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恐山のイタコ

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2022/06/04 (Sat) 08:55:25

恐山のイタコ


恐山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%90%E5%B1%B1

恐山のイタコ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%90%E5%B1%B1+%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3


水上勉の「飢餓海峡」を歩く 下北半島編 
http://www.tokyo-kurenaidan.com/mizukami-kiga4.htm


下北半島の恐山と犯人が辿った牛滝から野平、川内、大湊を歩きます。


<三途の川(恐山)>

 太田浩児の「夢を吐く 人間内田吐夢」では内田吐夢監督が撮影準備のため恐山を訪れたときのことを書いています。

「…こうして故人の霊を呼び小声で対話する巫女は、昼食後訪れた恐山に多い。恐山は日本三大霊山のひとつであり、大湊から車で三、四十分、北西に向かった地点にある。…… 

山麓の緑の草の中に赤や黄の花が点々とあるかと思えば、その先は一木一草の生存すら許されず、灰色の荒涼とした地肌がむき出しになっていて、無常感を漂わす。そのあたり、地獄からの音信のように、ゴポリゴポリと地底から不気味な音をたてて熱湯が湧き出し、土そのものが靴底の皮を通してぬくみを足に伝える。

修羅王地獄、女郎地獄といった恐ろしい名前の史跡があるが、他にも重罪地獄、血の池地獄、賽ノ河原と続く。傍に神秘的な円形の髄、宇曽利山湖があり、ここに注ぐ細い川を三途ノ川という念の入れようである。三途ノ川に太鼓橋がかかり、一組のアベックが、じっと動かずにいた。「心中じゃあるまいな」 誰かがポッリと言った。…」。


本物の小説「飢餓海峡」では恐山は登場しません。

★左上の写真が恐山の三途の川に架かる太鼓橋です。恐山菩提寺の少し手前に有ります。特に三途の川に架かる太鼓橋の雰囲気はありません。


<恐山菩提寺(青森県下北半島)>

 恐山菩提寺も昭和30年代と比べると立派になっています。中にある山門も当時は無かったようです。


「…風に反る卒塔婆、そして、積まれた小石の山の小さい一粒、二粒がとはされる。それを黙然と見守る苔むした石地蔵。漂白された寺の山門は、数百千年の時の流れに耐えた骸骨の仔立を思わせ、その異様な風景は暫く一行のロを閉ざした。

寺の周辺に、数人の巫女が聞き手とともにしゃがみこんでいるのが、遠く見える。巫女はすべて木綿の和服をまとった老女である。こうした場の中で、私の耳には、さきほど大湊の巫女がぶつぶつ呟いた祈藤の声が復活した。おそらく誰の耳にも、わけても吐夢の耳にそうだったに違いない。後日、この作品のダビングの時に、吐夢は音楽の富田勲と計り、御詠歌のアレンジを主題曲の基調とした。…」。


御詠歌をアレンジしたとは思いませんでした。御詠歌というと今の若い人はわかるかな!賛美歌みたいなものですね。


★右上の写真が恐山菩提寺の山門です。左側の赤い屋根の建物が本堂です。この左側奥に”賽の河原”があります。劇場版「飢餓海峡」でもこの”賽の河原”が使われています(犯人がこの”賽の河原”を歩く場面)。TV版は多くの場面でこの恐山菩提寺が使われていました。まず最初は弓坂刑事が歩く”賽の河原”の場面、次は温泉場の場面です(この恐山菩提寺の中にある温泉場が使われています)。


恐山温泉 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%90%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89


恐山温泉
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/osorezan/osorezan.htm
https://wondertrip.jp/1029985/
https://www.kanakazufufu55.com/spa-osorezan/
https://www.food-travel.jp/aomori/osorezan.html


恐山温泉 地図
https://www.bing.com/maps?q=%E6%81%90%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89&form=ANNTH1&refig=4a62f6ba091848c3b132a06b78817490


<恐山菩提寺 宿坊 吉祥閣>

 この恐山菩提寺には宿坊がありましたので泊まってきました。禅宗のお寺ですのでお勤めがありますが、私の時は朝だけでしたので30分ほどですみました。宿坊も大変良くなっていて鉄筋コンクリートのホテル並の設備でした。昔は木造の建物で大部屋たったのではないでしょうか。8月末だったのですがガラガラで一泊12千円でした。

温泉は中にもあるのですが、この恐山菩提寺の参道の両側に木造の小屋風の男女別々の風呂場があります。夜の暗い中を入りにいきます。だれも入っていないと自分で電気をつけます。風呂場の中の写真も掲載しておきます。

★左の写真が夕食です(皆で一緒に食べるのですが、お坊さんと一緒に……をしないと食べられません)。精進料理ですがなかなか美味しかったです(すこし味は濃かった)。献立は時期によって変わるとおもいます。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/mizukami-kiga4.htm


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日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)– 1994/6/1 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087481786


『日本の深層』梅原猛 松岡正剛の千夜千冊 1418夜
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、
かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。
ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。

縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、 大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。


 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。


 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。

 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。

 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。

 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。

 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。

 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。

 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。

 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。

 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。

 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。

 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。

本書の旅程

 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。

 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。

 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。

 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。

 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。

金色堂の一字金輪像

 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。

 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。

 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。

 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。

 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。

 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。

 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。

 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。

卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。

 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。

 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。

 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。

 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。

 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。

 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。

 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。

 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。

 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。

 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。

 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。

 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。

 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。

 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。

 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。

 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。

十一面観音体(左)聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。

 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。

 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。

 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。

 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。

猪の土偶(上)と熊の土偶(下)

