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ヨーロッパ人の起源

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2022/05/31 (Tue) 19:47:30


ヨーロッパ人の起源

ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明

論争が続く英語を含むヨーロッパ諸語の起源。論争に終止符を打つ新発見となるか
2015.03.06
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

4500年以上前にドイツ中部で埋葬された男性の人骨。この後、東欧から移住した考えられる集団とは、共通の祖先を持たないことがわかった。(PHOTOGRAPH BY JURAJ LIPTAK, LDA SACHSEN-ANHALT)

 ヨーロッパ大陸全域で話されている言語のルーツはどこにあるのか。このほど行われたDNA分析で、約4500年前、現在のロシアとウクライナにまたがる草原地帯から移動してきた牧畜民が使った言語がルーツとする説が発表された。

 長く狩猟採集が続いた先史時代のヨーロッパで、農耕が始まったことは画期的な出来事と位置付けられている。ヨーロッパでの農耕は、東方の農耕する集団がヨーロッパへ移動したことから始まったとされる。

 ところが2015年3月2日、科学誌「ネイチャー」に、ヨーロッパへの集団の大移動は1度だけではなく、2度あったとする研究論文が発表された。この説では、最初の集団の移動は新石器時代に現在のトルコにあたるアナトリアからのもの、そして第2波は4000年後、現在のロシアに当たるステップ地帯から中央ヨーロッパへの大移動だったという。そして英語を含むヨーロッパ言語の基礎になったのは、ステップ地帯から移動した集団がもたらした言語だというのだ。

 論文の共著者で、ハーバード大学医学大学院の遺伝学者ヨシフ・ラザリディス氏は、「ヨーロッパに最初にやってきた人々は狩猟採集民でした。そこへ農耕民がやってきて狩猟採集民と混ざり合いました。その後、東から新たな集団がたくさん移動してきたのです」と語る。

 今回、第2の大移動があったことが明らかになったのは、ラザリディス氏らの研究チームが現代ヨーロッパ人の起源を解明しようと、ヨーロッパの古代人69人の骨から採取したDNAを調べたことがきっかけだった。標本となった古代人の人骨は3000~8000年前までと幅広いもの。標本同士だけでなく、現代ヨーロッパ人との間でもDNAが比較された。

 調査の過程で、古代の狩猟採集民と新石器時代に流入した農耕民の痕跡が見つかった。これは、これまでの説を裏付けるもので、予想通りだった。ところが彼らを驚かせたのは、約4500年前、ロシアとウクライナにまたがる平地や草原からの大集団が移住したことを示す痕跡が見つかったからだ。予想だにしない結果だった。

ヨーロッパへの
集団移動は2段階
 数千年間、狩猟採集民の小集団が暮らしていたヨーロッパ大陸に、初めて変化が起こったのは、約8000年前のこと。アナトリアから北上した農耕民が、新しい技術と生活様式をヨーロッパにもたらし、現在の定住生活の基礎を築く。考古学者の間では、この出来事を「新石器革命」と呼んでいる。

 その数千年後に、再び外からヨーロッパ大陸に人類の大移動があったことを決定づけたのは、ある2つの集団のDNAに多くの共通性が見られたため。1つは黒海の北岸で見つかった5000年前の人骨で、考古学で「ヤムナ」と呼ばれる集団に属するものだった。もう1つは、約4500年前に現在のドイツ中部ライプチヒ近郊で葬られた4人の人骨だ。こちらは「コーデッドウェア文化」に属する人々だった(「コーデッドウェア」とは、ヨーロッパ北部で広範囲にみられる当時の土器の特徴的な文様のことで、それにちなんでこう呼ばれる)。

 ヤムナ文化に属する集団と、コーデッドウェア文化に属する集団の間には、500年の開きがある。さらに地理的にも1600キロは離れている。それにもかかわらず、両者は判明できた部分で75%(おそらくは100%)共通の祖先をもつと考えられたのだ。論文の著者の1人で米ハートウィック大学の考古学者デビッド・アンソニー氏は、「両集団の間には、直接の遺伝的関連がみられる」と話す。「控えめに言っても、近い親類だということです」

 そして、着目すべきは、コーデッドウェア文化に属する人のDNAが、それより数千年前の現在のドイツにあたる地域に暮らしていた農耕民のDNAと共通性が認められなかったことのほうだろう。つまり、これは過去に「侵略」と言ってもいいほど劇的なヨーロッパへの流入があったことを示す証拠だ。「集団が丸ごと入れ替わったと言っても過言ではない出来事だったのではないでしょうか」とラザリディス氏は考えている。

ルーツ論争は決着か?
 今回、遺伝学から示された「ステップ地帯からヨーロッパへの大規模な移動があった」という事実は、言語学者や考古学者の間でインド・ヨーロッパ諸語の起源をめぐる論争を再燃させるだろう。インド・ヨーロッパ諸語には400以上の言語が含まれ、英語、ギリシャ語、アルバニア語、ポーランド語といった現代の言語から、ラテン語、ヒッタイト語、サンスクリット語など古い言語まで数多い。

 言語学者らは、すべてのインド・ヨーロッパ諸語の生みの親であるインド・ヨーロッパ祖語が最初に話されていた場所をめぐり、数十年もの間も議論してきた。「アナトリア仮説」派は、1万年前かそれ以前に現在のトルコに住んでいた農耕民が最初にインド・ヨーロッパ語を話していたと主張する。紀元前6000年ごろ彼らがヨーロッパにたどり着き、言語もそのときに流入したというのだ。

 対する「ステップ仮説」は、黒海とカスピ海の北に広がる広大な平原をインド・ヨーロッパ祖語の生まれた土地と考える。アンソニー氏は、この地に車輪が伝来して「ステップ地帯の経済に革命を起こした」と話す。この説を支持する人々は、多くのインド・ヨーロッパ諸語で「車軸」(axles)、「(家畜に荷車を引かせる棒)ながえ」(harness poles)、「車輪」(wheel)といった単語が共通していると指摘する。どれも、ヨーロッパで新石器革命が始まってからずっと後に考案されたものだ。

 だが、どちらの説も決定的な裏付けがなく、議論は長いこと前進していなかった。そんな中、今回の研究成果は両者の勢力図を変えるかもしれないと多くの研究者が考えている。ステップ仮説に説得力を持たせるのに必要な移住の証拠がつかめたからだ。

 とはいえ、これでインド・ヨーロッパ諸語のルーツをめぐる論争に決着がついたとはいえない。まだ説を補強しなくてはいけないことも多いからだ。確かに、遺伝学と言語学のデータは、インド・ヨーロッパ祖語が約4500年前にステップ地帯を経てヨーロッパに入ったという説を支持するものだ。だが、バルセロナ大学の遺伝学者カルレス・ラルエサ=フォックス氏によれば、「祖語の最も古い系統がどこで生まれたのかは、依然としてはっきりしない」だという。同氏によれば、インド・ヨーロッパ祖語発祥の地は、さらに別の地域かもしれず、ステップ地帯は源流の言語が南欧、イラン、インドなどに入った複数のルートの一つにすぎない可能性もあるという。

 今回の研究論文を発表した著者らも、その点は認めている。しかし、彼らの主張は揺らいでいない。ラザリディス氏は「ステップ地帯がインド・ヨーロッパ諸語の唯一の発祥地かどうかは不明だ」としながらも、「この地域についてもっとデータが集まれば、多くの疑問に答えられるはずだ」と強調した。

4000年以上前にドイツで埋葬された若い女性の人骨。DNAを分析したところ、東欧から移住してきた牧畜民との関連が強いことがわかった。(PHOTOGRAPH BY LDA SACHSEN-ANHALT)
文=Andrew Curry/訳=高野夏美
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/



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2015年06月12日
青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html

 新石器時代~青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動に関する、『ネイチャー』に掲載された二つの研究が報道されました。『ネイチャー』には解説記事(Callaway., 2015)も掲載されています。5000~3000年前頃のユーラシアの青銅器時代には、精巧な武器や馬に牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じた、とされています。この大きな文化的変容が、おもに文化のみの拡散によるのか、それとも人間集団の移動に伴うものだったのか、ということをめぐって議論が続いてきました。この問題は、インド-ヨーロッパ語族の拡散とも関係して論じられてきました。

 5000~1300年前頃のユーラシアの住民101人のゲノムを解析した研究(Allentoft et al., 2015)では、青銅器時代のヨーロッパにおける大きな文化的変容は人間集団の移動に伴うものであり、インド-ヨーロッパ語族が青銅器時代にヨーロッパに拡散したとする仮説が支持される、との見解が提示されています。5000年前頃には、ヨーロッパ中央・北部のゲノムは中東からの初期農耕民やそれ以前のヨーロッパの狩猟採集民のゲノムに似ていました。しかし、ヨーロッパ中央・北部集団のゲノムは4000年前頃までには、カスピ海~黒海の北側の草原地帯に存在したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のゲノムにもっと類似していました。

 この研究は、薄い肌の色は青銅器時代のヨーロッパにおいてすでに高頻度で存在したものの、乳糖耐性はそうではなかったことも明らかにしています。以前には、ヨーロッパの初期農耕民において畜乳はカロリー摂取の重要な手段であり、新石器時代から乳糖耐性には正の淘汰が働いていたのではないか、と考えられていたのですが、乳糖耐性に関しては、正の淘汰が働いたのは青銅器時代以降のことではないか、と指摘されています。この乳糖耐性は、ヤムナヤ文化集団によりヨーロッパにもたらされた、と推測されています。

 もう一方の研究(Haak et al., 2015)では、8000~3000年前の69人のヨーロッパ人の全ゲノムデータが作成され、解析・比較されました。その結果、やはり青銅器時代における東方草原地帯(現在の国境線ではウクライナを中心とします)からヨーロッパへの大規模な人間集団の移動が示唆されました。ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりとなる8000~7000年前頃に、遺伝的にはヨーロッパの先住狩猟採集民とは異なり、初期農耕民と密接に関連した集団がドイツ・ハンガリー・スペインに現れました。一方でその頃のロシアには、24000年前頃のシベリア人と高い遺伝的類似性を有する狩猟採集民集団が存在していました。

 6000~5000年前までには、ヨーロッパの大半の農耕民はその祖先集団よりも多くの狩猟採集民集団のDNAを有していました。一方でこの時期の東方草原地帯の牧畜民であるヤムナヤ集団は、ヨーロッパ東部の狩猟採集民だけではなく、中東の農耕民集団のDNAも継承していました。ドイツの後期新石器時代縄目文土器(the Late Neolithic Corded Ware)文化集団はそのゲノムのうち75%をヤムナヤ集団から継承しており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 この東方草原地帯由来のDNAは、遅くとも3000年前までには中央ヨーロッパ人の全標本に存在し、現在のヨーロッパ人には広く確認されます。この研究は、ヨーロッパのインド-ヨーロッパ語族の少なくともいくつかは、東方の草原地帯に起源があるだろう、と指摘しています。また、中央ロシアのアルタイ山脈近くの4900~4500年前頃の集団にもヤムナヤ集団の遺伝的痕跡が確認され、インド-ヨーロッパ語族のアジアへの拡散との関連が想定されます。最近では、青銅器時代のヨーロッパにおいて男性人口の拡大があったのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、青銅器時代のヨーロッパにおける文化変容は、大規模な人間の移動に伴っていた可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(Allentoft et al., 2015の引用と、Haak et al., 2015の引用)です。


集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団ゲノミクス

集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団変化

 青銅器時代は大きな文化的変化の時代であったが、その要因は知識の伝達と大規模な人の移動のどちらにあったのだろうか。今回、ユーラシア各地の古代人101人の標本から低カバー率のゲノム塩基配列を得て解析した研究で、この時代に起こった大規模な集団の移動や入れ替わりが明らかになった。得られた解析結果は、青銅器時代のヨーロッパ人では、淡色の皮膚はすでに普通になっていたが乳糖耐性はあまり広まっていなかったことを示しており、乳糖耐性に対する正の選択が働き始めたのは従来考えられていたよりも新しい年代だったことが示唆された。この研究で得られた知見は、インド・ヨーロッパ語族が前期青銅器時代に広がったとする別の報告(Letter p.207)とも一致する。


集団遺伝学:ステップからの大移動がヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語族の成因の1つとなった

集団遺伝学:ヨーロッパの言語を変えたステップからの大きな一歩

 今回D Reichたちは、8000~3000年前に生存していたヨーロッパ人69人の全ゲノムデータを作成した。その解析から、8000~7000年ほど前に現在のドイツ、ハンガリーおよびスペインに当たる地域で、先住の狩猟採集民とは異なる初期農耕民の血縁集団が出現したことが明らかになった。同時代のロシアには、2万4000年前のシベリア人との類似性が高い独特な狩猟採集民集団が生活していた。6000~5000年前までに、ロシアを除くヨーロッパの広い地域で狩猟採集民系統が再び現れた。西ヨーロッパ集団と東ヨーロッパ集団は約4500年前に接触し、現代のヨーロッパ人にステップ系統の痕跡が残された。これらの解析から、新石器時代の人口動態に関する新たな手掛かりに加えて、ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部がステップ起源だとする説の裏付けが得られる。この研究で得られた知見は、青銅器時代の古代人101人のゲノムについて調べた別の研究結果(Article p.167)とも一致する。


参考文献:
Allentoft ME. et al.(2015): Population genomics of Bronze Age Eurasia. Nature, 522, 7555, 167–172.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14507

Callaway E.(2015): DNA data explosion lights up the Bronze Age. Nature, 522, 7555, 140–141.
http://dx.doi.org/10.1038/522140a

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14317

https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


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2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代~青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代~青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189

https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

2:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:48:05

2018年06月17日
人類史における移住・配偶の性的非対称
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html


 人類史において、移住・配偶で性的非対称が生じることは珍しくありません。そもそも、有性生殖の生物種において、雄と雌とで繁殖の負担が著しく異なることは一般的で、大半の場合、雄よりも雌の方がずっと負担は重くなります。もちろん人類もその例外ではなく、人類史における移住・配偶の性的非対称の重要な基盤になっているのでしょう。とはいっても、それらが繁殖負担の性的非対称だけで説明できるわけではないのでしょうが。当ブログでも、人類史における移住・配偶の性的非対称についてそれなりに取り上げてきましたので、一度短くまとめてみます。

 霊長類学からは、人類の旅は採食だけではなく繁殖相手を探すものでもあり、他の類人猿と同じく人類の祖先も、男が生まれ育った集団を離れて別の集団に入り配偶者を見つけるのは難しかっただろうから、ゴリラのように男が旅先で配偶者を誘い出して新たな集団を作るか、チンパンジーのように旅をしてきた女を父系的つながりのある男たちが受け入れることから集団間の関係を作ったのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。人類系統がチンパンジー系統と分岐した時点で、すでに配偶行動において何らかの性的非対称が存在した可能性は高いと思います。

 初期人類については、「華奢型」とされるアウストラロピテクス属や「頑丈型」とされるパラントロプス属において移動の性差が見られる、と指摘されています(関連記事)。具体的には、アウストラロピテクス属ではアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属ではロブストス(Paranthropus robustus)です。240万~170万年前頃のアフリカヌスとロブストスのストロンチウム同位体含有比の分析の結果、小柄な個体のほうが、発見された地域とは異なるストロンチウム同位体組成を有している割合が高い、と明らかになりました。初期人類では体格の性差が大きかった(性的二型)との有力説を考慮すると、初期人類においては、女性は男性よりも移動範囲が広く、出生集団から拡散していくことが多かったのではないか、と言えそうです。つまり、父方居住的な配偶行動があったのではないか、というわけです。ただ、初期人類の性的二型については、大きかったとの見解が有力ではあるものの、異論もあるので(関連記事)、体格の違いによる性別判断の信頼性は高くない可能性もあると思います。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、父方居住的な配偶行動の可能性が指摘されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡で発見された49000年前頃のネアンデルタール人遺骸群のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果、3人の成人女性がそれぞれ異なるハプログループに分類されるのにたいして、3人の成人男性は同じハプログループに分類されました。もっとも、これは父方居住的な配偶行動の証拠となり得るものの、そうだとしても、あくまでもイベリア半島の49000年前頃の事例にすぎず、ネアンデルタール人社会全体の傾向だったのか、現時点では不明です。

 ただ、現代人への遺伝的影響はほとんどなかったとしても、同じホモ属で現代人と近縁なイベリア半島のネアンデルタール人と、現代人とは属が違い、おそらくは現代人の祖先ではなさそうなアフリカヌスやロブストスにおいて、父方居住的な配偶行動が存在したのだとしたら、人類系統において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。元々人類社会は父系的な構造だったものの、ある時期から社会構造が多様化していったのではないか、というわけです。それが、現生人類(Homo sapiens)の出現もしくは現生人類系統がネアンデルタール人系統と分岐した後なのか、ホモ属が出現してネアンデルタール人と現生人類の共通祖先が存在した頃なのか、あるいはもっと古くアウストラロピテクス属の時点でそうだったのか、現時点では分かりませんが、早くてもホモ属の出現以降である可能性が高いかな、と考えています(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との交雑についても、性的非対称の可能性が指摘されています(関連記事)。現代人のミトコンドリアでもY染色体でも、ネアンデルタール人由来の領域は確認されていません。したがって、母系でも父系でも、現代人にネアンデルタール人直系の子孫はいない可能性がきわめて高そうです。しかし、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響は、X染色体では常染色体の1/5程度であることから(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人との交雑では、現生人類の女性とネアンデルタール人の男性という組合せの方が多かったというか、一般的だったのではないか、とも指摘されています。現生人類女性とネアンデルタール人男性の組合せでは、その逆よりもネアンデルタール人のX染色体が交雑集団に伝わりにくい、というわけです。

 しかし、配偶行動の性的非対称だけで、現代人のX染色体と常染色体においてネアンデルタール人の遺伝的影響が大きく異なるとも考えにくく、適応度の低下も関わってくるのではないか、と思います。ネアンデルタール人のゲノムは領域単位で現代人に均等に継承されているのではなく、現代人において排除されていると思われる領域も存在します。ネアンデルタール人のX染色体上でも、繁殖に関連すると思われる遺伝子を含む領域の排除が指摘されています(関連記事)。また、Y染色体の遺伝子における現生人類とネアンデルタール人との違いから、遺伝的不適合が原因となって、ネアンデルタール人由来のY染色体が現代には継承されなかった可能性が高い、との見解も提示されています(関連記事)。現生人類と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)との交雑でも、X染色体と精巣に関わる遺伝子領域では、現代人にデニソワ人の痕跡がひじょうに少ない、と指摘されています(関連記事)。現時点では、現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属との交雑において、性的非対称があったのか、推測は難しいと思います。

 現代人では多様な移住・配偶行動が見られ、その中には強い性的非対称が存在する事例もあります。たとえば、15世紀末以降、アメリカ大陸にはヨーロッパから多数の人々が移住してきて遺伝的にも大きな影響を及ぼしましたが、この事例では大きな性的非対称が見られます。現代パナマ人は、mtDNAでは83%がアメリカ大陸先住民系ですが、Y染色体DNAでは約60%が西ユーラシアおよび北アフリカ系、約22%がアメリカ大陸先住民系、約6%がサハラ砂漠以南のアフリカ系、約2%がおそらくは中国またはインドの南アジア系となります(関連記事)。これは、単身男性を中心としたイベリア半島勢力によるラテンアメリカの征服という、歴史学など他分野からの知見と整合的です。

 ヨーロッパの事例と併せて考えると、大規模な征服活動では、移住・配偶行動に性的非対称が見られる傾向にある、と言えるかもしれません。青銅器時代のヨーロッパにおいては、ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団から精巧な武器やウマに牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じ、古代ゲノム解析からも大規模な移動が推測される、と指摘されています(関連記事)。さらに、このヨーロッパにおける青銅器時代の大きな文化的・人的構成の変容にさいしては、男性人口拡大の可能性も指摘されています(関連記事)。精巧な金属器とウマを用いての、機動力に優れた男性主体の集団による広範な征服活動がヨーロッパで起きたのではないか、というわけです。

 ヨーロッパにおける青銅器時代と新石器時代初期の大規模な移住を比較した研究では、青銅器時代の大規模な移住は男性主体で、女性1人にたいして男性は5~14人と推定されているのにたいして、新石器時代初期にはそうした性差はなかった、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパの新石器時代は中東からの農耕民集団の移住により始まりましたが、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民集団とがじょじょに融合していったと推測されているように(関連記事)、征服的な移住ではなかったのかもしれません。

 ヨーロッパにおいては、青銅器時代の征服活動的な大規模移住において、男性が主体になって広範に拡散していった様子が窺えますが、それは例外的な事例だったかもしれません。上述したように、人類史において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。後期新石器時代~初期青銅器時代の中央ヨーロッパにおいても、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されています(関連記事)。mtDNAの解析の結果、時間の経過とともに母系が多様化していき、同位体分析の結果、大半の女性は地元出身ではなく、一方で男性と未成年では大半が地元出身である、と明らかになりました。また、地元出身ではない女性の子孫は確認されませんでした。

 中世初期のバイエルンにおいても、男性よりも女性の方が遺伝的に多様で、女性は婚姻のために外部からバイエルンに移住してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパに限定しても一般化できるのか、まだ確定したとは言えないでしょうが、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなく、安定期には人類史の古くからの一般的傾向が反映されて、男性が出生集団(地域)に留まる一方で、女性は配偶のために他集団(地域)に移住する、という傾向があるのかもしれません。こうした傾向が人類史全体に当てはまるのか、現在の私の知見ではとても断定できませんが、今後、そうした観点から色々と調べていこう、と考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html  
3:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:48:47

News Release 5-Sep-2019
中央および南アジア由来の古代DNAからユーラシア大陸における人々と言語の拡散が明らかに

中央および南アジアから得られた500人以上の古代DNAの全ゲノム解析から今回、この地域に現在住む人々の複雑な遺伝的祖先について新たな光が当てられることを、新しい報告が明らかにしている。

この研究は、ユーラシア・ステップ、中近東および東南アジアに由来する集団における遺伝子交換を記述しているだけでなく、古代ヨーロッパに認められるものと類似し並行したゲノムパターンを反映する集団の歴史をも明らかにしており、これらの所見は印欧語族の文化的拡散を例証するものと考えられる。

はるか昔に生きていた人々の遺伝子が保存された遺物は、古代の様々な集団の移動と相互関係だけでなく、文化的革新(農業、牧畜、言語など)の世界規模での拡散の様子を明らかにしてくれる。

Vagheesh Narasimhanらは、およそ8,000年前に生きていた523人の古代DNAを用いて、中央および南アジアへの、またこれらの地域内における、先史時代の人類の拡散について理解を深めることを試みた。Narasimhanらによれば、

現代アジア人の祖先は主として、インダス文明の崩壊後にやってきた中近東の農民集団、ならびにヤムナ文化として知られるヨーロッパのステップ地帯に由来する青銅器時代の牧畜民集団に遡るという。

これまでの研究では、同じ集団が東ヨーロッパ地域にも移動しており、このことがインド・イラン語派およびバルト・スラヴ語派の広範な拡散に貢献した可能性が示されている。

関連するPerspectiveでNathan ShaeferとBeth Shapiroは「今回のデータセットの規模により、Narasimhanらはかつてない広範な空間および時間にわたってゲノムの比較を行うことができ、それにより数年前には答えることのできなかった、増加しつつある特定の疑問に焦点を当てることが可能になった」と記している。
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-09/aaft-5_2090319.php

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2019年09月08日
アジア南部の人口史とインダス文化集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html


 アジア南部の人口史関する二つの研究が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。なお、以下の主要な略称は以下の通りです。アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)、古代祖型インド南部人関連系統(AASI)祖型北インド人(ANI)、祖型南インド人(ASI)、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)、中期~後期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSMLBA)、前期~中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSEMBA)、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化。

 一方の研究(Narasimhan et al., 2019)は、すでに昨年(2018年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時点よりデータも増加しているので、今回改めて取り上げます。本論文は、中石器時代以降のアジア中央部および南部北方の、新たに生成された古代人523個体のゲノム規模データと、品質を向上させた既知のゲノムデータ19人分を報告しています。これらと既知のデータを合わせて、古代人837個体分のデータセットが得られました。現代人では、686人のゲノム規模データと、アジア南部の246民族の1789人の一塩基多型データが比較されました。

 本論文(サイエンス論文)はこれらの個体を地理的に3区分しています。それは、182人分のゲノムデータが得られたイランおよびトゥーラーン(アジア中央部南部、現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・アフガニスタン・キルギスタン)、209人分のゲノムデータが得られた草原地帯と北部森林地帯(ほぼ現在のカザフスタンとロシアに相当します)、132人分のゲノムデータが得られたパキスタン北部です。文化的に区分すると、(1)中石器時代・銅器時代・青銅器時代・鉄器時代のイランおよびトゥーラーンの集団で、紀元前2300~紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化も含まれます。(2)シベリア西部森林地帯の早期土器(陶器)使用狩猟採集民で、北部ユーラシア人の早期完新世の遺伝的傾向を表します。(3)ユーラシア草原中央部の銅器時代・青銅器時代の牧畜民で、青銅器時代カザフスタン(紀元前3400~紀元前800年)を含みます。(4)アジア南部北方で、後期青銅器時代と鉄器時代と歴史時代を含み、現在のパキスタンに相当します。

 イランおよびトゥーラーンでは、アナトリア農耕民関連系統の比率が西から東にかけて減少するという勾配が見られます。紀元前九千年紀~紀元前八千年紀のイラン西部ザグロス山脈の牧畜民は、特有のユーラシア西部関連系統を有していたのにたいして、広範な地域のもっと後の集団は、この独特なユーラシア西部関連系統とアナトリア農耕民関連系統との混合系統です。銅器時代から青銅器時代にかけて、アナトリア農耕民関連系統の比率が、アナトリア半島で70%、イラン東部で31%、トゥーラーン東部で7%というように、東から西へと減少していく勾配が見られます。アナトリア半島でもイラン農耕民系統が見られるようになり、農耕と牧畜を担う集団が双方向に拡散し、在来集団と混合した、と推測されます。

 紀元前三千年紀には、イラン東部とトゥーランでは、最小限のアナトリア農耕民関連系統だけではなく、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)系統の混合も検出され、イラン農耕民関連系統の拡大前にこの地域に存在した、まだ標本抽出されていない狩猟採集民からの交雑を反映している、と本論文は推測しています。ユーラシア北部関連系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)遊牧文化集団の拡大前にトゥーラーンに影響を及ぼしました。ヤムナヤ文化集団の遺伝的構成では、WSHG関連系統よりもヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)関連系統の方が多いので、ヤムナヤがこのユーラシア北部関連系統の起源だった可能性は除外できます。また、ヤムナヤ文化集団にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U5aとY染色体ハプログループ(YHg)R1bもしくはR1aが高頻度で存在するものの、これらのハプログループは標本抽出されたイランおよびトゥーラーンの銅器時代~青銅器時代には見られないことからも、この見解は支持されます。

 紀元前2300~紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化集団は、アジア南部集団の主要な起源ではありませんでした。イランおよびトゥーラーンの青銅器時代のBMACとその直後の遺跡から、紀元前3000~紀元前1400年頃の84人のゲノム規模データが得られました。この84人の大半はトゥーラーンの先住集団と遺伝的に近縁で、BMAC集団の起源集団の一つと考えられます。BMAC集団の遺伝的構成は、早期イラン農耕民関連系統が60~65%、アナトリア農耕民関連系統が20~25%、WSHG系統が10%程度です。BMAC集団は、先行するトゥーラーンの銅器時代個体群とは異なり、追加のアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統を2~5%ほど有しています。アジア南部におけるこの南方から北方への遺伝子流動は、インダス文化とBMACの間の文化的接触と、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地を示す考古学的証拠と一致しますが、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地では古代DNAは得られていません。一方、逆の北方から南方への遺伝子流動は検出されませんでした。BMAC集団のアナトリア農耕民関連系統比率はやや高いので、古代および現代のアジア南部人類集団の起源集団にはならないだろう、と本論文は推測しています。

 以前の研究(関連記事)では、BMAC集団をアジア南部の現代人集団の祖先集団の一つとする可能性が提示されていましたが、対象となる標本数が本論文の36点に対して2点と少なく、BMAC期もしくはアジア南部の古代DNAが欠けており、本論文はその見解に否定的です。紀元前2300年頃、BMAC関連遺跡でWSHG関連系統を有する外れ値の3人が観察されます。紀元前三千年紀には、カザフスタンの3遺跡とキルギスタンの1遺跡で、この3人の起源として合致したデータが得られています。紀元前2100~紀元前1700年頃には、BMAC関連遺跡で西方草原地帯前期~中期青銅器時代(EMBA)系統から派生した系統を有する3人の外れ値が観察されており、ヤムナヤ派生系統は紀元前2100年までにトゥーランに到達した、と考えられます。ヤムナヤ系統は紀元前二千年紀の変わり目までにアジア中央部へと拡大した可能性が高そうです。

 紀元前2500~紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300~紀元前2000年頃のイラン東部遺跡から、11人の外れ値が観察されます。その遺伝的構成は、AHG関連系統が11~50%で、残りはイラン農耕民関連系統とWSHG関連系統の混合(50~89%)です。こうした外れ値の個体群では、BMAC関連系統では20~25%となるアナトリア農耕民関連系統が検出されず、BMAC集団が起源である可能性は否定されます。インダス文化集団の古代DNAなしに、これらの外れ値がインダス文化で一般的な遺伝的構成だった、と明確に述べることはできません。しかし、アナトリア農耕民関連系統が検出されず、11人全員でAHG関連系統の割合が高く、そのうち2人では現在おもにインド南部で見られるYHg- H1a1d2が確認され、インダス文化との交易の考古学的証拠があり、アジア南部関連の人工物が共伴していることから、この外れ値の11人はインダス文化後のインダス川上流近くの古代人86人の祖先として適合的だろう、と本論文は推測します。また、この11人におけるイラン農耕民関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400~紀元前3700年頃に起きたと推定されることから、11人の遺伝的構成がインダス文化集団を表している可能性は高い、と本論文は指摘します。

