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2022/06/02 (Thu) 08:32:28
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【邪馬台国・ヤマト王権】水銀朱で栄えた王国だった!?【朱の起源】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】2024/05/25
https://www.youtube.com/watch?v=y5Opq5DL_ls
【動画目次】
00:00 オープニング
01:07 「辰砂」「水銀朱」とはなにか
04:11 「朱」の起源 縄文土器は真っ赤だった!?
06:33 「黥面文身「朱のペインティング」
卑弥呼は阿波にいたのか!?
11:16 不老長寿の霊薬!?水銀の魔力
14:07 ヤマト王権と「朱」の関係とは?
16:21 神武東征は水銀鉱山獲得の旅だった!?
▪️参考図書
『邪馬台国は「朱の王国」だった』(著:蒲池明弘/文藝春秋)
『赤の民俗学「丹」が解き明かす古代秘史』(著:戸矢学/河出書房新社)
『古代史の定説を疑う』(監修:瀧音能之・水谷千秋/宝島社)
▲△▽▼
神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だった
2022年05月14日
江戸時代の環境汚染は酷かった? 全然健康的ではない
飛鳥時代の庶民の家は弥生時代と変わらなかったと考えられている
都市化が進んだのに汚物処理はなく河川が汚染されて住めなくなった
古代日本の環境問題
江戸時代とかもっと前の時代は自然が豊かで緑が多く、質素ながらも健康的な生活をしているというイメージではないでしょうか?
実際にはそうではなく間違った医学知識のせいで公害病や伝染病が蔓延し、人々は環境汚染に苦しんでいました。
日本の創成期からずっと日本人を苦しめてきたものが水銀と汚物で、明治維新後に正しい医学知識が広まるまで続いた。
話は神武天皇東征の頃まで遡り記録では起原前660年前だが実際には(個人的に)西暦200年台から300年台前半かなと思っています。
と言うのは魏志倭人伝(280年)には神武天皇的な世界が一切書かれていないので、東征はその後の出来事だと想像できるからです。
その前の紀元前200年以上前、秦の始皇帝の指示で徐福という人物が不老不死の薬を求めて日本までやってきたと記録されています。
この不老不死の薬の正体は水銀を主原料とした劇薬で、当時は万病の薬として同じ重さの金よりも高く取引されていました。
古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だったという説が有力です。
水銀は日本から大陸へ持っていくと高額で取引され、ほとんど何でも手に入れることが可能でした。
神武天皇が奈良県を支配すると中国風の建築が増え都市建設が始まるが、その資金は水銀輸出で得たと見られている。
古代の水銀精製過程では大量の汚染物質が流出し、これが川や池に堆積し青く輝いたのが「あおによし」で、当時の人は水銀を見てロマンチックだなと思っていたようです。
当然ながら奈良では水銀汚染のため人々は病気になったが、もう一つトイレ問題があった。
衛生状態の悪さと間違った医学知識
藤原京や飛鳥京、平城京は日本最初の都市であるためトイレ処理の技術がなく、川や池に流していました。
飛鳥時代の奈良県では水銀とトイレからの流れ者で、川や池は大変な状況になっていました。
歴史で環濠集落を習ったと思いますが、周囲を堀で囲った要塞のような集落で、要塞の中で数百人が生活していました。
外側の堀からやはりトイレの物が発見されていて、しかも汚染されて伝染病が蔓延していたらしいのが分かっています。
現存する環濠集落は戦国時代の防御の為に作られたもので、そうした問題は弥生時代から既に発生していました。
結局明日香村や橿原市。桜井市周辺の古代都市は2つの汚染で住めなくなり、710年に奈良市に首都移転、平城京も汚染されて794年に京都に首都移転しています。
京都でも環境汚染は止まらず魑魅魍魎の伝説が多く生まれたが、大半は環境汚染が原因の病気と考えられています。
武士の時代になると武士は京都を嫌い鎌倉や江戸に引っ越すが、やはり環境汚染がついて回ります。
江戸時代になるとトイレの物を肥料につかうリサイクル社会が完成し、以前よりかなりマシになりました。
だが江戸は人口100万人に膨れ上がり、伝染病が定期的に大流行していました。
根本原因は正しい医学知識が無かったので、ウイルスや細菌を知らず、怨霊や妖怪の仕業だと考えていたからでした。
江戸時代を通じて女性の化粧品に水銀が多用されていて、多くの薬にも水銀が混ぜられていました。
水銀は劇薬のため強力な殺菌作用があり、確かに負傷した時などに劇的な回復をすることがある。
例えば幕府で活躍した柳沢吉保の家系では120人の寿命が記録してあるが、男は22歳で女は15歳でした。
15歳になる前から女性はお化粧を始め、それが原因で非常に短命だったと言われています。
化粧品や水銀を用いた薬は高価だったので、一般の庶民は男42歳、女44歳くらいの平均寿命でした。
古代から中世の日本はあまり環境が良くなかったのです
https://www.thutmosev.com/archives/88166781.html
日本のトイレは長くこういうものだったので、河川が汚染されるたびに遷都した
飛鳥時代のトイレ事情から当時の大問題が分かる
日本のトイレは長くこういうものだったので、河川が汚染されるたびに遷都した
画像引用:https://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/e/4912e0dfde8d890bbecada6cc529f448 日本のトイレ事情について考える - 団塊オヤジの短編小説goo
藤原京のトイレ問題
奈良県の藤原京が日本の首都だった694年から710年の間に、外国人が住んでいたと思われるトイレ跡が発見された。
当時は珍しい水を流す水洗トイレ方式で、幅約1メートル、深さ約40センチの水路に水を引いて流していた。
遺構からは肉を不十分な加熱で食べて感染する有鉤(ゆうこう)・無(む)鉤(こう)条虫卵が発見された。
外国の使節が滞在した福岡や秋田の遺構でも同様の寄生虫が見つかっていて、ブタなどを食べる中国や半島の人が住んでいたと考えられる。
藤原京は飛鳥時代の都で、この後は奈良市の平城京に移転したので明日香村や橿原市周辺から離れている。
奈良盆地南側から北側の奈良市に移転した理由がトイレ問題とされていて、平城京から京都の平安京に移転した理由もトイレ問題だった。
さらに鎌倉幕府や徳川幕府が関東に都市をつくった理由も、トイレ問題が大きかったと言われている。
飛鳥時代のトイレは自然の川とか池に流していて、人口が増えるにつれて川や池は汚染されていった。
加えて飛鳥時代は水銀が様々な用途で使われていて、水銀汚染による病気も蔓延した。
飛鳥時代以前に頻繁に都を移した理由は河川などが汚染されたからで、場所を変える事で水質汚染を解消しようとした。
藤原京の人口は3万人、平城京の人口は10万人と人口が増え、水質汚染は限界を超え伝染病が蔓延した。
京都に移っても水質汚染は続き、これが魑魅魍魎や祟りや呪いなどの伝説に結びついてきました。
大阪奈良京都に渡来人が多く住んでいた
結局トイレ問題を解消したのは徳川幕府で、肥料として畑に撒くことでリサイクルして河川や池の汚染は少なくなった。
明日香村、橿原市、奈良市、京都市とだんだん大きな川が流れているが、これもトイレを流すために大きな川が必要だったからでした。
今から1000年ほど前まで大阪市はまだ海で、大阪城のあたりは半島で他は島として浮かんでいました。
中央区あたりの百済洲には百済の人が住み、浪速区あたりの新羅洲には新羅の労働者が住んでいました。
有名な仁徳天皇時代の記録には、仁徳天皇が半島労働者の視察を頻繁に行ったと書かれている。
一方今の鶴橋あたりには海岸線と市場があり、今も海産物などの市場として存続している。
もう少し陸地には百済の人々が住み肉食用のブタを飼っていて、猪飼野という地名が残っている。
仁徳天皇陵がある辺りから奈良県にむけて太子道があり、首都の飛鳥に大阪の港から徒歩で荷物を運んでいた。
