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中国共産党でただ一人共産主義者だった周恩来がやった事

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2022/06/04 (Sat) 06:28:37


中国共産党でただ一人共産主義者だった周恩来がやった事


周恩来
2009年05月13日 (水) 22:26
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-223.html

 周恩来

 初代中華人民共和国総理として1949年から76年まで、27年にわたって中国を率いた周恩来を知らぬ者はいないだろう。
 とりわけ、50~70年、日本訪中団のほとんどの人たちと面会し、記念写真に収まっているから、彼を直接見た経験のある日本人もたくさん存命している。
 その類い希な誠意と人間的な大きさ、優しさ、暖かみに触れるなら、周恩来を嫌いだと思うような人はほとんどいない。中国でも同じで、歴史上のあらゆる指導者のなかで、もっとも深く敬愛されている人である。
 中国では敬愛する偉人を神として祀る風習がある。古くは越の范蠡(陶朱公)諸葛亮・関羽・張良などだが、周恩来も新しい民衆信仰として周恩来廟が建てられて祀られているようだ。

 周恩来は、1898年3月5日、まだ清時代に、江蘇省淮安市で官僚地主の家に誕生した。清が滅び中華民国となった15歳のとき天津の南開中学校に入学し、孫文が起こした辛亥革命に触れる。
 1917年、日本に留学、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科に通学。こうした体験から、周恩来は日本に対し、特別の親しみを抱いていたようだ。

 1920年パリに留学する。彼は中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部書記となった。この時代の仲間には、李立三や小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。
 ここで、中国政権を見る上で大切な視点が明らかになる。
 中国における読書階級、計画的、組織的な行動をシュミレーション可能だったインテリ階級は、半奴隷(農奴)社会であった中国にあっては、地主官僚階級子弟しか存在しなかった。
 農民に教育の機会は与えられず、大部分が文盲であり、黄巾党・青幇・紅幇のような宗教的結社・犯罪結社に組織されることはあっても、政治結社は官僚・地主子弟の独壇場であった。
 そして、そうした特権階級は、客家出身者が多く、洪秀全・孫文・宋慶齢姉妹・朱徳・彰徳懐・葉剣英・郭沫若・蓼承志・郵小平・李鵬・朱鎗基・李登輝・蒲万長氏・許信良・呉伯雄・シアヌーク・アキノ・リーグァンユー・ゴーチョクトンらは、すべて客家である。
 客家は華僑の主役でもあり、その経済的実力が抜きんでていた。この経済力を背景に、子弟たちを欧米日各国に留学させ、中国の指導階級になっているのである。
 ここで、我々は、中国共産党、建国の元老たちの正体が、すべて官僚地主階級出身者である事実を見ておかねばならない。

 第一次国共合作が成立した1924年に帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌年、五・四学生運動時代の恋人穎超と結婚した。26年、上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。
 その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。31年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。(ウィキ引用))

 周恩来は、建国以来、表向き毛沢東の政治方針に従い続けたが、実際には、紅衛兵の狂信的な横暴に対して、身を挺して阻止する場面が多々あった。
 例えば、最期の清国皇帝溥儀を殺害させないために、北京植物園の庭師に変身させ、恐ろしく強靱な妻を嫁がせて身を守らせ、文革をやり過ごさせた。川島芳子を守ったのも彼だ。
 八路軍に対立した新四軍派の幹部がまとめて殺戮されそうになると、劉少奇を公式に批判することで、党の処分を名目に、その命を守ろうとした。
 紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。
 外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。

 しかし限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。
 孫維世は毛沢東の妻である江青の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われるが、その差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。 
 しかし周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する“ソ連修正主義者のスパイ”という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言も残されており、この様な仕打ちを受けてまで毛沢東に追従し続けた彼を批判する声は多い。
 (ウィキ引用、筆者は、この事件について詳しく知らないが、後に小平が、辛い思いをこらえて、本意ではないことを、やらなければ他の人を守れなかったと、この時期の彼の立場を弁護している)

 転機となったのが1971年の林彪事件であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバ2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。
 ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
 
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったと言う。
1972年、膀胱癌が発見され、1976年北京の解放軍第301病院で死亡した。
 後に筆者は、このとき毛沢東が病院に対して出したとされる指示を知り、我が目を疑った。
 それは、「周恩来を治療してはならない」というものだった。
 それは、おそらく毛の名を使った四人組、江青の指示によるものだっただろう。周恩来の最晩年は、四人組との熾烈な戦いに翻弄される毎日だった。