 ユーラシアの草原地帯および森林地帯系統の遺伝的勾配は、農耕出現後に確立しました。ユーラシア北部の後期狩猟採集民は、西方から東方へと、アジア東部系統が増加する勾配を示します。新石器時代と銅器時代には、この勾配に沿った異なる地域の狩猟採集民が、異なる地域の系統を有する人々と交雑し、5つの勾配を形成しました。そのうち2つは南方(アジア南西部とインダス川周辺部)で、残りの3つはユーラシア北部に存在しました。草原地帯および森林地帯の最西端にはヨーロッパ勾配があり、アナトリア農耕民の拡大により紀元前7000年後に確立し、ヨーロッパ西部狩猟採集民と交雑しました。黒海からカスピ海に及ぶ緯度のヨーロッパの東端の勾配は、ヨーロッパ東部狩猟採集民関連系統とイラン農耕民関連系統の混合から構成され、いくつかの集団では追加のアナトリア農耕民関連系統が見られます。ウラル山脈の東ではアジア中央部勾配が検出され、一方の端のWSHG個体と、もう一方の端のトゥーラーンの銅器時代~早期青銅器時代の個体で表されます。

 紀元前3000年頃に、ユーラシアの多くの集団の遺伝的構成は、西方のハンガリーから東方のアルタイ山脈まで、コーカサス起源のヤムナヤ文化集団系統に転換していきました。この前期~中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯(WSEMBA)系統は、次の2000年にわたってさらに拡大して在来集団と混合し、西はヨーロッパの大西洋沿岸、南東はアジア南部まで到達しました。アジア中央部および南部に到達したWSEMBA系統は、最初の東方への拡大ではなく、第二の拡大によるもので、WSEMBA系統を67%、ヨーロッパ関連系統33%を有する集団でした。この中期~後期青銅器時代ユーラシア西方草原(WSMLBA)集団は、縄目文土器(Corded Ware)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やペトロフカ(Petrovka)文化集団を含んでいます。WSMLBAとは異なる中期~後期青銅器時代ユーラシア中央草原地帯集団(CSMLBA)も検出され、おもにWSHG関連系統の中央草原地帯の青銅器時代牧畜民に由来する系統を9%ほど有しています。

 シンタシュタ文化集団では、50人のうち複数の外れ値が検出されました。外れ値の一つはWSHG関連のCSMLBA系統の比率が高く、二番目はWSMLBA系統の比率が高く、三番目はヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)系統の比率が高い、と明らかになりました。現在のカザフスタンとなる中央草原地帯では、紀元前2800~紀元前2500年頃の1人と、紀元前1600~紀元前1500年頃の複数個体が、イラン農耕民関連系統からの顕著な混合を示し、トゥーランを経由してのアジア南部へのCSMLBAの南進とほぼ同時期の、トゥーランから北方への遺伝子流動を示します。紀元前三千年紀半ばから始まったこうした人類集団の移動は、考古学的証拠で示される物質文化と技術の動きと関連しています。

 クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)市の草原地帯遺跡で発見された紀元前1700~紀元前1500年頃の複数個体は、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)関連系統と25%程度のアジア東部関連系統と、残りのWSMLBA系統という遺伝的構成を示します。後期青銅器時代までに、ESHG関連系統はカザフスタンからトゥーラーンまで至る所で見られるようになります。これら紀元前千年紀から紀元後千年紀にアジア南部において文化的・政治的影響の見られる文化集団は、アジア南部現代人にアジア東部系統がほとんど見られないことから、アジア南部現代人の草原地帯牧畜民系統の重要な起源ではありません。その起源として有力なのは、草原地帯の中期~後期青銅器時代集団で、トゥーラーンへと拡散してBMAC関連系統と混合しました。総合すると、これらの結果は、アジア南部に現在広範に見られる草原地帯系統がアジア南部に到達したのは、紀元前二千年紀の前半と推定します。ヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民集団の拡大前後での遺伝的構成は、本論文の図3で示されています。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F4.large.jpg

 以前の研究では、アジア南部現代人集団は、ユーラシア西部集団と近縁な祖型北インド人(ANI)と、ユーラシア西部集団とは近縁ではない祖型南インド人(ASI)との混合により形成された、と推測されました。本論文はまず、インダス文化との接触が考古学的に示されている遺跡で確認された、上述の外れ値の11人を取り上げます。この11人は、2集団の混合としてモデル化できます。一方は、AHG関連系統集団、もう一方は90%程度のイラン農耕民関連系統と10%程度のWSHG関連系統の混合集団です。このインダス川流域系統に合致する人々は、アジア南部現代人の祖先の大半を構成します。これはアジア南部に特有の系統をもたらす西方からの遺伝子流動というよりも、インダス川流域集団の人々のもっと後のアジア南部人への寄与です。

 アジア南部北方の紀元前1700~紀元後1400年の間の117人では、紀元前2000年以降に草原地帯系統が見られます。これは2集団の混合としてモデル化され、一方はインダス川流域集団、もう一方は41%程度のCSMLBAと比較的高いイラン農耕民関連系統を有する59%程度のインダス川流域集団の亜集団です。現代インド人で見られる遺伝的勾配の形成に合致したモデルは起源集団として、CSMLBAもしくはその近縁系統と、インダス川流域集団と、AHG関連系統もしくはAHG関連系統を比較的高頻度で有するインダス川流域集団の亜集団を含みます。

 インド南部のいつくかの集団では、CSMLBA系統が見られません。これは、ASIのほぼ直系の子孫が現在も存在することを示し、ASIはユーラシア西部関連系統を有していないかもしれない、という以前の見解の反証となります。つまり、インド南部のユーラシア西部関連系統はANI のみがもたらしたのではなく、ASIはイラン農耕民関連系統を有していただろう、というわけです。イラン農耕民関連系統とAHG関連系統の混合は紀元前1700~紀元前400年頃と推定され、インダス文化の時点では、ASIは完全には形成されていない、と推測されます。

 インドには、パリヤール(Palliyar)やジュアン(Juang)といった、ユーラシア西部系統の影響の小さいオーストロアジア語族集団も存在します。ジュアン集団は、更新世からアジア南部に存在したと考えられ、ユーラシア西部系統要素のない古代祖型インド南部人関連系統(AASI)系統(48%)およびアジア東部起源のオーストロアジア語族の混合集団(52%)の混合系統と、AASI(70%)とイラン農耕民関連系統(30%)の混合集団としてのASIとの混合としてモデル化されます。農耕技術から、オーストロアジア語族はアジア南部に紀元前三千年紀に到来した、と推測されています。ANIは、草原地帯牧畜民系統との混合年代が紀元前1900~紀元前1500年頃と推定されることから、インダス文化衰退後に形成されたと推測されます。つまり、現代インド人の勾配を形成する主要な2集団であるASIとANIは、どちらも紀元前二千年紀の前には完全に形成されていなかっただろう、ということになります。

 アジア南部最北端となるパキスタンのスワート渓谷(Swat Valley)の青銅器時代・鉄器時代の複数個体では、草原地帯系統が、常染色体において20%程度になるのに、Y染色体では、草原地帯においてはほぼ100%となる系統(YHg- R1a1a1b2)が5%と顕著に低く、おもに女性を通じて草原地帯系統が導入された、と推測されます。しかし、現代のアジア南部では、常染色体よりもY染色体の方でCSMLBA関連系統がずっと多い集団も見られます。これは、おもに男性により草原地帯系統が拡散したことを示唆します。類似の事象はイベリア半島でも見られますが(関連記事)、アジア南部はイベリア半島ほど極端ではありません。アジア南部でY染色体において草原地帯系統の比率の高い集団は、司祭の地位にあると自任してきた集団に見られますが、この相関はまだ決定的とまでは言えません。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図5を掲載します。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F6.large.jpg


 本論文は以上の知見から、アジア南部における完新世の人口史を以下のようにまとめます。紀元前2000年まで、イラン農耕民関連系統とAASI系統の異なる比率を有するインダス川流域集団が存在し、本論文はこれを多くのインダス文化集団の遺伝的特徴と仮定します。ASIは紀元前2000年以後に、このインダス川流域集団とAASI関連系統集団の混合として成立しました。紀元前2000~紀元前1000年の間に、CSMLBA系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合してANIを形成しました。紀元前2000年以後、ASI とANIが混合し、現代インド人に見られる遺伝的勾配を形成していき、アジア南部の現代の多様な集団が形成されました。

 インダス川流域集団はインダス文化の発展前となる紀元前5400~紀元前3700年に形成されます。これは、インダス川流域集団のイラン農耕民関連系統はインダス川流域狩猟採集民の特徴で、それはコーカサス北部およびイラン高原農耕民の特徴と同様だった可能性を提示します。イラン北東部の狩猟採集民におけるそうした系統の存在も、この可能性と整合的です。もう一つの可能性は、イラン高原から農耕牧畜集団が紀元前七千年紀にアジア南部へと拡大した、というものです。しかし、この仮説は、インダス川流域集団ではアナトリア農耕民関連系統がほとんど存在しない、という知見と整合的ではありません。

 そのため本論文は、アナトリア農耕民関連系統の東方への拡大がイラン高原およびトゥーラーンへの農耕拡大と関連していたという見解を支持しているものの、アジア南西部からアジア南部への大規模な移動は、イラン高原において全員にかなりのアナトリア農耕民関連系統が見られる紀元前6000年以後にはなかった、と推測しています。国家成立以前の言語は人々の移動に伴うのが通常なので、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族は、アジア南西部の農耕民拡大の結果ではないだろう、との見解を本論文は提示しています。

 これは、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族が草原地帯起源であることを示唆します。しかし、中期~後期青銅器時代の中央草原地帯とアジア南部の物質文化の類似性はひじょうに少ない、と指摘されています。ただ本論文は、ヨーロッパ西部起源と考えられるビーカー複合(Beaker Complex)文化が、ヨーロッパ中央部ではヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民系統を50%程度有する集団と関連していることから、物質文化のつながりの欠如は遺伝子拡散を否定するわけではない、と指摘しています。ヨーロッパでは、草原地帯系統集団が在来の物質文化を取り入れながら、遺伝的には在来集団に大きな影響を及ぼした、というわけです。

 本論文は、アジア南部集団が、ヤムナヤ文化集団に代表されるWSEMBAから、その影響を受けたCSMLBAを経由して(30%程度)、20%程度の影響を受けた、と推定しています。以前の研究(関連記事)では、アジア南部に草原地帯牧畜民系統をもたらしたのは直接的にはヤムナヤ文化集団ではない、と推測されていましたが、間接的にはヤムナヤ文化集団のアジア南部への遺伝的影響は一定以上あるようです。さらに本論文は、インド・ヨーロッパ語族のサンスクリット語文献の伝統的な管理者と自任してきた司祭集団において、男系を示すY染色体においてとくに草原地帯牧畜民系統の比率が高いことからも、インド・ヨーロッパ語族が草原地帯系統集団によりもたらされた可能性が高い、と推測します。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダスインダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と本論文は推測しています。これは、インダス文化の印章の記号(インダス文字)がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また本論文は、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定しています。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。

 ヨーロッパとアジア南部は、農耕開始前後にアジア南西部起源の集団が流入した後、銅器時代~青銅器時代にかけて、ユーラシア中央草原地帯起源の牧畜民が流入してきて遺伝的影響を受けたという点で、よく類似しています。しかし、更新世から存在したと考えられる狩猟採集民系統の比率が、アジア南部ではAASIとして最大60%程度になるのに対して、ヨーロッパではヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)として最大で30%程度です。これは、ヨーロッパよりも強力な生態系もしくは文化の障壁がアジア南部に存在したからだろう、と本論文は推測しています。

 これと関連して、草原地帯牧畜民系統の到来がアジア南部ではヨーロッパよりも500~1000年遅くて、その影響がアジア南部ではヨーロッパよりも低く、Y染色体に限定しても同様である、ということも両者の違いです。本論文は、この状況はヨーロッパ地中海地域と類似している、と指摘します。ヨーロッパでも地中海地域は、北部および中央部よりも草原地帯系統の比率はかなり低く、古典期には多くの非インド・ヨーロッパ語族系言語がまだ存在していました。一方、アジア南部では非インド・ヨーロッパ語族系言語が今でも高い比率で使用されています。これは、やや寒冷な地域が起源の牧畜民集団にとって、より温暖な地域への拡散は難易度が高かったことを反映しているのかもしれません。


 もう一方の研究(Shinde et al., 2019)はオンライン版での先行公開となります。インダス文化の遺跡では何百人もの骨格が発見されていますが、暑い気候のためDNA解析は困難です。しかし近年、内耳の錐体骨に大量のDNAが含まれていると明らかになり、熱帯~亜熱帯気候の地域でも古代DNA研究が進んでいます。本論文(セル論文)は、インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された、多数の錐体骨を含む61人の遺骸からDNA抽出を試み、そのうち有望とみなされた1個体(I6113)から、31760ヶ所の一塩基多型データを得ることに成功しました。I6113は性染色体の配列比較から女性と推定され、mtHg-U2b2と分類されました。このハプログループは、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は、上述のサイエンス論文で云うところの、インダス川流域集団に位置づけられ、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。つまり、I6113もアナトリア農耕民関連系統を有していないわけです。I6113は、イランのザグロス山脈西部遊牧民とアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)との混合としてモデル化されます。つまり、イラン系統と更新世からアジア南部に存在した系統の混合というわけです。上述のように、サイエンス論文では紀元前2500~紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300~紀元前2000年頃のイラン東部遺跡の外れ値となる11人はインダス文化集団からの移民との見解が提示されており、本論文(セル論文)でその具体的証拠が得られたことになります。インダス文化期のラーキーガリー遺跡ではI6113のような遺伝的構成が一般的だっただろう、と本論文は推測しています。

 本論文は、サイエンス論文の外れ値となる11人とラーキーガリー遺跡のI6113を合わせてインダス文化集団と把握しています。I6113には草原地帯系統が見られず、イラン系統が87%と大半を占めます。このインダス文化集団におけるイラン系統は、イラン系統が狩猟採集民系統と牧畜民系統に分岐する前に分岐した系統と推定されています。その推定年代は紀元前10000年よりもさかのぼり、イラン高原における農耕・牧畜の開始前となります。これは、インダス文化集団におけるイラン系統が、農耕開始前にアジア南部に到来したことを示唆します。紀元前7000年以後、イラン高原ではアナトリア農耕民関連系統が増加し、サイエンス論文で示されているように、西部ではアナトリア農耕民関連系統の比率が59%と高く、東部では30%と低い勾配を示します。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図3を掲載します。

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https://marlin-prod.literatumonline.com/cms/attachment/39fa94c3-2fb2-46ec-8afb-d11af2e98911/gr3_lrg.jpg

 本論文はこれらの知見から、アジア南部ではヨーロッパと同様に、最初に農耕の始まった肥沃な三日月地帯からの直接的な移住により農耕が始まったわけではない、と指摘します。ヨーロッパの場合は、アナトリア半島東部の狩猟採集民が外部からの大規模な移住なしに農耕を始め(関連記事)、その後でヨーロッパに拡散していきました。アジア南部の場合は、まだ特定されていない地域の狩猟採集民が、外部からの大規模な移住なしに農耕を始めたのだろう、と本論文は推測しています。ただ本論文は、アジア南部内で初期農耕民による大規模な拡大が起き、農耕の拡大とともに集団置換が起きた可能性も想定しています。そのような事象が起きたのか否かは、本論文が指摘するように、農耕開始前後の古代DNA研究で明らかになるでしょう。

 インダス文化集団は、アナトリア農耕民関連系統を有さず、イラン高原の古代の農耕民系統とは異なるイラン系統を有するため、アナトリア半島からアジア南部へ初期農耕民がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたとする仮説と整合的ではない、と本論文は指摘します。本論文はサイエンス論文と同様に、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたのは紀元前二千年紀に到来した草原地帯牧畜民系統集団だろう、と推測します。本論文は、I6113に代表されるインダス文化集団がインダス文化全体の遺伝的構成に共通している可能性を主張しつつも、まだ標本が少なく、今後広範囲で標本数を蓄積していき、定量的に分析していく必要がある、と指摘しています。サイエンス論文とセル論文の著者の一人でもあるパターソン(Nick Patterson)氏は、インダス文化集団は遺伝的にたいへん多様だっただろう、と推測しています。


参考文献:
Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487

Shinde V. et al.(2019): An Ancient Harappan Genome Lacks Ancestry from Steppe Pastoralists or Iranian Farmers. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.08.048

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html
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雑記帳 2020年08月31日
古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html

 古代DNAに基づく近年のユーラシア西部の現生人類(Homo sapiens)史研究を整理した概説(Olalde, and Posth., 2020)が公表されました。ユーラシア西部における現生人類の遺伝的歴史は、過去10年にたいへん注目されてきた研究分野です。これまでの研究の大半は、新石器時代と青銅器時代に起きた大規模な文化的移行をより理解するため、超地域的視点に焦点を当ててきており、おもに8500~3000年前頃の個体群が対象でした。

 最近では、そうした大規模な手法は学際的な小地域研究により補完されており、それは過去の社会の通時的な再構築を目指し、古代DNA研究の将来の主流の方向性となる可能性が高そうです。さらに、ユーラシア西部全域の刊行された人類ゲノムの時間的分布を考慮すると、一方の側は上部旧石器時代と中石器時代、もう一方の側は鉄器時代に広く対応しています。この期間の研究もひじょうに興味深いものの、固有の課題もあり、それは、狩猟採集民遺骸としばしば乏しい古代DNA保存という利用可能性の低さと、歴史時代の集団間の減少した遺伝的差異を含みます。本論文は、最近明らかになってきたような、ユーラシア西部の古代DNA研究における新たな動向を取り上げます。


●ユーラシア西部狩猟採集民

 45000年前頃以降の大半において、ヨーロッパと近東の現生人類は狩猟採集戦略に依存していました。上部旧石器時代および中石器時代と新石器時代の一部地域では、集団の生活様式は狩猟採集でした。8500年前頃以降になって初めて、農耕が近東からヨーロッパに拡大してきました。この狩猟採集に依拠していた期間が長いにも関わらず、ヨーロッパと近東の刊行された古代ゲノムのうち、狩猟採集民個体群に由来するのは10%未満です。

 ヨーロッパの狩猟採集民に関する最初の大規模なゲノム規模研究は2016年に公表され、45000~7000年前頃の50人のゲノムが分析されて、その後のいくつかの研究の基礎となりました(関連記事)。遅くとも37000年前頃以降、ヨーロッパの全個体は後のヨーロッパ人集団とある程度の遺伝的類似性を有します。しかし、その研究ではヨーロッパの現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は経時的に減少したと推定されましたが、最近の研究では、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人系統の割合はほぼ一定だった、と推定されています(関連記事)。

 後のヨーロッパ人集団に寄与した最古のゲノムは、ロシア西部のコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)です。この2個体は相互に、ひじょうに異なる2系統の初期の分岐を表しており、より新しい別々の狩猟採集民集団と関連しています。

 ヨーロッパ全域で観察された最初の明確な遺伝的クラスタは、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名され、チェコからベルギーとイタリア南部までの34000~26000年前頃のゲノムを含みます。これらの個体群はグラヴェティアン(Gravettian)技術複合と関連しており、コステンキ14個体およびその姉妹系統である34000年前頃のロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団と、高い遺伝的類似性を共有しています。さらに、クリミア半島からの提案されたグラヴェティアン個体もまた、ヴェストニツェ遺伝的クラスタのより新しい個体群との類似性を示し、グラヴェティアン関連遺伝的構成の西方から東方への拡大が支持されます。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後、Goyet Q116-1個体で特定された遺伝的系統は、考古学的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連した個体群に現れ、その年代はイベリア半島では19000年前頃、ヨーロッパ中央部では15000年前頃です。15000年前頃のヨーロッパでは温暖化が起き、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に因んで命名された新たな遺伝的系統であるヴィラブルナの存在と同時に発生し、このヴィラブルナ系統は現代および古代の近東集団と有意なつながりを示します(関連記事)。このかなり均質な遺伝的構成は、イタリア(関連記事)からブリテン島(関連記事)にまたがるヨーロッパ全域に広範に拡大しました。

 ヴィラブルナ系統の起源はまだ議論されていますが、近東の上部旧石器時代個体群の最近の分析では、ジョージア(グルジア)とアナトリア半島でそれぞれ26000年前頃と15000年前頃に混合したそのような系統存在が明らかになっています。しかし、近東からヨーロッパへの長期的拡大というよりもむしろ、ヨーロッパ南東部の気候的な待避所からの二重の集団拡散が、これら2地域の遺伝的な祖先構成の説明として提案されてきました。他の氷期の待避所としてイベリア半島が提案されており、そこではマグダレニアン関連系統が、広範囲のヴィラブルナ系統とともに、中石器時代まで高い割合で残存していました(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では遅くとも8000年前頃までには、東部狩猟採集民(EHG)と命名された他の異なる遺伝的系統を有する個体群が、西部狩猟採集民(WHG)ヴィラブルナ系統と関連する個体群とともに東西に沿って遺伝的勾配を示します。スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民は、さらに東方に位置する集団と比較してずっと高い割合のEHG関連系統を有するので、この勾配の顕著な例外を表します(関連記事)。そのため、氷期後のスカンジナビア半島の定住は、北方からEHG、南方からWHGの拡大を伴っていたという二重経路で、その後で混合が起きた、と提案されています(関連記事)。

 ヨーロッパのほとんどで、狩猟採集民系統はその後に、新石器時代の拡大の結果として、農耕関連遺伝的構成にほぼ置換されました。しかし、バルト海地域のようなヨーロッパ北部の周辺では、狩猟採集民の遺伝的構成が中期新石器時代の5500年前頃まで、ヨーロッパにおける農耕民到達後も3000年ほど維持されました。ロシア西部のサマラ(Samara)地域の個体群は、EHG関連系統の東限となり、ウラル山脈のすぐ東のシベリア狩猟採集民は、ユーラシア東部集団との遺伝的類似性を示します。


●鉄器時代から歴史時代

 過去3000年の歴史は、現代人集団の最終的な形成の理解に重要です。人類の移動性が高まっているため、この期間の人口統計学的事象は小規模でも大規模でも豊富で、そのほとんどは歴史的な情報源で描かれています。しかし、歴史的記録の解釈は決定的ではないかもしれず、古代DNA研究には、記録にある事象の人口統計学的影響をよりよく理解するのに有益な手法となる可能性があります。じっさい、この分野の焦点はより最近の歴史に移り始めており、鉄器時代から現代までのヨーロッパと近東の遺伝的歴史を扱う研究が増加しています。

 ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。

 レヴァントでは、遺伝子流動の兆候が鉄器時代とローマ期の個体群で検出されました。これらの個体群は、青銅器時代および現代の集団と全体的には遺伝的継続性を有するにも関わらず、おそらくは早期の歴史的事象と関連するヨーロッパ人関連構成をわずかに示します(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNA研究で注目を集め始めている大きな事象は、紀元前三千年紀のギリシア人とフェニキア人の拡大です。これらの文化は長距離海上ネットワークの確立を通じて地中海沿岸に交易所を設けましたが、在来集団との統合の程度や、後の集団への遺伝的寄与といった重要な問題はさほど理解されていません。スペイン北東部のギリシア植民地の24個体のゲノム規模研究では、遺伝的に異なる2集団が報告されており、一方は在来のイベリア半島集団と、もう一方は同時代のギリシア集団との遺伝的類似性が指摘され、移民の継続的到来もしくは在来集団との限定的な交雑が示唆されます(関連記事)。

 スペインのイビサ島とイタリアのサルデーニャ島のフェニキア・カルタゴ文化個体群は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析(関連記事)とゲノム規模分析(関連記事)によって、遺伝的に先住集団とは異なるところがあり、在来集団からの多様な割合の遺伝的寄与とともに、地中海東部関連系統およびアフリカ北部関連系統を有する、と明らかになっています。同様のゲノム規模データの痕跡が、イベリア半島南部で少なくともローマ期には観察されていますが、より早期の同地域のフェニキア・カルタゴ文化関連個体群にさかのぼることができるかもしれず(関連記事)、これらの文化と関連した人類の移動が、長期間持続する遺伝的影響を地中海の一部集団に残した、と示唆されます(関連記事)。

 ローマは共和政確立後、ユーラシア西部で最大かつ最強の都市となりました。最近の研究では、帝政期のローマの成長は、地中海東部からの移民の影響を受けており、西方からの遺伝的影響の証拠はほとんどなかった、と明らかになっています(関連記事)。1500~1000年前頃となる中世前期には、文献に西ローマ帝国の支配地だった地域における「蛮族」集団の拡大が見え、しばしば大移動期とされます。西ゴートやランゴバルド(関連記事)やバイエルン(関連記事)やアレマン(関連記事)関連の墓地の被葬者の遺伝的構成に関する研究で一貫して明らかなのは、大規模な集団間の不均質性で、ヨーロッパ南部起源よりもむしろ、高頻度でおもにヨーロッパ中央部および北部関連系統の個体群が示されています。同様に複雑な状況はヴァイキングの拡大と関連した集団のゲノム分析でも示されるようになっており、1200~900年前頃となるヴァイキングの時代とその前には、スカンジナビア半島における人類集団の出入が文献に見えますが、それが確証されました(関連記事)。


●小地域の研究

 人類の古代DNA研究の新しい重要な動向は遺跡固有の分析で、古代社会の構造を解明するために学際的手法が用いられています。大規模な研究では複数のゲノムが同じ遺跡から得られ、密接に関連した個体群(たとえば、2~3親等程度)がしばしば見つかっています。これまで、そうした親族関係にある個体群は一般的に、集団遺伝分析から除外されていました。この手法は統計的検定で関連性バイアスを回避するのに適していますが、これら近親者の関係を調べることで、対象集団に関して多くの追加の情報が得られます。こうした研究には学際的手法が必要で、ゲノム・同位体・放射性炭素年代・形態・物質(考古学)のデータが統合されることで、集団内の社会文化的動態の理解を最大化します。

 そうした古代DNA分析に基づいて社会的構造を検証した研究の最初の事例が、装飾品など豪華な副葬品で有名なロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡です(関連記事)。スンギール遺跡の34000年前頃の4個体は遺伝的に密接な関係にない、と明らかになりました。さらに、有効人口規模の減少にも関わらず、近親交配の水準が低いことから、多くの現代狩猟採集民集団と同様に同族婚が避けられていた、と示唆されます。

 後の時代の集団では、複数の新石器時代と青銅器時代の遺跡で、遺跡固有の古代DNA研究により徹底的な調査が行なわれました。その一例は、ポーランドの球状アンフォラ(Globular Amphora)文化関連墓地です(関連記事)。この墓地の全被葬者には暴力的な死の痕跡が見られ、墓地内の4核家族を伴う拡大家族を表しています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の高い多様性とは対照的に、Y染色体ハプログループ(YHg)の多様性が低い場合には、父方居住体系と解釈されています。

 アイルランドやイギリスやスウェーデン(関連記事)やチェコやスイス(関連記事)の新石器時代の巨石埋葬遺跡文でも、社会構造が調査されました。一般的な傾向として、女性よりも男性の方が被葬者は多く、とくにブリテン島とアイルランド島とスイスの巨石墓でその傾向が見られます。さらに、YHgは経時的に維持されており、これらの巨石墓地が父系社会と関連している、と改めて示唆されました。興味深いことに、同時代の異なる遺跡に埋葬された個体群間の密接な近縁関係の事例も明らかになっています。これは、アイルランドの2ヶ所の巨石墓、エストニアの石棺墓、イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の3ヶ所の遺跡で確認されており、これら複雑な埋葬構造が、選択された集団のために建てられた、と示唆されます。

 考古遺伝学的研究はまた、同位体分析や放射性炭素年代測定と効率的に組わせることができ、その事例として、後期新石器時代から中期青銅器時代のドイツ南部のアウグスブルクに近い地域に焦点を当てたものがあります(関連記事1および関連記事2)。中期青銅器時代のドイツ南部では、100個体以上のゲノム比較から、関連していな個体群よりも中核的家族の方が副葬品は多く、副葬品と親族関係との間に正の相関があると明らかになり、社会的不平等の証拠が提示されました。さらに、複数世帯が同じ遺跡に同じ家系で最大5世代にわたって埋葬されており、一般的には女性外婚制と父方居住により特徴づけられます。

 中世前期に関しては、上述のランゴバルドとアレマンとバイエルンという3ヶ所の小地域研究で、親族関係と社会構造が取り上げられています。ランゴバルドに関する研究(関連記事)では63個体が調査され、ハンガリーも含むパンノニアとイタリア北部のピエモンテ州の2ヶ所のランゴバルド人遺跡間および内部の比較が行なわれました。両遺跡の個体群は生物学的親族の周囲に葬られ、遺伝的にはヨーロッパ南部系統とヨーロッパ中央部および北部系統の割合はさまざまで、ヨーロッパ中央部および北部系統は墓地の豊富な副葬品と正の相関を示します。

 ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のアレマン関連墓地は、性的な偏りのある埋葬遺跡を表しており、成人も幼児も男性のみで、戦士階級集団の可能性があります(関連記事)。さらに、このうち5個体は異なる3文化の副葬品と関連しているにも関わらず、父系では関連しています。ドイツ南部のバイエルンの6ヶ所の遺跡では紀元後500年頃の36人のゲノムが分析され、男性は現代の同地域集団と類似しているのに対して、女性は遺伝的異質性が高い、と明らかになりました(関連記事)。興味深いことに、細長い頭蓋骨を有するこれらの女性は、おそらく究極的にはヨーロッパ南東部起源です。

 まとめると、既知の学際的な小地域研究は、複数の証拠を通じて、ヨーロッパの過去の社会の埋葬が、しばしば父系的体系で組織されていると示唆するものの、他の地域と期間も対象とする将来の研究は、ユーラシア西部における変化する社会文化的動態のよりよい理解を、間違いなく提供するでしょう。


●まとめ

 本論文は、現在注目を集めている3分野を強調することで、ヨーロッパと近東の人類古代DNA分野の可能な研究方向性を検討しました。この発展を可能にするためには、ひじょうに分解されたDNAの分離と配列の新たな分子生物学的手法を開発する必要があります。それにより、追加の狩猟採集民遺骸やより困難な環境からのゲノムデータを回収できます。

