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秦氏がユダヤ人だというのはド素人の妄想

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2022/06/02 (Thu) 09:38:58

秦氏がユダヤ人だというのはド素人の妄想


秦氏がユダヤ人だと言っている美術史家 田中英道

田中英道 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93++%E7%A7%A6%E6%B0%8F


秦氏がユダヤ人だと言っている予備校教師 茂木誠

茂木誠 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8C%82%E6%9C%A8%E8%AA%A0++%E7%A7%A6%E6%B0%8F


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秦氏の Y-DNA は O1 で長江稲作民

秦氏の Y-DNA は O1 で長江稲作民だし
中国のキリスト教(景教)はペルシャ人が伝えたものだし
秦の政治体制はペルシャと同じだし
中国にはペルシャのソグド人やアーリア人(R1a)は入っていたけど、ユダヤ人(J2, E1b) は入っていません。

そもそも農耕民のユダヤ人が中国に来る訳ないですね。 アラブ人はユダヤ人と遺伝子が全く同じなので、来るとしたら遊牧民のアラブ人ですが、その形跡もゼロですね:

中国人にも日本人にもユダヤの血は全く流れていません


ユダヤ人(Sephardi)のY-DNA出現頻度調査まとめ
E1b : 19.2%(ラテン人),
I : 11.5%(クロマニヨン人)
J : 28.2%(セム人)
R1b : 29.5% (ゲルマン人)


現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系


現在のニヴフ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
C2 38.1%: オホーツク文化人系
O1b2 28.6%: 長江人系
Q 19.0% : トルコ系
R1a 9.5% : ロシア人系


沖縄先住民は10世紀の段階で既に日本人に征服・レイプされまくって、言葉も日本語の方言の琉球語に変わってしまった

現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが、最近否定された
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル系 C2: 11.3%


現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系


現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系


ハプロに付く*マークはその下のサブグループのうちのいずれかという意味であり、
D1a2a* の中に D1a2a2a は含まれる


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ハプログループ E (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/185.html

ハプログループ I (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/183.html

ハプログループ J (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/184.html

ハプログループ R1a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/182.html

ハプログループ R1b (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/187.html

ハプログループ D1a2a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/173.html

ハプログループ C1a1 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/174.html

ハプログループ C2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/175.html

ハプログループ O1a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/200.html

ハプログループ O1b2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/176.html

ハプログループ O2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/177.html


従って、日本人にも中国人にもユダヤの血は全く流れていません


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Q: 渡来人の秦氏は中央アジアの弓月国から来たそうですが、本当ですか?

回答: Ohta Mutsumi

本当の訳がありませんが、この話は日猶同祖論の派生形である「ユダヤ人日本渡来説」信奉者に根強い人気があります。書籍もいろいろ出ていますし、ネットにも情報がいっぱい出てきますので、信じている方々もいっぱいおられます。しかし、ちょっと調べると、根拠薄弱な情報を寄せ集めて成り立っているだけなのでバカバカしくなるぐらいです。

信奉者たちが使う根拠は、応神天皇の時代に百済から一族を率いて渡来したという「弓月君」という人物の存在で、これは『日本書紀』(720年)に記述があります。また『新撰姓氏録』(815年)にも融通王、別名夕月君が応神天皇の時代に渡来したとあります。この夕月君は渡来人グループである秦氏のリーダーと目される人物です。

次に信奉者たちはこの夕月君は中央アジアから来たという説を展開します。資治通鑑という中国の歴史書に夕月国という国の存在が書かれており、夕月君は夕月国から来たのであるとします。

さらに、当時の中央アジアにはユダヤ人が住み着いている街があったという話を加えることで「秦氏はユダヤ人だった」説が完成します。以下、順々に考えていきましょう。

夕月君自体は実在性が疑われている人物ですが、かなり古い時代に、「秦氏」を名乗る氏族グループが渡来していたことは多分確かでしょう。ただし、応神天皇の時代とされているので正確な年代は分かりません。応神天皇は日本書紀で111歳、古事記で130歳まで生きたことになっており、実在性も疑われている天皇です。古事記や日本書紀の記述を鵜呑みにするならば、3世紀から4世紀にかけて生きたことになっており、そうであるならば卑弥呼と同時代人ということになります。応神天皇は中国の史書にに出てくる倭王讃(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83)ではないかとも言われており、そうなると5世紀前半の人となります。6世紀の継体天皇の時代以降は歴史記述ははっきりしておりますので、応神天皇は5世紀以前の人でしょう。従って「秦氏」の渡来人グループが日本にやってきたのは5世紀以前の話と考えるのが順当なところです。

秦氏のリーダーと目される夕月君は百済からやってきたと『日本書紀』記します。『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔であるとのこと。おそらくは、秦氏がそう称していたのでしょう。この二書には中央アジアの出であることを匂わせるような記述は一切ありません。

ところが、佐伯好郎という人が1908年の論文で夕月君は、中央アジアの夕月国から来たのだという説を立てます。佐伯は言語学者で、景教の研究で有名な人です。ついでに書けば最初期の日猶同祖論者でもあります。

しかし、弓月国なんて国は中央アジアには存在していません。どの歴史書にも現れません。ネットで検索して出てくる「中央アジアにあった夕月国」の話はすべて秦氏ーユダヤ人説信奉者の方々によるものです。信奉者の方々は決まって資治通鑑に夕月国のことが書いてあると主張しており、おそらくは佐伯がそう言いだしたのでしょう。

現在のwikipediaでは「1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人異教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)」とされています。「弓月君は弓月国から来た」というのも「夕月」という同じ名前からの連想によるもので、それ以上の根拠を持ちません。そもそも夕月「国」は資治通鑑に登場しません。

資治通鑑とは1065年に編纂が始まって1084年に完成した評価の高い歴史書です。しかし「弓月」という言葉が出てくるのは以下の2箇所のみです。

永徽二年(辛亥,公元六五一年)七月,西突厥沙缽羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力為弓月道行軍總管,右驍衛將軍高德逸、右武候將軍薛孤吳仁為副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。

永淳元年(壬午,公元六八二年)夏,四月,甲子朔,日有食之。 (中略) 阿史那車薄圍弓月城,安西都護王方翼引軍救之,破虜眾於伊麗水,斬首千餘級。

両方とも西突厥と唐の戦争がらみの話の中に出てくる地名であり、「弓月城」とあるので「夕月」という街か城塞はあったのでしょう。しかし7世紀についてのこの2箇所の記述だけから5世紀以前の「弓月国」の存在は引き出せません。そもそも資治通鑑以外の歴史書に「弓月」の地名は出てきません(少なくとも、そういう情報を見たことが私はありません)し、現在の歴史教科書に「夕月国」が中央アジアにあったと書いているものはありません。夕月国とは「秦氏はユダヤ人だった」論者の頭にのみ存在する架空の国家です。

ということで、当時の中央アジアにユダヤ人が住んでいようとも、そもそも夕月国が存在せず、名前が一緒だからというだけの理由で朝鮮半島の百済国にいたグループが中央アジアから来たというのは、あまりにも根拠が薄いのです。ましてや夕月君の実在性自体が疑われていますので、根拠はさらに薄くなります。

なお、「秦氏=ユダヤ人論」には様々なバリエーションがありますが、夕月君が真の始皇帝の末裔を称していたということを使って、「秦の始皇帝の末裔というのは誤りで、紀元4世紀の華北を支配した五胡十六国時代の前秦の王族の末裔であろう」とするものがあります。前秦は五胡の一つである氐族が興した王朝であり、元々は甘粛省から来たとされています。甘粛省の西隣りにはタリム盆地があり、その先が中央アジアです。これなら、夕月国という架空の国家を引き合いに出さなくとも「秦氏=ユダヤ人論」が展開できるとあって、その筋の方々には人気の説ですが、前秦がユダヤ教国家であったというような話はどこにもありません。たとえ、五胡の氐族にユダヤ人の血が流れていようとも、ユダヤ教の伝統が途絶えていれば、その子孫が日本に渡ろうともユダヤ文化の何かが日本に伝わることは何一つあり得ません。

そして、「秦氏=ユダヤ人論」の誰一人として前秦がユダヤ教国家だったと立証しようとする人がいません。そういう、いい加減な話なのです。
https://jp.quora.com/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A7%A6%E6%B0%8F%E3%81%AF%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%A7?share=1


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田中英道先生は埴輪の飾りがユダヤ起源だとか、またレベルが低い妄想を垂れ流していますね(呆れ)

ユングの集合的無意識の研究で今はもう常識になっていますが、無意識はどんな民族でも同じなので、同じイメージが全く関係無い民族でも出て来るんですね:

「集合的無意識」という概念

これは、私たちの無意識の深層に存在するもので、国や民族を超えて人類全体に共通して存在するものだと考えられています。普遍的に存在する「無意識」全ての人類に共通して存在すると言われている「集合的無意識」。

でも、ユングはなぜ、「人類に共通して」と言い切る自信があったのでしょうか? その答えの一つが、「マンダラ」です。

マンダラは、仏教の世界観を表現した円形の絵。祈祷の道具に使われたりもしますので、みなさんも1度くらいは目にしたことがあるのではないでしょうか?

そのマンダラと、ユング自身が描いていた絵との間に大きな共通点があったのです。この発見を機に、ユングは東洋哲学の研究にのめり込んでいきます。

また、西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説には共通したテーマを扱った物も多いことから、洋の別を問わず人類の心の奥深くには「共通した何か」があると考えたのです。

例えば、「太陽を崇拝する」というテーマや自然に「母性」を見出すというテーマ…etc。

これらのテーマを生みだす根底にあるもの、それが「集合的無意識」なんですね。

意識や個人的無意識よりもさらに深いところにある層で、民族や国家、人種を問わず普遍的に存在しています。

集合的無意識の役割とは?ユングによれば、私たちが「自分」を認識できるのもまた、この「集合的無意識」が存在するからなのだとか。

確かに、無意識・普遍的に共有できる「何か」がなければ、自分が生きる価値を見いだすこともできないでしょうし、他人と話をしても通じないような気がしますよね。

遠い昔の民話や伝説から学ぶことが多いのも、世代が違う人と会話できるのも、国籍が違う人との間に会話が成立するのも、(言語の壁をクリアすれば、の話ですが…)普遍的に共有できているものがあるからなのかもしれません。 そういったベースがなければ、会話は全く噛み合わないでしょう。

「集合的無意識があるからこそ、人は自分自身とも他者とも対話・理解し合えるのだ」
と言うユングの説はごもっともですね。


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詳細は

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

田中英道のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/213.html


2:777 :

2022/12/05 (Mon) 10:04:37


雑記帳
2022年12月04日
ドイツの中世ユダヤ人のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202212article_4.html


 ドイツの中世ユダヤ人のゲノムデータを報告した研究(Waldman et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、14世紀のドイツのエアフルト(Erfurt)の中世ユダヤ人墓地における回復発掘調査で得られた、アシュケナージ系ユダヤ人(AJ)のゲノム規模データを報告します。エアフルト個体群は遺伝的に現代AJと類似していたものの、現代AJよりもヨーロッパ東部関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)において多くの変動性を示します。エアフルト個体群の1/3は現代AJで一般的なミトコンドリア系統を有しており、8個体は現在AJに影響を及ぼすと知られている病原性多様体を有しています。

 これらの観察は、高水準の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)とともに、エアフルト共同体がすでに、現代AJに影響を及ぼした大きな人口規模減少を経ていた、と示唆します。エアフルト個体群のボトルネック(瓶首効果)はより深刻で、中世AJにおける下部構造を示唆します。全体的に本論文の結果は、AJの創始者事象と祖先系統の主要な供給源の獲得が14世紀に先行し、現代AJにはもはや存在しない後期中世の遺伝的異質性を浮き彫りにする、と示唆します。


●研究史

 アシュケナージ系ユダヤ人(AJ)は、特徴的な民族宗教文化的集団として10世紀にラインラントで現れました。それ以来、AJ人口集団は地理的および人口の両方でかなり拡大し、地理的にはまずヨーロッパ東部、最近ではヨーロッパを越えて拡大し、人口は現在では約1000万人に達しました。ヒト遺伝学の初期から始まり、数十もの病原性の潜性(劣性)多様体が特定され、成功した妊娠前集団検診計画の発展につながりました。これらの多様体の大半はAJ以外ではひじょうに稀で、長く共有されたハプロタイプの背景に現れており、AJが少数の祖先の創始者の子孫であることを示唆しています。アシュケナージの「創始者事象」は、AJの40%が有するミトコンドリアの4系統でも明らかです。もっと最近の研究では、AJにおける同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)の高い割合が見つかっています。IBDとは、親族関係にない個体に存在するほぼ同一の長いハプロタイプで、創始者人口集団の特徴です。定量的モデル化では、AJは中世後期に急激な規模縮小(ボトルネック)を経ており、創始者の(有効)数が数百人だった、と示唆されました。

 初期AJの起源は、その遺伝子プールを形成した混合事象の歴史とともに、議論の対象となっています。遺伝的証拠は、AJにおける混合した中東(ME)とヨーロッパ(EU)の祖先系統を裏づけます。これはどちらかの地域に起源がある片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と、AJが中東とヨーロッパの人口集団間の中間的な祖先系統を有している、と示す常染色体研究(関連記事)に基づいています。これらおよび他の常染色体研究は、AJ祖先系統を有する個体群が遺伝的に他の祖先系統の個体群と区別できることも示しています。最近のモデル化では、AJにおけるヨーロッパ祖先系統の大半はヨーロッパ南部関連起源と一致する、と示唆しており、AJにおけるヨーロッパ祖先系統の合計割合は50~70%と推定されました。AJ人口集団は全体的にひじょうに遺伝的に均質で、現在の居住国に基づく大きな祖先系統の違いはありません。しかし、ヨーロッパの東西間の起源で、AJ間の祖先系統における微妙な平均的違いがあります。

 最近の進歩にも関わらず、創始者事象の時空間的位置づけや、混合事象の供給源と時期を含めて、問題が残っています。AJ形成の時期により近い年代に生きていた個体群のゲノムの研究は、これらの問題に光を当てる可能性があります。本論文は歴史時代のユダヤ人のDNA研究を提示し、ドイツのエアフルトの14世紀のAJに焦点を当てます。中世エアフルトのユダヤ人共同体は11世紀後期~1454年に存在しており、1349年の虐殺後の短い間隙がありました。本論文は、骨格が回復発掘調査で回収された33個体のゲノム規模データを報告します。本論文の結果から、エアフルトのアシュケナージ系ユダヤ人(EAJ)は遺伝的に現代のアシュケナージ系ユダヤ人(MAJ)と類似している、論証され、14世紀以降のAJ遺伝子プールへの遺伝子流動はほとんどなかった、と示唆されます。さらなる分析では、EAJはMAJよりも遺伝的に異質で、2つの下位集団の存在を裏づける一連の複数の証拠がある、と論証されました。その2つの下位集団の一方は、MAJと比較してヨーロッパ東部とより類似しています。EAJ人口集団は、MAJに影響を及ぼしたボトルネックと共有される最近のボトルネックの強い証拠を示します。それは、ミトコンドリア系統と病原性多様体を含めて、MAJにおいて高度に濃縮されたアレル(対立遺伝子)が、EAJでも一般的だからです。


●歴史的および考古学的状況と共同体の関与と標本収集

 エアフルトの最初のユダヤ人共同体(1349年以前)は、テューリンゲン州では最古であり、その墓地は近隣の町でも使われていました。1349年の虐殺(ポグロム)において、エアフルトとその近隣の共同体のほとんどのユダヤ人は、虐殺されたか、追放されました。ユダヤ人は1354年にエアフルトに戻り、第二の共同体を形成しましたが、これはドイツで最大規模のユダヤ人共同体の一つです。本論文で調査された個体群は、エアフルトの中世ユダヤ人墓地の南西部に埋葬されており、ここは2013年に回復発掘調査が行なわれました。墓地の配置は図1Aに示されています。以下は本論文の図1です。
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 考古学的証拠から、この遺跡が第二の共同体により使用されていた、と暫定的に示唆されます。10個体の放射性炭素年代測定から、全個体は1270~1400年頃に生きていた、と論証されますが、データは、この遺跡が第一共同体か第二共同体に使用されていたのかどうかについて、14世紀半ばころの炭素14較正曲線における揺れのため、情報をもたらしません。推定死亡時年齢の範囲は5~60歳で、33個体のうち14個体(42%)は20歳未満と推定されました。死因は個体I14904のみで決定され、この個体は鋭利な物体により頭部を数回殴られて死亡しました。

 EAJが従ったユダヤ教のラビの法は、ほとんどの目的でユダヤ人の発掘を禁止しており、死者を妨げることも禁止しています。ユダヤ人個体の古代DNA検証についてのラビの議論は最近になってようやく現れ、ユダヤ教のラビの指導の確立について中央集権的機関はありません。この研究の一部として、研究者は、提案された研究計画を再検討し、分離した歯のみを用いて、分析はすでに発掘された個体でのみ行なう、という条件で研究計画に承認した、ラビの権威者と連携しました。この研究はその後、テューリンゲン州のユダヤ人共同体により承認されました。これらの指針に従って、38点の骨格遺骸から歯が標本抽出されました。


●標本と親族関係

 DNAが既存の実施要綱にしたがって抽出され、ライブラリが準備され、約124万のSNP(一塩基多型)で濃縮されました。次に、濃縮ライブラリと非濃縮ライブラリが配列され、複数の測定基準を用いて、汚染がひじょうに低水準と論証されました。33個体で品質管理に合格したゲノム規模データが得られ、女性が19個体、男性が14個体でした。ヒト配列の中央値は0.03(0.0003~0.67)で、常染色体標的の網羅率中央値は0.45倍(0.01~2.48倍の範囲)でした。少なくとも1配列で網羅されるSNPの中央値は383000(11000~842000の範囲)でした。子供の網羅率は成人より有意に低い、と示されました。DNA配列でペスト菌(Yersinia pestis)の痕跡は見つかりませんでした。

 1親等の関係に基づいて2つの家族が特定されました。家族Aは、母親と息子と娘で構成されます。家族Bは父親(上述の頭部を殴打されて殺害された個体)と娘で構成されます(図1B)。家族Aの子供2人は相互に隣同士に埋葬され、家族Bの2人も同様です(図1A)。家族Aの母親はその子供から3列離れて埋葬されており、他の全ての被葬者とは反対の向きでした(図1A)。遠い親族関係の3個体も特定され、2親等の親族である可能性が高く、そうした個体は全員隣同士で埋葬されていました(図1A)。そのうち2個体のみが、本論文の標本ではミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U5a1a2aを有していました。しかし、これら3個体のデータは、1親等もしくは親族関係ではないこととも一致しており、それは低網羅率に起因する可能性が高そうです(SNPは13000と15000と38000)。