大阪、奈良、京都には当時渡来人が多く住み、労働や農作業をし開拓した土地は彼らの農地になった。
https://www.thutmosev.com/archives/87813840.html#more
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2022/06/02 (Thu) 09:26:08
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【竹村公太郎】日本文明の誕生と発展―奈良盆地と聖徳太子の17条憲法―
https://38news.jp/column/17198
日本列島は毎年土砂災害に見舞われている。特に2014年8月20日、広島市は豪雨により大規模な土石流災害に見舞われた。広島市北部の住宅地で、死者74名、家屋全壊133戸という人命と財産が一瞬にして失われてしまった。
翌朝は嘘のように晴れていて、全国の人々はテレビの生中継でその悲惨さを目の当たりにした。テレビ映像は救助活動に向かう消防団や自衛隊から、ヘリコプターの中継に移って行った。
空中から見ると、山麓に並ぶ沢という沢から土石流が流れ出ていた。沢の出口では、土石流が住宅を無残に襲っていた。なぜ、あのような場所で家を建てたのか、とつぶやく家族の横で、私は全く違うことを考えていた。
日本文明を誕生させた奈良の謎が、一つ解けていった。
奈良盆地へ
太古の時代、多くの人々が日本列島に住み始めていた。特に、日本列島の南端の九州宮崎に構えていた人々にとっては、あまりにもユーラシア大陸に近すぎた。大陸の暴力の音が間近に響いてきたし、戦いの煙も漂ってきた。
九州は落ち着いて文明を誕生させ、発展させていく土地ではなかった。後の神武天皇は、九州から日本列島を東へ向って移動していった。
日本書記(宇治谷孟「全現代語訳、日本書記」)の中で、神武天皇が東へ向かう「東征」で、塩土老爺(しおつちのおじ)の逸話がある。塩土老爺は、先発して敵陣を見てくる斥候隊であった。どうやら、先発して敵情を探るスパイ役は年寄りの爺様の役目だったようだ。確かに若い斥候では目をつけられ敵に捕まってしまう。
その塩土老爺が、神武天皇に向って「東に美(よ)き地あり。青山四周り(せいざんよもめぐれり)」と報告している。つまり「大将、大将、東に良い土地がありましたよ。全周が山々で囲まれた緑豊かな素晴らしい土地です」。この情報を得た神武天皇はその奈良盆地に向った、という逸話である。
神武天皇の存在や東征は、神話として歴史として扱われていない。しかし、神武天皇一行が奈良盆地の「地形」を目指して進んだ、というのは土木屋の私にとっては実にリアルである。この「地形」の一点で神武天皇の歴史性を感じてしまう。
恵みの地、奈良盆地
当時、大阪はまだ河内湾と呼ばれる海であった。北からは淀川が流れ込み、南からは大和川が流れ込んでいた。この大和川をさかのぼり亀の背の峠を越えると奈良盆地が展開していた。
この奈良盆地は、塩土の爺さまが報告したように、緑豊かな山々が全周をとり囲んでいた。この森林は、潤沢な建設資材、舟建造資材、そして燃料エネルギーを与えてくれた。
そして、この全周の唯一の出口が亀の背地点であり、ここを抑えてしまえば敵は侵入できない。周囲の山々の沢という沢から、清らかな水が流れ出ていた。流れ出た水は、盆地中央で大きな湿地湖を形成していた。西側の山地は海風を防ぎ、東北の山地は北風を防いでいた。
奈良盆地の湖はまるで鏡のように穏やかであり、小舟を利用すれば奈良盆地のどこにでも簡単に行けた。奈良盆地は、自然の水運インフラに恵まれていた。(図―1)
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奈良盆地は、①安全 ②森林エネルギー ③水資源 ④水運インフラに恵まれていた。文明誕生のすべてのインフラの条件が整っていた。この奈良盆地に人々が集まり、日本文明を誕生させていったのは必然であった。
ところが、この奈良盆地は、文明を誕生させただけではなかった。奈良盆地は文明を膨張させ、発展させるエンジンも持っていた。それも奈良盆地の地形に深く関係していた。
豪雨と土砂崩れ
文明が膨張し、発展していくには、人々の欲望の膨張が満たされなければならない。欲望が満たされない社会は停滞していく。奈良盆地はその欲望の膨張を満たした。
その欲望の膨張のエンジンは、豪雨に伴う土砂崩れであった。そのことを、2014年の広島土砂災害の映像で気がつかされた。
災害が少ない奈良盆地にも、何年かに一度、何十年かに一度、大規模な豪雨が襲ってきた。その豪雨は山々の斜面を削り、その土砂は一気に沢を下り、沢の出口は土砂で埋まった。21世紀の広島の土砂崩れ住民にとっての大被害をもたらした。しかし、奈良盆地の土砂崩れは、古代の人々にとって天からの贈り物であった。
豪雨が去った晴天の下、人々は沢の出口に集まった。そして、堆積した土砂を見て、歓声を上げて喜んだ。彼らは力を合わせ、その土砂を湖岸に向かって押し出していった。土砂を押し出し、土砂を平らに均し、新しい土地を造成していったのだ。(図―2)が土石流で堆積した土。
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奈良盆地の周囲の全ての沢で、この作業が行われた。豪雨と土砂崩れが土砂を運んでくれ、それで湿地を埋めていく。自然の力を利用した新規開田が、奈良盆地全体で展開されていった。新しい土地の誕生が、文明発展の欲望のエンジンであった。
富の分かち合い
奈良盆地の川はどれも直線型をしている。直線の川は、日本国内を見渡しても少ない。20世紀に入って干拓された八郎潟の川は直線になっている。(図―3)で示される川の直線の形状が、奈良の土地と水路が人工的に形成されたことを示している。
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奈良盆地では土地が拡大されていった。土地が拡大する過程で、土地所有のルールを定める必要が出てきた。奈良盆地で最古の土地区画整理事業の「班田収受法」が誕生したのは偶然ではない。
これは人々の利害を制御するための制度であった。新たに生まれた土地を巡って戦うのではなく、ルールに従って、話し合う。話し合いで分かち合った土地を役所に届ける。財産を決め、役所に登録していく、死んだら土地は国に返す。というきわめて近代的な文明の誕生であった。
日本で最初の憲法もこの奈良盆地で生まれた。聖徳太子の「十七条の憲法」の第一条は、「和をもって貴しとなす」とある。これは聖徳太子による「精神な訓話」だと長いあいだ思っていた。しかし、これは単なる精神訓話ではない。
奈良盆地では、拡大する土地の所有を巡って、話し合い、和して、分かち合った。近代的な社会規範を形成し、日本文明を誕生させていった。
「十七条の憲法」の第一条は、単なる精神訓話ではない。現実的な生活の知恵から生まれた社会規範、と考えると胸にもストンと落ちていく。
文明の誕生と発展
世界史の興亡を見ると、暴力が他の富を奪う繰り返しである。誰かが勝ち、誰かが負けるゼロサムゲームであった。
しかし、文明が誕生する時には、人々の協力と、分かち合いが必要である。メソポタミア文明やエジプト文明でも、人々は協力して大河川の洪水を制御し、川から水を引き、協力して耕作地を増やしていった。その過程では、話し合い、ルールを作って土地を分かち合っていったはずだ。そうでなければ、多くの人々が力を合わせて創りだす文明など誕生しない。
しかし、ユーラシア大陸やアフリカ大陸には、必ず強大な移動する暴力が湧きあがっていた。それらの暴力は凄まじい勢いで移動し、分かち合う人々が創った社会を襲い、富を奪って行った。世界の各大陸の分かち合う古代文明は、21世紀まで生き残ることはできなかった。
ところが、日本列島はユーラシア大陸の極東に浮かんでいた。世界史の中で唯一、日本だけが、大陸の暴力に侵されず、21世紀まで存続した。奈良盆地に人々が集まり、分かち合いの条里制を生み、和の憲法を生み、律令で社会を制御する文明。記録を取り、その記録を役所が保存する。そのような歴史を21世紀まで継続して存続させたのが日本であった。