 一方、ユーラシア西部集団間の遺伝的分化は広範な混合のために時代が降ると顕著に減少することが観察されており(関連記事)、伝統的なアレル(対立遺伝子)頻度に基づく手法ではしばしば検出困難な、微妙な遺伝的パターンをもたらしました。これは、歴史時代における増加する集団内の遺伝的異質性とともに、古代DNAに合わせた、より大規模な標本群の使用と、より高解像度の分析手法の開発を要求します。詳細で場合によっては自動化された血統復元を通じての地域の歴史調査の後には、学際的枠組み内の世界的傾向を識別できるよう、時空間を通じて社会的構造を比較するために、再度俯瞰する必要があるでしょう。


 本論文は、近年のユーラシア西部における古代DNA研究の進展を整理するとともに、新たな研究動向と今後の方針をも提示しており、たいへん有益だと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究は他地域よりもずっと進展しているため、本論文で言及された論文のうち当ブログで取り上げたものも少なくありませんが、未読の論文も多く、既読の論文の内容を改めて整理できたとともに、新たな知見も多く得られました。古代DNA研究の進展は目覚ましいので、頻繁に本論文のような概説を読んでいく必要がある、と改めて思ったものです。

 本論文の提示した古代DNA研究の新たな動向は、小地域、場合によっては1遺跡での学際的な研究です。DNA分析と、同位体分析や放射性炭素年代測定や遺物分析(考古学)や遺骸分析(形態学)を組み合わせることにより、当時の社会構造が浮き彫りにされていきます。これは歴史時代にも有効な手法で、文献を補完できます。歴史学でも、今後は古代DNA研究がさらに重視されるようになっていくでしょう。日本人の私としては、日本列島でもそうした学際的研究が進展するよう、期待しています。また本論文は、そうした詳細な研究の蓄積の後には、改めて俯瞰していく必要があることも指摘しています。どの分野でも、専門化・蛸壺化が指摘されて久しく、専門的で詳細な研究の蓄積は基礎としてたいへん重要ではあるものの、広い視点でそれらを統合する必要があることも確かだと思います。


参考文献:
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html
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2022/05/31 (Tue) 19:49:55

雑記帳 2020年05月24日
ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html
 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係に関する研究(Nikitin et al., 2019)が公表されました。線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)は、ヨーロッパ中央部の新石器時代の始まりにおいて重要な役割を果たしました。文化的・経済的・遺伝的に、LBKは究極的にはアナトリア半島西部に起源がありますが、在来のヨーロッパ中石器時代狩猟採集民社会の明確な特徴も示します。LBKの起源に関しては、いくつかのモデルが長年にわたって提案されてきました。在来モデルでは、LBKはアジア西部の新石器時代一括要素への適応を通じて、在来の中石器時代狩猟採集民集団により、境界での接触および文化的拡散を通じて確立された、と示唆されます。

 統合モデルでは、LBKの形成は植民化・境界移動および接触のようなメカニズムを通じての、中石器時代狩猟採集民の農耕牧畜生活様式への統合として説明されます。このモデルでは、スタルチェヴォ・ケレス・クリシュ(Starčevo-Körös-Criş)文化(SKC)と関連する小集団、おそらくはヨーロッパにおけるLBKの先行者が、祖先の大半がアナトリア半島から早期に到来したバルカンの故地を離れ、北西部へと新たな領域に定着した、と想定されます。在来の中石器時代集団との接触および生産物の交換は、狩猟採集民の農耕民共同体への同化をもたらし、そこでは農耕慣行が採用されました。そうした相互作用の証拠は、明確なSKC関連墓地のあるハンガリー北東部のティスザスゼレス・ドマハザ(Tiszaszőlős-Domaháza)遺跡に存在し、ほぼ狩猟採集民の遺伝的系統の個体群の埋葬を含みます。

 移民モデルでは、中石器時代ヨーロッパ中央部の低人口密度地域が、SKC文化と関連する開拓者の農耕牧畜集団に取って代わられ、しだいに在来の狩猟採集民集団は撤退させられていき、その狩猟採集民は到来してきたスタルチェヴォ移住民に顕著な影響を与えなかった、と想定されます。このモデルでは、在来集団の物質文化特徴の組み込みなしに、新たな到来者たちはその祖先的物質文化を新たに定着した領域で複製した、と想定されます。新たな環境と資源への技術革新と適応に起因して、いくつかの変異的文化が生まれ、石器や土器や建築物質技術において変化が見られます。同時に、装飾的デザインのような象徴的な体系は変化ないままでした。このモデルは1950年代末に出現し、20世紀後半に広く支持されました。

 現在まで、古代DNA研究により、新石器時代ヨーロッパ農耕民集団は、おもにアナトリア半島中央部および西部の新石器時代農耕民(ANF)の遺伝的子孫と示されてきました。それらの遺伝的痕跡は、在来のヨーロッパ中央部の中石器時代狩猟採集民(WHG)とは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体のような単系統でもゲノム規模でも異なります。それにも関わらず、新たな到来者たちが文化的および遺伝的に在来の狩猟採集民とどの程度相互作用したのか、不明確なままです。つまり、統合主義もしくは移行主義のモデルがどの程度正確なのか、不明です。

 遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ中央部農耕民はWHG集団の遺伝的祖先特徴をわずかしか有していませんが、アナトリア半島農耕民のヨーロッパ新石器時代の子孫の遺伝子プールにおけるWHG混合の程度と時期は、ヨーロッパ中央部全域で様々です。ヨーロッパ新石器時代農耕民におけるWHG系統の量は、現在のハンガリーとドイツと他のヨーロッパ地域において、新石器時代を通じて増加する傾向にありますが(関連記事)、その混合の最初の程度は未解決のままです。それは部分的には、新石器時代農耕民移住民の最初の段階と同時代の人類遺骸が少ないためです。

 オーストリアのウィーン南方に位置する、ブルン複合遺跡(the Brunn am Gebirge, Wolfholz archaeological complex)の一部であるブルン2(Brunn 2)遺跡は、オーストリアで最古の新石器時代遺跡で、ヨーロッパ中央部でも最古級となります。ブルン2遺跡はLBKの最初の段階に区分され、形成期と呼ばれています。放射性炭素年代測定法では、ブルン2遺跡の較正年代は紀元前5670~紀元前5350年前です。ブルン2遺跡形成期のおもな特徴は、洗練された土器の欠如と明確なスタルチェヴォ文化の特徴を有する粗放な土器の使用です。ヨーロッパ最初の農耕民の文化的属性の形成におけるアナトリア半島からの移民の主導的役割は、ブルン2遺跡の人工物の比較類型学的分析で明らかです。

 ブルン2遺跡では、土器や石器といった豊富な人工物とともに人形や笛などいくつかの象徴的遺物が発見されており、儀式活動が行なわれた大規模なLBK共同体の「中央集落」の一部だった、と示唆されています。ブルン2遺跡では4人の埋葬が確認されています。この4人の被葬者は、個体1(I6912)・2(I6913)・3(I6914)・4(I6915)です。4人全員の歯はひじょうに摩耗しており、おもに植物性食料を摂取していた、と示唆されます。放射性炭素年代測定法により、この4人の年代はブルン複合遺跡の最初の段階と確認され、最初のヨーロッパ中央部新石器時代農耕民となります。本論文は、これら4人の遺伝子と同位体を分析し、その起源と食性と移動を調査します。

 ブルン2遺跡の4人のうち、3人(I6912・I6913・I6914)で有用な遺伝的データが得られました。この3人は男性で、mtDNAハプログループ(mtHg)は、I6912がJ1、I6913がU5a1、I6914がK1b1aです。Y染色体ハプログループ(YHg)は、I6912がBT、I6913がCT、I6914がG2a2a1aです。I6912とI6913は、網羅率が低いため、さらに詳細に区分できませんでした。全ゲノム配列からは一塩基多型データが得られました。核DNAの網羅率は、I6912が0.035倍、I6913が0.006倍、I6914が0.497倍です。

 主成分分析では、I6912とI6914がANFおよびそれと密接に関連するヨーロッパ新石器時代農耕民(ENF)と集団化する一方で、I6913はWHGに最も近いものの、ENFとANFにより近づいています。ただ、I6912とI6913、とくに後者の網羅率は低いので、主成分分析における位置づけには注意する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文はf統計を使用し、WHG関連系統の割合を、I6912は12±3%、I6913は57±8%、I6914は1%未満と推定しています。さらに、I6912のWHG系統は、ヨーロッパ南東部の狩猟採集民よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近い、と推定されました。I6913では、この区別が正確にはできませんでした。I6914はANFおよびヨーロッパ南東部のスタルチェヴォ関連個体群とほぼ対称的に関連している一方で、ヨーロッパ中央部の他のLBK集団と過剰にアレル(対立遺伝子)を共有しています。I6914と他のLBK個体群とのI6912およびI6913と比較しての高い遺伝的類似性は、これまでに研究されているアナトリア半島およびヨーロッパ南東部の農耕民とは共有されないわずかな遺伝的浮動を経験した集団出身である、と示唆します。

 安定同位体(炭素13および窒素15)の有用なデータが得られたのはI6914と I6915です。安定同位体分析では、ブルン2遺跡個体群はアナトリア半島およびヨーロッパの新石器時代農耕民の範囲内に収まり、C3植物もしくはそれを食べた草食動物におもに食資源を依存していた、と推定されます。歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析では、幼児期の場所が推定されます。ブルン2遺跡個体群では、I6912はブルン2遺跡一帯の出身で、I6913は外部出身と推定されます。同位体分析では、窒素15の値から、より新しい個体で高くなっている、と示されます。これは、ヨーロッパ中央部の初期農耕民ではアナトリア半島の栽培植物が気候の違いから不作となり、農作物よりも動物性タンパク質に依存するようになったことを示しているかもしれません。あるいは、家畜の増加によるものである可能性もあります。

 ヨーロッパ中央部の早期新石器時代の遺骸は比較的豊富ですが、同時期の狩猟採集民の遺骸はほとんど知られていないので、とくにヨーロッパ新石器化の最初期段階における、狩猟採集民の生活様式や拡散してきたアナトリア半島起源の農耕民との統合に関する理解は難しくなっています。上述のように、この時期のヨーロッパにおける拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との混合は限定的と推測されていますが、農耕民から狩猟採集民への生産物の流通が報告されてきており、両者の交流は少なくとも一定以上存在した、と考えられます。

 ブルン2遺跡個体群の生物考古学的分析は、ヨーロッパ中央部における早期ENFの生活史の推測を可能とし、アナトリア半島起源の移住してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の最初期の相互作用の証拠を提示します。ブルン2遺跡の3人のmtHgのうち2系統(J1とK1b1a)は、近東の新石器時代個体群とヨーロッパにおけるその子孫たちで一般的に見られるものです。一方、I6913のmtHg-U5a1などU5は、ヨーロッパの狩猟採集民に特徴的と考えられてきましたが、最近、アナトリア半島中央部のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡の個体でU5b2の個体が確認されています(関連記事)。I6914はYHg-G2a2a1aで、ANFおよびENF集団に特徴的なG2a系統です。カルパチア盆地とヨーロッパ南東部の早期新石器時代遺跡のLBK関連遺骸の以前の研究では、YHg-G2aは早期ENFで優勢とされています。同時期のmtHgの高い多様性は、早期LBK共同体におけるYHgの減少を示唆します。しかし、LBK集団における性比偏りの証拠は見つかっていません(関連記事)。

 I6914は遺伝的にはほぼANF関連系統となり、LBKやSKCを含むENF関連個体のほぼ全員と一致します。WHG関連系統は、I6914にはほとんど見られませんが、I6912とI6913では確認されます。アナトリア半島起源のANF関連系統の個体群がヨーロッパ南東部を経てヨーロッパ中央部に拡散する過程で、ヨーロッパ在来のWHG関連系統個体群と混合したと考えられますが、その年代は特定できなかったので、それがブルン2遺跡一帯とヨーロッパ中央部到来前のどちらで起きたのか、不明です。あるいは、ブルン2遺跡の移民が、ブルン2遺跡よりも600年ほど早くアナトリア半島からバルカン半島に移住し、WHG関連系統個体群を取り込んだ集団と交流したか、その子孫だった可能性も考えられます。しかし、I6913ではWHG関連系統の割合が高く、それよりは低いものの有意にWHG関連系統を有するI6912では、ヨーロッパ南東部よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近いWHG関連系統と推定されているので、ヨーロッパ中央部に到達してからの最近の混合である可能性が高そうです。

 ブルン2遺跡の石器群からは、早期ENFと在来の狩猟採集民との間の活発な相互作用が示唆されます。ブルン複合遺跡の15000個におよぶ石器群は、新石器時代農耕民が在来の狩猟採集民との交易のために狩猟用として製作した、と本論文は推測しています。早期LBK地域では暴力の証拠が欠如しており、LBK農耕民と在来の狩猟採集民との間の関係が悪くなかったことを示唆します。上述のようにI6913は外部出身と考えられますが、I6913の墓の石器は形成期LBKの集落が発見されたハンガリーのバラトン湖(Lake Balaton)の石で製作されたので、I6913はバラトン湖周辺地域の出身かもしれません。また本論文は、ブルン2遺跡の石器の製作には狩猟採集民社会出身者が関わっている可能性を指摘しており、そうだとすると、I6913における高い割合のWHG関連系統を説明できるかもしれません。

 ブルン2遺跡は、ヨーロッパ中央部における最初期新石器時代農耕民が、在来の狩猟採集民と文化的・遺伝的にどのような関係を築いたのか、検証するための格好の事例を提供します。ブルン2遺跡の個体群は、ANFとWHGの混合の第一世代だった可能性もあり、ヨーロッパ中央部の最初期新石器時代において、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民との間で、後期新石器時代程ではないとしても、一定以上混合が進んでいたことを示唆します。本論文は、ヨーロッパにおける新石器化に関して、アナトリア半島からの農耕民の移住が関わっており、さまざまな程度で在来集団と混合していった、と指摘します。この在来集団には、狩猟採集民だけではなく、より早期にバルカン半島に進出していた農耕民も含まれるかもしれません。今後の課題は、ヨーロッパにおけるANFと在来の狩猟採集民との関係をより広範に調査することです。


参考文献:
Nikitin AG. et al.(2019): Interactions between earliest Linearbandkeramik farmers and central European hunter gatherers at the dawn of European Neolithization. Scientific Reports, 9, 19544.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56029-2

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html
6:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:50:22

雑記帳 2020年07月12日
ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html

 ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係についての研究(Betti et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。近東では完新世初期に、ヒトの生存戦略が狩猟採集から農耕牧畜への依存度の高い生計へと大きく変わりました。この新石器時代の新たな生活様式により、人口密度の増加や長期的な定住など社会が大きく変わりました。紀元前7000年頃、農耕はヨーロッパへと拡大し、まず近東に近い南東部で出現しました。ヨーロッパにおける農耕拡大は、おおむね南東から北西へと進み、狩猟採集民による農耕採用というよりは、近東起源の農耕民集団のヨーロッパへの急速な拡散によるものでした。新石器時代ヨーロッパにおいて、農耕民と在来の狩猟採集民とは遺伝的に大きく異なり、農耕民はアナトリア半島の初期農耕民と遺伝的によく似ています。

 また、考古学的データの蓄積とともに、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度に大きな地域差があることも明らかになってきました。放射性炭素年代測定法による結果から、とくに北海とバルト海に近づくと、農耕拡大が著しく減速する、と示唆されています。これに関しては、近東から一括して導入された作物がヨーロッパ北部の寒冷湿潤な気候では上手く育たなかった、といった説明が提示されています。また新石器時代において、アジア南西部やヨーロッパ南東部と比較して、ヨーロッパ中央部および北西部の穀類と豆類の種の多様性は顕著に低い、と報告されています。これに関しては文化的要因が指摘されていますが、気候条件も一因と考えられています。

 この減速の代替的な説明は、ヨーロッパ北部では中央部もしくは南部と比較して、狩猟採集民の人口密度が高かった、というものです。その要因として、ヨーロッパ北部沿岸環境では狩猟・漁撈・採集の信頼性が高く生産的だったから、と推測されています。在来の大規模な狩猟採集民共同体の存在は、農耕民集団の拡散を妨げたかもしれない、というわけです。また、ヨーロッパに農耕が拡大した後、南部と中央部で普及様式が変わり、在来の狩猟採集民集団が次第に重要な役割を果たようなす文化変容が伴った、との見解も提示されています。

 本論文は、ヨーロッパ全域の農耕牧畜の最初の到来年代の大規模なデータベースの作成と、古気候復元と関連する速度変化の分析により、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度を促進する気候の役割を検証します。また本論文は、観察された気候要因パターンの文脈において、早期農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用を定量化するため、古代DNAデータを合成して再分析します。

 本論文は、ヨーロッパ全域の1448ヶ所の新石器時代遺跡のデータベースを分析しました。その結果、拡大は均一ではなく、いくつかの主要軸に沿って進んだ、と明らかになりました。その主要軸とは、地中海沿岸を西進してイベリア半島へと到達する経路(地中海軸)、現在のドイツなどヨーロッパ中央部へと北西方向へ進みブリテン島へと到達する経路(中央軸)、ヨーロッパ中央部を北進してスカンジナビア半島へと到達する経路(スカンジナビア軸)、北東方向へ進みヨーロッパ東部から現在のロシア西北端へと到達する経路(北東軸)です。各軸に沿った経路では、当初は急速に拡張し、隣接地域への拡大は遅くなる傾向が見られます。当初の急速な拡大に続き、中央軸では紀元前6200年頃、スカンジナビア軸では紀元前5400年頃、北東軸では紀元前5700年頃に著しい拡大の減速が見られます。中央軸の減速は大西洋沿岸に到達する前に起きているので、イギリス海峡を渡る必要性の結果ではありません。一方、航海を含んでいただろう地中海軸では、イベリア半島大西洋沿岸に到達するまで減速は見られません。

 この農耕拡大速度データと気候データを組み合わせると、農耕拡大速度は5度に設定された有効積算温度(GDD5)と明確に対推しており、GDD5が2000未満で減速が発生しました。また夏の平均月間気温も、GDD5ほどではありませんが、減速と対応しており、16度を下回ると減速が発生します。対照的に、冬の平均気温や最も乾燥した月の降水量や年間平均気温などは、減速とは関連していませんでした。これらの知見は、減速の要因が、近東で最初に栽培化された種には不適切な気候条件の地域へと到達と関連している、という仮説を裏づけます。これは、地中海軸において減速が見られないことにも支持されます。

 次に本論文は、ヨーロッパにおいて近東起源の外来農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の関係が、両集団間での混合の増加に伴って変化したのかどうか、調べました。公開された295人のヨーロッパ新石器時代個体のゲノム規模データから、狩猟採集民系統の相対的寄与が定量化されました。新石器時代後半に起きた狩猟採集民系統の漸進的な増加を考慮しても、GDD5の減少に伴って狩猟採集民系統の顕著な増加があり、GDD5が1700未満の地域でとくに目立ちます。農耕拡大の遅い地域は、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との間のより高い遺伝的混合でも特徴づけられます。また、農耕拡大の減速とそれに伴う農耕民と狩猟採集民との混合の増加が、狩猟採集民の人口密度の高さに起因するのか、調べられました。人口密度は遺跡密度で代用され、遺跡密度と混合増加との間に明確な関連性は見られませんでしたが、標本抽出の点での偏りも想定され、じっさいの人口密度を反映していないかもしれません。

 本論文の結果は以前の諸研究と合致しており、ヨーロッパにおける農耕拡大は北部で著しく減速し、農耕拡大は連続的な過程ではなくさまざまな速度で進んでいった、と示されます。本論文はこの減速の明確な仕組みを提供し、それは気候条件、より具体的にはGDD5の低下で、つまりは新石器時代の作物の成長における夏の重要性です。その適合度が低いと農耕拡大は減速する、というわけです。ヨーロッパ北部の気候条件は近東とは大きく異なるので、近東起源の作物の栽培が制約されました。農耕がヨーロッパにおいて中央部と北部に拡大する過程で、作物の種類が減少したことも先行研究で指摘されています。好みなど文化的要因だけで、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速を説明するのは妥当ではない、というわけです。

 ブリテン諸島とスカンジナビア半島では紀元前4600~紀元前4000年頃に作物栽培が確立されましたが、その後、数世紀にわたって考古学的記録から穀類が急速に減少・消滅し、それらの穀類の収量が充分ではなかったか、予測困難なために放棄された可能性を示唆します。ブリテン諸島やスカンジナビア半島の一部では、穀類の栽培が続いても、寒さや一般的なストレスにより耐性のあるオオムギへと顕著に移行していきましたが、当初ヨーロッパに導入された近東起源の穀類には、秋に播種して翌年夏に収穫するものが含まれていました。ヨーロッパ北部のような寒冷地域では、元々は秋に播種されて翌年夏に収穫されていたオオムギが、春に播種されて秋に収穫されるようになりました。ブリテン諸島では前期青銅器時代に春に播種するオオムギ品種が導入された、という可能性も指摘されています。

 ヨーロッパにおいて、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との混合は、近東起源の穀類の栽培に適していない地域に農耕民が拡散してくると増加しました。これは、以前に指摘された、より高緯度での狩猟採集民系統の増加を説明できます。食糧生産の信頼性が低下したため、農耕民はしだいに狩猟採集に依存するようになり、在来の狩猟採集民共同体と接触して、モノや知識を交換するようになった、と考えられます。ヨーロッパにおける、農耕民と狩猟採集民との最初期かそれに近い時期の接触と考えられる事例も報告されるようになり(関連記事)、農耕民と狩猟採集民との関係の年代・地域による違いが、今後さらに解明されていくのではないか、と期待されます。

 今後の課題として本論文が重視するのは、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速に続くその後の拡大です。この後期の農耕拡大は速く、農耕技術の改善が示唆されますが、新たな農耕拡大地域では、農耕民と狩猟採集民との間の混合が高率で続きました。これは、農耕技術が改善されても、気候条件により恵まれた地域と比較すると狩猟採集に依存しており、農耕拡大速度に関係なく、農耕民が狩猟採集民と接触したためかもしれません。この問題の解明には、本論文の対象範囲を超えたより詳細な調査が必要です。本論文と以前の研究で示された、気候条件と強く関連するヨーロッパにおける農耕拡大の顕著な減速とともに、他の期間ではより緩やかな減速の地域もある、との見解も提示されています。この緩やかな減速は、人口や社会文化的条件など、気候以外の要因も想定されます。

 本論文は、遺跡・古気候復元・古代DNAに関する情報を統合することにより、気候がヨーロッパ新石器時代における農耕拡大、および農耕民と狩猟採集民との相互作用にどのような影響を与えたのか、一貫した見通しを提示できました。この見解の重要な検証が、現時点では放射性炭素年代測定結果が少ない、さらに東方の地域における農耕拡大の詳細な分析となります。たとえば、アジア東部における農耕拡大は、ヨーロッパと比較して充分には特徴づけられていませんが、最近の古代DNA研究では、より高緯度で狩猟採集民系統が増加するという、ヨーロッパと類似したパターンが示唆されています。今後の研究でとくに興味深いのは、近東の東部山脈地帯を起源とする農耕民が拡散した地域で、そうした厳しい気候条件で栽培化された作物はアナトリア半島の作物よりも耐寒性があったかもしれず、より厳しい気候条件下での農耕拡大減速を予測できる可能性があります。


参考文献:
Betti L. et al.(2020): Climate shaped how Neolithic farmers and European hunter-gatherers interacted after a major slowdown from 6,100 BCE to 4,500 BCE. Nature Human Behaviour.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-0897-7

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html
7:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:51:04

雑記帳 2018年08月18日
ヨーロッパの人類史
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_30.html

 中期更新世~青銅器時代までのヨーロッパの人類史を遺伝学的観点から検証した研究(Lazaridis., 2018)が公表されました。近年の遺伝学的諸研究が整理されており、たいへん有益だと思います。とくに、図はよく整理されていて分かりやすいと思います。本論文には当ブログで近年取り上げた研究が多く引用されており、それらを再度参照しつつ、読み進めていきました。また、最近刊行された『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(関連記事)と併せて読むと、さらに理解が深まると思います。私も、近いうちに同書を再読しようと考えています。

 下部旧石器時代(前期~中期更新世)~中部旧石器時代(中期~後期更新世)までのヨーロッパには、現生人類(Homo sapiens)とは異なる系統のホモ属が存在していました。これらの人類の遺伝学的情報に関しては、今年(2018年)3月に一度まとめました(関連記事)。ヨーロッパで最古となる人類のDNAは、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群から得られており、核DNAでは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方に近縁で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では現生人類やネアンデルタール人よりもデニソワ人の方と近縁となります(関連記事)。本論文が対象とするのは、このSH人骨群の存在した43万年前頃以降のヨーロッパとなります。ただ本論文は、43万年前頃~現生人類が拡散してくるまで(45000年前頃?)のヨーロッパの人類史をネアンデルタール人系統に集約させていますが、もっと複雑だった可能性が高いように思います(関連記事)。

 45000年前頃かそれ以前より、ヨーロッパには現生人類が拡散してきて、中部旧石器時代から上部旧石器時代へと移行します。ヨーロッパのネアンデルタール人は4万年前頃には絶滅したとされていますが(関連記事)、イベリア半島ではさらに3000年ほどネアンデルタール人生存の可能性が指摘されています(関連記事)。ただ、現時点では、遺伝的に明確に現代ヨーロッパ人系統とつながる最古の個体は、ヨーロッパロシアで確認された39000~36000年前頃の個体までしかさかのぼらず(関連記事)、西ヨーロッパの35000~34000年前頃のベルギーの個体がそれに続きます。一方、クロアチアの42000~37000年前頃の現生人類個体は、その4~6代前にネアンデルタール人と交雑し、現代には子孫を残していない、と考えられています(関連記事)。そのため、4万年前頃のナポリ近郊の大噴火により、ヨーロッパの現生人類とネアンデルタール人は絶滅して後続の現生人類に置換された、とも考えられますが、この大噴火がヨーロッパの初期現生人類を絶滅させたわけではない、との見解も提示されています(関連記事)。

 ベルギーの、現代ヨーロッパ人系統とつながる最初期の個体は、他の同年代の西ユーラシア人よりも多くの対立遺伝子を近い年代の東アジア人と共有しており(関連記事)、しかもmtDNAハプログループでは、ユーラシア東部やオセアニアでは高頻度で見られるものの、現代のユーラシア西部ではほとんど確認されていないM系統に分類されます。これは例外ではなく、21000年前頃となる最終氷期極大期前のヨーロッパには、他にもmtDNAハプログループMが存在していました。こうしたユーラシア東部やオセアニアとの遺伝的類似性は、グラヴェティアン(Gravettian)と関連する31000~26000年前頃のイタリア・ベルギー・チェコの集団や、マグダレニアン(Magdalenian)と関連する19000~15000年前頃のスペイン・フランス・ドイツ・ベルギーの集団では消滅していました。ヨーロッパの大半では15000年前頃までには、西ヨーロッパ更新世狩猟採集民集団(WHG)が優勢となり、現代の南部および北部ヨーロッパ人に遺伝的影響を残しています。WHGには、ヨーロッパの周辺地域、とくにアナトリア半島の集団との遺伝的類似性も見られます。東ヨーロッパでは、WHGと上部旧石器時代シベリア狩猟採集民との混合により、狩猟採集民集団(EHG)が形成されました。EHGは北ヨーロッパの狩猟採集民に遺伝的影響を及ぼしました。

 ヨーロッパには9000年前頃よりアナトリア半島から農耕民が拡散してきて、しだいに農耕が定着していきます。WHG系統は前期新石器時代のハンガリーや6000~5000年前頃までのドイツではまだ強い遺伝的影響力を有していたものの、しだいにアナトリア半島からの農耕民と融合し、その独自の遺伝的構成は失われていきました。このアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民は、仮定上の存在である「基底部ユーラシア人」の遺伝的影響を受けていました。基底部ユーラシア人は、他の非アフリカ系と101000~67000年前に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推定されています。後期~末期更新世を通じて、おそらくは自然選択もあり、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は減少していきました。そこへ、基底部ユーラシア人の遺伝的影響を受けたアナトリア半島からの農耕民がヨーロッパに拡散してきて在来のWHGやEHGと融合したので、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響はさらに低下し、現在では東アジア系現代人よりも低くなっています。基底部ユーラシア人は中東の農耕民とコーカサスの狩猟採集民に遺伝的影響を及ぼし、後にはユーラシア西部集団に強い影響力を有することになりました。

 現代ヨーロッパ人の基本的な遺伝的構成は、この新石器時代に確立した集団に、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯の遊牧民がヨーロッパに拡散してきて融合したことで成立します。銅石器時代~青銅器時代の間の草原地帯の集団は、東ヨーロッパに8000年以上前に存在したEHGと、現代アルメニア人と関連する南方集団と、コーカサスの狩猟採集民と、イランの農耕民との混合の結果成立しました。この草原地帯の集団が騎馬遊牧民となり、5000年前頃からヨーロッパに拡散したことで、とくに中央部と北部に関しては大きな影響を及ぼした、と明らかになっています。ただ、草原地帯遊牧民のヨーロッパにおける遺伝的影響については、地域的な違いが見られる、とも指摘されています(関連記事)。この草原地帯遊牧民は、おもにヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と考えられており、東方にも拡散して南および西アジアとヨーロッパにインド・ヨーロッパ語族を普及させた、と想定されているのですが、南および西アジアに関しては、この見解に疑問も呈されています(関連記事)。

 このように、古代DNA研究の進展によりヨーロッパの人類史に関して多くのことが解明されました。しかし、同時に多くの問題が新たに浮かび上がってきた、と本論文は指摘します。35000年前頃以降にヨーロッパに出現した現代ヨーロッパ人と遺伝的につながっている最初の人類集団はどこから到来したのか、中東集団は基底部ユーラシア人とどのよう過程を経て交雑したのか、基底部ユーラシア人系統が直接ヨーロッパに拡散しなかった理由、WHGが15000年以上前に最終氷期以前の人類と事実上置換した理由、EHGを創出することになった古代シベリア集団の西進理由、草原地帯からの移住民がヨーロッパで大きな遺伝的影響力を有するようになった理由などです。今後、こうした問題も古代DNA研究の進展により解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Lazaridis I.(2018): The evolutionary history of human populations in Europe. Current Opinion in Genetics & Development, 53, 21-27.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2018.06.007

https://sicambre.at.webry.info/201808/article_30.html
8:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:51:28

