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コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族

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2022/06/03 (Fri) 22:20:53

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族


中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html

 

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移民は「侵略」に活用されてきました。この種の「侵略」が歴史的に得意なのは、中国です。中国は「洗国」という侵略手法を得意とします。

 洗国とは、支那大陸において中華帝国が「他国」を乗っ取る際に多用される伝統的な侵略手法です。まずは、国内の流民を数十万人規模で「対象国」に移住させる。当初は「外国人労働者」として、いずれは「移民」として、膨大な人民を送り込み、現地に同化させていく。やがて、支那本国から官僚が送り込まれ、その国・地域を中華帝国の支配下に置く。


 洗国とは、人口を利用した外国侵略なのです。


 今この瞬間も、チベットやウイグル(東トルキスタン)で行われているのが、まさにこの洗国です。


 チベット人男性やウイグル人男性を中国国内に散らばらせ、現地に同化させる。さらに漢人をチベットやウイグルに送り込み、現地の女性と結婚させ、これまた同化させてしまう。やがては、現在の満州(旧:女真族の国)同様に、国境線が実質的に消滅し、中国の一部として支配が始まる。


 今風に言えば、民族浄化(エスニック・クレンジング)で、明らかに国際犯罪です。とはいえ、現実に中国共産党はチベット人やウイグル人に対する洗国をほぼ完成させ、台湾にもじわじわと浸透していっています。


 そして、我が国にも。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12415662357.html


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コーカソイドだった黄河文明人が他民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族

皇帝たちの中国 第1回 「中国人はどこから来たのか」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=3aMilIlLcgQ&list=PLIL3IzoDnZkg6QBLzdm8ajRllsfHlK-PX


黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。


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日本人のガラパゴス的民族性の起源

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。

同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。


  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。

明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2.htm


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秦始皇帝の皇子と皇妃か=肖像を復元、きさきには東アジア系と異なる特徴も
配信日時:2018年7月18日
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

秦始皇帝の皇子ときさきか=肖像を復元、きさきには非アジア系の特徴


秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と皇妃との可能性が高い男女の肖像が復元された。


中国メディアの参考消息などによると、陝西省西安市にキャンパスを置く西北大学信息科学与技術学院が開発したソフトウェアを用いて、秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と妃(きさき)と見られる男女の肖像が復元された。

始皇帝陵から出土した人骨に基づき、生前の肖像を復元した。女性の骨格は複数人分があったが、身分が高いと思われる女性の肖像を復元した。研究者らは始皇帝の妃の一人である可能性が高いと考えている。女性は20歳前後で、殺害されたと分かった。始皇帝の死に伴い、殉死させられたと見られている。

復元された女性は、目が大きく鼻筋もくっきりとしている。そのため、東アジア人ではない中央アジアまたはコーカソイド系(欧州人)の血が流れている可能性があるとの見方が出ている。

中央アジアでは古くから、コーカソイド系の人々が多く暮らしてきた。現在のウイグルなど多くの民族にもコーカソイド系の血が入っているとされる。また、新疆ウイグル自治区の楼蘭で発見された、紀元前19世紀ごろのものとされる女性のミイラもコーカソイド系の血が入っていたことが分かっている。始皇帝の妃の一人が、コーカソイド系だったとすれば、紀元前に中国の中心部にさらに近い地点にも、コーカソイド系の人々が存在していたことになる。

また、始皇帝の妃だったとすれば、同女性が当時「美女」と評価されていたことは、まず間違いないだろう。とすれば、コーカソイド系をほうふつさせる女性の容貌は、当時の人々の女性に対する審美眼を知る参考にもなりうるはずだ。

肖像が復元されたもう一人の男性は死亡当時30歳前後で、陶器、玉器、絹、青銅の剣、銀器、金など副葬品が大量に発見されたことから、身分が極めて高かったと見られている。しかし男性の上腕骨には矢じりが食い込んでおり、頭部や四肢が切断されていたことが分かった。そのため、男性は始皇帝の皇子など宮室の一員であり、始皇帝の死の直後に発生した大規模な粛清の中で殺害されたと考える研究者もいる。

用いられたソフトウェアは、ディープラーニングの手法を用いて解剖学上のデータを大量に学習して能力を蓄積し、骨格から肖像を復元する。頭髪や目の色などは推測するしかないが、西北大学信息科学与技術学院の李康准教授によると、肖像の復元について厳格な確認を繰り返しており信頼性は高い。すでに警察が犯罪捜査のために広く利用しているという。
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

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西周の滅亡と秦の正体 2012年4月30日 (月)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html

 戎は通常西方の異民族を意味します。西周は魯や斉に命じて東夷・淮夷(日本人やベトナム人の祖先)を征伐して東方に領土を広げ、晋に命じて北方の遊牧民(匈奴・モンゴル人の祖先)を征伐して北方に領土を広げ、鄭に命じて南方のジャングルを開発させていました。


 西方侵略には周王が直接あたっていたらしいことが詩経の小雅からは窺われます。ここで周が対峙していたのは、西域のオアシス都市で、民族はトルコ系、もしくはインダス文明から流れてきたインド・ヨーロッパ語族でしょう。戎車とはペルシャやメソポタミアの珍しい馬車のことではないでしょうか。今で言えばロールスロイスやランボルギーに乗るような感覚だったのだと思います。

 西周の強さは、西方との貿易にあったのではないでしょうか。

 西周は犬戎に滅ぼされたことになっています。そして犬戎は北方の異民族とされています。しかし晋は西周が滅んだ後も北方の遊牧民に対して攻勢を維持しており、西周が滅びたのは北方の守りが崩れたのが原因ではないと私は思います。

 西周の首都鎬京が陥落したのは、幽王が寵姫の褒姒を喜ばせるために狼煙を上げすぎて、肝心なときに助けが来てくれなかったためと説話ではなっています。幽王は無表情な褒姒を何とか笑わせたいと思っていました。ある日敵襲来の狼煙を上げると、首都周辺の諸侯が慌てふためきながら王宮に集まりました。しかし後から誤報とわかり、諸侯はがっかりして領地に戻りました、この有様を見て褒姒が笑ったので、味をしめた幽王は虚報の狼煙を上げるようになったというのです。狼少年と同じです。

 狼煙というのは天気が良くて見通しがよい地域で発達した通信手段で、砂漠でよく使われていましたので、西周に直属していたのは砂漠のオアシス都市なのではないでしょうか。

 西周が滅びた跡地には秦が進出します。秦は最終的に中国を統一しました。秦という国も起源が不明で、春秋時代の中期から突如として登場します。登場したときには西方に広大な領土を既に持った大国でした。

 私が考えるに、西周を滅ぼしたのは秦であり、秦は西周の直轄地を丸々継承したのではないでしょうか。

 秦は西周が滅びたときに、逃亡した平王を助けたことで諸侯に任じられるのですが、幽王と平王は対立していましたので、おそらく平王は秦をそそのかして幽王を滅ぼさせたのでしょう。誰も幽王を助けなかったのは別に幽王が狼少年だからではなく、鎬京に攻めてきたのが他ならぬ幽王の臣下だったからでしょう。

 しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そして始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたからと言うことになっています。

 しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。

 そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知られたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。

 宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html


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遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(1)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml

ミトコンドリア遺伝子やY染色体を使って、民族移動の歴史をたどることができるという話は聞いたことがあると思います。遺伝子の痕跡が「人間」の移動を説明していることは間違いありません。しかし、ある集団の中で遺伝子に変異が生じた時期とその集団が新しい文化を獲得した時期は必ずしも一致しません。


その一例をY染色体のRハブロタイプの分布に見つけました。R1bとR1aというハプロタイプは中央アジア・欧州・イラン・インドに広く分布し、印欧語族の分布範囲とも重なるため、印欧語族の遺伝子ではないかとも言われています。

R1bは1万年くらい前にカフカス山脈付近で原形が生まれ、6千年前にバルカン半島に進入し、3千年前にはアイルランドやイベリア半島西端にまで到達したと考えられています。

現在R1bが人口の50%を超えているのはアイルランド、英国、フランス、スペインでこれはローマ帝国とゲルマン人の侵入以前にケルト人の文明が広がっていた地域です。できたばかりのころのローマ共和国はケルト人に圧迫されていました。ローマ人の方が臣従していたという説もあります。ケルト人は牧畜と簡単な農耕をし、馬車を持っていました。

しかし面白いことにR1bが一番多く住むのはスペインのバスク地方で、バスク人の母語はバスク語なのです。バスク語は系統不明の言語で、印欧語とは全然関係がありません。

同じくR1bの比率が高いのはアイルランドとスコットランドとフランスのブルターニュ半島です。そこにはブリトン人やピクト人などが住んでいたといわれています。彼等が話す言語は非常に原始的なケルト語、もしくは系統不明の言語だったとも推測されています。ローマがこれらの地域に進入してきた際、彼等は車輪を持たず、牧畜もしていませんでした。

つまりケルト人は生粋の印欧語族なのですが、R1bが非常に多い地域の人たちは必ずしも印欧語族ではないのです。そして移動を始めた頃のR1bは車輪を持たず、農耕も知らない狩猟採集民でした。かといって彼等が野蛮だったかというとそうではなく、ミトコンドリア遺伝子から、彼等はアルプスで見つかったミイラのアイスマンと同系統と推測できるのですが、アイスマンは高純度の銅器を持ち、縫合された衣類を着て、医療を受けた形跡もあり、成熟した狩猟採集民でした。

R1bは東にも進んでいて、、3〜4千年前のタクラマカン砂漠(中国西部)の遺跡で金髪でコーカソイドの特徴を持った骨のミイラが発見されています。オアシス都市に残る文書から、彼等がケルト語に近い言語を使っていたことがわかっています。

現在でも中国の羌族、チベット族、満州族の一部にR1bを持つ人がいます。古代中国で羌、西戎、玁狁、狐とされた遊牧民はR1bを持つ人々であった可能性があります。

タクラマカン砂漠にオアシス都市を作った人たちは、農耕をし、都市をつくり、ケルト語に近い言語を話す人たちでした。そこよりもさらに東に進んだ羌、西戎、玁狁、狐はバスク人、ブリトン人、ピクト人に近かった可能性があり、必ずしも農耕はせず、印欧語も話していなかったかもしれません。

口語としての漢語は文法が英語と異常に似ています。英語というのはラテン語やゲルマン語と比較して語順に混乱があり、副詞と前置詞を多用する特徴があります。この英語の副詞と前置詞は、古代には動詞だった可能性があるのですが、英語と漢語は中央アジアを出発したばかりのR1bが使っていた言語ではないかと私は推測しています。

まあ、さすがに英語と漢語を同一系統と結びつけるのは話が飛躍しすぎかもしれませんが、R1bと印欧語と農耕は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html


遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(2)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html

このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


欧州西端と中国北部まで到達したR1aを仮にR1a第1陣、英仏西中心部とタクラマカンで繁栄したR1aを仮にR1a第2陣とします。彼等が持っていた技術を並べると次のようになります。

R1b第1陣・・・遊牧、原始的な印欧語、銅の精練、鍼灸?