津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

サキオリ
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。

 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。

 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。

 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。

 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。

 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。

 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。

たちねぷた 毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。

 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。

 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。

 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。

 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。

 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。

 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。

家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。

 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。

 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。

 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。

 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。

 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。

 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。

 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。

ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。

 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。

 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。

 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。

 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。

 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。

 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。

 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。

 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。

 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。

 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。

 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。

 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。

 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。

 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。

 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。

 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。

 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。

 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。

 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。

 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。

 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。

 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。

 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。

 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。

 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ しねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。

 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。

 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。

 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

2:777 :

2022/06/09 (Thu) 21:17:13


イタコの口寄せ

恐山
http://www.youtube.com/watch?v=-WUGBMDBC2E&feature=related

イタコおろし
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%81%8A%E3%82%8D%E3%81%97


死者の名前や命日などの手がかりを元に、動物の牙や骨のついた数珠を鳴らしながら行う儀式。

1回あたり約20分。謝礼として数千円を払う。

神社で働く巫女とは区別され、口寄せ巫女や村巫女と呼ばれる。起源は不明だが、江戸時代後期に東北を旅した紀行家・菅江真澄の日記に登場する。イタコの語源は「神の委託(いたく)」とも、アイヌ語の「イタク(言うの意味)」とも言われる。

「イタコ」にはどこで会える

 当地域(むつ・下北)では、

恐山大祭(毎年7月20日~24日)と恐山秋詣り(毎年10月、体育の日を最終日とする土、日、月の3日間)の年2回、

恐山境内の中にいるので、入山料を支払って恐山へ入る。

時間は、恐山開山時間(6:00~18:00)。

予約等はなく、順番待ちとなる。また、最近ではこの期間以外にも恐山にいる場合があるらしい。

料金には特に決まりはなく、”気持ち”や”志(こころざし)” で金額や品物を渡すそうだが、目安として一口(一人降ろして、一人につき)3,000円位からといわれている。

”口寄せ”の雰囲気

サウンドFILE1(386K)35秒
サウンドFILE2(276K)24秒

http://www.mutsucci.or.jp/kanko/itako-03.htm

消えゆくイタコ 修行を敬遠・高齢で廃業…今や十数人


盲目の女性が死者を呼び寄せる。「口寄せ」と呼ばれる儀式を受け継いできた東北地方の巫女(みこ)が姿を消そうとしている。厳しい修行が敬遠され、福祉政策の充実で生計を立てる手段としての意味も薄れている。


目の不自由な巫女は、青森県の「イタコ」が有名だが、それ以外の東北各地にも存在していた。

 秋田「イタコ」、岩手と宮城が「オガミサマ」、山形「オナカマ」、福島「ミコサマ」。近親者を亡くした人たちからの要請で「死者の霊を体に乗り移らせ、言葉を伝える」という儀式が「口寄せ」だ。依頼者のタイプに合わせて定型の口上を使い分けているとの見方もあるが、健康や縁談、商売などのよろず相談にも応じている。いずれも国の無形民俗文化財に選ばれている。

 かつて東北には500人以上いたが戦後、廃業が相次ぎ、秋田、山形、福島県では途絶えたとされる。いまは青森、岩手、宮城県に十数人残っているだけだ。

 遠洋漁業の基地である宮城県気仙沼市の唐桑町で「オガミサマ」をしている小野寺さつきさん(85)は14歳の時、病気で視力を失った。20歳から岩手県の巫女の家に住み込みで修行をした後、独立した。この半世紀、海難事故と隣り合わせの漁師町で、「口寄せ」や行方不明者捜しの相談に乗ってきた。多い時には1日に十数人の訪問者があったが、最近は体調を崩し寝たきりになった。

 戦後の一時期まで20~30代の若い女性も珍しくなかった巫女は今、高齢化が進み平均年齢が70歳を超えている。

日本三大霊山の一つ、青森県下北半島の恐山では年数回の祭事の際、北東北各地から「イタコ」が集まってくる。かつては40人近くが参加していたが、近年は4人だけだ。大半の女性が高齢化で足腰が弱くなり、外出が難しくなってきた。

■視覚障害者の環境、変化

 青森県八戸市で63年間、「イタコ」を続けている中村タケさん(78)は「厳しい修行が敬遠され、後継者がいなくなった」と話す。

巫女は少女期から師匠役の先輩巫女の家に住み込み、家事をこなしながら技術を習得する。すべてが口伝えで、断食の一種である「穀断ち」や水ごりもある。修行は3~5年かかり、師匠への「お礼奉公」も義務だ。

 文化庁伝統文化課の石垣悟調査官は「目の不自由な女性を取り巻く環境が大きく変わった」と分析する。巫女は戦前まで、三味線と歌で各地を巡り歩いた「瞽女(ごぜ)」などとともに視覚障害者が社会で生きるための重要な仕事だった。ところが、戦後は盲学校への就学が義務化され、修行を支える徒弟関係が成り立たなくなった。音声ソフトの普及でパソコンへの入力作業が簡単になり、視覚障害者の職業選択の幅も広がってきた。眼科医療の進歩で幼少期の失明も減っている。

