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琉球人は沖縄の先住民なのか?

1:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:03:59

琉球人は沖縄の先住民なのか?


日本人の遺伝子の 90% は朝鮮からの渡来人で、縄文系は僅か10%
琉球人の遺伝子の 30% は縄文系
アイヌ人の遺伝子の 70% は縄文系


縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万~4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


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現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが否定された、四川省の焼畑農耕民の可能性が高い
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm


現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm


現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系


韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2: 43.3% : 漢民族系
O1:30.0% : 長江系稲作民
C2: 11.3% : モンゴル・ツングース系


ハプロに付く*マークはその下のサブグループのうちのいずれかという意味であり、

D1a2a* の中に D1a2a2a は含まれる


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琉球列島のY-DNA遺伝子構成 rev.2
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

rev.1

  基本的に日本本土との違いは小さく地方差程度であることがわかりました。

  北琉球はほぼ本土と同じY-DNA頻度なので、間違いなく日本列島そのものです。
  ところが南琉球はShinka氏の報告通りなら、北琉球とは全く異なり実は先住縄文系に後発の弥生系が取って代わったことになります。
本土では、縄文系と弥生系は意外に棲み分けし、遺伝子頻度に影響するような深刻な殲滅戦はなかったと思われる遺伝子頻度なのですが、 南琉球は縄文系が僅か4%しか現代に残っていないという報告があることは、あまりにも狭い島内では遺伝子頻度に大きく影響する 戦いがあったということなのでしょう。

  今回の再調査で、2010年の論文が見つかりました。しかし知りたいことが半分しか触れられておらず当方にとっては 極めて中途半端な論文でした。 YAP+度やmt-DNAなどの情報から台湾の影響が南九州にはおよんでいなかったことを証明するための内容なのでY-DNA「D」 つまりYAP+度しか報告しておらず、 Y-DNA「O2」や「O3」の結果は全くないのです。読みながら全部調べろよ~~と文句を言っていました。 しかしこれで1つわかったことは沖縄本島と宮古島は遺伝子的にはほぼ同じであったことと、 石垣島はYAP+が九州並みに低いことでした。宮古島と石垣島の間に何かあるようです。

  もうひとつ前からあった情報が、添付の表の下の2行です。北琉球と南琉球に分けた遺伝子調査で出典がわからなかったのですが、 やっと見つけました。 ところがダウンロードできない学術誌の掲載なので、結局データの真偽はわからずじまいでした。 この情報では南琉球のY-DNA「O2b」度は67%と極めて高いのですが、 「O2b1」に進化した集団なのか韓半島から直接南下してきた「O2b」のまま進化しなかった集団なのかが全く分からないのです。 「破壊する創造者」的には主にY-DNA「D2」との遭遇で「O2b」から「O2b1」に西日本で進化したと欧米の研究者は考えています。 南琉球の「O2b」は一体どこから渡ってきたのか?本土からなら「O2b1」のはずですが、朝鮮半島から直接渡ってきたのなら 「O2b」のままのはずなのです。 これは大問題のはずなのですが、研究者はそのような捉え方はしないようです。困ったものです。

rev.2
  北琉球と南琉球問題で情報を集めたところ、4年前の記事ですが、琉球大学が中心になって調査した研究結果が、 宮古毎日新聞に紹介されていました(2014年9月18日(木) 9:00 )。 この結果はまさしくShinka氏の報告通りで、理由・原因はわかりませんが南琉球では南下してきた弥生系が縄文系を駆逐し 取って代わったことを示しました。 島の狭さと少ない耕作適地をめぐる確執があった可能性が大ですね。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

19-12. 石垣島で国内最古の全身人骨発掘

  関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。紹介するのは2017/5/21の朝日新聞の記事です。

沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。

  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。

  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。

Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。

  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。
  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。

  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。

  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。  この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。

  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。

  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル 呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから 南下してきたのかはまだわからないのです。

  新しい研究が進む事を期待します。


19-13. 石器晩期-縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ。

  今まで縄文人顔とされてきたのは典型的なY-DNA「D2」のジャガイモ顔です。 ところが16000~18000年前頃(旧石器時代最晩期から縄文時代草創期)のとされる港川人の顔は 最近の再調査で下記の記事のように完全にオーストラロイド顔と判明したそうです。 これはY-DNA「C1」はY-DNA「C2」100%の西ニューギニアのLani族(オーストラロイド)に似ていたはずだという 当ガラパゴス史観の意見と完全に一致します。 そして沿岸狩猟採集系遺伝子集団で、貝文土器など土器の製作集団だったのです。

  それでは2010年6月28日asahi.comの港川人の記事をご紹介します。
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  港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

  新しい研究をもとに、国立科学博物館が作り直した港川人の復元図(右図)


  左図は国立科学博物館に展示されている港川人の復元像。縄文人の祖先と考えられたので、日本人の雰囲気だ。 沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔立ちの復元図=写真上、 科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=から大きく変わり、 オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。

  上左図の縄文人は眠そうな目ですが、本来の「D」は左図のアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族のような ジャガイモ顔ですがパッチリした目の鋭い二重だったはずです。 そして本来の「C1」は右図の西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族のような奥目のいかつい彫深顔だったはずです。 どちらも今の日本人に時おり見かける顔です。 しかも当然のことながら古代遺伝子集団や先住民に特有の見事な鯨面です。これが大人のY-DNA「D2」縄文人と「C1」縄文人の オリジナルの顔の現代版なのです。 国立博物館の復元像は鯨面にした方が良かったですね。古代人の特徴をあらわすからです。

  港川人は1967~76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5~9体分の人骨と考えられ、 出土地層は約2万年前と推定されている。 全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない。 顔の彫りが深く、 手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、 縄文人の祖先は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合して 日本人が形成されたと考えられてきた。 科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、その一環として港川人を再調査してきた。

  CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、 そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。 現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。

  縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。 だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。

  これを正確に言うと、縄文男性は前述のように「D2」「C1a」と「C3a」の3亜型があり、全国に分布するのが圧倒的多数の「D2」、 日本列島部分を北上した「D2」と一緒に北上したため青森など北に多く分布するのが「C1a」、 ナウマン象など大型獣を追ってシベリアから朝鮮島経由で南下してきたため九州や西日本に多いのが「C3a」。 一方女性は民族性を持たないことや、Y-DNA「D」「C」が出アフリカ後移動途中のインド亜大陸や、 スンダランドや東シナ海-黄海ランドなどで巡り合ったmtDNA遺伝子の女性が集団に その都度新たに加わるためmtDNAの調査でも男性より種類がやや多い遺伝子構成になっています。

  新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。 港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。 その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、 港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。(渡辺延志)

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  その後、石垣島の白保竿根田原洞穴からこれまでの20000年前より更に古い国内最古の24000年前頃の人骨が発掘された、 というニュースがありました。
  旧石器時代の人骨として最も有名な港川人も沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)で見つかっており、 全て琉球列島の遺跡という驚くべきことですが、骨が残りやすい土壌のようです。

  縄文人(正しくは石器-縄文人)にはY-DNA遺伝子の3亜型があり、

・Y-DNA「D2」;現代日本人のY-DNAの実に41%を占め、小柄でジャガイモ顔で二重瞼の日本人の基盤です。

・Y-DNA「C1a」: 4%、小柄なオーストラロイド系海洋性ハンター、

・Y-DNA「C3a」; 3% ナウマン象を追ってきた大陸性ハンター

  縄文系は合計日本人男性の実に48%も占める田舎的な親切な日本人気質の源になった遺伝子です。 そして3亜型とも出アフリカ当時に近い古代性を残したシーラカンス遺伝子です。 田舎独特のホスピタリティはこの石器-縄文人から受け継ぐ古代気質です。 これらの遺伝子集団の草創期の遺跡は海面上昇後の大陸棚に大部分が沈んでおり草創期の文化の構築は難しいものがあります。 もし沿岸大陸棚の研究が進めば縄文時代の草創期は14000年前ごろとされる今よりもっと遡る可能性が極めて大なのです。