R1b第2陣・・・遊牧、畑作、印欧語(ケントゥム派)、乗馬、車輪

民族が次のようになります。

R1b第1陣・・・バスク人、ピクト人、ブリトン人、羌、玁狁、狐

R1b第2陣・・・ケルト人、トカラ人、月氏


ケントゥム派は印欧語の分類です。印欧語は印欧祖語におけるkをkで発音するかs(ts)で発音するかによってケントゥム派とサテム派に分類できます。

サテム派印欧語を使うのははスラブ人とイラン人とインド人(ヒンドゥー語)です。東側のイラン人とインド人は自らをアーリア人と自称しました。19世紀と20世紀前半のドイツの国粋主義者は自らをアーリア人と規定しました。これはインドを圧倒的な武力で制圧した(と当時は信じられていた)アーリア人とゲルマン人を同一視したいという願望から生まれた説ですが、言語と遺伝子からは、イランとインドのアーリア人に最も近いのはゲルマン人ではなくてスラブ人です。

このサテム派印欧語族の分布とよく一致するY染色体がR1aです。R1aはポーランド、ベラルーシ、ロシア、イランに多く分布し、インドではバラモン階級に多く出現します。カスピ海を中心としてC字を倒したように分布しているので、元々カスピ海を中心とした地域に居住していて、何らかの理由で東西に広がっていって、故地からは出て行ったことが容易に推測できます。

アーリア人とスラブ人がインドと欧州に現れた時期は遅いため、歴史の記録に残っています。アーリア人がインド西北部に現れたのは3,500年前です。アーリア人と推測されるメディア人とペルシャ人がバビロニアに現れたのは3,000年前です。

しかしです。私たちはここで再び印欧語族とハブロタイプRを結びつける説の反証を見つけます。現在カスピ海周辺に多く分布するハブロタイプはJ2です。J2は現在のアルメニア、アナトリア半島(トルコ)、ギリシャ、南イタリアに多く分布します。


これらに地域に住む人たちが使う言語はアナトリア半島以外は印欧語です。アナトリア半島に住む人がトルコ語を話すのは、千年前に中央アジアからトルコ人が侵入してきて、トルコ語を強制したからです。それまではアナトリア半島に住む人たちはギリシャ語を話していました。

J2系はバビロニア文明を作った人達ということになっています。そしてJ2aはR1aの故地であるカスピ海沿岸を占領しています。だとするとおかしなことになります。東側(カスピ海周辺)と西側(バルカン半島)で辻褄が合わないのです。

東側のシナリオはこうなります。5千年前にはカスピ海周辺にアーリア人 (R1a)が住んでいました、そこに南からバビロニア人(J2)がやってきて、アーリア人を追い出しました。アーリア人は2千年かけて時計回りにカスピ海を一周して、3千年前にイラン側からバビロニアに侵入しました。

西側のシナリオはこうなります。まずバルカン半島に東側からバビロニア人と同じ遺伝子をもつJ系が侵入。次に南側から古代エジプト人と同じ遺伝子をもつと推定されるE系が侵入。R1bはギリシャには入って来れなかったと推測されています。最後に1,500年前になってスラブ人(R1a)がギリシャ車に侵入しました。

ギリシャ語はケントゥム派印欧語族なのに、だれがバルカン半島にギリシャ語を持ち込んだのか不明なのです。

この矛盾はハブロタイプRとインド・ヨーロッパ語の発明者を同一視することによって生じています。最初に言ったように遺伝子の発生と文化の発生は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html

遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(3)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


欧州の学者はR系はインド・ヨーロッパ語を生み出した人達と考えています。けれども、ギリシャ・アナトリア半島にはR系の侵入を受けなかったのにインド・ヨーロッパ語を話すギリシャ人がいます。

この矛盾を解く鍵はヒッタイト人にあります。ヒッタイトは3,000年ほど前にアナトリア半島に現れた遊牧民で、強力な戦車軍団をもち、世界で初めて製鉄に成功した人達です。ヒッタイト語はケントゥム系印欧語族ではないかとされています。


現在J2が30%以上分布するのは、東からアルメニア・トルコの首都アンカラ周辺・シリア沿海部・アナトリア半島西部・ボスポラス海峡・中央イタリア・カラブリア・シチリア東部です。

アンカラ周辺はかつてヒッタイトの首都ハットシャがあった地域です。ボスポラス海峡とアナトリア半島西部にはギリシャと似た文明を持つ都市群がありました。有名なトロアはその代表的な都市です。中央イタリアはローマに先行する文明であるエトルリア文明があった地域で、カラブリアとシチリア東部は古くからギリシャの植民地がありました。

エトルリア人と古代ローマ人は自分たちはアナトリア半島西部にかつてあった都市トロイの末裔であるという始祖伝説をもっていました。古代ローマ人がJ系であるとこの始祖伝説には信憑性があることになります。

アナトリアより西に分布するJ系はインド・ヨーロッパ語を話す人達であり、さらにJ系ではないかと推測されるヒッタイト人が使ったというヒッタイト語はかなり古くにラテン語やギリシャ語から分離したと推測されています。

そしてJ2系はフランス、スペイン、英国南部に10〜20%分布しています。これはケルト人の地域です。

整理してみましょう。

1.R1b第1陣が話していた言葉は非常に原始的なインド・ヨーロッパ語、あるいはインド・ヨーロッパ語を話していなかった可能性がある

2.南回りで広まったインドヨーロッパ語(ヒッタイト語・ラテン語・ギリシャ語)を伝えたのはR系ではなくJ2系の可能性が高い

3.R1a(アーリア人・スラブ人)の故地であるカスピ海沿岸にはJ2系が住んでいる


これらの事実から導きだされるのは、インド・ヨーロッパ語を生み出したのはR系ではなくJ2系であるということです。J2系はメソポタミア文明の中心になった人達です。メソポタミア文明を担った人達の言語はインド・ヨーロッパ語ではありません。

しかし、遺伝的には近くても全く違う言語を話すことはそうおかしなことではありません。

•約1万年前にJ2系がカフカス山脈付近でインド・ヨーロッパ語を発明。
•そのとき既にR1bは西と東に広がりつつあった。最初に出発したR1b系はインド・ヨーロッパ語を知らなかった。
•J2とRは8千年くらい前にカフカス山脈で合体。この合体部族は遊牧・簡単な畑作・都市が融合した文明を作る。彼等は畑作と都市をメソポタミアから学んだのかもしれないし、あるいは独自に編み出したのかもしれない。
•J2+Rが南回りに進んだのがヒッタイト人・エリトリア人・ローマ人
•J2+Rにエジプトからの入植者(E系)が合体してできたのがギリシャ人。
•J2+Rが北回りに進んだのがケルト人とトカラ人。
•やがて6千年くらい前にJ2+Rの集団の中からR1a遺伝子が登場これがスラブ人とインド・イラン・アーリア人の祖先となる。彼等の間でサテム派の発音が流行して、サテム派のインド・ヨーロッパ語が生まれる。


というように整理できるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html


遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(4)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


R1b+J2が出発した後にもカスピ海周辺にはR+J2が住んでいたと考えられますが、5千年前に彼等は故地を出て行き東と西に拡散します。西に進んだのがスラブ人で、カスピ海を時計回りに進んだのがインド・イラン・アーリア人です。両者はR1aの遺伝子をもっていました。


しかし「アーリア人」とR1aを同一視するのは早計で、高度な乗馬技術を持つアーリア人は3千年前から1,500年前にかけて、中央アジアから何度もメソポタミア・イラン高原・タクラマカン砂漠に侵入するのですが、遺伝子の分布からはアーリア人とされた人達には様々な組み合わせがありそうなのです。

1.スラブ人・・・R1a
2.インド・アーリア人・・・R1a+R2+J2
3.パクトリア人・スラブ人・スキタイ人・・・R1a+J2
4.ソグド人・ホラズム人・・・R1a+J+Q
5.月氏人・トカラ人・・・R2b+J

このことから、サテム派インド・ヨーロッパ語を発明したR1a+J2が中央アジアに住む様々な民族と融合したのがアーリア人るといえます。

スキタイ人・月氏人・トカラ人は研究者によってアーリア人に含めたり含めなかったりします。スキタイ人が話していた言語は不明です。月氏人とトカラ人が話していたのはケントゥム派インド・ヨーロッパ語です。アーリア人の要素をサテム派インド・ヨーロッパ語であるとすると、彼等はアーリア人には含まれなくなります。

また、ホラズム地方やドナウ川下流域や黒海北岸では4〜5千年前の都市と農耕の痕跡が見つかっています。今ではインドと東アジアでメソポタミアの影響を受けずに独自に農耕が始まったことはほぼ確実ですが、これらの地域でも、独自に農耕が始まっていた可能性があります。

ホラズム地方に多いのはR1aとQの合体部族で、Qはシベリアの狩猟採集民とネイティブアメリカンに多いハプロタイプです。ホラズム人は定住性が高かったと言われています。また、彼等はインダス文明に鉱物を供給していた人達かも知れません。


ドナウ川下流域や黒海北岸に多いのはI2aで、この遺伝子は1〜2万年前にヨーロッパで独自に発生したと言われています。欧州の学者は聖書の影響が強すぎるのか、欧州の農耕は全て中東起源と考えるのが主流らしいですが、I2aによる欧州独自の農耕都市文明を想定しても良いのかもしれません。

I2aは欧州全域に広がっているので、氷河期が終わった後に最初に欧州全域に広がったのは彼等で、独自の言語を使用していた可能性があります。R1b

はI2aの中心部(ドナウ川流域)を避けるように分布し、しかし融合もしています。

I2aとR1bの関係は日本の縄文系と弥生系の関係に近いのかもしれません。


1.1〜2万年前・・・I2aは成熟した狩猟採集民で、ドナウ川流域から黒い森にかけての森林地帯で狩猟採集生活をしていました。一部は簡単な畑作をしていました。

2.8千年前・・・そこにまず狩猟採集民のR1b第一陣がやってきた。彼等は寒冷でやや暮らしにくく、I2aがあまり分布していなかったアルプス・バスク・ブルターニュ半島・アイルランド・ブリテン島に住むようになった

3.6〜8千年前・・・次に牧畜と灌漑農業の技術を持つR1b(ケルト人)がやってきた。彼等は狩猟採集には適していない草原や低地を開拓して住んだ

4.黒海沿岸からカスピ海にかけてスラブ人(R1a)が分布

5.I2a,R1b,R1aがヨーロッパ全体で混血し合う

6.3〜4千年前・・・騎馬技術を持つJ2+R1bが黒海沿岸に侵入、スキタイ人(I2a+J2+R1b)が生まれる

7.3,500年前・・・スキタイ人がカスピ海沿岸からスラブ人を追い払う

8.スキタイ人から逃れたスラブ人に押されて、インド・イラン・アーリア人が南下


R系ハプロタイプの分布とインド・ヨーロッパ語族の分布の間の矛盾から、私なりに西洋の民族移動を推測してみました。ヨーロッパの縄文人とも言えるI2aがどのような文明を持っていたのか。5千年前には中央アジアで高度な都市文明を作っていたと考えられるQ系とネイティブアメリカンとの関係など西洋の古代も未解明で興味深い話題がたくさんあります。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html

▲△▽▼


黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。
2:777 :

2022/06/03 (Fri) 22:26:29


コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/306.html

ヨーロッパのフン族の祖先は古代モンゴルの匈奴でアーリア人だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007377

漢民族の起源と中国の歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/597.html

中国人も日本人が大好き _ 漢民族と中国語の起源
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/291.html

有史以来 戦争に勝った事が一度も無い漢民族が巨大な領土を手に入れた手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/204.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/600.html

武田邦彦 尖閣、竹島、四島・領土と国
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/466.html

中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html
 
中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国政府による強制不妊と虐待、ウイグル女性が語る「地獄」
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/985.html

