777投稿集 2488859


これが本物の宗教の予知能力 _ 東日本大震災を予言していた長野・諏訪大社

1:777 :

2022/06/09 (Thu) 22:02:51


これが本物の宗教の予知能力 _ 東日本大震災を予言していた長野・諏訪大社

凶事予言していた長野・諏訪大社


諏訪大社下社「世相を占う神事」………… 
 
過去20年で最悪! >

今年2011年の「世相」や「農作物の豊凶」を占う諏訪大社の「筒粥(つつがゆ)神事」が14日夜から15日早朝にかけて下諏訪町の諏訪大社下社春宮で行われ、世相を占う「世の中」は「三分五厘」と厳しい結果が出た。

諏訪大社七不思議の一つに数えられる同神事で、雪が舞う中、神職らは束にしたヨシの茎44本を小豆入りの米とともに炊き、茎に入ったかゆの状態で稲、野菜など43種類の農作物と世相を占った。

神事を終えた北島和孝権宮司は、以下の判断をしました。

①「今年は怖い1年。過去20年間の中で最も悪い結果が出た」。

②「春は早めに訪れるが途中で予想外のことが起き、足をすくわれる」。

③「農作物の豊凶」は「秋蚕(あきご)」「サトイモ」「晩稲(おくて)」の3品目が大豊作、「インゲン」「ナスビ」が不作。


2011年は金融市場は今までの清算を迫られる一年になりますが、諏訪大社の神事でも「怖い一年」ということになれば、これは金融市場だけではなく、一般社会全般が「怖い一年」になるということになります。

株の大暴落か大地震? あるいは大事故? 怖いですね~…………

http://blogs.yahoo.co.jp/snow_torajima/32237928.html
http://33109244.at.webry.info/201101/article_7.html
http://blog.livedoor.jp/nevada_report-investment/archives/3323737.html

東日本を襲った大震災、そして福島第1原発の事故と放射能汚染…。この恐ろしい事態を〝予言〟していた神社があったことがわかった。


今年1月、長野県諏訪郡の諏訪大社下社春宮で行われた神事で占われた結果が「今年は怖い1年。過去20年間で最も悪い結果が出た。春は早めに訪れるが途中で予想外のことが起き、足をすくわれる相」だった。

諏訪大社の下社春宮では、毎年1月14日の夜から15日早朝にかけて、1年の世相や農作物の豊凶を占う「筒粥(つつがゆ)神事」が行われる。

釜の中に米5合、小豆3号、水2升、そして44本のヨシ(葦)の束を入れ、ヨシへのお粥の入り方からその年の吉凶を占うもの。古式にのっとって火は木と木をすり合せてつけ、一晩、寝ずの番でたき続ける。よく当たることから「諏訪大社七不思議」のひとつとされている。

今年の同神事では、農作物について「秋蚕」「サトイモ」「晩稲」の3品目が大豊作、「インゲン」「ナスビ」が不作という結果が出た。問題は「世の中」についての結果だ。示されたのは「三分五厘」という数字。「五分」を最高とする中では厳しい数字だった。

神事を終え、北島和孝(かずのり)権宮司は

「今年は怖い1年。過去20年間で最も悪い結果が出た。

春は早めに訪れるが途中で予想外のことが起き、足をすくわれる相」

と語り、地元紙などに掲載された。

3月11日の東日本大震災とその後の暗い世相を見事に言い当てているではないか。

25日、改めて北島権宮司に話を聞くと、神事では不吉な兆候がいくつも出ていたという。


「まず例年になく、早すぎるぐらい早く火がついた。そしてヨシを入れると、普通は対流に合わせて回るのに、今年はヨシが沈もうとせず立っていたんですよ。

もう20年間神事を担当していますが、過去にこんな動きはなかった。口には出しませんでしたが、イヤな感じがしました」


「上中下」で見る農作物の占いでも異変は起きていた。「基本的に『下の下』とは読まないようにしているのですが、今年はどうやっても『下の下』としか読めないのが数本ありました」。

縁起を担ぎたくても、どうしようもなかった。

「三分五厘」については「満点の五分と読むことはなく、縁起を担いで四分台も言いません。良くて三分八厘、悪いときで三分四厘です。昨年は三分四厘で、本当は今年も四厘と出ていたのですが、氏子さんに希望を持ってもらおうという意味で五厘としたのです」。本当は〝過去最低〟の数字が出ていたのだ。

北島権宮司は、自身の〝予言〟について「地震のことがわかったわけではなく、良くない年だと感じていました」と振り返った。気になるのは「怖い1年」と占った点。この後もまだ悪いことは続くのか?

「被災された皆様は大変な思いをされたと思いますが〝これで勘弁。後は良くなる〟と皆で考えていきましょう。悪いと言葉に出すと悪くなります」
希望を持って生きるしかない。.

http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=12993



05. 2011年4月06日 22:12:56: MiKEdq2F3Q

「筒粥神事」諏訪大社春宮 1月14日


 「小正月に何かの神事があったはず」と調べると、「筒粥(つつがゆ)神事」でした。それは毎年定番のニュースとして流れていましたが、遠い世界の事のように思えて記憶に留めることはありませんでした。

 このサイトは「御柱祭」を紹介するために立ち上げました。平成8年のページが残っていますから、今から7年前のことです。内容は徐々に「諏訪大社」へシフトしていましたが、諏訪大社そのものは、まだ「入口でウロウロしている」存在でした。そんな現状ですから、「筒粥神事は1月15日」と初めて知りました。

 上社本宮に「筒粥殿跡」があります。「跡」ですから、「現在の神事はどこでやっているのだろう」と本を読み進めると、上社ではすでに廃(すた)れていたことがわかりました。併せて、諏訪大社下社春宮では現在も行われ、それが「歳時のニュース」として流れていたことを知りました。

 1月15日、テレビニュースに“聞き目”を立てていると、昨夜から行われた筒粥神事の映像が流れました。小さな社殿の中で、大勢の神職が釜を囲み長いシャモジでかき混ぜています。長野県南部の「霜月祭」は「寒い・眠い・煙い」で知られていますが、ここでは「足のしびれ」が加わり「荒行」とでも言えそうな神事に見えました。

 茎の中に入ったあずき粥の量で農作物と世の吉兆を占う葦束は、テレビ画面では触るのもおぞましいもののように見えました。「葦味の小豆粥」と思えば(一度は)舐めてみたい気もしますが…。一日遅れとなる16日の信濃毎日新聞には、「農作物は全般に良くない見通し」で「世の中は昨年並み」とありました。

 學生社刊『諏訪大社』には以下のように載っています。


 正月十四日の夜半より、春宮筒粥殿内にて忌火を切り、神釜に米五合・小豆二合・水二升を入れて炊き上げ、これに葦茎を五寸余りに切ったもの四十二本を一束にして入れ、十五日早暁神前にこれを供え、祝詞奏上後、各々の葦一本ずつを切り離して、これを割きその中に入っている粥と小豆の分量によって吉凶を占う。神事終了後、結果を拝殿より、参集した群衆に発表したのち木版にしてわけ与えた。古来農家はこれによって農業計画を立てていたが「神占によって耕作するも一も違うことなし」といい、七不思議の一つに数えられている。

 『諏訪史第二巻』には、「御筒粥御炊所若宮祝とある摺物による」として、四十二種の作物を紹介しています。その中から稲だけを追うと「小くま早いね・はびろ早いね・立澤早いね・出羽いね・白佐どいね・ひだいね・しら葉いね・よほいね」とあり、これが幕末頃の品種とわかります。

 「しら葉」を除いて「小熊(諏訪市)・羽広(伊那)・立沢(原村)・出羽・佐渡・飛騨」と地名を当てはめてみました。「よほ」は、諏訪の古代米「諏訪余穂」とわかりました。神託で、この中から今年作付けする稲を選んだのでしょう。


筒粥神事(火入れ) 17.1.14

 諏訪では「どんど焼き」と呼ぶ道祖神の祭りがあります。1月14日の夜に行われるので、この祭りに関わると筒粥の見学はできません。ようやく役員から解放されたのが平成17年です。あとは寒さだけがハードルなので、重装備をして春宮へ向かいました。