今でも日本人の心の中には、話し合い、分かち合う精神は生き残っている。何しろ、奈良で生まれた精神は、2000年の歴史がある。だからと言って日本人が遺伝子上で優れていると主張するつもりはない。この日本人の精神を誕生させたのは、奈良盆地の地形と気象だからだ。地球上のどの民族も、その地形と気象に適応していく宿命にある。
https://38news.jp/column/17198
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2022/06/02 (Thu) 09:27:16
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飛鳥地方に見られる日本の原風景 2019年12月31日
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/12/3621.html
現在の奈良県明日香村は、1400年前の飛鳥時代の歴史や文化を伝える「屋根のない博物館」といわれています。
また、飛鳥時代の宮や史跡が多く発掘されていることから「日本の心のふるさと」とも紹介されています。
明日香村は日本で唯一、全域が古都保存法対象地域の自治体であり、明日香村特別措置法によって村全体が歴史的風土の保存対象になっています。
明日香村の魅力として数々の名所・旧跡があげられますが、それ以上に、現在でも残るおおらかな大自然が日本人の原風景として愛されています。
例えば、飛鳥川に大きめの石を渡して橋として使った「飛び石」、これは万葉集にも数多く詠まれた場所で、現在でも当時のまま残っています。
この飛鳥川は現在でも蛍が見られるほど水がきれいで、遠い飛鳥の時代の日本がそのまま現代にタイムスリップしたような感覚になる貴重な場所です。
飛鳥時代は、日本で初めて律令制が導入され、また仏教が入ってきたことによって仏教文化が栄えた時代です。
法隆寺・東大寺などの文化的遺産も大きな魅力ではありますが、それ以上に「古き良き日本の田舎」を感じることができるところにあるのではないでしょうか。 だからこそ、万葉の時代を感じさせるおおらかな大自然は、現代人を心身ともに癒すことができるのではないでしょうか。
【万葉集は日本人の心のふるさと】
万葉集は日本に現存する歌集の中で最も古いもので、正確な成立時期は不明ですが何度かの編纂を経て、奈良時代の末期には現在の形になったとされています。
万葉集の歌の大半はおよそ舒明天皇即位(629年)から759年の間の一世紀半の間に作られたもので、全20巻、およそ4500首の和歌が収められています。
そして一番大きな特徴としては、天皇から一般庶民や農民まで、貴賤を問わずに和歌が選ばれている点です。 日本におけるこの時代は、天皇と中心とした貴族と庶民の暮らしには天と地ほどの差がありました。
しかし、和歌の世界では身分は問わないという万葉集の姿勢は、世界的に見ても特殊なものとされています。 そのため万葉集に収められた歌は、男性的でおおらかな歌から、女性的なある意味女々しい歌まで、様々なものが見られます。
そして一番の魅力は、万葉集の歌が「実写的」つまり思ったままそして見たまま詠まれた歌だということです。
後に編纂された古今和歌集などのような観念的な歌よりも、万葉集が現代人の心をつかむのは、この「ストレートな感情の表現」なのではないでしょうか。
【飛鳥地方のみどころ】
明日香村には、謎の巨石遺跡や石造物がたくさん存在する石舞台古墳があります。
国の特別史跡に指定されている石舞台古墳は桜の名所としても有名で、石舞台を中心に円を描くように植えられたソメイヨシノが満開の頃には見事な眺めとなります。
この石舞台古墳が誰の墓であったかはには諸説ありますが、一番有力とされているのは蘇我馬子の墓だという説です。
「飛鳥寺」は蘇我馬子が建立した寺で、祀られている「飛鳥大仏」は飛鳥時代に作られた日本最古の大仏です。
「橘寺」は聖徳太子誕生の地として知られており、本殿(太子殿)には「聖徳太子御誕生所」と記されています。
また明日香村には、壁画で有名な特別史跡・キトラ古墳があり、発掘調査後は盗掘で破壊された石槨も、現在では修復されてきれいに整備されています。
【飛鳥文化の特徴、日本初の仏教文化、国際性豊かな文化】
飛鳥文化の一番の特徴は、推古天皇の時代を頂点として花開いた仏教文化で、時期としては仏教渡来から大化の改新までの時期の文化を指します。
飛鳥文化は、日本初の仏教文化とされており、仏法興隆の詔・聖徳太子による三経義疏など、仏教に関わる様々なものが作られました。
百済から仏教が伝わったのは538年または552年とされており、日本書紀には552年に百済の聖明王の使者が金銅釈迦仏像・教典などが天皇に献上されたと記されています。
当時仏教を真っ先に受容したのは蘇我稲目で、百済の使者が朝廷に献上した仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置して、さらに向原の家を清めて向原寺としました。
そして、仏教を受容した蘇我氏と反対する物部氏とが対立し、それが蘇我氏と物部氏との豪族同士の争いに発展し、勝利した蘇我氏が中心となって飛鳥京を中心に仏教文化が栄えることになります。
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられており、渡来した僧の数人は帰化して飛鳥寺に住むようになりました。
そして7世紀後半には中央政府が地方への寺院建築を奨励し、寺院が全国的に建設されるようになっていきました。
飛鳥時代の文化のもう一つの大きな特徴は、朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた国際性豊かな文化ということです。
飛鳥時代に造られた仏像の材質は木造と金銅造で、代表的なものとして、飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)・法隆寺金堂釈迦三尊像・法隆寺夢殿救世観音像・法隆寺百済観音像などがあげられます。
飛鳥大仏・法隆寺釈迦三尊像などに代表される様式を「止利式」といい、特徴としては、杏仁型の眼・仰月形の鋭い唇・唇の端を引き上げるようなアルカイックスマイル、そして左右対称の幾何学衣文や正面から観照することを意識して作られた造形などがあげられます。
【飛鳥時代の「飛鳥」の名前の由来】
飛鳥時代の主な出来事としては、憲法17条や大宝律令などによって中央集権国家が形成され、同時に仏教の伝来など文化面でも大きな変遷が見られたことです。
言い換えれば飛鳥時代は、日本で初めて政治的な争いが歴史を彩った時代だともいえます。
ちなみに、「日本」という言葉は飛鳥時代から使われていたとされています。
飛鳥時代の「飛鳥」は、現在の奈良県高市郡明日香村にある「飛鳥」という地に宮(都)が置かれていたことに由来します。
万葉集の中に、その地が「遠つ飛鳥」と呼ばれており、現在の大阪府羽曳野市に「近つ飛鳥」という場所の記載があります。
「近つ飛鳥」周辺には、大陸系の遺物が出土される6世紀以降の群衆墳が広がっています。
そしてその「遠い・近い」は、河内王朝のあった大阪南部が基準とされているという説があります。
ここで、なぜ「飛鳥」「明日香」と二種類の漢字が存在するのでしょうか。 元々「あすか」というのは、日本に漢字が伝わる以前にあった地名で「スカ地」を意味します。 スカ地とは、川の流れによってできた砂州のことを指し、それに接頭語の「あ」がついて「あすか」となったという説が有力です。
そしてそれに「明日香」という美しい漢字が充てられたとされます。
そして全国各地に存在する「あすか」と区別するために、日本の中心であった「あすか」には「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞がつけられ、これが「あすか」に二つの漢字が充てられた理由とされています。
もう一つの興味深い説
飛鳥時代のに最も有名な人物と言えば、聖徳太子です。
その聖徳太子が生まれたとされている、明日香村の橘寺から見える景色が飛ぶ鳥に見えた、そしてそこが「飛鳥」になったという説です。
橘寺の近くには聖徳太子誕生の石碑があり、橘寺は丘の上にありとても見晴らしがいい場所です。
そこから北方を見ると、真ん中の三輪山を中心として、左に龍王山・右に巻向山があり、この3つの山が大きな飛ぶ鳥に見えるということなのです。