 彼の死後、民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを四人組当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。
 中国国民は文革の混乱に嫌気が差しており周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し失脚をはかった四人組による「批林批孔運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は復権した小平を事態を収拾してくれる人物として喜び四人組に反感を持っていた。
 ゆえに1976年1月の周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。

 特に4月4日は清明節という中国のお盆にあたる日で、2万人近くの群衆が集まった。人々は周恩来に対し花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。
 数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などの形で始まっていたが、かえって逆効果となる。ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。
 四人組は党中央を動かし、これを反革命行為ときめつけ実力行使に出る。この犠牲者や逮捕者は不明だが、発砲が行われ、第二次天安門事件と同じ数千名の死者が出たとも噂されている。
 以来、中国民衆は周恩来に対する敬意を表だって示せば当局の弾圧を食らうことになり、密かに周恩来廟を建立して、崇拝するという風習が生まれることになった。

 この事件で、四人組は耄碌した毛沢東に取り入り、小平が責任を問われて処罰され失脚したが、後に76年の毛沢東死亡後、葉剣英や華国峰らによって、四人組はやっと追放され、小平も復権した。
 これで数千万人の知識人犠牲者を出したと言われる文革は終焉を迎えた。また四人組の極左的大殺戮の反動により、小平の指導した開放路線は、逆に右傾化した極端な資本主義化を招くことになった。

 近世中国権力史にあって、文革は知識人、党実権派に対する巨大な革命戦争といわれたが、なぜ、そんな事態が起きたのか? といえば、最初に述べたように、中国革命勢力の指導者は、全員、地主・官僚階級の子弟だったからだ。
 文字を読み、論理的思考訓練をした階層は、特権階級しかいなかったのだ。したがって、革命後、政権が安定すれば、再び自分たちの出身階級の利益を回復しようとする傾向があからさまになる事態は避けられなかった。
 これを見て毛沢東は焦り、巨大な文革によって、実力で実権派を粉砕しようとしたのである。だが、文革の、あまりにも凄惨な行きすぎた暴走によって、逆の結果を招いたと断言してよいだろう。
 中国社会を根底で支えた知識人階級を根絶しようとした結果、社会は大混乱に陥り、行政事務から農作物管理、工業に至るまで、無知な素人が失敗を重ねるだけの結果を招き、中国民衆は文革の愚かさを思い知ることになった。
 そこで小平らが文革をやめさせたのはよいが、これも逆暴走し、極端な官僚資本主義社会の到来を招いてしまったのである。
 中国には、再び革命が必要になった。

 筆者は、周恩来と直接会ったことはないが、1971年、日本での卓球代表団の警備に参加し、莊則棟などと直接交流した。このとき日本側担当女性と彼とのロマンスが生まれ、後に結婚している。
 ピンポン外交で有名になった、この大会の仕掛け人は、愛大の後藤学長と周恩来であった。この当時の中国は、少年だった筆者にとっては、まさしく桃源郷、人類最高のユートピアに見えたものだ。
 日本に紹介される中国の記事には、必ず周恩来の笑顔があった。そして、その温かいもてなし、優しさは、中国訪問団の全員が懐かしく語るところであった。

 まだ当時は文革の最中で、詳しい情報は伝わらず、1億人に迫るような膨大な虐殺があったなど、まったく想像もしていなかった。
 政権幹部たちも例外でなく、毛沢東以外のすべての幹部が批判され、周恩来でさえ四人組に批判され追放されかけ、また養女を殺害されている。
 周恩来は、建国以来の同志や周囲にいる人たちの命を守るため、必死になって演技をしなければならないこともあった。
 しかし、その温かい人間性は変わることがなかった。周恩来に一度触れた人たちは、終生、彼を尊敬し、死ぬまで暖かい笑顔と、誠意を忘れることがなかった。

 周の死後、周と穎超夫人の帳簿整理に当たった人によると、周総理の当時の所得は、給与と給与振込口座の預金残高に対する利子のみだった。支出は、食費、党費、家賃、新聞代、日用品、親戚への仕送り、職員への手当て、寄付金などがあった。残された貯蓄は、夫妻合わせてわずか5100元(約20万円)しかなかった。

 これが27年間にわたって中国国家総理を勤めた人の残した遺産である。周恩来という人物が、どれほど清廉潔癖な人物であったかを証明する何よりの証拠であろう。
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中国共産党の強欲・残虐は、どこからくるのか?
2021年03月30日
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  私は、1970年頃から日中友好協会正統本部に出入りし、ピンポン外交の現場で警備を担当したこともある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E5%A4%96%E4%BA%A4#:~:text=%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E5%A4%96%E4%BA%A4%EF%BC%88%E3%81%B4%E3%82%93%E3%81%BD%E3%82%93%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%86,%E4%B8%80%E9%80%A3%E3%81%AE%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%82%92%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