 夜8時、宮司を始め神職8人が幣殿前に並びました。幣殿の案に置かれた葦束は三方に載せたまま下げられ、それを高く捧げ持った神職を先頭に行列は筒粥殿に向かいます。一部凍結した雪が残っていますから、沓(木靴)では滑るのでは、と心配してしまいました。

 報道関係者を除くと、参観者という名のギャラリーが数人という寂しい神事です。現代では、占いは「当たるも…、当たらぬも…」という評価ですから世間一般では関心がないのでしょう。しかし、別に見せ物ではありませんから神事は坦々と進行します。

 まず忌火(いみび)を起こします。古式通りという、空木(ウツギ)の錐と桧の板の摩擦で発火させます。手揉みでキリを回転させますが、熱が冷めないように手早く交代できる体勢を取るので神職同士の背中が密着してよく見えません。

 かつてこの神事を見た人から「30分かかった」と聞かされていました。テレビカメラがその瞬間を狙っていますが、「古式にこだわらなくてもいいのではないか」と思っている私は座(撮影場所)を外しました。待つこと○○分。当時の人々には「神の業(わざ)」とも見えそうな発火器具の助けを借りたのか、神職の豆が出来た手が想像できそうな奮闘努力の結果なのかは分かりませんが、煙が上がり筒粥殿内に動きが見られました。

 報道用ビデオライトが当たるとフラッシュ不使用のシャッターチャンスです。30分の1秒ですから(被写体ブレはあっても)手振れの心配はありません。高く掲げたカメラの液晶画面を見ながら静かにボタンを押しました。その中の「ベスト版」が上写真です。フラッシュによる影もなく、焚き火の光源による暖かみのある自然な筒粥釜を切り取ることができました。

 狭い社殿内に「大祓」の唱和が満ちあふれ、神事に相応しい場となっています。普通の調理と同じですから、煮こぼれしないように火力を調整し差し水をします。担当者は葦束の下に大きなシャモジを入れ持ち上げるように混ぜていますが、かなり力がいるようです。

 その一部を覚えられるほど「大祓」が繰り返されます。聞くと、約5分の「大祓」を10回繰り返すそうです。さらに薪の補充と攪拌が続きます。小一時間経過すると、神職一人を残して引き揚げました。後は交代で炊き上げるのでしょう。私も、気が緩むと意識の中心に座りこむ空腹と寒さに、「これが限界」と引き揚げました。

 占いの結果は翌朝発表されます。しかし、同じ朝でも真冬の5時です。筒粥殿の前で誓った「明日また来よう」ですが、就寝時間が近づくに連れて気力が萎え、布団に潜った時点で“潔く”諦めました。


諏訪大社筒粥目録 平成17年1月29日


 同じ頂くのなら神事のあった1月中に、と春宮へ出かけました。授与所に声を掛け、(名前が分からないので)筒粥占いの表が欲しい旨を伝えると、「少し待ってください」と探し始めました。神事から二週間後では“完売”かなと覚悟を決めた頃、「秋宮なら確実にあります」と、この後の行き先を告げてくれました。

 明後日には遷座祭が執り行われる秋宮授与所の巫女さんから、「下の社務所へ」とさらに“転送”されました。初めて見る社務所内は、神職の袴姿がなければ普通の事務所と変わりありませんでした。

 早速、正式名が「諏訪大社筒粥目録」とある一覧表の内容を見ると、はるご(春蚕)・なつご・あきご、とあります。野菜の出来を占うとばかり思っていましたから、「エッ、蚕」でした。もっとも、蚕そのものではなく絹が生成される繭の出来です。天候の変動や病気に左右されやすいことから占いの対象にしたのでしょう。これを見て、今年は秋蚕(あきご)が「上の上」だから、「春と夏は少なめにして、秋で勝負」というような判断をしたのでしょう。

 かつては、よく当たるので『諏訪の七不思議』の一つに数えられていました。私は農家ではないので「作況指数」を知る機会はなく、「筒粥占い」がどの程度当るのかは分かりません。当たり外れはともかく、両者の統計を比べてみるのも面白いかもしれません。

 最終項には「世の中」があります。これだけは「上中下」の組み合わせではなく「三分六厘」でした。五分を満としますから72%となります。100%の世の中とはいかなるものか定義できませんが、とりあえず天気予報で言うところの「平年」と同じに考えることにしました。「それでは、平年とはどういうものか述べてみよ」と言われても困ってしまいますが…。


春宮の筒粥神事(火入れ) 平成21年1月14日 


 「これが春宮か」という工事用のシートで覆われた幣拝殿を見ました。「修復中」であることをコロッと忘れていたので、翌朝の「幣拝殿内での神事をこの目で」はなくなりました。しかし、「神楽殿の中で占う」ことはこの先数十年はないだろう、とプラス思考に切り替えました。

 見回すと、指を折って数えられた4年前とは大違いの、神事を待ち受ける人の多さに驚きました。報道関係者を含めて30人はいるでしょうか。これを見て写真を撮ることは諦めました。筒粥殿は間口が1間しかなく、しかも壇上にありますから、神事を直接見られる(写真が撮れる)のは最前列の5、6人に限られます。

 社殿前に貼り付いている、いつ着火するともわからない瞬間を待つ人垣を遠くに見ながら、氏子総代や出番待ちの取材記者数人と焚き火を独占しました。30分過ぎ、40分を経過すると、輪の中で「異常事態」の声が挙がり始めました。9時を大きく回ると、私と違い仕事で来ている記者にも待ち疲れの言葉が洩れるようになりました。真剣に火を起こそうとしている当事者には力が萎える、簡便な着火方もつい口に出てしまいます。

 ここまで「キコキコ」と伝わってきます。私は「弓切り」で経験していますから、この音では着火しないことを知っています。この分では手の豆はすでに破れているでしょう。明日の筋肉痛も思いやられます。

 9時50分、ようやく火が着いたようです。少しの間の後、待ちかねた「大祓」の声が流れてきました。ここからは、工事用の塀の間を通して筒粥殿が見通せます。その前に陣取る人垣は、10時40分に「大祓」が終わるまで崩れることはありませんでした。前回は「大祓」の映像を撮り終えた報道陣が帰ると、上写真のように筒粥殿内は丸見えでした。“長期戦”に備えて自宅と焚き火を往復している大総代に尋ねると、「二年ほど前から増えてきた」と言います。

 ようやく疎らになった見学者を見て、私の出番と筒粥殿に近づきました。権宮司が見守り“当番”が攪拌する左写真は、フラッシュを使わなかったのでブレ気味ですが、計算した通りの「味のある映像」となりました。

 自宅は、ここから車で40分の距離にあります。「車内で待機」も考えましたが、カメラの低温によるバッテリーの消耗が気になります。心身(主に空腹)の充電も兼ねて自宅へ戻ることにしました。

http://genjin.cool.ne.jp/simosya/tutu.htm


筒粥神事(神占神事) 1月15日


 平成21年。1月15日の神事は初めてなので全く様子がわかりません。“不測の事態”に備えて、コンビニで買ったアンまんと肉まんを腹に収めました。余裕がありすぎる3時半ですが、(昨夜来て)焚き火があるのを知っていますから、車内で待つよりと境内に向かいました。

 夜半の雪がうっすらと境内一面を覆っています。「まずは筒粥殿」とその前に立つと、…扉が閉まっています。現在は「簡略化」が進み、昨夜(0時)をもって炊き上げが終了したのかと思いました。しかし、冷ます時間が必要なことに思い当たり、自分の人生そのものの考えを恥じました。

 周りだけ黒い土を見せている焚き火の番人は昨夜の若者でした。本人は「成り行きで」と言いましたが、氏子総代と思われる父から言い渡されたのでしょう。体の前後を交互にあぶりながら、菅江真澄が天明4年(1784)に書いた筒粥神事の模様に想いを馳せました。

 御社(みやしろ)のこなたかなたに、榾(ほだ)焚きて人集まりて、ワラ靴の氷・袂の霜とかしてあたりぬ。御社の片辺は柱四つ立たる中に鼎(かなえ)すえて、今日の筒粥煮るめる。御神楽の声を聞きつつ待ちいたるに、やがて小さやかなる戸押し開きぬれば、我先にと潜り入るに、脇差のツバに頭打たれ、袖などをかしこの釘に引っかけて、これを撫でつつあと見返りて、…