  50000年前ごろにはオーストラロイド(Y-DNA「C2」、「C4」)は既にスンダランドと海で分離していた サフール大陸(オーストラリア/ニューギニア大陸)に上陸していたことが明らかになっています。 渡海技術が50000年前ごろには既にあったのです。ということは、当然陸続きだった日本列島部分 に同じ頃に「C2」や「C」より古い古いY-DNA「C1」が住みついていたとしても至極当然のことでしょう。 ということは、「C」と行動を共にしていたとされる「D」も一緒に住み着いたはずです。といっても、 住みついたのは今は海面下に沈んだ120m下の大陸棚部分のはずですが。 つまり、50000年前頃には遅くても20000年前頃には日本列島部分にY-DNA「D」「C」は定住していた可能性は極めて大です。

  石垣島の白保竿根田原洞穴の20000年前~24000年前頃の旧石器時代人は「C1a」か「D2」のどちらでしょう。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4


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宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文 2021年11月12日

宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月
 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html

 
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ハプログループ D1a2a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/173.html

ハプログループC1a1 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/174.html

ハプログループ C2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/175.html

ハプログループ O1a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/200.html

ハプログループ O1b2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/176.html

ハプログループ O2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/177.html


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日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

0-1. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-1.htm

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

2-3. 日本民族mtDNAハプロタイプ頻度リスト
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-3.htm

1-3. 日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-3.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

1-8. 縄文遺伝子近縁度調査 Y-DNA「D」とY-DNA「C」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-8,30-11,30-12,19-14.htm#1-8

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

0-3. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-3,19-8,30-31.htm#0-3

30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-2,30-23,30-24,30-25.htm#30-23


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高宮広土「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第5節: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201407/article_1.html

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html
2:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:05:09

雑記帳 2020年12月07日
琉球諸島への人類最初の航海
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_9.html
 琉球諸島への人類最初の航海に関する研究(Kaifu et al., 2020)が公表されました。人類史において渡海は100万年以上前から行なわれていましたが、明らかな航海が確認されているのは、現時点では現生人類(Homo sapiens)だけです(関連記事)。現生人類の航海の最古の証拠となりそうなのは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる5万年前頃のサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散です。MIS3には、西太平洋における別の航海の証拠も確認されています。それは琉球諸島で、35000年前頃までさかのぼります。琉球列島の近くの海域には南方からの黒潮があり、これは世界でも有数の規模と速さを有しています。そのため、人類が琉球諸島へ黒潮により偶然漂着した可能性も指摘されています。

 そこで本論文は、黒潮により人類が南方、その中でも可能性が高い台湾から琉球諸島へ到達した可能性があるのか、1989~2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した、138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査しました。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮により北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20km以内に入っていました。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流しましたが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみで、これは台風の影響によるものでした。

 問題となるのは、現代よりも気温が低かったMIS3には、海面が現在より低く、地形が現在とは違うことです。海面変動の影響を調査した研究には違いも見られますが、本論文は、さまざまな調査結果を考慮して、黒潮の流れは過去10万年間、少なくとも東シナ海の入口では変わっておらず、その北方でも同様だっただろう、と推測します。ただ本論文は、黒潮の強度に関しては、過去と現在とで異なっている可能性も、異なっていない可能性もある、と指摘します。これらの知見から本論文は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率は低い、と推測します。つまり、35000年前頃に人類が琉球諸島へと到達するには、黒潮を意図的にわたった可能性が高い、というわけです。また本論文は、台湾から琉球諸島へ到達した人々が、故地に戻って来た可能性も指摘します。

 本論文の見解は興味深いものの、過去の地形と黒潮や風の影響に関しては今後さらに調査が進み、検証されていく必要があるとは思います。琉球諸島への人類最初の移住に関しては、形態やミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究が進められています(関連記事)。そうした研究では、更新世における琉球諸島最初期の人類は南方から到来し、現代人も含めて完新世人類集団とのつながりは明確ではないというか、どちらかというと否定的に考えられているようです。

 おそらく、琉球諸島最初の人類は、現代人ではアンダマン諸島集団、更新世~完新世の人類ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団と近縁な集団(ユーラシア東部南方系統)だったのでしょう。あるいは、オーストロネシア語族集団の主要な祖先となったアジア東部南方系統か、両者の混合系統だったかもしれません。この琉球諸島最初の人類集団と現代人との関係については、更新世琉球列島の人類の核ゲノムデータが得られるまで、断定を避けておくのが妥当だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:旧石器時代に、水平線の彼方の琉球諸島へ船出した現生人類

 現生人類は、航海に出た時点で琉球諸島は見えていなかったにもかかわらず、意図的に海を渡って琉球諸島に移住したと考えられることを示した論文が、Scientific Reports に掲載される。

 人類は、旧石器時代(3万5000~3万年前)に台湾東部から海を渡って琉球諸島に移住したと考えられている。しかし、琉球諸島にたどり着いたのは黒潮による偶発的な漂流の結果なのか、計画的な船旅だったのかが明らかになっていなかった。黒潮は、フィリピンのルソン島沖から台湾沖を経由して日本へ流れ込んでいる。

 今回、東京大学の海部陽介(かいふ・ようすけ)たちの研究チームは、黒潮による偶発的な漂流によって人類が琉球諸島に到達した確率を調べるため、1989〜2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査した。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮によって北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20キロメートル以内に入っていた。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流したが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみであり、これは台風の影響によるものだった。黒潮の流れは10万年前から変わっていないと考えられていることから、今回の研究結果は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率が低いことを示している。以上の知見は、約3万5000年前に人類が琉球諸島に移住するために、世界で最も強い海流の1つである黒潮を意図的に横切ったことを示唆している。

 琉球諸島の中で台湾東部に最も近い与那国島は、台湾の海沿いの山々から時々しか見ることができない。海部らは、人類が、船旅の後半になって初めて視野に入ってくるような島々に向かって航海したと考えている。


参考文献:
Kaifu Y. et al.(2020): Palaeolithic voyage for invisible islands beyond the horizon. Scientific Reports, 10, 19785.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-76831-7


https://sicambre.at.webry.info/202012/article_9.html
3:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:05:36

2021年06月15日
港川人のミトコンドリアDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html
 港川人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Mizuno et al., 2021)が報道されました。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸と太平洋とフィリピン海プレートの境界に位置する日本列島は、1500万年前頃までにアジア大陸から分離して形成されました。考古学的証拠からは、4万~3万年前頃に日本列島に最初の人々が出現した、と示唆されます(関連記事)。旧石器時代後の日本列島の先史時代は、一般的に対照的な時代である縄文時代と弥生時代に区分されます。縄文時代は1万年以上続き、狩猟採集民の生計により特徴づけられます。