雑記帳 2018年05月11日
インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html
 おもに5500~3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期~後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で紀元前2500~2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711

https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html
9:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:52:14

雑記帳 2021年01月24日
ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html

 ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化に関する研究(Saag et al., 2021)が公表されました。現在のロシア領の西部は、先史時代のいくつかの移動・変容過程の焦点でしたが、古代DNA研究ではかなり過小評価されたままです。上部旧石器時代のスンギール(Sunghir)遺跡(関連記事)やコステンキ14(Kostenki 14)遺跡(関連記事)など、ヨーロッパで最古の遺伝的に研究された個体群の一部はロシア西部に由来しますが、全体的には古代の遺伝的情報は希薄です。

 ヨーロッパ東部および北部の森林地帯への人類の移住は、紀元前一万三千年紀から紀元前九千年紀にかけての更新世末と中石器時代初めに、2回の大きな波で起きました。両方の事例では、ヨーロッパの広範な地域に拡大した文化と類似した物質文化を有する人々の集団が、移住過程に加わりました。この地域の中石器時代の居住に関しては、ブトヴォ(Butovo)やクンダ(Kunda)やヴェレティエ(Veretye)やスオムスエルヴィ(Suomusjärvi)など、いくつかの異なる考古学的文化が識別されています。居住のより古い段階では、物質文化はひじょうに類似しているので、単一の文化圏としても扱われてきました。

 しかし、紀元前九千年紀の半ばから、明確に区別された文化的違いを有する在来人類集団が、すでにこの地域に存在していました。中石器時代(農耕ではなく土器製作に基づくロシアの時代区分によると部分的に前期新石器時代)に起きた一連の小さな変化にも関わらず、それらの集団の一般的な傾向としての文化的継続性は、紀元前五千年紀の始まりまで経時的に観察され、一部の地域では紀元前四千年紀の始まりまで続き、その頃には、いわゆる櫛目文土器(Pit-Comb Ware)文化がヨーロッパの広範な地域で形成されました。ロシアのヴォルガ・オカ河間地域では、櫛目文土器とその地域的変形を有するリヤロヴォ文化(Lyalovo Culture)が報告されました。この文化圏の人々は、とくにロシアの広大な地域で区別できる狩猟採集のヴォロソヴォ文化(Volosovo Culture)に、紀元前四千年紀から紀元前三千年紀に特有の考古学的文化における一連の発展を促進した可能性があります。

 ヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民は、その遺伝的系統に基づいて2集団に区分できます。いわゆる西部狩猟採集民集団(WHG)は、イベリア半島からバルカン半島へと拡大し、後期中石器時代にはバルト海東部まで到達しました(関連記事)。東部狩猟採集民集団(EHG)は、さらに東方からの遺伝的影響(現代のシベリア人と遺伝的につながっています)を受け、これまでロシア西部では紀元前9400~紀元前5500年頃となる6個体が含まれます。これら6個体のうち4個体のゲノムは、ロシア北西部のカレリア(Karelia)の紀元前7500~紀元前5000年頃の遺骸に由来し、残り2個体のゲノムはヨーロッパロシア東部のサマラ(Samara)地域の紀元前9400~紀元前5500年頃の遺骸に由来します。

 遺伝的研究では、ヤムナヤ(Yamnaya)文化複合と関連する人々がヨーロッパ東部平原の草原地帯から拡大し、紀元前2900~紀元前2800年頃に縄目文土器(Corded Ware)を製作し始めたヨーロッパ集団の系統にかなり寄与した、と示されてきました。本論文は簡潔化のため、埋葬慣行や時期など考古学的背景が特定の文化に関連づけられてきた個体群について言及する時には、文化名を用います。重要なのは、実際には、文化と遺伝的系統との間のつながりは決めてかかるべきではない、と強調することです。

 ヤムナヤ文化集団の移住は、それよりも数千年早いアナトリア半島初期農耕民(EF)のヨーロッパへの移住よりも2倍速いと推定されてきており、ヨーロッパ西部における広葉樹林の減少および草地・牧草地の増加と一致している、と推定されました(関連記事)。縄縄目文土器(Corded Ware)複合(CWC)は広範な地域に拡大し、東方ではタタールスタン、北方ではフィンランドの南部とスウェーデンとノルウェー、西方ではベルギーとオランダ、南方ではスイスとウクライナに達しました。その最東端の拡大であるファチャノヴォ文化(Fatyanovo Culture)は、有名なヨーロッパ東部のCWCで、ヨーロッパロシアの広範な地域に拡大し、畜産とおそらくは穀物栽培を森林地帯にもたらしました。これまで、ファチャノヴォ文化に関してはわずか14点の放射性炭素年代が刊行されており、紀元前2750~紀元前2500(もしくは2300)年となります。文化の特徴的な埋葬習慣には、平らな土の墓に死者を安置することが含まれ、ほとんどは曲がっており、その側(男性ではおもに右側、女性では左側)には、副葬品として軸穴石製斧や燧石の道具や土器の容器が共伴します。

 ヤムナヤ文化の複雑な牧畜民は、EHGおよびコーカサス狩猟採集民(CHG)と系統を共有します。遺伝的研究で明らかになってきたのは、おもにヤムナヤ系統を有するCWC個体群は、アナトリア系統のヨーロッパEFとある程度の混合を示し、ヨーロッパ東部および北部の現代人集団と最も類似している、ということです。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)は、現代のヨーロッパ中央部および北部において高頻度ですが、CWC個体群ではまだ低頻度で、その後すぐに急速に頻度が上昇しました(関連記事)。ヤムナヤ文化の拡大は男性に偏っていましたが(関連記事)、CWC個体群におけるアナトリア半島EF系統は、女性系統を通じてより多く得られています。

 本論文は、ヨーロッパ北東部の森林地帯における漁撈狩猟採集から食料生産への変化に伴う人口統計学的過程に光を当て、現在のロシアの西部における石器時代から青銅器時代の移行と関わる遺伝的変化を調べることが目的となります。ロシア西部からの28点の新たな放射性炭素年代が追加され、狩猟採集民とファチャノヴォ文化農耕民の遺伝的類似性が特徴づけられます。研究の一環として、完新世にヨーロッパの他地域で見られる大きな人口移動がこの地域に影響を与えたのかどうか、また与えたとしてどの程度だったのか、調べます。それは、ロシア北西部の住民の遺伝的系統は何だったのか、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパ東部草原地帯からの直接的な移住の結果だったのか、それともより西方のCWC集団と同様に関わるヨーロッパEF系統なのか、という問題です。さらに、考古学的証拠に示唆された、ヴォロソヴォ文化とファチャノヴォ文化の人々の間の潜在的な混合のような局地的過程に光を当てることも本論文の目的です。


●標本と考古学的背景

 現代のロシア西部とエストニアの18ヶ所の遺跡(図1)で発見された、48個体の歯根からDNAが抽出されました。DNA保存率が高かった30個体では10~78%の内在性DNAが得られ、汚染率は3%未満でした。これらの個体のショットガン配列により、平均ゲノム網羅率0.01倍以上2個体、0.1倍以上18個体、1倍以上9個体、5倍1個体(PES001)が得られました。提示されたゲノム規模データは、3個体(WeRuHG)が石器時代(紀元前10800~紀元前4250年頃)、26個体が青銅器時代のファチャノヴォ文化(紀元前2900~紀元前2050年頃)、エストニアの1個体が縄目文土器文化(紀元前2850~紀元前2500年頃)です。これらの個体のゲノムデータは、既知の古代および現代の人類集団とともに分析されました。

 放射性炭素年代測定の場合、石器時代の狩猟採集民が消費した川と湖の魚により、顕著なリザーバー効果が引き起こされるかもしれません。これは、人類の歯や骨から得られる放射性炭素年代が、実際の年代よりも数千年ではなくとも数百年古くなるかもしれません。残念ながら、特定の事例ごとにリザーバーの規模を推定するデータはまだありません。しかし、これは本論文の石器時代個体群に関して全体像を変えるものではありません。以下、本論文の図1です。
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●ロシア西部狩猟採集民の類似性

 まず、ロシア西部の石器時代狩猟採集民3個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の多様性が評価されました。最古の個体(PES001)はmtDNAハプログループ(mtHg)U4で、これはヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)およびスカンジナビア半島狩猟採集民個体群で見られます。他の2個体のmtHgはT2とK1で、これは注目されます。なぜならば、農耕拡大前のヨーロッパ狩猟採集民ではmtHg-Uの頻度が群を抜いて最も高かったからです。しかし、mtHg-H11・T2も狩猟採集民個体群で見つかっており、ロシア西部2個体の系統(mtHg-T2a1b1・K1)の推定年代は、それぞれ11000±2800年前と22000±3300年前で、2個体の年代(8500~8300年前頃と6500~6300年前頃)に先行する可能性が高そうです。Y染色体ハプログループ(YHg)では、PES001とBER001がそれぞれR1a1b(YP1272)とQ1b1a(L54)で、両YHgともEHG個体群で以前に明らかになっています。

 次に、常染色体データを用いて、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)が利用可能な古代および現代の集団と比較されました。主成分分析では、古代の個体群がユーラシア西部現代人に投影されました。主成分分析では、WeRuHGの3個体全員が、ヨーロッパ狩猟採集民勾配のEHGの端に位置する個体群とともにクラスタ化しました(図2A)。次に、ADMIXTURE分析を用いて、古代の個体群が世界規模の現代人標本に投影されました。K=3からK=18で計算されましたが、本論文はK=9について説明します。このKの水準は、最高の対数尤度値に達する10%超の実行でひじょうに類似した結果が得られる、最大の推定される遺伝的クラスタの数を有しました。分析の結果、WeRuHG個体群はEHGと最も類似しており、ほぼ、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)で最大化される構成要素(図2では青色)と、ロシア極東現代人(橙色)および古代コーカサス・イラン人(オリーブ色)で最も高頻度の構成要素のかなりの割合で構成されます(図2B)。以下、本論文の図2です。
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 次に、FST と外群f3およびD統計を用いて、他の関連する集団とWeRuHG の遺伝的類似性が比較されました。WeRuHG とEHGは、他の古代および現代の集団両方との遺伝的類似性において似ている、と明らかになりました(図3A)。一方、WeRuHG を後のファチャノヴォ集団と比較すると、WeRuHG は比較的より多くの遺伝的浮動を、EHG的集団、シベリア西部狩猟採集民、古代イラン人、シベリアの現代人集団と共有しているものの、ファチャノヴォ文化集団は、古代ヨーロッパおよび草原地帯集団と、近東とコーカサスとヨーロッパの現代人集団のほとんどと、より多くの遺伝的浮動を共有している、と明らかになりました(図3B)。

 より高い網羅率(5倍以上)の狩猟採集民個体PES001(紀元前10785~10626年頃)の遺伝的類似性が、ロシアの中石器時代狩猟採集民のうちより高い網羅率の3個体、つまりPES001、紀元前6773~紀元前5886年頃となるユヅニー・オレニ・オストロフ(Yuzhnyy Oleni Ostrov)遺跡の1個体(I0061)、紀元前9386~紀元前9231年頃となるシデルキノ(Sidelkino)遺跡の1個体(Sidelkino)と、ヨーロッパおよびシベリアのさまざまな地域の中石器時代および旧石器時代狩猟採集民との類似性の比較による外群f3統計を用いて、さらに調べられました(図2C)。

 ロシアの中石器時代3個体全員は、それぞれ1万年以内にヨーロッパロシアもしくはシベリアに居住していた個体群と最もよく類似しており、つまり、相互、シベリア西部新石器時代集団、シベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァゴラ3)とです。これらに、同じ時間枠のヨーロッパ中央部の個体群が続きます。紀元前3万年以上前となる地理的に密接な旧石器時代のスンギール遺跡とコステンキ遺跡の個体群は、ヨーロッパ中央部の年代が近接した狩猟採集民よりも、ロシアの中石器時代個体群の方との共有が少なくなっています。またqpAdmを用いて、PES001 を、WHGとコーカサス狩猟採集民(CHG)もしくはシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(Mal' ta 1)もしくはアフォントヴァゴラ3の混合としてモデル化が試みられましたが、3モデル全てが棄却されました。以下、本論文の図3です。
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●ファチャノヴォ文化個体群におけるEF系統

 青銅器時代のファチャノヴォ文化個体群では、mtHgがU5・U4・U2e・H・T・W・J・K・I・N1a、YHgがR1a1a1(M417)となり、ヨーロッパの他地域のCWC個体群でも見られます。YHgを充分な深度で決定できた6個体全ては、ヨーロッパで一般的なR1a1a1b1(Z283)ではなく、現在ではアジア中央部および南部に拡大しているR1a1a1b2(Z93)です。データ不足のため、より浅い深度のYHgの個体群がYHg-R1a1a1b2(Z93)の可能性も否定されません。

 主成分分析では、ファチャノヴォ文化の個体群(およびエストニアのCWC個体)は、多くのヨーロッパの後期新石器時代~青銅器時代(LNBA)および草原地帯の中期・後期青銅器時代個体群と、ヨーロッパ北部および東部の現代人の上部で密集します(図2A)。この古代のクラスタは、ヤムナヤ文化集団を含む草原地帯の前期・中期青銅器時代集団と比較して、アナトリア半島およびヨーロッパの初期農耕民(EF)の方へと移動しています。同じことはADMIXTURE分析でも見られ、ファチャノヴォ文化個体群はヨーロッパ中央部とスカンジナビア半島とバルト海地域東部のLNBA系統集団と最も類似しています(図2B)。これらの集団は、ヤムナヤ文化集団と同様に、WHG(青色)および古代コーカサス・イラン(オリーブ色)構成要素と、少ないロシア極東(橙色)構成要素から成ります。しかし、ファチャノヴォ文化集団を含むヨーロッパのLNBA集団は、ロシアのヤムナヤ文化集団には存在しない、アナトリア半島およびヨーロッパEF集団(薄緑色)で最高頻度の構成要素も示します。

 異なる集団のFST・外群f3統計・D統計の結果の比較により、ファチャノヴォ文化個体群の類似性が調べられ、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりも、EF集団および近東現代人の方とより多くを共有している、と明らかになりました(図3C)。この兆候は、より少ない一塩基多型を有するデータセットの常染色体の代わりに、124万のデータセットからの常染色体もしくはX染色体を用いても見られます。ヤムナヤ文化サマラ集団とファチャノヴォ文化集団の類似性もD統計で比較され、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりもほとんどのEF集団と有意に類似しており、同様に、ヤムナヤ文化サマラ集団は、ファチャノヴォ文化集団よりもほとんどの草原地帯集団の方と有意に類似していました。混合f3統計を用いてファチャノヴォ文化集団におけるEF系統の流入がさらに調べられ、さまざまなヤムナヤ文化集団と広範なEF集団との間の混合に関して有意な結果が得られました。さらに、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団に関してf3統計とD統計の結果を比較すると、さまざまな古代人もしくは現代人集団との類似性に明確な違いはありません(図3D)。

 以前の分析では、ファチャノヴォ文化個体群の遺伝的構成は移住してきたヤムナヤ文化個体群と同時代のヨーロッパ集団との間の混合の結果と示唆されていたので、2つの補完的方法(qpAdmおよびChromoPainter/NNLS)を用いて、混合集団の適切な代理と混合割合が決定されました(図4)。サマラもしくはカルムイク(Kalmykia)のヤムナヤ文化集団と多様なEF集団を含むqpAdmモデルを検証すると、両方のヤムナヤ文化集団と最高のP値を有する2つのEF集団は、球状アンフォラ(Globular Amphora)文化とトリポリエ(Trypillia)文化です。混合割合は、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)と球状アンフォラ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(66.9%)と球状アンフォラ文化集団(33.1%)と、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)とトリポリエ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(69.6%)とトリポリエ文化集団(30.4%)です。この割合は、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団(69~75%のヤムナヤ文化集団と25~31%のEF集団)と類似しています。

 ヴォロソヴォ文化狩猟採集民1個体(BER001)を「正しい」集団に追加して、ヴォロソヴォ文化集団とファチャノヴォ文化集団との間の共有される浮動があるのかどうか、これら4モデルが検証されました。これにより、この浮動なしの混合集団を有するモデルが却下されます。4モデル全ては依然として却下されず、ヴォロソヴォ文化集団の寄与はファチャノヴォ文化集団のモデル化に必要ない、と示唆されます。ChromoPainter/NNLSパイプラインを用いての系統割合の結果は、ファチャノヴォ文化集団に関してはヤムナヤ文化サマラ集団37・38%と球状アンフォラ文化集団63・62%で、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域CWC集団に関してはヤムナヤ文化集団51~60%とEF集団40~49%です。両方とも他集団と比較してファチャノヴォ文化集団でEF系統の推定される割合がより高いものの、その違いはモデルでトリポリエ文化集団とのみ有意です。qpAdmは集団間の混合を計算しますが、ChromoPainter/NNLSはソースとして単一の個体群のみを用いており、結果に影響を及ぼすかもしれないことに注意が必要です。

 ヤムナヤ文化集団とEF集団との間の2方向の混合は、ファチャノヴォ文化集団の遺伝的多様性の説明に充分ですが、狩猟採集民集団が追加されたqpAdmモデルも、EHGとWeRuHGとヴォロソヴォ文化では却下されません。ファチャノヴォ文化集団は、60~63%のヤムナヤ文化サマラ集団と33~34%の球状アンフォラ文化集団と3~6%の狩猟採集民集団の混合としてモデル化できます。この結果は、2~11%の狩猟採集民系統を有するヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団と類似していますが、ヨーロッパ中央部のCWC集団の起源としてヴォロソヴォ文化集団は除きます。以下、本論文の図4です。
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 DATESを用いて、ファチャノヴォ文化集団を形成するヤムナヤ文化集団とEF集団の混合が、ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団との組み合わせでは13±2世代前、ヤムナヤ文化サマラ集団とトリポリエ文化集団との組み合わせでは19±5世代前と推定されました。1世代25年でファチャノヴォ文化個体群の平均較正年代が紀元前2600年頃とすると、混合は紀元前3100~紀元前2900年頃に起きたことになります。

 次に、ファチャノヴォ文化集団と他のCWC集団(ヨーロッパ中央部およびバルト海地域)との間の類似性における潜在的な違いが調べられ、1方向qpAdmモデルでは、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団、もしくはヨーロッパ中央部CWC集団とバルト海地域CWC集団の同一性が却下できないので、これらの集団は相互に類似している、と明らかになりました。一方、集団内の混合割合にはかなりの変異があり、主成分分析(図2)とADMIXTUREで示され、ファチャノヴォ文化集団における球状アンフォラ文化系統が4~47%(図4B)、他の2集団における球状アンフォラ文化系統が7~55%を示す、個体ごとのqpAdmモデルにより確認されます。第二主成分構成(PC2軸)、もしくは個体のqpAdm系統割合および構成された放射性炭素年代を用いて、系統の変動が時間と相関するのかどうか、検証されました。その結果、ファチャノヴォ文化集団において時間と系統割合の間には相関がないものの、PC2軸を用いてのバルト海地域CWC集団と、qpAdm系統割合を用いてのヨーロッパ中央部およびバルト海地域両方のCWC集団におけるより多くのEF系統への有意な変化はある、と明らかになりました。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団において、エストニアやポーランドやドイツのCWC個体群で以前に見られた性的に偏った混合の存在(関連記事)が確認されました。まず、常染色体とX染色体の外群f3結果が比較されました。不等分散を仮定した2標本両側検定では、EF集団の平均f3値が、X染色体ではなく常染色体に基づく狩猟採集民と草原地帯系統集団のそれよりも有意に低い、と示されました。次に、qpAdmおよび常染色体と同様に同じモデルを用いてのX染色体の混合割合が計算されました。常染色体データ(ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団もしくはトリポリエ文化集団)4モデルのうち2モデルのみが、X染色体の一塩基多型の利用可能な数が少ないため、有意なP値をもたらしました。信頼区間はトリポリエ文化集団ではひじょうに広かったものの、X染色体のデータは、ファチャノヴォ文化集団における40~53%の球状アンフォラ文化系統を示し、常染色体データを用いて推定された32~36%とは対照的です。性的に偏った混合は、ファチャノヴォ文化2個体におけるmtHg-N1aでも裏づけられます。mtHg-N1aは、線形陶器文化(Linear Pottery Culture、Linearbandkeramik、略してLBK)のEF集団では高頻度ですが、ヤムナヤ文化個体群ではこれまで見られません。また、全男性がYHg-R1a1a1(M417)で、これは草原地帯からの移住後にヨーロッパに出現します。

 最後に、READを用いて、ファチャノヴォ文化標本における密接に関連した個体が調べられました。二親等もしくはより密接な近縁関係の確認された事例はありませんが、二親等の関係は、いくつかの組み合わせでは除外できません。それは、推定の95%信頼区間が浸透の関係性の閾値の95%信頼区間と重なっているからです。


●ロシア西部における表現型に有益なアレル頻度変化

 食性(炭水化物や脂質やビタミン代謝)や免疫(病原体や自己免疫や他の疾患への反応)や色素沈着(目や髪や肌)と関連する、113個の表現型の情報をもたらす遺伝子型が推定されました。本論文と以前に刊行されたバルト海地域東部の個体群が、比較のために用いられました。それは、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)、ラトビアの狩猟採集民5個体、エストニアとラトビアのCWC集団7個体、ファチャノヴォ文化集団24個体、エストニアの青銅器時代10個体、エストニアの鉄器時代6個体、イングリアの鉄器時代3個体、エストニアの中世4個体です。本論文では、色素沈着(39ヶ所の一塩基多型)、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するMCM6遺伝子(rs4988235およびrs182549)、脂肪酸代謝と関連するFADS1-2遺伝子(rs174546T)と関連する多様体に焦点が当てられます。

 標本規模が小さいので、結果は慎重に解釈されねばなりませんが、調べられたWeRuHG個体群が、茶色の目、濃褐色から黒色の髪、中間もしくは濃い肌の色素沈着と関連するアレル(対立遺伝子)を有していた一方で、ファチャノヴォ文化個体群の約1/3は青い目および/もしくは金髪を有していました。さらに、LPと関連する2個のアレルの頻度は、WeRuHG個体群では0%、本論文の分析に基づくファチャノヴォ文化個体群では17±13%で、同じ時期のバルト海東部地域集団と類似しているものの、バルト海東部地域では後期青銅器時代までに40%と顕著に増加しました。一方、血清におけるコレステロールの増加と関連するアレル(FADS1-2遺伝子のrs174546T)は、バルト海地域東部およびロシア西部の狩猟採集民における90%から、バルト海地域東部の後期青銅器時代個体群では45%と顕著に減少しました。これは、代替的なアレルCの増加が観察された以前の研究でも示されています。この変化は、高コレステロールへの負の選択の兆候か、あるいはこのアレルのより低い頻度の集団からの移住の結果かもしれません。


●考察

 最終氷期の後、紀元前一万年紀末と紀元前九千年紀初めに、バルト海地域東部とフィンランドとロシア北部の広大な地域は、狩猟採集民集団により比較的早く移住されました。バルト海地域東部とヨーロッパロシアにおけるいくつかの地点に起源がある燧石と、石器および骨器技術と人工物の類似性から、最終氷期後のヨーロッパ東部および北部の森林地帯における広範な社会的ネットワークの存在が示唆されます。これは、ポーランド東部からヨーロッパロシア中央地域にかけての旧石器時代最終期の狩猟採集民がこの過程に加わり、その起源とつながったまま、やや延長された社会的ネットワークを作った、という仮説につながります。

 しかし、ほとんど地元の石材で石器を製作したことから分かるように、これらのつながりは数世紀後に終わり、新たな地理的により小さい社会単位が、紀元前九千年紀半ばに出現しました。この地域の古代DNA研究には、紀元前八千年紀もしくはより新しい年代の中石器時代個体群が含まれており、上述のように、バルト海地域東部のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とロシア北西部のヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)という、2つの遺伝的集団が明らかにされてきました。しかし、これまで移住期の人類のゲノムは刊行されておらず、その遺伝的系統については議論の余地があります。

 本論文で提示された紀元前10700年頃の網羅率5倍の個体(PES001)は、移住期に近い年代のロシア北西部におけるEHG系統の証拠を提供します。これは次に、バルト海地域東部の最初の人々の系統に関する問題を提起します。バルト海地域東部の最初の人々は、移住期における2地域の共有された社会的ネットワークにより示唆されるように、EHG系統を有していましたか?後のWHG系統の人々の流入は、考古学的物質の変化を伴っていませんでしたが、あるいは、WHG系統の人々は最初からバルト海地域東部に居住しており、類似の文化を共有する異なる系統を有する集団の事例を表していますか?これらの問題は、将来の研究により解明されるかもしれません。

 ファチャノヴォ文化の形成は、ヨーロッパ東部森林地帯のそれ以前の狩猟漁撈採集文化およびその集団と生活様式に影響を及ぼした、主因の一つです。ファチャノヴォ文化の人々は、この地域における最初の農耕民で、農耕文化の到来は移住と関連していました。これは、石器時代狩猟採集民と青銅器時代ファチャノヴォ文化個体群が遺伝的に明確に区別できるように、本論文の結果により裏づけられます。本論文における狩猟採集民の標本規模は小さいものの、3個体は以前に報告されたEHG個体群と遺伝的に均質な集団を形成し、新たに報告された1個体(PES001)は、これまでで最高の全ゲノム配列網羅率で、将来の研究に貴重な情報を提供します。

 さらに、他のCWC集団と類似したファチャノヴォ文化個体群は、ほぼ草原地帯系統を有するだけではなく、この地域では以前に存在しなかったEF系統もいくぶん有しているので、ファチャノヴォ文化集団の起源として、草原地帯系統のみのヤムナヤ文化集団の北方への移住は除外されます。考古学的物質におけるファチャノヴォ文化の最も強いつながりは、現在のベラルーシとウクライナに広がったドニエプル川中流文化で見られます。現在のウクライナでは、ヨーロッパのEF系統を有する最も東方の個体群と、最も西方のヤムナヤ文化個体群が、既知のゲノムデータに基づいて確認されます(図1)。

 さらに考古学的知見からは、LBK(線形陶器文化)がウクライナ西部に紀元前5300年頃に到達し、ヤムナヤ複合(墳丘墓)はヨーロッパ南東部に紀元前3000年頃に到達し、ルーマニアとブルガリアとセルビアとハンガリーにまでさらに拡大した、と示されます。これは、一方の混合起源集団としてロシアのヤムナヤ文化2集団(カルムイクもしくはサマラ)のどちらかの系統を有する、ファチャノヴォ文化集団の妥当な混合起源集団と証明された2集団が、ウクライナとポーランドの個体群を含む球状アンフォラ文化集団と、ウクライナの個体群で構成されるトリポリエ文化集団だった、という本論文の遺伝的結果と一致します。これらの知見は、現在のウクライナが、ファチャノヴォ文化と一般的な縄目文土器文化の形成につながる移住起源地だった可能性を示唆します。

 ヨーロッパロシアにおけるファチャノヴォ文化の出現およびその後の局所的過程に関わる正確な年代と過程も、不明確なままです。最近まで、ファチャノヴォ文化は他のCWC集団よりも遅く、長い期間に発展した、と考えられてきました。しかし、最近刊行された放射性炭素年代は、本論文で提示された新たな25点の年代と、本論文で調べられたファチャノヴォ文化個体群におけるヤムナヤ文化集団とEF集団との(ファチャノヴォ文化個体群から)300~500年前頃の混合との推定とを組み合わせると、より速い過程が示され、CWC集団がバルト海地域東部およびフェノスカンジア南部に到達した年代と類似しています。考古学的文化は、地域間で明確に区別されます。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパロシアに到来後、在来のヴォロソヴォ文化狩猟採集民と混合した、と示唆されてきました。本論文の結果はこの仮説を裏づけません。それは、他の2つのCWC集団と比較して、ファチャノヴォ文化集団においてより多くの狩猟採集民系統が明らかにならなかったからです。このファチャノヴォ文化集団と他の2つのCWC集団は、却下されない一方向qpAdmモデルにより類似していると示され、主成分値もしくはqpAdmの系統割合と放射性炭素年代を相関させると、本論文の標本群の期間におけるファチャノヴォ文化集団の系統割合に変化はない、と明らかになります。

 ロシア西部とバルト海地域東部におけるアレル頻度変化は、両地域における類似のパターンを明らかにします。LP(乳糖分解酵素活性持続)と関連するMCM6遺伝子および血清におけるコレステロールの増加と関連するFADS1-2遺伝子の頻度変化は、新石器時以降の食性変化に起因して変わってきた、との仮説が提示されてきており、青銅器時代に顕著に変わりましたが、変化の最初の兆候はすでに新石器時代に見られます。最近のLPに関する研究(関連記事)と一致して、最初の草原地帯系統標本群におけるrs4988235Aアレルの低頻度(90%信頼区間では、最近の研究で0~2.7%、本論文で0~33.8%)が明らかになりました。これが示唆するのは、以前の研究で示唆されてきたように(関連記事)、これらのアレル頻度の経時的変化は複雑で、いくつかの環境要因と遺伝的力学が関わっているかもしれない、ということです。


参考文献:
Saag L. et al.(2021): Genetic ancestry changes in Stone to Bronze Age transition in the East European plain. Science Advances, 7, 4, eabd6535.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd6535

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html
10:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:53:19


雑記帳 2018年05月11日
インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

 おもに5500~3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期~後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で紀元前2500~2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711


https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html


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雑記帳2021年08月04日
イタロ・ケルト語派の起源
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

 イタロ・ケルト語派の起源に関する研究(Fehér et al., 2021)が公表されました。コッホ(John T. Koch)氏とカンリッフ(Barry Cunliffe)氏が率いる過去20年のケルト研究は、長きにわたる理論「ハルシュタット(Hallstatt)鉄器時代=原ケルト文化」の妥当性に疑問を提起し、一連の「西方からのケルト」において初期ケルト大西洋青銅器時代を主張しました。ギュンドリンゲン(Gündlingen)様式の剣術は青銅器時代後期のブリテン島と低地諸国に起源があり、後に西方から東方へと拡大し、ハルシュタット・アルプス鉄器時代からさらに広がった、との議論があります。鉄器時代前のイベリア半島南西部からのタルテッソスのケルト的性質も、原ケルト人の初期大西洋起源の証拠となります。父系継承のY染色体DNAと両親から継承される常染色体の古代DNAの結果は、「西方からのケルト」をますます裏づけており、本論文はさらに進んで、北西部から到来した「イタリア・ケルト人」を論じます。