●祖先系統推定と中世の人口構造

 EAJ個体群の祖先系統を分析するため、それぞれ網羅されたSNPについて単一の無作為配列を用いて、そのゲノムが「疑似半数体」として表されます。EAJがヒト起源データセット(Human Origins dataset)の現代人のゲノムと統合され(約593000の常染色体SNPで、その全てはEAJでも濃縮されました)、これは7個体のAJおよび86個体の他のユダヤ人も含んでいます。EAJ個体群が、ヒト起源データセットのユーラシア西部個体群(994個体)から習得された主成分に投影されました。EAJの8個体は統合後にSNPが50000未満で、信頼できる投影ができません。これらの個体は「低網羅率」と呼ばれ、主成分分析(PCA)から除外されました。

 PCA図では、EAJ個体群はMAJや他のヨーロッパ地中海人口集団と重なりました。興味深いことに、EAJはMAJよりもヨーロッパ地中海東部勾配に沿って変動性が高い、と示されました。MAJと比較してのEAJにおけるより高い変動性は、ADMIXTURE分析と同様に、ずっと大規模なMAJ標本を投影しても観察されました。K(系統構成要素数)平均値を用いて、2集団へのPC1軸とPC2軸の座標に基づいて、EAJ個体群がクラスタ化されました(まとめられました)。一方の集団は「エアフルトEU」と呼ばれ、ヨーロッパの人口集団の個体群のより近くに位置しましたが、もう一方の「エアフルトME」と呼ばれる集団は、中東(ME)の人口集団のより近くに位置します(図2)。以下は本論文の図2です。
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 一連の複数の証拠が、連続勾配と比較してEAJの二分について統計的裏づけを提供します。「間隙統計」分析では、クラスタ(まとまり)の最適数は2と示唆され、別の手法では、クラスタは有意に異なる、と示されました。集団遺伝学的観点からこの問題を調べるため、2つのシナリオが模擬実験されました。それは、全ての個体群の人口史が同じ場合と、下位集団でヨーロッパにおいて追加の混合事象があった場合です。この単一集団模擬実験(2集団の模擬実験ではありません)の要約統計はEAJとは有意に異なっており、2つの異なる下位集団の存在が再び裏づけられました。2つの追加の手法を用いてEAJ個体群を2つの集団にクラスタ化することも、確証されました。これらの結果は、EAJにおける少なくとも2つの遺伝的に異なる集団の存在(重なる可能性がある場合でさえ)を裏づけます。

 2つのエアフルト下位集団をさらに特徴づけるため、それらが別々に分析され、ヨーロッパ東部もしくはヨーロッパ西部起源のMAJとどのように関連しているのか、検証されました。西部MAJは、PCAではほぼ完全にエアフルトMEと重なりました。東部MAJはEAJの2集団間の中間に位置し、エアフルトMEの方とより近くに位置ました。エアフルトME集団は現在のトルコ系(セファルディム系)ユダヤ人とも重なりました(図2)。

 f4統計を用いて、EAJとMAJと他のヨーロッパおよび中東人口集団との間の遺伝子流動の証拠が検証されました。まずf4形式(MAJ、EAJ;X、チンパンジー)の検定が実行され、Xはユーラシア西部の任意の人口集団です。その結果、Xがヨーロッパ東部からヨーロッパ中央部および西部と地中海と中東へと変わるにつれて、Z得点の増加が示されたので、EAJに対するMAJとの類似性が増加しました(補足図3A)。同じ傾向はf4形式(MAJ、エアフルトEU;X、チンパンジー)の検定でも観察されましたが、その傾向はf4形式(MAJ、エアフルトME;X、チンパンジー)の検定では逆でした。

 これらの結果はPCAと一致しており、エアフルトEUはエアフルトMEもしくはMAJよりも多くのヨーロッパ、とくにヨーロッパ東部祖先系統を有している、と示唆されます。同じく、f4形式(エアフルトEU、エアフルトME;X、チンパンジー)の検定では、Xがヨーロッパ東部からヨーロッパ中央部および西部と地中海と中東へと変わるにつれて、エアフルトMEとの類似性増加が示されました(補足図3B)。最後に、f4形式(MAJ、X;EAJ、チンパンジー)の検定では、Xが任意の非アシュケナージ系ユダヤ人とされ、全てのXについて正でひじょうに大きく、EAJ(下位集団両方が含まれます)が他のあらゆるユダヤ人集団とよりもMAJの方に近い、と示唆されます(補足図3C)。以下は本論文の補足図3です。
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 ヨーロッパ東部人口集団とのエアフルトEUの類似性増加は、ボヘミアやモラヴィアやシレジアからエアフルトの第二共同体への歴史的に記録された家族の移住と関連しているかもしれません。一部のEAJ個体に移民の証拠があるのかどうか検証するため、歯のエナメル質に由来する生体燐灰石で安定同位体分析が実行されました。炭素13および酸素18のエナメル質の値は、図3Cにおいて高網羅率の個体について図示され、2つの遺伝的集団間の安定同位体比の異なる分布を示します。その違いは酸素18において有意で、エアフルトEUとエアフルトMEとの間の幼少期における水源の平均的違いを示唆しています。墓地における墓の場所と集団の帰属との間、もしくはPC1軸とPC2軸の座標間の相関は見つからず、これらの集団は遺伝的に異なっているものの、文化的もしくは時間的に分離されている証拠は示されません。以下は本論文の図3です。
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 qpWave分析では、EAJとMAJは非ユダヤ系ヨーロッパ人に関してクレード(単系統群)を形成することと一致します。EAJとMAJとの間のこの遺伝的類似性は、生存年代が600~700年離れているにも関わらず、この期間の高度の内婚を示唆します。模擬実験を用いて、過去20世代におけるAJとヨーロッパ東部人との間のあらゆる仮定的な混合事象は、AJ遺伝子プール全体の最大2~4%の置換に限定されたに違いない、と推測されました(1世代あたり最大0.2%の置換)。エアフルトEUもしくはエアフルトMEとの同じqpWave分析は、とくにエアフルトEUでより低いp値となり、これらの各集団だけでは現代のAJ遺伝子プール全体を完全には表せない、と示唆されます。EAJもしくはMAJを(現代の)トルコ系ユダヤ人かイタリア南部人かドイツ人に置換すると、全てのp値は0.05未満となり(人口集団の任意の組み合わせがクレードであることとの不一致を示唆します)、最高のp値はエアフルトMEとトルコ系ユダヤ人を比較した場合に観察されました。qpWaveが繰り返され、人口集団の組み合わせが非ユダヤ系の中東人口集団についてクレードを形成するのかどうか、検証されました。MAJおよびEAJ/エアフルト下位集団と、これら人口集団のどれかとトルコ系ユダヤ人の比較ではP値は0.05超で、これらの人口集団は中東祖先系統の類似の起源を有している、と示唆されます。


●定量的な祖先系統モデル化

 qpAdmを用いて、EAJの祖先系統供給源の定量的モデルが検証されました。上述のPCAと以前の研究のモデル化に基づいて、EAJを以下の供給源の混合とするモデルが検証されました。それは、ヨーロッパ南部(イタリアの南部もしくは北部の人々)、中東(ドルーズ派、エジプト人、ベドウィン人、パレスチナ人、レバノン人、ヨルダン人、シリア人、サウジ人)、ヨーロッパ東部(ロシア人)です。古代人の供給源とのモデル化が失敗したので、供給源として現代の人口集団が用いられました。イタリア南部人との複数のモデルは妥当で(p値が0.05超)、AJ人口集団の供給源としてイタリア半島を示す歴史的モデルと一致するでしょう。平均的な混合割合は、イタリア南部65%、中東19%、ヨーロッパ東部16%でした(図3A)。この結果は、塩基転換だけを用いた場合と全てのSNPを用いた場合や、さまざまな外群人口集団を用いた場合や、より少ないSNPを用いた場合でも定量的に変わらない、と確認されました。混合年代の推定値は、本論文の設定では信頼できません。

 他の供給源、とくに地中海とのモデル化も、EAJのデータと適合する可能性があります。供給源としてイタリア北部人とのモデルは、イタリア北部37%、中東43%、ヨーロッパ東部20%の割合の祖先系統です(図3A)。供給源としてギリシア人とのモデルは、ギリシア51%、中東32%、ヨーロッパ東部17%の祖先系統の割合です。(中東およびヨーロッパ東部に加えて)スペインもしくはアフリカ北部供給源とのモデルは、妥当ではありませんでした。単一の供給源として統合された全ての地中海人口集団(他の供給源としてヨーロッパ東部と中東とギリシアとイタリア)とのモデルは、地中海89%とヨーロッパ東部11%の祖先系統割合のデータと一致します。ロシア人の代わりのヨーロッパ西部供給源(ドイツ人)とのモデルは、妥当ではありませんでした。アジア東部人からのわずかな祖先系統構成要素についても、裏づけはありませんでした。

 次にqpAdmを用いて、EAJとMAJと他のユダヤ人集団との間の関係が調査されました。エアフルトMEは、トルコ系(セファルディム系)ユダヤ人(混合割合は97%)とドイツ人(混合割合は3%)でモデル化できます。エアフルトEUは、エアフルトME(混合割合は69%)とロシア人(混合割合は31%)でモデル化できます。各EAJ個体についてイタリア南部とレバノンとロシアの供給源でのモデルを用いると(図3B)、ヨーロッパ東部構成要素において顕著な変動性が見つかりました。このヨーロッパ東部構成要素の割合は平均して、エアフルトEU個体群では33%でしたが、エアフルトMEの13個体のうち9個体では推測されませんでした。同様の変動性は、イタリア北部供給源を用いて観察されました。MAJは、エアフルトME(87%)とロシア(13%)、もしくはエアフルトME(86%)とドイツ(14%)でモデル化できます。MAJは、エアフルトME祖先系統60%とエアフルトEU祖先系統40%でもモデル化できます。

 まとめると、この結果から、エアフルトMEが、ヨーロッパ西部起源の現代AJにほぼ混合していない子孫を残したセファルディム系ユダヤ人と遺伝的に近い人口集団である一方で、エアフルトEUは追加のヨーロッパ東部関連の混合を経た、と示唆されます。現在のAJの大半は、エアフルトの2集団により表される人口集団のほぼ均等な混合として形成されました。言語学と文化と姓名の研究では、ヨーロッパ西部のAJ間の違いが見つかっており、初期のラインラント共同体と、ヨーロッパ中央部および東部のAJが表されます。この結果から、エアフルトMEとエアフルトEUはそれぞれ、西部AJ集団、中央部および東部AJ集団と関連しているかもしれない、という仮説が提案されます。非遺伝的差異は16世紀までにほぼ消滅し、現代AJにおける大きな遺伝的構造の欠如と一致します。

 要注意なのは、本論文で推測された供給源人口集団の具体的な自己認識は、混合割合と同様に、正確とみなされるべきではない、ということです。これは、真の祖先供給源の代理としての現代の人口集団への依存と同様に、EAJのデータと一致する複数のヨーロッパ南部人口集団に起因します。イタリアにおける中東祖先系統の水準(関連記事1および関連記事2および関連記事3)と中東人口集団も過去2000年間に、とくにアフリカ人との混合で、人口統計学的変化を経てきました。本論文で調査された広範なモデル一式下で、EAJにおける中東祖先系統は19~43%、地中海ヨーロッパ祖先系統は37~65%と推定されます。しかし、真の祖先系統の割合は、これらの範囲で示唆されるよりも高いか低い可能性があります。したがって、この結果は、AJの祖先供給源は現在の地中海ヨーロッパと中東に暮らす人口集団とのつながりを有している、と提案されることにのみ解釈されるべきです。


●エアフルトユダヤ人の歴史における創始者事象の証拠

 同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)ハプロタイプとmtDNA系統(mtHg)と病原性多様体の以前の分析では、AJは中世の創始者事象を経た、と示唆されました。しかし、この創始者事象の詳細は完全には解明されていません。mtDNA系統と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)とMAJで豊富な多様体という3情報源を用いて、EAJ人口集団が同じ創始者事象により形成されたのかどうか、検証されました。

 EAJのmtDNA系統は補足データ2のS2に一覧があり、最も一般的なアシュケナージの4系統の保有者数は補足データ1の表4にあります。注目すべきことに、親族関係にないEAJの31個体のうち11個体(35%)はmtHg-K1a1b1aで、これは非ユダヤ人祖先系統の個体ではほぼ存在しません。これはMAJにおける20%よりも高い頻度です。この11個体は全て、部位16223における単一のC/T(シトシンとチミン)多型を除いて、同一の配列を有していました(シトシン多型の保有者は11個体のうち3個体)。MAJとEAJのmtHg-K1a1b1a保有者の接合ベイズ分析(EAJ個体群の既知の年代を考慮)は、最新の共通祖先の中央値の事後時間について1500年前頃を示唆し、それは以前の点推定値よりわずかに早いものの、高い不確実性があります(95%最高事後密度間隔で6700~650年前)。

 エアフルトMEにおけるmtHg-K1a1b1aの頻度(54%、13個体のうち7個体)は、エアフルトEUの頻度(20%、10個体のうち2個体)より高かった、と分かりました。その違いは、小さな標本規模を考えると統計的に有意ではありませんでしたが、エアフルトMEにおけるmtHg-K1a1b1aのより高い頻度は、ヨーロッパ西部起源のAJにおけるより高い頻度と一致します。他のAJ創始者系統のうちEAJでは、2個体がmtHg-K1a9、1個体がmtHg-N1b1b1(N1b2)で、mtHg-K2a2a1の個体はいませんでした。

 全体的に、mtDNAの結果は、EAJがMAJに影響を及ぼしたのと同じボトルネックに影響を受けた、という証拠を提供します。同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)は、両親が遺伝的に親族関係にある個体群で現れ、創始者人口集団でも予測されます。hapROHを用いて、EAJにおけるROHが検出されました。少なくとも40万のSNPを網羅している、16個体に焦点が当てられました。EAJ個体群は、歴史的記録の他のほとんどの個体と比較して、かなり高水準のROHを有しており、4 cM(センチモルガン)以上の断片で1個体あたり平均44cMありました(8cM超の断片では30cM、20cM超の断片では14cM、図4C)。これらの結果は、EAJが強いボトルネックの影響を受けた、という仮説に追加の裏づけを提供します。以下は本論文の図4です。
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 次に、MAJに固有(もしくはほぼ固有)で、EAJにも存在する多様体が検討されました。AJ創始者アレルは、MAJにおいて頻度0.5%超で、ヨーロッパ人において0.01未満で、中東人において1%以下だった、溶液内濃縮により標的とされたSNPにおけるマイナーアレル(必ずしも疾患原因ではありません)として定義されました。全体として、216点のAJ創始者アレルが特定されました。これらのうち、15点はEAJの少なくとも1個体に存在しました。この数は、EAJがボトルネックの後だった、というシナリオ下で予測されるのかどうか決定するため、MAJアレル頻度が用いられ、2項式模擬実験が実行されて、EAJの標本規模と個体あたりの網羅率を考慮した場合の、観察されたアレル数が推定されました。EAJ的個体における模擬実験されたアレル数の2.5と97.5の百分位数は、14と32でした。これらの予測されるアレル数は、やや過大に推定されている可能性が高そうで、それは、MAJ祖先系が限界を超えたアレルでの条件付けに起因します。したがって、EAJにおける15点の創始者アレルの存在は、EAJがすでにAJボトルネックを経ていた場合に予測される範囲内です。


●創始者事象の人口統計学的モデルの推測

 AJボトルネック媒介変数を定量的に推定するため、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)共有に基づいて人口統計学的モデルが推測されました。Tb世代に始まり、d世代続いて、その後に指数関数的に拡大する有効規模Nbのボトルネックを経た、一定の(有効)規模の祖先人口集団のモデルで始められました(図4A)。MAJの637個体について全ゲノム配列決定データが用いられ、IBDseqを用いてIBD断片が推測されました。次に、最尤法を用いてボトルネック媒介変数が推定されました。Nbは1563個体(2倍体の個体、95%信頼区間では1364~1751個体)、Tbは41世代(95%信頼区間では39~43世代)、dは20世代(95%信頼区間では15~24世代)です(図4A)。IBD断片の予測数(図4Aのモデルに基づいています)は、MAJのデータの数との良好な適合を提供します(図4B)。1世代25年と仮定すると、本論文のモデルはボトルネックの開始を1000年前頃、つまり初期AJ共同体の形成の頃に位置づけます。同じMAJの個体群でROHを用いてひじょうに類似したモデルが推測され、実証的データとよく適合します(図4B)。

 次に、本論文で推測された人口統計学的モデルが、MAJとEAJとの間の遺伝的類似性を考慮して予測される、古代EAJのデータ(650年の違いを考慮した後で)に良好な適合を提供するのかどうか、という決定が試みられました。しかし、EAJにおけるROH数はこのモデル(図4A)に基づくと、とくに短い断片と中間的な断片で予測を上回っており(図4D)、エアフルトのボトルネックはもっと深刻だったに違いない、と示唆されます。以前の模擬実験結果と本論文のさらなる調査を考えると、この間隙が偽陽性のROH呼び出しに起因する可能性は低そうです。EAJにおける親族関係のモデル化は、短いROHの過剰を説明しませんでした。古代人のデータに適合させるには、エアフルトのボトルネックは現代人のIBDに基づく予測と比較して、3.0倍狭いか、2.4倍長かったに違いありません(図4D)。しかし、これらのボトルネック媒介変数は、現代人のデータに適合しませんでした。古代人と現代人両方のROHデータに最適な適合モデルも、良好な全体的適合を提供しませんでした。まとめると、これらの結果から、図4Aの単一の人口集団(および単一のボトルネック)モデルは、AJの人口史を完全には説明していない、と示唆されます。

 エアフルト人口集団のみが単一のAJ中世遺跡を表していることを考えると、本論文のモデルで欠けている構成要素は中世の下部構造である、と仮定されました。したがって、AJ人口集団がボトルネックの開始に異なるボトルネック強度を経た2集団に分岐し、そのうち一方がEAJに、他方が標本抽出されていない集団により表される、というモデルが検討されました。模擬実験により示されるのは、本論文の手法は現代人と古代人のデータ量できょくたんな不均衡が存在する場合でさえモデル媒介変数を推測できる、ということです。最適なモデル(図4E)では、ボトルネックはTb=46世代前(95%信頼区間では36~58世代前)に始まり、d=22世代(95%信頼区間では9~36世代)続きました。EAJにより表される集団は、規模Nb=627(95%信頼区間で355~958)の狭いボトルネックを経ており、MAJの遺伝子プールに52%(95%信頼区間で41~99%)寄与しました。残りの寄与は、他のAJ集団と統合した場合、最初のボトルネックを経なかったものの、ボトルネックの末にのみ収縮した、第二の集団に由来しました(図4E)。このモデルは、現代人と古代人両方のデータによく適合します(図4F)。媒介変数ブートストラップ法を用いて、好適な一致は過適合に起因しない、と論証されます。