中国、新疆ウイグル自治区で強制労働、収容施設の少数民族57万人以上に綿花を収穫させたか
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1596.html

中国の生きたまま摘出した臓器に群がる世界の臓器ビジネス
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/912.html

欧米諸国はイルカの人道などには厳しいが、チベットやウイグルの人道には関心を持たない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/608.html

ウイグル弾圧で54か国が中国支持の衝撃 国連総会で日米欧と対決
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/708.html

日本人ジャーナリストがウイグル問題を報じると こういう目に遭う
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/482.html

中国の法輪功弾圧者に対する国際的懲罰が始まった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/469.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html

台湾は中国では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html

台湾は中国ではないんだけど
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html

日本はもうすぐ中国小日本省になる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/186.html

沖縄が中国に「復帰」するとこうなる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/784.html



3:777 :

2022/06/05 (Sun) 15:20:11

あげ6
4:777 :

2022/06/20 (Mon) 07:04:01

あげ11
5:777 :

2022/07/04 (Mon) 03:45:15

あげ444
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/01 (Sun) 08:51:24

寵妃さん
2011/6/16 20:48
「胡人俑」
面立ちがアジアっぽくないように見えるんですけど、「胡人」とは今でいうどのあたりに暮らす人たちですか?
よろしくお願いいたします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1364622428


ベストアンサー
折川びんごさん
2011/6/21 15:44

中国において「胡人」の指し示す民族は時代によってやや違っています。古く、戦国時代には、内モンゴルの塞外民族(いわゆる「北狄」)を指していました。また、秦や前漢ではもっぱら匈奴(きょうど)を指していました。匈奴は、紀元前4世紀から5世紀にかけて中央ユーラシアに盤踞していた遊牧民族、およびそれが中核になって興った遊牧国家です。

しかし、7世紀になってシルクロードの往来が盛んになると、西域の諸民族を「西胡」と呼ぶようになります。一方、内モンゴル東部にいた民族は、「東胡」と呼ばれました。しかし、単に「胡人」という場合、唐代では、「西胡」、つまりほとんどソグド人(現在のイランに住んでいた人々)を指したようです。ソグド人は碧眼で眼窩が深く、高鼻で鬚が濃いという顔容をしていました。もともと「胡」は「顎鬚(あごひげ)が長い人」の意であったといいます。お示しの胡人俑もその特色をよく表しています。

やや詳しくいうと、ソグド人は、中央アジアのソグディアナ地域のイラン系住民です。アケメネス朝ペルシャのころから、ゼラフシャン川流域で、主にオアシス潅漑農業と牧畜を営んでいました。また、内陸アジアでは商人として活躍し、独自の文化を11世紀半ばまで保ったといわれています。この間、ソグディアナ地域はアレキサンダー大王やイスラム王朝の支配を受けますが、こうした支配も、その豊かな土地と都市文化、そして彼らの商業的才能との共生関係に支えられていたのです。

http://miho.jp/booth/html/imgbig/00008361.htm

http://beijinging.zening.info/museum/Dscn9181_m.htm

http://www.antiques-oota.com/file/toyo/073.html

http://abc0120.net/words03/abc2009090303.html

上記の胡人俑を見てわかるように、胡人(ソグド人)たちは、特色ある帽子を被り、大きな荷物を背に負い、時にはラクダや馬に乗ってシルクロードを行き来し、交易していました。『旧唐書』(くとうじょ)は胡人(ソグド人)について次のような興味深い記録を載せています。


子供が生まれると、必ずその口中に石蜜(氷砂糖)を含ませ、掌中に明膠(よいにかわ)を握らせる。それは、その子供が成長したとき、口に甘言を弄すること石蜜の如く、掌に銭を握ること膠の粘着する如くであれ、という願いからである。人々は胡書(ソグド文字)を習い、商売がうまくて分銖(わずか)の利益を争う。男子が20歳になると、商売のために近隣の国々へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない。


また、玄奘三蔵は『大唐西域記』の中で次のように述べています。


体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐(嘘偽り)がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多いものを貴しなし、(身分の)良いもの賤しいものという区別はない。たとえ巨万の富があっても、衣食は粗悪である。


玄奘三蔵の記述はソグド人の本質をよくとらえていると思います。
いずれにせよ、胡賈(こか、胡の商人)は西方の文物や慣習をもたらし、中国文化の世界化に大きな役割を果たしました。早くには、後漢の霊帝が、胡服、胡帳、胡床、胡座、胡飲、胡笛、胡舞を好み、都の貴族たちもそれに倣ったとの記録が残っています。また唐代には、こうした胡趣味が広がり、大流行したともいわれています。胡人俑の製作も、そうしたことの反映といってよいでしょう。また、正倉院御物をみてもわかるように、その影響は日本にもおよんでいます。

その足跡は中国だけではなく、西はビザンチン帝国、さらに北方の遊牧民、とくにウイグル族の間にもおよびました。また、胡人(ソグド人)は、東トルキスタンや中国甘粛省北西部などに植民地をも建設して相互に密接な関係を築きあげ、ゾロアスター教、マニ教などの精神文化を含むイラン文化の東アジアへの伝播に大きく寄与しました。

以上のように、胡人(ソグド人)が、東西内陸交易や中央アジア、遊牧民へ与えた文化的・政治的影響ははかり知れないものがあります。その遺跡としては、サマルカンド近郊のムグ山やピンジケントから発見されています。

http://blogs.yahoo.co.jp/h726m/53094315.html

なお、安禄山は本姓は「康」で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥人との混血といわれています。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(明るい・光の意味)」の音訳です。質問者はその関係で興味をもたれたのでしょうか。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1364622428
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/11 (Sat) 16:18:45

雑記帳
2023年02月10日
古代ゲノム研究に基づく中国の先史時代
https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_10.html

 古代ゲノム研究に基づく中国の先史時代の概説(Gao, and Cui., 2023)が公表されました。本論文は、おもに現在の中華人民共和国の領土(中国)を対象として、近年の古代ゲノム研究を再検討します。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して、中国も含めてアジア東部の古代ゲノム研究が遅れていたことは否定できません(Liu et al., 2021、関連記事)。これは、中国では北方に位置する北京でさえローマよりも低緯度に位置することにも表れているように、中国は全体的に温暖湿潤な地域が多く、古代DNAの保存に適した地域とは言えないことも要因となっています。

 しかし近年では、DNA解析技術の飛躍的発展や中国の学術面での大きな進歩もあり、中国の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあります。当ブログでもそうした研究をそれなりに取り上げており、アジアへの現生人類(Homo sapiens)拡散についての総説を取り上げたこともありますが(Yang., 2022、関連記事)、本論文はおもに中国を対象として古代ゲノム研究を整理しており、中国の先史時代の理解に有益なので、詳しく読むことにしました。当ブログで取り上げた論文については、該当の記事とともに最後に掲載しますが、本論文で引用されている文献は多いので、代表的な論文だけに限定したり、本論文で引用されていないより包括的な文献も取り上げたりしました。



◎要約

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)は約40年前に古代の遺骸から初めて抽出に成功しました。古代DNA研究は、21世紀初頭の次世代配列決定(next-generation sequencing、略してNGS)技術の進歩や、古代DNAの抽出および増幅の分野の発展により、大変革を遂げました。近年では、多数の古代ゲノムデータがヒトの起源と進化に光を当て、人口集団の移住および混合事象と、言語および技術の拡大への新たな洞察を提供してきました。中国はユーラシア東部に位置しているので、現生人類の居住の歴史を通じて、ユーラシア人の遺伝的歴史の調査に不可欠の役割を果たします。本論文は、中国の先史時代の再構築に役立つ、古代ゲノム解析に由来する最近の発展を再検討します。



◎前書き

 過去数十年にわたって、古代DNA研究には大変革がありました。ヒトの歴史の再構築に関して、多くの注目すべき達成がありました(たとえば、Bergström et al., 2021、関連記事)。当初、古代DNA研究はmtDNAのひじょうに可変的で部分的にコードする領域と、情報をもたらすY染色体の一塩基多型(SNP)に焦点を当てました。2006年以後、NGS技術の導入と古代DNA抽出の手法最適化により、先史時代の人口集団についてゲノム規模の古代DNA調査が可能になり、これは過去への新たな窓を開きました(たとえば日本語で読める具体的な解説は、太田., 2023、関連記事)。古代ゲノム研究は、時空間的なヒトの差異と移動性のパターンの包括的な理解につながります。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型のヒト【絶滅ホモ属、非現生人類ホモ属】から得られたゲノム規模データは、ヒトの進化への直接的な洞察を提供しました(Reilly et al., 2022、関連記事)。深く標本抽出された時間横断区の規模での大陸の人口集団の大規模な研究は、時間的にも空間的にも両方で、人口集団の遺伝的起源の直接的証拠を提供でき、ヒトの移住および相互作用の詳細を増やせます(Olalde, and Posth., 2020、関連記事、およびVicente, and Schlebusch., 2020、関連記事、およびZhang, and Fu., 2020、関連記事、およびChoin et al., 2021、関連記事、およびWillerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。

 ユーラシア東部に位置し、アジアの北部と中央部と南東部をつなぐ中国は、アジアのヒトの歴史の再構築にきわめて重要な地域です。その広大な版図と多様な地形は、ヒトの移民と古代文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の長い歴史の発祥地でした。中国の人口集団の起源と進化的歴史は、考古学や歴史学や言語学や人類学や遺伝学や、最近では古ゲノミクスなど、さまざまな研究分野で広範に研究されてきました。中国における古代ゲノム研究は比較的遅く始まりましたが、古代中国の人口集団のゲノム規模データは近年では急速に蓄積されつつあります。古代DNA研究は中国とアジア東部の人口史に勝ちのある情報を提供し、中国文明の形成と発展をより深く理解する試みに重要です。



◎中国の人口集団の起源

 中国とさらにはアジア東部における解剖学的現代人(現生人類、anatomically modern humans、略してAMH)の起源は、ひじょうに長きにわたって議論されてきました。おもに2つの仮説があり、一方は他地域仮説で、もう一方は最近のアフリカ起源仮説です(Stringer., 2022、関連記事)。中国で発掘された古代人の化石から収集された証拠は多地域進化説を支持しますが、遺伝学的研究は最近の出アフリカ説と一致します【この問題に関しては、中国の民族主義と絡めて論じた概説(Cheng., 2017、関連記事)があります】。

 2017年の研究(Yang et al., 2017、関連記事)では、中国の北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の個体の全ゲノムが配列決定されました。Yang et al., 2017の成果は中国における初期現生人類の最初のゲノム規模解析を示したので、時空間的に標本抽出の間隙を埋めました。田園個体のゲノムは、現代アジア人と類似した遺伝的特徴を有しており、上部旧石器時代ユーラシア人により共有されるネアンデルタール人由来のDNAが約4~5%ありました。田園個体は、ヨーロッパ人とよりも現在および過去のアジア人の方と相対的に密接な関係がありました。

 しかし、田園個体と、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の個体(ゴイエQ116-1)やブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)個体群といった同じ頃の古代ヨーロッパの個体群との間の遺伝的つながりが観察されており(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)、旧石器時代のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の拡大と関連しているかもしれません【本論文はオーリナシアンの拡大との関連を指摘しますが、Hajdinjak et al., 2021や他の研究(Vallini et al., 2022、関連記事)などで指摘されているのは、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)との関連です】。