『信濃資料叢書』から「熊谷本・すわの海」

 焚き火に当たるのはまったく同じですが、私は、ダウンジャケットにマウンテンパーカー。下は2枚重ねの(効果があるのか疑問の)発熱素材のタイツ、ウレタンのインナーブーツに靴用の使い捨てカイロを入れた長靴という重装備でした。

 4時15分、社殿が開かれ準備が始まりました。権宮司が、まだ湯気が上がる葦束を取り上げて三方上に置きました。滑るのでしょうか、慎重な手さばきです。
 すでに“正装”した祢宜(写真左)がそれを捧げ持ち、神楽殿の奥へ安置しました。

 5時前に、神職と氏子総代が神楽殿に着座して神事が始まりました。いよいよの筒粥占いですが、権宮司の背中の動きしか見えません。一本ずつ「上・中・下」を組み合わせた「良し悪し」を声にします。別の神職が書き留めているようですが、ここからは見えません。

 5時40分頃だったと思います。祢宜が神楽殿の廻縁に座ると、報道各社のビデオライトが一斉に点灯しました。占いの公表です。かつては「筆で、懐紙に記録」でしたが、今は「目録」がもらえます。それでも筆ならぬボールペン(鉛筆)で記録している人を見て、私も「古にありけむ人のように」とポケットのボールペンをまさぐりましたが、指先の余りの冷たさに、その手を出すことはありませんでした。

 急ぎて御やしろの下にかがまり集いて、我も我もと押し合いよりて、矢立に息しかけて、今や今よと待ちぬれば、祝、赤黒白の袂豊かに、階段(きざはし)に昇りて、柏手ハタハタと聞こえて後、ややありて、白き袂の祝、筒破りて、なりわい(作柄)の良し悪しを呼ばう。人々、手毎に束短かの筆にて、懐紙に書き付く。こは、米・麦良かりつるよ、今年は世の中よかるべし。「※去年の今日の占い悪しかりと聞こえし毎に、浅間山破れて(噴火して)世の憂いとなりぬ」 この占いの尊さよ。御粥は子(夜12時)の始めより、御橋に日当たるまでに煮やし奉ることは、年毎の試しなりけるなど、声高に語るに、かんわざ(神業・神事)果てぬれば、皆帰りぬ。


※「」内は『秀雄北越記本』で、世相がわかるので加えた。

 神事終了後、参観者のリクエストで、神楽殿の廻縁に割られた葦が公開されました。LCVのビデオライトのサービスもありきれいに撮れました。左右の「青白」が気になりましたが、自宅のモニター上で確認すると諏訪大社の紋が入った手拭いでした。

 筒粥目録をいただくまでは帰れません。授与所内では準備をしているようですが、コピーにしては時間が掛かり過ぎています。6時15分頃にようやく手にした目録を見ると、何と判定が手書きです。古例に倣えば自前の紙に自分で記入すべきですから、神職の多忙さを思い感謝しました。

 授与所の横に権宮司が現れると、一斉にカメラが取り巻きました。「神事は終わったのに何だろう」と早く帰りたい気持ちをいさめて待つと、占いの総括というか解説でした。

『長野日報』の16日付の朝刊では

北林権宮司は

「火のつきが悪かったこと、いつもは(釜の中で)回転する筒が回転しなかったこと、粥が水っぽかったことが気になる。全体的には気持ち上に読んでいるので、少し下だと思ってもらえばいいと思う。水不足が心配。景気はあまりよくない。冒険はせず、うし年であり、確実に一歩踏み出すように。来年の御柱祭に向けて力を蓄えて欲しい」


と述べた。

とありました。確かに、なかなか火が着かなかったのを「この一年の先行きを表している」と考えると、…やはり『諏訪七不思議』でしょうか。昨夜は、市販の「火起こしセット」を購入した方が、と思ったことが恥ずかしくなりました。これで、年頭の占いをズシリと感じると同時に、この先どうなるのかという不安に包まれました。


御柱年の筒粥神事 平成22年1月15日


 修復が終わった幣拝殿で筒粥占いがありました。去年は工事中とあって神楽殿で行われましたから、二度目となる見学は、(私にとっては)幣拝殿で行われる初めての神事となりました。

 以下の写真は、テレビ局のビデオライトの照射に便乗して、フラッシュなしで撮ったものです。“補助光”の恩恵があるとはいえ、シャッタースピードの表示は「1/4」秒です。自分でも不思議に思うほどファインダー内の像が揺れません。「諏訪明神の力添え」を思いましたが、寒さで硬直した体を原因とした方が自然でしょうか。

 「夜空にうっすらと“赤屋根”が」と言っても、このキャプションがなければいつもの幣拝殿に見えるでしょうか。神職が壇上の「筒粥」に向かって拝礼するカットですが、白衣と赤い屋根が予想した以上に効果的に撮れていました。

 ビデオライトが集中していますから、幣殿の奥まで明るく撮れました。フラッシュ使用と比べると、明るさと解像度で劣りますが、より自然に撮れていました。

 右に宮司が着座して神事を見守っています。中央の権宮司が筒を割って判定をします。それを、左の祢宜が復唱して書き留めます。指がかじかむのでしょう。時々火鉢に手を寄せていました。

 祢宜が、今年の占いの結果をまとめて公表しました。菅江真澄は「白き袂の祝、筒破りて、なりわいの良し悪しを呼ばう」と書いていますから、当時は「集計した結果」をまとめて告げることはなかったのかもしれません。その分聞き漏らしがないように真剣に書き留めたのでしょう。

 現在は、実質には、報道関係者に伝え、その記事が歳時記という形に変わっています。しかし、二日通して参観すると、世の中の変化に関わりなく古来より連綿・粛々と行ってきた諏訪大社神職の姿に「諏訪大社の古さ・伝統・“凄さ”」を改めて見ることができました。

 空が白み始める中で、権宮司から「占いの解説」がありました。今年の御柱にも触れて、「トラ年の御柱祭は荒れると聞いている。俺が俺がと前に出ることは止めて、氏子全員が一致協力してお諏訪さまを盛り立てて欲しい」と話がありました。聞き覚えの思い出しなので正確ではありませんが、私には「下社木落しの過熱」を指しているように聞こえました。最近は「お舟祭り」で部外者による乱れが続きましたから、「木落しの華乗り」を巡って暴力沙汰が起こるのを心配したのでしょう。


 「長野日報社」1月16日付の朝刊から、一部を紹介します。


(前略) 吉凶を占った北島権宮司は神事後、

「三分四厘といっても卑下する必要はないと思う。時間や季節の流れが早い年になる気がするので、何事も早めの準備をするといい。良いときと悪いときの波があると思うので、良いときを持続させる努力を」

と述べた。御柱祭にも絡め「今年は諏訪の氏子の力が試される年。自分が自分がと前に出ることなく、協力して踏ん張ってほしい」と話した。

http://genjin.cool.ne.jp/simo-sinji/tutu2.htm

民主党政権になって続発する神社仏閣での変事


2009年10月8日 伊勢神宮「樹齢数百年」巨木倒れる

台風18号の影響で、三重県伊勢市の伊勢神宮では、境内の杉の巨木が根元近くから折れたため、朝から参拝の受け入れを停止。この杉の木は、伊勢神宮の内宮の正殿近くにあったもので、樹齢がおよそ800年、幹の直径がおよそ3メートル、高さが40メートル以上。


2009年10月8日 伊勢の夫婦岩の大しめ縄が切れる

台風18号による荒波の影響を受け、三重県伊勢市二見町沿岸にある夫婦岩を結ぶ、二見興玉神社の大しめ縄5本がすべて切れた。約10メートル離れた夫婦岩を、約35メートルのしめ縄5本で巻き付けるように結んでいた。9月5日にしめかえたばかりだったという。

2009年10月14日 灘のけんか祭りで見物客1人が死亡

14日夕に同県姫路市の松原八幡神社付近で行われた「灘のけんか祭り」で、見物客の男性が神輿にぶつかって死亡。

2009年11月21日 神社の大木が倒れ七五三参拝の女性直撃

福岡市東区箱崎1の筥崎宮(はこざきぐう)(田村靖邦宮司)で21日午前、木が倒れて参拝客の女性が怪我。倒れた木は高さ17メートル、幹回り2メートル25、枝ぶりの幅20メートルのエノキの大木。