 本論文のモデルは、いくつかの仮定を立てています。第一に、全ての人口統計学的事象は別々の時期に起きました。第二に、非エアフルト下位集団は最初のボトルネックを経ませんでした。第三に、非AJ人口集団からの、もしくはAJ下位集団間の遺伝子流動はありませんでした。第四に、人口集団の分岐と統合は、ボトルネックの開始と終焉にそれぞれ一致しました。第五に、ボトルネックはその期間を通じて一定規模のままでした。これらの仮定がひじょうに特有であることを考えると、この結果は、人口統計学的モデルの正しい形式の説明として解釈されるべきではありません。代替的なモデル、とくにより複雑なモデルを除外できません。本論文の結果は、さまざまなボトルネック強度を経てきたさまざまな集団を有する下部構造のモデルが、現代人と古代人のハプロタイプ共有データをどのように再現できるのか示す、事例証明として機能します。


●病原性多様体

 EAJがAJ創始者事象を経たならば、EAJは現在のAJで多い病原性多様体の一部を有している、と予測されます。ヨーロッパ人とアジア東部人において高頻度の多様体を除外した後、62の病原性多様体の一覧が集められました。これらのうち6点だけが、本論文の124万濃縮SNPに含まれており、補完を用いて追加の多様体が調べられました。702個体のMAJの全ゲノムの参照パネルと、2つの補完手法が用いられました。一方の手法はPHCP(Pseudo-Haploid ChromoPainter、疑似半数体ChromoPainter)と呼ばれ、入力として疑似半数体SNPデータを取ります。これは倍数体のリー・ステファンズ隠れマルコフモデルに基づいています。もう一方の手法は、ゲノム規模配列データに基づくGLIMPSEです。メンデルの一貫性と遺伝子型決定された創始者アレルの隠蔽を用いて、PHCPの高精度が確証され、同様に、これら2手法間の高い一致が確認されました。

 EAJのゲノムで、11点の高い信頼性の病原性多様体が発見されました。5点の追加の多様体が、低い信頼性で検出されました。EAJの8個体が高い信頼性の多様体を有しており、各多様体は少なくとも1回は見られます。発見された多様体のうち6点は、現代人のゲノムデータを用いて以前に年代測定され、起源の推定年代は14世紀の存在と一致します。多様体のほとんどは、妊娠前の集団検診パネルに含まれる遺伝子にあります。補完は多様体のあるハプロタイプの存在を論証するものの、多様体自体を論証するわけではないことに要注意です。しかし、遺伝子型決定された創始者アレルで観察された低い偽陽性率は、このシナリオが一般的であることに反論しています。

 最後に、選択された非医学的もしくは多遺伝子と関連する多様体が評価されました。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と、目と髪の色素沈着と、(推定される)伝染病の危険性についての多様体は、EAJとMAJとの間で類似のアレル頻度です。成人13個体の骨学的身長推定値は、身長の多遺伝子得点と相関していたものの、有意ではありません。


●考察

 歴史上実在したAJ個体群のゲノム規模データの分析により、初期AJの起源に関する理解が深められます。EAJの祖先系統は、PCAやADMIXTURE やqpWave 分析により明らかなように、MAJの祖先系統と密接に関連しており、過去700年間にわたるAJ祖先系統の高水準の連続性が示唆されます。しかし、EAJ個体群はMAJより多くの変動的な祖先系統を有しており、わずかなヨーロッパ東部関連祖先系統構成要素の存在により階層化されました。一連の複数の証拠から、EAJ人口集団はすでにMAJと共有される「ボトルネック」を経ていた、と示唆されます。それは、アシュケナージの創始者mtDNA系統(mtHg)の高頻度と、AJで多い病原性多様体および他のアレルの存在と、長いROHです。先行研究と一致して、AJ拡大の開始年代は20~25世代前と推定されました。

 本論文の古代DNAデータにより、パターンの特定が可能となりました。具体的には、本論文の結果から、AJ人口集団は現在よりも中世においてより構造化されていた、と示唆されます。エアフルト内では、一方の集団はヨーロッパ東部関連祖先系統が豊富でしたが(図2および図3B)、もう一方の集団はヨーロッパ西部起源のMAJおよびセファルディム系ユダヤ人と近い祖先系統を有していました(図2)。この2集団は、エナメル質の酸素18の水準も異なっていました(図3C)。本論文の結果は、エアフルト内のより細かい区分さえ除外できず、中世AJはエアフルトを超えてさらに構造化されていたかもしれません。対照的に、現在のAJは顕著に均質です。これは、祖先系統の全体的な供給源が中世と現代のAJの間で類似したままであったとしても、中世以来の内婚とAJ内の混合が、AJ遺伝子プールの均質化に寄与してきた、と示唆します。以下は本論文の要約図です。
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 中世後期に、AJ人口集団が言語学的および文化的に東西の軸に沿って分裂したことを示唆する非遺伝的データに基づいて、2つのエアフルト下位集団の自己認識について推測できます。西方AJ集団はエアフルトMEと対応している可能性があり、ラインラントにおける初期AJ入植者の子孫を表している可能性が高そうです。ある資料は、エアフルトが2集団間の境界に位置すると明示的に記載しており、14世紀には、エアフルトでの名前は東西両AJに典型的でした。これらの点は、東方からの第二エアフルト共同体への移住についての証拠とともに、両方の遺伝的集団に属する個体群がエアフルトに存在した理由を説明できるかもしれません。エアフルトにおける遺伝的多様性の増加は、EAJがMAJよりも深刻なボトルネックを経た、という本論文の推測と矛盾しません。EAJがMAJと比較して少数の創始者の子孫だった一方で、これらの創始者が、そのヨーロッパの遺伝的祖先系統の観点ではより変動的だった、という可能性が高そうです。


●この研究の限界

 初期AJ遺伝子プールへの具体的な人口集団の直接的寄与の定量化としての、祖先供給源についてのqpAdmモデルの解釈には要注意です。その理由は、(1)モデル間で推測された祖先系統の割合が広範囲であること、(2)イタリアにおける中東祖先系統の歴史的変動、(3)本論文では調べられなかった大きな空間のためです。代わりに、この結果は、AJの祖先供給源と、その古代の先祖との遺伝的連続性を有しているかもしれないし、有していないかもしれない、現代の人口集団との間の遺伝的つながりを反映しています。さらに要注意なのは、現代のAJについて満足なモデルを特定できないことと、qpAdmで現代人の供給源を用いて古代の人口集団をモデル化するさいの技術的困難です。

 他の古代DNA研究と同様に、本論文の歴史的推測は時空間的に単一の遺跡に基づいています。これは、じっさいに本論文で推測されたように、本論文のデータが初期AJの完全な遺伝的多様性を表していないかもしれない、と示唆します(図4E)。しかし、単一の遺跡であっても、本論文の標本規模は比較的大きく(30個体超)、MAJには存在しない下部構造を把握できました。さらに、同じ創始者事象の共有とともに、MAJとの遺伝的連続性を示せました。別の限界は、疑似半数体データからの推測を困難とする、比較的少ない短いROHでの本論文の人口統計学的モデルの依存です。一般的に、本論文で推定された人口統計学的モデルは、完全で正確な人口統計学的再構築として解釈されるべきではありません。むしろ、観察された遺伝的データのおもな特徴を把握する、単純化されたモデル(恐らくは多くの単純化されたモデルの一つ)とみなされるべきです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。最近、イギリスのノリッジ(Norwich)遺跡の中世の井戸の底で発掘された6個体のゲノム配列データが報告されました(関連記事)。本論文と近い時期に刊行された論文なので、本論文ではその論文が直接的には言及されていませんが、本論文のHTML版では関連論文として取り上げられています。その論文では、1140年以前のAJにおけるボトルネックが推測されており、本論文と整合的と言えそうです。AJに限らずユダヤ人は人口史の解明がかなり進んでいる集団と言えそうで、今後の研究の進展により、さらに具体的な祖先集団が解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Waldman S. et al.(2021): Genome-wide data from medieval German Jews show that the Ashkenazi founder event pre-dated the 14th century. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell. 2022.11.002


https://sicambre.seesaa.net/article/202212article_4.html
3:777 :

2023/07/24 (Mon) 12:24:05

茂木誠 _ ゼロからわかる旧約聖書
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132553




茂木誠 ユダヤの歴史 - YouTube
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茂木誠 _ ユダヤの古代史&世界史
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【日ユ同祖論】 日本人のルーツとヘブライ語の謎|茂木誠
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アシュケナージ系ユダヤ人の歴史
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ユダヤ人の Y-DNA _ 日本にはユダヤ人の遺伝子は全く入っていない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007378

秦氏がユダヤ人だというのはド素人の妄想
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007812

ユダヤ人は白人美女が大好きで、非白人は人間だと思っていない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14077515
4:777 :

2023/07/25 (Tue) 21:57:41

【日ユ同祖論】ユダヤと秦氏は繋がっていた!? |茂木誠
2022/03/30
https://www.youtube.com/watch?v=rcIbCcacDoc&list=PLGqoPsu9icDYmqlUflf_TmVklScqHwoQE&index=12
5:777 :

2023/07/26 (Wed) 03:48:06

秦氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な帰化氏族である[1]。

日本人のルーツとしての多くは朝鮮から渡って来たとされ、ヤマト王権成立後に同化が進んだ。渡来系氏族は歴史用語として、3世紀から7世紀にかけて朝鮮より帰化した秦氏などの有力氏族を指すものだとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている)。

秦氏一族は稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。

奈良時代の戸籍・半布里戸籍に秦氏の記述が残されてある(富加町)。

天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。

平安遷都に際しては、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとされる。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお、中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[2]。

歴史
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[3]を秦氏の祖とする[4]。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが[5]、その真実性には疑問が呈せられており[6]、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている[7][8][9][10]。「弓月」の朝鮮語の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の和訓である「くだら」とほぼ同音であることから百済の系統とする説などがある[11]。

葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだ[12]。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。

秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[13]。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。

河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]。

雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた[14]。欽明天皇の時代には紀伊郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられた。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立。皇極天皇の時代には上宮王家が所有する深草屯倉を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[15]。

秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる[16]。

「深草秦氏」と「葛野秦氏」は、ほぼ同時期の6世紀に葛城から移住しており、まず肥沃な深草を拠点とした秦大津父が秦氏の族長となり、葛野の開発によって葛野秦氏が台頭し、族長の座が秦河勝の手に移ったと考えられる[16]。そして、秦氏の族長は、『日本書紀』に「秦大津父が欽明天皇に『秦伴造』に任命された」という記事があるように、王権によって決められており、秦河勝や、太秦公の姓を賜った秦島麻呂も同じであった[16]。

秦氏は上宮王家が親密であったが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接批判された東漢氏とは対照的である[16]。

天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。

出自
『新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であり、秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物とされる[17][18]。

新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していた[要出典]が、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。また、方位では東南東を意味する“辰”の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれたことから秦の末裔ではないかと思われたこと。平野邦雄よると秦国の徐福が海外に派遣されたことは当時の中国王朝の文献によく言及されるほど有名な物語であって、徐福は実際に海外にはたどり着けなかったものの、物語が誤伝され辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという[19](平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)[20][21][22]。
百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説[23]。佐伯有清によると秦の始皇帝の苗字は秦氏ではなく、新羅系渡来氏族が渡来したが『新撰姓氏録』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は秦の始皇帝の末裔と思われ出自が間違っている。(笠井倭人・佐伯有清)[24][25]。
中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を構成した国王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)[26]。
五胡十六国時代の中国で羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)[27][28]。
『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されている[29]。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱された[30]が、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり[31]、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている[32]。

秦氏の系統(一覧)
豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)[33]の秦部[34][35]や氏名が横溢している。
葛野秦氏 - 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
深草秦氏 - 拠点は山城国紀伊郡深草。上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具(伏見稲荷大社の建立)など。
播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
近江依知秦氏 - 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
東国秦氏 - 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる[注釈 1]。
(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。)

秦人と秦人部、秦部 
秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる[12]。

秦人 - 弓月君と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、国造制やミヤケ制の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団
そして、彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。

構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる[12]。

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院
神社
八幡神
松尾大社
伏見稲荷大社
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
大酒神社 - 京都府京都市右京区にあり、秦始皇帝、弓月君、秦酒公を祀る。
大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。
敢国神社
旗宮
寺院
広隆寺
石鉄山往生院正法寺
秦楽寺
補陀落山久能寺 - 秦久能忠仁が観音菩薩像を安置(現在の久能山東照宮付近にあたる)[36]。
秦氏に関する人物
弓月君
秦酒公 - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。
秦大津父 - 欽明天皇に仕えた。大蔵の司。
秦河勝 - 聖徳太子のブレーンとしても知られ、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたと記紀にある。葛野秦氏の中心的人物と称される。
椋部秦久麻 - 天寿国繡帳(中宮寺)の製作者。
朴市秦造田来津 - 秦河勝の子。白村江の戦いで戦死。
秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。
秦伊侶具 - 伏見稲荷大社を建立。
上仙菩薩 - 一宮神社の社家実遠の第二子として生まれ萬願寺、善成寺などを開基した高僧。
弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ[37]。
慧達 - 法相宗の僧侶。美濃国出身で俗姓は秦氏[38]。
藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った[39]。
道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた[40]。
秦造内麻呂 - 三野山にある空海の一伽藍を修復。求福教寺を建立。
法然 - 母が秦氏。
藤原為憲 - 妻が秦氏。
二階堂行政 - 妻が秦氏(熱田神宮の巫女)。
秦公春
秦助正
平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏
秦老人 - 備前国。
秦忍山 - 備前国。
秦大丸 - 備前国。
秦勝小国 - 備前国。
秦部得丸 - 備前国。
秦部(犬)養 - 備前国。
秦部得万呂 - 備前国。
正倉院文書に記述されている秦氏[41]

秦秋庭(秦常秋庭)
秦乳主(秦忌寸乳主)
秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主[34][35]」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[42]。
前賢故実に記述されている秦氏

秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
秦部総成女[34][35](はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】
末裔とされる氏族
末裔・枝氏は60ほどあるとされる[43]。

秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓[44]。
勝氏、忌寸氏、部氏[45]。
朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。
内蔵氏、大蔵朝臣[43](漢氏と共通)[46]。
朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏[43]
惟宗氏[43]
薩摩島津氏[43] - 惟宗朝臣からの派生氏族。島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に清和源氏末裔を自称。
宗氏[43] - 惟宗氏からの派生氏族。宗氏自体は桓武平氏末裔を自称。
執印氏(鹿児島氏) - 薩摩国一宮新田八幡宮社家。
神保氏[43]、安芸氏、市来氏、川原氏、河俣氏なども惟宗氏の出とされる。
長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。
川勝氏[47][48]
赤松氏[49]
東儀家
松下氏 - 松下氏自体は宇多源氏(近江源氏)六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。
松尾氏 - 秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
藤原北家 - 秦氏と藤原氏は婚姻関係を持つ[39]。
末裔を称する人物
長宗我部元親 - 戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。
島津義久 - 戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の戦国大名。島津氏第16代当主。
赤穂浪士 - 大石内蔵助など元赤穂藩士47人の中に播磨秦氏の末裔。
荷田春満
東儀俊美 - 雅楽師で元宮内庁首席楽長。日本芸術院会員。
羽田貞義 - 羽田武嗣郎 - 羽田孜 - 羽田雄一郎・羽田次郎 - 羽田家は秦氏の末裔と伝えられる[50]。
つのだじろう - 秦氏の末裔と自称して漫画『うしろの始皇帝』を発表。
麻生太郎 - 第92代内閣総理大臣、自由民主党幹事長
あきまん - イラストレーター、デザイナー、漫画家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
6:777 :

2023/07/26 (Wed) 05:35:20

弓月君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された人物。『日本書紀』応神天皇条に、多数の民を率いて渡来したとある。山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりを本拠とし、近畿一帯に強い地盤を築いた[1][2][3][4]。

『日本書紀』による帰化の経緯としては、応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した[1]。

『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある[5]。『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波多姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。

『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らは惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった。

考証
弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献したとされている。

雄略天皇の御代では秦酒公が離散の流れのある中で一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。

「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説[6]。佐伯有清によると秦の始皇帝の苗字は秦氏ではなく、新羅系渡来氏族が渡来したが『新撰姓氏録』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は秦の始皇帝の末裔と思われ出自が間違っている。(笠井倭人・佐伯有清)[7][8]。

『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。(弓月君の帰化の伝承は、この秦韓の歴史に関係するとも考えられてる意見もある。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
7:777 :

2023/07/26 (Wed) 06:17:23


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6

秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の、姓は嬴(えい)、氏は趙[注 2]。統一時の首都は咸陽。

歴史

周代
紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。

伝説上では嬴姓は舜の臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。

周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代
春秋時代

春秋時代の諸国
襄公の受封
紀元前770年、周の幽王が申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎に鎬京が荒され、幽王と褒姒、太子の伯服(中国語版)が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。

早期の歴史
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に置いた。

覇者
穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった(殽の戦い(中国語版)、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。

戦国時代

紀元前260年の戦国七雄
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い(中国語版))。紀元前383年、献公は櫟陽(中国語版)(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に涇陽(現在の陝西省涇陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・楚の五カ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀(中国語版)(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。

紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三国聯軍攻秦の戦い(中国語版))。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君と楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い(中国語版))。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った。

これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年に楊摎の進軍を妨害した、東周と西周公は秦の支配下に入り、程なく赧王と文公が死んだため、完全に周は滅びその領地を接収したものの[4]、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。

統一戦争
詳細は「秦の統一戦争」を参照
蓁の統一戦争による領土の拡大

始皇帝
紀元前247年、秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 3] の五カ国合従軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した[5][6][7][8][9]。その後も王弟の長安君成蟜の反乱や母の趙姫と愛人の嫪毐の反乱が起きた[10]。紀元前238年に嫪毐の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。

韓と趙の滅亡
紀元前236年、趙の鄴を王翦と桓齮・楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 4][11]。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[12][13]。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14]。同年、韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。

しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[15]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[16][17][18][19]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。

紀元前230年、内史騰が韓を滅ぼした[20][21][22]。

紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]。

紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 5][20][21][22]。

燕との戦いと、魏の滅亡
紀元前227年、燕の太子丹が刺客の荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。

紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]。

楚と燕、斉の滅亡
同年、李信と蒙恬が楚に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]。

紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]、紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 6][30][22]、紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]。

中華統一
「秦朝」も参照
秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、始皇帝(秦始皇)と呼ばれた[31]。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に天皇(てんこう、日本の天皇とは別)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古(夏・殷)の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。

始皇帝は度量衡・文字の統一[32]、郡県制の実施など様々な改革を行った[31]。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが[33]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。


秦朝の行政区分
秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。

混乱と滅亡

秦末の反乱
紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官の趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。

政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である(詳しくは前漢を参照)。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。

経済
始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。


兵馬俑
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
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2023/07/26 (Wed) 08:42:39

始皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D


始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日[4][5])は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)[6]。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または趙(ちょう)[7]、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)または正(せい)[8]。現代中国語では秦始皇帝[9]または秦始皇[10]と表現する。

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した[6]。

治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一[11]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる[12]。