 ゲノム解析の証拠から、田園個体は現代の中国の人口集団の直接的祖先ではなかった、と示されており、4万年前頃のアジアの人口集団の多様性が示唆されます。さらに、アムール川地域の33000年前頃の1個体(AR33K)は田園個体と類似の遺伝的構成要素を共有しており(Mao et al., 2021、関連記事)、最終氷期前には田園個体関連人口集団が中国北部に広がっていた、と示唆されました。



◎地域的な中国の人口集団の交通と統合

 初期中国文明はさまざまな特徴を示しながら複数の地域で形成されたので、物質文化の多様性が見られました。さまざまな文化的人口集団の遺伝的な歴史や、周囲の人口集団との交流と相互作用や、広く議論されている現代の人口集団の形成への影響に関する、多くの論題があります。最近の古代ゲノム研究は、これらの問題に新たな洞察を提供してきました。


●中国の北東部地域

 中国の北東部地域は地理的にアジア北部と極東をつなぎ、遼寧省と吉林省と黒竜江省と内モンゴル自治区(モンゴル南部)の南東部を含みます。この地域には旧石器時代以来、人類が居住してきました。この地域の物質文化は新石器時代に栄え始め、中国北部の文化と乾燥地のうこうの中心地となりました。この地域は中国文明の形成と発展や、アジア東部北方における農耕の拡散に顕著な影響を及ぼしてきました。最近、アムール川地域と西遼河地域のゲノム規模データは、研究者による中国のこの地域の動的な人口統計学的過程の比較に役立ちました(Ning et al., 2020、関連記事、およびMao et al., 2021)。

 アムール川(AR)地域は極東に隣接しており、天然資源が豊富です。その結果、漁業や狩猟や畜産がこの地域の主要な生計戦略を構成します。この地域の人口史は、旧石器時代から鉄器時代のAR個体群のゲノム解析を通じて再構築されました(Ning et al., 2020、およびMao et al., 2021)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前には、ARの人口集団(AR33k)は田園個体と類似の遺伝的特性を有していました。

 一方、LGMの末には、【AR19個体に代表される】この地域の遺伝的構成(AR19k)は変わっており、以前には広がっていた田園関連構成要素は現代のアジア東部構成要素に置換されたかもしれず、33000~19000年前頃の遺伝的不連続性を反映しています(Mao et al., 2021)。アジア東部の古代の南方沿岸人口集団と比較すると、AR19kは古代の沿岸部北方人とより近い遺伝的関係を有しています(Mao et al., 2021)。この観察に基づくと、アジア東部人の南北間の遺伝的違いは19000年前頃には形成されており、それは以前に報告された可能性よりもほぼ1万年早くなります。

 LGMの後には、AR地域の人口集団は遺伝的連続性を示し、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)で回収された新石器時代(N)の採食民/農耕民である、悪魔の門人口集団(悪魔の門_N)と最も近い遺伝的関係を有しています(Sikora et al., 2019、関連記事)。さらに、14000年前後には、人口集団の遺伝的構成要素は変わらないものの、局所的な人口規模は増加し、この地域における定住農耕の出現と関連しているかもしれません(Mao et al., 2021)。

 西遼河(WLR)地域は中国文明の初期の形成と発展にとって重要な地域で、中国北部における乾燥地雑穀農耕の中心地の一つです。この地域の人々は、おもに農耕と漁撈と狩猟で暮らしていました。新石器時代の中期に、紅山(Hongshan)文化(6500~5000年前頃)に代表されるよく発達した物質文化が、この地域とその近隣地域に拡大しました。この地域の人口集団の起源、および黄河流域など他の雑穀栽培地域との接触に焦点を当てた研究は、中国における農耕の拡散についての知識の増大に重要です。

 AR地域における人口統計学的過程とは異なり、中期新石器時代(MN)から青銅器時代(BA)にかけてのWLRにおける人口動態は、周辺の人口集団との一連の相互作用により特徴づけることができます(Ning et al., 2020)。WLR地域の人口集団は、新石器時代AR地域(AR_EN)と中期新石器時代黄河(YR)地域(YR_MN)の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合を有していますが、これら2祖先系統の割合は時空間的規模で異なりました。AR地域に隣接する、WLRの北方の中期新石器時代のハミンマンガ(Haminmangha)人口集団は、WLRの南部の同時代の紅山文化人口集団よりも多くのAR_EN祖先構成要素を有していましたが、後期新石器時代人口集団は、中期新石器時代人口集団よりもYR_MN祖先構成要素を多く有していました。

 遺伝的構成のこの差異は、中原人口集団の北方への移住と、中国北部における2つの主要な乾燥地農耕中心地の人口集団間の接触を反映していました。遺伝学的証拠から、中国北部における農耕拡散のパターンは人口移動により促進視されたかもしれない、と推測されました。青銅器時代における気候変化の結果として、WLRはもはや雑穀栽培に適さなくなり、その生計戦略は遊牧的な牧畜へと変わり、AR_EN祖先系統構成要素増加の遺伝的変化を伴いました。


●中国の中原

 中原は自然条件が良く、中国文明の発祥地です。仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化は中原の新石器時代文化の代表で、彩色土器で有名です。考古学的証拠は、中原と周辺地域との間の相互作用を明らかにしました。中原における新石器時代から後期青銅器時代/鉄器時代の人口集団の遺伝的特性は類似しているものの、中国南部およびアジア南東部(SC-SEA)からの遺伝的構成要素が後期新石器時代の後に増加し、この時には稲作農耕が中原で強化されました(Ning et al., 2020)。人口集団の遺伝的変化と稲作農耕技術の長江流域からの北方への拡大との間の相関から、中国における農耕の人口拡散パターンを推測されました。

 古代の中原人口集団と比較して、現代の漢人はSC-SEAとは一般的により多くの祖先構成要素を有しており、これは漢人の形成期における稲作に依拠した農耕人口集団の継続的な北方への移住の結果かもしれません。さらに、新石器時代から鉄器時代にかけて、中原人口集団と類似した祖先構成要素を有する人口集団は、黄河上流や陝西省や内モンゴル自治区(モンゴル南部)など周辺地域に広く分布しており、中原と周辺地域との間の継続的な遺伝的交流が示唆されます(Ning et al., 2020、およびWang CC et al., 2021、関連記事)。


●中国の北西部地域

 中国の北西部地域は、東西をつなぐ経路で、文化と人口の交流において重要な役割を果たしました。この地域の遺伝的歴史は、長く議論されてきました。アジアの東部と中央部との間の交差点に位置する新疆には、複雑な人口史があります。この地域ではユーラシア東西間の文化的交流と人口集団の相互作用が、シルクロード(絹の道)が開けるずっと前に起きていました。新疆の移住はひじょうに議論になっている問題です。おもに二つの仮説がその起源の説明に提案されており、それは草原地帯仮説とオアシス仮説です。草原地帯仮説は、新疆への最初の移民はタリム盆地の北方のアルタイ地域からのアファナシェヴォ(Afanasievo)文化関連人口集団だった、と仮定します。対照的にオアシス仮説は、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)地域からの農耕民が青銅器時代にタリム盆地に到来した、と示唆します。

 2021年の研究(Zhang et al., 2021、関連記事)では、タリム盆地の小河(Xiaohe)文化のミイラで行なわれた古代DNA研究からの調査結果が報告されました。その結果、以前の仮説のいずれも裏づけられず、青銅器時代タリム盆地人口集団の古代ゲノム解析は在来起源モデルを示しました。タリム盆地人口集団の遺伝的構成要素は、草原地帯人口集団ともBMAC人口集団とも関連しておらず、古代北ユーラシア人(ANE)と古代アジア北東部人(ANA)の混合でした。この混合事象の年代は10000~6000年前頃と推定されました。現時点ではタリム盆地のミイラにより最良に表されるANE関連構成要素は、青銅器時代とそれ以前にユーラシアにおいて広がっていたかもしれません。文化的交流が小河文化と近隣の人口集団間で起きましたが、小河文化人口集団は遺伝的に孤立しており、長期の遺伝的安定性を維持しました。小河文化人口集団とは異なり、ジュンガル盆地の初期人口集団は、その祖先構成要素の大半がアファナシェヴォ文化人口集団に、さらに在来のANE祖先系統に由来します。

 その後、新疆の200個体以上の古代人のゲノム研究も、新疆北西部の初期青銅器時代人口集団の祖先構成要素は、小河文化人口集団により表される在来の人口集団だけではなく、アファナシェヴォ文化やチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化やシャマンカ(Shamanka)の人口集団にも由来する、と証明しました(Kumar et al., 2022、関連記事)。新疆と、草原地帯西部やアジア中央部および北東部などその周辺地域の青銅器時代におけるこれら人口集団間の頻繁な相互作用と混合は、新疆人口集団の複雑な遺伝的歴史を反映していました。

 青銅器時代の中期と後期には、アンドロノヴォ(Andronovo)文化からの祖先構成要素、アジア東部からの祖先系統の流入増加が観察されました。青銅器時代の人口集団と比較して、鉄器時代の人口集団は、漢人や匈奴などより多様な起源を有する、アジア中央部および東部の祖先構成要素の高い流入を示しました。鉄器時代の人口集団の遺伝的特性は、歴史時代および現在の新疆の人口集団で依然として観察されました。鉄器時代の新疆におけるサカ(Saka)文化構成要素の存在は、新疆におけるインド・イラン語派の拡大と関連しているかもしれません。新疆のこれらゲノム研究は、この地域の人口史を理解する試みに役立ち、さらに技術と言語の伝達に関する文献にさらに寄与しました(Zhang et al., 2021、およびKumar et al., 2022)。

 中国北西部に位置する黄河中流域と上流域は、中国文明の重要な発祥地の一つです。考古学と言語学両方の研究では、この地域の初期人口集団はシナ・チベット語族話者人口集団の形成と発展にかなりの影響を及ぼした、と示唆されました。この地域の5000年前頃のゲノムの遺伝学的分析(Wang CC et al., 2021)から、黄河流域の新石器時代人口集団はかつてチベットと中原に移住し、シナ・チベット語族を拡散させた可能性が高く、シナ・チベット語族話者の共通祖先の一つかもしれない、と明らかにされました。台湾の鉄器時代人口集団は、その祖先系統が、長江流域に居住していた農耕民だけではなく、中国北部に居住していた古代の人々にも由来しました(Wang CC et al., 2021)。この発見の痕跡は、中国北部の人々の南方への移住を確証しました。現代漢人の遺伝的構成は、黄河流域と鉄器時代台湾のさまざまな程度の祖先系統の混合としてモデル化でき、これは南北の漢人の間の遺伝的違いの理由を推測しました。


●中国の沿岸地域

 中国の南北の人口集団の遺伝的パターンと分岐過程は、アジア東部の深い人口史を調べるためには重要です。ゲノムの観点から洞察を得るために、研究者は中国北部沿岸地域(山東省)と内モンゴル自治区(9500~7700年前頃)および南部沿岸地域(12000~500年前頃)にわたる新石器時代のヒト遺骸を収集しました(Yang et al., 2020、関連記事、およびWang T et al., 2021、関連記事)。そのゲノムデータから、山東省の新石器時代遺跡の個体群により表されるアジア東部北方祖先構成要素は黄河とさらにシベリア東部草原地帯へと北方に少なくとも9500年前頃には拡大したのに対して、南部沿岸地域と台湾海峡の人口集団は、福建省とその隣接する島々の8400年前頃の新石器時代個体群により表される、アジア東部南方祖先構成要素の遺伝的構成要素を有している、と示唆されました(Yang et al., 2020)。これら2つの遺伝的構成要素は、2つの異なる遺伝的系統に分離しました。時の経過とともに、南北の人口集団間の遺伝的違いはじょじょに狭まり、新石器時代以来の南北間の頻繁な人口移動と混合が示唆されます。