2010年3月10日 鶴岡八幡宮のご神木の大イチョウが倒れる

鶴岡八幡宮(吉田茂穂宮司)のご神木とされる大イチョウが、10日午前4時40分ごろ、根元から倒れているのが見つかった。樹齢は800~1000年。

2010年4月3日 三重県の上げ馬神事で上がり損ねた馬が即死

三重県の無形民俗文化財として指定を受ける「上げ馬神事」が、東員町の猪名部(いなべ)神社で行われたが、壁を上がり損ねて転んだ馬が首の骨を折って即死するアクシデントが発生。

2010年4月18日 妻科神社のご神木のケヤキ倒れる

18日午後7時半ごろ、長野市妻科の妻科神社境内で、ご神木のケヤキ1本が倒れた。「どすん」という音を立てて地面に横倒しになったが、けが人や建物などの被害はなかった。翌朝も通り掛かった近くの住民らが驚いた様子で眺めていた。

2010年4月27日 永平寺 樹齢700年のご神木が真っ二つ

福井県永平寺町の曹洞宗大本山永平寺で27日夜、樹齢約700年の杉(高さ約45メートル、直径0・8メートル)が折れ、鐘楼堂に倒れかかり、屋根の一部を壊した。近くの祀堂殿の屋根にもはずみで折れた枝が当たり一部が壊れた。当時、強い風が吹いており、杉があおられて折れたとみられている。


2010年5月8日 長野の御柱祭 ワイヤーが切れて柱が落下し2人死亡

8日夕方、長野県下諏訪町の諏訪大社で行われていた御柱祭で、大木の柱を境内に建てていたところ、柱を支えていたワイヤが切れ、柱に乗っていた3人が15メートルの高さから地上に落下し、このうち2人が死亡。                
      


新潮45 2010年5月号


◆現代に宿る神々を求めて/山村明義

由緒ある神社に去年の春、鳩山由紀夫が願掛けに来た。選挙勝利の祈願だったが、その日の朝なぜか宮司が剃刀でひげを剃ろうとした時手元が狂い、顔から出血し血が止まらなくなってしまったという。


2010年5月5日 神社の祭礼中に馬暴れ6人重軽傷 滋賀・大津

滋賀県大津市長等の国道161号で、長等(ながら)神社(大津市三井寺町)の「5月例大祭」の行列に参加していた馬2頭が突然暴れ出した。このうち1頭に乗っていた男性(30)が落馬し、足の骨を折る重傷。また、馬の手綱を引くなどしていた16~54歳の男女計5人が打撲などの軽いけが。観客にけがはなし。


2010年08月25日 日吉神社境内の国の重要文化財の三重塔が落雷?で出火

岐阜岐阜県神戸町神戸の日吉神社の境内にある国の重要文化財の三重塔から出火、3階部分の屋根裏の一部が焼けた。現場周辺は当時、激しい雷雨だったといい、落雷の可能性があるとみて大垣署が調べている。


2010年09月06日 鹿島神社で樹齢400年の御神木の杉の木が突風で根元からなぎ倒される

宮城県加美町で6日夕から夜にかけて強い風が吹き、同町の鹿島神社で樹齢400年以上とされる神木のスギが倒れた。けが人はなかった。仙台管区気象台は7日、竜巻の可能性があるとみて調査を始めた。

2010年09月08日 三井寺境内の樹齢約300年のシイの大木が倒れる

滋賀県大津市園城寺町の三井寺境内にある樹齢約300年のシイの大木(高さ約10メートル、直径約70センチ)が、台風9号の強風で倒壊。


2010年09月23日 祭りの人混みに落雷、34人重軽傷

千葉県いすみ市大原地区では「大原はだか祭り」が開催されていたが、祭り終了後に神輿の担ぎ手らが終結していた同市立大原小学校の校庭に落雷があり、34人が負傷して病院に搬送された。

2010年10月10日 だんじりに挟まれ男性死亡

大阪府泉大津市で開かれた秋祭りで、だんじりを引いていた同市の男性(28)が別のだんじりとの間に挟まれて死亡した。


2010年11月02日 白鳥神社で樹齢800年以上のご神木のイチョウが根元付近から折れて倒壊

宮城県村田町村田の白鳥神社(村田守広宮司)境内で、樹齢800年といわれる町指定天然記念物の「イチョウ」の大木が根元付近から折れ、倒れた。同町内では同神社から約2キロ離れた倉庫屋根のトタンが飛ばされたほか、店舗の看板が壊れるなどの被害もあった。同町では「突風による被害ではないか」とみている

早いとこ民主党をなんとかしないと、このままでは大変なことに・・・?! 

(コメント)

日本で民主党が政権を取ってから急速に日本の国力や国運が弱まっていて、それに呼応するかのように神社仏閣などで不吉な出来事が相次いで発生している。列挙した事件がそれぞれ違う年に単独で起きたのなら、それは単なる不運な事故で済まされるだろうが、民主党政権の誕生以降に続けて起きると、さすがに偶然では済まされなくなる。これらは何らかの警告であり、神の怒りの表れなのだろうか。
                 

http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-647.html
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-696.html
2:777 :

2022/06/09 (Thu) 22:04:59


【海外の反応】「神秘的過ぎて怖い…」日本神社の存在感が世界中を圧倒!
その別格すぎる美しさに外国人から感動と驚愕の声 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2D_ra_k83mY

上色見熊野座神社 Kami-shikimi Kumano-imasu Jinja - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=e9FHl42lNHo

■【海外の反応】「神秘的過ぎて怖い…」日本神社の存在感が世界中を圧倒!その別格すぎる美しさに外国人から感動と驚愕の声


今回は、熊本県の上色見熊野座(かみしきみくまのいます)神社の鳥居と、
群馬県の榛名神社の双龍門を写した写真からになります。

榛名神社は関東屈指のパワースポットとして大変有名ですが、
上色見熊野座神社も、神秘的すぎる空間を持つ神社として、
近年急速に知名度を上げ、参拝する方も急増しているそうです。

「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる 」
という、西行が伊勢神宮を参拝した際に詠んだ有名な歌がありますが、
神社にそう言った神秘性を見出すのは、何も日本人だけではないようでした。


▲△▽▼


ポケモンが広める神道的な世界観~マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』を読む 2018/12/30
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html


 自然への畏敬を説く神道は世界の諸宗教と両立し、その対立を和らげる可能性を持っている。


■1.ポケモンが広める神道的な世界観

 今年の春、北はフィンランドから南はギリシャまで欧州を回って、おみやげにポケモンのイラスト入りのクリアファイルを配ったら、各地で大人気だった。息子がポケモンに熱中している、とか、孫が大好きだ、など、ポケモンを知らない人は一人もいなかった。

 人間が様々なポケット・モンスターと心を通わせる、というのは、従来のキリスト教から完全にはみ出した神道的な世界観だ。人間以外の様々な生物・無生物に精霊が宿っているというアニミズムは、西洋では「原始宗教」として見下されてきた。しかし、ポケモンに夢中になって育った欧米の子供たちは、キリスト教の神よりも、アニミズムの方に親近感を覚えるようになるだろう。

 サンマリノの駐日大使にして在日外交団長を務めるマンリオ・カデロ氏と外交評論家の加瀬英明氏との対談集『神道が世界を救う』[1]を読むと、神道的世界観が現代文明の様々な問題から世界を救う可能性があることが説かれており、ポケモンがその旗振り役になるのでは、と期待をもった。


■2.「神道は信ずるものではありません。感じるものです」

 カデロ氏は日本滞在40年を超し、すでに80か所以上の神社を訪問されている。本書でも伊勢の神宮の式年遷宮への参列、福岡県の宗像(むなかた)大社の「みあれ祭」への参加などを語られているが、そのうち出羽三山を訪れた時の体験を引用しよう。

__________
カデロ 神道は日本文化の原型ですね。この原型が日本人をつくってきたし、いまもつくっています。
 出羽三山を訪れると、森林の霊気をいっぱいに感じます、
 樹木は、私たちと同じように呼吸しています。
 樹木は人間にとって有害な二酸化炭素を吸い込んで、新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれるから、きっと、霊気を感じるのでしょう。・・・