 最近の考古遺伝学的研究(関連記事1および関連記事2)では、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b(M269)が、現在のウクライナとロシア南部のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)起源だったことを証明しました。YHg-R1b1a1b(M269)以前ではあるものの、YHg-R1b1a1a(M73)ではない系統、つまりYHg-R1b1a1(P297)からYHg-R1b1a1b(M269)へと至る祖先は、ヴォルガ川流域に位置するロシア西部のサマラ(Samara)文化の紀元前5500年頃の男性個体で見つかっています。また、クルガン(墳丘墓)を建造するヤムナヤ(Yamnaya)文化の草原地帯牧畜民と、その東方の分派でおそらくはトカラ語(Tocharian)祖語を話したアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の男性は、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)でした。

 その後の研究では、「真のアーリア人」が話していた後期インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2350年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)で話されていた可能性が最も高い、と明らかになりました。CWC集団はヤムナヤ関連の西方草原地帯牧畜民(WSH)の常染色体の祖先系統(祖先系譜、ancestry)を顕著に示し、特定の下位系統の拡大と一致する地理的下位集団を有しています。インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2200年頃となるCWCのファチャノヴォ・バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化の東側から到来した、紀元前2200~紀元前1800年頃となるシンタシュタ(Sintashta)文化に由来し、父系はほぼYHg-R1a1a1b2(Z93)です。

 原バルト・スラブ語派集団は、YHg-R1a1a1b1a2(Z280)で、北方に移動して中石器時代のナルヴァ(Narva)文化を置換した、紀元前3200~紀元前2300年頃となるCWC中期のドニエプル(Dniepr)文化集団の子孫候補です。紀元前2800~紀元前2300年頃となる戦斧(Battle Axe、略してBA)文化は、スカンジナビア半島におけるCWCの分枝であり、YHg-R1a1a1b1a3a(Z284)とYHg-I1(M253)が優勢で、中石器時代の円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化を置換しました。単葬墳(Single Grave、略してSG)文化は北ドイツ平原とデンマークの漏斗状ビーカー(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker、略してTRB)文化を置換し、後の紀元前2500年頃以降となる鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してしてBB)文化の祖先となり、そのYHgはR1b1a1b1a1(L11/P311)です。


●原ケルト人の故地

 以前の研究(関連記事)では、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびR1b1a1b1a1a2(P312)につながるようなYHg-R1b1a1b1a1(L52)がCWC期に現在のウクライナとの国境近くのポーランド南東部に存在した一方で、ドイツからポーランド北部を経てエストニアに至るほとんどの他のCWC標本は、YHg-R1a1a1(M417)だった、と示されました。ポーランド南東部のCWC個体群も、他地域のCWC個体群よりも後の鐘状ビーカー文化個体群の方との高い遺伝的類似性を示します。この集団と関連する唯一のCWC集団は、ライン川下流およびエルベ川下流地域の単葬墳文化です。

 したがって、YHg-R1b1a1b1a1(P311)の祖先は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地からカルパティア山脈北方のポーランド南東部を経て、紀元前2900~紀元前2500年頃に北海沿岸に向かって移動した、と確実に結論づけられます。この経路は、常染色体の研究で裏づけられており、イベリア半島(YHg-R1b1a1b1a1a2のみ)外の鐘状ビーカー文化個体群は、ヨーロッパ北部新石器時代集団とヤムナヤ関連祖先系統の混合ではあるものの、イベリア半島新石器時代集団の祖先系統との混合ではない、と結論づけられています。

 CWC集団は常染色体では混合されていないインド・ヨーロッパ語族祖語の人々の起源で、イタロ・ケルト語派祖語(単葬墳文化の人々)とゲルマン祖語(戦斧文化の人々)と原バルト・スラブ語派(ドニエプル川中流)とインド・イラン語派祖語(ファチャノヴォ・バラノヴォの人々)の起源になった、と結論づけられます。常染色体の証拠から明らかなのは、Y染色体DNAでも示されているように、鐘状ビーカー文化期と戦斧文化期以降の、ブリテン諸島とオランダ北部とデンマークを含むスカンジナビア半島の完全な常染色体の連続性です。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の鐘状ビーカー文化個体群が、ラインラントで紀元前2566年頃にのみ出現することにも要注意です。紀元前2800年頃となるアルザス地域のヘーゲンハイム(Hégenheim)標本には草原地帯祖先系統が欠けており、紀元前2574~紀元前2452年頃となるフランス北東部のサルソーニュ(Salsogne、CBV95)標本はほぼ100%ヤムナヤ関連祖先系統で遺伝的に構成され、ヤムナヤ文化集団で優勢なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)に分類されます。以上の点を考慮すると、常染色体遺伝子の結果は、YHg-R1b1a1b1a1(L11/P311)がライン川下流およびエルベ川下流地域で最も多様であり、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)とR1b1a1b1a1a2(P312)が稀なYHg-R1b1a1b1a1a3(S1194)とR1b1a1b1a1a4(A8053)とともに、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の分枝が鐘状ビーカー文化の拡大を始める前の紀元前2800~紀元前2500年頃に、相互に隣り合って存在していたかもしれません。

 父系で最も「ケルト的な」YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)は、ブリテン諸島とイベリア半島のケルト地域(50%以上)で最も頻度が高く、フランス(40~50%)で顕著に見られ、ヨーロッパ中央部および東部に向かってその頻度は減少します。ブリテン諸島で典型的なYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)は、最初の鐘状ビーカー文化住民で見つかりました。ケルト語祖語のカルパティア盆地とアルプス北部もしくはカルパティア盆地とイタリアという移住経路を予測するのは、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の頻度に基づくと合理的ではありません。これは、初期鐘状ビーカー文化標本で示されているように、常染色体DNAの証拠でも強調されており、現代人集団からの遺伝的距離が計測されました。ブリテン諸島の鐘状ビーカー文化標本は、ゲルマン語話者であれケルト語話者であれ、現代のヨーロッパ北部人口集団とクラスタ化します。ほとんどの遺伝的距離(10.00 未満)から、これら現代の人口集団が鐘状ビーカー文化集団の直接的な常染色体子孫で、混合がなく、青銅器時代および鉄器時代の遺伝子流動の北から南および西から東への方向を証明していることも注目されます。


●ライン川下流の故地からのイタロ・ケルト語派の拡大

 もう一つのYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の下位区分はYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)で、イタリア北部およびフランスでとくに高頻度です。既知の最初のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本は、ドイツのオスターホーフェン・アルテンマルクト(Osterhofen-Altenmarkt)の紀元前2571~紀元前2341年の個体です。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の系統は、鐘状ビーカー文化のアルプス北部のボヘミアへの拡大とポーランドへの「逆流」に相当し、ドナウ川沿いに紀元前2500~紀元前2000年頃にブダペストへと南下しました。ボヘミアとバイエルンは鐘状ビーカー文化の起源ではなく目的地だったという間接的な主張も、この地域のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2b1のみ)により強調され、初期鐘状ビーカー文化のブリテン諸島人の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2c1のみ)を反映しています。

 ボヘミアとライン川下流へのポーランド南東部からの経路沿いの停車場だったならば、YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)以外のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性がもっと多くいるでしょう。ブダペストのチェペル(Csepel)地区の紀元前24世紀の鐘状ビーカー文化標本も、ハンガリーが鐘状ビーカー文化拡散の起源地ではなく終点だったことを証明しています。ここでは、「純粋なCWC由来(ケルト語派とゲルマン語派)」系統と直接的な草原地帯関連(CWCのないヤムナヤ文化)系統とラエティア・エトルリア語派系統の混合した、原イリュリア語派集団の常染色体の混合が見つかります。YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)標本は、ブリテン諸島や、スカンジナビア半島とブリテン諸島の常染色体のつながりを特徴とする元のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本と比較して、「南部」集団から常染色体上の遺伝的影響を幾分受けた、と分かります。

 一部のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性とほとんどのYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性は、ライン川沿いにアルプスの西側を移動して、近縁のYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とともにフランス南部に到達し、地中海沿いに紀元前2000年頃以前にイベリア半島とイタリアのリグーリア州(Liguria)に拡散しました。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)が最初に、アルプス経由の代わりにリグーリア州からイタリアに拡散したことを裏づける証拠が二つあります。古代のリグーリア州の標本と初期(ローマ共和政以前)ラテン人標本は、常染色体では相互に密接で、ともにヴァスコン人エトルリア人の混合を示しますが、YHgはR1b1a1b1a1a2(P312)です。

 一方、東部イタリック語派集団の子孫である可能性が最も高い帝政期ローマの標本は、顕著なスラブ化以前のバルカン人の混合(イリュリア人とギリシア人とミノア人)と、追加のラエティア・エトルリア語派集団の特徴を有しており、北東部からのイタリック語派のオスク・ウンブリア語群(ヴィッラノーヴァ人)が、後に異なる人口統計学的波で到来し、元々の西部イタリック語派集団(ラテン人や西シチリア人やおそらくはリグーリア人)よりもイタロ・ケルト語派集団との遺伝的類似性が低かったことを示唆します。

 これが意味するのは、イタリック語派祖語集団がすでに、後期新石器時代のアルプスの北側の「ラエティア・エトルリア語派的」人口集団と混合し、次にアルプスの西側経路でリグーリアとラティウムとシチリアに拡散したイタリック語派集団がアクィタニア(Aquitani)・ヴァスコン人(Vascon)と混合し、カルパティア盆地に拡散したイタリック語派東部集団がエトルリア人に加えてイッリョ・トラキア人(Illyro-Thracian)と混合した、ということです。以前の研究(関連記事)では、シチリア島とサルデーニャ島の人々は草原地帯牧畜民関連の遺伝子流入を紀元前2200~紀元前2000年頃に部分的にバレアレス諸島人から受けており、それは独特な石造物で知られるヌラーゲ文化およびギリシア関連の中東からの遺伝子流入が紀元前1900年頃に到達する前のことでした。

 したがって、初期カルパティア盆地のヤムナヤ文化集団のイタロ・ケルト語派の識別に関するアンソニー(David W. Anthony)の見解を改良にする必要があり、むしろイッリョ・トラキア人がバルカン半島北側に到来した可能性があり、後にブチェドル(Vucedol)文化を通じてバルカン半島北側に拡大しました。同時に、ウサトヴォ(Usatovo)およびエゼロ(Ezero)文化は、原ゲルマン人ではなく原アナトリア半島人の拡大を示しているかもしれません。イタロ・ケルト語派の故地は、Y染色体DNAと常染色体DNAの証拠に基づくと、北ドイツ平原とライン川下流地域に確実に想定できます。


●まとめ

 イタロ・ケルト語派祖語話者は、父系ではYHg-R1b1a1b1a1(P311)に代表され、現在のウクライナからポーランド南東部を経てライン川下流地域に紀元前2900~紀元前2500年頃に移動し、CWCの遺構に分類される単葬墳文化により識別されます。鐘状ビーカー文化は紀元前2500年頃に現在のオランダとドイツ北西部で形成され、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性とともに紀元前2500~紀元前2000年頃にブリテン諸島へと拡散し、後にケルト語祖語集団となり、YHgではR1b1a1b1a1a2c1(L21)に代表されます。鐘状ビーカー文化はイベリア半島とフランス南部にはYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とR1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性とともに、デンマークとスウェーデンのスコーネ地方にはYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)の男性とともに(後の西ゲルマン語群集団の祖先)、アルプス北部とボヘミアとポーランドにはYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性(後のオスク・ウンブリア語群集団)とともに拡大しました。

 常染色体DNAは、混合されていてないイタロ・ケルト語派およびゲルマン語派人口集団がCWCだった一方で、アルプス北部とカルパティア盆地では、非インド・ヨーロッパ語族の常染色体構成要素(ラエティア・エトルリア語派集団やバスク人につながるヴァスコン人)が、後期青銅器時代と前期鉄器時代にまで顕著な存在感を示していた、と証明します。「気高きスキタイ人」と言われるジェロニア人(Gelonian)は、常染色体ではカルパティア盆地とウクライナの紀元前6~紀元前3世紀のゴール人(Gaul)で、ハルシュタットC後のケルト人の広がりの最東端を示します。以前のキンメリア人とその後のサルマティア人は草原地帯牧畜民祖先系統を有しており、おもにイラン人関連祖先系統ですが、一部はコーカサスおよびテュルク人の祖先系統です。

 イタリック語派はこのように一貫性がありません。西方からイタリア半島への最初の波は、リグーリア語とラテン語とおそらくはシケル語をもたらし、同時にルシタニア語(直接的にはブリテン島から)とタルテッソス語(カタルーニャ地方経由で)がイベリア半島に到来しました。その後、骨壺墓地(Urnfield)文化・ヴィラノヴァ文化(Villanovan)期にカルパティア盆地とアルプスからの第二の移住がありました。エトルリア語系話者はリグーリア人とラテン人を分断し、イリュリア語の影響を受けたオスク・ウンブリア語群集団がアドリア海沿いに拡大しました。


参考文献:
Fehér T. (2021). Celtic and Italic from the West – the Genetic Evidence. Academia Letters, Article1782.
https://doi.org/10.20935/AL1782

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html
11:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:54:51

雑記帳2021年08月29日
紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html
 紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化に関する研究(Papac et al., 2021)が公表されました。考古遺伝学は過去1万年のヨーロッパにおける2回の主要な人口集団交替を明らかにしてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最初のものは、紀元前七千年紀に始まり、アナトリア半島からの農耕民共同体の拡大と関連していました。ヨーロッパの前期新石器時代農耕民は当初、在来の狩猟採集民と遺伝的に異なっており、アナトリア半島農耕民とほぼ区別できませんでしたが(関連記事1および関連記事2)、その後数千年にわたって遺伝子プールに狩猟採集民祖先系統(祖先系譜、ancestry)を組み込んできました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 2番目の主要な人口集団交替は、紀元前三千年紀早期に縄目文土器(Corded Ware、略してCW)文化の個体群で起きました(関連記事1および関連記事2)。以下本論文では、ヒト骨格遺骸と考古学的文化(たとえば、副葬品や身体の向き)の標識の共伴を用いて、個体群と考古学的文化との間の関連が、たとえば「CW個体群」のように示されますが、これは統一された社会的実体を反映していないかもしれません。CWはヨーロッパ中央部と北部と北東部における主要な文化的変化を表しており、経済とイデオロギーと埋葬慣行に変化をもたらしました。

 CW個体群は、文化的にCWに先行する人々とは遺伝的に異なると示されており、その祖先系統の75%はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群と類似しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。その後、このヤムナヤ的「草原地帯」祖先系統は急速にヨーロッパ全域に拡大し、紀元前三千年紀末の前には、ブリテン島とアイルランド島とイベリア半島とバレアレス諸島とサルデーニャ島とシチリア島に到達しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 紀元前三千年紀の重要性にも関わらず、現在の遺伝学的理解はおもに汎ヨーロッパ的な標本抽出戦略による研究に基づいており、地域的で高解像度の時間的区間にはほとんど重点が置かれていません。その結果、多くの時間的および地理的標本抽出の間隙が残り、社会と共同体の水準での過程、および文化的集団がどのように相互作用して影響を及ぼし、相互に生じたのかについて、知識が限定的です。さらに、地域を超えた考古学的現象を表す小さな標本規模の使用と、結果として生じる過度に単純化された文化・歴史的解釈は、考古学者から批判されてきました。

 未解決の問題は、CWと鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してBB)個体群の遺伝的および地理的起源、両者の相互関係およびヤムナヤ個体群との関係、前期青銅器時代(EBA)のウーニェチツェ(Únětice)個体群の起源に関するものです。CWは遺伝的にヤムナヤ的な人々の男性に偏った西方への移住から形成された、と提案されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、Y染色体系統の重なりは、いくつかの分類できないY染色体ハプログループ(YHg)I2を例外として、おもにYHg-R1aのCW男性と、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)を有するヤムナヤ男性との間で見つかってきました。

 草原地帯祖先系統はBB個体群にも存在しますが(関連記事)、そのYHgはおもにR1b1a1b1a1a2(P312)で、これはCWもしくはヤムナヤ男性ではまだ見つかっていません。したがって、草原地帯祖先系統の共有とかなりの年代的重複にも関わらず、現時点では、ヤムナヤとCWとBBの各集団を父系の供給源として直接的に結びつけることはできません。とくに、草原地帯祖先系統が男性主導で拡大したと示唆されていることと、これら3社会の父方居住・家長的社会親族制度が提案されていることを考慮すると(関連記事)、注目に値します。

 紀元前三千年紀のヨーロッパにおける文化的・社会的・遺伝的変化を理解するのに重要なのは、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のようなCWに先行する文化と、CWやBBやEBAウーニェチツェに分類される社会の存在(共存)を証明する、緻密な居住地域です。現在、そうした地域は考古遺伝学の観点では体系的に研究されていません。ヨーロッパの中心部に位置し、重要なエルベ川に密着する、現在のチェコ共和国西部であるボヘミアの肥沃な低地では、多くの主要な超地域的な考古学的現象が見られました(図1)。

 ボヘミアの密集した農耕定住は、早期新石器時代農耕民の到来とともに紀元前5400年後に始まり、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化や後期刺突文土器(Stichbandkeramik、略してSTK)文化やレンジェル(Lengyel)文化です。これらの文化は、ヨルダヌフ(Jordanów)文化やミシェスベルク(Michelsberg)文化や漏斗状ビーカー(Funnelbeaker)文化やバデン(Baden)文化やリヴナック(Řivnáč)文化やGACや前期および後期CWやBBなど、二桁の考古学的文化集団と関連する、銅器時代(紀元前4400~紀元前2200年頃)の多くの社会に継承されました。銅器時代には、重要な革新(冶金や車輪や荷馬車と犂や要塞化された丘陵や古墳)が見られ、ボヘミア周辺に地理的に集まった、拡大したEBAウーニェチツェ文化に継承されました。

 物質的および技術的発展に加えて、埋葬行動を通じて示されるようにイデオロギー的変化も明らかです。漏斗状ビーカー期(紀元前3800~紀元前3400年頃、ボヘミアで100基の墓が知られています)には比較的一般的でしたが、通常の墓は中期銅器時代(紀元前3500~紀元前2800年頃)となるバデン期やリヴナック期やGAC期にはほぼ消滅します(ボヘミアでは20基)。単葬墳は、現在では身体の位置と副葬品で厳密な性区分が伴いますが、紀元前2900年頃のCWでは多数再出現して(ボヘミアでは1500基)BB期に継続し(ボヘミアでは600基)、BBは先行するCWとは重要な違いを発展させ維持しました。EBAウーニェチツェ文化では単葬墳が継続しましたが(ボヘミアでは4000~5000基)、再度身体位置の性差はなくなりました。

 これらの変化をよりよく理解するため、ボヘミア北部の271個体(新たに報告される206個体と既知の65個体)の高解像度の考古遺伝学的時期区分が分析されました(図1)。時空間的に重複する考古学的文化からの密な遺伝的標本抽出を通じての本論文の目的は、(1)ヨーロッパ中央部の銅器時代とEBAにおける文化的変化が非地元民の流入により引き起こされたのかどうかに取り組み、(2)CWの出現直前のヨーロッパ中央部の遺伝的多様性を特徴づけ、(3)ヤムナヤ的草原地帯祖先系統を有する個体群がヨーロッパ中央部に最初に出現した時期を特定して、その遺伝的起源と社会的構造を理解し、(4)CW出現後の「地元民」と「移民」との間の生物学的交換の性質と程度を特徴づけ、(5)遺伝的および考古学的変化と関連する社会的変容を特定することです。以下は本論文の図1です。
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●標本の概要

 37ヶ所の遺跡から古代人261個体が調べられ、219個体のゲノムで、1233013ヶ所の祖先系統(祖先系譜、ancestry)の情報をもたらす部位が濃縮されました(1240kキャプチャパネル)。濃縮後、3万ヶ所未満の部位もしくは汚染の兆候がある13個体は削除され、206個体の新たなデータセットが得られました。この新たなデータセットは、ボヘミアの既知の古代人65個体およびより広範な個体群と組み合わされ、それにより、ボヘミアの新石器時代および先CW銅器時代個体は7から58に、CW個体は7から54に、BB個体は40から64に、EBA個体は11から95に拡大されました。

 重要なのは、CW形成の頃(紀元前3200~紀元前2600年頃)の個体の標本規模をかなり拡大したことです(1個体から50個体)。その内訳は、バデン文化とリヴナック文化とGACとなる最後の先CW個体が0から18に、前期CW個体が1から32に増加しており、ヨーロッパ中央部のCWの起源と、その移住の性質と、共存する先CWの人々との社会的相互作用を直接的に研究できるようになりました。一親等の親族関係はアレル(対立遺伝子)頻度に基づく分析(f統計、qpWave、qpAdm、進化的兆候の祖先系統の時間区間の分布を示すDATES、Y染色体分析)では除外されました。本論文は140点の新たな放射性炭素年代も報告し、より精細な時間的解像度を支援し、重要な紀元前三千年紀の文化的集団(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)の前期と後期の間の遺伝的変化を調べることが可能となります。


●紀元前2800年頃以前となる先CW期のボヘミア

 まず、ボヘミアの古代人を、ユーラシア西部現代人1141個体から構築された主成分分析の最初の2軸に投影することにより、ゲノム規模データが評価されました。その結果(図2A)、ボヘミアの全ての先CW個体(58個体)はアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の間で、ヨーロッパ中央部の既知の文化的に先CWに分類される個体群と密接した状態に位置しました。これは、草原地帯祖先系統の欠如を示唆しており、qpAdmモデル化を用いても確認され、ボヘミアの先CW個体群はほぼアナトリアNとWHGの2方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図3A)。狩猟採集民(HG)祖先系統の割合は年代と正の相関があり、以前に報告された新石器時代におけるHG祖先系統の増加傾向はボヘミアでも起きた、と示されました(関連記事1および関連記事2)。このHG祖先系統の増加は2段階の線形過程として最良にモデル化でき(図3A)、紀元前五千年紀にHG祖先系統が増加し、その後に停滞(有意ではない勾配)が続く、と明らかになりました。以下は本論文の図2です。
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 HG祖先系統がボヘミアの先CW個体群の遺伝子プールに組み込まれた過程への洞察を得るため、qpAdmを用いて、先CW文化的集団がそれぞれ、アナトリアNとルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体とケレス(Körös)遺跡狩猟採集民の3方向混合としてモデル化され、組み込まれたHG祖先系統の遺伝子移入された年代がDATESにより推定されました(図3B)。HG祖先系統の連続的な組み込みを伴う人口集団継続性のシナリオでは、後続の文化の遺伝子移入の平均年代は、図3Bの灰色の間隔(右側)で示唆されるように、経時的により新しくなる、と予測されます。逆に、さらなるHG祖先系統の組み込みがない人口集団の連続性では、混合年代は類似のHG割合を有する連続した文化的集団では類似したものになるはずです。

 本論文の結果は、両方の予測が満たされない、2つの文化的移行を示唆します。まず、ボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーは類似の量のWHG祖先系統を有していますが、漏斗状ビーカーのWHGからの遺伝子移入の推定年代(図3B)はヨルダヌフ(紀元前4636~紀元前4310年)よりも有意に早く(紀元前5079~紀元前4748年)、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群がさまざまな人口集団(その祖先系統はさらに昔に組み込まれました)に由来することと一致し、ボヘミアではヨルダヌフ人口集団に取って代わりました。

 ヨルダヌフと漏斗状ビーカーとの間のこの移行は、3点の追加の観察により裏づけられます。第一に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアの漏斗状ビーカー;ボヘミアのヨルダヌフ、ドイツの漏斗状ビーカー)は正で、ボヘミアの漏斗状ビーカーが、先行する在来のヨルダヌフ個体群よりも、ザクセン=アンハルト(Saxony-Anhalt)のバールベルゲ(Baalberge)遺跡とザルツミュンデ(Salzmünde)遺跡の漏斗状ビーカー個体と有意により大きな遺伝的類似性を示す、と明らかにします。逆に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアのヨルダヌフ;ドイツの漏斗状ビーカー、ボヘミアの漏斗状ビーカー)は一貫して0と一致しており、ボヘミアのヨルダヌフ個体群に関して、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間の系統発生的クレード(単系統群)化を示唆します。

 第二に、ボヘミアのヨルダヌフ個体群は、アナトリアNとケロスHGの2方向混合としてモデル化できるものの、アナトリアNとロシュブールの2方向混合としてはモデル化できない一方で、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群では逆が当てはまります。これは、さまざまな遺伝子移入年代に加えて、ボヘミアのヨルダヌフ文化的集団と漏斗状ビーカー文化的集団におけるHG祖先系統のさまざまな類似性を示唆します。第三に、qpWaveはボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーの個体群間のクレード化を裏づけませんが、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間のクレード化を却下できません。まとめると、これらの結果は、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群の大半(有意に50%以上)の非在来の遺伝的起源を示唆します。

 この第二のような事例は、リヴナックからGACへの文化的移行で見られます。GAC個体群はボヘミアの先CW文化的集団で最も高いHG祖先系統を有しており(25.7±1.4%)、リヴナック個体群よりも有意に多くにっています。しかし、GACにおけるHGとの混合の推定年代は、リヴナック個体群よりも遅いわけではなく(図3B)、GAC個体群はリヴナックとHGの起源集団の最近の混合に由来するのではなく、ボヘミアにおける最近の非在来の侵入を構成しており、それは、たとえばポーランドのように(関連記事1および関連記事2)より多くのHGからの遺伝子流動を受けた地域からの侵入で、考古学的証拠の解釈とも一致します。

 リヴナック個体群とGAC個体群の異なる遺伝的起源は、主成分分析とqpAdmモデル化によりさらに裏づけられます。主成分分析では、GACのTUC003個体を除いて、リヴナック個体群とGAC個体群は異なる一群を形成します(図3C)。これはqpAdmモデル化により確認され、GAC個体群はアナトリアNとロシュブールの混合としてモデル化できますが、アナトリアNとケロスHGの混合としてはモデル化できない一方で、リヴナック個体群にはその逆が当てはまります。その結果、リヴナック個体群とGAC個体群はHG祖先系統の量と供給源に基づいて区別でき、ボヘミアにはCW出現時にリヴナック個体群とGAC個体群という遺伝的に異なる集団が存在した、と示唆されます。リヴナック個体群の外れ値個体(TUC003)も、GAC集団で生まれたものの、リヴナック集団の文化的背景で埋葬された、という興味深い可能性を提起します。以下は本論文の図3です。
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 ボヘミアにおけるCWの出現と同時代かその後のリヴナックとGACの16個体間(図1B)では、草原地帯祖先系統の検出可能な痕跡は見つからず(図2A)、CW/ヤムナヤから文化的にCWに先行する人々(リヴナックやGACなど)への生物学的交換は低く、おそらく存在していなかった、と示唆されます。草原地帯祖先系統は、CW個体群とともに紀元前三千年紀初期のボヘミアに出現します。


●縄目文土器(CW)

 本論文は現時点で最初期となるCW個体群のゲノムデータを報告し、その中には、紀元前3010~紀元前2889年頃となるボヘミア北西部のSTD003個体や、紀元前3018~紀元前2901年頃となるボヘミア中央部のVLI076個体や、紀元前2914~紀元前2879年頃となるボヘミア東部のPNL001個体が含まれ、CWはボヘミア全域に紀元前2900年頃までに広範に拡大した、と示されます。これら初期の放射性炭素年代は、これらの個体の遺伝的特性によっても裏づけられます。これらの個体は、最初のCWが地元民と混合した東方からの移民で、後の世代ではPC2軸の位置が中間になる、というシナリオで予測されているように、PC2軸では最も極端な位置にあります(図2B)。

 ボヘミアのCW個体群の遺伝子プールの形成を調べるため、草原地帯祖先系統を有しており平均年代が紀元前2600年以前のCWの27個体がボヘミアCW前期、残りの21個体がボヘミアCW後期とまとめられました。ボヘミアCW前期を、あらゆる既知のヤムナヤ供給源と、あらゆる在来のボヘミアもしくはポーランドやウクライナやハンガリーやドイツといった非在来の先CW供給源の2方向混合としてモデル化する統計的裏づけは乏しい、と明らかになりました。新石器時代祖先系統(アナトリアNと一連のHG供給源)の代理として遠方の供給源を用いると、3方向遠位混合モデルの一つを除いて強い裏づけは見つかりませんでした。しかし、この統計的に裏付けられた一つのモデルから、ヨーロッパにおける新石器時代祖先系統の以前には観察されていなかった比率が得られました。それは、アナトリアNとスウェーデンのムータラ(Motala)遺跡狩猟採集民との1:1の混合比の新石器時代人口集団です。さらに、前期CWを個々に、アナトリアNとWHGとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の「標準」3方向混合としてモデル化すると、37%(27事例のうち10事例)で、このモデルが強い裏づけを欠いている、と明らかになりました。

 ヤムナヤとヨーロッパ新石器時代人口集団の供給源間の2方向近位モデルが、ボヘミアCW前期の遺伝的多様性を説明するのに不充分な理由を調べるため、よりよいモデル適合を得られる第三の供給源の追加が試みられました。ラトヴィア中期新石器時代(ラトヴィアMN)やウクライナ新石器時代(ウクライナN)や円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化のいずれかを供給源として追加すると、ほぼ全てのモデル(285例のうち280例)の適合が改善し、その改善のほとんどは数桁に達しました。全ての2方向近位モデル(95例)が強い裏づけを欠いている一方で、ラトヴィアMN(95例のうち57例)かウクライナN(95例のうち53例)かPW(95例のうち32例)を供給源に追加すると、裏づけられたモデルの数が大幅に増加しました。