 当時は、毛沢東中国革命に憧れ、毛沢東の講話集を読みふけり、新島淳良の「星火燎原」に興奮し、ML派の集会に馳せ参じ、紅衛兵バッジを胸につけ、バリバリの中国派を自認していた。
 しかし、転機が訪れたのは、毛沢東の指示により林彪が撃墜死したことだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BD%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 私は、八路軍物語における周恩来と林彪に心酔していたのだ。その二人とも毛沢東の指示により死に至ったとの情報が流れた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-223.html

 それから、中国共産党の負の情報に目を通すようになると、出るわ出るわ、恐ろしい虐殺と隠蔽、捏造、とりわけ文革における凄絶な実話を目にし、毛沢東が無類の女好きで、立場を利用して、手当たり次第に女漁りをしていたことなど、それまでの毛に対する畏敬と信頼が一挙に崩壊するような情報と出会って、一気に反中国共産党の立場に変化させられた。

 それからというもの、中国史を学び、中国と中国共産党の真の姿、歴史を理解しようと、さまざまな情報に目を通した。
 そして、神格化された毛沢東の真の姿は、単なる「思いつき人間」であり、数千万の民衆の死の責任が自分にあるにもかかわらず、一顧だにせず独善にふける人物であると理解した。

 具体的にいえば、大躍進と文革である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96#:~:text=%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96%EF%BC%88%E3%81%A0%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%8F,%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%A2%97%E7%94%A3%E6%94%BF%E7%AD%96

 毛沢東による現実を無視した、非科学的な民衆への妄想強要によって、大躍進運動の期間中、数千万人の人々が餓死させられた。それを中国共産党内部で、劉少奇や鄧小平が毛を批判したことで、政治的に追い詰められた毛は、自分のカリスマ性を利用した権力闘争に打って出た。それが文化大革命だ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD

 文革も、大躍進同様、数千万人の人々を大衆運動によって殺害した。
 ひとつには、中国は儒教国家であり、儒教の本質は人間に序列をつけて差別し、底辺の人々を奴隷化することで地主階級の利権蓄財を確保する体制が、強固な文化として存在した。

 こうした差別は、魯迅の「阿Q正伝」に衝撃的に描写されているし、パールバックの「大地」からも伝わってくる。
 こうした土着的差別体制への底辺の民衆の憎悪・憤懣が累積していたことが、文革大虐殺の背景であり、本質といえるだろう。

 中国は、人の命の値段が安い国であり続けた。
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 大躍進や文革の死の海のなかで、多くの人々がカリバニズムに遭った。
 https://www.afpbb.com/articles/-/3086883

 中国では、人の命は豚よりも安かった。だから、殺人があまりにも、ありふれた日常風景であった。人々はいとも簡単に命を絶たれるのが普通だった。しかも遺体は食べられる。

 以下は、インドや中国などの人口推移である。
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 上のグラフから読み解ける真実は、中国・インドでは、有史以来、1900年前後まで、人口推移がほとんど変化しなかったことだ。
 この意味するところは、「余分に増えた人は死んだ(殺された)」ことである。
 
 社会全体が養える人口は限られていて、それをはみ出した人口は、いとも容易に始末されたのだ。
 それが、1946年の中国共産党成立から、いきなり平均寿命が急上昇して世界平均に追いついている。
 これが、中国共産党の存在理由であり正義であると言い換えてもよい。

 インドでも同じように寿命が二次関数で伸びている理由は、結局、第二次世界大戦が、この正義をもたらしたと解釈することができるだろう。
 「大戦争による大量死が、その後の安定社会を生み出し、人口を急に増やした」のである。

 1900年頃までの中国の平均寿命は、おそらく30歳に満たなかったと思われる。(データがないが)、このとき日本人の平均寿命は30~40歳程度だった。
 大陸は生き延びる条件が厳しい。生命力の強い若者でなければ生き抜けなかった。

 死ぬ理由は、いくつかあるが、最大のものが戦争であり、次に飢饉と疫病である。今、我々はコロナ禍という疫病淘汰に直面していることから類推してみればいい。
 例えば、2500年前に「臥薪嘗胆」で知られる呉越戦争があり、呉が敗戦国民となった。当時は、人口を支える土地生産力が限られていたから、敗戦国には「坑刑」というジェノサイドが行われるのが普通だった。

