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氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。

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2022/06/05 (Sun) 14:48:17


氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。


更新世(約258万年前から約1万年前までの期間。そのほとんどは氷河時代であった)と完新世(最終氷期が終わる約1万年前から現在まで)において劣等民族の殆どは皆殺しにされ絶滅した。


日本列島「本土」の人類集団も、縄文時代と現代の間における遺伝的には置換に近い事例として把握しても大過ないでしょう。仮に、日本列島「本土」現代人集団のゲノムにおける縄文時代集団的な遺伝的構成要素のうち一定以上の割合が、新石器時代の朝鮮半島南岸に存在した集団(Robbeets et al., 2021)に由来するならば、日本列島「本土」では縄文時代と現代との間に人類集団のほぼ全面的な遺伝的置換が起きた、と言えるかもしれません。

一方で、朝鮮半島においても紀元前千年紀後半以降に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きたと示唆され(Robbeets et al., 2021)、朝鮮半島から日本列島へと到来した人類集団は、弥生時代早期~前期と古墳時代~飛鳥時代ではかなり違っていた可能性があり、日本列島「本土」現代人集団の人口史を「縄文人」と「渡来人」との二元的融合で単純に把握することは妥当ではないでしょう(Cooke et al., 2021)。


具体的には

1.日本の縄文人は僻地以外では殺し尽くされ、ほぼ絶滅した。

2.弥生時代早期~前期の渡来人は日本語を話す朝鮮無土器文化人。

3.古墳時代~飛鳥時代の渡来人は百済語を話す漢民族系朝鮮人。

4. 天皇一族は福岡の伊都国に植民市を作って奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人。


詳細は


アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫、アイヌ語は縄文人が話していた言葉
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オホーツク文化人の起源とアイヌ人との関係
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朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
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被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
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琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
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天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
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神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
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邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
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天皇の Y染色体が縄文人と同じ D1b だというのはデマ
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雑記帳 2022年06月05日
人類史における連続と断絶
https://sicambre.seesaa.net/article/202206article_5.html


 人類史における連続と断絶の問題については、文化変容・継続と遺伝的構成の関係を短くまとめ( 1および 2)、現生人類(Homo sapiens)に限らず人類史の観点でやや長く述べ( )、おもにアジア東部を対象として昨年(2021年)一度まとめました( )。この昨年のまとめ記事では見落としがあり、その後の関連研究の進展もあるので、この記事にて再度整理します。昨年の記事からまだ1年弱しか経過していませんが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)について2019年5月にまとめて( )から3年以上経過し、その後の研究の進展を踏まえてまとめ直そうとずっと考えているものの、当ブログで取り上げただけでもそれなりの数になり、再度整理する気力がなかなか湧かないので、人類史における連続と断絶の問題については、過去記事からの流用が多くとも早いうちに改めてまとめておこう、と考えた次第です。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。

 これは現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、 )。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに親和的で、内在的発展を重視する歴史観とも関連しているかもしれません。中国の人類進化研究においては1981年の時点で、現在の中国の領域における人類進化の長期の連続性が前提とされていました(呉., 1981、 )。この傾向は2008年頃でも変わっていなかったようで、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、 )。

 さらに、中国のこの傾向は現在でも変わらないようです。真偽不明ながら2005年に掲載された中国の軍高官の演説でも同様の認識が述べられており、中国は100万年以上の文化的起源、1万年以上の文化と進歩、5000年の古代国家、2000年の単一の中国という実体の産物と断言されています( )。さらに、2022年5月27日に中国の習近平国家主席(共産党総書記)は「中国における100万年にわたる人類史、1万年にわたる文化史、5000年を超える文明史が実証された」と述べた、と報道されており、今でも中国では、現在の中国領における人類進化の長期の連続性を前提とする見解が一般的には主流なのだろう、と考えられます。ただ、現在の中国領とその近隣地域の古代人を対象とした、中国人研究者主導の後述するいくつかの最近の古代ゲノム研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、現生人類アフリカ単一起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属、古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの、(Gokcumen., 2020、 )、その遺伝的影響は小さく(Bergström et al., 2021、 )、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては事実上ほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相(当時)は2021年2月に先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、 )。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、 )。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000~45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、 )、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。2019年の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、 )、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、 )。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、 )。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、最近になって現生人類の新たな統一的系図を作成しようとの試みが提示されていますし(Wohns et al., 2022、 )、これまでもアジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係の図示には適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、 )や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、 )の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、たとえば以下に掲載する中東の人口史に関する研究(Almarri et al., 2021、 )の図3のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。上述のように、人口密度も移動性も現在よりずっと低かった後期更新世でさえ、ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係は複雑だったと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。以下、まずは現生人類における遺伝的連続と断絶の問題を地域ごとに取り上げていきます。
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●ヨーロッパ

 以下に掲載する過去10年の古代ゲノム研究の総説(Liu et al., 2021、 )の図1で示されているように、古代ゲノム研究が最も進んでいる地域はヨーロッパです(現代人のゲノム研究でも同様ですが)。その理由としては、自然環境と近代化があります。ヨーロッパはおおむね中緯度地帯で、人類の居住を拒むほど暑くも寒くもない場合が多く、人類遺骸と古代DNAの保存に適しています。ヨーロッパより低緯度では古代DNAの保存に適さず、ヨーロッパよりも高緯度だと古代DNAの保存には適しているものの、人類の居住に適しておらず、人口密度が低くなります。次に、ヨーロッパは世界で最初に近代化が進展し、近代科学発祥の地なので、その経済的豊かさから発掘と研究が進みやすい傾向にありました。それと関連して、人類進化の研究者も他の分野と同じく近代以降長くヨーロッパ人(もしくは他地域に移住したヨーロッパ系)が多いので、研究対象地域としてヨーロッパが優先される傾向にあります。
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 ヨーロッパの最初期候補の現生人類遺骸は、チェコとブルガリアで発見されています。チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は45000年以上前と推測されており、ズラティクン個体により表される集団(以下、ズラティクン集団)は現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、 )。ズラティクン集団は出アフリカ系現代人とは遺伝的に大きく異なっており、出アフリカ系現生人類集団が現代の各地域集団に遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類遺骸(44640~42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はなかったかきわめて限定的だった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、 )。注目されるのは、ズラティクン個体には、非アフリカ系現代人の共通祖先とネアンデルタール人との混合の後に追加のネアンデルタール人との混合がなかったと推測されるのに対して、バチョキロ洞窟の44640~42700年前頃の個体群には、追加のネアンデルタール人との混合の痕跡があることです。これは、ヨーロッパにおいてもネアンデルタール人と最初期現生人類との混合はあったものの、そもそも人口密度の低さから遭遇頻度が低かったか、遺伝的もしくは文化・社会的な生殖隔離があったことを示唆します。具体的には、性染色体や繁殖に直接関わる遺伝子に関しては現代人にはネアンデルタール人由来のものが確認されないか少ない(Sankararaman et al., 2016、 )とか、ネアンデルタール人のY染色体は現生人類集団において遺伝的不適合を起こしたかもしれない(Mendez et al., 2016、 )とか推測されています。

 シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、 )や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)個体(Fu et al., 2015、 )も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。遺伝学と考古学の統合から推測される初期現生人類のアフリカからの拡散と分岐を推測した研究(Vallini et al., 2022、 )では、ワセ1号はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640~42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、 )。

 これらは遺伝学的知見に基づいていますが、歯の分析から、現在のフランス南部において現生人類が56800~51700年前頃に存在した可能性も指摘されています(Slimak et al., 2022、 )。この人類化石はネロニアン(Neronian)と分類される石器群と共伴していました。ネロニアン(ネロン文化)インダストリーはレヴァント地域の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)との関連が指摘されています。仮にこの5万年以上前となるヨーロッパ南部のネロニアン石器群の製作者が現生人類だったとすると、その後の化石と石器と遺伝学の証拠から、この現生人類集団は絶目したか、レヴァントへと撤退したか、ネアンデルタール人に吸収された(ものの遺伝的にはほとんど影響を残さず、ヨーロッパの後期~末期ネアンデルタール人のゲノムでは検出されない)ことになりそうです。


●アジア東部

 アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、 )で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2020、 )です。その後、サルキート渓谷で発見された女性個体に次いで古い、34324~32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、 )。Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似しており、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団と初期に分岐し、現代人には全くもしくは殆ど遺伝的影響を残していない、と示します。

 この3個体により表される集団を、以下では仮に田園洞集団と呼びます。なお、Massilani et al., 2020で示されているように、サルキート個体は田園洞集団構成要素と古代北ユーラシア人(ANE)との混合と推測されています。ANEはユーラシア東西両方の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合と推測されており、ユーラシア東部構成要素の割合は、22%(Sikora et al., 2019、 )もしくは50%(Vallini et al., 2022)と推測されています。以下はこの田園洞集団も含めてユーラシア東部現生人類集団間の系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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 田園洞集団(Mao et al., 2021図3の黄色)は、ユーラシア東部現代人の主要な直接的祖先集団(MEE集団)とは遅くとも4万年前頃までには遺伝的に分岐していました。MEE集団は南北に分岐していき(Mao et al., 2021図3では、南方が緑色、北方が黄色)、以下、南方をMEES、北方をMEENと呼びます。MEESとMEENは、アムール川流域の19000年前頃の個体(AR19K)が明確にMEENに位置づけられることから、2万年前頃までには分岐したと推測されます。AR19Kは現時点で、MEEに位置づけられる最古の個体となります。現在の中国領の人類集団はおもにMEESとMEENの混合により形成され、漢人ではMEENの影響が強いものの、南下するにつれてMEESの割合が高くなってゲノムと地理とが相関する勾配を示し、南方の少数民族ではMEESの割合の方が高くなる場合もあります(Wang CC et al., 2021、 )。MEES祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は、現代のオーストロネシア語族集団の主要な構成要素となります(Yang et al., 2020、 )。

 アジア東部南方では、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された10686~10439年前頃の個体(隆林個体)が未知の遺伝的構成を示し、田園洞集団のように現代人には全くもしくは殆ど遺伝的影響を残していない集団(以下、仮に隆林集団と呼びます)がかつて存在し、その遺伝的影響は6400年前頃まではアジア東部南方に残存していた、と明らかになりました(Wang T et al., 2021、 )。この隆林集団は、田園洞集団と分岐した後に、MEE集団と分岐した、と推測されていますが、これらの集団間の形成には複雑な混合があったかもしれません(Wang T et al., 2021)。

 アジア東部では、田園洞集団および隆林集団の他にも、MEE集団とは遺伝的に明確に異なる現生人類集団が確認されています。それが日本列島の縄文時代集団で、遺伝的に大きくは出アフリカ現生人類ユーラシア東部集団に位置づけられ(Wang CC et al., 2021)、田園洞集団および隆林集団とは異なり、一部の集団に明確な遺伝的痕跡を残しています。縄文時代集団は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の現代人集団に、地域差(Watanabe et al., 2021、 )はあるものの9~15%前後、現代琉球集団に27%程度、現代アイヌ集団に66%ほどの遺伝的影響を残している(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、 )、と推測されています(どちらも残りはMEE集団的な構成要素で占められます)。これは縄文時代後期の北海道礼文島の2個体に基づく推定です。ただ、現代アイヌ集団に占める縄文時代集団的な遺伝的構成要素のうち、10~15%はオホーツク文化集団と「本土」日本人集団に由来するかもしれません(Sato et al., 2021、 )。

 注目されるのは、縄文時代集団の形成過程です。縄文時代集団については、九州(Adachi et al., 2021、 )も含めて東日本から西日本までの時間的にも広範な縄文時代の人類遺骸の核ゲノムデータ(Cooke et al., 2021、 )に基づくと、他の古代人および現代人集団と比較すると遺伝的に一まとまりを形成するので、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)頻度から地域差が指摘されており、核ゲノムデータからもそれが示唆されているものの(Cooke et al., 2021)、上述の北海道礼文島の縄文時代2個体に基づく現代日本列島「本土」集団と現代琉球集団と現代アイヌ集団における縄文時代集団の遺伝的影響は大きく変わらないだろう、と指摘されています(篠田.,2022,P205-212)。弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成するので(神澤他., 2021、 )、日本列島の縄文時代集団は晩期まで遺伝的には比較的均一だった可能性が高そうです。

 この長期にわたって遺伝的に均質な縄文時代集団の形成過程については、隆林集団と同じ頃にMEE集団と分岐した、との見解(Wang T et al., 2021)や、後期更新世~完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団や現代アンダマン諸島のオンゲ人(ユーラシア東部基層集団もしくはユーラシア東部沿岸集団)などと近い集団とMEES集団との混合とする見解(Wang CC et al., 2021)があります。前者に近い見解では、縄文時代集団系統とMEE集団系統との分岐年代が20000~15000年前頃と推定されています(Cooke et al., 2021)。ユーラシア東部基層集団はオーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域)人の主要な祖先集団となり、MEEN集団を主要な祖先(遺伝的構成要素の80%超)とする現代チベット人集団にも寄与した、とも推測されています(Wang CC et al., 2021)。しかし、現代チベット人と遺伝的に近いヒマラヤ山脈古代人の核ゲノムデータを報告した研究では、現代チベット人集団のゲノムにおもに寄与したのがMEEN的構成要素(80~92%)であることは先行研究と一致するものの、残りは初期ユーラシアの遺伝的多様性内でまだ標本抽出されていない別の系統と推測されています(Liu et al., 2022、 )。

 これは、ユーラシア東部にはまだ遺伝的に特定されていない出アフリカ現生人類集団が存在し、そうした集団が遺伝的に分岐していき、絶滅したり、時にはユーラシア東部の特定の地域集団にわずかながら影響を及ぼしたりした、と示唆します。パプア人も含まれるオーストラレーシア人については、ユーラシア東西の共通祖先集団と初期に分岐した、との見解もありますが(Choin et al., 2021、 )、デニソワ人からの遺伝子流動を考慮に入れると、ユーラシア西部集団よりもユーラシア東部集団の方と遺伝的に近い、との見解が有力です(Yang., 2022、 )。ただ、パプア人の位置づけに関しては、田園洞集団の単純な姉妹集団(ユーラシア東部系集団)である可能性と、ユーラシア東部系集団とユーラシア東西の共通祖先集団の基底部に位置する集団との5000~37000年前頃のほぼ均等な混合の可能性がほぼ同等である、との見解も提示されています(Vallini et al., 2021)。そのため、ユーラシア東西の共通祖先集団と初期に分岐した、まだ標本抽出されていない出アフリカ現生人類集団が存在して分岐していき、そうした集団とMEE集団との複雑な混合により、ホアビン文化集団や縄文時代集団や隆林集団が形成された可能性も考えられます( )。


●太平洋地域とアメリカ大陸

 太平洋地域でも、現代人とは遺伝的につながっていない集団の存在が示唆されています。ワラセア(ウォーレシア)では、スラウェシ島南部のマロスのマラワ(Mallawa)地区のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された7300~7200年前頃となる17~18歳の女性遺骸のゲノム解析の結果、この個体により表される集団は、オーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐した系統の集団と、MEE集団と基底部で分岐したか、オンゲ人と関連する系統の集団との混合の結果成立した未知の遺伝的構成を示し、現代ではこの集団の遺伝的構成要素を有する人口集団はまだ確認されていない、と明らかになりました(Carlhoff et al., 2021、 )。ワラセアやオセアニアでは古代ゲノム解析が難しいので、更新世と完新世に存在した人類のほとんどは標本抽出できないでしょうが、それでも未知の遺伝的構成の個体が確認されたことは、そうした集団が過去には珍しくなかったことを強く示唆します。太平洋地域ではオーストラリアの事例を上述しましたが、オーストラリアにおける5万年以上前の現生人類の痕跡が確証されたとしても、それが完新世のオーストラリア先住民集団と遺伝的につながっているのか、証明は容易ではないでしょう。

 アメリカ大陸というかベーリンジア(ベーリング陸橋)には、「古代ベーリンジア人」と呼ばれる、現在では絶滅したと考えられる集団が存在しました(Willerslev, and Meltzer., 2021、 )。古代ベーリンジア人は現代のアメリカ大陸先住民集団と遺伝的に最も近く、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された11600~11270年前頃となる個体(USR1)に代表されます(Moreno-Mayar et al., 2018A、 )。現時点で確認されている最新の古代ベーリンジア人は、アラスカのスワード半島のトレイルクリーク洞窟(Trail Creek Cave)で発見された9000年前頃の個体です(Moreno-Mayar et al., 2018B、 )。アメリカ大陸先住民集団の南北の分岐は15700年前頃に起き、両者が古代ベーリンジア人集団と遺伝的には等距離であることから、この分岐はアラスカ東部よりも南方で起きたと考えられます(Moreno-Mayar et al., 2018A)。

 ここで注目されるのは、アメリカ大陸における2万年以上前の人類の痕跡が複数報告されていることです。たとえば、ニューメキシコ州中南部のホワイトサンズ国立公園(White Sands National Park)では、2万年以上前と推定されている人類の足跡が発見されています(Bennett et al., 2021、 )。メキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)では3万年前頃までさかのぼる石器群が発見されています(Ardelean et al., 2020、 )。ウルグアイ南部のアロヨ・デル・ビスカイーノ(Arroyo del Vizcaíno)遺跡では、30000~27000年前頃となる巨大動物の骨の一部に、石器で動物の骨につけた傷と似たものが認められる、と報告されています(Yang et al., 2014、 )。北アメリカ大陸とベーリンジアの更新遺跡群の年代を報告した研究では、複数の遺跡で2万年以上前の年代が示されています(Becerra-Valdivia, and Higham., 2020、 )。こうした2万年以上前と報告されているアメリカ大陸の人類の存在が確かならば、そうした集団は現代のアメリカ大陸先住民には遺伝的影響をほとんど残さずに絶滅した可能性が高そうです。その場合、この最初期アメリカ大陸先住民は遺伝的に、古代ベーリンジア人ほどではなくとも、現代人集団の中では現代のアメリカ大陸先住民と最も近い可能性が高そうです。


●後期更新世~完新世にかけて珍しくなかった現生人類集団の絶滅

 以上、おもにヨーロッパとアジア東部とアメリカ大陸の事例を見てきましたが、古代ゲノム解析に成功する人類遺骸が当時存在した人類のごく一部しか反映していないことを考えると、これだけ現代人と遺伝的にほぼつながっていないと考えられる現生人類個体が発見されていることから、後期更新世~完新世にかけて現生人類集団の絶滅は珍しくなかった、と強く示唆されます。むしろ、現代人の主要な祖先集団は、当時存在した遺伝的に多様な集団のごく一部だった、と考えるべきかもしれません。非アフリカ系現代人の主要な共通祖先集団は、6万~5万年前頃にアフリカから世界各地へと拡散しました(Bergström et al., 2021)。当時はまだネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属も存在していましたが、人口密度は低く、現生人類は広大な地域へと拡散し、後期更新世は完新世と比較して気候が不安定だったので、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)などでの孤立により現生人類は遺伝的に分化しやすい状況にあった、と考えられます。

 現代人の各地域集団間よりも遺伝的違いがずっと大きい現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間の遺伝的関係でさえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2020、 )、現生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょうが、後期更新世において現生人類が遺伝的に分化しやすい状況にあったとならば、系統樹で集団間の関係を表すことにも一定以上の妥当性がある、と言えるでしょう。その意味で、混合図はもちろん実際の人口史を正確に表せているわけではないとしても、一定以上の妥当性や実用性がありそうです。そうした混合図として、以下に示すズラティクン個体も含めたVallini et al., 2021の図3はとくに注目されます。
画像

 おそらく今後も、現代人と遺伝的には全くあるいは殆どつながらないような個体が次々と確認されていくでしょう。むしろ今後の課題は、各地域の現代人の主要な直接的祖先集団が、いつどのような経路で現代の分布範囲に拡散してきたのか、ということになりそうです。アジア東部に関しては、3万年以上前の核ゲノムデータが得られている現生人類個体は、現時点で全て田園洞集団に分類できます。上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団(MEE祖先集団)に分類できる最古の個体は19000年前頃で、アムール川流域にて発見されています。MEE集団がいつどのようにアジア東部に拡散し、南北に分岐していったのか、今後の研究の進展が期待されます。


●非現生人類ホモ属における絶滅と置換

 こうした後期更新世~完新世における現生人類集団の絶滅と置換は、更新世の非現生人類ホモ属でも起きていた可能性が高そうです。具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、 )。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、 )。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、 )。

 デニソワ人に関しても、まだ明確な証拠は得られていませんが、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の人類遺骸(Sawyer et al., 2015、 )や堆積物のmtDNA解析(Zavala et al., 2021、 )は、デニソワ2号と8号に代表される前期集団からデニソワ3号と4号に代表される後期集団への置換の可能性を示唆します。デニソワ洞窟の最初期のデニソワ人遺骸のmtDNAは前期集団系統に分類され(Brown et al., 2022、 )、チベット高原の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の堆積物で確認されたmtDNAは、いずれも後期集団系統に分類されます(Zhang et al., 2020、 )。さらに、デニソワ人はその遺伝的影響を受けている現代人の地理的分布から、アジア南東部やサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)にまで拡散していた可能性さえ指摘されており(Jacobs et al., 2019、 )、じっさい最近になってラオスで発見された歯がデニソワ人のものと推測されています(Yang et al., 2022、 )。デニソワ人は後期更新世の出アフリカ現生人類集団と同様に、ユーラシアの広範な地域に拡大し、遺伝的に分化していったと考えられます。

 こうしたユーラシアにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人や後期デニソワ人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、 )。さらにいえば、初期ホモ属や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様だったように思います。300万~200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万~200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)モデルを想定するのが、現時点では妥当なように思います。その意味で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万~130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、 )、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。


●人類の移動と置換と絶滅の傾向

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑することは一般的なのでしょう。これは「孤立・交雑モデル」と呼ばれており(Garrigan, and Kingan., 2007、 )、上述の古代ゲノム研究の進展から、現生人類においてこの過程で集団の絶滅と置換は珍しくなく、ネアンデルタール人とデニソワ人も同様だっただろう、と強く示唆されます。その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、 )。

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。しかし上述のように近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性(上述のように多少の混合はありますが)はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかった、と強く示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。もちろん、ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との間で見られるように、混合による遺伝的構成の大きな変化も珍しくなく、その中には遺伝的にほぼ置換と言えるような事例も少なくありませんでした。

 日本列島「本土」の人類集団も、縄文時代と現代の間における遺伝的には置換に近い事例として把握しても大過ないでしょう。仮に、日本列島「本土」現代人集団のゲノムにおける縄文時代集団的な遺伝的構成要素のうち一定以上の割合が、新石器時代の朝鮮半島南岸に存在した集団(Robbeets et al., 2021)に由来するならば、日本列島「本土」では縄文時代と現代との間に人類集団のほぼ全面的な遺伝的置換が起きた、と言えるかもしれません。一方で、朝鮮半島においても紀元前千年紀後半以降に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きたと示唆され(Robbeets et al., 2021)、朝鮮半島から日本列島へと到来した人類集団は、弥生時代早期~前期と古墳時代~飛鳥時代ではかなり違っていた可能性があり、日本列島「本土」現代人集団の人口史を「縄文人」と「渡来人」との二元的融合で単純に把握することは妥当ではないでしょう(Cooke et al., 2021)。

 もちろん、こうした私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、これまで特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(He et al., 2021、 )。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。


●文化と遺伝的構成との関係

 遺伝的構成と民族、さらに文化とは相関する場合が多いものの、安易に結びつけられず、その関係は多様です。私の知見では的確に分類できませんが、とりあえず、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、の4通りに区分します。

 (1)これは農耕起源地からの農耕拡大に伴ってよく見られ、ヨーロッパでは中石器時代から新石器時代への移行は、アナトリア半島から拡散してきた農耕民集団による大規模な遺伝的構成の変化により特徴づけられ、農耕民と中石器時代の在来狩猟採集民の子孫との混合も進展しましたが、後者の遺伝的影響は低くなっています(Rivollat et al., 2020、 )。アジア南東部でも、農耕の拡大に伴ってアジア東部からMEE集団が南下してきて、在来狩猟採集民集団と混合しました(Lipson et al., 2018、 、および、McColl et al., 2018、 )。日本列島も同様で、とくに「本土」の人類集団の遺伝的構成は、水田稲作の導入(縄文時代から弥生時代への移行)に伴い、遺伝的構成が大きく変わっていますが(Robbeets et al., 2021、 )、その遺伝的変容には時空間的な違いが大きく、広範な地域で短期間に一気に変わったわけではないようです( )。

 (2)本格的な遺伝学的研究はまだないと思いますが、担い手の遺伝的継続を伴う文化変容は、日本など近代化の過程で珍しくなかったでしょう。時空間的に遺伝学的研究が進んでいる範囲では、農耕が始まった中核地域もしくはその近隣地域では、在来集団が大きく遺伝的構成を変えることなく、農耕が始まったようです。アジア南西部では、少なくともレヴァント南部とザグロス地域とアナトリア半島の3地域において、農耕社会への移行の担い手は在来の狩猟採集民集団と推測されています(Lazaridis et al., 2016、 )。まだ確定的ではありませんが、現在の中国福建省一帯でも、農耕への移行の担い手は在来集団だった可能性が高そうです(Wang T et al., 2021)。ヒマラヤ地域では前近代において埋葬習慣など文化で大きな変容が見られたものの、その担い手の遺伝的構成は大きく変わらなかった、と示されています(Jeong et al., 2016、 )。牧畜文化の導入でも、前期~中期青銅器時代のタリム盆地には本格的な牧畜文化が導入されたにも関わらず、その担い手の遺伝的構成は大きく変わらず、孤立していました(Zhang et al., 2021、 )。スウェーデンのゴットランド島では、狩猟採集民と関連する円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の墓地の被葬者は、埋葬地で戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)の影響を明確に受けていますが、他のPWC関連被葬者と遺伝的に一まとまりを形成し、遺伝的にはヨーロッパ新石器時代農耕民や草原地帯牧畜民の構成要素も有するBAC関連集団から遺伝的影響を受けませんでした(Coutinho et al., 2020、 )。埋葬のような重要と思われる文化要素を受け入れても、大きな人口移動がない事例も想定されるわけです。

 (3)想定しにくい事例ですが、担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容の事例でも、外来集団による先住民集団の文化の一部の継承はあり得たと思われます。バヌアツでは、遺伝的にポリネシア系の最初期(3000年前頃)の住民に対して、2500年前頃以降にはパプア人と近い遺伝的構成の住民が出現し、大きな遺伝的変容が見られますが、現代人の言語はオーストロネシア語族です(Lipson et al., 2020、 )。ただ、パプア人と近い遺伝的構成の住民の言語が不明なので、(3)の事例と断定はできません。

 (4)紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200~紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(Olalde et al., 2018、 )。鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、 )。類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いがある事象は、遊牧民で見られる頻度が高い傾向にあるのかもしれません。

 これ以外というか、(1)と(2)の複合的な事例が中国のフェイ人(Hui)です(Wang et al., 2019、 )。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系(Y染色体ハプログループ)ではユーラシア西部系集団の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、常染色体ゲノムではアジア東部系集団の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部系集団に由来するY染色体ハプログループ(YHg)の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には(常染色体ゲノムでは)集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、YHgでは一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 より状況が複雑なのは、新石器時代から青銅器時代にかけてのオークニー諸島の事例です(Dulias et al., 2022、 )。鐘状ビーカー複合の到来はブリテン島の人類集団の遺伝的構成を劇的に変えましたが(Olalde et al., 2018)、同時期のオークニー諸島では鐘状ビーカー複合および関連する物質文化の少なさから、大規模な人類集団の移住はなかった、と推測されていました。しかし常染色体ゲノム解析では、オークニー諸島でも同時期にブリテン島と同様にヨーロッパ大陸部からの大規模な移住を示す結果が得られました。ところが、オークニー諸島でも少なくともウェストレー島では、新石器時代以来のYHgが青銅器時代まで続いており、YHgでもこの時期にほぼ完全な置換があったブリテン島とは大きく異なります。石器時代から青銅器時代にかけてのオークニー諸島の事例は、常染色体ゲノムでは(3)に近く、父系(YHg)に注目すると(2)に近いと言えるでしょう。すでに20世紀前半の時点で、人口流入は考古学的痕跡がほとんど特定されない場合でさえ起きたかもしれない、と強調されており(Dulias et al., 2022)、オークニー諸島はその好例かもしれませんが、一方で在来父系(YHg)は続いており、人口移動や文化受容の在り様は複雑だった、と窺えます。この時期のオークニー諸島では、父系主体で外部から女性を迎え、男性が社会の主導権を掌握することで、新たな文化の顕著な流入が選択されなかったのかもしれません。

 縄文時代集団をめぐる状況もかなり複雑です。日本列島の縄文時代個体群的な遺伝的構成要素を有する個体は、朝鮮半島南岸で前期新石器時代から確認されており、中には遺伝的構成がほぼ日本列島の縄文時代個体群の個体も存在します(Robbeets et al., 2021)。これは、考古学において縄文時代における西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられるので、とくに不思議ではありませんが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、 )。注目されるのは、縄文文化の影響がほとんどないと言われている先島諸島において、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が日本列島の縄文時代個体群とほぼ同じことです(Robbeets et al., 2021)。これは、文化的類似性から先島諸島の先史時代集団の起源が台湾にある、との見解とは対照的です。遺伝的構成を日本列島の縄文時代個体群的な遺伝的構成の集団は、縄文文化の範囲を越えて拡大していた可能性が高い、というわけです。これは、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容(元々は縄文文化の担い手ながら、先島諸島に到来してすぐに台湾などとの交流により文化が変容)とも、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続(台湾の人類集団と遺伝的にも文化的にも近い人類集団を遺伝的には置換したものの、文化を強く継承)とも考えられますが、他地域の事例とともに、遺伝的構成と民族、さらに文化とを安易に結びつける危険性が浮き彫りになっている、と言えるでしょう。

 このように人類集団の遺伝的構成と文化との関係は多様なので、個々の事例について断定することは難しくなっています。上述のように、現代の日本列島「本土」集団のゲノムに占める縄文時代集団的な遺伝的構成要素の割合は9~15%程度と推定されていますが、だからといって、その後の日本列島「本土」の文化に縄文文化は影響をほとんど与えなかった、とは断定できません。日本列島における縄文時代晩期から現代までの人類集団の遺伝的構成の変容が短期間の急激なものではなく、長期の漸進的なものだったとしたら、短期間に多数の移民がユーラシア大陸部から日本列島へと到来したとは考えにくいことからも、縄文文化がその後の日本列島「本土」の文化に一定以上の影響を与えた可能性も考えられます。他にも言及すべき事例は多々ありますが、私の知見と気力の不足のため、ここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202206article_5.html
2:777 :

2022/06/05 (Sun) 15:23:45


オーストラリア先住民の運命

ハクジンの作り方  


先日、アボリジニー女性と長く話をする機会があった。

彼女は推定40歳弱のアボリジニー女性。明日、生まれて以来一度もあったことのない姉に会うのに、とても緊張している、と言う。

私は、家庭の事情か、とちょっと思ったけれど(馬鹿な私)、よく聞いてみると、まだ一度もあっていない弟もいて、母親とは、3年ほど前、生まれて初めて会えた。という。
ベルギーに住んでいる弟もいるのよ。と写真を見せてくれた。

ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する と考えたのだ。

私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。
私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。

彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ-は、みんな親を知らないで育った。「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。
自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。
たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。

これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。

この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。

アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。

女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。そして妊娠させる。そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。だから、政府はそれをよしとしたのだ。

強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。

彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。

男児はどうなるのか。地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない) 不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。

私には、言葉も出なかった。

彼女は自分を育ててくれたハクジン両親はいい人で、とても幸運だったという。
統計などなくてわからないけれど、幸運なアボリジニーは少ない と言った。

彼女は自分の父親が誰だか知らないという。あるとき、病気で医者に行った時、医者から、両親にその病気をしたことがあるか、聞いていらっしゃい、それが予防に役立つと言われ、母親に父親の所在を聞いた。母親が インド人の男性だ、と教えてもらい、会いに行く直前、母親から止められて、何事かと思ったら、よく考えたら違うと言う。笑いながら、インド人だったら、あなたの肌はこんなに白くないわよね、と娘の肌をさすりながら言った と言う。で、父親は、アイルランド人、ハクジンだと言って、でも死んだのだ、と。


彼女は 父親に会うのはあきらめた、と言った。母親が話したがらないから。と。
考えてみればこのお母さんも 親から引き離されて、ハクジンの親の元、苦労して育ったわけだから、何があったかは、想像にかたくない。

彼女は、自分の肌をさすりながら、豪州政府はこの肌でもまだ白さが足りない、と言うわ。といった。肌の白さ、をこれほどまでに気にしながら生きていかなければならのは、信じられないほど理不尽だと思った。

彼女は言う。過去も悲しいけれど、今も悲しい。なぜかと言うと、時折話す、オーストラリア人(ハクジンだと思うけれど)は、総じてこの話を信じないと言う。政府がそんなことするはずない、と。彼女は、じゃあ、なぜ多くのアボリジニーがこんな都市に住んでいるの?各地にあった、トライブにいないの?なぜアボリジニーの言葉が話せないの?と聞くのだそう。

私には、ハクジンオーストラリア人が政府の行ったこの蛮行をしらないのはありえるとして、その本人からこういうことをされた、と言われて、政府がするわけない、と否定するその気持ちがよくわからない。
それほどまでに、政府を信じきっている気持ちが。いや、政府というか、ハクジンがそんな残酷なことをするわけない、とおもっているのかもしれない。

イギリス政府が行った数々の蛮行、植民地支配も何もかも習わず、海賊も彼らの誇り、アメリカ大陸の”発見”と勉強するし、あの土地の近代化をひたすら美化し、第一次大戦も、その後のすべての戦争も (ベトナム戦争、湾岸、今の戦争も)ひたすら、正義の戦いとして教わってきているからね。彼らは。ベトナムは、やるべきでなかった、とはいうけれど、政府には、ちょっと批判的でも、自国の兵士への同情だけ(ベトナムへはなし、)。

反省の”は”の字もない。

ここまで、国際社会の中で(おそらく、対非ハクジン国、民族にかぎって)イギリス系の自分達が間違っているわけない、という、強い信仰があるのだろうな。


一般の日本人が、沖縄の人から、占領された後、こういうひどいことを日本政府から、組織的にされた、と言われたら、頭から否定するかな。特に、強姦とか、殺人とか、そういうものは、抑圧につきものだし、あるかも、と思うのが、普通だと考えてしまう。

まあ、それはともかく、私はこの話をきいて、この国にいまでもひたすら起こりつづけている、先住民女児への、先住民男性からの強姦、性暴力事件の深層が、こういうところにあるのではないかと感じました。(下の方に投稿してあります。)

また、アボリジニー女性が強姦された事件で、容疑者がハクジン男性、アボリジニー男性にかかわらず、裁判員に女性が複数いても(ハクジンのみ裁判員)、裁判で有罪にならず、釈放されてくる事実を見て、アボリジニー女性らが、「私達が強姦されても、とにかく、ハクジン達は、彼らが女性であるか、男性であるかにかかわらず、同情はけっしてされない。どういうわけか、私達は、強姦されてもいい生き物と思われている」、と言った言葉の裏の意味が、今少し理解できる。

さらに、大学時代、クラスで見た(女性学の授業、フェミニスト系の女性教授の中には、アボリジニーのことを理解しようとする人はいる)まだ、上陸したばかりのイギリス軍がアボリジニ-を虐殺する物語のビデオですが、クライマックスは、偶然に森に入っていた9歳くらいの少女は殺されるのをまぬがれ、じっと木の陰から、自分の親、兄弟、姉妹を含む、部族全員がイギリス軍の手によって銃殺されるのを目撃する というような話だったのですが、悲しすぎて、涙がとまらなかった。

明かりがついて、60人くらいの生徒の誰ひとり(私以外全員ハクジン女性(一応見た目ですが)、涙ひとつ、うるうるした様子ひとつないのには、映画の内容以上に驚いたことを覚えています。が今、その理由がわかります。

ついでに書きますが、こちらでは、もちろん、ハクジンが全員ひどいのではありません。何とかしようとするハクジンだっているのです。

最近こういう不満がハクジンから出され、報道されました。

今では、アボリジニーの赤ちゃんが母親から強制的に奪われることはなくなりましたが、アボリジニー家庭はすさみ、アルコール中毒やら暴力やらで、親としてきちんと子育てできない家庭が多く、中には、ハクジン夫婦が 好意で親が落ち着くまで預かる制度があります。(これは、ある程度管理されていて、強姦などはできないようですが)
そのハクジンの親で、それは 自分の子供のように一生懸命面倒見る人もいるわけです。

その中で、学校にきちんと行かせ、宿題をさせ、ドラッグをすわないように ある意味愛情こめてしつけている親がいました。政府はその親に対し、こういう”質のいい”子育てをするのは、契約違反だから、すぐ止めないと、告訴する、というのです。

腹を立てた親が、テレビ局に話して公になったわけです。
政府いわく、先住民のこどもはいずれ、ドラッグを吸い、しつけもろくにできない親元に返るのだから、かけ離れたことをするのは だめ。ということです。

ハクジン親は、親がたとえ吸っても、あなたは自分の身体のため、やめなさい。と教えて何が悪い、また、勉強に興味を持ち、学校に行く習慣ができれば、その子の将来の利益になる、と主張しました。

また、別の アボリジニーの子供をあずかった親からも こんな政府への不満がテレビ局にとどきました。

このこどもが自分のこどものように可愛く、将来は頑張って欲しいから、その子と別れる時、将来大学に行きたくなったら私に連絡しなさい。援助してあげる、と言ったそうです。それを知った政府にそんなことはするなと言われた、と。不公平だと。

あづかった親は、言う。政府は他の子に対し不公平だというが、本当の理由は違う。
彼らは、アボリジニーに、その地位を向上してほしくないのだ。

話をもとのもどすと、そのアボリジニー女性に、私は ここはあなたの土地よ。と言ってしまった。
むなしいだけなのに。

マオリの人に、私たちは、同じ先住民でもアボリジニーよりずっとましなんだ。といっていたことが胸にしみた。

どうなったら、彼らの幸せはやってくるのでしょうか。
私は、彼女に、日本人には、伝えるから、と約束しました。
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html


▲△▽▼


1813年にノースカロライナで奴隷の家庭に生まれたハリエット・ジェイコブズの例を挙げてみよう。彼女は12歳の時にジェームズ・ノーカムに売られ、彼はほどなく彼女に対して性的交渉を持ち始めた。その後ジェイコブズが彼女のメモワールで回顧しているように、ノーカムは彼女に「私は彼の持ち物だった;全てにおいて彼の意志に服従しなければならない」と告げたのだ。

そして、彼女はそうした。ジェイコブズは時には所有者の手をなんとか逃れる事が出来たとはいえ、彼は確かに彼女を所有していた。彼女とセックスをする為に、ノーカムは時には彼女に新しい洋服や他のプレゼントを約束した。時には単純に彼女の喉元に剃刀を突き付けた。そしてそれは、我がアメリカの同胞よ、我々がレイプを呼ぶ行為だ。

算数をしよう。1850年から1860年の間に、黒人奴隷の数は約20%増加した。だが、歴史家のジョエル・ウィリアムソンが計算した通り、奴隷にされた「ムラート(混血奴隷)」の数は驚きの67%も増加したのだ。もっと率直に言えば、黒人奴隷の肌は色が薄くなっていった。白人の所有者達が彼等をレイプしたからだった、という事だ。本当に単純な事だ…そして、酷い事だ。

偉大なるアフリカ系アメリカ人奴隷廃止論者フレデリック・ダグラスが自伝で物語った通り、黒人女性奴隷は「彼女の所有者の父親、息子、もしくは兄弟のなすがまま」だったのである。黒人女性は奴隷商人にも虐待され、彼等は次の白人に彼女達を売り飛ばす前によくレイプした…そして、次の性的強制劇に入る。

疑いの余地もなく、所有者とセックスする為に選ばれたかもしれない奴隷はいただろう。だが、間違った選択肢が自分を売り飛ばしたり、酷い時には殺されたりすると知っている場合に、セックスを「選択する」とはどういう意味なのか?

所有者の中には生活スペースを共有したり、この関係から産まれた子供達を可愛がったりして、奴隷を伴侶のように扱った所有者達も中にはいるようだ。だが、もっと頻繁には、彼等は何事もなかったように振る舞っただけだった。自分達の鼻先で起こっている事態を無視した所有者の白人の妻や娘も同じだった。

そのようなわけで、我々もやっている。何人のアメリカ人の子供が独立宣言の父であるトマス・ジェファーソンが彼の奴隷に子供を産ませた事を知っているだろうか?そして、どれだけのアメリカ人の両親が子供達にこれを知って欲しいと思っているのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/7253a111def132e53dc3d00f01e92977


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黒人奴隷もやはりインディオの奴隷と同じ道をたどり、男性は労働力として、女性は性的搾取の対象として扱われた。黒人女性は家事を行ったり、白人の子どもに乳を与えて育てたり、言葉を教えたりする一方で、農園の主の妾として働いた。そのため、黒人は白人の異常な性愛と家庭生活に強く影響したのだ。

大農園の家父長制や奴隷制は、支配階級にある白人達に倒錯した性生活を与えた。若い頃から性的な関係を持ち、親が子に金を渡してでも女を抱かせ、次々と奴隷に手を出していったことで性病が広まり、一方で性病を治すには若い処女とセックスすることが一番の治療であるという迷信まで広まった。そういった理由から瞬く間に性病が広まり、奇形児が誕生するなどの弊害が生まれた。奴隷制の主従関係はまた、白人にサディズムを植え付けるという効果をもたらした。白人の子どもに与えられた奴隷の遊び相手は、殴られるだけのサンドバッグのようであり、そこからはぐくまれたサディズムは、時に黒人に対しての不条理な行為となった。サディズムに関しては、社会に出ていく機会がある男性は、自分の行為が持つ間違

いに気付く機会を持つことが出来たが、農園の中で守られて育った白人女性にはその間違いを知る機会がなく、時に残虐な行為を行うこともあった。しかし、白人女性にとって常に世話をしてくれる黒人奴隷は唯一の理解者でもあり、時には駆け落ちの手助けをすることもあった。黒人奴隷は労働力でもあったが、同時に資産でもあった。結婚するときには嫁入り道具と共に送られることもあったのである。


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白人の入植=土地の収奪、虐殺、アボリジニによる抵抗、アボリジニ社会の崩壊 

アボリジニ人口の激減

 1788 推定30万人~100万人

 1861 18万人

 20世紀前半 6万人


オーストラリアにおける入植期のずれ

1820-30年 牧羊業の発展、自由移民の増加
   (土地が無償あるいは定価で提供された)→ 土地の収奪

1829年 全オーストラリアが英国の領有となる
~ 1850年代  NSW, Vic, Tas, SA, WA, Qld自治植民地成立
   
1901     オーストラリア連邦成立

タスマニアの場合:虐殺、「絶滅」

人口の激減
1788 - 1861 4500人 → 18人
1876 「最後のタスマニア人」トルガニーニ死亡、しかし「絶滅」は事実に反している
                      
 今日約7000人のタスマニア・アボリジニがいる


1803 イギリス人がタスマニア島に入植、「開拓」、匪賊の跳梁、アボリジニの殺害・強姦 → アボリジニの抵抗

1825 ニューサウスウェールズ植民地から分離してヴァンディーメンズランド植民地となる

1827 植民地政府はアボリジニの隔離に乗り出す、実効なし

1828 アボリジニに対する戒厳令、「生け捕り」のための賞金を出す、実質はほとんど殺害される

1830 「ブラック・ライン」(島の東南端に追い込んで捕獲しようとした計画、失敗におわりほとんどが殺害される)

1831 アボリジニの「保護」計画、フリンダース島のワイバリナ居留区にアボリジニを収容 → 2/3以上が死亡

1847 ワイバリナ居留区の生存者(46名)はオイスター湾居留区に移される
1876 最後の一人(トルガニーニ)の死亡でオイスター湾居留区は閉鎖される

ヴィクトリアの場合

タスマニアと同様に人口の激減

1788 - 1861 1万5000人 → 2384人


1830年代 キリスト教会によるミッション開設:「堕落した人々の教化」

1839 アボリジニ「保護官」任命、ポートフィリップ地区着任

1851 ニューサウスウェールズ植民地からヴィクトリア(ポートフィリップ地区)植民地が分離

http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H19Australia/australia19-3.html
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タスマニア人 皆殺し


19世紀の初頭までタスマニア民族が、暮らしていたタスマニア。
しかし、今はいない。

タスマニア人は一人残らず、イギリス人によって殺された。

アフリカを植民地にしたイギリス人は「猛獣狩り」の楽しみを覚えた。
イギリスの貴族は、今でもキツネ狩りをやってるように、ハンティングが
大好き。

そんなイギリス人が、オーストラリア、タスマニアにやってきた。
しかし、ここにはコアラとか、カンガルーしか住んでいなかった。

退屈した彼らはタスマニア人を狩るようになった。
まるでスポーツみたいにタスマニア人狩りを楽しんだ。

女も、子供も狩の対象になった。
そのあげく、一人もいなくなった。

ひとつの民族が皆殺しにされたという例はほかにない。
ヒトラーはユダヤ人殲滅をやろうとしたけど、結局未遂だった。
しかしイギリス人はタスマニア民族を全滅させた。 


タスマニアンタイガーと同じように、賞金をかけられ絶滅していった島の「いきもの」がいます。19世紀はじめのできごと、ときのタスマニア総督ジョージ・
アーサーは、「生きたまま捕えた成体につき5ポンド、幼体につき2ポンド」の賞金をかけます〔真の趣旨は絶滅を防ぐためだったらしいのですけれど〕。

しかし、結果は逆効果におわります。植民者達は隊を組み分担地域を決め
徹底的な「狩り」を始めてしまったといいます。抵抗するものは虐殺され、けっきょくこの大がかりな「狩り」で捕えられた成体2個体であったとのこと。

その後も、植民者が撃ち殺したり、文明のもたらした病気の蔓延で、このいき
ものの最後の一個体は、1876年に命を落とし、けっきょくその骨格は展示
品として博物館に並べられました。

・・・このいきものとは、タスマニアン・アボリジニ。

最後に生き残ったタスマニアン・アボリジニの女性はトルガニーニという名で、その生涯は、悲劇の歴史の縮図として語り継がれています。

タスマニア・アボリジニーであるトルガニーニの最後の言葉。
それは・・・・「山の裏に私を埋めて」。

良心的な医師たちによって彼女は埋葬されたが、すぐに墓はあばかれ遺体は
切り刻まれ、骨格は展示品として博物館に並べられました
http://airplant-herbcore.cocolog-nifty.com/herbcore/2006/11/post_644a.html


【タスマニア(Tasmania)】

1642年オランダ人探検家アベル・タスマンが到達し、当時のオランダ東インド会社総督ヴァン・ディーメンにちなんで「ヴァン・ディーメンス・ラント」と命名されました。

後にイギリスからの移住民により、タスマニア島と改名されました。
この頃はオーストラリア大陸の一部と考えられていたそうです。

島の原住民である「タスマニア・アボリジニ」は1830年代までブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしていましたが、敗れ、フリンダーズ島へ強制移住させられるなど激減し、純血のタスマニア・アボリジニはハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て1876年に絶滅しました。

1830年、兵士2000人と3万ポンドを注いだ大規模な原住民征討作戦以降で、(原因は土地の所有権争い:入植者には土地が無償あるいは定価で提供されたため、原住民タスマニアアボリジニを追い払った(人間狩りを行なった))

1804年に推定人口2500~7000人だった原住民は300人くらいまで減らされ、以降、残像する者は漸次、原住民保留置に強制収容されたといいます。

移住者が持ち込んだ病原菌などにも免疫があるわけでなく、徐々に人数を減らし、
1847年には46人にまで減り、1876年、最後の純血の原住民トルガニーニが死亡しました。

現存するのは約100人の混血だけとされます。

1803
イギリス人がタスマニア島に入植、「開拓」、匪賊の跳梁、
アボリジニの殺害・強姦 → アボリジニの抵抗


1825
ニューサウスウェールズ植民地から分離してヴァンディーメンズランド植民地となる

1827
植民地政府はアボリジニの隔離に乗り出す、実効なし

1828
アボリジニに対する戒厳令、「生け捕り」のための賞金を出す、
実質はほとんど殺害される。

1830
「ブラック・ライン」
(島の東南端に追い込んで捕獲しようとした計画、
失敗におわりほとんどが殺害される)

1831
アボリジニの「保護」計画、
フリンダース島のワイバリナ居留区にアボリジニを収容 → 2/3以上が死亡

1847
ワイバリナ居留区の生存者(46名)はオイスター湾居留区に移される

1876
最後の一人(トルガニーニ)の死亡でオイスター湾居留区は閉鎖される

タスマニアン・アボリジニは、西洋人が植民地化する3万年以上も前から、外部との接触が全くなく独特の文化と習慣を守ってきました。

タスマニアが発見された時には、約4000人(諸説あり)のタスマニアン・アボリニがいたと言われています。

大昔はオーストラリアとアジアが陸続き、もしくはかなり近距離だったと学術的には言われてます。

その陸続きの時代に、インドネシア方面からオーストラリアへ渡った原住民が、タスマニアに住み着き、月日を重ねてオーストラリア大陸とタスマニア島が分離され、タスマニア原住民は完全に外部との接触が絶たれたと考古学的な見地で言われています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424814339


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イギリス人にとっての有色人種とは

マオリ戦士の首 平成19年10月30日

 先日下記のようなニュースがありました。


<マオリ戦士の首>故郷NZへの返還に仏政府が「待った」

 【パリ福井聡】フランス北部ルーアン市が、自然史博物館所蔵の「マオリ(ニュージーランドの先住民族)戦士の首」をニュージーランドに返還しようとしたところ、「事前に相談がなかった。勝手に返還するのはまかりならん」と仏政府が「待った」をかけた。

 同博物館は24日、返還協定を在仏ニュージーランド大使館と結んだ。しかし、アルバネル仏文化相が返還停止を求める行政訴訟を起こし、裁判所は協定締結前日の23日、返還停止を命じた。このため、返還協定締結にもかかわらず、首は当面、フランスにとどまることになった。

 返還が停止されたのは、顔の表面に入れ墨が施されたマオリ戦士ミイラの首。1875年に同博物館に寄贈され、96年まで一般展示されていた。同博物館は10年間の改築を経て今年再オープン。これを機にルーアン市側は「異文化と人間の尊厳への敬意を示すべきだ」(アルベルティーニ市長)、「忌むべき前世紀の密売史を閉じるべきだ」(同博物館館長)と返還を決めた。

 同博物館によると、西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。ニュージーランド側は「遺体の尊厳を守りたい」と92年に返還を呼びかけ、これまでに数カ国が応じてきた。

 仏文化省の顧問弁護士は「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」と警戒、マオリの首数点を所蔵するパリのケ・ブランリー博物館も返還には慎重な姿勢を示している。

引用終わり


 「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」

なんという醜い言い種でしょう。

<西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。>

 白人というものが、どのような人種であったかということがよく現されているニュースです。

 ニュージーランドのことではありませんが、オーストラリアにおけるアボリジニの運命も同じです。

 一七一七年から一七七六年の間、約四万人の囚人がイギリスからアメリカの植民地に送り込まれている。囚人はイギリスの監獄から船主たちに売り渡され、新大陸に到着すると今度はプランターへと転売された。それが、アメリカの独立戦争により崩壊した。アメリカがイギリスの囚人を受け入れなくなったのです。

 そのため、イギリスは行き場のなくなった流刑判決の囚人たちをテムズ川や軍港の牢獄船に収容し、公共事業などにその労働力を利用しようとしたが、年々増える流刑囚により収容しきれなくなり、オーストラリアに囚人を送り込む事となった。

一七八八年一月二五日にシドニー湾に到着した一一隻の船団にて送り込まれた囚人の数は史料により男性五六三~五六八人、女性一八九~一九二人、合計七五二~七五九人と異なるそうです。

囚人の男と女の比率が四対一という事はどういう結果を招くか。囚人の男達は原住民であるアボリジニの女性を性欲のために強姦した。

 オーストラリアは流刑植民地であったために、流刑者だけでなく、一八〇〇年代になっての一般植民者も多く入植してくるようになる。オーストラリア人にそのルーツを尋ねると、ほとんどは一八〇〇年代にオーストラリアに来たと答えるそうであるが、つまり、わが家の祖先は囚人ではないと言っていることなのです。ところが、この一八〇〇年代の入植者とは本国にいる事の出来ない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。
 
 これらの白人が、オーストラリアの原住民であるアボリジニの人々に対してどのような感覚を持って接してきたかが手元にある「オーストラリアの歴史」(藤川隆男著 朝日新聞社刊 朝日選書四〇七 一九九五年)に書かれています。それによると、

 <イギリス政府は、アボリジニを文明人とは見なさなかった。イギリス法上では、タスマニアは征服されたのではなく、発見と植民により獲得された領土であり、そこに住むアボリジニは、市民権のないイギリス臣民として取り扱われた。

タスマニア全島はいまやイギリス国王の所有地であり、征服された国民としての権利さえ失ったアボリジニの土地を守る戦いは、単なる犯罪行為に過ぎなかった。

 「アボリジニはイギリス法の保護の下にある」との宣言が副総督によってしばしばなされたが、実際に保護の手が彼らに差しのべられたことはなかった。イギリス法はアボリジニを殺す権利があるということの偽善的な言い方に過ぎなかったのである>p二九~三〇

<「アボリジニを民族として把え、その一般的な進歩やそれが習得した事物を比較考量してみると、たとえ野蛮人の間においてさえも、彼らは確実に極めて低い地位にいる。

彼らはおそらく、ホッテントットや寒風吹きすさぶマゼラン海峡に住む部族と順位争いをするのがせいぜいで、繊細なアフリカ人や忍耐強く用心深いアメリカ人や、優美で臆病な南海の島の住民と較べれば非常に見劣りがする。・・・・これほど文明から懸け離れた状態はほとんどないと主張できるだろう」


「自然状態は、崇高な研究や無限の推論をすることができる存在の幸福を増進するには、最も適さないものである。荒野の中の獲物を求めてさまよい歩く野蛮人は、我々の本性を堕落させ、苦しめるすべての感情によって醜悪な姿となった生き物である」>(シドニーの最初の四年間)士官ワトキン・テンチ)p四七~四八


 これらはどういう事か。アボリジニを人間として見ていなかったのです。その結果、下記のような悲劇が起こされる事になる。

以下引用

 <一八二六年一一月、副総督アーサーは、入植者たちの強い要求に押されてアボリジニを武力で追い払う権利を彼らに与え、必要ならば軍隊による支援を行なうと宣言した。『コロニアル・タイムズ』紙によれば、これはアボリジニに対する公式の宣戦布告にほかならなかった。


 略)

 一八二九年一一月一日、副総督アーサーは定住地にいるアボリジニに対して戒厳令を布告した。これによって、理由のいかんを問わず、ヨーロッパ人がアボリジニを射殺しても起訴されない法的根拠が与えられたのである。

ここににアボリジニに対する絶滅戦争は最終局面を迎える。戒厳令とともに、定住地に残るアボリジニを掃討するための小規模な遠征隊が組織され、内陸部へ分け入ってアボリジニを捕獲あるいは射殺する任についた。

一八二八年から三〇年にかけて、遠征隊によって殺されたアボリジニの数は約六〇、捕えられた者は約二〇人と報告されている。

 略)

 彼の部隊(ジョン・バットマン率いる遠征隊)はペントモンド山の東側の斜面でアボリジニのキャンプ地を発見した。バットマンは奇襲攻撃かけようとしたが、銃が暴発したのでこれに失敗し、逃げるアボリジニに銃を乱射して、逃げ遅れた子供と女一人を捕らえただけでに終わった。しかし、農場への帰途で「幸運にも」彼は二人の傷ついたアボリジニを発見する。この二人の男は歩けなかったので殺さざるをえなかった、とバットマンは述べた。

バットマンは遠征の功績を認められ、二〇〇〇エーカーの土地を副総督アーサーから与えられた。彼は後にこれを売って七五〇ポンドの利益を得た。人間狩りには十分すぎるほどの報酬であろう。>p五三~五四


 <ヴァン・ディーメンズ・ランド会社に雇われた牧羊夫たちは、アボリジニの女性を誘拐した。これを取り戻そうとしたアボリジニは、牧羊夫に攻撃をしかけ一人の男に重傷を負わせたが、逆にこの攻撃のリーダーだった人物も殺される。

アボリジニは、再度報復の為に二〇〇フィートの岸から三〇頭の羊を追い落とした。これに対し四人の牧羊夫は、アボリジニの部族に奇襲攻撃をかけて三〇人を虐殺して、同じ崖から突き落としたのである。

この崖はこの時の戦功を記念して「勝利の丘」と呼ばれるようになった>p五四~五五


 <一八二九年の冬に、アーサーは定住地域に残るアボリジニの数を約二〇〇〇人と見積もっていたが、実際には一〇〇人にも満たなかった。それにもかかわらず、アボリジニの抵抗は弱まらなかった。

略)

 一八三〇年、アーサーは定住地に残るアボリジニを完全に相当する作戦を決定した。この作戦は地図のラインから出発して、アボリジニを捕らえるか殺しながら徐々に南に追い詰め、最終的にタスマン半島に追い込むことを目的としていた。

 一〇月七日、約二〇〇〇人の兵士、囚人、自由人が長大な人間の鎖を造って、アボリジニを南へ追い立てる作戦が始まった。カンガルー猟を思い越させる人間の鎖は「ブラックライン」として語り継がれていく。

彼らは一〇〇〇丁の銃と三万発の弾丸、三〇〇の手錠を用意して、七週間にわたって作戦を継続した。しかし、この作戦で捕えられたアボリジニは二人しかおらず、ほかに二人を射殺しただけに終わった。

当時の人々は、この作戦を大失敗であると批判したが、実はほぼ完全な成功を収めていたのである。アボリジニが二人しか捕獲できなかったのは、入植者の予想に反してアボリジニがもはやほとんど生存していなかったからであった。>p五六

 
 これは、今回のマオリ戦士の首の話と共通するもので白人というものをよく現す例です。

 オーストラリアでは二〇世紀になっても獲物としてのアボリジニ二狩りは行なわれていました。

<ニューサウスウエールズ州の国会図書館所蔵の日記には『一九二八年、今日の収穫、ウサギとアボリジニ二七人・・・・」という記述があった>(「残酷な楽園」隆籏学著より)私の引用は「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より

 当然のことながら有色人種差別を制度化して白豪主義をとり続けていたオーストラリアでは、辛うじて生き残ったアボリジニの人々は、一九六〇年代までオーストラリア国民としてさえ認められていなかったのです。


タスマニア・アボリジニの悲劇


 タスマニア・アボリジニはオーストラリア大陸のアボリジニと人種的に別だったといわれていますが、すでにタスマニア・アボリジニが虐殺により全滅してしまった現在ではわかりません。
 
 アボリジニは、肌が黒いという以外は近隣のメラネシア人やアフリカの黒人とはまったく似ていない人種です。アボリジニの多くは金髪であり、特に子供においてはその特徴は顕著です。 

 アボリジニに対してのイギリス人はどのように接したか。「オーストラリア歴史の旅」(藤川隆男著)に下記のように書かれている。

 アボリジニは食糧のかわりに女性を提供したが、深刻な労働力不足に悩んでいた入植者は、女性よりも子供に魅力を感じた。

略)
 入植者はすぐにもっと手っ取り早い方法、誘拐で労働力の確保を目指すようになった。
略)

 アボリジニは、ヨーロッパ人との間にギヴ・アンド・テイクの原則に基づく友好的な関係を築き、侵略者と共存する用意はあったが、従来の生活様式その他すべての文化を棄て、ヨーロッパ人の社会に吸収されるつもりはなかった。他方入植者の側には、アボリジニを先駆者あるいは正当な土地の所有者として受け入れるつもりは全くなく、土地を奪い取った代価を払う必要があるなどとは考えてもみなかった。
 p五一

 白人侵略者の徹底した掃討作戦によってアボリジニが絶滅の危機に瀕していた時、一人の救世主が現れた。その名をジョージ・オーガスタス・ロビンソンという。彼は副総督アーサーの要請に基づいて、非定住地域に残るアボリジニを集め、白人の殺戮の手が届かない場所へ移住させる計画に着手した。
略)

 アーサーは、一八二六年の時点ではタスマニア北東部に原住民保護区を作る考えであり、ブラック・ラインのときには、タスマン半島をその安住の地とするつもりであった。しかし、そのいずれもが失敗した現在、アーサーはロビンソンの提案に同意し、バス海峡(タスマニアとオーストラリアを隔てる海峡)に浮かぶ小島に、残ったアボリジニを収容する施設を作ることに決定する。

 ロビンソンは、アボリジニの救世主ではあったが、白人の神に仕えていた。彼は、先祖伝来の土地から引き離すことによってのみ、アボリジニをキリスト教化し、優れた文明の本質を教え込むことができると信じた。彼は、アボリジニの文化をすべて奪い取ることが、アボリジニの救済の前提条件だと信じていたのである。このような考え方を当時の裁判所長官ベダーは、次のように批判している。

 「もし、アボリジニを離島へ送れば、彼らがこれまで亭受してきた移動の自由や狩猟の自由はなくなり、希望のない監獄に閉じ込められた生活の中で、彼らはすぐに衰減するであろう」

 しかし、ペダーに対し、アーサーは次のように反論した。

 「たとえアボリジニが離島の中で、我々のあらゆる善意に囲まれて滅亡したとしても、それは白人との戦いの中でアボリジニが英雄のごとく滅亡していくよりもはるかに望ましい」

 ロビンソンは、彼が集めたアボリジニがペダーの予言どおりに、白人の監視下で次から次へと死ぬのを横目で見ながら、彼らを絶滅から救うために、生き残ったアボリジニのすべてをタスマニア全島から集めることに全力を傾けた。

いまやロビンソンは手段を選ばなかった。実現するはずのない約束や銃の力を用いてもアボリジニの捕獲を続けた。

バス海峡にあるフリンダース島の収容施設には、一八三三年に四三人のアボリジニが、翌年には四二人が送り込まれた。しかし、この二年間で五一人のアボリジニが死亡している。

 フリンダース島では、アボリジニたちはヨーロッパ文明の「恩恵」を拒絶し、農業に従事することを拒んだ。

監督官たちは、これを口実として肉や新鮮な野菜をアボリジニに与えなかった。

アボリジニ一人が一日につき配給された食料は、塩づけ肉四五〇グラム、小麦粉四五〇グラム、ビスケット二二五グラム、砂糖七グラム及び塩である。

アボリジニは塩づけ肉を食べられなかったので、栄養不足を補うには狩猟をせざるをえなかった。しかし、多くの者は病気で狩猟ができないか、狩りを禁じられているか、あるいは何も狩るものがないかのいずれかであった。

p五八


 タスマニア・アボリジニが紳士と言われるイギリス人により亡ぼされた様子がよくわかります。そして、白人は他の地域でも同じ事を繰り返したのです。


最後のアボリジニ

 タスマニア島では三万七〇〇〇人(*1)いたとされるタスマニア・アボリジニですが、一八四七年、フリーダース島の収容所で生き残ったたった四七人のタスマニア島に送り返された。

 その時の状況について「オーストラリア歴史の旅」に下記のように書かれている。

以下引用

 この移動の主な理由は、フリンダース島の施設は経費がかかりすぎるという点にあった。彼らの行き先は、健康上有害という理由で放棄された衆人収容所であった。

 ここでは、アボリジニはより大きな自由と少しは栄養のある食事を一時的に与えられたが、マラリアなどの伝染病によって一八五四年までに彼らの数は一七人となる。

一八五五年に自治政府がタスマニアに成立した後は、食事が減らされ、収容所は廃虚のような有り様を呈する。

慈悲深い人道主義者たちの来訪も途絶えがちとなり、タスマニア政府は、彼らの滅亡を願って、最小限の支出さえも惜しむようになった。こうして、一八六八年にはついに三人のアボリジニが残るのみとなった。

「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p六〇


 そして、一八六七年五月八日に最後の純血タスマニア・アボリジニであったトルゥガニニが死に、その血は絶えた。

 一八一二年に生まれたトルゥガニニの母はアザラシ捕りの一団に刺し殺され、妹は同じくアザラシ捕りに誘拐され、のちに射殺されている。また彼女の婚約者は、彼女が木こりたちに誘拐されるのを防ごうとして溺れ死んだ。

 彼女は亡くなる時にその故郷に埋葬される事を望んだが、彼女の遺体はホーバート病院に移され、植民地首相の命令で、五月一一日に葬儀が行なわれて遺体は教会の前に手厚く葬られたが、イギリス人がその墓をあばき、三つのグループにより盗み出される事になる。最初のグループが頭部を盗み出し、次のグループがばらばらに切断された四肢と胴体を盗み出した。 

最後のグループはわずかな肉片しか残ってなかった。彼女の遺骨は考古学上の珍品として高い値がついたそうであるが、一八七八年、タスマニア王立協会の博物館がその遺骨を入手し、一九〇四年から一九四七年までその博物館で一般に公開された。タスマニアン王立協会のストックウェル博士にいたってはトルゥガニニの皮膚で煙草入れを作成し愛用していたという。

 やっとタスマニアのアボリジニの要求で政府が彼女の遺骨を火葬にすることを同意したのは一九七四年になってからです。

 このタスマニア・アボリジニに対してのイギリス人の接し方は、大東亜戦争における我国の捕虜収容所における収容者に対しての扱いと共通するところが多々あります。

 そして、アボリジニの人権が認められたのは大東亜戦争後、一九六〇年代になってからです。

http://www.tamanegiya.com/mario19.10.30.html

オーストラリアへの白人侵略者達の到来は、史上最も大規模な人種絶滅の殺戮の実例の開始を告げた。百年間のうちに、アボリジニー人口の80%(もっと大きい数字だと言う人さえいるが)もの人々が白人侵略者達に直接に殺されるか、あるいは、この侵略の結果として死亡した。

彼らの死は至る所にあった。いくつかの事例では、土地、水等の使用をめぐる特定の衝突から起きた手当たり次第の殺人の故であり、又、白人の集団によるアボリジニーの大集団の大量虐殺の故であった。

こうした殺戮は、アボリジニー狩りと呼ばれ、カンガルー狩りとほとんど同じ様な調子で行われた。

これらの殺戮は公認のことがよくあったが、公認されていたかどうかに関わらず、白人はほとんど、アボリジニー殺害の故に裁判にかけられる事はなかった。

信じられない様な残酷さについての報告は沢山ある。

あるアボリジニーの集団の数少ない生き残りが伝えた事件では、何人ものアボリジニーの赤ん坊が首のところまで土に埋められ、それらの首はどれだけ遠くに飛ばせるか競争するために蹴り飛ばされた。

同時に女性達は計画的に強姦され、そして膣を貫いて身体を串刺しにして殺された。

最後に男性達は生殖器を切り落とされ、放置されて出血多量で死んだ。

毒薬も又、アボリジニー達を殺すために計画的に用いられた。

毒入りの小麦粉が配られたり、あるいはもっとよく使われた手口としては彼らが生きていくのに必要としていた水の井戸に毒が入れられた。


 新しくある地域を奪い取った(植民した)時には、白人達は水利のある最良の平地へ素早く移動した。

その為アボリジニー達はどんどん、高所の乾燥し辺鄙な土地へと追いやられた。

アボリジニー達が川や井戸に近付こうとして銃撃されることはよくあった。

白人達は野性の動物も追い立てたり、殺したりし、それらの替わりに羊や家畜を連れてきた。

多数のアボリジニーが数少ない水資源と食糧の周りに集まっていたので、水と食糧の供給に対する圧力が大きくなり過ぎた時には、無数の者が餓死した。

 アボリジニーの女性達が強姦される事は頻繁にあったが、誘拐されて、検査官、羊飼い、垣根守り達の性的な、又個人的な奴隷にされることも多かった。

アボリジニー達の聖地は、ある時は無意識に、しかしそれ以上頻繁に意図的にその神聖さを冒涜された。儀礼上の営みは徹底的に打ち砕かれた。

黒人達のいかなる大規模な集いも、植民者達の集落に対する潜在的脅威と見なされて、解散させられた。残虐な形で解散させられる事も稀では無かった。

「ドリームタイム」伝説の、ある世代から次の世代への伝承は、諸々の部族集団の非常に多くの構成員が死亡したり離散したために、破壊されてしまった。

自分達の伝統的な土地を強奪されたことの心理的、又社会的影響が、巨大な衝撃を与えて、道徳的頽廃が生まれ、又一方で、アルコール(これも彼らには初めてのものだった)によって事態が一層悪化する中で、数多くのアボリジニーの集団の部族的生活の解体が進行した。

 アボリジニーのオーストラリア全体を乗っ取ろうとした事の経済上の動機は、当時イギリスで勢いのあった社会ダーウィニズムのイデオロギーによって補強されていた。

社会ダーウィニズムによれば、人類に進化の位階があり、あらゆる階級と人種のうち、上流階級の西洋白人男性は生まれながらにして優越した存在なのであった。

自分達よりも洗練されていない技術しか持たず、中央集権的政治構造や土地の固定した私的所有制をも持っていなかったアボリジニー達に遭遇した時、アボリジニー達はやがて死滅することが不可避な、原始的な「石器時代」の人間達であるとの見解が取られた。

従って、アボリジニー達の殺害は殺人とはならず、優越した進んだ文化と劣等の死滅しつつある文化との衝突の不可避の結果とされた。このような態度はオーストラリアに、今日まで長い間にわたって残って来た。

アボリジニーの大半は全国約250ヶ所の mission station(ミッション・ステーション:宣教師定住地)又は reserve(リザーブ:居留地)に集められた。

互いに言葉の通じない集団も、あるいは互いに関係を持つことがタブーとなっている集団も一緒くたに放り込まれた。これらの国家と教会によるミッション(宣教師定住地)は、キリスト教道徳とキリスト教への教化を特徴としていた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310865348
3:777 :

2022/06/05 (Sun) 16:57:01

2022.04.14XML
自らが行うジェノサイドは神から許されていると考えるアメリカの支配者たち
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204140000/

 アメリカはジェノサイドで作りあげられた国である。かつては海兵隊が侵略、殺戮、破壊、略奪の手先として活動していたが、中東ではワッハーブ派やムスリム同胞団、ヨーロッパではナチス、東アジアでは日本人も使われている。

 1492年にクリストバル・コロン(コロンブス)がバハマ諸島に到着する前、北アメリカには210万人とも1800万人とも言われる先住民が生活していたが、ヨーロッパからの移民によって殺されてしまった。

 イギリスから「ピルグリム・ファザーズ」と呼ばれるピューリタンの集団がプリマスへ到着したのは1620年だが、その前にイギリス人が持ち込んだペスト菌で少なからぬ先住民は死んでいる。

 先住のアメリカ・インディアンを殲滅するためにイギリスは天然痘も利用した可能性が高い。当然のことながらイギリスの公式文書には出てこない(記録していない)ようだが、天然痘の患者が使い、汚染された毛布などを贈るという手法をイギリス軍は使っていたとされている。19世紀になっても続けられていたという。

 銃や大砲だけでなく、細菌兵器も使われたということだが、そうしたことを正当化するため、彼らは神を持ち出す。例えば、マサチューセッツ湾に到達したピューリタンのジョン・ウィンスロップは1630年、自分たちを神から選ばれた民だと主張、神との契約に基づいてマサチューセッツ植民地を建設すると語る。

 ジェノサイドで土地を手にしたイギリスの植民者は低コストの労働力を「囲い込み」で生み出された失業者を年期奉公人(年期奴隷)として使うようになった。アフリカだけでなく、ヨーロッパやアジアから奴隷がアメリカへ運ばれていたのである。

 アメリカは「WASP」の国だとも言われている。白人(W)、アングロ(A)、サクソン(S)、そして「P」。通常、Pはプロテスタントの頭文字だとされているが、ピューリタンのPだと言う人もいる。それほどピューリタンの影響力は今でも大きいようだ。

 ピューリタンは17世紀の半ば、イギリスを支配していたチャールズ1世の体制を倒した。いわゆるピューリタン革命だが、その指導者がオリバー・クロムウェル。地主や富裕な商工業者に支持されていた独立派のメンバーだ。革命の際、小農民や職人層に支持されていた水平派とクロムウェルは手を組んでいたが、革命後に水平派は潰される。

 その後、クロムウェルはアイルランドを侵略して住民を虐殺、アイルランドの人口は激減する。虐殺前の1641年には147万人だったが、52年には62万人へ減ったという。50万人以上は殺され、残りは「年季奉公」や「召使い」としてアメリカなどに売られたと言われている。

 アメリカは1776年に独立を宣言するが、これはヨーロッパからの移民が先住民を無視して行った身勝手な行為にすぎない。その後も先住のアメリカ・インディアンを虐殺しながら支配地域を東から西へ拡大させていき、1845年には太平洋岸に到達した。

 1846年にアメリカはメキシコと戦争をはじめ、テキサス、ニュー・メキシコ、カリフォルニアを制圧し、フロンティアの消滅が宣言された1890年にはサウスダコタのウンデッド・ニー・クリークにいたスー族を騎兵隊が襲撃し、150名から300名を虐殺している。

 ウイリアム・マッキンリーが大統領に就任した翌年、1898年にアメリカの中南米侵略を本格化させる引き金になった事件が起こる。キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈したのだ。アメリカはスペインが爆破したと主張、宣戦布告して米西戦争が始まる。マッキンリーは戦争を回避しようとしていたが、海軍次官補だったシオドア・ルーズベルトが独断で戦争へとアメリカを引きずっていった。

 この戦争に勝利したアメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収することになる。ハワイも支配下におく。フィリピンは中国市場へ乗り込む橋頭堡としての役割を果たすことになった。その際、アメリカ軍がフィリピンで行った先住民の虐殺は悪名高い。

 17世紀に書かれた「ウェストミンスター信仰告白」によると、「神は人類うち永遠の生命に予定された人びと」を選んだが、「これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為」のためではないとされている。(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)

 奴隷も支配者も貧者も富豪も神が決めたことであり、社会的な強者は弱者のことを考える必要はないということにもなる。生まれ育った環境や運、そして犯罪行為もすべて神が事前に定めていたのであり、どのような手段でカネを儲けたとしても、それは神の意志だということだ。つまり、人間にとって善行は無意味であり、自分が「選ばれた人間」だと信じる人びとは何をしても許されるということになる。

 ビクトリア朝時代のイギリスで政策決定の中心にはネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、レジナルド・ブレット、ウィリアム・ステッドなどがいた。

 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物だが、1877年に彼が書いた『信仰告白』によると、彼はアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考え、優秀なアングロ・サクソンが支配地域を広げることは義務だと信じていた。非アングロ・サクソンの殲滅は神から許されているということになる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204140000/


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RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。

BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html


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アメリカに逆らった民族の運命

チャーチル 「日本人は中国娘と猿との野合の末に生まれた類人猿のようなもの」


ウィリアム・ハルゼー海軍元帥 : 日本軍との戦闘に際し

「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」


トマス・ブレーミー将軍

「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」


当時のアメリカの雑誌

「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。

これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」


「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

 フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。

もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html


ホロコースト生存者の映画を撮ったユダヤ人女性は、「原爆は日本への罰」と言いました。

ノイマンや投下の乗組員は差別主義者で狂ったサルには神の裁きをと死ぬまで攻撃支持しています。

エノラゲイではアロハシャツを着て原爆を落としていった。

ポール・ティベッツは「人類初の原爆投下をした男」というTシャツを作って、得々として着ていた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012944300


米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。

占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。

『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。

そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。」

広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。

そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。

治療は全く受けませんでした。

そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。

日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。

私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html


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フィリピンの愛国者の運命


1898年12月、フィリピンはスペインからアメリカに2千万ドルで売却され、アメリカの植民地となる。既に宗主国への独立運動が起きていたが、その戦いはスペインからアメリカに変わっただけであった。

 翌年2月、サン・ジュアン橋を警護していたアメリカ兵がフィリピン人に発砲したことから戦いは表面化する。アーサー・マッカーサー将軍(来日したのは彼の息子)は軍を率い、マニラから北部に攻め入り、本国からも援軍が来る。

アメリカ軍はゲリラを掃討するため、各種の手段も用いたが、当然拷問もその1つだった。

 特に頻繁に行われたのは水責めだった。

捕虜を仰向けに寝かせ、その上に椅子を置き、口の中に棒や剣をねじ込んで口を開かせ、塩水や泥水を大量に流し込む。

そして腫上がった腹の上に椅子に飛び乗り揺する。すると食べた物ばかりか胃液までが水と一緒に吐き出されるが、これを何度も繰り返したそうだ。

処刑の場合は耳を削ぎ、目をくりぬき、腕を切り落とした。捕虜が女である場合は乳房を切り落とし、銃剣をゆっくりと性器の奥に突き刺した。

 1901年、サマール島のゲリラを鎮圧するためジェイク・スミス率いる部隊がバランギガの街に宿営した時、ゲリラの反撃に遭い多数のアメリカ兵が殺害された。この報告を受けたセオドア・ルーズベルトはゲリラの鎮圧を命じる。これを受けたスミスはこう部下を叱咤激励する。

「焼き尽くし殺し尽くす。これが多ければ多いほどよい」。

兵士たちは任務に邁進した。一連の弾圧で20万ものフィリピン人が犠牲となったが、アメリカは本国でのインディアン掃討作戦を再現したに過ぎない。


別に掃討されなくともチェロキー族のように強制移住で全体の3分の1もの人間が命を落とした例もある。

また、7回も居住地を変えられ人口が半減した部族もいたから、まさに死の行進である。悪名高き古代アッシリアと進歩はないようだ。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/87251205a57837d94cf07a593fa62661