 中国の南部沿岸地域はアジア南東部と接しており、現生人類の居住の長い歴史があります。中国南部沿岸は、ユーラシア東部とオセアニアの現生人類の起源と進化史の研究にとって重要な地域です。9000~8000年前頃となる福建省とその周辺地域の個体群の古代ゲノム解析から、南方祖先系統は現在の南部本土人口集団では大きく減少した、と示唆されました(Yang et al., 2020、およびWang T et al., 2021)。しかし、この祖先構成要素は現在のオーストロネシア人に顕著な影響を与えており、後期新石器時代のアジア南東部人口集団と密接に関連していました。

 広西チワン族自治区で発見された10686~294年前頃のヒト遺骸で行なわれたゲノム規模研究は、以前には標本抽出されていなかったアジア東部祖先系統を特定し、それは隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された較正年代で10686~10439年前頃の個体により表される広西祖先系統で、その遺伝的特性は古代の南方祖先系統(福建省祖先系統)およびアジア南東部の8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)個体関連祖先系統とは異なります(Wang T et al., 2021)。福建省祖先系統と広西祖先系統を有する人口集団間の相互作用は、9000年前頃に起きました。広西祖先系統は6400年前頃まで中国南部において存続しました。中国南部とアジア南東部との間の人口集団の混合は早くも9000~6400年前頃に起き、つまり、この地域に農耕技術が導入される前でした。



◎まとめと展望

 中国で行なわれた古代ゲノム研究の過去5年間の急速な発展は、中国の人口集団の起源と人口史の追跡に、大量の価値ある情報を提供してきました。たとえば、4万年前頃の田園個体の遺伝的特徴や、広範囲のこの祖先系統です(Yang et al., 2017、およびMao et al., 2021)。中国には広い領域と多様な地形があります。先史時代人口集団の遺伝的景観し人口統計学的事象は、地域により異なります(図1)。南北の人口集団は早くも19000年前頃には分岐し、両者の間の遺伝的違いは経時的に減少し、継続的な人口集団の相互作用が示唆されます。以下は本論文の図1です。
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 AR(アムール川)地域はLGMの末に遺伝的変化を経て、その後に長期の遺伝的連続性を示しました。農耕の拡大を伴う遺伝的変化と人口移動が、WLR(西遼河)地域で観察されました。中原の人口集団は周辺地域へと拡大し、SC-SEAからの遺伝的構成要素は経時的に増加しました。新疆の人口集団の動的なパターンは、初期小河人口集団により表される在来の祖先系統と周辺の人口集団との間の一連の混合により特徴づけることができます。南部沿岸地域は農耕の導入前に、さまざまな遺伝的祖先系統間の複雑な相互作用を経ました。

 しかし、中国の人口史の理解は完全にはほど遠いものです。中国の人口集団の直接的な祖先、いつどのように北部人口集団は南部人口集団と相互作用したのか、長江地域の古代の農耕民の遺伝的構成と拡大、チベット人の起源と進化など、多くの問題が提起されました。古代ゲノムデータはある程度蓄積されてきましたが、中国の人々の複雑な遺伝的過程の再構築には依然として長い道のりがあります。将来、時空間的横断区の以前には標本抽出されていなかった地域、たとえば中国の中央部地域からの古代ゲノムデータが増え、考古学年代測定や言語学や生物情報学やゲノミクスやプロテオミクス(タンパク質の総体であるプロテオームの解析手法)が発展すれば、学際的研究は、中国の人口集団の起源、人口集団の移住と相互作用、経時的な環境への適応について、並外れた洞察を提供できます。


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太田博樹(2023)『古代ゲノムから見たサピエンス史』(吉川弘文館)
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https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_10.html
8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/23 (Thu) 09:33:25


中国最古の王朝 殷
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14097933
9:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/05/22 (Mon) 14:48:25

雑記帳
2023年05月21日
中国北東部におけるマンジュ人と朝鮮人の遺伝的構造および混合
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_21.html

 中国北東部におけるマンジュ(満洲)人と朝鮮人の遺伝的構造および混合に関する研究(Sun et al., 2023)が公表されました。本論文は、現在中国北東部に暮らす少数民族であるマンジュ人と朝鮮人の遺伝的構造および混合の分析結果を報告しています。民族は遺伝的特徴により定義されるわけではありませんが、民族集団間の明確な遺伝的差異が多くの場合存在することも否定できず、こうした遺伝学的研究は民族の形成過程の解明に役立つと考えられ、今後は倫理的側面に配慮しつつますます盛んになっていくでしょう。


●要約

 マンジュ人と朝鮮人の微細規模の遺伝的特性および人口史は、不明なままです。本論文の目的は、マンジュ人と朝鮮人の人口集団の微細規模の遺伝的構造および混合を推測することです。遼寧省のマンジュ人16個体と吉林省の朝鮮人18個体が収集され、70万のゲノム規模一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で遺伝子型が決定されました。主成分分析(principal component analysi、略してPCA)とFst(遺伝的距離)とTreeMixとf-statisticsとqpWaveとqpAdmを用いて、データが分析されました。

 マンジュ人と朝鮮人は、アジア北東部人との遺伝的類似性を示しました。中国の朝鮮人は、西遼河(WLR)の青銅器時代(BA)人口集団との長期の遺伝的連続性を示し、韓国および日本の朝鮮人との強い類似性を有しています。マンジュ人は、中国南部から追加の遺伝的影響を受けて以降、他のツングース系人口集団と比較してさまざまな遺伝的特性を有していますが、ユーラシア西部関連の混合を有していません。中国南部人が関わるマンジュ人の遺伝的形成は、マンジュ人と中国中央部および南部の人口集団間の広範な相互作用と一致しました。古代の西遼河農耕民と朝鮮人との間の大規模な遺伝的連続性は、朝鮮半島の移住において農耕拡大が果たした役割を浮き彫りにしました。


●研究史

 マンジュ人は中国で3番目に多い少数民族です。マンジュ人はおもに中国北東部、とくに遼寧省と吉林省に分布していました。さらに、マンジュ人は甘粛省や貴州省や湖南省など、中国全土に分散していました。歴史的にマンジュ人の起源は、周(Zhou)の粛慎(Sushen)、漢王朝(Han Dynasty)の英楼(Yinglou)、南北朝時代の無忌(Wuji)、隋(Sui)および唐(Tang)王朝の靺鞨(Mohe)、金王朝(Jin Dynasty)のジュシェン(Jurchen、女真)にたどることができます。明王朝(Ming Dynasty)の期間には、建州(Jianzhou)女真が現在のマンジュ人の領域で発展しました。マンジュ人の祖先の言語は女真語です。現在のマンジュ語はツングース語族のマンジュ語群に分類され、ツングース語族では最大の人口を有しています。ツングース語族はユーラシア東部と満洲で、マンジュ人やシボ人(Xibo)やオロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やウリチ人(Ulchi)やエヴェンキ人(Evenk)やネギダール人(Negidal)など、ツングース系の人々により話されています。考古言語学的研究では、祖型ツングース語族の故地は、ロシアと中国の国境極東部であるハンカ湖(Lake Khanka)周辺地域だった、と示唆されました。

 常染色体の縦列型反復配列(Short Tandem Repeat、略してSTR)やY染色体ハプロタイプやX染色体のSTRを対象としたものも含めて、マンジュ人のこれまでの遺伝学的研究では、北方漢人とマンジュ人との間に小さな遺伝的距離がある、と示唆されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、マンジュ人はアジア東部の南北人々からの混合の兆候を有しており、近隣のモンゴル人や朝鮮人や遼寧省の漢人と近い遺伝的関係を示した、と示唆されました。父系のY染色体側では、マンジュ人における優勢な型はY染色体ハプログループ(YHg)O2(M122)で、その割合は42.6%です。Y染色体STR (Y-STR)により計算されたRst(遺伝的分化度)から、マンジュ人はチベット人やウイグル人のような一部の中国の人口集団とは有意に異なっていたものの、北方漢人やモンゴル人とは密接な類似性を有している、と示されます。遼寧省撫順市の新賓(Xinbin)自治県で収集されたマンジュ人93個体の高密度のゲノム規模SNPデータ定性的および定量的分析は、北方漢人との大規模な混合を示しました。マンジュ人は古代の靺鞨および鮮卑(Xianbei)の人々により表される北方の人口集団と、鉄器時代台湾人標本により表される南方人口集団との混合としてモデル化できます。

 マンジュ人とは異なり、朝鮮人は国境を越えた民族集団と、朝鮮半島の主要な国民を構成します。中国の朝鮮人の最大の居住地域は、吉林省の延辺(Yanbian)朝鮮族自治州です。言語学的観点から、朝鮮語は未知の系統の孤立した言語として日本語に類似している、と考えられています。朝鮮語は文法の特徴の観点では、日本語やツングース語族やモンゴル語族との類似要素を有しています。日本語やマンジュ語と同様に、朝鮮語には多くの中国語からの借用語があります。しかし、朝鮮語の主語-目的語-動詞の構造はマンジュ語と同じで、中国語の主語-動詞-目的語の構造とは異なります。

 mtDNAの観点からは、朝鮮人は典型的なアジア東部人の特性を示します。YHg-O1b2(SRY465)から、祖型朝鮮人の起源は新石器時代(10000~9900年前頃以降)と青銅器時代(3450~2350年前頃)の中国北東部にたどることができる、と示唆されました。先行研究(関連記事)は現代韓国人88個体を報告し、シベリア東部とアジア南東部の2つの主要な遺伝的構成要素を見つけました。現代朝鮮人は、新石器時代アジア北東部人と鉄器時代アジア南東部人の混合として最適にモデル化できます。

 紀元後4~7世紀の三国時代にさかのぼる朝鮮半島の古ゲノムデータを報告した研究(関連記事)では、これら古代人のゲノムが、青銅器時代中国北部供給源(黄河_後期青銅器時代~鉄器時代もしくは遼河_青銅器時代)と縄文関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)との間の混合としてモデル化できました。しかし、中国の朝鮮民族に関して報告されたゲノム分析はありません。人口集団の形成は国境に関係ないことには要注意ですが、中国の朝鮮人の遺伝的多様性の調査は興味深いことです。

 本論文は、遼寧省錦州(Jinzhou)市に暮らすマンジュ人16個体と、延辺朝鮮族自治州安図(Antu)県の朝鮮人18個体のゲノム規模SNPデータを報告しました。先行研究は、遼寧省東部の新賓自治県のマンジュ人標本を収集して遺伝子型決定しましたが、本論文は遼寧省中央部~西部の錦州市のマンジュ人標本を収集して遺伝子型決定しましたがマンジュ人は遼寧省において大きな人口を有しているので、マンジュ人内のあり得る遺伝的下位構造を推測するには、より多くの標本の遺伝子型決定がより適切です。さらに、錦州市は遼寧回廊の東部に位置しており、この回廊は歴史的に、中国の北部と南東部との間の陸上交通のほとんどを接続してきました。錦州市北鎮(Beizhen)市における先住マンジュ人の民族的記憶は、その故地をチャンバイ山(Changbai Mountain、長白山、白頭山)と記録しました。安図県は、チャンバイ山脈の麓にある朝鮮民族自治区です。この研究は、中国北東部の少数民族の移住および混合事象に関するより詳細な情報の提供を期待して、この2ヶ所を標本抽出しました。