 三山は、月山、湯殿山、羽黒山の三つの峰ですが、のぼっていくと、木の香がまじった清い空気が胸をみたして、しだいに心身が安らぎます。いきいきとして、豊かな、贅沢な体験ですね。・・・

 樹木や森林が信仰のよりどころとなるのが、よく理解できますね。
 そして、山は、天と大地が接するところだから、霊気を感じるのでしょう。
 それに山は水の源です。現代人は日常、水の有難さを意識することがありませんが、昔の人々は生命(いのち)を支えてくれる水をもたらしてくれる山に、大きな恵みを感じたのでしょう。[1, P31]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 カデロ氏が「神道は信ずるものではありません。感じるものです」と言うのも、こういう体験からである。そして、この感じ方は日本人なら誰でも経験したことがあるだろう。


■3.「宗教」とは「縛る」もの

 カデロ氏の言う「神道は感じるもの」は上記の体験からもよく分かるが、「信ずるものではありません」という言葉は、もう少し説明が必要だ。氏は、対談の中で、こう説明している。

__________
カデロ 神社は、キリスト教の教会や仏教の寺に見られるような、神か仏を「信じれば、救われると、脅迫ーーいや説いたり勧誘したりすることが、まったく行われません。
 神道には、天国も地獄もなくて、賞も罰もないのも、大きな特徴ですね。[1, p76]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点を加瀬氏はこう補足する。

__________
加瀬 英語の「レリジョン(宗教)」も同じようにラテン語を根っこにしていますが、ラテン語では「レリギオ」religio で、レリギオの類語の「レリガーレ」religare は、「縛る、固く縛る、束縛する」を意味しています。
 宗教は、信者をかならず束縛します。しかし、神道は、ユダヤ・キリスト・イスラム教や仏教とちがって、人を束縛する教義や戒律が、いっさい存在していません。[1, p46]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「宗教」とは「縛る」ものであり、「人を束縛する教義や戒律」からなる、という定義を踏まえれば、神道は「宗教」ではない、というお二人の指摘が腑に落ちるだろう。さらに、カデロ氏は、神道は宗教ではないから、他の宗教とも両立するという。

__________
カデロ 私はイタリアの古都であるシエナで、カトリックの家庭で育ちました。・・・
 幼児洗礼を受けたカトリック教徒なのですが、キリスト教徒であることと神道を受け入れることに、何一つ矛盾がないと確信しています。[1, p40]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.「神道は他宗と競おうとまったくしない」

 宗教が発達すると、それを専門に説く神父やお坊さんのような人々が現れ、それが組織化されて教団ができる。

__________
カデロ いったん教団になると、その教団の力を増すために、できるだけ信者を増やして財力を蓄えなければなりません。
 だから、他宗がすべてライバルとなって競争します。
 コンビニ業界の激しい競争と似ていますね。(笑)
 すると、教団を維持し拡大することが、目的となってしまいます。
 しばしば信仰そのものよりも、教団を維持し拡大することのほうが、目的となってしまうのですね。[1, p75]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
カデロ 他宗の信者を、神道に改宗させようともしませんね。
 神道は他宗と競おうとまったくしないからですね。
 このような宗教は、世界のどこにも存在していません。[1, p49]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 宗教どうしの競争をコンビニ業界に譬えれば、神道とは競う合うコンビニ店の間に挟まれた公園のようなものだ。公園はコンビニ店とは競わない。ただ双方のコンビニ店の客も店員も、一緒に一休みできる場所である。


■5.「わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」

 仏教も宗教として教団を持ち、信者を得ようとする。しかし、その激烈さにおいて、ユダヤ・キリスト・イスラム教は特別だ。

__________
加瀬 キリスト教に、全能の神から授かった、「モーゼの十戒」としても知られる、「天主の十戒」がありますが、第一戒目が「あなたは、わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」というものです。・・・

カデロ ユダヤ・キリスト・イスラム教は、自分だけが絶対に正しいから、他宗がすべて邪教となっているのですね。[1, p48]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そのために、これら一神教は他宗教の神殿や彫像破壊を平気で行う。アフガニスタンのバーミアンの石仏をイスラム過激派のタリバン政権が爆破したが、こうした蛮行はイスラム教に限ったことではない。

__________
加瀬 ローマ帝国がキリスト教化すると、キリスト教徒によって、異教ーー邪教となった多神教の神殿や、彫像、列柱が、帝国の全域にわたって、手当たり次第に、無残に破壊されましたね。[1, p104]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 破壊だけではなく、殺戮も行う。それも他宗どころか、同じ宗教内の他宗派との間で殺し合いをする。

__________
加瀬 今日、中東と北アフリカでは、イスラム教の二大宗派であるスンニー派とシーア派が、アフガニスタン、イラク、シリアから、イエメン、リビアにいたるまで、血を血で洗う凄惨な抗争を繰り広げています。・・・
 イギリスは、もちろん、超先進国の一つですが、ついこのあいだまで北アイルランドにおいて、カトリックとプロテスタントが殺し合って、四千人近くが犠牲になりました。[1, p102]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
カデロ キリスト教も、イスラム教も、同じように愛を説いているはずなのに、そのかたわらで宗教が激しい憎しみを生むのは、本末転倒であって、恐ろしいことですね。[1, p104]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これが「高等宗教」の現実である。


■6.「人間が自然の支配者」

 一神教のもう一つの特徴は、人間と自然との特異な関係である。旧約聖書の冒頭の「創世記」には、こういう一節がある。

__________
 神は自分を象って男と女を創造した。神は人を祝福して言った。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点について、加瀬氏はこう指摘する。

__________
加瀬 一神教は、人間の天下ですね。人間が自然の支配者であるから、人間が自然を望むままに、“煮ても焼いても”好きなようにしてよい、というものですね。
 そして、ユダヤ・キリスト・イスラム教では、自然は敬うべきものでも仲間でもありません。
 自然は下僕(しもべ)か奴隷であって、人が征服したうえで、自由に使い捨てて役立てるべきものなのです。[1,p82]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
カデロ 「シビリゼーション Civilization」(文明)の「シビル civil」は、「礼儀正しい」「人にやさしい」「親切な」という意味ですからね。
 でも、いったい、空気や水を汚し、森林や熱帯雨林を切り拓き、珊瑚礁を破壊するのがシビルなのでしょうか。(笑)[1, p93]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 カデロ氏は、「人間が動物の上にある」という傲慢な発想は、牧畜が始まって、人間が家畜を飼育するようになったからだろう、と推察している。中東地域はもともと緑が豊かだった。そこに土地への負担の大きい牧畜や麦作を何千年も続けたために、砂漠になってしまった。その砂漠地帯に生まれたのが、「人間が動物の上にある」という特異な自然観を持つ宗教だった。

 それに比べて、神道が発達した縄文時代の日本列島では、豊かな自然の中で、その恵みをいただいて生きていた[a]。だからこそ、「人間が動物の上にある」という発想などは生まれようがないのである。多くの欧米人の先祖であるゲルマン人やケルト人はもともと森の民だった[b]。だから、神道的な世界観は彼らにとっては幼児期を過ごした故郷のようなものだろう。


■7.神道の感じ方が示す道

 冒頭で紹介したカデロ氏の「樹木が新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれる」という受け止め方には、人間と樹木が同じ生命(いのち)として、共に生きている、という感じ方がある。山は水の源として「大きな恵みを感じた」ということは、山への感謝である。

 現在の日本列島が世界有数の人口密度と経済規模を支えながら、緑地の比率でもフィンランド、スウェーデンに続いて先進国中三位という豊かな自然を保っているのも、この神道の「人間は自然の中で生かされている」という感じ方が今も日本文化の中に根づいているからだろう。地球環境の危機が叫ばれる中で、欧米でもこの神道の感じ方に近い環境意識が高まってきている。

 しかも、神道は自然を崇め、その恵みに感謝する「感じ方」であるから、宗教の違いを乗り越えて、人類が共感できる。カデロ氏がカトリックでありながら神道に共感できるように、イスラム教徒も仏教徒も、そして共産主義者ですら、神道には共感できるだろう。