 これらの結果は、全ての既知のヤムナヤおよびヨーロッパ中央部新石器時代人口集団と比較して、ボヘミアCW前期における、ラトヴィアMN/ウクライナN/ PW的な祖先系統の存在を示します。本論文のモデルから、この祖先系統はボヘミアCW前期遺伝子プールの5~15%を占める、と示唆されます。ボヘミアCW後期およびドイツCWをモデル化すると、これら第三の供給源のいずれかとのモデル適合の増加も観察され、この祖先系統が後のヨーロッパ中央部CWにも存在し、CW集団はヤムナヤよりも古代ヨーロッパ北東部集団と多くのアレルを共有すると示すアレル共有f4統計とも一致する、と示唆されます。

 本論文は、草原地帯祖先系統を有さないCW個体群からの最初のゲノムデータを提供し、それにより、CWとCWに先行する人々との間の相互作用の社会的過程を解明します。草原地帯祖先系統を有さない前期CW個体群間の女性のみ(4個体)の観察結果(図2Bおよび図3C)から、先CWの人々を前期CW社会に同化させる過程が女性に偏っていた、と示唆されます。この女性4個体のうち2個体(STD003とVLI008)は主成分分析ではボヘミアとポーランドのGAC個体群の近くに位置します(図3C)。これらを一群にまとめると、STD003とVLI008はボヘミアのリヴナック個体群よりもボヘミアのGAC個体群とより多くの遺伝的類似性を共有します。STD003とVLI008はポーランドのGAC個体群と比較してボヘミアのGAC個体群と遺伝的により密接ではなく、非在来の東部もしくは北東部起源(たとえば、ポーランド)の可能性が除外できないことを意味します。さらに、VLI009とVLI079は主成分分析では、標本抽出されたボヘミアの中期銅器時代(バデンとリヴナックとGAC)個体群の遺伝的多様性の範囲外に位置し、有意により多くのHG祖先系統を有しており、前期CW社会の遺伝的に先CW女性の大きな割合(50%か、STD003とVLI008を含めるとそれ以上)はボヘミア外に由来する、と示唆されます。

 ボヘミアCW後期はボヘミアCW前期と比較して、有意に先CW銅器時代的祖先系統をより多く有する、と明らかになりました。しかし、この兆候は草原地帯祖先系統を有さない前期CW女性を含めると失われます。ボヘミアCW前期と比較しての、ボヘミアCW後期におけるこの追加の先CW銅器時代的祖先系統は、地元の供給源に由来するものとしては上手くモデル化されず、ボヘミアのCW遺伝子プールに地元以外の遺伝的影響が経時的にあった、示唆されます。これは、ボヘミア外に由来する遺伝的に先CWの女性と一致し、類似の量の先CW銅器時代的祖先系統を有するにも関わらず、ボヘミアCW前期(草原地帯祖先系統を有さない女性を含みます)とボヘミアCW後期がqpWave分析でクレード化しない、という知見により裏づけられます。

 経時的な常染色体の遺伝的変化に加えて、前期CWの異なる5系統から後期CWの優勢な(単一)系統へと移行する、Y染色体多様性の急激な減少が観察されます(図4A)。フォワードシミュレーションを用いて、Y染色体多様性の観察された減少を説明できる人口統計学的シナリオが調べられました。ボヘミアCW前期で観察された開始頻度を中心としたYHg-R1a1a1(M417)の開始頻度で人口集団のシミュレーションが100万回実行され、この系統が、閉鎖集団と任意交配のモデル下で500年の時間枠において、ボヘミアCW後期で観察される頻度(11個体のうち10個体)に達する妥当性が評価されました。

 その結果、妥当な人口規模の広範囲を考慮すると、この頻度変化が偶然に起きたという「中立的」仮説は却下されました。代わりに本論文の結果から示唆されるのは、YHg-R1a1a1は無作為ではない増加を経ており、この系統の男性は他系統の男性と比較して1世代あたり15.79%(4.12~44.42%)多く子を儲けた、ということです。Y染色体頻度におけるこの変化は、同じ男性内の充分に網羅された常染色体124万ヶ所におけるアレル頻度の変化と比較して極端だと明らかになり、常染色体の遺伝的多様性と比較してY染色体に不均衡に影響を及ぼした過程が示唆され、このY染色体多様性の急激な減少の原因として人口集団のボトルネック(瓶首効果)は除外されます。以下は本論文の図4です。
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 本論文の結果から、前期CW男性のY染色体系統の多様性は、無作為ではない過程により取って代わられ、それは選択か社会的構造か外来のYHg-R1a1a1の流入であり、Y染色体多様性の崩壊を引き起こした、と示唆されます。新石器時代にさかのぼるY染色体多様性の同時に起きた減少は、ほぼ全ての現存YHgで観察されており、おそらくは男性を中心とした家系間の紛争増加に起因します(関連記事)。本論文は、社会的構造の変化(たとえば、厳密に排他的な社会規範を有する孤立した婚姻ネットワーク)が別の原因かもしれないものの、基礎となるモデルパラメータで区別することは難しいだろう、と考えます。初期CW個体群内の最大の遺伝的分化は、ヴリネヴェス(Vliněves)遺跡個体で見られます。ヴリネヴェス遺跡のPC2軸上のCW個体群で最も高い3個体と最も低い3個体間の遺伝的違いは、全ての現代ヨーロッパの人口集団の組み合わせ比較よりも大きくなります(図5)。以下は本論文の図5です。
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●鐘状ビーカー(BB)

 最初期のBB個体群は、主成分分析ではCWと類似の位置を占めており(図4B)、ある程度の遺伝的連続性が示唆されます。前期BB個体群(ボヘミアBB前期、平均年代が紀元前2400年以前で、3個体)の遺伝的起源を調べるため、先行する文化的集団と同時代の文化的集団との間の2方向混合としてモデル化されました。その結果、地元起源の裏づけが明らかになりましたが、外来の代替案を除外できませんでした。しかし、本論文のボヘミアBB前期集団はわずか3個体の女性で構成されているので、供給源人口集団を識別するための代表性と解像度が制約されているかもしれません。

 後期BB個体群(ボヘミアBB後期、紀元前2400年以後で、56個体)は、ボヘミアBB前期と比較して有意により多くの中期銅器時代的祖先系統を有する、と明らかになりました。この遺伝的変化を調べるため、ボヘミアBB後期がボヘミアBB前期と地元の中期銅器時代供給源の2方向混合としてモデル化され、ボヘミアBB前期と比較してボヘミアBB後期では追加の20%程度の地元の中期銅器時代的祖先系統の裏づけが見つかりました。

 前期CWとBBで見つかったY染色体系統間では、後期CWもしくはヤムナヤおよびBBの場合より密接な系統発生関係が観察されます。YHg-R1b1a1b1a1a(L151)は前期CW男性では最も一般的なY染色体系統で(11個体のうち6個体)、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の祖先的系統であり(図4A)、BBでは優勢な系統です。YHg-R1b1a1b1a1a2の(複数の)変異がボヘミアの前期CWのYHg-R1b1a1b1a1a男性の1人で生じたのかどうか、判断できませんが、ほとんどのボヘミアのBB男性はさらに派生的なYHg-R1b1a1b1a1a2(S116)とYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)を有しており、何人かはYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)派生的変異を有するイングランドの男性とは対照的です。これは、イギリスとボヘミアのBB男性が相互の子孫ではあり得ず、むしろ並行して多様化したことを示します。YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がボヘミアとイングランドの間のどこか、おそらくはライン川の近くで生じ、その後で北西と東方へ拡大した、とのシナリオは、古代のYHg-R1b1a1b1a1a(L151)の派生的系統の系統地理に関する本論文の理解と一致します。


●EBAウーニェチツェ文化

 ボヘミアにおけるEBAへの移行は、先行する後期BBと比較して、PC2軸の正の変化と関連しています(図4B)。ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)もしくはシベリア西部狩猟採集民(WSHG)を、時空間的に近接するボヘミアにBB後期に加えて第二の供給源として用いると、f3統計の混合は最も負の値となり、ボヘミアウーニェチツェ先古典期への北東部からの寄与が示唆されます。あり得る追加の供給源人口集団の適切な代理を見つけるため、ボヘミア・ウーニェチツェ先古典期が、地元のボヘミアBB後期とPC2軸上のより正の値を示すさまざまな供給源の2方向混合としてモデル化されました。

 その結果、ボヘミアBB後期とヤムナヤ、もしくはボヘミアBB後期とCWを含む混合モデルは却下されました。ボヘミアBB前期63.5%とボヘミアBB後期36.5%の2方向混合モデルは却下できず、前期BB系統からの大きな割合が示唆されます。前期BB系統は後期BB段階(紀元前2400~紀元前2200年頃)ではほぼ標本抽出されていませんが、青銅器時代開始期のあり得る新たな系統を表しています。Y染色体データはさらに大きな置換さえ示唆します。後期BBでは100%だったYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、先古典期ウーニェチツェ文化では20%に減少しており、EBA開始期における少なくとも80%の新たなY染色体の流入が示唆されます。

 しかし、ボヘミアBB前期の解像度が限定的なため(小規模で低解像度で大きな標準誤差)、先古典期ウーニェチツェ個体群について代替モデルが調べられました。ラトヴィアBAを供給源に含めると全てのモデル化が改善し、2つの追加のモデルが裏づけられます。ボヘミアBB後期とボヘミアCW前期とラトヴィアBAの3方向混合は、47.7%という人口集団置換の控えめな推定値を裏づけるだけではなく、先古典期ウーニェチツェで見つかるY染色体多様性も説明し、その中にはボヘミアBB後期のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)と、ボヘミアCW前期のYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびI2と、ラトヴィアBAのYHg-R1a1a1b(Z645)があります(図4A)。

 この新たな祖先系統の地理的起源は正確に特定できませんが、3点の観察結果が手がかりを提供します。第一に、全てのモデル適合性を改善するラトヴィアBA祖先系統は、究極的な北東部起源を示唆します。第二に、YHg-R1a1a1bはEBAの始まりにボヘミア(およびより広範なヨーロッパ中央部)で初めて出現します。YHg-R1a1a1bはそれ以前にはバルト海地域に固定されており、スカンジナビア半島のCW男性で一般的で、北部・北東部からの遺伝的寄与を裏づけます。第三に、ウーニェチツェの遺伝的外れ値であるYHg-R1a1a1bの男性個体VLI051は、青銅器時代(BA)のラトヴィアの個体群と類似しており(関連記事)、北東部からの移住の直接的証拠を提供します。

 先古典期から古典期へのウーニェチツェの遺伝的移行も検出され、それは紀元前2000年頃以後のウーニェチツェ個体群のPC2軸における減少に反映されており、qpWaveとf4統計で確認されました。ボヘミアのウーニェチツェ古典期個体群は、ボヘミアのウーニェチツェ先古典期と地元の銅器時代の供給源の混合としてモデル化できます。後期BBと先古典期ウーニェチツェとの間の遺伝的変化とは対照的に、Y染色体多様性はウーニェチツェの両期間(先古典期と古典期)を通じて類似しており、同化と微妙な社会的変化を示唆します。


●考察

 ボヘミアにおける高解像度の遺伝的時間区間により、文化的集団の前期と後期を区別して個々に研究することが可能となり(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)、草原地帯祖先系統到来前後のいくつかの大きな過程を解明します(図6)。本論文の密な標本抽出により、厳密な文化史的観点を通じて見るならば、文化的集団内の新しく重要でおそらくは「予期せぬ」変化の検出が可能となりました(CWやBBなど)。以前の研究では、新石器時代の始まりと終わりにおける主要な移民の解明としておもに解釈されてきましたが(つまり、侵入集団が遺伝的にひじょうに異なる期間です)、本論文の結果は、追加の大きな遺伝的置換を明らかにします。連続的かつ部分的な同時代の文化的集団の標本抽出により、漏斗状ビーカーとGACの拡大は、ウーニェチツェの起源と同様に、短期間での大きな遺伝的変化を伴っており、おそらくは移住により説明される、と示されます。以下は本論文の図6です。
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 前期CWは遺伝的にひじょうに多様で、一部はGACやヤムナヤと似ており、いくつかの個体は以前に標本抽出されたヨーロッパ中央部新石器時代の遺伝的多様性の範囲外に位置する、と示されます。そうした顕著に多様な兆候は、多様な文化的および言語的背景から、考古学的に類似しているものの多民族的もしくは複数社会への人々の密集の結果だった可能性があります。民族自認の重要な要素には、祖先系統と歴史とイデオロギーと言語が含まれます。草原地帯祖先系統の割合が高いか存在しない前期CW個体群間の遺伝的分化の水準(つまり、共通祖先以来の時間)は、長い生物学的孤立と、それ故の異なる歴史を示唆します。前期CWにおけるGAC的およびヤムナヤ的遺伝的特性の発見は、イデオロギー的に多様な社会(つまり、CWとは異なり、GACもヤムナヤも埋葬慣行で強い性差はありませんでした)から来た人々の統合を示唆します。GACとCW/ヤムナヤ個体群が異なる言語を話していた可能性はあり、それが意味するのは、ボヘミアの前期CW社会は明らかに異なる歴史を有しており、イデオロギー的に多様な文化に由来したかもしれず、異なる母語を話す人々が含まれていた、ということです。

 前期CW社会への草原地帯祖先系統を有さない個体群の同化過程は、女性に偏っていました。しかし、草原地帯祖先系統の最高量を有する個体群間でも女性が見つかっており(5個体のうち3個体、図2B)、移住してきたCW個体群間にも女性が存在したか、近隣のヤムナヤ集団から恐らくは同化されたことを示唆します(たとえば、現在のハンガリー)。前期CWにおける草原地帯祖先系統を有さない個体の発見は、先CWにおける草原地帯祖先系統を有する個体よりも一般的です(たとえば、先CWのGACではそうした個体が確認されていません)。同時代のGACとCWとの間の非対称的な遺伝子流動のこのパターンは、自分たちの共同体に重要な在来の知識(つまり、先CW文化からの知識)を有する人々を組み込むことでより多くの利益を得た、新来者(CW集団)を反映しているかもしれません。考古学的記録では、いくつかの地域におけるそうした知識(たとえば、土器製作や石材)の継続性が示されます。

 ヴリネヴェス遺跡は、高い草原地帯祖先系統を有する個体群と草原地帯祖先系統を有さない個体群間の相互作用の解明に重要です。ヴリネヴェス遺跡では、最初期のCW個体(紀元前3018~紀元前2901年頃のVLI076)が見つかっており、VLI076は先CW個体群と遺伝的に最も分化していますが、ヴリネヴェス遺跡の標本抽出された前期CWの15個体のうち3個体は草原地帯祖先系統を有していません。興味深いことに、ヴリネヴェス遺跡とシュタッダイス(Stadice)遺跡の草原地帯祖先系統を有する個体と有さない個体との間の考古学的違いは観察されず、同じ考古学的文化内の、遺伝的に、および恐らくは民族的に多様な個体群の完全な統合が示唆されます。

 前期CWにおけるラトヴィアMN的祖先系統は、前期CWとヤムナヤの男性間で共有されるY染色体の欠如とともに、ヨーロッパ中央部へのCWの起源と拡大における既知のヤムナヤの限定的もしくは間接的役割を示唆します。本論文の結果は、前期CWへのヨーロッパ北東部銅器時代森林草原地帯(考古学的証拠の一部の解釈と一致する地域です)の寄与か、過剰なラトヴィアMN的祖先系統を有するこれまで標本抽出されていない草原地帯人口集団を示唆します。これは、紀元前3000年頃の草原地帯集団間の高水準の遺伝的均質性を考えると、ありそうにないことです。たとえば、ヤムナヤとシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)は、2500km離れているものの、遺伝的にはほぼ区別できません。紀元前4000~紀元前2500年頃のヨーロッパ東部(北東部)の遺骸の大半は標本抽出されておらず、前期CW個体群の正確な地理的起源は理解しにくいままです。

 社会的親族制度は遺伝的多様性のパターンに影響を及ぼすので(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、いくつかの異なる親族制度が紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部に存在したかもしれません。前期CWのひじょうに多様な遺伝的特性(常染色体とY染色体の両方)は、Y染色体パターンが厳密な父系を示唆する後期CWおよびBBとは異なる社会組織を示唆します。これが示唆するのは、さまざまな文化的集団が、多様な形態の物質文化と埋葬慣行を用いたことに加えて、その配偶パターンおよび/もしくは社会組織で表現されているような、異なるイデオロギーに従っていた可能性がある、ということです。これは、部分的に同時代の後期CWとBBとの間の完全に重複しないY染色体多様性の発見により裏づけられ、これら2集団間の父方の大規模な配偶孤立を示唆し、たとえばヴリネヴェス遺跡のように同じ遺跡でさえ見られます。

 先古典期ウーニェチツェ文化の始まりは、究極的には北東部に起源があり、後期CWとBBの性別による埋葬慣行の違いと厳密な父系を破壊した、40%以上の核DNAと80%以上のY染色体の寄与が伴いしました。これは、埋葬慣行でも物質文化でも明らかではありませんでしたが、バルト海地域との根底的なつながりを表しており、バルト海地域は、後に出現する琥珀路と関連する、ボヘミアにおけるEBAの琥珀の究極的な供給源だったかもしれません。したがって本論文の結果は、北東部からの遺伝的影響の2つの主要な期間(前期CWと前期ウーニェチツェ)を示唆し、その時期の人類遺骸の大半はヨーロッパの考古学的記録では標本抽出されていません(たとえば、ベラルーシなど)。

 本論文の結果は、新石器時代からEBAのヨーロッパ中央部の複雑でひじょうに動的な歴史を明らかにし、この期間には人々の移住と移動が急速な遺伝的および社会的変化を促進しました。大規模な人口拡大が、ヨーロッパにおける草原地帯祖先系統の出現の前後に複数回起きました。前期CW社会は多様で、強い文化的および遺伝的移行の最中に出現し、多様な起源とおそらくは民族性の男女が関わっていました。CWとBBとEBAの社会内では、物質文化の連続性にも関わらず、遺伝的変化が生じました。文化的役割が紀元前三千年紀の社会的行動に重要な役割を果たしましたが、究極的には経時的な新たな人々の流入に伴って変化しました。遺伝的多様性のパターンには社会的過程の影響が観察されますが、これらの変化の動因を小規模および大規模両方の地域的水準で特徴づけるには、さらなる学際的研究が必要です。


参考文献:
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2022/05/31 (Tue) 19:59:12

日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

▲△▽▼

ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告

 3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

 3-2. Y-DNA「I」   ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm

 3-3. Y-DNA「R1b」  ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
       
 3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

 3-5. Y-DNA「N1c」  ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
 
 3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
  
 3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

 3-8. Y-DNA「G」   コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm

15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
 
3-9. Y-DNA「T」   ジェファーソン度 調査 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm  

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm

1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm
13:777 :

2022/06/05 (Sun) 20:34:08

あげ12
14:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/03 (Fri) 13:32:40

雑記帳
2023年03月03日
上部旧石器時代から新石器時代のヨーロッパ狩猟採集民の大規模なゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_3.html

 上部旧石器時代から新石器時代のヨーロッパ狩猟採集民の大規模なゲノムデータを報告した研究(Posth et al., 2023)が公表されました。この研究は、ヨーロッパ全域の狩猟採集民116個体の新たな古代ゲノムデータを報告し、これまで不明なところが多分に残っていた最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前後のヨーロッパの人口史について、その遺伝的構成要素をさまざまな祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)もしくはクラスタ(まとまり)に分類することによって以前よりも詳しく解明しており、画期的成果として大いに注目されます。改めて、古代ゲノム研究で最も進んでいる地域がヨーロッパだと思ったものですが、日本人の私は、日本列島も含むユーラシア東部圏の古代ゲノム研究が、今後急速に発展することを期待しています。


●要約

 現生人類(Homo sapiens)は45000年以上にわたってヨーロッパに居住してきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、古代の狩猟採集民の遺伝的な近縁性や構造に関する知識は、この期間のヒト遺骸が少なく、分子的な保存状態が悪いため限られています(関連記事)。本論文は、古代狩猟採集民356個体のゲノムを解析し、これには、ユーラシア西部および中央部の14ヶ国から得られた35000~5000年前頃となる、116個体の新たなゲノムデータが含まれています。

 ヨーロッパ西部の上部旧石器時代となるグラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)遺物群と関連する個体において遺伝的祖先系統特性が特定され、これはヨーロッパ中央部および南部の考古学的文化と関連する同時代の集団とは異なっていますが(関連記事)、オーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)と関連する先行する個体群の遺伝的祖先系統特性と類似しています。この祖先系統特性はLGM(25000~19000年前頃)の期間に、ソリュートレアン(Solutrean、ソリュートレ文化)、およびLGM後に北東へと再拡大したソリュートレアンの後のマグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)と関連する人口集団において存続しました。

 一方、ヨーロッパ南部では遺伝的転換が明らかになり、続グラヴェティアン(Epigravettian、続グラヴェット文化)と関連する人口集団の北方から南方への拡散に伴うLGMの頃のヒト集団の局所的置換が示唆されます。少なくとも14000年前頃以降、続グラヴェティアンと関連する祖先系統は南方からヨーロッパの残り全体へと拡大し、マグダレニアン関連の遺伝子プールをほぼ置換しました。中石器時代の開始にまたがる限定的な混合の期間の後、ヨーロッパの西部と東部の狩猟採集民の間に遺伝的相互作用があった、と分かり、これらの狩猟採集民は表現型的に関連する多様体における顕著な違いにより特徴づけられました。


●研究史

 現生人類はサハラ砂漠以南のアフリカを6万年前頃に離れ、ユーラシアへのその最初の拡大において、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と遺伝的に混合し、現在の非アフリカ系人口集団の大半ではそりゲノムにおける2~3%はネアンデルタール人の祖先系統に由来します。ゲノムデータから、現生人類は少なくとも45000年前頃にはユーラシア西部に存在した、と示されてきました(関連記事)。初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)文化と関連するブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の個体群(関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」の個体(関連記事)における、比較的近い世代の祖先におけるネアンデルタール人からの遺伝子移入の兆候により示されるように、4万年以上前となるそれら初期現生人類集団の一部はさらにネアンデルタール人と混合しました。

 チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(関連記事)や、ロシア領シベリア西部のウスチイシム(Ust’Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(関連記事)など、その期間の他の個体群は、他の非アフリカ系集団よりも有意に多くのネアンデルタール人祖先系統を有しておらず、ユーラシア全域にわたる現生人類の最初の拡散期におけるネアンデルタール人と初期現生人類との間の異なる相互作用を示唆します。しかし、驚くべきことに、それら4万年前頃以前の個体群は、現在のユーラシア人口集団の遺伝的構成には実質的な痕跡を残しませんでした(関連記事)。

 現在のヨーロッパ人へとつながる系統におもに由来する祖先系統を有している最古のゲノムはロシア西部にある考古学的関連が不確実なコステンキ・ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された37000年前頃の個体であるコステンキ14号(関連記事)と、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡のオーリナシアンと関連する35000年前頃の(関連記事)個体(ゴイエQ116-1)です。これらのデータから、これまでに分析された4万年以上前の個体群で特定された遺伝的祖先系統は、ほぼ絶滅したか、その後の拡大により同化された、と示唆されます(関連記事)。

 コステンキ14遺跡個体の遺伝的痕跡(コステンキ14号のゲノムと関連しており、以後はコステンキクラスタもしくは祖先系統と呼ばれます)は、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡に因んで命名された、その後のヴェストニツェ遺伝的クラスタ(以後、ヴェストニツェクラスタもしくは祖先系統と呼ばれます)に寄与しました。この遺伝的痕跡は、ヨーロッパ中央部および南部における考古学的に定義されている33000~26000年前頃のグラヴェティアンと関連する個体群で共有されており、LGM後に消滅しました(関連記事)。

 しかし、同時代のヨーロッパ西部のグラヴェティアン関連個体群の遺伝的特性は、LGM後の人口集団への寄与と同様に不明なままです。最終氷期の最寒冷期として知られているLGMは、ヨーロッパの大半で人口減少を引き起こし、たとえばイベリア半島とフランス南部の24000~19000年前頃となるソリュートレアン(Solutrean、ソリュートレ文化)の同時期の存在により証明されるように、人口集団は南方へと後退しました。この期間におけるヒトの生存にとっての他の提案されている気候退避地は、イベリア半島とバルカン半島とヨーロッパ南東部平原ですが、これらの地域からLGM後のヨーロッパ人への人口集団の実際の遺伝的寄与は、激しく議論されています。

 LGM後に、35000年前頃となるベルギーのゴイエQ116-1個体と遠位的に関連する遺伝的構成要素(ゴイエQ2祖先系統と命名され、以後はゴイエQ2クラスタもしくは祖先系統と呼ばれます)が、となるマグダレニアン(19000~14000年前頃にイベリア半島からヨーロッパ中央部を横断してヨーロッパ東部まで分布)と関連するヨーロッパ南西部および中央部の個体群において、末期旧石器時代および中石器時代狩猟採集民において混合した形で再出現しましたが(関連記事)、この祖先系統の地理的拡張はまだ不明です。

 代わりに、ヨーロッパ南部では独特な狩猟採集民遺伝的特性が早くも17000年前頃には、続グラヴェティアン(24000~12000年前頃にかけてイタリア半島からバルカン半島全域のヨーロッパ南東部平原まで分布)と関連する個体群で見られました(関連記事)。この、14000年前頃となるイタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡個体に代表される「ヴィッラブルーナ祖先系統(以後はヴィッラブルーナクラスタもしくは祖先系統)」は、古代および現在の近東の人口集団とのつながりを示しますが(関連記事)、イタリア半島への拡大の様相と速度は未調査です。ヴィッラブルーナ祖先系統はその後、ヨーロッパ中央部に現れ、ゴイエQ2祖先系統と関連する集団をほぼ置換した、と考えられています(関連記事)。しかし、ヴィッラブルーナ祖先系統については、形成、拡散、ヨーロッパ東部の同時代の狩猟採集民との相互作用、とヨーロッパ人東部からの新石器時代農耕民のその後の拡大との相互作用は、充分には特徴づけられていません。

 この研究では、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)に基づく新規の汚染推定手法とともに、35000~5000年前頃の116個体の新たなゲノムデータを含む、古代の狩猟採集民356個体のゲノムが解析されました。本論文は、狩猟採集民集団が上部旧石器時代初期以降にユーラシア西部および中央部全域で経たゲノム変容と、それらが文化および気候変化とどのように関連している可能性があるのか、ということについて体系的な記述を提供します。


●古代DNAデータの生成

 この研究は、新たに報告された狩猟採集民102個体のゲノム規模データを生成し、以前に刊行された14個体について網羅率を増加させました。これらのデータは、上部旧石器時代から後期新石器時代(本論文では、示唆されていなくとも、農耕生計経済ではなく土器の存在により定義されます)まで約3万年間の時間的範囲を網羅しており、複数の先史時代の文化的状況と14ヶ国の54ヶ所の遺跡に由来します。その内訳は、ベルギーのオーリナシアン関連―の1個体とルーマニアの文化的に分類されていない1個体(35000~33000年前頃)、スペインとフランスとベルギーとチェコとイタリアのグラヴェティアン関連の15個体(31000~26000年前頃)、スペインとフランスのソリュートレアン関連の2個体(23000~21000年前頃)、フランスとドイツとポーランドのマグダレニアン関連の9個体(18000~15000年前頃)、イタリアの続グラヴェティアン関連の4個体(17000~13000年前頃)、ドイツのフェダーメッサー(Federmesser)文化関連の2個体(14000年前頃)、ユーラシア西部全域の中石器時代から新石器時代の採食民81個体(11000~5000年前頃)、タジキスタンのユーラシア中央部新石器時代の1個体(8000年前頃)です(図1)。以下は本論文の図1です。
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 各個体について1~8点の一本鎖および二本鎖が構築され、124万SNP(一塩基多型)でヒトDNAが濃縮され、次にこれらが配列決定され、標的のSNPで平均0.04~7.64倍での網羅率平均が得られました。遺伝的性別では、男性78個体と女性38個体が明らかになりました。現代人のDNAの汚染水準は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とX染色体と常染色体DNAに基づき、またROHにおける常染色体データへと拡張されるハプロタイプのコピーモデルで推定されました。個々の解析されたゲノムのわずかに汚染されたライブラリと、かなり汚染されているライブラリは、死後のてえ損傷を示す読み取りの保持のため選別されました。

 疑似半数体遺伝子型が、各部位における単一アレル(対立遺伝子)の無作為標本抽出により、標的とされたSNPで呼び出され、124万SNPパネルで網羅された6600~107万のSNPを有する個体が得られました。新たに生成された遺伝子型は下流分析のため、240個体の刊行された狩猟採集民のゲノムおよび世界規模の人口集団と統合されました。2016年の研究(関連記事)とは異なるものの、2019年の研究(関連記事)とは一致して、経時的にほとんどのヨーロッパ狩猟採集民においてネアンデルタール人由来の祖先系統の大きな増加は観察されません。これは、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入後に、現生人類においてゲノム規模のネアンデルタール人由来の祖先系統の長期的現象はなかった、というモデルへのさらなる裏づけを提供します。


●LGM前

 グラヴェティアンはLGMの前にユーラシア西部全域において最も広く分布した上部旧石器時代文化の一つでした。グラヴェティアンはヨーロッパ全域の文化的斑状とみなされることが多く、物質から象徴的作品ので地域的差異が伴います。この議論されてきた枠組みでは、グラヴェティアン関連個体群は、頭蓋計測およびゲノムデータに基づいて生物学的に均質な人口集団を表している、と提案されてきました。しかし、グラヴェティアン関連のゲノムはヨーロッパ中央部および南部に由来し、グラヴェティアンと関連するヨーロッパ西部および南西部のヒト集団の遺伝的特性は記載されていません。