●標本と分析手法

 遼寧省錦州市の隣接する黒山(Heishan)県と北鎮市(県級市)のマンジュ人16個体(以下の分析では「マンジュ人_錦州」と分類されます)と、吉林省の延辺朝鮮族自治州安図県二道白河(Erdaobaihe)鎮の朝鮮人18個体(以下の分析では「朝鮮人_安図」と分類されます)の唾液標本が収集されました(図1)。全標本は、説明と同意を得て採取されました。参加者は厦門大学の医療倫理委員会により審査され、承認されました。717228のSNPを含むDNA標本が遺伝子型決定されました。KINGソフトウェアを用いて、3親等程度の関係の個体が削除されました。最終的に、マンジュ人15個体と朝鮮人18個体が確保されました。以下は本論文の図1です。
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 これら新たに収集された標本は、以前に刊行された現代および古代の人口集団のゲノム規模SNPデータと統合されました。本論文では、その後の遺伝的分析のため、以下の3つの参照データセットが生成されました。(1)古代人と現代人が含まれる、1233013ヶ所の部位でのショットガン配列決定データもしくは溶液内標的捕獲により得られた124万データセットSNPで、統合後に206105ヶ所のSNP部位が確保され、qpWaveおよびqpAdm分析で用いられました。(2)597573ヶ所の部位があるヒト起源(Human Origins)配列(HO)で、現在の個体群と統合された124万データセットです。69659ヶ所のSNP部位のあるこの「HO」統合データセットには、より多くの現代人個体が含まれ、f統計とTreemix分析で用いられます。(3)貴州省と遼寧省から得られた以前に刊行されたゲノム規模データが、上述の124万およびHOデータセットと統合され、その後で42912ヶ所の部位が残りました。このデータセットは、Fst値を計算するためにPCAとADMIXTUREで用いられました。

 PCAでは、現代の参照人口集団を用いて主成分の2軸(PC1とPC2)が計算され、次に古代の個体群がPC1とPC2に投影されました。ADMIXTUREでは、まず連鎖不平衡のSNPが取り除かれ、最終的に42192個の多様体のうち4611個が除去されて、K(系統構成要素数)=2~8でADMIXTUREが実行され、それぞれの交差検証(cross-validation、略してCV)誤差が検証されました。最小CV誤差で最適モデルが選択され、各個体の割合が可視化されました。以前に刊行されたマンジュ人のデータが統合され、人口集団の分化と遺伝的距離を測定するFstが計算されました。Treemix(第1.13版)が用いられ、一連の人口集団について最尤系統樹が構築されました。アフリカの人口集団であるムブティ人は外群とみなされ、根源人口集団として設定されました。

 異なる2形式の3集団検定(f3統計)がその後の分析で用いられました。まずは、f3形式(調査対象の人口集団、参照人口集団;外群)の外群f3統計で、これは調査対象の人口集団と選択された参照人口集団との間の外群からの分岐以降の共有された遺伝的浮動を計算します。ムブティ人が外群として用いられました。これに続いて、f3形式(供給源1、供給源2;調査対象の人口集団)の混合f3統計が実行され、調査対象の人口集団が選択された参照人口集団の供給源1と供給源2で混合だったのかどうか、検証されました。Z得点が-3未満の有意な負のf3値は、2つの供給源人口集団が調査対象の人口集団の遺伝的な祖先と関連している可能性を示唆します。

 4集団検定(f4統計)は、f4形式(ムブティ人、B;C、D)で計算され、外群としてムブティ人が使用されました。3を超えるZ得点の有意な正のf4統計値は、人口集団BとDとの間の遺伝子流動の可能性を示唆します。逆に、Z得点が-3未満の有意な負の統計値は、人口集団CとDとの間の遺伝子流動の可能性を示唆します。Z得点の絶対値が3未満で0に近いf4値は、BがCおよびD両方と類似の数のアレル(対立遺伝子)を共有していることを示唆します。

 qpAdmによる混合係数モデル化では、qpWaveおよびqpAdmプログラムが、上述の「124万統合」データセットで用いられました。124万データセットにおける以下の10人口集団が外群として用いられました。それは、アフリカのムブティ人4個体、台湾の先住民集団であるタイヤル人(Atayal)1個体、オセアニア人口集団であるパプア人1個体、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化の青銅器時代草原地帯人口集団(ロシア_アファナシェヴォ)の23個体、アンダマン諸島のオンゲ人15個体、アジア南東部(マレーシア)の後期新石器時代人口集団1個体、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃となる中国の後期旧石器時代1個体、日本列島の狩猟採集民(日本_縄文)6個体、新石器時代人口集団ではアムール川流域の前期新石器時代(EN)の(AR_EN)2個体とモンゴル南部の黄河(YR)流域の中期新石器時代(MN)廟子溝(Miaozigou)遺跡(廟子溝_MN)の3個体です。

 まず、モデル化において単一の供給源として、WLR_BAにより表されるアジア北東部、もしくはYR_MNにより表される黄河の古代の農耕民と、古代朝鮮半島の数人が用いられました。ADMIXTUREとf統計の結果に基づいて、次に台湾の漢本(Hanben)遺跡の個体により表される鉄器時代(IA)アジア東部南方人が、2方向混合モデルの供給源として追加されました。歴史的要因を考慮して、古代の人口集団である黒水(Heishui)_靺鞨とモンゴル_匈奴が3方向混合モデルで調査対象の人口集団に寄与したのかどうかも調べられました。


●人口集団の遺伝的構造

 人口集団の遺伝的構造を定性的に推測するため、まずPCAが実行されました(図2)。地理および言語学とよく対応する2つの遺伝的勾配が、最初の2主成分(PC)で観察されました。アジア東部の南北の勾配には、タイ・カダイ語族話者やオーストロネシア語族話者やオーストロアジア語族話者やミャオ・ヤオ語族話者や中国語話者や一部のチベット・ビルマ語派話者が含まれます。他の勾配はおもに、アジア北東部のツングース語族とモンゴル語族話者人口集団です。調査対象のマンジュ人と朝鮮人の標本は、これら2勾配間の位置していました。マンジュ人が漢人や一部のユグル人(Yugur)と密接にクラスタ化する(まとまる)のに対して、安図県の朝鮮人(朝鮮人_安図)は韓国の朝鮮人や日本字線や西遼河の青銅器時代人口集団と密接にクラスタ化しました。以下は本論文の図2です。
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 さらに、教師なしモデルに基づくADMIXTUREクラスタ化分析が実行され、K=4で最小CV誤差が観察されました(図3)。調査対象の両集団であるマンジュ人と朝鮮人は4つの祖先構成要素で構成されており、それはチベット人もしくは漢人(桃色と黄色)とアジア南東部人(黄色)とアジア北東部人(橙色)で豊富でした。マンジュ人は北方漢人と類似の遺伝的特性を示しましたが、朝鮮人_安図は韓国の朝鮮人と遺伝的に類似しており、これはPCAの結果と一致します。調査対象の朝鮮人_安図は錦州市のマンジュ人よりも橙色の構成要素が多く、朝鮮人がより多くのアジア北東部関連祖先系統を有しているかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図3です。
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●参照されたアジア東部現代人の間の人口集団の関係

 マンジュ人は地理的に広範囲に拡大した少数民族です。中国の北部と南部でマンジュ人における遺伝的下位構造が観察されました。中国北東部の遼寧省のマンジュ人、つまりマンジュ人_錦州およびマンジュ人_新賓と、中国南西部の貴州省のマンジュ人、つまりマンジュ人_畢節(Bijie)とマンジュ人_金沙(Jinsha)は、遺伝的に不均質でした(図4)。PCA図(図2)では、調査対象のマンジュ人はマンジュ人_新賓とクラスタ化したものの、貴州省のマンジュ人とは明らかに分かれています。貴州省のマンジュ人は、南部漢人やミャオ・ヤオ語族話者や在来の貴州省モンゴル人(モンゴル人_畢節)の方とより密接です。以下は本論文の図4です。
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 PCAおよびADMIXTUREの結果と一致して、朝鮮人と日本人は両方とも調査対象の朝鮮人_安図と高い外群f3値および低いFst値を示し、日本人および朝鮮人との朝鮮人_安図の遺伝的類似性が示唆されます。外群f3値とFst値は両方とも、調査対象のマンジュ人と朝鮮人との間の密接な関係を示唆しました。さらに、朝鮮人と日本人と調査対象の朝鮮人_安図は、Treemixにより推測された最尤系統樹ではともにクラスタ化します。アジア北東部のツングース語族話者人口集団から朝鮮人と日本人のクラスタへの遺伝子流動も検出されました(図5)。以下は本論文の図5です。
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 中国のカザフ人やキルギス人やエヴェン人(Even)など、アジア東部北方のテュルク語族およびツングース語族話者集団(図6A・B)と比較して、外群f3およびf4形式(ムブティ人、マンジュ人/朝鮮人;アジア東部1、アジア東部2)での対でのf4統計で示されるように、マンジュ人と朝鮮人_安図は、漢人やミャオ・ヤオ語族話者やタイ・カダイ語族話者や日本人や朝鮮人の方と多くの遺伝的浮動を共有しています。以下は本論文の図6です。
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 マンジュ人はf4(外群、X;マンジュ人_錦州、他のツングース語族話者)の値で示されるように(Xはアジア東部人口集団を表します)、他のツングース語族話者人口集団と遺伝的に異なっていました(図7)。同様のパターンは、朝鮮人_安図で見ることができます。f4値は他のツングース語族話者集団と比較してのアジア南東部もしくは東部とマンジュ人との間のより密接な関係を示し、それはユーラシア西部から他のツングース語族話者集団への遺伝子流動と中国南部からマンジュ人への遺伝的影響により起きた、と思われます。ユーラシア草原地帯の青銅器時代のロシアのアファナシェヴォ文化牧畜民を用いて、調査対象のマンジュ人およびツングース語族話者の3人口集団、つまりホジェン人とオロチョン人とシボ人におけるユーラシア西部人の影響の可能性が推測されました。マンジュ人ではユーラシア西部関連の影響の有意な証拠は検出されませんでしたが、他のツングース語族話者3人口集団では低い割合(4~6%)のユーラシア西部祖先系統が見つかりました。以下は本論文の図7です。
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●古代の人口集団間の関係

 外群f3(調査対象の人口集団、古代人、ムブティ人)で示されるように(図6C・D)、マンジュ人と朝鮮人は、黄河の古代人およびヤンコフスキー(Yankovsky)_IA(極東の鉄器時代の古代人)の祖先系統と最も近い類似性を有しています。調査対象の人口集団は、チベット人やミャオ・ヤオ語族話者やタイ・カダイ語族話者他の南部および北東部人口集団とよりも、黄河および西遼河流域の古代人の方と多くの遺伝的浮動を共有しています(図7B・C)。しかし、マンジュ人と朝鮮人は、漢人と比較して、黄河および西遼河流域の古代の人口集団と類似の量の遺伝的浮動を共有していました。