 一方、弥生時代は水田稲作農耕により特徴づけられます。稲作はアジア本土からの移民により日本列島にもたらされた、農耕移民は日本列島に弥生時代以降に到来した、と考えられています。19世紀半ば以降、現代日本人の人口史に関していくつかの仮説が提案されてきましたが、現在一般的に受け入れられている見解は、現代日本人が少なくとも2つの祖先系統(祖先系譜、ancestry)から構成され、一方はアジア南東部起源の「縄文人」、もう一方はアジア北東部起源の「弥生人」である、というものですが、旧石器時代人に関してはほとんど知られていません(関連記事)。

 日本列島は火山灰の酸性土壌に広く覆われており、古代DNA研究は困難です。本論文は、日本列島における旧石器時代人のミトコンドリアゲノム配列を初めて報告し、旧石器時代と縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々の完全なミトコンドリアゲノム配列を用いて日本列島の人口動態を調べ、ハプログループ多様性の観点から、母系遺伝子プールにおける連続性を明らかにします。日本列島の2000個体以上を用いての人口統計分析を通じて、狩猟採集から農耕への文化的変化における劇的な人口爆発が観察されます。これは、温度が短期間で急激に変化したことで知られている時期です。最終氷期(LGP)から完新世の移行期において、ヤンガードライアスとして知られる氷期への一時的な揺り戻しもありました。この急速な気候変化は、大型動物の広範な絶滅と強く関連していることが示されています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Mは、現代のアジア人口集団において高頻度で観察されますが、現代のヨーロッパ人口集団では見られません。しかし、最終氷期前となる後期更新世のヨーロッパの人類遺骸では、複数の個体がmtHg-Mに分類されています(関連記事)。これは、母系遺伝子プールにおける劇的な変化を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。完全なミトコンドリアゲノム配列を得ることにより、旧石器時代とその後の狩猟採集の縄文時代および農耕の弥生時代の人々における遺伝的関係が調べられ、さらには現代日本人集団の過去の人口史が明らかになります。現代アジアの人口集団では見られないmtHgが見つかった場合、ヨーロッパで観察されたように、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性があります。しかし、現代アジアの人口集団で見られるmtDNAと密接に関連する配列のmtDNAが見つかった場合、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性は低くなり、つまりは人口集団の連続性が示されます。


●旧石器時代の人類遺骸のミトコンドリアゲノム

 本論文は、おそらく日本列島最初の人類の直接的子孫であろう、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号の完全なミトコンドリアゲノム配列結果を報告します。港川1号の発見場所は、以下の本論文の図1で示されています(図1の1)。
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 港川1号のミトコンドリアゲノム配列の平均深度は52倍で、mtHg-Mに分類されましたが、既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換は見つかりませんでした。mtHg-Mは、現代のアジア人とオーストラリア先住民とアメリカ大陸先住民で高頻度です。港川1号で見られるmtHg-Mの祖先型の配列は、本論文で新たに決定された現代日本人2062標本、既知の現代日本人672標本、中国の漢人21668標本(関連記事)では見つかりませんでした。以下の図2では、日本列島の古代人18個体と現代人171個体のミトコンドリアゲノムのベイズ系統樹が示されています。
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 以下の図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
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 これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。同様の事例はアジア本土で報告されており、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)は、4ヶ所のシングルトン(固有変異)を有する祖先型のmtHg-Bと報告されています。つまり、現代人のmtHg-Bの共通祖先というわけです。

 地球規模の気候変動のため、旧石器時代の最終氷期は生存困難な時期と考えられており、遺伝子プールの変化は世界中のさまざまな人口集団で起きる、と予測されています。しかし、港川1号と田園個体を含む系統発生ネットワークの結果(図4a・b)から示唆されるのは、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、ということです。なぜならば、港川1号と田園個体が母系ではアジア東部現代人の祖先集団に属するからです。以下、本論文の図4aおよび図4bです。
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●縄文時代狩猟採集民のミトコンドリアゲノム

 さらに、8300~3700年前頃の縄文時代6遺跡の10個体(図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は11~1577倍)。縄文時代の個体は全て、系統発生ネットワークと系統樹とMDSプロットにおいて現代日本人と同じクラスタに収まりました(図2・3・4)。これは、日本列島における縄文時代から現代までの人口集団の継続性を示し、旧石器時代から新石器時代の日本列島の人類集団における母系遺伝子プールでは劇的な変化がなかったことを意味します。この結果は、本論文の縄文時代個体のほとんどがmtHg-MもしくはNに分類され、その多くは下位区分ではmtHg-M7aもしくはN9bとなることも示します。これは、PCRに基づく以前の結果と一致します。mtHg-M7aとN9bはともに現代日本人でも見られ、その割合は、mtHg-M7aが7.9%、mtHg-N9bが1.3%です。


●弥生時代農耕民のミトコンドリアゲノム

 弥生時代の人類遺骸4個体(佐賀県神埼町の花浦遺跡と山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡から2個体ずつ、図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は13~5891倍)。弥生時代は、移民が日本列島にもたらした水田稲作農耕生活様式により始まりました。弥生時代の4個体はmtHg-D4に分類されました。mtHg-D4は現代日本人では最も一般的で(34.3%)、アジア東部全域でも一般的です(関連記事)。

 縄文時代の個体群と同様に、弥生時代の個体は全員、系統発生ネットワークとMDSとベイズおよび近隣結合系統樹のクラスタのいずれかに収まり、そのクラスタは現代日本人とともに構築されますが、縄文時代と弥生時代の個体群はそれぞれに特徴的なmtHgの下位区分を有します(図2・3・4)。港川1号と縄文時代の標本群の結果を組み合わせると、日本列島では後期更新世から現代の人口集団で少なくともある程度の連続性がある、と示されます。


●過去の人口動態傾向の推定

 本論文の結果は、旧石器時代に始まり狩猟採集の縄文時代と農耕の弥生時代を通じて1万年以上にわたり、日本列島の人々の遺伝的多様性の全てを飲み込み、現代日本人の遺伝子プールが確立されてきたことを示します。現代日本人2062個体を用いてのベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析では、45000~35000年前頃と15000~12000年前頃と3000年前頃となる、3回の大きな人口増加が明らかになりました(図5)。これらはそれぞれ、後期更新世における気温上昇、アジア東部における農耕の始まり、弥生時代の開始と対応しています。

 アジア東部に関する最近の研究(関連記事)では、現代中国の漢人21668個体のミトコンドリアゲノム配列から人口史が推測され、最終氷期末に向かって45000~35000年前頃に人口が増加し、その後、別のより急速な人口増加が15000~12000年前頃に起きた、と推測されています。本論文の分析で示された最初の2回の人口増加は、現代の日本と中国(漢人)の人口集団で共通していますが、3番目の人口増加は現代日本人に特有です。この3番目の人口増加は弥生時代開始後に起きており、現代日本人の人口規模に大きく寄与しました。

 この知見と組み合わせると、現代日本の人口集団で見られる最初の2回の人口増加は、おもに弥生時代以降に農耕民が日本列島へと移住してくる前に起きた人口増加を反映しているはずです。容易に予測できますが、水田稲作農耕を日本列島にもたらした弥生時代以降の移民は、日本列島における人口およびその構造に大きな影響を及ぼしたはずです。2800年前頃もしくは4200年前頃に起きた完新世の気候変動が朝鮮半島の人口集団に影響を及ぼし、日本列島への移住を促進した、と示唆されています。

 その後のさらなる人口増加は、日本列島への鉄器導入と関連している可能性があり、鉄器導入はより効率的な水田稲作農耕とより安定した食料供給を可能としました。得られた全ての知見を踏まえると、本論文の結果から、現代日本の人口集団の遺伝的構成は、弥生時代の農耕民の移住事象と、その後のアジア本土からの複数の移住により作られた、と示されます。しかし、現代日本の人口構造への縄文時代の人々の寄与は無視できません。

