天皇
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html
11:777 :

2022/06/11 (Sat) 21:40:23


漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史


・朝鮮で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・朝鮮の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた台湾先住民をジェノサイド

・豊臣秀吉の 朝鮮 出兵 → 朝鮮 で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の 朝鮮 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・朝鮮 の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、朝鮮 の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・朝鮮戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償請求権を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。アメリカは10年間で総額430兆円の公共投資の実施を日本政府に約束させ、意図的に平成バブルを起こさせた。

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから売り攻勢をかけ 7607円まで暴落させるのに成功した。 更に日銀に金融引き締めをさせ、外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・韓国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・韓国の工場で行って、中国製品・韓国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・韓国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼

日本の支配者は今も昔も 朝鮮 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのです
今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(朝鮮の無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=朝鮮系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)
ヤマトの天 高天原(=朝鮮半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。書紀で「天」は 朝鮮 半島を指すのだ。
________

明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
12:777 :

2022/06/26 (Sun) 18:50:29

あげ478
13:777 :

2022/06/28 (Tue) 14:46:54

あげ156
14:777 :

2023/07/17 (Mon) 19:24:26

戦闘機スピットファイア!? 零戦に惨敗した理由とは?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14130571
15:777 :

2023/09/04 (Mon) 07:39:07

戦争は勝てる仕組みを作らないと努力しても負けます
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html

個人の頑張りで勝てるのは1回だけ。日本軍幹部は過労や整備不良を自慢していた


https://blog.kk-takagi.co.jp/2018/10/15/月月火水木金金

関連動画が記事下にあります

優秀な人が集まる仕組みを作ったアメリカ

一般に西洋の人々は物事の仕組みを作るのが得意で、資本主義や民主主義、大量生産や休暇などはすべて西洋で生まれました

西洋人の中でも米英の中心人種であるアングロサクソンは社会のシステムを作るのが得意で、今もその優位性で世界の上位階層を形成しています

アメリカは今米中経済戦争をしているが閉鎖的で仲間がいない中国に対してアメリカには無数の同盟国や友好国が存在します

中国は世界から優秀な人材を1000人集める「1000人計画」を進めているがその手段は弱みを握って中国で働かせるとか金で勧誘するような事です

アメリカは200年前から優秀な人材を集める仕組みを構築してきたので、全世界のあらゆる優秀な人はすべてアメリカに移住してアメリカで成功するのを望んでいます

なので米中人材競争は始まる前から決着がついていて、中国が勝つことはないだろうと予告します

中国にも優秀な人材はいますが優秀であればあるほど中国から脱出しようとするので、家族を出国できないようにするなど人質をとって中国につなぎ留めている

北朝鮮の金正日という人は人材獲得の重要性を理解していたが、その方法は優秀な人を日本や韓国から拉致するというものでした

北朝鮮の国内では成分という身分制度で一生が決まり、どんなに優秀でも低い成分では活躍できないので外国人を連れて来ても無駄でした

第二次大戦前の日独伊には優秀な人が大勢いて、だからこそ零式戦闘機やポルシェやフェラーリが誕生したが、優秀な人を生かせる仕組みがありませんでした

身分制度や間違った学歴主義、偏狭な独裁政権のせいでアメリカやイギリスに寝返った人もいて自国の潜在力を100%生かしたとは言えない

アメリカの仕組みで驚くのは昨日まで敵対勢力の国民だった人が亡命して来ると、すぐ重要な地位につけて活躍している点でした

アインシュタインはドイツ生まれのドイツ人だったのにドイツはまったく生かすことができず、スイス国籍からアメリカ国籍になりアメリカ人として連合軍の勝利に貢献した

アインシュタインはドイツの教育で物理学者になったのだが、ドイツ政府はせっかく生まれた最も優秀な人材を自ら排斥しました

仮にアインシュタインが協力を申し出てもドイツはユダヤ人の彼を逮捕しただろうし、日本は国籍をコロコロ変える人を絶対に信用しません

日独は勝てる仕組みがなかったから負けた
ドイツのポーランド侵攻とソ連侵攻で第二次世界大戦がはじまりましたが、最初連戦連勝だったドイツ軍はある瞬間から嘘のように連戦連敗に転換してしまいました