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青森の恐山のイタコについて


1 名前: こわい 投稿日: 2000/07/16(日) 11:58

青森の恐山のイタコと呼ばれる霊媒師達は本当に死者の霊を自分の体に落として遺族に
話が出来るのでしょうか?知ってる人教えてください。

2 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/07/16(日) 13:12

本当に出来る人も居る・・と聞いた事があります。
まあ・・あくまで噂ですけどね。

3 名前: いたろう 投稿日: 2000/07/16(日) 14:19

ある男が恐山のイタコに死んだ女房の口よせをしてもらった。 女房が降りてきて、

「私は、あなたより○○さんの方が好きで、関係もっていた」

というような内容を話した。 男は、イタコを死んだ女房だとマジで思いこみ、逆上してその場でイタコを絞め殺した。
恐山で本当にあった話です。

5 名前: 名無しさん@おっぱいがいっぱい 投稿日: 2000/07/16(日) 17:50

「すいません友人の○○を呼んで貰えますか?」
「仏さんの没年月日は?」
「昭和○○年○月○日、交通事故で死んでます」

ジャラジャラと数珠を鳴らすと経を唱えしばらくすると何かが降りてきたようで歌うように話し始めた・・・・・
実は呼んで貰った友人の○○は今でもピンピンと生きておりイタコが本物かどうか試したのです、

9割方のイタコは偽物でその能力はかなり低い物です、でも中には

「これ仏さんでねぇ、悪戯は止めてくれ」

とズバリ言い当てるイタコも居ます。


12 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/07/18(火) 22:32

ホンモノのイタコにあいたけりゃ、冬、行け。

籠もってるイタコがそうだ。見つけだせるかな?

閉山されてるから、途中で凍死するかも知れないし、間違いなく幽霊に会える。 それでも行くなら、止めはしないが。


ホンモノのイタコはすごいよ。

当人しか知らない事、例えば銀行の暗証番号を当てたもん。誕生日とか、簡単な数字じゃないぞ。 俺と、死んだ人の体重をあわせた数字だったから。

それがビンゴだったのは驚いた。それに、メッセージを聞く事も出来て、すっきりした。

ホンモノのイタコに間違いなく会いたかったら、冬、行け。 ただし、命の保証はないぞ。


36 名前: あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日: 2000/09/10(日) 02:24

家では毎月お払い行ってるけど(あおもりにいないおでしさん)
その人は新聞にも載った行方不明者のいどこを突き止めたよ。

新聞は汚いからその辺を伝えなかった(作りと思われたくないから)。 みんなメディアで知ったのはうそだよ。
ほんとにあった話はメディアに載らないから。

39 名前: あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日: 2000/09/10(日) 02:35

入院先の病院名をあてたイタコが一人います。調べようはなかったって話。
千葉の旅館の女将から聞きました。
http://piza.2ch.net/occult/kako/963/963716325.html

イダコ祭り


去年亡くなった義母をおろしてもらいに親戚と一緒に、青森県おいらせ町のイダコ祭りに向った。普通はイタコだがここではなまってタが濁音のダになって「イダコ」とよぶ。イダコ祭りは午後1時からと聞いていたので、途中、八戸で昼食をとり午後1時過ぎた頃においらせ町の法運寺に到着した。一人200円の入場料(下足代)を支払い、入り口で手渡されたビニール袋に履物を入れて手に持ち、およそ100畳近い本堂の中に足を踏み入れると、すでにイタコの口寄せを聞く為に集まった人々で一杯だった。中年のカッチャ(おかあさん)もいるが見た所ほとんどがバッチャ(お婆さん)である。横になって仮眠をとったり、お菓子をたべたり、それぞれ畳の上でイタコを囲み自由な姿でくつろぎ順番待ちをしている。バッチャ(お婆さん)の住む霊界に迷いこんだような一種独特な非日常的な風景である。

 近くのバッチャ(お婆さん)に話を聞こうとしたらどうも様子がおかしい。素性のはっきりしない者にいきなり話しかけられたのでバッチャ(お婆さん)は驚いて引いてしまったらしい。それと長髪の男を身近で見かけることがなかったのか私を男か女か判別できなかったらしい。目もそうとう悪いのかイルカのTシャツのお陰なのか50過ぎの中年男を20歳の大学生と思ってくれた。それでも思いっきり地元の訛りをいれて話すと安心したのか口を開いてくれた。


イタコの順番待ち


 「早朝4時から来て待っていた。」という。すでになんと8時間も経過している。それでも誰かに先を越されたらしい。

「1年に一度は先祖の声を聞かないと落ち着かないので、毎年欠かさず来ている。」
「ほとんどの人が死んだ旦那や両親、兄弟姉妹、子どもと次々におろす。」
「ほとけを一人おろす度に千円をはらう。」


恐山では一霊三千円なので何故か法運寺は二千円も安い。昔は二十銭、百円だった。

おそらく恐山は全国からバスで大挙してやってくる観光客を相手にしているので値上げしても客足は落ちず、恐山と違って法運寺はどちらも地元なので口寄せもリピーターが多いからではないかと思われる。それでも大抵5~6人も降ろすのでバッチャ(お婆さん)達にとっては結構な金額になり、さらに値上げすればかなりの金銭的な負担になってしまう。

「一人で何人もほとけを降ろす人が多いので待つ人ごとに30分以上かかるのがざらだ。今からだとあんたたちは夜になるのではないか。」という。

イタコが何人いるか数えてみると6名いてそれぞれ膝元にメモ帳が置いてある。順番を待つ人が多いのでそこに名前を記入することになっている。すでに名前が20名ほど記入済みである。