 本論文が示すのは、mtHg多様性の観点から、旧石器時代の日本列島への最初の移住の波以来、母系遺伝子プールにおける連続性があったことと、現代日本人の祖先は3回の大きな人口増加を経たものの、最初の2回はおもにアジア本土で起きた、ということです。3番目の人口増加は比較的短期間で起きた急激なもので、縄文時代狩猟採集民の遺伝子プールは、弥生時代に農耕をもたらした移民の到来と、それに続く人口爆発の後でさえ生き残ってきました。以下は本論文の図5です。
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 弥生時代の移住後の各段階で、縄文時代からの在来狩猟採集民と日本列島に移住してきた農耕民が混合したのかどうか、もしそうならば、どのようなものだったのか、といったヨーロッパでは明らかになりつつあるような(関連記事1および関連記事2)重要問題は未解決です。本論文にはミトコンドリアゲノムのみが含まれており、その標本数は限定的です。したがって、より明確な結論に到達するには、古代人のより多くのゲノム情報を明らかにする必要があり、そうすれば、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代の農耕民との間の友好的関係の存在に関するより明確な証拠を得られます。他の旧石器時代の人類遺骸のさらなるミトコンドリアゲノム調査と港川1号の核ゲノム分析は、日本列島の人口史解明のためのより多くの手がかりと詳細を与えてくれるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、日本列島の旧石器時代の人類遺骸では初となるDNA解析結果を報告しており、たいへん意義深いと思います。港川1号はmtHg-Mで、Mの基底部近くに位置します。mtHg-Mはユーラシア西部現代人には基本的に見られず、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸(先住民)の現代人にのみ存在します。本論文は、この新たな知見から、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、と指摘します。確かに、更新世には存在したmtHg-Mがその後消滅したヨーロッパと比較すると、日本列島、さらにはアジア東部では母系遺伝子プールにおける劇的な変化は起きなかった、と評価できるかもしれません。

 しかし、本論文が示すように、港川1号のmtHg-Mは本論文で取り上げられた古代人および現代人のmtHgとは直接的に関連しておらず、消滅したようです(今後現代人で見つかる可能性は皆無ではありませんが)。さらに、43000年以上前のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類のmtHgでは、Nの基底部近くに位置したり、Nの下位区分であるRに区分されるものも確認されています(関連記事)。また、44000年前頃と推定されるチェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された現生人類女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のmtHgはNで、基底部近くに位置します(関連記事)。

 確かに、ヨーロッパでは後期更新世の最初期現生人類に存在したmtHg-Mがその後消滅しましたが、一方で最初期現生人類においてmtHg-Nも確認されています。本論文の基準に従えば、ヨーロッパでも後期更新世からの母系遺伝子プールの連続性が確認される、と評価できるのではないか、との疑問が残ります。ヨーロッパの最初期現生人類ではmtHg-Mしか確認されていないのだとしたら、ヨーロッパの現生人類における母系遺伝子プールの劇的な変化との評価も妥当だとは思いますが。

 そもそも、本論文も指摘するように、遺伝的連続性の評価も含めて人口史の解明には、核ゲノムデータが必要になると思います。本論文は、田園個体もアジア東部における母系遺伝子プールの連続性の証拠としますが、田園個体的な遺伝的構成の集団は、北京近郊だけではなくアムール川地域からモンゴルまで4万~3万年前頃にはアジア東部において広範に存在した可能性があるものの、現代人には遺伝的影響を残しておらず、3万~2万年前頃に異なる遺伝的構成の集団に置換された、と指摘されています(関連記事)。

 ヨーロッパでも、ズラティクン的な遺伝的構成は、どの現代人集団とも近縁ではなく、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています。バチョキロ洞窟個体群は、ヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に近縁ですが、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています(関連記事)。mtHg-L3から派生した、MやNといった大きな基準では、母系遺伝子プールに限定したとしても、遺伝的連続性を評価するのはあまり適切ではないように思います。

 これら最近の古代ゲノム研究から示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散した後、アフリカ外の各地域で初期に出現した集団がそのまま同地域の現代人集団の祖先になったとは限らない、ということです(関連記事)。これは現時点では、ヨーロッパとアジア東部大陸部だけで明確に示されていると言えるかもしれませんが、他地域にも当てはまる可能性は低くないように思います。日本列島も例外ではなく、後期更新世の最初期現生人類集団が、縄文時代、さらには現代まで遺伝的影響を残しているとは、現時点ではとても断定できません。本論文も指摘するように、日本列島は動物遺骸の保存に適していないので、更新世の人類遺骸はほとんど見つかっておらず、古代DNA研究での解明は絶望的かもしれませんが、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(関連記事)が進めば、日本列島における人口史の解明は劇的に進展するかもしれない、と期待しています。

 現時点では、港川1号の日本列島、さらにはアジア東部の人口史における位置づけは困難ですが、本論文とアジア東部の古代ゲノム研究の進展(関連記事)を踏まえてあえて推測すると、港川1号も含まれる港川フィッシャー遺跡集団は、古代人ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団、現代人ではアンダマン諸島人と遺伝的に近いかもしれません。これらの集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されています。これに対して、アジア東部現代人はおもにユーラシア東部内陸部祖先系統で構成されています。ユーラシア東部内陸部祖先系統は北方系統と南方系統に分岐し、アジア東部でより強い影響を有するのは北方系統で、オーストロネシア語族集団では南方系統の影響が強い、とモデル化されています。

 縄文時代個体群は、ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)とユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)の混合とモデル化されています。港川フィッシャー遺跡集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されているか、ユーラシア東部内陸部南方祖先系統との混合集団で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないものの、縄文時代個体群の直接的祖先とは遺伝的に近縁かもしれません。もちろん、これは特定の研究のモデル化に依拠した推測にすぎないので、今後の研究の進展により、さらに実際の人口史に近いモデル化が可能になるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html
4:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:08:50

雑記帳
2022年04月23日
村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html

https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E7%90%89%E7%90%83-%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%BB%8B/dp/4047035793

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。「古琉球」とは伊波普猷の造語で、1609年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に薩摩藩に征服される以前の琉球を指します。古琉球の時代には、琉球は日本の国家領域外にありました。本書は琉球語を採用して、前近代の「日本」を「ヤマト」と呼びます。琉球はアジアの南東部と東部をつなぐ海の道の結節点に位置しており、アジア東方海域の歴史において重要な役割を果たしましたが、継続的に推移が追えるようになるのは、紀元後14世紀(以下、紀元後の場合は省略します)半ばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山と山南と山北)が明との間に朝貢・回賜の関係を結んでからです。明が倭寇対策として施行した「海禁」により海外、とくにアジア南東部産品を入手する経路が閉ざされたため、琉球はその窓口に位置づけられ、交易活動により繁栄しました。一方、その頃の琉球は言語など文化面で距離が近いヤマトとの関係は深くなく、「中央政府」である室町幕府より、島津など西日本の大名や、倭寇勢力の構成員である商人や武士、琉球とヤマトを往復した僧侶などと交渉が盛んでした。15世紀後半になると、ヤマトや明やヨーロッパの海上勢力が競争者として現れ、繁栄の基盤が掘り崩されるようになった琉球は、相対的にヤマトとの関係の比重が高まります。とくに重要だったのが薩摩の島津との関係で、その帰結が1609年の薩摩藩による琉球征服でした。古琉球は、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する世界でした。

 琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代~平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期~室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。

 琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。

 琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。


 本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。

 琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。

 その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。

 しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。

https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html
5:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:09:30

2018年11月3日
九州語と琉球語からなる「南日本語派」は成立するか?:共通改新としての九州・琉球同源語に焦点を置いた系統樹構築
五十嵐 陽介

本土日本語(日本本土の諸言語)と琉球諸語(琉球列島の諸言語)に関する比較言語学的研究によると,本土日本語と琉球諸語は日琉祖語(Proto-Japonic)を共通祖先とする姉妹言語であるという。

この通説に従えば,日琉語族(Japonic language family)は「(本土)日本語派」と「琉球語派」という2大系統群から構成されることになる。

しかしながら,日本列島の諸言語の系統分類に関する従来の研究は,以下の2つの問いに対して満足のいく答えを与えていない。第1に,日本本土のすべての言語を含み,かつ,日本本土の言語のみからなる「日本語派」なる単系統群は果たして本当に存在するのだろうか?第2に,日本本土の一部の諸言語(特に九州の諸言語)と琉球列島のすべての言語からなる単系統群は成立しないのだろうか?