 人間の窮屈な理性の束縛から、しばし脱して、共に自然の恵みをありがたく感することが、宗教やイデオロギーの対立から逃れる一つの道だろう。それは世界平和への道である。


■8.サンマリノに創建されたヨーロッパで最初の神社

 サンマリノはイタリア半島の中東部にある世田谷区ほどのミニ国家で、4世紀の初めに建国された世界最古の共和国と呼ばれる。この世界最古の共和国と、世界最古の君主国・日本との友好協会の会長が加瀬氏である。

 この友好協会の提案により、ヨーロッパで最初の神社がサンマリノに創建された。サンマリノには、欧州全体やアメリカなどから多くの観光客が訪れるが、このサンマリノ神社が神道と日本文化を理解するための文化センターの役割を果たすだろう。

 毎年6月にはこの神社を中心に、「ジャパン・フェスティバル」が催され、さまざまな和食を提供する屋台が並び、夜には提灯行列が行われる。

 日本の神社というと、はじめのうちはキリスト教と競合する、奇妙な宗教だという誤解も一部にはあったが、お祭りを通じて、神道が自然崇拝の営みであって、宗教と両立するものだ、ということが、しだいに理解されるようになってきている、という。

 今年の訪日外国人観光客数が3千万人を超え、世界各国で日本食がブームを呼び、子供達はポケモンに熱狂する。それらを通じて神道的な世界観は、無言のうちに自然への畏敬をひたひたと世界中に広めつつあるようだ。それは人間を宗教的対立と環境破壊から救う道でもある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「まえがき」、「縄文・弥生・古墳時代の独創性」
伊勢雅臣『比較 中学歴史教科書-国際派日本人を育てる』、勉誠出版、H30
アマゾン「中学生の社会」1位、「教科教育 > 社会」1位、「日本史」11位、総合252位(H30/11/10調べ)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585222251/japanonthegl0-22/

b. JOG(070) フランスからの日本待望論
 現代人をして守銭奴以外の何者かたらしめるためには世界は日本を必要としている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog070.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』★★★、勉誠出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585210482/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html


▲△▽▼

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________

 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________

 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________

神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx
3:777 :

2022/06/09 (Thu) 22:06:28


廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html

 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html
4:777 :

2022/06/09 (Thu) 22:06:54


 僕はある禊の会に入っておりまして、ときどき禊の行に行くのですけれど、四月に行った時は、ロシア人が団体で来ておりました。
聞くと驚く方が多いと思いますけれど、ロシア人も神道の禊をやる人たちがいるんですよ。

モスクワにも道場があるんですが、やっぱり本場の日本で本格的に修行したいという人たちが来ているのです。この時はロシアの人とベネズエラの人が来ておりました。

道場は祝詞を唱えたり、座禅を組んだりという行をしているところですから、もともと外国人の参加なんか予測していないし、もちろん外国語が堪能な人が揃っているわけではない。

 来たロシア人たちは英語もあまりわからないということで、どうやって意思疎通するんだろうと心配しておりましたら、道場長が、「これがあるから大丈夫」と言って、小さな機械を見せてくれました。Pocketalk という手のひらサイズの自動翻訳機械でした。まさに『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」でした。そこには60ヵ国語が入っていて、ボタンを押して、日本語を言うと、外国語になって音声が出てくる。外国語音声を入力してもらうと、日本語の音声に訳される。さっそくロシア人たちとその機械で会話をしてみました。

 僕はそういうガジェットに目がないので、家に帰ってすぐにAmazonで検索して、購入しました。SIMカードを入れると世界中どこでも使える。それが3万円台。仰天しました。いつの間にこんなものが・・・と思いました。われわれの知らないうちに、テクノロジーはどんどんと進化しているわけです。AIの「シンギュラリティー」が来ると産業構造が変わり、雇用環境が激変するとさかんに報道されていますけれど、そんな先の話ではなくて、自動化・機械化はあちこちでもう起きているわけです。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html
5:777 :

2022/06/09 (Thu) 22:12:23


日本古来の村の背後に必ず「姿の良い山がある」
そしてその山の麓に鎮守の森があって、それが等しく街村の裏手や奥に鎮座する村氏神を構成している

三輪山 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1


■■マチ ――日本的集落の構成原理に関するエッセイ
薗田 稔
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sanoda2.html
 

「季刊 悠久」(第83号、鶴岡八番宮悠久事務局、平成12年10月)

 

■はじめに

 

 この小論を書くに当たって、久しぶりに柳田国男の『時代ト農政』を緩いているうちにふと少年時代のなつかしい記憶が鮮やかによみがえった。中学生の夏休み課題研究に「都市の発生」というテーマをとりあげ、数日のあいだ町の図書館に通いつめて城下町や門前町など、いくつかの類型をまとめてみたという思い出である。その頃に都市への関心が芽生えていたとして、もし当時この柳田の著作に触れていれば、少しは早く関心を深めることができたかも知れない。もっとも幼稚な知力では、柳田の周到な立論に到底歯が立たずに終わったにちがいない。それは、大人になって一度確かに読んだはずなのに、今また改めて通読すると、いまさらに柳田の先見的洞察の鋭さと確かさに驚かされたからである。顧みてみずからの愚鈍さを恥じつつ、大先覚に導かれて一考を供したい。

 

■一、都市化の文明と町づくりの文化

 

 明治以来の都市計画のなかに、はたしてどれほど日本在来の集落形成への配慮があったのか。専門を異にする筆者にこの点を確認する余力はないが、おそらくは殆ど皆無ではなかったろうか。文明開化を旗印にした西欧化の大波は都市改造にも及んで、東京、京都、大阪をはじめ全国大小の都会が鉄道の開通から駅周辺を中心に、もっぱら欧風の街路を模倣するばかりに汲々として、そこには近世に培ったはずの町並み文化を活かす気配が少しも見出だせないのではなかったか。しかもその傾向は、第二次大戦後の焦土と化した都市の復興にも更に強まり、今度はアメリカ風のもっぱら産業経済の効率化のみを追求した無機的な都市改造が推し進められて、今では国内どこの都市をみても、およそ無表情なコンクリート・ジャングルやヒート・アイランドばかりの羅列と化してしまっている。そこには、それぞれ土地の風土に根付いた個性的な景観を活かし、伝来の地方色豊かな町衆文化を更に高めることで、おのずから住民の文化的な帰属意識を高めるような配慮が少しも感じられない。要するに、いわゆるグローバル化を至上とするアメリカの資本主義文明を上質の文化とはきちがえて、日本の大都市がますますアメリカ化しつつ文化的個性を喪失してしまっている。およそ文化とは永い歴史風土に培われてこその伝統的個性のものである。たとえ経済が破綻しても民族は滅びないが、文化を喪失すれば民族は滅びてしまう。自動車や電話がグローバル化するように、情報言語に便利だからといって日本語を英語にすげ替えるならば、日本文化が破壊され、日本人の国際的自負も失われよう。

 国内の大都市がますます文明のグローバル化を強めるなかで、それに立ち後れる地方の小都会が辛うじて伝存してきた文化的個性を今や逆手にとってマチおこしの武器にし、大都市民が見失った生活共同の潤いと魅力を発揮しようとしているというのが、現今の実情ではあるまいか。

 柳田は、明治四十二年二月の「町の経済的使命」と題する講演のなかで「大体日本の町の発生にはよほど欧羅巴の多くの町と異なった点がある」とし、「西洋の町は其発生の当初から町自身の為の町でありましたが、日本の町は本来一郷一荘園の便宜の為に作ったもの」であり、また「日本では町と村とは決して類の差ではありませぬ。一郷の中心を為す町区域の比較的よく発達した所が自ら町と称し、其他のものが村と称するに過ぎないのです。所謂京に田舎ありで、大多数の町では些も農業をやらぬと云ふ町は有りませぬ。(中略)従って町と称しながら三方里五方里の大地域を含み深山を含むといふことば、名義上をかしいやうではありますが、そこが我國の特色で又町行政の問題の今後一層研究せられねばならぬ点であります」とも指摘し、さらに「寧ろ嘗て発生した町を健全に育成して、個々の盆地に或程度迄の割拠経済を容さねば、大市街ばかりが振って田舎の衰微を免かれぬことンなるの興があります」とまで警告している。翌年公刊の『時代ト農政』の第三章に所収のこの講演のなかで、柳田は早くも日本に特有の集落原理に基づいたマチづくりを提唱しているのである。