衰退するイタコ祭り


 イタコは恐山が有名だが、恐山にイタコが住んでいるのではなく、普段は青森に散らばって住んでいる。イタコが恐山の大祭の時だけ各地から集まって来るのである。

青森県は昔、右側は南部藩で左側は津軽藩に分かれていた。以前は盛んだったイタコの市も最近では恐山の他に津軽の川倉地蔵堂と南部の法運寺の三カ所だけだという。法運寺の本堂は明治14年に建立され翌年の15年よりイタコの口寄せがはじまり、その歴史は昭和10年頃から始った恐山よりも古い。

法運寺に集まったイタコの人数は最盛期80人もいたが昭和29年には50人、昭和40年に31人で今年は6人である。イタコはあきらかに衰退の一路をたどっている。

シャーマニズムの形態

 最も古い日本の宗教の形態はと問えば仏教でも神道でもなく、それはシャーマニズムである。シャーマニズムはおそらく数十万年も遡ることができる人類最古の宗教的伝統でもある。世界中の狩猟採集民族にはあらゆる事物には精霊が宿るというアニミズムの信仰がほぼ共通して見受けられる。そして霊的存在と交流する人々をシャーマンと呼ぶ。

エリアーデによるとシャーマンにはトランス状態になって肉体から抜け出して霊的存在と交流して帰還するエクスタシー(脱魂型)と霊がシャーマンの肉体に憑依するポゼッション(憑依型)がありイタコは憑依型である。


東北地方におけるシャーマンが誕生するプロセスには2つのタイプがありイタコ系とカミサマ系に分かれる。

カミサマ系はある日、突発的に神懸かり、シャーマンの病とよばれる変容をへて、祈祷師としてデビューする。信者を持つ新興宗教の教祖タイプである。南部では屋号をつけて○○のカミサマと呼ばれる。津軽ではゴミソと呼びカミサマ系は死者の口寄せをせず予言や託宣、占い、災難を祓う祈祷を主に行なう。

イタコ系はほとんどが盲目の女性でイタコの師匠に弟子入りして一定期間修行して、死んだ人の霊をおろさせる口寄せの技術を学んで自立する。


イタコの口寄せ

 イタコの順番待ちが22番で遅くなるのは明らかなので、夕方まで外に出て海に行くなり、ゆっくり温泉につかるなりすることにして法運寺を後にした。三沢市内の200円の温泉につかり、さっぱりした所でとりあえず5時頃戻ってみると待っているのはちょうど後一人で、次にはあっけなく順番が回って来てしまった。順番待ちのメモ帳を見るとかなりの人がキャンセルしている。どうやら待つことを嫌って、あきらめたのか、すぐに口寄せ可能なほかのイタコに移動したようだ。


中村タケ

私たちが口寄せを依頼したのは中村タケ巫女である。

現在75歳、3歳の時に麻疹で失明して、13歳のころイタコの修行に入り、15歳で法運寺でデビューした、この道約60年のベテランである。

CD「日本語を歌・唄・謡う」(アド・ポポロ企画、制作)では人間国宝の中村鴈治郎や桂米朝とともに中村タケ巫女の口寄せも収録されている。マスコミに登場することもあるが、かといって尊大なところはなく人柄はいたって純朴で謙虚だ。


昔の口寄せ


昔の口寄せには決まりがあり「百日過ぎているかどうか?」をイタコは問題にした。

百日すぎなければ霊はよんでも答えず、別な霊を呼んでしまうからだという。

しかし厳格に定められていたこの決まりも守られなくなり最近はなんでもかんでも降ろすイタコもいるようだ。

明治以前の仏おろしは一回の口寄せで話が出来なくなるくらい消耗し、1日に1~2回が精一杯だったらしい。

特に恐山はあまりにも有名になったために、商売目当てにイタコのほかにカミサマやゴミソも参加するようになった

短時間で現金収入が得られるので、口寄せの時間も2~3分と短くなり、本来の地元のイタコによる死者の巫儀の意義はすたれ、観光客相手に簡単な口寄せで済ましてしまうお粗末なものになってしまった。

 イタコはかつては地元の人々との繋がりの中で部落のオシラサマの儀礼や正月の恵比寿まわり、農作物の作柄を占ったりと濃密な関係を保っていた。

口寄せには死口(しにくち)といって行方不明になった死者の霊を憑依させ「ワ(私)のからだはどこそこにある。」と遺体の場所を遺族に告げることもあった。

ほかに生口(いきくち)といって行方不明の生霊(いきりょう)を憑依させ居場所をつげることさえあった。生口(いきくち)は最も辛く3時間も汗だくになりながら全国の神さん稲荷さんにお願いして四方八方手を尽くして探してから魂を抜きイタコの身体に寄せる、

そうしてタコ部屋に監禁させられていた行方不明者をあてたイタコ(三浦かしの)もいた。

昔の東北は津々浦々までイタコが大勢いた。かつては生者と死者の境界が分たれてはおらず生と死は連続していた。その名残りをイタコは今に伝えている。


形骸化した口寄せ


間山タカ(1988年恐山)