統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。

称号「始皇帝」

小篆体で書かれた始皇帝。
意味
周の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される[13]。

「始」は「最初(一番目)」の意味である[14]。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる[15]。
「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた[16]。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[17]。
さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[18]。
元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた[13]。
『史記』における表記
司馬遷が編纂した『史記』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][19]や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節[20]、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている[21][22]。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる[23]。

生涯
生誕と幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[24] 。

人質の子
詳細は「奇貨居くべし」を参照
秦の公子であった父の異人(後の荘襄王)[25] は休戦協定で人質として趙へ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[26] である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[27]。

そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた[12]。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫)[3] を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と諱を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[注 2][28]。後に始皇帝となる[5][27][28]。

実父に関する議論
漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][29][30]。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[31]。

始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[14]。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[32]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[33]。

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している[30][2- 1]。

『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫[29])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[34])の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり[29]、事前に妊娠していたとすればおかしい。
陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した[35]。

死と隣り合わせの少年
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった[30]。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している[35]。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。

昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった[36] 政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された[30]。

即位
若年王の誕生と呂不韋の権勢
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした[30]。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ[37]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した[14]。

秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[38]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている[39]。

そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した[40]。

だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない[41]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた[42]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[41]。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた[41][42]。

秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った[41]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[43] と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[35]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[42]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う[42]。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された[41][42]。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[36][41]。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。

秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[41]。

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。
— 史記「呂不韋列伝」14[44]
流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[14][42]。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[41] が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[35]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[35]。

専制
李斯と韓非
秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[45]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し[45]、孝公は衛の公族だった商鞅から[46]、恵文王は魏出身の張儀から[47]、昭襄王は魏の范雎から[48] それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[45]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[49]。

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[46]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[36] 使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ[50]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた[49]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[51]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[52]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[52] という箇所にも共感を得た[49]。

韓・趙の滅亡
詳細は「秦の統一戦争」を参照
秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[30]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[49]。

秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)[49]。

秦王政18年(前229年)、秦は王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[53][54] につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。

秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)[55]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[55]。

趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。

暗殺未遂と燕の滅亡
詳細は「荊軻」を参照
燕は弱小な国であった[56]。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた[55]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという[55]。実際は脱走したと思われる[57] 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[55][58]。


逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[56]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[12][56]。

秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた樊於期の首を携えて政への謁見に臨んだ[55][56]。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[56]。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[56]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた[56][59]。

政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。

そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された[59]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた(燕の滅亡)[57][59]。

魏・楚・斉の滅亡
次に秦の標的となった魏は、かつて五国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。

秦王政22年(前225年)、秦王政は王賁に魏を攻めさせ、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)[59]。

同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[60]。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱[61] と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)[57][62]。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)[63]。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった[63]。

統一王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像
皇帝
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[13]。

五徳終始
始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[64]。史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された[65][66]。

政治
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[67]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[68]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[69]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[66]。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[68][70] と強硬に主張した李斯の意見が採られた[66]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[71]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[69][72]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[69]。

経済など
始皇帝と李斯は、度量衡や通貨[11]、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[73] などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[71][74]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[71]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[69][74]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[70]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[75]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[76]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[69][70]。

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[77]。

廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
— 青銅詔版[77][78]
大土木事業


阿房宮図。清代の袁耀作。
咸陽と阿房宮
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[79]。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[79]。

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[79] 巨大な宮殿であった[80]。

名称「阿房」とは仮の名称である[81]。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名[82] であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[79]、四阿旁広の様子からつけられたとも[79]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[83] とも言う。

始皇帝陵 (驪山)
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[84]。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある[85]。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[84][86]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[84]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[84]。

1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった[87]。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[88]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[89]。

なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた[90]。


秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。

現代に残る霊渠
万里の長城
詳細は「万里の長城」を参照
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[80]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[80]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[54][91]。逮捕された不正役人を動員して建造した[92] この壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[80][93][94]。

霊渠
詳細は「霊渠」を参照
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある[95]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[96]、中国の南北を接続した[96]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ[96]。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた[96]。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[96]。

天下巡遊
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[97] いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[98]。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事[99] に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[98]。


始皇帝の天下巡遊路
順路は以下の通りである[98]。

始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省鄒城市)‐泰山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市福山区)‐成山(山東省栄成市)‐之罘(山東省煙台市芝罘区)‐瑯琊(山東省青島市黄島区)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省岳陽市君山区)‐武関(陝西省丹鳳県)‐咸陽[100][注 3]
29年:咸陽‐陽武(河南省新郷市原陽県)‐之罘‐瑯琊‐上党(山西省長治市)‐咸陽[101]
始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省秦皇島市昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽[102]
始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省安慶市迎江区)‐丹陽(江蘇省南京市)‐銭唐(浙江省杭州市)‐会稽(浙江省紹興市)‐呉(江蘇省蘇州市)‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省徳州市平原県)‐沙丘(河北省邢台市広宗県)[103]
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[104]。

封禅
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[105]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[106]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[107]、この儀式を遂行した[108]。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[106]、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[105]、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった[108][109]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した[105][108]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた[108]。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[109]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[108]、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる[105]。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[108]。

神仙への傾倒

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。
泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた[110]。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し[111]、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者たちであった[112]。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」[113] と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという[108]。

その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生(中国語版)を伴って帰還する[114] ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した[111][115]。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた[111]。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう[112][116]。

刻石
各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない[98]。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である[98]。

逸話
始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある[117]。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった[104]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[104]。

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[111]。

暗殺未遂
詳細は「始皇帝の暗殺未遂」を参照
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[118]。

高漸離の暗殺未遂
詳細は「高漸離」を参照
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[119]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[118][120]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[118]。

張良の暗殺未遂
詳細は「張良」を参照
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[80])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[115]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[115]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[42][118][121]。

咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[118][122]。

「真人」の希求
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[123]。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている[104]。逐電した徐巿[112] に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に盧生は様々な影響を与えた[124]。

『録図書』と胡の討伐
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[125] という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[124]。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[124]。

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら[126] を中心に編成された軍団を派遣し[124]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[54]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[124]。

不老不死の薬
2002年に湖南省の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ木簡の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。

地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。[127]

焚書坑儒
焚書
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[128]。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた[129] が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した[130]。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた[131][132]。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き[注 4] 厳しく罰せられた[133]。

始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[134]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[133]。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[135]。

すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[135]。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[136]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[137]。

坑儒
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[138]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[139] を元にする超人を指した[116]。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[140]。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた[141]。

しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って[142] 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[143]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[116]。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」[144] と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇[145] の言「諸生皆誦法孔子」[128] から、儒家の比率は高かったものと推定される[146]。

諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[116]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[128]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた[147] が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[80]。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[148]。

祖龍の死
不吉な暗示
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた[149]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[150] 上、隕石は焼き砕かれた[28]。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[118]。

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[118][150]。

最後の巡遊
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[151] は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[152]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた[152][153]。

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている[154] 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高[155] に作成させ託した。

始皇37年(紀元前210年)[156]、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県[157])にて崩御[2][152][158]。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[89]。

死後
隠された崩御
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[56]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[56][159][160]。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][152]。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し[2][56]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[56] 帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[154][155][161]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた[161]。

二世皇帝
始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)[56]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ[162]。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[162]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[163]。

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[164]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[164]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた[164][165]。

『趙正書』の記述

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
趙正書
「趙正書」も参照
以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、北京大学蔵西漢竹書の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている[166][167]。

人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[49] が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った[35]。

秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。
— 史記「秦始皇本紀」4[168]
秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる[35][49]。

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[57][63]。

夫秦王怚而不信人。
— 史記「白起王翦列伝」11[62]
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。[57][63]。

方士の盧生と侯生が逃亡する前に始皇帝を評した言が残っている。

始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)
— 史記「秦始皇本紀」41[144]
始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[116]。

后妃と子女
始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。

子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。

扶蘇(長子)
胡亥(末子)
また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。

子嬰 - 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。
公子高 - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。
将閭 - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
評価
暴虐な君主として
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された[169]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[170]。この時代には「無道秦」[171] や「暴秦」[172] 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[173]。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった[174]。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[174]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[175]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[176]。

唐代の詩人・李白は『国風』四十八[177] で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。

阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 5] という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[178]。

封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[135]、以後2000年にわたって継続された[169]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[169]。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[169]。


始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市
近代以降の評価
清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[169]。

日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した[169]。

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蔣介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

文化大革命期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[169]。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された[179]。

文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[75]。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[180]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
9:777 :

2023/07/26 (Wed) 12:52:53

秦始皇帝の皇子と皇妃か=肖像を復元、きさきには東アジア系と異なる特徴も
2018年7月18日
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html


秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と皇妃との可能性が高い男女の肖像が復元された。
https://www.recordchina.co.jp/pics.php?id=625867


中国メディアの参考消息などによると、陝西省西安市にキャンパスを置く西北大学信息科学与技術学院が開発したソフトウェアを用いて、秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と妃(きさき)と見られる男女の肖像が復元された。

始皇帝陵から出土した人骨に基づき、生前の肖像を復元した。女性の骨格は複数人分があったが、身分が高いと思われる女性の肖像を復元した。研究者らは始皇帝の妃の一人である可能性が高いと考えている。女性は20歳前後で、殺害されたと分かった。始皇帝の死に伴い、殉死させられたと見られている。

復元された女性は、目が大きく鼻筋もくっきりとしている。そのため、東アジア人ではない中央アジアまたはコーカソイド系(欧州人)の血が流れている可能性があるとの見方が出ている。

中央アジアでは古くから、コーカソイド系の人々が多く暮らしてきた。現在のウイグルなど多くの民族にもコーカソイド系の血が入っているとされる。また、新疆ウイグル自治区の楼蘭で発見された、紀元前19世紀ごろのものとされる女性のミイラもコーカソイド系の血が入っていたことが分かっている。始皇帝の妃の一人が、コーカソイド系だったとすれば、紀元前に中国の中心部にさらに近い地点にも、コーカソイド系の人々が存在していたことになる。

また、始皇帝の妃だったとすれば、同女性が当時「美女」と評価されていたことは、まず間違いないだろう。とすれば、コーカソイド系をほうふつさせる女性の容貌は、当時の人々の女性に対する審美眼を知る参考にもなりうるはずだ。

肖像が復元されたもう一人の男性は死亡当時30歳前後で、陶器、玉器、絹、青銅の剣、銀器、金など副葬品が大量に発見されたことから、身分が極めて高かったと見られている。しかし男性の上腕骨には矢じりが食い込んでおり、頭部や四肢が切断されていたことが分かった。そのため、男性は始皇帝の皇子など宮室の一員であり、始皇帝の死の直後に発生した大規模な粛清の中で殺害されたと考える研究者もいる。

用いられたソフトウェアは、ディープラーニングの手法を用いて解剖学上のデータを大量に学習して能力を蓄積し、骨格から肖像を復元する。頭髪や目の色などは推測するしかないが、西北大学信息科学与技術学院の李康准教授によると、肖像の復元について厳格な確認を繰り返しており信頼性は高い。すでに警察が犯罪捜査のために広く利用しているという。(翻訳・編集/如月隼人)
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html
10:777 :

2023/07/26 (Wed) 16:22:22

日ユ同祖論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96

日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)は、日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。但し、ユダヤ人(古代イスラエル人のうちのユダ族、ベニヤミン族、レビ族)ではなく、ユダヤ人と共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族である。英ユ同祖論など、ユダヤ人と他民族文化を関連づけて論じられるユダヤ人同祖論のひとつ[1]。


古代イスラエルの12部族とは、ルベン族、(シメオン族)、レビ族、ユダ族、(ダン族)、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)、ベニヤミン族を指す。

一般によく認識されているユダヤ民族の祖は、第4族ユダ族と第12族ベニヤミン族に第3族レビ族を加えた3部族であり、失われた10支族から省かれる。

古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)を指す。

第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が日本に、第11族ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)はエチオピアに移住したという説がある。

日ユ同祖論は、主に以下がある。

世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族(第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族)の数人が日本に移住したという説。
英ユ同祖論における、世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族であるという説。
イスラエルの失われた10支族は、日本に渡来したという説。
イスラエルの12部族(英語版)全部が、日本に来たという説。
古代日本人は、ユダヤ人の先祖であるという説(古代イスラエル12支族=ユダヤ民族(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族の3族)との勘違いから派生した説)。
皇室、物部氏ヨセフ族、出雲神族(クナド大神族)レビ族、出雲族(龍蛇族)ダン族とナフタリ族はイスラエル支族であるという説。皇室が分家の武内宿祢の蘇我本家から養子を迎えたところ、皇室へ養子に行った蘇我本家の王は富家レビ族からの養子だったので皇室が祭司王も兼ねるようになり王権と祭司権の両方を担ったという。
本項では、主に3について記述する。

起源
明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド、N・マクレオッド[2])[3] は、日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での英語の著作The Epitome of The Ancient History of Japan(『日本古代史の縮図』、長崎日の出書房、1878年)と Illustrations to the epitome of the ancient history of Japan[4](『日本古代歴史図解』、京都、1878年[2])によって始まった。同書でマクラウドは、祇園祭の牛車とユダヤ人が家族で移動するときの牛車との類似性をはじめ、イスラエル人が日本にと渡来する時に用いた筏や、日本で発見されたバビロンなどの古文字、アッシリアやユダヤの古物、ユダヤの神殿で用いられたと「想像したる」日本のラッパや琵琶などの楽器と、十数の項目で日本人とイスラエル人の共通点を挙げて、日本人の祖先はイスラエルから渡来したと主張した。これらは、後の1901年に「ユダヤ大百科事典」ニューヨーク版失われた10支族[5] の項目に引用されたという。彼は韓ユ同祖論も唱えていたこともあって、マクラウドはなんでも失われた10支族と結びつけるいい加減な人物であったと結論する者もいる。彼の主張は、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本へ鞍馬寺へ渡ったのに対して、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったというものであり、諸説論理上の整合性は取れている。マクラウド自身の素性についてはニシン商人とも宣教師とも言われるが、生没年含め詳細は不明で、現存する『日本古代史の縮図』(第2版)の献辞がスコットランドのフリーチャーチ(スコットランド自由教会)の聖職者になされていることから宗教的には同派に関係すると推測されている[6]。宮武外骨は、『日本古代歴史図解』を「多くの奇説と奇図」と紹介し、マクラウドを「木村鷹太郎よりも、ズット古い日本歴史の研究家と見ねばならない」と皮肉っている[2]。

明治後期に英語教師の佐伯好郎や牧師の川守田英二らが同調し、1930年代には対日禁輸政策を取る米国への対応策及びの一環として立案された河豚計画(ユダヤ人難民の満州入植計画)などに利用されたほか、日本ホーリネス教会の中田重治も超国家主義な観点からこれを唱えホーリネス分裂事件を起こした。第二次大戦後に新宗教団体の「キリストの幕屋」(1948年設立)が説を支持してイスラエルに接近し、1970年代には英文冊子を作成して同国大統領に進呈するなどして同説を広め、これを基に在米ユダヤ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが大々的に宣伝した[7]。宗教学者の大田俊寛は、同祖論普及の背景には、聖書に出てこない日本が神の救済対象に含まれているのかという不安があったと論じている[8]。

この他、反ユダヤ主義から親ユダヤに転向した酒井勝軍は、逆説的に、日本民族がユダヤ人含む全人類の起源であると主張した[9]。近年では、イスラエル・アリエル大学のアビグドール・シャハン博士や、ユダヤ人研究家のジョセフ・アイデルバーグなども、古代イスラエルと日本の文化伝統の類似、ヘブル語(ヘブライ語)と日本語の類似などを説いている。DNAは類似していないにも関わらずユダヤ同祖論を強弁する、日ユ同祖論者はトンデモ論者とされている。

学術的には偽史運動のひとつとされている。ユダヤだけでなく日本人シュメール起源説などこの手の起源説はオカルト等では人気のジャンルである。20世紀の終わりには、日ユ同祖論に関する多くの本が販売され、世界のユダヤ人支配を主張した数多の理論と説明が出回った。これらの本は「トンデモ本」と呼ばれ、オカルトとタブロイドのような推測の要素を含んでいた。なお、日ユ同祖論自体は、日本とユダヤの祖先が同じであるとの主張であり、「親ユダヤ的な主張」もある一方、祖先が同じであるがゆえに「ユダヤも日本と同じく民族の誇りを回復して、世界を睥睨する地位に就かんとしている」と警鐘を鳴らす反ユダヤ主義的な主張でもあり、内田樹は日ユ同祖論には「親ユダヤと反ユダヤが矛盾なく同居している」特徴があるのだと説明する。

前提知識(アブラハムの家系と聖書の預言)
まずユダヤ教では旧約聖書への理解、子孫への伝承は必須条件とされるが日本ではその内容は口伝すらされていない。

旧約聖書のアブラハム(紀元前17世紀)の孫はヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族である。12支族はアシェル族、エフライム族、ガド族、ベニヤミン族、イッサカル族、ルベン族、マナセ族、ダン族、ナフタリ族、ゼブルン族、ユダ族、シメオン族に分かれているとされる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。400年程続いた奴隷時代の後に紀元前13世紀にモーセ(モーゼ)は民族をエジプトから連れ出し、イスラエル12支族はシナイ半島を40年間放浪し定住を始め、200年程かけて一帯を征服して行く。カナンの地に住み、ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。ソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂して、サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された。この10支族の行方は文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と呼ばれた。アッシリアに征服された後、信仰を深めるため、信仰を邪魔されない場所に移るとして、消息不明になったとされる(エズラ第4書13:39〜47)。

ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになる。ユダ族等は離散後、ユダヤ人と呼ばれるようになった。

ユダヤ人とは、現在では、ユダヤ教(旧約聖書のみを信じ、新約聖書を信じない宗教)を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)という2つの捉え方がある。当時のイスラエル人は有色人種であり、白色ユダヤ人(アシュケナジム)は8世紀頃、ハザール人のユダヤ教への改宗によって、ユダヤ人を名乗ったことに由来するとの説がある。日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、有色人種としてのユダヤ人(セファルディム)であるという説もある[要出典]。そして、同祖とはアブラハムやヤコブを意味すると言える[誰によって?]。

エズラ書第4書(第2書とも呼ばれる)13:39〜では、「幻に現れたその群集は…九つの部族であった(写本によって、九部族/九部族半/十部族と異なる)。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。……それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」とされている。

エゼキエル書37では、「主なる神はこう言われる…わが民よ、わたしはあなたがたの墓を開き…時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。……わたしはエフライムの手にあるヨセフとその友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。…… わたしは、わたしの地イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国になることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。…… わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民はわたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」とされている。

旧約聖書においては、セムは黄色人種の先祖であり、ハムは黒人種の先祖となり、ヤペテは白人種の先祖であるとされる。誤解してはいけないのは、当時イスラエルの周辺には古代イスラエル人の他にも様々な民族が住んでいたとされ、旧約聖書はイスラエル人、あるいはアラム人などのセム語族の視点で書かれたものなので、離散した古代イスラエル人(ユダヤ人)はイスラエルの地を離れて他の地域に散らばったということの目安でしかない。古代のユダヤ人は現在のアジア人や日本人と同じような風貌をしていたというわけではなく、ユダヤ人は全人類の先祖であるというわけではない。