米国のゲリラ戦への対応は昔から同じ

『ニューヨーク・ワールド』紙の1901年2月5日版は、米国のゲリラ戦への対応を、若干ですが次のように報道しています。

「我軍はあちこちで土着民に残虐行為を行っている。大尉や中尉は時折、裁判官であり、執行官であり、死刑執行人である。

『これ以上の捕虜をマニラに送り込むな』というのが、3ヶ月前に将軍=植民地総督から出された口頭による命令だった。

一人のアメリカ人軍人が殺されたことに対する復習として、すべての家々を焼き尽くし、容疑者というだけで住民を殺し回ることが、いまや慣習になっている。」


ベトナムの小村やイラクでの最近の結果が残酷にも示しているように、フィリピンの村民は「リコンセントラド」と呼ばれる強制収容所に集められました。

捕えられた兵士と一般市民は等しく「水療法」という拷問を受けました。

「フィリピン・アメリカ戦争百周年記念イニシャティブ」という資料によれば、この拷問は

「捕虜の喉に4-5ガロン(16-20リットル)の水を無理矢理に飲ませ、恐怖で白状するよう追い込む、その後、腹の上に誰かが跪いて座り、水を体から押し出す。その拷問は『友人』が口を割るか死ぬまで繰り返される。」

というものでした。


もしその「友人たち」が反撃したら、米国は「賭け金」を引き上げる準備が整っていました。

つまり、米国の小隊が待ち伏せ攻撃で全滅させられたとき、ジェイコブ・W・スミス准将、ウンデッドニー大虐殺の古参兵(ウンデッドニー大虐殺では米国陸軍がラコタの住民=男女子供の推定三百人を殺害した)は、「10歳以上のすべての人間」を殺せと命令を出したのです。

「捕虜は必要ない。私が望むのは殺し尽くし焼き尽くすことだ。それが多ければ多いほど、私の喜びは倍加する。」とスミスは宣言しました。

「私はすべての人間が殺されるのを望む。米国に対して実際に敵意をもち、武器を持って戦ってくる可能性のある人間すべてを殺せ。」

それから百年後、ジョン・ケリーが、自分はベトナムで「何千人もの他の兵士が犯したのと同じ種類の残虐行為を犯した」と認めているにもかかわらず。ジョージ・W・ブッシュは戦争犯罪を容認しているのです。

すなわち、これは詰まるところ組織的な拷問であるということなのです。
http://www1.gifu-u.ac.jp/~terasima/znet040507commentaries2prisoners3dilemma.html


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ウンデッドニー以来…… (本多勝一)

 アメリカ合州国が、一方的な「ブッシュの戦争」でアフガニスタン空爆を続けている。予測されていたとおり、一般住民に多数の死傷者が出た。そして、そんなことは一切おかまいなく空からの無差別虐殺をつづけるであろうことも、予想通りである。なぜか。

 合州国の「はじまり」から点検してみられよ。この国は500余年前の「コロンブスの大虐殺」で始まる。すなわち南北アメリカ両大陸(および付属諸島)の、何千万人とも知れぬ先住民族たちの、おそらく人類史上最大の悲劇の始まりである。

合州国に直接関連するものとして、北米の先住民族が最近までにどんな虐殺をされてきたかは、日本人による世界に誇れる報告『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂・朝日新聞社・1972年)がある。

 ワシントン初代大統領時代から強行された侵略は、最後の組織的虐殺「ウンデッドニー」で一応終るものの、そのわずか10年後(1900年)、フィリピンを侵略した米軍による「10歳以上すべて」の全男女が、ルソン島・サマル島で大虐殺された。

のちの日本占領軍司令官マッカーサーの父親たるアーサー=マッカーサー将軍の命令だ。この虐殺軍の指揮官たるや、なんと米本国でのベテラン対先住民戦闘兵自身だった。つまりアメリカ先住民大虐殺の歴史は、アジア人大虐殺へと直結する。

 息子のマッカーサーを最高司令官とする米軍は、東京大空襲や広島・長崎への明白な無差別大虐殺を、「真珠湾」への“反撃”として強行する。真珠湾は軍事施設だけを目標としていたが、東京や広島・長崎等は住民の生命そのものが目標である。

 その5年後、朝鮮戦争が始まる。そこでの米軍による住民大虐殺については、たとえば松本昌次『朝鮮の旅』での「信川大虐殺」などで明らかだが、つい最近も「老斤里大虐殺」が暴露された(注3)。

 朝鮮での終戦後10年と経たぬうちに、ベトナム戦争への米軍介入だ。ソンミ事件その他、アメリカ先住民大虐殺と全く同じ無差別婦女子大虐殺が、カウボーイ米兵らによって“楽しく”行なわれた。

 ベトナム戦争終了26年後の今、父親ブッシュによるイラク戦争(湾岸戦争)を経て息子のブッシュが、国連を無視してアフガニスタンに開戦した。ウンデッドニー当時の大統領と現在のカウボーイ父子大統領とで認識に基本的違いがない以上、非白人で異教徒住民への無差別爆撃(虐殺)は当然である。良心的アメリカ人は、あくまで非主流だ。

 ここまで書いた直後、ミニコミ誌『シサム通信』10月号が届いた。その中から、アフガニスタンで長年医療活動をして今回脱出した中村哲医師の言葉――「一連の動きを見て思うのは、西部劇の続きである。勇敢な白人がバッタバッタとインディアンをなぎ倒していく。」


<注3>1950年7月に韓国・忠清北道老斤里で避難民数百人を米兵が無差別射殺。AP通信が一昨年9月に報道。
http://www2.kinyobi.co.jp/old/fusoku_oldf/386
4:777 :

2022/06/05 (Sun) 16:58:54


サンドクリークの虐殺 僕もやってみたい _ わくわく、ドキドキ

映画 SOLDIER BLUE 1970
https://www.youtube.com/results?search_query=+SOLDIER+BLUE+1970


ジェームズ・D・コナー大尉

「われわれがインディアンの宿営地の見える地点に着いたのは、11月29日の夜明けでした。シビングトン大佐が攻撃を命じ、命令は実行されました。

大佐の連隊は約1000人でした。インディアンの村には100から130のテントがあり、私の見るところ、500人から600人のインディアンがいて、その大半は女と子供でした。

翌日現場に行ってみますと、男、女、子供の死体は、どれもこれもみな頭の皮をはがされていました。

死体の多くは、これ以上むごたらしくはできないほど切り刻まれ、男女、子供の見境なしに生殖器が切りとられていました。

兵士の一人が、自分は女の生殖器を切りとって、棒に突きさしてみんなに見せてまわったといっているのを私は聞きました。・・・・・・・


私の知っている限りでは、こうした残虐行為はJ・M・シビングトン大佐もご承知の上でなされたものですし、大佐が残虐行為を押しとどめようとしたとは聞いておりません。次のようなことも耳にしました。

生後数ヶ月の赤ん坊が馬車のまぐさ桶に投げこまれ、そのまま引いていかれ地面に放りだされて死んだそうですし、兵士たちが女性の生殖器を切りとり、鞍の全部においたり, 帽子の上に乗せたりして行軍したなどの話はいくつも聞きました。」

クレーマー少尉

「シビングトン大佐が連隊に前進を命じ、インディアンたちは川の方まで後退して、土手のところに身を隠しました。

インディアンの指導者“ホワイト・アンチローブ(白いかもしか)が、武器を持たずにわが軍の隊列に向かって両手をあげて走ってきたのですが、殺されました。

女や子供は身を寄せあっていましたが、わが軍の銃火はこの女と子供の群れに集中
しました。

100人ほどいたインディアンの戦士は絶望的に抵抗してきました。

インディアンは全部で500人ぐらいでしたが、125人ないし175人が殺されたと思います。傷ついたインディアンも、最後まで降伏しませんでした。

死んだ者の頭の皮は、みんなはがされていました。

「白いかもしか」だと確認できた死体の指は、切りとられました。

兵力はわが方が圧倒していましたので、発砲する必要はなかったと思います。インディアンが発砲したのは、わが軍が何発も撃ってからあとのことでした。・・・・・・・

私がシビングトン大佐に、こんなインディアンを攻撃するのは、どう考えても殺人ではないかといいましたところ、大佐は拳を私の顔に近づけ、“インディアンに同情する奴は馬鹿だ”とどなりました。

大佐はインディアンを殺しにきたのでした。状況がどんなであれ、インディアンを殺すことを名誉なことと信じていたのです。」
http://www.aritearu.com/Influence/Native/Nativeword/GhostDance.htm#1

ジョン・ミルトン・チヴィントン (John Milton Chivington, 1821年1月27日〜1892年10月4日)は、南北戦争のニューメキシコ戦役とコロラド戦争での活躍で知られる19世紀のアメリカ合衆国陸軍士官。彼は1862年のグロリエタの戦いの英雄として称えられている。

チヴィントンはオハイオ州レバノン(w:Lebanon, Ohio)に生まれた。

メソジスト教会で洗礼を受けたチヴィントンは聖職者になることに決めて、1844年に聖職に定められた。

1853年、彼はカンザス州のインディアン部族、ワイアンドット族の伝道のため、メソジスト伝道遠征隊に参加した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3


サンドクリークの虐殺は、1864年11月29日に起きた事件であり、チビントン大佐は特に子どもたちを殺すようにとの命令を下しており、後に理由をたずねられると

「全員を殺して、大きいのから小さいのまで、全部の頭の皮をはがさせたのは、シラミの卵はシラミにしかならないから」

と答えていた。

1890年12月29日、サウスダコタ州のウーンデッドニー渓谷では第七騎兵隊が武器を持たずに「ゴーストダンス」という宗教儀式に臨んでいた350人のラコタ・スーの人たちを襲撃して、およそ90人のラコタの戦士たちや200人の子どもや女性たちを殺害した(写真)。公式な報告でも、マイルズ将軍によるこの事件は「不当な虐殺」と書かれているものの、この虐殺に関与した兵士たち23人には合衆国政府に栄誉勲章が贈られている。
http://native.way-nifty.com/native_heart/2007/04/post_d2ec.html

これはアメリカの南北戦争のさなか、コロラド州サンドクリークで北軍の部隊により133人のシャイアン族が虐殺された事件です。

シャイアンのチーフ、ブラックケトルが率いるキャンプは、全部で約600人、その3分の2が女と子供でした。

白人の軍事力の大きさをよく知っていたブラックケトルは、軍隊と休戦協定を結び、北軍のグリーンウッド大佐の「星条旗を掲げておけば絶対に大丈夫」という言葉を信じ、星条旗と白旗をあげて安心していました。

ところがシヴィントン大佐は、衆議院選挙出馬を狙っており、開拓者の反先住民感情を利用しようとし、無防備なこのキャンプに突然奇襲をかけます。

逃げ惑うシャイアン達を容赦なく殺戮する兵士たちは『しらみの子はしらみ』と女、子供も容赦なく殺しました。

その残虐さは筆舌に尽くし難く、皆、頭皮をはがれ、遺体は切り刻まれ男女、大人子供の区別なく、生殖器は切り取られ、妊婦は、体内の胎児まで引きずり出されたそうです。

この虐殺で、シャイアンの女と子供が105人、男28人が死にました。

1970年に作られた映画『ソルジャー・ブルー』はこの事件を元に作られています。映画の題名は、当時のシヴィントン軍の制服が青色だった事に由来しています。
http://complass.cocolog-nifty.com/suzaku/2003/11/post_8558.html

サンドクリークの虐殺で生き残ったシャイアン族の長にも係らず、生涯白人との友好を訴えた人物がいたことをネットではじめて知った。せっかくサンドクリークで生き延びた彼もまた、4年後の別の虐殺事件により生涯を終えた。


『ソルジャー・ブルー』のラストシーンでの虐殺場面はやはり圧巻。

兵士による輪姦や女子供のような非戦闘員への殺戮、スプラッター映画を思わせる死体損壊などおぞましい映像が繰り広げられる。

ただ、現実はさらに惨かったようで、以下wikiから引用した箇所は、さすがに映画化されなかった。

-指輪を奪うために指を切断し、子どもも合わせた男性の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。

男性器と合わせ、女性の女性器も「記念品として」切り取られ、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った…

 シャイアン族のキャンプを襲撃した白人兵士達は酔っていたそうだが、早朝から昼頃まで虐殺は続いたのだから、飲酒は言い訳にならない。

この陸軍騎兵部隊を率いたチヴィントン大佐の命に従わぬ将校サイラス・スーレがおり、スーレの告発により事が発覚する。スーレは後に虐殺に加わったチヴィントンの部下の兵士に殺害された。

チヴィントンはスーレを偽証者と糾弾、最後までインディアンの襲撃への対抗と主張し続けたという。

ちなみにチヴィントンは牧師でもあり、先住民へ伝道活動もしていた。


 ブラック・ケトルというシャイアン族の長がおり、彼は部族の惨殺を目の当たりにしても、白人との和平を望みを捨てなかった。wikiには「非常に温厚で慎重な人物」と記されているが、その人徳は仇となる。

 ブラック・ケトルが死亡したのはサンドクリーク虐殺事件から4年後の1868年11月26日、オクラホマのワシタ川でだった。ワシタ川の川岸に野営していたケトルらシャイアン族を襲撃したのこそ、カスター将軍指揮下の第7騎兵隊。これも先住民が寝静まっている夜明け頃の不意打ちで、女子供を問わない皆殺しとなった。

ケトルの死をwikiは以下のように描く。

-この時、彼のティピー(テント)には白旗が掲げられていた。彼は必死に「友達だ! 友達だ!」と叫んだが、それは無視され、最新鋭の軽機関銃で蜂の巣となった…

 白人との友好派だったケトルの最後は、悲惨としか言いようがない。白人と敵対せず“非常に温厚”な長であっても、結局蜂の巣の屍となった。

白人側は所詮ケトルらを友人とは思ってもいなかったのが、この史実だけで知れる。


 日本の親欧米派文化人、殊にクリスチャンなら、上記のような虐殺事件への弁明はこうなる。

「そのような欧米人はキリストの精神を忘れてしまった」

「どの宗教にも問題のある聖職者はいる」。

ただし彼らで欧米人に、「あなたの行いはキリストの精神に反している」と言える度胸を持つ人物がいるか極めて疑問だ。

 また、虐殺事件を紹介した先住民記念館の例を挙げ、

「我々はインディアンの悲劇を決して忘れない」と語ったアメリカ知識人に感銘を受けたと書いていたブロガーもいた。

全くアタマの程度が知れるお目出度さ。

1世紀後のベトナム戦争やアフガン空爆、現代なお続くイラク戦争だけで、19世紀とアメリカは基本的に変わっていないことも黙殺したいらしい。

それとも同じキリスト教徒ゆえ、友達扱いされることを期待しているか。キリスト教に改宗し、人間扱いされたインディアンなどいたのだろうか。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/8178cc8369a8889b63f640d679537e73


―オオカミに導かれて―
                                  
          
1864年11月29日に起きたサンド・クリークの大虐殺の直後、生き残った二人の姉妹がいた。

          
姉妹は同じ男と結婚して一人づつの娘があった。夫は虐殺で致命傷を負ってしまっていた。再び兵隊がやってくる前に、姉妹は娘を連れ、それぞれバッファローの毛皮一枚だけを持って逃げた。他のシャイアンのグループを探しに…

          
4人は大平原を何日も彷徨った。食べ物は、木に残っているわずかなchokecherryをつまんで食べた。冬の寒さは厳しい。4人は丘の下に穴を掘り毛皮を敷き、その上で毛皮にくるまり寒さをしのいでいた。

そんなある夜、一頭の大きなオオカミが彼女たちの前に現れる。オオカミは彼女たちのいる目の前で眠った。

           
朝になって、彼女たちが歩くとオオカミも歩く。オオカミは彼女たちと共に移動をした。

「もう何日も食べていないの。何とかして下さい。」と姉が言うと、オオカミはどこかに行き姿を消してしまった。

しばらくして、口の周りを血だらけにしたオオカミが戻ってくる。オオカミの後をついていくと、そこには倒したばかりのバファローが横たわっていた。

そのバファローの周りを、誰も口をつけずにオオカミの群がとりまいていた。

女たちは、バファローの胃と脂をもらった。

その夜、女たちがオオカミのために香りのいい草(甘草)を敷いてあげると、オオカミはその上で眠った。

           
ある夜、二本足のモノが近づいて来る音があった。オオカミが、そのモノと戦う音がしたが、真っ暗でなにもわからず、女たちは恐怖のあまり逃げ出してしまった。

次の朝、オオカミは彼女たちに追いついて、また行動を共にする。

女たちは疲れていた。「自分の部族の所に案内して下さい」とオオカミに頼んだ。と、オオカミは立ち上がり草原の向こうに消えた。しばらくして、オオカミは干し肉をくわえて戻ってくる。

オオカミの後をついていくと、シャイアンたちのティピー(テント)が見えた。
          
村に着くと、彼女たちは虐殺の生き残りとして大歓迎を受けた。彼女たちは、お礼として干し肉をオオカミに差し上げ、言った

「一生、オオカミへの恩を忘れないだけではなく、これからも自分たちを助けてくれたオオカミのことを語り継ぐだろう」と。

オオカミは自分の仲間の所へ戻っていった。
          
彼女たちが仲間の所へたどり着いた時、虐殺のあった日からすでに一ヶ月近く経っていました。     
http://www.jca.apc.org/~kuzunoha/newsletter5_hanasi.html
5:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:00:38

自分の母親を殺しにかかったアメリカ人はムスタングという美しい飛行機にのってアクリル風防から標的にした蒸気機関車を母親の頭上からはっきりと見定めて12.5ミリ機関砲をくりかえし掃射している。子供の頃に聞いた記憶では1機だと思った のだが最近ふたたび母親に聞きただしたところ3機だったという。


迎撃するような戦闘機が日本の上空に存在しない事も問題だけれど蒸気機関車から逃げ出した老人や子供、若い少女たちを射殺する事を対航空戦用の機関砲で実行するという感覚がわからない。


逢坂山トンネルを山科から野洲に向かう道中は、実に開けた平野地だ。
ようするに3機のムスタングは、戦闘行為という自覚ではなく非戦闘員を頭上から殺傷することを目的として待ち受けていたのだろう。停止した車両から逃げ出した人達を一人づつ丁寧に撃ち殺している。後で助かった母親は、京都府立医大の看護婦なのだから気丈に殺された人達をそれぞれ検分している。けれど当然ながら到底機上のパイロット に反撃するような火器をもっている人など一人もいない。みな背中から機関砲を打ち込まれ、頭ごとふきとんでしまった赤ちゃんもいたと言う。

母親が無事無傷で助かったのは奇跡的だったと思う。(他界した親戚の老人の身代わりだなどとか神がかりな事を母親は言っているがようする に偶然に過ぎないと私は思う。)同じ客車のほとんどすべての乗客、 女子供を問わずこの襲撃で死傷している。

米国人はなにかにつけてリメンバーパールハーバーを言うが、彼らが戦争中に本来の軍事行動とはまったく関係のないこのような軍人による犯罪行為を多数繰り返していることについては、どのように考えているのだろうか。軍指導の上層もこれを諌めて抑止していたというフシも感じられない。そもそもカーチスルメイ将軍など、いかに効率よく日本の非戦闘員(ようするにじいちゃん、ばあちゃん、にいちゃん、ねえちゃん)を焼き殺すかを熱心に研究していたわけだ。日本人は戦後、なにかと言うと広島、長崎の原子爆弾のお話にもってゆくが、東京や大阪、名古屋でアメリカが落とした油性爆弾で木造家屋を焼かれて死んだ人が壮絶に多いのだ。これについて戦後、アメリカにまっすぐに抗議した人の話を聞いた事がない。

また、殺されかけたことも忘れて靖国神社に出向いて清掃奉仕をしようという親戚のおばさんがいたので、わが母親は罵倒してやめさせた。

靖国神社の宮司かなんぞの中に、アメリカが意図的に非戦闘員とあきらかに分かっている日本人へ向けて実行されたこれら殺傷行為を犯罪であると糾弾したものがいるのか。寡聞にして耳にしたことがない。彼らが全国から参拝する遺族や国民からの浄財でなりわいしているのであるのならば、その国民がいわれなく戦争被害者として戦中、戦後悲嘆の苦しみに喘ぎ過ごしたことについて一度はきちんとアメリカにむけて抗議してみたらどうなのだろう。

戦争に参加した軍人の慰霊を話題にするのならば、彼ら軍人や戦争指導者らが粗忽にも無計画に始めた戦争でロクすっぽ勝てもせず、いたずらに戦争にまきこんで殺されていった幾百万もの国民の慰霊をどのように考えているのか。

「軍国主義者の戦争遂行能力と抗戦意志を挫く」という戦略爆撃の思想にもとづくが、日本の戦争責任とならび、非戦闘員(市民)に対する無差別攻撃として戦争責任を問う考え方もある。


ようやく東京大空襲の概略が、関係者の手で明らかになりつつあるようだけれども、実は戦後50年まったく同じ思いで過ごしていた国民はあまたいるはずである。

そのような体験咀嚼をまじめに積み上げてこなかったからこそ、今またしてもアメリカがイラク進攻に際していつものように非戦闘員に対する無造作な殺戮行為を諌めることも制止することもできないで、傍観していることになる。まして自衛隊をばかばかしいかたちで派遣しているために政府声明もだせない事態にあるのだろう。だから、パウエルに「お仲間だから仲良くしようぜ」みたいなアピールをされてしまうのだ。この恥ずかしさをよくよく考えた方がよい。

自分は、アメリカの軍人が最終的に命がけで我々の生命財産を守ってくれ
るなどと信じたことは一度もない。

当時、18歳であった母親はその後大阪の大空襲で罹災した市民を看護婦として救援に出向いている。当たり前のことなのだが、日本での大戦中の戦争被害は当然東京、広島、長崎だけにとどまらない。大阪の罹災者を救援に出向いた母親の業務は、ピンセットでその肉に食い込んだガラス破片をつまみだすことだけに日々忙殺され、投与する薬など皆無だったと嘆息していた。都市部の戦争被害の様相がそれである。いまイラクなどで進行している戦争被害の規模と災悪を想像することは到底おぼつかない。
(シャルドネ)

「大阪市大空襲」
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-oosakacity.htm

次数 月日 来襲の戦力 被災の状況
B29 投下弾 戸数 被災者 死者 不明
1 3月13日 274機 焼夷弾  1,773屯 136,107 501,578 3,987 678
2 6月 1日 458機 焼夷弾  2,789屯 65,183 218,682 3,112 877
3 6月 7日 409機 焼夷弾  2,594屯 58,165 199,105 2,759 73
4 6月15日 444機 焼夷弾  3,157屯 53,112 176,451 477 67
5 6月26日 173機 爆弾    1,140屯 10,423 43,339 681 63
6 7月10日 116機 焼夷弾   779屯 16,488 65,825 1,394 9
7 7月24日 117機 爆弾     704屯 893 3,503 214 79
8 8月14日 145機 爆弾     707屯 1,843 2,967 359 79


↑このリンク先に大阪市大空襲についての、記述がある。そちらには、 「昭和23年本市は当時校庭や公園の片すみに仮埋葬された遺体の改葬を行い、無縁の遺骨2870体をここ服部霊園に合葬しましたがこのたびこの塔を建立し大阪市全市の戦災死者の霊を弔うこととしました」とある。

大阪の府民は、服部緑地で運動会をやる企業などが多いがあの服部緑地に隣接する霊園にこのような歴史沿革があることを自覚している者がどれだけいるのだろうか。

以下は、イラクの消息を伝えるとされているレポートです。

伝えられる状況に最も理解も反応もありえるのはまさしく母親の世代ではないかと思われる。戦争罹災者の視点で日本側からの声が湧き上るべきだと私は思うのだけれども、残念ながらあの時代の証言者らが当事者としてインターネットに登場するには、キーボードの障壁に阻まれて声明を述べる機会を得ないと思われる。まことに残念なことである。(シャルドネ)

【ダイジェスト】

到着後、私たちは物資をバスから降ろした。荷箱はすぐに引きちぎるように開かれた。最も歓迎されたのは毛布だった。そこは病院と呼べるものではなく、ただの診療所だった。米軍の空襲でファルージャの大病院が破壊されてから、ただで人々を診療している個人医の診療所だった。もう一軒の診療所は、ガレージに臨時で作られたものだった。麻酔薬はなかった。

血液バッグは飲み物用の冷蔵庫に入っており、医者たちは、それを非衛生的なトイレのお湯の蛇口の下で暖めていた。

女性たちが叫び声をあげながら入ってきた。胸や顔を手のひらでたたき、祈りながら。ウンミ、お母さん、と一人が叫んでいた。私は彼女を抱きかかえていた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキが私をベッドのところに連れていった。そこには、頭に銃による怪我を負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。米軍の狙撃兵が、この子どもたちとその祖母とを撃ったのである。一緒にファルージャから逃れようとしたところを。

明かりが消えた。換気扇も止まり、急に静かになった。その中で、誰かがライターの炎を付けた。医者が手術を続けられるように。町の電気は何日も前から止まっており、発電器の石油が切れたときには、石油を入手するまで、とにかく何とかしなくてはならない状況だった。デーブがすぐに懐中電灯を渡した。二人の子どもたちが生き延びることはなさそうだった。

「こちらへ」。マキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこには、お腹に受けた銃の傷を縫い上げたばかりの、年老いた女性がいた。足のもう一カ所の傷には包帯がまかれていたが、彼女が乗っているベッドには血が染み込んでいた。彼女は白旗を今も手に握りしめていた。彼女の話も、 同じである:

「私が米軍の狙撃兵に撃たれたのは、家を出てバグダッドに向かおうとしているときでした」。

街の一部は米軍海兵隊に制圧されている。
別の一部は地元の戦士たちが統制している。彼女たちの家は、米軍が制圧した
地域にある。彼女たちは、狙撃兵が米国海兵隊兵士であるという固い確信を持っている。

米軍の狙撃兵たちは、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と救助活動も麻痺させている。ファルージャ最大の病院が爆破されたあと残った次に大きな病院は米軍が制圧する地域にあり、狙撃兵たちによって診療所から遮断されている。救急車は、銃弾による損傷を受けて、これまでに4回、修理された。路上には遺体が転がったまま。遺体を取り戻しに道に出ると狙撃されるので、誰も遺体を取り戻すことができない。
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200611140003/



《グレン・グレーの『戦士たち』には、日本兵を一人放ち、その兵士が身の安全を求めて狂ったように逃げ回るのを標的として射撃を楽しんだというはなしが紹介されている。

兵士たちは、逃げ回る日本への様子の滑稽さに、あまり笑いすぎて日本兵に的を絞ることができなかった。しかし、ついに弾が命中すると小隊全体の雰囲気は大いに盛りあがり、数日間はそれを肴にした話題や冗談が続いたと書かれている。》

《一九四三年三月にラバウルからニューギニアのラエに向かった日本の輸送船八隻と駆逐艦四隻を撃沈すると、米豪軍の航空機はいかだや救命ボートに乗っていた3000名近くの遭難者を機銃掃射した。

『タイム』誌(一九四三年三月一五日号)は、

「低空飛行の戦闘機が生き残りのジャップでいっぱいの救命ボートを血の海に変えた。ジャップに浴びせられたこの残忍さは、かつて彼らがしばしば示したものである。今回の攻撃の結果、岸にたどり着くことができたジャップはほとんどゼロに近かった」

と報じた。

また高級紙の『アトランティック・マンスリー』誌(一九四六年二月号)でさえ、

「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、他の骨でペーパーナイフを作るとかした」

との記事を掲載している。そこには、標的の日本兵がすぐ死ぬことがないように火炎放射器の炎を調節したとも書かれていた。》

《英国人記者のラッセル・スパーは『戦艦大和の運命』で、海面に浮かんでいる大和の乗員を機銃掃射した米軍機の行為を、

「米国人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに気が咎めなかった。米国の高官連中は公然と日本人を殺すことはシラミを殺すより悪いことではないと明言していた。」

と書いている。》
(元海上自衛隊海将補平間洋一著『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版)より)

《同校の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、海兵隊は日本軍の投稿をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「ひとりも捕虜にされなかった」という》


(新庄哲夫訳『リンドバーグ第二次大戦日記』下巻(新潮社))
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237378982


「特攻隊員を処刑するアメリカ軍」
http://www.youtube.com/watch?v=2XfSClIbMh0&feature=related

この動画には、海面を漂う無抵抗な日本兵を砲撃・殺害し、さらにその死体に向かってピストルの銃口を向けている米軍兵の姿が映っています。


▲△▽▼

都市の民間人を狙った米軍の空襲
日本は戦時中に連合軍(アメリカ軍)から都市への無差別爆撃を受け、原爆を含めて41万人以上がなくなったとされている。

犠牲者数についての正確な統計は無く、それぞれの被害地域で数を数えて合計したのが41万人と考えられる。

戦後の調査は推定値として70万人から100万人という数字も出されている。

          
空襲で負傷した人はその数倍の数百万人いたので、戦後は負傷者や障害者がとても多かった。

分かっている犠牲者41万人のうち約10万人が東京大空襲、広島原爆14万人、長崎原爆7万人、他は大阪・兵庫・愛知が多かった。

連合軍の第一の目標は民間人が多く居住している都市で、第二目標が港湾や飛行場、軍需工場などだった。


最初から民間人だけを標的にして、なるべく多くの犠牲者を出すのを目的にしていました。

1942年(昭和17年)4月18日に空母ホーネットから離艦した16機のB25が、デモンストレーションのように各地を空襲した。

1944年(昭和19年)6月16日、中国から離陸した新型爆撃機B29によって福岡県八幡製鐵所に空襲が実施され、200名以上がなくなった。


B29は操縦性が悪く、目標に狙いを定める事ができないので、最初から特定の標的ではなく、都市全体を狙っていた。

1944年10月からは占領したマリアナ諸島から連日B29が空襲に飛来するようになり、1945年8月15日以降も空襲は行われた。

アメリカ軍は出撃する兵士に「ジャップを人間と思うな」と檄を飛ばし、米軍機のパイロットは意図的に民間人を狙いました。

米軍が撮影した機内動画には、逃げ惑う農民などを執拗に狙い続ける様子が写っており、たまに動画サイトに掲載されている。


ミッドウェー海戦を転機に日本海軍は太平洋の戦線で負け続け、1943年(昭和18年)4月18日には連合艦隊司令長官も撃墜され作戦指揮ができなくなります。

太平洋の拠点は次々に玉砕し、B29が日本本土まで往復可能なサイパンを占領されて万事休すとなった。

B29爆撃機は今の自衛隊の飛行艇程度の全長なのだが、当時はバケモノのように巨大だと考えられていた。


最高速度は零式戦闘機と同等で、上昇高度はずっと高く、頑丈な装甲に守られていて、多数の機関銃も装備されていました。

戦前の最高性能だったとされる四式戦闘機「疾風」でも、速度は十分なものの、機銃が命中しても撃墜は困難だったと言われています。

日本各地には高射砲が設置されていたが、これがまったく当たらない上にB29は高度が高くて届かないので、天気予報(当たらない)と呼んでいた。
http://www.thutmosev.com/archives/72077992.html


▲△▽▼
2017年8月13日(日) 午後10時00分(110分)
「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”~」 - Dailymotion動画
http://www.dailymotion.com/video/x5ww7u5
http://www.dailymotion.com/video/x5wwhri


太平洋戦争末期、日本の都市を次々に襲った空爆 市民の多くが犠牲になった

今年、取材チームが、空爆作戦を実行したアメリカ軍幹部が証言する肉声テープを発見した

軍内の野望、戦果を迫られる現場、大統領からの圧力…悲劇をもたらした戦略の真相は?

どんな番組?

「空軍に素晴らしいチャンスが来た」

1945年 敗色濃厚な日本への無差別爆撃
わずかな期間で40万人もの犠牲者を出した


72年前、なぜ日本は
焼き尽くされることになったのか?


今年4月、米軍内の施設で発見された
当時の空軍幹部246人の肉声テープ


「過激なことをやろうとした」
東京大空襲を実行した
カーチス・ルメイ将軍


「一番の目的は、人口の中心を
破壊することだった」
バーニー・ガイルズ将軍


アメリカ空軍が日本爆撃のために作り上げた
切り札 B29


強力な航空兵器をめぐる
陸・海軍とのかけ引き

アメリカ軍内の激しい対立
空軍幹部の野望


アメリカ軍内部で追いつめられた
空軍がとった戦略


「こんなに詳細に壊滅的な戦略が
考えられていたのは、本当に驚きです」
アメリカ 航空戦略の研究者

肉声テープが語る、戦争の裏側

番組内容

BS1スペシャル「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」

72年前、日本はなぜ焼け野原になったのか?アメリカ軍を取材中の今年4月、米軍内施設で半世紀以上前の空軍幹部246人の肉声テープを発見。日本への空爆を計画し実行したカーチス・ルメイなど幹部の貴重な証言だった。軍内の記録用インタビューのため、野望や焦りなど本音が赤裸々に語られていた。膨大な予算のB29開発の失敗。陸海軍との対立や屈辱。米大統領の圧力。後のない空軍幹部たち…日本への無差別爆撃の真相に迫る



▲△▽▼
2018.03.23
東京の下町が米軍の空爆で10万人前後の市民が焼き殺されて73年経つが、変わらない米支配層の体質

 今から73年前の3月9日から10日にかけて東京の下町、深川、城東、浅草などがアメリカ軍の投下した焼夷弾で火の海になり、7万5000人から20万人の非戦闘員が殺された。焼夷弾とは一種のクラスター爆弾で、中には38個の小爆弾が収納されていた。上空約610メートルで子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後、焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組み。


 日本の軍や警察による政策が被害を拡大させた要因のひとつではあるだろうが、アメリカ側の作戦や戦略を徹底的に検証することも重要だ。たとえ、それが不都合な真実であったとしても。


 この時の爆撃は典型的だが、ターゲットは軍事工場でなく一般市民。先住民を殲滅したように、日本の市民を皆殺しにしようとした作戦であり、都市部の爆撃は「無差別」でなく「計画的」だったとする人もいる。


 この作戦を指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイは広島と長崎に対する原爆投下、あるいは朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。1950年6月に勃発した朝鮮戦争でルメイは朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊、多くの市民を殺している。ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。勿論、カーチス・ルメイが独断で行った大量殺戮ではないだろう。彼の周辺には仲間がいる。


 ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、朝鮮戦争が休戦になった翌年の54年にはソ連を核攻撃する作戦を立てている。それによると、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。


 ​SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書​によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だ。この当時もSAC官はルメイ。


 この計画で攻撃目標とされた都市はモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。


 日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていたことは確かだろう。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行され、基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。


 沖縄の基地化が進められていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーは後に統合参謀本部議長に就任、ルメイを同じようにキューバへの軍事侵攻、ソ連への核攻撃を目論んでいる。つまりルメイとレムニッツァーは仲間。第2次世界大戦の終盤、アレン・ダレスはフランクリン・ルーズベルト大統領の意向を無視してナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行したが、レムニッツァーもその作戦に参加していた。


 レムニッツァーとダレスを引き合わせたのはイギリスの軍人。連合軍大本営最高司令官だったイギリス人のハロルド・アレグザンダー伯爵だ。レムニッツァーはイギリスの貴族に憧れを持っていた人物で、シチリア島上陸作戦の際に知り合い、アレグザンダーから目をかけられることになった。


 この人脈が影響したのか、1960年10月にレムニッツァーは統合参謀本部議長へ就任、CIA長官になっていたアレン・ダレスとキューバへの軍事侵攻を目論む。その背後にはソ連や中国に対する先制核攻撃計画があった。この攻撃計画にはダレス、レムニッツァー、ルメイも参加している。


 レムニッツァーとルメイはジョン・F・ケネディ大統領と激しく対立した。ケネディ大統領がソ連に対する先制核攻撃に反対、戦争の準備だったキューバ侵攻作戦ではアメリカ軍の直接的な介入を阻止する。


 キューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するという「ノースウッズ作戦」をレムニッツァーは1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否する。(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)ケネディ大統領はその年の10月、レムニッツァー議長の再任を拒否した。そのレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがハロルド・アレグザンダーだ。


 再任拒否の直前、1962年8月にアメリカの偵察機U2がキューバで対空ミサイルの発射施設を発見、10月にはアメリカ軍がキューバを海上封鎖する自体になっていた。いわゆるキューバ危機だが、これを外交的に解決したケネディ大統領に好戦派は反発、ダニエル・エルズバーグによると、その後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)


 本ブログでは何度も書いてきたが、レムニッツァーやルメイのような好戦派は1963年の後半がソ連を核攻撃するチャンスだと考えていた。先制攻撃に必要なICBMが準備できる見通しで、ソ連が追いつく前に戦争を始められると考えていたのだ。


 ところが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月のことだ。その翌年、日本政府はルメイに対し、「勲一等旭日大綬章」を授与した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803230000/
6:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:02:04


131 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2013/09/21(土) 04:44:57.31
ユダヤ人だけが悪人みたいに言われてるけど、その下にいる白人どももユダヤに準ずる冷酷さを持ち合わせてるからな。
限界を知らない支配欲と貪欲さ。あいつら、精神異常者だから。

145 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2013/09/21(土) 22:08:14.55 >>131

女でさえこの毒気↓

「日本を爆撃して、原爆を落として、いっぱい殺したらJapsは羊みたいに従順になったわね」

/米女性弁護士、保守系政治解説者アン・コールター
アン・コールターの写真/
http://ameblo.jp/jacqueline508/image-11368625951-12215251735.html
7:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:03:32


受刑者、バイシュン女性、黒人が梅毒の人体実験にされていた現実 2013-09-29


バイシュン地帯では性病がつきものだ。性病になってしまった女性を見かけることも多い。バイシュン地帯で性病が蔓延しているというのは、嘘ではない。本当のことである。

性病と言えば、誰もがエイズを思い浮かべるが、淋病や梅毒も依然として猛威を振るっている。

かつて、梅毒は人間の身体を崩壊させていく恐怖の性病だった。梅毒が突如として15世紀から爆発的蔓延した理由についてはいろいろな説があって今でも真実ははっきりしない。

もっとも有力な説としてはコロンブスがアメリカ大陸上陸したときに現地の風土病であった「梅毒」をヨーロッパに持ち帰り、そこから世界各国に散らばっていったというものだ。

日本では1512年に初めて記録されているが、すでに遊郭というバイシュン地帯を抱えていた日本は瞬く間に梅毒が広がり、「花柳病」と言われるようになっていた。

それはペニシリンが発明されるまで、確実に身体を蝕んでいく恐ろしい病気だったのである。

路上バイシュンに関わっていた女性の95%が梅毒だった

オランダ医学を極めていた幕末の医者(医官と当時は言っていた)であった松本良順は、1864年に「養生法」という書籍を出しているが、これには「下賤のもの100人中95人は梅毒に罹らざるものなし」と梅毒の蔓延を記している。

ここで松本良順が言っている「下賤のもの」というのは、バイシュン女性たちのことで、さらに細かく言うとバイシュン女性の中でも最低ランクとされていた路上バイシュン(夜鷹、引っ張り)に属する女性たちを主に指している。

この路上バイシュンに関わっていた女性の95%というから、ほぼ全員が梅毒に罹っていたというほどに蔓延していたということになる。

夜鷹というのは文字通り夜になった出没するバイシュン女性だ。彼女たちは、薄暗い町の木陰に潜んで男に声をかけて、物陰でセックスをするスタイルを取っていた。

当時は電気があるわけでもなかったから男たちは女がどんな顔をしているのすら分からないままバイシュンに至っていた。実はこの夜鷹のほとんどが、梅毒が進行して「鼻が欠けていた」のだという。

「梅毒にて娼家に用い難き醜女」
「鼻頭の欠け落ちたるは蝋燭の流れを持て補ふ」
「顔に施粉して疵の痕を埋め、頬被り」

と阿部弘蔵の「日本奴隷史」にある。

梅毒でひどい容貌になってしまってバイシュン宿にもいられなくなった女性が、欠けた鼻をロウソクで補って、顔のアザや欠落や疵(きず)は化粧でごまかして、さらに手ぬぐいで顔を覆って、その上に夜の暗いところでビジネスをしていた。

梅毒が脳にまで到達すると狂人となる。現代では怒って我を忘れることを「頭に来る」と表現することがある。「何」が頭に来るのか。

「梅毒が頭に来る」のである。

最近は、梅毒に犯されていなくても頭に来ている人がたくさんいるようだが、昔は梅毒が頭に来て狂ってしまった。


梅毒は、いまもアジアで普通に存在する

はじめてタイを放浪していたとき、私はいつもバンコク・ヤワラーの安い屋台で食事をしていたが、そこに鼻が欠けている年配の元娼婦がいたのを覚えている。

一緒にいた日本人の知り合いが「梅毒を放置したら、鼻が落ちるんだよ。あれは梅毒だな」と私につぶやいて顔を背けていた。梅毒で鼻が落ちると知ったのは、その時がはじめてかも知れない。

その印象は私の中で強いインパクトとして残って、あとで梅毒はペニシリンで完治すると知った時、量産化に成功したファイザー製薬を崇拝したものだった。

だから、2011年8月、アメリカがグアテマラの刑務所で人体実験をしていたという記事には複雑な気持ちになった。

1946年頃のペニシリンは新薬で、薬効がまだよく知られていなかった。

そこで、アメリカの公衆衛生当局の研究者たちは、グアテマラで刑務所に収容されていた受刑者や精神病院の患者の約5500人に対して、ペニシリンの試験の対象にした。

患者には何の実験をしているのかはまったく知らせず、約1300人に梅毒や淋病などに感染させたバイシュン婦と性交させて、さまざまな実験データを得ていたようだ。

この実験では、少なくとも83人が死亡していることも分かっている。クスリが効くかどうかは、動物実験では駄目で、最終的には人体に試して臨床データを取る必要がある。

アメリカ公衆衛生当局は、すでに梅毒に罹った患者を捜し出すのではなく、わざと囚人を梅毒に感染させたというところが悪質だった。

梅毒にかかった男性の症状。こんなになるまで放置する人間がいるのかと思うかも知れないが、途上国では珍しくない。自分の身体に何が起きているのか分からないし、医者に看てもらうカネもない。


途上国の人たちを人体実験にして臨床実験している?

このグアテマラの人体実験で、アメリカの調査委員会は「研究者が意図的に倫理規定を放棄していた」と報告した。

「関係者たちはこの問題を秘密にしておきたかったはずだ。広く知られることになれば、国民からの批判は免れない」

「グアテマラで起こったことは偶発的なことではない。関与した人の一部は、わが国の中であれば同じことはできなかっただろうと述べている」

オバマ大統領はグアテマラに謝罪しているのだが、コロン大統領は謝罪を受け入れつつも、「これは人道に対する非道な行い」だと批判した。

この実験を指揮していたのはアメリカ公衆衛生当局のジョン・カトラー医官が指揮していたものだった。

さらにジョン・カトラー氏の行動を追っていくと、別の「タスキジー実験」というものも明るみに出てきているのだが、それはどんなものだったのか。

「梅毒患者の黒人男性数百人に治療を施さずに経過を観察するもの」である。このタスキジー実験は、1932年から1972年までの40年にも渡って続けられてきたのだという。

実験台になった人々をもう一度見つめると、受刑者、バイシュン婦、障害者、精神障害者、黒人、である。

医学は故意に社会的弱者を標的にして臨床実験して新薬ペニシリンのデータを蓄積していたということになる。そこで、ふと思わないだろうか。

「ペニシリンだけなのか?」

私たちの現在使っているクスリは、闇の中で途上国の人たちを人体実験にして臨床実験しているものだったかもしれない。

梅毒で鼻が欠け落ちた男性。私はタイのヤワラーや、インドネシアのバイシュン地帯で、このような症状になってしまった女性を何人か見たことがある。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130929T0107400900.html
8:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:04:12

ヒラリー・クリントンが大統領になっても暴力の時代は続く 2015-04-19

ヒラリー・クリントンは2015年4月12日、時期大統領選に立候補すると表明した。

この聡明な女性は2008年にオバマ大統領に敗れたが、今回は勝ち上がる可能性は非常に高いと言われている。

この立候補の前に、私用のメールアドレスで公務をしていたという問題で批判にさらされていた。

しかし、それでも民主党支持者の60%がヒラリーを支持しており、知名度も財力もある候補であり、それはヒラリー・クリントンを窮地に追いやる問題になっていない。

アメリカは歴史的に民主党と共和党が交互に大統領を出し合っている「2大政党制」なのだが、共和党の巻き返しがなければ、このままヒラリー・クリントンでゴールまで行き着く可能性は充分になる。

ヒラリー・クリントンが大統領になると、アメリカ初の「女性大統領」の誕生となるが、ヒラリーは決して「優しい女性」ではない。

「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」

それは、2011年のリビアのカダフィ大佐が血まみれになって引きずり回されて殺されたのを見て、ヒラリー・クリントンがカエサル気取りで大喜びしていたのを見ても分かる。

"We came, we saw, he died"
(我々は来た、我々は見た、彼は死んだ)

そう言って、ヒラリー・クリントンは自分がプロポーズされたかのように屈託なく喜び、心から笑っていた。

カダフィが死んで悲しいと思っている人はそれほどいないかもしれないが、これほどまで単純に喜べる人はいない。この後、リビアは収拾がつかない混乱に陥って今に至っている。

共和党ではブッシュ一族が控えているが、このブッシュ一族もまた戦争屋であるのは、誰でも知っている。

誰が大統領になっても、アメリカが暴力的傾向を捨てることはあり得ないだろう。

欧米はアジア・アフリカを侵略し、植民地支配し、その富を奪うことで豊かになったという歴史がある。つまり、「暴力」で豊かになってきたという歴史が刻まれている。

暴力と成功体験がリンクしている。だから、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。特にアメリカは建国史から暴力にまみれているのでそういう傾向が強い。

もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとはアメリカも思っていない。

そこでアメリカが取ってつけた錦の御旗が「正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて、「悪を倒す」という名目で暴力を振るいに行く。アメリカは「いざとなったら暴力がモノを言う」ことを否定していない。


捕獲され、死にゆくカダフィ大佐の最期の姿
(カダフィ大佐、撃つなと懇願するものの頭部を撃たれて死亡 )

カダフィが死んだと聞いて、心から喜ぶヒラリー・クリントン。「我々は来た、我々は見た、彼は死んだ」と、彼女はこの時に言った。


アメリカの暴力哲学は歴史上、一貫している

なぜ暴力を振るうのかというと、そこの土地の指導者をいいように操ってその国の国富を収奪するためだ。アメリカは国益のために何でもする。

アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。

「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」(米軍)
「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」(CIA)
「叩きつぶせないなら手を結べ」(米政権)

アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。

ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。

ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。

これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を排出して、アメリカの暴力を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。

雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。その暴力正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。

だから、アングロサクソンがアメリカ大陸に「侵略」して、ネイティブ・アメリカン(インディアン)を根絶やしにし、虐殺し、絶滅品種に追いやった歴史も「正当化」される。


ネイティブ・アメリカン(インディアン)を根絶やしにし、虐殺し、絶滅品種に追いやった歴史も「正当化」される。

「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていく

アメリカは日本に原爆を落とし、一瞬にして20万人の人々を焼き殺したのも正当化している。

ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。

湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」されていて、アメリカがこれらの歴史に対して謝罪の言葉を述べたことはない。

一方、ヨーロッパのほうも南米やアフリカを激しく収奪してきた。現在のアフリカの問題、中東の問題、イスラエルの問題は、すべてイギリスやフランス等が種をまいたと言っても過言ではない。

リビアの空爆はNATO軍が行った。ここでも多くの市民が死んでいったが、ここでの暴力は「正当化」されている。

カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。ヒラリー・クリントンの高笑いは、アメリカの暴力がまたひとつの国を崩壊させたという満足感の現れだったのだ。

そんなヒラリー・クリントンがまた大統領選挙に打って出るわけで、そんな彼女を支持する厚い層がアメリカにはある。こういった状況を見ると、「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていくというのが分かる。

人間の歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがなさそうだ。


「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていくというのが分かる。人間の歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがなさそうだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150419T0058160900.html



2011年10月24日月曜日


カダフィが死んで高笑いするヒラリーと八方美人外交の日本


欧米はアジア・アフリカを侵略し、植民地支配し、その富を奪うことで豊かになったという歴史がある。つまり、暴力で豊かになってきたという歴史が刻まれている。

暴力と成功体験がリンクしているのである。だから、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。特にアメリカは建国史から暴力にまみれているのでそういう傾向が強い。

もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとはアメリカも思っていないので、そこでアメリカが取ってつけた錦の御旗が「正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて、「悪を倒す」という名目で暴力を振るいに行くのである。


来た、見た、死んだ

なぜ暴力を振るうのかというと、そこの土地の指導者をいいように操ってその国の国富を収奪するためだ。だから、アメリカは「いざとなったら暴力がモノを言う」ことを否定していない。

その体質は、今回のリビアのカダフィ大佐が血まみれになって引きずり回されて殺されたのを見て、ヒラリー・クリントンがカエサル気取りで大喜びするのを見ても分かる。


"We came, we saw, he died"
(アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ)

そういって、ヒラリー・クリントンは自分がプロポーズされたかのように屈託なく喜び、心から笑っているのが分かるはずだ。

別に私もカダフィが死んで悲しいとも思っていないが、これほどまで単純に喜べるわけでもない。

むしろ、これからリビアは収拾がつかない混乱に陥ることになるのは分かっている。喜ぶべきものではないはずだが、アメリカの戦略が一歩進んだことに、ヒラリーも喜びを隠せなかったのだろう。


捕獲され、死にゆくカダフィ大佐の最期の姿


カダフィが死んだと聞いて、心から喜ぶヒラリー・クリントン

何度も書いているが、アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでおり、世界中のどこの国も、アメリカの暴力から逃れられない。

言うことを聞かない国は叩きつぶせ(米軍)
相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ(CIA)
叩きつぶせないなら手を結べ(米政権)


アメリカの暴力哲学

アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。

ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。

ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。

これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を排出して、アメリカの暴力を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。

雇用を支える必要があるから、暴力は正当化される。その暴力正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっているとも言える。

だから、アングロサクソンがアメリカ大陸に「侵略」して、ネイティブ・アメリカン(インディアン)を根絶やしに侵略し、虐殺し、絶滅品種に追いやったのは「正当化」される。

また、日本に原爆を落として一瞬にして20万人の人々を焼き殺したのも「正当化」されている。

ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していた。

湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。すべて「正当化」されていて謝罪の言葉は聞いたことがない。

また、イラク・アフガン・パキスタンで、大量虐殺が発生していても、それが正義のためであると喧伝された上に「正当化」されている。これらの国の市民が誤爆や誤射で何人死のうが同じだ。

ヨーロッパのほうも南米やアフリカを激しく収奪してきた。現在のアフリカの問題、中東の問題、イスラエルの問題は、すべてイギリスやフランス等が種をまいたと言っても過言ではない。

リビアの空爆はNATO軍が行った。多くの市民が死んでいったが、ここでの暴力は「正当化」されている。カダフィの死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成された。

ヒラリー・クリントンの高笑いは、アメリカの暴力がまたひとつの国を崩壊させたという満足感の現れである。


リビアの反政府軍はアメリカのカダフィ排除戦略に乗っている。
http://www.bllackz.com/2011/10/blog-post_24.html





2016年11月4日
今回は、ヒラリー・クリントンなる人物が、アメリカの国務長官として何をしてきたかを、まず調べてみることにします。
    *

 さて「国務長官」というと、まるでアメリカの国内行政における最高責任者のように聞こえてきますが、実は日本の「外務大臣」にあたる外交政策の責任者です。
 アメリカの「防衛省」は、今は「防衛総省」(別名ペンタゴン)と言っていますが、かつては「戦争省」と言っていました。

 日本では「陸軍省」と誤訳(意図的?)されていますが、第2次大戦が終わる前までの正式名称は、「United States Department of War」すなわち「アメリカ戦争省」でした。

 まるで外国にたいして侵略戦争をし続けてきたアメリカの歴史を象徴するような名称ですが、アメリカにとって軍事力による外交=戦争は、内政よりも重要な「国務」であったからこそ、「外務省」を「国務省」(United States Department of State)と名付けたのかも知れません。

 アメリカ軍人として伝説的な英雄スメドレー・バトラー将軍は、退職したあと自分が軍人として果たしてきた役割を振り返って『戦争はペテンだ』という著書を著し、そのなかで、右のような事情を、次のように述べています。

 「私は、大企業、ウォール街、銀行、お偉方の用心棒として時を過ごした。
要するに私は資本主義に奉仕する恐喝者でありギャングの一員だった」

「私はウォール街の利益のために中米の六つの共和国の略奪を手伝った。恐喝の記録は長い」

「ギャングの親玉アル・カポネがやれたのは、せいぜい三つの地区のボロ儲けの口を操っただけのことだ。私なんか3大陸を操ったんだ」
(『肉声でつづる民衆のアメリカ史』上巻442頁)


 このスメドレー将軍のことばは、アメリカ外交の本質を赤裸々に暴露しているのではないでしょうか。

    *

 それはともかく、ブッシュ氏が大統領になったとき、「9・11事件」を口実にアフガニスタンを爆撃し、それをイラクへの侵略戦争に拡大したのですが、それでもアメリカによる戦争は中東の小さな範囲にとどまっていました。ところがオバマ大統領とヒラリー国務長官のもとで、戦火は一気に地中海沿岸の北アフリカ(リビアの内戦)や東ヨーロッパ近辺(ウクライナやシリアの内戦)にまで拡大しました。

 それどころか、今まではブッシュ大統領が表立って手出しをしなかった中南米にまで手を出してクーデター工作をおこなうようになりました。このような戦争やクーデターの拡大に深く関わってきたのが、ヒラリー国務長官でした。

 いま深刻な人道危機をもたらしているシリアの内戦について、ヒラリー女史が「リビアと同じような飛行禁止区域をもうけるべき」だと強く主張していることは前回の拙稿で紹介したとおりです。

 アサド政権の要請でロシアが本格的にイスラム原理主義集団の掃討作戦に乗りだし、彼らの拠点を空爆し始めてからは、ダーイッシュ(今まではISISとかイスラム国と呼ばれていた)などのイスラム原理主義集団諸派は、負け戦です。

 サウジを中心とする湾岸諸国が資金と人員を供給し、アメリカやNATO諸国が(さらにイスラエルも)裏で、武器や特殊部隊を派遣して軍事訓練をしてきたにもかかわらず、この状態なのです。

 アメリカの基本戦略は、あくまでアサド政権の転覆です。そのためにはロシア軍の空爆をやめさせる必要があります。ロシア軍の空爆はアサド政権の正式な要請によるものですから、国際法に則った行為ですが、イスラエルやNATO諸国(トルコも含む)のシリア領内における空爆は領空侵犯になりますから、どうしてもリビアの時と同じような「飛行禁止区域」の設定が必要になります。

 これを強く主張しているのが、先述のとおり、ヒラリー女史です。

 しかし、ロシアは安全保障理事国ですから今のままでは国連の許可を得ることができません。残された道は、偽の人道危機をつくりだして、「ロシア軍やアサド軍は民間人を無差別に殺傷している」とか、「彼らは化学兵器を使っている」とかの口実で、世論を喚起して彼らを押さえ込む以外にありません。

 他方、ロシアの主張は次のとおりです。

 「リビアでは『独裁者カダフィが自国の民衆を無差別に爆撃して大量の死傷者を出している。だから飛行禁止区域を』という口実で、カダフィはイスラム原理主義集団と戦う手段を奪われてしまった。その結果、何が生まれたか。国土の荒廃と大量の難民だった。同じことをシリアでも繰りかえすつもりか」
    *
 シリアになだれ込んでいるイスラム原理主義集団は、サウジを中心とした湾岸諸国からだけでなく、ロシアのチェチェンや中国の新疆ウイグル地区といったイスラム教徒が多い地域からも流入してきています。彼らはロシアや中国を不安定化させる勢力としてCIAが以前から訓練してきた勢力だと言われています。

 ですから、シリアが内戦で崩壊した場合、そこで勝利したイスラム原理主義集団は、次の攻撃目標として、ロシアや中国に還流し、ロシアや中国を不安定化させることに最大の精力を注ぎ込むことになるでしょう。

 今やEUとアメリカに対抗する勢力として経済的にも軍事的にも対抗する大国になりつつある動きを、アメリカとしては何としても阻止しなければなりません。

 BRICsという興隆しつつある経済共同体の中心がロシアと中国だから、これはなおさら、アメリカにとっては放置できない事態です。

 だからこそ、ロシアと中国を不安定化させることが必要なのです。

 かつて中東一円からイスラム原理主義集団(ビンラディンもその中の一人でした)をかき集めてソ連をアフガニスタンに引きずり込み不安定化し崩壊させた方法を、シリアでもやろうというわけでしょう。

    *

 しかし、これはロシアや中国にとっても座視できない重大事です。

 ロシアと違って、中国は表立ってシリアに味方しては来ませんでしたが、最近、中国も、アサド政権を支えるために、裏で大きく動きはじめていると言われるのも、このような情勢から見ると当然のこととも言えます。

 ですから、ヒラリー女史が「シリアに飛行禁止区域を!」と大声で叫び、「ロシアやシリアが言うことをきかないのであれば軍事力の行使もいとわない」と主張することは、世界大戦になることを意味します。

 この戦いは、NATO諸国やサウジなどの湾岸諸国と一緒になって、アメリカが、ロシア=シリア=イラン=中国といった勢力と、軍事力で戦うことになるからです。

 前回の論考で述べたことですが、イギリスの高級紙インデペンデントだけでなく、ヒラリー女史の自叙伝を書いたディアナ・ジョンストンなどが、イタリアの新聞インタビューで

「クリントン氏の大統領選の勝利は、第3次世界大戦の勃発も含め予想外の結果をもたらす可能性がある」

と語っているのも、このような背景をふまえてのことだと、私は理解しています。

    *

 ここで、もうひとつ考えておかねばならないことは、ロシアの軍事力はシリアにおける原理主義集団との戦いで明らかになったように、通常兵器ではアメリカ軍をはるかに凌駕しているということです。

 ですから、アメリカ軍がロシア軍や中国軍と戦って本気で勝つつもりならば、残されている手段は核兵器による先制攻撃しかありません。

 しかも集団的自衛権でアメリカに縛られることになった日本も、否応なしに、この核戦争に巻き込まれるかも知れません。

 しかし、いったん核戦争が起きれば、生き残れる国はほとんどないでしょう。今は、それほど深刻な事態なのです。

    *

 話が少し横道にそれたので、クリントン女史に話を戻します。

 ロシアはヒラリーの主張する「飛行禁止区域の設定」について、「シリアをリビアのように破壊して、再び大量の死傷者を出し、EU全土を更なる難民であふれさせようとするのか」と怒っているわけですが、このリビア内戦にヒラリーは、どのようにかかわっていたのでしょうか。

 2016年10月20日は、リビアの元首だったカダフィ大佐が、アルカイダの一派に惨殺されて5周年になる日でした。

 カダフィが殺されたとき、ヒラリー女史は国務長官として、NATO軍のリビア攻撃を指揮・監督する立場にいたのですが、カダフィ惨殺の報が届いたときCBSのインタビューの中で

「来た・見た・死んだ」"We came, We saw, He died"

と、身振り手振りをまじえて、嬉しげに言っています。

 この言葉は、共和制ローマの将軍カエサル(日本ではシーザーとして知られている)が言ったとされることば「来た・見た・勝った」をもじったものですが、その嬉しげに語っている映像がユーチューブに流れ、ヒラリー女史の冷酷さ・好戦性を浮き彫りにするものとなりました。

    *

 では、リビアとはどのような国で、カダフィとはどのような人物だったのでしょうか。

 元財務省高官(財務次官補)で、かつウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者だったポール・グレイグ・ロバーツ氏は、このカダフィ惨殺五周年の日に、自分のブログで、それを次のように書いています。

 「ムアマル・カダフィは、世界で最も進歩的な指導者だった。カダフィはリビアの石油の富をリビア国民のために使っていた。

 彼は宮殿ではなく、立派なテントではあるが、テントで暮らしており、アメリカ政府の中東同盟国であるサウジアラビアや産油首長国支配者一族につきものの、ヨーロッパ高級車や他のあらゆる身の回り品のコレクションを持っていなかった。

 リビアでは、教育・医療・電力は無料だった。ガソリンは事実上無料で、1リットル14セントで売られていた。子どもを産んだ女性は現金の助成金を貰い、カップルが結婚すると現金の助成金が貰えた。リビアの国営銀行は無利子で融資し、農民には無償で開業資金を供与した。」


*Hillary's War Crime
「ヒラリーの戦争犯罪」

    *

 ロバーツ氏はこれらの事実を、グローバル・リサーチという独立メディアに載せられた「リビア:知られては困る、カダフィに関する10の事実」という小論に依拠しながら書いているのですが、日本では全く紹介されていない事実ばかりです。

 このロバーツ氏が依拠した小論には、カダフィが計画していた世界最大の灌漑施設の地図も載せられていて、驚かされました。カダフィの言う「緑の革命」は単なる夢想ではなかったのです。

 しかし日本で紹介されているカダフィ像は、アメリカ政府から流れてきた情報にもとづいた「自分の国民を冷酷に支配する独裁者」という悪魔化されたものばかりでした。


*Global Research
"Libya: Ten Things About Gaddafi They Don't Want You to Know"
「リビア:知られては困るカダフィ10の事実」

    *

 では、上記のような理想国家をつくろうとしていたカダフィ政権を、なぜアメリカとNATOは倒そうとしたのでしょうか。それをロバーツ氏は、先の引用に続けて次のように書いています。

 「カダフィがアメリカ政府から自立していたことが彼の没落をもたらしたのだ。若い頃のカダフィの目標は、アラブを欧米の略奪に抵抗できる一つの連合に組織することだった。

 それが思うように進展しないことにいらだった彼は、汎アフリカ主義に向かい、アメリカのアフリカ軍に参加するのを拒否した。また彼は、ドルではなく金をもとにしたアフリカ統一通貨を導入ようとした。そうすればアフリカをアメリカの金融覇権から解放できるからだ。

 カダフィは、中国のエネルギー企業にリビアのエネルギー資源を開発させた。以前から地中海におけるロシアの存在に腹を立てていたアメリカ政府は、今や中国の存在にも向き合わねばならなくなった。だからアメリカ政府は結論を出した。カダフィは悪い連中と付き合っているので退陣させるべきだと。」

    *

 私は今まで、アメリカとNATO軍によるカダフィの追放は、リビアの石油が目当てだとばかり思ってきたのですが、実はもっと深い理由があったのです。「ドルによる世界支配」を維持し、「中国のアフリカ進出」を阻止することが、カダフィ追放の真の理由だったのです。

 では、何を口実に、どのような手段で、カダフィを追放するか。それがアメリカにとって次の問題になります。米軍が直接、アフリカに乗りだしてリビアを破壊するのでは、世界の世論はもちろんのこと、アフガン戦争やイラク戦争に嫌悪感が強くなっているアメリカの世論も賛成しないでしょう。ではどうするか。それをロバーツ氏は先のブログで次のように説明しています。

 「アメリカ政府はイスラム原理主義者を使って傭兵を編成し、シリアと同様、連中を『反政府派』と名付け、リビア政府にけしかけた。

 カダフィ軍が勝っていることが明らかになると、アメリカ政府は、初心(うぶ)で騙(だま)されやすいロシアと中国の政府を罠(わな)にかけ、国連でリビア領空に飛行禁止空域を設定することを認めさせた。それを実行するのはNATO軍だ。

 飛行禁止空域の口実は、カダフィによる民間人攻撃を防ぐためということだった。しかしそれは嘘だった。本当の理由は、主権国家のリビアが自分の領空を使えないようにして、傭兵と戦っている地上軍をリビア空軍が支援できないようにするためだった。

 ロシアと中国がこれに騙されて、安全保障理事会の議決で拒否権を行使しそこねると、今度はアメリカとNATO自身が、決議に違反してNATOの空軍力を用いてカダフィ軍を攻撃した。こうして戦局はCIAが組織した傭兵に有利になった。

 カダフィは捕らわれ惨殺された。それ以来、かつて繁栄し成功していた国家リビアは混乱・混沌の極みだ。それは、オバマ政権が望んでいたものだ。」

    *

 ところが今やイギリスでは議会による調査報告書が、「カダフィが欧米の覇権にとっての障害と見なされていたがゆえにリビアは破壊された」と明白に結論づけているのです。だからこそ、ロバーツ氏は上記のブログを次のように締めくくっているのでしょう。

 「注目すべきなのは、ニュルンベルク裁判をもとにした国際法では、彼女が有罪であることは明らかなのに、この戦争犯罪について、この「殺人婆」(killer bitch)に質問したマスコミは皆無だということだ。

 なぜなら、この戦争はヒラリーが国務長官の職に就いているときに、彼女の監督下で準備されたものだからだ。

 もうひとつ注目すべきなのは、この「殺人婆」を所有している巨大な政治力を持ったひと握りの集団オリガーキーと、連中の手先である「売女マスコミ」 (presstitute=press+prostitute)は、この戦犯を次期アメリカ大統領にするつもりだということだ。

 この「殺人婆」や「売女マスコミ」という言葉づかいのなかに、元アメリカ財務省高官だったロバーツ氏の憤りが伝わってくるような気がします。

 ヒラリー女史にたいする怒りもさることながら、ロバーツ氏の大きな怒りは、トランプ叩きに終始しているアメリカの大手マスコミにも向けられているのです。

 それにしても、実名で公けにしているブログなのに、よくぞここまで大胆に言い切れるものだと、その勇気に感心・感動しました。日本の元政府高官に、このようなひとはいるのでしょうか。私は寡聞にして知りません。

    *

 以上で「シリアに飛行禁止区域を!」と主張するヒラリー女史の冷酷さ・好戦性が少しは分かっていただけたかと思いますが、これだけでは、リビア空爆の残酷さや戦犯性が今少し伝わりにくいように思いますので、そのようすを物理化学者・藤永茂氏のブログ「私の闇の奥」から引用して紹介したいと思います。

 このブログの日付は「2011年8月31日」となっています。カダフィが惨殺されたのは10月20日ですから、そのことを念頭において読んでいただければと思います。

 「いま、リビアについての我々の関心は(好奇心は)、カダフィが何処でどのようにして捕まり、どのように処分されるかに釘付けにされているようですが、我々の本当の関心は、今回のリビア内戦でNATOが何をしたか、何をしているかに集中されるべきだと私は考えます。

カダフィの政府軍による大虐殺からリビア国民を守るという名目の下に開始されたNATOによるリビア空爆は、想像を絶する物凄さで行なわれました。8月23日のNATOの公式発表によると、過去5ヶ月間にNATO空軍機の出撃回数は2万回を超えました。1日あたり130回の物凄さです。

 対地攻撃を行なった戦闘爆撃機が1機に複数の爆弾や誘導ミサイルを搭載しているとすると、正確激烈な破壊力を持った数万の爆弾やミサイルがリビアの人々の上に降り注いだことになります。

 リビアの人口約650万人、人口的には福岡県と佐賀県を合わせた位の小国です。ミサイルの標的が戦車であれ、輸送車両、船舶であれ、カダフィの住宅であれ、放送局、大学であれ、無人ではない場合が普通でしょうから、多数の人間が殺傷されたに違いありません。8月上旬に、NATO空爆による死者2万という報道がちらりと流れたことがありましたが、あり得ない数字ではありません。

 しかも、NATOの反政府軍支援は空爆に限られたわけではありません。大型ヘリコプターなどによる兵器、弾薬、物資の補給も行なわれ、地上でも多数のNATOやCIAの要員が間接的に参戦した模様です。しかし、こうしたNATOの活動の具体的報道は殆ど完全な管制下にあります。

 これだけの規模の軍事暴力が、国際法的には全く合法性のないままで(UNの決議内容をはるかに超えて)、人口数百万の小独立国に襲いかかったのです。まことに言語道断の恐るべき前例が確立されました。カダフィと息子たちの今後の命運など、この暴虐行為の歴史的意義に較べれば、3面記事の値打ちしかありません。」

    *

 これを読んでいただければ、ロバーツ氏が先に、「注目すべきなのは、ニュルンベルク裁判をもとにした国際法では彼女が有罪であることは明らかなのに、この戦争犯罪について殺人婆(killer bitch)に質問したマスコミは皆無だということだ」と言っていたことの意味が、改めてよく理解できるのではないでしょうか。

 そして、満面に笑みを浮かべて「来た・見た・死んだ」と言ったヒラリー女史にたいして、ロバーツ氏が悪罵を投げつけたくなった理由も。

    *

 それにしても、藤永氏は1926年生まれですから、2016年11月の現在で、氏は90歳前後のはずです。

 九州大学やカナダのアルバータ大学で教鞭を執っていた一流の物理化学者でありながら、老体にむち打ちつつ、NHKや朝日新聞などの大手メディアが目をつむって通り過ぎている事実を掘り起こし、上記ブログを通じてそれを私たちに伝える仕事を続けておられます。

 唯々(ただただ)、頭が下がります。

    *

 ところでリビアの事態は、単にカダフィの惨殺に終わったわけではありませんでした。

 前述のとおり、この戦争は全土を瓦礫に変え、「リビアの民主化」どころか大量の死者と難民をうみだしただけでした。そしてリビアはいまだに混沌の極致にあります。

 そのうえ今度は、このような惨劇をシリアに輸出しようとしているのがヒラリー女史なのです。

 それは単に彼女が「シリアにも飛行禁止区域を!」と叫んでいるからだけではありません。リビアで使ったイスラム原理主義集団を、実際にシリアに輸出しようとしてきたのが、ヒラリー女史を外交政策の責任者とするアメリカだったからです。

 この間の事情を櫻井ジャーナル(2016年8月20日)は次のように伝えています。

 「カダフィ体制が倒された直後、リビアのベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられ、その映像がユーチューブにアップロードされた。その事実をイギリスのデイリー・メイル紙でさえ、伝えている。リビアを侵略した軍隊は空がNATO軍、地上はアル・カイダ系のLIFG(リビア・イスラム戦闘団)だった。

 リビアを破壊した後、侵略軍はリビア軍の倉庫から武器/兵器を持ち出してトルコへ運んでいる。勿論、戦闘員も同じように移動した。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、輸送の拠点になったのはベンガジにあるCIAの施設。輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。

 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれ、これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、シリアへ軍事介入する口実にしようとしたと言われている。」

    *

 これを読むと、リビアから傭兵集団が兵器もろともトルコを経由してシリアに輸送されていることが分かります。しかも輸送の拠点になったのはベンガジにあるCIAの施設で、輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたというのですから、二重の驚きです。というよりも二重の犯罪と言うべきかも知れません。それはともかく、櫻井ジャーナルの説明は次のように続いています。

 「そうした武器や戦闘員の輸送をアメリカ国務省は黙認した。2009年1月から13年2月まで国務長官を務めたヒラリー・クリントンもこの工作を知っていたはず。

 しかも、クリントンの部下にあたるクリストファー・スティーブンス大使は2012年9月10日、CIAの武器輸送担当者と会談、その翌日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。勿論、武器はトルコ経由でシリアの侵略軍へ渡される手はずになっていた。

 その9月11日にベンガジのアメリカ領事館が襲撃されてスティーブンス大使が殺されている。リビア議会が首相を指名する前日だ。その2カ月後にCIA長官を辞めたデイビッド・ペトレイアスはヒラリーと緊密な関係にあることで知られ、このルートからもシリアでの工作を知らされていたはずだ。」

    *

 これを読むと、アメリカ大使館や領事館はCIAの拠点になっていることがよく分かります。日本のアメリカ大使館や領事館も同じ機能を果たしているのでしょうか。

 しかし、ここでもっと重大なのは、その領事館が襲撃されてスティーブンス大使が殺されていることです。ヒラリー国務長官が公的なメールサーバーを使わずハッカー攻撃に弱い私的メールを使ったことが、大使殺害につながったかもしれないのです。

 あるいは、うがった見方をすればこのような極秘事項を手配した人物だけに、それを外部に知られては困るから、密かにテロリスト=傭兵集団に頼んで大使を消してもらったのでしょうか。

 櫻井ジャーナルはこれについては何も述べていないのですが、この私の仮説が正しければ、これほど身の毛のよだつ話はないでしょう。櫻井氏は、これに続けて次のように述べているだけです。

 「クリントンは戦争犯罪人と言われても仕方のないようなことをしてきたわけだが、欧米の支配層はクリントンを支持してきた。投機家で体制転覆に多額の資金を提供してきたジョージ・ソロスも支援者のひとり。

 この支配層は軍事的に世界制覇を進めるだけでなく、巨大資本が国や国際機関を支配する仕組みを作り上げようとしている。それがTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、そしてTiSA(新サービス貿易協定)の3点セットだ。」

    *

 ヒラリー女史の好戦性、あるいはヒラリー女史が大統領になると、なぜ第3次世界大戦になる危険性があるかは、以上の説明で、かなり分かっていただけたのではないかと思います。

 しかし彼女の好戦的履歴は、このリビア爆撃にとどまるものではありません。

 とはいえ本稿もすでにかなり長くなってきていますので、以下ではその略歴だけを紹介して、この論考を閉じたいと思います。以下の引用は先の櫻井ジャーナル(同日付け)からのものです。

 「ウィキリークスによる電子メールのハッキング情報が続いている。今回は投機家で体制転覆に多額の資金を提供してきたジョージ・ソロスだ。

 彼がターゲット国の体制を転覆させるために使っているオープン・ソサエティ基金もハッキングされたという。そうした電子メールの中には、ソロスがヒラリー・クリントンに対してユーゴスラビア=アルバニア情勢に対する対処の仕方をアドバイスするものがある。そのメールが書かれたのは2011年1月24日で、国務長官だったクリントンはソロスのアドバイスに従って動いたようだ。

 ヒラリー・クリントンは夫が大統領だった1990年代、マデリーン・オルブライト(国連大使から国務長官)やビクトリア・ヌランド(国務副長官の首席補佐官)と連携して政権をユーゴスラビアに対する先制攻撃へと導いているが、その背後にソロスがいたということだろう。国務長官に就任したオルブライトが主導する形で1999年3月にNATO軍は偽情報で環境作りをしながらユーゴスラビアを先制攻撃、ひとつの国を破壊した。」

    *

 上記に登場するマデリーン・オルブライトとビクトリア・ヌランドという二人の女性は好戦的人物として有名ですが、この2人を、戦争にあまり乗り気ではなかった夫のビル・クリントンに紹介し強引に新しい国務長官や国務副長官の首席補佐官に据え付けたのも、ファーストレディだったヒラリー女史だったと言われています。

 ですから、彼女のタカ派ぶりは、ここでみごとに発揮されていると言えます。

 櫻井ジャーナルの叙述は、さらに次のように続いています。

 「2003年11月にはジョージア(グルジア)で「バラ革命」、04年から05年にかけてはウクライナで「オレンジ革命」があり、新自由主義体制になった。

当然、一部のグループが不正な手段で国民の財産を奪って莫大な富を築き、その後ろ盾になっていた西側の巨大資本も利益や利権を手にした。こうした「革命」でもソロスはスポンサーとしての役割を果たしていた。

 言うまでもなく両国の庶民は貧困化、そうした状況への怒りからソロスたち西側の富豪や巨大資本にとって好ましくない方向へ動いた。そこで仕掛けられたのがウクライナ首都キエフのクーデター。

2014年2月22日、ネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を主力とするグループがビクトル・ヤヌコビッチ大統領を暴力的に排除している。そのクーデターを現場で指揮していたのがヌランド国務次官補だった。クリントンは2013年2月に国務長官を辞めているが、ヌランドは彼女の同志だ。」

    *

 私は「バラ革命」や「オレンジ革命」のニュースを聞いたとき、旧ソ連圏の東ヨーロッパで、新しい民衆運動が起きているものと信じていました。

 しかし今から考えると、実に巧妙に仕組まれた「偽の民衆革命」だったのです。これは一種のクーデターでした。

 しかも、このクーデターは東欧だけにとどまりませんでした。ヒラリー国務長官のもとで、クーデターは中米にまで飛び火していました。あの悪名高いブッシュ大統領ですら、やらなかったことです。以下の櫻井氏による説明は次のようになっています。

 「クリントンが長官に就任したのはバラク・オバマが大統領に就任した2009年1月のことだが、その年の6月にホンジュラスで実行されたクーデターでクリントンは黒幕的な役割を果たしたと言われている。約100名の兵士が大統領官邸を襲い、マヌエル・セラヤ大統領を拉致し、コスタ・リカへ連れ去っている。

 現地のアメリカ大使館は国務省に対し、クーデターは軍、最高裁、そして国会が仕組んだ陰謀であり、違法で憲法にも違反していると報告している。つまり、クーデター政権には正当性がないと明言した。

 このクーデター政権は翌2010年、最初の半年だけで約3000名を殺害したとも報告されている。そのクーデターの背後にクリントン長官がいたということだ。」

    *

 以上で櫻井ジャーナルからの引用を終えます。まだまだヒラリー女史の好戦性・冷酷さを示す事例に事欠かないのですが、長くなりすぎていますので、ひとまずここで筆をおきます。今のアメリカ情勢を理解する一助にしていただければ幸いです。

 ただ一つだけ付け加えておきたいことがあります。それはアメリカの民衆が、知れば知るほどヒラリー女史に嫌気がさしているのに、他方の大手メディアがトランプ叩きに終始しているという事実です。

 これでは、アメリカ民衆は「どちらがワルとして我慢できるか」という選択肢しか残されていないことになります。これはアメリカ史上、最悪の大統領選挙と言えるでしょう。

 ただ私たち日本人に一つだけメリットがあるとすれば、今までアメリカは理想の国、民主主義のモデル国だと思われていたのに、それは虚像に過ぎなかったことが、この選挙戦を通じて見えてきたことではないでしょうか。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hirarikurintontohadarekage.html


2017.03.02
世界制覇を今でも目指す米国の勢力はウクライナで攻勢を強め、シリアでの巻き返し図る(その1)

ロシアのビタリー・チュルキン国連大使が急死して8日後の2月28日、国際連合ではシリアに対する制裁を強化するように求める決議がロシアと中国の拒否権で阻止された。勿論、大使の死でびびるような2カ国ではない。この決議はアメリカ、イギリス、フランスが提出したもので、これらの国々はOPCW-UNの報告書を根拠に、2014年と15年にシリア政府軍が塩素を使用したと主張している。

 しかし、この報告書が示している根拠、証拠は信頼度の低いもの。その根拠薄弱な話を西側支配層の配下にある有力メディアがその中から都合の良い部分を都合良く解釈し、大声で叫んでいる。つまり、いつものパターンだ。

 シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すためにアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)をシリアへ侵入させ、破壊と殺戮を繰り広げてきた国はアメリカ、イギリス、フランス、トルコ、サウジアラビア、カタール、イスラエルなど。今回、決議を提出した3カ国も含まれている。

 1991年にポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)はシリア、イラン、イラクを5年から10年で殲滅すると口にしたと欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の元最高司令官、ウェズリー・クラークは語っているが、その中で最初に破壊されたのはイラク。大量破壊兵器という偽情報を有力メディアに広めさせ、2003年3月に配下の国々を従えて軍事侵略したのである。

 シリアでの戦闘は2011年3月に始まっている。リビアで似たことが始まった翌月のことだ。両国でも侵略勢力は偽情報の流布に力を入れてきた。そうした偽情報を発信していたひとつが2006年にイギリスで設立された「SOHR(シリア人権監視所)」。そこから出てくる話を西側のメディアや「人権擁護団体」は垂れ流してきた。

 SOHRは設立当時からCIAやイギリスの情報機関MI6が背後にいると指摘されていた。アメリカの反民主主義的な情報活動を内部告発したエドワード・スノーデンが所属していたブーズ・アレン・ハミルトン、プロパガンダ機関のラジオ・リバティが存在しているとも言われている。

 内部告発を支援しているWikiLeaksが公表した文書によると、SOHRが創設された頃からアメリカ国務省の「中東共同構想」はロサンゼルスを拠点とするNPOの「民主主義会議」を通じてシリアの反政府派へ資金を提供している。2005年から10年にかけて1200万ドルに達したようだ。

 こうした工作が始まった直後、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書き、その中心にはリチャード・チェイニー米副大統領、ネオコン/シオニストのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてバンダル・ビン・スルタンがいると書いている。

 ハーシュの記事に登場するバリ・ナスルはサウジアラビアについて「相当な金融資産があり、ムスリム同胞団やサラフ主義者と深い関係がある」としたうえで、「サウジは最悪のイスラム過激派を動員することができた。一旦、その箱を開けて彼らを外へ出したなら、2度と戻すことはできない。」と語っている。

 このナスルはジョンズホプキンス大学高等国際関係大学院のディーンで、CFR(外交問題評議会)の終身メンバー、つまりアメリカ支配層の一員だ。そのナスルもムスリム同胞団やサラフ主義者、つまりアル・カイダ系武装集団を使う危険性を警告していた。

 2011年10月にリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制は倒され、カダフィ自身は惨殺された。NATOの航空兵力とアル・カイダ系のLIFGの地上部隊が連携しての攻撃だった。政権が崩壊した直後にベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたている。その映像はYouTubeにアップロードされ、デイリー・メイル紙も伝えていた。リビアでの任務が終わったアル・カイダ系武装集団の戦闘員は武器と一緒にシリアへ移動していく。

 その後のシリア情勢に関するホワイトハウス向けの報告書をアメリカ軍の情報機関DIAは2012年8月に作成している。その中で反シリア政府軍の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQIであり、そうした勢力を西側、ペルシャ湾岸諸国、そしてトルコの支援を受けているしていた。バラク・オバマ政権が主張するところの「穏健派」は事実上、存在しないとしているわけだ。

 また、オバマ政権が政策を変更しなかったならば、シリアの東部(ハサカやデリゾール)にはサラフ主義者の支配国が作られる可能性があるとも警告、それはダーイッシュという形で現実のものになった。この報告書が書かれた当時のDIA局長がトランプ政権で安全保障担当補佐官に就任する予定のマイケル・フリン中将だ。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703010000/


2016.12.13
シリアで政府軍と戦っているのはアル・カイダ系武装集団やダーイッシュであり、反体制派はいない

 シリアで政府軍が戦っている相手に「反体制派」というタグをつけているマスコミが存在する。かつて、日本のアジア侵略を「大東亜共栄圏」を建設するためだと主張した人たちがいるが、それと同じようなものだ。

 リビアやシリアで体制転覆を目指して戦っている集団が「反体制派」でないことは戦闘が始まった2011年春の段階で指摘されていた。シーモア・ハーシュなどが何年も前から予告していたことが引き起こされたのだ。

 2012年8月にはアメリカ軍の情報機関DIAが反シリア政府軍の主力がサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQIであり、そうした勢力を西側、ペルシャ湾岸諸国、そしてトルコの支援を受けているとバラク・オバマ政権に報告している。その結果として、シリアの東部分にサラフ主義に支配された地域が作られるとも警告、それはダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)という形で現実のものになった。この報告書が書かれた当時のDIA局長がトランプ政権で安全保障担当補佐官に就任する予定のマイケル・フリン中将だ。

 こうした武装勢力の戦闘員は武器/兵器と同じようにシリアの外から入った。リビアのムハンマド・アル・カダフィ体制が倒された後、戦闘員や武器/兵器をアメリカなどはシリアへ移動させたが、その拠点になったのがベンガジのアメリカ領事館だったことは本ブログでも紹介した。そこが2012年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使も殺された。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。

 サラフ主義から現在のタクフィール主義者は生まれた。この人びとはタクフィール(背教徒宣告)して人を殺す。2012年6月にエジプト大統領となったモハメド・モルシはシーア派へのタクフィールを許可、シリア侵略を後押しした。この許可はイラン侵略も視野に入っているのだろう。

 こうした侵略の背後にはネオコンの世界制覇戦略がある。ソ連消滅後、アメリカが唯一の超大国の超大国になり、その超大国を自分たちが支配していると認識した彼らは世界制覇プランを描き上げたのだ。1992年2月にポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)たちが作成したDPGの草稿がそのプラン。「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。

 ソ連の消滅は西側支配層の傀儡だったボリス・エリツィンたちが仕掛けた。この事実は本ブログでも何度か指摘している。2度とソ連のようなライバルが出現しないように、彼らは旧ソ連圏のほか西ヨーロッパ、東アジアなどが成長しないような方策をとろうとし、力の基盤になるエネルギー源が地下に存在する西南アジアを支配しようと考えた。

 ウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官によると、DPGが作成される前の年にウォルフォウィッツはイラク、シリア、イランを殲滅すると口にしていている。ソ連が消滅する前から彼らは世界制覇の野望を持っていたわけで、ソ連消滅はそうした野望を顕在化させることになった。

 しかし、このプランはジョージ・H・W・ブッシュ大統領が再選に失敗、ビル・クリントンが大統領に就任したことでお蔵入りになる。それを蔵から引きずり出したのがファースト・レディーだったヒラリー・クリントン。彼女と親しいマデリーン・オルブライトが国連大使から国務長官へ異動した1997年1月のことだ。そして1999年3月、NATOはユーゴスラビアを先制攻撃した。ちなみに、オルブライトはズビグネフ・ブレジンスキーの教え子。ヒラリーのもうひとりの友人、ビクトリア・ヌランドは当時、国務副長官の首席補佐官を務めていた。

 本ブログではすでに書いたことだが、ウォルフォウィッツをはじめとする好戦派はユーゴスラビアを破壊、解体するため、ウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成された直後からプロパガンダを始めている。例えば、ニューズデイのボン支局長だったロイ・ガットマンは1992年8月、ボスニアで16歳の女性が3名のセルビア兵にレイプされたと書いているのだが、これは嘘だった。この嘘を広めた功績で、後に彼はピューリッツァー賞を受賞している。

 2003年3月にアメリカ政府が始めたイラクへ侵略戦争も嘘を広めることから始めた。この時は偽情報を発信する目的で国防総省の内部にOSP(特殊計画室)が作られた。その室長に選ばれたエイブラム・シュルスキーはシカゴ大学でウォルフォウィッツと同じ教授について博士号を取得している。ふたりはネオコン仲間だ。

 1990年代からアメリカの侵略戦争に広告会社が深く関与してくるようになったことも本ブログで書いてきた。偽情報の作成と流布は彼らにとって御手の物だ。そうした偽情報をアメリカなど西側の有力メディアは垂れ流し、アメリカの政府や議会はそうした嘘を暴くメディアやサイトに「偽報道」というタグをつけ、検閲しようとしている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201612130001/
9:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:04:40


弱い民族に襲いかかる弱肉強食の歴史はまだ終わっていない

動物界では弱肉強食の世界だが、人間もまたその弱肉強食のルールに支配されている。人間の歴史を紐解くと、弱い民族は常に侵略され、弱い民族の文化・言語は消し去られている。

弱い民族は、大事に保護されるのではない。侵略され、大虐殺され、結果として淘汰されるのだ。

それを一番よく知っているのは、アメリカ人だ。なぜなら、彼らはネイティブ・アメリカンの土地を侵略して国を作ったという歴史から始まったからだ。

アメリカ大陸は本来はネイティブ・アメリカンのものだったが、白人たちはこの先住民を徹底的に殺し続け、結局は彼らの95%を虐殺したと言われている。

人類史上でも類を見ない「大量虐殺の歴史」がそこにあったと言うしかない。イギリスから移住したアングロサクソンが、先住民族を淘汰して今のアメリカにしたのである。

そして、かろうじて生き残った先住民族(ネイティブ・アメリカン)は、今や天然記念物のように指定地区に押し込まれて貧困の中で細々と生きている。

大虐殺は200年ほど前まで世界中で普通に起きていた

アメリカ人は、弱い民族を大虐殺して、自分たちがそこに居座った。だから、「自分たちが弱ければ淘汰される」という本能的な恐怖を持っている。自分たちがそうしたのだから、そうされるという意識を忘れない。

オーストラリアもまた白人の国ではなかった。

しかし、イギリスから島流しにされたアングロサクソンが先住民族だったアボリジニを大量虐殺して、白人の国「オーストラリア」になった。アボリジニはその90%を虐殺されたと言われている。

その頃のアボリジニは、スポーツとして狩りの対象にされていた。信じられないかもしれないが、白人たちは先住民を「獲物」にしていたのである。

また、害虫の駆除のつもりだったのか、井戸に毒を入れたり、孤島に置き去りして餓死させたりしていた。

ラテン・アメリカでは、先住民だったインカ帝国の末裔はことごとく皆殺しにされて、残った女性はほとんどがレイプされて混血児を産むようになった。

今やラテン・アメリカは混血国家として知られているが、それは大虐殺とレイプの結果であることを日本人はもっとよく知っておいたほうがいい。

南米の混血は美しい。その美しさには血の歴史がある。(南米の混血女性が美しいのは、美しい女性だけを選別したから)

この大量虐殺は古代史ではない。つい200年ほど前まで人類が行っていた所業である。


鎖につながれたアボリジニ。アボリジニは、スポーツとして狩りの対象にされていた。信じられないかもしれないが、白人たちは先住民を「獲物」にしていたのである。

言葉も消され、伝統も、文化も、すべて根絶やし

弱い民族は一方的に駆逐され、歴史から抹殺される。そんな民族が生きていたという痕跡すらも消し去られる。そうやって歴史は無数の弱小民族を消してきた。

近年においてもこのような状況である。人類の歴史を長いスパンで見ると、淘汰された民族は夥しいリストになる。言葉も消され、伝統も、文化も、すべて根絶やしにされる。

衰退した民族が、そのまま「保存」されるのはあり得ない。

衰退した国家には強大な国家が入り込み、強大な国家が衰退した民族を駆逐していく。非常に荒々しい手段で、強制的に歴史から消していく。

現在、中東で大虐殺が繰り広げられているが、こうした大虐殺が続けば続くほど、シリア・イラクは疲弊していき、国家的にも民族的に衰退していくことになる。

いったん衰退が確実となると、それが故に他民族がその真空を埋めていく。長期化する内戦は、その民族に大きな危機をもたらすのである。もしかしたら、それが絶滅のきっかけになる可能性もある。

弱体化した民族は、他民族にとっては「獲物」なのである。

現代文明の下で、私たちはすでに人類が石器時代のような弱肉強食の社会ではなくなったと考えている。

しかし、依然として兵力という名の「暴力」が国家の基盤となっているのを見ても分かる通り、いつでも弱肉強食の社会に戻る危うさを秘めている。

そうであるならば、自分たちの民族が衰退しつつあるのか、それとも強大になりつつあるのかを見極めるのは、非常に重要なことであるのは間違いない。

弱体化しているのであれば、未来に淘汰が待っているからだ。


現在、中東で大虐殺が繰り広げられているが、こうした大虐殺が続けば続くほど、シリア・イラクは疲弊していき、国家的にも民族的にも衰退していくことになる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150529T0236190900.html
10:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:05:08


セオドア・ルーズベルト (1858年10月27日 - 1919年1月6日)

アメリカ合衆国の軍人、政治家であり、第25代副大統領および第26代大統領。

彼はその精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男性らしさでよく知られる。

彼はノーベル賞を受賞した初のアメリカ人であった

彼はアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援した。

ルーズベルトは歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。

ルーズベルトとインディアン

ルーズベルトが大統領職に就いた時代は、すでにインディアン民族が保留地(resavation)に強制移住させられ、表立った軍事衝突は終わった後だった。1901年の大統領就任祝賀パレードにはアパッチ族のジェロニモが見世物として連れてこられ、コマンチ族のクアナが騎馬参列している。クアナとは、二人でコマンチ族の土地で狩りをする仲だった。

一方で、故郷アイダホからワシントン州に強制連行されたままのネ・ペルセ族の窮状について、世論の批判が高まっていたのに対してまったく放置した。ギボン将軍が後押ししたジョセフ酋長の嘆願も、まったく無視し、死ぬにまかせた。「ノーベル平和賞」を受賞したルーズベルトだが、インディアン民族に対しては歴代大統領の絶滅政策を支持していた。


彼はマニフェスト・デスティニーのなかの「インディアンに対する虐殺と土地の略奪」について、次のように述べている。

それ(インディアンに対する虐殺と土地の強奪)は回避不能だったし、最終的には有益なことでした。

女・子供を含む無抵抗のシャイアン族のバンドが米軍によって徹底虐殺された「サンドクリークの虐殺」については、次のように賛辞を送っている。

これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。

また、こうも発言している。

私は、「死んだインディアンだけが良いインディアンである」とまでは言いませんよ。しかし、私は10人インディアンがいたとして、そのうち、9人まではそうじゃないかと思っています。それと、私はあまり10人目については真剣に考える気になれませんね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
11:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:06:33


2017.02.09
米支配層は支配の戦術として住民皆殺しを採用、ベトナム、中南米、中東/北アフリカなどでも実行

アメリカにはロシアや中国との戦争に向かっている勢力が存在する。アメリカが「自由で民主的で平和的」だということはない。これは歴史が示している。もしアメリカが中国やイランとの軍事的な緊張を今以上に高めたなら、ほんのチョットした切っ掛けで全面核戦争に発展するだろう。ドナルド・トランプが大統領になったからそうした事態になっているわけではない。ヒラリー・クリントンはトランプより遥かに危険な好戦派だ。

 タスによると、ロシア軍は必要ならイランの航空基地を利用するとイラン駐在ロシア大使は語ったという。すでに昨年8月にはロシア軍機がイランの基地を使っているが、この発言はアメリカがイランに対して圧力を強めていることに対する警告のようにも見える。

 そのアメリカだが、ロシアとの関係を改善したいというトランプ大統領の意思は変化していないようだ。前にも書いたように、Foxニュースの政治コメンテーターであるビル・オライリーはドナルド・トランプ大統領にインタビューした際、ウラジミル・プーチンを「人殺し」と表現、それに対してトランプは「人殺しはたくさんいる。われわれは多くの人殺しを抱えている。われわれの国がそれほど罪がないとあなたは考えているのか?」と応じた。勿論、トランプの主張は正しい。

 少なくとも第2次世界大戦後、アメリカは「人殺し」を戦術の軸に据えてきた。戦争の末期に編成されたジェドバラの人脈で極秘の破壊工作機関OPCが作られ、1951年にCIAへもぐ込んで計画局の核になった。この人脈がNATOの秘密部隊を編成、対キューバ工作を実行、ベトナムではフェニックス・プログラムで人びとを殺した。

 フェニックス・プログラムでは2万6000人から4万1000人が殺されたと言われ、その中には504名の村民が殺されたソンミ(ミライ)事件やボブ・ケリー元上院議員による非武装民の虐殺も含まれている。

 ケリーの場合、18名の女性や子どもを含む20名以上の武装していないタンフォンの村民を惨殺したのだが、報告では21名の南ベトナム解放民族戦線の兵士を殺したことになっていた。その「功績」で彼は青銅星章を授与されている。

 2001年にケリーが指揮していた部隊による虐殺が明るみに出ると彼を弁護する声が相次ぎ、その中には著名な「ジャーナリスト」のデイビッド・ハルバースタムはタンフォンを「最も純粋なゲリラ地域」で、1969年までそこに住む全員が第3世代の「ベトコン」だったと弁護している。アメリカは侵略軍にほかならず、その侵略軍を非戦闘員も敵視するのは当然。そうした感情を持つ人びとを殺すのは当然だとハルバースタムは主張しているのだ。

 村民皆殺しの目的はいくつか考えられる。まず共同体を破壊して組織的な抵抗を弱めること、ゲリラに対する食糧などの支援を断つこと、そして恐怖でアメリカに屈服させることなどだ。この戦術はラテン・アメリカでも使われ、「死の部隊」が編成されている。ズビグネフ・ブレジンスキーはサラフ主義者/ワッハーブ派やムスリム同胞団を中心に戦闘集団を組織、対戦車ミサイルTOWや携帯型地対空ミサイルのスティンガーを含む武器を供給し、戦闘員を訓練した。

 1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クックによると、そうした戦闘員のコンピュータ・ファイルがアル・カイダである。アラビア語で「アル・カイダ」とは「ベース」を意味し、「データベース」の訳として使われる。

 2003年にアメリカはイラクを先制攻撃してサダム・フセイン体制を倒し、建造物を破壊、100万人とも推計されているイラク国民を殺した。その際、アメリカが投入した121機動部隊はフェニックス・プログラムの殺人部隊やラテン・アメリカの死の部隊と同じ役割を演じた。2011年春にアメリカはリビアやシリアの体制転覆に乗り出すが、ここで使われたアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)も目的は同じ。だからこそ、こうした武装集団の危険性を訴えたマーティン・デンプシー統合参謀本部議長やマイケル・フリンDIA局長は任を解かれたわけだ。

 2001年9月11日の攻撃を利用してジョージ・W・ブッシュ政権は1992年にネオコンが作成した世界制覇プランを実行に移したが、1980年代から準備が進められていたCOGプロジェクトも始動している。COGとは「Continuity of Government」のイニシャル。

 核戦争が勃発した際、本来の政府の機能を秘密政府へ移す計画で、1979年に設立されたFEMA(連邦緊急事態庁)もその計画から生まれた。COGは1982年に創設され、88年には大統領令12656によって、その対象は核戦争から「国家安全保障上の緊急事態」に変更されている。この変更の結果、2001年9月11日にCOGは始動、「愛国者法」がすぐに施行され、憲法の機能が停止させられたわけだ。

 アメリカ国内のファシズム化や国外での侵略戦争は9/11を切っ掛けにして本格化、フェニックス的な作戦も実行しつつあるのではないかと言われている。その9/11は政府の自作自演だという指摘は納まる気配を見せていない。トランプ大統領もそうした疑問を口にしているひとりであり、安全保障担当補佐官に就任したフリンやジェームズ・マティス国防長官などはCOGにも反対していると言われている。トランプ政権にはさまざまな側面があるが、支配層、特に9/11を利用してきたグループにとって非常に危険な要素を持っていると言えるだろう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201702080000/
12:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:10:10

今こそ合州国の正体直視を  
週間金曜日2003年 3月14日号「風速計」 本多勝一

この一文が出るころ、アメリカ合州国の体制主流は、イラク侵略を開始または開始寸前にあるだろう。

 国連安保理外相級会合に米英ら3国が今月7日提出した修正決議案は、国連安全保障理事会で11日に採決にかけられる見通しだが、ここで否決されても、合州国は単独で開戦・侵略に踏み切る構えである。

 あたりまえだ。アメリカ合州国の歴史は、こういうことの連続の末に今日の地球史上最強・最悪の帝国となった。ワシントン初代大統領以来の二百余年間は、手段を選ばぬ詐欺・脅迫・テロ・虐殺による侵略史にほかならぬ。そのことはこれまで機会あるごとに触れてきたが(注)、目前でまたしても超大軍事力によって同じことが強行されようとしている今、「正確な合州国史」にうといままその正体に気付かぬ例が多い日本人のためにも、このさい改めて正面から指摘しておきたい。

 ただし、こんどのイラク侵略が開戦されてもされなくても、これはコロンブス以来のヨーロッパによる世界侵略500年史の中で、ベトナム戦争とともに画期をなす歴史的事件となるかもしれない。

米西戦争などで世界制覇競争に勝った合州国は、それまでに北米大陸での先住民族侵略をウンデッドニー虐殺によって終了していたが、以降そのままハワイ・グアム・フィリピンへと「西部へ西部へ」を進めた。朝鮮戦争につづくベトナム戦争で、合州国軍隊はワシントン初代大統領以来初の敗戦を喫したものの、侵略のための巨大軍需産業や体質に傷はつかなかった。その成りゆきとしてのイラク戦争(12年前も今回も)である。ところが、合州国の正体に気づき始めた人々の世界的盛上りによって、開戦寸前での中止か、開戦してもベトナム以上の反戦の広がりで帝国の没落となるかもしれない。この500年来の画期をなすゆえんである。


合州国は“民主主義”をタテマエにしている。実態はともかく、民意を完全・明白に無視した侵略は支持されない。そこで開戦のとき必ずといえるほど使われるテこそ、相手が先に攻撃したとみせかける捏造事件である。これは先住民族への侵略以来イラクまで一貫してきた。

戦艦メーン号爆破事件(米西戦争)をみよ。トンキン湾事件(ベトナム戦争)をみよ。真珠湾(太平洋戦争)をみよ。その他その他。

これを書いている9日の朝日放送(サンデープロジェクト)は、イラクのクウェート侵入(これも裏に合州国あり)にさいして、イラク兵が乳児を哺育器から出して次々と放り投げた様子をクウェートの少女に証言させたこと、これが繰り返し放送されて世論を憤激させ、開戦に有利になったこと、ところが後に、この少女は駐米クウェート大使の娘で、証言は捏造だったこと等を放映した。

 こんどはどんな捏造が、いいように操作されるマスコミによって“報道”されることだろうか。

 開戦寸前の今、このテーマは「未完」としておく。
http://www.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt?v=vol451


第一次湾岸戦争時の「ナイラ証言」と「油まみれの水鳥」

アメリカ政府もメディアも、イラク攻撃の世論作りのために露骨な捏造と情報操作をおこなった。世界が、みごとに嵌められてしまった。

「ナイラ証言」というのは、完璧な捏造であることがはっきりしている。ナイラというクウェートの少女が、米公聴会で「イラクの兵士がクウェートの産院の乳飲み子を保育器からだし、次々と床に叩きつけて殺したのを見た」と涙ながらに証言した。

しかし、後にこの少女は、駐米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいたことが分かった。つまり、証言は真っ赤なウソだった。この証言は、アメリカの広告代理店がシナリオを作り演出したものだった。リハーサルもきちんとしていた。もちろん、スポンサーはアメリカ政府以外にない。ただし、捏造がニューヨークタイムズで暴かれたのは、1年3ヶ月後のことだ。

この「ナイラ証言」が出るまでは、アメリカの世論は反戦が多数を占めていた。しかし、この証言で世論は一気に会戦へと転じた。周到に準備された、たったひとつの捏造が、世論を完璧に逆転させてしまった。しかも、素人の少女のウソ泣きによって。


クウェートから逃げてきたとされる少女の証言だ。そのクウェート人少女は、アメリカ議会の公聴会でこう証言した。

「サダム・フセインの軍隊が病院に乱入して、保育器から赤ん坊を取り出し、床に叩きつけて殺した。私はこの目で目撃した」

 と、少女は涙を流しながら証言した。

 ところが、この公聴会での少女の証言は、真っ赤なウソだった。
 事前にアメリカの広告代理店が綿密なシナリオをつくり、何度もリハーサルをした上での証言だった。当の少女が後に暴露した。


湾岸戦争のときの「油にまみれた水鳥」の映像

 石油の海と化した波打ち際に、全身石油まみれの真っ黒の水鳥が弱々しく立っていた。いや、呆然と立っていたといった方がいいかもしれない。

 当時、メディアはサダム・フセインの「環境テロ」だと大騒ぎした。フセインがわざと油田の油を海に「放出」していると報道された。

環境は破壊され、海の生物が犠牲になっていると。油にまみれた水鳥の映像は、大きな訴求力を持った。水鳥の映像は世界中をかけめぐり、繰り返し放映された。世界中がフセインを「狂気の極悪人」として認識した。このたったひとつの映像が、永遠にフセインのイメージを世界に決定づけたのだ。

 しかし、あの映像はヤラセだった。

 まず原油が海に流れたのは、米軍の爆撃機がイラクのタンカーを撃沈したからだ。アメリカは自分の爆撃の結果を、フセインの環境テロにすり替えたのだ。そしてメディアは、タンカーから流出した油の映像に、水鳥の映像を付け加えて、効果を高めた。日本のメディアは、その映像がおかしいと知りながら、アメリカの大本営発表に沿った報道をした。

 水鳥の命をダシに、イラク市民は爆撃された。
 クジラの命をダシに、日本が爆撃されたら、日本人は納得できるだろうか。


サダム・ フセインが自国民(クルド族)に化学兵器を浴びせた想像を絶する暴君だというイメ-ジを与える宣伝キャンペ-ンがあげられる。私自身もそう信じ込まされていたし、長い間彼のことを何をしだすかわからない怖い存在だと思っていた。

しかし、これもアメリカの巧妙な宣伝が成功したに過ぎない。イラン・イラク戦争の期にイラク領のハラブシャで、イラクとイランとが互いに化学兵器を使い合ったのは確かだが、クルド人を殺した毒ガスはイラン側が所有するシアン化物だった、当時イラクの毒ガスは、マスタ-ドけいのどくがすであっっという。
   検診したトルコの医者が証言している。

しかし、スタンフォ-ド大学フ-バ-研究所特別研 究員松原久子も「アメリカは戦争を望んでいた」(文芸春秋一九九一年五月号)と題した寄稿文でこのことはっ きり書いているが、これに対する反証は出されておらず、今では 定説となっているのである。湾岸戦争後に、米軍は、降参したイラク軍のクウェ-ト陣地に少しでも化学
兵器が残っていないかと躍起になって捜したというが、ついに化学兵器は少しも見当たらなかった。イラクは国家存亡と岐路に立たせられたあの湾岸戦争でも科学兵火は使っていなのである。

http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/chance-forum@freeml.com/6841/;jsessionid=0m2cs06w21


悪魔化されるサダム・フセイン

米国は、報道機関の助けを借り、戦争を国民に納得させようと、サダム・フセインを悪魔のような人物に仕立て上げた。イラン・イラク戦争の期間は米国とイラクの問に緊密な外交、経済、軍事の協力があったが、戦争が終って数年すると、サダム・フセインは突然、「ヒットラーより悪い」独裁者となった。

 個人的中傷のほかにも様々な宣伝が行われた。その最初は石油だった。一九九〇年九月十一日、ブッシュは「あまりにも重要な資源をあまりにも残忍な人間に支配させておくことは、許容できるものではなく、今後も許容されない」と述べた。それでも、米国のかなりの人々がこれに同調しなかった。同年十一月十四日付け 「ニューヨーク・タイムズ」 は米政府の新たなアプローチを次のように報じている。

  ホワイトハウスのスピーチ・ライターがブッシュ大統領の湾岸政策について、明瞭に、そして一貫して理解を得られるよう紹介することができず、その結果、本国民の支持をつなぎとめておくことができそうにないことに、(中略)ベーカー国務長官は怒りをつのらせていると言われている。

 湾岸戦争が始まった八月以降、戦闘部隊派遣を正当化する大統領の理由は、「死活的利益」が危機に瀕していることから始まり、侵略による損害を見過ごしてはならない、サダム・フセインはヒットラーより悪い、に至るまで実に網羅均である。

……

 このため、ベーカーは失業という新たな恐怖を持ち出した。「湾岸危機を米国民の生活水準レベルで話すならば、それは雇用問題だと言わせていただきたい。なぜなら、西側の経済的生命線(石油を支配するある国により、さらに言えば、ある独裁者により、世界の経済が不況へと転落すれば、米国民に失業が生まれるからだ)とベーカーは語った。サダム・フセインは今度は、湾岸での米国の支配強化に対してだけなく、米国経済のさらなる悪化に関連しても、非難されるようになった。ただし、米国の景気が実際に悪化するのは、湾岸戦争が終った後のことである。


最も人々の注意を引いて話題となった虚報は、「保育器の報道」である。一九九〇年十月十日、人権に関する議会コーカスにおいて「ナイラ」とのみ紹介された十五才の少女は、イラク兵士が嬰児を保育器から取り出して、「冷たい床の上に置き去りにして死なせる」のを目撃したと主張した。この話は、戦争に向けて突き進むブッシュ政権によってすぐさま利用された。ブッシュはこの話をいくつものスピーチで繰り返し引用し、このようにして三百十二人の赤ん坊が死んだと訴えた。アムネステイー・インターナショナルも一九九〇年十二月十九日のリポートで、この話は真実だと報告した。

 戦闘が終ってみると、保育器の話はまったく信用できないことが分かった。時がたつにつれ、国家安全保障会議や議会で証言を行った証人は、姓名も身分も偽っていたことが判明した。姓名がイサハ・イブラヒムで、身分が軍曹とされた人物は、イブラヒーム・ベハベハニという矯正歯科医だった。先の十五才のナイラという少女は、証言では残虐行為の行われた時に病院でボランティアとして働いていたと言ったが、実は、駈米クウェート大使の娘だった。これらは、十月十日の議会コーカスを、主催した者にとって、既知の事実だったのである。

 アムネステイー・インターナショナルは一九九一年四月、保育器の話を真実とした報告を撤回した。ミドル・イースト・ウォッチは一九九二年二月、保育器の話はイラク軍による大量レイプや拷問と同じく、「明らかに戦時の宣伝工作」である、とするリポートを発表した。

今回の開戦前の国連査察結果からも、ここに抜粋しましたラムぜー氏の見解のごとくに、「イラクの核兵器保有」は、ブッシュ(父子)の捏造である事が判りました。

そして、「保育器の報道」についても、最近ではテレビ放送で、自由クウェート市民との団体が、アメリカの大手広告代理店「ヒルトン&ノートン」に依頼して「駐米クウェート大使の娘」ナイラと名乗らせ作成した「宣伝工作」であったと放映されていました。


ビアーズ次官は完成したばかりの政府広報誌「イラク 恐怖から自由へ」を紹介した。「1988年3月16日、イラク北部の町ハラブジャで、イラク軍の毒ガスにより5000人のクルド住民が死んだ」という内容で、イラク攻撃への支持を訴える意味を込めて、世界中に配布されている。

 冊子には、赤ん坊を背負ったまま道端に倒れる女性や、息絶えた子どもたちの写真が多い。「我々が発信する情報は心を打つ物語でなければ」と次官は言う。ハラブジャ事件にはブッシュ大統領もしばしば言及、「自国民を毒ガスで殺した非道なフセイン政権」の象徴となっている。

 しかし、この事件には実は謎が多い。当時、米中央情報局(CIA)のイラク担当だったステファン・ペレティエ氏(米国の陸軍戦争大学元教授)は「毒ガスはイラクではなくイランのものだった」と主張する。当時はイラン・イラク戦争のさなかで、犠牲者はイランしか持たないシアン(青酸)ガスで死んだ兆候を示していた、というのだ。


 元教授によると、ハラブジャを現地調査した国防総省の情報機関は90年春、部内報告として、クルド人殺害はイランのガスによるものと結論付けていた。ところが、連邦議会の調査委員会は「イラク軍がマスタードガスと神経ガスでクルド人10万人を殺した」と発表し、イラク虐殺説が広まったという。

だが、密室ではなく戸外に散布したガスで一度に10万人も殺せるのか――。首をかしげる専門家も少なくなかった。その後、広報誌のように「5000人」という死者数が多用されるようになったが、昨年10月のCIAの報告書は死者を「数百人」と記し、宣伝用の数字(5000人)と大きな食い違いを見せている。

テレビ放送でも、多くの評論家は、この事実に全く触れずに、“毒ガスを同国民であるクルド人に使用し虐殺した、極悪人のフセインを追放すべし!”と声高に語り、アメリカのイラク侵攻を支持しています。

「多数のメディアが、繰り返し強調する事例はまず疑え」
ということだ。

ソビエト連邦=共産主義=世界の脅威

サダム・フセイン=大量破壊兵器=世界の脅威

タリバーン=原理主義=世界の脅威

「アル・カイーダ」=テロリスト=911、疸阻菌、ロンドン爆破=世界の脅威
・・・etc.


ソビエト連邦も、フセインも、タリバーンも世界の脅威ではなかった。
意図的に強調されてきたにすぎない。
「アル・カイーダ」は実際に存在するのかどうかさえ怪しい。
本当の世界の脅威とは、常套的に情報操作し、平気で他国を爆撃するアメリカ合州国自身ではないのか。


──大量破壊兵器とアルカイダ──

 今回のイラク戦争でも、このウソによるイメージ戦略は大いに発揮された。

 イラク戦争開戦の最大の理由は、
「大量破壊兵器の存在」「フセインとアルカイダのつながり」
 だった。

 この二つの「事実」が、世界中のメディアを使って大宣伝された。狂人フセインを打倒しなければ、世界の安全は脅威に晒される、というように。フセインは世界の脅威、世界の敵になった。すでにフセインのイメージは10年前に定着している。

しかし、「大量破壊兵器の存在」も「アルカイダとの関係」も、ウソだった。

http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/c/9596a99dfeb4a0daf5a852d62ea14fa5


マスコミ業界の世界的な中心地であるアメリカでは、マスコミは、開戦後に戦争に協力するだけでなく、政府による戦争開始の策動に協力してきた。アメリカのジャーナリズムの賞として世界的に有名なものに「ピューリッツァ賞」があるが、この賞を作ったジョセフ・ピューリッツァは、1898年にアメリカとスペインの戦争(米西戦争)が始まる原因を作った人である。

 米西戦争は、当時スペイン領だったキューバに停泊中のアメリカの戦艦メーン号が何者かによって爆破沈没され、これをピューリッツァの新聞「イブニング・ワールド」などのアメリカのマスコミが「スペインの仕業に違いない」と煽り、開戦に持ち込んだ戦争である。メーン号が沈没した理由が、故障による自損事故だったことは、後から判明した。

 この米西戦争開始の経緯を見ると、アメリカのマスコミが政府の肝いりで「イラクは大量破壊兵器を持っているに違いない」と煽って開戦に持ち込み、後で、実はイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが分かったという、105年後の2003年に起きたイラク侵攻と、ほとんど同じであることが分かる。

 ピューリッツァとその後の同志たちが巧妙だったのは、自分がやっていた扇動ジャーナリズムを、洗練された知的で高貴な権威あるイメージに変えることを企図し、成功したことである。ピューリッツァは、ニューヨークのコロンビア大学に巨額の寄付を行い、ジャーナリズム学科を創設した。今では、コロンビア大学のジャーナリズム学科は、ジャーナリズムを学ぶ場所として世界最高の地位にあり、ピューリッツァ賞は、世界最高の賞となっている。「ジャーナリスト」は、世界中の若者があこがれる職業になった。

 しかし米西戦争からイラク侵攻まで、「人権」などの一見崇高なイメージを使って敵方の「悪」を誇張し、自国にとって有利な戦争を展開することに協力しているアメリカのマスコミのやり方は、巧妙さに磨きがかかっただけで、本質は変わっていない。
http://tanakanews.com/g0725media.htm


ウンデッドニー以来…… (本多勝一)

 アメリカ合州国が、一方的な「ブッシュの戦争」でアフガニスタン空爆を続けている。予測されていたとおり、一般住民に多数の死傷者が出た。そして、そんなことは一切おかまいなく空からの無差別虐殺をつづけるであろうことも、予想通りである。なぜか。

 合州国の「はじまり」から点検してみられよ。この国は500余年前の「コロンブスの大虐殺」で始まる。すなわち南北アメリカ両大陸(および付属諸島)の、何千万人とも知れぬ先住民族たちの、おそらく人類史上最大の悲劇の始まりである(注1)。合州国に直接関連するものとして、北米の先住民族が最近までにどんな虐殺をされてきたかは、日本人による世界に誇れる報告『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂・朝日新聞社・1972年)がある。

 ワシントン初代大統領時代から強行された侵略は、最後の組織的虐殺「ウンデッドニー」で一応終るものの、そのわずか10年後(1900年)、フィリピンを侵略した米軍による「10歳以上すべて」の全男女が、ルソン島・サマル島で大虐殺された。のちの日本占領軍司令官マッカーサーの父親たるアーサー=マッカーサー将軍の命令だ。この虐殺軍の指揮官たるや、なんと米本国でのベテラン対先住民戦闘兵自身だった。つまりアメリカ先住民大虐殺の歴史は、アジア人大虐殺へと直結する(注2)。

 息子のマッカーサーを最高司令官とする米軍は、東京大空襲や広島・長崎への明白な無差別大虐殺を、「真珠湾」への“反撃”として強行する。真珠湾は軍事施設だけを目標としていたが、東京や広島・長崎等は住民の生命そのものが目標である。

 その5年後、朝鮮戦争が始まる。そこでの米軍による住民大虐殺については、たとえば松本昌次『朝鮮の旅』での「信川大虐殺」などで明らかだが、つい最近も「老斤里大虐殺」が暴露された(注3)。

 朝鮮での終戦後10年と経たぬうちに、ベトナム戦争への米軍介入だ。ソンミ事件その他、アメリカ先住民大虐殺と全く同じ無差別婦女子大虐殺が、カウボーイ米兵らによって“楽しく”行なわれた。

 ベトナム戦争終了26年後の今、父親ブッシュによるイラク戦争(湾岸戦争)を経て息子のブッシュが、国連を無視してアフガニスタンに開戦した。ウンデッドニー当時の大統領と現在のカウボーイ父子大統領とで認識に基本的違いがない以上、非白人で異教徒住民への無差別爆撃(虐殺)は当然である。良心的アメリカ人は、あくまで非主流だ。

 ここまで書いた直後、ミニコミ誌『シサム通信』10月号が届いた。その中から、アフガニスタンで長年医療活動をして今回脱出した中村哲医師の言葉――「一連の動きを見て思うのは、西部劇の続きである。勇敢な白人がバッタバッタとインディアンをなぎ倒していく。」


<注1>たとえばラス=カサスの『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳訳・現代企画室)などに詳しい。

<注2>詳細は拙著『アメリカ合州国』(著作集12巻=朝日新聞社)収録の「マイアミ連合からベトナムまでの合州国の道程」参照。

<注3>1950年7月に韓国・忠清北道老斤里で避難民数百人を米兵が無差別射殺。AP通信が一昨年9月に報道。
http://www2.kinyobi.co.jp/old/fusoku_oldf/386


こんな事態が許されるのでしょうか!?

ラムゼー氏の著書を見るまでは、イラクのクウェート侵攻の非は、イラクそしてその独裁者フセインに在ると信じ込んでいましたが、ラムゼー氏は、このイラクのクウェート侵攻はアメリカによって仕掛けられた罠であった事を示してくれます

その罠は、イラン・イラク戦争で疲弊し復興を図るイラクに対して、(アメリカの差し金で)クウェートは石油の過剰な増産を企て国際的な石油価格の暴落を図り、イラクの石油からの利益を削減させた上、イラク油田の盗掘等を行いイラクを徹底的に痛みつけ、イラクがクウェートに善処を請うと、イラク、クウェート、サウジアラビア、UAEによる四ヵ国の石油相会議の席上では、クウェートのサバハ外相は“(イラクに)対応するつもりはない。(中略)気に入らないことがあるなら、イラクはクウェートの領土を勝手に占領すればいい。(中略)我々は米国を引き入れる”とのも発言しています。

そして、当時のブッシュ(父)大統領は“警告も挑発もなくイラクはクウェートに侵攻した” と述べたというが、フセインはこの会議で(イラク軍のクウェート国境への集結の前日)は、“話し合いでイラクを守れないなら、事態を正しく立て直し、かつ奪われた権利をその持ち主に返還するために、何らかの有効な手段が講じられなくてはならない。全能の神よ、我々は忠告を与えたことを覚えておいてください” と語りクウェートに警告を発していたことが紹介されています。

中東で戦争を望んでいたのはイラクではなく、米国の巨大勢力だった。つまり、巨額な予算を維持したい国防総省、中東への武器販売と国内の軍事契約に依存する軍需産業、原油価格に対する支配力強化と利益の増大を望む石油公社、ソ連の崩壊を米軍の中東常駐の絶好の機会と考え、石油資源の支配により巨大な地政学的勢力を二十一世紀に向け構築しようとするブッシュ政権だった。


国防総省の課題は、拡張よりも再建に腐心するイラクを、どうしたら米国の軍事介入を正当化できる行動に駆り立てることができるか、であった。このような危機的状況を創り出すため、国防総省はクウェート王族との特別な関係に頼ろうと考えた。

イラクがイランとの戦いに没頭している最中、クウェートは国境を北方に移動させ、ルメイラ油田の中の九〇〇平方マイルを占拠した。クウェートはこれに加え、米国から供与された傾斜穿孔技術により、イラク領土内に間違いなく位置するルメイラ油田から盗掘を行った。イラン・イラク戦争が最高峰に達した時、イラクの石油輸出能力は低下したが、クウェートは盗掘したイラクの石油をイラクの消費者に売りつけて大いに儲けた。

クウェートは戦争期間を通じ、イラクに三百億ドルを貸与したが、その大部分はクウェート自身がイランから直接的脅威を感じた後のものだった。戦争が終ると、クウェートの指導者はイラクに返済を求めたが、イラクは戦争により八百億ドル以上の被害を受けていた上、クウェートの身勝手な行動で石油価格が引き下げられていた。

イラクにとって債務の即刻返済は不可能だった。

一九八八年から九〇年にかけ、米国防大学の研究が予想した通り、イラクは外交によりクウェートとの紛争解決に努力した。一方、クウェートは、情報筋のすべてが認める通り、一貫して傲慢で非妥協的だった。


サダム・フセインはバグダッドで開催されたアラブ連盟首脳会議で次のように述べた。

戦争は通常、「軍隊の越境、破壊行為、殺人、クーデター支援により遂行される。(中略)そして、現在行われていること(クウェートの石油政策)はイラクに対する戦争である」。

一九九〇年六月、イラクはアラブ数ヵ国に外交使節を派遣し、原油価格の若干の引き上げを可能にする新たな生産割当を訴えた。クウェートはこの生産割当を拒否したが、さらにイラク、クウェート、サウジアラビア、UAEによる首脳会談の開催というイラク提案まで拒絶した。

 七月十日、前記四ヵ国の石油相会議がやっと開催され、原油価格の漸次引き上げが可能となる生産割当が決められた。ところが、翌日、エミールと会談したクウェート石油相は、原油生産を十月まで大幅に引き上げると発表した。

サダム・フセインは、クウェートと米国がイラク経済の破壊を共謀していると公然と非難し、「話し合いでイラクを守れないなら、事態を正しく立て直し、かつ奪われた権利をその持ち主に返還するために、何らかの有効な手段が講じられなくてはならない。全能の神よ、我々は忠告を与えたことを覚えておいてください」と語った。イラクの戦闘部隊がクウェート国境に結集し始めたのは、この翌日である。

 言い換えるなら、イラクは、経済戦争が仕掛けられていると認識しており、事態はそれほど深刻だ、と警告したのである。ブッシュ大統領は八月八日の声明で、警告も挑発もなくイラクはクウェートに侵攻したと述べたが、これは真っ赤な墟である。

http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030322.htm


1990:米国の承認の下、クウェートに侵攻。

米国の承認?

1990年7月25日、勢いに乗る独裁者は、米外交官で駐イラク大使のエイプリル・グラスピーとバグダッドで会談。サダムがグラスピーに、イラク石油のちょっとした首長権限をめぐってクウェートに攻撃を仕掛ける際に、アメリカが反対するかどうか確認したところ、このアメリカの使者はこう語った:

「私たちに意見などありません。(国務長官の)ジェームズ・ベイカーが私を寄越したのは、指示を確認するためだけです。それはつまり、クウェートはアメリカと連合関係にないということです。」

サダムは彼女の発言を録音していた。グラスピーは、1991年の議会証言で、父ブッシュがイラクのクウェート侵攻を承認したと世界中の外交官が見なすことになる録音について、その信憑性を否認できなかった。

http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2004/04/the_best_democr.html


湾岸戦争はアメリカが仕掛けた罠だった

1991年1月17日、湾岸戦争が始まった。しかしながら、軍事偵察衛星から送られてくる写真から、米ソはイラクがクウェートに攻め込む何日も前から、フセインの軍隊の大規模な移動と、クウェート国境への集結を確実に把握していたことが、関係者の証言で明らかになっている。1990年7月20日に打ち上げられたソ連製スパイ衛星「コスモス2086」が、突然軌道を変え、侵攻直前のクウェート上空を集中的に飛行していたことが、徳島市の「民間・人工衛星追跡組織(LAT)」の調査によって明らかにされた。(1990年10月23日付け「朝日新聞」による)

 他国の衛星の位置を確認しているアメリカが、このソ連衛星の動きを察知していたのは確実で、つまり、「奇襲」とされるイラク軍の侵攻を事前に知っていたことになる。

 もし、アメリカが本気でイラクのクウエート侵攻を沮止しようとするならば、第7艦隊をペルシア湾へ向かわせ、イラクへ警告を発せば、良いことだ。そうすれば、湾岸戦争は回避されていた。

 また、当時のイラク駐在のグラスピーというアメリカ女性大使が、フセインの国家再建努力を褒めて、「アメリカはイラクの行動には関心がない」と言ったのだ。


さらに、国務省の中東専門家であるジョン・ケリー国務次官補が記者会見で「クウェートが攻撃されてもアメリカにはクウェートを助ける責任がない」と公言したのだ。

 さらには、1989年、クウェイト国家公安局長がCIAを「極秘」に訪問し、「非公式会談」を行なっている。

「イラクの経済情勢の悪化を利用して、イラクがわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である、との点で米側と一致した。CIAは、彼らがふさわしいと考える圧力のかけ方を説明し、こうした活動が高いレベルで調整されることを条件に、両国間の幅広い協力関係をつくるべきだと詳述した」ケネディ政権の報道官で、ABCテレビ欧州中東総局長ピエール・サリンジャー他による「湾岸戦争 隠された真実」で、アメリカとクウエートの密約文章の中身をこう紹介している。

 という訳で、フセインはまんまとアメリカが仕掛けた罠にハマったのだった。

http://www.election.co.jp/column/2001/k20011121.html


イラクの湾岸戦争をテレビ報道を見ていて、イラクがクウェ-トに侵入し破壊している様子が映し出されていましたが、その裏にはアメリカのCIAの情報工作があり最初イラクのクウェ-ト侵略を容認した節がある。

 それを、鵜呑みにしたサダム・フセイン大統領がアメリカの思う壺にはまり、悪者にされてしまったのである。

 イラク人の破壊よりも、アメリカの爆撃機の破壊のほうが本当は多大だったのです。

私達は、日本が真珠湾攻撃をしましたが、アメリカは、その情報を先に知っていて、日本の攻撃を口実に日本に宣戦布告してきました。

 時代が変わっても、アメリカのやりかたは、同じなのです。

クウェ-ト(親米政権)は隣のイラクの原油盗掘を行い、また、クウェ-ト人は周辺の貧しいアラブ人を労働者として酷使し、大きな利益を得ていた。これにイラク(フセイン)が抗議したが無視。このため、イラクはクウェ-トを攻撃、占領した。

 クウェ-トは欧米に支援を要請。米を中心とする多国籍軍が編成され、ハイテク兵器を駆使した大攻勢が行われ、一瞬でイラク軍は粉砕され約30万人が戦死しイラクは敗北した。放射能汚染を招くウラン弾頭も使われ、死者の半数は民間人であった。また、国連の降伏勧告を受け入れ、イラクに戻る途中の無抵抗のイラク軍に対し、米軍は隊列の前後の集団を攻撃し足止めした後、「動くもの全て」を対象とした大殺戮を行い、約1万人のイラク兵を全滅させた。イラクへ向かう道路には死体が累々と並び、「死のハイウェイ」と呼ばれた。これらの行為に対し、イスラム勢力の中ではテロによるアメリカへの報復を叫ぶ者も多かった。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5930/newpage117.htm


湾岸戦争はアメリカなどの、軍需産業を持った多国籍企業という死の商人によって仕組まれた戦争だった。

フセインに資金を送り続けたのはイタリアの銀行であり、化学兵器を造らせてきたのはドイツやソ連であり、原子炉とウランは堂々とフランスから売却され、スーパーガンはイギリスから輸出され、アメリカは資金援助を行ないイラクを戦争ができる国に育ててきた。フセインに戦争させるという作戦を実行してきたのが、この軍需産業ファミリーだ。

[『国連 死の商人』(P.34)、広瀬隆(1992)、八月書館]

世界を飛び回って多国籍企業が操る「影の政府」の意思を世界に伝えて回ったベイカー・アメリカ元国務長官。ユーゴ内戦の国連事務総長特使であり、かつ、アメリカ第2位の軍需産業ゼネラル・ダイナミックスの重役であり、かつ、大マスコミのニューヨークタイムズの重役であるサイラス・ヴァンス。他のイラク在住外国人が足止めをくらったときに、イラクのフランスに対する30億ドルという借金をたてにフランス人のみを脱出させたミッテラン・フランス大統領。

僕たちが新聞やニュースで知ることのできる彼らの肩書きは、長官や大臣や、代表といった平和的なもので、人殺しを職業とする兵器工場の経営者という素性がどこにも書かれていない。ところが原爆・水爆・ミサイル・戦闘機から地雷まですべてを造り、ゲリラ戦の特殊部隊を生み出す戦慄すべき国際グループというのがこの一族の正体だ。

[『国連 死の商人』(PP.36-42)、広瀬隆(1992)、八月書館]


また、この一族の系図は、軍需産業とアメリカ、イギリス、フランスといった多国籍軍の中核をなした各国の政府や、国連、マスコミが一体である証拠だ。近代の戦争はすべて彼ら「影の政府」が仕組んだものだ。

そして湾岸戦争直前の1990年、世界の軍需産業が不況にあえぎはじめていた。その軍需産業の不況を打破するために、多国籍軍が湾岸戦争を引き起こし、大量の兵器を消費して儲けようと企てた。

また、軍需産業とアメリカ政府とのつながりは、現在ますます強まっており、クリントン大統領の閣僚の多くが、多国籍企業の重役出身である。
例えば、現在アメリカの国務長官のクリストファーがいる。彼がクリントン大統領から指名されたとき、潜水艦用の核ミサイル、「トライデント」や、湾岸戦争で使われたステルス戦闘爆撃機をはじめとする軍用機を数多く製造したアメリカ第3位の軍需産業ロッキード社の現役重役だった。

アメリカ大統領直属の情報機関、CIAの長官であるジェイムズ・ウールジーは、アメリカ国防総省との取引額第8位のマーティン・アリエッタ社の重役だった。この会社が生産していたトマホーク巡航ミサイルも湾岸戦争で有名になった。

さらに、クリントン政権は各軍需産業から政治献金を受け、彼らに操られていることがこの面からもわかる。ゼネラルモータース、GTE、テクストロン、グラマン、ゼネラルダイナミックスといった軍需産業がクリントン政権やアメリカ議会議員に政治献金をしていることが明らかになっている。

このようにアメリカは軍需産業のために政治を行なうような仕組みになっている。それがアメリカが世界各地で戦争を勃発させている理由である。

湾岸戦争で多国籍企業は国連を思いのままに操りイラクを世界から孤立させた。そしてこの国連ビルがそびえるマンハッタンの土地を寄贈したのはアメリカ最大の財閥ロックフェラー財閥だった。文字どおり、国連はアメリカの多国籍企業の手のひらの上にある。

また、多国籍企業は、新しい国連事務総長に、ガリを送りこんだ。ガリは、「影の政府」の方針を決定するダボス会議のメンバーである。

http://yiori.tripod.com/aum_related/aum1.txt


湾岸戦争でボロ儲け

……ブッシュ政権の重要ポストにエネルギー業界出身の者が数多くいることにある。……テキサスの石油及び天然ガス会社こそが、ブッシュ・ジュニアの選挙戦の最初の協力者グループだったからだ。……

 副大統領ディック・チェイニーからして、石油産業関連のサービス会社では世界第二位のハリバートン社を長い間経営していた。チェイニーは大統領選を機に同社を離れた。

 すべての諜報機関を統括する安全保障の最高機関、国家安全保障会議の責任者であるコンドリーザ・ライスは、シェブロン社で九年間を過ごした。この巨大石油企業で、一九九一年から二〇〇一年一月まで社外重役を務めていたのだ。……

 W・ブッシュの親友でもある商務長官ドナルド・エバンスは、エネルギー長官のスペンサー・エイブラハムと同様に、天然ガス及び石油を扱うトム・ブラウン社の社長として、それまでの経歴のほとんどを石油業界に捧げてきた。経済問題担当の商務副長官キヤサリン・クーバーは、世界的企業エクソン社のチーフエコノミストであった。

 さらに大臣官房にも似たような経歴の者たちがたくさん見られる。……


投資資産管理会社カーライル・グループの投資財団は、その顧問として、元アメリカ大統領のジョージ・ブッシュまたは、その息子の現大統領ジョージ・W・ブッシュを取り巻く多くの人物を擁している。

 取締役会は特に、ブッシュチームの有力者たちで構成されている。たとえば、ジョージ・ブッシュ政権時の国務長官だったジェームズ・A・ベーカー三世、ロナルド・レーガン大統領時代に国防長官を務めた、フランク・C・カールッチ(CIA副長官も務めた)。一九八九年から一九九三年までジョージ・ブッシュ大統領の下で行政管理予算局長官だったリチャード・G・デーマン、そして同じく父ジョージ・ブッシュ時代のホワイトハウスの首席大統領補佐官ジョン・スヌヌである。……

 アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは、一九九〇年から一九九四年まで、カーライル・グループの子会社の一つケイタレア社の取蹄役会のメンバーであった。……

 ジョージ・W・ブッシュが一九八六年から一九九三年まで役員を務めたテキサスの石油会社に、……

 だから、ジョージ・W・ブッシュが経営していた別の有限会社二社(アルバスト79とアルバスト80)の資本の中に、テキサスの大物財界人ジェームズ・R・バスの名があっても不思議ではない。……

 ジョージ・W・ブッシュが設立したこの二つの企業は、その後ハーケン・エナジーと合併し、一連の株式取引は、その痕跡さえ見えなくなってしまった。

 ブッシュ・ジュニアは、七八年石油探査会社アルバスト・エナジーを設立。しかし、八六年ハーケン・エナジーに吸収され、ブッシュは役員に就任した。

注 カーライル・グループ:投資資本百二十億ドル。……未公開企業の株式を購入して転売し、米国最大の兵器メーカーを傘下に収め、通信分野の会社を多く持つ。サウジ政府の金融アドバイザーでもある。

アメリカが掲げる「イラク解放」とは、極端にいえば西洋が非西洋の文明を叩きのめし、自分たちの「正義」を押しつけるプロセスに他ならない。しかも、今回の攻撃でアメリカが得るであろう利益は莫大なものだ。新兵器の実験と旧式兵器の在庫処分によって軍需産業が潤い、戦後復興にはアメリカ企業が次々と参入してくる。イラクの地下に眠る世界第2位の埋蔵石油の利権も、優先的に確保するつもりでいる。ロッキード・マーチン社は、今年1月から3月期の売り上げが昨年に比べて18%増加したといい、インフラ復旧事業ではベタテル社が800億円あまりのプロジェクトを受注し、油田の復旧作業はハリパートン社やブーツ&クーツ社などのテキサス系の企業が引き受けている。

 だが、これに至るまで、イラク国民の上には爆弾が降り注ぎ、民間人は3000人近く、イラク軍人は数万人が亡くなった。アメリカ軍の戦死者とは比べ物にならない数だ。イラクの人々を殺すことでアメリカが利益を得る……この構図は、かつて東洋の解放を唱えた岡倉天心が述べた、「西洋の栄光は東洋の屈辱」そのものではないか。とりわけブッシュ政権は、多くの高官たちが、戦争で利益を得る大企業の顧問などを務める「利権屋集団」だ。
この最も基本的な点を忘れ「力こそ正義」という論理に傾けば、力のない人々が絶望的な行動に出ることは避けられない。テロを防ぐどころか、全世界にテロが広がっていくだろう。大義も正義もない、今回のイラク侵略に対しては、きちんと批判の声を上げ、決してアメリカを許してはならない。
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030813ttnt.htm


電通の正体=カナダマフィア(ブロンフマン)の手下 2016/05/19
ヤクザの上はマフィアのお話
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2384.html
さて、東京オリンピック色々騒がれてますね。

その昔、猪瀬知事の時にトルコと競り合って東京オリンピック当選。
猪瀬やったなぁおい。
滝川クリステルさんも上機嫌だったのに。


しかし、なんのことはない。
日本は賄賂を払ったから当選したのか。。
トルコは払わなかったから落選した。

そういう話だったのか。。
それも電通が勝手にやったのだとか。

何も知らない日本のオリンピック委員が泣きだしているとか。


これは海外(ガーディアン紙)の説明図。


東京五輪招致委員

↓ 1.6億円(130万ユーロ)の賄賂

国際陸上競技連盟会長、国際オリンピック委員会会長のディアク氏の息子


これをもうちょっと分かりやすく書いた図


その昔、オリンピック委員会のサマランチ会長というのがいましたが。
覚えてるでしょうか。

ったく、タマランチな状況になってきますたね。

タマラーンチ!
電通にタマランチ攻撃!

昨日は夕飯を食べながらブツブツとそう独り言を言っていました。

ランチはもう食べたでしょ。
妻に怪訝な顔で見つめられてしまいますた。

それにしても電通。
以下のように日本の報道では電通がまったく出てこない。


海外では普通に報道されてるのに、日本の新聞各社は絶対に電通の名前は出さない。


霞が関の官僚も電通の名前は絶対に出さない。


電通は霞が関でもタブーだった

大西健介議員「電通からは事情を聴くのか?」

文科官僚「そ、それは ~~ や、やらない」

玉木雄一郎議員「電通からブラック・タイディング社のことを聞いて下さい。資料を取り寄せて下さい」

文科官僚「そ、そこまですることは考えていない」

文科官僚は声を上ずらせながら、苦しい表情で答えた。やたらと手振りを交え、時折ツバを飲み込んだ。

何に怯えているのか? 文科官僚は滑稽なほど緊張しながら「知らぬ存ぜぬ」を繰り返した。

おいおい。
いったい電通ってどんだけ力があるでしょうか?

そもそもパナマ文章だって、風評被害でもないのに風評被害だ!
強引にマスコミ各社に風評被害と言わせてしまえる力。
マスコミ、大メディアが恐れ慄き、官僚すらおびえて泣きだす権力。

なぜそんなにも日本のマスメディアは電通を恐れるのか。
電通とはなんなのか。
電通の正体。

その昔書いた話でちょっと古いのですが再掲しときましょう。

以下、テレビ局や新聞社の本社の住所に注目して下さい。
なぜ韓国かを考えて下さい。


【五輪招致疑惑】 電通は霞が関でもタブーだった 2016年5月18日
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/09/post_a0a3.html

そして以下はだいたいの人が理解している日本の支配構造図。


http://golden-tamatama.com/img/d158j2014_00002150.jpg/

一部の人は知っているかもしれませんが。

この在日朝鮮人の上にいるのが偽ユダヤです。(ユダヤ人のふりをしているがユダヤ人とまったく関係ない人種)

で、メディア界担当の偽ユダヤが

カナダの一族。ブロンフマン一族です。


ぇー。カナダ?
意外や意外ですね。

カナダというのはカエデの葉っぱの大人しい国だと思いきや意外です。
メディア界を牛耳ってるのですね。
驚きです。


皆様はオムニコム社は聞いたことがあるでしょうか。
オムニコムというのはカナダに本拠地がある世界最大手の広告会社です。


http://blog-imgs-42.fc2.com/g/o/l/goldentamatama/20130219183949ddf.jpg

これは2012年の広告企業売り上げランキング


これは2014年のランキング。
電通は5位です。OMC=オムニコムです。


オムニコム(OMC)は電通をはるかにしのぐ巨大企業です。

オムニコム社は、日本ではI&S BBDOという怪しい子会社を持っています。
読売グループの第一広告社とセゾングループのエスピーエヌ社が合併した子会社です。


WIKI I&S BBDO
https://ja.wikipedia.org/wiki/I%26S_BBDO


I&S BBDO(アイアンドエス・ビービーディオー)は、東京都中央区に本社を置く外資系広告代理店。売り上げは非公開。

1947年6月に第一広告社として設立された。その後、1986年10月に読売グループとなっていた第一広告社とセゾングループのエスピーエヌが対等合併し、新社名I&Sとなった。

1998年にはアメリカの大手広告代理店オムニコムグループと資本提携し傘下に収まり、I&S BBDOになる。

選挙の時にはこのI&S BBDOが暗躍したりしているのです。


「電通」を取り巻く、日本でいちばん醜い利権の構図
www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/805.html

とにかくこのオムニコムが電通を操っているのでした。
で、このオムニコム社の上にいるのがカナダのブロンフマン一族です。

ちなみにこのブロンフマンさんというのはイーディシュ語で酒屋という意味です。
つまり酒屋さん一族ということですね。

1920年代アメリカ。
当時、アメリカは禁酒法といってお酒が法律で禁止されていたのですた。

ブロンフマンさんは禁酒法時代に、カポネさんなどのギャグを使って天文学的なお金を稼いだと言われています。

皆様はアルカポネは知ってますよね。
アメリカのギャング映画に出てくる有名な人ですが。
あのカポネさんもブロンフマンさんの手下の一人です。


ブロンフマンさんは、

世界ユダヤ人会議(略称WJC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E4%BC%9A%E8%AD%B0

の議長をやったりしています。

今ではブロンフマンさんはシーグラム社というカナダの酒造メーカーをやっています。

ミネラル・ウォーター ボルビックを販売してる有名な会社ですよね。
キリンと合併してキリン・シーグラムも作ったことがあります。


このブロンフマンさんはベルギーの王族の子会社とも関係があり、またロスチャイルドさんとも親戚関係にあります。

そもそもブロンフマンさんは、あのデュポンの経営一族で知られているのです。

ブロンフマン一族は奴らの中でも強硬派、過激派です。
とにかくちょっとでも逆らったらすぐ殺してしまう。

つまり電通をずっと遡ると、朝鮮人ヤクザがいてその上は?

と見ると恐ろしいカナダの酒屋マフィアに行きついた。
それもアルカポネの親分のマフィアだった。

ちなみにマフィア業界で殺人数ランキング。

1位はあの伝説のマフィア。マイヤー・ランスキー一族です。
そして2位がブロンフマン一族です。

電通の親分は殺人数第2位のマフィアだった。
これでは新聞や官僚が電通の名前を聞いて失禁する訳ですね。。

メディア業界というのは上はヤクザでその上はマフィアなのです。
これは裏を知ってる人の常識です。

残虐。凶悪の殺人集団がニュースや芸能界をプロモートしている。
まぁ、前から皆様も何となく気づいていた通りの話です。

という訳で、以上。
長くなってしまいましたが。

とにかく、ミソがついてしまった東京オリンピック。
開催したってヤクザの利益になるだけですよ。

だいたい、福島ではデブリになった核燃料が地下でくすぶってるのに
なにがオリンピックですか。


※この記事はちょっと危ないことを書き過ぎでしょうかね。
時間限定で有料(ブロマガ)記事に移行するかもしれません。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2384.html
13:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:14:43


『マンディンゴ』(Mandingo)1975年 パラマウント 無料動画
https://www.youtube.com/watch?v=jHn5kW6YvHk

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監督 リチャード・フライシャー

キャスト

ジェームズ・メイソン・・・マクスウェル
スーザン・ジョージ・・・ブランチ
ケン・ノートン・・・ミード
ペリー・キング ・・・ハモンド
ブレンダ・サイクス(英語版)・・・エレン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B4

『マンディンゴ』(1975)アメリカのタブー“奴隷牧場”を暴いた問題作!『ルーツ』の裏側を知れ!
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/201110/article_5.html

 60年代後半から70年代中盤にかけてのアメリカ映画界で、『トラ・トラ・トラ!』で知られるリチャード・フライシャー監督が撮った問題作はふたつほどあり、一本はつい先日、記事にした『絞殺魔』であり、もうひとつが1975年公開の『マンディンゴ』です。

 ハリウッド映画ではメジャーであるパラマウントがジェームス・メイソン(農場主)、ペリー・キング(ハモンド)、スーザン・ジョージ(ブランチ)、そしてケン・ノートンらのしっかりとした俳優陣を使って製作した大作映画ではあります。


 当時は大ヒットしたにもかかわらず、長い間に渡って、DVD化されていなかったのは差別用語と差別発言があまりにも多いので、パラマウントがリリースするのに二の足を踏んでいたからだと言われています。

 ちなみに上のDVDのジャケットではジェームズ・メイソンが黒人の子どものお腹に足を乗せています。理由は持病のリューマチを治すのには自分の足を“動物”のお腹に乗せておくと病気が動物に移るという迷信を信じた彼が奴隷の子供に足を乗せているというシーンから取られています。


 また公開当時から批評家にさんざん叩かれて、見せ物映画のレッテルを貼られてしまったが、歴代最低映画のワースト10にも常にランクインするなどの話題性もあるので、怖いもの見たさもあり、ついにリリースされたということなのでしょうか。

 ただ拝金主義で問題も多いハリウッドではありますが、こういう問題作を隠さずに見る者の判断に委ねるところがわが国とは違います。

 この映画で彼が描いたのはアメリカの超ヒット大河ドラマとして名高い『ルーツ』での欺瞞への反発からだったのでしょうか。それとも映画化するに際し、誰も引き受けなかったために職人監督の彼が手がけただけというのが真相だろうか。


 製作もディノ・デ・ラウレンティスで、彼もネオリアリズムの傑作である『道』『カビリアの夜』やヌーヴェルヴァーグの代表作『気狂いピエロ』に出資するなど、ちょくちょく顔を出してくる独立系名物プロデューサーのひとりでした。


『ルーツ』では放送倫理規制、いわゆるヘイズ・コードで巧妙に隠されてしまい、明らかにせずに避けて通っていたアメリカの恥部である奴隷の歴史の闇のディティールを描いたのが『マンディンゴ』でした。

 『ルーツ』でもクンタキンテの苦難に満ちた壮絶な人生がセンセーショナルに取り上げられ、わが国でも放送されていました。ただこのドラマではキンタ・クンテの家庭の温かさ(キジーの髪の毛を撫でたりする。)だったり、登場人物も良い人の比率が多かったりと綺麗ごとで塗り固められている側面がある。


 しかし物事の本質をえぐり出そうという映画製作姿勢で知られていたフライシャー監督が通り一遍に作品を送り出すわけはない。彼はそういった綺麗ごとを排し、厳しく、そして皮肉たっぷりの映画を製作する。

 この映画のポスターを見れば、それは一目瞭然で、それはまさに『風と共に去りぬ』を笑い飛ばすブラック・ユーモアに満ちているし、彼が何を批判したかったのかが分かる。

 名画と呼ばれる『風と共に去りぬ』はたしかに歴史的に価値のある傑作であり、ハリウッド映画最大のアイコンでもありますが、見る人が見れば、怒りがこみ上げる作品でもあるという証明がこのポスターなのでしょう。

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/981/16/N000/000/003/131937623801113214750_mandingo_a0q.jpg


 俺は生まれた この時代に
 
 自由の無い この時代に 自由が欲しくても 手が届かない 

 自分のものは この心だけ そうとも俺のものは心だけ

 幸せがどういうものか 知りもしない 

 分からないよ 誰を責めるべきか
                     『Born in This Time』

 作品中、この哀しい歌詞で歌われるブルース・ナンバーはオープニング、クライマックス前、そしてエンディングの合計3回歌われる。この歌はとても印象的ではあります。ただこの曲よりもモーリス・ジャールが付けたこの映画のサウンドが異様で、のどかな古き良き時代を思い出させるようなクラシック調の調べの数々がとても気持ち悪い。

 おそらく対位法の効果を狙い、見る者にその異様な光景を印象つけようということなのでしょうが、『アルプス一万尺?』をヴァイオリンで弾かせているのに合わせて、手かせと首かせを付けられた奴隷たちを行進させたりするので、長閑な音楽の流れるところには異様なシーンが続いていくことが多い。

 フライシャー監督とディノ・デ・ラウレンティスは人身売買の被害者である黒人奴隷の悲惨さ、しかも奴隷の男女をかけ合わせて、新たな奴隷を作り出す奴隷牧場という悪魔のシステムをはじめて商業映画で暴き出しました。作品は人を人と思わない、傲慢で無知な鬼畜の所業の数々とそういった人種差別をしながら、キリストに祈るという滑稽なほど間抜けな南部白人たちのおぞましきエピソードの連続です。


 黒人をまず人間とは認めていませんので、彼らの面倒を診るのは獣医ということにまずは驚かされる。まるで『ドクター・モローの島』のようです。ドクター・モローも人種差別の寓話として見ていましたので、間接的には奴隷牧場を描いていた作品はあります。

 しかしこの作品では白人たちが真正面から見たくないものと向き合わされる。白人男と黒人女、白人女と黒人男という異人種のあいだの性交(もちろん主導権は白人側が握っている。)が何度も描かれていて、人種差別の滑稽さが浮き彫りになる。

 黒人たちは白人の性欲を処理する道具でしかなく、人格は認められていないのです。そのため父親は白人なのに、奴隷に産ませた子供を平気で奴隷として売りだそうとします。


 また閉鎖的な白人社会内では、つまりキリスト教圏だけではなく、多くの宗教では近親相姦がタブーであるはずなのに、実際には行われている。スーザン・ジョージは実の兄に犯され、処女を奪われる。この兄は変態で、SM趣味を持ち、黒人少女たちを犯すときも後ろ手にして、ベルトを外し、鞭のように叩き続ける。

 当時の倫理観は白人同士にしか通用しなかったようですが、たとえ異人種間の不義密通であろうとも、産まれたばかりの乳児を獣と呼び、父親自らが始末するシーンなどは正視に耐えません。

 さらに父親(ペリー・キング)は自分の蛮行にはまったく良心の呵責も感じていないものの、欲求不満の妻が腹いせにマンディンゴの男(ケン・ノートン)と不義密通した結果、生まれた黒い赤ん坊を殺し、妻を毒殺し、さらに相手であるマンディンゴを釜茹でにし、干草を摘むピッチ・フォークで突き刺して殺害する。


 逃亡した上、白人一家を皆殺しにして反乱を起こした奴隷リーダーに対する見せしめのリンチも描かれていて、ビリー・ホリデイが彼女の代表曲である『奇妙な果実』で歌った状況が映画にも出てきます。これら以外にも、支配者である白人たちの様々な愚劣な恥部を白日の下にさらけ出していく。

 クライマックスのひとつに黒人同士を戦わせて、殺し合いをさせるパンクラチオンのような、現代風に言えば、バーリ・トゥードのような見せ物に白人たちが狂喜するシーンがある。まあ、ケン・ノートンはモハメド・アリとも戦ったことのあるトップ・クラスのボクサーでしたので、彼にとっても見せ場でもあります。

 ただこのシーンも皮肉っぽく見ていくと、ボクシングという世界も黒人同士が殴り合いをするのを白人たちが興奮して楽しむという構図がまったく変わっていないことに気づかされる。


 作品を見ていくと白人のほとんどすべては救いようのない愚か者として描かれ、黒人たちのほうが高い人間性と知性を感じさせてくれる。どちらがレベルが低いかは明らかで、キリスト教も南部では違う解釈で広まったのかと思わせる。

 衝撃度は見せ物映画として悪名高いトッド・ブラウニングの『フリークス 怪物團』よりもある意味、強烈な作品でした。最低映画として語り継がれる『プラン9・フロム・アウタースペース』『ピンク・フラミンゴ』『エアポート80』などと並んでしまうほどの作品なので、アメリカ人はよほど見たくないのでしょう。


 ぼくがこれを見たのは高校生か大学生の頃の夕方のテレビ放送で、ガニメデを処刑するときの釜茹でのシーンなどの衝撃的な内容は今でも記憶に残っています。

 こうした作品を見るといつも思うのですが、最近は差別を回避して隠蔽する傾向が強いので、こういう作品は製作されにくいでしょうし、放送もないでしょう。しかし、こういうことがあったこと、隠蔽しようという意図は常にあることを忘れてはならないと思います。

 ちなみにマンディンゴとはアフリカのマリ帝国に住んでいた黒人種族であり、もっとも力強く美しいとして、非常に高価な値段で取り引きされていたそうです。まるで競馬のサラブレッドや血統書つきのペットを買っているようで、吐き気がします。

 南北戦争でもし南軍が勝利していたならば、という想像をすると かなり恐ろしい。奴隷解放が百年以上も先延ばしになっていたかもしれません。
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/201110/article_5.html

マディ・ウォーターズが歌うブルースで始まる『マンディンゴ』はリンカーン大統領による奴隷解放宣言より40年ほど遡った1820年代のアメリカ南部が舞台です。

農場を経営するマックスウェル(ジェームズ・メイソン)の白いヨーロッパ調の屋敷の前に並べられた黒人奴隷たちを吟味しながら売買するオープニングシーンは
この作品が奴隷制度の真実を扱った映画であることを宣言し、マックスウェルをはじめとした白人たちが黒人奴隷たちを家畜として品定めすることに微塵も疑問に感じていないことを突きつけてきます。

放り投げた木の枝を奴隷に取りに行かせ、その動きで俊敏さを試すくだりはまさに犬扱いです。

かつて日本でも『ルーツ』というアメリカのTVドラマが話題になりある年齢層の日本人にとっては聞き覚えのある「クンタ・キンテ」という主人公の名前は流行語と言っても過言ではないほど知れ渡りましたが

『ルーツ』の評価がいわば『裸足のげん』的な迎え入れ方をされたのに対しその前年に公開された『マンディンゴ』はヒットしたものの、批評家たちからは酷評の嵐だったようです。

それは『ルーツ』が、ある種洗練されて教訓めいているのに対し、『マンディンゴ』は目を覆うような醜い事実をただただ見せつけられ、恥部を刺激されたたことに対するアメリカ白人たちの瞬発的な拒否反応と捉えてよさそうです。

現在では、人種差別は決して許されないものとして表面上は認識されていると思いますが
『マンディンゴ』に登場する白人たちの黒人奴隷に対する振る舞いはあっけらかんとしており、黒人たちを虐待してやろうなどという憎悪すらも持たずまさに家畜やペットを飼い慣らし、愛でるようにして扱っているところが恐ろしいのです。

「マンディンゴ」とは、西アフリカはマリ帝国の血を引くマンディンカ族のことを指し、当時の白人たちにとって「マンディンゴ」は強くて美しい奴隷の血統とされ、高値で売買されていたそうです。

マックスウェルの息子ハモンド(ペリー・キング)が手に入れた「マンディンゴ」のミード(ケン・ノートン)はその腕っ節を見込まれ、白人が奴隷同士の殺し合いを見て楽しむために闘犬のごとく鍛え上げられます。

(ミードに扮するケン・ノートンはあのモハメド・アリを倒したこともある元プロボクサー!)

やがてミードは、自分を特別扱いしてくれるハモンドを慕うようになるのですが、ラストシーンでは「やっぱり、おまえも白人だ!」という言葉を最後に釜茹でにされ、ピッチフォークで突き刺されて死んでしまうのです……

リウマチを患っている農場主マックスウェルがリウマチの毒を足の裏から黒人にうつすことで完治すると信じ、ロッキングチェアに座りながらまるでオットマンのように黒人の子どもの腹に自分の足をのせている映像はおぞましくも象徴的ですが

息子のハモンドも幼少時のケガで片脚に障害を持つことからまともに動くこともできない白人が強靱な肉体を持った黒人たちを支配している理不尽な構図を強調しています。

黒人の子どもをオットマン扱いしていることにはじまり、黒人を診察する医者は獣医だったり、黒人女性はオナホールまがいの扱いで、それどころか子どもを産ませて、産まれた子どもをまた売るという鬼畜ぶり。

ベテラン奴隷(?)の黒人女性いにいたっては24人も子どもを産まされたというから恐ろしい限りです。

このような社会的な問題を提議するような作品には必ずやそこで描かれる世界観に疑問を感じて葛藤する主人公が登場し、観客をメッセージへと導くのですが

『マンディンゴ』で「かろうじて」その役割に該当するのは農場主マックスウェルの息子ハモンドです。

「かろうじて」とつけ加えたのはハモンドは黒人奴隷に対して親和的な情を持ち合わせているものの
根本的には差別に対して無自覚で、ペットに対する一方的な友情や愛情となんら変わりはないと思うからです。

この作品には奴隷の「血統書」まで登場しますから黒人をペットや家畜のように虐げたり、愛したりする登場人物たちを観ていると首輪をつけた犬や猫にわけのわからない服を着させて「かわいい〜」とか言っているペット愛好家たちを思い起こさずにはいられないのです。

黒人を動物扱いしてはいけない……
では、動物は? あいつらは動物だから構わない?