嘘のほとけでも降ろすからイタコはインチキだといわれるがイタコにもピンからキリまであり、よく当たると評判がたつイタコには長蛇の列ができた。

特に最も評判が高かったのは伝説のイタコ間山タカだった。

しかし優れたイタコもよる年波には勝てず次々と他界しイタコの数はかなり激減した。真性のシャーマニズムを期待して出かけても恐山でのほとけおろしは型にはまった口寄せしかみられないのが現状である。

恐山の口寄せパターン


イタコが数珠を鳴らしながら仏おろしの祭文を歌う。


「あーいーやーあー」
「今日は呼んでくれてうれしい。」
「本当は死にたくなかった。」
「家族の健康を願っている。」
「夫婦、兄弟、親子、仲良く暮らしてくれ。」
「某月某日、喜びあり。良いことがある。」
「某月某日、交通事故に気をつけろ。戸締まりに気をつけろ。」
「今日はおまえに会えて良かった。喜んで帰る。」


イタコが数珠をじゃらじゃら鳴らす。
はい3000円です。


イタコの修行

 昔の全盲の女性はイタコになるしか生活の道はなかった。盲目の娘は特に霊能力がなくとも、まわりの勧めにより、しかたなく、イタコの師匠のもとに弟子入りするのである。入門は早いほど良いとされる。

J・ピアスによると7歳くらいまでの子どもは透視、テレパシー、予知能力がありESPも多数報告されるという。そして7歳から14歳 ころまでの子ども達は暗示にかかりやすく、8歳から11歳がその頂点だといわれる。子供は大人の様に世界と自我との境界がはっきりと確立されてはいない。自我がまだ未発達の方がイタコの世界感を受け入れやすいのである。

師匠も弟子も盲目なので般若心経や観音経などのほか三十から四十のイタコの巫歌を口うつしでおぼえる。様々な仏教、神道、修験道、民間宗教の神々、権現、大明神、菩薩、諸天善神の名前とダラニ、祝詞をおぼえなくてはならず、おぼえが悪く10年もかかったイタコもいたという。


イタコの入魂儀礼

 仕上げの入魂儀礼は「大事ゆるし」と呼ばれる。祭壇が祀られている行場で弟子に神懸かりが訪れるまでおこなわれる。食事は精進で塩断ち、穀断ちをして干し柿、干し栗、などの果実で餓えをしのぐ。水垢離の行場にはしめ縄がはられ、師匠も弟子も真新しい白装束に5尺のはちまき、白足袋を身につけ、冬でも暖をとらずに食事前に日に三度、毎日水を三十三杯かぶる。マントラを唱えながら右回りにぐるぐる旋回したり、気合術師を呼んで気合いをかけることもあったらしい。イタコの弟子は極度の疲労と緊張の中ではげしく身体を震わせて失神する。師匠はその時に「何がついたか?」と問いかける。そうして答えた神仏の名がイタコの生涯の守護霊になるのである。
 

 最後に「師匠上がり」といって商売道具の数珠を譲り受けて師匠から独立するのである。イタコの数珠はイラタカ数珠と呼ばれ普通の数珠と違い独特である。珠は無患子(むくろじ)の実で子安貝、熊の爪、獣の牙と角が使われている。イタコはこのイラタカ数珠をじゃらじゃらならしながら「仏おろしの祭文」を語って仏に来てもらうのである。


シャーマンの病


 イタコの入魂儀礼も時代と場所によって多様であるが、いずれにしても神懸かりになる為に大変な苦行をする。寒い冬の水垢離は冷気に耐えかねて逆に身体に熱を発生させる。下半身に発生した熱が背骨を通って頭まで達成して変化が生じるのである。蛇や龍はこの熱エネルギーの象徴である。不動明王が右手にもつ、倶利伽藍(くりから)の剣に蛇が巻きついているのは、このことを表しているように思える。正常な意識では耐えられないので思考から切り離すため祝詞や祭文といったマントラを延々と唱え続ける。イタコは変成意識状態の中で神や仏と出会うのである。

 右耳の上にある大脳の右側頭葉は魂の座と呼ばれている。自己と意識の接点があり、右側頭葉を刺激するとテレパシー、光のヴィジョン、音の幻聴、人格の変容、体外離脱体験が起きることが解っている。この領域に脳の損傷がおきると魂の抜けた自動機械の状態になり、さながら生きる屍のようになる。


イタコの入魂儀礼は堪え難い疲労と緊張によるストレスが引き金になり大脳の右側頭葉の回路にスイッチが入るのだ。儀礼はスイッチが入るまで続く。

そうして右脳の中から声が聞こえるようになって、はじめてイタコが誕生するのだ。

イタコ系は人為的だがカミサマ系の教祖達は人生の中で極端な不幸、災難、困難を経験して発狂寸前まで追い込まれる。病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。

日常を超えたこのような体験はシャーマンの病と呼ばれる。

意識の成長・進化


 体験を否定して自我の崩壊、分裂が起こることもある。自我がある程度発達していないと恐怖のあまり退行してしまうのだ。閉じこもってそこから出て来ようとしなくなる。退行してしまうと、自我を越えることも社会にも適応できない状態に置かれてしまう。

 体験が肥大化すると、自分は凄い人間なんだとうぬぼれてしまう。教祖が信徒に攻撃的になったり人に対して抑圧的、支配的になってしまうのは抑圧された無意識のエネルギーに巻き込まれてしまっているからである。カルトや新興宗教の教祖にこのようなタイプがいるので注意が必要だ。