「イスラエルの失われた10支族#古代イスラエルの歴史」および「古代イスラエル#士師の時代から王政へ」も参照
皇室神道とユダヤ教の類似
大化の改新の詔
大化の改新は、モーセのトーラーと類似点がある。ヨセフ・アイデルバーグ『日本書紀と日本語のユダヤ起源』(徳間書店)等では以下のように述べられている。

神道の祭司一族であった中臣氏が主導して、専横する仏教派の蘇我氏を滅ぼし、このとき蘇我氏の放火によって全朝廷図書が焼失しつつも、神道を一時的に復興させたのが大化の改新(645年)の一面であると指摘される事がある。大化の改新から大宝律令(701年)(神祇令)制定にかけては唐の文化を吸収しつつ神道の復興と制度化の過程であり、大化の改新の内容は、当時における神道の重要事項が中心であったと推測されるが、その内容は旧約聖書と類似している。日本で元号として初めて定められた大化は、ヘブライ語のthQWH(tikvah)「希望」(現イスラエル国歌:H・thQWH:その・希望)と似ている。ただし似ているだけである。大化は書経や漢書といった中国の書物からの引用であり、これを根拠とするには証拠能力に欠けている。大化は皇極天皇の4年目の7月1日 (旧暦)に始められたが、ユダヤ暦(古代の教暦ではなく政暦)では7月(ティシュリー グレゴリオ暦では9月から10月)1日はローシュ・ハッシャーナー(新年祭)で1年の始まりにあたる(「第七の月の一日は…聖なる集会の日としなさい」『レビ記』(23:24))。大化政府は7月14日 (旧暦)に神々に捧げる捧げ物を集めたとあり、ユダヤ教での仮庵の祭りは7月15日(ユダヤ暦では日没が1日のはじまりであるためグレゴリオ暦では7月14日の夕方18時頃)から始まる。改新の詔の「男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は女奴隷側のものとする」は、『出エジプト記』(21:4)と同じである。また、詔での、土地の分配を家族の人数に応じて行うことと『民数記』(26:54)、親族の死についての断髪等の禁止と『レビ記』(21:5)、借り物に関して賠償すべき場合を限定した定めと『出エジプト記』(22:13)も同様である。

皇室神祇
大化の改新の後、神道の皇室儀式の制度化は進められ、いくつかの定めのうち部分的に現在に伝えられているのが大宝律令(701年)の神祇令等である。神祇令においては、大嘗祭・新嘗祭の他、大祓の儀等が定められていたと推測される。天岩屋戸から天照大御神が出てきたときに祭司コヤネ(天児屋命)が素戔嗚命の罪を清めるために唱えたといわれる大祓はコヤネの子孫といわれる中臣氏が伝えてきた祭儀とされ、大祓の儀は6月30日と12月31日とされており、ユダヤ教の区切りと一致している。ただし記紀共に須佐之男命の罪を祓うために祝詞が詠まれたとする記述はなく、髪・髭・爪を切る罰と貢物を献上する罰が与えられたとされる。また、大祓の祝詞では、天つ罪と国つ罪に分けていくつかの禁止事項が列挙されているが、二種類の種を播く罪(レビ記19:19)、近親相姦(レビ記18:6〜)、人体を傷つける罪(レビ記19:28)、呪術(申命記18:11)、こぶのある者(レビ記21:20)など旧約聖書の禁止事項と一致している。新嘗祭や大嘗祭は収穫を捧げる儀式であり、特に大嘗祭では仮庵を建てる。ユダヤ教で収穫を捧げて祝う祭りは仮庵の祭といわれ、エジプトを出て仮庵に住んだことを代々伝えるため、仮庵を建てて行わなければならないとされる(レビ記23:23〜)。

八咫鏡
八咫鏡において以下の噂が流符している。

森有礼[10] が、伊勢神宮に安置されている三種の神器の1つ、八咫鏡の裏を見たとされる噂は、山根キク(山根菊子)が1943年(昭和18年)に不敬罪で逮捕される理由となったもののひとつである[11][12]。 ただし伊勢神宮の御鎮座伝記など神道五部書には八咫鏡の形状について「八頭花崎八葉形」とされ、加えて鏡の円周を八咫と考えた場合、現状これに最も近い形状の鏡は大型内行花文鏡と考えられる。

また、きよめ教会(現「基督兄弟団」)の牧師 生田目俊造 (いくため しゅんぞう) のエッセイ「神秘日本」[13] において、恩師[14] に会いにA学院のS博士[15] が聖書学院にきたおり、宮中に古くから神体とされる鏡の裏の模様がヘブル語[16] であるということがわかり、依頼にて解読すると旧約聖書の出埃及(『出エジプト記』)3章14節「我は有て在(あ)る者なり」と刻まれていたと言ったというエピソードを恩師夫人[17] から聞かされたと記述した[18]。

これに関し1953年(昭和28年)1月25日に「在日ユダヤ民会」のミハイル・コーガン宅で行われた日猶懇話会例会でホーリネス教会の尾崎喬一牧師に尋ねられた三笠宮は、昭和天皇も自分(三笠宮)も鏡を見たことがない、いずれ調査するだろうと答えられ、これが1953年(昭和28年)1月26日付け東京イブニングニュース(Tokyo Evening News)で「神鏡のヘブル出所説を三笠宮氏が調査!」(“Mikasa Will Check the Hebrew Words on the Holy Mirror!”)として報道されている[19]。

八咫鏡の裏にあるヘブライ文字については、作意を感じるとの意見もある[20]。


英国王の紋章
獅子と一角獣
皇室や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持つが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章である。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があったとされており、天皇の王冠には一角獣が描かれているとされている(『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』、徳間書店)。現在でも京都御所清涼殿昼御座奥の御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれている(『日本名建築写真選集第18巻京都御所』、新潮社の写真)。天皇の即位に用いられる高御座の台座にも獅子と一角獣(麒麟)と思われる絵が描かれている。平凡社の『大百科事典』や平凡社の『世界大百科事典』では、狛犬について、「平安時代には…清涼殿の御帳前や…獅子と狛犬が置かれ、口を開いたのを獅子として左に置き、口を閉じ頭に一角を持つものを狛犬として右に置いた」とあり、京都下鴨神社の左の狛犬には角があると記されている。『狛犬辞典』戎光祥社には、京都御所紫宸殿障子絵として同様のものが掲載されているほか、八坂神社等の一角を持つ狛犬写真が多数掲載されている(下賀茂神社や八坂神社には秦一族の影響がありうる)。ただし奈良時代以前のものは、狛犬の左右に違いは無い。なお、ユダヤ系大財閥であるロスチャイルド家も同様のライオンとユニコーンの紋章を持つ(建物の入り口などに二匹の獅子が置かれる例は世界各地にあるが、これは古代イスラエル神殿(ソロモン神殿)の王座の横の二匹の獅子(I列王記10:19)に由来するといわれる)。(紋章を参照)


仁徳天皇陵(大仙陵古墳、大阪府堺市堺区大仙町)
仁徳天皇陵とマナの壷
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(pot of manna / jar of manna)を形取ったものではないかとも言われている。その論拠として陵のくびれ部にある造り出しを壷の取っ手とみなし、以下のように説かれる。

前方後円墳は上空や高所から見て一般には鍵穴のように見えると言われ、仁徳天皇陵もその例にもれないが、反対側から見ると壷のような形にも見える。そもそもこの種の古墳は前部が台形で後部が円形であるとされているのだから、方形を上部に見て壺を形取っていると見るのが正しい。
首長墓として各地に点在している前方後円墳には、陵の左右のくびれどちらか片側に造り出し部を持つ墳墓、または造り出し部がまったくない墳墓もあるが、皇室に所縁がある仁徳天皇陵にはくびれ両側に造り出し部があり、まさしく壺の形である。
この説に対する反論としては以下のようなものがある。

各地の前方後円墳には左右のくびれ両側に造り出し部がある古墳も少なからず存在しており、この説においては皇室だけがなんらかのユダヤ系族と関連があったと見るのは難しい。
わが国での前方後円墳の出現は前方後方墳の後である可能性が高い。少なくとも両墳墓の形態には密接な関りがあることが考えられ[21]、前方後方墳の後部の方形が円形に置き換わる形で築造された墳墓が前方後円墳である可能性もある。その一連の文化の流れで仁徳天皇陵も築造されたのだろうが、この墳墓だけにモチーフとして壺が採用されたとは考え難い。
また古墳に関連して、わが国の前方後円墳のルーツからも日ユ同祖論が説かれる。

近年の考古学研究により、前方後円墳、前方後方墳のルーツは北方ユーラシアのエニセイ川流域あたりのスキタイ系騎馬遊牧民族の墳墓や、モンゴルのウランバートル北方のノヨン・オール古墳群の墳墓にまで、その形態上の類似性から求めることができる[22]。紀元前6世紀ごろには東欧、中央・北方・東方ユーラシアと広範囲に分布していたスキタイ族はイラン系民族であり、勢力範囲を広げた当時も中東地方との貿易交流があったと考えられている。これらことから、弓月君が渡来する紀元5世紀よりはるか以前の紀元前に、スキタイ族と合流した「失われた10支族」が、「2支族」と混血したヒッタイト人の末裔であるスキタイ族が日本に渡来し、古墳の造成にも関わった可能性がある[23]。
イザヤと伊弉諾尊
紀元前722年、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、10部族は各地に離散、その後南王国も預言者から滅亡すると言われ、イザヤ一行は神の契約の箱とともに国を飛び出した。 『旧約聖書第一イザヤ書』に「アモツの子、イザヤ」と書かれている。 一方、日本の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の父は、「面足尊(おもだるのみこと=日本書紀、古事記では於母陀流神)」であるが、「面」は訓読みでオモ、「足」は中国語でツまたはジュと発音するので、オモツ、アモツとなり、イザヤの父の名前に似る。依って、アモツ=面足尊、イザヤ=伊弉諾尊ではないか、との説がある。

神社神道とユダヤ教の類似点
神社に関する神道(神社神道)とユダヤ教の類似については、例えばマーヴィン・トケイヤー『ユダヤと日本 謎の古代史』(産業能率大学出版 1975年(昭和50年))や『日本・ユダヤ 封印の古代史』(徳間書店)では多くの類似点が指摘されており、以下のような指摘がある。

神道
神道の儀礼・様式

日本もユダヤも、水や塩で身を清める禊の習慣がある。
ユダヤ教では祭司はヒソプ(ヒソップのこと[24])という植物や初穂の束を揺り動かす。これは過越の祭について定めた『レビ記』23:11に基づいており、過越の前にヒソプで子羊の血を門に塗ったことに由来する(『出エジプト記』12:22)。これに対して、神社の神官も同様に榊の枝でお祓いをする。
ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りは似ている。
エルサレム神殿の門には、天皇家の16弁の菊花紋(菊花紋章後鳥羽天皇に由来)と共通した紋章が刻み込まれている。
神社の施設の様式

イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である幕屋や古代イスラエル神殿(エルサレム神殿)では、入口から、洗盤(水で洗う場所)、至聖所、聖所 と並んでいる。神社においても、入口から手水舎、拝殿、本殿 と並んでおり、構造が似ている。古代イスラエル神殿は木造建築であり(『列王記』6:9〜)、建築後に賽銭箱が備えられた(『歴代誌』24:8)。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、神社にも赤色の神社がある(『ユダヤと日本謎の古代史』産業能率大学出版部)。

ユダ族の紋
日本の神社の前に置いてある狛犬(こまいぬ)は、犬というよりも獅子であるが、古代ソロモン神殿の前にもライオンの像が置いてあった。ライオンは、ダビデ王統を担うユダ族のシンボルであった。ただし狛犬が設置されるようになったのは遥か後世の飛鳥時代のことである。

イスラエルの国旗にも入っている六芒星=ダビデの星。このシンボルの成立は17世紀とも旧約聖書誕生の時代ともいわれている。
伊勢神宮の内宮から外宮に至る参道の石灯眥(石灯籠合計約700基)には、ダビデの星が刻み込まれている(ただし、伊勢神宮の参道の灯籠は第二次世界大戦後に寄贈されたものであり、GHQの指示があったといわれる。元伊勢のものにも同様のものがあるが、これも寄贈されたものといわれている。伊勢神宮の石灯篭は、神宮審議会では、菊の紋はよいがヒマワリの紋はいらないとしたところ、当時の式部官二荒伯爵と森岡善照(元大阪タクシー(株)社長)奉賛会長の主張により入れたが、実はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からダビデ王の紋とヘロデ王の紋を入れたら許す、との圧力がかかったともいわれている[20]。また、ダビデの星は単純な幾何学模様であり、ダビデ王の紋でもヘロデ王の紋であったことはなく魔術ではソロモンの封印と知られたものである。これは研究者の間では重視されない傾向がある)。
神社の構造

古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造は似ている。もともと、古代ヘブライ神殿は「幕屋」と呼ばれる移動式であったが、幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭睚を行なった。全体ではないが、囲むという概念は日本の神社でも見られ、同様に祭睚は極秘である。幕屋の中の構造は基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。有名な古代ソロモン神殿(エルサレム神殿)の前には、お耄銭(賽銭)を入れる箱も置かれていた。ただし現在のような社殿が整えられるようになったのは、仏教が日本に流入し、寺院に倣って社を建立したことによる。

1953年(昭和28年)10月5日、外宮遷御の儀。史上初めて写真撮影が許可された。
伊勢神宮の遷宮は、幕屋が移動していたことに似ている。神宮式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀頃である。この時代に創建(または再建)された法隆寺の堂宇は、世界最古の木造建築としての姿を今に伝えている。神宮も現在にも残る建物にすることは可能であったと思われる。それをあえて、20年毎に定期的に膨大な国費を投じることとなる式年遷宮を行う途を選んだ理由は、神宮にも記録がないため公式には不明である。

六芒星

籠目紋「籠目」
現在、日本人の総氏神とされる伊勢神宮であるが、この伊勢神宮の遷座伝承地(元伊勢)の1つが籠神社であり、この籠神社の宮司を代々務めてきたのは海部一族である(海部俊樹元首相の遠い親戚)。現在82代目宮司を務める海部光彦は最近になって、それまで極秘であった“裏家紋”を公開した。籠神社の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれた、その裏家紋は、「ダビデ王の紋章(六芒星)」であった。なお、日本古来の籠目紋は六芒星と同一である。籠神社が籠目紋を用いるのは自然と言えば自然であるが、その関連の解明が待たれる。
伊勢神宮暦は他の神社と違って、ヘブライ暦(ユダヤ暦)と一致している[要出典]。
祭り・神事

諏訪大社では、「御頭祭」(おんとうさい)という、イサク奉献伝承に似るとされる祭りが行われていた。旧約聖書によると、アブラハムはモリアの地(現在のエルサレム)の山(モリア山)で神から息子イサクを生贄として捧げるよう要求され、アブラハムが神への信仰からイサクをナイフで殺そうとしたところ信仰が明らかになったとして天使から止められるという話がある。ただし御頭祭についての明確な起源は不明であり、関連した神話伝承も存在しない。諏訪に伝わる多くの神事が狩猟と農耕の融合と考えられており、御頭祭もその一つである。守屋山(モリア山)が御神体である諏訪大社においても、少年を柱に結び付けて神官が小刀で切りつけようとすると使者が現れてこれを止めるという御頭祭が明治初めまで行われていたとの記述が守谷資料館に残されているとされる(これに似たものとしては、ネパールのジャトラの柱立て祭りがある)。ただし諏訪神社が守屋山を神体山とした明確な記録は存在せず、神体山にありがちな禁足地でもなく、守屋山自体古くは森山と称していたともされる。御頭祭の起源について、8世紀ころには行われていたと主張され、さらに古い時代からも行われていたと主張されるが、詳細は不明である。
神事である相撲は、ヤコブと天使の格闘に由来すると主張される。ヤコブは天使との格闘に勝ったことで、神の使いとしての権限を与えられた。神道で相撲の由来は『古事記』の建御雷神と建御名方神の力競べにあるとされ、これによって国譲りが確定し、邇邇芸命に地上の支配権が与えられることとなった。ただし相撲の起源については野見宿禰に求めるとする説もある。
祇園祭に登場する数多くの山車の中には、古代ヘブライで用いられた織様と同じ文様を付けたものが存在している。京都府 京都市 下京区四条烏丸西入の山鉾「函谷鉾」の前掛けは、旧約聖書の『創世記』の一場面を描いた16世紀末のタペストリーに、中京区室町通六角下ルの山鉾「鯉山」の見送りは、古代ヘブライのダビデ王を描いた有名な図に比される[25]。
年中行事・慣習

生後30日ごろに赤ちゃんを神社(神殿)に初詣でさせるお宮参りの習慣は、日本とユダヤにしか見られないものである。
正月の鏡餅


手作りの種なしのパン(マッツォ)

鏡餅
ユダヤ人の宗教的な行事で、日本と最もよく似ているのは過越(すぎこし)祭である。過越祭(ペサハ)は、ユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで、最古かつ最大のものである。その日は日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。更に、過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べるのであるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、これは日本の鏡餅に類似している。過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と同じである。
過越の夜に種なしパンと苦菜を食べたように、代々どこに住もうとも守らなければならない不変の定めとして過越の祭(ペサハ)を祝わなければならないとされている。過越の祭では、家の中から酵母がなくなるよう直前に掃除を行い、正月の14日の夕方から7日間にわたって種(酵母)のないパン(Mthth/MthH: マッツァー:発酵させないパン)を食べ、苦菜を添えて食べなければならないとされている。1日目と7日目は仕事をしてはならない(『出エジプト記』12:1〜/『レビ記』23:1〜)。これに対して日本では年末に大掃除を行い、旧暦1月15日(1月15日 (旧暦))は小正月であり、発酵させないパンであるモチを食べ、その後、正月の7日に七草粥を食べる。ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるが、これは日本の鏡餅に類似している。

厳島神社 朱丹の大鳥居(厳島、広島県廿日市市宮島町)
赤い(朱塗りの)鳥居

トリイ(鳥居)は、ヘブライ語アラム方言で門という意味であり、神社のトリイは過越の前にヒソプで羊の血を塗った門を意味すると主張される(トリイの起源については、インドの仏舎利塔の前に建てられたトラーナとする説や中国の陵墓の前に建てられた華表とする説などもある。また、久保『神道の中のユダヤ文化』では、門はヘブル・アラム語で「タラア」とされている。)。
ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、モーセによる“エジプト脱出事件”(紀元前1290年)にルーツを持っているが、同じく、日本の年越しや鳥居も、この大事件にルーツを持っていると考えられる。モーセは、かたくなな心を持つエジプト国王ラムセス2世に、ヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、一種の“魔術競争”をしたのであるが、エジプト脱出前日に“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来た。その時、モーセは、ヘブライ人たちに神の災いに合わないように、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、災いが静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示した[26] のであるが、これこそが赤い(朱塗りの)鳥居のルーツであり、年越しのルーツであるとされる。

フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱

豪華装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた契約の箱

敏馬神社の神輿(兵庫県神戸市灘区岩屋中町)
契約の箱と神輿

古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。
ヘブライの秘宝、「契約の聖櫃(アーク)」は、現在に至るまで行方不明であるため、「失われたアーク伝説」として、広く公式に知られている。アーク(聖櫃)とはモーセが神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱で、全体に黄金が貼られており、『旧約聖書』の『出エジプト記』には、そのアークの作り方が克明に記されているのだが、その記載を見る限り、日本の神輿(みこし)にそっくりである。
アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿も金で覆われていて、神輿の上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が作られており、大きく羽を広げている。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。しかも、かつぐための2本の棒は絶対に、アークから抜いてはならなかったように、神輿の棒も抜かれることはない。祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されているのである。このように、日本の神輿と聖櫃(アーク)との類似性は高い。
その他

日本の神道の天地創造においては、三位一体の唯一神信仰(唯一神教)であったことが複数の神道研究家[誰?]により明らかにされているが、この三位一体信仰は、キリスト教における三位一体(ヤハウェ・イエス・聖霊)の位置と極めて似ている。なお天之御中主神は創作された神とする説もある。
伊勢神宮の奉納太鼓のことを「シオン太鼓」と言うが、読み方だけが伝承され由来が不明となっており、シオンに由来している可能性がある。なお、近年は「神恩太鼓」と呼称されているが、これは当て字である。
ユダヤ人は現在でも13歳の男子に、成人を迎える儀式、“バル・ミツバ”を行なうことで有名だが、日本人も昔、13歳の男子に成人を迎える儀式、元服式を行なっていた。
ユダヤ人は食事の前、トイレのあと、教会堂の入り口で手を洗うなどの習慣がある。日本人も神社を詣でる前には、必ず入り口で禊として手を洗う。ユダヤ人は日本人と同じように、まず体を洗ってから風呂に入る。ユダヤ人以外の西欧人はバスタブの中で体を洗う。しかし日本において入浴の習慣が一般化したのは極々近代のことであるという説があるが全くのデタラメで、山河が多い火山国の日本では12000年〜2万年以上前から入浴習慣があり、風呂は16500年前の世界最古の縄文土器が作られた辺りからの習慣で日本が一番古い。
『レビ記』23:33〜では、7月15日は収穫祭ないし仮庵の祭とされる。ただし、『列王記』12:32では北王国では8月15日を祭の日にしたとされている。これに対して日本では、7月15日 (旧暦)は祖霊祭(たままつり)ないしお盆であり、8月15日 (旧暦)は十五夜である。
修験道

テフィリンを身に付けて祈りをするユダヤ人兵士

伽耶院採燈大護摩供での山伏問答の様子(兵庫県三木市)

山岳修行者の出で立ち(都年中行事画帖〈1928年〉)
ユダヤ教徒は祈りの際に黒い小箱(ヒラクティリー、en:Phylactery、別名、テフィリン、en:Tefillin)を額に結びつけ羊の角笛ショーファールを吹くが、山伏も黒い小箱(頭襟)を額に結びつけ角笛に似た形の法螺貝を吹く点で、非常に類似している。このような類似性は、世界中のどの民族、宗教にも見られず、ただ、ユダヤ教徒と日本の山伏との間にのみ、存在する。
山の神といわれる天狗の像は兜巾をつけてしばしば虎の巻を持ちそれを修行者に授けるといわれるが、イスラエルの民はシナイ山でヤハウエからトーラー(十戒(律法)が刻まれた石板)を授かった。
古代ヘブライの祭睚レビ族は、みな白い服装をしていた。非常にゆったりとした和服のような服で、そで口には「リンネ」と呼ばれる房が4つ付いていた。ヒラクティリーを使用していた。彼らの姿は、まさしく神道の神官や修験道の山伏のような姿をしていたのである。
ユダヤ人が羊の角から作る笛ショーファーと山伏の吹く法螺貝は、音色が似ている。日本では羊の角が入手出来なかったので、似た音の出る法螺貝で代用したという説がある。
四国の徳島県の修験道の聖地にして、霊山である「剣山」には、ソロモンの秘宝が隠されているという根強い噂があり、一時、発掘隊が組織された時期もあった。この剣山では毎年、「神輿祭り」が行なわれるが、その日は、明治以降の「祇園祭[27]」の前祭と同じ、7月17日(グレゴリオ暦)である。なお、ノアの箱舟はユダヤ暦(太陰太陽暦)7月17日[28] にアララト山に漂着された日とされている。7月17日はユダヤ暦の半日祝日となっている。
沖縄
ユダヤ人は過越の祭り(ペサハ)を行う。イスラエルの民が奴隷状態にあったエジプトから脱出するにあたり、これを助けるため殺戮の天使がエジプト人の家々の長男を殺してまわるという事件があった。その際、イスラエルの民は羊の血をヒソプという植物の束につけて家などの門口に塗ってイスラエル人の目印として天使をやり過ごして避けた。その後この羊を焼いて食べたとされる(『出エジプト記』12:22)。過越の祭はこれを祝うものである。これに対して特に琉球では看過という風習がある(『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社)。なお、琉球の墓は横穴式で白く塗られ(亀甲墓中国と同形式)、ユダヤ式の墓(マタイ23:27)に似ているとされる。
秦氏
秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。

秦氏は非常に有力な一族で、794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があった。

佐伯好郎は1908年(明治41年)1月に『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」で秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であると考察した。その内容は、「大闢大主」は、中国の景教の経典においてはダビデの意味であり、秦氏の建立した神社である大避神社(大酒神社)と、また景教の寺は「大秦寺[29]」で太秦と関係があるといったものである。
晩年、佐伯は歴史家の服部之総に対し、秦氏ユダヤ人キリスト教説を唱えた動機を、「ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それには、ユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太人の着想であった」と告白した[30]。
秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰にも、古代ヘブライの信仰と類似している点がある。八坂神社や伊勢神宮の周辺などに、「蘇民将来」という伝承にまつわる護符があるが、ここにもダビデの紋章が出てくる。また、Yashashkar(ヤ シャッシュカル)とは10支族の一つイッサカル族(Issacar,יִשָּׂשׁכָר)のアラム語における呼び名である。
宮沢正典は著作『増補ユダヤ人論考-日本における論議の追跡』(新泉社 1982年)64-65ページで「うづ・まさ」はアラム語・セム語のイシュ・マシャであり、イエス・メシアを表す言葉であるとした[31]。
太秦にある秦氏の神社である蚕の社には三位一体神を意味する三柱鳥居という変わった鳥居があり、アメノミナカヌシ神をその祭神としていたが、元伊勢である「眥(籠)神社」に伝わる海部氏勘注系図(国宝)によれば、日本の天地創造の三造化神の筆頭である天御中主神(アメノミナカヌシ神)は、伊勢神宮外宮の祭神、豊受大神のことであると明記されている。ただし勘注系図そのものが偽作の可能性もある。
秦氏は弓月の君(ゆづきのきみ・ゆみつきのきみ)と呼ばれていたとされる。弓とは英語でアーク、弓に矢を通した形状は三日月に似ている。月と関係している何かを持っていたのではないか、弓矢などの武器を扱っていたのではないか、と推測出来ないことも無い。
留意点(秦氏)
日本とイスラエルの類似点については、ユダヤ系キリスト教徒ともいわれる秦氏(秦一族)の活動が影響している部分があるとの指摘がある。ケン・ジョセフ『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』徳間書店 では以下のように述べられている。

秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住んでいた。彼らは景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、アッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされる。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。
秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来した。5世紀末には渡来者は2万人程になったという。5世紀末、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなし豪族となった。皇極天皇(642〜645)に関する日本書紀(720年成立)には、ウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach、インド北部ではユズマサに由来するといわれる)また、ヘブライ語ではヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語ではイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝という人物が登場する。748年、秦大酒は大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。
秦氏は京都の太秦を本拠地としていた。その一部は大分の宇佐に住み、一説には710年頃に成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。Yahawada (יְהוּדָה)とはアラム語で失われた支族のユダ族を意味する。八幡神社は749年頃に急に勢力を持ち始め、奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらした。これが神輿の起源で、八幡神社は全国に広まったという。


ユダ族のスケッチ

秦氏は平安京の造成に尽くしたとの説がある。仏教勢力から逃れるため794年平安京遷都が行われ、その直後に京都で祇園祭が始まった。また、秦公伊呂具は稲荷神社(イナリ:JNRI/INRI:ユダヤの王・ナザレの・イシュ(イエス):当時の支配者ローマの公用語ラテン語でのキリストの別称)を創建したとされる。元伊勢には秦氏の関与するものが多く、伊勢神宮の遷宮に関与したとの説がある。松尾大社は秦都理が創建したといわれる。京都の下鴨神社は秦一族の族長を記念して建てられたという説があり、皇室の儀式を多数執り行った。景教はユダヤ教に近いとされるがキリスト教である。このことから秦一族は南王国に由来するユダヤ人との見方が有力である(ただし、秦一族には舟の家紋を持つものが多く、十支族のゼブルン族が舟の紋章を持つこととの関係も指摘されている)。ウズマサ明神を祀る京都太秦の大酒神社は古くは大辟神社といい、大辟は中国ではダヴィといいダビデを意味するとされる。また、秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)はユダヤ人あるいは天狗のように鼻が高い。

なお、神社神道の起源に関して、そもそも神社の創建は仏教の寺院に触発されたものと主張する説がある。神社の創建は仏教伝来(538年)以降で、(『神道概説』学生社)最初の本格的仏教寺院は飛鳥寺(596年)といわれる。一方伊勢神宮の創建は674年であるとする説が多数説とされる。しかし神道の信仰形態が仏教(人霊信仰)からどのように派生(影響・触発)したのかは解明されていない。

ヤマト言葉とヘブライ語の類似
古代においてもキリストはアッシリアの言語であるアラム語を話していたとされるなど、言語と血統は必ずしも一致しないが、以下のような主張がある。

日本語の単語と他言語の単語との類似は、朝鮮語、ベトナム語等の多くの言語について報告されていて、日本語とヘブライ語の単語は格別に類似しているわけではない(澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』)が、朝鮮語はもともと呉、漢、隋、唐などの漢字文化圏の影響を受けている言葉で、日本語の音読みに相当するものは漢語由来の言葉を表している。歴史上古代の日本と中国王朝、朝鮮半島の国々とは交易があった為、日本語と中国語と朝鮮語の単語に似ている点があっても不思議ではない(音読みを参照)。しかし、日本語とヘブライ語に共通する言葉は大和言葉にみられるような訓読み、すなわち和語にみられ、話し言葉に関連しているという主張が見られる(訓読みを参照)[32]と学会会員の原田実は「語呂合わせの域を出ない」としている[33]。民間語源を参照。

アイデルバーグの解釈
イスラエルのユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグ『大和民族はユダヤ人だった』(たま出版 1984年(昭和59年))は、以下のような例を提示した。

ひらがな・カタカナとヘブライ文字の類似を指摘した。(ただし、ひらがな・カタカナは9世紀ころに成立したとされる)
日本語の中にヘブライ語に類似した単語が混在していることも指摘した。「私は14年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル10支族”の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。一般に日本語はどの言語にも関連がないため、“孤立した言語”とされているが、ヘブライ語と類似した単語がゆうに3000語を超えて存在している。」としている。
天皇の古名である「スメラ・ミコト」は古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという(「サマリア」とは古代の北イスラエル王国の首都)。なお日本語として直訳すると神(接頭語)+倭(大和国・奈良県の旧国名)+伊波礼(磐余・奈良県の地名)+毘古(彦・男子)であり、これは神武東征を成し遂げ大和の地で日本を建国した若御毛沼命(若々しい食物の主の神・神武天皇の生前の御名)に贈られた諱号である。
『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』ではアイデルバーグは(ヨッド=Y、アイン=a' とした。)
カムヤマトイワレビコスメラミコト(初代神武天皇の和風諡号)

QMW・YMthW・a'VRY・VKWR・shWMRWN・MLKWthW =創設者・ヤハウェの民・ヘブル人・高尚な・サマリアの・王

ただし、同じ本で、ジェフ・メルニックによる ビコ=VQWR=渡来した との解釈も示されている。

また、アイデルバーグの『日本書紀と日本語のユダヤ起源』では、ヤマト= YH AMWthW との解釈が示されている。

『日本書紀と日本語のユダヤ起源』や『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』によると、アイデルバーグは、天岩屋戸の前でコヤネが唱えたといわれる祝詞(ヒイフウミイ…)について、以下のような解釈を示した。(ヨッド=Y、アイン=a'の書き換え法に基づく)
ヒイフウミイヨウイツムウナナヤアココノトウ

(神道の石上鎮魂法の「ひふみの祓詞」では、「ひふみよいむなやこともちろらねしき…」)

H・YpfH・MY・YtsYAH・MH・Na'NH・YQNH・thVWA

その・美しい(人)・誰?・出す・何?・答える・連れ出す・(彼女は)来る (その美しい人を誰が出すのか? 彼女を連れ出し、彼女が来るために、どのように答えるのか?)

川守田の解釈
川守田英二は『日本言語考古学』や『日本ヘブル詩歌の研究』で以下のような例を提示した(川守田は、ヨッド[yod](י)=I、アイン[ayin](ע)=Y、シン[shin](ש)=S という置き換え法を採っており、以下はこれによる)。

アッパレ APPR 栄誉を誇る
アラ・マー YL・MH どうした理由・何?
アナタ ANT 貴方
アナニヤシ YNNI・ISY ヤハウェは応えた・救護をもって
アノー AYNH 私に応答させてください
アリガトウ ALI・GD 私に(とって)・幸運です
オイ AWI 泣く
オニ YNI 私を苦しめるもの
オハリ AHR 終端
オヤ AWIH 禍いなるかな
グル GWR 団結する
グル GWL 回る
コラ KRA 自制せよ
サヨウナラ SYIR・NYRH サーイル・ニアラー 悪魔は追い払われた
サラバ SLMH シャロマー 平安あれ
スケベー SKBH 肉欲的に寝る
ソーラ(ン) SWR 注目せよ(「敵」も同じ綴り)
ダマレ DM・ALI 沈黙を守れ・私に(対して)
ドシン DSN 肥満
ノコッタ NKIT 征服した
ハッケ・ヨイ HKH・IHI 投げうて・よろしく
ハイ HIH 生きている/居ます
ヒリ HIL 痛みを感じる
マズ MH・ZH 何?・これは
ヨイショ IH・ISY ヤハウェは・助ける
ワル YWL 凶悪な者
伊勢音頭
ヤートコセ・ヨーイヤナ IH・TQY・SWR・IHWI・IkhNN ヤハウェは・投げた・敵を・ヤハウェは在る・憐れみ深く
コノナンデモセ KWNNH・NGID・MSH 樹てた・指導者(祭司)・モーセを
最上川音頭
ヨイコラマカセ IpfI・QHL・MkhH・SWR 栄光の・民は・清掃した・敵を
エンヤラマカショ AWN・IHL・MkhH・SAR イワレヒコの・人格は・清掃した・残徒を
ドスゴイ DWS・GWI 踏み落とせ・異教徒を
エンヤコラマカショ ANI・AQRAH・MkhH・SAR 私は・布告す・清掃せよ・残徒を
よさこい節
サコイ ISR・khWI 懲らしめよ・蝦夷(カイ)(エブス:エルサレムの先住民)を
東北民謡ナニャドヤラ
ドッコイセー DKA・khWI・SWR 粉砕せよ・蝦夷(カイ)(エブス)・敵を
これらの語は、千年以上変化を続けて現在の語形になったものなので、ヘブライ語との比較は語呂合わせの域を脱していない。民間語源を参照。

リンドバーグの解釈
サミュエル・A・リンドバーグ

天皇の古称である「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味に当たるとして、天皇はガド族の子孫と主張した。ガド族の始祖であるガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという主張もあるが、英語版聖書での表記は Ezbon であり、ジェッポンとする主張の根拠は不明である(「日本」の読み方については、呉音読みニッポンや漢音読みジッポンに由来するという説が有力である)。(ミカドについては、ミ・ガドー:MY・GDWL:「偉大な者」とする説もある)
その他のヤマト言葉のヘブライ語解釈
久保有政の著書によれば、
川守田は、ワッショイ = ヴァー・イェシュ・イャー(VA・Ysha'・YH) 来る・救い・ヤハウェ と解したとされている。
久保の著書によれば、エッサ は 持ち運べ の意味だとされているが、久保の別の共著『日本固有文明…』では、エッサ = AshA 持ち上げるぞ の意味ともされている。
祇園祭の掛け声
エンヤラヤー = ANY・AHLL・YH 私は・賛美する・ヤーウェを とする解説が多い。

京都市略章
民間語源
平安京に遷都した桓武天皇は、古代ヘブライの燔祭(はんさい)の儀式を行なっていた。平安京のマークは、あのダビデの紋章と言われ、現在の京都市の市章は、その平安京のマークを図案化したものだと指摘されている。平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、すなわち、ヘブライの聖地「エル・サレム」である。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京と、よく似ていることが指摘されている。中国の見解では、平安京は中国の洛陽を建設のモデルにしたとしている。
平安京は、ヘブライ語でエル・シャローム(平安の都)となり、古代イスラエルの都エルサレムと同じである。平安京は、天皇の住まう都だが、エルサレムも別名で、「ダビデの町」と呼ばれていた。
「東方の日出づる国」は古代より、ヘブライの民にとって、「天国」を意味している。約束の大地カナンは、「カヌ・ナー」の転聲としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味する。「東方の日出づる国」は、ヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名である「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。更に大和朝廷の「ヤマト」は、ヘブライ語アラム方言では「ヤ・ウマト」と分解され、「神の民」という意味になるという。
その他の論点
聖書の関連記述
イザヤ書11:11〜「その日が来れば、主は再び御手を下して御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。主は諸国の民に向かって旗印を掲げ地の四方の果てからイスラエルの追放されていた者を引き寄せユダの散らされていた者を集められる。」
イザヤ書11.12では、十部族を「イスラエルの追いやられた者たち」と呼んでいるが、この「追いやられた者」とは、「割礼なき者」を意味する言葉でもある。この預言を十部族に適用するなら、歴史的、伝統的に割礼の習慣を持つ民族は、十部族の候補から自動的に除外される。
イザヤ書24:14〜「彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い海から叫び声をあげる。それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。」
イザヤ書43:1〜「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり、完成した者。」
イザヤ書41:1、42:4、51:16、59の21
エレミヤ書16:13〜「わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちはそのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。……わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。」とあり、これを十部族に適用すると、地中海世界やアラブや中央アジアやインド以外の地に住み、ヤハウェ以外の神を信仰していることとなる。
ホセア書2:1〜「イスラエルの人々は…彼らは「あなたたちは、わが民でない者」と言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ一人の頭を立
11:777 :