【日本の古代道路の歴史】
日本で道路建設が始まったのは5世紀だとされる説があり、また仁徳天皇の時代に造られた宮の周囲に、人馬の往来があったとされる道路の遺構も発掘されました。 しかし、直線的で計画的な道路が整備されたのは7世紀からだとされています。
推古天皇期に、宮のある飛鳥から各方向に直線道路が敷かれ、これらの道路は広い幅員と直線的である事が特徴で、これは遣隋使による隋との交流で、隋からの使節団を迎えるために道路整備に朝廷が力を注いだためとみられています。 また、飛鳥時代の陸上交通は徒歩がほとんどで、牛馬などの家畜は貴重だったことから庶民にまでは行き渡っていませんでした。
長距離の経路を確保するには、人や馬を休息または交代させる必要があり、大化の改新の詔では駅伝制を奨励しました。 これを「宿駅伝馬制度」といい、宿駅の機能は街道に沿って各国の国富や郡衙が兼任していたとされています。
駅路とは、律令制で定められた駅使が通行する街道のことで「七道駅路」とも呼ばれています。 七道駅路は、中央と地方諸国を結ぶ7本の幹線道路で、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海動・西海道を指します。
その原型は大化の改新以前に形成されていましたが、飛鳥時代後期の天智・天武期ごろに本格的な整備が進みました。
近年の考古学調査によると、その幅は最小でも6m、最大では30mを超えていたことが判明し、また整備された直線道路であったことも特徴とされています。
駅路の公式な使われ方は、第一には有事の際の迅速な情報伝達、第二には軍隊の移動、第三には公用の役人の移動、第四には租庸調によって納められる物資の輸送でした。
その他、国司の公務での移動など、あらかじめ定められた駅路を通ることが義務付けられていました。
【飛鳥時代で「紫」が高貴な色とされた理由とは?】
聖徳太子が紫という色を冠位十二階で最高位としたのは、中国からの影響が大きいとされています。
そして中国が紫を最高位としたのは、ギリシャやローマの影響なのです。
日本では603年に制定された冠位十二階が「紫色」の最初の出自とされており、濃い紫が最も高貴な色とされました。 この後に制定された冠位十三階では、明確に紫が最高位の色と記されており、その後様々な色順位の変遷があるにもかかわらず、紫は常に高位の色とされてきました。
【飛鳥時代の日本にペルシャ人の役人がいた?!】
昭和40年から41年にかけて、京都から奈良・和歌山に通じる国道24号線バイパス敷設にともなって、平城京付近の発掘調査が行われました。
この調査の際に、1万点を超える木簡が発掘され、大部分が式部省関連のものでした。 式部省とは、日本の律令制における八省のうちの一つで、出土した木簡を解読することによって興味深い事実が明らかになったのです。
そこには、「破斯清通(はしのきよみち)」という名があり、奈良時代の官吏の名とされています。 その破斯清通は、式部省大学寮に勤務していたペルシャ人と推測されているのです。 式部省大学寮とは、式部省の直轄下にある官僚育成機関で、官僚候補生である学生の教育と試験を行いました。
破斯清通は「員外大属(いんがいだいさかん)」という職に就いていたとされており、大属は大学寮の四等事務官にあたる下級官吏でした。 員外とは定員外の枠で任じられた特別職で、外国人の学問的知識を教えるために特別枠として任命されたと推定されており、勤務体系に関しては他の役人と同じだった事も解明されています。
「破斯清通」という名の「破斯」という文字は、ペルシャを意味する「波斯」と同音そして同様の意味を持つと判断され、出土品の中からペルシャ人を示す文字が確認されたのは、この発掘調査が日本初でした。
古代日本で紙の代りとして使用されていた木簡に書かれていた文字は、それまでは判読不能でしたが、この発掘調査で赤外線を使って調査した結果、日本在住のペルシャ人の役人の名前が発見されたのです。
約1400年前に、アラビアのイスラム勢力が世界に存在をアピールするために、当時の大国だったペルシャ帝国を侵略しました。
当時のペルシャ王はササン朝のヤズゲルド三世で、イスラム勢力の襲撃によってペルシャは負けてしまい、その結果多くのペルシャ人が国外に逃げたとされます。 国外に逃げた人々の中にはササン朝のペルシャの王族もいて、その一部は中国さらに日本にまで来たと伝えられており、その証拠が奈良の正倉院に残っています。
また、興味深いことに、日本とイランの行事に似通っている点が多くみられるのです。
例えば、年の暮れに行う大掃除、お正月のお年玉、お盆の行事等で、天皇家のシンボル「菊花」とペルセポリスの壁画に残るマークも良く似ているとされています。 そしてその時期にペルシャから渡ってきた人物の末裔であるという日本人も存在しており、在日本イラン大使館のペルシャ人専門家によると、「確実な証拠はないが、歴史的に見れば正しい主張である可能性は高い」とされています。
【飛鳥時代の土地制度】
まず、大化の改新(645年)によって「公地公民制」が導入され、全ての土地が国家の所有であることが定められました。
公地公民制は、各地の有力者が長年所有していた土地や人民を全て明け渡すことを意味していますが、当然有力者達は自分の土地や利権を簡単に明け渡すことはしませんでした。
そのため645年に実施された公地公民制は、有力者たちの反発によって、また、土地や人民の私有禁止が正式に発令されなかったために、実現するまで長い時間がかかりました。
公地公民制の本格的な実現は、702年の大宝律令によるものと考えられています。
公地公民制の根幹には、「戸籍」「班田収授」という制度があり、戸籍で人民を管理し、戸籍で把握した人民に口分田(土地)を与えるというのが、班田収授の仕組みです。
公地公民制によって、朝廷は農民から効率的に税を搾取できるようになり、財政は豊かになりました。
この公地公民制はこの後奈良時代にも継続され、平城京造営や大仏や寺院を建てるなど巨大な公共事業が行われるようになり、これらの資金は公地公民制によって得た税金などが使われたと考えられます。
公地公民制の役割そして意義は、次の3点になります。
・兵力を効率的に動員できる
・人に対して賦課する税金の創設
・土地に賦課する税金の創設
公地公民制によって国家の軍事と財産は支えられたといえますが、農民の身分は低く、重税を課されることによって苦しい生活が強いられました。 奈良時代には税金の負担や労役から逃れるために、豪族や貴族のもとに身を寄せる人民が増えることになり、次第に口分田の不足や荒廃が問題となっていきます。
そのため朝廷は「三世一身法」「墾田永年私財法」などを制定するのですが、次第に公地公民制は廃れていき、その後、寺社や貴族が所有する私有地「荘園」が発生して拡大していくのです。
飛鳥時代の政治・宗教・生活ナビhttps://www.asuka-jidai.com/info/post-64を参照しました。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/12/3621.html
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2022/06/02 (Thu) 09:29:47
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平城京から長岡京へ遷都する原因となった「祟り」の正体とは
710年から784年まで日本の首都だった平城京の時代の話である。
平城京と言えば、「奈良の大仏」と共に思い出す人は多い。奈良の大仏、正確には「東大寺盧舎那仏像」は今でも多くの観光客を引き寄せる壮大な仏像だ。
平城京の時代に19年の歳月をかけて作られたこの「奈良の大仏」には、金(ゴールド)を塗って仕上げるために約50トンもの水銀が使われた。
金と水銀を混ぜ合わせた合金を奈良の大仏に塗り、その後に炭火で加熱すると水銀が飛んで金だけが残る。それによって大仏が金でメッキされるという工法だった。
ところが、炭火で水銀を加熱して水銀を含んだ蒸気が大量に奈良盆地に降り注いだので、首都・平城京は一帯が水銀で汚染されてしまった。そして、平城京の人々はみんなまとめて水銀中毒になってしまったのだった。