 私たちは自分の思考や感情を波動として周囲に放射しているので自我の境界が薄くなった人は気をつけなくてはいけない。霊能や特殊な能力をえて人に認めてもらいたいというのは自己評価欲求が満たされていない段階なので、問題を生じやすいのである。

 不思議なヴィジョンを見たり、異常な肉体の感覚を経験したり、このような普通では考えられない体験を大いなる自己に統合できれば意識の成長・進化がおこる可能性がある。

 それには抑圧されたエネルギーを解放し、体験を否定も肯定もせずただあるがままに見てゆく観察的な自我を育てることが必要だ。

http://homepage.mac.com/iihatobu/work/itako.html#anchor11
3:777 :

2022/06/09 (Thu) 21:48:20

消えゆく「死者との交信」―― 青森のイタコを訪ねて 12/29
http://news.yahoo.co.jp/feature/466


動画アリ


あの世に旅立った魂を降ろしてもらい、遺された者はその魂の言葉を聞く。

「どうして突然、逝ったのか」「思い残したことはないの?」——。

逝った者と遺された者。

東北に根付いたイタコはその両者の間に身を置き、魂の言葉をやりとりしてきた。

イタコとは何者か。魂を呼び寄せ、その言葉を聞く「口寄せ」とはー。

最盛期の昭和40年代に300人以上いたとされるイタコはいま、6人しか残っていないという。晩秋の東北でイタコに会った。(Yahoo!ニュース編集部)

和室に老女が座っている。白装束。顔にも手の甲にも深いしわがある。

現役最高齢のイタコ、中村タケさん(85)だ。

タケさんは目が見えない。かつてイタコは、盲目の女性がその役を担った。
いま、盲目のイタコはタケさんだけだ。


向き合った女性に「亡くなったのは、いつですか?」とタケさんが問うた。
午後の太陽が窓越しに部屋を照らしている。


死者の魂を降ろす「口寄せ」。
依頼した庭田美子さん(左)は頭を下げ、イタコに向き合う(撮影:田川基成)


その女性、庭田美子さん(59)も正座していた。

「4年前です」。庭田さんが父の命日や名前などを告げると、タケさんは座ったまま背を向け、祭壇に向き直った。


「口寄せ」が始まる。

死者の魂を降ろし、声を聞く


青森県八戸市の山間にある南郷地域は、古くからイタコ文化が栄えた。タケさんは今もここで「口寄せ」を行う。先立ったあの人は、心の中で何を考えていたのか。それを聞くために、人々はタケさんの家に足を運ぶ。


八戸市近郊の庭田さんは、4年前に亡くした父の思いを知りたかった。


イタコの中村タケさんが住む八戸市の南郷地域。依頼者の庭田さんの父は、この空のどこかにいる(撮影:田川基成)


高校3年生の時、庭田さんが「農家を継がない」と宣言して以降、娘と父はほとんど口をきかなくなったという。娘はその状態で家を出て、結婚し、子どもが生まれた。孫を連れて帰っても父の冷淡さは変わらない。娘の頑固さも父譲り。歩み寄る言葉を互いに交わさぬまま、父は他界した。


あれ以来、庭田さんには、ずっとわだかまりがある。どんな事情があったにせよ、父は父。自分の夫や子どものことを本当はどう思っていたのか。それが知りたい。厳しい言葉でもいい。父の言葉を聞きたかった。

「口寄せ」、始まる


庭田さんに背を向けたまま、タケさんの「口寄せ」が始まった。


「ここに申し願い頼み奉る 極楽の役人どもに 今 呼びしたい方の道を 必ず与えて下さることを…」


「口寄せ」で経文を唱え続けるタケさん(撮影:田川基成)


白装束が時に左右に、上下に揺れた。眉間にしわを寄せ、強く目をつむる。苦しそうにも映る。ゆっくりした、まさに絞り出すような声で経文。この地方だけの方言か、イタコしか使わない言葉か。傍らで耳を傾けても、経文の意味を解することは難しい。


「降りてきてください」


口寄せの間、経文が続く。白装束にも経文(撮影:田川基成)


15分ほどが過ぎ、タケさんはそう口にした。経文の、最後の言葉だ。


タケさんが向き直った。咳払い。素早く数珠をこする。仏になった庭田さんの父。その思いがタケさんーイタコの口を突いて出ようとしていた。

亡き父の言葉はー


「思いそめての大難だ(思いがけない災難があったのか)。心寄せて喜びのだつきに(みんなが集まって何か良いことがあったのか)」


降りてきた父の、最初の言葉だった。そして、一言ずつ、区切るような言葉が続く。


「(仕事を)頑張ることを人生の一番の願いとして暮らした時代もあったが」「あんたたちの来る楽しみを心の喜びにしながら」「(家族と会う)喜びを届けてみたかったという心残りはあるけれども」「何と言葉に交わせばよろしいか(言葉にすることができなかった)」


晩秋の八戸市で庭田さんは亡き父の言葉を聞いた。涙が出た(撮影:田川基成)


イタコの口を借りた父の言葉は、およそ20分続いた。途中から顔を上げて聞いていた庭田さん。彼女は和室を去る前にこう言った。


「涙が浮かびました。(自分が自宅に)帰れば、(父は)うるさがって、孫の顔なんか見たくない、という感じだったので。(本当は)そう思ってくれていたんだ、って。しみじみと思いました」


父の言葉を聞いている間、確かに、庭田さんの目はうるんでいた。

あの世はありますか?