周知のように,系統関係のある諸言語を下位分類する際の唯一の基準は,共通の改新(shared innovation)である。もし琉球列島のすべての言語が共有する一連の言語改新を,九州の諸言語が共有しているのならば,日本本土のすべての言語を子孫に持つ「日本語派」なる単系統群の存在は否定され,九州の諸言語と琉球諸語のみからなる単系統群「南日本語派」が定義される。

本発表では,

1) 日本本土のすべての言語が共有するとみなされてきた言語改新を九州の言語の一部が共有していない事実を確認するとともに,

2) 琉球諸語と九州の諸言語のみが共有する同源語が相当数存在することを指摘し,

3) その少なくとも一部は日琉祖語から継承されてきた特徴の残存(shared retention)ではなく,共通改新であるとみなすに足る根拠があることを示し,

4) この事実に基づいて,九州の諸言語と琉球諸語のみからなる単系統群「南日本語派」を提案する。

また,九州と琉球とが共有する言語特徴の分布には含意階層(特徴Aの分布が特徴Bの分布を完全に含む関係)が認められ,それに基づくと,南日本語諸語の話者集団が,北部九州から南部九州を経て琉球列島へと拡散してゆく過程が再建されることを示す。
https://researchmap.jp/yos_igarashi/presentations/5035335
6:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:15:28

琉球国王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B


琉球国王は、1872年(清: 同治11年、日本: 明治5年)まで沖縄県に存在した琉球王国の君主及びその外交称号であり、明及び清に貿易上の理由から朝貢した際に授けられた封号もそれに含まれる。琉球国内では御主と呼ばれた。外交上、ならびに正式名称は琉球國中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。

本項目では、琉球王国成立(1429年)より以前に琉球に君臨し、または君臨したとされる王統についても併記する


一般に王または王号は、由来が諸説あるため、明確な起源は明らかではない。琉球国王の場合にも、その王または王号の起源の一つが、明に貿易上の理由から朝貢して冊封を受けてからと言われているが、文献ではそれ以前の時代の王についての記載もある。明時代には、1404年(明: 永楽2年)2月、察度王統の二代・武寧(1356年 - 1406年)の時、明の永楽帝が冊封使を派遣し、武寧を中山王(ちゅうざん おう)に冊封した。これが琉球最初の冊封である。武寧の父・察度が1372年(明: 洪武5年)に初めて朝貢した際、冊封を受けたとの説もあるが、琉球側の史書『球陽』および中国側の史書『明実録』を見る限り、皇帝から様々な品物を下賜されたとの記述はあるが、冊封を受けた、もしくは王爵を授与したとの記述は見あたらない。武寧王が冊封を受けた2ヶ月後の同年4月には、山南(南山)王国の汪応祖も冊封を受けて、山南王に封じられた。

後世の史書では、察度王統以前にあったといわれる舜天王統や英祖王統の歴代君主にも王号が用いられている。これは史書編纂の折などに王に相当する人物という意味であり、実際には、某按司を王とみなしたとの記載であるという意見もある。


琉球国王

天孫氏王統

『中山世鑑』によれば、琉球最初の王統は天孫氏王統(天孫王統)であったと伝えられる。天帝の使として下界に降った女神アマミキヨは三男二女をなし、長子及びその子孫が歴代の国王になったという。天帝の子孫にあたることから天孫氏と呼ばれる。

天孫氏は25代17802年にわたって続いたが、最後の王(思次良金あるいは思金松兼王という。『椿説弓張月』には尚寧王)が重臣の利勇に殺されて断絶し、その利勇もやがて舜天に誅殺された。実在したかどうかについては神話・伝説の域を出ない。

舜天王統

源為朝の落胤とも伝えられる舜天の立てた王統が舜天王統である。 琉球王国の正史『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる[1]。

この王統も伝説的な意味合いの強い王統だと考えられる。


真偽は不明だが、舜天王統は正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。

日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている

(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)


なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B
7:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:16:16

琉球民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F

いわゆる琉球民族の先住地は、現在の沖縄県全域と鹿児島県の奄美群島であり、言語学的に琉球諸語と総称される言語の分布とほぼ一致する。

歴史的には沖縄県は琉球王国の領域を踏襲しており、奄美群島は、尚徳王による制圧(1466年)から薩摩藩への割譲(1613年)まで琉球王国による支配を経験している。


琉球王国領域の言葉は言語学的に日本語であるが、独自の琉球語であると主張する者もあり、その場合でも日本語と共に日本語族に属する。一般的には琉球方言とする主張が多く、それ以外の日本語を本土方言と分類し両者をあわせて日本語とする見解が主流である。どちらの主張でもこの地域の言葉は日本の言語を構成する二大要素といえる。

琉球諸島の言語も相互での意思疎通が困難なほど地域差が大きく、諸言語の集合と捉えることもある。ただし、エスノローグでは喜界語、北奄美大島語、南奄美大島語、徳之島語、沖永良部語、与論語、国頭語、中央沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語として分類し、それぞれを別言語とみなしている。


いわゆる琉球民族はアマミキヨとシネリキヨという女男2柱の祖先神をもち、これをもって日本神話とは神話体系が異なるとし、民族としての文化面の大きな相違点だと主張する者もいるが、日本神話における国産みや神産みのイザナギ・イザナミという夫婦神、アマテラスとスサノオという姉弟神との共通点・類似点も多く、こちらも多くの議論の対象となっている。


遺伝的系統

九州以北の本土の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。

また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の日本本土住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究から中国や台湾の集団とはかなり離れていることが判明している。

九州以北の日本本土住民との近縁性と共にそれを介して北海道のアイヌ民族との近縁性も指摘されている。

父系遺伝子Y染色体ハプログループD1a2を持つのは世界で本土日本、アイヌ民族、沖縄だけであり、お隣の台湾や中国、韓国には全く見られない。むしろ中国、台湾とは非常に離れている。

世界的にも珍しいY染色体ハプログループD1a2系統を日本人では30%~40%、アイヌでは90%、沖縄本島では50%もの人が所持しており、日本本土との関係は切っても切り離せない。

高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるために、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[9]するように、考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測され、それまで居住していた奄美・沖縄諸島と先島諸島の2グループの先住民に取って代わったと考えられている。これらのことから九州以北とは遺伝的・人類学的にみても明瞭な境界線を引くことは難しい。


政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(沖縄県民を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる[10][11])。