中でも大仏の設立の作業をしていた人々が、次々と手足の震え、運動障害、重度の倦怠、口腔の損傷を引き起こすことになった。当時の人々は水銀が原因であるというのは分からなかったので、これは「たたり」であると認識された。
平城京がわずか74年で首都を遷移せざるを得なかったのは、そこにあった。「たたり」ではなかった。水銀中毒だったのである。これが日本で起きた最も最初の大規模水銀汚染だったのではないかと考えられている。
https://blackasia.net/?p=10730
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「続日本紀」で桓武天皇は「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」
その他の理由として
既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
父の光仁天皇の代から天智系に皇統が遷った事による一新
また、平城京が長岡京に遷都したきっかけ、それは奈良の大仏に原因があると言われています。
当初の原因としては奈良の大仏を造るときの銅が原因ではないかと言われていましたが、近年になって違う説が挙げられるようになりました。 これまで言われてきた説は、大仏の銅を精錬するときに流れ出た液が染みこんで、近くの若草山などに木が生えないと言われてきました。これは50年ほど前の説になります。
近年言われている説は、水銀が原因ではないかと言われはじめています。大仏を造っている時期には疫病が蔓延し、大仏が完成するとそれも治まり、大仏様のお陰だと喜んだと言われていますが、当の大仏が原因ではないかと言われているのです。
奈良の大仏は、当初金メッキが施されていて光り輝いていました。この金メッキを施すのに大量の水銀が使われていたのです。金と水銀を合わせて粘土状にしたものを大仏に塗り、炭火で熱して水銀を蒸発させることで金だけが残ります。このような方法で金メッキがされました。蒸発して大気に放出された水銀は、平城京はもとより奈良の街にも降り注ぎ、呼吸することで吸い込んでしまった人々はどうなるのでしょうか。
現在のように医学の発達していない時代に、水銀による中毒症状が多発して、恐らくパニック状態に近かったのではないでしょうか。蒸発した水銀で大気が汚染され、気管支炎や肺炎などの呼吸器の異常を起こし、腎臓への影響や倦怠感、手が震えるなども引き起こしました。
運動障害も起り、これを当時の人々は祟りと恐れたのです。奈良の都でのこうした出来事から、平城京は長岡京に移されたという説です。もちろんこの他にも、もっともらしい説はあります。川がたびたび氾濫するためであるとか、うるさい僧の意見から逃れるためであるとか、天皇家内での派閥争いがあったためであるとか、様々な説があります。水銀説もあくまで「説」であり、真実は分かっていません。
大仏に金メッキを施すために、大量の水銀が使われました。現在の単位に直すと50tもの水銀が使われたのです。これは現在あらゆる所に使われている水銀の量と比較すると、とんでもない量になります。これだけの水銀を熱して蒸発させるとなると、水銀中毒が蔓延しないほうがおかしいでしょう。
様々な不調を訴える人が急増して、何かの祟りだと恐れるのも無理もない話でしょう。やはり平城京遷都の一番の理由は、奈良の大仏の建造にあたって使われた、水銀が原因なのでしょうか。土中の水銀の含有量を調べるとすぐ分かるそうですが、いまだに調査は行われていません。
平城京の住人は、水銀でおかされた空気を吸い、野菜や魚、米を食べ、知らず知らずのうちに体内に水銀を取り込んでしまっていたのでしょう。神経や内臓がおかされて回復が難しい水銀。以前まで化粧品や薬などにも使われていましたが、今でこそ分かる水銀の怖さを知るはずもない平城京の人々は、大仏の完成に向けて多くの民衆と共に、一生懸命だったことでしょう。
例え平城京遷都の直接の原因が水銀でなかったとしても、都に水銀による影響があったことは言うまでもないことです。大仏を造ることによって、思いもよらない被害がでていたということです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228037307
▲△▽▼
梅毒と奈良の大仏と始皇帝とニュートンの錯乱を結びつけるものとは? 2018.12.30
https://blackasia.net/?p=10730
かつて「過去の性病」と思われた梅毒は、日本に多くの中国人が流れ込むことによって20代の風俗嬢を中心に爆発的な流行を見ることになった。このまま放置しているのであれば、梅毒はもっと蔓延して日本のアンダーグラウンドを覆い尽くす。
日本の風俗は異常だ。風俗嬢は梅毒から逃れられない。
なぜ風俗嬢が助からないのかは、こちらのシリーズに記した。
(ブラックアジア:【シリーズ】日本の女たちは性病まみれになっていくのか?)
https://blackasia.net/?tag=%e6%80%a7%e7%97%85%e8%94%93%e5%bb%b6
梅毒は治療すれば治る病気だが、かつては身体がボロボロに腐って鼻や口唇が欠け落ちたりする恐怖の「伝染病」だった。
この恐怖の性病「梅毒」の特効薬を発見したのはアレクサンダー・フレミングである。この医師こそ人類の救世主であり、救済者である。
私たちはこのイギリスの医師にもっと深く感謝しなければならないし、功績を讃えなければならないはずだ。そうでなければ梅毒はもっと深刻な病として人類を苦しめていた。
(ブラックアジア:誰でもできる。確実に効かないクスリを見抜く方法とは?)
https://blackasia.net/?p=1113
ただ、今は治療可能な梅毒も、いずれ抗生物質が効かなくなってスーパー梅毒になってしまい、再び不治の病になってしまう懸念もある。梅毒もまた抗生物質に耐性をつけて「進化」しているからだ。(鈴木傾城)
紫金膏で梅毒と水銀が出会った
梅毒が全世界で蔓延するようになったのは15世紀に入ってからだ。その蔓延には諸説が大量にあるのだが、最も有力視されているのはコロンブスが率いた探検隊員がアメリカ大陸で感染し、ヨーロッパに持ち帰ったという説である。
日本にも室町時代にはすでに梅毒患者であると思われる症状が記載されているのだが、これば爆発的に流行したのが江戸時代だった。江戸時代は梅毒で鼻が欠けてしまった遊女(夜鷹)が夜の暗がりの中で安く身体を売っていた。
当時、梅毒のことは「瘡毒(そうどく)」と呼ばれていたのだが、遊女たちはこの瘡毒から逃れようと必死になっていた。瘡毒を放置しておけば、やがて身体中に腫瘍が次々と発生し、腐り、やがて発狂して死んでしまう。
人々は何とかこの病から逃れようと必死だったのだ。
現代でも人々は「頭に来る」という言い方をするが、この表現は梅毒が全身に回って最後に人間を発狂させるから「頭に来る」という言い方が生まれたというのを知っておいた方がいい。そんな表現が一般化するほど梅毒の蔓延はひどかった。
頭に来てしまった梅毒患者はもはや手の打ちようがなかったので、彼らは山に捨てられた。そして歴史から消された。こうした闇は和漢三才図会のような医学書にしか記されていないが、治療のない時代の梅毒末期の人たちがどれだけ悲惨だったかは私たちも想像することができるはずだ。
この中で、遊郭の女たちが頼りにしていたのが「紫金膏」という薬だった。両国吉川町の紫金膏が有名で、この薬は「兜膏」と言われて遊郭の遊女たちに重用された。ところが、この薬も、今の医学から見ると凄まじく危険なものだったのだ。なぜか。
この薬の成分は「水銀」だったからである。
実のところ、水銀は今でこそ人体に危険だと知られるようになって避けられている。水銀の危機を全日本人が知ることになったのは、1956年に起きた「水俣病事件」からではないか。
それまで、水銀は「赤チン」と呼ばれて親しまれてきた「赤ヨードチンキ」のような薬にも使われていたし、顔料にも使われていたし、化粧用品にも使われていた。
水銀の危険性が水俣病で知られるようになってから、日本では化粧品・医薬品・農薬に水銀を使うのは厳重に禁止されるようになった。1974年のことだった。1974年と言えば、ずいぶん最近のことのように思える人もいるはずだ。そうなのだ。最近のことなのである。
「たたり」の正体は水銀だったのか?