 LGM前のヨーロッパ狩猟採集民のゲノム背景の概要を得るため、多次元尺度構成法(multidimensional scaling、略してMDS)が用いられ、1-f3の形態(ムブティ人;集団1、集団2)で対での外群f3統計の相違点行列が図示されました(図2a)。この図示は3つの異なる分類の存在を明らかにします。それは、(1)ウスチイシムやバチョキロ洞窟やズラティクンや骨の洞窟で発見された4万年前頃以前の集団、(2)ヨーロッパ中央部から東部と南部の遺跡で発見された続グラヴェティアン関連個体群を含むヴェストニツェクラスタ、(3)ヨーロッパ西部および南西部の、フランスのフルノル(Fournol)とオルメッソン(Ormesson)とラ・ロシエット(La Rochette)とセリニャ(Serinyà)洞窟のモレット3(Mollet III)およびレクロー・ヴィヴァー(Reclau Viver)遺跡で発見された個体から構成される、フルノルクラスタ(以下、フルノルクラスタもしくはフルノル祖先系統と呼ばれます)です。以下は本論文の図2です。
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 以前に記載されたヴェストニツェクラスタは、イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)で発見され新たに報告された29000年前頃の1個体(パグリッチ12号)を含み、ロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡(34000年前頃)およびコステンキ12遺跡(32000年前頃)の以前に刊行されたゲノム(関連記事)と密接に関連しています。新たに報告されたフルノルクラスタは、35000年前頃となるベルギーのオーリナシアン関連個体群(ゴイエQ116-1およびゴイエQ376-3)と密接に関連しています。

 注目すべきは、以前の研究(関連記事)に反して、ヨーロッパ中央部から西部の別のグラヴェティアン関連人口集団(ベルギーのゴイエ遺跡の6個体)は、地理的および遺伝的の両方でヴェストニツェとフルノルのクラスタの中間です。ゴイエQ116-1とゴイエQ376-3とフルノルクラスタの間の類似性はmtDNA水準でも観察され、両集団にはLGM後にはヨーロッパの個体群では見られないmtDNAハプログループ(mtHg)Mを有する個体が含まれます(拡張図1および拡張図2)。以下は本論文の拡張図1および拡張図2です。
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 一連のf4統計で、MDS図で観察されたヴェストニツェとフルノルのクラスタ間の遺伝的差異がさらに検証されました。フルノルクラスタに属する全ての個体は、スンギール集団(4個体)とよりもゴイエQ116-1の方と高い類似性を示し、ヴェストニツェクラスタの個体群はゴイエQ116-1とよりもスンギール集団の方と高い類似性を示しました。これらf4統計でも、ゴイエQ376-3がゴイエQ116-1と類似した祖先系統を、コステンキ12号がスンギール集団と類似した祖先系統を有している一方で、ブルガリアの35000年前頃となるバチョキロ洞窟1653号と、ルーマニアの34000年前頃となる「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」個体(PM1号)および32000年前頃となるチオクロヴィナ・ウスカタ洞窟(Peștera Cioclovina Uscată、以下PCU)個体(PCU1号)と、イタリア南部の33000年前頃となるパグリッチ洞窟133号は、ゴイエQ116-1およびスンギール集団と同等に関連しています。

 ヴェストニツェとフルノルのクラスタに含まれる個体群が、それら2クラスタの主要な代表と類似のアレル頻度を共有しているのかどうか、さらに検証されました。f4統計(ムブティ人、フルノル85号;ヴェストニツェ、検証)とf4統計(ムブティ人、ヴェストニツェ;フルノル85号、検証)統計では、ヴェストニツェクラスタ個体群はヴェストニツェ集団(5個体)と有意により密接で、フルノルクラスタ個体群はフルノル85号とより密接なのに対して、地理的に中間のグラヴェティアン関連のゴイエ集団は両クラスタと余分の類似性を示す、と明らかになります(図2b)。

 さらに、qpGraphでLGM前の個体群の遺伝的特性がモデル化されました。混合図では、バチョキロ洞窟IUP集団(3個体)は複数の現生人類系統と祖先系統を共有しており、45000年以上前となるズラティクン個体のゲノムはこれまでに配列決定された最も深く分岐した非アフリカ系統である、と示されます(拡張図4)。これは、他のLGM前の狩猟採集民全てでゼロと一致するf4形式(ムブティ人、ズラティクン;検証1、検証2)のf4統計でも確証され、検証集団とのズラティクン個体の等距離関係を示唆します。

 グラヴェティアン関連個体群をコステンキ14号も取り上げた混合図に含めると、フルノル85号がゴイエQ116-1の姉妹系統として最適なのに対して、ヴェストニツェ集団はスンギール集団とゴイエQ116-1およびフルノル85号の系統と関連する集団との間の混合としてモデル化される、と分かりました。これはるf4形式(ムブティ人、フルノル85号;スンギール集団、検証)のf4統計でも裏づけられ、ヴェストニツェクラスタに含まれる全個体で有意に正でした。したがって、以前に報告されたように(関連記事)、ヴェストニツェクラスタ自体は、東西の系統間の混合から生じ、これはグラヴェティアン関連個体群の頭蓋形態で観察される均一性に寄与したかもしれません。以下は本論文拡張図4です。
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 これらの結果は、4万~3万年前頃にヨーロッパに存在したゲノム祖先系統の全てではないものの一部が、これまでに研究されたグラヴェティアン関連人口集団で存続していたことを示します。コステンキ(およびスンギール集団)祖先系統は、ヨーロッパ中央部から東部と南部のグラヴェティアン関連個体群により表される、以前に記載されたヴェストニツェクラスタに寄与しました。対照的に、ゴイエQ116-1的な遺伝的特性は、新たに記載されたフルノルクラスタを生み出し、このクラスタはヨーロッパ西部および南西部のグラヴェティアン関連個体群で特定されました。注目すべきことに、この遺伝的区別は、遺伝的に分析されたヨーロッパのさまざまな地域のグラヴェティアン関連個体群における葬儀慣行の相違と一致します。

 フルノルクラスタと関連するヨーロッパ西部および南西部の個体群が、一貫して洞窟遺跡に堆積しており、たまに人為的な痕跡を示すのに対して、ヴェストニツェクラスタと関連する個体群は、ヨーロッパ中央部から東部の開地遺跡もしくはヨーロッパ南部の洞窟遺跡で、副葬品および/もしくは個人的装飾品やオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)を伴って埋葬されていました。フルノルクラスタの最古の個体は、フランス北東部のオルメッソン遺跡の2988号(31000年前頃、前期/中期グラヴェティアン)ですが、ベルギーのゴイエ遺跡の後期グラヴェティアン集団(27000年前頃)は、ヴェストニツェとフルノルのクラスタ間の混合と分かりました。これは、前期/中期と後期のグラヴェティアン間では、ヴェストニツェ関連祖先系統の東方から西方への拡大があり、この祖先系統はヨーロッパ中央部および西部に達し、それら2つの遺伝的に異なるLGM前の人口集団間の縦断的混合をもたらした、と示唆しています。


●ヨーロッパ南西部と西部におけるLGM

 ソリュートレアンは時間的にグラヴェティアンとマグダレニアンもしくはバデゴウリアン(Badegoulian、バデゴウル文化)の中間で、ヨーロッパ南西部と西部で見られ、LGMにおける人口集団の気候的退避地と考えられきました。しかし、ソリュートレアンと関連する集団が同じ地域のその前後の人口集団とのどの程度遺伝的に連続しているのかは不明で、それは、ソリュートレアン関連個体群のゲノムデータが以前には報告されていなかったからです。ソリュートレアン関連個体の新たに配列決定されたゲノムは、フランス南西部のレ・ピアジェ2(Le Piage II)遺跡(23000年前頃)ともスペイン北部のラ・リエラ(La Riera)遺跡の第14層(21000年前頃)で得られ、両者とも外群f3統計ではフルノルおよびゴイエQ2クラスタの構成員との一般的な類似性を示します。

 MDS図では、レ・ピアジェ2遺跡個体はとくにフルノルクラスタに属する個体群の近くに収まり、LGMにおけるフルノルクラスタの局所的な遺伝的連続性が示唆されます。f4統計(ムブティ人、レ・ピアジェ2遺跡個体;ヴェストニツェ、フルノル85号)はこの見解をさらに裏づけ、レ・ピアジェ2遺跡個体はヴェストニツェクラスタよりもフルノルクラスタの方と密接に関連する、と明らかにします。これまでに配列決定された最古のマグダレニアン関連個体である、スペイン北部のエル・ミロン洞窟(El Mirón Cave)遺跡で発見された個体との類似性も比較されました。f統計では、レ・ピアジェ2遺跡個体は遺伝的にフルノル85号とエル・ミロン遺跡個体の中間と示唆されました。さらに、先行研究では、エル・ミロン遺跡個体は、イタリアのグラヴェティアン関連個体群で見られるヴィッラブルーナクラスタからの遺伝的寄与を有している、と示されてきました(関連記事)。

 エル・ミロン遺跡個体はフルノル85号およびレ・ピアジェ2遺跡個体とよりもヴィッラブルーナクラスタの方と有意に高い類似性を有していますが、レ・ピアジェ2遺跡個体におけるヴィッラブルーナクラスタとの類似性は、フルノル85号よりも有意に高くはありません。全体的に、ソリュートレアン関連のレ・ピアジェ2遺跡個体は先行するフルノル祖先系統をエル・ミロン遺跡個体で見られるその後の祖先系統とつなげており、ヨーロッパ南西部と西部におけるLGMを通じての遺伝的連続性の直接的証拠を提供します。したがって、これらのヨーロッパ地域は、人口集団がLGMにおいて存続した気候的退避地を構成します。


●イタリア半島におけるLGMの後

 LGMの後に、続グラヴェティアンはヨーロッパ南部および南西部に広がりました。その性質についての議論の高まりにも関わらず、続グラヴェティアンは伝統的に、先行する在来のグラヴェティアンからの移行の結果と仮定されてきました。しかし、これらの文化と続グラヴェティアン関連個体群における人口構造との間の遺伝的連続性の水準は、完全には調べられていませんでした。本論文は、イタリア南東部のプラディス(Pradis)遺跡1号、イタリア北西部のアレーン・キャンディード(Arene Candide)遺跡16号、シチリア島のサン・テオドーロ(San Teodoro)洞窟2号という13000年前頃の3個体と、17000年前頃のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡2号から構成される、4個体のゲノムデータを報告します。

 MDS図では、新規および既知の続グラヴェティアン関連個体群の全てがヴィッラブルーナクラスタ内に収まります(図1c)。一連のf4対称性統計では、全ての続グラヴェティアン関連個体はクレード(単系統群)を形成し、在来(パグリッチ洞窟12号)もしくは非在来の先行する祖先系統(ゴイエQ116-1やコステンキ14号やマリタ1号やヴェストニツェ)と過剰なアレルを共有しない、と確証されます。さらに、続グラヴェティアン関連個体はどれも、0と一致するf4統計(ムブティ人、続グラヴェティアン関連個体/集団;ヴェストニツェ、パグリッチ洞窟12号)により示されるように、ヨーロッパ中央部から東部のグラヴェティアン関連集団とよりも、ヨーロッパ南部のグラヴェティアン関連集団の方と多くの類似性を有していません。

 次に、対でのf2遺伝的距離に基づく系統発生の再構築(図3a)と、f4形式(ムブティ人、続グラヴェティアンA;続グラヴェティアンB、続グラヴェティアンC)のf4統計を用いての、それらり間の相対的類似性の検証により、イタリア半島全域のグラヴェティアン関連個体間の遺伝的関係が調べられました。推測された形態は、個々の年代と関係ない系統地理的パターンを明らかにします。とくに、イタリア北東部の13000年前頃のプラディス1号個体は、イタリア北部のタグリエント2号やヴィッラブルーナ遺跡個体を含む、他の全ての続グラヴェティアン関連個体と比較して最基底部系統を表しています(集団1)。イタリア北西部のアレーン・キャンディード16号、イタリア中央部のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)個体、シチリア島の個体から構成される個体群は、系統発生的により派生的な枝(集団2)に位置し、この枝はさらにシチリア島狩猟採集民のみで構成される枝(集団3)へと多様化しました。シチリア島内では、14000年前頃となるシチリア西部のファヴィニャーナ(Favignana)島のドリエンテ洞窟(d’Oriente)洞窟の個体(オリエンテC)が、シチリア島東部のほぼ同時代のサン・テオドーロ2号とよりも、ずっと新しいものの地理的にはより近い1万年前頃となるシチリア島北西部のデッルッツォ洞窟(Grotta dell’Uzzo)集団(関連記事)の方と高い類似性を示します。以下は本論文の図3です。
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 最後に、疑似半数体遺伝子型での対での不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)と、疑似二倍体遺伝子型での個々の異型接合性水準両方の計算により、データセットにおける続グラヴェティアン関連個体群の遺伝的多様性が推定されました。全ての分析されたグラヴェティアン関連集団で観察された遺伝的多様性と比較して、続グラヴェティアン関連個体群は有意に低い量の遺伝的多様性を示します(図3b)。さらに、続グラヴェティアン関連集団における遺伝的多様性の北方から南方にかけての減少が明らかになり、最高のPMRおよび異型接合性値はイタリア北部個体群(集団1)で見られ、中間がイタリア西部および中央部個体群(集団2)で、最低がシチリア島個体群(集団3)でした(図3b)。類似のパターンはROH断片の分析を通じて観察されます。シチリア島の続グラヴェティアン関連個体群において最高量のROHが検出され、4~8 cM(センチモルガン)と短いROHの200 cM以上の極端な量を有しています。これは、ひじょうに小さな最近の有効人口規模を示唆しており、70個体程度と推定され、シチリア島の続グラヴェティアン狩猟採集民における低い遺伝的多様性をもたらしました。

 要するに、本論文の結果は、考古学的記録で観察された不連続性と相関しているかもしれない、イタリア半島における続グラヴェティアン関連のヴィッラブルーナクラスタによるグラヴェティアン関連のヴェストニツェクラスタの遺伝的置換を浮き彫りにします。全ての分析された続グラヴェティアン関連個体群は均質なヴィッラブルーナ祖先系統を有しており、集団内の遺伝的構造はおもに、時間的分布ではなく地理的分布により決定されます。他の全ての個体よりも深く分岐しているプラディス1号での、続グラヴェティアン関連ゲノムの系統発生的再構築から、この転換はより派生的なタグリエント2号のゲノムの年代(17000年前頃)よりずっと早くに起きた、と示唆されます。これは、エル・ミロン遺跡の19000年前頃の個体におけるヴィッラブルーナ祖先系統の証拠とともに、この遺伝的不連続性が、ボーリング・アレロード(Bølling–Allerød)温暖期(14700~12900年前頃)ではなく、LGMと関連する古地理学的および古い生態学的変容の結果かもしれない、とさらに示唆します。

 さらに、本論文の系統発生分析は、イタリア半島における続グラヴェティアン関連遺伝子プールのあり得る入口として、イタリア半島北東部を示します。この調査結果は、古代および現在の近東祖先系統とのヴィッラブルーナクラスタの遺伝的類似性と合わせて、侵入してくる続グラヴェティアン関連人口集団の供給源としてバルカン半島を示唆します。したがってLGMは、おそらくは当時存在した低い海面の沿岸での拡散による、バルカン半島からイベリア半島へと狩猟採集民人口集団を遺伝的につなげた東方から西方へのヒトの移動にとって、アルプスの南側に回廊を作ったかもしれません。


●ヨーロッパ西部および中央部におけるLGMの後

 マグダレニアンはLGMの後にヨーロッパの南西部と西部と中央部に広く分布していました。この地理的範囲にも関わらず、マグダレニアンと関連するさまざまな集団が共通の起源人口集団に由来するのかどうか、それらの集団が遺伝的に相互にどのように関連しているのか、明確ではありません。先行研究では、マグダレニアン関連個体群における2つの異なる遺伝的組成が特定されました。一方は15000年前頃のヨーロッパ中央部から西部(フランスとベルギーとドイツ)の個体群のゲノムを含むゴイエQ2クラスタで、もう一方は19000年前頃となるスペインのエル・ミロン遺跡個体の祖先系統です。これらの祖先系統は両方とも、35000年前頃となるゴイエQ116-1個体と遠位に関連する遺伝的構成要素を有しており、イベリア半島の個体はヴィッラブルーナクラスタとの類似性も示します。

 以前に刊行されたデータを、フランス西部の18000年前頃となるラ・マルシュ(La Marche)遺跡個体、フランス北部の15000年前頃となるパンスヴァン(Pincevent)遺跡個体、ポーランド南部の18000~16000年前頃となるマスジカ(Maszycka)遺跡個体の、マグダレニアンと関連する本論文で新たに報告されたデータとともに分析することにより、ゴイエQ116-1祖先系統は、フランス南西部および西部のグラヴェティアンおよびソリュートレアン関連個体群の他に、全ての調べられたマグダレニアン関連個体群のゲノムで存続していた、と確証されます(図1)。注目すべきことに、フルノル祖先系統はゴイエQ2クラスタとエル・ミロン遺跡個体で見られる遺伝的構成要素について、ゴイエQ116-1よりも適切な代理を提供します。しかし、f4統計を用いると、エル・ミロン遺跡個体だけではなく全てのマグダレニアン関連個体が、フルノルクラスタと比較するとヴィッラブルーナ関連祖先系統を有している、と示されます。この類似性は、イタリア北部の個体群(集団1)とよりも、イタリア(集団2)およびシチリア島(集団3)の続グラヴェティアン関連個体群の方へとさらに強くなります。

 したがって、ゴイエQ2クラスタに属する個体群とエル・ミロン遺跡個体が、マグダレニアン関連集団において、フルノル祖先系統の代理としてのフルノル85号と、ヴィッラブルーナ祖先系統の代理としてのアレーン・キャンディード16号のゲノム間の混合としてモデル化されました。約43%のヴィッラブルーナ祖先系統を有するエル・ミロン遺跡個体を除いて、全てのマグダレニアン関連個体群はこの構成要素の割合がより低かったので(19~29%)、ゴイエQ2クラスタに分類できます(図4a)。これきさらに、f4形式(ムブティ人、アレーン・キャンディード16号;ゴイエQ-2、マグダレニアン関連個体群)のf4統計により確証され、エル・ミロン遺跡個体でのみ有意に正ですが、全ての他の検証された個体とゴイエQ-2は、アレーン・キャンディード16号と対称的に関連します。以下は本論文の図4です。
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 本論文の分析から、フルノルクラスタはゴイエQ116-1よりもマグダレニアン関連個体群のゲノムにとって適切な供給源である、と論証されます。したがって、これらLGM後の個体群で見られる祖先系統のほとんどは、恐らくヨーロッパ西部および南西部のグラヴェティアン関連集団にたどれます。ヴィッラブルーナ祖先系統との遺伝的類似性がエル・ミロン遺跡個体とヨーロッパ西部および中央部のマグダレニアン関連個体群に存在します。これは、LGMの頃のヨーロッパ南部と南西部の狩猟採集民間の遺伝的つながりが、ピレネー山脈の北側に拡大したことを示唆します。その結果生じたゴイエQ2クラスタは、18000~15000年前頃の期間のフランス西部からポーランドにまたがる個体群を含みます。したがって、先行研究の提案に反して、これはマグダレニアンのLGM後の拡散がヨーロッパ西部からの北方と北東への人口拡大とじっさいに関連していたことを論証します。


●14000年前頃以後から新石器時代

 先行研究では、2つの主要な狩猟採集民祖先系統が14000年前頃以後のヨーロッパでは優先していた、と示されてきました。つまり、ヴィッラブルーナクラスタと関連しているヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と、ヴィッラブルーナ祖先系統および上部旧石器時代シベリアの個体群で見られる古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統(関連記事)の両方との類似性を示すヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)です。混合したWHG/EHGの遺伝的特性を有する狩猟採集民は、ヨーロッパ北部と東部のさまざまな地域で配列決定されてきており、これら2種の祖先系統が時空間的にどのように形成されて相互作用したのか、という問題を提起します(関連記事)。

 MDS図(図1c)とユーラシア西部人の主成分分析(principal component analysi、略してPCA)では(拡張図6)、ヨーロッパ西部と中央部のほとんどの14000年前頃以後の個体はWHGクラスタの近くに、ヨーロッパ東部の個体はEHGクラスタの近くに位置しますが、アジア中央部(タジキスタン)のトゥトカウル(Tutkaul)遺跡個体(トゥトカウル1号)は、ANE関連集団の近くに収まります。14000年前頃となるドイツのボン・オーバーカッセル(Bonn-Oberkassel)遺跡の2個体はアルプスの北側のWHG祖先系統の最初の存在を示しているので、オーバーカッセルクラスタ(以後、オーバーカッセルクラスタもしくは祖先系統と呼ばれます)と改名されます。これは、一貫性のため、1倍以上の網羅率のそうした祖先系統を有する最古の報告された名称を用いるからです。
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 f4統計に基づいて、オーバーカッセルクラスタに分類された個体群は、イタリアの他の続グラヴェティアン関連集団とよりもアレーン・キャンディード16号のゲノムの方と近い、と分かりました。さらに、オーバーカッセルクラスタは、ヴィッラブルーナ祖先系統とゴイエQ2祖先系統からの寄与の両方を有しています。これはqpAdmで確証され、オーバーカッセルクラスタをアレーン・キャンディード16号の約75%とゴイエQ-2の約25%(もしくはアレーン・キャンディード16号の90%とフルノル85号の10%)のほぼ一貫した混合としてモデル化できます(図4b)。

 ヨーロッパ西部および中央部とブリテン島(関連記事)の14000年前頃以後の個体群が、ゴイエQ2祖先系統との繰り返しの局所的混合を示す代わりに均質な遺伝的構成を有している、という観察から、オーバーカッセル祖先系統特性はその拡散前にすでに大半が形成されていた、と示唆されます。これは、ヴィッラブルーナ/オーバーカッセル祖先系統の拡大が、ゴイエQ2祖先系統を高い割合で有している集団との複数の局所的混合を含んでいた、イベリア半島狩猟採集民の遺伝的歴史(関連記事)とは著しく対照的です(図4)。イベリア半島における長期の遺伝的連続性は、Y染色体ハプログループ(YHg)Cの中石器時代までの保存にも反映されており、YHg-CはLGM前の集団において優占的でしたが、ヨーロッパの他地域ではLGM後には稀にしか見られません(拡張図1および拡張図2)。

 f4統計とqpAdmを用いて、ヨーロッパ東部のEHG人口集団はヴィッラブルーナ/オーバーカッセル祖先系統とANE祖先系統の混合である、と確証されます。f4統計では、19個体のゲノムにより構成される8200年前頃となるロシア西部のカレリアのユズニー・オレニー・オストロフ(Yuzhniy Oleniy Ostrov)集団が、全ての他のEHG集団と比較して、ヴィッラブルーナ祖先系統には同等かより低い類似性を有していることも示されます。ユズニー・オレニー・オストロフ集団の区別できない遺伝的特性を明らかにする最古の個体は、11000年前頃となるロシア西部のサマラ(Samara)のシデルキノ(Sidelkino)遺跡個体です(関連記事)。上述の命名法との一貫性のため、EHG祖先系統はシデルキノクラスタ(以後、シデルキノクラスタもしくは祖先系統と呼ばれます)と改名されます。オーバーカッセルとシデルキノのクラスタ間の遺伝的相違は片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)でも注目されます。それは、オーバーカッセルクラスタではmtHg-U5とYHg-Iが優占するのに対して、シデルキノクラスタの個体群は、mtHg-U2・U4・R1bのより高い頻度を示し、YHg-Q・R・Jを有しているからです。

 次に、qpAdmを用いて、刊行されたおよび新たに報告された狩猟採集民250個体を、オーバーカッセルとシデルキノとゴイエQ2の祖先系統と、アナトリア半島新石器時代農耕民(ANF)で最大化される祖先系統の混合としてモデル化することが試みられました。これは、配列決定された狩猟採集民のゲノムのかなりの割合の年代が、ANF祖先系統がヨーロッパ善意に拡大し始めていた8000年前頃以後だからです。その結果、オーバーカッセルとシデルキノの祖先系統間の接触地帯と混合パターンは経時的に変化した、と示されます(図5)。

 14000~8000年前頃には、ヨーロッパ西部と中央部の全ての狩猟採集民はオーバーカッセル祖先系統のみを有しており、シデルキノクラスタからの寄与は検出されません。さらに北方と東方では、バルト海地域(バルト海狩猟採集民、略してバルトHG)とスカンジナビア半島(スカンジナビア半島狩猟採集民、略してSHG)と鉄門遺跡(Iron Gates)狩猟採集民に代表されるバルカン半島狩猟採集民とウクライナの狩猟採集民の個体群は、8000年前頃の前にはすでにオーバーカッセル/シデルキノ混合祖先系統を有していました。さらに、これらの集団は、人口史の背後のより複雑な遺伝的過程を示唆する、ANFとの類似性も有しています。さらに、シデルキノクラスタに属するロシア西部の最古級となる刊行された集団のうち2つ、つまり13000年前頃となるペシャニツァ(Peschanitsa)個体と新たに報告された11000年前頃となるミニノ(Minino)個体は、オーバーカッセルクラスタとの余分な類似性を示し、恐らくはシデルキノ祖先系統特性の最初の形成段階におけるこの祖先系統の割合の変動性に起因します。

 DATESソフトウェアを用いて、15000~13000年前頃となるこれら古いシデルキノクラスタ関連個体群におけるヴィッラブルーナ/オーバーカッセルとANEの祖先系統間の混合が推定され、その推定年代はヨーロッパ中央部におけるオーバーカッセル祖先系統の最初の出現とほぼ一致しました。これは、オーバーカッセルクラスタによる置換とシデルキノクラスタの形成が、ボーリング・アレロード亜間氷期における急激な温暖化により影響を受けた人口拡大の結果だったかもしれない、という可能性を提供します。以下は本論文の図5です。
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 8000年前頃以降、ヨーロッパ中央部におけるシデルキノ祖先系統との混合事象が観察され始めます。これは最初に、ドイツ北東部のグロース・フレーデンヴァルデ(Gross Fredenwalde)遺跡の1個体で検出され、その後のほとんどのヨーロッパ狩猟採集民個体では約10%に達します。8000年前頃の直後には、シデルキノ祖先系統はスペイン東部には存在しなかったものの、オーバーカッセル祖先系統の増加とともにイベリア半島北部にはすでに到達していました(図5)。逆に、追加のオーバーカッセル祖先系統は、ヨーロッパ東部において少なくとも7500年前頃までには、ヴォルガ川上流域のミニノ1遺跡とヤジコヴォ(Yazykovo)遺跡の個体から新たに生成されたゲノムで特定されていますが、その1000年ほど前となるミニノ1遺跡の1個体はこの遺伝的構成要素を有していません。ヴォルガ川上流域における淡水貯蔵兆候がヒト遺骸の放射性炭素年代を真の年代より最大で約500年さかのぼらせることを考えると、シデルキノ祖先系統とのヨーロッパ中央部狩猟採集民の混合と、オーバーカッセル祖先系統とのヨーロッパ東部狩猟採集民の混合の最初の証拠の間には1000年以上の間隔があるかもしれません。しかし、それら2回の混合事象が独立していたのか、それとも共通の人口統計学的過程の一部だったのか、評価するには、この時空間において中間的な追加のゲノムが必要です。

 7500年前頃以後、ANF祖先系統はアルプスの北側の地域に到達したので、狩猟採集民の遺伝的特性を有する個体群は、おもにヨーロッパの北端に限定されました(図5)。この期間には、オーバーカッセル祖先系統の混合はさらに東方に拡大し、6500年前頃までにはサマラに到達し、シデルキノ祖先系統の増加はバルト海地域の狩猟採集民で検出され、これは以前には、ナルヴァ(Narva)文化から櫛目文土器(Comb Ceramic)文化への移行と関連づけられていました。ヨーロッパ中央部では、ANF祖先系統との混合がひじょうに一般的になったものの遍在したわけではなく、数百年にわたる混合なしの狩猟採集民と農耕民の社会の共存が示唆されます。分析されたデータセットにおける狩猟採集民の大きな割合を有する最近の個体は、ドイツ北部のドイツ北部のオストルフ(Ostorf)で得られており、年代は5200年前頃で、90%超のオーバーカッセルクラスタにシデルキノクラスタ構成要素が加わっています。この遺跡の個体群は、ヨーロッパの青銅器時代の出現のわずか数世紀前となる、狩猟採集民祖先系統のそうした高水準の最後の出現の一つを表しているかもしれません。

 PCAと外群f3統計に基づいて、タジキスタンの新石器時代のトゥトカウル1号個体は、シベリア南部から中央部の上部旧石器時代個体群、具体的にはアフォントヴァ・ゴラ(Afontova Gora)遺跡3号個体(AG3)およびバイカル湖近くの24000年前頃となるマリタ(Mal’ta)遺跡1号体(MA1)と、チュメニ(Tyumen)およびソスノヴィ(Sosnoviy)遺跡の個体に代表されるほぼ同時代のシベリア西部狩猟採集民密接に関連しており、両者はANE祖先系統を高い割合で有しています(関連記事)。

 AG3と比較しての、世界規模の古代および現代の人口集団とのトゥトカウル1号個体の類似性が検証されました。シベリア西部狩猟採集民とは対照的に、トゥトカウル1号は余分なユーラシア東部祖先系統を有していませんが、イラン新石器時代農耕民および一部のより新しいイランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)地域の人口集団との類似性を示します。逆に、シデルキノクラスタの個体群は、トゥトカウル1号よりもAG3の方と遺伝的により密接です。これは、アジア中央部の新たに報告された新石器時代の1個体(トゥトカウル1号)が、5500年前頃以降となるイランおよびトゥーラン地域へのANE関連の寄与の適切な代理かもしれない祖先系統を有しているかもしれないものの、ほぼ同年代のヨーロッパ東部狩猟採集民へのANE関連の寄与の適切な代理ではないかもしれないことを示唆します。

 要するに本論文は、14000年前頃以降にヨーロッパに存在した2つの主要な狩猟採集民祖先系統である、オーバーカッセルとシデルキノのクラスタ間の形成と相互作用を記述しました。イタリア北西部のアレーン・キャンディード16号とのオーバーカッセルクラスタのゲノム類似性から、続グラヴェティアン関連祖先系統をはヨーロッパの南部から中央部へとアルプス地域の西側を通って拡大した、と示唆されるかもしれません。シデルキノ祖先系統も14000年前頃に出現し、ヨーロッパ東部におけるその最初の直接的証拠(関連記事)は13000年前頃です。8000年前頃以降の異なる狩猟採集民人口集団間の混合の水準増加は、それら狩猟採集民集団の移動性強化を示唆します。これは部分的には、ヨーロッパ全域での新石器時代農耕民の同時に起きた拡大、および/もしくは、完新世における北半球での最大の急激な寒冷化である、8200年前頃の気候事象などの環境要因により引き起こされたかもしれません。