ハモンドは奴隷制度の根本的な不条理に立ち向かうわけでもなくむしろ優柔不断な寛容さを見せ、黒人の赤ちゃんを抱いて、可愛らしいと思いながら何のためらいもなく売り飛ばすこともできるのです。

また、処女信仰のようなくだらない虚栄心にも囚われています。

ハモンドの振る舞いは差別を行使する人間の無自覚さを表し、因果応報の報いを被るしかないように仕立てられています。

作中に見られる、水平軸が傾いた構図が世界観のバランスの欠如を示し、多用される鏡が、スクリーンに映し出される映像とは別にそこで行われている出来事を観客にはね返しているのではないでしょうか。

このような差別が恐ろしくも巧妙なのは

差別する側の思惑とは別に(もしくは思惑通りに)差別されている者どうしが敵対しあうような構造になっていることです。

誰しも、奴隷として扱われて気分がいいわけはありませんが
生きるために現状を甘んじて容認した者と現状をなんとか打破しようとする者の間に生じる軋轢ほど哀しいものはありません。

金銭欲、虐待、嫉妬、姦通、近親相姦……と黒人奴隷問題を訴えるだけに留まらず、人間の業を凝縮したような作品でした。

『マンディンゴ』に描かれているようなことを昔のことだと高をくくらないほうがいいかもしれません。

今でも私たちは、ありもしない下位のカテゴリーを捻出し、相対的に自分が上位にいる状況を作って悦にいるというのはよくあることです。

『マンディンゴ』に登場する白人たちほど あっけらかんと差別することはもはやないでしょうが
むしろそれだからこそ、差別は巧妙に隠されていると言えるかもしれません。
http://nohouz.blog.fc2.com/blog-entry-33.html
14:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:15:58


書評 『ぼくの村がゾウに襲われるわけ。』 岩井雪乃 著 2017年7月26日
『ぼくの村がゾウに襲われるわけ。』 著者 岩井雪乃
合同出版発行 135ページ 1400円+税
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%8C%E3%82%BE%E3%82%A6%E3%81%AB%E8%A5%B2%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%82%8F%E3%81%91-%E9%87%8E%E7%94%9F%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%A8%E5%85%B1%E5%AD%98%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%B2%A9%E4%BA%95%E9%9B%AA%E4%B9%83/dp/4772613161
 

日本ではイノシシやシカ、クマによる農作物の被害が問題になっているが、アフリカ・タンザニアの農民はゾウが大群で押し寄せ、トウモロコシ畑を根こそぎ食べ尽くす被害に苦しんでいる。原因は欧米諸国が住民を無理矢理追い出してアフリカ最大の「動物保護区」をつくったことで、保護されたアフリカゾウは急増し、「自然保護」のために先住民の生活が脅かされる本末転倒の事態になっているというのだ。20年間タンザニアに通い続けている早稲田大学准教授の著者が実情を報告している。


 タンザニアはアフリカ大陸の東部、赤道のすぐ下にあり、アフリカの最高峰のキリマンジャロがある国だ。国土は日本の2・5倍あるが、人口は5000万人ほどである。その北部にあるセレンゲティに1951年、当時タンザニアを植民地的に支配していたイギリスが「動物保護区」をつくった。そのやり方というのも、突然政府の役人が警察や軍隊を連れてやってきて、手当たり次第に家に火を付けて住民を追い出すというもの。そして四国の面積に匹敵する土地が国立公園(1日の入園料は大人7800円、子ども3850円)と猟獣保護区(200万円でゾウのハンティングができる)にされ、人が住むことはもちろん、畑を耕したり牛を放牧するなどのすべての人間の活動が禁止された。入ることが許されるのは、高額の入園料を払ったサファリ観光客(先進国の富裕層)だけだ。


 もともとこの地域は、イコマ族、マサイ族、スクマ族などの先住民が約200年の間、農耕や牧畜、狩猟をくみあわせて生活していた。主食はソルガムやトウモロコシの粉を練ってつくるウガリと呼ばれる団子で、そのための畑作に九割の住民が従事している。雨が少なく、数年に一度の干ばつを乗りきるために、草食動物のヌーやシマウマの狩猟もやってきた。狩りは男たちの仕事で誇りでもあり、男の子は家畜のウシやヤギの世話をする合間に弓矢で遊び、狩人になる訓練をした。

 1951年に国立公園ができて草原での狩りが禁止されても、周辺に追いやられた人人は生きるために狩りをやめなかった。ところが1980年頃からアメリカの自然保護団体が「アフリカゾウが絶滅の危機にある」と騒ぎはじめ、1989年にワシントン条約で象牙の輸出入が禁止されると、密猟者は警察や自然保護官に暴行されたり逮捕されるようになり、狩りをする村人はほとんどいなくなった。


 すると10年ぐらい前から、ゾウが国立公園から出てきて周辺の村に入り、収穫目前の作物を食い尽くし、踏み荒らすようになった。その回数も被害面積も年年大きくなっている。村人が狩りをしなくなったことで、野生のゾウが人間を恐れなくなったからだ。しかもゾウは怒ると人間を鼻で投げ飛ばし、とどめに足で踏みつけるので、そのために死者まで出ている。ところがゾウはこの地域では保護動物とされているため殺すことができず、バケツをたたいて大きな音を出すか、懐中電灯の光を当てて脅かすかしか手段がない。地元の人は「人間がゾウを殺すと警察が村中の人間を調べて大騒ぎになるのに、ゾウが人を殺しても罰せられないし、ニュースにもならない」と怒っている。

 歴史的に見れば、アフリカを植民地として分捕ったヨーロッパ諸国から、19世紀半ば以降白人ハンターが大挙して押し寄せ、その結果、20世紀初頭にはアフリカの野生動物は激減して、絶滅した種もあった。ところがイギリス植民地政府は「アフリカ人の狩猟は野蛮だ」「無秩序に動物を殺している」「虐殺だ」といってこれをアフリカ人のせいにし、アフリカ人の狩猟を禁止する猟獣保護法を決めた。そして1951年には国立公園にして土地まで奪ってしまった。著者はこの国立公園という自然保護制度が生まれたのはアメリカで、それはインディアンの虐殺と深く繋がっていることや、インディアンの反抗の歴史も明らかにしている。正義ぶった先進国の支配層が遠いアフリカの地で何をやっているかを現地で生活する人人の視点から明らかにし、解決の道を探っている。(浩)
https://www.chosyu-journal.jp/review/3965
15:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:49:27


醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?
空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html
16:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:52:29


「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html

アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。

この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。

「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。

元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。

ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。

以下、

『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144


からの紹介です。

****************************

■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。

ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。

彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。

いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。

彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。

ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。

そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。

西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。

このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。

■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。

彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。

神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。

建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。

ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。

宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。

ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。

アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。

第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。

今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
17:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:53:33


John Anderson - Freedom Isn't Free (Houston 02.08.14) HD - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZMTD9IVcYMc
「自由はただではない」という言葉の裏には何があるのか?
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180128T0257490900.html


ドナルド・トランプが大統領になって、アメリカの言動は荒々しさと暴力傾向を増している。しかし、アメリカはもともと「暴力的な国家」でもある。ドナルド・トランプが大統領になって、アメリカの言動は荒々しさと暴力傾向を増している。しかし、アメリカはもともと「暴力的な国家」でもある。

アメリカ大陸に白人が上陸した時、この大陸はもちろん無人の大地ではなかった。そこにはネイティブ・インディアンたちが営々と長い文化と伝統を紡いで生きてきたのだ。アメリカ大陸に白人が上陸した時、この大陸はもちろん無人の大地ではなかった。そこにはネイティブ・インディアンたちが営々と長い文化と伝統を紡いで生きてきたのだ。

それを白人たちは苛烈な暴力で奪ってアメリカを「建国」した。暴力こそがアメリカの建国史なのだ。だから、アメリカは暴力で世界に君臨する傾向が今もある。それを白人たちは苛烈な暴力で奪ってアメリカを「建国」した。暴力こそがアメリカの建国史なのだ。だから、アメリカは暴力で世界に君臨する傾向が今もある。

暴力と成功体験がリンクしている。暴力と成功体験がリンクしている。

そのため、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。アメリカは特に建国史から暴力にまみれており、暴力的な色彩が際立っている。そのため、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。アメリカは特に建国史から暴力にまみれており、暴力的な色彩が際立っている。

もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとは今のアメリカは誰も思っていない。もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとは今のアメリカは誰も思っていない。

そこで、アメリカが振る錦の御旗が「自由と正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて「悪を倒す」という名目で暴力を振るう。そして何を得るのか。「自由」である。そこで、アメリカが振る錦の御旗が「自由と正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて「悪を倒す」という名目で暴力を振るう。そして何を得るのか。「自由」である。


歴史を見ていくと、アメリカの正体が浮かび上がる

アメリカが関与した歴史の一覧がある。

(アメリカ合衆国が関与した戦争一覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%8C%E9%96%A2%E4%B8%8E%E3%81%97%E3%81%9F%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%80%E8%A6%A7


アメリカ独立戦争から始まって、チカマウガ戦争、北西インディアン戦争、シェイズの反乱、ウィスキー税反乱、擬似戦争、第一次バーバリ戦争、テカムセの戦争、テカムセの戦争、米英戦争、クリーク戦争、第二次バーバリ戦争……。アメリカ独立戦争から始まって、チカマウガ戦争、北西インディアン戦争、シェイズの反乱、ウィスキー税反乱、擬似戦争、第一次バーバリ戦争、テカムセの戦争、テカムセの戦争、米英戦争、クリーク戦争、第二次バーバリ戦争……。

そして、第1次セミノール戦争、テキサスのインディアン戦争、アリカラ戦争、エーゲ海の海賊掃討作戦、ウィネベーゴ戦争、第一次スマトラ遠征、ブラック・ホーク戦争、第2次セミノール戦争、第二次スマトラ遠征、米墨戦争、カイユース戦争、アパッチ戦争……と挙げても挙げても挙げきれない戦争が続く。そして、第1次セミノール戦争、テキサスのインディアン戦争、アリカラ戦争、エーゲ海の海賊掃討作戦、ウィネベーゴ戦争、第一次スマトラ遠征、ブラック・ホーク戦争、第2次セミノール戦争、第二次スマトラ遠征、米墨戦争、カイユース戦争、アパッチ戦争……と挙げても挙げても挙げきれない戦争が続く。

さらに第一次世界大戦以後も、ロシア内戦、Posey戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、レバノン危機、ピッグス湾事件、シンバの反乱、ドミニカ内戦、ベトナム戦争、第二次シャバ紛争、レバノン多国籍軍、グレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻、湾岸戦争、ソマリア内戦、ハイチ介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争、リビア内戦……と続いていく。さらに第一次世界大戦以後も、ロシア内戦、Posey戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、レバノン危機、ピッグス湾事件、シンバの反乱、ドミニカ内戦、ベトナム戦争、第二次シャバ紛争、レバノン多国籍軍、グレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻、湾岸戦争、ソマリア内戦、ハイチ介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争、リビア内戦……と続いていく。

ここで挙げた戦争・紛争・内乱の介入は、一瞬で勝負がついたものもあれば、何年もかかって泥沼の戦争を繰り広げたものもある。ここで挙げた戦争・紛争・内乱の介入は、一瞬で勝負がついたものもあれば、何年もかかって泥沼の戦争を繰り広げたものもある。

アメリカが建国されたのは1776年だが、それから今日までの242年で、アメリカは90%以上もの年月を戦争しながら過ごしてきたのである。アメリカが建国されたのは1776年だが、それから今日までの242年で、アメリカは90%以上もの年月を戦争しながら過ごしてきたのである。

このように歴史を見ていくと、アメリカという国の「正体」が鮮明に浮かび上がってくるはずだ。アメリカがもともと「暴力的な国家」であるというのは、そういう意味だ。このように歴史を見ていくと、アメリカという国の「正体」が鮮明に浮かび上がってくるはずだ。アメリカがもともと「暴力的な国家」であるというのは、そういう意味だ。

しかし、この暴力性をアメリカ人は正当化できている。これらの戦争はすべて「正義と自由のために必要だった」というものである。しかし、この暴力性をアメリカ人は正当化できている。これらの戦争はすべて「正義と自由のために必要だった」というものである。

「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ。だから、暴力で悪い指導者を倒すアメリカは正義の味方なのだ」「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ。だから、暴力で悪い指導者を倒すアメリカは正義の味方なのだ」

これが戦争に邁進するアメリカ人の論理だ。これが戦争に邁進するアメリカ人の論理だ。

リビアに君臨していたカダフィ大佐。「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ」という論理で、葬り去られた。


「自由はただではない。これまでも、これからも」

「自由は尊い。しかし、自由はただではない。それは血と暴力で勝ち取らなければならない」とアメリカ人は考える。尊い自由は、暴力で勝ち取らなければならないのだ。「自由は尊い。しかし、自由はただではない。それは血と暴力で勝ち取らなければならない」とアメリカ人は考える。尊い自由は、暴力で勝ち取らなければならないのだ。

アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。

米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」と米軍が言うと、「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」とCIAは説く。米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」と米軍が言うと、「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」とCIAは説く。

アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。

ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。

ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。

これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を輩出して、アメリカの国防を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を輩出して、アメリカの国防を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。

雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。暴力の正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。暴力の正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。

フロリダ州出身のアメリカのカントリー歌手ジョン・D・アンダーソンは、このように歌う。フロリダ州出身のアメリカのカントリー歌手ジョン・D・アンダーソンは、このように歌う。


俺は祖国アメリカに誇りを持っている。自由の大地と勇者の家だ。それは完璧じゃないさ。だけど俺はいつもそれを取る。しかし、いつまでホーク(軍用ヘリ)は飛ぶんだ。それに、どれだけの母が泣くのか。たくさんの息子や娘が死んでしまった。それが、俺たちの辿ってきた道だった。自由はただではない。これまでも、そしてこれからも。しかし、それは払い続ける価値がある。自由はただではない。そのようにあんたや俺に伝えられてきた。ずっとそうなんだ。自由はただではない。自由はただではない。俺は祖国アメリカに誇りを持っている。自由の大地と勇者の家だ。それは完璧じゃないさ。だけど俺はいつもそれを取る。しかし、いつまでホーク(軍用ヘリ)は飛ぶんだ。それに、どれだけの母が泣くのか。たくさんの息子や娘が死んでしまった。それが、俺たちの辿ってきた道だった。自由はただではない。これまでも、そしてこれからも。しかし、それは払い続ける価値がある。自由はただではない。そのようにあんたや俺に伝えられてきた。ずっとそうなんだ。自由はただではない。自由はただではない。


「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていく

アメリカは自分たちの暴力を「正義と自由のためである」と正当化する。そして、国民に「相手を倒すのが正義と自由のためである」というコンセンサスが立った時、容赦ない軍事作戦に踏み出していく。アメリカは自分たちの暴力を「正義と自由のためである」と正当化する。そして、国民に「相手を倒すのが正義と自由のためである」というコンセンサスが立った時、容赦ない軍事作戦に踏み出していく。

ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。

湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」された。湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」された。

カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。カダフィが死んだ時、時の国務長官だったヒラリー・クリントンは、満面の笑顔を浮かべて喜んでこのように言った。カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。カダフィが死んだ時、時の国務長官だったヒラリー・クリントンは、満面の笑顔を浮かべて喜んでこのように言った。

「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」

このヒラリー・クリントンの満面の笑みは、実はアメリカ人の多くが共有したものであった。このヒラリー・クリントンの満面の笑みは、実はアメリカ人の多くが共有したものであった。

どういうことか。それは「カダフィ大佐という国民に暴政を振るう独裁者が殺されることによって、リビア国民は自由になった」という暗黙知がアメリカ人にあったのである。どういうことか。それは「カダフィ大佐という国民に暴政を振るう独裁者が殺されることによって、リビア国民は自由になった」という暗黙知がアメリカ人にあったのである。

カダフィ大佐の死は、アメリカ式の「正義と自由が達成された」ことの象徴であり、だからカダフィ大佐の死にヒラリー・クリントンは満面の笑みを浮かべたのである。カダフィ大佐の死は、アメリカ式の「正義と自由が達成された」ことの象徴であり、だからカダフィ大佐の死にヒラリー・クリントンは満面の笑みを浮かべたのである。

自由はただではない。自由を手に入れるには戦って勝ち取らなければならず、そのためには多くの血が流れる。しかし、その血と暴力は「払う価値がある」とアメリカ人は考えている。自由はただではない。自由を手に入れるには戦って勝ち取らなければならず、そのためには多くの血が流れる。しかし、その血と暴力は「払う価値がある」とアメリカ人は考えている。

「自由はただではない。これまでも、そしてこれからも」とジョン・D・アンダーソンはメッセージを歌っている。「自由はこれからもただではない」と言っているのだ。「自由はただではない。これまでも、そしてこれからも」とジョン・D・アンダーソンはメッセージを歌っている。「自由はこれからもただではない」と言っているのだ。

つまり、アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしているということだ。つまり、アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしているということだ。

こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。アメリカの歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがない。どういうことなのか。端的に言えばこうだ。こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。アメリカの歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがない。どういうことなのか。端的に言えばこうだ。

「アメリカは、再び戦争をする」「アメリカは、再び戦争をする」

アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしている。こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180128T0257490900.html
18:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:54:07



『アメリカの汚名』 リチャード・リーヴス著 園部哲・訳
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%B1%9A%E5%90%8D-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80-%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%B9/dp/4560095833
書評・テレビ評2018年2月1日

 1941年12月7日の真珠湾攻撃を「恥辱の日」といい、「パールハーバーを忘れるな」といって対日戦争突入を指示した大統領F・ルーズベルトが、その10週間後に大統領令を出して、12万人以上の日系アメリカ人を強制収容所に送り込み、この収容所で育った若い世代を米軍の肉弾として最前線に送っていた。この事実は、その後為政者が隠し、送り込まれた本人も口を閉ざしてきたために長い間闇に葬られてきたが、その全貌が本書で明らかにされている。本書は、トランプ大統領のムスリムやヒスパニックの移民敵視に、ジャーナリストの著者が、「日系人がアメリカ人の仕事を奪っている」とトランプと同じことをいってルーズベルトがやったことを後世に伝え、教訓にしようと、多くの家族の実例を挙げながらまとめたものである。

「テロリスト」と世論を煽り 家財奪い収容所へ

 真珠湾攻撃は、日本にハワイを攻撃させて米国民の怒りを煽り、軍事力にものをいわせて反撃に転じ日本を占領するという、アメリカ中枢の長期戦略にもとづいたものだった。本書を読むと、日系人に対する排外主義は、真珠湾攻撃の何年も前から意図的に組織されていたことがわかる。

 真珠湾の4カ月前、8月1日付『ワシントン・ポスト』は、日系漁民の9割は海軍士官であり、日系農民は油井の破壊活動を狙っており、日系の料理人や給仕、洗濯屋は主要公共施設や橋、トンネルの破壊活動をおこなうテロリストだと、虚偽の報道をおこなっている。この時期、ロサンゼルスの日本人居住区リトルトーキョーは襲撃され、日系人の子どもは登校時に「ちびジャップ」とののしられていた。

 そして日本軍が真珠湾を攻撃すると、ルーズベルトが1942年2月19日に大統領令を出し、これを受けて陸軍長官スティムソンが西海岸一帯を防衛のための軍事地域に指定。そこに住む日系人を強制退去させ、10カ所の強制収容所に送り込み始めた。

 本書には、日系人が1、2個のスーツケース以外の家屋や農場や漁船や一切の家財道具をとりあげられ、銀行口座も差し押さえられて、銃剣を突きつけた兵士に監視されつつ呆然とした表情で収容所に送られていった様子を伝えている。米国籍を有しており、何の嫌疑もない日系人から、ある日突然、生涯かけて築き上げた財産を奪い、強制収容所に押し込めることは、明らかに米国憲法で保障された公民権の違反であるが、それが白昼堂堂と実行されたのである。しかし米国のメディアは、この移動がまるで「自主的なもの」で、田舎にピクニックに行くような調子で報道した。

「救う」と称し米軍の肉弾に

 こうして12万人の日系アメリカ人が、カリフォルニアからアーカンソーまでの10カ所の強制収容所に抑留された。

 本書ではカリフォルニア州マンザナー収容所の様子が記されている。収容所には36区画・504棟に分かれた馬小屋のような宿舎が並び、それを有刺鉄線を張り巡らせたフェンスと、日系人に銃口を向ける機関銃とサーチライトを備えた監視塔が囲んでいた。そのなかで子どもや赤ん坊を含む約1万人の日系人が生活した。各棟に一つしかない水道管は凍り付いており、大人も子どもも藁(わら)の上で洋服のまま眠り、朝目覚めると、ドアの隙間から吹き込む砂埃まみれになってブルブル震えていたという。

 またサクラメントの収容所に収容された当時17歳の女性は、トイレの仕切りがなく、トイレといっても地面に1枚の長い板を置き、30㌢おきに穴があいているものだったこと、深夜の暗がりにまぎれてそこで用を足そうとすると、米兵がサーチライトで照らしてさらしものにしたことを告発している。

 そのほか北ポートランドの収容所では、牛や豚、羊用にもうけられた小屋のなかで3000人の日系人が暮らしていた。アーカンソー州マッギーの収容所は入り口の階段が淀みに浸かったままで、そこに巣くっている蚊の群れはすさまじく、おまけに管理当局は病人のためのキニーネをいつも切らしていた。日系人は家畜並に扱われる屈辱を強いられたのである。

 砂漠の灼熱や厳寒のなかで消耗して自殺する人や、監視役の兵士に面白半分に射殺される人も出た。一方、その扱いに我慢できず、米国人警官を集団で取り囲んで叩きのめしたり暴動を起こした収容所もあったという。

 ところが太平洋戦争が激化する1943年1月になると、スティムソンは「国家挙げての戦争時に武器を持つことは、その出自を問わず、全国民に固有の権利である」と新聞発表した。日系移民でも軍隊に入り戦場に行けば、国籍も土地も与えるというのだ。陸軍が主催した「自発的入隊制説明会」で日系人が「戦争後、国籍が剥奪されたり所有地が没収されたりしないか?」と聞くと、陸軍幹部は「それは憲法で保障されている」という。「それなら、そもそも僕たちは収容所に入らなくていいはずだ」と問うと、「だからこうして助けの手をさしのべているのだ」という。実際には1人の人間として認めたわけではなく、命令を受ければどんな危険な地域でも戦闘任務に就くという宣誓書にイエスと答えねばならなかった。

戦後も朝鮮戦争の最前線に

 本書を通じて見逃せないのは、アメリカの為政者たちが日本人を黄色人種として蔑視しきっていることだ。ルーズベルト自身が「日本人が狡猾で不誠実なのは、白人よりも2000年遅れた発達段階にある頭蓋骨のせいだ」と公言しているし、当時、オクラホマの州議会議員はすべての日系人に不妊手術を施すことまで提案している。

 収容所をつくるために西部10州の知事が集まった場では、「カリフォルニアのゴミ捨て場になることを我慢できない」「私の州に日本人を連れてきたら、全員木からぶら下げてやる」と抗議した知事もおり、「ジャップはネズミみたいに繁殖し、挙動もまるでネズミだ。戦争が終わるまでは強制収容所に入れておかねばならない」といった者もいる。そんな彼らが、同じ時期にユダヤ人を強制収容所に送ったヒトラーを批判していたのだった。

 この日系移民は、「公民権と職を与える」といって戦後の朝鮮戦争にも動員され、「グック(土人)」と呼ばれながら最前線に立たされたことも、研究者が明らかにしている。そして日本の植民地状態は今日まで続いており、安保法制によって日本の青年が米軍の身代わりとなって最前線に駆り出されるところまできた。日系人の強制収容所送りは過去の問題ではない。
https://www.chosyu-journal.jp/review/6946
19:777 :

2022/06/05 (Sun) 17:56:55


欧米的「理性」からの脱却
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-92a8.html


〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉
Paul_gauguin


ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。

明治維新以降、日本政府はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を目標として、富国強兵に務めた。幕末期にペリーの黒船や、英仏軍の大砲の威力を目の当たりにし、「このままでは日本は植民地になってしまう!」という危機感がそこにはあった。西洋をお手本とした近代化は急務であった。

第二次世界大戦で焼夷弾による(東京・大阪などへの)大空襲や原爆投下で日本は焦土と化し、惨憺たる敗戦後に我が国が最大の指標=目指すべきGoalと見做したのはアメリカ合衆国である。それはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領政策の成果でもあった。ハリウッド映画や、1950年代から開始されたテレビ放送の中で見る、アメリカ中流家庭の豊かさは日本人の憧れとなった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫という電化製品は「三種の神器」と呼ばれ、我々の親世代はがむしゃらに働いた。その結果、昭和40年代(1965年以降)の日本人は"economic animal"と揶揄された。

そして21世紀となり、いつの間にか日本人はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を追い抜かし、豊かな国に暮らしていた。最早規範とすべき国はなく、欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明を盲目的に賛美し、追従する時代はとうの昔に終わった。我々は今後、独自の道を模索していかなければならない。

欧米諸国の人々の多くはキリスト教徒である。アメリカ合衆国では国民の78.4%がクリスチャンであり、うち51.3%をプロテスタント、23.9%をカトリック教徒が占めている(2008年ピュー・フォーラムによる調査)。


実際、アメリカ人は教会によく行く。総人口の四割、一億人以上が毎週あるいは定期的に、おのおのの教会に礼拝に行くという国は、先進工業国ではほかにはない。
      (ハロラン芙美子 著「アメリカ精神の源」より)

アメリカでは2009年に正教会、カトリック教会、そしてプロテスタントの福音派指導者が合同で「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶や同性愛という「罪」を容認する法制度に対して、異議を唱えた。1920年代にはテネシー、オクラホマ、フロリダ、ミシシッピー、アーカンソーの各州において、公立学校でダーウィンの進化論を教えてはならないという州法が存在した(進化論は旧約聖書の記述に合致しないので)。なおケネディはカトリック教徒であり、ジョージ・W・ブッシュを支持したのは反中絶・反同性愛を叫ぶキリスト教原理主義(Christian fundamentalism)の人々であった。つまりアメリカ合衆国は宗教国家であることを見逃してはならない。

ユダヤ教やキリスト教にはアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある。それは旧約聖書の「創世記」にはっきりと書かれている。神は最初の男アダムを神に似せて創造した。そして最初の女イヴはアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿なのである。だからすべての動・植物の中で人間は一番偉く、自然を自由にコントロールしたり、生殺与奪の権利を持っていると彼らは考える。地球上に於いて人は神に最も近い存在であり、万物のリーダーとしての重責を担っているというわけだ。

欧米人と日本人との思考の違いは「庭」のあり方に典型的に現れている。野趣あふれる日本庭園は野山(自然)の中に在り、自然と一体化しようと欲する。一方、初期イギリス式庭園やフランス式庭園、イタリア式庭園は幾何学模様や生け垣による迷路など人工的産物であり、自然を型にはめ、人の意思で徹底的に管理しようとする。アメリカ合衆国郊外の建売住宅地に見られる広い芝生の庭も然り(その起源は英国貴族の庭園にある)。

旧ソビエト連邦の社会主義リアリズムとは人類の進歩と発展を信じると同時に、人間の理性の普遍性を信じる芸術(美術・音楽・文学)だった。人類は進歩の結果、やがて理想の共産主義を建設するのであり、共産主義が最高の発展段階である以上、それを設計した人間の理性もまた最高のものでなければならない、というわけである。共産主義は唯物論だ。唯物論とは宇宙の根本は物質であり、「神はいない」という思想である。だから社会主義リアリズムの最終目標は人類(共産党員)=神になればいい、ということになる。ここにキリスト教思想の残滓がある。余談だが唯物論の根本的誤りはエネルギーを無視していること。世界は確固たる物質で構成されているのではなく、突き詰めれば全てはエネルギーであるというのが量子力学の考え方だ。

欧米の白人は有色人種に対して差別意識を持っている。これは衆目の一致するところだろう。しかし彼らの

①アフリカ大陸の黒人や南北アメリカ先住民、オーストリア先住民(アボリジニ)に対する扱いと、

②インド人やアジア人に対する扱い

に明らかな違いがあることにお気づきだろうか?

①アフリカの黒人たちは奴隷としてアメリカ大陸に売り飛ばされた。南北アメリカの先住民やアボリジニたちは無慈悲に大量虐殺され、「居住区」という名の不毛の地に強制的に移住させられた。そして豊穣で住心地の良い場所は白人が独占した。一方、

②インド人が奴隷売買の対象になることはなかったし、居住地に関してアジア人が南北アメリカ先住民のような扱いを受けることもなかった。一体全体この差異は何なのか?

アフリカの民族、南北アメリカ先住民、アボリジニに共通する特徴は無文字社会であるということだ。だから欧米人は彼らのことを「未開 primitive」と見做した。未開人は知能が獣レベルであり、家畜同様に扱ってもいいという発想が根本にある。文字による記録=歴史がないが故に、アフリカは「暗黒大陸」と嘲笑された。だからアラビア語を使用するアラビア半島や北アフリカの人々は、中〜南部アフリカの無文字社会の人々よりは遥かにマシな扱いを受けた。彼らの肌が白いということとも無関係ではないだろう。つまり欧米人は肌の色と、文字を持つかどうかという2つの観点から他文明を差別(階層)化していたのである。彼らがいくら屠殺しても構わないと考える牛や豚と、「知性があるから捕鯨を絶対認めない」と主張するクジラやイルカの扱いに差を設けるのも、同じ理屈である。

19世紀末のオーストラリアではスポーツハンティングという名の虐殺が日常のように行われていた。詩人メアリー・ギルモアは幼少期の思い出を「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙(1938年3月4日)に次のように書いている。


水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んでいるのも見た。

そもそもオーストラリア政府はアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは1973年の憲法改正以降であった。現在、アボリジニの人口はイギリス人の入植前と比較し、10分の1以下に減少した。またタスマニア島にいた3万7千人の原住民は根絶やしにされた(Black War)。これが白豪主義の実態である。

しかし1962年人類学者レヴィ=ストロースにより、無文字社会も高度に知的で豊かな文化を育んでいたことが立証された。

•レヴィ=ストロース「野生の思考」と神話の構造分析 2018.03.24
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-af4b.html


欧米人は何よりも理性を重要視する。古代ギリシャのプラトン哲学が典型的だが、イデアこそ最高のものだと彼らは考える。我々の肉眼で見えるものではなく、「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に至ることが人類の最終目標なのだ。つまりイデア=真理であり、キリスト教がヨーロッパに広まるにつれ、それは神の国(天国)と言い換えられるようになった。

17世紀の数学者デカルトは、心と体は明確に分離したものだと主張した。西洋科学は20世紀半ばまで、この心身分離モデルを疑うことなく用いてきた。彼らは肉体を軽視し、意識 consciousnessや自我 egoの自制心 self controlを重んじた。ここから派生してきたのが徹底的な個人主義 individualismである。

肉体・欲望の軽視はキリスト教の禁欲主義に如実に現れている。聖職者が神に近づくためには性欲は禁忌とされ、信徒が夫婦生活の営みとして性交する場合も、快感を求めてはいけないとされた。19世紀ヴィクトリア朝時代の英国紳士はマスターベーション(自慰)がタブーであり、自慰によってオルガスムが得られることを覚えた女子は医学的に問題のある子と見做され、陰核(クリトリス)を切り取られたり焼灼されたりといった「治療」が施された。そして1976年にカトリック教会は自慰行為を「重大な道徳的退廃」とした。つまり彼らが目指しているのは肉体を否定し、精神世界=理性でのみ生きることなのだ(極端な例が鞭身派・去勢派)。その背景に、アダムがエデンの園に生えた知恵の木から実=リンゴをもぎ取って、食べてしまった(欲望に抗えなかった)という原罪がある。

こうしたキリスト教の迷妄に対して、最初に異を唱えたのはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェだろう(19世紀末)。彼は「神は死んだ」と宣言し、「からだが大事」と説いた。これは精神至上主義から離脱し、身体性・皮膚感覚をもっと大切にしようという姿勢であり、欲望の肯定であった。

ニーチェの思想を継承したのがジークムント・フロイトとカール・グスタフ・ユングである(20世紀初頭)。フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの真の目的はキリスト教(禁欲)の否定と性欲の肯定にあった。ユングの〈意識 consciousness+無意識 unconsciousness=自己 self 〉という考え方も、理性だけに目を向けるのではなく、身体性を取り戻すという意図がある。深層心理学の誕生である。そして20世紀中頃に、この身体性・皮膚感覚はレヴィ=ストロースにより「野生の思考」と名付けられた。

従来より八百万の神を信じるアニミズムが浸透し、「野生の思考」を持つ日本人はブリコラージュが得意である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。クリスマスや聖バレンタイン(←ローマ帝国の迫害で殉教した聖職者)デーを祝い、七五三や正月にはお宮参りをし、葬式は仏式といった宗教的出鱈目さや、中国伝来の漢字と日本特有の平仮名を組み合わせた複雑な言語体系など、ブリコラージュの典型例であろう。

父性原理で何でもかんでも切断・分離し、精製する(純度を高める:その度を越した姿がナチス・ドイツのアーリア人種純血主義)ことを得意とした欧米の手法が行き詰まり、音を立てて瓦解している今こそ、理性と身体(からだ)や、意識と無意識の統合、すべてを包み込む母性原理=野生の思考が求められている。そう、僕は確信する。


アドルフ・ヒトラー「わが闘争」
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-2a68.html

http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-92a8.html
20:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:00:09



アメリカ人の原爆観
 
 フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。
もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html


トルーマンは自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。

そして、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog099.html

広島・長崎への原爆 米で「実験」と記載

【ラスベガス(米ネバダ州)4日=杉本宏】ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、太平洋戦争末期に実施された広島、長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。

この刊行物は同事務所が毎年、編集・発行しており、昨年5月に出された第12版が最新のもの。米国が1945年7月から91年12月までの間、同実験場などで実施した843回の核実験(英国との共同実験も含む)について、103ページにわたり実施時期、場所、爆弾の威力などを記載している。

この中で、米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。


原爆の対日使用は「人体実験」だった。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。

だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。私たちは焼け跡の草を
むしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありません
でした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html


ビキニ核実験も広島・長崎の人体実験の続きだった:


 ①米側は、気象変化について気象学者らの警告を事前に受けながら無視し、実験を強行した。

 ②死の灰が出ることが予測されていたうえ、過去の実験から居住地域に向かうことがわかっていた。

 ③ロンゲラツプなど風下の4環礁の住民に対し、意図的に事前警告をせず、避難措置もとらなかった。

 ④米兵は34時間以内に救出されたのに、住民の救出には最大4日かかった。同程度被ばくしたアイルツク環礁には避難措置はなく汚染した水や食料でさらに被ばくした。

 ⑤汚染の残るロンゲラツプ環礁に対する安全宣言を出して避難した住民を帰還させ、人体への放射能の長期的影響を調べた。

 ⑥全島が被ばくしたにもかかわらず、人体研究の対象となった環礁以外では、医療援助や総合的な検診がない―などだ。

マーシャル住民らに実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、これまで 「医療ケア」プログラムとして知られていた。同研究の存在が明るみに出たことで、「ケア」の裏側で「放射能が人体に長期的に及ぼす影響」についての徹底的なデータ収集を進めていたことが判明した。現在も研究はエネルギー省の手で続けられており、特定の被ばく者集団を対象に40年以上にわたって追跡調査されたデータは、原爆傷害調査委員会(ABCC、放射線影響研究所の前身)が集めた広島、長崎の被爆者データとともに同省健康研究室で一括して管理されている。

 セリグマン同省次官補代理(同室長)は、一連の資料を「完全なデータセツト」と呼び、放射能の人体への影響を調べるうえでの基本資料であることを隠さない。マーシャル側が「モルモット扱いだ」と批判してきたのも調査目的の「二面性」とかかわる。

 これまでの調査から、「医療ケア」では説明できない事例も判明している。赤血球の追跡調査目的で、放射性クロムを注射した事例と、主として被ばく直後に放射性物質の除去のために使われるエチレンジアミン四酢酸(EDTA)という物質を被ばくから七週間たってから投与した例だ。

 米軍による一連の「放射能人体実験」について調査した米大統領諮問委員会は95年、「全体が人体実験だったとはいえない」としながらも、二例は患者の治療目的を逸脱した研究だったと結論づけた。
 こうした事例について、米政府は当時、マーシャル住民への説明や同意を得ずに実施したうえ、現在も「担当医師のプライバシー」などを理由に、対象にした住民らの氏名公表に応じていない。

マーシャル側は、独自調査で少なくとも20人以上が放射性物質を注射されたことを突き止め、うち生存者5人も特定した。ロンゲラツプ環礁の議員ナビ・クンさんの母アトミネさん(58)もその一人で、乳がんや脳しゅように苦しんでいる。クン議員は、「本人への情報開示がないため、『実験』との因果関係を調べることが難しい」と話す。

これに対し、研究にかかわった医師らは現在でも「ケアのために必要な措置だった」と強弁する。エネルギー省当局者はマーシャル側に「注射は、X線検査のようなもので害はない」と説明したという。

放射能実験にかかわる人権問題に詳しい米国人弁護士クーパー・ブラウン氏によると、米側が実施した被ばく者の甲状せん摘出手術についても、「摘出する必要がないのに、放射能以外の原因のがんや肥大との比較研究のために摘出された疑いがある」という。

ブラウン氏は同時に、当時の米原子力委について、

「(マーシャル住民は)文明化されていないがネズミよりは我々に近いと公言する幹部もいた」

と述べ、人体実験の対象になったアラスカ先住民らと同様、「人種差別的」な要素が合まれていた疑いを提起する。
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/bikininews.html


米国防総省 広島、長崎の原爆被爆者データ 核戦争研究に利用
ABCC収集解禁文書で「モルモット説」裏付け

【ワシントン30日共同】米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的の研究にも利用していた事実がこのほど、同省や全米科学アカデミーなどの解禁文書で確認された。

国防総省は、核使用の際の医療対策に収集データが役立つと期待。広島、長崎のデータとビキニ環礁での原水爆実験の資料を比較し、爆心周辺で放射線から身を守るには服装をどうするか、などといった分野も研究していた。
ABCC設立当初から被爆者が抱いていた「モルモット扱いしているのでは」という疑いを裏付けるものだ。

また日本で「ABCCの研究は非人道的」との非難が強まることを恐れた米側が、病理標本やデータを重要機密資料として、その保護に極度に配慮していたことを示す文書も見つかった。

1946年11月26日、トルーマン大統領は「原爆が人間に与える長期的影響の研究を継続すべきだ」との陸、海両軍医務総監の勧告を承認。これを受けて全米科学アカデミー研究評議会に原爆傷害委員会(CAC)が設置され、現場機関として広島、長崎にABCCが発足した。

CAC議事録によると、47年3月のCAC第1回会議で海軍の代表が「防御的措置」と「攻撃的措置」の両面で被爆者データを利用することを提案した。またパターソン陸軍長官は同月、ジュエット科学アカデミー総裁に送った書簡で被爆者研究の「軍事的重要性」を強調し、極東司令部による協力を約束した。

翌48年6月に「特殊兵器プロジェクト」(国防総省国防核兵器局の前身)のハズブルック参謀長がまとめたメモは、被爆者データは「放射能戦争研究に非常に重要」だとして、核攻撃の際の死傷者数や負傷者の治療などに関する情報への利用に期待を表明した。

ABCCで収集されたデータや生検、解剖標本はこうして同プロジェクトや陸軍病理研究所で保管され、47-49年にまとめられた核戦争防護の各種研究に生かされた。
同プロジェクトのワイナント放射線防衛局長の論文は広島、長崎より良い防護施設がなければ「米国の大都市では10万人以上の死傷者が出る」と核シェルターの重要性を強調。ホートン同局医療部長の論文は、広島の被爆者の生殖能力や遺伝的影響などのデータを引用した。

さらにクーニー原子力委員会軍事応用局放射部長の論文は、広島、長崎でのデータとビキニ実験との比較から身体器官への影響を分析。「爆心から1.5キロ離れた地点なら軍服、シャツの着用でも防護になる」などと指摘した。
今さら驚かないが…

近藤幸四郎・広島県被団協事務局次長の話 中学生の時、先生に(調査のためABCCへ)行ってくれんか、と言われた。アメリカにはとても協力する気になれず断った。モルモット扱いは、我々は前々から言っていて今さら驚かない。50年たって、ようやく証明されたかという感慨が強い。

<ABCC> 原爆放射線の長期的な医学影響調査を主な任務として1946年11月、トルーマン大統領が設立を指示した。47年から広島、長崎で調査を開始、予算は米国原子力委員会などから出された。日本からは国立予防衛生研究所が参加。約12万人を対象に寿命(死亡)調査、成人健康調査、病理学的(解剖)調査、遺伝的調査などを実施した。(共同)(毎日新聞 1995/07/30)

核戦略用に設置? 米の研究所、治療はせず

米国は47年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立。広島、長崎に研究所をつくり、原爆が人体に与えた影響を調べ始めた。75年からは、米国エネルギー省と日本の厚生省が費用を折半する財団法人の放影研が調査を引き継いでいる。
87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授に尋ねた。

──ABCCの研究は軍事目的だったのですか。

「研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった」

──ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。

「治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ」
ABCCは、多い時は1000人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて1人ひとりにインタビューし、亡くなった7500人を解剖した。

現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆2世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。

被爆者をモルモット扱いしたと言われるABCCの姿勢は、放影研にも引き継がれてはいないだろうか。

占領史研究者、笹本征男さん(54)は、今年末に発行される「通史日本の科学技術〈国際期〉I・II」(学陽書房)の中で、ABCCの研究を引き継ぐ放影研の設立目的にも不明確さが残る、と指摘している。

財団法人の目的には「被爆者の健康保持及び福祉に貢献する」ことをうたっている。一方、両国政府が74年に交わした公式の外交文書では、目的は「放射線が人に及ぼす影響の調査研究活動」とされ、「被爆者のため」という文言はどこにもないのだ。


■年20億円の投入

6月末に訪れたワシントン郊外のエネルギー省で、「シーダ」という名前のデータベースを見た。

ハンフォード、ロスアラモス、オークリッジといった核兵器製造現場で働いた人たちの健康状況を1人ひとり追跡するデータベースだ。その中に「JALSSA01」というファイルがあった。

ABCC、放影研が集めた被爆者7万5991人の被ばく線量、性別、死因などの関連がオンラインで分析できる。利用するにはエネルギー省の許可が必要だという。

被爆者のデータは、実は原爆をつくり、落とした国の、核兵器をつくる省に管理されていた。

同省のセリグマン次官補代代理は「放射線の人体への影響を知るには、日本の被爆者の研究が最も基本となる」と話す。被爆者のデータは、核兵器、原子力関係の労働者から得られたデータと違い、一挙に放射線を浴びせられた子供から老人までの男女多数が、長期にわたって追跡されているからだ。

米国が今も年間約20億円を広島・長崎の研究に投じ、威力の見直しなども進めているのは、データの重要性が極めて大きいからと思えば納得できる。原子力発電、X線などの医療分野、そして核兵器工場でも、放射線をどれだけ浴びると有害かという基準づくりに、被爆者を追跡したデータは必要不可欠となっている。


被爆者治療せず 50年代の米公文書

原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。

原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。

朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。

ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。

50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。
今回閲覧したうち、パーソンズ駐日公使が国務省北東アジア部にあてた文書(54年2月)には、治療しない理由について「ABCCには日本での医療資格がない」ことなどを列挙。さらに重要なこととして「(治療すれば)被爆者に特別な意味があり、他の兵器の被害者とは異なるという見方を支持することになる」と説明した。「原爆投下への謝罪と解釈されかねない」とも指摘した。

また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。

こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06)

http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html


●「マンハッタン計画」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。

「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である。」

「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。

そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である。」

「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。

このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。」

「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである。」

「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ。」

「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである。」

「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの“放射能の安全論”であった。ここで数々の生体実験を行なってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。 〈後略〉」

「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。

『1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。

原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』『GM』 『フォード社』 『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。

この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。

『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。
ジェイムズ・アレンが『原爆崇拝のかげで景気のいい一つの商売がおこなわれている。それは、国家の権威をまとい、えせ愛国主義の霊気に包まれているが、いうなれば“ボロもうけの商売”である。しかも、この事業の目的たるや、大量殺人でしかない』と慨歎しているのも当然である。」


■■冷戦で肥大化していった「軍産複合体(MIC)」

●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。

●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。

●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。

ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
  
●そして第二次世界大戦が終結すると、今度はソ連を相手にした兵器近代化競争に打ち勝つため、アメリカ政府は膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を結集して新しい武器の開発を求めてきた。

そこで得た研究成果は、「ダウケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。

●この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、更に同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。

このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした“中央集権的組織”となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。 
 
●軍産複合体は年々肥大化し、ペンタゴンから発せられる莫大な「軍需注文」は、2万2000社もある「プライム・コントラクター(ペンタゴンと直接契約する会社)」と呼ばれる巨大な航空機メーカーやエレクトロニクス企業に一括して流されている。

更に、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。

●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。

例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。

●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。

プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。


●「軍産複合体」がアメリカ経済に対し、依然として強い影響力を持っていることに関し、国防産業協会の会長J・M・ライル元提督は以下のように言っている。

「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的に、それを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである。」

●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。

「アメリカが必要としているのは、永久的な“戦争経済”である。」

●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。

「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる“ビッグ5(国連常任理事国)”の兵器産業である。」
「ベトナム戦争ひとつを振り返ってみても、本当の“死の商人”が誰であったか一目瞭然だろう。まず、フランスが膨大な兵器を流し込み、その後をアメリカが引き継いだ。もちろん、そうなるとソ連も放っておけないから、北ベトナムやベトコンにどんどん新兵器を与え、やがては中国も介入していった。そうやって戦争がエスカレートして行きさえすれば、それぞれの国の兵器産業を中心とした軍産複合体もまたどんどん肥え太っていくわけだ。」





▲△▽▼
1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976


ここに1971年7月、米国キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領特別補佐官が中国周恩来と交わした秘密会談の内容がある。2002年7月公開された外交文書である。40年近くも以前から米国と中国は裏で繋がっていたことは周知の事実ではあるが、今の日本の立場を見極める意味からも大変重要である。

二人の秘密会談の内容の1/4は日本に関することであったという。当時より経済大成長した日本に対し、米中とも非常に警戒心をもっていた。

 米中の日本に対する見方は今も昔も同じである。この事を踏まえて、対米、対中外交方針を決定しないと、何時まで経っても日本は米中の「お財布さん」でしかない。また、両国が一番恐れているのは日本の再軍備であり、日本の核保有である。相手の嫌がることをし、カードとするのが外交の基本である。日本のある首相は、「相手の嫌がることはしない」で通したが・・・。

 北朝鮮の核保有を米中が嫌がるのは、これを認めると日本の核武装化を止められないからで、6ヵ国協議と称して北朝鮮をなだめるのに必死のふりであるが、真の目的は日本の核保有を阻止する為に他ならない。

 以下の会談の一部を見ると、この流れがここ40年間、めんめんと流れていることがよく理解できる。いつまでも米国に頼っていると大変なことになることを、我々は自覚しなければならない。

(「敵国になり得る国米国」青木直人著より)


日本人観

周恩来 「ものの見方が狭く、とても変わっている。島国の国民だ。」

キッシンジャー「中国は伝統的に普遍的な視野があるが、日本は部族的な視野しかない。日本人はほかの国民がどう感じるかに何の感受性もない。日本には何の幻想ももっていない。」


日本経済

周恩来 日本は第2次大戦の賠償も払わず、戦争から利益を得た。経済拡大は軍事拡大につながる。米国は日本を今の状態に太らせた。」

キッシンジャー「日本を経済的に発展させたことをいまでは後悔している。」


日本の防衛政策

周恩来 「日本は過去二十五年あまり、防衛に必要以上の金を使ってきた。いまや羽が生え、飛び立とうとしている。一度日本が軍事拡大に走れば、どこまでいくかわからない。」

キッシンジャー「日本が米軍撤退を希望すればいつでも出てゆく。日本が自主防衛すれば周辺の国にとって危険だ。米国が日本のために核兵器を使う可能性は実際には小さい。米軍が撤退すれば、日本は平和利用計画で得た充分なプルトニウムで核兵器を作ることが出来る。日本が大規模な再軍備に走るような事態になれば、伝統的な米中関係が再びものをいう。米国は日本の拡張を抑えるために、他国と協調できることをする。日本について我々は同じ方向の利害を持っている。」
http://isukeya.iza.ne.jp/blog/entry/977743/


そして米中が組んでやった事は:

中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。

アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。

この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?

それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm


米中同盟

中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。

アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。

この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?

それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm


1995年 オーストラリアを訪問した李鵬は、豪首相との首脳会談中に、 「 日本など20年も経てば地球上から消えてなくなる 」と発言
李鵬の発言はまるでオカルトのようにも聞こえるが、平成9年当時の国会でも取り上げられた発言である。

武藤国務大臣

「そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。

実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、

君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。

非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。」
http://hanzibakuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/20-ea32.html
21:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:01:32


アメリカが中南米を支配する方法

CIAがリリースした1950年代から1970年代にかけての機密文書「家族の宝石」の中には、1970年代にヘンリー・キッシンジャーが関与したキプロスとチリのクーデターについても書かれている。

1974年、キッシンジャーは、ギリシアのキプロスへの介入を推進したこと、また1970年、チリの総選挙で社会党のサルバドール・アジェンデが当選しそうになっていた時、キッシンジャーが中心となって「反アジェンデ」のプロパガンダを開始し、チリにおける左翼政権の誕生を妨害。

クーデターでアジェンデは射殺され、ピノチェトの軍事政権が成立したが、このことを促進し、ピノチェトを強くサポートしたのも彼であったこと、なども今回公開された文書には書かれている。
http://www.asyura2.com/07/war93/msg/591.html

2019.01.06
ブラジル新大統領が米軍基地の建設を目論む(1/2)


 ブラジルの新大統領、ジャイール・ボルソナーロは同国にアメリカ軍の基地を建設する意向を示している。


 ​この人物はチリの独裁者だったオーグスト・ピノチェトを信奉​、つまり表面的な手法はともかく、巨大資本に奉仕するという政治経済的な立場はドナルド・トランプよりヒラリー・クリントンに近い。フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領とは正反対の立場だ。軍事政権時代に拷問を行ったことで悪名高いカルロス・アルベルト・ブリリャンテ・ウストラも彼は褒め称えている。軍事政権時代に政治犯だったルセフも拷問されているが、その責任者でもあった。


 ピノチェトは1973年9月11日、軍事クーデターで民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を倒した。アメリカの巨大資本がクーデターの資金を提供していたが、政権転覆に命令は大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー。その命令でCIAの秘密工作(テロ)部門が動いたのである。


 アジェンデは国民の大多数である庶民の立場から政策を推進しようとしたが、これはラテン・アメリカに利権を持つアメリカの巨大資本やその代理人である現地の支配層にとって許しがたいことだった。


 選挙期間中、CIAは新聞、ラジオ、映画、パンフレット、リーフレット、ポスター、郵便物、壁へのペインティングなどを総動員してプロパガンダを展開したが、アジェンデが勝利する。


 それに対してチリの支配層は生産活動を妨害、アメリカの巨大金融機関はチリへの融資をストップ、世界銀行も同国への新たな融資を止め、1972年になるとトラックの運転手がストライキを実施、商店主、工場経営者、銀行なども同調して全国的なロックアウトに発展した。


 こうした揺さぶりはNSC(国家安全保障会議)の「オペレーション40」が指揮していたが、キッシンジャーは軍事クーデターを計画する。CIA長官だったリチャード・ヘルムズの下、秘密工作(テロ)部門が動いた。


 この計画はCIAの内部でも秘密にされていたが、それでも計画の一端は外部に漏れてしまう。例えば、ワシントン・ポスト紙のコラムニストだったジャック・アンダーソンが1972年3月にコラムで多国籍企業のITTがチリで秘密工作を実行していると暴露したのである。フランク・チャーチ上院議員を委員長とする「多国籍企業小委員会」はこの件に関する聴聞会を実施した。


 それでも工作は続き、キッシンジャーたちはチリ軍を支配するために護憲派だった陸軍総司令官を暗殺、その後任も憲法を遵守する立場だったために排除した。


 アジェンデは1973年8月にオーグスト・ピノチェトを陸軍総司令官に任命する。ピノチェトも護憲派だと判断したのだが、これが致命傷になった。


 クーデター後、ピノチェトはシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授の政策、つまり新自由主義を世界に先駆けて導入する。その政策を実際に実行したのがフリードマン教授やアーノルド・ハーバーガー教授の弟子たち、いわゆるシカゴ・ボーイズだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901060001/


ブラジル新大統領が米軍基地の建設を目論む(2/2)


 軍事クーデターで実権を握ったオーグスト・ピノチェトは1979年に健康管理から年金、教育まで全てを私有化しようと試み、関税を撤廃、資本や売買の規制を緩和、交換レートを固定した。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eights Windows, 2003)


 一連の規制緩和でチリの民間部門は外国の金融機関から多額の資金を調達、1980年代に入ると債務額は倍増。債務危機が起こると外国の金融機関は銀行の国有化を求め。国有化された彼らの債権は私有化された国有企業の株券と交換することが許された。その結果、チリの年金基金、電話会社、石油企業などチリの重要な企業を外国の投資家は格安のコストで支配することになる。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eights Windows, 2003)


 当然のことながら、こうした政策で庶民は貧困化、その子供は教育を受けるチャンスを奪われ、さまざまな不平等を再生産することになった。これが「チリの奇跡」だ。


 新自由主義が庶民に塗炭の苦しみを強いることは事前に予測されていたことで、そのためには反対勢力を殲滅する必要があった。そうした意味でもピノチェトの軍事クーデターは重要な意味を持っている。


 後に設置される「チリ真実と和解委員会」によると、軍事政権の時代に殺されたり「行方不明」になった人は「少なくとも2025名」だというが、実際の犠牲者はそれを上回り、一説によると約2万人が虐殺されている。ブラジルの新大統領、​ボルソナーロに言わせると、「ピノチェトはもっと多くの人間を殺すべきだった」​。

 21世紀に入った直後、ブラジルはアメリカから自立する動きを見せていた。その当時の指導者、ルイス・シルバやジルマ・ルセフをアメリカは議会を使って排除する。


 議会でシルバやルセフの政治的な抹殺を先導していたのはブルーノ・アラウージョやエドアルド・クーニャだが、前者は巨大建設会社から違法な資金を受け取った容疑をかけられ、後者はスイスの秘密口座に数百万ドルを隠し持っていることが発覚した。


 ブラジルを再び植民地化するためにアメリカ支配層が使った組織としてMBL(自由ブラジル運動)やEPL(自由を求める学生)が知られている。両団体を創設したキム・カタグイリはミルトン・フリードマンの新自由主義を信奉する「活動家」。MBLを率いているジュリアーノ・トレスとファビオ・オステルマンが学んだアトラス・リーダーシップ・アカデミーはアメリカの富豪、チャールズとデイビッドのコーク兄弟から資金が出ている。EPLのスポンサーもコーク兄弟だ。


 シルバやルセフを支えていた人々はアメリカ巨大資本の支配システムを壊さなかった。資金力、情報力、軍事力で圧倒しているアメリカ支配層が反撃してくるのは必然だったと言える。


 そのアメリカ支配層は邪魔な存在を皆殺しにしてきた。チリもそうだが、1965年のインドネシアは悪名高い。現在のインドネシアをカルト国家と呼ぶ人もいるが、確かに欧米権力層はカルトを支配の道具として使っている。その一例がワッハーブ派だ。


 アメリカ支配層は支配の仕組みとしてNATOや日米安保のような軍事同盟も利用している。ボルソナーロがブラジルにアメリカ軍の基地を建設すると言っている意味もそこにあるはずだが、そうした事態になるとブラジル軍はアメリカ軍の支配下に入ることになる。それをブラジル軍が受け入れるかどうかが問題になってくるだろう。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901060001/
22:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:11:54

今こそ合州国の正体直視を 本多勝一
この一文が出るころ、アメリカ合州国の体制主流は、イラク侵略を開始または開始寸前にあるだろう。

 国連安保理外相級会合に米英ら3国が今月7日提出した修正決議案は、国連安全保障理事会で11日に採決にかけられる見通しだが、ここで否決されても、合州国は単独で開戦・侵略に踏み切る構えである。

 あたりまえだ。アメリカ合州国の歴史は、こういうことの連続の末に今日の地球史上最強・最悪の帝国となった。ワシントン初代大統領以来の二百余年間は、手段を選ばぬ詐欺・脅迫・テロ・虐殺による侵略史にほかならぬ。そのことはこれまで機会あるごとに触れてきたが(注)、目前でまたしても超大軍事力によって同じことが強行されようとしている今、「正確な合州国史」にうといままその正体に気付かぬ例が多い日本人のためにも、このさい改めて正面から指摘しておきたい。

 ただし、こんどのイラク侵略が開戦されてもされなくても、これはコロンブス以来のヨーロッパによる世界侵略500年史の中で、ベトナム戦争とともに画期をなす歴史的事件となるかもしれない。米西戦争などで世界制覇競争に勝った合州国は、それまでに北米大陸での先住民族侵略をウンデッドニー虐殺によって終了していたが、以降そのままハワイ・グアム・フィリピンへと「西部へ西部へ」を進めた。朝鮮戦争につづくベトナム戦争で、合州国軍隊はワシントン初代大統領以来初の敗戦を喫したものの、侵略のための巨大軍需産業や体質に傷はつかなかった。その成りゆきとしてのイラク戦争(12年前も今回も)である。ところが、合州国の正体に気づき始めた人々の世界的盛上りによって、開戦寸前での中止か、開戦してもベトナム以上の反戦の広がりで帝国の没落となるかもしれない。この500年来の画期をなすゆえんである。

合州国は“民主主義”をタテマエにしている。実態はともかく、民意を完全・明白に無視した侵略は支持されない。そこで開戦のとき必ずといえるほど使われるテこそ、相手が先に攻撃したとみせかける捏造事件である。これは先住民族への侵略以来イラクまで一貫してきた。戦艦メーン号爆破事件(米西戦争)をみよ。トンキン湾事件(ベトナム戦争)をみよ。真珠湾(太平洋戦争)をみよ。その他その他。これを書いている9日の朝日放送(サンデープロジェクト)は、イラクのクウェート侵入(これも裏に合州国あり)にさいして、イラク兵が乳児を哺育器から出して次々と放り投げた様子をクウェートの少女に証言させたこと、これが繰り返し放送されて世論を憤激させ、開戦に有利になったこと、ところが後に、この少女は駐米クウェート大使の娘で、証言は捏造だったこと等を放映した。

 こんどはどんな捏造が、いいように操作されるマスコミによって“報道”されることだろうか。

 開戦寸前の今、このテーマは「未完」としておく。

http://www.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt?v=vol451

アングロサクソンの文化  

アングロサクソンは戦争で勝つ事で世界の覇権を持つことが出来ましたが、日本との世界最終戦争で核兵器を使用した事で自らの手を縛る事になってしまった。核戦争の時代ともなるとアメリカ本土と言えども核ミサイルの脅威にさらされて戦争が出来なくなってしまった。

戦争が生業のアングロサクソンは、戦争が出来なくなると金融で世界支配を試みようとしたのだろう。大戦後は朝鮮戦争からベトナム戦争・イラク戦争に至るまでアングロサクソンは戦争に勝てなくなり限定戦争を余儀なくされた。いわば自分で墓穴を掘っているようなものですが、戦争によって栄えたアングロサクソンは戦争ができなくなった事で覇権は終わろうとしている。

それに代わって金融による経済覇権や英語による文化覇権は戦争に代わり得る手段だろうか? 戦争に強ければ経済覇権や文化覇権はついてきたのですが、これからは経済力と文化力で覇権は争われるようになるのだろう。アングロサクソンは経済力や文化力でもでも覇権をとり続けていけるのだろうか?

それを考察するには、アングロサクソンの文化を知らなければなりませんが、太田述正氏のブログには「アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であった」ということです。彼らにとっては戦争が生業であり、平和な時は酒を飲んで賭け事に夢中になっていた。勤勉に働くという事は彼らの文化には無い。


だからこそ大戦後には限定的な戦争で覇権を維持したのでしょうが、イラク戦争やアフガニスタン戦争は大義のない戦争であり、アングロサクソンの時代は終わったとも言える。核戦争の時代では戦争で決着をつけることは不可能だからだ。それで彼らはバクチで稼ぐ金融覇権を試みたのですが、今回見事にそれは失敗した。

アングロサクソンは、ローマ化した大陸のゲルマン民族とは違って、戦争好きなゲルマン文化を多く残していた。個人主義と自由主義はアングロサクソン文化でもあり、大陸の全体主義文化や社会主義文化とは相容れないものだ。しかし今回の金融恐慌は社会主義的な方法でしか混乱は収められないものであり、市場原理主義は敗れたのだ。

だからこそ倉都康行氏は、社会民主主義的な伝統を持つEUが主役に踊り出るだろうと予想していますが、そもそもヨーロッパ全体が戦争好きなゲルマン文化の要素を持っており、ヨーロッパの歴史は戦争の歴史でもあった。すなわち全面戦争が出来なくなった時代は長く平和が続き、戦争で決着をつけるアングロサクソンの文化は衰退せざるを得ない。

http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu178.htm


アングロサクソンは純粋のゲルマン文明

アングロサクソン文明とアングロサクソン以外の欧州(以下、欧州とします)文明は、なぜ近くにあって大きく違うのでしょうか。また、それぞれどのような文明なのでしょうか。

 太田さんの言によると、アングロサクソンはゲルマン民族の伝統をほば変わらず持ち続け、他方、欧州(のゲルマン諸族)はローマ化してゲルマンの伝統をほぼ失ってしまった人々であり、また(大雑把に言って)アングロサクソン文明はゲルマン由来の「個人の自由の尊重」(=個人主義)を中心的価値とする文明であり、欧州はローマ由来の「宗教(中世まで)や一般意思(近代以降)の優越する」文明(=全体主義的)、ということのようです。

 では具体的に、ゲルマン民族の価値観や文化とはどういうもので、どのように形成され、なぜブリテン島のアングロサクソンにだけ受け継がれたのでしょうか。

戦争を生業とするゲルマン人


「タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫1979年4月。原著は97-98年(1世紀))は、ローマ時代のゲルマン人について記述した有名な書物ですが、以下のような記述があります。

 「人あって、もし彼ら(筆者注:ゲルマン人のこと)に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<によって>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77頁)
 これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。

 こういうゲルマン人がやがてローマ帝国に侵攻し、これを滅ぼしてしまうのですが、欧州大陸のゲルマン人はやがてローマ化していまい、戦争が生業ではなくなっていきます。

 ところが、ローマが自分でイングランドから撤退した後、文明のレベルが違いすぎてローマ文明を受け継ぐことのできなかった原住民のブリトン人(ケルト系)を、スコットランドやウェールズといった辺境に駆逐する形でイングランドを占拠したアングロサクソン人(ゲルマン人の支族たるアングル、サクソン、ジュート人がイングランド侵攻後、混血したもの)は、ゲルマン「精神」の純粋性を保ち続けます。

だから、アングロサクソンにとっては、戦争は生業であり続けたのでした。


「では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。

 私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・(略)(77頁)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注8)。

 (注8)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、
    家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他す
    べてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰にのみ打ち
    暮らす。」(79頁)というメリハリのきかせ方だった。

 ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。

 つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。
 しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。


 「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)

戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注9)。

 (注9)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行な
    い、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身
    柄を賭けても争う・・。」(112頁)

 注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。」(コラム#852(*2)より抜粋)

 以上のように、ゲルマン民族は一人一人が戦士であり、戦争を生業とする人々であったようです。額に汗して働くことよりも、自分が負傷したり命を落とすリスクがあっても、戦争によって掠奪品を得るほうが、はるかに効率がよく得るものも大きいと、当然のように考えている人々だったのです。

 そして戦争遂行という最優先事項のためには、部族の全員が一丸となって協力し、また戦争をする上では、合理的な計算に基づいて、可能な限りコストや被害を少なくして、いかに効率よく戦争を遂行できるかということを追求した形で、実行されていたのです。

ゲルマン人の個人主義


ゲルマンの成人男子は一人一人がプロの戦士で、部族全体が戦争という生業のために一致協力していた、ということは分かりました。では、その戦闘民族的な側面以外に、ゲルマン特有のユニークな点はあるのでしょうか。

 「ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴル等の遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。

 それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。

 その個人主義と民主主義です。

 「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81~82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89~90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。

 また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65~69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。

 以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。」(コラム#852より抜粋)


「まず、押さえておくべきは、プロの戦士であったアングロサクソンにとって経済活動は、食い扶持を確保した上で、更に戦士としての実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしに過ぎない、ということです。

 ここで実益の追求とは、個人的戦費及び集団的戦費(税金)を確保することであり、かかる実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしを、彼らはいかに楽に行うかに腐心しました(注13)。

 (注13)ちなみにアングロサクソンは、「戦士としての実益の追求を兼
    ね」ない趣味ないし暇つぶしの多彩さでも知られている。彼らが後
    に、読書・科学研究・スポーツ・レジャー・観劇・旅行、等に狂奔
    したことが、近代文学・近代科学・近代スポーツ・近代レジャー・
    近代演劇・パック旅行、等を生み出すことになった(コラム#27)。

 タキトゥスの叙述からもお分かりのように、彼らは、その生業としての戦争に従事している間、生死をかけること等に伴うストレスにさられただけでなく、集団行動に伴うストレスにも(個人主義者なるがゆえに)さらされたことから、平時においては、各自がばらばらにリラックスをして過ごすことによって、精神的バランスを回復する必要がありました。

 しかも彼らにはその「自由の意気と精神」から支配者がおらず、またその「戦争における無類の強さ」に恐れをなして彼らを掠奪の対象とするような者もほとんどいなかった上に、彼らにとって戦争が経済計算に立脚した合理的営みである以上、戦費は巨額なものにはなりえませんでした。ですから彼らは、支配者に貢ぐために、あるいは外敵によって掠奪されることを見越して、あるいはまた巨額の戦費を捻出するために、ひたすら額に汗して働かなければならない、という状況にはなかったわけです。

 そういうわけで彼らが経済活動にあたって考えることといえば、目標とした一定の収益を、いかに最低限の労力やコストの投入によって確保するかだけでした(注14)。」(コラム#857(*3)より抜粋)


自由の意気と精神、つまりは戦士たる己の力(能力)のみを頼りとして支配されることを由としないということ、それぞれが戦士として自立していること、戦時以外の自由を尊重すること、これらのことから、ゲルマン人にはごく自然なこととして個人主義が定着していたと思われます。

 部族内においては、戦時以外では自分も他人も自由が侵されず、制度的なしがらみもない。ゲルマン人は戦争を生業とする戦士であったことで、かなりの程度、個人主義、自由主義が文化として浸透していたようです。また(義務を果たしている人々である)戦士による直接的な民主主義も行われていました。一見、個人主義や民主主義というと、古代ギリシャ等、文化的に高いレベルにあって初めて実現すると思い勝ちかもしれませんが、なるほど、武の伝統から生まれることもある、というところはユニークで面白いですね。

アングロサクソンの起源


では、このようなゲルマンの伝統が、いかにしてブリテン島に伝播し、維持されていったのでしょうか。アングロサクソンの起源を確認しておきましょう。

 「今まで随時、アングロサクソン論を展開してきましたが、このあたりでアングロサクソンとは何かを振り返っておきましょう。

5世紀に、スカンディナビア及び北ドイツから様々なゲルマン支族がイギリスに渡ってきて、ケルト系先住民のブリトン人(=ローマ文明を継承できていなかった)を辺境に駆逐した上で定住し、相互に通婚してアングロサクソンとなります。(8世紀にベード(Bede)は、アングル支族、サクソン支族、ジュート支族の三支族が渡ってきたと記しましたが、これは単純化しすぎだと言われています。)(Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books, 1987 PP30)

 このアングロサクソンは、7世紀末までにキリスト教化します(前掲Historical Atlas of Britain PP32)。アングロサクソンの部分的ローマ化、欧州化です。
しかし、9-10世紀には、アングロサクソンは、まだキリスト教化していない、デンマーク(一部ノルウェー)のバイキング(デーン人)の侵入、定住化を経験します。(前掲 PP38)(なお、11世紀初頭には、アングロサクソンは、後にデンマーク王とノルウェー王を兼ねることになる、デーン人(その頃には既にキリスト教化していた)の王族カヌートに一時征服されます。(前掲 PP52))
 更に1066年には、アングロサクソンは、フランス北部に侵入、定住したバイキング(ノルマン人)の子孫である、ノルマンディーの領主ウィリアム公に征服されます。(前掲 PP55-57)

 このように、アングロサクソンは、もともとゲルマン人としての純粋性を維持していた上に、キリスト教化した後も、累次にわたってかつての同胞であるバイキング・・キリスト教化していなかった者も少なくなく、しかも、極めて能動的(=悪く言えば、好戦的で侵略的)でした・・の侵入、定住化、征服を受け、その都度、ゲルマン精神を「再注入」させられ、「純化」させられたのです。そのおかげで、アングロサクソンは、精神のローマ化・欧州化を基本的に免れることができたのです


「また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。」(コラム#1397(*5)より抜粋)

 以上のとおり、ガリアのゲルマン諸族はローマ化した結果、ゲルマンの伝統を失うことになり、海を渡ってブリテン島に渡来して現地民と同化したアングロサクソンには純粋な形で残ることとなりました。さて、そんなゲルマンの伝統をほぼ純粋に受け継いだアングロサクソンの国、英国とはどのような社会になったのでしょうか。(ちなみに最新の研究によるとアングロサクソンの起源はバスク系の人々とベルガエというゲルマン系の人々がかなり関係しているようです。詳しくはコラム#1687(*6)を参照してください。)

(*4)コラム#74<アングロサクソンと北欧神話(アングロサクソン論3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955759.html
(*5)コラム#1397<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954436.html
(*6)コラム#1687<アングロサクソンの起源>
http://blog.ohtan.net/archives/50954197.html

commonlaw


1 英国で、通常裁判所が扱う判例によって発達した一般国内法。一般法。→エクイティー

2 ローマ法・大陸法などに対して、英米法の法体系。


かんしゅう‐ほう〔クワンシフハフ〕【慣習法】

慣習に基づいて社会通念として成立する法。立法機関の制定によるものでなくても、法としての効力を認められている慣習。一種の不文法。習慣法。

アングロサクソン社会のユニークな点として、まずはコモンローを挙げてみたいと思います。コモンローと言えば、アングロサクソンの慣習法、自然法といったことを思い浮かべますが、太田さんはどのように考えているのでしょうか。

 「クライムスは、「11世紀初頭において、[イギリスを征服したデンマーク王]カヌートは、それより半世紀後のウィリアム征服王と同様、・・彼らの前任者たる王達によって、築かれた伝統や身分を破壊しようとはしなかった。」と述べ、アングロサクソン期と中世の連続性を指摘した上で、「[アングロサクソン期の]イギリス王は、法の源ではなかった。・・法は種族の慣習、または部族に根ざす権利からなり、王は、部族の他のすべての構成員同様、法に全面的に従属していた。・・法は、本質的には、その起源からしても非人格的なものであって、いにしえの慣習や、部族共同体の精神に由来すると考えられていた。

法を宣言し、裁定を下すのは、王の裁判所ではなく、部族の寄り合い(moot)であり、王の任命した判事や役人ではなく、訴追員や審判員の役割を担った、近所の自由人達であった。・・王は、単に、法と寄り合いの裁定を執行するにとどまった。」と言っています。

 こういうわけで、自由と人権の起源もはるか昔の歴史の彼方へ渺として消えていってしまいます。

この、マグナカルタ、権利の請願、権利の章典、アメリカ独立宣言などを次々に生み出していった淵源としてのアングロサクソン古来の法こそ、Common Law (コモンロー)なのです。

 われわれは、個人主義が、アングロサクソン文明の核心にあることを見てきました。しかし、個人主義社会という、人類史上空前の「異常」な社会が機能し、存続していくためには、個人が、他の個人、集団及び国家の侵害から守られていなけれなりません。守ってくれるものが、王のような個人であったり、グループや、国家であったりすれば、それらが、一転、おのれの利害にかられ、私という個人の自由、人権を侵害するようなことがないという保証はありません。守ってくれるものが非人格的なコモンローであり、王も含めて全員がこの法に拘束されるということの重要性がここにあるのです。
(略)
 フォーテスキューは、フランスは絶対君主制であり、すべての法が君主に発し、人々はそれに服するが、イギリスは、人々の自発的黙従に基づく制限君主制であり、王自身、彼の臣民と同じ法に拘束されるとし、「予想される不幸や損害を防止し、一層自らと自らの財産を保護するためだけに王国を形成した国が、イギリス以外に存在しないことは明白である。」と指摘します。」(コラム#90(*7)より抜粋)


アングロサクソンにとってのコモンローとは、古来からの個人主義の精神に基づいて、必然的に生まれた慣習法体系だと言えそうです。個人の自由や権利や財産を守るための法が自然法として定着していて、王といえど権利を制限され法の支配の下に置かれるというわけです。このことは、アングロサクソンは古来から人治主義ではなく法治主義であったという見方ができますね。

 考えてみれば、個人主義であるためには、法の整備と遵守が全員に徹底していなければ実現できないであろうことは、当然と言えば当然ですね。

 ちなみに個人主義だけでは遠心力が働いて社会が瓦解してしまうことを防ぐための制度として、コモンローとはまた別にアングロサクソン文明固有の「信託」という思想があるようです。信託については、コラム#1399(*8)と#1400(*9)を参照してください。

(*7)コラム#90<コモンローの伝統(アングロサクソン論8)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955743.html
(*8)コラム#1399<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954434.html
(*9)コラム#1400<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954433.html

資本主義と反産業主義


個人主義社会であるからには、同時に、資本主義社会でもあると言えそうです。個人主義が貫徹している社会であれば、個人が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を、誰もが持っているはずだからです。

 「個人主義社会とは、個人が部族・封建制・教会・領域国家等、欧州史の古代・中世におけるような社会諸制度のしがらみから、基本的に解放されている社会です。

 ちなみに、個人主義社会と資本主義社会はイコールであると言ってよろしい。個人主義社会とは、上記のごとき社会諸制度によるしがらみから基本的に自由に、個人が自分の財産(労働力・カネ・モノ)の使用・処分を行うことができる社会であり、これぞまさしく資本主義社会だからです(注6)。

 (注6)これは、英国のマクファーレーン(Alain Macfarlane)の指摘だ
    が、この話をもっと掘り下げて論じたいと以前(コラム#88)記しな
    がら、マクファーレーンのその後の著作等の勉強を怠っているた
    め、今後とも当分の間、この「約束」を果たせそうもない。」(コラム#519(*10)より抜粋)

 「しかも、個人主義社会なのですから、アングロサクソンの各個人は、自分自身(の労働力)を含め、自分が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を持っており、実際にその権利を頻繁に行使しました。そういう意味で、アングロサクソンは全員が「商」(資本家)でもあったわけです


「いずれ詳しくご説明するつもりですが、イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。

 そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)」(コラム#81(*11)より抜粋)

 「また、古典ギリシャ社会においても古ゲルマン社会においても、労働には低い社会的評価しか与えられていませんでした。

アテネ等のポリスでは、奴隷が労働に従事し、市民はもっぱら政治と軍事に精を出したものですし、ゲルマン民族の男達は、「戦争に出ないときにはいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食に耽りつつ、無為に日をすごす・・家庭、家事、田畑、一切の世話を・・女たち、老人たち<など>・・に打ち任せて・・懶惰にのみ打ちすごす」(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版)78~79頁)のを常としました。

 ですから、貧しかった時代ならいざ知らず、豊かになった現在の西欧諸国において労働時間が著しく減ってきたのもむべなるかなとお思いになるでしょう。

 それでは、アングロサクソン諸国の労働時間の長さはどう説明したらよいのでしょうか。


アングロサクソンは世界でほぼ唯一生き延びた純粋なゲルマン人であり、ゲルマン人の生業(本来の労働)は戦争(=略奪行為)だったことを思い出してください(上記引用参照)。これは戦争以外の時間はゲルマン=アングロサクソンにとっては来るべき戦争に備えて鋭気を養う余暇だったということを意味します。だから農耕・牧畜(=食糧確保)に比べて狩猟(=食糧確保+戦争準備)をより好んだとはいえ、これら「労働」も「無為・懶惰に過ごす」こととともに余暇の一環であり、「労働」を減らす、制限するという観念は、元来彼らにはなじまないのです。

 そして、キリスト教の聖書を世界で初めてに民衆が読める自国語に翻訳して大量に普及させたアングロサクソンは、ゲルマン人としての彼らのもともとの好き嫌いを踏まえ、農耕・牧畜等の「懲罰」としての「額に汗」する「労働」(labour。「陣痛」という意味もある。同義語はtask)と狩猟等のそれ以外の「労働」(work。同義語はbusiness)とを明確に区別し、hard work を厭わず(?!)labourを減らすことに腐心してきました。その最大の成果の一つがイギリスを起源とする18世紀のいわゆる産業革命です(コラム#81参照)。

 これに対し、西欧ではこの二種類の「労働」を区別することなく、どちらも忌むべきものとして削減することに努めてきた、と私は考えています。」(コラム#125(*12)より抜粋)

 アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であったというのは面白いですね。楽をしたいからhard workを厭わないというのも、とても面白いと思います。英国が様々な創意工夫をして近代的な発明を数多く生み出したのも、よく分かる気がします。


ちなみに太田さんは、近代文明はイギリス文明そのものといってよく、近代のほぼ全てがイギリスで始まっている、とも仰っています。コラム#84(*13)を参照してみてください。

 それと、経済的物質的に貧しい社会においては、個人主義を成り立たせる余裕が無く、乏しきを分かちあいながら、共同体に埋没して生きて行くより他はないところ、イギリスで個人主義が維持できたのはイギリスが大変豊かだったからだ、という側面もあるようです。コラム#54(*14)を参照してみてください。

(*10)コラム#519<米国反仏「理論」あれこれ(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955314.html
(*11)コラム#81<反産業主義(アングロサクソン論4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955752.html
(*12)コラム#125<各国の労働時間の違い>
http://blog.ohtan.net/archives/50955708.html
(*13)コラム#84<イギリス文明論をめぐって(アングロサクソン論5)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955749.html
(*14)コラム#54<豊かな社会(アングロサクソン論2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955781.html

http://blog.ohtan.net/archives/51258673.html
23:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:13:41

アメリカはソ連崩壊後に NO.2 になった日本をどうやって叩き潰したのか

1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。

 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。


ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。
 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。
 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。

ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html


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その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/


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アメリカの日本叩き落とし戦略  

アメリカではFRB議長グリーンスパンの超低金利政策の結果住宅産業バブルが起こり、これが今日まで消費を支えてきたが、ここへ来て住宅バブルに「ローソクの最後の炎現象」が見えてきた。前述のようにアメリカには日本のような「潜在消費・投資力」の備蓄がないから解決策を他国に求めるしかなくなる。