2008年に理化学研究所ゲノム医科学研究センターが、日本全国(含沖縄県、除中国四国地方)7000人のゲノム中にある14万箇所の一塩基多型を統計的に解析したところ、ゲノムの特徴の点で7000人分の標本は「本土クラスタ」と「琉球クラスタ」に明確に分かれることがわかった[12]。

特に3番染色体の組織適合抗原(HLA)の遺伝子に大きなちがいがみられ、ゲノム医科学研究センターは、その違いの原因が両人類集団のいずれかが過去に経験した何らかの感染症の有無ではないかと推測した[12]。

さらに2012年ごろには、日本列島人類集団遺伝学コンソーシアムが、北海道平取町在住、沖縄在住、東京在住、北京在住の漢族、イバダン在住のヨルバ族、ユタ州在住の西欧系といった複数の人類集団にそれぞれ属する人々のゲノム、100万箇所の一塩基多型を統計的に解析したところ、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された[13]。

また、本土人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)は、現在の東アジア大陸部の主要な30の人類集団とは異なる遺伝的構成であることも示された[13]。

琉球弧を含む日本列島人のルーツを説明する仮説としては、ベルツなどが提唱した「もともと縄文系の人々が住んでいたところに、弥生人が後から大陸経由でやってきたが、沖縄や北海道(アイヌ)の人々は本土の人々とあまり交流がなかったために異なる集団となった」とする二重構造説が存在するが、21世紀前半に比較的新しい研究手法を用いてなされた研究によるこれらの結果も、二重構造説と矛盾しない[12][13]。

2014年9月17日、琉球大学大学院の研究グループが、琉球列島(沖縄本島だけでなく、八重山・宮古地方も含む)の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来する事がわかったとモレキュラーバイオロジーアンドエボリューション(英語版)に発表した[14]。

また、いわゆる琉球民族にはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる[15]。

2018年に国立遺伝学研究所が発表した核DNA分析における遺伝子研究による民族の遺伝的分布において、アイヌ・本土・沖縄は共に父系を縄文人に持つ同一円内と判明し、他の東アジアとは別種であることが確認された[16]。

琉同祖論

九州以北とその起源を同じくする、同一民族の支族であるとする考えを日琉同祖論という。いわゆる琉球民族論にとっては対論と看做せる論であり、沖縄県における日本復帰運動では思想の根幹となった。

歴史的にはいわゆる琉球民族論よりもはるかに古いが、1609年の薩摩侵入を経て、実質その支配下において書かれた史書などを出所としており、この説には薩摩の意向が反映されている疑いを排除できないと否定する者もある。 

しかし、中国の歴史書である「隋書」において、607年に煬帝は朱寛を琉球を送り込んだ際に、「琉球人とは全く言葉が通じず、朝貢を拒んだ」と報告がある一方、日本書紀には616年から少なくとも5回は琉球からの自発的な朝貢が記録されており、続日本紀では698年から少なくとも4回は朝貢した琉球人に位階を授けた記録が残っており、これを証明するかように「大和船で大極殿に上り、瓦や手土産を買った」という歌が『おもろさうし』に掲載されている。

これをもって古代琉球人は少なくとも中国よりも日本に対して帰属意識があったと見ることが可能である。

薩摩支配下での琉球王国で正史とされる『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。

真偽は不明だが、薩摩支配下の琉球では正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

摂政羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[17]。

17世紀、羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』においてこの説は展開された。明治以降も沖縄県の一部の文化人らの間で展開された論であり、伊波普猷の沖縄学もその流れにある。

瀬長亀次郎は、返還運動のさなか、その著作として、民族三部作の一つ『民族の悲劇』をあらわしているが、そこでの「民族」は明らかに日本民族であって、沖縄県民を異民族支配の下に置かれた日本民族の一部と表現している[18]のも、同じ流れにあると言えよう。沖縄返還後は沖縄県の独自性たる芸能の保護などについても運動しているが、ここでも彼は、沖縄県の芸能は「日本の宝」と表現した[19]。

民俗学

初期の民俗学者は南西諸島の文化について九州以北との近縁性をとらえ失われた習俗などが残されているとして重視していた。

柳田國男は『海上の道』で黒潮の流れから着想を得て沖縄県との類縁を論じ、その弟子の折口信夫もまれびと論・他界観で沖縄県周辺の宗教から多くの論拠を引いている(『古代研究I』[20]など)。

昔からあった日琉同祖論の影響もあろうが、地に足の着いた現地研究の成果も見逃せない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F
8:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:16:45

縄文時代の沖縄は、縄文文化ではなかった? 2009-04-23
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8d567d1420c1ad5ccb5965c173e2ac03
先日の新聞にあった記事です。

沖縄の文化は縄文時代と弥生時代という分け方はしないで、そのころの古い時代を「沖縄の先史時代」と言うそうです。

縄文時代にあたる時代を「貝塚時代前期」、弥生時代にあたる時代を「貝塚時代後期」と言うそうです。

縄文土器などが出土しないので、沖縄に縄文時代があったかどうかは意見が分かれるところのようです。

貝塚が多く出土するので、縄文時代の人々の血を引くと思われる人々は「先史時代の貝塚人」と言われます。


沖縄で稲作がはっきり始められたのは12世紀になってからであるということで、弥生文化の影響は受けることが少なかったと言われています。

しかしだからと言って、そこにいた人々が「縄文人」であったということは確定していなくて、「縄文人」の子孫であろう、と考えられているわけです。


「港川人」という18000年前の人骨が発見、確認されていますが、その後稲作がはじまる12世紀まで、誰がなにをしていたのか、あまり判然としないようです。

「先史時代」と呼ばれるその期間について研究がされているようですが、まだまだ謎は解けないようです。


沖縄本島には日本本土より古い文化が残されており、先島(さきしま)諸島(宮古・八重山諸島)には沖縄本島より古い文化が残されており、、となり、先島諸島の文化の研究が待たれているようです。

以下読売オンラインから転載します。


       *****


「先史沖縄人、縄文人と一線 より小顔傾向・食は魚介類中心」


 沖縄諸島で11~12世紀まで狩猟・採集文化(沖縄貝塚文化)を営んだ先史時代の沖縄人(貝塚人)をめぐる興味深い研究が進んでいる。

縄文人の“直系”と考えられてきた貝塚人が、身体的にも文化的にもかなり異質で多様性のあることが、出土人骨の多角的な分析などで明らかになってきたのだ。

 沖縄貝塚文化は、縄文土器を共有する縄文文化の一地域圏として成立したとされている。

弥生時代~平安時代相当期(貝塚時代後期)になっても、水田稲作が定着しなかったため、縄文文化の伝統が色濃く引き継がれ、貝塚人には小顔で彫りの深い縄文人の一般的な特徴がそのまま残ったと見られてきた。

 先月、沖縄県西原町の県立埋蔵文化財センターで開かれた研究発表会では、こうした貝塚人に対する見方に疑問を呈する報告が相次いだ。

土肥直美・琉球大准教授(形質人類学)は貝塚人の身体的形質について発表。

頭部の奥行きや顔の長さが著しく短いという、本土の縄文人に見られない傾向を指摘し、「縄文人の地域性というだけでは説明しきれない」とした。

 文化的な観点からも貝塚人の特徴が語られた。

竹中正巳・鹿児島女子短大准教授(骨考古学)は縄文時代後・晩期の風習である抜歯について、「奄美諸島以南では対象が下あごの歯に限定されており、上下の歯を対象とする本土とは異なる」と指摘した。