 朝鮮人は朝鮮半島と中国北東部に転がっています。韓国の朝鮮人は本論文の調査対象の朝鮮人と遺伝的に均質と分かりました。一方、歴史上の朝鮮半島人、つまり三国(Three Kingdoms、略してTK)時代の朝鮮人(朝鮮人_ TK)は、本論文の調査対象の朝鮮人とより多くの遺伝的浮動を共有しています。しかし、他の新石器時代の他の朝鮮半島古代人は、他のアジア東部人と比較して、共有された遺伝的浮動に有意な違いがありません(図7)。

 漢人との観察された関係を考慮して、f4(ムブティ人、古代人;マンジュ人/朝鮮人、アジア東部)で漢人集団に焦点が当てられました(図7)。アジア東部の古代の人口集団は、マンジュ人および河南省や山西省や山東省の北部漢人と類似の量のアレルを共有していました。しかし、マレーシア_LN(後期新石器時代)などアジア南東部の古代の人口集団は、マンジュ人よりも四川省および福建省の南部漢人と多くのアレルを共有していました。f4統計は、マンジュ人の位置に朝鮮人を置き、「古代人」としてアジア東部北方とシベリアの古代人集団を用いると、有意な正のZ得点を示し、朝鮮人は漢人よりもアジア東部北方もしくはシベリア南部の関連祖先系統を多く有している、と示されます。


●調査対象のマンジュ人と朝鮮人の混合モデル

 標的人口集団とマンジュ人と朝鮮人、可能性のある供給源とアジア東部と南東部全域の全ての現代の人口集団を用いて、混合f3統計が計算されました。チベット_チャムド(Chamdo)かウリチ人かナナイ人(Nanai)を北方供給源として、アミ人(Ami)もしくはタイ・カダイ語族話者集団を南方供給源とすると、マンジュ人の混合モデル化で上位の負のf3値を生成できます。朝鮮人を標的として用いると、ムーラオ人(Mulam)やマオナン人(Maonan)などタイ・カダイ語族話者とのナナイ人もしくはウリチ人などアジア北東部人は、上位の負のf3値を生成しました。負のf3値は、マンジュ人と朝鮮人両方の遺伝的形成が、恐らくは南北の供給源間の混合を含んでいた、と示唆します。次にqpAdmを用いて、マンジュ人と朝鮮人の遺伝的形成がモデル化されました(図8)。以下は本論文の図8です。
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 その結果、朝鮮人は西遼河の青銅器時代農耕民(WLR_BA)での単一の供給源に由来するものとして最適にモデル化できる、と分かりました。朝鮮半島の新石器時代もしくは青銅器時代の古代人、つまり前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)もしくは青銅器時代のTaejungni個体は、調査対象のマンジュ人および朝鮮人両方の単一の供給源としてモデル化でき、西遼河地域と朝鮮半島における長期の遺伝的連続性を示しています。しかし、マンジュ人は、中国南部から追加の遺伝的影響を受けた、と示唆されました。2方向モデルでは、マンジュ人は鉄器時代台湾人関連祖先系統17%とWLR関連祖先系統83%の混合としてモデル化できます。この2方向モデルは、北方祖先供給源が鉄器時代黄河上流集団(黄河上流_IA)に置換されても維持されることに要注意で、黄河上流_IAとWLR_BAの区別において現時点で利用可能なデータの解像度の限界が示唆されます。

 黒水_靺鞨もしくはモンゴル_匈奴を3方向モデルで第三の供給源として追加すると、マンジュ人は、台湾_漢本(鉄器時代)関連祖先系統7.5%、黄河_LN関連祖先系統84%、残りの黒水_靺鞨関連祖先系統8.5%としてモデル化できます。本論文の標的集団と密接に関連する集団との間の違いを比較するため、次に朝鮮人とマンジュ人を含めて近隣人口集団の形成がモデル化されました。同じ供給源と外群では、現代朝鮮人はWLR_BA(85%)と台湾_漢本(15%)の混合としてモデル化できます。マンジュ人は、台湾_漢本関連人口集団からはより少ない南方祖先系統であるものの、鮮卑もしくは靺鞨などアジア北東部人からのより多くの祖先系統でモデル化できる、と観察されました。


●各個体の父方と母方のハプログループ遺伝子型決定

 補足表5で、調査対象のマンジュ人と朝鮮人の母系となるmtDNAハプログループ(mtHg)と父系となるY染色体ハプログループ(YHg)が示されます。マンジュ人における優勢なYHgは、北部漢人と同様にO2a1c1です。一方、母系ではさまざまなmtHgが特定され、調査対象のマンジュ人ではB4・C4・D4・F1・F2・M8・N9が含まれており、これらの母系のほとんどは漢人でも優勢です。意外なことに、調査対象のマンジュ人でmtHg-U5が見つかりました。mtHg-Uはユーラシア西部人で広く分布しています。マンジュ人におけるmtHg-Uの存在は、マンジュ人の形成におけるユーラシア西部人の遺伝的影響を示唆します。

 吉林省延辺朝鮮族自治州安図県の調査対象の朝鮮人は、韓国の朝鮮人と類似の母系の遺伝的特性を有しており、mtHg-D4系統が優勢ですが、他のアジア東部人のように、mtHg-A5・B4・F1・G1・M7・M9・N9・Y1もあります。安図県の調査対象の朝鮮人6個体のYHgはO1とO2とC2で、全て漢人および朝鮮人で一般的に見られる系統です。


●考察

 かつて大きな影響力のある政権を確立した少数民族として、マンジュ人は何世紀にもわたって多くの民族集団と統合し、相互作用してきました。マンジュ人は創設した清王朝(ダイチン・グルン)において、漢人と大規模な通婚を行ないました。過去数世紀、中国北東部から遼東回廊を通っての中元への大規模な移住、および中国語では「闖関東(Chuang Guandong)」として知られているアジア北東部への勇敢な旅は、マンジュ人と中国中央部および南部の人口集団との間の広範な相互作用をもたらしました。それらの歴史的理由は、マンジュ人と、本論文における北方のシナ・チベット語族話者集団と南方のタイ・カダイ語族話者集団もしくはミャオ・ヤオ語族話者集団を含む中国全土の他の人口集団との間の、遺伝的類似性を説明できるかもしれません。さらに、北部漢人とマンジュ人との間の密接な関係は多くの先行研究は、で証明されてきており、この研究で再び確証されました。

 マンジュ人はツングース語族で最大の人口を有していますが、マンジュ人の遺伝的特性は、オロチョン人やホジェン人やシボ人など他のツングース語族話者集団とは異なります。他のツングース語族話者集団ではユーラシア西部関連構成要素が少ない割合で見つかりましたが、マンジュ人では見つかりませんでした。マンジュ人は西遼河および黄河流域の古代の人口集団と密接な類似性を有しています。マンジュ人は青銅器時代西遼河農耕民と鉄器時代の台湾_漢本の混合としてモデル化でき、マンジュ人の形成における南北の混合が示唆されます。先行研究はでは、マンジュ人の祖先系統は、靺鞨古代人の32.4%と、残りは黄河流域の農耕関連の古代の人口集団の祖先系統に由来するとモデル化できる、と明らかになりました。

 しかし本論文では、供給源として黒水_靺鞨での2方向モデルは失敗しました。その理由は、124万データセットと統合後に約20万ヶ所のSNP部位を有したことかもしれず、これは先行研究(ほぼ12万ヶ所の部位)よりも8万ヶ所ほど多くなります。より多くのSNPがあれば、より高い解像度を得ることができ、より多くのSNPは、より少ない数のSNPでは見つけることができない、モデル化の失敗につながる微妙な遺伝的違いを検出できるかもしれません。別の理由は、本論文におけるマンジュ人のより小さな標本規模と、標本抽出地の違いかもしれません。本論文の標本は錦州市で収集されましたが、先行研究では新賓自治県でした。

 先行研究(関連記事)では、紀元後4~5世紀の朝鮮半島南部人口集団は先住の縄文関連祖先系統をさまざまな割合で有しており【この縄文関連祖先系統は、新石器時代から続いていた可能性が確かにありますが、古墳時代の日本列島からもたらされた可能性もあると思います】、この縄文関連祖先系統は現在の朝鮮人では残っていない、と示されています。先行研究と一致して、本論文では現在の中国の朝鮮人で縄文関連祖先系統は検出されませんでした。本論文で調べられた吉林省の朝鮮人は、韓国の現代人と強いつながりを示し、中国の朝鮮人の起源は朝鮮半島からの最近の移住にたどることができる、と裏づけています。中国の朝鮮人は、WLR_BAと関連する単一の供給源に祖先系統が由来する、とモデル化でき、それは中国北東部から朝鮮半島、さらには日本列島への農耕の伝播経路を構成します。

 先行研究では、マンジュ人と朝鮮人は言語と歴史と文化において対応する、と示されてきました。マンジュ人と朝鮮人には言語学的つながりがあり、それは、朝鮮語には多くのマンジュ語からの借用語があり、両者は同じ文法構造だからです。さらに、中国のマンジュ人と朝鮮人は漢人文化に深く影響を受けており、漢人と遺伝的交流を行なってきました。錦州市北鎮における先住マンジュ人の歴史的記憶は、その起源地をチャンバイ山と記録しました。本論文では、マンジュ人はチャンバイ山の朝鮮人と遺伝的に類似している、と分かり、これはマンジュ人と朝鮮人との間の言語学的つながりと一致します。

 中国北東部における遺伝的特性のさらなる調査のためには将来、この地域のマンジュ人と朝鮮人のより多くの下位集団が収集されるべきです。さらに、現代の人口集団の参照データセットは、おもにアフィメトリクス社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)配列を介して生成されました。ヒト起源データセットとの統合後の分析では、わずか約7万ヶ所の部位しか残っておらず、これは本論文の限外です。


参考文献:
Sun N. et al.(2023): The genetic structure and admixture of Manchus and Koreans in northeast China. Annals of Human Biology, 50, 1, 161–171.
https://doi.org/10.1080/03014460.2023.2182912

https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_21.html

10:777 :

2023/06/20 (Tue) 05:19:46

【驚愕】最新技術で頭蓋骨から顔を復元! 明らかになった秦の始皇帝にまつわる事実とは?|TBSテレビ
https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=2002
11:777 :

2023/06/20 (Tue) 05:31:28

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
2022/5/12
https://kusanomido.com/study/58425/

歴史に名を残す始皇帝
中国の歴史において400以上の皇帝が現れては消えていった。

しかし最も話題性のある皇帝は、始皇帝であることに疑いの余地はない。
彼の行った中国統一という偉業もそうだが、更に彼を魅力的に見せているのは多くの物語や言い伝えである。まだまだ沢山の謎が残されている。

その中でも始皇帝陵は大きな謎の一つである。
中には水銀が流れているとか、大きな宮殿があるとか、多くの憶測が話題を呼んでいる。

始皇帝の遺体がそこにあるのかについても、未だに謎のままである。

始皇帝の出生
始皇帝の出生についても謎が多い。

趙国(戦国時代に存在した国)の生まれで、彼の母親は呂不韋の歌姫だった。
一説によると呂布韋が始皇帝の実父ではないか、という説がある。

趙の国で始皇帝はとても苦労したと言われている。その経験が彼を強くし自立した人間にした。皇帝になってからも苦労は絶えず、反乱や多くの裏切りを経験した。

史記の中の始皇帝
始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
絵で見る始皇帝

史記の中で、司馬遷が始皇帝の外見について言及している。

蜂準長目(賢く抜け目のない人の描写。冷たい印象を人に与える。蜂のように高く鋭い鼻筋を持った人物で、細く切長な目をしていた)
伨鳥膺 (胸骨が盛り上がっていた。)
豺聲(その声はまるでよく深いヤマイヌのようだ)
少恩而虎狼心 (とても残酷で貪欲な心を持っていた)
意思是他說話聲如洪鐘(彼の話し声はまるで鳴り響く大鐘のようだ)
心胸惡毒像虎狼一樣 (心の中は悪い毒で満ちていて、虎や狼のようだ)
長目刻薄(人に対してとても冷酷で無情だった)