そこでアメリカに狙われたのが日本、つまり竹中平蔵大臣である。

実は竹中平蔵氏は1980年から90年のJapan as No.1(「日本の世紀」と言われるほど日本経済が世界を制覇した)時代にハーバード大の客員研究員や准教授をしていた。日本の銀行が世界ランキング1位から10位を占める事態に危機感を抱いたアメリカはハーバード大等の叡智を結集して「日本叩き落とし戦略」を打ち出して見事に成功し、その結果日本の大不況はまだ続いている。竹中氏(当時、大蔵省財政金融研究所主任研究官)は日本の大蔵情報提供者として重要な働きをしたと考えられる。

だから現在のブッシュ政権の経済担当責任者とも親交が深い。異例とも言われた経済財政・金融担当の二つの経済ポストが竹中に与えられた時、グレン・ハバード米大統領経済諮問委員長は「竹中氏は申し分のない改革論者で、ブッシュ政権は竹中氏を全面的に支持している」との見解を発表すると同時に「不良債権処理と日銀の金融緩和の必要性」を強調した。

竹中大臣が10月に訪米した時、「大手銀行だからといって容赦しないぞ!」と言わんばかりの不見識な「大失言」(竹中ショック)のためニッケイは大暴落となり日本は時価総額で約50兆円の資産を失った。この時ハバード委員長をはじめ、バウチャー米国務省報道官、テーラー米財務次官らは必死になって竹中大臣をかばった。アメリカが日本に経済高官を送り込んでまでの竹中支援ぶりは異常。ここでまた経済の基本に戻るが、不良債権処理が日本経済の現況下では不要であることは再三解説したのでご理解いただいたと思う。

日本企業は現在リストラ中であり、総需要も資金需要もマイナスだから特に銀行機能を求める環境にない。こうした時、銀行の脆弱な財務体質を目の敵にするのは不自然である。しかも国会でもマスコミでも世を挙げて不況の結果である不良債権処理とデフレ対策に議論が集中し、不況の真の原因から目を避けている。異常ではないか。何故竹中大臣とアメリカはこの時期に不良債権処理と金融緩和を急ぐのか。

それはアメリカの国益の立場になって考えればすぐ分る。自ら打つ手がなくなったアメリカは日本の「打つ手」(現金備蓄)を奪うしか手が無いのである。竹中大臣はアメリカの国益の立場に立っているのである。不良債権で金融機関のパイプが詰まったままの状態で金融緩和をすると緩和された資金はアメリカに流れず、資金需要がない日本の資本市場で浮遊資金の増大となる。資金は当然土地と株にヘッジし、地価と株価を押し上げる結果となる。これこそ日本経済再生の道だが、アメリカにとっては許し難いこと。すなわち日本の土地と株が上がりだすとアメリカから資金が逃避し日本市場に向かうからである。

今アメリカは戦争と言う無駄な公共投資を前倒しで実行しているが(前述のごとく)潜在的財源が無い。どんなことをしても日本の「備蓄資金」をアメリカへ還流させなくてはならない。住宅バブルが弾けるのも時間の問題。

不良債権処理を急ぎ、日本の国民に痛みを与え、デフレをさらにスパイラル化し、大銀行や大企業を破綻に追い込んでまでもアメリカの国益の為に尽くす竹中平蔵。さらなる「詭弁」で小泉首相と国民を騙し続ける竹中大臣。まるで邪教の亡者のごとき竹中大臣の強烈な意志と情熱は、多分1980年代に洗脳された「日本叩き落とし精神」の具現だろう。今日本は「気違いに刃物」を与えてしまった。


竹中平蔵は、もともと日本からハーバード大学に留学していった。米国では世界各国から来るエリートを選び、その人物に、洗脳教育を施していると聞く。つまり、「国際金融資本に、すべて任せることがよい」という洗脳である。

○ 竹中の推し進めてきた政策を振り返るとあることに気づく。それは、すべて日本の企業を倒産させて、米国の企業に買い取らせるという結果になっている政策ばかりであり、しかも竹中はこれを「すばらしい」と表現している。

○ここでハーバードまで留学して、結局、「すべて国際金融資本に任せるべきだ」という思想を植えつけられているとする。


<竹中の破壊の歴史>

振り返ってみれば、日本は世界最強の銀行として、誇っていたのを台無しにしたのは自己資本比率規制の導入であった。これを導入することを熱心にやっていたのが竹中であり、金融ビッグバンも竹中の提案であり、不良債権処理も竹中路線であり、就任以来54もの金融機関を次から次へと倒産させてきたのは彼の政策のためである。

小泉内閣になってついに、竹中金融担当大臣が就任した。
周囲は、机上の空論の大臣だといって猛烈に反対していたが、小泉は、
「すぐれた頭脳で貢献していただく」といって任命した。
竹中はそれまでやっていた慶応大学教授からいきなり金融大臣となった。

それでは竹中がやってきた日本の金融政策を振り返ってみよう。

竹中が、日本に、自己資本比率規制を導入した。その結果、世界でも最強を誇って
いた日本の銀行は軒並み、貸し出しを減らし、貸し渋りを行うようになった。
そして不況になっていった。 それまでは世界のベスト10バンクに日本の銀行が
6行も入るすごい状態にいたのだった。

竹中がやってきた日本の金融政策を振り返ってみよう。

竹中が、日本に、自己資本比率規制を導入した。その結果、世界でも
最強を誇っていた日本の銀行は軒並み、貸し出しを減らし、貸し渋りを行うようになった。そして不況になっていった。 それまでは世界のベスト10バンクに日本の銀行が6行も入るすごい状態にいたのだった。

○竹中が時の橋本首相に「金融ビッグバンをやるべきです」と進言して、
それをやった。すると山一證券は自主廃業となり、メリルリンチ証券となり、
長期信 用銀行はf経営が傾き、一時国有化し、リップルウッドに買収された。東
邦生命は、買収されてGEキャピタル生命となり、日興證券は、 これも経営が傾き、外資に助けを求め、外資の傘下にはいった。
日興コーデイアル証券となった。
倒産は続出して、金融恐慌の一歩手前までいった。時の橋本政権は選挙で大負けした。日本経済にとって致命傷となった。

竹中金融大臣が、「不良債権処理をやるべきです」といい、それを強化すべ きだといった。すると、銀行は貸しだしを抑制するためさらに不況となる。不良債権
と認定された企業は次から次へと倒産していくため小泉政権の自殺者数や、倒産件数は歴代1位である。

この竹中金融担当大臣が就任している間、UFJ銀行は経営不安に陥り、54も
の金融機関が倒産した。足利銀行も倒産した。建設会社が倒産したときに、竹中
金融担当大臣は、とてもよろこんだ。 「これが構造改革の進展している証拠だ」

そして、竹中金融担当大臣は、4月1日からペイオフを唱えている。
ペイオフは世界各国でどこもやっていない政策である。ところが、竹中が「どこもやっている」とテレビでいうことで、このとんでもない破壊的な政策をやる流れ
になっている。

そしてこの数年間、日本を痛めつける政策をずっと立案してきた人物の竹中が郵政を解体してしまおうとしている。 というわけだ。
http://ime.nu/www.asyura2.com/0505/hasan41/msg/915.html


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私達は洗脳されていました。不良債権の処理こそが構造改革だと。。。

彼等のやり口はこうでした。

一、株式は自己資本の半分以下にすること。
二、不良債権は二年で半減すること。不良債権処理に充てた資金には税金を課す ただし繰り延べ資産として7年間分認める

私達は国の命令で株式の売却を始めました。株の暴落が始まり長銀は国有化され長銀の株券は一夜で紙くずとなりました。数兆円の血税をつぎ込み身奇麗にした 長銀は瑕疵担保条項までつけて外資の手に渡りました。その後私達は恐ろしい光景を目にすることとなりました。

瑕疵担保条項によって死ななくても良い企業まで次々と息の根を止められて行きました。 その時つぶせばつぶすほど外資がもうかる条約だった事に私達は気づきました。

そんな時あの竹中が金融中枢に入ってきたのです。
そしていきなり繰り延べ資産は認めないと言い出したのです。税金は取っておきながら、です。人々はパニックに落ちました。株価は大暴落し、旧額面で80円を割り込んだ時、外資の増資申し入れを受け入れました。
四大メガバンクすべてが外資に自社株を叩き売ったとき、りそな銀行の国有化が決まり、長銀の時と同じく数兆円の国民の税金がつぎ込まれましたが、驚いたことに減資なし、株主責任は問わないという寛大な措置でした
あれほど株主責任を厳しく追及していた竹中 木○コンビの豹変でした。

その翌日から外資の数千億単位の株式購入が連日のように続きました。
日本の国富が外資の手に落ちて行くのを私達は茫然と見ているしかありませんでした・・・。

私達は竹中によって株式をもっと売り払えと指導されていたからです。





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日本の官僚の上司が日本の大臣や政治家ではなくアメリカ軍人である理由

「「日米合同委員会」「国会を関与させないための仕掛けだったんです」吉田敏浩氏インタビュー:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21239.html
2016/12/6 晴耕雨読

https://twitter.com/iwakamiyasumi

12月2日(金)「岩上安身による『日米合同委員会の研究』著者・吉田敏浩氏インタビュー」の実況を行います。

戦後日本社会における最大のタブーとも言える「日米合同委員会」の実態について、岩上安身が吉田氏にお話をお聞きします。

岩上「吉田さんは今はフリーのジャーナリストですけれど、どういった所から取材を始めましたんですか?」

吉田氏「大学在学中からビルマ(現・ミャンマー)のことを取材を始めました。これまでに新聞社などの社員になったことはなく、ずっとフリーです」

岩上「まず、そもそも日米合同委員会とはいったい何か?といったところから入っていきたいと思います。日米合同委員会は、港区南麻布のニューサンノー米軍センターというところで開催されているんですね」

吉田氏「最寄り駅では地下鉄広尾駅です」

吉田氏「日米合同委員会について本格的に調査した記事や本はほとんどありません。ここで密約を作り、国会での審議を通すことなく、米軍に有利な取り決めが次々と作られているのです」

吉田氏「ニューサンノー米軍センターには、銃を持った日本人警備員がいます。本来は日本人は銃刀法違反になるので銃を持ってはいけないんです。しかし、日米合同委員会での密約で持ってよいことになっているんですね」

岩上「米国と日本の関係というよりも、在日米軍と日本の関係になっているんですね。日本は米軍の下部組織にすぎないと」

吉田氏「日米合同委員会で話し合われている内容は、在日米軍から本国の統合参謀本部まで上がっています」

岩上「基本的には、在日米軍の利益を図ることが最優先になっているんですね」

吉田氏「辺野古新基地建設について、キャンプ・シュワブの水域を立ち入り禁止にしたのも、日米合同委員会での決定によります。しかし、どう話しあわれたかは分からないのです」

吉田氏「既存大手メディアの中でこの日米合同委員会について報じたのは、1957年の読売新聞の記事くらいです。やはり文書が出てこないということと、メディアまでもが日米同盟を神聖不可侵なものと捉えているからではないでしょうか」

岩上「この、黒塗りになっている『日米合同委員会議事録インデックス』とは何ですか?」

吉田氏「私の開示請求に対して、表紙だけが出されました。つまり表紙があるということは、中身があるということですよね。しかし、肝心のその中身はすべて不開示です」

岩上「さて、次のチャプターに移りたいと思います。なぜ、在日米軍兵士は正当に裁かれないのか。その背景には、日米合同委員会で合意された『裁判権放棄密約』『身柄引き渡し密約』『民事裁判権密約』がある、と」

吉田氏「『裁判権放棄密約』とは、米軍兵士の公務外の犯罪を日本が裁くな、というものです。その理由は『兵士の士気の維持』と『部隊の人員充足』というもの」

岩上「ちょっと、呆れ返るような理由なんですけど」

吉田氏「米兵犯罪者は、不起訴が多いんです。その一件一件の報告書が存在するはずです。しかしこれを法務省に情報開示請求をしても、文書が出てこないし、出てきたとしても黒く塗りつぶされているんです。これでは、検証のしようがありません」

吉田氏「民主党政権の時、岡田克也外相のもとで外務省の密約調査が行われました。その時に、この『裁判権放棄密約』に関する文書が部分的に出てきたんですね」

岩上「しかしこういうことがあったため、民主党政権はつぶされたのだとも言えるでしょう」

吉田氏「この『裁判権放棄密約』に関しては、法務省から『米軍関係者を特別扱いしますよ』という通達が出されています」

岩上「日本の司法が在日米軍に完全に従属してしまっている、ということですね」

岩上「その結果、日本の裁判が今どうなっているか、ということです。この密約は今も生き続けている、と」

吉田氏「公務外の米軍人・軍属の刑法犯は起訴率17.4%。一方で、全国の一般刑法犯は起訴率45.4%です。明らかな違いがあるのです」

岩上「さらなる驚きの事実です!なんと最高裁にも在日米軍のための裏マニュアルがあったと」

吉田氏「これは、最高裁判所の事務総局が作成したものです。民事裁判で、米軍は証拠提出も証人出頭もしなくてもよい、という内容です」

吉田氏「日米合同委員会での密約文書には、『合衆国の利益を害すると認められる場合には、かかる情報を公表し、又は使用に供することができない』と書かれています。これが、最高裁判所の裏マニュアルに書かれているのです」

岩上「これはショックです」

岩上「この『民事裁判権密約』が事件の真相解明を阻んだ事例が、1977年9月27日の横浜米軍機墜落事件なんですね」

吉田氏「この裁判では、米軍関係者は最後まで出廷せず、事故調査報告書の提供も行われませんでした」

岩上「さて、次のチャプターが米軍による航空管制の問題です。米軍の横田基地上空は『横田ラプコン』と呼ばれ、日本の民間航空機が入れないようになっていますね」

吉田氏「はい、これもまた日米合同委員会での密約にもとづいています」

吉田氏「これも密約文書そのものは不開示なのですが、外務省の裏マニュアル『日米地位協定の考え方』からその内容は分かります。それによると横田空域について『合同委員会の合意のみしかなく、航空法上積極的な根拠規定はない』などと書いてあります」

吉田氏「日米合同委員会の密約文書では『事実上の問題として委任した』となっています。つまり法的根拠はなにもないけれど、既成事実を合同委員会が追認する、ということなんです」

岩上「つまり占領体制が、今も既成事実として今も続いているということですね」

岩上「こうした空域は、横田だけではなく沖縄にもありますね。それが嘉手納ラプコンです。これは一応、2010年に日本側に移管されました。しかし実態は、新たに『アライバル・セクター』というものが設置されていたと」

岩上「密約というものは、1950年代に生まれたものだと思われてきました。ところがこの嘉手納ラプコンの問題でも分かるように、今も日米合同委員会の中でドンドン密約が生まれているんですね!? これは本当に驚きです」

岩上「ここまでは沖縄の空域に関する話だったんですけど、実はこうした空域制限は全国に拡大されていると。それが『アルトラブ』ということだというのですが」

吉田氏「移動型と固定型がありますが、日本列島を縦断するかたちで米軍専用に設定されています」

岩上「さて、最後のチャプターです。いったい、この日米合同委員会はそもそも何のために作られたのか、という点です」

吉田氏「日米合同委員会の前身に予備作業班というものがありました。これが、国会を関与させないための仕掛けだったんです」

吉田氏「そしてその上で、米軍の特権を保障するための国内立法措置が次々と講じられていくことになります。例えば国有財産管理法では、米軍基地のために国有地を無償で提供できることになっています。他にも土地等使用特別措置法では、民有地の強制収用も」

吉田氏「なんでこんなことになってしまっているかというと、日本には『安保法体系』と『憲法体系』の2つが存在しているからだと思います。そして、前者が後者を侵食している。そのことを可能にする装置として機能しているのが日米合同委員会なのです」

岩上「そしてこの、『安保法体系』の前身が『占領管理法体系』であると。天皇による勅令のうえに、連合国最高司令官(マッカーサー)の指令や覚書が位置していたと」

岩上「長時間となりましたが、最後にまとめをお願いします」

吉田氏「戦後の日本には、『憲法体系』の外に『安保法体系』と日米合同委員会の『密約体系』がある。そしてそれが、今も米軍の占領体制を継続させているのではないでしょうか」

以上で「岩上安身による『日米合同委員会の研究』著者・吉田敏浩氏インタビュー」

の実況を終了します。動画アーカイブは準備が整い次第、IWJのホームページ(http://iwj.co.jp/ )にアップいたします。


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「米側の代表者が軍人であることは、現在も日本がGHQの占領継続下にあることの象徴です:兵頭正俊氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21257.html
2016/12/9 晴耕雨読

https://twitter.com/hyodo_masatoshi

日米合同委員会。


米側の代表者が軍人であることは、現在も日本がGHQの占領継続下にあることの象徴です。


日本もいずれ「制服組」がこの場に出席することになるでしょう。


日本には、すでに文官統制も文民統制(シビリアンコントロール)も、ありません。


観念の「制服組」(安倍晋三)が、武器輸出を可能にしました。


集団的自衛権行使を可能にし、これからアフリカ・中東に参戦し、改憲もやるでしょう。


制服を着ているか否かの違いだけであって、この国の軍事は「背広を着た制服組」(安倍政権)にすでにとって代わられています。


日米合同委員会。


米日1%は、植民地を永続化するために、日本を軍事国家に変えます。


軍人の権力を拡大し、最終的には日米合同委員会を、宗主国の軍人と植民地の軍人とで仕切ることになるでしょうね。


>矢部宏治日米合同委員会を特集した報道ステーションに拍手。こうした形でジワジワと事実が国民に広まっていく。しかしなぜメイン・コメンテーターに、安保村代表の後藤謙次などを使っているのか。「日米合同委員会は単なる手続き機関」というコメントは全くの虚偽。それなら協議内容を完全非公開にする筈がない 


日米合同委員会。


米側代表は在日米軍司令部副司令官。


これは戦勝国にして宗主国の軍人が、まだ占領の延長上であることを威圧的に示していますね。


同時に、実際の政治的な権力者が出席しているのだと思います。


軍人の位置づけが米国は高いですからね。


>Tad #報ステ 日米合同委員会 鳩山元総理「日本側は高級官僚が出席しても、アメリカ側は高級官僚ではなく軍人が出席する。まさに占領されているのに等しいと思います」


日米合同委員会からは多くの検事総長を出しています。


つまり、日米合同委員会には官僚の最高のエリートが出席しています。


実質的な日本の重要な政策はここで決められます。


ここで決められたことが官僚によって法案化され、政府に降ろされるのです。


>萩原 一彦 見てない人は見たほうがいい。今の日米政府がとっても不均衡な力関係にあることがわかる。国民の代表ではない日本の高級官僚と、米国民の代表ではなく高級官僚ですらない米軍人が日本の運命を決める。→報ステ特集「日米合同委員会と日米地位協定」憲法を越える存在!?非公開の日米合同委員会20161206houdoustation @gomizeromirai より - http://www.dailymotion.com/video/x54jwia_%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81

日本の現実は、上位法として、日米合同委員会で作る不可視の「密約法体系」があります。


続いて安保法体系が存在しています。


その後に下位法として憲法が存在しているのです。


これが植民地日本の現実です。


>徳永みちお 官僚が服従を誓う相手は国民でもなく、政治家でもなく、日米合同委員会だ。日本の政治、行政、司法の歪さの原因の一端は日米合同委員会という存在にある。


実は、自民党がいくら気張って新しい憲法を作ったとしてもあまり意味はないのです。


憲法の上に安保法体系が存在し、さらにその上位に日米合同委員会などの不可視の密約法体系が存在するからです。


日本は大きな虚妄の上に成り立った国家なのです。


>よーすけ 鳩山由紀夫のこの証言により日本の基本政策が、日米合同委員会で決められてる事が明らかになったと言える。いわばGHQの延長がこれである。これに逆らったために鳩山氏も嘗ての田中角栄も総理の座を追われたとも言える。許しがたい仕組みである。


安倍晋三が、極端なまでに軍事国家建設に走っています。


これは、背広を着た制服組(安倍晋三)が、背広組のトップに立っているのと同じです。


すでに文民統制(シビリアンコントロール)は、実質的な制服組(安倍晋三)に奪われているのです。


いずれ日米合同委員会に、自衛隊の幹部が出席するようになるでしょうね。


つまり植民地を永続化するために、日本を軍事国家に変える。


軍人の権力を拡大し、日米合同委員会を、宗主国の軍人と植民地の軍人とで仕切る。


その可能性が強くなっています。


安倍晋三は、12月の26、27両日、ハワイでオバマに会うが、プレゼントに「カジノ法案」を強行採決する。


宗主国でのカジノが斜陽になった現在、自国にうじゃうじゃといるギャンブル依存症には目をつぶり、わずか6時間の審議で衆議院可決させた。


安倍晋三が真珠湾を訪れる。


保守の反発を恐れて、首相周辺は、首相は訪問に際して謝罪は予定していない、と必死だ。


「犠牲者の慰霊のための訪問だ」。


バカである。


戦争のできる国へと日本を堕落させ、軍拡に努め、南スーダンにも派兵している。


矛盾したその場しのぎを平気で口にする。


安倍晋三がハワイの米国記者たちに「謝罪はしない」といえるかといえば、とてもおぼつかない。


しかし、こういうことは明確にいわねば、米国では一方的に謝罪にきた、と喧伝され、その見方が定着するだろう。


相手がどう受け取るか。


これが、かれの世界では一貫して欠如している。


「主観の嘘」ばかりだ。


太平洋戦争は、米国に開戦へと追い込まれた、強いられた戦争であった。


真珠湾攻撃も、事前に米国は知っており、参戦の大義を得るために、あえて日本に奇襲させたのである。


このことは米国ばかりか、すでに世界の共通理解になっている。


日本国民だけが米日1%に都合の悪い歴史を知らされていないのだ。


①米国の言い分は、太平洋戦争は日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった、というものだ。


原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった、とする。


オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕だった。


②卑怯な真珠湾奇襲、のストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ謝罪させなければならない。


そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。


パールハーバーによって広島・長崎を相対化するのだ。


広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、 1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭 2 米日軍事同盟の強化 の2点から成っている。


行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。


第一幕はすでに上がった。


オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。


相当に国民の暮らしが苦しくなり、生活保護の受給者が増えてきています。


「しね しね団」安倍晋三の悪政が、追い詰めているのです。


結局は社会コストの増大になって跳ね返っています。


安倍には自分のやっていることの意味がわかっていませんね。

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なぜ日本はアメリカの「いいなり」なのか?知ってはいけないウラの掟 内閣改造でも絶対に変わらないこと
2017.08.05 矢部 宏治  現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/292.html


私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっているという。

たとえば2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」が、大きな注目を集めたが、日本での首脳会談が近づくにつれて事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられなかった。なぜ、いつまでたっても北方領土問題は解決しないのか。はたして、この国を動かしている「本当のルール」、私たちの未来を危うくする「9つの掟」とは?

『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」を解き明かす。

■事実か、それとも「特大の妄想」か

それほどしょっちゅうではないのですが、私がテレビやラジオに出演して話をすると、すぐにネット上で、「また陰謀論か」「妄想もいいかげんにしろ」「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」などと批判されることが、よくあります。

あまりいい気持ちはしませんが、だからといって腹は立ちません。自分が調べて本に書いている内容について、いちばん「本当か?」と驚いているのは、じつは私自身だからです。「これが自分の妄想なら、どんなに幸せだろう」いつもそう思っているのです。

けれども、8月17日発売の新刊『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』をお読みになればわかるとおり、残念ながらそれらはすべて、複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実ばかりなのです。

ひとつ、簡単な例をあげましょう。

以前、田原総一朗さんのラジオ番組(文化放送「田原総一朗 オフレコ!」)に出演し、米軍基地問題について話したとき、こんなことがありました。ラジオを聞いていたリスナーのひとりから、放送終了後すぐ、大手ネット書店の「読者投稿欄」に次のような書き込みがされたのです。

<★☆☆☆☆〔星1つ〕 UFO博士か?
なんだか、UFOを見たとか言って騒いでいる妄想ですね。先ほど、ご本人が出演したラジオ番組を聞きましたが(略)なぜ、米軍に〔日本から〕出て行って欲しいというのかも全く理解できないし、〔米軍〕基地を勝手にどこでも作れるという特大の妄想が正しいのなら、(略)東京のど真ん中に米軍基地がないのが不思議〔なのでは〕?>

もし私の本を読まずにラジオだけを聞いていたら、こう思われるのは、まったく当然の話だと思います。私自身、たった7年前にはこのリスナーとほとんど同じようなことを考えていたので、こうして文句をいいたくなる人の気持ちはとてもよくわかるのです。

けれども、私がこれまでに書いた本を1冊でも読んだことのある人なら、東京のまさしく「ど真ん中」である六本木と南麻布に、それぞれ非常に重要な米軍基地(「六本木ヘリポート」と「ニューサンノー米軍センター」)があることをみなさんよくご存じだと思います。

そしてこのあと詳しく見ていくように、日本の首都・東京が、じつは沖縄と並ぶほど米軍支配の激しい、世界でも例のない場所だということも。

さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。

なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、

○ アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○ 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。

という見解が、明確に書かれているからです。

つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。


六本木ヘリポート(googlemapより)

■北方領土問題が解決できない理由

さらにこの話にはもっとひどい続きがあって、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、たとえば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、次のような大原則が存在するというのです。

○ だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない。*註1

こんな条件をロシアが呑むはずないことは、小学生でもわかるでしょう。

そしてこの極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ間違いなく日米のあいだに、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の密約)があることを意味しています。

したがって、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土問題が解決する可能性は、じつはゼロ。ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた、ゼロなのです。

たとえ日本の首相が何か大きな決断をし、担当部局が頑張って素晴らしい条約案をつくったとしても、最終的にはこの日米合意を根拠として、その案が外務省主流派の手で握り潰されてしまうことは確実です。

2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」は、大きな注目を集めました。なにしろ、長年の懸案である北方領土問題が、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと報道されたのですから、人々が期待を抱いたのも当然でしょう。

ところが、日本での首脳会談(同年12月15日・16日)が近づくにつれ、事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられませんでした。

その理由は、まさに先の大原則にあったのです。

官邸のなかには一時、この北方領土と米軍基地の問題について、アメリカ側と改めて交渉する道を検討した人たちもいたようですが、やはり実現せず、結局11月上旬、モスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全保障局長から、「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」という基本方針が、ロシア側に伝えられることになったのです。

その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルー・リマでの日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し、「君の側近が『島に米軍基地が置かれる可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる」と述べたことがわかっています(「朝日新聞」2016年12月26日)。

ほとんどの日本人は知らなかったわけですが、この時点ですでに、1ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることは、完全に確定していたのです。

もしもこのとき、安倍首相が従来の日米合意に逆らって、「いや、それは違う。私は今回の日ロ首脳会談で、返還された島には米軍基地を置かないと約束するつもりだ」などと返答していたら、彼は、2010年に普天間基地の沖縄県外移設を唱えて失脚した鳩山由紀夫首相(当時)と同じく、すぐに政権の座を追われることになったでしょう。

■「戦後日本」に存在する「ウラの掟」

私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていないそうした「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっています。

そして残念なことに、そういう掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。


日米安全保障条約:外務省外交史料館で展示されている署名(1960年1月19日・Photo by World Imaging creativecommons)

私が『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』を執筆したのは、そうした「ウラの掟」の全体像を、「高校生にもわかるように、また外国の人にもわかるように、短く簡単に書いてほしい」という依頼を出版社から受けたからでした。

また、『知ってはいけない』というタイトルをつけたのは、おそらくほとんどの読者にとって、そうした事実を知らないほうが、あと10年ほどは心穏やかに暮らしていけるはずだと思ったからです。

なので大変失礼ですが、もうかなりご高齢で、しかもご自分の人生と日本の現状にほぼ満足しているという方は、この本を読まないほうがいいかもしれません。

けれども若い学生のみなさんや、現役世代の社会人の方々は、そうはいきません。みなさんが生きている間に、日本は必ず大きな社会変動を経験することになるからです。

私がこの本で明らかにするような9つのウラの掟(全9章)と、その歪みがもたらす日本の「法治国家崩壊状態」は、いま沖縄から本土へ、そして行政の末端から政権の中枢へと、猛烈な勢いで広がり始めています。

今後、その被害にあう人の数が次第に増え、国民の間に大きな不満が蓄積された結果、「戦後日本」というこれまで長くつづいた国のかたちを、否応なく変えざるをえない日が必ずやってきます。

そのとき、自分と家族を守るため、また混乱のなか、それでも価値ある人生を生きるため、さらには無用な争いを避け、多くの人と協力して新しくフェアな社会をいちからつくっていくために、ぜひこの本を読んでみてください。

そしてこれまで明らかにされてこなかった「日米間の隠された法的関係」についての、全体像に触れていただければと思います。


本書の内容をひとりでも多くの方に知っていただくため、漫画家の、ぼうごなつこさんにお願いして、各章のまとめを扉ページのウラに四コマ・マンガとして描いてもらいました。全部読んでも3分しかかかりませんので、まずは下に掲げたマンガを読んでみてください。
http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/292.html

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なぜ、日本では国会議員が地方議員の仕事をしているのか 2015年6月15日
http://www.yamamotomasaki.com/archives/1991


日本政治を図らずも30年近く見てきて、いつも不思議に感じてきたことがある。

それは、「地方分権」と言われながら、いまだにすべての情報は中央、東京に集中し、内政における大枠の情報がほとんど東京に集中していることである。しかも国家主権にわたる外交、安全保障、国の経済政策、教育政策、福祉政策、医療政策、その他の分野でも大きな方針、政策は、すべて霞ヶ関から、国会議員に「勉強会」という形で官僚から卸されてくるのである。

そこで国会議員になった人間は、その中の一つか二つの分野に精通し、期数を重ねることによっていわゆる族議員というものになって、その内政の利権のお裾分けに預かる。この仕組みが、今も続く戦後の日本政治である。

さらに不思議なことは、その霞ヶ関に大きな政策を棚卸ししてくるのが、戦勝国であるアメリカなのである。

今回は、その大きな役割の一つを担っている「日米合同委員会」なるものを改めて紹介したい。不勉強の小生はこの組織のことを知ったのが、十年ちょっと前である。2011年の311以降、ネットや一部の本でもやっと言及されるようになったが、多くの日本人はマスコミがほとんど報道しないので全く知らないのではないだろうか。

そのためにいまだに一般の日本人には、認識されていないが、「日米合同委員会」というものが、戦後日本政治をコントロールしてきた最重要会議であることは間違いないのである。憲法で規定された国権の最高機関である国会を現実には超越していると言っても過言ではない。今回の安保法制を巡ってもテレビのニュース等で、あたかも日本が独立国としてこの法制を審議しているかのような報道がなされているが、残念ながら、このような報道は戦後に創られた共同幻想を維持するためものでしかない。


ところで、話題の書である矢部宏治氏は『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、矢部宏治氏は、「日米合同委員会」についてこう書いている。


日本はなぜ帰途と原発を止められないか


「官僚というのは法律が存在基盤ですから、下位の法体系(日本の国内法)より、上位の法体系(安保法体系)を優先して動くのは当然です。裁判で負ける側には絶対に立たないというのが官僚ですから、それは責められない。

しかも、この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。

とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです」

日米合同委員会の構成メンバーを見ると、米側がほとんど軍人である。

米側代表は在日米軍司令部副司令官である。

代表代理として在日米大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、
24:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:14:58


2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。

ヘンリー・キッシンジャー、サイラス・バンス、ジェームズ・ベイカーが国務長官だったときに副次官補を務めたスティーブ・パチェニクはWikiLeaksについて、クーデターを阻止しようとしている情報機関内のグループが作り上げたのではないかと推測している。

___


非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。

この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。

日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。
激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。


http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/

(一部のみ)

1月14日付け


EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters


世界を支配しているCIAの3派


By the Anonymous Patriots

The Millennium Report Exclusive


(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)

CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。

大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。
現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。
このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。


CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。
大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。


オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。

更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。


CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。
CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する


組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。


DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。


1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。


国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。


クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。
クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。


クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。
つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。
一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。

法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。


クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。

彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。


オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。
CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。

ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。
クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。


オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。


スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。


CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。

CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。
NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。


CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。
クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。

CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。

現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。

CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。


オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。

CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。
アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。
CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。


CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex-CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。


GB-CIA:Gold backed CIA

元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。

GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。
GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。


GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。


また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。
彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。


Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):


パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。


パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。

パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。


ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。
オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。


ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。


パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。

ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。


ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。
当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。
当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。


パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。

最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。


パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の
金(ゴールド)を盗んだ。
そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。


Ex-CIA:


既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。
政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。

Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。


Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。
弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。
CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。


コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。


ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。


これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。

アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。
それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。

クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。


トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。


トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。


CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。


トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。
トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。

トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。
愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。


CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。


ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。

以下省略
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html
25:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:16:26


ヒラリーの戦争犯罪 Paul Craig Roberts 2016年10月20日

2016年10月20日の今日は、アメリカのオバマ大統領と、ヒラリー・クリントン国務長官が組織し、解き放った勢力によるムアマル・カダフィ虐殺五周年だ。 CBS“ニュース”での大喜びで笑いながらの殺人女の振る舞いを思い出して頂きたい。“来た、見た、彼は死んだ。”
https://www.youtube.com/watch?v=Fgcd1ghag5Y


ムアマル・カダフィは、世界で最も進歩的な指導者だった。カダフィは、リビアの石油の富を、リビア国民のために使っていた。彼は、宮殿ではなく、立派なテントではあるが、テントで暮らしており、アメリカ政府の中東同盟国である、サウジアラビアや、産油首長国支配者一族につきもののヨーロッパ高級車や他のあらゆる身の回り品のコレクションを持っていなかった。

リビアでは、教育、医療と、電力は無料だった。ガソリンは事実上無料で、一リットル、14セントで売られていた。子どもを産んだ女性は、現金の助成金を貰い、カップルが結婚すると現金の助成金が貰えた。リビアの国営銀行は、無利子で融資し、農民には無償で開業資金を供与した。http://www.globalresearch.ca/libya-ten-things-about-gaddafi-they-dont-want-you-to-know/5414289 連中が、人々に知って欲しくないカダフィに関する10のことがら(英文)

カダフィがアメリカ政府から自立していたことが彼の没落をもたらしたのだ。若い頃のカダフィの目標は、アラブを、欧米の略奪に抵抗できる一つの圏に組織することだった。いらだった彼は、汎アフリカ主義に向かい、アメリカのアフリカ軍に参加するのを拒否した。彼は、アフリカ人をアメリカの金融覇権から解放するはずの、金本位のアフリカ通貨を導入したがっていた。

カダフィは、中国のエネルギー企業に、リビアのエネルギー資源を開発させており。、地中海でのロシアの存在で、既に腹を立てているアメリカ政府は、今や中国の存在にまで直面することになったのだ。アメリカ政府は、カダフィは、まずい連中と付き合っているので、退陣させるべきだと結論を出した。

アメリカ政府は、傭兵を編成し、連中を、シリアでと同様“反政府派”と名付け、リビア政府にけしかけた。カダフィ軍が勝っていることが明らかになると、アメリカ政府は、うぶでだまされやすいロシアと中国の政府を騙し、国連で、NATOによって、リビア領空に飛行禁止空域を設定することを認めさせた。飛行禁止空域の建前の目的は、やってもいなかった、カダフィによる民間人攻撃を防ぐためということだった。本当の理由は、主権国家のリビア空軍が、地上の軍隊を支援するため、自分の領空を使えなくするためだった。Onceだまされやすいロシアと中国が、安全保障理事会の議決で拒否権を行使そこねると、アメリカとNATO自身が決議に違反して、カダフィの軍隊を攻撃するために欧米の空軍力を用いて、紛争を、CIAが組織した傭兵に有利にした。カダフィは捕らわれ、残虐に殺害された。かつて繁栄し、成功していた社会だったリビアが、それ以来、混乱状態にあるが、それは、オバマ政権が望んでいたものだ。

サダム・フセインについて語られ、現在、シリアとロシアについて語られているウソと同様に、カダフィとリビアについては、あらゆるウソが語られた。イギリス議会報告は、欧米の人々は、リビア破壊に対する支持を得るためのウソを各国政府から吹き込まれ、リビアは、カダフィが欧米の覇権にとっての障害と見なされていたがゆえに破壊されたと、明白に結論付けている。
http://www.globalresearch.ca/libya-war-was-based-on-lies-bogus-intelligence-nato-supported-and-armed-the-rebels-british-parliamentary-report/5547356?utm_campaign=magnet&utm_source=article_page&utm_medium=related_articles

彼女の監督下で準備されたこの戦争犯罪のかどで、ニュルンベルク裁判時の法律において、彼女が有罪であることについて、殺人女に質問した売女マスコミは皆無だ。殺人女を支配している巨大な政治力を持ったひと握りの集団と、連中の手先の売女マスコミは、この戦犯を次期アメリカ大統領にするつもりなのだ。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-5564.html


▲△▽▼


一枚の写真から分かる悪魔の手先ヒラリーの本性 自身は脳血栓で自滅 溺愛のリビア米大使も報復で死亡 アベノミクスにも陰り 
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/167.html


上の写真は、アメリカ軍の兵隊と一緒にピースサインを出す、最高の笑顔を浮かべたヒラリーという印象である。
しかし、事実を知るヒラリーの本性が分かる。


実は、写真は、カダフィが惨殺される2日前の2011年10月18日に撮影された。
彼女の周りの男たちは、アメリカ軍の兵隊はひとりもいない。マフィアのような男たちは、リビア人やアラブ人ではない。彼らは、アフガニスタン人であり、アメリカの特殊部隊に雇われている傭兵(マーシナリー)である。この男たちが首にかけている認識カードは、背後の米軍輸送機に乗れる資格証である。


当日ヒラリーは、カダフィー暗殺部隊最高司令官として着任した。まるでマッカサーのように、思いのままに、防諜作戦を遂行し、その成果如何で次期大統領の椅子が約束されていることを確信しての満願の笑顔だったのだ。


しかし、ヒラリーと一緒に映っている彼らは、カダフィを殺した後、処分された。
彼らは、故郷のアフガニスタンに凱旋(がいせん)しようとして、首都カブールの空港に着陸しようとしたとき、タリバーンの反政府ゲリラ(笑)のロケット弾で撃墜され、全員、死亡。アメリカによる実行犯たちのáÄ口封じ”である。


その“巨大なワル女”のヒラリー・クリントンが、ついに脳血栓(のうけっせん)で倒れた。
失神してゲロを吐いて倒れて(始めはウイルス性腹痛と発表。安倍晋三も近いかな?)、緊急入院後に、脳血栓が見つかった。それは、日本では総選挙の当日の12月16日(アメリカでは15日)のことだった。 これでヒラリーはおしまいだ。 彼女が、次の米大統領になる可能性は突然、消えたのだった。


その前に、ヒラリー(の脳)を死ぬほど苦しめる大事件が、リビアで起きていた。


事件はアメリカ政界を揺さぶる巨大な事件になる可能性があった。その後、10月22日の第3回のオバマと、ロムニー共和党候補者のディベートの確か、前日に、ヒラリーが、 “ I am responsible for Libya .” 「私にリビアで起きた事件について(大きな)責任がある」 記者会見で発言した。


このことで、リビア米大使館襲撃(された)事件の責任が、オバマにはない、ということになって、外交問題を巡る共和党系国民からの、オバマへの激しい非難を、オバマは回避することができた。出来た、ということにアメリカ国内の国論として決まったのである。


(転載貼り付け始め)


●「駐リビア米大使死亡か 領事館襲撃事件」
2012年9月12日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120912/mds12091219240002-n1.htm

ロイター通信などは9月12日、リビア当局者の話として、同国北東部ベンガジの米領事館が11日に群衆に襲撃された事件で、米国のクリストファー・ スティーブンズ駐リビア大使を含む計4人が死亡したと伝えた。

米国務省は襲撃で職員1人が死亡したとしているが、詳細は明らかにしていない。中東の衛星テレビ、アルジャジーラによると、大使は出張でベンガ ジを訪れていたという。ほかの3人も大使館職員としている。

群衆はロケット砲も使用、領事館は放火され、略奪もあったという。リビアでは、昨年8月にカダフィ政権が崩壊したが、内戦時に大量に出回った武 器の回収が進まず、貧弱な治安体制が浮き彫りとなった。(共同通信)

(転載貼り付け終わり)


一体、どういう大事件がこの時、起きていたのか。今に至るも、日本国民は、指導者層を含めて、この「9月11日、リビア米領事館襲撃、そして、米大使以下4人の死亡」という事件の真実と大きな波紋のことを誰も知らない。この私でさえ、11月に入ってからようよくその全体像を知った。


それは、ヒラリーが、その前年の2011年10月20日に、リビアの最高指導者のカダフィを、ヒラリーが送り込んだ殺し屋部隊に惨殺させたからである。 その報復、仕返し、復讐の事件が、だから、その翌年の9月11日に、リビア第二都市であるベンガジ(首都トリポリに次ぐ)で起きたからだ。


相手を殺してやる、というほどの、復讐の気持ちほど、恐ろしいものはない。自分の身はどうなってもいいから、自分の体に爆弾を巻きつけて、敵の陣地にまで、自殺攻撃(スーサイダル・ボミング)を仕掛けるほどの 深い憎しみ、憎悪、怨念こそは、 私たち人間(人類)を突き動かす本当の、時代の変化のモーメンタム(動因)である。決心して人を殺しにゆくほどの深い憎しみを双方が持つことが日常的にならなければ戦争にはならない。


ここに、殺されて、その死体を地面に引き釣り回される、リビア駐在米大使であった、アメリカの国務省キャリア外交官で、人殺し部隊の司令官であった クリストファー・スティーブンスの 画像写真を貼り付ける。 謀略国家 アメリカ の手先を今もやり続ける者たちは、人にあまりにもひどいことをしたら、自分もこういう目に遭うのだ、という戒めの為にまざまざと見つめるがいい。

↑ 駐リビア米大使クリストファー・ スティーブンス の死体。民衆にひきづり回されている。

この アメリカの人殺し部隊の司令官であった クリス・スティーブンスに哀悼の気持ちなど抱かない。リビアや中東の人々にあまりにも残虐なことばかりしてきた人間の末路だと、自業自得なのだ。


今でも、虐殺されて血だらけで横たわっているカダフィの死体の写真を、自分の家の通路の壁に飾って、時々、拝んでいる人間だ。リビア国民はカダフィ政権が、無理やり、フランス・ユーロファイターの爆撃隊とアメリカのグローバル・ホーク(無人偵察殺人機。プレデター)と 「アルカイーダ」や反政府勢力と称するイスラエルとアメリカの特殊軍が育てた人殺し専門のならず者たちによって計画的に打ち倒されたことを知っている。


1994年のソマリアのモガデシオで起きた米海兵隊のブラック・ホーク撃墜と、ソマリア民衆による米兵士の死体引き釣り回し(裸にして縄にかけて地面をひきづる)の事件とは少し違うのだ。なぜなら襲撃されて殺されて死体を引き釣り回されたのは、今回は軍人ではないアメリカのキャリア外交官で大使(アンバサダー)だったからだ。大使はその国家を対外的に代表する。


大使というのは、元々は王様(国王)のお友達のような人間で、白い手袋を脱いで相手国に投げつけたら、それは宣戦布告を意味する。日本でも大使は今は認証官(にんしょうかん)というが、昔は、天皇の勅任官(ちょくにんかん)である。


そして、このクリストファー・スティーブンス J. Christopher Stevens は、ヒラリー国務長官の信頼の厚い、直属の家来だった。スティーブンスは、自分たちのカダフィ殺しの一周年記念のパーティをベンガジの米領事館で開こうと有頂天になって準備していたのだ。


そして、ヒラリーが大統領になるだろうから、その時は、自分もホワイトハウスの別室をもらって、ネオコン派としての凶暴な世界軍事制圧計画のプランナー、戦略家になれる、と本当に信じ込んでいたようだ。


このクリストファー・スティーブンスの横にいて、「日本食い尽くし極悪人」のアーミテージとそっくりのタコ入道の男が、情報管理担当官のショーン・スミスSean Smithである。死んだあとのふたりは、米海軍の特殊部隊のアザラシ部隊 Seals の隊員だった者たちだ。自分たちが人殺し、暗殺部隊だから、自分たちも同じように殺されたのだ。


このことが、ヒラリーにとっての痛恨の事態となった。 この 死体ひきづり回しの画像がネット上に公開された9月11日から、アメリカ政界は大騒ぎになった。そして、それが今も「リビア米領事館襲撃(された)事件の責任問題」として、日本の新聞記事にもチラチラ、前後の真実の説明もなく 書かれているのである。 


以下は、このアメリカ大使殺しのことを記したものある。


(転載貼り付け始め)


ここでひとつ重要な事件が起きた。 オバマが11 月4日の大統領選挙で再選される、その2週間前の対論(ディベート)で、オバマが共和党のロムニーの追撃をかわして逃げきったとされるシーンがあった。


日本人にはほんの瞬間のことだったのでよくわからなかった。外交問題を巡る議論の最中でのことだ。アメリカ政治分析の専門家であるこの私にも、この瞬間の重要性がはっきりと理解できるのにその後1ヵ月かかった。どうやらアメリカ国民の間で、大統領選挙戦の最中のこの9月、10 月にひとつの大きな山場があったのだ。


それはアメリカの金融・経済や雇用や景気回復の話ではなかった。
問題は、リビアのベンガジ(首都トリポリに次ぐ都市)で、2012年9月11日に起きていてた駐リビア・アメリカ大使が殺された事件である。この時に殺されたアメリカ国務省の外交官は駐リビア大使だったクリス・スティーブンスである。・・・・


2012年9月11日に、リビアのベンガジで、アメリカ領事のクリス・スティーブンスが、リビアの民衆に殺され、遺体が引きずり回された。この事件は、前年2011年2月からの「アラブの春」で、カダフィ大佐が、アメリカ主導の「仕組まれた民主化運動」によって、悲惨な殺され方をしたことへの、リビア民衆の報復であった。
スティーブンスは、エリート外交官である。アメリカ領事館が民衆に襲撃されて殺されて、なんとその死体は路上で引きずり回されたのである。そのときの写真がインターネット上に流れてしまった。これでアメリカ国民の多くの顔がひきつったのである。
 何故なら、リビアで米外交官が殺されたのは、一年前の2011年10 月20 日にリビア中部の町で殺された指導者カダフィの惨殺に対する報復、復讐劇だったからだ。


多くのアメリカ国民がこのことをすぐに悟った。「ヒラリーに忠実なテロ対策特殊部隊を指揮している外交官を、リビア人のカダフィ派の残党たちが、命がけで襲撃して殺したのだ。このクリス・スティーブンスはカダフィ惨殺の現地の責任者だ」と。
アメリカ国内の新聞記事には、どこにもあからさまにこの真実は書かれていない。しかしアメリカ国民ならこのことが空気 でわかる。だから、この直後からこの事件の責任問題が議会で騒がれた。


前述したスーザン・ライス(米国連大使)が早々と、「リビアの米領事館襲撃は、突発的な民衆の暴動によるものだ」とウソの発表をしてしまった。これで更に大騒ぎとなり、議会で、スーザン・ライスとヒラリー・クリントン国務長官を非難する声が大きくなった。
だから12 月中旬の今の今でもまだ、「次の国務長官はスーザン・ライスにする」とオバマ大統領が言っている。しかしオバマがいくら言っても、議会の共和党(筆頭 ジョン・マケイン議員)が「ウソつきの就任を認めない」と強固に反対している。


だからこの事件についてヒラリーが、ついに「私に責任がある。私は国務長官を辞める」と10月21日に 発言した。これで、オバマ自身に事件の責任が及ぶことがなくなった。これで、オバマはロムニーとの大統領戦のディベイト論戦で、この苦境から逃げきったのだ。
ヒラリーにしてみれば、「アラブの春」という凶悪で「安上がり」のテロ攻撃路線( アメリカとアラブ過激派の、一体どっちがテロリストなのか分からない)で、正規の米軍を使わないで、中小国の政権転覆をやってきたことへのしっぺ返しが起きたのだ。人にひどいことをした者は必ず自分もひどい目に合うのだ。

(転載貼り付け終わり)


以上の経緯である。3年前から、オバマの次は、オバマが病気で倒れて次は、狂暴なヒラリーが大統領になる、と予測(予言)してきた。しかし、ゲロを吐いて脳震盪を起こして先に倒れたのはヒラリーの方であった。これで“ワル女“(中国人は皆、ヒラリーが嫌いである。中国に戦争を、アメリカの属国群を使って仕掛けてくるからだ)は終わった。 だから、あとはオバマが倒れて、副大統領のバイデン(CFR派)が後をやる、ということだ。


その時、凶暴なネオコン派が誰を副大統領に送り込むか、である。 それでも、 アメリカの 軍人たちと 教員たち、公務員たちすべての給料を払う原資ががないので、日本の安倍晋三に、「50兆円分の 米国債を買います。それで日本を更に円安と 株高にしてください」 この2月はじめの訪米で言わせるのだ。


それでも この秋から、スペインで再び金融危機が起きる。ユーロは暴落する(今は、1ユーロ=114円まで上がった。今のうちに、ユーロ建てのファンドなどは解約するように) 。 ヨーロッパの国家債務危機が再発して、それはアメリカの財政危機と連動する。その時に、日本国債の暴落の危機が、この秋から生まれる。


この年末12月23日に放映されたNHKの 「日本国債がやがて暴落する」(利回り1%から3・8%への金利暴騰を、米ヘッジファンドどもが仕組んでいる、とする。投資家のジム・ロジャーズを最期の場面で利用していた) の 日本国民を恐怖に陥(おとしい)れ、脅迫している番組は、あれは日本財務省が仕組んで、NHKに作らせた“やらせ番組“である。
 
このことを私たちは鋭い警戒心と共に見抜かなければならない。あの番組に出てきた 幸田真音(こうだまいん)という性悪女(しょうわるおんな)は、日本の国税庁のキャリア上がりの謀略評論家である。私たち日本国民を脅して、財務省に屈服させようとするのだ。
 
軍産複合体企業の取り巻きたちは、こんな瀕死のヒラリーを、2016年の大統領選に担ぎ出そうと躍起だ。日本でのボケ老人「石原」をヨイショする輩と似ている気がする。
●Rested-looking Hillary Clinton dodges 2016 talk and says she just wants to relax at first paid speech since leaving office




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2019.01.21
不正行為で潤う支配層は内部告発を嫌い、報復する

 CIAによるクーデター、要人暗殺、住民皆殺し作戦、電子情報機関の存在などがアメリカ議会で明らかにされたのは1970年代だった。政府機関による犯罪的な行為が明るみに出る過程で内部告発が果たした役割は小さくない。そこで1970年代の後半から内部告発を難しくするようにシステムは変更され、「民営化」も進められた。そして、メディアの内部からは気骨あるジャーナリストが排除されていく。


 それでも抵抗は消えず、内部告発を支援するウィキリークスも作られた。創設者のひとりであるジュリアン・アッサンジはアメリカの支配層に狙われ、2010年にスウェーデン当局が逮捕令状を発行したことからロンドンにあるエクアドル大使館から外へ出られなくなった。


 話はふたりの女性がスウェーデンの警察でアッサンジにHIVの検査を受けさせられるかと相談したことから始まる。この訴えで逮捕令状が出され、スウェーデンのタブロイド紙が警察のリーク情報に基づいて「事件」を報道して騒動が始まるのだが、翌日には主任検事が令状を取り消す。レイプした疑いがあるとは認めなかったからだ。


 しかし、その決定を検事局長が翻して捜査の再開を決める。その直後にアッサンジはスウェーデンを離れた。逮捕令状の請求はその2カ月後のこと。


 2017年にスウェーデン当局は捜査を中止、逮捕令状を取り消すのだが、​11年にアメリカは秘密裏にアッサンジを起訴していた​。これは裁判所へ提出された文書の中に記載されている。


 アッサンジに逮捕令状が出る半年ほど前、ウィキリークスはブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングと名乗っている)特技兵から提供された映像を公開している。


 その中には2007年7月、バグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名をアメリカ軍のヘリコプターが銃撃、殺害する場面を撮影したものも含まれていた。ヘリコプターの兵士は口頭で戦闘員を攻撃しているように報告しているが、映像を見れば非武装の人間だとわかる。


 だからこそマニングは内部告発したのだろうが、彼は2010年5月、アメリカ陸軍のCID(犯罪捜査部)に逮捕され、17年5月まで収監された。


 マニング以外にも政府機関の不正行為を告発した人たちはいる。例えば電磁情報機関NSAの不正を明らかにしたウィリアム・ビーニーやエドワード・スノーデン、イランへ核兵器に関する資料を渡してイラン侵略の口実を作るというCIAの危険な作戦を組織内部で警告したジェフリー・スターリング、そしてCIAなどによる拷問を告発したジャニス・カルピンスキーやジョン・キリアクだ。


 カルピンスキーはイラクのアブ・グレイブ刑務所で所長を務めていたが、所内での拷問が明らかになった後、2004年1月に停職となる。それに対して彼女はその年の6月、BBCに対して刑務所内で拷問が行われていたセクションを管理していたのは軍の情報部であり、彼女は実態を把握していなかったと主張した。


 刑務所内で撮影された写真については、兵士が独断で撮影することはありえないとも指摘した。カルピンスキー本人も命令していない。


 彼女によると、グアンタナモから来ていたジェオフリー・ミラー少将は拘束されている人々を犬のようなものだと表現、そうした人々が自分を犬以下の存在だと信じさせることでコントロールが容易になると主張していたという。2004年7月には、刑務所にイスラエル人の尋問官がいたとも話している。


 後にカルピンスキーは准将から大佐へ降格になった。


 キリアクはCIAの元分析官。2007年12月にABCニュースのインタビューで、CIAの同僚から聞いた話として、ウォーターボーディングと呼ばれる拷問が行われていると語っている。それが問題になり、結局、2013年に懲役30カ月の判決を受けた。


 スノーデンはロシアへ逃げ込む形になった。


 権力者は庶民に知られたくない情報を隠す。その口実として安全保障がしばしば使われるが、実態は犯罪的な行為の隠蔽。日本で成立した特定秘密保護法の目的もそこにある。権力者が内部告発を厳しく取り締まるのは自らの悪事が露見することを防ぐためにほかならない。そこで、「一罰百戒」ということで内部告発者を痛い目に遭わせるわけだ。


 かつて雪印食品の牛肉偽装を内部告発した西宮冷蔵の社長は事業の継続が困難な状況になったというが、その理由は不正を告発するような会社とは取り引きできないという会社が多かったからだ。AKSだけでなく、マスコミ、警察、検察の闇に光を当てることになった女性も厳しい状況に陥っている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901200000/



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2019.01.23
イギリスの軍と情報機関によるロシアを悪魔化して描く極秘の心理作戦が発覚
 ​アノニマス(匿名)を名乗るハッカー集団​が昨年(2018年)11月、あるNGOに関する文書を公開した。そのNGOはインテグリティ・イニシアティブ。イギリスの軍と情報機関による極秘の心理作戦を実行、その活動範囲はアメリカにも拡大し、同国の国務省、FBI、DHS(国土安全保障省)、あるいは有力シンクタンクに強力な同盟者を育成していることが明らかになった。原資の200万ドルはイギリスの外務省が出したという。


 プロジェクトの内容は第2次世界大戦が終わって間もない頃にアメリカで始まった情報操作プロジェクト、モッキンバードに似ていると言われている。


 モッキンバードで中心的な役割を果たしたのは4名。ウォール街の弁護士でOSSやCIAに君臨していたアレン・ダレス、やはりウォール街の弁護士でアレンの側近として破壊工作を指揮していたフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で国際決済銀行初代頭取の孫であるリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムだ。


 フィリップ・グラハムの妻、キャサリンはウォーターゲート事件でリチャード・ニクソンを失脚させた当時のワシントン・ポスト紙社主。フィリップはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺している。キャサリンの父は世界銀行の初代総裁だ。ニクソン辞任で副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領時代、政府内からデタント派が粛清されてネオコンが台頭したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 ウォーターゲート事件の取材は若手記者だったカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードが中心になって行われたが、ウッドワードは少し前まで海軍の情報将校で記者としては素人に近い。事実上、取材はバーンスタインが行ったようだ。


 そのバーンスタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。その記事によると、20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリストで、残りは、出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。また1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)


 当然のことながら、CIAの工作は国境を越える。​フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だったウド・ウルフコテ​は2014年2月、ドイツにおけるCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出している。


 彼によると、ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されている。人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開、人びとをロシアとの戦争へと導き、引き返すことのできない地点にさしかかっているというのだ。2017年1月、56歳のときに心臓発作で彼は死亡する。出版されたはずの英語版は市場に出てこなかった。


 インテグリティ・イニシアティブも人びとがロシアに敵意を持つように誘導する。そのネットワーク内に含まれるウィリアム・ブラウダーはアメリカ支配層の対ロシア戦争で重要な役割を果たしている。


 この人物はボリス・エリツィン時代のロシアでクレムリンの腐敗勢力と手を組んで巨万の富を築いたひとり。不正な手段で手に入れた資産をロシアから持ち出すために使われた銀行のひとつ、リパブリック・ナショナル銀行ニューヨークを創設した人物とヘルミテージ・キャピタル・マネージメントなる会社を共同で創設したのがプラウダーだ。


 この金融ネットワークでマネーロンダリングしていたとロシア当局はにらみ、ブラウダーが雇っていたセルゲイ・マグニツキーが2008年に逮捕される。マグニツキーを弁護士だとする人もいるが、実際は会計士。経済犯罪の鍵を握る人物だったと言われている。


 そのマグニツキーは取調中に死亡、西側では拷問で殺されたと宣伝されてきた。この人物は心臓病を抱えていたことから病死だと考える人が少なくないが、口封じされたと疑っている人もいる。ブラウダーは2013年に欠席裁判で懲役9年の判決を受けているが、ロシアの逮捕令状要請はインターポールが拒否している。


 インテグリティ・イニシアティブが重要視しているのはドイツだが、その矛先はイギリス労働党のジェレミー・コービン党首やドナルド・トランプ米大統領にも向けられている。西側の有力メディアやアメリカの民主党が盛んに宣伝しているロシアゲートの発端になった根拠薄弱で信頼度の低い報告書を作った元MI6オフィサーのクリストファー・スティールはブラウダーにも雇われていた。


 日本のマスコミが権力者の走狗にすぎないことは言うまでもないが、日本で崇拝者が少なくないアメリカやイギリスをはじめとする西側の有力メディアも同類だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901230000/



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2019.01.31
セルビアでCIAの訓練を受けた学生が始めたベネズエラの反政府運動

 アメリカ支配層は1999年からベネズエラの政権転覆を目論んできた。この年の大統領選挙で当選したウゴ・チャベスが自国をアメリカから独立させた、つまりアメリカの巨大資本から石油をはじめとする利権を取り戻したからだ。このときのアメリカ大統領はビル・クリントン。


 ​2002年にアメリカ政府はクーデターを試みた​。計画の中心グループにはエリオット・エイブラムズ、オットー・ライヒ、そしてジョン・ネグロポンテがいた。その際、アメリカ海軍の艦船がベネズエラ沖に待機していたとも言われている。


 2009年にはフランス人のフレデリク・ローレン・ブーケが3名のドミニカ人とチャベス大統領を暗殺しようとしたとして逮捕されている。


 ブーケのアパートにはプラスチック爆弾C4が500グラム、突撃銃14丁、マシンガン3丁、拳銃4丁、ショットガン5丁、さまざまな口径のカートリッジが2万近く、さらに電子起爆装置、ウォーキートーキー、防弾チョッキ、ガスマスクなどが保管されていたという。


 裁判の過程でブーケは自身がフランスの情報機関DGSEのエージェントであり、イスラエルで訓練を受けたことを認めたと伝えられている。


 そのほか何度も暗殺が試みられたと言われているが、そのターゲットになったチャベスは2013年3月に癌で58歳の若さで死亡した。


 生前、​チャベスはアメリカ政府が南アメリカの指導者を癌にしているのではないかと発言​している。実際、癌を誘発する物質や発癌性ウイルスは存在する。


 この発言の背景には、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領、ルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ元大統領、そしてパラグアイのフェルナンド・ルゴ大統領が相次いで癌になった事実がある。


 アルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領も甲状腺癌だとされて手術したが、後に癌でなかったとされている。なお、キルチネル大統領の夫、ネストル・カルロス・キルチネル元大統領は2010年に心臓病のため、60歳で死亡した。


 チャベスの後継者として大統領に選ばれたのがニコラス・マドゥロ。チェベスのようなカリスマ性のない人物だったことからアメリカ支配層はベネズエラの植民地化は容易だと考えたかもしれないが、そうした展開にはならなかった。そして2014年5月、マドゥロ暗殺計画が明らかにされる。


 その直前、2014年2月から5月にかけてベネズエラでは大規模な反政府行動があったが、その指導者のひとりがフアン・グアイドだと言われている。


 ​ジャーナリストのダン・コーエンとマクス・ブルメンタールによると​、グアイドはカラカスの大学を卒業した2007年にアメリカのジョージ・ワシントン大学へ留学している。


 その頃にアメリカ支配層はベネズエラの体制を転覆させるために「2007年世代」を創設、2009年には挑発的な反政府運動を行った。こうしたベネズエラの反政府組織に対し、NEDやUSAIDを介し、毎年4000万ドルから5000万ドルを提供してきた。言うまでもなく、この資金の出所はCIAだ。


 2007年世代が組織される2年前、つまり2005年にアメリカ支配層は配下のベネズエラ人学生5名をセルビアへ送り込んだ。そこにはCIAから資金の提供を受けているCANVASと呼ばれる組織が存在、そこで学生は訓練を受けている。


 CANVASを生み出したオトポール(抵抗)!はスロボダン・ミロシェビッチの体制を倒すため、1998年に作られた組織。ジーン・シャープの理論に基づいて運動していたと言われている。


 ユーゴスラビアの破壊に成功したオトポール!/CANVASは体制転覆の「輸出」を始める。その輸出先のひとつがベネズエラだったわけだ。


 そして今年(2019年)1月に入るとアメリカのマイク・ペンス副大統領がグアイドに電話、その直後にグアイドは自らが大統領だと宣言、アメリカ政府はグアイドを「暫定大統領」だと承認した。昨年、アメリカ政府はベネズエラ軍の幹部に接触してクーデターを実行しようとしたが、説得に失敗したと言われている。そこでカラー革命方式を採用したのだろうが、これも順調には進んでいないようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901310000/




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2019.01.28
米国務長官はベネズエラの政権転覆工作の責任者としてネオコンの大物を任命

 アメリカのマイク・ポンペオ国務長官は今年(2019年)1月25日、ベネズエラのニコラス・マドゥロ政権を転覆させる工作を指揮する特使としてエリオット・エイブラムズを任命した。エイブラムズは現在、CFR(外交問題評議会)の上級特別会員だが、イラン・コントラ事件に連座したことで知られている。


 ベネズエラの政権を転覆させる工作をアメリカ支配層が始めた最大の理由はウゴ・チャベスが1999年の選挙で大統領に選ばれたことにある。チャベスはベネズエラを独立国にしようとしたのだ。


 2001年から2期目に入るが、​その翌年にジョージ・W・ブッシュ政権はクーデターを試みている​。その計画の中心グループにはエイブラムズも含まれていた。そのほかのメンバーはオットー・ライヒやジョン・ネグロポンテだ。作戦の一環としてアメリカ海軍の艦船がベネズエラ沖に待機していたとも言われている。


 ライヒはキューバ系アメリカ人で1986年から89年にかけてベネズエラ駐在大使を務め、ネグロポンテは1981年から85年までのホンジュラス駐在大使を務めてニカラグアの革命政権に対するCIAの秘密工作に協力、2001年から04年までは国連大使、04年から05年にかけてイラク大使を務めた。


 このクーデターは失敗に終わるのだが、最大の理由は事前にチャベスへ計画に関する情報が伝えられていたことにある。当時、OPECの事務局長を務めていたベネズエラ人のアリ・ロドリゲスが知らせていたのだ。


 ブッシュ・ジュニア政権は2003年3月にイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を倒し、破壊と殺戮で「石器時代」にすることには成功するが、親イスラエルの傀儡政権を樹立させることには失敗した。


 フセイン体制の破壊はネオコンの戦略に基づく。ネオコンは遅くとも1980年代からイラクのフセイン体制を倒し、親イスラエル政権を自立させてシリアとイランを分断、中東全域を支配するという計画を立てた。


 1991年12月にソ連が消滅するとアメリカ支配層は自分たちが唯一の超大国になったと考え、世界の覇者になるときが来たと考える。その戦略は1992年2月、国防総省のDPG草案という形で文書化された。


 このときの大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官はリチャード・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツ次官が中心になって作成されたことからこのDPG草案はウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 イラクを親イスラエル体制にすることに失敗したネオコンだが、イラクに続いてシリアとイランを殲滅するというプランは放棄しない。(​ココ​や​ココ​)


 ​ジャーナリストのシーモア・ハーシュがニューヨーカー誌に書いた記事​によると、ジョージ・W・ブッシュ政権は中東における最優先課題をイランの体制転覆におき、レバノンで活動しているイラン系のヒズボラ、イランの同盟国であるシリアを殲滅、そしてイランを倒すという計画を立てる。その手先としてスンニ派を使おうということだ。その中にはフセイン派も含まれた。


 この工作の中心人物は副大統領のリチャード・チェイニー、国家安全保障副補佐官のエリオット・エイブラムズ、そして2007年4月までイラク駐在アメリカ大使を務め、国連大使に内定していたザルメイ・ハリルザドだ。


 エイブラムズを特使に任命したポンペオは2017年7月、アスペン治安フォーラムでベネズエラの「移行」が期待できると語っている。当時、ポンペオはCIA長官だった。


 ベネズエラの政権転覆作戦の一環としてアメリカのドナルド・トランプ政権はジョージ・ワシントン大学で学んだフアン・グアイド国民議会議長を「暫定大統領」として承認した。他国の大統領をアメリカ大統領が決めようとしているわけだ。


 ベネズエラの石油利権を狙っていることは間違いないだろうが、例によってIMFもアメリカに協力、グアイドへ資金を提供していると伝えられている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901270000/



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2019.02.04
アメリカ支配層に破壊された多くの民主的政権

 アメリカの支配層は少なからぬ民主的に選ばれた政権を破壊してきた。そして今、彼らはそのリストにベネズエラを書き込もうとしている。アメリカは民主主義を押しつけているのでなく、民主主義を破壊してきたのだ。


 第2次世界大戦後にアメリカが行った最初の内政干渉はイタリアに対して行われた。戦争中、ヨーロッパで国としてドイツ軍と戦ったのはソ連だけ。西側でドイツ軍と戦ったのは市民で編成されたレジスタンスだった。


 その中心メンバーがコミュニストだったこともあり、大戦後のフランスやイタリアではコミュニストが強く、その勢力をアメリカやイギリスを支配する人びとは潰そうとしたのだ。そうした戦略に基づいてNATOは作られ、破壊工作(テロ)部隊がNATOの内部で活動することになる。


 イタリアで1960年代から80年代にかけ、極左を装って「爆弾テロ」を繰り返したグラディオはそのひとつだが、1962年8月にシャルル・ド・ゴールを暗殺しようとしたジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐の背景も同じだった。


 この人物が所属したOAS(秘密軍事機構)という秘密組織は1961年、ド・ゴールに反発する軍人らによって構成されたが、その黒幕はCIAの破壊工作部門だったのである。


 OASは1961年4月にクーデターを計画するが、これをアメリカの新大統領、ジョン・F・ケネディが阻止した。クーデター軍がパリへ侵攻したならアメリカ軍を投入するという意思を明らかにしたのだ。CIAは驚愕した。1962年にOASの一派はド・ゴール大統領の暗殺を試みたものの失敗、ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。


 アメリカは1953年にイランで合法政権をクーデターで倒している。大戦後、イラン政府はイランを食い物してきたAIOCの国有化を決める。クーデター後、1954年にAIOCは社名をBPへ変更した。


 AIOCが生み出す収入で支配システムを維持していたイギリス支配層は激怒、アメリカ支配層を巻き込んでクーデターを実行しようとしたのだ。このクーデターはアメリカ側が主導権を握ることになった。


 まずアメリカは反政府デモを開始、その際にコミュニストを装ったグループに暴れさせる。反政府デモの一部はモサデク支持の新聞社や政党、政府施設などを襲撃、CIAのエージェントがテヘラン・ラジオを制圧、首相だったモハマド・「モサデク解任の命令が国王から出され、ファジオラー・ザヘディが新首相に就任した」とする情報を流してクーデターは終わる。モサデクの支持派と反対派の衝突で約300名が死亡たと言われている。


 イランの民主的な体制をクーデターで倒したアメリカ支配層は中央アメリカのグアテマラの政権を倒しにかかる。1950年に行われた総選挙で勝利、翌年に大統領となったヤコボ・アルベンス・グスマンが農地改革法を公布して国有地を分配、大地主の土地買い上げを実施、アメリカの巨大資本、ユナイテッド・フルーツの利権を脅かした。


 そして1953年にアメリカ政府はクーデターを計画、CIAの破壊工作部門が指揮することになる。CIA配下の軍人が軍事蜂起するが、一般国民はクーデター軍と戦う意思を示した。それをアルベンス大統領は押しとどめ、1954年にに大統領官邸を離れる。流血の事態を避けたかったという。


 クーデター政権は労働組合の結成を禁止、ユナイテッド・フルーツでは組合活動の中心にいた7名の従業員が変死、コミュニストの疑いをかけられた数千名が逮捕され、その多くが拷問を受けたうえで殺害されたとされている。その後40年の間に軍事政権が殺した人の数は25万人に達するという。クーデターを間近で見ていたひとりがエルネスト・チェ・ゲバラだった。


 1973年9月11日にはチリでアメリカ政府を後ろ盾とするオーグスト・ピノチェトが、軍事クーデターで民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を倒した。アメリカ政府でクーデターを指揮していたのは大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー。その命令でCIAの破壊工作部門が動いている。


 まずCIAは選挙に介入した。メディアや映画だけでなく、パンフレット、リーフレット、ポスター、郵便物、壁へのペインティングなどを総動員したのだが、アジェンデが勝利する。


 一方、アメリカ資本と結びついていたチリの支配層は生産活動を妨害、アメリカの巨大金融機関はチリへの融資をストップ、世界銀行も同国への新たな融資を止めた。1972年になるとトラックの運転手がストライキを実施、商店主、工場経営者、銀行なども同調して全国的なロックアウトに発展する。アメリカ自身を含めてCIAは労働組合の幹部をコントロール、自分たちの手先として使ってきた。


 クーデターの結果、アメリカの巨大資本に盾突く勢力は潰滅、新自由主義が導入される。シカゴ大学のミルトン・フリードマン教授のマネタリズムに基づき、大企業/富裕層を優遇する政策を実施したのだ。その政策を実際に実行したのがいわゆるシカゴ・ボーイズ。フリードマン教授やアーノルド・ハーバーガー教授といった経済学者の弟子たちだ。


 現在、ベネズエラの大統領は2018年5月の選挙で選ばれたニコラス・マドゥロだが、アメリカやEUは勝手に大統領を名乗っているフアン・グアイドを支持している。その直前、2月にアメリカの国務長官だったレックス・ティラーソンはベネズエラでのクーデターを示唆、ラテン・アメリカ諸国を歴訪してベネズエラへの経済戦争に協力するように要請している。それでもマドゥロは勝利した。


 ドナルド・トランプ政権はベネズエラに経済戦争を仕掛け、石油の輸出を止めようとしている。イランの石油も買うなと各国を恫喝、猶予期間は過ぎ去ろうとしている。アメリカの命令に従う人びとはどのようにエネルギー資源を確保するつもりなのだろうか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201902040000/

56. 中川隆[-12375] koaQ7Jey 2019年2月06日 13:54:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告
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2019.02.05
トランプ政権が行うベネズエラの内政干渉に反対する議員をメディアが中傷

 ベネズエラには選挙で選ばれたニコラス・マドゥロという大統領が存在する。その大統領が気に入らない人びとはフアン・グアイドなる勝手に大統領を名乗っている人物への支持を表明、そうした動きを西側の有力メディアは煽っている。

 アメリカの支配層は自分たちの利益にかなう場合、その国の政権を正当だと認める。アメリカの巨大資本に搾り取られることを拒否したなら、「独裁者」や「コミュニスト」といったタグをつけられ、否定されてきた。アメリカ支配層から認められるには、グアイド支持を打ち出さなければならない。

 アメリカへの従属を拒否するウゴ・チャベスが大統領選挙に勝利した1998年からアメリカ支配層はベネズエラの政権を転覆させようと試みてきた。その間、アメリカ大統領はビル・クリントン、ジョージ・H・W・ブッシュ、バラク・オバマ、そしてドナルド・トランプへと交代してきたが、ベネズエラに対する姿勢に大差はない。

 今年(2019年)1月にマイク・ペンス副大統領がグアイドに電話、その直後にグアイドは自らが大統領だと宣言、アメリカ政府はグアイドを「暫定大統領」だと承認した。アメリカ支配層に従う人びとは同調する。

 しかし、ベネズエラ国内での工作は失敗したようだ。ここにきてベネズエラ空軍の幹部がグアイド支持を表明したが、アメリカ政府は昨年、ベネズエラ軍の幹部に接触してクーデターを持ちかけて説得に失敗したと言われている。特殊部隊は侵略軍に対するレジスタンスの準備をしているという。

 クーデターが成功した場合、国営石油会社のPDVSAはエクソンモービルやシェブロンへ叩き売られると言われているが、石油は儲かる商品というだけでなく、ドル体制を維持する重要な柱でもある。

 選挙で選ばれたわけでもない人物を勝手に「暫定大統領」として支持するような行為は内政干渉以外の何ものでもない。その内政干渉を打ち出したのは共和党のドナルド・トランプ政権だが、民主党の大半の議員は沈黙している。例外はロ・カンナ下院議員、タルシ・ガッバード下院議員、イルハン・オマール下院議員、そしてバーニー・サンダース上院議員。有力メディアから誹謗中傷のターゲットにされている。

 2016年の大統領選挙で有力視されていたヒラリー・クリントンを失速させた一因はウィキリークスが公表したヒラリー・クリントンらの電子メールだった。その中にはサンダースが同党の大統領候補になることを妨害するよう民主党の幹部に求めるものがあり、サンダースの支持者を怒らせたのである。民主党幹部たちが2015年5月26日の時点でヒラリー・クリントンを候補者にすると決めていたことを示唆する電子メールもあった。

 怒ったサンダース支持者の相当部分はヒラリーへ投票せず、ロシアとの関係修復を訴えていたトランプに敗北する大きな要素になったと言われている。有力メディアはその事実に触れず、ロシア政府が選挙に介入したとする話を証拠もなしに宣伝してきた。それがいわゆる「ロシアゲート」だ。このスキャンダルがでっち上げである可能性が極めて高いことは本ブログでも繰り返し書いてきた。

 グアイドを暫定大統領と認めることに反対した議員のひとりがこのサンダース。ガッバード議員はシリアへの軍事介入にも反対している。カンナはサンダース旋風が巻き起こった2016年の選挙で当選、オマールは昨年の中間選挙で選ばれた議員。ヒラリー・クリントンを担いでいた支配層に反発した人びとの支援を受けて当選したと言えるだろう。

 本ブログでは何度も書いてきたように、西側の有力メディアの内部にはCIAのネットワークが張り巡らされている。CIAは歴史的にウォール街の機関である。有力メディアが巨大資本の意向に従って動き、「偽報道」をまき散らすのは必然だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201902040000/

2019.02.06
民主的政権を倒して新自由主義体制へ「平和的に移行」しようと主張する人びと


 アメリカ政府はベネズエラの民主的な政権をクーデターで潰そうとしている。これは本ブログでも繰り返し書いてきたことだ。

 アメリカ支配層が潰そうとしているニコラス・マドゥロ大統領は昨年(2018年)5月に実施された大統領選挙において67.8%の得票率でアメリカ支配層を後ろ盾とする候補者に圧勝した。マドゥロ政権は民意によって成立したのだ。

 このマドゥロ政権を倒そうとしているアメリカ支配層にEUや「リマ・グループ」も従っている。この「リマ・グループ」は「平和的な移行プロセス」を求めている。その主張を垂れ流す人たちもいるが、それは民意の否定にほかならない。

 アメリカ政府は昨年、ベネズエラ軍の幹部に接触してクーデターに協力するように求めたが、説得に失敗したと言われている。特殊部隊は侵略軍に対するレジスタンスの準備をしているともいう。ロシアの存在もあり、「軍事的な移行プロセス」は難しい状況なのだ。

 しかし、フアン・グアイドなる自称大統領へ権力を移行させるとする意思に変化はない。グアイドは2007年にアメリカのジョージ・ワシントン大学へ留学、新自由主義を信奉している。政権を奪取した暁には私有化を推進、国営石油会社のPDVSAをエクソンモービルやシェブロンへ叩き売るつもりだと言われている。

 グアイドがアメリカへ留学する2年前、アメリカ支配層は配下のベネズエラ人学生5名をセルビアへ送り込んだことは本ブログでも書いた通り。セルビアにはCIAから資金が流れ込んでいるCANVASと呼ばれる組織が存在、そこでベネズエラの学生は訓練を受けた。CANVASを生み出したオトポール(抵抗)!はスロボダン・ミロシェビッチの体制を倒すため、1998年に作られた組織で、ジーン・シャープの理論に基づいて運動していたと言われている。運動の目的は富の略奪だ。

 ベネズエラに限らず、アメリカの支配層は民主的な政権を潰してきた。例えば1953年のイラン、54年のグアテマラ、60年のコンゴ、73年のチリなどで民主的な政権をクーデターで倒している。

 1965年のインドネシアで実行したクーデターではスカルノを排除しただけでなくアメリカ支配層に刃向かいそうな人びとを大量殺戮、カルト化が進められ、その影響は今も続く。

 2011年3月にはシリアへジハード傭兵が送り込まれて戦争が始まるが、シリアのバシャール・アル・アサド大統領は選挙で選ばれている。その前の月にはリビアでも体制転覆作戦が本格化しているが、この国の生活水準はEU並み、あるいはそれ以上だった。