 その当時からすでに九十年を経て、時代は予想をはるかに超えた社会変化を来した今において柳田のこの提唱がいかに活かせるかはともかくとして、少なくとも日本古来の精神文化にふさわしいコミュニティ原理の一端を検討してみたい。

 

■二、農村集落のコミュニティ原理

 

 柳田が指摘している日本の町とは、平安時代後半から発達した私領の荘園ごとに自立してきた地方経済に沿って自ずから成立した交易の市ないし市場を起源とするコミュニティのことである。広範囲にわたる山野を含む中世荘園がやがて複数の農業集落を形成するなかで、荘園を管理する政所とか仮屋の付近には必ず町屋や市場が出来、これがマチの原型のひとつだという。

 わたしは、柳田の指摘する経済史的な日本に固有の町の発生因のほかに、もうひとつ遡った日本人の生活史的な文化の要因をも考えてみたい。それが、住民たちの生業や生活を支え、しかも安住の心を満たすべき心象風景たる家郷景観ともいうべき集落形成因である。具体的には、灌混用水の水源とも狩猟採集の資源ともなる里山や奥山が、また神々や祖霊が鎮まる霊性の世界でもあって、その象徴的な延長なり派生が集落に接する〈鎮守の森〉だという、今でもなお全国の古い集落の村や町にほぼ等しく見出だされる景観に着目してみたいのである。

 かつて農村工学の神代雄一郎は、日本の風土や文化にふさわしい農村のコミュニティ原理を発見するための実態調査を積み重ねるなかで、中国大陸や欧米に広く営まれてきた「広場村」つまり集落の中心に公共的な広場をもつコミュニティとは極めて対照的な「街村」、つまり一本の道路の両側に家並みが連なるという、彼が「紐状集落」と名付けた集落形成が日本の農村にほぼ共通する特色であることを見出だしたが、さて彼が当惑した点は、この街村を住民たちのコミュニティたらしめる公共の中心がどこに発見されるかということであった。近年しきりに国内各地で発掘される弥生時代の環濠集落も含めて大陸的な広場村であれば集落中央に共同の広場があって、現存する史的形態ではそこに集会のホールや神殿ないし教会の施設が歴然とコミュニティの中核を明示するが、彼のいう日本の「紐状集落」には、日本語のムラの語源である家々のムレ(群れ)を成すにしてもそのムラを統合する中心施設がその内部に見当らないことに、彼は当惑したのであった。しかし苦心の末に神代がこの当惑を解消した結論は、村の背後にいずれも「姿の良い山がある」という命題であった。そしてその山の麓に鎮守の森があって、それが等しく街村の裏手や奥に鎮座する村氏神を構成しているという形態こそが、一見しては家々の群れでしかない農村集落が、それでも村落協同体を実現し保持する文化的な仕組みであることを、神代は発見したのであった。彼が論じるその仕組みとは、まず道路を挟む「向こう三軒両隣り」という六戸の近隣単位があって街村全体が「往還」ともいう表通りを日常的には〈社会経済軸〉にして、外部の他町村とも交流しているが、毎年の春秋などの氏神祭礼には街村の裏手に当たる鎮守の社を通して神体山の神が神興などの行列を成して出御し、集落の「往還」をいわば横断ないし縦断する形でその一角や耕地や或いは川岸や海浜の臨時祭場(仮宮・旅所)に招迎される。こうして祭礼において出現する氏神往復の「神の道」こそが非日常的な〈宗教軸〉であって、この際にこれが〈社会経済軸〉たる「往還」と交錯する地点がいわゆる「ちまた(巷=道股)」ともなって、そこに聖なる「市」が立つコミュニティの中心が出現するというわけである。

 

■三、神社と「市」の宗教的起源

 

 わたしは昭和五十六年から三年のあいだ、当時の九学会連合での「風土」を課題とする共同研究として奈良県の大和盆地全域の古典的な神社祭祀を踏査したことがある。その折りには、古代律令の神祇官祭祀に対応する古社群として、盆地を取り囲む奥山に祀る〈水分神〉と、周辺山麓に配置された〈山口神〉および盆地内に営まれた朝廷直轄の荘園ごとに祀られた〈御県神〉とが、大和盆地全体の地勢と水系に応じて有機的に配置され、全社が盆地の治水と灌漑を制する、いわば「風土祭祀」を構成していたことを明らかにしたのだが、実はこの調査でもうひとつ気付いたことは、奈良県内各地の集落に古く「市」を示す地名が多くあって、しかもその地にはそれぞれ古い由緒をもつ神社が近くに鎮座していることであった。

 たとえば、中山太郎が昭和五年に著した『日本民俗学3歴史篇』の「神社と商習慣」を論じた一章において、古代における市場と神社との密接な関係を指摘しており、記紀や風土記、万葉集などに登場する市場の多くが神社関係の地にあったのは、古代集落の住民生活が氏神社を中心とするものであったから、交易、売買の市場が神社の境内ないし隣接の地に開かれて神社の管掌に属していたのも当然だったと論じている。そして挙げられた事例には『古事記』に見る大和高市の市場が鴨事代主神社の付近であり、同じく十市の市場が畝傍山東北の十市御県神社の境内であり、また『雄略紀』にある河内古市郡の地名を成した餌香市も住吉神社の付近、『万葉集』で柿本人麿が長歌に詠んだ軽の市も軽神社に属するなどがある。さらに中山は、万葉集の歌垣の歌で有名な海石榴市や『枕草子』に載る「たつの市、あすかの市、おふさの市」なども神社に近いことを推察しているが、今では桜井市金屋に比定されている海石榴市は三輪山山麓の志貴御県神社の門前であり、たつの市は龍田神社に関係し、あすかの市も飛鳥坐神社の足下に市場を成したと思われる。そのほかわたし自身で確かめた例では、三輪山に祭神を祀る大神神社の門前集落に三輪市があったこと、および宇陀川沿いの宇太水分神社(中社)の門前町が「古市場」という地名で実際に近年まで定期市が立った名残りがあるなど。また名残りといえば、今は天理市と改名された旧丹波市町の中心街には今でも丹波恵比寿を祀る市神社に接する広小路が残っていて古い市町の家並みが存続している。

 なお、宇陀の古市場や三輪の市場には関係した神社とは別に市神社があって、丹波市と同様に市杵島姫神や恵比寿神を祀っているが、これらは中世以降に流行した市神を、氏神の祭礼市から定期市に発展するにつれて特に勧請したものと考えられる。なぜなら、たとえば三輪の古市場に鎮座する恵比寿神社が今でも大神神社の例大祭での神幸祭にはその御旅所となっているところをみると、おそらくは古来の祭礼で氏神を迎えてこそ成立した年に何度かの祭礼市であったものが、やがて月に三度か六度という、つまり三斎市か六斎市という定期市に発展するなかで市場に常在する市神を必要とする段階に恵比寿神を御旅所に勧請したという経過を、この事例が示しているからである。中山太郎も前掲の書中で市神としての恵比寿神のことに触れながら、たとえば、鎌倉・鶴岡八幡宮の境内に恵比寿神を勧請したのは『吾妻鏡』によると健長五年だが、その頃は鎌倉大町小町(マチとは市場の意)以外に、八幡の市が祭日ごとに立ったのだろうと推考している(同書一四一頁)。

 そもそも「市」は、古代社会にあっては交易自体が非日常的なアジールの聖なる場所に成立するものであって、それが宗教的起源のものであることは、たとえば民族学者の松村武雄がその大部な著書『宗教及び神話と環境』(昭和十九年刊)のなかで海外の研究報告などを交えて広汎に詳しく論じている。彼によれば、「実際すべての民族に於て、古くは市場は一の聖場であった」のであり、「前期的商経済」では取引そのものが呪術宗教的実修で聖性のものだが、「純粋商経済」では取引そのものは非呪術宗教的な実修で俗性的である。そして「前者から後者への推移期の商経済に於ては、取引それ自体は聖性的でないが、しかし神の管掌の下に行なはれることを不可欠としてゐる」(同書八九〇頁)と説く。松村は、日本におけるその事例については、中山太郎の前掲書が例にとりあげたものをほぼ全面的に踏襲しながら、「市日の起源が神社の祭日にあることは、市場のある所を町(マチ)と言った一事に徴するも明白である。(中略)即ち町の語源は祭の意味の転化であって、現に今日でも祭をマチと称へてゐるところは、各地にある」(前掲書一四四頁)という中山の文章を引用してその見解に賛意を示しているのである。