タケさんには、仏が降りて来た時の記憶はない。何を喋ったのかも覚えていない。あるのは、仏が降りた瞬間に、背中のあたりがもやもやと温まるような感覚だけだ、と言う。


國學院大学大学院特別研究員の大道晴香さんによれば、イタコは神仏の声を聞く巫女(みこ、シャーマン)の一種であり、盲目や視力の悪い女性が主にその役を担ってきた。巫女文化は東北に古くから広く存在し、イタコ以外にも、オガミサマ(岩手県・宮城県)、ワカサマ(福島県)などがいた。しかし、いずれの巫女も、既に途絶えているか、数名を残すだけだという。


カメラは確かに口寄せをとらえた。巫女となったタケさんはレンズの前で、庭田さんの父になった。死者との交信である。しかし、そんなことが本当にできるのか。失礼だとは思いつつ、盲目のイタコに尋ねた。


あの世は「ある」。イタコのタケさんはそう言う(撮影:田川基成)


——仏様なり、神様なりが実際に降りてくるんですよね?


「はい、降りてきます」


———敢えて聞くんですが、あの世は本当にありますか?


「それはね、ある、ある。あると思います。私も終わって行ってみない(いない)から、ね、あの、こういうとこだよ、って言うことはできないけど、でも、あの世があるから、みんな、仏さんになれば行くとこに行って、仏という道をちゃんと守って暮らしている。私たち(イタコはそう)伺ってきたから、それを信じてます」

水垢離、断食。厳しい修行


タケさんは3歳で全盲となり、13歳でイタコに弟子入りした。弟子は、師匠の家に住み込み、学ぶ。修行は長ければ10年ほど。身を浄めるために冷たい水を浴びる「水垢離(みずごり)」や「穀断ち」(断食)などの苦行もある。目が見えないため、100近い経文はすべて耳で覚える。タケさんはおよそ2年で独り立ちした。


口寄せで使った物、その時の仕草。あれは何だったか。それもタケさんに尋ねた。


「口寄せ」の時に背負う「オダイジ」。開けたことはない(撮影:田川基成)


背負っていた、布で包まれた竹筒は「オダイジ」と呼ばれる。独り立ち直前の「師匠上がり」の際、師匠が与える。竹筒の中に入っているという巻物は、一度も取り出したことがない。一度でも開くと、巻物は「二度と収まらなくなる」と教えられたからだ。


数珠をこすって鳴らすのは、魂が降りる場所を知らせるためだ。数珠に取り付けた六文銭は、三途の川を渡るときの船賃である。


数珠に取り付けた六文銭。こすって音を出し、魂の降りる場所を知らせる(撮影:田川基成)

厳しい自然が育んだ文化


「カミサマ」と言われる青森県の他の巫女などと違ってイタコには明確な特徴がある、と國學院大学の大道さんは言う。イタコは「師匠のもとでの修行」が必須であり、例えば、ある人が突然、「仏が降りてきた」などと言っても、イタコになれるわけではない。江戸時代まで師匠の系譜をさかのぼることができるイタコもいる、と大道さんは指摘する。


東北の人々は昔から、厳しい自然に悩まされてきた。貧しい土地で作物が取れるのか、いつ漁に出ればいいのか。そんな日々の心配事にも、イタコは「占い」や「お祓い」で応えてきた。口寄せだけが、イタコの役割ではなかった。


その文化も最近、大きな曲がり角にある。八戸市在住の郷土史家で、長年イタコの実態調査を進めてきた江刺家均さんは「イタコは現在、6人しかいません」と言う。


イタコ文化について語る八戸市の郷土史家、江刺家均さん(撮影:田川基成)


江刺家さんによれば、東北には「しねば、お山さ行ぐ」という言い伝えがある。特に青森県の下北地方では、死者の魂は「恐山」に向かうと信じられてきた。そうした死生観が、イタコ文化を育んだ。しかし、50年前に60人ほどだったイタコは激減した。「自分が生活していくのに精一杯で、師匠になるイタコさんがいなくなった」と江刺家さん。恐山に口寄せの場を設けるイタコはもう、2、3人しかいない。


大道さんも、時代の変化を強調した。東日本大震災の後、宮城県の人たちから新たな依頼者が訪れるなど、口寄せへの需要は高いまま。しかし、イタコ減少の流れは変わらない。「福祉、医療制度が発展したことが大きい。目が見えないからといって、イタコを職業に選ぶ人は圧倒的に減りました」と大道さんは言う。

「最後のイタコ」、その姿は


イタコは、このまま消えるのだろうか。


八戸市に住む松田広子さん(44)を訪ねた。最年少のイタコで「最後のイタコ」とも呼ばれる。松田さんは高校生の時、病院でも治らない症状をイタコに治してもらったことに心を動かされ、この道に入った。そのイタコが後に松田さんの師匠になる。


「最後のイタコ」と言われる松田広子さん(撮影:田川基成)


「いま考えると」と松田さんは言う。「免許がないので不便(な職業)なんですけどね。毎月決まった給料が入ってくるわけでもないですし」。依頼者に地元の住民は少ない。「東京からが来る方が多いですね。沖縄や北海道からも来ます」。全国各地からネットを通じて問い合わせがあり、そして八戸に足を運んで来る人がほとんどだ。今は毎月、10日ほどイタコの仕事口を手掛ける。