 2014年にアメリカ支配層はウクライナでクーデターを実行、やはり民主的に選ばれた政権を倒している。その手先になったのはネオ・ナチのグループで、このグループは今でもウクライナで大きな影響力を持っている。

 アメリカの巨大金融資本は1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選するとクーデターを計画した。ファシズム体制の樹立を目指したのだが、これはアメリカ軍の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将によって阻止され、その議会証言が記録に残っている。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の背後にアメリカ支配層が暗躍していたと信じる人は少なくない。それを示す事実も明らかにされてきた。


 そのアメリカ支配層は体制転覆を正当化する口実として「民主化」や「人道」などを掲げる。そうした手法を政策として採用したのはロナルド・レーガン時代。「プロジェクト・デモクラシー」だ。アメリカ国内では偽情報で庶民を騙す目的で「プロジェクト・トゥルース」が始められている。こうした心理操作は効果的だった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201902060000/
26:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:18:22

東京大空襲:恐るべき戦争犯罪に手を染めた米国 B-29が作った逃げようのない火炎地獄、人々はなぜ生きながら焼かれたのか
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/682.html
http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/8/4/600/img_843245e2c2451fa7da2485f7ca89c879247259.jpg


日本空襲を準備するB-29。飛行場を埋め尽くすほど大量のB-29が駐機している。(出所:米空軍博物館)

 3月10日は東京大空襲の日である。約300機の「B-29」が、現在の台東区、墨田区、中央区、江東区にあたる地域を空爆し、一晩で約10万人が犠牲になったとされる。

 当時、この地域は日本最大であるにとどまらず、世界でも有数の人口密集地であった。さらに、密集して建っていたのは木造家屋だった。

 米軍は関東大震災を研究し、この地域で大火災が起きれば民間人に恐るべき人的被害が発生することを知り、それを狙って実行したのである。

 実際、日本家屋を模した家を建て、焼夷弾の実験を行っている。勝てば官軍で不問となっているが、立派な戦争犯罪である。

 他の大都市の空襲や、東京を狙った他の空襲でも犠牲者は数千人レベルであり、原爆の被害を除いては10万人という犠牲者数は突出していた。米軍が狙った最大限の破壊が実現してしまったのである。

悪条件が重なり犠牲者が増えた
 東京大空襲の犠牲者が突出して多かった理由は、米軍の恐るべき狙いが目論みどおりに実現してしまったうえ、日本側に悪条件が重なっていたことだった。

 実は、東京大空襲以前の空襲は必ずしもうまくいっていなかった。また、すでに住宅地も空爆されていたが、あくまでも主目標は軍需工場であり、一般市民の住む住宅地を焼き払うことを主眼にしていなかった。

 サイパン島の基地が完成し日本の主要部分が攻撃圏内に入った後、最初に爆撃目標となったのは、航空エンジン工場である。

 最初に三鷹にあった中島飛行機武蔵製作所が空爆され、次が名古屋の三菱発動機であった。その後も明石の川崎、太田の中島、名古屋の三菱と航空産業を狙って爆撃していった。

 当初、編隊を組んだB-29が高度1万メートルを飛行し、軍需工場に精密に狙いを定めて爆撃するという方法をとった。しかし、爆弾を外しまくり、日本の航空産業は軍用機を作り続けた。

 空爆する時、日本の1万メートル上空を吹き荒れるジェット気流により機体が安定せず、照準器も強過ぎる風に対応できなかった。

 編隊を組む場合、他の飛行機に合わせるための操縦が必要になり、燃料を余計に消費する。また、当時の飛行機では成層圏の飛行は燃料消費が大きかった(ジェット機では高空の方が、空気抵抗が小さく燃費がよい)。

 燃料と爆弾はトレードオフになるため、最大9トンの爆弾を積むことができるはずのB-29だったが、初期の日本空襲では2トン強しか積めなかった。

 また、結論としては、日本はB-29を防げず焼野原にされたのだが、日本軍も少数ながらB-29を討ち取っていた。

 航空産業は潰されていないし、爆弾が落ちてきても被害は爆弾が落ちた周囲に限定されているし、日比谷公園には撃墜したB-29が晒し者になっているし、自分の住んでいる町では日常生活は続いている。

 既に市民にも犠牲者は出ていたが、東京大空襲の前はB-29の最大の破壊力はまだ発揮されておらず、日本側は空襲の本当の恐ろしさを体感するに至っていなかった。

 これも逃げ遅れなどの要因になり、被害の拡大をもたらしたことは想像に難くない。

 しかし、3月10日の空襲では、米軍は様々な新機軸を打ち出してきた。

 東京大空襲はこれまでの空襲と全く違うものだったのだ。以前のB-29は軍需工場を狙っていたが、3月10日の空襲では標的は都市全体だった。

 そして、軍需工場を爆弾の爆発力で破壊するのでなく、焼夷弾で大火災を起こすことで木造家屋の多い燃えやすい都市を丸ごと焼き払うことが計画された。

 1945年3月10日に多くの人々の命を奪った火炎地獄は東京大空襲で初登場だったのだ。

 軍需工場と違い、都市全体であればターゲットが大きいので外すことはない。だいたいの位置で爆弾を落とせばよい。

 より多くの焼夷弾を積むため、燃料を消費する編隊飛行と高空への上昇をやめ、必要な燃料を減らした。さらに防御用の機関銃も降ろした。結果、3倍近い重量の焼夷弾を積むことができた。

 こうした工夫により、より恐ろしい兵器をより大量に積んだB-29が襲ってくることになった。同じB-29でもこれまでよりも破壊力が強化されていたのだ。

 編隊飛行をやめていたことも日本側に災いした。

 大規模な編隊であれば目立つし何をやろうとしているか明らかであるが、個々のB-29がバラバラの方向から飛んできた場合、行動を捉えにくい。これが空襲警報の遅れにつながった。

 空襲警報が出た時には、すでに空襲の火災が始まっていた。空襲は深夜だった。空襲警報を聞いて起き上がった時にはすでに周囲は火の海だったという場合も多かったことだろう。

 当日の気象条件も悪かった。当日は強い北風が吹いていたという。火災の広がりは早かった。それだけでなく、レーダーは吹き飛ばされないように格納され、戦闘機も強風で飛び上がれなかった。日本側の迎撃もやりにくかったのだ。

 迎撃が難しいなか、これまでよりも破壊力を強化したB-29が火災に弱い下町の木造家屋に焼夷弾を大量に投下した。強い風も吹いていた。

 これで瞬く間に火炎地獄になった。火災は上昇気流を巻き起こし、さらに風が強くなる。炎の突風が吹き荒れる状態になった。

 消防隊は出動したが、消防車が火に巻かれ立往生したり、消防署が焼け落ちて消防士が全滅したりして、すぐに消防は機能しなくなった。

 放水を始めても、あまりに火災が強く、酸素を消費したので、酸素不足で消防用ポンプのエンジンが止まってしまったこともあったそうだ。

 空襲警報が遅れたから人々が逃げるのも遅れたが、さらにその場にとどまり火を消すことが命令されていたため、さらに事態を悪化させた。

 空襲された地域は広大だったことも逃げるのを困難にした。火災は南北では墨田区の北端から東京湾まで、東西では日本橋や上野から荒川まで広がった。仮に空襲圏外に出ようとしても、火の中を何キロも進むのは無理である。

被災者の生死は運次第
 路上でも火に巻かれるような状態の中、逃げるにしてもどこを向いても火である。どうすればよかったのか。

 多くの人々はコンクリートの建物や川を目指した。コンクリートの建物は木造の建物よりも燃えにくいし、耐熱性もありそうだ。川は防火壁として機能するだろうし、灼熱地獄から逃れるために川に飛び込みたいという欲求も加わる。

 しかし、東京大空襲の火炎地獄は普通の火災とはレベルが違った。窓が割れれば、そこから火炎が侵入し、コンクリートの建物も内部が焼き尽くされた。

 また、熱気で建物ごと蒸し焼きになってしまうこともあった。

 旧日本橋区の避難所と指定されていた明治座はコンクリートの建物であったが、多数の犠牲者を出すことになった。

 確かに荒川を超えて逃げることができた場合は助かったのだろう。しかし、被害地帯の中心を流れる隅田川に向かった人々には悲劇が待ち受けていた。

 川の向こう側へ逃げれば助かると思うのは自然なことである。隅田川にかかる橋には避難者が殺到した。しかし、東京大空襲では隅田川の両側が空襲されていたので、どちらに渡ろうとも火から逃れることができなかった。

 隅田川にかかる言問橋では、台東区側から逃げてきた人々の流れと、墨田区側から逃げてきた人々の流れが橋の上でぶつかり、進退窮まる状態となった。

 そこに焼夷弾が落ちてきた。人々が持っていた家財だけでなく人そのものにも着火した。文字通り筆舌に尽くしがたい状況になった。

 10メートル近い高さの橋の上から隅田川に飛び込んでも助からなかった。地上は火炎地獄だったが、寒い日が続いた3月の隅田川の水温は摂氏2度。多くの人が低体温症で命を落とした。

 皮肉なことに言問橋の墨田区側、旧本所区向島の河岸地域は焼け残った場所も多かった。墨田区側の避難民に関しては、言問橋に突っ込まず、河岸に留まっていれば助かった可能性が高い。

 実は、東京大空襲の火炎地獄の中でも、ぽつぽつと焼け残った地域があった。そうした場所に逃げ込んでいれば、結果論から言えば助かった。

 例えば、墨田区京島は非常に家屋が入り組んだ地域で、火災でここに逃げ込もうとは思わない場所であるが、周囲はすべて燃えたにもかかわらずこの地区は火災を逃れた。

 しかし、後から見れば焼け残る地域にいればよいと分かるが、空襲下ではどこに焼夷弾が降ってくるかも、火災がどのように広がるかもわからない。

 どこへ向かって逃げればいいか、どこまで逃げれば空襲されている地区から脱出できるのか知る術はない。

 また、どの建物であれば、火災に耐えられるかなど分かりようもない。1945年3月10日にあの場所にいた人々にとっては、生死はまったくの運次第だったのだ。恐ろしいことである。

 もう燃えるものがなくなったのか、火災は午前8時頃にはほぼ鎮火していた。

 昨日まで日本最大の人口密集地で家が立ち並んでいた墨田区、江東区、台東区、中央区北部の大部分が焼け野原になっていた。道には黒こげの遺体で、川は水死体で埋め尽くされていた。

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/b/9/500/img_b9230825db9c535060e8f34a381b6196154614.jpg

隅田川西岸の東京大空襲被害地域 白く見える部分が焼き尽くされた部分である。右側に見える川が隅田川。(出所:米議会図書館)
 3月10日以降、都市を焼き払うことに味を占めた米軍は、名古屋、大阪、神戸と大都市を次々に焼き払い、大都市を焼き終わると、地方都市を焼き尽くしていった。

 東京大空襲ほどの被害規模にはならなかったものの、似たような地獄絵図が日本中に水平展開されていった。そして、8月15日の敗戦時、日本中が焼野原になっていた。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55732  



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ヒロシマ・ナガサキの原爆、東京大空襲など、幼児・児童・老人も含めた民間人を虐殺した米軍です。

下記の記録・証言が事実ではないと断言できるでしょうか?
>== 国内外情勢、近現代史、国のあり方を考える  日本人としての誇りのために!==
◎サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した2005年06月11日
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/24845255.html

 昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。

この著書はもはや絶版となっており、大きな図書館にかろうじてあるくらいだ。
その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

サイパン島「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」

 そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」 投降を勧める放送は再三くり返された。我々はその放送を頭っから否定した。「そんな甘い手に我々がのると思うか」放送を耳にすればするほど、強い敵気心が湧いてきた。

 投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。

 そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。

 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。 ……なんたることをするのだ! 小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)

 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。

あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。

「おい、もうがまんならん。撃て」この状況をみていた私は叫んだ。同時に吉田軍曹が一発撃った。しかし、なんの効果もない。敵は、もはや我々に無頓着である。

 残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

 射撃をやめ、この非道な行為を脳裏に焼きつけた。いまは眼からは一滴の涙も出ず、この恨みを、どこまでも生き抜いていつかきっと返さねばならぬと、全身に激しい怒りがみなぎった。恨みに狂う我々はしかし手のほどこしようもない。焼き殺されていく無惨な運命にただ合掌し、霊を弔うだけが精一杯だった。

 我々の発砲にとうとう敵の反撃が始まった。看護婦たちが自決した右上の丘陵伝いに、攻撃してきた。我々は洞窟に潜み、抗戦をつづけた。そして夕暮れまでなんとか持ちこたえた。だが、この戦闘でも半数は死傷者となり、明日への戦闘能力を失った。

『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

ライフ誌に載った日本人の頭蓋骨のお土産ここにこんな写真がある。
http://livedoor.blogimg.jp/wildhorse38/imgs/b/f/bf16a5c1.jpg

これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等

常識では考えられないことをするのが騎馬民族アングロサクソン、支那人、朝鮮人である。これをやられたのが我々の父であり、祖父の時代の日本人である。

今回 天皇皇后両陛下の戦没者慰霊のご訪問を機に遺族の間に反米感情が沸き起るのではないかと、米政府が心配するのもわかるが、日本人はGHQの洗脳を完全に受け入れて悪いのは日本軍だと思い込んでいるから心配しなくともいいですよ。__
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html#c2


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『東京大空襲の戦後史』 著・栗原俊雄
書評・テレビ評2022年3月17日
https://www.chosyu-journal.jp/review/22985
https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-1916-%E6%A0%97%E5%8E%9F/dp/4004319161

 米軍が戦時中に日本に対しておこなった無差別爆撃は、戦時下でも民間人を狙わないとした国際法に違反する蛮行だった。なかでも1945年3月10日未明の東京大空襲は、たった数時間で10万人以上の無抵抗の非戦闘員を虐殺した。本書は、東京大空襲の被災者たちの戦後70年以上にわたる苦しみや、国に補償を求めるたたかいを取材してきたジャーナリストが、その事実を具体的に伝えることで新しい戦争の最大の抑止力にしようと執筆したものだ。

 1944年夏、米軍がサイパンなどマリアナ諸島を占領したとき、すでに日本の敗戦は決定的だった。米軍は同諸島を拠点に大型爆撃機B29によって日本本土の空襲を始めた。

 それでも日本の支配層は戦争をやめなかった。天皇は1945年2月、重臣の意見聴取をおこなったが、吉田茂が作成した近衛文麿の上奏文では「敗戦は必至。国体(天皇制)護持のために憂うべきは共産革命」とし、天皇は「米軍を叩き、その戦果を持って講和に持ち込む」と戦争継続を主張した。

 米軍の日本本土空襲を、民間人も区別しない無差別爆撃に変えたのは、米陸軍航空部隊将軍のカーチス・ルメイだった。ルメイは「われわれの計算しつくしたうえでの賭けは、近代航空戦史上で画期的なできごとになった」「(民間人大量殺傷が)私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」とのべている。

 そして米ユタ州の砂漠に日本家屋を模した木造住宅の街をつくり、焼夷弾の効果を実験した。焼夷弾は親爆弾の中に40個近い小爆弾を入れ、空中で親爆弾が破裂すると、ガソリンが詰めてある小爆弾が着弾して燃える。東京大空襲では300機以上のB29が、東京の住宅街にこの焼夷弾を雨あられと降り注いだ。

 著者は当時の米陸軍第五航空軍のリポートに、「すべての男、女、子どもを含む日本国の全人口が軍隊を援護する武装予備軍となった。日本国の全人口は正式な軍事目標となった。日本に民間人はいない」と書いてあることを紹介し、それがいかに非人道的な判断かとのべている。

犠牲になったのは一般庶民  被害調査未だなく

 アメリカと日本の支配層の思惑のもとで、犠牲になったのは日本の庶民である。著者は取材の過程で知り合った東京大空襲の体験者から体験を聞きとり、何人もの事例を記している。

 これはその一例にすぎないが、江東区に住む1931年生まれの男性は、1942年の企業整備令(軍需産業以外の中小商工業を整理・統合する法律)で家業の蕎麦屋ができなくなり、同時に兄が徴兵されて中国戦線に行くことに。見送りに行った父が部隊の装備の貧弱さに驚き、「あれじゃあダメだ」といっていたと回顧している。

 そして3月10日。東からB29が数珠つなぎで飛んできて、低空で巨大な翼がはっきりと見えた。すぐに焼夷弾がザーッという音とともに雨あられと降ってきた。北西風が激しく、火の粉が横なぐりで舞い、はしごが空を飛んでいた。避難する人たちで身動きがとれなくなり、工場脇の空き地に多くの人と一緒にうずくまったが、夜が明けて周囲を見るとマネキン人形のような人間の遺体があちこちに横たわっていた。別の場所では真っ黒な遺体が小山のように積み上がっていた。川を見ると水死体が折り重なっていた。

 別の男性は工業高校の生徒だったときに東京大空襲にあい、鎮火後は遺体の始末を手伝った。現在の東京スカイツリーを見上げる川から女性の遺体を引き揚げると、2歳ぐらいの子どもが髪の毛にしがみついていた。親子だったのだろう。拾ったトタンに遺体を乗せ、仮埋葬地の公園まで運んだ。焼けた遺体から首や足が落ちたが、すべては拾えなかった。「なんの罪もない人たちが戦争でたくさん亡くなった」と訴えている。

 ところが天皇が同年3月18日、都内の被災地を視察するというので、昼夜兼行で巡幸路付近の死体の片付けに追われることになった。その後遺体は、遺族の元に帰されることはほとんどなく、公園や学校、寺、空き地に埋められた。当時は国民の命よりも天皇を頂点とした「国体」が大事だったのだ。

 敗戦後、日本がアメリカに単独占領されると、今度はGHQの命令で、空襲で親を失った何十万人という戦災孤児が「まるで野良犬のような扱いで」東京品川沖の第四台場の檻の中に収容された。1952年に講和条約と安保条約が同時に結ばれると、日本政府はアメリカに対する戦争の補償請求権を放棄した。敗戦後は国の社会福祉がほとんど機能せず、孤児たちは義務教育も十分受けられないまま、親戚を転々としていたというのに。そればかりか1964年、日本政府は虐殺を指揮したルメイに、「航空自衛隊の育成に尽力した」という理由で勲一等旭日大綬章を贈った。戦後は天皇の上にアメリカが君臨している。

 本書を読みながら、東京大空襲をめぐる事実は、それが過去のことではなく、今現在の日本が抱えている矛盾を浮き彫りにしていると思った。ある体験者の女性が2020年3月、衆院第二議員会館で開かれた空襲議連の総会で発言した次の言葉が印象深い。「東京大空襲の死者の多くが遺体の確認ができず、どこの誰かもわからずに、生ゴミのように処理されました。残された遺族の多くは、墓をつくることもかなわず、今でも心の拠り所がないと感じています。空襲被害について、国として統一的網羅的に調査されたことがありません。空襲で亡くなった人の名前も、数さえも不明です。この2、3年に仲間が次々と他界し、残った私たちも先が長くありません。いつ、どこで、どんな被害があったか、全国空襲実態調査を実施してください。空襲被害をなかったことにしないでください」

 いまだに空襲被害の統一的調査も、東京大空襲の公的な慰霊施設や記念館もない日本。対米従属下でふたたび戦争の道に進まないためにも、被爆体験や空襲体験を語り継ぎ、世界に発信するとりくみを一層大きな運動にしなければと思う。
https://www.chosyu-journal.jp/review/22985


▲△▽▼


7. 知的上級者さん[159] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年4月24日 03:17:43: VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[79]

日本軍に限らず、どこの戦争でも強姦したくて進軍するというのがあるからな
上海でもやったし、ロシアでもやった
美人のロシア娘を見つけたら、みんなで回すもんだから
誰かが性病になっていると、部隊全員穴兄弟になって性病が蔓延する
それで731部隊に性病をなんとかしてくれという依頼があった
逆に日本でも、終戦で横浜に上陸した米兵が片っ端から強姦しまくっていた
トラックに乗り、どこに女がいるんだと、学校や病院へと強姦ツアーに出かける
品川の病院では24才の看護婦1人に27人の米兵が群がったという
そしてこれは戦争に負けたから仕方がないでは済まない話なのだ
日本はアジアで略奪した金品をフィリピンに集めていたが
そこでインゴットにしていたのはマッカーサーの父親なのだ
戦っているはずの日米は、上の方では繋がっていた
日米の国民を犠牲にして、日米の軍産が金儲けのために戦争をしていた
だからロックフェラーに資本注入された三菱の主要工場は空襲を受けていないし
東京大空襲のときは上級国民が避難してから空襲が行われている

つまり、このイカサマ戦争では天皇とマッカーサーは対等な関係だったのだ
だから天皇はマッカーサーに米兵の強姦をやめさせろと言える立場だった
天皇が朝鮮人でなかったら言ったはずだ
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html#c7

27:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:20:21


日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる
「ディズニー、トランプ、GAFA」に熱狂するDNA 2019/01/18
塩野 誠 : 経営共創基盤 取締役マネージングディレクター
https://toyokeizai.net/articles/-/260849

歴史をひもとくと「トランプ支持」が広がってしまう理由がわかるといいます(写真:AFP/アフロ)

全米話題のベストセラー

『ファンタジーランド:狂気と幻想のアメリカ500年史』(上・下)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4492444521/toyokeizaia-22?p=TK


がついに日本でも刊行された。

「世界でいちばん偉大な国」だったアメリカはなぜ、トランプ政権やフェイクニュースに象徴されるような「不可解な国」に変貌してしまったのか。現代アメリカを覆う社会病理の起源を語った本書を、経営共創基盤の塩野誠氏にいち早く読み解いてもらった。

現代アメリカを語る必読書

「アメリカ人の3分の2は『天使や悪魔がこの世界で活躍している』と信じている」

冒頭から、こんないぶかしい言葉が本書には並ぶ。


『ファンタジーランド:狂気と幻想のアメリカ500年史』


本書は、これまでにない視点で歴史をひもとき、現在のアメリカを語る試みである。アメリカを語る者や研究者の必読書となる可能性のある大作だ。

日本人はアメリカが好きである。正確に言えば、日本人がアメリカについて語る機会は、他国について語るよりも圧倒的に多い。

日本とアメリカがかつては戦争で対峙し、現在は同盟関係にあるという歴史的経緯に加え、高度成長期の政治・経済においてもかの国から多大な影響を受けたことは言うに及ばない。

加えて日本人は彼らのライフスタイルやポップカルチャーからも多大な影響を受け、それを語る。

その昔、日本の若者がアメリカにあると信じていたファッションやライフスタイルは、「UCLAの学生の着ている服は」「古きよきアメリカは」といった断片的な記号で語られた。

ディズニーランドは、聖地のような扱いを受けている。


少し前のビジネスシーンでは、「ニューヨークの投資銀行では」「ウォールストリートでは」「シリコンバレーでは」と、日本人は「アメリカでは」という想像によるイメージを繰り返し語ってきた。

むろん日本人は、「アメリカ」という言葉がさまざまなものを包含した雑な入れ物であることに気づいている。サンフランシスコとデトロイトは異なり、中西部の名も知れぬ街とニューヨークでは国さえも違うかのようである。

2018年に出演俳優らがアカデミー賞を受賞した問題作『スリー・ビルボード』を見た私たちは、同作の舞台となった閉塞感ある片田舎とニューヨークが異なることを知っている。

不可解なアメリカの起源とは

アメリカを語る日本人は、トランプ大統領の登場以降、説明のつかない不可解なアメリカに対してもやもやとした感情を抱いているのではないか。

特に「アメリカは」の後に「合理的」とか「ロジカル」と続ける人々にすればそうだろう。メディアの報道を「フェイクニュース」と切って捨てる大統領の登場と、それに熱狂する支持者たちは、彼らにとって理解しがたい存在に映っている。

そしてニューヨークやボストン以外にもたくさんの「アメリカ人」が住んでいることに気づき、ラストベルト(中西部などのさびれた旧工業地帯)のトランプ支持層について納得しようとする。

しかし本当のところ、現在のアメリカを形づくっているものはいったい何なのか? 本書はそこを掘り下げる。『狂気と幻想のアメリカ500年史』とタイトルにあるように、幻想によって創られた「ファンタジーランド」としてのアメリカを膨大な資料を基にひもといていく。

アメリカは1776年に独立宣言を採択した国であり、500年の歴史を持つとはもちろん言えない。

本書では、イングランドで初めてのプロテスタントの君主だったエリザベス女王、その後を継ぎ聖書の公式英語訳を命じたジェームス1世(1566年生)が与えたアメリカでの植民地建設の勅許の中に、その起源を見る。

この勅許の中に福音伝道の使命が含まれており、著者が「常軌を逸したカルト教団」と表現しているピューリタン急進派が、アメリカ建国の「ピルグリム・ファーザーズ」になったとするのだ。

著者はこう主張する。

16世紀に誕生したプロテスタントは、自分たちの妄想が嘲笑されない場所(=アメリカ)を探し、そのプロテスタントからアメリカのもととなる考え方が生まれ、情熱的で空想的な信念こそ最も重要とされる「ファンタジーランド」の足場が完成したと。


一般的にプロテスタントは資本主義を醸成する土壌をつくったとされるが、これについての著者の見方はこうだ。

アメリカはたった1世紀のうちに普通の人が荒野から国を造り出した初めての国であり、そもそも、ゴールドラッシュのような一攫千金やユートピアなどの幻想を受け入れる空っぽの容器として始まった。

著者は読者を圧倒する膨大な事例を用いて、「アメリカ人は、自分が望むことならどんなにばかばかしいことでも信じられる。自分の信念には、ほかの人の信念と同等かそれ以上の価値があり、専門家にとやかく言われる筋合いはないと思っている」という思想の源泉を解き明かしていこうとする。その思想は、現在のフェイクニュースにもつながる。

そこは事実を目前にしてもなお「現実は相対的なものだ」と考え、公正であれ不正であれ、自分の野心を追求するチャンスを楽しみ、良ければ起業家、悪ければ詐欺師、最悪の場合は「狂信的な反知性主義」が覆う世界である。

日本人にとって興味深いのは、漠然とキリスト教の国と捉えているアメリカが、実際には「誰でも説教師になれる、好きなように説教ができる」というキリスト教のプロテスタントをベースにした数限りない新興宗教の勃興と争いの歴史を持っていることだろう。

アメリカを覆う宗教観は、夢や幻覚、超自然的印象と強固に結びついた、自分が信じれば何でもありの個人主義的な宗教(的なるもの)の寄せ集めとも言える。

アメリカの南北戦争を、両軍とも聖戦と捉え、神の計画の中でどちらを神が罰するのかと考えたのは、当時の人々の自然な考え方であろう。

「幻想・産業複合体」としてのアメリカ

宗教(的なるもの)と幻想、個人主義から生まれたアメリカは、メディアなどのテクノロジーの発達とともに、幻想を産業化する「幻想・産業複合体」となっていく。

中世では教会こそが舞台装置を備えたメディアであったといえるので、これもまた興味深い進化である。

1835年にはすでに金儲けのためのフェイクニュースが登場していた。新聞のニューヨーク・サン紙が、知的な文体で書かれた1万6000字の文章によって、月面上に生物(菜食のコウモリ人間)を発見したことを報じたのだ。

人々はその報道を信じ、名門大学のイェールでも疑いを抱いたものは誰もいなかったという。こうした「稼げるフェイク産業」が勃興し、サルと魚の剥製を組み合わせた「人魚」は、存在を信じさえすればそれは実在すると考える人々に好評を博したのだった。

時とともにアメリカ人の中で、「正しいと信じる権利がある」と考える気質は強化されていった。

そしてアメリカ人が信じたいものを見せる舞台装置は、ここ100年の間にテクノロジーによって加速されていった。VR(仮想現実)もない時代の仮想現実は映画だった。映画は当時の人々にとっては魔法であり「真実」だったのだ。まさに幻想・産業複合体の誕生である。


だが真実と幻想の区別がつかなくなったとき、日常に起こるさまざまな事象は陰謀説が絡みやすい。賢明な読者ならすぐに想像がつくように、アメリカはハリウッドでの「赤狩り」の時代に入り、共産主義者という隠れたスパイが民衆の知らないうちに映画やテレビでプロパガンダを行っているという幻想が爆発し、罪のない人々を追い詰めていった。

また近年に至っても、ケネディ暗殺に関する新しい真実や陰謀論を報じる映画やドキュメンタリーが創られ続けていることを私たちは知っている。

「中二病」の先駆者としてのアメリカ

本書で詳述される「幻想・産業複合体」はいつまでも子どもでいたいベビーブーマー世代以降に完全に定着した。

真実とうその優雅な混合であるプロレスWWEに登場し、WWEのオーナーだったマクマホンに平手打ちした(フリをした)、後の大統領トランプ氏から、スラム街の悪党を名乗るギャングスタ・ラップまで、ある意味で日本の「中二病」の先駆者たちが、ずっと子どもでいたい消費者たちと一緒になって、「ごっこ」の産業を拡大していったのだ。

存在しなかった過去への郷愁の具現化ともいえるディズニーランドに人々は熱狂した。もしかしたら「古きよきアメリカ」を語る日本人は「ごっこ」の「ごっこ」をしている可能性がある。

先述した、寄せ集めでつくられたアメリカの宗教観は、日本の『エヴァンゲリオン』を思い起こすかもしれない。ずっと子どもでいたかったポップカルチャーの帝王マイケル・ジャクソンが、自らつくったネバーランドに子どもたちを招きスキャンダルを起こしたことを記憶する人もいるだろう。

一般的に、国家が先進国となっていく過程で宗教性は薄れるものだが、アメリカは例外的にそうはならなかった。アメリカを事実に基づいた思考をする合理的な国だと考えるなら、再考の必要がある。

アメリカは『Xファイル』化しており、それが日常となったとき、子どもたちが次々に誘拐されるという事件や多重人格障害を妄想から根拠なくつくり出していったと本書は言う。

なぜ学校であれほど銃の乱射事件が起きても、アメリカ人は銃を手放さないのか。

銃のない世界に住む日本人にとって非常に不可解なことも、いつの日か「高圧的な政府の悪党」が市民を攻撃する際に武器をとって立ち向かうためだとすれば、納得がいくだろうか。

本書はアメリカという国を500年という歴史で捉え、現代における「自分が信じればそれが真実」という世界観を理解するための貴重な資料となるだろう。

英『エコノミスト』誌はトランプ大統領の言動は「むしろ権力に立ち向かう意思を証明するものと受け取られている」と指摘する。本書に登場する哲学教授の言葉に問題の深さが現れている。

「繰り返し矛盾に接すると、事実そのものを重視する感覚が鈍ってくる」

今のアメリカを語るのなら、本書は必読だろう。
28:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:23:04


米国の退役軍人が、米軍の犯罪行為を語る(ParsToday)
https://parstoday.com/ja/news/world-i58936

米国の退役軍人が、米軍の犯罪行為を語る
2月 10, 2020 17:29 Asia/Tokyo
アメリカ空軍の元無人機操縦士、ブランドン・ブライアント氏が退役後、同国軍による犯罪行為の数々を認め、これらの犯罪の実例を暴露しました。

英紙インディペンデントによりますと、ブライアント氏はインタビューの中で、アフガニスタンで米兵の犯罪を暴露するとともに、「米軍はナチス・ドイツよりも酷い」と述べました。

また、米軍を辞めた理由について、「アフガニスタンにおいて、ミサイルで建物に狙いを定めていたその時、その建物から子供が出てこようとしていた。自分がそのことを上官に報告したにもかかわらず、上官は作戦続行の命令を出した」としました。

さらに、「自分と自分の家族は、米国の無人機計画を漏洩したとして何度も脅迫された。このため、友人や自分の家族から距離を置かれるようになってしまった」と話しています。

ブライアント氏によれば、彼が米空軍に勤務していた時期に少なくとも13人の殺害に直接かかわり、彼が所属する分隊は女性や子供を含む1626人を標的としたということです。

ブライアント氏は6年間にわたり米空軍に勤務し、同国ラスベガスにある基地から無人機の遠隔操作を担当していました。

2019年11月15日、トランプ米大統領はアフガニスタンで戦争犯罪に関わったとして起訴されていた米兵クリント・ローランス被告とマシュー・ゴルスタイン被告、またシリア駐留兵だったエドワード・ガラガー被告を恩赦の対象としました。

ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。

https://www.youtube.com

https://twitter.com/parstodayj

https://www.instagram.com/parstodayjapanese/

https://soundcloud.com/user-614960283
29:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:23:51


2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち

原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
30:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:24:17


2020.05.23
破壊、殺戮、略奪のために考えられた米国の価値観
 ドナルド・トランプ大統領は中国を挑発、米中の関係を悪化させている。2015年頃から中国政府がアメリカとの関係を見直し、ロシアへ接近したことが理由のひとつだろうが、中国にそうした転換を強いたのはアメリカの政権転覆プロジェクト。例えば2013年から14年にかけてアメリカはウクライナでネオナチを使ったクーデターを実行し、14年から15年にかけて香港ではイギリスと「佔領行動(雨傘運動)」を仕掛けている。

 ベトナム戦争やラテン・アメリカにおける侵略戦争で自分たちの正体を知られてしまったアメリカの支配層は新たなプロジェクトを始めた。ロナルド・レーガン大統領は1982年にイギリス下院の本会議で「プロジェクト・デモクラシー」という用語を口にしたが、それがそのプロジェクトだ。1983年にレーガン大統領がNSDD77に署名、正式にスタートする。国内での作戦は「プロジェクト・トゥルース」と呼ばれている。それまでもアメリカの支配層は侵略の手先を「自由の戦士」とか「民主化勢力」と呼んでいたが、プロパガンダを徹底することにしたのだ。

 アメリカは他国を侵略する際、「自由」、「民主主義」、「人権」といった看板を掲げ、これらを「アメリカの価値観」と称しているが、侵略が破壊や殺戮をともなうことは言うまでもなく、真の目的は略奪にほかならない。看板に書かれているのは建前であり、行動が示しているものが本音だと言えるだろう。

 アメリカにおける外交面や安全保障面の政策に大きな影響力を持っているシオニストの一派、いわゆるネオコンは1991年12月にソ連が消滅した際、アメリカは唯一の超大国になったと認識した。彼らは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。これがいわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。

 他国を配慮することなく、単独で好き勝手に行動できる時代が到来したと考え、潜在的なライバルを潰し、エネルギーをはじめとする重要な資源を支配しようと考える。冷戦から熱戦への切り替えだが、その熱戦に日本も巻き込まれ、アメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。

 アメリカが単独行動主義に方針を切り替えたにもかかわらず国連中心主義を維持した細川護煕政権は潰される。細川政権が設置した諮問機関の防衛問題懇談会がまとめた「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」は否定された。

 樋口レポートを問題にしたのはマイケル・グリーンとパトリック・クローニン。それが1995年2月に発表されたジョセイフ・ナイ国防次官補の「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」につながる。これはウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づいている。

 1994年から95年にかけて日本では人びとを恐怖させる出来事が相次いだ。例えば1994年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件、その直後には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われるスターズ・アンド・ストライプ紙が日本航空123便に関する記事を掲載、その中で自衛隊の責任を示唆している。

 その一方、日本の支配システムを揺るがすスキャンダルも発覚した。例えば株式相場が暴落した直後、興銀と東洋信金の関係した不正取引も明らかになり、1995年の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失が発覚し、98年には長銀事件だ。銀行や証券の業務には大蔵省(現在の財務省)が深く関与、不正行為に官僚が無関係だとは言えないだろう。

 ボリス・エリツィンが君臨していた1990年代のロシアはウォール街やシティの属国で、中国は新自由主義路線を歩んでいた。ネオコンは潜在的なライバルを弱体化させ、資源国を支配することに力を入れる。そして実行されたのがユーゴスラビアへの先制攻撃。侵略戦争とアメリカ国内の収容所化が劇的に進むのは2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されてからだ。

 ところが、21世紀に入るとロシアでウラジミル・プーチンが実権を握り、エリツィン時代に築かれた西側資本の利権ネットワークが揺らぐ。ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提が崩れ始めたのだ。

 それでもアメリカ側は自分たちはロシアや中国を圧倒していると信じていたようだが、それが幻想にすぎないことが2008年にわかる。この年の8月にジョージア軍が南オセチアを奇襲攻撃したのだが、ロシア軍の反撃で完敗したのだ。

 このジョージア軍は2001年からイスラエルから軍事訓練を受け、武器/兵器を含む軍事物資を受け取り、アメリカの傭兵会社からも支援を受けていた。それでもロシア軍に勝てなかったのであり、アメリカ軍やイスラエル軍は同程度の戦力で戦うと負けることを意味する。

 そこでバラク・オバマ大統領は侵略にムスリム同胞団をはじめとするジハード傭兵を使うことを決め、「アラブの春」を演出するが、これは2015年9月にロシア軍がシリア政府の要請で介入したことで破綻した。ネオコンや民主党のロシアに対する軍事的な緊張を高める戦術も成功しているとは言いがたい。

 そうした中、中国で新型コロナウイルスの感染が始まったが、おそらくアメリカの支配層が想定したより早く中国では収束した。ロシアでもアメリカが期待したほど深刻化していない。アメリカは社会の収容所化を進め、人びとを監視するシステムを強化しようとしている。戒厳令的な情況とも言える。戦争の準備をしているようにも見える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202005230000/
31:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:24:51


下関空襲の記憶を後世に伝える 爆撃のために緻密な計画練っていた米軍
2021年6月13日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/21157

 第二次大戦の敗戦から今年で76年目を迎える。下関も1945年6月29日と7月2日の二度にわたって米軍による空襲を受け、中心市街地は焼け野原となり、多数の市民が死傷、家族や家を失った。中国地方では原爆を投下された広島に次ぐ甚大な被害を受けたが、犠牲者数など被害の全容は今も明らかになっていない。当時を知る市民が減少するなか、下関空襲の経験を現在・未来を生きる世代が知り、語り伝えていくことを体験世代は切実に願っている。下関空襲から76年目の記念日を迎えるにあたり、本紙が聞きとりをしてきた下関空襲経験者の体験と、下関歴史探究倶楽部の大濱博之氏が30年にわたる調査をへて出版した『記録写真と資料による太平洋戦争の記録 下関空襲の全貌』をもとにふり返ってみたい(掲載している一部の写真や資料は大濱博之氏より提供)。


焼け野原となった入江・丸山町(下関市)

大濱博之氏

 敗戦の前年(1944年)、「確固不抜の要塞」とされたサイパンと、近接するグアム・テニアンが陥落。米軍は太平洋の制空権・制海権を掌握し、マリアナ基地から日本への本土空襲を本格化させた。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市合わせて六七の市街地を焼き払う無差別殺戮・焦土作戦をおこない、わずか半年のあいだに女性や子ども、高齢者など罪もない多くの国民が焼き殺され、家を焼かれた。全国の本土空襲による犠牲者数は25万人から100万人まで諸説あり、いまだに確定していない。下関空襲もその一環だったが、大濱博之氏が収集した米公文書館などに残された機密資料などから、米軍は関門地区を交通の要衝とみなして重視し、緻密な計画のもとに一般市民を狙って空襲を実行していたことが浮き彫りになっている。

6月29日と7月2日 焼夷弾で中心部焼払う

 1945年6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、阿弥陀寺町から赤間町までのあいだ、宮田、唐戸、貴船、園田、田中、東南部方面に焼夷弾攻撃を加え、旧市東部地区は焼け野原となった。

 その余煙がまだおさまらない7月2日午前零時10分ごろ、再び来襲したB29の編隊は、さらに広範囲に焼夷弾攻撃をおこなった。明け方の4時まで続いたこの空襲は3日前を上回る規模で、豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。

 米軍はつねに四国から侵入し、豊後水道の上空をへて関門に襲来していたため、空襲警報はいつも「足摺岬上空から西北方に進んだ」と知らせ、警報発令後わずか15~20分ほどで関門上空に飛来していたという。多くの市民が、最初にB29の編隊が頭上を通過したさい、ザーザーという夕立にそっくりな音が聞こえたと証言している。しかし、やがて空襲警報が解除され、ほっとした市民が防空壕から出て一息ついたとき、再び空襲警報が鳴ると同時にB29があらわれ、火の玉を投下し始めた。前段の夕立のような音はガソリンをまいた音だった。ガソリンをまかれた木造家屋はあっという間に燃え上がり、火の雨のなかを市民は逃げまどった。

 当時14歳で丸山町に住んでいた女性は、「最初のうちはみんなで火を消そうとしていたが、どんどん火が強くなり消火どころではなくなったので、母とともに王江小学校に逃げた。近所の高齢者は警防団の人たちが背負い、私は幼い子の手を引いて逃げ、小学校の一階に身を寄せ合って空襲が終わるのを待った」と話す。ケガした人たちの手当をしようにも赤チンしかなく、包帯もなかった。女性は家がすべて焼かれ、着の身着のまま疎開することになった。

 市内でもっとも被害の大きかった地域として語り継がれてきたのが幸町の清和園の惨劇だ。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま蒸し焼きにされた。

 すぐ下に住んでいた女性は清和園で同じ組の7人の子どもや主人と甥っ子も犠牲になった。市内が燃え始めたため、女性も清和園を通って宮田町の方に抜けようとしたが、通り道の角の家が燃えていてひき返したため助かった。周囲から火が迫り、近所の人はみな空地の畑に集まったが、持ってきた行李の中の衣類に火がつき、すぐそばが燃え始めた。逃げる場所もなく、この世の見納めと思って法福寺が燃え上がるのを見ていたという。突風が起こり、竜巻のようになって炎がなめるように迫ってきた。髪の毛もなにもかもカラカラで、ぼーっとしてわけがわからなくなった。しばらくして火が収まり、ぼーっとしたまま助かったのだと思ったという。

 「清和園の上に兵隊さんがいて、気が狂ったように日本刀を持って火の中に飛びこんでいく姿を見た」と証言する体験者もいた。この地に市立幸町保育園が設立されたさいに犠牲者の遺骨が発掘され、保育園と地元有志が相談して犠牲者の慰霊のため「幸せ地蔵」を建立し、毎年地蔵祭りが催されている。

 この2回の空襲でB29が下関に投下した焼夷弾は420㌧(7月2日は360㌧)にのぼった。市街地108万9000平方㍍が焼け野原となり、上水道は給水戸数の約44%(8674戸)、ガスは需要戸数の約78%(3500戸)、電話は加入者数の約40%(1539口)、電車電線は2300㍍など、すべてが破壊され、都市機能が停止する壊滅的な打撃を受けた。

 官庁の公式資料では、二度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負い、焼け出された市民は4万6000人をこえたと記録されているが、被災者は「その程度のものではなかった」と共通して語っている。「戦災直前の人口21万2000人は、その直後15万5000人に激減してしまった」(野村忠司編『カンナ炎える夏』)ともいわれ、被害の全貌はいまだ明らかにされていない。

 市民が暮らす市街地が焼き尽くされる一方で、貴船にあった要塞司令部や三菱、神戸製鋼所などは無傷で残った。大濱博之氏の調査によると、米軍は事前に関門海峡や下関の偵察写真をもとに立体模型を作成するなどし、周到な計画のもとに下関に対する空襲を実施していた。爆撃地の指定カ所を指示した偵察写真には、市の中心部であった唐戸地区に黄色い円が描かれ、この一帯への焼夷弾投下を指示しており、海風の変化があることも赤線で指示している。白枠で囲まれているのは三菱などの工場や下関駅などで、「1846」の三菱、「772」の下関駅(写真にはないが「143」の神戸製鋼)は、爆撃してはならない箇所として指示していた。


関門海峡の偵察写真から爆撃地の指定箇所を示している。上部の円の中が唐戸地区で焼夷弾攻撃を指示。「1846」三菱、「772」下関駅などは攻撃しないよう指示していた。


下関の立体模型(彦島からみもすそ川付近まで)。関門トンネル下関側の出口の部分や彦島と下関駅を結ぶ橋(江の浦橋)の部分がきわめて精巧につくられている(米国立公文書館)


関門トンネルの探索命令書。トップシークレット扱いになっている(米国立公文書館)。B29が撮影した写真から関門トンネルの位置を推定していた


米軍が正確に把握していた関門トンネルの位置(米国立公文書館)

 このことは、多くの下関空襲経験者が「市街地は無辜(こ)の市民が焼夷弾の絨毯爆撃で多大な犠牲を受け、命だけでなく家財もすべて失ったが、三井、三菱の工場も長府の神戸製鋼所も要塞司令部も下関重砲連隊も、憲兵隊本部(旧市立中央図書館の辺り)も爆撃を受けず無傷で残った」「下関は要塞があるからやられたといわれたが不可解だった。アメリカは日本を占領しやすくするために、民衆を徹底してたたき、殺した」と指摘していることと一致している。

 大濱氏は「唐戸は焼き尽くされたが、英国領事館だけはピンポイントで残していて、いかに爆撃精度が高いかもわかる。三菱造船所や神戸製鋼所を残したのも、下関が大陸に近い重要な軍事的要衝として扱われ、朝鮮戦争などを見据えて重要な駅や工場は残している。アメリカはそこまで考えていた」と指摘している。戦後、下関に来た進駐軍が駐屯地としたのは、攻撃しなかった神戸製鋼所だった。

 また、米国立公文書館に残されていた資料のなかに、7月2日の空襲当日、まだ煙が上がっている市街地を上空から撮影した航空写真も残されていた。


空襲後の下関市街地。写真は明け方4時まで続いた7月2日の空襲後、被害調査で飛来した偵察機が撮影したもの。

関門海峡の機雷投下 日本全国の半数が集中

 市民が焼夷弾攻撃に虚を突かれた要因の一つに、同年3月以来、B29による関門海峡への機雷投下がくり返され、毎日のように空襲警報が発令されていたことがある。毎夜毎夜襲来するのに一向に地上攻撃をしなかったため、市民は緊張しつつも気を緩めていたところに焼夷弾攻撃がおこなわれたのだ。

 機雷によって日本を海上封鎖するアメリカの作戦は、「スターベーション」(飢餓作戦)と呼ばれた。米海軍提督ニミッツが米第二一爆撃軍団に提案したその狙いは①日本への原材料および食料の輸入の阻止、②日本軍隊への補給および移動の阻止、③日本内海の海運の崩壊の三点にあった。このなかで、もっとも重視されたのは交通の要衝だった関門海峡だ。米軍が全国に投下した約1万1000発(日本側調査)の機雷のうち、半数にのぼる約5000発が関門海峡に投下された。


関門海峡に投下された機雷

 関門地域では3月27日夜、99機のB29が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく機雷を投下した。このため、この期間内だけで下関での警戒警報発令は102回におよんだ。同海域では毎日のように航行する船舶が機雷に触れ、水柱を上げて沈没する光景が目撃され、船舶のマストが林立する「船の墓場」と化した。市民のなかでは、彦島には数多くの船員や兵隊などの遺体が流れ着いたこと、沈没した船から流れ出たコメやコーリャン、大豆、麦など、海水を含んだ食料をすくい上げて食べていたことが語られている。日明地点(北九州市)で病院船「ばいかる丸」が触雷して撃沈し、200体もの少年航空兵の無残な遺体が六連島に漂着し、荼毘(だび)にふされたことも語り伝えられている。

 この時期、すでに海軍はおもな戦艦を失った段階であり、大半の犠牲は関釜連絡船や戦時輸送を担う商船、貨物船、機帆船、漁船やはしけなど民間船に強いられた。だが、記録に残っているのは350隻ほど(うち5000~1万㌧級の大型船が157隻)で、犠牲者の数や身元、埋葬先など多くは不明のままだ。

 この機雷投下についても、『下関空襲の全貌』に掲載している1945年3月27日の機雷投下作戦の響灘側の計画図(米国立公文書館)から、海中のどの位置にどれほどの機雷を投下するかを細かく計画していたことがわかる。

 米軍はこのほか、関門トンネルを「日本における最も重要な輸送目標」と位置づけ、綿密な調査をおこなっていた。機雷によって海上輸送が困難になるなか、九州と本州とのあいだの軍隊の移動や物資輸送の手段として関門トンネルの役割がますます重要になっていると分析。偵察写真に写った下関側の出口の位置や施設の配置などから関門トンネルの位置をほぼ正確に推定していた。1945年4月7日に発せられた「関門トンネルの構造を探索せよ」という命令書は「トップシークレット」の印鑑が押されている。写真だけではわからないコンクリート部分の厚さなどの情報を捕虜やスパイなどを通じて収集したのだろうという。同年7月31日に関門トンネルを爆撃する計画があったが、実際には投弾せず、関門トンネルも無被害で残った。

 下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本で最大の軍事的要塞地帯となってきた。貴船町(元済生会病院の辺り)に要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、兵舎など軍事施設が密集していたほか、各地に砲台を備えた要塞が置かれていた。

 しかし、日本の支配層が降伏するのは時間の問題だと知っているアメリカは、これら軍事施設や軍需工場は無被害のまま残し、一般市民を無差別に殺戮したのである。これは東京大空襲をはじめ全国の本土空襲で共通するものでもある。体験者が語る経験と米軍が残した資料は、戦争で犠牲になるのは一般市民・国民であることを明確に示している。


空襲で焼き払われた田中町界隈

空襲体験の記憶(2005年本紙聞き取りより)

新町3丁目 三好寿和子

 昭和20年6月と7月の下関空襲のときは28歳だった。新町3丁目、今の山口銀行新町支店の田中川を挟んだ斜め前あたりで、菓子の製造販売をしていた。大通りに面して店があり、裏側が工場になっていた。2回目の7月2日の焼夷弾爆撃で新町3丁目は、時計や宝石、蓄音機などを売っていた新田宝寿堂のところまで焼け野原となった。

 焼夷弾の炎が木造の壁にぺたっと付くと、あっという間に家が燃え上がる。うちは菓子の材料の砂糖や蜜があったのでよく燃えた。

 私は幼児だった長女を連れて必死に逃げた。子どもの夏布団を濡らし、火の粉をよけるためにかぶって走るのだが、これが乾くほどのすさまじい火力だった。うちの町内では、私が一番あとに逃げることになった。みんな下関重砲連隊(今の済生会病院跡、公共職業安定所、県総合庁舎のところ)の東駅側から椋野に逃げた。

 夜が明けて戻ってみると新町3丁目から田中町、西之端、唐戸にかけて焼け野原で、遠く離れた宇部が米軍の空襲で燃えるのが見えた。新町にあった記念病院(今のひろさき眼科医院)は、火傷をはじめ負傷者が次々に運び込まれ、病院に入りきれずにあふれる惨状だった。

 ところが、下関重砲連隊も、今の図書館のところにあった憲兵本部も燃えなかった。強制疎開させられていた田中川を挟んだ貴船側は燃えなかった。「下関は要塞があるから、やられた」といわれたが、不可解だった。あとでわかったが彦島の三井や三菱の工場も燃えなかった。アメリカはみんなわかっていた。

 主人に赤紙(召集令状)がきて、台湾に派遣されることとなり、部隊は鹿児島に行ったが、米軍の攻撃で鹿児島から出港できず、引き返してきて門司港から出港した。私は壇之浦にあった神社に何回も行って、台湾に無事に着くことを祈った。11隻の船が台湾に着いたことを聞き安心した。このように、もう日本の敗戦は決まっていた。なのに、なぜ民家の密集地にこれほどの焼夷弾爆撃をしなければならないのか。心の中で引っかかっていた。下関には重砲連隊があり、要塞もあったが、あっただけで役に立たなかった。アメリカは日本を占領しやすくするために、日本の民衆を徹底してたたき、殺した。

 主人は敗戦後すぐに引き揚げてきた。まだ焼け野原だった唐戸に店をつくった。戦争ほど人の命を犠牲にするものはない。命は、本当に必死で守らなければならない。またきな臭い世の中にしてきているが、戦争は二度と起こしてはならない。

入江町 78歳女性(2005年当時)

 7月2日の空襲を経験した。入江町で花火のようにきれいだと思いながら見ていると火が迫ってきていた。家を飛び出して逃げた。その後に焼夷弾のものすごく大きいのが家を直撃していて、もし家にいたら死んでいたと思う。

 江戸金(亀の甲せんべいのお店)のご主人さんが「家が焼ける」と叫んでいたのを覚えている。また真っ暗ななかを逃げる人の腕に焼夷弾が直撃し、腕がぽーんと飛んできて、まわりの人でその人を防空壕の中に担ぎこんだが、防空壕も煙が入ってきてなにもできないままその方は亡くなられた。日和山も火が下から上がってくるから逃げられない。みな海の方へ、水上署の方へ逃げた。でも水上署の人が軍刀をかざして「来るな!」と気が狂ったようになっていてそれからも逃げる状態だった。真っ暗な空に焼夷弾が落ちてくるので、早く夜が明けて飛行機がどこかへ行ってくれないかなと思い、やっとうっすらと夜が明けてくると飛行機の音も聞こえなくなり、やっと終わったとホッとした。

 下関商業にけが人がたくさん連れて行かれ、夜が明けると全部が焼け野原になっていた。そこらに死体が転がっているのも見た。家は焼夷弾が落ちて生活できないので、防空壕の中で生活した。その後も関門海峡に落とされた機雷で船が爆発し、「また海軍さんがあがったよ」と近くの人が見に行き、水ぶくれした遺体が海の上をぷかぷかと浮いているのを何度も見た。

 今警察署になっているあたりが山陽百貨店で下関でも一番にぎわいのある場所で、近くに映画館もあったが、空襲で焼け落ちた。

 焼夷弾の攻撃は夜中だから防空壕にいても窒息するし、外に逃げても直撃を受けるので大変だった。防空壕で窒息する人が多かったように思う。自分の家の床下に防空壕を掘っていても家が焼けてしまえば防空壕も意味がないので、一緒に焼け死ぬという状態だった。

 南部町の海の所には三井の倉庫があったが、そこも焼かれ、焼け跡に飴が溶け出して明くる日はものすごい数の人がとりに来ていた。焦げ臭くても、踏んでいる足下が溶けた飴なのだが、人が踏んだ飴でも汚いとか関係なしにいっぱいすくって持って帰る状態だった。食糧難でそんなことはいっておれなかったと思う。

 空襲でも戦争だから殺さないと殺されるという感じでやるのだろうが、やっぱり戦争はいけません。

金比羅町・消防署員 奥藤久馬

 私の勤務していた下関消防署が、下関警察署の指揮下に開設されたのが昭和18年1月15日。空襲が近づいてきたので防備をしないといけないということだった。当時、焼夷弾対策といって、竹の棒の先に縄をくくりつけた火消しの道具の作り方を、隣組に出向いて指導していたが、いまから考えるとなんの用もなさないものだった。

 下関は昭和20年の6月29日と7月2日の2回、空襲にあった。あの夜は、B29が超低空で飛んできて、焼夷弾をバラバラバラバラと落とし、上空で火がついて、それはまるで長い提灯行列のように見えた。見るとB29は、街中に焼夷弾を落とすばかりでなく、関門海峡の上空をグルグルと旋回して、関門海峡に機雷を落としていった。またB29は焼夷弾とともに50㌔爆弾も落とした(金比羅にあった自宅のそばの大きな農家の屋根を突き抜けて落ちたのでわかった)から、消火作業といっても命がけだった。当時下関消防署には消防車が3台と、うちトヨタのポンプ車と、あとはフォードとダッチの車で、消防士も20~30人しかいなかった。

 私は昭和19年から彦島出張所に勤務していた。軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、見ると対岸の豊前田の盛り場あたりから火の手が上がり大火事になっている。「豊前田の谷を消火してくれ」と連絡が入り、本村から旧橋を渡った。

 しかし焼夷弾がどんどん落ちてくるし炎がものすごい。そのままでは前へ進めないので、上条から長崎町を通って回り込み、貯水槽にポンプ車をつけて消火作業を始めた。遊郭のイロハ楼から上は絶対に燃やすなということで必死だった。細江から豊前田はみな焼けたが、茶山の方への類焼はわれわれの力で止めた。しかし逃げ遅れた女郎さんたちが焼夷弾の直撃を受けて、道路上に死骸がゴロゴロと転がり、それはひどいものだった。

 また、南部町の倉庫地帯の道路の下に防空壕が掘ってあり、そこに逃げようとして、南部の住民が列をなして何十人とおりていたところを焼夷弾が直撃し、バタバタと亡くなったが、それをまのあたりにしてもどうしようもなかった。当時救急車はなく、ひどい火傷の人は多かったが、それを消防車で運んでいた。

 一番ひどかったのは幸町の清和園で、70人以上の人が亡くなった。紅石山に避難していて、火が上がってきて焼け死んだ人もいた。私は空襲のあとも一週間ぐらいは不眠不休で働いた。なかなか火が消えなかったからだ。

 思うに米軍の目的は、兵站や食糧輸送の重要拠点である関門海峡に機雷を落として船舶運航を阻止することが第一で、それと同時に民間に焼夷弾を落として焼き払うということではなかったか。金比羅や火の山にあった高射砲台や、砲兵隊のいた六連島にはまったく焼夷弾は落ちていない。高射砲が発射する弾(実際にはあたらなかったが)の流れはキャッチできるはずなのに、それを狙えばいいのにそうしなかった。米軍は事前にそうとうな偵察をして、用意周到に攻撃したのだと思う。それにしても民間があれほど焼き払われるとは夢にも思わなかった。

 当時は情報が入り乱れ、警察は警察で、軍は軍でそれぞれの持ち場で必死で、一元的な統率はとれていなかった。死者数など正確な数字はわからないのではないか。

 私が消防に勤めはじめたのは、世のため人のためになにかすることはないかと考えたからだ。しかしあれから60年たった日本を見ると、まるで植民地のようになり、道義は地に落ち、教師が体罰をしたといって親が学校を訴えるような時代になった。日本の将来のためにも、歴史を語り継ぐために頑張ってほしい。

長崎新町 上原浩

 下関空襲のあったころは、昭和18年に工業学校を卒業して長府の神戸製鋼所で働いていた。毎日配属将校がうろうろするなかで、戦闘機の翼や各種部品になるジュラルミンの板、パイプ、骨組みとなる材料を生産していた。軍需工場だったが、二度の空襲で一発の爆弾も焼夷弾も落とされることなく、まったく無傷だった。敗戦の日まで、毎日「増産、増産」の連続だった。ただ毎日のように警戒警報が鳴るたびに、学徒動員で来ていた野田女学校や阿部女学校の生徒を連れて、豊浦中学校の裏山に避難させていた。

 直接の空襲の体験といえば、たしか7月2日の空襲だったと思うが、当時東大坪住宅密集地に自宅があり、火の手が入江、丸山から迫ってきたので、延焼を食い止めるために街の角にあった商店を近所の男衆と一緒に打ち壊した記憶がある。とにかくすごい火勢だったので、必死になってやった。空襲になって焼夷弾が天井に止まると火災になるからといわれて、おふくろが顔を真っ黒にして、泣きながら天井をはがしたけれども、なんの役にも立たなかった。

 この朝、丸山を下って出勤したが、関門海峡沿いは一面焼け野原でまだ火がくすぶっていた。電車も止まっていたから、歩いて長府まで行った。入江から唐戸、壇之浦の先まで、焼け落ちた電線や瓦、焼け焦げた家屋の柱などをよけながら歩いた。空襲があっても飛行機の材料生産は止めなかった。

 空襲のあと、高台から見たり歩いてみてわかったことだが、山の口から東駅一帯にあった軍事施設や兵舎などはみなやられていなかった。要塞司令部、重砲兵連隊、今の中央病院裏の練兵場でよく通信訓練をやっていた部隊の兵営など、みんな無傷でもとのままだった。かなり正確に住宅街や商店街などが狙い撃ちされたわけだ。

 8月15日の天皇の放送は意外な気がした。なにせ歴代天皇の名前や教育勅語などを暗記させられ、神国日本は負けることはないと、徹底的にたたきこまれていたから…。それに「聖戦だ」といわれ、なんの疑いも持っていなかった。

 とにかく戦争をやってはならない。死んだり傷ついたりするのは民間人であって、えらいさんではない。首相の靖国参拝にしても、自分の意地をとおさないでもっと他人のことを考えなければならない。世界各国が平和になるようにしなければならない。私たちは食べ物もない、家もない焼け跡からここまで復興させてきた。もっと年寄りを尊敬して、いうことに耳を貸すようにしてほしい。年金は下げる、医療負担は増える、何一ついいことはない。最近人殺しがあたりまえのようになっているが、それもなんの苦労も知らずにアメリカの個人主義の影響を受け、いいたい放題、勝手気ままになっているからだと思う。

彦島南風泊 柴﨑照夫

 昭和19(1944)年春、関中(現、山口県立下関西高校)を卒業し、江浦小学校の代用教員となった。昭和20年春先から下関は毎日のように空襲警報が鳴り、米軍が関門海峡に磁気機雷、音波機雷を投下した。

 南風泊の自宅から江浦小学校に通う途中、荒田の海岸で門司港を出港したばかりの病院船ばいかる丸が機雷に触れ、轟音とともに大きな水柱が上がり、水柱がおさまったときには、すでに船影はないというすさまじい戦場を目撃した。その後、荒田の砂浜に少年兵の多くの死体が流れ着いた。若い命が無残に奪われたことに近所の人々は悲しんでいたが、すぐに軍部が来て一般の者の目に触れないようにした。 

 今の荒田の岸壁は戦後埋め立てたもので、当時は砂浜で、私は江浦小学校の教え子たちと海水浴をした。この砂浜が少年たちの死体が浮く惨状となった。当時、小学校(国民学校といった)には軍隊が駐屯していた。江浦小学校には機雷処理班が駐屯していた。あれだけの機雷を投下されて、手も足も出なかった。敗戦はすでに決定的であった。

 その後、私は師範学校へ進んだ。私は、学徒動員で大竹海兵団に送られ、勤労奉仕で帝国海軍航空隊岩国基地(現、米海兵隊岩国基地)の整備をしていた。ここで、米軍艦載機グラマンの来襲を受けた。米軍は占領後、接収するつもりだったのだろう。爆弾は投下せず、グラマンの機銃掃射をやった。軍人は、機銃掃射の逃げ方を知っていたが、われわれ動員学徒は逃げまどうばかりで、多くの学友が犠牲となった。グラマンの攻撃はきわめて執拗だった。

 私は結核性の病気となり、広島に原爆を投下される前には下関に帰っていた。米軍が投下した機雷は陸上にも落ちた。海に落ちたら海軍、陸に落ちたら陸軍と、処理の担当が決まっていた。私が大竹海兵団に行っているあいだに南風泊と竹の子島を結ぶ昭和橋(昭和4年、架橋)の下に機雷が流れてきて橋桁にはさまった。海軍と陸軍で意見が異なったということだったが、爆破処理することとなり、私の家族を含め、近所のものはみな避難した。

 級友の話によると、この機雷爆破で、昭和橋はこっぱみじんとなり、近所の民家40~50軒は海水をかぶり、ガラス窓はこなごなに飛び散り、傾いた家も少なくなかった。一発の機雷であるが、その破壊力はすさまじいものだった。昭和橋は戦後復旧したが老朽化し、いまの鉄筋コンクリートの橋は近年につくりかえた三代目だ。

 機雷は、磁気機雷だけでなく、音波機雷も多数投下したので、木造の機帆船もやられた。戦争末期は大型鉄船はごく少なくなり、大陸や台湾から食糧の穀物を運ぶのに木造機帆船が動員された。昼間走ると米軍機にやられるので、夜、灯を消して島づたいに走った。これが関門海峡の機雷で沈没させられた。

 食糧は配給で、「ほしがりません勝つまでは」と、みんなひもじい思いをした。だから、アワやコーリャンを積んだ船が浅いところに沈むと、みんなそれをとりに行って、水で洗ってむしろに広げて乾かし、分けあい、助けあって食べた。コメやモチゴメは軍が先に押さえ、これが敗戦前から敗戦直後に配給となり、臭いモチを食べたことを覚えている。

 戦後も食糧難はたいへんなもので、サツマイモしか食べられないというのが庶民の生活だった。私の家が畑で少し野菜をつくっていたので、友人が「イモしか食えない」とうちに来て、その他の野菜を一緒に食べた。

 政府はまた戦争をやろうとしている。絶対に阻止しなければならない。定率減税を廃止し、公的年金控除をはじめとする各種控除を縮小・廃止し、在日米軍再編につぎ込む。冗談ではない。有権者の四分の一しか支持がない者が、国会で大勢を占める。戦中・戦後と苦労したわれわれの世代もそうだが、アメリカいいなりで国民を犠牲にする政治を変えなければ、戦争で犠牲になった者が浮かばれない。

https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/21157
32:777 :

2022/06/05 (Sun) 18:25:36


カナダ先住民学校、墓標ない墓751基 先月に続き発見
AFPBB News 2021/06/25 02:39
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%ab%e3%83%8a%e3%83%80%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%80%81%e5%a2%93%e6%a8%99%e3%81%aa%e3%81%84%e5%a2%93751%e5%9f%ba-%e5%85%88%e6%9c%88%e3%81%ab%e7%b6%9a%e3%81%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/ar-AALp4uo

カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民寄宿学校の跡地近くで遺骨が見つかった215人の子どもを追悼する先住民の人々(2021年6月4日撮影)。

【AFP=時事】カナダ中部サスカチワン(Saskatchewan)州マリーバル(Marieval)で、先住民の子どもを収容していたカトリック寄宿学校の跡地周辺から、墓標のない墓が751基見つかった。先住民団体の代表が24日、明らかにした。同国では先月にも、西部ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州の先住民寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨が発見され、国内に衝撃が広がっていた。

カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民寄宿学校の跡地近くで遺骨が見つかった215人の子どもを追悼する人々(2021年6月6日撮影)

 先住民団体カウェセス・ファースト・ネイション(Cowessess First Nation)のカドマス・デローム(Cadmus Delorme)代表は学校跡地で報道陣に対し、「きのうまでに墓標のない墓を751基発見した。集団墓地ではない。これらは墓標のない墓だ」と述べた。

 見つかった墓には過去に墓標があった可能性もあるが、「カトリック教会の代表者らがこれらの墓石を撤去した」とデローム氏は説明。カナダでは墓標の撤去は犯罪であり、墓が見つかった場所は「犯罪の現場」として扱われているという。

 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に送られ、家族や母語、先住民文化から引き離された。寄宿学校では子どもたちに対する劣悪な待遇や性的虐待が横行し、4000人以上が死亡したとされる。この問題に関する調査委員会は、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論した。

カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、215人の子どもの遺骨が見つかった先住民寄宿学校の跡地近くに集まった人々(2021年6月5日撮影)。© Cole Burston / AFP カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、215人の子どもの遺骨が見つかった先住民寄宿学校の跡地近くに集まった人々(2021年6月5日撮影)。
 ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は今回の発見を受け、カナダは先住民に対する人種差別の歴史に向き合い、「より良い未来を築く」必要があると表明した。

【翻訳編集】AFPBB News

カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民に対する抑圧を象徴するために地面に立てられた十字架と子ども服(2021年6月5日撮影)。© Cole Burston / AFP カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民に対する抑圧を象徴するために地面に立てられた十字架と子ども服(2021年6月5日撮影)。

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%ab%e3%83%8a%e3%83%80%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%80%81%e5%a2%93%e6%a8%99%e3%81%aa%e3%81%84%e5%a2%93751%e5%9f%ba-%e5%85%88%e6%9c%88%e3%81%ab%e7%b6%9a%e3%81%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/ar-AALp4uo


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墓標ない墓さらに182基 カナダ先住民学校問題、教会で不審火相次ぐ
AFPBB News 2021/07/01

墓標のない墓が多数見つかったカナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、追悼集会を開く人々(2021年6月26日撮影)。

【7月1日 AFP】カナダで先住民の子どもを収容していたカトリック寄宿学校の跡地から墓標のない墓が多数見つかった問題で、同国の先住民団体は6月30日、3校目の学校から同様の墓が182基見つかったと発表した。先住民学校での虐待に対する謝罪をローマ教皇に求める声が上がっており、国内では同日、2か所の教会で放火の可能性がある火災も発生した。

 先住民団体ロウアー・クートニー・バンド(Lower Kootenay Band)の発表によると、西部ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州クランブルック(Cranbrook)近くの聖ユージーン・ミッション・スクール(St Eugene's Mission School)で、専門家チームが地中レーダー探査を実施したところ、7~15歳の児童・生徒の遺骨とみられるものが多数見つかった。

カナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、墓標のない墓が見つかった場所にともされた明かり(2021年6月27日撮影)。


 ブリティッシュコロンビア州では5月にも、カムループス・インディアン・レジデンシャル・スクール(Kamloops Indian Residential School)の跡地で、墓標のない墓から先住民の子ども215人の遺骨が見つかっていた。さらに先週には、中部サスカチワン(Saskatchewan)州の学校でも墓標のない墓が751基発見された。

カナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、墓標のない墓が見つかった場所に立てられた旗の間を歩く人々(2021年6月26日撮影)。


 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に入れられた。子どもたちは自分たちの文化や言語から引き離され、教職員から暴行や性的虐待を受けた。この問題に関する調査委員会は、4000人以上が病気や世話の放棄により死亡し、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論付けた。

 警察によると、6月30日にはアルバータ(Alberta)州とノバスコシア(Nova Scotia)州の教会で火災が発生。捜査当局は、放火の可能性があるとして調べを進めている。カナダでは最近、このほか6か所の教会で不審火が発生。教会の大半は先住民地域に位置しており、赤いペンキで落書きされた施設もある。

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e5%a2%93%e6%a8%99%e3%81%aa%e3%81%84%e5%a2%93%e3%81%95%e3%82%89%e3%81%ab182%e5%9f%ba-%e3%82%ab%e3%83%8a%e3%83%80%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e5%95%8f%e9%a1%8c%e3%80%81%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%a7%e4%b8%8d%e5%af%a9%e7%81%ab%e7%9b%b8%e6%ac%a1%e3%81%90/ar-AALDp1f
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2022/06/05 (Sun) 18:59:47

不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか

レイプ大国インドの実態 2013年3月1日

顔に硫酸、素手で腸を出す……信仰とカーストが生んだ獣たち

ITを中心に高度成長の真っ只中にあるインド。しかし……。

 インド政府の統計では、性的暴行が20分に一件。

 2月20日、インドのメディアは、インド西部マハラシュトラ州で、6歳と 9歳、11歳の姉妹 3人が性的暴行を受けた後に殺され、遺体が井戸に捨てられる事件が起きたと伝えた。姉妹は14日に行方不明になり、16日に通学かばんや靴と共に遺体が発見された……。 

 しかし、インドではこの事件以前から残忍な強姦事件が相次いで起こっている。
1月には 32歳の子供連れの女性が、集団レイプされたうえに殺害。
遺体は木につるされた状態で見つかった。

また、32歳の男が顔見知りの女児を拉致。レイプ後に殺害……など。

 そして、インドでレイプ事件が大きく取り上げるきっかけとなった事件は、昨年12月に起きていた。

■インドを揺るがす社会問題の発端となったレイプ事件  凶悪犯罪と無関心を装う周囲

 昨年12月16日夜、首都ニューデリー。当時23歳の女子学生は、28歳の恋人の男性と映画鑑賞後に帰宅しようとしていた。帰宅時間が予定より遅くなり、三輪タクシーもつかまらなかった。そこへ、未成年の容疑者が彼らを私営のバスに乗るように誘い込んだ。多少のためらいはあったものの、私営の乗り合いバスに乗車。あとで分かったことだったが、実は過去に事件を数件起こしたこともあるという、無認可のバスだった。

 乗車後、運転手の男が猥褻な言葉を投げかけ、同乗の仲間もからかいながら言いがかりをつけてきた。

 恋人の男性はバスを止めるように要求した。が、すでにカギはロックされていた。男らは金属の棒で男性を殴り、女性の衣服を刃物で裂いて集団でレイプし始める。男性は暴行を阻止しようとしたが、金属の棒でメッタ打ちにされた。

 男らは、代わる代わる暴行しただけでなく、金属の棒で女性を殴り、局部に鉄の棒を突き刺して腸を引っ掻き回し、なんと素手で腸を引きずり出すという蛮行にまで及んだのだ。

 男らは、2人の身元がわからないように、持ち物、携帯電話を奪い、服も全部剥がした。そして、全裸の2人をバスの外に放り投げたうえ、証拠隠滅のため、バスで轢き殺そうとしたのだった。そして、男性は自ら重傷を追いながらも、女性をバスの下からひきずり出し救った。

 男性は全裸で血まみれの状態で何度も周囲に助けを求めたが、車やバイクは何台も通り過ぎていった。人々も通り過ぎていった。誰もが見て見ぬ振りをしたのだった。数十人の人が集まって話をしていたが、好奇の目で見るぐらいで誰も助けようとはしてくれない。

「服が欲しい。誰か救急車を!」……と、叫んだが、誰も振り向かなかった。

 ようやく来た警察に悲痛な訴えをしたが、無視されるだけ。結局、救急車は来ることなく、パトカーで病院に運ばれるまで2時間以上もかかったのだった。

 激しい暴行を受けた女性は、病院でやっとシーツの切れ端が与えられただけだった。女性は頭部や内蔵に損傷を受けていたが意識はあった。

 被害者の女性は大学の成績もトップクラスの優秀な学生であった。日夜勉学に励み、将来は収入を得て親孝行するのが夢だったという。彼女は入院中、母親に何度も「ごめんなさい」と謝り、「生きていたい」とも話していたという。彼女はジェスチャーで、「私は天に向かっている」と家族に伝えた。しかしこれが最期の言葉となったのだった。

 女性は繰り返し強姦された上に、鉄の棒で性的暴行を受け、腸管を損傷していた。臓器移植を受けるためにインドから医療環境の整ったシンガポールに搬送されたが、29日に息を引き取った。

 男性自身も骨折などの重傷で、恋人を救えなかったことによる心の傷に今も苦しんでいる。被害者の友人の証言によれば、2人は2月に結婚式を挙げる予定であったという。


インド社会が抱える闇 カースト制度、男尊女卑がもたらした恐るべき因習

 インドでは今、急激に凶悪なレイプ犯罪が問題となっている。
しかし、これは過去から黙殺されていたものが明るみに出たに過ぎない。

 実は、インドでのレイプ犯罪は日常茶飯事。

夜中に複数の男に家に侵入され、

抵抗したら硫酸をかけられ顔を破壊された女性。

レイプ被害を警察に訴えても相手にされず、挙句の果てに犯人との婚姻を勧められて自殺した少女など。


しかも、加害者の男はお咎めなしで釈放される……。


これには、宗教的な思想が少なからず影響しているはずだ。

 インドでは、国民の約7割がヒンズー教である。ヒンズー教にはカースト制度という世界的にも有名な身分差別がある。大きく分けて以下の4階級からなっている。


1. バラモン(司祭)
2. クシャトリア(王族・武士)
3. ヴァイシャ(平民)
4. シュードラ(奴隷)

 そのほかに、カーストに属すこともできない人々がおり、その人々は「アチュート」、「不可触賎民(アンタッチャブル)」といわれている。この身分の人は、触れたり見たりしたら汚れる人々とされ、人間扱いされない。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」と呼んでいる。

「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、ヴァイシャ(平民)出身。
ヒンズー教徒の彼は、最下層のダリットには同情的であったが、カースト制度自体をなくそうとはしなかった。なぜなら、カースト制度は、ヒンズー教の根底となる制度。ヒンズー教では、輪廻転生の概念があり、今の人生を一生懸命頑張れば来世で上の階層に行けるという教えがあるのだ。
なので、カースト制度をなくすことは、ヒンズー教の信仰そのものを否定することになってしまうのだ。

 昨年11月には、小さな村に住む最下層のダリットの16歳の少女が 3時間近くにわたり 7人の男にレイプされた。男たちの1人がレイプの様子を携帯で撮影。その映像を村中に流され、それを見た被害者の父親は絶望し殺虫剤を飲んで自殺した。

 また、別の村の 16歳のダリットの少女が、昼食を取ろうと畑から自宅に向かっていたところ、2人の男たちに別の家屋に連れ込まれ、レイプされた。叫び声を聞いた父親が現場に駆けつけたときには、男たちの姿はなかった。少女はその後、灯油をかぶり焼身自殺した。

 そのほかにも、ダリットの女性はレイプされたうえに、手足を切断されたり、火あぶりにされたり、人糞を食べさせられることを余儀なくされたり、悲惨な事件が後を絶たない。低カーストやダリットの女性に対するレイプは上位カースト男性の力を示すものであり、彼女らは常にレイプの危険にさらされているのだ。

 しかし、このカースト制度がもたらした影響だけが、レイプ犯罪を誘発しているわけではない。昨年12月にバス車内で起きた集団レイプ事件の被害者女性は中流階級のカーストだったといわれている。

 インドには、カースト制度がもたらすレイプ事件誘発以外に、強烈な男尊女卑が残っているのだ。

 未亡人殉死の恐るべき因習「サティ」。夫が死んで火葬されるとき、妻も火に身を投げて自殺することを強要させるというもの。これは近年まで続いてきた。

 さらに、女性が結婚する時に持参金を持ってくる「ダウリー」という制度。法的には禁止されているものの、まだまだ健在である。嫁から持参金を搾り取るために、虐待したり、充分でないと火をつけて焼き殺したりする場合もある。ダウリー殺人と言われる。

 こうした女性に対する暴力はインドで繰り返され、犠牲になる女性たちがどんなに多いことか。女性が危害を加えられたところで警察が動くこともなければ、裁かれることもない。女性に対して罪を犯しても罰せられないことがまかり通っているインド社会では、「女性に対していくらでも酷い虐待をしてもいい」という認識に繋がっている。


カーストが生んだインドの進歩

 ちなみに、カーストは親から子へ代々継承されるので、その家に生まれたら生涯カーストの階層を変えることはできない。ほかのカーストのとの婚姻は不可能。それぞれのカーストによって就ける職業にも制限があり、カーストの最下層は死体処理や糞尿処理など人の嫌がる仕事しか与えられないのが現状だ。唯一そこから逃げ出す方法が、新しい職業であるIT産業。インドでIT産業が急速に成長している理由には、実はカースト制度が深く関係しているのだ。ITと宗教とカースト制度。この3つが、今後のインドの行く末を左右していくのだろう。
http://news.livedoor.com/article/detail/7458790/  