日本で大災厄をもたらした水俣病は、チッソ水俣工場がメチル水銀を含んだ工業廃水を水俣湾に大量に排出していたことによって起きた事件だった。
水銀を含んだヘドロが堆積し、それによって魚や貝が汚染され、その魚介類を猫やカラスや人が食べることによってメチル水銀中毒症が広がった。
この水俣病が日本最大にして最初の「水銀汚染事件」だったと日本人は考えている。しかし、日本と水銀汚染の歴史は実はもっと古いかもしれないという「説」も現れている。
710年から784年まで日本の首都だった平城京の時代の話である。
平城京と言えば、「奈良の大仏」と共に思い出す人は多い。奈良の大仏、正確には「東大寺盧舎那仏像」は今でも多くの観光客を引き寄せる壮大な仏像だ。
平城京の時代に19年の歳月をかけて作られたこの「奈良の大仏」には、金(ゴールド)を塗って仕上げるために約50トンもの水銀が使われた。
金と水銀を混ぜ合わせた合金を奈良の大仏に塗り、その後に炭火で加熱すると水銀が飛んで金だけが残る。それによって大仏が金でメッキされるという工法だった。
ところが、炭火で水銀を加熱して水銀を含んだ蒸気が大量に奈良盆地に降り注いだので、首都・平城京は一帯が水銀で汚染されてしまった。そして、平城京の人々はみんなまとめて水銀中毒になってしまったのだった。
中でも大仏の設立の作業をしていた人々が、次々と手足の震え、運動障害、重度の倦怠、口腔の損傷を引き起こすことになった。当時の人々は水銀が原因であるというのは分からなかったので、これは「たたり」であると認識された。
平城京がわずか74年で首都を遷移せざるを得なかったのは、そこにあった。「たたり」ではなかった。水銀中毒だったのである。これが日本で起きた最も最初の大規模水銀汚染だったのではないかと考えられている。
数千年に渡って危険が認識されていなかった
水銀は今でこそ扱いを間違えると人間に重篤な被害を与えるものであることが知られているのだが、そうした常識が定着したのは比較的最近の話である。それまでは水銀は「美容に効く」「永遠の命を授ける物質」として何千年も言い伝えられてきた。
「永遠の命を授ける物質」と思ったから、不老不死を求めていた秦(しん)の始皇帝は秘薬だと思って水銀を飲んでいたのだ。
(ブラックアジア:「死」が重要なのは、それがこの世で唯一絶対の平等だから)
https://blackasia.net/?p=791
永遠の命を求めて水銀で自滅してしまったのが始皇帝だが、何らかの物質を掛け合わせるとゴールドが生み出せるのではないかと考える「錬金術」の魔力に取り憑かれて水銀で自滅してしまいそうになった人物もいる。
アイザック・ニュートンだ。
万有引力を発見し、近代の自然科学の巨人となった天才科学者であるニュートンは50代になってから精神錯乱に見舞われていたのを知る人は少ない。
金や銀のような貴金属は数が少ないがゆえに貴重品である。それは「財力」の象徴(アイコン)でもある。今でも金銀財宝という言葉が残るように貴金属は富と密接に結びつく。
この貴金属を何でもない物質から生み出してその術(わざ)を独占すれば、世界有数の富裕者と化す。それが「錬金術」の動機である。ニュートンは科学的関心から錬金術に興味を持ち、そして錬金術にどんどん傾倒していったのだった。
その錬金術の過程で、ニュートンは莫大な実験を繰り返していたのだが、そこで物質の合成に使っていたのが水銀だった。ニュートンは実験の過程で大量の水銀を吸い込み、その影響で精神錯乱に追い込まれてしまった。
アイザック・ニュートンですらも、水銀が危険なものであると気づかずにいた。水銀は普遍的に使われていたからだ。大して危険なものではないと思われていた。
水銀は「梅毒の薬・奈良の大仏・始皇帝の秘薬・ニュートンの錯乱」を結びつける中心(コア)となる物質なのだが、この結びつきは示唆に富んでいる。水銀は危険なものであるとは数千年に渡って認識されていなかったということだからだ。
そうであれば、今の私たちも何らかの物質が精神を錯乱させ健康を害するものを知らずに使っている可能性は高いと思わないだろうか。いずれ、私たちはその事実を知って驚愕することになるのかもしれない。(written by 鈴木傾城)
アイザック・ニュートン。アイザック・ニュートンですらも、水銀が危険なものであると気づかずにいた。水銀は普遍的に使われていたからだ。大して危険なものではないと思われていた。
https://blackasia.net/?p=10730
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2022/06/02 (Thu) 09:31:19
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2021年4月10日
【竹村公太郎】桓武天皇の失敗と成功―日本列島のアイデンティティー―
https://38news.jp/column/17867
共同体とは言語を共有する人々の集団である。文明とは共同体の人々の営みである。
日本列島に住む人々は古より言語を共有していた。古より日本列島に住む人々は共同体を形成し、文明を誕生していった。
古とは桓武天皇にさかのぼる。その桓武天皇の物語は日本列島の地形に深くかかわっていく。
奈良盆地からの脱出
奈良盆地は、文明が誕生するすべてのインフラつまり、安全、水、エネルギー、そして水運を備えていた。
更に、奈良盆地は文明を膨張させるエンジンも持っていた。豪雨と土砂崩れという自然の力を利用した新規開田が、奈良盆地で展開されていった。
その天国のような奈良から桓武天皇は脱出することとなった。西暦784年、桓武天皇は奈良盆地から出て長岡京に遷都した。いったい何が桓武天皇を奈良盆地からの脱出に駆り立てたのか。
桓武天皇が平城京から遷都した理由は、歴史家のあいだでも諸説ある。一つは、天智天皇系だった桓武天皇は、天武天皇系の奈良から離れたかった。一つは、藤原一族などの貴族の影響から離れたかった。一つは、道鏡など仏教の影響力を弱めたかった、などである。
人文系の歴史の論点は幅広い。政治、経済、法律、宗教、美術、心理そして文化と多岐にわたる。歴史の解釈は専門家の数だけあり、論議は果てしなく続いていく。歴史がHis- Story(彼の物語)と云われる所以であり歴史の面白さである。
私は土木技術者である。そのため、桓武天皇の遷都の理由もインフラの観点から物語を述べていく。
奈良盆地の地形は、全周を緑に囲まれ、中央に大きな湖を抱いていた。奈良盆地は、安全、森林、水資源そして水運に恵まれていた。奈良盆地の「地形」が、奈良文明を誕生させた。その同じ「地形」の理由で、奈良は捨てられることとなった。
飛鳥京、藤原京そして平城京を誕生させた恵みの奈良盆地は、インフラからみると悲惨な呪いの地に変貌していた。
禿山の奈良盆地
故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では平城京の内外には10万人から15万人の人々が住んでいたという。当時で年間1人当たり最低10本の立木が必要だったと仮定すると、年間100万~150万本の立木が必要となる。
100~150本ではない、100~150万本である。モンスーン気候の日本の植生は生育が良い。しかし、それにも限度がある。年間100万本以上の立木伐採は、日本列島の森林の再生能力をはるかに超えていた。それが300年以上続けられたのではたまらない。
奈良盆地を囲む山々は、禿山となってしまった。
(図-1)は米国の歴史学者、コンラッド・タットマンによる日本の歴史的森林伐採の変遷である。
彼は全国の寺社仏閣に入り込み、縁起書物を調べ上げた。寺社の縁起書物には、その寺社の創建や大改築時の事柄が記録されている。その中には、どこで木材が伐採され、持ち込まれたかが記録されていた。その記録を年代ごとに図に表した貴重な資料である。
図の中央の濃い部分が、西暦800年までに森林が伐採した地方である。奈良時代には、紀伊半島から琵琶湖北岸まで森林伐採が行われていた。つまり、奈良盆地では木材が確保できなかった。奈良盆地の木々は伐採され尽くされ、周囲の山々は禿山になっていたのであった。
奈良盆地のインフラの崩壊
周囲の山々が禿山になってしまった奈良盆地は、厄介で危険な土地とへ変貌していった。
少しでも雨が降ると山々の土壌は流出し、斜面は次々と崩壊していった。山の保水力は失われ、あちらこちらで湧いていた清水は枯れていった。さらに、流出した土砂は湖を埋めていった。平らで水はけの悪い奈良盆地はますます水はけが悪くなり、雨のたびに家々や田畑は浸水してしまった。
人々の生活排水や排泄物は湖で澱み、疫病が慢性化していった。もちろん、土砂で埋まった湖で舟の行き来はままならなくなった。
奈良盆地のインフラは崩壊した。森林が失われ、水が枯れ、水害が多発し、疫病が蔓延し、舟の便が悪くなった。奈良盆地は地獄のような土地となり、この奈良盆地から脱出するのは必然であった。
長岡京への遷都
784年、桓武天皇は奈良盆地を後にした。遷都した先は、淀川三川と呼ばれる木津川、宇治川、桂川が合流する長岡京であった。
この淀川流域には奈良盆地で枯渇した森林資源が豊富にあった。なにしろ、淀川流域は奈良の大和川より8倍も大きい。
桓武天皇は、淀川の長岡京へ遷都した。それにはある理由があった。長岡京には巨椋池(おぐらいけ)が存在していた。
長岡京の大きな巨椋池は、奈良盆地にあった湖とそっくりだった。湖は舟運の便が良い。小舟でどこへでも行けた。桓武天皇にとってこの巨椋池の風景は、故郷の奈良盆地の湖の原風景であった。