2023/07/26 (Wed) 16:23:37

ホセア書2:1〜「イスラエルの人々は…彼らは「あなたたちは、わが民でない者」と言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ一人の頭を立ててその地から上って来る。」
ヤコブの7男であるガドの第4子がエッポンないしエツボン(AtsVN)といい(創世記46:16)これが日本の語源と主張される場合がある。(民数記26:16ではオズニとされる)
ベニヤミンの長男であるベラの長男もエッポンないしエツボン(AtsVWN)という(歴代誌I 7:7)。
モーセの妻ツィポラ/チッポラ(tspfRH)の名の原意は「日の本」であるとする主張もある(tspfR:朝/警笛を鳴らす)。
エフライム族は「w:Shibboleth」(シボレテ)という語を発音出来なかったとされる。ギレアドの民はエフライム族と戦い、勝利を目前としていた。残ったエフライム族はヨルダン川を渡って自分たちの領地に引き返そうとした。ギレアド人は、エフライム族の難民を見分けて殺す為の暗号としてShibbolethを用いた。4万2000人のエフライム族が殺された。(士師記12:5-6)
日本人とユダヤ人のY染色体
Y染色体のDNA塩基配列の国際的分類法(YCC2002)によるAからRまでの18種の大分類(Y染色体ハプログループ)のうち、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのはハプログループDとハプログループEのみであり、現代の遺伝学ではD系統とE系統はおよそ6万年前にハプログループDEから分化した近縁同祖のグループとされる。ただし「6万年前」というのは、あくまで長大な時間を主張する進化論に合わせた分子時計説による推定値である。

そのうち、ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットのみである(日本で30〜40%、アイヌと沖縄ではさらに頻度が高く、チベットでは約30〜50%)。中国や朝鮮半島などでは、Dはほとんどみられない。古代イスラエル人の末裔とされ中国四川省に住むチベット系のチャン族(チャン・ミン族 羌族)はDを約23%持っている。

他方、Eグループが相当な頻度で存在するのはアフリカ大陸であり、その他に地中海沿いの中東からイタリア南端に低頻度見られるのみである。つまり、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が一定頻度で存在する地域は、アフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてとチベットと日本のみであり、日本人のY染色体の30〜40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等にほとんどなく、チベットやアンダマン諸島、アフリカ、中東のY染色体と近縁関係にある。なお北アフリカでのEグループの存在率は約75%、エチオピアのユダヤ人とされる集団でのEグループの存在率は約50%とされている[34]。また、Eグループの中でも特にE1b1bは、ヘブライ語、アラビア語、エジプト語などを含むアフロ・アジア語族に関連するとされている。

 現代ユダヤ人におけるY染色体ハプログループはDoron M. Behar博士の研究では、次のような割合とされている。

 スファラディ・ユダヤ人(欧州系)

  J(28%)、E(19%)、R(33%)、他(20%)

 アシュケナージ・ユダヤ人(欧州系) 

  J(38%)、E(20%)、R(19%)、他(23%)

 両者ともに、Eが20%程度と高頻度であることがわかる。Rは、ヨーロッパ人との混血で入ったものといわれている。Jが多いことや、コハニム(祭司系)にJが特長的であることから、Jが古代ユダヤ人の固有ハプログループではないかという議論もある。だが、サマリア(古代のイスラエル北王国)に今もいるレビ族祭司(男系を保ってきた)はEである。

 イスラエルの父祖ヤコブの時代にはY染色体ハプログループは単一だったと思われるが、モーセの出エジプト後のイスラエル人は複数のハプログループを持つようになった。出エジプトの際には「多くの外国人」(出エジプト記12:38)も入り混じってきたからである。モーセは彼ら「在留異国人」を愛するよう教え、「主の前での平等」を説いたので、彼ら異国人もイスラエルの律法を守るならイスラエルに帰化し、イスラエル人になることができた。

 こうして出エジプト後のイスラエル人は、複数のハプログループを持つようになった。E(あるいは分岐前のハプログループDE)は、その頃ないしそれ以前からのイスラエル人のハプログループだったろう。

 実際、今もシルクロード各地にいる古代イスラエル北王国10部族の末裔(アフガニスタン、パキスタン、中央アジア等いる)にはEが多く、Jはあまりみられない。またサマリヤの祭司がEであり、古代イスラエルの末裔とされるチャン族にもDが多いことから、DとE(あるいは分岐前のハプログループDE)は、古代イスラエル人の重要なハプログループだったに違いないと主張する者もいる。[35]


ハプログループE1b1b

ハプログループJ1
アミシャーブの調査結果
イスラエルの十支族調査機関アミシャーブ(アミシャブ)によると、十支族である可能性があるものとして、以下が挙げられている。

西アフリカ
セネガル、ガンビア、シエラレオネ、ナイジェリア
南アフリカ
レンバ(ボツワナ)
西アジア
パタン人(アフガニスタン、パキスタン)
中央/南アジア
カナン人(インド)、カシミール人、チベット
東アジア
メナシェ族(ミャンマー)、チアン・ミン族(中国)、日本
南米
ブネイ・モーシェ(ペルー)
古代史・神話
大和朝廷の起源について、騎馬民族征服王朝説を唱えた江上波夫や古代史研究家の澤田洋太郎は、夫余→高句麗→百済→伽耶→大和という流れを想定し、ヤマトは夫余から出ているとしている[36]。夫余の建国神話によれば、建国者である初代王の名は解夫婁(ヘブル)という。

その他
古代ユダヤ人は金髪や黒人ではなく、黒髪・黒目の褐色の人種で、背は低かった。
日本人とユダヤ人の男性Y染色体の大きさは同じであることが、パリ大学の教授によって発見された。これは、他には見られない現象だという[20]。
1952年10月14日GHQ総司令部のユダヤ教ラビ、ミルトン・J・ローゼンらが淡路島で発掘作業を行った。文字が書かれた丸石やダビデの星が刻まれた指輪やナフタリ族の紋章の鹿が刻まれた指輪や岩の割れ目を利用した女陰石などが出土している。元駐日大使でラビ族直系のユダヤ教司祭エリ・コーヘンによると、文字は古い書体のヘブライ語で「ガル・コディッシュ」と書かれており意味は「聖なる波」又は「聖なる石山(立石)」だと言う。
12:777 :

2023/07/26 (Wed) 16:24:24

批判と反論

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年4月)
中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2016年4月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2008年1月)
1.非科学的な人種分類①
批判
セム族は浅黒い肌が特徴であるが、人類学的にはコーカソイドの一つ[37] であり、モンゴロイドとは遺伝子的にも縁が遠い[38]。


世界の18人類集団の遺伝的近縁関係を23種類の遺伝子の情報をもとに近隣結合法によって推定した結果(国立遺伝学研究所の教授・斎藤成也)。
表現型も、セム族で、ユダヤ人と近縁であるアラブ人と、日本人とは異なっている。

かつてブルーメンバッハは中近東やインドなどに居住する東方コーカソイドを「有色人種」に分類した。それは優生学に基いた人種差別にも関わる言葉であり、キリスト教を主体とする宗教的思想にも端を発しているが、科学的とは言い難く現在の一般的人種分類とは定義の範囲が異なっている。であるのにも関わらず、日ユ同祖論の論者の間では、いまだにかつての悪習を思わせる解釈がなされている。

セム族、もしくは古代ユダヤ人は「黄色人種(モンゴロイド)」であり、日本人と同族であると解説している事例が多い。それ自体、現代の人種分類から逸脱しているが、その説にはブルーメンバッハの「有色人種」分類の残滓が見え隠れする。

なお、18世紀後半のその時代、ユダヤ=キリスト教的文化の伝統に支配されていたヨーロッパでは白人至上主義が絶対であったが、現在、実在したイエスはアラブ人と同様の浅黒い肌であったと考えられている[39]。

反論
セム語族とモンゴロイドは混血となればアジア系のような風貌となる事は考えられる。実在の姿の証左となっている再現された『イエスの顔』だが、当時の誰とも知れない人物の可能性もある。

  2.非科学的な人種分類②
批判
セム、ハム、ヤペテの三大人種起源説については学説でも何でもなく単なる旧約聖書をベースとした宗教理論もしくは思想でしかなくユダヤーキリスト教の敬虔な信者以外信じるに値せず、この説は単に旧約聖書が書かれた時代の古代オリエント社会の三大人種、つまりセム族(東方コーカソイド)、黒色人種、白色人種という分類を近代のユダヤ-キリスト教系の宗教学者や思想家が無理に現代の三大人種論に分類し黄色人種、黒色人種、白色人種に当てはめただけと考えられる。当時のオリエント社会では日本人、中国人などの黄色人種(モンゴロイド)は見た事もない存在だったのは間違いない。また旧約聖書をベースに唱えられている人類血統論は非科学的であり、カインの系譜がノアの大洪水で滅びているなどかなり痛々しい。

反論
これは三大人種起源説への批判で日ユ同祖論への批判ではない。セム、ハム、ヤペテは旧約聖書をベースとした古代イスラエル人の視点における人種分類であって、セム族は黄色人種系の先祖とされているものの、セム族は中東文化圏に住んでいなかったモンゴル系民族を先祖とするモンゴロイドではない。また、旧約聖書は、大勢いたイスラエル人の一部が古代オリエント地方を離れ、東アジアへ離散・移住した古代イスラエル人は皆無であったと決定付ける判断材料にはならないことは言うまでも無い。離散した古代イスラエル人は30万人にのぼるとされている。

  3.恣意的な論法

批判
日ユ同祖論者の論の立て方は極めて恣意的である。

例えば、イエスなど古代ユダヤ人を描写する「黒髪、黒眼、褐色の肌、縮れた髪」などを、古代ユダヤ人が日本人の祖先である証拠のように言いまわす例もあるが、「黒髪、黒眼」は黄色人種の他にも、東方コーカソイド、ネグロイド(黒色人種)、ラテン系コーカソイドなど大半の人種・民族に当てはまり、「褐色の肌、縮れた髪」に至っては多くの黄色人種離れした特徴で、多くの東方コーカソイド、多くのネグロイドに強く当てはまる特徴であるにも関わらず、単に、イエスなど古代ユダヤ人が白色人種(ここでは欧米系白人ではないという意味)ではないという証拠のみを強調して使われてしまったりする事が多い。そもそも太平洋地域に広く分布し、縄文人の身体的特徴と似通っているポリネシア種族について無視されていること自体、学説的に不自然である。ユーラシア大陸を横断し、日本に渡る過程で異種族との混血が発生したとするならば、その地域文明との融合もなくてはならないはずであり、生殖的な融合のみ発生し、極東の日本だけにユダヤ文明がたどり着いたという考えは、民俗学的にも不自然極まりない。つまり、日本へ渡る過程のルート、それぞれの地域で、DNA融合があったというのならば、それぞれの地域でユダヤ同祖説が成り立たなくてはならないこととなる。反論として、例えば「全ての日本人がイスラエル支族の末裔と主張しているわけではなく、日本人の一部に支族の末裔がいると考えられるというだけである」というものがあるが、これが成り立つためには、いずれにせよ異種族との混血が全然起こりえなかったようなルートでユダヤ文明がユーラシア大陸を横断してきたと考える他ないが、これもまた不自然である。

反論
西安からローマまでシルクロードは約12,000〜13,000kmであり、徒歩で一日にわずか5kmしか移動しなかったとしても8年で移動できる。当時の最強国家であるアッシリアの武器や馬、ラクダなどの移動手段を持てば、10年もあれば(たった一世代のうちに)中東から日本へ移住してくる事は出来るため、混血が発生しなくとも不思議ではない。そして、日本列島内、あるいは経由地において混血が発生して、遺伝子分類において分岐した事も考えられるので不自然では無いと言える。

そもそもユダヤ人10支族については日本以外の地域にも同祖の可能性のある地域は数多く存在しており、「日本に限定して子孫がいる」という論を展開しているわけではない事への認識が欠落している。(開封のユダヤ人) また、ユダヤ文明の影響は神殿や寺院の入り口に獅子を置くなど、中国においても見られる。

身体的類似はその通りであり、「そのためセム語族は白人であるからありえない」という反論の論拠も崩れてしまう矛盾が発生している。そもそも旧約聖書におけるセム、ハム、ヤペテの人種分類とは古代イスラエル人の視点における分類で、エジプト人、シュメール人、アッカド人、カナン人、アラブ人、ヒッタイト、フェニキア人、エラム人、テュルク人、アッシリア人、ギリシャ人、ローマ人や隣接地域にいた民族集団を含まないので、もともと科学的では無い。ポリネシア種族に関しては、DNA分類ではC系統であるとされており、これは中国北部・南部や東南アジアにかけてよく見られるDNAで、日本人に見られるYap因子D系統や中東、オリエント地方に良く見られるE系統に近いものではあるものの、分類上分けられている。

  4.不十分な物証
批判
天皇家の三種の神器の一つ、八咫鏡の裏にヘブライ文字が刻まれているらしい事を証拠とする意見があるが、実証不可能である。仮にヘブライ文字が刻まれていたとしても、正倉院にペルシアの宝物が収められていたのと同じく、証拠にはならない。

その他の天皇家とユダヤのつながりを示す証拠と言われるものは、近代発祥のものや、実証不可能なものも多い。

例えば、伊勢神宮には籠目模様の刻まれた石燈籠があり、これがユダヤ人のダビデの星と六芒星である点が同じであると一部論者により唱えられているが、矢野憲一『伊勢神宮 日本人のこころのふるさとを訪ねて』(講談社、1991年 ISBN 4-06-198041-6)によれば、1958年(昭和33年)頃、皇太子(後の上皇明仁)結婚記念で、全国の石屋が組織した「伊勢三宮奉賛献灯会」が献灯した際、内宮、外宮、伊雑宮の三宮を日、月、星で表したものが偶然似たものという。

反論
神器についての異論は、本論においても明確な情報ではない事の断りが記されている。そして、古墳の発掘調査は禁じられている為、現段階では詳しく検証することは不可能である。

(ただし禁止されているのは天皇陵の参考地だけであり、その他古墳から証拠となるような出土品が発見された報告はない)
仮に事実と異なる情報だったとして、物証として現物が存在しないからといって即その可能性を否定する事はできない。これは同時に肯定する根拠も明確ではない事と同義だが、そのことについては繰り返しになるが論中に注記されている。

  5.宗教形態の相違
批判
古代イスラエル民族の信仰していたユダヤ教は唯一神との厳格な契約に基づく宗教であり、日本の神道は西洋宗教のような一神教ではない。両者の「神」概念は対極にある故[33]、とても同祖であるとは考えにくい。

反論
古代イスラエルやセム系と呼ばれる人種が住んでいたイスラエル周辺諸国においてはユダヤ教のみならず様々な信仰が存在していたと旧約聖書に記されている。ユダヤ人の中には、パレスチナ地域の先住民であったカナン人の宗教や、バアル信仰などの自然信仰や偶像崇拝に傾いた民も存在していたと旧約聖書に記されている。古代イスラエルの一般市民は、少数の選ばれた身分の高い聖職者や、祭司のように厳格な一神教徒ばかりでは無かったと聖書に記述が存在している。厳格な宗教教義に従うもの、そしてイエス・キリストのようにユダヤ教の教義に疑問を持った人が長い歴史の中で何人か存在していても不思議ではないということは普通に考えることができる。

  6.塗油
批判
古代ユダヤ教では塗油といって、油を神聖なものとして、聖者や特定人物などの体に清めの油を塗る習慣があるが、日本ではそんな習慣はないどころか、油は比較的、清浄とは思われていない。油が神聖とされるのは、地中海気候の乾燥した土地特有のものである。[40]

反論
いくつかの矛盾を先に指摘後、塗油に関する資料を提示する。

矛盾1)塗油は指摘の通り重要な儀式であり、王や救世主、聖職者にのみ施される。それがそのままのものと考えた場合、「一般人には適用されないため民俗として習慣化する事はありえない」。何故なら『重要な儀式』である以上民俗学で言うならばハレにあたるもので、それは盆やクリスマスなどと同様日常の風習ではなく、さらにこの重要な儀式は明確なサイクルで行われるものではないからである。さらに突き詰めるならば、一部の階級の人間のみに対して行われるものである以上、信徒が気軽に行えるものではない。

矛盾2)塗油が一般的な儀式としそれがそのまま維持されなければ説明にならないという場合、「日ユ同祖論の該当年代よりもはるかに後になって伝来したカトリックの塗油が現在習慣化していない理由が説明できない」。カトリックの塗油が民俗風習化していない以上、塗油が習慣として存在しないからといって伝来を完全否定する根拠にはならない。カトリックの塗油が途絶えたという主張をした場合、同じ理由をユダヤによる伝来の断絶にも適用できてしまう。

矛盾3)異論の通り、そもそも地中海で見られる油を塗る行為は地域に根付いた習慣であり、もっぱら日焼け止め等肌の保護や美しく見せる目的である。油だから忌避するというイメージは恐らく石油、鉱油などから来ていると思われるが、植物性油脂によるサンオイルやアロマオイルは現代日本に商品として存在しており利用されている以上、清浄なものと思われないから肌に塗る行為は存在しないという展開と矛盾する。かつ、日本は地中海ほどそれを必要としない気候である以上、習慣化し得なくとも不自然ではない。

補足1)ユダヤ教における洗礼は沐浴であり、これは日本にも禊という類似した行為(いずれも水を使用する)である。この点で本異論に従った場合立派に伝来していたと説明が可能になってしまう。

補足2)日本の油の歴史は古い(→エゴマ、大宝律令(徴収)、日本書紀(発見))が、植物性油脂(地中海地方で用いられる油の多くはオリーブオイル)を抽出する技術の登場は平安時代(→[41])になってからである。つまり、例え習慣を持ち込んだとしても油が存在しないもしくは高価であるため維持できなかったと説明しても不自然ではない。

現実的にユダヤにおける塗油については指摘の通り非常に重要な儀式だが、より詳しく旧約聖書を紐解くと『生きている人(※ここでの人はユダヤ人のみを指す。それ以外は異邦人と呼ばれる)に油を塗る事は罪である』と解釈される(エゼキエル書 34:31 及び出エジプト記30:32 参照)事、及び、指摘されている通り『大変重要な儀式』であり、王、救世主、聖職者など一部に対してしか行われないのがユダヤ教における塗油である。

ハヌカという油に因んだ祭りがユダヤ教には存在するが、これは塗油に関係するものではなく、マカベアの反乱 (紀元前2世紀頃) 時、一日の油で八日火が燃え続けた事から発生している。

一方、日焼け止めとして或いは痛みを和らげる目的の嗜好品としても古くから油を肌に塗るという行為は、他にも類似の儀式として花嫁に対する塗油行為が挙げられる。これはそもそも油の神聖視自体がユダヤ教に起因するものではないからと考えられる(→[42][43])