 これを怖れて、水郷国(蘇州)、呉の人々は、得意な操船技術を用いて国外に逃げ出した。
 その行き先は、台湾・朝鮮半島南岸・そして九州だった。それが「弥生人」となった。その末裔が邪馬台国を創建したのは想像に固くないし、それを裏付ける史料もある。
 ただ、真実が明らかになると天皇家万世一系説が揺らぐので、日本では隠されているだけだ。

 中国の飢饉の規模は凄まじいものだった。例えばくり返し襲ってくる蝗害は、パールバックの大地に描写されている。
 中国の古い史跡にある土塀を解体したりすると、かなりの割合で大量の人骨が出土する。いったい、どれほどの人々が殺されたのかを端的に示すものだ。
 坑刑で大穴に埋められた遺体は、鼠が食べて大量に増殖する。そして、それは人々の大切な食料となる。

 中国における儒教は、序列によって権力を維持するシステムだが、従わない者は片っ端から殺した。その遺体は塩漬けにされて食料となった。
 孔子の大好物が、このような「人醤」だったことが知られている。
 http://blog.livedoor.jp/mappkakr/archives/9662241.html

 これが中国における「人の命」の意味なのだ。
 だから、私は前世紀末に、江沢民が法輪功を弾圧し、信者を不法に拘束して生きたまま臓器を奪って売り飛ばしたという情報を得ても、さほど驚かなかった。
 それが中国だからだ。人は大切な食料なのだから、「臓器を売る」発想は、その延長である。
 
 中国は人が増えすぎた。2021年度現在、14億人と公表されているが、もちろん信じる者はいない。中国における人口抑制策の柱であった「一人っ子政策」は、戸籍に載らない「闇の子」を大量に産んだ。これをヘイハイズ(黒亥子)という。
 このヘイハイズは、一切の人間的権利を持たないので、経営者は食べさせるだけで事実上、無賃金で雇用してきた。
 これが世界経済で中国の低価格による圧倒的な勝利を起こさせた本当の正体である。

 中国共産党は、本当の奴隷階級であるヘイハイズのおかげで圧倒的な権力を手中にしたのだ。
 ヘイハイズがどれくらいいるかといえば、2010年段階で、少なくとも4億人、つまり中国の本当の人口は18億人であり、20億人と推計する知識人も少なくない。

 この20億人を、環境に負荷のかからない自然循環サイクルのなかで、「持続可能な未来」を保証できるかといえば、まともな手段では無理だろう。
 中国人は、生き延びるために侵略強奪を繰り返さねばならないのだ。
 これが中国共産党の強欲と残虐に満ちたウイグル政策、法輪功政策になっているし、また尖閣諸島強奪作戦も、そうした強欲の思想性が前提になっている。

 中国人、中国共産党にとっては、「愛の世界」=公序良俗という倫理は何の価値もない軽いものだ。
 そこにあるのは、迫り来る飢えの恐怖から、他国を侵略・簒奪し、自分たちの利権を実力で確保するという短絡的発想だけだ。中国4000年の歴史には、そんな強奪の論理が刷り込まれているといってよい。

 現在、中国共産党は、尖閣どころではない、北海道・沖縄を強奪するために策謀を巡らし、民間に隠れて大規模に土地を買収している。自民党には二階(竹中平蔵一派)という中国の飼犬がいて、党内で中国の買収を阻止するという声が出ると、それを押さえ込んでしまう。
 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21650

 https://honichi.com/news/2019/09/25/chinahokkaido/

 https://www.fnn.jp/articles/-/28131

 このまま、自民党の支配が続けば、尖閣ばかりか、北海道も沖縄も中国に乗っ取られてしまう可能性がある。彼らは合法的に土地買収を進め、菅政権はじめ自民党政権は、「経済最優先」という錦の御旗にしがみついて、北海道の買収が、どんな意味を持っているのか知ろうともしない。

 中国共産党と中国人が、世界の安定調和を目指すかといえば、それはありえない。「中国共産党の支配による安定」しかありえないのだ。
 それは権力に従わない民衆を拘束し、生きたまま内臓を抜き取って売りさばくような価値観にある。

 私は20歳前に、毛沢東思想を信仰していたが、それが、まさか、このような恐ろしい集団に変貌するとは予想もしていなかった。
 しかし、歴史を振り返れば、孔子が儒教によって権力を維持する思想を普及させたことで、その結末がこうなることは、ごく自然な必然性だった。
 根拠のない「序列思想」がもたらすものは、底辺の奴隷化しかないのだ。