桓武天皇はこの湖の原風景に誘われて長岡京へ遷都した。
しかし、この長岡京は途方もない落とし穴で人々を待ち構えていた。
長岡京遷都の失敗
巨椋池には木津川、宇治川そして桂川が流れ込んでいた。巨椋池は水運の便は良かったが、三川の洪水が流れ込む大氾濫地帯であった。
長岡京へ遷都して以降、長岡京は何度も洪水に襲われた。そのため、桓武天皇はたった10年で、長岡京から京都へ遷都せざるを得なかった。(図―2)で、淀川三川と長岡京の位置を示す。
一人の天皇が二度も遷都するなど日本史上で例がない。遷都は今でいえば何百憶円という費用が掛かる。日本だけではない、世界史を見ても、権力者が別荘を造ることはあっても、二度も都を移したなど聞いたことがない。
歴史家は、長岡京から京都への遷都を人間模様で説明していく。しかし、インフラの観点から見れば、桓武天皇の二度目の遷都の理由は明らかである。
桓武天皇は長岡京で、治水上の失敗を犯したのであった。
二度目の遷都、京都へ
京都は長岡京より標高が30mほど高く、木津川、宇治川そして桂川の大洪水に襲われる心配はなかった。京都の北側には山々が連なり、沢が流れ下り、湧水があり、飲み水は潤沢に得られた。東には鴨川が流れ、宇治川に合流していた。
京都と巨椋池を結ぶ鴨川は、強力達が引き舟をすれば、物資を運ぶ水運として機能した。
この京都は地形的に安全で便利であった。しかし、それだけではなかった。京都への遷都は日本文明の誕生の決定的な礎となった。
京都は日本列島の地形の中心であった。京都は日本列島の東西南北を結ぶ交流軸の要であった。
朝廷が京都に移ったから、京都が日本列島の中心になったのではない。古代より京都は日本列島の地理的、地形的の中心であった。
日本列島の情報の中心:京都
古代から日本列島を歩き続けた人々にとって、地形が造った自然の旧街道があった。それらの旧街道は全て京都に集中していた。
日本海側の海岸に漂着した人々が、東に向って歩いていくと島根、鳥取、兵庫そして福知山を通ると自然に京都にたどり着いた。山陰道である。
九州から瀬戸内海の陸路を東に向かって、下関から広島、岡山、兵庫と行くと、兵庫から大坂には行かず大阪をかすめて、自然と京都にたどり着いた。山陽道である。
和歌山から北上すると大坂に着き、その大阪から淀川を遡ると、自然と京都に着いた。南海道である。
西から来る人々は、皆、京都に着いた。京都に集まった人々は東へ向かうと、逢坂を越えて大津に出た。
大津から琵琶湖湖岸を北に向かうと、日本海側の福井、石川、富山そして新潟へ繋がった。北陸道であった。
大津から陸路を東に進み関ヶ原を越えると、山岳ルートとなり岐阜、長野、群馬、栃木そして福島、宮城の東北へと繋がった。東山道であった。
大津から米原を過ぎて南へ向かうと、海岸沿いの東海道となった。海路で太平洋を行くと、房総半島に上陸し、陸路を北上すると茨城、栃木となり東北に向かった。
これらの古道は、京都が都になる遥か以前の古代から、日本列島を行き来する人々の歩いた道であった。
(図―3)が京都を中心として形成されていた古道の方向を示す。
かつての古道は、21世紀の日本の鉄道と道路の動脈にもなっている。
情報の中心
日本列島の主たる旧街道が、地形的に自然と京都に集まっていた。
凸レンズは散漫な光を集め、焦点で一点に集めていく。京都は3,500kmの日本列島を歩く人々を、一点に集める地形のレンズの焦点だった。
近代の明治になるまで、一千年間、京都は日本の都であり続けた。日本の歴史は揺れ動いたが、焦点の京都の都は不動であった。
「都」であるための条件を、一つだけあげる。その条件は「情報」である。都が都であり続けるためには、情報の中心でなければならない。京都はまさに日本列島の情報の集中点であった。
列島を歩く人々は京都に向い、京都で集まり、京都で会話し、情報を得た。その人々は情報を持って、全国に散らばっていった。
細長い列島の山と海と川で分断されて生きていた人々は、言語と情報を共有することとなった。同じ言語で、同じ情報を共有する人々は、同じ共同体である。
同じ共同体の人々は、共同体のアイデンティティーを醸成していく。
極東の海に浮かぶ細長い列島に住む人々「日本人」が誕生していった。
地形と言語と共同体
メソポタミア文明、インダス文明そして黄河文明は、広大で拡張的で、外へ外へと広がっていく。日本列島のように、歩いていると自然と一ヶ所に集まるという焦点の地形はなかった。
外へ拡張していく文明では、情報は拡散していく。情報が拡散すれば人々は、異なる情報を持つ。異なった情報を持つ人々は、隣の共同体との差別化のため異なる言葉を話し始め、異なった文字を作り出していく。そして、人々は異なった共同体を形成していく。
英国が抜けたEU連合は南北の距離は日本と同じ約3,500㎞である。そのEUには26ヶ国が参加している。そのEU議会において公用語は23言語もある。ヨーロッパの地形は拡散している。人々は拡散し、情報も拡散し、言語は分裂していった。
ユーラシア文明の言語と共同体は、止めどもなく分裂する運命にあった。
京都は日本列島の地形の中心であった。情報が集まり、ここから列島に情報が広がっていった。京都は日本の都となる運命を背負った土地であった。
桓武天皇は、長岡京の遷都で治水上の大失敗をした。
桓武天皇は、二度目の遷都で、日本列島で生きる人々の共同体・アイデンティティーを醸成する都の創出に成功した。
https://38news.jp/column/17867
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2023/07/22 (Sat) 13:29:28
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富雄丸山古墳はナガスネヒコの墓か?/ニギハヤヒを探せ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131871
もぎせかチャンネル
https://www.youtube.com/@maomao96363/videos
朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681
被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586
天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html
天皇はソウル出身の漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686
天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799
天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/234.html
天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html
神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798
邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007801
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html
神武って何した人?
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/238.html
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2023/10/05 (Thu) 14:01:04
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山の辺の道01 黒塚古墳と三角縁神獣鏡
もぎせかチャンネル
2018/05/10
https://www.youtube.com/watch?v=Eb2aQ08hXAM&t=8s
「卑弥呼の鏡」33枚が出土した謎の古墳です。
山の辺の道02 崇神(すじん)天皇陵
もぎせかチャンネル
2018/05/11
https://www.youtube.com/watch?v=9cXH8k8Utno
「はじめて国を治めた天皇」のお墓です。
山の辺の道03 景行天皇陵〜元伊勢・桧原(ひばら)神社
もぎせかチャンネル
2018/05/12
https://www.youtube.com/watch?v=HB-ABy8M__o
ヤマトタケル伝説と、放浪する八咫(やた)の鏡。
山の辺の道04 大神(おおみわ)神社
もぎせかチャンネル
2018/05/13
https://www.youtube.com/watch?v=yDs3TLCPcmQ
三輪山の神=オオモノヌシ とは何者なのか?
山の辺の道05 三輪山に登る
もぎせかチャンネル
2018/05/15
https://www.youtube.com/watch?v=1hjOXxAplbo
いよいよ聖域へ。
山の辺の道06 箸墓(はしはか)古墳と日本国家の起源
もぎせかチャンネル
2018/05/18
https://www.youtube.com/watch?v=5_V9ZtPhaUQ&t=25s
最初の巨大前方後円墳。これが卑弥呼の墓なのか?