 米田穣・東大大学院准教授(先史人類学)は、人骨のコラーゲンに含まれる炭素と窒素の同位体比からみて貝塚人の食生活は貝や魚が中心で、漁労を営みながらクリやドングリなどの炭水化物も摂取した本土の縄文人とは違うと見る。

「炭水化物であるコメを受け入れなかったのは、もともとの食性の違いからではないか。

沖縄も含めた日本列島全体に通底する縄文文化、という先入観は見直されるべきだ」と言う。

 遺伝子分析の結果を紹介したのは、篠田謙一・国立科学博物館研究主幹(分子生物学)。

県内3遺跡の人骨20体からミトコンドリアDNAを抽出し塩基配列の型を比較したところ、多様な型が混在する中に、具志川グスク崖下(がけした)(うるま市)で縄文系とされる型、大当原貝塚(読谷村)では台湾の先住民につながる型を確認。

遺跡によって構成が異なることから、「貝塚人は遺伝的には均一でない可能性がある」と述べた。


 こうした集団の遺伝的ルーツや、本土との交流の濃淡などを反映したのか、貝塚文化の葬送習俗はバラエティーに富む。

縄文文化で一般的な埋葬と、岩陰に遺体を安置する崖葬(がいそう)墓に大別されるが、後者の場合でも近世沖縄の洗骨に似た風葬後の集骨のほか、火葬骨、焼骨などもあり、精神文化の多様性がうかがえる。

 こうした問題に関して、土肥准教授は「まだ見つかっていない先島(宮古・八重山諸島)の先史人骨が鍵になる」とみている。

縄文人との関係だけでなく、沖縄諸島とは異質な東南アジア系文化を育んだ先島人との関係も視野に入れるべきだと言う。


 沖縄といえば縄文人の祖先とも言われる化石人骨・港川人(1万8000年前)が知られるが、貝塚人とは1万年以上の開きがあり、また現代の沖縄人は貝塚人よりも本土の日本人に近いことが知られている。

「貝塚人」はどこから来たのか。
彼らは消えたのか。
日本人の起源や琉球王国成立の謎の解明にとっても、研究の深化が待たれる。

          (読売Online 2009年4月3日 )
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/904/bu_09040301.htm  

            *****


「港川人」の登場が18000年前のことで、それ以降12000年間の遺跡がないとすると、その間にどんなことがおきていたのか、知りたくなります。

その後の6000年前からの遺跡も貝塚が主であり、縄文文化とも言い難いとすると、南方の人々が来て、そして立ち去ったのでしょうか。


葬送儀礼がいろいろと確認されていることには、特に興味をひかれました。

土葬と、風葬と、洗骨と、火葬と、、ずいぶんいろいろあるのだと思いました。

日本本土では、火葬は浄土真宗とともに広まったとされています。

火葬は世界的に見ると、珍しいのです。
仏教と関係なく、沖縄の先史時代に火葬があったとすると、興味深いと思いました。

洗骨、風葬なども、日本人の魂について、多くのことを語っているように思います。

また改めて書きたいテーマです。


参考サイト「考古学オンライン・港川人」
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/hito/minatogawa.htm

wiki「沖縄県の歴史・先史時代」より


沖縄県には縄文時代、弥生時代のような区分は行わない。

先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

旧石器時代

沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。

県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。

また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。

しかし、県内からは確実な「旧石器」の発見はない。

一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。

港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2千年間は遺跡が全く見つかっておらず、空白の時間となっている(ただし、上部港川人は1万2千年前とされる)。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8d567d1420c1ad5ccb5965c173e2ac03
9:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:17:07

先史時代の沖縄


先史時代

二億五千万年前頃から一億三千万年前頃まで

二億五千万年前頃から一億三千万年前頃までの琉球列島は海底に位置していまたが、

千五百万年前頃から千万年前頃に陸地化し、中国大陸・九州と繋りました。
千万年前頃から二百万年前頃にかけて再び切り離されますが、

アジア大陸や日本列島に住む動物の化石が沖縄で発掘されたことから、

陸続きになっている間にシカ・ゾウ・ヤマネコなどが移ったことがわかります。

現在沖縄県に生息するイリオモテヤマネコもその例の一つですね。

その後、百五十万年前頃に再び中国大陸と繋がり、二万年前に三つの島嶼群に分かれ、

氷河期の終了により海水面が百メートル上昇した末に、現在の姿に至ったと考えられています。


後期旧石器時代と貝塚時代

沖縄県の先史時代は土器出現の前後で後期旧石器時代と貝塚時代とに分かれています。

人類がいつから沖縄に生息していたかということは定かではありませんが、三万二千年前頃には、那覇市内で発見された山下洞人、一万八千年前頃には具志頭村の港川で発見された港川人の出現がみられます。いずれも中国大陸から移ってきたとされています。

港川人は日本で最初に発見された完全体に近い旧石器時代人骨として有名です。ちなみに県内から正式な旧石器は発掘されてません。
港川人の年代以降は遺跡が全く発見されない空白の一万数千年を経て、七千年前頃に貝塚時代が始まります。

貝塚時代前期は本土の縄文時代、後期は弥生時代から平安時代にかけての時期です。

前期の遺跡が見られるようになったのは縄文時代中期頃の物からであり、土器を使用した狩猟採集経済の様子がうかがえます。

後期には海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、漁労経済に変わります。
農耕は後期の末まで行われず、弥生文化の影響を受けるより独自性を高めた時期であると言えるでしょう。

3つの文化圏

貝塚時代の文化には三つの文化圏がります。

薩南諸島の北部文化圏、沖縄諸島と奄美諸島の中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏です。

北部文化圏には縄文土器に類似する土器を使用するなど九州の縄文文化の影響が見られます。それが南下して中部文化圏において独自の発展をとげているのです。

一方南部文化圏は日本本土の文化とは異質で、台湾やフィリピンなどの南方諸島との関わりが深いことから、南方一帯を起源としていると考えられています。

北部・中部文化圏と同様に縄文相当期には土器の使用が見受けられるものの、南部で使用されていた土器は台湾先史時代の土器に近い物でした。またシャコ貝で作られた貝斧は九州や奄美・沖縄諸島にも見られず、東南アジアや南方の島々から入ってきた物とされています。

その後、八百年前頃になると鍋型土器やカムイ焼きの使用など、本島地方に近い文化が見られるようになっていくのです。
http://okinawanorekishi.net/prehistoric.html
10:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:17:40

南西諸島には水稲耕作は伝わりませんでした。
海の幸に恵まれたこの地域では、漁労活動を中心とする貝塚文化が続いたのです。

この地域はまた、豊富に採取できるゴホウラ・イモガイなどの貝を、北九州の米などと交易していたようです。これらの貝は、加工されてブレスレットになりました。福岡県の立岩遺跡からは、ゴホウラ製貝輪を14個も腕にはめた男性の遺体が発見されています。
http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/sub4.html


●貝塚文化


竪穴(たてあな)式住居のあとなどが発見された,沖縄貝塚時代中期の仲原遺跡。

 沖縄諸島では,今から6600年前に九州・奄美(あまみ)からやってきた人々によって縄文文化が伝えられ,その影響で貝塚文化が生み出されました。

 日本本土では,紀元前4世紀ころになると,縄文文化にかわって水稲農業と鉄や青銅器を使用する弥生(やよい)文化がはじまります。しかし,奄美・沖縄諸島では,海や山の産物にたよる生活が10~12世紀ごろまでつづきました。