強姦事件の被告、「女は黙ってレイプされろ」 インド 2015.03.04


ニューデリー(CNN) インドで女性を集団強姦(ごうかん)して死亡させた罪で死刑判決を言い渡された男が英BBCテレビのインタビューに対し、

「(被害者の女性は)黙ってレイプされればいいんだ」

と言い放った。ニューデリー警察は3日、混乱を引き起こす恐れがあるとして、裁判所がこのインタビューの公表を禁じたことを明らかにした。

被害者の女性(当時23)は2012年にバスの中で男5人に暴行されて重傷を負い、シンガポールの病院で2週間後に死亡した。

この事件で、バスの運転手だったムケシュ・シン被告を含む5人が集団強姦罪に問われて死刑を言い渡され、4人は判決を不服として控訴している。

BBCはドキュメンタリー番組の収録でシン被告にインタビューした。この中で同被告は

「まともな若い女は夜9時にうろついたりはしない」

「男に比べて女は強姦の原因になりやすい。男と女は平等ではない」

と主張。

「女がすべきは家での家事だ。夜間にディスコやバーをうろついて間違った事をしたり間違った服装をすることではない」

とまくし立て、自分たちには「教訓を教える権利がある」と言い放った。


女性は鉄の棒を使って暴行され、腹部や性器、腸に重傷を負って一部の臓器を摘出しなければならなかった。しかしBBCのディレクターからその話を聞かされても、シン被告は後悔した様子を見せず、

「レイプされている間は抵抗すべきじゃなかった」

「そうすれば『やり終わった』あとで降ろしてやったのに」

と吐き捨てた。


さらに、強姦の代償として死刑を言い渡せば、女性を一層危険にさらすことになるとも主張。

「今度レイプした奴らは、俺たちのように女を放置せず、女を殺すだろう」

と話した。


刑務官によれば、このインタビューは2013年に収録された。死刑判決を言い渡される前か後かははっきりしない。一緒に犯行に加わったシン被告の兄弟も強姦罪と殺人罪で起訴されたが、公判が終わる前の同年3月に、デリーの拘置所で首をつっているのが見つかった。

事件をきっかけとしてインドの女性に対する処遇は国際的な脚光を浴び、国内外で抗議運動が広がった。

しかしシン被告の弁護士は、女性に対して被告と同じような認識を示す。

「もし私の娘や姉妹が婚前行為に及んで自分を恥ずかしめるようなことをしたら、納屋に連れて行って家族全員の前でガソリンをかけ、火を付ける」


BBCは、やはり強姦罪で有罪判決を受けた別の男にもインタビューした。

この男は薄笑いを浮かべながら5歳の少女を強姦した話を語って聞かせたという。

小さな子どもになぜそんなことができるのかと尋ねられると、

「あいつは物乞いだった。命に何の価値もない」
http://www.cnn.co.jp/world/35061290.html

言う事を聞かない生意気な女はアシッド・アタックで懲らしめてやろう
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/831.html


2016-02-06 ラクシュミ。アシッド・アタックされた女性の勇気と恋愛
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20160206T0247080900.html

インドではレシュマという女性がアシッド・アタックされて顔面破壊されている。

しかし彼女はそれにも負けず、ユーチューブで「レシュマによる美容のヒント」と題する動画で自分の顔を見せながら、インドで何が起きているのかを世界に知らしめた。

(顔面破壊されてしまった女性が教える「美容のヒント」の真意)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150906T0146210900.html

Beauty Tips by Reshma How to get perfect red lips - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=-MhbULUd-KE

インドでは激しいレイプ事件が延々と続いている国だが、問題はレイプだけではなく、こうした女性への凄まじい虐待もあることだ。

インドの女性虐待は、インドにはカースト制度という身分制度が下地にあると言われている。身分の低い女性は人間扱いされていなかった。

そのため、身分の低い人々に対する虐待が横行する歴史が続いていたのである。つまり、

「身分の低い人間は何をしてもいい」

という意識が培われてきて、それが女性に対する暴力、虐待、レイプにつながっていた。

インドのカースト制度は今も残っている。欧米からの人権意識が徐々にインドでも浸透するようになり、都会から変わりつつあるのだが、それでもなお歴史にこびりついた汚点は消えることがない。


プライドが傷つけられてアシッド・アタックする男

女性の顔に強酸(アシッド)をかけるという残虐な犯罪は、今も続いている。女性が男のプライドを傷つけたとき、それは起こるという。

インドでは毎年1000件はそんな事件が起きるのだ。2015年は、ロシア女性がインド人の男の求婚を拒絶して顔面にアシッドをぶちまけられて顔面損壊するという事件まで起きた。

男性の求婚を女性が断ったとき、男はプライドが傷つけられたと考え、「自分と一緒にならないというのであれば、その容姿を台無しにしてやる」とアシッド・アタックに走る。

ラクシュミ・サアという女性に起きたのは、まさにその典型的な事件だった。彼女はまだ15歳だった頃、ひとりの男にプロポーズされた。まだ15歳である。彼女はそれを断った。

そうするとその男は仲間を引き連れて、彼女の顔や腕に強酸をぶちまけたのである。もちろん、この男は後に逮捕されて投獄されたが、ただそれだけの話だ。

彼女は生死の境をさまよい、生き残ったあとはひどい傷痕や痛みに苦しみ、そして高額の医療を受け、何度も何度も皮膚移植をしなければならなかった。

それでも、彼女の傷痕は完治することはない。

インドでは、こんな女性がたくさんいて、苦しみに満ちた人生を送らなければならない。その多くの女性は引きこもり、顔を隠し、まるで存在しないかのように生きるようになる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0247080900.html

ヒンドゥー教国のネパールでは、今生(こんじょう)の不幸は、前世の因果だから、いま苦しんでいる人は前世の業を落としている最中であり、苦しませておいてやるのが良い、と本気で思っている人が多いようである。

タイでも、「前世の因果」思想。ネパールよりもっと自己責任論に近いかもしれない。ある程度恵まれている人々は、

「自分は前世でそんなに悪いことをせず、あんな真っ黒の下層民に生まれなくて良かった」

と素直に胸をなでおろして終わり、という感じらしい。

こんな国でもかつては左翼運動が存在したことがあったが、分離運動との絡みを除けば、原始的な「妬み」「やっかみ」の情念の噴出に過ぎない。
https://kuantan2007.wordpress.com/2017/02/25/february-25-2017-at-0316pm/


ずいぶん改善されてきたとは言われているが、未だに現実に起きている苛烈な差別がある。ダリットと呼ばれる人たちへの差別だ。

「前世は犯罪者だ」と生まれたときから言われ、「だから差別されて当然なのだ」と結論づけられた人。それが、ダリットである。

もしあなたがダリットの女性として生まれていたら、生まれながらにして両親は虐げられ、嘲笑されているのを見て育つ。家は極度に貧しく、仕事もなく、いつも飢えている。

そして、年頃になると、突然知らない男たちに拉致されてレイプされる。しかし、誰も助けてくれない。ダリットの女性はレイプされてもしかたがないと社会が思っているからだ。

抵抗すれば殺される。手足を切断されたり、生きたまま燃やされたり、アシッド・アタック(酸攻撃)されたりする。警察も犯人を捜してくれない。

なぜなら、ダリットだからである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html

インドでは警察が異様なまでに腐敗していて、警察を相手取った告訴が毎年約6万件もある。

そのうちで逮捕される警察官は20人や30人でしかない。告訴の半数以上は「根拠がない」という理由で却下されている。

どういうことか。警察官が行ったダリットに対する拷問や、暴力、不当な鞭打ち、レイプは、闇から闇へと葬られているということだ。

警察官はブラーミンと結託しており、ダリットがブラーミンを訴えると、訴えたダリット自身が二次被害に遭う。

ブラーミンに対する告訴を取り下げないと殺すと伝える傲慢な警察官も多いという。ダリットは、法の庇護すらない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120813T0923510900.html

2014-06-03
14歳と16歳の少女をレイプして殺害、木に吊して見せしめ

インドでは2012年12月にニューデリーでひとりの女性がバスの中で集団暴行されるという事件が起きた。

(インドで起きている残虐なレイプは増える可能性もある理由)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130128T0334440900.html


この事件に憤って、インド各地で激しい抗議運動が起きたが、それでもレイプ事件は一向に減らない。

外国人女性もインド国内で次々とレイプされているが、国内では低カーストやダリットの女性が集中して襲われている。

ダリットとはカースト制度にも入れない最底辺の人たちのことを指している。不可触民(アンタッチャブル)とも言われている人たちだ。

「不可触」という言葉を見ても分かる通り、「触ることができないほど穢れた人たち」という定義なのである。

(ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html


インドでは、未だにこういった差別が当たり前に存在しており、これがインドの貧困を解決できないほど深いものにしてしまっている。


ダリットの女性の多くがレイプされてしまう

ダリットの人々は差別の対象になっており、まともな職が見つからない。街でゴミを片付けたり、死体を片付けたり、トイレ掃除をしたり、そういった誰もしたくない仕事を「世襲」させられている。

教育を受けることもままならない。学校に行けたとしても教室の後ろで地べたに座らされて勉強させられる。

学校にある公共の井戸の水でさえも、「ダリットが触ったら水が汚れる」というので飲ませない。そのような差別的待遇が普通に行われているのがインドの現状だ。

そんなに「汚い」「穢れる」と言っておきながら、若い女性は上位カーストに狙われていて、いつもレイプの対象になる。

インドでは22分に1件の割合でレイプ事件が起きているとも言われているが、その多くがダリットの女性であることはよく知られている。

この22分に1件というのは、被害届があったものだけであり、実際には被害を届けない女性の方が多いのだから、現状はもっと悲惨なことになっている。

インド人はダリットを英語で"Subhuman"(サブ・ヒューマン)と言っているが、この単語に聞き覚えがなければ、辞書で調べて欲しい。「人間以下」と翻訳が出てくるはずだ。

要するに上位カーストの男たちにとって、ダリットの娘たちは「人間以下」なのだから何をしてもいいという理屈になっていて、だからこそ好き勝手にレイプしているのである。

なぜ、インドではこれだけ女性が抗議運動し、国際的にも批判されているのにレイプ事件が減らないのか。その根底には、カーストによる根強い差別が残されているからだ。


死体はわざわざ吊されて「見せしめ」に

ダリットの女性はレイプされるだけではない。時には殺されることもある。殺されるだけではない。死体はわざわざ吊されて「見せしめ」にされることもある。

以前にもレイプされた女性が、木に吊されて発見されるという事件もあった。そういった事件が、インドではいつも当たり前のように起きている。

(集団レイプされて殺され、木に吊されて放置された女性の姿 )
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130206T2225280900.html


2014年5月27日夜、インド北部のウッタールプラデシュ州バダユンで起きたのもそんな事件だった。

14歳と16歳の少女が、集団レイプされ、木に吊されて「見せしめ」にされていたのである。

この2人の少女は同じ村に住む従姉妹同士だったのだが、彼女たちの家にはトイレがなく、ふたりが畑で用を足している時に、5人の男たちに狙われて集団レイプされていた。

5人は代わる代わる少女を犯した後、首を絞めて殺してマンゴーの木にぶら下げた。

少女の家族はすぐに警察に届け出たが、警察は最初まともに取り合おうともせず、今も犯人のうち3人は逃亡したまま行方は見つかっていない。

なぜ、警察はすぐに捜査しなかったのか。犯人の男5人のうち、2人は警察官の息子だったというのもあるかもしれない。

しかし、最大の原因は、殺されたのがダリットの少女だったからだ。インドでは警察も上位カーストの味方だ。ダリットの少女が殺されたくらいは大したことがないと思っている。


マンゴーの木に吊された2人のダリットの少女。5人の男にレイプされていた。


弱者をさらに叩きのめして這い上がれないようにする

インドの貧困。インドのレイプ。インドの腐敗。

こういったものは、すべてインド社会がずっと引きずってきたカースト(身分制度)が生み出している病巣だ。

インドでは未だにヒンドゥー教が深く信奉されており、貧困層も夜になったら近所の祠(ほこら)に集まって、みんなで祈りを捧げるような姿を見ることができる。

また、社会から捨てられたはずのバイシュン女性ですらも、部屋にはシヴァやパールバティやハヌマーンのような神々のポスターが飾られたりしている。

ヒンドゥー教とカーストは密接にリンクしており、ヒンドゥー教の中の輪廻転生もまたカーストと関連している。宗教と身分制度が切り離されずに残っており、それがインド社会を停滞させているのである。

ダリットの人々は、ヒンドゥーの教えによると前世で罪を犯した人たちの末裔なのだから、彼らは現世でその罪を償うべく生きていると彼らは信じている人が多い。

だから、彼らが極貧に堕ちていても、まともな仕事がなくても、レイプされて殺されても「前世が悪いので仕方がない」というひとことで終わってしまう。

そういった社会が続いている。

さすがにこのような地獄が続くことに違和感を感じて、ダリットの救済に力を注ぐ高潔な人たちもインドにはたくさん現れているが、その力はあまりにも小さい。

弱者を救済するどころか、むしろ弱者をさらに叩きのめして這い上がれないようにする人たちも多い。ダリットの女性たちは、未だに這い上がれないままでいる。

そして、レイプされ、木に吊されるのである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140603T0430200900.html


ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと


ずいぶん改善されてきたとは言われているが、未だに現実に起きている苛烈な差別がある。ダリットと呼ばれる人たちへの差別だ。

「前世は犯罪者だ」と生まれたときから言われ、「だから差別されて当然なのだ」と結論づけられた人。それが、ダリットである。

もしあなたがダリットの女性として生まれていたら、生まれながらにして両親は虐げられ、嘲笑されているのを見て育つ。家は極度に貧しく、仕事もなく、いつも飢えている。

そして、年頃になると、突然知らない男たちに拉致されてレイプされる。しかし、誰も助けてくれない。ダリットの女性はレイプされてもしかたがないと社会が思っているからだ。

抵抗すれば殺される。手足を切断されたり、生きたまま燃やされたり、アシッド・アタック(酸攻撃)されたりする。警察も犯人を捜してくれない。

なぜなら、ダリットだからである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html


インドのレイプ事件はほぼ毎日のように起きている

日本人女性のみならず、外国人女性でもレイプ被害に遭っている。韓国人女性も、アメリカ人女性も、見境いなくレイプされている。

殺された女性もいるが、かろうじて助かっても、もはやインドという国には恐怖しかないだろう。

(レイプされることに気付いても、誰も助けないという心理)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140706T0134110900.html


実はインドのレイプ事件はほぼ毎日のように起きている。それも日本人からすると、到底あり得ないような状況の中でのレイプだ。

同じ建物に住む少女を拉致して数日レイプし続けて殺してしまった事件もあったが、この男はその数日間に親が行方不明の子供を心配して泣き叫んでいるのを知っていて、自分の部屋に戻っては少女をレイプしていた。

あるいは、道歩く姉妹を集団でレイプして、終わったあとは姉妹の首を絞めて殺し、木に吊して「自殺した」と見せかけたものもあった。

レイプした女性を木に吊して見せしめにする事件はパキスタンでも起きているが、なぜ「この女をレイプして殺した」と見せしめにしなければならないのか。

それは、上位カーストが、下位カーストに対して「俺たちに逆らうとこうなる」と震え上がらせて、普段でも逆らわないように恐怖を与えるためである。

下位カースト、もしくはダリット(不可触民)と呼ばれる立場の弱い女性は、しばしば上位カーストの男たちにレイプされる。その実態は想像以上に醜悪で悲惨だ。


インドは、弱い立場の女性にとって地獄のような場所だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150503T0512130900.html


想像してみて欲しい。あなたの両親は掃除や死体処理の仕事をしていて、あなたもその仕事しか就けない。あなたは教育を受けられなかった。あなたは字も読めないし計算もできない。

あなたはいつも殴られ、いじめに遭って逃れられない。警察もあなたの敵で助けてくれない。あなたが女性なら、知らない男にレイプされても泣き寝入りするしかない。

反抗すると虐待される。たとえば、人糞を食べさせられるかもしれない。灯油をかけられて燃やされるかもしれない。自分だけでなく、家族まで巻き添えになって殺されるかもしれない。

そんな境遇にいたら、どう生きればいいのか。

まさか、この世にそんな地獄のような人生を強いられている人がいるはずがない……。先進国の人間であれば誰でも思う。しかし、そのような人生を送っている人たちがいる。

インドの低カースト、あるいはダリット(不可触民)は、今でもそのような境遇の中にある。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか 2011年8月27日

1980年代後半まで、タイ・ヤラワーやスティサンには冷気茶室というバイシュン宿が当たり前にあった。そこには見るからに幼い少女が監禁されている場所だった。今の人たちには信じられないかもしれないが、少女が監禁されていることくらい誰でも知っていた。1990年代のカンボジアにもあちこちの置屋でベトナムから売られてきた少女が雛壇に並んでいた。ベトナム人のバイシュン村もあって、そこにも10歳にもならない少女がバイシュンしていた。少女がバイシュンしていることくらい誰でも知っていた。


セックスの奴隷

インドネシアのとあるバイシュン村ではもっと悲惨だった。少女がバイシュン宿の地下に監禁されていたのである。

まだ知っている。

インド・ムンバイのバイシュンストリートも少女を水浴び場に監禁しているし、他のバイシュン地帯では鍵のかかった部屋に押し込められていた。警察が来ると、さらに屋根裏の空洞に隠される。

娼婦がバイシュンするための部屋には天然痘にかかってイボだらけの子供が疲れた身体を横たえて苦しんでいる。娼婦が客を取ってくると、子供は追い出される。娼婦と客は、さっきまで病気の子供が寝ていた温かい体温の残ったベッドでビジネスをする。

コルカタでは、バイシュンする少女が客を部屋まで連れてくると、エイズに罹って幽鬼のようになった痩せさらばえた母親が金を受け取りにやってくる。バイシュンする娘の隣の部屋でエイズの女性が治療もされずに横たわっている。これがあちこちのバイシュン宿で普通に見る光景であると言えば驚かれるだろうか?

あるいは父親が誰だか分からない子供を産み、その子供を脇に置いたままビジネスをする娼婦もいる。この世の地獄とはまさにバイシュン宿のことを指すのだろう。少女たちは、ただバイシュン宿が儲けるためだけに生かされている。

この恐るべき実態はもちろんユニセフ(国連児童基金)やNGO団体も承知しており、それだからこそ最近は様々な機会で児童バイシュンの深刻な問題を議題に上げるようになってきている。

毎年100万人もの娘たち(少女たち)がセックスの奴隷として売買され、性的搾取されているのはユニセフの報道を読むまでもない。


この国の矛盾はいつか大きな暴力に

この中で、人身売買がもっとも多い国として、インドが挙げられている。
インドは世界最大のバイシュン地帯であり、世界最悪の人身売買国家である。

東南アジアのどの国よりも劣悪な環境の中で、ネパールなどから売られてきた少女たちが凶暴なバイシュン宿の経営者によって監禁され、虐待され、バイシュンをさせられている。その数が一年間に40万人ということなので、先に挙げた毎年100人の犠牲者の約4割はインドが占めていることになる。

インドはカースト制度の中で国が成り立っている。

上位カースト(ブラーミン)は、不可触民(ダリット、アンタッチャブル)の娘たちを面白半分に好きなだけ犯しても罪に問われない。カーストを身分制度というが、私に言わせればそれは間違った訳語であって、正確には「差別制度」である。インドでは陰でこのようなことが囁かれている。

「不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいない」

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか。理由を聞くと、あまりの恐ろしさに絶句する。

不可触民の娘なら何をしても警察は相手にしないので、男たちが道を歩いている不可触民の娘たちを好き勝手に集団レイプするからだという。もちろん、警察は動くことはないし、悪が糾弾されることはない。果敢に訴えた不可触民もいるが、家ごと燃やされて焼き殺されたりして凄惨な末路を迎えている。ほとんどが泣き寝入りになる。

ちなみにダリットはよく建物ごと焼き殺される。何もかも燃やしてこの世から消してしまいたいと上位カーストは思っているようだ。


生きたまま燃やされた不可触民の少女

顔は残っているが、身体は炭化している

輪姦されて殺されて焼かれた不可触民の姉妹

レイプされ、縛られ、焼き殺された不可触民の女性

性器から血を流しているので乱暴なレイプだったことが分かる


なぜこんなことになるのか。

なぜなら、彼らは不可触民(アンタッチャブル)だからである。人間ではないと思われているのだ。

不可触民は不可触民というカーストに属しているのではない。
彼らはカーストにも属せないほど穢れている、すなわちカースト外(アウト・オブ・カースト)なのである。

この恐るべき差別の国で、バイシュン宿がどういう実態になっているのかは想像するまでもない。バイシュン宿の女性たちのほとんどが不可触民の女性である。カースト色が薄らいできたというのは、上位カースト(ブラーミン)だけの話である。


あらゆる悪が置き去りにされている

カースト制度はすでに過去のもので法的にも廃止されているはずだし、差別的言動は認められないはずだと言う人もいる。しかし、一週間もインドにいれば、それは単なる理想だったということが分かる。法律は機能していない。バイシュン禁止法がどこの国でもまったく機能しない以上に、カースト廃止も機能していない。地方の村では相変わらずカーストに縛られて人々は暮らしており、それは今後も変革される見込みもない。

インドの人口は10億人を越えており、次世代を担う新興国と世界は持ち上げているが、そのうちの約5億人は貧困の中にある。その貧困が半端なものではない。

世界最大のバイシュン地帯であるインド。神々が棲み、すべてが混沌とし、あらゆる思想と哲学が渦巻くこの国。

あらゆる性の技巧が記された古典「カーマ・スートラ」を生んだ国。

『ラ・マン』を生んだフランスの大作家マルグリット・デュラスの愛した国。

しかし、この国は今でもあらゆる悪が置き去りにされて跳梁跋扈としている。

ひとつ注意しなければならないのは、この国の矛盾はいつか大きな暴力となって国を覆っていくということだ。それこそ国が割れるような騒乱が起きても不思議ではない。一筋縄ではいかない国で、一筋縄ではいかない人たちがひしめき、それで何もかも順調に経済発展が享受できると思ったら大間違いだろう。

この国では何が起きてもおかしくない。
http://www.bllackz.com/2011/01/blog-post_5583.html


2016-03-21 メイド虐待が国際問題になっても絶対になくならない理由

インドではメイド稼業がごく普通に行われていて、若いメイドがその家の主人にレイプされたりする事件も多発している。

若いメイドは無学であり、カーストも低く、高カーストの主人にレイプされても被害を訴えることができない。

警察はいつでも高カーストの味方であり、低カーストの女性は同じ人間に見られていない。そのため、下手に被害を訴えれば、自分や自分の家族が襲撃されてひどい目に遭う。

メイドは人間のように扱われないというのは、中東でも香港でもシンガポールでもマレーシアでも起きていることだ。

中東のメイド虐待はひどい状況である。インドネシアやフィリピンの女性たちは、中東で奴隷さながらの扱いを受け、インドネシア政府は、とうとう中東に自国女性をメイドとして派遣するのを止めてしまった。

フィリピンもそうなるかもしれない。何しろ中東ではどのようなメイドを雇うのかは面接をして容姿で決定するような国である。雇う男が何を考えているのかは、それだけで分かる。

しかし、容姿で選ばれたからと言って、ちやほやされるのではない。パスポートも取り上げられ、ほとんど監禁状態のように閉じ込められ、ほとんど不眠不休でこき使われる。

はっきり言えば、メイドは雇われた時点で人間ではなくなる。奴隷になる。メイドとは、現代の奴隷なのである。人権意識など、そこにはまったくない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160321T0234090900.html


インドのバイシュン地帯に売られ、性奴隷にされていくネパール女性の悲劇


エベレスト山に興味を持つ人はいても、ネパールという国に興味を持つ人は少ない。この国はとても貧しい国で、大抵の人はインドの属州みたいなものだと思っているし、事実そういうところはある。

ネパール女性にとっては殊さらそれは重い意味を持つ。

私が今まで見てきた中でもっともひどい状況に置かれていると思ったのはネパール女性の人身売買だ。

インドのムンバイとコルコタ(カルカッタ)は、インドで有数のバイシュン地帯を抱える地区だが、ここで廃人のようになっている女性の多くがネパールから来た女性だった。


性奴隷、と彼女たちは呼ばれている

どの女性も非常に荒んでおり、喘息やHIVに侵され、皮膚はボロボロになっている。

BBCが報道した内容で、インドからネパールに戻っていく女性たちの38パーセントはエイズに罹っていたという内容もあった。

ちなみに、14歳以下の少女であればエイズ感染率が60パーセントに跳ね上がる。

なぜなのか。それは一時インドで、エイズに罹ったら若い処女を抱けば治るというシャーマニズム治療が信じられて、ネパールの少女が買い漁られた結果でもある。

そうでなくても、インドでは白い肌の女性は魅力的だと思われているので、モンゴロイド系のネパーリーはバイシュン地帯でもよく売れている。それだけエイズ感染率が上がってしまうのだろう。

真夜中にバイシュン地帯を歩いて見ると分かるが、彼女たちの目つきは凶悪で邪見で道行く男たちに親近感などまったく持っていない。憎しみの気持ちがその目つきや威嚇の態度で読み取れる。

彼女たちはバイシュンビジネスを自ら行っているわけではなく強制されているのだから、やって来る男たちに愛着を持つはずもない。

NPO団体は彼女たちの境遇を「性奴隷(セックス・スレイブ)」と呼んでいる。ムンバイのバイシュン婦の25パーセントはネパーリーだという報告もある。

CNNが取材したあるネパーリーは、9歳のときに一日60人の男を相手にしたということだった。このような未成年のネパーリーはインド圏のバイシュン地帯ではどこでも見る。

ムンバイのフォークランド・ストリート(バイシュンストリート)でもバイシュン宿に匿われていた少女がいる。

この通りの端には交番のようなものがあって、警察官が定期的に見回りをする。警察官の姿が見えると彼女たちはバイシュン宿の管理者に天井裏に押し込められるのだった。ずっと表に出してもらえない少女も多い。

あと、この界隈のバイシュン宿はほとんどが突き当たり奥が浴室(というよりも単なる水が使える空間)になっているのだが、電気もない暗い一室に押し込められている少女もいた。

一度私は何も知らずにドアを開け、水場の暗闇の隅でひとりの少女が佇んでいるのを見て驚いたこともあった。


フォークランド・ストリート
真ん中に立っているのは客待ちの娼婦

ムンバイやコルコタのバイシュン地帯にいる女性のほとんどがプロのブローカーによって人身売買されたか、誘拐(キッドナップ)の被害であると言われている。

ネパールでは人身売買のブローカーたちが暗躍していて、若い女性が次から次へと売り飛ばされている現状がある。

地理的に見ると、ネパールからは、インドのニューデリーがもっとも近いが、彼女たちの多くはボンベイに供給される。

それはボンベイがインドでも最悪のバイシュン地帯が存在しているというだけではなく、ネパールから距離的にも遠いことが人身売買には都合が良いのである。

どこの国でもそうだが、売買や誘拐された女性は、逃亡の気持ちを失わさせるために、彼女たちが暮らしていた国や場所から遠ざけられる。

遠ければ遠いほどいい。ネパールではヒンディー語を解せない女性も多いから、インドという異国に連れて行かれると、もはや為す術もない。

コミュニティを断ち切り、距離的にも遠いところに隔離すればするほど女性たちを絶望に追いやり、あきらめさせることが容易になる。


横行する人身売買業者

人身売買のブローカーは私も会ったことがある。そのひとりは平気で女性に暴言を吐き、殴り、私にも「日本の女を連れてきたら買う」と言うような男だった。

このような男は見るからに悪人であり、ある意味で危険を避けられる。

問題は別の種類の男だ。仮面をかぶることに長けている演技派の人間が恐ろしい。彼らは、そのビジネスをしている人間のわりには非常に「誠実」に見える。

にこやかな笑みを絶やさず、こちらの目をしっかり見つめて話をする。コルコタでそのような男と会ったことがある。

もし彼と別の場所で会ったら、彼がそんなビジネスをしていると知っても信じられなかっただろう。

彼のような人身売買ブローカーは、清潔な服装を心がけ、誠実に振る舞い、貧しい村の女性と自然に恋に落ちた振りをして、両親と会って結婚式を挙げさえする。

しかし、すべてが偽りだ。やがて、新婚旅行と偽ってムンバイやコルコタに連れて行き、結婚したばかりの自分の「妻」を売り飛ばす。

2010年11月、西ベンガル州で女性をバイシュン地帯に売り飛ばす仕事をしていた27歳の男が逮捕された。


この男は貧しい女性に近づいては結婚して女性を新婚旅行か何かに連れて行くのだが、その行き先がインドのバイシュン宿だった。5年間で60人もの女性をバイシュン宿に売り飛ばしていたという。

このような男がインドには何千人もいて、しかも手口やテクニックが男たちに継承されている。人身売買の歴史もある。社会がそのシステムを組み込んでいる。

警察もバイシュン宿の経営者も全員がグルになっているので、女たちは逃げようがない。

インド・ネパール・バングラデシュの広大な大地で、貧困を背景にした壮大な人身売買の横行が、まったく是正されないまま今日に至っている
http://www.bllackz.com/2010/01/blog-post_25.html

人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち


人身売買されてバイシュン宿に放り込まれ、精神を病んだ若い女性を知っている。

彼女は感情を失い、まるで小さな人形のようにイスに座り、ほとんど何もしゃべることもなかった。

何か問いかけても、彼女の声はほとんど聞き取れないほど小さく、人間としての生気が消えかけているように思えた。
(コルカタのバイシュン地帯で、デビーは人間性を叩きつぶされていた)

あとで彼女は拉致されてバイシュン宿に放り込まれたのだというのを知ったが、猥雑で混沌としたエネルギーがうねっているようなインドのバイシュン地帯で、彼女の醸し出す雰囲気はとても不気味なものがあった。


彼らはインドの中では人間扱いされていない

インドは自他とも認める「人身売買国家」である。他人の子供を拉致・誘拐して、バイシュン地帯や組織に売り飛ばす職業の人間が存在していて、インド・ネパール・バングラデシュ全域をテリトリーにしている。

信じられないかもしれないが、子供が行方不明になるのは珍しい事件でも何でもなく、日本では重大な事件に発展するようなケースが警察に訴えても放置される。

なぜなら、誘拐される子供たちのほとんどが低層のカースト、もしくは不可触民であるからだ。

彼らはインドの中では人間扱いされていない。

上位カーストの男たちが下層カーストの娘たちをレイプするのは日常茶飯事だ。

思春期になって処女のままの下層カーストの娘はほとんどいないともいわれている。集団レイプが横行しているのである。
(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

そういえば以前、こんな事件があった。

下層カーストの少年が上位カーストの少女に恋してラブレターを送った。それを知った上位カーストの男たちは少年をリンチしたあげくに、少年の母親の目の間で、少年を走っている列車に放り込んで轢殺したのである。

凄惨な事件だが、インド人が聞いたら「そういうこともあるだろう」で終わってしまう。

なぜなら、下層カーストの男と上位カーストの女は「交わってはならない」文化になっており、それを破るのは命を捨てることだからである。


最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている

インドではいまだに身分制度が堅牢であり、低カーストの人間は人間以下なのだから「豊かになる権利」すらない。

カーストにすら入る権利のない人間(アウト・オブ・カースト)の人間は、インドでは Sub-human であると言われているが、この言葉にインド人の信じるヒンドゥー教のおぞましさが潜んでいる。

Sub-human。人間以下。

低カースト、不可触民(ダリット)たちは、人間の形をしているが、人間ではないことになっている。

彼らは前世で罪を犯したので、今のような身分に生まれてきたのだと社会は定義しており、彼ら自身もまたそのように信じている。

そこに、ヒンドゥー教という宗教の恐ろしさがある。人間以下の人間がいることを、宗教が断言し、社会がそれに染まり、固く信じられているのである。

ヒンドゥー教は人間以下の人間がいると定義しており、ヒンドゥー教徒はそれを潜在意識にも刷り込まれて、社会全体で洗脳し合っている。

そういうわけだから、人間ではない「Sub-human」に人権などない。彼らの富はいつでも奪うことができるし、彼らの女性はいつでもレイプすることができる。

彼らの子供たちが拉致されても、人間ではないのだから、真剣に捜査する必要性すらないと信じられている。

インドが経済発展して貧困がなくなるとは恐れ入った概念だ。

確かに上位カーストは豊かになるだろう。立派な教育を受けたり、いい家に住むこともできるだろう。

しかし、低カーストの人間が果たしてその仲間入りができるかどうかは分からない。

もちろん、多少の例外は出てくるだろうが、圧倒的大多数は無視され続けるだろう。

文化的に彼らは抹殺されており、教育すら受けられないのだから、今のままでは救われることなどありえない。圧倒的大多数のスラムドッグはミリオネアにはなれない。

インドのバイシュン婦たちの惨状をレポートしているNPOでは、このように嘆いている。

They live in sub-human conditions, are abused and exploited and their progeny suffer ostracism of the worst kind.

(彼らは人間以下の状況で暮らしており、彼らの子孫は最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている)

インドの貧困地区の現状は、恐らくインドに行ったことのない欧米人や日本人の想像をはるかに圧倒するほどの劣悪さの中にある。

ムンバイのダラピや、コルコタのカリグハットの向こう側のスラムに足を踏み入れれば分かる。

そこに展開されている世界は、今もなおインドが激しい身分制度を内包したいびつな国家であることを示している。

人身売買はなくなるのだろうか。100パーセントの確率で私はなくならないと断言したい。人間ではない人間がいるという社会通念が南アジアの大地に根強く浸透している。

野良犬を捕獲するように、人間以下の身分の子供たちを捕獲して売り飛ばす悪魔や女衒が跳梁跋扈している。これは過去の話ではない。現代の話である。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html

身分の低い人間は穢れていると考えるのが、身分制度の無意識


インドのカーストの最底辺の中の最底辺、カーストにすら入れないほどの身分の人間を「不可触民」と言う。英語ではアンタッチャブルである。

「触ることすらできないほど穢れた人たち」

そういう侮蔑が込められた恐るべき言葉が「不可触民」という単語に現れている。

インドではバイシュン女性が最下層のカーストであるのは意味がある。それは不道徳だからという理由もあるだろうが、他人にかなり密接に「触れる」からだ。

インドでは他人に触れるというのは「汚らわしい」と考える文化が根底にある。
まして、カーストの低い穢れた人間など触りたくもないと思うようだ。

穢(けが)れ……。

「不可触民」というのも触れないほど「穢れて」いるのだという思想で定義された。


自分までもが汚れてしまうと無意識に考える

私たちは普通、「他人が穢れている」「他人が汚い」とは思わない。触りたくないという感覚も起きない。

それは、あまりにも当たり前のように感じるかもしれない。しかし、それは人間が平等であるという意識があるから感じないだけかもしれない。

人間には上下関係があって、自分より身分が下の人間は「劣っている」という傲慢な意識があれば、どうなってしまうのだろうか。

あまりに「穢れている」ので、そんな身分の人間を触れば自分までもが汚れてしまうと無意識に考えるのだ。

少なくとも、カースト制度の中のインド人は、そのように考えたようだ。

今でも程度の差こそあれ、そんな文化がインドでの暗黙の了解になっている。意識化されていないことも多いが、意識してそう語るインド人もいる。

だから、人に触ったり人の持ち物に触ったりしなければならない職業の人間は、最低ランクのカーストと見られるのは自然の流れだったのだろう。

他人の排泄物を扱うバンギー・カーストや不可触民が最低底のカーストと思われているのは、最も汚れたものである排泄物に「触れる」からだ。

そして、他人と肉体交渉することが仕事になっているようなバイシュン女性は、女性の中でも最も穢れていると言われている。

誘拐されてバイシュン地帯に放り込まれ、救出されて村に戻っても、バイシュンビジネスをしていたということが分かったら、村人はこの女性を受け入れない。

彼女は、穢れてしまったからである。


バイシュン地帯に堕ちた女性は、そこを抜け出しても村で受け入れてもらえないことも多い。


劣情の前には不可触民が「不可触」ではなくなる

バイシュンビジネスに放り込まれる女性は多いのに、いったん放り込まれると抜け出しても彼女は過去を清算することができない。

一度穢れると、今がどうであれ、すでに穢されて元に戻らないと社会が考えているからだ。

NGOがバイシュン女性を救出して女性を村に戻しても、誰も関わろうとしないので生きていけず、仕方がなくまたバイシュンビジネスに戻る女性も多い。

バイシュンというビジネスの中身を考えると、他人に触れることを無意識に嫌うインド人には「身の毛もよだつ」ことに違いない。

バイシュン女性は他人に「触れる」どころか、男の肉体を自分の体内にまで侵入させるのを許さなければならないからだ。

しかも、1日に何人もの男を受け入れなければならず、それを拒むことができない。

必然的にバイシュン女性は、不浄の極まった女、もはや清くなることはあり得ないまでに穢れてしまった女として扱われるようになる。

どこの国でもバイシュン女性は存在を酷評されるが、インドは格別にそれがひどい。人権を認めるに値せず、もはや人間として扱う必要すらないとでも考えている。

しかし、皮肉な現実もある。

自分の欲望が抑え切れなくなると、「彼らは不可触だから何をしてもいい」と言いながら、ダリット女性の意志も無視して押し倒す男がいるのである。

ボロボロになるまで「不可触」の女性をレイプする警察官の存在もある。

つまり、劣情の前には「不可触民」が「不可触」ではなくなる。触ってもいいことになってしまうのだ。


インドが変わるのは、まだまだ時間がかかる

いったい、どういうことなのだろうか。

これは、別に難しい話ではない。本当は、男たちは誰も「不可触民に触れたら自分も穢れる」とは思っていないのだ。

ただ、そういうことにしておいた方が、最下層の人間を常に奴隷的に扱えるので都合がいい。だから、上位カーストの人間は思っているフリをしている。

現在でも、インドでは最下層の女性たちに対する性的虐待の事件が次々と起きている。国際ニュースになるほど事件が起きているのに、なぜ改善されないのか?

犯人を死刑にすれば状況は変わるのか?

無駄だ。身分制度(カースト)が、社会や、人々の心の中にある限り、最下層の人を見下したり、最下層の女性を見下す状況は変わらない。

また、身分制度とは別に、インドでは保守的な家長主義も浸透しているから、女性であること自体に身分に関係なく虐げられる現状もある。

下層カーストでなくても、女性は男に虐待されたり、虐げられたり、家庭内暴力を受けたりする。これが、インドの女性の置かれている厳しい現状だ。

インドの歴史は、そうやって苛烈な差別を内包したまま続いてきた。しかし、1992年からこの国は経済成長に向けて動き出しており、それから約20年近く経った。

インドはこれでも少しずつ変わりつつある。

しかし、未だ国民の6割が貧困層である現状を見ると、経済発展の動きはとても鈍いことが分かる。インドが根本的に変わるのは、まだまだ時間がかかるのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0248220900.html


「魔女狩り」被害に遭う下層民の女性たち 2010年02月11日


【2月11日 AFP】ネパールの首都カトマンズ(Kathmandu)から南へ40キロのピュタル(Pyutar)村で、カリ・ビスウォカルマ(Kalli Biswokarma)さん(47)は、「魔女」であることを白状しろと、近所の人々から2日間にわたり拷問を受けた。

 1児の母親であるカリさんは、カースト制度の枠外に置かれる最下層民「ダリット(Dalit)」の出身だ。

事の発端は、ある教師が病気になったことだった。

家にいたところを35人ほどの村人たちに連れ去られ、牛小屋に閉じ込められ、

「(教師に)魔術をかけただろう」

と責められながら殴る蹴るの暴行を受けた。
さらに、人間の排せつ物を食べることも強制された。
次の日にはナイフで傷つけられた。


「もう拷問には耐えられなかった。命だけは助かろうと、魔女であると告白しました。自分が貧しいから狙われてしまったんです」(カリさん) 

 ネパールでは、毎年数百人のダリット女性が同様の被害に遭っていると見られる。

この国では迷信およびカースト制に基づく差別が根強く、大半のコミュニティーが厳格な父権社会のままだ。

 ヒンズー教に基づいた君主制国家から現代的な世俗国家に移行するなか、政府は今年を「女性暴力撲滅年」と宣言している。しかし困難な道であることは政府も認めている。


■「女性」と「下層民」がネックに

 女性の権利向上を目指してキャンペーンを展開する地元団体によると、女性が魔女の嫌疑をかけられて近所の人から拷問を受けるという事件はこの2年間で少なくとも82件にのぼっている。しかし、家族と共同体から見放されることを恐れて名乗り出ない人も多いため、この数字は氷山の一角と考えられるという。 

 ネパールの法律は女性への暴力を禁じているが、この団体によると、犠牲者が下層民の場合は法律が適用されることはほとんどないという。

 専門
34:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:00:28

ネパールの法律は女性への暴力を禁じているが、この団体によると、犠牲者が下層民の場合は法律が適用されることはほとんどないという。

 専門家らは、魔女に関する迷信は、女性に暴力を振るうための口実に過ぎないことが多く、標的はほとんど毎回、下層民の女性に落ち着くと指摘する。

 先のカリさんは、カトマンズの避難施設で過ごしたあと、村に戻ってきた。

「魔女」の烙印(らくいん)は消えたわけではない。

「わたしを拷問した何人かがまだ村にいるので恐怖です。
尊厳は失ってしまったけれど、希望を捨てたわけではありません。
正義のために戦います」
(c)AFP/Deepesh Shrestha
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2693601/5287891
35:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:01:36

2013-02-28
今でもインドでは排泄物を集める仕事しか就けない女性がいる


インドにおける非常に厳しい差別の実態はブラックアジア第三部のインド編でしばしば言及した。

(ブラックアジア「第三部」)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20110203T0000000000.html

この中で、ダリット(不可触民)と呼ばれる人たちが、私たちの目から見ると、信じられない差別の中に放り込まれていて、苦難の人生を歩んでいることも書いた。

たとえば、掃除や死体処理やトイレのくみ取りの仕事を強制され、それしかできない人たちがいる。

(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


これは昔々の話ではなく、2013年に入った今でも現状は変わらない。インドでは生まれながらにして、「トイレ掃除しかやってはいけない」というカースト(身分)があるのである。

インドの社会全体が、誰もやりたがらない仕事を下位カーストに押し付け、そしてそれを固定化させたのだ。


非人=人に非(あら)ず=人間ではない

ダリット(不可触民)は、日本人にも分かりやすく言うと、「非人」である。

江戸時代、日本も身分制度の社会にあって、それは士農工商制度と言われているが、その士農工商のいずれにも属さないカテゴリーも設定されていて、こういった人たちを「非人」と言っていた。

非人=人に非(あら)ず=人間ではない。

そういう身分を作っていた身分制度があったのだ。私たちは明治時代になってから誰が何の仕事をしても構わないようになったが、今でも「家業を継ぐ」という考え方が依然として社会に残っていることもある。

芸能や事業や政治のような「高尚」な分野では家業を継いだほうが楽して儲かるので、利権を守るために自然に「家業を継ぐ」という考え方になる。

金の儲かる仕事に就いている一族であれば、家業は継ぐべきものなのである。

貧困者にとっては家業を継いでも何も得しないので、家業を継がないことが多い。また、家業を継がないことが許される。

もし、これが許されなかったら、あるいは社会に身分を強制されていたら、日本の社会はこれほど発展しなかったということが分かるはずだ。

身分制度は捨てて正解だったのである。

しかし、インドではいまだカーストと呼ばれる身分制度が続いており、カーストによって下位カーストや不可触民に対しての差別が色濃く残っており、継承されている。


排泄物の処理を仕事とするインドの「不可触民」

AFPがこの排泄物処理をしているインドの女性たちの短い特集をユーチューブに上げているので、ここでも紹介したい。いまだにこのような現状にあることがよく分かる映像だ。


映像では、NGO団体が彼女たちを救い出そうと努力している姿が映し出されているが、50万人以上の女性がここで救い出されるわけではない。

インドの闇では依然としてこのような女性たちが差別されたまま放置されて、現状の改善はなされない。

そして、もっとひどいことに、このような仕事に就いている家庭で娘が生まれると、若いうちからレイプされてしまったり、バイシュン地帯に売られることも日常茶飯事のように起きる。(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

コルカタのバイシュン地帯に売られてやって来た女性たちのうちの何人かは、このようなカーストから来た女性たちである。現実は、この映像よりもはるかに沈鬱で救いがない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0037110900.html


Forced to Clean Human Waste in India - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=y3XfjbwqC_g


インド:カースト制度が強いる生業としての排泄物清掃
終わらない「人手による汚物処理」 地方政府の後押しで
https://www.hrw.org/ja/news/2014/08/25/254956

(ニューデリー)— インド政府は「人手による汚物処理」に終止符を打つべきだ、とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書内で述べた。地方自治体がこの差別的な慣行を禁じる法を確実に実施することで、下位のカースト出身者が従事する汚物処理業を阻止する必要がある。政府は、このコミュニティに属する人びとが、汚物処理業に代わる持続可能な生業を見つけられるよう支援する既存法を、実際に適用すべきだ。

報告書「生業は排泄物清掃:インドの『人手による汚物処理業』、カースト制度、そして差別」(全96ページ)は、人手による汚物処理業の強制的な性質について調査・考察したもの。インド全土で清掃人カーストに属する人びとが、日々人間の排泄物をバスケットに集めて、処分のために運び出す作業に従事している。通常、女性は汲取式トイレの清掃、男性はより重労働な下水道や浄化槽の清掃を担当する。本報告書は、汚物処理業から逃れようとする際に直面する人びとの困難について詳述した。地元住民による暴力や強制立退きの脅しのみならず、政府関係者による脅迫や嫌がらせ、不法な賃金不払いなどがその具体例である。

ヒューマン・ライツ・ウォッチの南アジアディレクター ミクナシ・ガングリーは、「インド歴代政府によるカースト制度に基づいた汚物処理業阻止の試みは、差別と地域に横たわる複雑な事情により阻まれてきた」と指摘する。「政府は今こそ人手による汚物処理を禁ずる法を実際に適用し、関連するカーストコミュニティを支援する必要がある。」

2014年にヒューマン・ライツ・ウォッチは135人超に聞き取り調査を実施した。うち100人超はグジャラート、マディヤ・プラデーシュ、マハラシュトラ、ラジャスタン、ウッタル・プラデーシュの各州で、現在または過去に人手による汚物処理業に従事していた人びとだ。地方の田舎で汲取式トイレを清掃する女性は多くが報酬を賃金で受け取っていない。そのかわり慣習的に受け取るのは、食べ残しだったり、収穫期であれば穀物、祭りの時期なら古着、あるいは家畜の放牧や薪収集のための共同体および私有地へのアクセスなどだったりする。すべては仕える家庭の裁量による。「不可触民」の風習が強く残る地域では、報酬の食べ物を(触れないように)手の上に落としたり、目の前に投げつけたり、ということも起こる。


地方自治体当局は汚物清掃人に対する差別の共謀者であることが多い。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、村の自治体および当局が公共の排泄エリア清掃のため、カースト制度に基づいた人員募集を行っていた事例を調査し、取りまとめている。この仕事に従事する人びとはまた、生活のそのほかの分野における差別にも苦しむ。教育や共同体の水源、公共住宅や雇用福利などへのアクセス欠如がその例だ。警察ほか関係当局が、暴力や立退きなどの脅迫を受けたという清掃人の告発に対処しないでいる実態も、本報告書で明らかになっている。

前出のガングリーディレクターは、「排泄物清掃人として働く人びとは、属するカーストによりこの役割を満たすことを求められており、それ以外の仕事には就けないのが普通だ」と指摘する。「この慣行は現存する不可触民の最悪な象徴のひとつと考えられている。なぜなら、不可触民であるという社会的らく印を促し、差別と社会的排除を永続させるからである。」

汚物処理に携わる人びとが苦しむ人権侵害は、身体の内部にもあらわれている。繰り返し排泄物を装備もなしに扱うことが原因で、深刻な健康被害が起き得るからだ。頭痛や呼吸困難、皮膚病、貧血、下痢、嘔吐、黄疸、結膜炎、一酸化炭素中毒などである。これらの症状は、慢性的な栄養不足と医療へのアクセス欠如で、更に悪化することになる。

人手による汚物処理がどれほど広範におこなわれているかを正確に示す、包括的な政府調査は現状存在しない。こうした状況を受けて2014年3月、インドの最高裁判所は「それでも、人手による汚物処理の慣行が衰えることなく継続していることは、極めて明らか」であることを認めた。

人手による汚物処理は、国内諸法と憲法に違反 

インド憲法は、不可触民として知られるカースト制度を理由にした差別を禁じている。1955年制定の公民権法の保護規定は、人手による汚物処理を何人にも強要することを禁じている。2013年には議会が「人手による排泄物清掃人雇用禁止およびリハビリ法」(2013年法)を制定。すべての人手による汚物処理を違法化した。同法はまた、関連するコミュニティが歴史的に被ってきた不公正と侮辱を是正するという、憲法の謳う義務を認識するもので、清掃人カーストの人びとに向けた代替の生業ほか支援の提供を定めている。

2014年3月にインド最高裁は、人手による汚物処理は国際人権法に抵触するという判決を下し、実質的な救済措置を求めた。5月に発足した新政府は、インド社会の隅に押しやられたコミュニティのニーズに応えると誓ったが、汚物処理に終止符を打つための新たな措置は何ら取っていない。

人手による汚物処理業を辞めた人びとは、それがたとえ地元コミュニティに根ざした市民社会イニシアチブの支援を受けた場合でも、住宅や雇用、既存の政府による支援などをめぐり、かなりの障壁があると報告している。注目すべきは、前述の2013年法内で規定されているリハビリの実施を、中央および地方政府による既存の公共計画に任せている点だ。これまで人手による汚物処理業阻止に成功していないのと同じ一連の計画に、である。

経済的支援や奨学金、住宅、代替生活支援ほか重要な法的かつ計画に沿った援助など、2013年法が定める権利が確実に清掃人カーストコミュニティに保障されるよう、政府は既存の関連計画すべてに対し、完全な評価・監視を実施すべきだ。その上で、清掃人カーストコミュニティおよび市民社会団体と協議し、2013年法の条項に沿った包括的な公共計画を策定すべきである。

前出のガングリーディレクターは、「カースト制度に基づき強いられた慣行は、いまだ人びとを人手による汚物処理業に縛りつけている。これに対し求められるのが政府の介入だ」と述べる。「インドの新政府は、この人権侵害的な習わしを永遠になくすための手段を備えており、またその義務も負っている。」

報告書から抜粋した証言
「トイレと排水口を初めて清掃した日、足を滑らせてふくらはぎまで汚物まみれになってしまって。叫んで逃げ出して、家で泣き続けました。あれしか仕事がないのが分かっていたからです。」―ソナ(ラジャスタン州バーラトプル市、2013年6月)

「20軒の汚物処理を担当しています。報酬はロティ(平たいパン)です。2枚以上はくれませんが、くれはするんです。夫は農場で働いていますが、毎日仕事があるとは限りません。私がこれをすれば少なくとも何か食べるものは手に入ります。」―シャンティ(ウッタル・プラデーシュ州マインプリ地区、2014年1月)

「商学と金融を専攻しましたが、仕事はありませんでした。教育を受けたのに、村の評議会は私をトイレ掃除人として雇いました。私がそういう出だから。」―カイラシュ(マハラシュトラ州ジャルガオン地区、2014年3月)

「私たちはパンチャーヤト(地方議会)のメンバーに仕事をほしいと訴えました。それでもらったのが排水路清掃や路上の排泄物処理、トイレ掃除に村掃除、そしてゴミ処理。これが私たちのカーストです。これ以上の仕事は与えられません。尊厳を与えるようなものは何もね。」—ゴパル(マハラシュトラ州ジャルガオン地区、2014年3月)

「家の男たちを呼ぶとこう言ったんです。『トイレ掃除のために女たちをよこさないのなら、女たちをぶちのめす。お前たちもな。安穏と暮らさせやしない』って。恐ろしかった。」—ガンガシュリ(ウッタル・プラデーシュ州マインプリ地区、2014年1月)

「頭にベールを巻いたまま働かなくてはなりませんでした。雨が降れば、服は汚物でびしょぬれになり、乾きません。家も臭います。皮膚病になり、髪も抜けはじめました。」—バダンバイ(マディヤ・プラデーシュ州Neemuch地区、2014年1月)

「人手による人間の排泄物運搬は雇用の一形態ではありません。奴隷制さながらの不公平な行為です。ダリット(不可触民)に対するもっとも顕著な差別のかたちのひとつです。人権侵害の中核を成すね。」—アシフ・シェイク、人手による汚物処理の終焉を目指す草の根運動Rashtriya Garima Abhiyanの創設者
https://www.hrw.org/ja/news/2014/08/25/254956


インドではダリット(不可触民)というカーストがある。

「人間ではない。それ以下だ」と呼び捨てられ、差別されている人たちだ。


(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html


彼らは今も安い労働でこき使われている。

女性はバイシュン宿に売り飛ばされたり、排泄物の汲み取りや、動物の死体の処理など、人のやらない仕事を強制されていることが多い。

(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


そんな彼らはまさにインドの隠された奴隷である。

ダリットは激しい差別を受けているのだが、その差別のひとつとして「教育を与えない」というものがある。なぜ教育を与えないのか。

教育を受けて、ものを考えられるようになると、自らの立場を「知る」ことになる。そうすると、社会がおかしいことに「気づく」。自然と「反抗心」が芽生え、現状を変えようと「立ち上がる」人間が出てくる。

そうなると奴隷状態に置かれていた人間が次々と「目が覚めて」しまって、奴隷制が維持できなくなる。だから、教育を与えない。支配者は、最終的に奴隷化する人から教育を奪い、無知なまま生きてくれたほうが都合が良い。

だから、教育を絶対に与えないのである。


教育を与えないというのは、体制にとって非常に重要

アフガニスタンやパキスタンでは、女性が教育を受けようとすると命を狙われる。学校が襲われて飲み水に毒を入れられたり、学校に通う女学生が撃たれたりする。

女性に教育を与えない。なぜなら、教育を受けることによって女性が目覚め、自分たちが抑圧されていることに気がつき、現状を変えようと立ち上がる人間が出てくるからだ。

そうすると、イスラムを「おかしい」という女性が出てくる。あるいは男尊女卑に疑問を持つ女性も出てくる。男女平等だと言い出し、女性が家長制度を脅かすかもしれない。

だから、女性には教育を与えず、考えることすらも禁じて現状が当たり前だと思わせておく。

それでも教育を受ける少女が出てきたり、教育の大切さを訴える「邪魔」な少女が出現する。そんなときは、マララ・ユスフザイのように撃たれたりする。

このような事件があると女性は萎縮し、無知であることに甘んじて声を失っていく。

私たちは部外者なので、イスラム国家の女性が奴隷化されていることは分かる。しかし、当のイスラム女性たちは、自分が奴隷化されていることに気がついていないことも多い。

子供の頃からイスラムに従順であることが当たり前になると、それが世界のすべてだから違う世界が分からないのである。部外者は分かるが、当事者は分からない。

だから「教育を与えない」というのは、体制にとって非常に重要であることが分かる。

教育は一部の人間、すなわち体制側の人間や為政者やエリートだけが受けていればいいのであって、一般大衆は「言われたことだけをロボットのように行う人間」であることが望ましい。

いちいち何かを考えて、体制側のシステムに立ち向かって反旗を翻すような人間が増えるのは望んでいない。むしろ、そんな人間が出ないようにしたいと考えている。

国民から教育を奪い取った方が都合が良くなった
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160401T0037520900.html

遊牧民族アーリアがインドに侵略を開始してから、インドに土着していたドラヴィダ族は次第に追いつめられて南部へと押し込められていく。その過程で膨大な混血と宗教的な融合が起きて、インド・アーリア族とも言うべき混血民族が出来上がった。

インド人とは異なる民族と血が混じり合った人種だ。その混じり具合にもグラデーションがあって、それがカーストとしての身分制度につながったと見られている。

侵略戦争に勝利したのはアーリア人であり、彼らは人種的には白人か、白人に近い特徴を持っている。ドラヴィダ人は黒い肌を持ち、黒人に近い特徴がある。そこで、侵略に打ち勝ったアーリア人の「白肌」は高貴なものと見なされるようになり、侵略されたドラヴィダ人の「黒肌」は唾棄すべきものと決めつけられた。

ボリウッド映画に出てくる主人公たちを見れば分かるが、主演の男女はみんな白い肌の美男・美女ばかりだ。いまだにアーリア色が強いものであることが分かる。

白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる。くだらないボリウッド映画がインド文化に根付けば根付くほど、インド人は意識的にも無意識にも洗脳されて、白い肌をさらに尊ぶようになる。

ドラヴィダ系の血筋を色濃く残した女性。肌が黒く、黒人種の特徴を多く残しているのが特徴だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0318320900.html
36:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:02:42

色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された


インドの女性は「黒」が嫌いだ。

インドの肌の黒い女性は、自分の肌を嫌悪している人もいて、男が「黒い肌が好きだ」と言うと、自分の肌が黒いにも関わらず、必死でその意見が間違っていることを諭そうとする。

「白い肌が美しいのよ。黒い肌は美しくない」

インドでは「色」のことを「ヴァルナ」と言うが、このヴァルナは容易に肌の区別に結びついて、それが最終的には人種差別にまで行き着く。

すなわち、黒い肌の女性は劣っており、ロー・カースト(最下層)であり、醜い女性であると社会通念として通っている。


白肌に価値があると洗脳するかのようなCM

インド女性は顔貌(かおかたち)が美しい人が多い。とくに横顔を見るとその端正さが際立って目を離すことができない。

インドの男たちも自国の女性は東アジア(中国・韓国・日本)の女たちよりも美しいと言って憚らない。

もちろん個人差はあるので美醜の比較は一般論でしかないが、それにしてもインドの美しい女性は、世界中の美しい女性を圧倒的に引き離していて足元にも寄せつけない。

しかし、それでも肌の黒い自国の女と白い肌の東アジアの女がいたら、肌が白いというだけで東アジアの女性と一緒になりたいという男は多い。

白い肌は彼らの中では崇拝に値するものになっている。

女性もそれを知っているので、インドではやたらと美白化粧品が売れる。

たとえば、「Fair & lovely」という化粧品がインドにあるのだが、このコマーシャルは露骨だ。

黒肌で自信喪失の女性が見る見る白い肌に変身して輝く笑みを浮かべるのである。

あるいは、白い肌になったら注目されて成功して幸せになるようなコマーシャルが恥も外聞もなく流されている。

テレビに出てくる女性も、コマーシャルに出てくる女性も、映画に出てくる女性も、みんな判を押したかのように「白肌」だ。

インドは白い肌の人々だけが住んでいるのかと思わせるくらい、白肌俳優の採用が徹底していて、それがボリウッド映画が「夢うつつ」のような下らない内容のものにしてしまっている。

歌あり、踊りあり、シリアスあり、ドラマあり、アクションあり、サスペンスありでも、「真実」だけがない。それが、あまりに「黒」を排除するからだという遠因もある。


白肌崇拝を煽るコマーシャル。白い肌であることが重要であると洗脳するかのようなコマーシャルである。


黒は嘲笑の的になった

インドはインダス文明の担い手だったドラヴィダ族(黒肌)が、アーリア族(白肌)に征服されていく過程で生まれた国である。

アーリア族(白肌)はどドラヴィダ族(黒肌)を屈服させたあとに、肌で身分を分けた。

白肌は崇高で高貴であり、黒肌は劣っていて価値がないという身分制度である。ヴァルナで分けられた身分制度だ。

それをカーストと呼んで社会に定着させて、黒という色は「醜い」という意味を持たせるような徹底ぶりだったから、アーリア族の悪質さが分かる。

とは言っても、アーリア族はまったく躊躇なくドラヴィダとの混血を進めたから、もしかしたら実際には黒肌が劣っているとは思っていなかったのかもしれない。

本当に黒肌が「醜い」と思っていたのであれば、彼らと交わることなどなかったはずだ。

歴史はその逆の結果を見せつけている。インドほど白肌と黒肌の混血が進んだ国家はない。

口ではあれこれ言いながら、アーリア族はドラヴィダ族の女性が美しかったのを実は知っていたのだろう。これも、建前と本音の乖離であって、結果がすべてを物語っている。


肌が白くなったら、とても注目されて人気者になれるというメッセージを露骨に主張するコマーシャル。


黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている

インドでもっとも注意を惹くヒンドゥーの女神にシヴァの妃であるパールヴァティーがいる。

パールヴァティーは「白肌」だ。しかし、怒りに駆られると額が割れて、ドゥルガーという女神が飛び出して来る。

さらにドゥルガーが激怒していくと、今度は正真正銘の「真っ黒の神」であるカーリーに変異していく。

これはパールヴァティー(白肌)からカーリー(漆黒)の順番で語られている。

しかし、歴史から見ると逆だろう。

ドラヴィダの黒がアーリアの男の血を受けて白肌になっていったのだ。

だから、パールヴァティー(白肌)がカーリー(黒肌)になっていくのは先祖帰りであって、元々は「黒」がルーツなのだということを如実に示している。


黒肌のカーリー(左)と、白肌のパールヴァティー(右)。

ドラヴィダ族は征服されたのだから、内心では怒り狂っているのは当然だ。

カーリーがいつも怒り狂っているのは、そういった歴史の悲哀がそこに静かに込められているのであろうと推測している。

黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている。

しかし、インド圏で白が美しいというのは、白い肌の人が歴史の闘争に勝ったからであって、それ以外の何者でもない。

白い肌の人々が負けていれば、白が醜いヴァルナになっていたはずだ。

民族が闘争に負けるというのは、その民族の持つ特質が否定されることでもある。たとえば、日本人が闘争に負ければ、日本人の持つ何らかの特性は嘲笑の的になる。

ドラヴィダは民族闘争に負けて、インドの大地でその肌の黒さが嘲笑の的にされた。ヴァルナ(色)でその嘲笑が制度化されて、インドの歴史は黒を否定した。

私ひとりが黒い女性が美しいと思っていても、当の黒い肌のインド女性がそれを否定する。それでも、私は「黒」が好きだ。


黒い肌の女性が美しくないなんて、いったいどこの誰が考えついた冗談なのだろう。黒い肌の女性も、美しい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120629T2225080900.html


サンスクリット語の「ダルマ」はカーストを定着させた卑劣な言葉だった


サンスクリット語に「ダルマ」という言葉がある。これは「義務」や「業」と訳されるが、「義務」という言葉で覚えれば分かりやすいかもしれない。

何の義務かというと、自分の運命を受け入れて、その運命をまっとうする義務である。

インドで運命と言えばすぐに「カースト」を思い出すが、これにダルマを重ねると、何が言いたいのかよく分かる。

ダルマというのは、自分のカーストを受け入れてそれをまっとうする義務のことを言っている。


統治のダルマだとか、宇宙のダルマだとかは枝葉末節の部類であり、カーストを守るのがとても大切な「ダルマ(義務)」であるというのがダルマという言葉の言いたいことである。

ダルマを守ることは大切であると言われている。誰が言っているのか? もちろん上位カーストの人々である。

それぞれのカーストは異なるダルマを持つ。そして、それぞれのカーストが自分に与えられたダルマを果たさなければならない。

カーストには大きく分けると以下のようになっている。

僧侶(ブラフミン)
兵士(クシャトリア)
商人(ヴァイシャ)
農民(シュードラ)
ーーーーーーーーーーー
不可触民(ダリット)

上から順番に権力を持つカーストで、一番下の不可触民(アンタッチャブル)というのは、カーストすら属していないので「アウト・オブ・カースト」だと説明される。

生まれたときに子供は親のカーストを受け継ぐことになっている。

一番偉いブラフミンの子供はブラフミンである。そして、不可触民の子供は不可触民である。

身分が固定されている。

教育から待遇まですべて差別されて、どんなに優秀な子供であっても、不可触民であれば教育すら受けさせてもらうことはできない。

他のカーストは彼らと接するべきではないとされていた。だから、「触ることが不可な民=不可触民」なのである。

上位カーストは、誰であっても不可触民が用意した食べ物や飲み物を食べることを禁じられた。

いや、不可触民が触った食器すらも忌避されたし、不可触民を見ることすら「穢れる」とされたのである。

マヌ法典というものがそれを詳細に記しており、このマヌ法典こそがダルマ(義務)を説いているのである。

カースト制度で読み書きが許されるのはブラフミンだけである。

日本人なら、これが「士農工商、穢多非人」という身分制度を持っていた江戸幕府のことを思い浮かべるかもしれない。

まさに江戸幕府はインドのカーストを参考にして作られた制度である。不可触民は、穢多非人と同様の立場になる。

カーストは人間を「人間ではない」という制度である。ダルマはそれを受け入れてその立場を守る義務を果たせ、という意味である。

ダルマという言葉は、身分を固定させるために考えられた卑劣な言葉であることが窺える。
http://www.bllackz.com/2010/03/blog-post_03.html

「武士」「庶民」「奴隷」の上に絶対的権力をふるうカーストの最上位階級、バラモン(婆羅門)というのは、中央アジアにおいて極めて少数であったこの「白色人種(アーリヤン)」は、圧倒的多数の「黄色人種」や「黒色人種」の先住民と混血して、完全に同化されてしまうのを極度に恐れ、「バラモンの村」という特別区域に居住していました。

そして、彼らの持って来た民族宗教「バラモン教」の神々を武士階級と庶民階級には強制的に信仰させ、また、奴隷階級がバラモン教にふれることは禁止して、その権威を保とうとしたのでありました。

 この白人支配下のインドに生れた釈迦は、この皮膚の色にもとづく苛酷な人種差別と職業差別とに反対し、「人間みな平等」(「四姓平等」)の立場に立って、かの宗教を創始したのでありました。

 最新の研究によれば、ブッダが積極的に人種差別廃止を目指した事実はないとされている。しかし、ブッダは不可触民に対して最上格の敬語をもって接した。この事実そのものが既に革命的なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090111/p2


平等は存在しない。しかし、全人類は「四苦」で平等となる
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161204T0316390900.html

不可触民とも称されていた極度の差別の中の人たち


「真の平等」を知るには、凄まじい不平等が社会に定着したインドに目を向ける必要がある。

インド文化の奥の奥にまで定着した宗教はヒンドゥー教なのだが、このヒンドゥー教は、カースト制度を是正しており、それが故にインドの身分差別は苛烈なものがある。

そこには平等など存在しない。人々はカーストを意識して暮らしており、多くの人たちは自分よりも下のカーストにある人など見えないし、関心もない。

人間が違うと考えているのである。

このインドの中で最も人間扱いされていないのが、カーストにすらも入れてもらえない人たち、現在ではダリットと呼ばれている人たちである。

ダリットは「アウト・オブ・カースト」と言って、カーストにも入れないほど穢れた人であると認識されていた。あまりに穢れているので、普通の人は触ることすら不可能な存在であると言われた。

そのために不可触民(アンタッチャブル)とも称されていた。

触ることすらも不可能であると言われて毛嫌いされているのだから、これほど悲惨な差別はない。まさに人間以下(サブ・ヒューマン)である。(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)

インドのスラムバイシュン地帯でひとりの女性に出会ったことがある。彼女に「あなたの宗教は何?」と聞かれたことがあって、「両親は仏教だったよ」と答えると、彼女は「私も仏教よ」と喜んだ。

彼女は何者だったのか。彼女はダリットの女性だった。

なぜ分かるのか。スラムで最底辺のバイシュンビジネスをしている女性はその多くが低カーストかダリットだからである。そして、こうした女性が仏教なのは、ヒンドゥー教に絶望して仏教に流れたからである。

仏教……。彼女たちが最後の希望として託した仏教はインドではどのような意味合いがあったのか。


インドの中で最も人間扱いされていないのが、カーストにすらも入れてもらえない人たち、現在ではダリットと呼ばれている人たちである。


すべての人間が抱えることになる「四苦」とは?

仏教の開祖であるブッダは、ゴータマ・シッダールタという部族長の息子として生まれて、本当であれば不自由なく生きることができる身分だった。

しかし、ゴータマは若い頃から「生きる意味」とは何かを思索し、瞑想の中で真理を探し求める性格だった。享楽も、堕落も、浮ついた遊びにも少年の頃から遠ざかり、女性にも関心を示そうとしなかった。

瞑想の中で、彼はやがて「悟り」を開くのだが、そこで人間は思う通りにならないものを4つ抱え込んだ存在であるということを喝破する。

どんなに時代が変わっても、どんな身分の人間であっても、すべての人間が抱えることになる「四苦」とは何だったのか。それは、以下のものである。

(1)生まれてくること。
(2)老いていくこと。
(3)病を得ること。
(4)死んでいくこと。

生まれるというのは、ブッダに言わせればとても困ったことのひとつである。

人の人生は誰も思う通りにいかない。誰もが生きることで苦しみ、もがき、呻吟し、嘆息する。生まれてきたから、そうやって苦しまなければならないのである。

さらに人は誰でも老いていく。若者は、いつまでも若いと思っているはずだが、やがてそうでないことに気付く。自分が老いていき、朝起きるたびに若さを失ってしまう存在であることを認めざるを得なくなる。

そして、人は誰でも病に苦しむ。健康な人は、実はこの世にはひとりもいない。すべての人が何らかの病を持っている。若さを失えば失うほど、病は深刻化していき、リカバリーできないものになる。人は病に苦しみながら生きる存在である。

そして、最後には死を迎える。誰もそこから逃れられない。死はすべての人に与えられた完全に平等な運命である。

人間はこの4つの苦しみを抱えている。誰もがそこから逃れることができない。それをブッダは悟ったのである。仏教というのは、そうした運命を抱えつつも、そんな中で平穏な気持ちで生きることを諭す教えだった。


ガンジス川ほとりで火葬される人。人は誰でも最後には死を迎える。そこから逃れられない。死はすべての人に与えられた完全に平等な運命である。


平等とは、主義主張の中にあったのではない

ブッダの両親はヒンドゥー教徒だった。このヒンドゥー教はカーストという身分制度を内包し、ブッダの時代でも低カーストや不可触民(カーストにすらも入れない人たち)が存在し、超えることのできない身分差別に苦しんでいた。

カーストという身分制度はあまりにも深くインドの文化の中に根付いて、それはもう拭い去ることができないものになっていた。そして、カーストの中で弱い身分の人々は、常に苦しみと共に生きなければならなかった。

ブッダが人々に「四苦」を意識させる教えを生み出したのはなぜか。もう一度、この四苦をよく見て欲しい。

生まれてくること。老いていくこと。病を得ること。死んでいくこと……。

それは、身分を超越し、生きるすべての人間に降りかかる苦しみであり運命だった。つまり、この四苦の前に、人々は平等になったのである。身分が高くても、金持ちでも、権力者でも、この四苦から逃れられない。

人間社会が作り出すシステムは、必ず身分制度を生み出す。資本主義は資本を核にして人間をレベル分けするものだ。

それを克服するために、社会主義や共産主義のような概念が生み出されたが、それもまた人間が人間を統治する中で身分を生み出してしまう。

そんな中で、絶対的な平等を社会に与えるとしたら、いったいどうすれがいいのか。「平等」はいかにして生み出すことができるのか。

それは、ブッダが見つけた。平等は「四苦」から生まれたのである。人間が、逃れられない4つの運命。そこから逃れようともがいてもあがいても堕ちてしまう4つの苦しみ。

その4つの苦しみの中で、人類はやっと「平等」という概念をすべての人間に当てはめることができるとブッダは「悟り」を開いた。

平等とは、主義主張の中にあったのではない。運命(カルマ)の中にあったのだ。

インドの貧しいスラムバイシュン地帯の中で、ひとりの女性が「仏教を信じている」と私に言った。そうなのだ。彼女は自分の運命も私の運命も、四苦の中では同じ運命であると私に教えてくれていたのである。平等がそこにあった。


4つの苦しみの中で、人類はやっと「平等」という概念をすべての人間に当てはめることができるとブッダは「悟り」を開いた。平等とは、主義主張の中にあったのではない。運命(カルマ)の中にあったのだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161204T0316390900.html
37:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:03:27


ヒンドゥー教の預言。労働者の時代が終われば次は何か?
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151008T0230130900.html

年末にインドに行くと、街中の露店がいっせいにカレンダーを売り出しているのを見かける。

そのカレンダーにはボリウッドの美人女優の顔が並んでいることもあるが、最も多いのは神々を描いたものである。

ヒンドゥー教のシヴァ神、象神ガネーシャ、あるいはラクシュミー、ハヌマーン等の神々が描かれ、飾られているので、まるで露店が神々の祭典のように見える。

インドでは今も祭壇に夕方のある時間になると人々が集まって一心不乱に祈念している姿もある。

昼間の何気ない時間でも、街のあちこちにある祭壇にごく普通の会社勤めと思われる男性が足を止めて手を合わせてから去っていく姿を見かける。

スラムに住む貧しい女性の部屋に行くと、どの女性の部屋にもドアの上や壁の目立つところにシヴァのポスターがうやうやしく飾られている。

カーストは古来は「4つのグループ」の区分け

このように、インドにはヒンドゥー教が依然として根強く存在しているのは、インドに降り立った人間なら誰でも気付く。インド人から宗教を取り上げるのは不可能だ。

だから、このヒンドゥー教が有している大きな問題「カースト制度」がインドから消えることもないだろう。それは、インド社会にもはや歴史的文化として根付いているので、除去することは不可能だとも言われている。

カーストというのは「身分制度(クラス)」のことだが、カーストのクラスは本来は「身分」というよりも、まったく違った4つの行動様式を持つグループとしての区分けで始まったものだったと言われている。基本的な4つのグループとは以下のものを指す。

(1)バラモン
(2)クシャトリヤ
(3)ヴァイシャ
(4)シュードラ

現在ではこれが細分化されて数千にも及ぶカーストとなっているのだが、そもそもこの4つのグループの意味は何のグループだったのか。それはこうだ。

(1)求道する、宗教を信じる、精神世界を追求する
(2)戦う、鍛える、勝ち取る
(3)商売をする、稼ぐ、貯蓄する
(4)働く、肉体労働する

時代が経つにつれて、この分類はバラモンが「支配者」になってシュードラが「奴隷」になるような意味の変質が行われていくようになり、差別問題としてつながっていくようになる。

しかし、古来のヒンドゥー教はこの4つのグループの貴賤を論じるために並べたのではなく、「ひとりの人間の中にこの4つの行動様式はすべて含まれており、これらは輪廻する」という意味でグループ化されたと言われている。


インド社会の根底にあるヒンドゥー教は、「ひとりの人間の中に4つの行動様式が含まれている」としている。


輪廻転生(生まれ変わり)のもうひとつの対象

ある人間は宗教を追求する。だからその人は「バラモン」になる。ある人は戦いを追求する。だからその人は「クシャトリヤ」になる。

ある人はビジネスを追求する。だからその人は「ヴァイシャ」になる。ある人は労働を追求する。だからその人は「シュードラ」になる。

この4つグループは職業として「固定化」されたが、その固定化がインドの歴史に大きな禍根を生み出すようになった。

本当は「4つの道をひとりの人がすべて持っている」という本来の姿であった方が良かったのである。そうでないと、ヒンドゥー教が預言している一連の思想が分からなくなってしまうからだ。

古来ヒンドゥー教はなぜこの4つのグループを分けたのか。

ヒンドゥー教は「輪廻転生(生まれ変わり)」を取り入れている宗教であることはよく知っているはずだ。インドでは死は終わりを意味しているのではなく、新しい生まれ変わりを意味している。

人々が熱心に祈っているのは、次に生まれ変わるときは良い身分で生まれ変わって欲しいと思うからである。

この人間の生まれ変わり思想は日本でもよく知られているが、ヒンドゥー教の「輪廻」は、もうひとつ大きなサークルがある。実は、ヒンドゥー教は「歴史」も輪廻して永遠に続くと言われているのである。

そして、ここにカーストの4つのグループが関わってくる。

ヒンドゥー教は4つの時代が順番に繰り返して、それが無限に続くと言われている。その4つが以下のものである。

(1)求道・宗教・精神の時代
(2)戦争・戦士の時代
(3)商売・商人の時代
(4)労働者の時代

まさに、バラモンの時代、クシャトリアの時代、ヴァイシャの時代、シュードラの時代と連動している。それぞれの時代が順番にやってきて、4つが終わるとまた求道・宗教・精神の時代に入っていくのだという。人間の歴史はこれを無限に繰り返すというのがヒンドゥーの預言だ。


バラモンの時代、クシャトリアの時代、ヴァイシャの時代、シュードラの時代と連動している。それぞれの時代が順番にやってきて、4つが終わるとまた求道・宗教・精神の時代に入っていくのだという。


現代が終わったとき、次はどんな時代が来るのか?