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2024/02/29 (Thu) 06:00:47
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ゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ~神武東遷・邪馬台国・空白の四世紀
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2024/02/15
https://www.youtube.com/watch?v=iSlBLpHywTk
古墳時代に日本に大量の渡来人がやってきた~! DNAのゲノム解析からわかってきた 日本人のルーツ。古墳時代、渡来人が大量に日本にやってきた!縄文・弥生・古墳時代の歴史をどう読み解けばよいのか?皆さんにわかりやすくお話しします。また、銅鏡からわかることも併せて。久しぶりの古代史シリーズです^^
葛木御歳神社
邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4
葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/
葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1
葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。
古代の出雲と葛城と九州の関係~二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後~
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2
葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
出雲の国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
https://www.youtube.com/watch?v=XaXF-4jJYqc&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=3
後編では「出雲国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。
葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/videos
神社講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBpI_iRu3GEZul02S3SNKUz
祝詞 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBUriHXbpCFyYCWOI4sh3U4
全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ
葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO
古代史・神話解説 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z
葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1
葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。
古代の出雲と葛城と九州の関係~二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後~
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2
葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
出雲の国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
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後編では「出雲国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。
葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
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神社講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBpI_iRu3GEZul02S3SNKUz
祝詞 - YouTube
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全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ
葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO
古代史・神話解説 - YouTube
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荒神谷から出土した多量の銅剣の埋納年代と埋納された理由
荒神谷から358本の銅剣が出土して久しいのですが、それらの銅剣はいつごろ埋められたのか興味があります。現在最も支持されている埋納年代と埋納された理由を教えてください。
アンサー
1 埋納年代について
発掘した地層に炭化物が混じった焼土があり、鑑定でA.D.250± 80とA.D.1250± 80の年代測定結果が出ていますが、鎌倉時代はあり得ないので、前者であると結論付けています。
3世紀ですね。
※ 荒神谷遺跡発掘調査概報3(島根県教育委員会)参照
2 理由について
永らく不明でしたが、大国主が国譲りの際に恭順の儀式として武器を埋納したとの新説が出ています。(東北大学名誉教授:田中英道説)
発掘された銅剣のほとんどに✖印が、鋳造時ではなく、後から刻印されているのも、同じく理由不明でした。
これも廃棄して使用しないとの意味があると説明しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13278059.html
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9:777
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2024/05/18 (Sat) 03:00:05
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なぜヤマトを目指したのか? 地理的要件から読み解く~出雲・神武東遷
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel 2024/04/10
https://www.youtube.com/watch?v=q_28kH49xOA&t=3s
今回は、出雲の事代主神や阿遅鉏高日子根神がヤマト葛城に本拠地を移したのか?そして、神武天皇はなぜヤマトを目指したのか?について、地理的条件、水稲から紐解いてみたいと思います。久々の古代史シリーズです^^
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10:777
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2024/05/28 (Tue) 22:18:48
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【邪馬台国・ヤマト王権】水銀朱で栄えた王国だった!?【朱の起源】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】2024/05/25
https://www.youtube.com/watch?v=y5Opq5DL_ls
【動画目次】
00:00 オープニング
01:07 「辰砂」「水銀朱」とはなにか
04:11 「朱」の起源 縄文土器は真っ赤だった!?
06:33 「黥面文身「朱のペインティング」
卑弥呼は阿波にいたのか!?
11:16 不老長寿の霊薬!?水銀の魔力
14:07 ヤマト王権と「朱」の関係とは?
16:21 神武東征は水銀鉱山獲得の旅だった!?
▪️参考図書
『邪馬台国は「朱の王国」だった』(著:蒲池明弘/文藝春秋)
『赤の民俗学「丹」が解き明かす古代秘史』(著:戸矢学/河出書房新社)
『古代史の定説を疑う』(監修:瀧音能之・水谷千秋/宝島社)
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11:777
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2024/06/09 (Sun) 14:59:44
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古代の「鏡」「剣」「銅鐸」は神秘性を高める演出に使用された
2024.06.09
https://www.thutmosev.com/archives/79559874.html
金属は光を集めたり顔を写したり音を出すなど、劇的な効果を演出できた
青銅器は何に使われたのか
青銅器は銅や錫(すず)などの合金で作られた道具の事で現代では10円銅貨や銅像なども青銅の一種で2000年ほど前の弥生時代に日本に伝わってきました
作られたばかりの青銅は光り輝く黄金色でしたが地中で長い年月をかけて青緑色に変化し発掘されたものは見た目から青銅器と呼ばれています
弥生時代から古墳時代にかけての古代日本には謎が多いが、弥生遺跡などから出土する金属製品の意味も良く分かっていません
弥生時代の遺跡で特に多く出土してるのは「鏡」「剣」「銅鐸」の3つですが、どれも正確な使い道や意味は分かっていません
このうち剣は一見すると戦いのためのようですが、当時の青銅剣は柔らかくて切れ味も悪いので兵器としては使い物になりませんでした
青銅剣は見た目だけ強そうだが一回切りつけると折れるか曲がるかするような代物なので、大金を払って買うような価値はなかったのです
買うと言えば「鏡」「剣」「銅鐸」のような青銅器は、大陸から運んだか、完成品を輸入したのではなく原料を運んで国内製造したとみられています
いずれにしても大陸から運んだのですが、周や漢の王がタダで高価な青銅を日本の地方の王等にくれるはずがありません
日本側が交換品として差し出したのはおそらく水銀の原料となる辰砂(しんしゃ)で、当時は非常に貴重だったので同じ重さの金よりも高価でした
水銀は塗料や染め物の他、口紅や医薬品などに使われた当時の万能原料で、秦の始皇帝が求めた「不老不死の薬」も水銀の薬だったとされています
辰砂は大陸でも取れたが需要が非常に大きかったので、日本の瀬戸内海周辺から紀伊半島から大量に輸出されていました
邪馬台国や初期のヤマト政権はこの辰砂を大陸に輸出して、交換品として青銅や鉄や進んだ知識を手に入れていました
鏡は古代のスポットライト?
辰砂の最大の産地だった奈良県に藤原京や飛鳥京が建設され日本の中心地になったのも、辰砂よって得た富と無関係ではなかったでしょう
さてこうして手に入れた「鏡」「剣」「銅鐸」ですが、意外なことに見た目が美しいだけで実用的にはほぼ何の価値もないものでした
すでに書いたように青銅剣は一度叩いたらへし折れるので戦いに使えず、実戦では石斧か石槍を使用していた筈です
弥生時代は農業を巡る戦争の時代でしたが人々が本当に戦う時は青銅剣などではなく従来から在った実用的な石を使っていました
銅鐸は叩いて音を出して農作業の合図にしていたようですが、音を出す実用的な道具なら他にも手軽な方法はあったでしょう
銅鐸は豊作を願う農耕祭祀に使われたと考えられ、どんどん大型化して1メートルを超える大きさの銅鐸も作られるようになった
3つの中で最も意味不明なのは銅鏡で、紀元前2世紀頃に大陸からもたらされたが大陸では日本ほど鏡に執着せず、一か所で大量に出土しては居ません
銅鏡も祭祀などの儀式に使用していたと考えられるので、辰砂という当時最も価値の高い物を輸出してまったく価値の無い青銅を輸入した事になる
3つの青銅器ともに本当の役割は権力者の権威をより高める事や、宗教的な価値に基づいてい現代の儀式で金や宝石を用いるのに近いかも知れません
金属というそれまでになかった素材で作ったものを神器とすることで、天皇や神官や権力者の権威はより高まった筈です
実際にモノを切ることは出来なくても、青銅剣を持つことで神武天皇や卑弥呼には神秘的な力があるように見えた事でしょう
銅鐸を叩くことで発する音色は「神の音」のように聞こえ、銅鏡は新品時には人の顔が写るほど滑らかだった筈です
水面より鮮明に人の姿を写せる鏡は、鏡の奥が別な世界に通じているような神秘性を感じさせたはずです
さらに鏡は太陽の光を反射させ一か所に集める事で、スポットライトのような効果を得る事ができる
数十枚もの鏡を使って天皇や神官を明るく照らしたら、それを見た人々はこの世の物ではないように感じたでしょう。
https://www.thutmosev.com/archives/79559874.html