 貝塚時代に使われた土器の形や作りかたなどは,縄文土器とよく似ていますが,石器などの種類や形にはちがいがあります。

 また,縄文人の精神文化をあらわす土偶(どぐう)なども沖縄では見つからず,かわりにジュゴンの骨や南方産の貝で作ったかざりなどが,発見されています。
 このようなことから,沖縄の貝塚文化と本土の縄文文化には違いがあることがわかります。沖縄の先史文化は,本土から伝わった縄文文化が土台になったものの,しだいに沖縄独自の発展をしたということができます。
http://rca.open.ed.jp/city-2001/homehistory/con1/card02_1.html
11:777 :

2022/06/01 (Wed) 15:18:10

2020年03月11日
沖縄と台湾とハワイの違い

日本時代の高砂族、既に琉球の人口の半分しか居なかった。
布衣族人(3)
引用:https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/fa/fe/9d/fafe9d6ab49515b55ee9811b02368951.jpg


台湾先住民

2016年に台湾総統に就任した蔡英文は16の先住民族代表を総統府に招き、過去400年の権利侵害を謝罪しました。

唐突な行動に見えたが、後からやってきた華人が先住民から全てを奪ったと説明しました。

蔡英文の母方の祖母は少数民族の出身とされ、父方は中国系の豪商で、裕福な家庭で育ったとされています。




台湾には中国大陸からいわゆる中国人や漢民族が渡ってくる前から、先住民族が暮らしていました。

日本列島にいわゆる縄文人が暮らしていた頃、琉球、台湾、北海道、千島、樺太などでも同じような人々が暮らしていた。

縄文人は人種の名前ではなく、種々雑多な部族や人種が多くの島で混在していました。


これらの島々に最初に住んだ人々は、氷河期に地続きだったので、歩いてやってきたと言われている。

氷河期が終わり島々は海で区切られたが、木製の船で断続的に渡ってきた人々が加わって、多様な人種が混ざり合った。

こうして同じ島でも別な民族が同居するようになり、台湾でも多くの部族あるいは民族が存在している。


大陸では秦の始皇帝以降、大陸を統一する国家が出現し、そうした大国は台湾島にも政府機関を置いた。

だがそれは自国の一部という事ではなく、今で言う領事館のようなもので、台湾における権益確保が目的だった。

台湾島を最初に領有した国家はオランダで、1624年から1662年まで領有していた。

平地から追われた台湾先住民

外国に占領される事で初めて台湾にも国家意識が生まれ、中国系の鄭成功が占領したが20年ほどで滅んだ。

その後は清国が政府機関を置いていたが、「化外の地」と呼び自国の領土ではないとわざわざ宣言していた。

日清戦争で清国から日本に帰属が移り、日本は敗戦で領有権を放棄し、現在は中華民国が占領している。


この間の台湾先住民の生活はどうだったかというと、先史時代の人口は良く分かっていません。

台湾先住民の人口調査を初めておこなったのは日本帝国で1905年に戸別調査を実施している。

1905年の台湾全体の人口は約303万9千人、高山族は76,443人と記されていました。


現在の台湾先住民の人口は約48万人で、台湾の人口の約2%を占めています。

1600年以前の台湾島では、この立場が逆で、先住民が圧倒的多数だったと想像できる。

1632年、江戸時代初期の琉球の人口が約10万人、一時18万人に増えたが地震と津波で江戸末期には13万人でした。


中世以前の琉球の潜在的な人口が10万人程度とすると、台湾島はずっと大きいので、元々40万人くらい住んでいた可能性が高い。

台湾先住民は島の大部分を漢民族に取られ、高山族の呼び名の通り、限られた高山で暮らしている。

これを琉球、つまり沖縄やハワイと比べると興味深い事がわかります。

台湾先住民と琉球人の違い

先ほど書いたように江戸時代以前の琉球の人口は10万人という所で、江戸末期には13万人でした。

もっとも琉球では王に収める税金を逃れる為、住民の人数を少なく申告するのが一般的だったとする説があります。

ともあれ、琉球人の子孫である直系の沖縄人は現在の沖縄県人口の80%以上を占めています。


沖縄県に住んでいる琉球系の人が約100万人、本土に住んでいる人が120万人と言われ、合計220万人まで増えています。

人数が増えれば発言力も増すわけで、最近沖縄県が基地問題などで強気なのは、偶然ではありません。

琉球人の人口は140年で15倍以上に増え、基地が在るとはいえ沖縄の大半を「所有」しています。


現代の沖縄人はヤマトがいかに横暴に、琉球を搾取し弾圧したかを言いたがるが、事実はまるで逆だと分かります。

江戸時代に薩摩と幕府が「人頭税」など苛烈な搾取を行ったというのは沖縄で定説に成っていますが、これも事実ではありません。

幕府や薩摩が琉球に税を課した事は無く、琉球王が独自にやっていた事です。


それどころか幕府と薩摩は琉球が破綻するのを防ぐ為に、物資や資金や人的援助を行って、幕末まで助けていました。

もう一つの孤島の先住民、ハワイ先住民と比べると、ヤマトの琉球人への優遇ぶりは一層はっきりしてきます。

ハワイには数十万人の先住民が住んでいたが、1778年にキャプテンクックがハワイを「発見した」と称してから侵略が始まった。

ハワイと沖縄の違い

最初西洋諸国は少人数で小さな船だったため、国交を結んだり交易したりしてハワイは栄えた。

だが小船が大型船になり蒸気船に代わると、大勢の宣教師や移民や軍隊が移住してきてきて、伝染病を持ち込みました。

ハワイ先住民は人口が10分の1程度に減ったとされ、これ幸いとアメリカは「住民投票」でアメリカに併合しました。


先住民が減少したことで白人が多数派になり、白人は銃を持っているので、先住民を支配できたのです。

現在純粋なハワイ先住民は僅か8000人で、混血を含めて24万人がハワイに居住しているとアメリカ政府は発表しています。

自分の土地というものは持っておらず、厄介者のような存在になっている。


離島に限らず、世界の多くの先住民はこんな感じで暮らしていて、元の居住地にそのまま住んでいる琉球人は世界でも稀有な例外なのです。

アメリカ先住民のいわゆるインディアンとか、アジア諸国の先住民の多くも、先祖の土地を追い出されています。


追い出されたからこそ「先に住んでいた人」と呼ばれるのですが、琉球人は「今も住んでいる」ので先住民ではない。

http://www.thutmosev.com/archives/64595428.html
12:777 :

2022/06/05 (Sun) 15:19:54

あげ5
13:777 :

2022/07/05 (Tue) 18:19:30

あげ020
14:777 :

2023/11/03 (Fri) 08:38:53

沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16823345



琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597

【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150107

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038590

日本人はどこから来たのか? 【CGS 茂木誠 超日本史】
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14133679

【岩宿遺跡】 日本人はいつから日本列島にいたのか?旧石器時代の発見
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150180
15:777 :

2023/12/10 (Sun) 16:43:49

雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html

 古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究(Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。


●要約

 日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。


●研究史

 古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。

 日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。

 古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。

 沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。


●分析結果

 沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
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 長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。

 長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。

 南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
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 検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
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●考察

 琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。

 外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。

 考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。

 日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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 この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。


参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
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Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
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GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
関連記事

Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
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Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
16:777 :

2023/12/11 (Mon) 13:55:29

【最新研究】東アジア人(モンゴロイド)の形成史と寒冷地適応/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/黄河集団と長江集団の起源/Y染色体ハプログループDの謎/縄文人と繋がるホアビン人(ホアビニアン)とオンゲ族
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y2023/12/04


東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、 ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。

参考書籍

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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