原因はトップのアドルフヒトラー総統が現場に介入したからで、スターリングラードという何の価値もない町に総攻撃を命じてなんと兵士150万人を全滅させた

彼がこの町に固執した理由はたったひとつ「スターリン」の名前がついていたからで、そこにスターリンはいないのでどうでも良いのに固執し続けた

最初にポーランド侵攻した理由は「ドイツ国民の人気取り」で、ソ連に侵攻した理由は「イギリスを占領出来なかったので反対側を攻めようや」とせいぜいそんな理由でした

ドイツの戦略は非常に場当たり的で長期的な展望がなく、こんな国と同盟国だった日本は泥沼の戦争に巻き込まれていきました

1941年12月8日にハワイ真珠湾とマレー沖海戦で太平洋戦争が始まり、日本軍は最初連戦連勝だったのにある日を境に負け始めた

その日はおそらく1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で、敗因は暗号を解読されたとか言われていますが基本的な事を実施していませんでした

空母6隻と戦闘機など数百機を動かすには点検と整備が不可欠ですが、日本海軍は12月8日からほとんど休養を取らず整備もせず戦わせ続けました

半年後にミッドウェーに遠征した時には稼働する偵察機がほとんど皆無だったので、米空母を発見できず逆に発見されて攻撃されました

不思議な事は何もなく「定期整備を怠った自動車が故障した」のと同じですが、なぜか日本軍上層部は「神国日本は不敗である」と信じ込んでいた

そのうぬぼれの根拠は空母乗務員の考えられない重労働で、開戦前からずっと「月月火水木金金」で休養を取らせず猛訓練でしごき続けた

この結果ミッドウェー海戦当日空母乗務員は過労の限界に達していたのでミスを連発し、司令官の南雲中将も間違った判断を連発した

一方アメリカは真珠湾攻撃で主力艦隊が全滅した後はひたすら兵力を温存し訓練や整備を怠りなくし、ミッドウェー当日は万全の状況で迎えました

ミッドウェー海戦の時点ではレーダーはまだ精度が低かったので、日本側が100%の状態なら余裕で南雲艦隊が勝っていたと思われます

どうして負けたかと言うとひたすら個人の努力のみに依存した日本に対し、アメリカは「勝つ仕組み」を半年かけて整えたからでした

負け始めてからの日本はさらにミスを連発し、 何よりも貴重な戦闘機と熟練パイロットを特攻という一回の攻撃で消耗することをやり、しかもそれを上官が「俺が特攻をやらせた」と手柄にして昇進していました

翻るとバブル崩壊前後からデフレの30年間の日本にも、こうした事が山ほどあったような気がします

山本五十六によると勝つ準備を万全に整える事が「必勝の信念」であり兵士の努力に期待するのは愚の骨頂だそうですが、結局彼も精神論の罠に嵌ってしまいました

航空機の整備も点検もせず乗員に休養も与えなかったのでミッドウェー海戦の日には飛べる偵察機がなかった

常識的な事をしてさえいればミッドウェーは勝てた戦いでした
https://www.youtube.com/watch?v=Ff8mcvl5l9s&t=149s

https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html
16:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:23:08

「神風特攻の美談」の真実は
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829504



零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006157

テレビドラマ 零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】(テレビ東京 2015年)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010669

【神風特攻隊】悲惨な作戦はなぜ決行されたのか?真実に迫る!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149832

神風特攻隊~青年たち永遠の飛行
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/421.html

特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/309.html

「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/799.html

神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/564.html

故鬼塚英昭氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html
17:777 :

2024/02/11 (Sun) 17:00:29

映画『永遠の0』ラストシーン
https://www.youtube.com/watch?v=2OFEgOsA5mE

映画『永遠の0』映像集
https://www.youtube.com/watch?v=1vaBEwjncoc

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.