 

■四、マツリがムラのマチ化という集落原理

 

 日本の民俗語彙として、マツリがマチとも呼ばれ、またマチがイチと同義に使われてきたことは多くの例が示すところである。民間の年中行事である日特、月特、二十三夜待、庚申待のマチが事実上のマツリであることはいうまでもないが、たとえば関東の名だたる都下府中・大国魂神社の例大祭である「国府祭」は地元ではコウノマチと読み慣わし、また同じく相模一宮寒川神社を中心とする「国府祭」もやはりコウノマチと呼び慣わすのが土地の伝統である。さらに挙げれば、筆者の奉仕する埼玉県屈指の古社・秩父神社は、かつて神仏習合時代に妙見菩薩と習合して秩父妙見宮を名乗り、その大市が立つ大祭を「妙見祭」と書いてこれを妙見マチと言い古す地元民がまだ少なくない。この妙見祭は古くから師走に近い霜月の祭であり、少なくとも江戸中期から「蚕まつり」とも呼ばれて年末最後の絹の大市が立ち、しかも「妙見崩れ」という荒川沿いに秩父往還から中山道を江戸に向かい日を追って歳の市となる、その起点となるために関東から東北までの露天商が今でも千軒を超える「妙見の高市(タカマチ)」でもあるから、文字通り「妙見祭」は「妙見市」でもあった。

 一方、イチをマチと同義にして両語を言い換える例も枚挙にいとまない。特に近世の農村地帯に盛んであった「日限市」「特に月に三度の三斎市が立つ市場では、三日市、五日市、六日市、八日市、十日市などはいずれもイチともマチとも呼び慣わして地名になる例が多い。交易が盛んな土地では、六斎市が立って月に六度の定期市が立つような集落にはイチバともマチバ、あるいは村方にたいする町方とも称され、やがて常設市として市町を名乗るようになった。しかもそうした市町や市場町は近くの有力な神社の門前市に由来しているか、あるいは市場の一角に市神を祀って市の安全や繁栄を祈っている例が多いが「いずれにせよイチがマチであることは、ムラにとってのマチがすなわちマツリという祝祭の非日常的な時空間であって、人心が沸き立つような賑わいと交易や芸能が盛んに営まれるコミューナルな現象世界であることを意味している。日本語の二分範疇を使うならば、日常のケ(褻)の状態にあるムラ社会が時に非日常的なハレ(晴)のイチやマチの状態の実現をめざすことになる。その意味で、マツリは本来ムラのマチ化を指すのであって、それが盛んで力強いマツリであればあるほどムラに活気あるイチ化やマチ化をもたらすことになる。つまり本来のマチはムラの外にあるのではなく、まさにムラの内にこそあったのである。

 

■結びに代えて

 

 すでに本稿が予定の枚数を超えて直ぐにも論考を止めねばならないが、実はもう一つ言及すべき大事な論点がある。

 それは、柳田が「町と称しながら三方里五方里の大地域を含み深山を含む」といゝ、また神代が村の背後に「姿の良い山がある」といったように、日本の集落構成には周囲の自然風土や景観がコスモロジーとして参入してこそ家郷性を帯びたコミュニティが完成するという原理である。別に言いかえれば、古来日本人の神聖な秩序観念には、日常的なコスモロジーの中心を人工的な生活世界の中央に見える形で求めるのではなく、むしろ生活世界の「奥」ないし「源」とも言える周縁的に隠れた形に求めるという傾向が強いのである。そのことは、たとえば国語学の阪倉篤義など近年のカミの語源論の成果にみるように、日本語のカミには本来的に水源の山谷にひそむ隠れた生命的霊性を指す意味がある。偶像など形を見せぬ神霊は、豊かで清浄なカムナビ(神山)やモリ(杜)、ヒモロギ(神樹)やイワクラ(神石)などをヨリシロ(憑代)にして宿る精霊であって、里宮である神社も普段は深い鎮守の森こそが祭神が奥深く鎮まることを暗示する。

 

したがって村が町になり都市になって結果的に神社が市街地に囲まれても、基本的には鎮守の森深く鎮座する形で日常的には森の自然に籠もるという様式は変わっていない。そして住民たちは、大陸的な都市集落のように都心に天高く費える大聖堂の威容に安心するのではなく、むしろ周辺風土の豊かな自然の霊性を鎮守の森に迎え人れているというコスモス的な「奥」ないし「本源」という形象に、家郷としての精神的安定を得てきたことを見逃すべきではない。

 

 この点については、建築学の榎文彦や上田篤が都市の路地裏の神社や鎮守の森の意義に関連して論じてきたが、近年ではフランスの地理学者オギュスタン・ベルクが彼の邦訳書『空間の日本文化』(昭和六〇年)のなかで「奥」や「裏」を日本的空間の特性として本格的に論じているが、本稿では止むなく言及を割愛する。

 とにもかくにも鎮守の森が、日本的集落のコスモス的座標として、しかし集落の中央を占めるのではなく集落の周縁にその「奥」を構成し、しかも背後の住民生活を支える霊的な風土をも表象するという、いわばコミュニティ文化としての家郷の造形は、明治以来の都市文明化の大波にほぼ埋没してしまったかに見える。

 

 しかしながら近世中期に住民百万に達する大都市であった大江戸には八百八町の町人街の随所に、いわゆる「紐状集落」が密集してそれぞれ横丁の奥に鎮守の森が鎮座していたし、各所からはっきりと望見できた富士山は、いわば江戸町民にとっての神体山であったから、遥拝や登拝に不便な町では鎮守の境内に 「富士塚」という造り山を設けることさえした。

 大正九年(一九二〇)という近代に創建された明治神宮は、旧代々木御料地の約七十万平方米に及ぶ広大な土地に全国からの三六五種十万本の献木を植樹した一大人工林を神苑とするが、今では名実ともに大東京の総鎮守となったことは正月初詣での参拝者数の一事だけでも認められよう。その理由には、御祭神に明治天皇と昭憲皇太后という文字通り近代日本を象徴される尊い神霊をお祀りすることもさることながら、もう一つは大都会の一角を占める大森林の奥深くに鎮座する神宮のたたずまいそのものが、首都圏に住まう現代日本人の心にも伝えられた神聖に触れる古来の潜在意識に訴えるものがあるのではあるまいか。

 

(そのだ みのる・秩父神社宮司・京都大学名誉教授)

 

註:マチ――祭・市・町に関する次の3氏の鼎談は大変おもしろので是非御覧ください! 

薗田 稔(秩父神社宮司・京都大学名誉教授)

竹林征三(富士常葉大学 環境防災学部教授・附属風土工学研究所所長)

田代順孝(千葉大学園芸学部教授)
 
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sanoda2.html
6:777 :

2023/12/30 (Sat) 17:52:31

「和の道」神道 ・日本文化チャンネル - YouTube
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16832889



日本の太陽崇拝、磐座崇拝、モイワ山崇拝、鳥居の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14136221

冬至と夏至の古代太陽信仰
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131739

日本列島の巨石文化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132954

縄文時代の人々の言葉・食べ物・服装・道具や 遺跡・土器を学ぼう
https://www.jomon-jidai.com/
https://www.jomon-jidai.com/sitemap
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131837

神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html

縄文人の蛇信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/200.html

東洋ではどんな分野の達人でも超能力者
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html

弥生人の鳥信仰と太陽信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

日本人の海民性
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/693.html

東漢氏の遺産「祓いの神道」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/209.html

西暦400年前後に、秦氏(弓月氏)が、百済の民、数十万人を引き連れて日本に移住してきた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/550.html

大阪住民の半数は渡来人の子孫
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/780.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html

ヤマトンチュには絶対に話してはいけない パナリ(新城)島の秘密
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/706.html

沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

縄文時代・弥生時代の日本の原住民の信仰
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/387.html

琉球の古神道
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/386.html

アイヌの信仰
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/385.html

アイヌの食文化、狩猟採集民・原始農耕民の料理
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14017000

神仏習合の日本仏教
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/383.html

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/795.html

神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html

現在の天皇一族は全員クリスチャン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/783.html

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.