 私は、中国共産党の自滅崩壊が目の前に来ていると思っている。
 中国流の価値観は世界には通用しない。西欧キリスト教文明と儒教中国文明の対立=世界戦争は目前である。
 日本にも、竹中平蔵のような売国奴がいる以上、日本が、どちらに与するかを判断するのは容易ではない。あるいは、戦争の大波のなかで、我々日本人は溺死させられるのかもしれない。 

  参考記事 中国の植民地政策
 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6389199

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1448.html
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2022/07/04 (Mon) 02:32:05

あげ18
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2022/08/25 (Thu) 02:21:49

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2022/08/25 (Thu) 02:52:44

周恩来が夢見た共産社会とは…


周 恩来(ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)

周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1917年に、日本に留学
1920年パリに留学

1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧穎超と結婚した。周恩来・鄧穎超夫妻の人気は中国国内でも高く「おしどり夫婦」として有名であった。夫妻の出会いの場所である天津南開大学の近くには周恩来・鄧穎超記念館が建設された。

子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。


中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、古来の中華帝国の形式に則るような「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した。 彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。

周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は

「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」

と叫び、身を挺して守った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。

彼の後継者と目された劉少奇、鄧小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。 周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。  しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1976年、中華人民共和国建国以来国務院総理(首相)を務めてきた周恩来(1898~1976)が毛沢東より一足早い1月に世を去っている。品格と知性と忍耐強さを兼ね備えた彼の人物に関しては欧米からの評価も極めて高い。廃帝と成った溥儀を気遣ったのも周恩来だった。

勿論、中国が文革の嵐に巻き込まれた時、彼が心を痛めながらも毛沢東に従った事は否定出来ない。しかし、彼が毛沢東とは常に一定の距離を置いていた事も確かで、民衆の人気は高く、その人徳故か、あまり彼の事を悪く言う人はいない。そして、死ぬ迄首相の座を保持した彼は「不倒翁」とも称されている。

http://homepage3.nifty.com/mahdes/asihe3c.htm


溥儀は1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。 1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。

溥儀は中国を文化大革命の嵐が覆う中で癌に罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自であった溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、事態を聞いて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80


溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮 中日友好協会副会長  王效賢


日本語の名通訳として知られる王效賢さんは、毛沢東主席や周恩来総理のそばで、長く仕事をしてきた。その中で忘れられない思い出の1つは、日本がつくった「満州国」の傀儡皇帝だった溥儀氏とその弟、溥傑氏の2つの家族に対し、周総理が心のこもった配慮をし、溥傑氏の日本人の妻子を遇したことであるという。


一市民となったラストエンペラー

1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのはこの年の12月4日である。

溥儀氏は、自分が戦犯の中で、自分がもっとも早く釈放されるとは、夢にも思っていなかった。12月9日、彼は34年ぶりに北京に帰り、家族と団欒した。清朝の末代皇帝(ラストエンペラー)は、北京市の普通の市民になったのである。


1961年6月10日、周恩来総理(前列右から3人目)は西花庁で、溥儀氏(左から2人目)、溥傑氏(右端)、嵯峨浩さん(右から2人目)らと会見し、宴会を開いた。左端は筆者、左から3人目は老舎

それからわずか1カ月半後の1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。そこで周総理は彼らと直接、今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。

周総理は溥儀氏にこう言った。「身体検査をしてから3年計画を立て、自然科学を少し学び、技術を少し身につける。思想を改造するには、第1に客観的な環境が必要であり、第2に主観的努力が必要だ。現在、各民族は平等になった。各民族はともに発展している。満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」

これに対し溥儀氏はすぐに「私は毛主席と周総理の期待に決して背きません」と答えた。間もなく周総理は、郭沫若・全人代副委員長と相談して、溥儀氏が中国科学院に属する植物園で労働に参加するよう手配した。


中国行きを望んだ浩夫人


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(右端)

溥儀氏の弟の溥傑氏も1960年に特赦され、北京で兄や妹と再会した。しかし溥儀氏とは違い、溥傑氏には、日本にいる妻子が中国に帰ってこられるかどうかという問題があった。

この問題をめぐって溥一族には意見の違いがあった。特に溥儀氏は、溥傑氏の婚姻は日本帝国主義が画策したものであり、溥傑氏は日本の妻子と一線を画し、古い関係を断ち切らなければならないと考えた。