世の中は複雑怪奇であり、何事も単純に進まない。だから、4つの時代が繰り返すと言っても必ずしも本当にその通りに歴史が道を辿るとは言えない。

しかし、古代のヒンドゥー教の示したこの歴史認識はとても示唆に富んでいるように見える。

日本も求道することに意味があった時代もあれば、軍人が社会を動かし戦争が時代を覆い尽くした時代もあれば、商売が全盛になった時代もあれば、誰もが労働者になっていく今のような時代もある。

アメリカもまた時代の境目をどこで区切るのかは別にして、似たような経緯を辿っている。他の国も、大体似たような歴史を辿っているはずだ。

私たちは現在、資本主義の世界に生きている。かつての資本主義は「商売して儲けよう」とみんなが思う資本主義だったので、商売・商人の時代に近かった。

しかし、今の資本主義は超巨大な多国籍企業がすべての富を収奪し、全人類を労働者にしてしまうような時代になっている。つまり「労働者の時代」に入っている。

勤め人の中には「自分たちは奴隷だ、社畜だ」と自嘲する人もいるが、まさに「労働者の時代」の真っ只中にいると感じる人も多いだろう。

1%の超金持ちと99%の労働者(貧困層)の社会は持続可能とは思えないと誰もが思うはずだ。しかし、この時代が自壊したら次はどんな時代が来るのか、誰も予測することすらもできないはずだ。未来は誰にも分からないのだから当然だ。

しかし、ヒンドゥー教はこの問いに対して答えを出しているのである。

「労働者の時代が終わると、また求道者の時代に戻る」

本当なのかどうかは誰にも分からない。信じるかどうかもあなた次第だ。未来に思いを馳せるとき、このヒンドゥー教の教えをベースに考えると面白いかもしれない。

いずれにしても、人間の歴史が終わらないで延々と続くのであれば、その時代その時代で人間の求めるものや権勢を持ったグループが変わっていくというのは間違いない。

私たちは今、明らかに「労働者の時代」の真っ只中にいる。果たして、いつ時代の転換が来るのだろうか。そして時代の変転がやってきたとき、次は「宗教の時代」に入っているのだろうか……。


繰り返しが連続するマンダラ。ここにも「輪廻」が隠されている。ヒンドゥーは無限の宗教である。4つの時代が無限に繰り返し、移り変わると考えている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151008T0230130900.html

38:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:04:31


釈迦はコーカソイドだった


ガウタマ・シッダールタ Y染色体ハプログループR1a1a1b系統 【アーリア系】


インド・アーリア系(注1)シャーキャ族(注2)の尊者であるガウタマ・シッダールタ(注3)のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a2(R-Z280)(注4)であると推定されている(注5)(注6)。

これは、シャーキャ族王族の男系子孫であるパキスタン人男性から得られたデータと、仏舎利の調査に基づくものである(注7)。

ガウタマ・シッダールタの火葬骨である仏舎利は、マウリヤ朝のアショーカ王の時代に8万余に分骨され膨大な寺院に再配布された。
日本へは推古天皇の時代に舶来(注8)し、推古元年正月15日(西暦593年)には、法興寺の刹の柱の礎の中に置かれた(注9)。

http://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/8e8fbd1f41170b337bd75b24281163cd.jpeg


picture from Wikipedia

注1)A study headed by geneticist Z. Zhao et al. (2009) based on an analysis of "32 Y-chromosomal markers in 560 North Indian males collected from three higher caste groups (Brahmins, Chaturvedis and Bhargavas) and two Muslims groups (Shia and Sunni) were genotyped" found that "a substantial part of today's North Indian paternal gene pool was contributed by Central Asian lineages who are Indo-European speakers, suggesting that extant Indian caste groups are primarily the descendants of Indo-European migrants."

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2755252/

An increasing number of studies have found South Asia to have the highest level of diversity of Y-STR haplotype variation within R1a1a, such as those of Kivisild et al. (2003), Mirabel et al. (2009) and Sharma et al. (2007, 2009).

注2)平凡社『世界大百科事典』釈迦族

注3)Sengupta et al. in their 2006 paper in the American Journal of Human Genetics say that "Our overall inference is that an early Holocene expansion in northwestern India (including the Indus Valley) contributed R1a1-M17 chromosomes both to the Central Asian and South Asian tribes".

注4)Haplogroup R1a as the Proto Indo-Europeans and the Legendary Aryans as Witnessed by the DNA of Their Current Descendants
http://www.pnas.org/content/103/4/843.full

注5)A prehistory of Indian Y chromosomes: Evaluating demic diffusion scenarios

注6)Polarity and Temporality of High-Resolution Y-Chromosome Distributions in India Identify Both Indigenous and Exogenous Expansions and Reveal Minor Genetic Influence of Central Asian Pastoralists, by Sanghamitra Sengupta,1 Lev A. Zhivotovsky,2 Roy King,3 S. Q. Mehdi,4 Christopher A.

Edmonds,3 Cheryl-Emiliane T. Chow,3 Alice A. Lin,3 Mitashree Mitra,5 Samir K. Sil,6 A. Ramesh,7 M. V. Usha Rani,8 Chitra M. Thakur,9 L. Luca Cavalli-Sforza,3 Partha P. Majumder,1 and Peter A. Underhill3, 1Human Genetics Unit, Indian Statistical Institute, Kolkata, India; 2N. I. Vavilov Institute of General Genetics, Russian Academy of Sciences, Moscow; 3Department of Genetics, Stanford University, Stanford; 4Biomedical and Genetic Engineering Division, Dr. A. Q. Khan Research Laboratories, Islamabad; 5School of Studies in Anthropology, Pandit Ravishankar Shukla University, Raipur, India; 6University of Tripura, Tripura, India; 7Department of Genetics, University of Madras, Chennai, India; 8Department of Environmental Sciences, Bharathiar University, Coimbatore, India; and 9B. J. Wadia Hospital for Children, Mumbai, India http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1380230

注7)"R-Z280(R1a1a1b1a2) Origin of the Saka Races"

注8)『日本書紀』、推古元年正月15日(西暦593年)に、「仏の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く」とある。

注9)仏舎利は593年に芯礎に安置されたが、1196年に落雷のため仏塔が焼失した。そのため、翌年いったん仏舎利は掘り出され、新しい舎利容器を木箱に入れて、ふたたび仏塔の芯礎部分に埋められた。1956年に行われた飛鳥寺周辺の発掘調査により、法興寺の遺構の仏塔跡地の芯礎から木箱に収められた仏舎利が発見されている。
http://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93R1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1


多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

・「L」はインダス文明の遺伝子と認知されたようです。と共に「L」を主遺伝子とするドラヴィダ人がインダス文明人の子孫であることも認知されつつあるようです。

・「R」はインド亜大陸に留まりましたが、その中から「R1」が分化し更に「R1a」と「R1b」が分化し、「R1a」はインド・アーリア人としてインド亜大陸の主役となり、 一方北西に「R1b」と共に移動した集団はスラブ人としてロシアに留まり主役になりました。

しかし更に西進した「R1b」の中で純血を好んだ一部はケルト系民族としてヨーロッパの先住民となり、 多くは「I」や「N」と交配しケルト・ゲルマン系となり、古代遺伝子「E1b1b」と交配した集団はローマ・ラテン系としてローマ帝国を興隆させました。

いずれにせよ現代ヨーロッパの主役であり、 「R1b」は世界の覇者の遺伝子です。

・「H」はインドの重要な遺伝子として今も残っていますが、その後のインダス文明人やインド・アーリア人の興隆でインド亜大陸の主役ではなくなりました。 一部は定住できずに放浪するジプシー民族となりました。

上流カーストは支配階級の「R1a」頻度が高く、 下層カーストは「H」頻度が高い。
これが「H」がジプシー化した根本原因ではないかと推察出来ます。
本来なら少数民族として定着をするのでしょうが、「R1a」の支配の抑圧を嫌い定着を拒んだのかもしれません。

しかし基本的には入り混じっているので新興勢力「R1a」と先住勢力「H」の遺伝子間の交配はかなり進んでいるようです

大野教授が日本語のルーツと発表し話題になったドラヴィダ系タミール人はなんと平均14%もの「O2a」頻度があることや、他のドラヴィダ人には「O2a」98%もの純系にちかい部族もいる。

この長江文明越系子孫の「O2a」遺伝子集団がタミール語を含むドラヴィダ語族に水田稲作農耕の語彙を持ち込み、日本語の稲作関連語彙と強い相関を持つのが当然だったのです。

黄河文明との戦いに敗れた長江文明の子孫はそのまま留まり黄河文明に飲み込まれた集団もあれば、ある越系「O2a」集団は南へ逃げ遠くインド南部まで逃げ 先進の水田稲作農耕という食糧生産法を持つためにインド亜大陸でも現在まで生き延びることに成功したのです。

下層と差別されてきた極東モンゴロイド遺伝子Y-DNA「O2」も「O3」も カースト集団からは誤差程度にしか検出されません。

Y-DNA「R1a」を基盤とするインドカースト集団がいかにモンゴロイドを下層民として 差別し集団から排斥してきたか過去の歴史が結果としてこれほど見事に現れるとは思いませんでした。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

インドアーリアン度調査 Y-DNA「R1a」 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

Y-DNA「R1a」の最も有望な起源地は中央アジアあるいはロシア/シベリアの南部です。

  Y-DNA「R1a」は、インド・イラン語族、トラキア人、バルト人およびスラブ人へと分化した、北部と東部の原インド・ヨーロッパ語族で支配的な亜型だったと思われます。

  原インド・ヨーロッパ人はYamna文化(紀元前3300年~2500年前頃、ドナウ川とウラル山脈の間の広大な地域にわたって存在した銅器時代の文化圏で中心地はウクライナだったらしい) に起源を持ちます。

Y-DNA「R1」の発祥の地は中央アジア/コーカサス一帯と言われていますが、 集団は3手に別れ、

1隊はアフリカに到達し先住の「A」,「B」,「E1a」と交配し、もう1隊は「Q」か「C3b」と共にベーリング海峡を渡り北米に現存しています。

残留部隊はその後「R1a」と「R1b」に分化し、2隊に別れ1隊は西進し「R1a」は東欧圏に留まりスラブ系民族になりましたが「R1b」は更に西進し西欧圏に到達しケルト系民族になりました。

最後の1隊はインド亜大陸に南下し先住のインダス文明の子孫のY-DNA「L」ドラヴィダ人を追い出しインド南部に押し込めながら交配しインド・アーリアン民族となりました。

ロシア人の主要民族のスラブ系とインド・アーリアンは完全に同根なのです。
インド人が意外に小柄なようにプーチン等ロシア人もケルト系もラテン系も小柄です。

欧州人の大柄はネアンデルタール人と密に交配したクロマニヨン人の遺伝子を持つノルマン系の形質なのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

ハプログループR1aはインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布している。

ロシア人(ベルゴロド州)に59.4%、ポーランド人に55.9%、パシュトゥーン人に51%、インド北部に48.9%、アルタイ人に46.9%、タジク人に44.7%など。したがって、インド・ヨーロッパ語族に属する集団が、このハプログループR1a系統(特にR1a1a)と、ほぼ同等であろうと考えられている 。

「クルガン仮説」および「:en:Proto-Indo-Europeans」も参照

このハプログループはいわゆるアーリア人の子孫の分布を示している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)


インド・ヨーロッパ語族の拡散モデル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:IE_expansion.png

R1aの下位系統の拡散
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:R1a1a1_Migrations.jpg

R1aの系統樹と分布
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:Aryan_migration_map_and_haplogroup_tree.jpg


高いカーストのインド女性は美しい

PRINCE FINAL
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=riLWMbUKt-o

Saravana Stores antiq jwelary HQ
http://www.youtube.com/watch?v=zWsv6D5BN2Y&feature=player_embedded

GRT Wedding and Celebration Jewellery
http://www.youtube.com/watch?v=5pLs4g7EVZo&feature=player_embedded

SHREYA GHOSHAL'S JEWELLERY COLLECTION FROM JOYALUKKAS
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=oZvgTbKe_Pw

Nathella Jewellery- Chennai, India
http://www.youtube.com/watch?v=CUXkYu_FZdo&feature=player_embedded

TANISHQ ARIA TVC
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HciYNzlLLxc


インド女性 - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E6%80%A7&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=MegyUcClJMf6mAWM3IDgAg&ved=0CDMQsAQ&biw=1040&bih=892

アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究

インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された。


インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。

1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%


という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。

1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、

上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、
中層カースト(シュードラ)、
下層カースト(アンタッチャブル)

に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
http://jorde-lab.genetics.utah.edu/elibrary/Bamshad_2001a.pdf

 


Y染色体のSTR分析

アフリカ人 , アジア人 , ヨーロッパ人
上層カースト : 0.0166 , 0.0104, 0.0092
中層カースト : 0.0156 , 0.0110 , 0.0108
低層カースト : 0.0131 , 0.0088 , 0.0108


日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。
インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。

カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。

低層カーストはアジア人にもっとも近い。


■ミトコンドリア染色体のHVR1分析

アフリカ人 , アジア人 , ヨーロッパ人
上層カースト : 0.0179 , 0.0037 , 0.0100
中層カースト : 0.0182 , 0.0025 , 0.0086
低層カースト : 0.0163 , 0.0023 , 0.0113


ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。

低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。


以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、


1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、
2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、

という結論になる。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332
39:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:17:53

白人は何故あんなに美しくなったのか

白人が美しいというのは厳然たる事実

なにしろ白人は遊牧・牧畜民で遺伝子操作のプロですから.

劣った遺伝子はすべて淘汰する. これが白人の考え方.


白人が他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は女と男は全員殺す.

魔女狩りでもいい女だけ残してブスは全員殺した.


これを1万年の間 毎日毎日繰り返して やっと今の美しい金髪碧眼の白人ができたんですね.


一方、農耕民のアジア人やアフリカ人には遺伝子操作ができないから不細工な人間も淘汰されないで生き延び、サル人間の姿から変わらなかった.


我こそが真の神なるぞ!


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       ミ;;;;;;;;、;:..,,.,,,,,
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       ゛ゞy、、;:..、)  }    )
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 Ⅵ     /       ̄´   :::::    
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白人はなぜ白人か

「白人」は白人の自称である。これに対して、黒人、黄色人種等は、白人による他称である。

では、白人はなぜ白人か。 まず第一に、遺伝によってである。

彼らは日本の一般人以上に、はっきりと血統を重んずる。

さらに、伝統的に、日本人よりはるかに「容貌」にこだわってきた。

血統と婚姻関係と容貌とが、ずっと昔から、大のおとなの男子によっても強く意識されてきたのである。

そのような意識の下で、彼らは交配を繰り返し、半ば人為的に現在の「白人」を作り上げてきたのである。

さらに、その自らの人為について、誇りすら持っている。

これは白人に直接に接してみればわかることだが、彼らは容貌について実に細かいところを気にしている。

日本人のように、鼻が高いか、目が二重であるか、顔が小さいかというような大雑把なものではない。

彼らは、高級飼猫や競走馬の毛並みを気にするような目で、人間の容姿をも見るのである。

日本人が、金があるのに歯並びなどの容姿を修正しようとしないのを、彼らは奇異に感じている。

日本人が自然であることを評価するのとは全く違った容姿に対する感性を彼らはもつ。


そもそも彼ら自身が(理性による)人工的な製作物なのだ。

彼らの「血統」と「伝統文化」と「容貌」のコングロマリットに関する強烈な意識は、たとえばトーマスマンの「ブッデンブローク家の人びと」のような小説にもその率直な表現を見ることができると思う。

彼らの先祖はイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったといわれる。またインドにも侵入し先住民の文明を滅ぼした。

彼らはヨーロッパにおいては先住民の文化を消滅させ、人口稠密であったインドにおいてはカースト制度を考案し、これを先住民に課して苛烈な支配収奪を行なった。

このようにヨーロッパ白人は、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種なのである。

すなわち白人は、その人種としての成立においてすでに、「ホロコースト」の刻印をもつ。

白人はその遺伝的な貪欲さ、攻撃性、粗暴さ、征服欲の強さ、そして他者を顧慮しないで平気でいられる傍若無人な特性によって、その覇権を拡大したのである。

白人はこのような遺伝的素質によって人種的な版図を拡大した後、彼らのうちの特権層・貴族階級が、自らの眷族の中において、牧畜経営で覚えたとおりの人工的な交配を繰り返すことによってその血統的なアイデンティティおよびある種のブランド価値を確立していくのであるが、白人「市民」革命は、この特権貴族層の血統的アイデンティティ即ち身分的「優越」の意識を、「白色人種」の人種的アイデンティティ即ち人種的「優越」の意識へと移行・拡散させ、これを全白人に平等に共有せしめたのである。


その背景にはいうまでもなく、新大陸の「発見」と植民地支配と奴隷制とがあった。

「世界の拡大」にともなう新しい他者たる「新しい野蛮」の発見と、新植民地および「奴隷」の獲得とが、物質的にのみならずイデオロギー的にも、白人全体のある種の貴族化・特権層化を可能にした。

「野蛮」と「奴隷」との現出が、白人全体の「市民」化を可能にしたのである。(「市民」とは昔から有産者のことであり、城塞で保護された都市・市場の中に「特権的な地位を有する者」のことである。

ただし必ずしも城塞の内側に住む必要はない。都市の原型ともいうべき塀で囲まれた小さな市場は、夜は鍵をかけられて閉鎖され無人になるのが通例である。)

即ち、白人「市民」革命は、イデオロギー的にも、「野蛮の再発見」と植民地支配および人種的奴隷制なくしては成立し得なかった。

「自由な市民」は常に「野蛮」と「奴隷」とを要件とするのである。


彼ら白人には、われわれ日本人が普通に考えるような「人間的な」感情はない。

根が極端にセルフィッシュなので、彼らがまともな社会を築くためには、外から強力な道徳規範を特別に叩き込まれる必要があった。

そうされないと何でもやってしまうDNAだからである。

この外から叩き込まれなければならない道徳規範が、キリスト教であったり、現在の人権思想や環境保護思想だったりするのである。

白人は、われわれにとっては自然な感情のように思われる道徳規範さえ、宗教的権威によってドグマとして与えられなければならなかった。

彼らは「自然な」罪の意識というものを持たない。

キリスト教の教義によって教えられた「罪」しか持たないのである。

日本人にはホンネとタテマエの区別があるといわれる。それは、日本人がしばしばホンネを漏らしてしまうということにすぎない。白人にその区別がないように見えるとすれば、それは彼らが言葉ではタテマエ以外は決して語らず、ホンネの部分は有無を言わさず強力に実行し、永久に隠蔽してしまうからである。


彼らのホロコーストの後には何も残らない。
したがってホロコーストもなかったことになる。

アジアにおいてはさまざまな系統の言語が錯綜していて日本語のような系統不明の言語も散見されるのに対し、ヨーロッパは、後に侵入したモンゴル系の言語やバスク語などごくわずかな例外を除き、ほとんどが「インドヨーロッパ語族」一色である。

このこともまた、ヨーロッパ人種がその始原において「ホロコースト」「民族浄化」を要件として成立したことを意味する。

「ホロコースト」「民族浄化」の衝動は、白色人種の持って生まれた刻印(性格)なのである。

http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6354425/index.html


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コーカソイドの白い肌、青い目や金髪は中東・中央アジアのネアンデルタール人の形質を受け継いだものだった

30-4. ネアンデルタール人と人類の祖先たち(猿人、原人、旧人)rev.5
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-4.htm


我々現代人はネアンデルタール人と交配をしており、1-4%の遺伝子を受け継いでいることは間違いなさそうです。しかし遺跡はユーラシア大陸(特にヨーロッパ)でしか発掘されないため(シベリアで発見されたデニソワ人はネアンデルタール人の亜種のうちのアジア型の一つでしょう)、我々日本人はネアンデルタール人の情報にかなり うといようです。

  そこでEupediaで最新情報を掲載しているので、翻訳転載しましたのでご参考にして下さい。訳は専門ではないため下手なので気になる方はEupediaをお読みください。
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ネアンデルタール人は実際はどのような人間だったのか、そして私たち現代人は彼らから何を受け継ぎましたか?

現代人はネアンデルタール人の形質を伝えていますか?


  ネアンデルタール人は、一連の誤解を呼び起こし続けたつまらない間違ったイメージで、長い間苦しみました。   

最初の骨格がベルギー(1829)、ジブラルタル(1848)およびドイツ(1856)の中で発見された後すぐに、ネアンデルタール人と名付けられましたが、当時の科学者達は人間的ではないと主張しました。   彼らは、ネアンデルタール人がある種の獣のような霊長類(現代人よりもゴリラあるいは雪男に近い)と想像しました。

  近東と中央アジアは別として他の大陸で見つからないヨーロッパのこれらの初期の住民が、実は他の何よりも非常に私たちに似ているように見えました。

  チューリッヒ大学人類学研究所による、ジブラルタルで発掘されたネアンデルタール人少女の復元像がこれです。

出アフリカした現代人にはネアンデルタール人の遺伝子が受け継がれている。

  科学界においていまだ広範囲で最も根深い誤解は、ネアンデルタール人は現代人にどんな貢献もせずに絶滅した、ということです。   ネアンデルタールと現代のヨーロッパ人の間の形態的な比較は、ネイティヴ・アフリカンの間では見つからないユニークな身体的な特徴(下記参照)で、著しい類似点を容易に明らかにしています。

  2010年に完成したネアンデルタール人・ゲノムの配列は、ヨーロッパ人だけでなくネイティヴ・アフリカン以外の今日の人類は全員、ネアンデルタール人のDNAを2-3%継承していることを明確に証明しました。


  *注;純粋なネイティヴ・アフリカンとは、出アフリカをしなかったY-DNA「A」と「B」及び mtDNA「L3」以外の「L」のことです、

同じアフリカンでもY-DNA「E」は出アフリカ組なのでネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいます。

   ほとんど全てのアフリカの民族・部族には出戻り組のY-DNA「E」が支配階級及び人口強者として混血しています。ということは純粋なネイティヴ・アフリカンの人口は極めて少ないのです。

   ホモサピエンス最古の民族コイサン語族(Y-DNA「A」が基盤)や次のピグミー族(Y-DNA「B」が基盤)でさえもエスタブリッシュメント層はほとんどがY-DNA「E」です。

   一見同じように見えるアフリカンが良く見ると、顔つき・体つきなどかなり違うのはこの3タイプの Y-DNA(更にカメルーン周辺にはY-DNA「R1b」も含まれています)及び「L3」以外のmtDNA「L」の入り混じった交配加減による結果なのです。

ネアンデルタール人は、我々ホモサピエンスより進化していなかったのですか?

ネアンデルタール人は現代人の人種よりよりもっと多様に分化していた


  第1の誤解は、ユーラシア大陸に広く分布していたネアンデルタール人がすべて同じだったということです。   

原ネアンデルタール人が約350,000年前に最初に現われた頃、我々ホモサピエンスの先祖は900cc?1100ccの脳サイズを持つまだかなり原始的なホモエレクトス(原人)の段階でした。   

ネアンデルタール人は、その存在が考古学の記録から次第に消える24.000?30000年前頃まで、ヨーロッパ中を歩き回っていました。

  ネアンデルタール人は出現してから300,000年以上の長い時間が進化に費やされていたので、当然多くの亜種が存在していました。   そのためまだ60,000年程度でしかない現代人の人種間の違いより、最も異なるネアンデルタール人の亜種間の遺伝的な距離ははるかに大きかったでしょう。


  現生人類(つまり解剖学的な現代人)が40,000年前頃にヨーロッパに現れた時に、ネアンデルタールは進化の最も先進のレベルにありました。   1200cc~1700ccに及ぶ頭蓋容積は、事実クロマニヨン人(旧石器時代のヨーロッパのホモサピエンス)より大きく、現代人の平均よりも10%も大きいのです。


ネアンデルタール人は前頭葉より後頭葉が発達していた

  もし脳サイズだけが全ての指標とするなら、ネアンデルタール人は私たちより賢かったかもしれません。   しかし、それが物語の全てではありません。   ネアンデルタールの頭は大部分の現代人より低いアーチ形の前頭葉前部皮質を持っていたため、意思決定や穏やかな社会的な振る舞いがあまり上手ではない(粗野だっただろう)と推測されました。

  他方、ネアンデルタールはより大きい後頭葉を持っていたので、彼らの視覚の能力(微細な区別と色の識別の優秀性を含む)が現代人のそれより確かによかったことを意味しました。

ネアンデルタール人は話すことが出来たようだ

  科学者はネアンデルタール人を、ホモサピエンスのように、話したり道具を使用するために十分な進化をしていなかったと主張して、長い間見下していました。

  それは遺伝学によって間違っていると言うことが、その後証明されました。

  非常に評判がよいネイチャー誌は、ネアンデルタール人が遺伝学的に言語能力を持っていたことを発表しました。   別の研究(D'Anastasio 2013)はネアンデルタール人が、首の中の馬蹄形をした構造に基づいて、話すことが出来ることを確認しました。


埋葬と信仰の起源はネアンデルタール人

  多くの研究は、ネアンデルタールとクロマニヨン人が同様の道具を使用し、全体として同じ技術およびライフスタイルを持っていたことを示しました。   

ネアンデルタール人とホモサピエンスの両方とも、同じレベルの感情と配慮を示して同様の装飾と共に、死者を埋葬しました。   実際、ネアンデルタール人は、ホモサピエンスが現れるかなり前から、埋葬を実行する最初のヒト科でした。


  意図的なネアンデルタール人の埋葬で最も古い証拠は、300,000年前のスペインのAtapuerca洞穴遺跡までさかのぼります。   

ウェールズのPontnewydd洞穴で見つけられた約15体のネアンデルタール人は、約225,000前の死者の丁寧な葬り方を示しています。   

もう一つの有名な例は約130,000年前のクロアチアのKrapma洞穴で、70体以上のネアンデルタール人が道具を使って、儀式的に埋められたと分かったことでした。

  宗教の最も初期の証拠も、トーテム信仰または動物の崇拝(例えば熊・信仰)の形で、ネアンデルタール人からもたらされます。

美食の起源や薬草の起源もネアンデルタール人

  多くの人々がネアンデルタール人を、日常の食物が大型獣の肉に依存したハンターとして、想像しています。   しかしネアンデルタール人は実際にはかなり多様化した日常の食物を、例えばカラスガイ、他の甲殻類(彼らの殻を開けるために暖められた)、魚、小麦と大麦(料理された)、豆類、ナッツ、果物やカモミールやノコギリソウのような苦い味の薬用植物でさえ、楽しみました。


医学の起源はネアンデルタール人

  スタンリー・フィンガーは自身の本「神経科学の起源」の中で、イラクのShamdar洞穴の70,000年の古いネアンデルタール人治癒された頭傷の証拠を示したことを、説明します。   

したがって、ホモサピエンスがさらにヨーロッパに到着する前に、ネアンデルタール人に基礎的な医学についての知識があったことはありえます。

芸術の起源もネアンデルタール人

  Joao Zilhaoら(2010年)は、イベリアでネアンデルタール人によって50,000年前の彫刻された貝殻が塗られていたことを、報告しました。   これはネアンデルタール人は宝石を使用しただけでなく、ペンキを製造することができたという最初の証拠でした。   

発見者は、ネアンデルタール人がさらに彼らの身体もペインティングしていただろうと考えています。


  世界で最も古い洞窟絵画、例えば40,000年前とされるカンタブリアのEl Castillo洞穴やスペインのマラガ近郊のNerja洞窟で見られるものは、ネアンデルタール人の作品、あるいはもしかすると初期の現性人類とネアンデルタール人の交配種(ハイブリッド)によるものと、提案されました。   

彼らがホモ・サピエンスより大きな後頭葉があったことを考えれば、ネアンデルタール人に絵画の起源を見つけることは驚くべきことではありません。そして、それは彼らをより視覚の思想家にしました。


繊維の起源もネアンデルタール人

  ネアンデルタール人は、さらにヒモ(ストリング)やロープを作ることにおいてもホモサピエンスに先行していました。私たちが知っている限り最も古い標本はフランスの90,000の年前の古い遺跡で見つかり、それはホモサピエンスより60,000年も前のことです。

ヨーロッパ人はネアンデルタール人から何を受け継ぎましたか。

東洋人の直毛はネアンデルタール人から受け継いだ形質遺伝子だったようだ

  全てのユーラシア人は明らかに、タイプ-2糖尿病およびクローン病のようないくつかの自己免疫疾患のための危険を増加させた遺伝子を含む免疫系(例えばHLAタイプ)に関係のある、様々なネアンデルタール人の遺伝子を継承しました。

  ヨーロッパ人および中東の人々がネアンデルタールから相続した身体的な特徴は、突出した眉、大きな目、強いあごと広い肩を含んでいます。   東アジア人の70%は、さらにPOU2F3遺伝子の突然変異を継承しました。それはケラチン生産に関係し、髪を真っすぐ(直毛)にする役割を果たしています。

金髪もネアンデルタール人から受け継いだ形質

  カナダの人類学者ピーター・フロストによれば、ホモサピエンスが45,000年前にヨーロッパへ行って(ネアンデルタール人と交配し遺伝子を受け継いで)いなければ、ヨーロッパの髪の色の現在の多様性のレベルを獲得するためには850,000年はかかっていたでしょう。   

これは、ブロンド(金髪)のための遺伝子はネアンデルタール人との亜種間交配で受け継がれた十分な証拠です。

白い肌も赤毛もネアンデルタール人の形質

  DNA鑑定は、ネアンデルタール人が白い肌であることを証明しました、
そして、少なくとも、若干の亜種では赤みがかった(reddish)髪もありました。

ホモサピエンスは元々黒い肌と黒い髪の毛

  ホモサピエンスは何万年の間に渡るヨーロッパ、中東と中央アジアでのいろいろなネアンデルタール人亜種との継続的な交配(雑種を生じること)することなしでは、同時に「明るい色の皮膚・目・髪」のパッケージを明らかに受け継ぐことはできませんでした。

  中石器時代のヨーロッパ人が青い目だが、黒い皮膚と黒い髪を持っていたことが確認されました。


肌の「シミ」もネアンデルタール人の形質

  いくつかの遺伝子が皮膚の色に影響を及ぼしています。   

それらの中で、皮膚の色の飽和に影響を及ぼし、しみの原因であるBNC2遺伝子は、ネアンデルタール人から来たことが2014年 Sankararaman らによって確認されました。   

それはユーラシアの全ての集団で様々な頻度で見つかっており、ヨーロッパ人で最も一般的です(ヨーロッパ人の70%はネアンデルタール人版の遺伝子の少なくとも1つのコピーを持っており、それに対し東アジアと南アジアでは40%です)。


  SLC24A5 遺伝子の突然変異は、ヨーロッパ人とサハラ以南のネイティヴ・アフリカンの間の皮膚色の変化の40%に対して責任があり、近東からの新石器時代の農民によって、そして、特に青銅器時代のポントス大草原(Pontic Steppe)からのプロト-インド-ヨーロッパ人によってヨーロッパに広められました。   

ブロンドと赤毛のための突然変異は、青銅器時代に先立つ古代のヨーロッパ人のサンプルでまだ見つかっていません。   

そうです、白い肌とブロンドか赤い髪は、ヨーロッパでよりはむしろ、起源的に中東か中央アジアでホモ・サピエンスに渡されたようです。


  明るい色の目のための遺伝子もまた、かなり最近ヨーロッパ人の中から独立して出現したというよりはむしろ、ネアンデルタール人から受け継いだという比較的高い可能性があります。   

たった1人のネアンデルタール人の標本だけが完全に配列された段階なので、ネアンデルタール人に青い目、緑色の目あるいはハシバミ目があったことはまだ証明されていません。   しかし、そのような突然変異が出現しネアンデルタール人に選択されるという統計学的な可能性は、ヨーロッパの高緯度地域で300,000年間進化したネアンデルタール人に比べ、ヨーロッパでわずか45,000年しか居住しておらず、しかも北ヨーロッパではまだ30,000年しか経っていないホモ・サピエンスより、はるかに高いです。

  しかしながら、すべてのネアンデルタール人が青い目だったわけではありません。   ネアンデルタール人はホモサピエンスより3倍も古い先祖から進化したため、歴史の短い現代人より遺伝的に非常に多様でした(青い目の遺伝子は亜種に分化してから獲得したため、全亜種が青い目の遺伝子を持っているわけではないのです)。

  もしも青い目がネアンデルタール人から本当に始まったならば、種々のネアンデルタール人集団がヨーロッパ、中東または中央アジアで数回はホモ・サピエンスに青い目遺伝子を渡すことができたはずです。   2つの主な遺伝子(OCA2とHERC2)が同時に渡されるか、もしくは同じ人々に渡されたことは認められません。

  彼らは後でヨーロッパ人に集中しただけかもしれない。   別の選択肢は、これらの遺伝子のうちの1つだけがネアンデルタールから来て、その一方で他方がヒトの中で発生したということです。

  スペインとルクセンブルグの中石器時代のヨーロッパ人は青い目のためのHERC2遺伝子変異を持っていたことが確認された(Oladera et al. 2014、Lazaridis et al. 2014)。   

この突然変異は、Y-DNA[R1a]とY-DNA[R1b]に属するProto-インド‐ヨーロッパ語族が定住したアルタイ山脈、南シベリア、中央アジア、イランとインドの亜大陸を含めたアジアの地域でも見つかっています。   

Proto-インド‐ヨーロッパ語族が中石器時代のヨーロッパ人(Y-DNA[C]、[F]と[I])と非常に異なる父の血統を運んで以来、またmtDNA[U4]とmtDNA[U5]のような非常に古い母の血統を共有するだけだったので、彼らのHERC2突然変異は共通の旧石器時代の祖先から受け継ぐことができたか、もしくは異なる2つのネアンデルタール人の集団から受け渡しされたことで、前期旧石器時代のホモ・サピエンスを分離させました。


現代のヨーロッパ人によって受け継がれるネアンデルタール人の身体的な特徴。

  今日の非アフリカ人はみなザッと同程度のネアンデルタールDNAを持っているかもしれません。しかし、最も見てわかりやすい身体的な特徴のいくつかは、現代ヨーロッパ人に、中でも特に北欧人によって継承されたように見えます。   

ここに、あなたがヨーロッパ人か西ユーラシア人の系統なら継承するかもしれなかった、ネアンデルタール人と現代人の違いを示した特徴のリストがあります。

・Occipital bun(後頭部のパン): 髪の結び目のように見える後頭骨(後頭部)の突起。

  首の後部分の耳と同じ高さの位置のすぐ上部を触って、丸い骨の存在を感じ取ることができるならば、あなたはバンを持っています。(初期のヨーロッパ人では多くみられたのですが、現代ヨーロッパ人では比較的まれになっています。)

  ←実は私はこれを持っています。これは真っ直ぐ上を向いて寝ると圧迫され痛くなり非常に困った存在で、顔を寝かせないと寝れないのです。CTやMRを撮影するときも必ず顔を寝かせて撮影してもらっていました。後頭部の部分が大きく凹んでいる枕に変えてやっと上向きのまま寝れるようになりました。


・Low, flat, elongated skull(低く平らで細長い頭): ここで重要であることは、特に、すべての東アジア人と大部分のアナトリア人、コーカサス人と東ヨーロッパ人のようなほとんど垂直に落ちている後頭部と対比した『細長い頭』です。
  細長い頭は、特にスカンジナビアやイギリス諸島、そしてイベリアで一般的です。


・Retromolar space posterior to the third molar(第3大臼歯の後部の臼歯後隙): つまり「親知らず」の後ろのスペース。

・Supraorbital torus(眼窩の上のトーラス円環面) : 突き出た眉の骨(目と眉の間で大きい深い目腔を含む)。

  ←私の禿頭の輪郭です。眉の骨が出ているのがはっきりわかります。ホモサピエンスらしからぬ後退した前頭部(Receding forehead)の形もそっくりです。何とネアンデルタール人から受け継いだ形質だったとは!気が短く怒りっぽい原因のようです。実は禿頭もネアンデルタール人の形質ではないかと疑っています。

  ←竹中直人さんの横顔ですが、東洋人のため後頭部は絶壁ですが、見事なネアンデルタール前頭部と赤マルで囲んだ部分が典型的な後頭部のバンです。最近、禿げ頭の男性の横顔をじっくりと観察するようになったのですが、ほとんど間違いなく後退した前頭部のネアンデルタール頭を持っています。こうなると禿げはネアンデルタール人の形質と言っても差し支えないのではないかと思う今日この頃です。

・Bigger rounder eyes than average: 平均より大きな丸い目。


・Broad, projecting nose(幅広い突出鼻):平均(「ギリシアの鼻」のようにまっすぐに落ちない)より上向きになっている鼻の骨の角度。


・Bony projections on the sides of the nasal opening(鼻の開始点の横の骨突起): つまり鼻とほお/軌道の間の「三角形」を作る鼻骨。


・Little or no protruding chin: ほとんどない(あっても少し)顎。

・Larger mental foramen in mandible for facial blood supply(顔の血液供給のための下顎骨のより大きなオトガイ孔): これは、横のあごと頬がより大きいか、血液が平均よりよく供給されることを意味します。
  この増加した血液供給の結果、運動をするとき、或いは天候が寒いとき、頬が赤く(顔が赤くなるように)なることがあります。

・Short, bowed shoulder blades(短く湾曲した肩甲骨):すなわち、平均より正面の方へカーブしている肩甲骨

・Large round fingertips(大きな丸い指先): 典型的な「平ら」で幅広い指、特に親指(例えばあなたの親指の幅が1.5cm以上である場合)。

  ←私は太い指で親指は2.5cmの幅があります。他の指でさえ2cmはあるほど、ぶっといのです。

・Rufosity(赤み): つまり赤髪を持っているか、あるいは赤色の斑点か自然なそばかすをともなっている茶髪。

・Fair skin, hair and eyes(白肌、金髪と明るい色の目): ネアンデルタール人は、白い肌と明るい色の髪の毛だけでなく、青色か緑色の目を持っていたと信じられています。つまり中国古典に出てくる「紅毛碧眼」です。

ネアンデルタール人は北の緯度(高緯度)でホモサピエンスより5倍も長い300.000年を過ごしてきたので、ネアンデルタール人が最初にこれらの「高緯度地適応」可能な特徴を開発しなければならなかったのは、当然であるだけです。

  ←私は3項目あてはまりました。ということは、ネアンデルタール人の形質を受け継いでいる、ということになりますが......多少気が短く、怒りっぽいという粗野な部分もあるので(だからこんなホームページで発信しているのです)、これもネアンデルタール人の遺伝なのでしょうかね!?なにはともあれ怒りっぽいのが自分のせいではなく遺伝のせいなら気が楽になります。!!

ヒトは、どれくらい速くネアンデルタール人と置き換わりましたか。

  現生人類とネアンデルタール人の交配は多分とても長引いたプロセスであったでしょう。そこにおいて、アフリカと中東からのホモ・サピエンスの安定した流入はネアンデルタール人DNAを次第に希釈したでしょう。

  考古学的な痕跡が現在まで見つからなかったほど少数ではあるが、ヨーロッパへのホモ・サピエンスの最初の移動は100,000年前という早い時期に始まっていたでしょう。

  近東または北西アフリカ(ジブラルタル海峡を通って)からのホモ・サピエンスの定期的な移動は、最終氷河期の間、中石器時代、新石器時代そして青銅器時代に生じた新しい移住の波と同じように、旧石器時代の間続いたでしょう。


  ネアンデルタール人が進化して、時間とともに屈強でなくなりホモ・サピエンスにより近くなったという否定できない骨格の証拠があります。それは少なくとも100,000年前に始まります。

  地中海のネアンデルタール人はその屈強でなくなった種類でした、彼らの北の仲間達が古いタイプのネアンデルタール人に留まっている間に、そしてホモサピエンスとの交配の可能性の最も多くの特徴を示しました。

  もしホモサピエンスと亜種間交配することがかなり早い時期に起きていたとするなら、それは南ヨーロッパで起きていたでしょう。


  旧石器時代中期(~50,000年前)の間、ホモ・サピエンスのヨーロッパへの移動がヨーロッパのネアンデルタール人集団の遺伝子に重大な影響を及ぼすには、北アフリカと南西アジアのホモ・サピエンスの存在はあまりに小さ過ぎました。

  しかし、ホモ・サピエンスの人口が旧石器時代後期(50,000~10,000年前頃)の間に増大したので、南東ヨーロッパで彼らの遺伝子はネアンデルタール人の遺伝子より多くなり始め、それから他のヨーロッパ地域に少しずつ増えてゆきました。

  通常的に交配が生じることが起こるならば、彼らがおよそ25,000年前に考古学的な記録から姿を消したように、結局、ネアンデルタール人らしい特徴は薄められてゆきました。

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  当ガラパゴス史観は、ネアンデルタール人は肉食の頂点捕食者で、寒冷期に大型肉食獣がいなくなることで雑食に変化できず絶滅したと考えていたのですが、もしかするとそうではなく増殖率が高かったホモサピエンスの中に増殖率の低いネアンデルタール人は自然吸収され、また交配が進み同化してしまったのかもしれません。

  また徳島大学医学部の科研費の調査研究で明らかになった、縄文人Y-DNA「D2」が持っている無精子症や乏精子症の高頻度の出現率はネアンデルタール人との亜種間交配の負の遺産ではなく、ネアンデルタール人の形質をそのまま受け継いだだけなのかもしれません。

  いずれにしても、ネアンデルタール人から受け継いだかもしれない自分の形質を考えるとネアンデルタール人は絶滅したのではなく、ホモサピエンスに自然に吸収され同化していった、と考えたいですね!


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rev.4 旧人/ネアンデルタール人の復習


これまでの欧米の研究者の報告で解っているのは;

●サハラ以南のアフリカ先住民にネアンデルタール人遺伝子は含まれていない、

●Y-DNA「C」系統の全ての現代人類はネアンデルタール人遺伝子を1-4%持っている、

●交配したのは現代人類が出アフリカした最初の移住地の中東で50000年以上前のこと,

●しかしY-DNA「DE」系統が交配したかはまだ明らかになってはいません。まだ研究がそこまで進んではいないのです。これは日本の研究者がやるべきですが、誰も関心がないようです。しかし縄文人の中心メンバーのY-DNA「D2」がネアンデルタール人との交配を経験したかどうかは極めて興味深いのですがね! 

●当時のホモ・サピエンスはネグリート、つまりアウストラロピテクスの身長140cm台を維持していた小柄な集団だった。それは今でもサハラ以南のY-DNA「A」「B」アンダマン諸島の「D*」や「E1b1」の地中海系現代人の小柄な形質に維持されている。

●ところが60万年前には既に出アフリカを果たしたネアンデルタール人は160cm~170cの大柄でがっしりした身体に進化を遂げていた

●遺伝子調査の結果、ネアンデルタール人は高緯度地帯適応を遂げ、肌色は日光を吸収しやすくなるため色素が抜け白っぽくなっていたようだ、

●髪の色は今のヨーロッパ人と同じような髪色が既に揃っており赤髪もいたそうだ。欧米の研究者はヨーロッパ人の髪の色の変化や瞳の色の変化は、ネアンデルタール人から受け継いだと考えているようです。

●女性の平均身長は150cm~155cmで小柄なのだそうです。大柄な男性が小柄な女性を好む傾向は既にこの時に現れていたようです。


    現在の報告から推測すると

小柄なY-DNA「D」「E」はネアンデルタール人とは交配しなかったか、僅かな交配しかしなかったと考えられます。

「E」にはマサイ族の様な背高部族もいるので交配した集団もいたのでしょう。

しかしY-DNA「C2」100%の古代遺伝子のニューギニア高地人が小柄で色が中間の褐色だと言うこと、Y-DNA「D」や「E」の特徴であるジャガイモ顔が「C2」には見られずいかつい顔だちであることも、ネアンデルタール人との交配を示唆しています

。つまりY-DNA「C」はネアンデルタール人と交配し、最も発現しやすい中間色の肌の色や顔だちに変化は起こったが、背が高くなるほど濃密な交配ではなかったことになります。

  またインド亜大陸で内陸に入り分化した「CF」の子ハプロタイプ「F」も小柄で褐色肌のドラヴィダ人やインド人を見ると交配したが交配度は低かったことが改めて納得できます。

一方Y-DNA「D*」のアンダマン諸島人の小柄で真っ黒な肌色はネアンデルタール人との交配が全くなかった集団だったことを示唆しているようです。


  ところが「F」から分化した「I 」は「R」がヨーロッパに入るはるか昔にヨーロッパにたどり着きクロマニヨン人となり先住民のネアンデルタール人と再会し、背が高くなるほどの濃密な交配が行われ大型化したようです。この背高遺伝子は子孫のノルマン人にしっかりと受け継げれています。

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rev.3 猿人、原人、旧人


  昨年報告された最新のアウストラロピテクスの研究で、集団間を移動するのは女性だったとわかったそうです。

異なる集団に別の集団の女性が嫁ぎ、その集団が近親婚になることを防いできたのです。

つまり本来旅をするのは女性であって男ではなかったのです。つまりフーテンの寅さんなんてのは人類本来の姿ではなくフーテンの寅子さんが正しいのです。

  このことは重要なことで女性が集団を移動することで先ず女性に発現した新たな遺伝子も移動し拡大してきたのです。この女性が移動をするのは人類と一部のチンパンジーのみの特徴だそうです。本来人類の証だった行動様式だったのです。

ともかく猿人も原人も旧人も全てアフリカ大地で生まれここからユーラシア大陸に拡散をしてゆきました。何故アフリカ大地が人類の故郷なのかは簡単で、そこに猿が住んでいて、類人猿に進化したからです。そして樹上から降りても食べて行ける広大な草原と食料の小型獣がたくさんいたからです。700万年以上もかかって進化する間、絶滅せずに進化を支える環境がアフリカにだけ整っていたからなのです。


  原人には北京原人や、ジャワ原人など絶滅した祖先がいましたが、現代人(新人)と遺伝的な関係は知られていません。可能性は否定されてはいないようですが、遺伝子に証拠はまだ見つかってはいません。遺伝子の得られる状態の化石が出土していないのと時代差があり過ぎるのです。

  一方、最近の研究では我らホモサピエンス(新人)の先輩である旧人(ネアンデルタール人)が出アフリカを決行したのは60万年前頃だろうとされています。

当然ですが原人も旧人も二本足の肉食者で食物連鎖の捕食者の地位にありました。

  特に旧人(ホモネアンデルターレンシス)はヨーロッパ大陸の頂点捕食者だったようです。そしてそれが絶滅した理由になってしまったそうです。

我ら新人(ホモサピエンス)はネアンデルタール人と抗争をして勝ったわけではなく、寒冷化してきた欧州やユーラシアア大陸で氷河が拡大し、獲物となる食用獣類がいなくなったためネアンデルタール人は食糧難に陥り、自滅してしまったようなのです。これが欧米の最新の研究だそうです。

  そしてネアンデルタール人は遺伝子研究の結果、現代の欧米人と同じ赤髪碧眼(金髪もいたそうです)だったそうで、アフリカから高緯度の地域に移住し数十万年も居住していたため高緯度地適応し肌は色白で、いかついソース顔だったそうです。

赤髪碧眼も高緯度地適応の結果だったそうです。

現代人は誕生したアフリカ大陸からユーラシア大陸に移住しまだ6-70000年しか経っていないのですが、ネアンデルタール人が数十万年掛けて手に入れた形質を既に獲得していますが、それは何故でしょうか?


  旧人の中で我ら現代人と交配し遺伝子をホモサピエンスに残したのはネアンデルタール人と中央アジアで見つかったデニソワ人のみだそうです。

デニソワ人が何者かはまだ詳しくはわかってはいませんが、ネアンデルタール人は中央アジアでも化石が発掘されるので、ネアンデルタール人の地域型(シベリア型)ではないかと考えられます。

  ネアンデルタール人の親子(左図)と復元顔(右の左)とよく似たミュージシャンの顔です。

ネアンデルタール人が出アフリカ後60万年掛けて獲得したいかついソース顔や赤髪を現代人はたった6万年程度で交配することで手に入れたのです。

ホモサピエンスの本来はジャガイモ顔なのです。

  しかし大きな相違点はホモサピエンスに比べてネアンデルタール人は額の上部が引っ込んでいることです。この特徴がソース顔の現代人にもかなり見受けられます。ネアンデルタールの特徴です。


  左図はネアンデルタール人の少女の復元だそうです。
金髪に碧い眼、つまり金髪碧眼で白い肌です。

この高緯度地適応の特徴もホモサピエンスはネアンデルタール人から交配の結果短期間で手に入れたのです。

ホモサピエンスの出アフリカご6万年程度ではこの特徴を手に入れることは難しいのだそうですが、「交配」はそれを簡単に実現したらしいです。

絶滅寸前期のネアンデルタール人は現代人類の中欧/北欧人と良く似ていたと思われます。ヨーロッパ大陸の頂点の肉食捕食者であったことが不幸にも彼らを絶滅に追い込んでしまったと言うことのようです。

ネアンデルタール人は、肉食で捕食者であったことが報告されています。自己啓発で読んだ「捕食者なき世界」と「想像するちから」を元に人類史を振り返って見たいと思います。   「捕食者なき世界」や「想像するちから」の本を読むと、

  人類の祖先は、アフリカの乾燥化に伴い森林がどんどん減少し生活の場だった大森林地帯が縮小し飛び飛びに点在する小さな森林になってしまい、木の実などを食料としていた樹上に暮らす草食の「人類とチンパンジーの共通の祖先」の生活が非常に脅かされるようになったことが引き金になり

  一部の「共通の祖先」が食環境の改善を目指し思い切って樹から草原に降り立つという冒険に挑戦したらしいのです。

  当時の「共通の祖先」はライオンなどの大型ネコ類やワシ・タカなど猛禽類の「捕食者」から「食われる側」の存在だったそうです。しかしいつの時代にも冒険者はいるらしくそのような「捕食者」たちの狩を見ていた「共通の祖先」は、乏しい食環境を改善するために「肉」を食べるしかないと大型捕食者たちの真似をし、捕食者が食べる小型動物を狩るようになったそうです。

  それまで「共通の祖先」は霊長類がかつて「四手類」と呼ばれたように、四本の手を使い不自由なく木の実を採取する樹上生活を行ってきました。必要があり樹から降りた時には「後ろ手」で立つことは出来ましたが、草原を自由に歩行できた訳ではありませんでした。このため大型捕食者から素早く逃げられたわけではなく、「後ろ手」は次第に素早い移動に便利な「足」に進化したと考えられているようです。このとき引き換えに自由に樹に登れる能力を失ったのです。

  「想像するちから」によると、それまでの「共通の祖先」は動物特有の敵を瞬時に見分ける直感力を持っていたそうですが、草原に降りる生活を選択した時にはより早く敵の来襲を察知するためには複数の目・耳の方がより安全で、倒した獲物を素早く解体し持ち帰るにも複数のほうがよく、だんだんと家族・近親者で行動することを覚えたのだそうです。そして危機を全員に素早く知らせるために「言葉」を発する能力を獲得したのだそうです。

  ということは、当方と違って直感の鋭い人は現代人になりきっていないのです..かな!

  このとき引き換えに動物としての直感力を失ったそうですが、その原因は2つの能力を同時に持つほど能が十分に発達していなかったためだそうです。

  ということは直感の鋭い人は脳が人一倍発達している進化した新人類かも知れません!

  樹から降りた「共通の祖先」は度胸はあってもパワーがなくひ弱で大型捕食者のように追いかけたり待ち伏せし隙を狙って飛び掛り一撃で倒すタイプの狩ではなく、現在コイサン族が行っている狩のように、狙った小型動物をとことん追跡し追い詰め弱って動けなくなったところを棍棒や石で殴り倒すというやり方で肉を獲る狩を覚えたと、本の著者は説明をしています。つまり草原に降り立った「共通の祖先」はこうして「人類の祖先」アウストラロピテクス=猿人に進化を遂げたようです。

  このアウストラロピテクスやコイサン族の長い距離を走りながら獲物を追いかける能力、つまりマラソン能力は人類の持つ本能だそうです。だから100mのボルトもすごいけど、マラソンの方がもっと大好きなのは当然のことなのです。ひょっとすると現在マラソン界を席巻しているケニヤ人やエチオピア人より、コイサン族の方が今でも狩人なので早いかも知れませんねぇ!ニカウさん、走らないかなあ!では日本女性がマラソンに強いのは何故?コイサン族の女性が走るともっと早いのかな?

  アフリカ系はなんで長距離も短距離も早いんだろうか??

  [捕食者なき世界」では草原に降り立った「共通の祖先:草原派」はまだ樹上の「共通の祖先:樹上派」と長い間交配をしていたことを明らかにしています。恐らく200万年間ぐらいは「草原派」と「樹上派」は亜種程度の違いしかなくお互い交配し遺伝子の交換が起きていたことがわかったそうです。

  これは言い換えると「後ろ手」が「足」に完全に進化しきるのに200万年掛かったということなのでしょう。しかしその200万年を経て草食だった「共通の祖先」は背筋が伸びた二本足歩行を完璧に身につけたアウストラロピテクスという二本足の新参者の捕食者、つまり猿人という肉食者に進化し人類への道を正式に歩み始めたようです。

  こうして「猿人」と呼ばれる肉食者に変貌した人類は、「想像するちから」によれば生きた小型動物が捕獲できないときには、ハイエナのように大型捕食者が食べ残した残りの死肉や、大型動物が倒した獲物を横取りすることで徹底して「肉を食べる」ことにこだわった結果、ホモハビリスに進化した頃には脳の大きさは2倍の800ccに飛躍的に増大したのだそうです。まさに食うか食われるかの環境を脳の知力で生き抜いてきたのが祖先だったのです。

  しかしこの食うか食われるかの記憶は遺伝子にしっかりと埋め込まれ、その後の人類の「さが」になっているそうです。だから現代でも脳細胞が活発に活動するには動物性のタンパク質が絶対に必要なのです。ベジタリアンは「人類」であることを否定する新しい動物なのです。そうして更に何百万年も経ち原人に進化した頃には肉食のおかげで人類の脳は1200ccを超えるほど大きくなったのです。現在でも人間の赤ん坊とチンパンジーの赤ん坊の脳の大きさは変わらないそうですが、その後の成長過程で圧倒的な差が付くのだそうです。

  さて約60万年前ごろになると原人の一部はアフリカを出てヨーロッパから中央アジア近くまで進出していたようです。そして新しい環境で旧人に進化した人類はネアンデルタール人と呼ばれ、肉食のおかげで体も大きくなり肉食の捕食者として圧倒的な存在になっていたようです。

そのころホモサピエンスはまだ出現してはおらず、アフリカには移動しなかった原人集団が残っていたようです。


  ネアンデルタール人は約13万年前頃に完全形に進化したと考えられているようですが、

  その少し前の15万年~23万年前ごろにアフリカに残っていた原人集団に「ミトコンドリアイヴ」と後に呼ばれるようになった全ての現代人類のたった一人の祖先である母が誕生しました。父の「Y-DNAアダム」が誕生するのはもう少し後で6万年~9万年前頃のようです。つまり母の出現の方が早かったようです。

  先ず進化した新しい母親が現れ、その進化した遺伝子を受け継いだ子供たちが誕生し、進化した遺伝子を持つ女性も男性も充分な人口になった時に、新しい遺伝子を持つ男女同士の交配により新人のホモサピエンスが確立していったのだそうです。

ところがその後アフリカは大干ばつになりサハラの草原は現在に続く不毛の砂漠と化し、新人は一時2000人くらいに減少し絶滅危惧種に陥り ある集団が新天地を求めて60000年前頃出アフリカを決行したのです。

勿論出アフリカせずに南下し残っている森林地帯に逃避した集団もありました。後のコイサン族やピグミー族の祖先です。つまりその後の人類が得た進化を一切放棄した集団だったのです。そのため一切の進化が止まり50000~60000万年前頃のまま今まで生きてきたのです。


  さて出アフリカしたまだ小柄で真っ黒な肌の新人集団は中東地域で進化した先住民のネアンデルタール人と遭遇したようです。

ヨーロッパからアジアに拡がっていたネアンデルタール人は高緯度地域適応を遂げ、肌色は白っぽく髪も今のヨーロッパ人と同じような髪色が既に揃っており赤髪もいたそうです。

欧米の研究者はヨーロッパ人の髪の色の変化や瞳の色の変化は、ネアンデルタール人から受け継いだと考えているようです。


しかし大問題はその後の寒冷化でした。

  ヨーロッパの北部は完全に氷河に覆われ南部も寒冷地と化し食料であった動物はすっかりいなくなり、干ばつのアフリカ・サハラの大地で生きるためにどうやら雑食性になっていたホモ・サピエンスはなんとか生き延びられたものの、肉食捕食者だった大柄なホモ・ネアンデルターレンシスは食べる動物がすっかりいなくなり2万4000年前頃とうとう絶滅したのだそうです。

欧米の研究者によると大柄でがっしりしたネアンデルタール人の生活に必要なカロリー数は小柄で貧弱なクロマニヨン人より350Kcalも多く必要だったことを報告しており、まさにこれが絶滅の原因だっただろうと説明しています。


  結局、肉食化することで飛躍的な進化を続けた人類は雑食になることで気候変動を乗り切り生存競争に勝ち残ったのです。

  そして更に時代が下がり9000年前ごろにメソポタミア文明が農耕を開始し、現代人類は自然から食料を調達する狩猟・採集の形態から本格的に食料を生産する現代人に進化したのです。この農耕の発明と農民の出現は人類史上の最大の出来事の一つと言っても過言ではありません。食料は「自然から調達」するだけではなく「自ら生産」するものへと変わったのです。この農耕を始めたのはセム系種族と考えられています。当時のヨーロッパはまだ遅れた土地だったのです。

  しかしそれでも人類は狩をする捕食者=攻撃者としての地位を捨てることはなく、遺伝子に埋め込まれた「食うか食われるか」の記憶は、平和な時には大型動物の無意味なハンティングとなり、不安定な時代では自分の生きる環境を守るために相手を攻撃する戦争を引き起こしてしまうのだそうです。   

「捕食者なき世界」によれば、この何百万年続いた遺伝子に埋め込まれた「食うか食われるか」の記憶が無くなることはないようです。従って攻撃者の象徴である鉄砲を所持することを止めるのは理性で抑えるしかなく、戦争も理性で抑えなければならないのだそうです。それだけの進化した知能を持っているはずなのだそうですが、それにしては暴力沙汰が好きな粗野・粗暴な人が多いのはどうして?
理性度にはバラツキがあるからなのでしょう。


  動物学者や人類学者の調査で、動物の中で女性がグループや部族などの集団を離れ、他の集団に嫁入りするのは、同じ先祖から分岐したチンパンジーと人類だけだそうです。

これだけを見てもあらゆる動物の中でチンパンジーを観察することは人類の研究に役立つことがはっきりと言えるそうです。同じ先祖から分かれたため基本的な行動様式は全く同じだったのです。しかも分化した最初の200万年間ぐらいは現代チンパンジーの祖先と現代人類の祖先はまだ交配をしていたと研究で明らかになりつつあります。それほど近かったのです。ちなみに日本の法律ではチンパンジーの数え方は人間と同じ「~人」だそうです。


  枯渇してきた森林の樹から降りてサバンナや草原に降り立ち二本足で立ち、大型肉食捕食獣と対抗し、自ら二本足捕食者に変わったのがオーストラロピテクスです。そして肉食になることで脳が一気に大きくなり、道具を持ち、大型捕食獣に対抗するため集団狩りを覚え集団を生かすため言葉を覚え、話すために脳のエネルギーを思い切り使うため、樹に登る才能を捨て、その代わりにどんな動物よりも長い距離を走りながら/歩きながら移動する長距離移動能力を身につけ、狩りをおこなう技術を開化させて言ったのだそうです。

  約200000年前に、現代人類ホモサピエンス・サピエンスの母「ミトコンドリアイヴ」がアフリカの大地に出現し、現代人類の祖先はどう変わったのかは、まだ全く説明されていません。それから50000-60000年ぐらいも経った140000年前頃にようやく現代人類の父「Y-DNAアダム」が生まれたそうです。それから更に70000-80000年経った灼熱化したサハラ砂漠を脱出し、出アフリカを果たしたのが我々に祖先になります。

  その飢餓の危機の時に南の住みやすい環境に逃げることを選択し、出アフリカせずにアフリカに留まった現代人類の仲間は、良し悪しは別にして、近代化することなく古代のまま現在に至っています。

かつての原人(たとえばホモエレクトス:北京原人)や旧人(ホモサピエンス・ネアンデルターレンシス:ネアンデルタール人)など過去の人類は全て出アフリカしユーラシア大陸に広く分布しましたが、我々の祖先もアフリカの南に安直に逃げることを選ばず、過去の人類と同様ユーラシア大陸に活路を見出してくれたおかげで、また肉食にこだわらず、飢餓から雑食に転向し(肉食にこだわり絶滅したのがネアンデルタール人です)、更に脳細胞を活性化することができたのでしょう、こうして今現代人類として繁栄!?しています。


  そして過去の人類集団の中心はいつも女性でした。女性が集団を移り新しい遺伝子を広げていったのです。結果として男性も新しくなってゆきましたが、当初男性が変わるまで50000年もかかったのは驚きです。男は変化しにくいのかもしれませんね。遺伝子が頑固なのか馬鹿なのか。Y-DNAは変化しにくいのかもしれません。

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rev.1 最近の人類史からまとめ

  人類がチンパンジーと「共通の祖先」として、樹上で木の実を食べるつつましい食生活を送って居たのは大雑把にたった600-700万年前頃だそうです。長い生命の歴史から見ればつい最近のことだそうです。このため人類とチンパンジーの遺伝子は分化した後でも数%しか違わないほど今でも近いのだそうです。

  進化はいつでも突然やってくるのではなくキッカケがあるそうです。アフリカの潤沢だった共通の祖先が暮らした森林がだんだん狭くなりサバンナ化し始めたのだそうですが、結局充分な木の実を確保することができないくらい共通の祖先の居住環境が狭くなり悪化してきたことが、人類の誕生の理由だそうです。突然変異で歩き始めたわけではありません。どの時代にも冒険者はいるもので、恐らくある集団のリーダーが当時の頂点捕食者のライオンや猛禽類などの肉食鳥獣の狩りを樹上から見ていて肉を食べる決心をしたのでしょう。

  サル類は動物分類学では一昔前「四手類」と呼ばれていました。つまり足はなく前手と後ろ手の4本の手で樹上を移動していたのです。当然ですが、今のチンパンジーやゴリラの歩き方はぎこちないのですが、当時の祖先もサバンナに降り立った当時はぎこちなくあるいていたのです、化石を調べた結果では、残念ながら頂点捕食者のマネまねをして肉食になるどころか頂点捕食者に襲われ食料にされることもあったそうです。猛禽類の歯の跡がついた頭蓋骨の化石が出土するそうです。

  でもそこは動物の中で一番大きい脳による頭の良さで乗り切りながら家族を増やし、ていったそうです。最近の研究では人類とチンパンジーの「共通の祖先」から「樹上派」と「草原派」に分かれた後も200万年間ぐらいはお互いに通婚・交配していたことが遺伝子からわかってきたそうです。なぜなら、草原に降り立った祖先の数は少なくそのままでは当然絶滅するか、生き延びても近親婚となり丈夫な子孫を残すことが
40:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:18:23


白人はコーカソイドを品種改良して生まれた新人類


コーカソイドの品種改良は何故行われたか


長い間、北ヨーロッパの諸民族は、北方に起源をもつ「純枠種」であるという神話が、定説であるかのように、語りつづけられてきた。
  
しかし、形質人類学、つまり、人類の生物学的研究が進むにつれ、北欧神話はくずれはじめた。

たとえば、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセル(以下、クーンを代表とする)の3人の共著による、『人種』という本では、北ヨーロッパ人の中にみられる高身長で鼻の細くとがった骨格は、「紀元前5000年をこえないある時期に、おそらくイランから農耕民・牧畜民としてユーラシアの草原に入ってきた」人々がもたらしたもの、と説明されている。
  
では、その当時、イラン高原にいた人々はどんな肌色をしていたかというと、クーンは、「淡褐色の皮膚、褐色の眼」をしていたと考えている。

そして、イラン高原からインドに侵入した、いわゆるアーリア人についても、従来主張されてきたようなブロンド人種ではなかった、と説明している。

では、淡褐色の肌色、褐色の眼の人々は、どういう時期に北ヨーロッパに移住し、ブロンド型になっていったのであろうか。
  
 「その頃ウラル山脈の氷河の融解によって地表をあらわした地域は曇りがちであった。

彼らは紀元前2000年代に中央および北西ヨーロッパに到達した。
彼らがここに来たのは雲多い時代の終末期であった。

彼らは第一には原住民との混血により、第二には環境的淘汰によって、あるいはこの2つの経過にしたがって、皮膚、毛、眼に関するブロンディズムの遺伝子を獲得したのだろう」(『人種』、p.114)

  
では、「原住民」は、どんな人種的特徴を持っていたのであろうか。
そして、ブロンディズムとは、どのようなものであり、どのような自然環境の中で発生したものであろうか。
  
ブロンディズムは、雲や霧の多い、氷河期の北ヨーロッパ特有の気候の中で発生した。

基本的には「白皮症」である。つまり、色素細胞の機能消滅である。
この現象はどの地方でも発生するが、太陽光線のとぼしい環境の中では、これが、かえって有利な条件となった。


しかもこの環境はほぼ、紀元前の2200年までつづいた。
ホメーロスも、北ヨーロッパについて、霧多き国とうたっていたほどである。
  
   このことからすれば、北ヨーロッパ人の「純粋性」を主張する際には、もっとも色素沈着のすくない住民をあげなくてはならないだろう。事実、クーンは、こう書いている。
  
   「灰色ブロンドの毛はバルト海地方の東方および南方の中部ヨーロッパの、皮膚の青く、灰色の眼をした住民の間ではもっとも普通である」(同前、p.113)
  
   つまり、いわゆる金髪青眼ではなくて、銀髪灰眼の方が、北ヨーロッパの古くからの現住民だった。

バルト海は北ヨーロッパの中心部であり、凍りついた海の上には、ツンドラ草原がひろがっていた。曇りがちな空の下で、狩猟民が紀元前3000年もしくは2000年頃まで、つまり古代エジプト帝国がアフリカ大陸からオリエントに進出していたころまで、氷河期と同じ生活をつづけていた。

現在のバルト海沿岸には、「白眼」とよばれる人々さえいる。
  
   では、この銀髪灰眼の人々は、どんな骨格をしていたのだろうか。
  
   「この種の色素をもつ人々の多くはずんぐりしており、顔は幅ひろく獅子鼻である。

彼らはモンゴロイドが完成した寒地適応の路を部分的にたどってきたのであった」(同前、p.113)
  
   つまり、人類そのものの生物学的な研究によれば、ずんぐりした身体つきの方が、表面積が少なくて、体熱の発散をふせぐ。この方が寒地適応型なのだ。

もちろん、ここでモンゴロイドの典型とされているのは、氷原の狩猟民族、エスキモー人のことである。
  
   結論として北ヨーロッパの原住民は、銀髪灰眼、ずんぐり型であったと考えられる。
  
   高身長、細鼻の骨格形質は、クーンによれば、イラン高原に由来する。
  http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-afmag-45.html

78 :名無しさん@お腹いっぱい[]:04/09/16 19:51:23 ID:UHhOaVTt

印欧語族の起源は、中央アジアだと思われます。
紀元前数千年前に現在のイラク地方から農耕が伝わりました。
この農耕から牧畜が発生しました。
中央アジアは馬の原産地でもあります。
騎馬の技術を発明したのも印欧語族が最初です。

本来の印欧語族は、現在のイラン人のような容貌をしていたと考えられます。
髪の毛も目の色も黒かったと思われます。

そして、人口の増加と騎馬により、印欧語族は東、西、南へと拡散することになります。

紀元前2千前のことだと思われます。

東に向かった印欧語族はタリム盆地あたりまで進みますが、そのころ黄河文明を起こしつつあったモンゴロイドの漢民族がいたため、それ以上、進むことは出来ませんでした。

南に向かった印欧語族はアフガニスタンからパキスタンに入り(紀元前1700年ごろ)、インダス文明を興していたドラビダ系民族を滅ぼしました。

西に向かった印欧語族は、無人の野を行くが如く、欧州を駆け抜けて行きました。
北ヨーロッパにいた、ブロンデイズムを獲得していたコーカソイドを征服し、彼らと混血していったのです。


82 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 22:14:49 ID:cN0KVvfg

トルコ系、モンゴル系などの中央ユーラシア遊牧民族は、もともとが、モンゴロイドなのか、そうでないのかわからない。

そもそも草原の道とかいう中央アジアなどは、インド・ヨーロッパ語族のベースとなった、アナトリア(今のトルコのあるところ)とも関係が深い。

でもって、アナトリアよりもちょっと上、黒海、カスピ海となると、カフカスであり、これぞコーカソイドとよばれていたりするわけだが、結局、いま、人種という概念がなくなったのは、こういうアジア系とヨーロッパ系などと分けることが無意味になったからだ。

どうやら、紀元前1000年ごろに、地中海民族(イタリアとか)が大挙して、アジアにやってきたらしいのもわかっている。

紀元前500年ごろまでには、中国各地にこういう人々がいた可能性がある。
いまのところ、彼らの存在が確認されているのは、中国の西域(例のローランの少女ミイラ)や、山東半島だ。

山東半島は、完全にヨーロッパ系ばかりが紀元前500年ごろには、住んでいたことが判明している。

そのほか、考古学的にわかるのは、遊牧民族の文化が違いにあまり区別できないということだ。カフカス系のスキタイの文化は、あきらかに、中国まできているどころか、朝鮮半島南部まで来ている。

もちろん、日本にきた証拠はないものの、朝鮮半島南部、いわゆる任那ともよばれた加羅や新羅までは来ている。

とすれば、これらは、ステップ民族であり、この系統がアジア系とか、ヨーロッパ系(いわゆるコーカソイド)とか区別できるもので はない。
ようするに、2000年前の民族がどういう系統かとか論じるのがそもそも無意味に近い。
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/geo/1093685431

80:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/08 08:51 ID:aXAhx3AV(1)

インド人の一部がコーカソイドと言えども、イギリス人の植民地統治は容赦がなかった。

インド人は黒または褐色の有色人種でアフリカのニグロに対する扱いと基本的に同じだった。

気に入らないインド人を射殺するのは白人の自由であり、動物と間違って 撃ったと言えば無罪放免であった。

インド人がインド・ヨーロッパ語族であろうと、アラブ人がコーカソイドであろうとほとんどのヨーロッパ人からみて彼らが「白人」ではないことは明白な事実である。


87:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/09 15:36 ID:q1J7uQci(1)

イタリア人はアメリカ移民当初、白人認定されず、かなりの差別を受けてたみたいだ。
だからアル・カポネのようなアウトローが出てきたとも言える。

イタリア人でもローマから北は白人っぽいが、南は刑事コロンボやイタリア語講座の先生のように、もろ地中海系。

狭義ではアルプス以北というか、地中海に飛び出たイタリアとイベリア半島はヨーロッパでも別格だね。


195:名無しさん@お腹いっぱい。[] /07/27 20:55 ID:9l8nU5QU(1)

インドのガンジーは若き弁護士時代を南アで過ごすが、完全に ニグロ(黒人)扱いを受けた。

いくらコーカソイドでくくって、インド人やアラブ人を欧米系と同じ人種と定義しても、当の欧米系はインド、アラブ系とははるかかなたに分かれたのであって、意識上他人種と考えている。

115 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/21 00:21 ID:cvT+ciN3(1)
白人は自分に近くて似ているけど異なる者が嫌いなんだよ。
アラブ人のことも大嫌い。

317 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/21(土) 14:17:44 ID:W+akTwxs(3)

戦前に両親の都合でポーランドの奥地に送られたドイツの子供(髪も目も黒)が 金髪碧眼しかいない小さな農村で苛められる話があります。

そのポーランドの田舎は千年このかた、髪の黒い人など見たこともなくこいつは白人ではない、ユダヤ人かアジア人に違いないと言われます。

もちろん少年はふつうのドイツ人で、ユダヤ人やジプシーではないのですが髪が黒いというだけで人間あつかいされない。

外の世界など見たこともない金髪碧眼の村で、テレビもない時代ですからね。
彼らは安物アメリカ映画ふうの、差別はいけないなどという考えもない。

生活も千年前そのままで、女が浮気すると、相手を斧で殴り殺し目をえぐりだす
まさにキリスト教伝来前、ローマ時代のヴァイキングの生活。
二十世紀でこんな村があることが不思議におもえますが、広大なポーランドのこと、
領主は税さえおさめれば農民など一切かまわなかったのでしょう。
古いヴァイキングの血は、不毛の島とか、ポーランド内陸の田舎などに保存されて
のこってる。


320:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/21(土) 17:02:39 ID:W+akTwxs(3)

北欧ではフィンランド人が古い人種でしょう。
スウェーデン人に次第に北に押しやられて凄い差別を受けてました。
そのスウェーデン人は南方から来たわけで・・・

スウェーデンやノルウェーには内陸に差別を受ける少数民族がいます。
かれらが本当の北欧原住民で、非キリスト教徒として迫害され、ほとんど滅んだ。
http://read2ch.com/r/geo/1036574273/
41:777 :

2022/06/05 (Sun) 19:18:52

コーカソイドの品種改良はどの様にして行われたか

コーカソイドとは元々アナトリア~コーカサス~イランあたりに定住していた薄褐色系の人達が本流

ヨーロッパの肌の白い系はその亜種

コーカソイドとは本来バングラデシュ人のように色はかなり濃い。

「自称」白人はコーカソイドの奇形。

なぜヨーロッパの各人種が、人類の進化の速度としては、かくも最近かつ急速に白い肌、青い目、ブロンドの髪を持つようになったのかは、長年の疑問であった。

このような変化が通常の進化の過程(自然淘汰)で起こったのであれば、約85万年の歳月が必要となった筈である。

しかし現代の人類は、アフリカからヨーロッパまでの移住を成し遂げるまでに、僅か3万5000年から4万年の期間しか費やしていない。


_________________

1) 白皙


ヨーロッパ人の皮膚は黒かった「5万年前」


人類の旅は5万年前、東アフリカのサバンナにいた5000人の集団のうち、150人がアフリカを出たことに始まる。

人類の皮膚の色。祖先の皮膚は当初青白かった。

アフリカでは日光が葉酸を破壊し生殖能力を低下させるのを防ぐため、黒い皮膚になった。

2万年前からヨーロッパ人とアジア人は濃淡の皮膚に変化した。日光によく当たればビタミンDの生成効率が向上する。

人類は農耕を開始する前に定住していた。1万年前に氷期が終わり、現在の完新世になり、定住が始まった。

トルコ南東部から地中海東岸あたりで、麦類が栽培化された。

Y染色体の分析によると、新石器時代トルコ中南部から農民がヨーロッパに入り地元の集団と混血していった。

近東からヨーロッパに移住して農耕を伝えた人々は実は少人数で、ヨーロッパの先住民は彼らの農耕技術と言語を取り入れた。
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/21701503.html

ペンシルバニア州立大学のChengらは、ヒトのSLC24A5という遺伝子の1アミノ酸変異がヨーロッパ人の肌色を薄く(白く)しているらしいと報告した(Science (2005)310, 1882-1786)。

Chengの研究室の大学院生だったNortonは、アリゾナ大学の遺伝学者Hammerの研究室に移ってから、この遺伝子内部および近辺の遺伝子の変異の頻度を調べた。

そして、その変異速度から問題のSLC24A5の変異が1.2万年前~6千年前に生じた、と推定した。

そうすると、1.8-1.4万年前の旧石器時代末期にアルタミラの見事な洞窟壁画を残した人たちは、色の黒い人たちだったということになる。

現生人類の祖先は約4万年前にアフリカを出て、ユーラシア大陸に進出した。

ヨーロッパに進出した一派は、進出後すぐに色白になった、というのが今までの通説であった。

それに比べるとNortonの推定は、エジプトで古代王朝が始まるころにようやくヨーロッパ人の肌色は褐色から白色になったというのだから、その進化の新しさに驚く。

4万年前に色白になったというのは古すぎる、という意見は以前からあった。

ヨーロッパ人は長い間、狩猟主体の生活だったのでその獲物の内臓から充分なビタミンDを摂っていた、だから肌色は黒いままでよかった、というのである。

この場合は、農耕主体の生活になってから、あるいは、衣類が発達して皮膚表面の大部分を覆うようになってから、始めて皮膚の色は白くなった、と考える。
http://www.res.titech.ac.jp/~seibutu/yoshida/blackandwhite.html


2) 碧眼
★青い目の人は全て1万年前の共通の祖先の子孫、デンマーク人研究者

【Technobahn 2008/2/1 19:12】

デンマーク人研究者によるDNA調査によって青い目の人は今から6000~1万年前に突然現れた青い目を持った祖先の子孫であるということが1月31日までに明らかとなった。。

 この研究を行ったのはデンマークのコペンハーゲン大学のハンス・アイベルク(Hans Eiberg)教授を中心とする研究グループ。

 研究グループではメラニン色素の生成に関与するOCA2遺伝子に着目。
その上でこの遺伝子の部分的に機能しなくなったことにより青い目のを持つ人が誕生したこと、更に、OCA2遺伝子の追跡調査により、青い目を持つ人は6000~10000年前に現れた共通の祖先から枝分かれした子孫であるということ突き止めた。

 現在、ヨーロッパの全人口の20~40%は青い目を持つ。

6000~1万年前に生まれた青い目の祖先からここまで青い目の人口が拡大したことに関して、研究グループでは、この祖先が持っていた遺伝子は青い目を形成するOCA2遺伝子以外に、別の面で子孫を繁栄させる面で何かしら有利となる特徴を持っていたのではないかと、述べている。

 研究グループでは恐らく6000~1万年より以前には青い目をした人は居なかったとも述べている。
http://kousyoublog.jp/?eid=1423


3) 金髪


最近の遺伝情報学に基づけば、ヨーロッパにおいて金髪の人口がはっきりと増加しだしたのは、最後の氷河期である約1万1000年前から約1万年前のことである可能性が高い。
これ以前のヨーロッパ人は、他の人種の支配的な特徴である焦茶色の髪と暗い色の瞳を持っていた。

『The History and Geography of Human Genes』(1994年)によれば、金髪は紀元前3000年頃に現在リトアニアとして知られる地域において、インド・ヨーロッパ祖語族の間でヨーロッパの支配的な頭髪の色となった(現在においても、リトアニアは金髪人口の比率が最も高い国として知られている)。

金髪(ブロンド)は人間には比較的に稀にしか見られない髪色で、全人口の内で1.7パーセントから2パーセントしか見られず、天然の金髪の大部分は白人のものである。

金髪は北ヨーロッパ、特にオランダ、北欧諸国、ドイツの人々の典型的な特徴であり、このため非常に明るい金髪は、しばしば「ノルディック・ブロンド(北欧のブロンド)」と呼ばれる。

これより暗い色合いの金髪は、ヨーロッパ全域はもちろん、現在のシリア人やレバノン人、ペルシャ人、クルド人や、イラン、アフガン、パキスタンのイラン人などの、中東の様々な地域でも見られる。

ただし北欧三国(ノルディック)を除けば概ねどの地域もブロンドは少数に過ぎず、ロシアで10%、イギリスに至っては3%しか存在しないとするデータも存在する。

男性が金髪の女性を魅力的であると見なすようになったために、この特徴はスカンジナビアへの移住が行われた際にも、性淘汰によって急速に広まったのであると考えられる。

なぜヨーロッパの各人種が、人類の進化の速度としては、かくも最近かつ急速にこのような高確率で金髪(と多様な虹彩の色)を持つようになったのかは、長年の疑問であった。

このような変化が通常の進化の過程(自然淘汰)で起こったのであれば、約85万年の歳月が必要となった筈である[1]。しかし現代の人類は、アフリカからヨーロッパ