このように「罪とされるにも拘らず習慣化している」事の不整合は「儀式としての意味の有無」に注目する事で解消でき、例え不自然に感じられたとしても、異論に指摘されている通り、儀式においても一般嗜好品としても地中海地方で存在していた事実は変わらない。

通俗として伝わっていないとしても儀式として伝わっていないとしても、矛盾で指摘した通り塗油の風習が無いからといって渡来を否定する根拠にはならない。

同様に、次に続く貴重品の伝来についても『存在しないから、もしくは別のものが存在するからといって伝来の可能性を完全否定するものにはなりえない』(ユダヤは滅亡していたのでありえない、などであれば成立するが、そのような事実は無い)。

  7.ユダヤに限定できない
批判
ユダヤとペルシアは同じ中近東で、文化には幾分の類似点がある。日ユ同祖論の証拠にされる事が多い、狛犬などの神殿構造も、実際はユダヤではなく、ペルシアから伝わったという説が有力である[44]。飛鳥時代にはペルシア人の景教(ネストリウス派)徒で、日本に渡来した石工の李密翳という人物が、聖書文化を伝えたとされる。古代中国はペルシアとの交流が盛んで、中国に百を超えるペルシア人コロニーがあり、説話や文化を中国に伝えた。そして、それを遣隋使・遣唐使などが日本に持ち帰ったとされる[45]。

反論
古代ペルシアやメソポタミア地方とイスラエル周辺は時期によっては交流もあって勢力圏を共有していた故、ユダヤ人はペルシアにも居住していたことは事実のようである。古代ペルシャは、サーサーン朝のように国教ゾロアスター教の他にユダヤ教やキリスト教の信仰を許していた時期もあった(バビロン、バビロン捕囚、キュロス2世を参照)。

  8.秦氏渡来年代の矛盾
批判
「秦氏はネストリウス派キリスト教を信仰するユダヤ人だった」という説には年代から考え矛盾がある。ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で「異端」とされ、その後、東方に布教活動を移したことが知られているが、中国へ伝来したのは7世紀、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」らによって伝えられたころであり、秦氏の日本渡来より200〜300年あとのことである。

反論
景教ネストリウス派の中国への伝来は公式には7世紀であったとしても、一派が先に渡来していたかもしれないという可能性を無視しており、よく調査せずに決定付ける事には無理がある。秦氏の日本への渡来は複数回あったとされる。

(これこそ憶測の域を出ておらず、可能性があるかもしれないという希望的観測に過ぎない。)
日ユ同祖論に関連する説
ユダヤ文化との関係
日ユ同祖論に関連する説として、イスラエル人渡来説、イスラエル文化混入説、ヘブライ人渡来説、ヘブライ文化混入説、キリスト渡来説などがある。
日ユ同祖論を支持しないが、日本民族とユダヤ民族の民族性は良く似ていると主張する論者もいる。代表的論者に、内村鑑三やベン・アミー・シロニーなどがいる。彼らのような立場は、日ユ同質論とでも呼ぶべきであろう。
キリスト教との関係
古代日本にキリスト教が伝わって、日本人に影響を与えたという説もある(唐の時代には景教と呼ばれるネストリウス派キリスト教が伝わっており、可能性はある)。この説を最初に唱えたのは、フランシスコ・ザビエルである。この説が史実だとしても、キリスト教を伝えたのがユダヤ人とは限らない為、日ユ同祖論とは区別されるべきであろう。
仏教勢力、唐勢力の興りによって、日本における原始キリスト教や古代イスラエルの影響があるとされる神道系の人々の歴史は記録から消えてしまったという説。
イエス・キリストは記録のはっきりしない12歳から30歳の間に、仏教と接触していたという説。エジプトまで仏教が布教されていた。イエスがインドを訪れたなどと主張される。
詳細は「仏教とキリスト教」を参照
日本人の中の白人的遺伝子
上記Y染色体と同じく、分子人類学的調査として、ミトコンドリアDNAハプログループやJCウイルスゲノタイプを用いた調査も、現代日本人を対象として行なわれているが、これらに依ると、日本人の1-2%に白人系遺伝子が存在している可能性が示唆されている[46][47][48]。その一つ、JCウイルスゲノタイプの調査によると、日本人(北海道を除く)の約2%に白人系JCウイルスゲノタイプが見られ、この日本人の白人系JCウイルスゲノタイプと、ヨーロッパに見られる白人系JCウイルスゲノタイプは、1-2万年前(もう少し前後する可能性もある[49])に分化したと推測されている。これは、日ユ同祖論、或いは日本とユダヤの文化類似を考える上で興味を引かれる研究結果といえる。 しかしながら、同様の白人系JCウイルスハプロタイプは朝鮮半島にも見られる[50] ことや、人類学上白色人種に分類される大多数のインド人にはこのタイプが見られない[50] ことから、必ずしも白人のみの系統を示すというわけではないということに留意すべきである。また、日ユ同祖論に限らず、日本と古代オリエントの文化の顕著な類似を指摘した学者は少なくないが、これを論じる上でも参考となるかも知れない[51]。「鬼」「鬼の正体説」節、「山姥」「山姥=白人説」の節も参照。

批判
日ユ同祖論者の中にはユダヤ人であるアインシュタインが来日時に発言したとされるアインシュタインの予言と呼ばれる文章を日ユ同祖論の間接的証拠として持ち出す例がある。しかし、この文章がアインシュタインのものではないという説が有力になっている[52]。
青森県戸来村に「キリストの墓」と称するものがあり、キリスト日本渡来説の根拠の一つになっている。この説で面白いのは「祖先に背の高い白い人が来て住み着いた」「沢口家では数代ごとに目の青い肌の白い人間が現れる」など明らかに古代ヘブライ人=西洋系白人という誤解を前提とした箇所がある。この件に限らず現代、主流となっている「ユダヤ人はスファラディ系とアシュケナジー系に別れており、アシュケナジー系ユダヤ人はハザール人である」という説と、かつて語られていた日ユ同祖論の相違が大きい点に注意したい。かつての研究は現代ユダヤと現代日本人の共通点を比較したものが多く例えばかつて日ユ同祖論の根拠とされていた「日本人とユダヤ人は共にIQが高い」といった研究で、そのような研究はもはや意味をなさない。他に日ユ同祖論でよく取りざたされるハンガリー系ユダヤ人マーヴィン・トケイヤーの著書「ユダヤと日本謎の古代史」の「ユダヤ人は日本にくると家に帰ったような気分になる」というくだりも奇妙な話である。元はハザール人であった筈のアシュケナジー系ユダヤ人が何故、日本にくると家に帰ったような気分になるのか理解しがたい。近年の日ユ同祖論者の中にはアシュケナジー系ユダヤ人を「偽ユダヤ人」と強く罵る傾向がある割には典型的アシュケナジー系ユダヤ人であるアインシュタインやトケイヤーの言葉を賞賛したりアシュケナジー系が多数を占めるであろうイスラエルのヘブライ大学の研究を引用するのも理解しがたい。
もしも日ユ同祖論とアシュケナジー系ユダヤ人=ハザール人説の両方が正しいとすればその時点で彼らと日本人は同祖でもなんでもなくなってしまう。我々がイメージするユダヤ人とは少数民族でありながら欧米諸国で政治、経済、文化、科学など幅広い分野で目覚しい活躍をしてきたダイナミックな民族の事であるが、彼らこそまさにアシュケナジー系ユダヤ人そのものである。つまり日ユ同祖論とは日本人と世界で抜きん出た活躍をしたユダヤ人達を結びつけるものではなく、古代のイスラエル人と古代の日本人(大和民族)には血の繋がりや文化などの類似性があるという歴史学、考古学、科学的な見地における考察や結びつけ、ということになる。アシュケナジー系ユダヤ人はハザールやテュルク系にも分かれており、古代イスラエル民族との混血であるものもいるとされる。また、アシュケナジー系ユダヤ人は実はペリシテ人やフェニキア人の末裔という説もある。そもそも「アシュケナジーユダヤ人は優れている。日本人もユダヤ人と同祖であるに違いない。」といった観点で結びつけるのは言わば選民思想で傲慢である。つまり、実際にイスラエル12支族の一部が日本に渡来して日本文化に影響を及ぼしたのか、はたまた、古代イスラエル文化が少しだけ日本に伝わって日本人が享受したのか等、日ユ同祖論は学問的見地において考察する余地がある。日本にはヘブライ語やアラム語等古代の中東言語を専門的に比較、研究する学科を置く国立大学や公的な機関は無い為、単語や音に類似を見つける事が出来ても検証不足で、現時点において関連を決定付ける事は不可能である。
日ユ同祖論はユダヤ財閥関係者によるでっち上げであるという説もある。よく検証する必要がある。
と学会会員の原田実は「日本における日ユ同祖論は、敬虔なユダヤ教徒に対して失礼な方向性を持つ」と言っている[33]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
13:777 :

2023/07/26 (Wed) 21:15:25

始皇帝はユダヤ人だったのか?| 茂木誠
2022/04/02
https://www.youtube.com/watch?v=jCAuJ6zFvVc&t=13s
14:777 :

2023/07/30 (Sun) 06:05:58

「日ユ同祖論」の間違いと本質
KYOH 2021年7月21日
https://note.com/yamato_izumo/n/n4d69cbd41fe2


日ユ同祖論を笑う日本人が多いのに驚きます。

笑うことが笑われることになるので、本当のところを書いておきます。

日ユ同祖論は、もともとユダヤ人がイスラエル王国を滅ぼされて、連れ去られた事件に端を発します。ヘブライの民には十二支族がありましたが、この十二支族のほとんどが失われてしまいました。行方不明なんです。

なので、時を経て現在。「生き別れた十二支族という兄弟」を探すユダヤ人がいます。彼らが日本の文化を見て、イスラエルと共通すると感じたことから、研究が始まったのが日ユ同祖論です。

日ユ同祖論で指摘されることは半分本当のことです。半分こじつけです。

ここで日本人がユダヤ人を笑う、問題点を述べます。

問題点

①ユダヤ人はコーカソイドなのに、日本人はモンゴロイドである。これはDNA的におかしい現象です。ユダヤ人の子孫なら男系遺伝子がつながっている限り、勝手にモンゴロイドになることはありません。

②ユダヤ人は日本の文化を口にするとき、漢字の訓読みと音読みを区別できません。音読みは、古代のChinaの言葉です。だから日ユ同祖論の比較対象が音読みであった場合、日ユ同祖論ではなくて、中ユ同祖論になります。

③ユダヤ人が指摘する似たような言葉は似てるだけで、歴史的に言葉が違うことが挙げられます。歴史を調べていけば、同祖論とするにはかなり怪しい状態になります。ただ、他の言語に比べて圧倒的に似ている言葉が多いのも事実です。

さて、ここから事実を指摘していきます。

真実

まずは②に関してですが、外国の人は、訓読みと音読みの区別ができません。訓読みはヘブライ語とかなり共通しますが、音読みはただの勘違いです。それだけのことです。いえ、むしろ音読みがベブライ語に似る理由は確かにあります。

Chinaの言葉は漢字ですが、その読み方は印欧祖語からの引用が多く含まれます。これは文化が西からChinaに入って来たためです。青銅器時代も鉄器時代も、西から来て、黄河文明などへ伝播しました。この時、言葉がなければ文明は伝わりません。故に、漢語自体がすでに印欧祖語やカナン語のコピーになっています。

ヘブライ語もカナン語からコピーされていますので、その点で最初から共通します。

さて問題の①

ユダヤ人はコーカソイドなのに、日本人はモンゴロイド。

本当にそうでしょうか。テルマエロマエというローマを部隊にした映画では、ローマ人を日本人が演じました。実は当時のローマのラテン語は、日本語的な発音をします。日本人が喋る方が遙かにローマのラテン語に近くなります。とは言え、日本には平たい顔族のほうが多いんです。平たい顔族は、ローマ人とはかなり違う風貌をしていまして、まさにモンゴロイドになります。

さらには、東北などにかけては、北欧系の貌立ちの人も多くいます。ロシア方面から北海道などを経由してやってきた民族がいるのではないかとされていますが、それなら韓国や中国のほうが圧倒的にこういう人たちは多いはずです。ですがそういうこともありません。なぜ日本だけが特殊なのでしょうか。

この民族の境目は言語で追跡することができます。出雲弁や東北弁はズーズー弁とされ、共通の言語が分岐したものとされます。これが共通していたのは、平安時代よりずっと前の時代です。その頃からこの言語はほとんど変わっていないことがわかります。なにより、この言語による文献が存在しません。ここが重要です。漢語、つまりChinaの言葉で筆記されたことがないということです。

対して畿内で喋られていた言語は、常にChinaの言語で筆記されます。そして平安時代まで遡ると、当時のChinaで使われいた漢語と音が似ていきます。母音の種類が増えたり、発音に癖が出てきます。文献は完全に漢語になります。漢語からだんだんと日本語になっていく過程が出ます。

この過程を日本人は、倭人が漢語を覚えていって倭語を漢字で書くようになったのだと言います。

ですが、現実は逆です。Chinaから来た人は漢語しか使えません。彼らが倭語を覚えて、漢語で和語を書くようになったのが本来の歴史です。

これは言語を比較すると簡単に答えがでます。

言語比較

たとえば、日は太陽で、火は火で、陽は陽射しみたいな使い分けがされますが、ヤマトの言葉では漢字は使いません。なので、「ひ」は全部同じ意味です。もともとの表記は出雲文字に記されていると思います。フェニキア語などと比較しても圧倒的に音と形が正しいからです。

ヒは、「ヒカリ」に見るとおり、見えない光そのものです。ヒカリが筋として見えるようになると、ヒカリになります。ヒが高いは、ヒカリが高いという意味です。火にあたるも、ヒカリにあたる。「火を点ける」とは本来「ヒカリをつける」という意味になります。これが宗教用語になって、ヒト、ヒメ、ヒコ、ヒミコ、ヒルトなどに発展します。

これが漢語になると、漢字が正しくなります。日と火はまったく違う意味になります。

たとえば、「キ」はなんでしょうか?

す「き」、「き」になる。ヒトの言うことを「き」く、薬が「き」く。

文字は古くは鍵の絵が描かれていたと伝承があります。これはマッチングを意味します。ここからが本題です。

ヤマト言葉は「あ」を前に付けるだけで、言葉の意味を反転させることができます。英語では「un」、サンスクリット語でも「あ」をつけると同じように言葉が反転します。

さて「あ」をつけてみましょうか。

あきる。あきらめる。

ヤマトの言葉はほとんどがこうなっています。

日本語を勉強してきた方は意外に思うでしょう。そんなこと知らなかったと言うでしょう。

ついで数詞をあげなければいけません。

ヤマトの言葉では、ひい、ふう、みい、よおの他に。

モノガタリ。モノオモイ。モノサシ。のmono。

タロウやジロウ、二番目がジ

色トリ取り、トリい などに見えるように3をトリといいます。

他にも古語をみれば、ペンタとか使っています。

デカいもギリシャ数詞です。うんとデカくなって、ドデカくなるのは正しい順番です。

ヤマト言葉では、ギリシャ数詞が当時の音のままで単語組み込みで使われていきます。

ただ日本語では、物や鳥と書きまして、意味が通らなくなります。日本人になるとこれが認識できていません。そして日本語の数詞は漢語の数詞になります。いち、にい、さんという奴です。

言語を比較精査すると、次のことが言えます。

日本語は漢語です。ヤマトの言葉を漢語に翻訳する言語になっています。だから数詞が漢語で、表記も漢語になります。日本人はヤマトの言葉をこれっぽっちも理解していませんし、理解できません。哀しいことですね。

日本人がモンゴロイドな理由

これで答えがでます。言語の歴史から日本語が四世紀以前に遡れない問題がでます。日本語を使う民族が日本にいないためです。ですが四世紀からやってきて、畿内で長安の街をつくりまくって、日本全土に移住していく様子が出ます。

つまりChinaから大勢移民がやってきました。彼らの文化は、その時代のChinaにありますので、紛れもなく日ユ同祖論とは関係ありません。民族もモンゴロイドになります。

問題は日本人が来る前のヤマトの国です。

ヤマトの国の歴史を書きますと

イザナミとイザナギが外国からやってきました。

当時の日本には縄文人が住んでいました。ここにイザナギとイザナミが加わって、初めてヤマト国が誕生します。ヤマト国の言語は出雲弁や東北弁が近いです。

たとえば九州の方言ではかなり劣化します。劣化というより独自の言語化がされます。これは縄文人が言語を取得したからそうなります。縄文の言葉に加えてヤマト言葉を覚えた場合に、音が変化しやすくなるのです。

九州にあった邪馬台国では30の国が争いを続けていました。縄文人が縄張り争いをしています。他の縄文人の言うことを聞くはずがありません。ただヒミコだけは誰もが従ったことが記されます。

このヒミコがヤマト国の人です。イザナミの系列の人だと思われます。つまり九州ではこの人と付き添いの数人だけがコーカソイドの人です。

日ユ同祖論では、ヤマトから続く文化と、Chinaから来た文化を比べて、ヤマトから続く文化が似通っているという話をします。つまり、ヒミコとユダヤ人は繋がります。ですが日本人になると繋がりが出ません。

問題の③

日本人は四世紀にChinaからやってきて勢力を拡大していきます。彼らは中華人を名乗らずに、日本人を名乗りました。中華の国に対しては、「我々が倭人です」と挨拶までしています。

成りすましたんです。

これも言語の端々に痕跡がでます。

成りすましたことにより、日ユ同祖論では歪んだ答えがでるようになります。

ユダヤ人は、日本人が過去にイスラエルと繋がっていると認識しました。実際には日本人は、DNAを見てもChinaの人がほとんどです。

Chinaと差別化を計るために、日本人というブランドを作って、もともといた日本人が唐や随から文明を学んでいったと説明されます。

ですが、言語やDNAを見れば、それが違うことが判明します。

もともとChinaの人が日本にやってきて、ヤマトの国の文明をごっそり盗んで行く様子が出ます。

現代を例にあげると、アメリカ合衆国に中国から移民があって、新しい州を作る前になりました。するとアメリカにいきなり二人の大統領がでます。喧嘩になります。しばらくすると中国の人が「私がアメリカを束ねました。国名を美国にしました」と世界中に挨拶にいきます。ここからモンゴロイドの国になります。英語を漢字で表記する変な言語を使います。

美国人は、「アメリカの文化なんてない。 すべては美国人の文化だ」と主張します。アメリカにある文明は、美国人が自分で作ってきたものだと。そして自らはアメリカ魂ともっているとさえ言います。

イギリスあたりが同祖論を展開しても、こうなったらもう日ユ同祖論と同じ結果にしかなりません。

これで日ユ同祖論を笑っていられますか?
https://note.com/yamato_izumo/n/n4d69cbd41fe2
15:777 :

2023/09/29 (Fri) 07:33:24

神仏習合とケガレ思想(平安時代)| 茂木誠
2023/09/28
https://www.youtube.com/watch?v=UoTvyzz97HU

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