周総理は、また西花庁で、溥儀、溥傑の両氏とその家族と会見し、宴会を催した。周総理は溥傑氏の心配をよく理解し、こう言ったのである。

「あなたの日本国籍の夫人、嵯峨浩さんが中国に帰って来るのを歓迎します。あなたは手紙を書いて、新中国の状況を彼女に知らせなさい。中国政府は、彼女が帰ってくるのを歓迎するし、中国での生活に慣れなければまた日本に帰ってもよい。

中国には皇族はなくなったし、社会主義の国となって、人々はみな同じ生活を送るようになり、人より身分が高いということはなくなった。彼女も1人の平民の立場に立って、人と人が平等な生活を送らせなさい」


1961年3月、許広平さん(魯迅の夫人)が率いる中国婦女代表団が日本を訪問した。私は団長の通訳として加わった。出発前、周総理は溥傑氏の書いた手紙を代表団の丁雪松秘書長(後に新中国で初の女性大使となる)に渡し、なるべく早く浩夫人に手渡すよう、廖承志・中日友好協会会長に言いつけた。

代表団が日本に滞在中、浩夫人は中国式の「旗袍」を着て、私たちの泊まっているホテルにやって来て、団長と秘書長に面会した。浩夫人は非常にかしこまって、完璧な中国語でこう言った。

「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。必ず中国に帰らなければなりません。鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随うといいます」

私は呆然とし、浩夫人の眼に浮かんだ涙を見ていた。その時の情景を、40年経った今も、私ははっきり覚えている。

この年の6月10日、周総理が嵯峨浩さんと彼女の母の嵯峨尚子さん、妹の町田幹子さん、娘のコ生さんらと会見するので、通訳として参加するように、という通知が来た。こんなに早く、浩夫人が中国に戻ってくるとは、と私は驚いた。

このときの宴会には、溥儀、溥傑の兄弟の一族ばかりでなく、満州族の傑出した人物である作家の老舎氏と夫人の胡絜青さん、京劇俳優の程硯秋の夫人、日本の貴族出身で、周総理が「民間大使」と称えている西園寺公一氏らが招かれていた。

周総理はこう述べた。

「我々共産党の目的は、素晴らしい世界をつくりあげて、みなが生きてゆくことができ、良い暮らしができるようにすることにあります。今日この席には、かつての皇帝や皇族もいるが、今はみないっしょに生活しています」


そして周総理は、とくに溥儀、溥傑兄弟の3番目の妹が東城区の政協委員を、5番目の妹が会計を、6番目の妹が芸術家を、7番目の妹が小学校の教務主任で模範工作者であると紹介した。そして「かつての皇族、官僚、貴族はみな変わり、みんな平等である」とし、

「皆さん、考えてみてください。封建制度を覆し、共和国を打ち建てた後も、以前の皇帝がなお生き残り、平等な地位を与えられる国、そんな国が世界のどこにあるでしょうか。これは我々の国策なのです。もちろん本人が努力しなければならず、皆が協力しあわなければなりません」と述べた。

さらに周総理は浩夫人に対し「どうぞご安心なさって下さい。我々はあなたを差別扱いするようなことはいたしません。あなたの亡くなられた娘の慧生さんから手紙をいただいたことがあります。私は彼女が父親と手紙のやりとりをすることに同意しました。彼女は大変勇気のある若者です。彼女の写真があれば、記念に1枚いただけませんか」と言った。


来るのも自由、帰るのも自由


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(立っている人物)。左端は筆者

会見の時間は、非常に長く、家庭の問題から民族問題、更に中日関係に話が及び、内容もきわめて豊富だった。

日本の問題に話が及ぶと、周総理はこう述べた。


「日本軍国主義は1894年から1945年までの50年間、中国人民に損害を与えました。解放後10年このかた、万を数える日本の友人が毛主席、劉主席と私にも会って、謝罪の意を表明しました。我々に言わせれば、中日両国は2000年近い往来の歴史があり、経済、文化の交流を発展させてきました。この2000年に比べれば、50年間という時間は、ほんの短いもので、しかもすでに過ぎ去ったことです。

我々は前向きに、中日両国の友好関係を促進し、国交を回復し、経済と文化の交流を発展させるために努力するべきです。毛主席は、日本軍国主義の侵略が中国人民を団結させたと言ったことさえあります。我々は日本人民に対し、いささかも恨んでおりません。

日本人民もまた日本軍国主義の被害者なのです。皇族、華族、ブルジョアジーでも勤労人民でも、ただ中国と友好を願うのであれば、我々は彼らとみな友好的に付き合います。日本の侵略政府に参加したメンバーでも、中日友好に賛成するなら、我々はやはり歓迎します」