このように描写されている。人となりに関してはとんでもない言われようである。

他の文献によると、身長は198センチの大柄で、とても威厳のある風貌をしていたと記載されている。

AIによる検証
ではこの記述に信憑性はあるのだろうか?
残念なことに、未だに始皇帝陵に入ることはできないので、本人の遺骨から生前の姿を再現することはできない。

ところが、最近になって始皇帝と共に埋葬されたであろう人物の遺骨が発掘されている。

考古学者の研究により、その中の一人の男性が始皇帝の息子の一人であると断定した。そして発掘された一人の女性の遺骨が始皇帝の妃の一人であるということも判明した。

そして息子と妃の頭蓋骨から、AIで二人の生前の姿を復元することに成功したのである。

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
始皇帝の息子の一人

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
始皇帝の妃の一人

息子と見られる人物は整った顔で、父親のように高く鋭い鼻筋をしていることから、妃よりも始皇帝に似ていることが推測される。

妃はとても整ったしっかりとした顔立ちで大きな瞳である。
弱々しい妃ではなく、強い意思を持ち時代を生き抜いてきたような印象である。

始皇帝の母親はとても美人であった とされている。
彼もまた整った顔立ちの男であったに違いない。

この偉大な皇帝は今もなお人々を魅了してやまない。現在も発掘や調査は進行中である。
https://kusanomido.com/study/58425/
12:777 :

2023/10/27 (Fri) 09:57:46

雑記帳
2023年10月25日
中国南西部の後期新石器時代遺跡の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_25.html

 中国南西部の後期新石器時代遺跡の人類のゲノムデータを報告した研究(Tao et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、雑穀と稲作の混合農耕が行なわれていた中国南西部の後期新石器時代の高山(Gaoshan)および海門口(Haimenkou)という遺跡2ヶ所の人類遺骸のゲノムの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、約90%は新石器時代黄河農耕民関連で、残りはアジア南東部のホアビン文化(Hoabinhian)関連狩猟採集民だったのに対して、福建省の前期新石器時代遺跡で発見された個体により表される初期稲作農耕民関連が見つからなかったことを示しました。これは、本論文でも指摘されている、現在の中国において、北部における中期~後期新石器時代の稲作農耕の痕跡増加が、北部の中期~後期新石器時代個体群のゲノムにおける初期稲作農耕民関連の遺伝的構成要素の増加と相関していることとは対照的で、農耕も含めて文化と集団の遺伝的構成との関係が一様ではなかったこと(関連記事)を改めて示しているように思います。


●要約

 中国南西部の研究は、新石器時代以来のこの地域における雑穀とイネの共存のため、農耕の拡散と発達の理解にきわめて重要です。しかし、中国南西部における新石器時代への移行過程は、おもに新石器時代の古代DNAの欠如のため、ほとんど知られていません。本論文は、雑穀と稲作の混合農耕が行なわれていた、4500~3000年前頃となる中国南西部の高山および海門口遺跡の11点のヒト標本から得られたゲノム規模データを報告します。古代人2集団はその祖先系統の約90%が新石器時代黄河農耕民に由来し、中国南西部への雑穀農耕の人口拡散が示唆されます。残りの祖先系統はホアビン文化関連狩猟採集民系統に由来する、と推測されました。この古代人2集団では稲作関連祖先系統が検出されず、この古代人2集団は遺伝的同化なしに稲作農耕を導入した可能性が高い、と示唆されます。しかし、一部の現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の形成では、稲作農耕民関連祖先系統が観察されました。本論文の結果は、中国南西部の一部では新石器時代の混合農耕の発展において、人口と文化両方の拡散が起きたことを示唆します。


●標本の文脈と配列決定

 黄河流域にはアジア東部における最初の独立した農耕革命があり、早くも較正年代で10300~8700年前頃にはアワとキビ両方の工作が行なわれていました。その後、黄河中流域の仰韶(Yangshao)文化の拡大が生計慣行に大きな変化をもたらし、雑穀農耕が主要な戦略として現れました。この農耕パターンは、中国北部の黄河や西遼河から中国南西部を含めて広範な地域に広がりました。雑穀農耕の影響はチベット高原北東部に到達し(関連記事)、その南端では、台湾島とアジア南東部本土にまで分布しました。

 最近の古代DNA研究では、雑穀農耕は在来の狩猟採集民をほぼ置換した黄河流域から拡大してきた農耕民によりチベット高原および西遼河地域にもたらされたかもしれず、中国北部における雑穀農耕の人口拡散形態が示唆されました。しかし、中国南西部における新石器時代への移行パターンは、雑穀とイネ両方での混合農耕が行なわれていたことから、より複雑かもしれません。稲作農耕は6900~6000年前頃に長江流域に出現した、と提案されており、その後、中国南東部の古代の住民と関連する遺伝的系統により、中国南部とアジア南東部本土を含む広大な地域に広がりました(関連記事1および関連記事2)。

 中国南西部では、5300~4600年前頃の営盤山(Yingpanshan)が雑穀農耕生活様式の最初の遺跡で、彩色土器や四角の家屋やよく組織された集落パターンで構成される典型的な文化的一括を、黄河上流~中流域の仰韶文化および馬家窯(Majiayao)文化と共有していました。比較すると、4500~3700年前頃となる四川盆地の後期宝墩(Baodun)文化には、後期新石器時代の長江中流域の稲作関連文化の追加の特徴があります。同様に、4600~4000年前頃となる、イネと雑穀両方の農耕生活様式を有する四川盆地で見られるのと同じ農耕社会のパターンがある雲南・貴州高原における最初の農耕慣行は、その文化的起源を黄河上流~中流域および中国南東部沿岸の新石器時代文化にたどることができます。したがって、中国南西部はユーラシア東部におけるイネと雑穀の混合農耕の拡大および南北の文化の相互作用を理解するのに重要です。しかし、中国南西部の新石器時代真子の遺伝的データの欠如のため、雑穀農耕および雑穀とイネの混合農耕の発展が、中核的な農耕中心地である黄河上流~中流域からの移民関わっていたのかどうか、およびどの程度関わっていたのか、不明なままです。

 本論文は、中国南西部の後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)から中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)の高山および海門口とよばれる2ヶ所の代表的な遺跡(図1A)で発見された古代人標本から得られたゲノム規模データの最初の一群を報告し、雑穀農耕の南方への拡大の理解における間隙を埋めます。二本鎖DNAライブラリ(DNAの網羅的収集)が調整され、古代核DNA捕獲技術が用いられて、4500~2600年前頃となる89点の標本全てで内在性DNAが濃縮されました。以下は本論文の図1です。
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 11個体が死後DNA損傷パターンの選別に合格し、高網羅率で、その内訳は、四川省の宝墩文化の高山遺跡が5個体、雲南省の海門口遺跡が6個体です。各遺跡の標本は遺伝的に、qpWave分析における単一の供給源に由来する祖先系統と一致します(図2A)。高山および海門口が2ヶ所の離れた遺跡で、異なる期間に属することを考慮して、この2ヶ所の遺跡が別々の集団とみなされ、以後の集団遺伝学的分析では、高山_LNおよび海門口_BA(青銅器時代)と命名されます。


●中国南西部と黄河の人口集団間の遺伝的類似性

 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では(図1B)、中国南西部の2つの農耕集団である高山_LNと海門口_BAはともにクラスタ化し(まとまり)、古代の黄河とチベットの人口集団間に投影されました。この結果から、中国南西部の古代人2集団(高山_LNと海門口_BA)は黄河上流域の後期新石器時代個体群(黄河上流_LN)および2125~1500年前頃となるヒマラヤ山脈南麓のメブラク(Mebrak)およびサムヅォング(Samdzong)遺跡集団(関連記事)とより密接な関係を有していた、と示唆されます。同様に、これら2集団(高山_LNと海門口_BA)は教師なしADMIXTURE分析で類似のパターンを示し、古代中国南部人口集団で最大化される黄色の構成要素と、古代チベット人で最大化される橙色の構成要素を有しています。新石器時代黄河農耕人口集団でも、類似の遺伝的特性が観察されました。

 次に、中国南西部と黄河流域の集団間の遺伝的関係が外群f₃統計で調べられました。以前の分析と一致してf₃(X、Y;ムブティ人)では、中国南西部古代人集団は他の参照人口集団(たとえば黄河上流_LNや黄河_中期新石器時代)と比較して、黄河農耕民と最も多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示されます。同様に、f₄(ムブティ人、黄河;高山/海門口、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人)とf₄(ムブティ人、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人;高山/海門口、黄河)は、この遺伝的類似性を確証します。黄河農耕民がf₄(ムブティ人、黄河;高山、海門口)では海門口よりも高山の方とわずかに多くのアレルを共有していた、との示唆的証拠が見つかりました。

 中国南西部集団は、人口集団Xとして黄河農耕民を除くアジア東部古代人が用いられると、f₄(ムブティ人、チベット古代人;高山/海門口、X)とf₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、X)の有意な負の値により示唆されるように、古代チベット人口集団とより多くのアレルを共有していました。f₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、黄河)の値の大半は正と分かり、中国南西部古代人集団は古代チベット農耕民とよりも黄河農耕民の方と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。f₄統計の計算にのみ異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を用いると、一貫した結果を得ることができます。

 これらの観察に基づいてqpWave手法が使用され、中国南西部と黄河の農耕民が単一の遺伝的供給源に由来することと一致するのかどうか、形式的に検証されました。しかし、図2Bで示されるように、全モデルはp値0.023未満で却下されました(高山および黄河_中期新石器時代)。中国南西部集団は、f₄(ムブティ人、ラオスのホアビン文化個体;高山/海門口、黄河)の負の値で示されるように、追加のホアビン文化関連祖先系統を受け取った可能性が高い、と分かりました。ホアビン文化関連個体が供給源に追加され、潜在的な深い系統からのモデル化されていないかもしれない祖先系統を説明するため、2方向モデルが構築されました。その結果、中国南西部集団はqpAdm(図3A)およびqpGraph分析(図2C・D)で、黄河関連祖先系統が約90%(高山では92.1±3%、海門口では88.7±3%)とホアビン文化関連祖先系統が約10%(高山では7.9±3%、海門口では11.3±3%)でモデル化に成功しました。以下は本論文の図2です。
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 この黄河雑穀農耕民関連祖先系統は、中国北部の黄河上流_LN黄河_中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体群と中国南部の高山および海門口遺跡個体群との遺伝的つながりを明らかにします。本論文は、中国南西部に居住し、イネと雑穀の混合農耕を行なっていた人々への最初のゲノム洞察を提供し、黄河上流~中流域の雑穀農耕の人口拡散を提示します。以前の遺伝学的研究は、先住の狩猟採集民における深く分岐したアジアの祖先系統を明らかにしており、それは8000~4000年前頃のホアビン文化の標本により表されます(関連記事)。ホアビン文化は中国南西部とアジア南東部本土に、早くも43500年前頃には存在していました。

 ホアビン文化関連祖先系統は、8335~6400年前頃となる中国南西部の広西チワン族自治区の包

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