「オシラサマ」のお祓い


松田さんには2人の子どもがいる。大将君(7)と、樹理ちゃん(6)。正座した2人に対する「お祓い」の様子を見せてもらった。松田さんの両手には、家の神様「オシラサマ」。二つあるのは、男女の対を意味している。


松田さんの両手に「オシラサマ」。男女の対だという(撮影:田川基成)


それを子どもたちの背中や肘、頭などに触れさせていく。“悪い虫”がつかないように、である。オシラサマを遊ばせる「オシラサマアソバセ」も見せてもらった。その家の1年を占う儀式だ。これもイタコの役目であり、古くから東北に根付いている。


「オシラサマ」を手にする松田さんの子どもたち(撮影:田川基成)


松田さんは樹里ちゃんに後を継がせるつもりはない。「もう神様仏様のせいにする時代でもないですし、イタコで生きていくのは難しいと思います」。松田さんが弟子を取らなければ、イタコの習俗は途絶える可能性が高い。

83歳のイタコ「弟子を取らなかった」


八戸の市街地と港を結ぶ国道を車で走ると、イタコの電柱広告が目に入る。タテに大きく「小笠原イタコ」の文字。昔はあちこちにあった電柱広告も、今はここしかない。


広告の主、小笠原ミヨウさん(83)は20歳でイタコの道に入ったという。10年ほど前までは、恐山でも口寄せの場を設けていた。最近はそれも難しくなった。ぜんそくが悪くなり、イタコとして動くことができないからだ。カメラ取材の日も「これでも治ったほうです」と言いながら、時々激しく咳こんだ。


ミヨウさんは弟子を取らなかった。「自分が(修行で)つらい思いをしたから、同じ思いをさせたくないと思って」のことだ。そう、イタコは誰でもなれるわけではないのだ。


夜明けの八戸港。市街地とここを結ぶ間にイタコの小笠原ミヨウさんはいる。静かな海も時に荒れる。その自然の中で、人々はイタコを頼った(撮影:田川基成)


自身も覚えていない、数え切れないほどの死者との交信。それを手掛けてきたミヨウさんは、あの世をどう捉えているのだろうか。新幹線が八戸を通る時代にあっても、あの世を信じているのだろうか。


「私も死んでないから、そっちの世界は分かりません」


イタコでも分からない?


「分からない。でも、私はこれ(イタコ)で良かったと思っています。私は神様仏様のおかげで、今日まで救われたと思っています」


————あの世から魂を降ろし、亡き者の言葉を聞く。イタコがつくる習俗の世界。その声と音と共に、イタコのいる空間を動画で感じ取ってほしい。あなたにも。
http://news.yahoo.co.jp/feature/466
4:777 :

2022/06/09 (Thu) 21:49:38


シャーマンの病

 イタコの入魂儀礼も時代と場所によって多様であるが、いずれにしても神懸かりになる為に大変な苦行をする。寒い冬の水垢離は冷気に耐えかねて逆に身体に熱を発生させる。下半身に発生した熱が背骨を通って頭まで達成して変化が生じるのである。蛇や龍はこの熱エネルギーの象徴である。不動明王が右手にもつ、倶利伽藍(くりから)の剣に蛇が巻きついているのは、このことを表しているように思える。正常な意識では耐えられないので思考から切り離すため祝詞や祭文といったマントラを延々と唱え続ける。イタコは変成意識状態の中で神や仏と出会うのである。

 右耳の上にある大脳の右側頭葉は魂の座と呼ばれている。自己と意識の接点があり、右側頭葉を刺激するとテレパシー、光のヴィジョン、音の幻聴、人格の変容、体外離脱体験が起きることが解っている。この領域に脳の損傷がおきると魂の抜けた自動機械の状態になり、さながら生きる屍のようになる。


イタコの入魂儀礼は堪え難い疲労と緊張によるストレスが引き金になり大脳の右側頭葉の回路にスイッチが入るのだ。儀礼はスイッチが入るまで続く。

そうして右脳の中から声が聞こえるようになって、はじめてイタコが誕生するのだ。

イタコ系は人為的だがカミサマ系の教祖達は人生の中で極端な不幸、災難、困難を経験して発狂寸前まで追い込まれる。病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。

日常を超えたこのような体験はシャーマンの病と呼ばれる。


意識の成長・進化


 体験を否定して自我の崩壊、分裂が起こることもある。自我がある程度発達していないと恐怖のあまり退行してしまうのだ。閉じこもってそこから出て来ようとしなくなる。退行してしまうと、自我を越えることも社会にも適応できない状態に置かれてしまう。

 体験が肥大化すると、自分は凄い人間なんだとうぬぼれてしまう。教祖が信徒に攻撃的になったり人に対して抑圧的、支配的になってしまうのは抑圧された無意識のエネルギーに巻き込まれてしまっているからである。カルトや新興宗教の教祖にこのようなタイプがいるので注意が必要だ。

 私たちは自分の思考や感情を波動として周囲に放射しているので自我の境界が薄くなった人は気をつけなくてはいけない。霊能や特殊な能力をえて人に認めてもらいたいというのは自己評価欲求が満たされていない段階なので、問題を生じやすいのである。

 不思議なヴィジョンを見たり、異常な肉体の感覚を経験したり、このような普通では考えられない体験を大いなる自己に統合できれば意識の成長・進化がおこる可能性がある。

 それには抑圧されたエネルギーを解放し、体験を否定も肯定もせずただあるがままに見てゆく観察的な自我を育てることが必要だ。
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