こう語った周総理は、浩夫人に対し

「あなたは日本人ですが、中国人と結婚したので今は中国人になりました。我々はあなたを中国人として、中国の社会活動に参加するのを歓迎します。あなたは中日友好の事業に力を注ぎたいと思い、実際に中国に帰ってきたのですから、これこそ中日友好を象徴しています。中国での暮らしに合わないと感じたときはいつでも、日本に帰って結構です。日本に帰って比較してみて、やはり中国が良いと感じたら、また帰ってくることもできます。来るのも自由なら帰るのも自由。私が保証します。私がサインします。当然のことながら、私のサインが必要になることはないと信じますが」と話した。


周総理の話の中で、もっとも忘れられないのは、娘のコ生さんについて周総理が語ったことである。周総理はこう言った。

「彼女が日本に帰りたいなら帰らせるのがよいでしょう。無理強いして残すのは良くありません。若い人はよく変わります。後になって中国に来たいと思ったら、いつでも申請すればよいのです。日本人と結婚しても、どこが悪いのでしょうか」

コ生さんが帰るか留まるかという問題は、溥傑氏と浩夫人の悩みの種だった。コ生さんが中国に来てから、夫妻は朝な夕なに、唯一の娘が身近に留まってくれるよう説得した。しかしコ生さんには自分の考えがあり、両親のもとに留まることを承知しなかった。

このため父と娘は喧嘩になり、母と娘はともに泣いた。当時、浩夫人一家のお供をして中国国内を旅行した周斉さん(中国国際貿易促進委員会連絡部長)が会見前に周総理にこの模様を報告していたので、周総理は、溥傑一家のためにこの難題を解決したのだった。

コ生さんは日本に帰った後、日本人と結婚した。周総理の言った通り、しょっちゅう日本と中国を往来し、父母のそばで暫く住み、一家団欒するのが常だった。現在、コ生さんには幸せな家庭があり、4人の子どもの母であるばかりか、孫まである。

最近、コ生さんは、中日友好協会の招きで中国にやって来た。私たちは11年ぶりに再会し、ともにあの心のこもった周総理の話しを思い出し、懐かしんだのだった。(参考資料:『周恩来年譜』『周恩来選集』)(2005年10月号より)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

母の死刑を無罪に変えたのは周恩来


崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白


■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」


■ 医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。
母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。
スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 それから半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。ここの日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」
崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。

母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。

この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。

周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」は建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。

その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。

答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

http://www.houmasa.com/newsletter4-4.html


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:


日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm


山極さんは、日本軍と八路軍の捕虜政策の違いについて触れ、日本軍は捕虜を否定し、捕虜になってはならない、捕虜になることは恥だとされ、日本軍捕虜は存在しないという前提になっていたのに対し、八路軍は優待政策をとり、日本兵捕虜を「尊重・優遇し、彼らを教育し、彼らを通じて他のものに影響を与え、反侵略統一戦線の樹立に努力させる」方針をとったこと、その結果、

1937年から43年までに、捕虜総数2407名のうち2085名が釈放され、八路軍は捕虜を殺さないで優遇することを日本軍に知らせ、日本軍内にもそれが次第に浸透し、自発的投降が増加したこと、しかし、日本軍は、釈放した捕虜を処罰したり、自決の強要も広がったことを話されました。

http://yamatea.at.webry.info/201101/article_17.html


日中友好協会 製作ビデオ第3巻上映

 2月9日(日)御南公民館で、協会製作の証言ビデオ「3」が、岡山県ではじめて上映されました。

中国人の生体実験にかかわった元軍医の証言、赤ちゃんを泥靴でふみ殺し、ずっと夢に出てきて悩んでいた元特務機関員の証言、

八路軍の捕虜となった元兵士の見たものは、負傷した日本兵を背おって山をのぼる八路軍軍医の姿だった……

40分のビデオは若者が問いかける侵略戦争、そんなことがなぜ?なぜ?に答えきれているだろうか。

 おそろしい日本軍の組織とは反対に、井上愛子さんの1時間のお話は、中国人民解放軍のやさしさ、心の広さにうたれました。看護婦として捕虜になった気がせず、東北三省をかけめぐり、にわか作りの病院で炭をおこし湯をわかすことからはじめ、中国人と朝鮮人と日本人がほんとにとけあって生命を大切にした青春でした。その時の赤ちゃん(長男雅俊さん)も会場に見えられ、紹介されました。 
 
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/gangshanban030209.htm


戦後、シベリアに捕虜として収容された60万人の中の969人が、5年後の1950年に戦犯として中国に引き渡された。収容された「撫順戦犯管理所」には中将から二等兵まで、また溥儀も収容されていたが、此処は日本軍が作った監獄であった。当初、彼らは「なぜ戦犯!?、上官の命令」などと反抗していたが、管理所では一切の強制労働も学習もなく、ただ反省するのを待った。
 
 彼らは3~4年経ったころから過去を振り返り自ら「認罪」して行った。56年の戦犯法廷では起訴された政府・軍高官の45人以外は起訴免除、起訴された45人もシベリアの5年と撫順戦犯管理所の6年が刑期に参入され、一人の無期も死刑もなく全員刑期満了前に帰国を許された。 

 この映像はその「撫順戦犯管理所」のドキュメンタリーで、当時の管理所生活などの記録映像を交え、収容されたご健在の元戦犯10人と、管理所側の医師、看護婦、教育、経理、人事、炊事係など8人の「証言」で構成したもので非常に貴重な記録である。

 この放送後、番組(映像)で証言した元戦犯のうち既に4人が鬼籍に入っている。彼らは「撫順戦犯管理所の6年に感謝している」とまで話しており正に「奇蹟」の体験である。この事実に一部から「洗脳だ、強制だ」との批判があるか、強制が無かったことはこの映像記録と証言が裏付けている。
 

 管理所は周恩来の直轄指示で

「戦犯といえでも人間であり、人格と日本人の習慣を守れ」

と徹底された。そして、戦犯への優遇措置に反発する管理所職員には

「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」

と諭した。周恩来はワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

との全く同じ意の、

『前事不忘 後事之師』(前の事を忘れず、後の教えとせよ)

と言っていた。
http://www.janjannews.jp/archives/2600539.html

 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。


「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。

しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/kunitomo_taiken.htm


私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。 被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。


 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。

 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm


このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。

 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。

職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわらず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱いだった」と坂倉さんは振り返ります。それは

「罪を憎んで人を憎まず」

「兵士も軍国主義の犠牲者」

との人道主義政策の実践でした。 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。

http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/genki/2010/230/genki230-06.html

この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。

 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html


日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行った陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。

判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は、


「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。


 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」

(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

サイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』の著者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。 この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、


「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」

というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

しかし歴史の流れは容赦しない苛酷な面を見せる。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放されたと聞いた。 

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/sawada_kikokumade.htm


中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄した。

『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光(編) 、岩波書店


 驚いたのは、中共が日本に対する賠償放棄の意向を示すところ。これは密使となった竹入義勝公明党委員長に対して、いきなり周恩来から伝えたんですね。
周 毛主席は賠償請求権を放棄するといっています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。

清の時代には二億五千万両、日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。これを全部払ったかどうか知りません。八国連軍の賠償は四億~五億両でした。
四億ドルど、今では大した額ではありませんが、負担を人民にかけることは良くない。賠償の請求権を放棄するという事を共同声明に書いても良いと思います。


竹入 お礼の言葉ももありません。

周 当然のことです。二十数年来の両国人民の友好によって、国交が回復するのですから、私たちは、これから次の世代を考えなくてはなりません。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/21667/23829/67385764

戦争賠償の問題


日本側は、高島益郎・外務省条約局長が外相会議で意外にも

「蒋介石がすでに日台条約の中で賠償の請求権を放棄すると宣言しており、日中共同声明でこの問題を重ねて提起する必要はない」

と発言した。これに対し周総理は、首脳会議でとくにこうした主張に厳しく反駁した。

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

最終的には田中首相が中国側の好意に感謝の意を表し、共同声明の本文に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明確に書かれたのだった。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-03/31/content_107971_3.htm
http://hyakka.seesaa.net/article/171605985.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html


以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。

 この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。

「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」

先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。

 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。

 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」

 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。

 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。

 話を日中関係に戻すと、先生は


「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」


 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。  最近、

「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」

といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。

 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。

 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。

 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。

http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/


中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、

「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」

という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。

かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は

「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」

とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。 このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< 周恩来が日本を救ってくれたのサ
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
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5:777 :

2022/08/25 (Thu) 02:54:35

林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm

 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。

 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html


周恩来の死


周恩来は田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。

 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。

 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇と鄧小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放された鄧小平自身も理解を示しています。鄧小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していた鄧小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺して鄧小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、この鄧小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html


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6:777 :

2023/05/28 (Sun) 13:52:55

雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の 「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
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