●表現型関連の多様体

 かなり増加した標本規模を活用して、現在のヨーロッパ人において特定の表現型の特徴と関連すると知られている選択された遺伝子座のアレル頻度について、遺伝的に異なる狩猟採集民集団が調べられました(図5b)。以前の調査結果と一致して、分析された集団は、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するLCT遺伝子上のSNP(rs4988235)における派生的アレルを示しません。以前に示唆されたように、LGM後の狩猟採集民における肌および目の色素沈着と関連するアレルにおける大きな頻度の差異が見つかりました。明るい目の色と関連するHERC2/OCA2遺伝子のSNP(rs12913832)について、ヴィッラブルーナクラスタとオーバーカッセルクラスタとバルト海狩猟採集民とスカンジナビア半島狩猟採集民の個体群が、緑色もしくは青色の目の表現型と関連する派生的アレルを高頻度(90%超)で示すのに対して、シデルキノクラスタとウクライナ狩猟採集民と鉄門狩猟採集民集団は、このアレルを低頻度(10~25%)で示します。

 代わりに、肌の色と関連するSLC24A5遺伝子のSNP(rs1426654)およびSLC45A2遺伝子のSNP(rs16891982)については、シデルキノクラスタとウクライナ狩猟採集民集団は、オーバーカッセルおよびヴィッラブルーナのクラスタと比較して、明るい肌の色と関連する派生的アレルをより高い頻度(SLC24A5遺伝子では90%超、SLC45A2遺伝子では29~61%)で示し、オーバーカッセルおよびヴィッラブルーナのクラスタでは、それらのアレルがほぼ完全に存在しません(1%未満)。現在のヨーロッパ人の遺伝的差異に基づくと、これはヨーロッパ全域の14000年前頃以後の狩猟採集民人口集団間の表現型の違いを示唆しているかもしれず、オーバーカッセルクラスタの個体群が恐らくはより濃い色の肌とより明るい色の目を示すのに対して、シデルキノクラスタの個体群は恐らく、より明るい色の肌とより濃い色の目のを示します。


●考察とまとめ

 この研究で生成されたデータにより、ユーラシア狩猟採集民のゲノム変容とユーラシア狩猟採集民間の相互作用の調査が高解像度で可能となりました(拡張図9)。本論文は、上部旧石器時代から新石器時代へと3万年にわたる期間の狩猟採集民人口集団のゲノムの歴史に、5点の新たな洞察を提供します。以下は本論文の拡張図9です。
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 第一に、ヨーロッパ全域のグラヴェティアンと関連する個体群は生物学的に均質な人口集団だった、と示されます。しかし文化的には、武器や一部の動産芸術など、の広範な一般的傾向と、埋葬慣行や石器におけるさまざまな独自性や硬い有機物の素材の道具一式や装飾品など、より地域的な特徴を有する他の側面の両方が見られます。ヨーロッパ中央部の先行するオーリナシアン文化と関連する個体群で見られる祖先系統(ゴイエQ116-1祖先系統)は、ヨーロッパ西部および南西部のグラヴェティアン関連個体群を生み出しました。この派生的祖先系統(フルノル祖先系統)はソリュートレアン関連個体群においてLGMにも、恐らくはフランコ・カンタブリア地域内で存続し、マグダレニアンと関連する後の人口集団につながりました(ゴイエQ2クラスタおよびエル・ミロン遺跡個体)。逆に、3万年前頃以前のヨーロッパ東部の個体群で見られる祖先系統(コステンキクラスタおよびスンギール集団)は、ヨーロッパ中央部および南部のグラヴェティアン関連個体群に寄与し(ヴェストニツェクラスタ)、ヴェストニツェクラスタはそうした地域のLGM後の人口集団では子孫が見られません。

 第二に、続グラヴェティアンと関連する個体群の祖先系統(ヴィッラブルーナクラスタ)は、ヨーロッパおよび近東の狩猟採集民との遺伝的つながりが見つかっており、続グラヴェティアンの前期と後期の間の移行のずっと前に、ヨーロッパ南部に到達しており、恐らくは早ければグラヴェティアンと続グラヴェティアンの移行期となります。この祖先系統を有するさまざまな系統の地理的再構築は、連続的なボトルネック(瓶首効果)を通じての人口減少とともに起きた、イタリア半島への北方から南方へと続いたバルカン半島からイタリア北東部への入口を示唆しています。

 第三に、イベリア半島だけではなくヨーロッパの他地域のマグダレニアン関連個体群も、続グラヴェティアン関連祖先系統(ヴィッラブルーナクラスタ)を有しています。先行するバデゴウリアンと関連するヨーロッパ西部個体群の遺伝的分析は、ゴイエQ2クラスタの形成につながった過程に関する手がかりを提供できるかもしれません。考古学的記録から推測されているように、ヨーロッパ全域のマグダレニアンは南西部から北部と北東部へのLGM後の人口拡大と関連しており、南東部の退避地からの移動とは関連していません。

 第四に本論文は、先行する後期マグダレニアンとのかなりの技術的連続性にも関わらず、フェダーメッサー文化やアジリアン(Azilian、フランコ・カンタブリア地域の続旧石器時代と中石器時代のマグダレニアン後の文化)や他の末期旧石器時代集団など、複数技術複合と関連するヨーロッパ中央部および西部の狩猟採集民における、早ければ14000年前頃となる大規模な遺伝的転換の調査結果を拡張します。さらに、マグダレニアン関連遺伝子プールのほぼ完全な遺伝的置換は、ヨーロッパの一部がボーリング・アレロード温暖期とともに14700年前頃にはじまった急激な気候変動期に異なって居住された、という仮説を提起します。これは、ヨーロッパ西部の大半にわたるオーバーカッセルクラスタの遺伝的均一性を説明できるかもしれませんが、この転換の正確な動態の理解には、15000~14000年前頃のゲノムデータが必要です。

 第五にヨーロッパ西部および中央部のオーバーカッセル祖先系統とヨーロッパ東部のシデルキノ祖先系統は、多分この地域における土器の拡大とつながっていた、恐らくはバルト海沿いおよびヴォルガ川上流域における7500年前頃の文化的変化と関連している遺伝的相互作用がドイツ北東部で最初に観察された8000年前頃まで、ほぼ6000年間ほとんどが孤立したままでした。

 要するに、この研究では、ヨーロッパ西部および南西部が最終氷期の最寒冷段階においてヒト集団の存続のため気候的退避地として機能したのに対して、イタリア半島とヨーロッパ東部平原の人口集団は遺伝的に置換された、と明らかになり、ヒトの氷期退避地としてのこれらの地域の役割に異議が唱えられます。その後で侵入してくるヴィッラブルーナ祖先系統は、ヨーロッパ全域の最も広範な狩猟採集民祖先系統になりました。バルカン半島の上部旧石器時代個体群のさらなる古ゲノム研究が、ヨーロッパ南東部がヴィッラブルーナ祖先系統の供給源とLGMにおける人口集団の気候的退避地を表しているのかどうか、理解するのに必要でしょう。

 校正での注釈:関連論文は、イベリア半島南部の23000年前頃のソリュートレアン関連1個体のゲノム規模データを記載しており、これはヨーロッパ南西部におけるLGM全体の遺伝的連続性の証拠を拡張します【この論文は後日当ブログで取り上げる予定です】。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


ゲノミクス:古代ヨーロッパ人の移動経路を明らかにする

 古代ヨーロッパ人のゲノムデータの解析によって古代ヨーロッパ人の詳細な移動経路が明らかになった。この研究知見は、後期旧石器時代から新石器時代までの人類集団の運命とゲノム史を解明する手掛かりとなる。こうした知見を報告する2編の論文が、今週、NatureとNature Ecology & Evolutionに掲載される。

 現生人類は、約4万5000年前にヨーロッパに到達し、最終氷期極大期(2万5000年~1万9000年前)を含む困難な時代を狩猟採集民として過ごした。考古学者は、後に発掘された遺物からこの時代に出現した数々の独自文化に関する知識を得たが、ヒトの化石がほとんど見つかっていないため、人類集団の移動経路や交流についてはほとんど分かっていない。

 Natureに掲載されるCosimo Posthたちの論文では、古代の狩猟採集民(356個体)のゲノムを解析した研究が報告されている。このゲノムデータには、3万5000年前から5000年前までの西ユーラシアと中央ユーラシアの14カ国の116個体のゲノムデータが新たに加わっている。その結果、西ヨーロッパのグラベット文化に関連した個体が有していた祖先系統が同定され、この祖先系統を有する南西ヨーロッパの人類集団が最終氷期極大期を生き延び、マドレーヌ文化の拡大に伴って北東方向に移住したことが判明した。一方、南ヨーロッパでは、エピグラベット文化に関連する祖先系統が、おそらくバルカン半島からイタリア半島に移住してきたため、最終氷期極大期に局地的な人類集団の入れ替えが起こり、その後、エピグラベット文化に関連した個体に近縁な祖先系統が約1万4000年前からヨーロッパ中に広がり、マドレーヌ文化に関連する遺伝子プールとほぼ入れ替わったことが明らかになった。

 この研究は、最終氷期極大期の末期におけるマドレーヌ文化の起源と拡大に関する長年の考古学上の論争を解決するために役立つとともに、考古学的文化の中には、混合に応じて出現したと考えられるものや環境の変化に関連して出現した可能性の高いものがあり、遺伝的入れ替えを伴うものと伴わないものがあったことを示唆している。

 これとは別に、Nature Ecology & Evolutionに掲載されるVanessa Villalba-Moucoたちの論文には、スペイン南部で収集された16個体の全ゲノムデータ(2万3000年前のソリュートレ文化に関連したCueva del Malalmuerzoの男性のゲノムデータを含む)が報告されている。そして、この男性の遺伝的祖先系統が初期のオーリニャック文化に関連した祖先系統と最終氷期極大期以降のマドレーヌ文化に関連した祖先系統を結びつけるものだったことが明らかになった。このスペイン南部での遺伝的連続性シナリオは、Posthたちの論文に記述されたイタリアにおける最終氷期極大期の前後の遺伝的不連続性と対照をなしており、人類が最終氷期の極端な気候を生き抜いていた頃の南ヨーロッパのレフュジア(避難地)の人口動態に違いがあったことを示唆している。


分子考古学:後期旧石器時代から新石器時代のヨーロッパの狩猟採集民についての古代ゲノミクス

分子考古学:古代ゲノムから石器時代のヨーロッパのヒト集団を知る

 今回、ヨーロッパ全域の後期旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民116人の古代ゲノムデータが報告され、この時代ヨーロッパに居住していた
15:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/26 (Sun) 08:30:41

今回、ヨーロッパ全域の後期旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民116人の古代ゲノムデータが報告され、この時代ヨーロッパに居住していたヒト集団についての独特な新しい手掛かりが得られた。


参考文献:
Posth C. et al.(2023): Palaeogenomics of Upper Palaeolithic to Neolithic European hunter-gatherers. Nature, 615, 7950, 117–126.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05726-0


追記(2023年3月7日)
 上述の関連論文を当ブログで取り上げました

2023年03月07日
イベリア半島南部の上部旧石器時代個体のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_7.html

https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_3.html
16:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/26 (Sun) 08:31:46

雑記帳
2023年03月26日
新石器時代ヨーロッパの農耕民における狩猟採集民との混合による選択の促進
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_26.html

 新石器時代ヨーロッパの農耕民における選択についての研究(Davy et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパは古代人のゲノム研究が最も進んでいる地域で(関連記事)、先史時代からの選択の経時的過程を古代ゲノムデータで直接的に詳しく観測できます。最近ではヨーロッパの上部旧石器時代~新石器時代の狩猟採集民の大規模なゲノムデータが報告されており(関連記事)、旧石器時代から中石器時代を経て新石器時代にかけての人類集団の遺伝的構成の変容や選択の具体的過程について、今後さらに詳しく明らかになっていくのではないか、と期待されます。


●要約

 古代DNAは、文化的革新と関連する地理的拡大期のヒト先史時代における混合の複数事象を明らかにしてきました。重要な一例は近東からヨーロッパへの新石器時代農耕集団の拡大と、その後の中石器時代狩猟採集民との混合です。この期間の古代ゲノムは、選択が作用した新たな遺伝的変異を提示する混合の役割についての研究と、狩猟採集民からの遺伝子移入に抵抗し、したがって農耕適応に寄与したかもしれないゲノム領域の同定に機会を提供します。

 本論文は、中石器時代から新石器時代にまたがるヨーロッパの677個体のゲノム規模DNAを用いて、混合個体群のゲノムにおける祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の偏差を推測し、ゲノム規模帰無分布からの偏差の検定により混合後の自然選択について検証します。その結果、色素沈着関連遺伝子SLC24A5周辺の領域はゲノムにおいて新石器時代在来祖先系統の最大の過剰出現を示す、と分かりました。

 対照的に、主要組織適合複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)全域での中石器時代祖先系統の最大の過剰出現が見つかりました。MHCは主要な免疫遺伝子座で、混合後の選択を示唆するアレル(対立遺伝子)頻度偏差も示します。これは、新石器時代人口集団に一般的なMHCアレルでの負の頻度依存選択か、中石器時代アレルが正の選択を受け、病原体もしくは他の環境要因への新石器時代人口集団における適応を促進した、ということを反映しているかもしれません。この研究は、石器時代の選択圧へのより最近の人口集団における適応の対象として免疫機能と色素沈着を強調する、以前の結果を拡張します。


●分析結果と考察

 完新世人口集団間の混合は遍在している、という古代DNA研究の証拠にも関わらず、混合が移行期に作用する自然選択について変異をどのようにもたらしたのか、あまり知られていません。完新世の混合は劇的な移住もしくは生活様式の変化と関連していることが多いことを考えると、適応的遺伝子移入の重要な役割を予測できます。おそらく、古代の混合の最も深く研究された事例は、ヨーロッパにおける中石器時代から新石器時代への移行です。前期新石器時代集団は10000~5000年前頃にアナトリア半島からヨーロッパ全域に拡大するにつれて、在来の中石器時代狩猟採集民と混合し、6000年前頃までにこれら在来集団からその祖先系統の20~30%が由来することになりました(関連記事)。したがって、混合した新石器時代祖先系統は新たな文化的および地理的景観にあり、人口密度と家畜動物への近さのため感染症負荷が増加した、と仮定されました。

 ヨーロッパ新石器時代における自然選択に関する先行研究は、他の古代および現代の人口集団とアレル頻度もしくはハプロタイプ構造を比較してきました(関連記事)。しかしこれまで、混合形態の適応がヒトにおいて繰り返し観察されてきた事実にも関わらず、適応的混合を特定し用途の具体的試みはありませんでした。最近の研究は2つの最適手法を特定し、アレル頻度と在来祖先系統に基づいて、現在の人口集団から得られたデータで適応的混合を検出しました。本論文は、これら2つの手法を新たな枠組みで古代の人口集団に適合させ、ゲノム規模帰無分布からp値を得て、中石器時代と前期および中期新石器時代(混合新石器時代個体群)677個体における適応的混合を調べます。

 過去15000年間のヨーロッパとアナトリア半島のゲノム規模古代DNAデータで個体群をクラスタ化し(まとめ)、3集団のうちの1集団に分類しました。それは、中石器時代および旧石器時代の狩猟採集民125個体、実質的な狩猟採集民との混合の証拠のないアナトリア半島とバルカン半島の前期新石器時代55個体、かなりの中石器時代狩猟採集民との混合のあるその後の新石器時代個体むです。本論文の分析は合計で677個体から構成され、地理的にはユーラシア西部全域、年代は7500年間にまたがります(図1A・B)。以下は本論文の図1です。
画像

 まず、混合を認識しなかった自然選択を見つける手法が用いられ、人口集団間の2乗したアレル頻度、つまりf2統計として、増加する分化が検索されました。各一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)とそれぞれの側でSNPに隣接する25のSNPで平均が計算され(つまり、51塩基対スライディングウィンドウにおいて)、ガンマ分布を少なくとも500万塩基対で分;される、532のほぼ独立した遺伝子座の帰無標本へと適合させることにより、p値が得られました。

 中石器時代~新石器時代もしくは中石器時代狩猟採集民と混合した新石器時代人の対比では統計的に有意な外れ値は観察されず、これは、こうした集団間の比較的深い分岐に起因する可能性が高そうです。つまり、自然選択により分化している遺伝子座の兆候を隠す遺伝的浮動から生じたアレル頻度の分散です。しかし、新石器時代混合と新石器時代の対比では、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)-DQB1遺伝子型に集中している6番染色体上のMHC領域全体で、ひじょうに顕著な過剰分化が観察されます。これは新石器時代および混合新石器時代集団のデータに網羅されている期間のMHCにおける自然選択を示唆しますが、この分析はそれが適応的な中石器時代の混合に起因するかもしれないのかどうか、処理しません。

 適応的混合を探すため、先行研究に基づくとうけいが適用されました。これはFadmと呼ばれており、寄与している祖先系統のゲノム規模平均混合割合を考慮して予測されるアレル頻度から得た偏差について検証します。HLA-DQB1に集中した、MHC全体の過剰な兆候が再度観察されます(図2A)。この調査結果が120万SNPパネルにおける確証の偏りにより駆動されていないことを確認するため、中石器時代65個体、新石器時代25個体、混合新石器時代83個体から得た合計173個体の全ゲノムショットガン配列におけるMHC領域が分析され、クラス2MHC領域全体に伸びる部位統計と要約統計両方における124万SNPの結果と一致する最高点が観察されました(図2C)。以下は本論文の図2です。
画像

 次に、ゲノム全体の局所的祖先系統の偏差(local ancestry deviation、略してLAD)の検索、混合の方向性の定量化が試みられました。混合した中期新石器時代537個体において、ancestryHMMを用いて、ゲノム規模SNPデータで局所的祖先系統が推測されました。ancestryHMM は、2人口集団からのアレル頻度を使用しての低網羅率ゲノムにおける局所的祖先系統を推定します。少なくとも500万塩基対により分離された555ヶ所の部位で構成されるゲノム規模分布のほぼ独立した二次標本を用いて、LADについて標準誤差とZ得点が計算されました。

 新石器時代祖先系統の最大の過剰はSLC24A5に集中しており(図2D)、その最高は+17.82%です。新石器時代祖先系統の背景で見られる派生的なSLC24Aのアレルは、現在のユーラシア西部祖先系統人口集団において明るい肌の色素沈着に最も寄与している2つのアレルのうちの1つです。新石器時代の祖先背景で担われている派生的なSLC24A5対立遺伝子は、現在の西ユーラシア祖先集団【47】の明るい皮膚色素に最も寄与する2つの対立遺伝子のうちの1つである。このアレルは以前には、新石器時代人口集団においては比較的高頻度で、中石器時代狩猟採集民には存在しない、と示されてきており、本論文の結果から、選択がその後の混合新石器時代集団においてこの遺伝子座における狩猟採集民祖先系統を除去した、と示されます。

 一方、新石器時代祖先系統の最低量は6番染色体上のMHC領域で見られます。この遺伝子座内では、中期新石器時代祖先系統の領域がHLA-Eに集中しており、最高の過剰は+23.1%となり、それに次ぐ高さ(+17.18%)の過剰はクラス2領域に集中しています。この中期新石器時代祖先系統の増加領域は連続した領域として続いており、全MHC(6番染色体の部位では28477797~33448354の間)では祖先系統の平均が+9.16%になります。HLA遺伝子座におけるLAD分析の偏りは、より高い多様性の供給源祖先系統の方向性で予測される、と提案されてきており、本論文での観察とは異なります。

 ヒト参照ゲノムでもancestryHMMが実行され、偏ったマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)との仮説が検証されましたが、参照ゲノムはこの遺伝子座において新石器時代と中石器時代両方の祖先系統を有すると推測され根、と分かりました。ancestryHMMと他の局所的祖先系統手法は、古代人の遺伝的データでは広く用いられておらず、これらのデータの特定の特性には敏感かもしれません。しかし、LADの結果はFadmの結果とほぼ一致し、この手法が堅牢であることを示唆します。

 適応的混合は小さな効果で複数の多様体に作用し、ゲノム全体に広がった可能性もあります。そうした多遺伝子選択の証拠を検証するため、ほぼ独立していると希薄されたゲノム規模の有意なSNPを用いて、イギリス王国生物銀行(United Kingdom BioBank、略してUKBB)の38の形質について、LADと含まれた局所的祖先系統効果規模ピアソン相関が計算されました(図3A)。肌の色における形質得点とLADとの間で相関の有意な証拠が見られ、SLC24A5周辺における適応的混合と一致します。じっさい、この兆候は単に2つの遺伝子座によってのみ駆動され、中石器時代祖先系統に向かって偏っているHERC2遺伝子の多様体は、SLC24A5遺伝子とともに肌の色素沈着のより明るい水準に寄与します。これら2つの遺伝子座がなければ、多遺伝子選択の有意な証拠はありません。腰の大きさについて、より弱いものの有意な相関が観察されます(図3A)。以下は本論文の図3です。
画像

 新石器時代への移行は、人口動態と分化と食性における劇的な変化と、新たな病原体への曝露および人畜共通感染症の可能性増加をもたらしました。混合新石器時代個体群では、色素沈着遺伝子座SLC24A5における過剰な新石器時代農耕民祖先系統と、MHC免疫遺伝子座における過剰な中石器時代祖先系統が見つかりました。先行研究も、ヨーロッパの人口集団のSLC24A5における自然選択の証拠を見つけ、そのアレルはアナトリア半島農耕民でほぼ固定されており、新石器時代にヨーロッパ西部へともたらされた、と示しましたが、本論文はさらに、中期新石器時代におけるその後の選択は、約300万塩基対を網羅するより広範な遺伝子座全体で、中石器時代祖先系統の除去をもたらすのに充分だった、と論証します。類似しているものの逆の過程で、MHC遺伝子座は以前に、現在のヨーロッパ人の祖先、とくに新石器時代ヨーロッパにおいて選択を受けてきた、と論証されました。本論文では、複数の検定で修正されたMHC遺伝子座における選択についてさらに堅牢な結果が得られ、この過程がとくらMHC遺伝子座において狩猟採集民祖先系統を増加させた、と論証されました。

 SLC24A5とは対照的に、HERCにおける二番目に高い効果の色素沈着多様体は、中石器時代祖先系統の過剰(+10.79%)を示します。したがって、ユーラシア草原地帯からの後の拡大を経由してヨーロッパに到来したSLC45A2における三番目に高い効果の色素沈着多様体とともに、ヨーロッパにおける色素沈着の選択は、3つの主要な祖先人口集団それぞれからの多様体を対象としました。これは、ユーラシア西部の肌の色素沈着の進化における混合の顕著な役割を浮き彫りにしています。この兆候がFadmでのアレル頻度に基づく分析では見られないことは、本論文の新石器時代人口集団間のアレル頻度の小さな絶対的変化に起因する可能性があり、局所的祖先系統が一部の事例では混合人口集団における選択の検出にとってアレル頻度分析より強力である、との最近の論証を確証します。

 MHC遺伝子座全域にわたる中石器時代祖先系統の選択の証拠は、ヨーロッパにおける新石器時代への移行期における免疫での適応促進に果たした役割を浮き彫りにします。一つの仮説は、これは、新石器時代人口集団が、中石器時代時がすでに適応していた病原体を含む環境へと拡大した、という事実を反映している、というものです。これは、新石器時代人口集団における病原体負荷は、増加する人口密度および人畜共通感染症媒介動物への近さにのみ駆動された、との見解に反しています。一方、MHCを含む推定される適応的混合の事例が以前に記載されましたが、この領域内の選択下のアレルと特定の病原体との間の明確な関連は特定されていません。

 別の可能性は、この適応が負の頻度依存選択を反映している、というものです。それは、病原体が人口集団において最も一般的なアレルへ適応し、稀なアレルが有利になるからです。とくに、MHCクラス2遺伝子は、抗原提示タンパク質の結合能力と、この結合およびその後の免疫応答を逃れる病原体の能力との間で、赤の女王的軍拡競争を経ている、と提案されてきました。このモデル下では、特定の病原体により見えないHLAアレルは、希少性のために混合後の最初の適応度が高くなるでしょう。したがって、割合の低い中石器時代祖先系統での選択は、新石器時代人口集団へとより稀な多様体をもたらした混合を単純に反映し、この遺伝子座における多様性を増加させたのかもしれません。これは、人口集団内の免疫を多様化する、クラス2遺伝子における異型接合性の選択としても説明できます。

 この解釈に対する一つの注意点は、広い地域と期間にわたる標本を収集していることで、本論文の結果は、より多くの標本抽出された多様性での地域と期間で、より局所的な分化もしくは自然選択を反映している可能性があります。一方、類似の効果が現在の人口集団で観察されてきたことに要注意です。先行研究では、MHCにおける適応的混合が見つかり、同様に、農耕の西バントゥー諸語話者におけるアフリカ西部熱帯雨林狩猟採集民に由来するより低い割合の混合祖先系統について、50%程の在来祖先系統が報告されています(関連記事)。

 HLAは自然選択の対象になることが多いようで、上述の過程は排他的ではないことに要注意です。選択の広範な証拠は、過去数千年に焦点を当てた調査と、古代型のヒト【非現生人類ホモ属】からの遺伝子移入の後の両方で検出されてきました。改善された機能的注釈付けとの協同での全ゲノムショットガンデータを含む将来の研究は、この適応的過程にさらなる光を当てるかもしれません。


参考文献:
Davy T. et al.(2023): Hunter-gatherer admixture facilitated natural selection in Neolithic European farmers. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.02.046


https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_26.html
17:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/26 (Wed) 09:25:57

雑記帳
2023年04月26日
『イヴの七人の娘たち』の想い出とその後の研究の進展
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html

 2001年に刊行されたブライアン・サイクス(Bryan Clifford Sykes)氏の著書『イヴの七人の娘たち』は、このような一般向けの科学啓蒙書としては異例なほど世界的に売れたようで、私も購入して読みました(Sykes.,2001)。近年時々、『イヴの七人の娘たち』は日本でも一般向けの科学啓蒙書としてはかなり売れたようではあるものの、今となってはその見解はとてもそのまま通用しない、と考えることがあり、最近になって、そういえば著者のサイクス氏は今どうしているのだろう、と思って調べたところ、ウィキペディアのサイクス氏の記事によると、2020年12月10日に73歳で亡くなったそうです。まだ一般向けの啓蒙書を執筆しても不思議ではない年齢だけに、驚きました。

 『イヴの七人の娘たち』などで提示されているサイクス氏の見解が今ではとても通用しないことはウィキペディアのサイクス氏の記事でも指摘されており、イギリス人の起源に関するサイクス氏の理論の多くはほぼ無効になった、とあります。もちろん、同書のミトコンドリアDNA(mtDNA)に関する基本的な解説の多くは今でも有効でしょうし、20世紀の研究史の解説は今でも有益だと思います。本書により、初期のDNA解析による人類進化研究の様相を、研究者間の人間関係とともに知ることができ、この点で読み物としても面白くなっています。

 ただ、同書の主張の、現代ヨーロッパ人の遺伝子プールの母体を作り上げたのは旧石器時代の狩人で、新石器時代の農民の現代ヨーロッパ人への遺伝的寄与は1/5程度だった、との見解は今では無効になった、と確かに言えそうで、ヨーロッパのほとんどにおいて、狩猟採集民の遺伝的構成要素は新石器時代の拡大の結果としてヨーロッパ初期農耕民的な遺伝的構成要素にほぼ置換されました(Olalde, and Posth., 2020、関連記事)。ただ、新石器時代のヨーロッパにおいて、アナトリア半島起源の農耕民と在来の狩猟採集民が混合していったことも確かで、またその混合割合については時空間的にかなりの違いがあったようです(Arzelier et al., 2022、関連記事)。

 また、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯からヨーロッパへ到来した集団も強い影響を及ぼした、と指摘した2015年の画期的研究(Haak et al., 2015、関連記事)で、現代ヨーロッパ人の核ゲノムに占める旧石器時代狩猟採集民の割合がかなり低い、と示されていました(Haak et al., 2015図3)。以下はHaak et al., 2015の図3です。
画像

 もっとも、『イヴの七人の娘たち』が根拠としたのはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、これは時代的制約からも当然であり、サイクス氏の怠慢ではありません。ただ、そのmtHgについても、ヨーロッパ中央部では旧石器時代人のmtHgは現代人に20%程度しか継承されていない、と2013年の時点で推測されていました(Brandt et al., 2013)。以下は、後期中石器時代から現代までのヨーロッパ中央部のmtHg頻度の推移を示したBrandt et al., 2013の図3です。
画像

 このように、『イヴの七人の娘たち』の見解が大きく間違っていたのは、当時はまだmtDNAでも解析された古代人の数は少なく、同書がほぼ現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)の分布頻度と推定分岐年代に依拠していたからです。やはり、現代人のmtDNA解析から古代人の分布や遺伝子構成を推測することは危険で、古代DNA研究の裏づけが必要になる、と改めて思います(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。もっとも、古代DNA研究がこれだけ進展した現在では、現代人のmtDNA解析結果だけで古代人の分布や遺伝子構成を推測する研究者はほぼ皆無だとは思いますが。

 さらに、ヨーロッパ中央部については、mtDNA解析から、初期農耕民は在来の採集狩猟民の子孫ではなく移住者だった、との見解がすでに2009年の時点で提示されていましたが(Bramanti et al., 2009、関連記事)、私は間抜けなことに、『イヴの七人の娘たち』を根拠に、現代ヨーロッパ人と旧石器時代のヨーロッパ人との遺伝的連続性を指摘する論者との議論が注目される、と述べてしまいました。当時の私の主要な関心は現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などユーラシアの先住の非現生人類ホモ属との相互作用と、現生人類が多少の遺伝的影響を受けつつも非現生人類ホモ属をほぼ完全に置換した理由で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなく(関連記事)、ネアンデルタール人滅亡後のヨーロッパの人類史について最新の研究を追いかけようという意欲が低かったので、この程度の認識でした。

 さらにBramanti et al., 2009を取り上げた『ナショナルジオグラフィック』の記事では、移住者と考えられる初期農耕民と先住の採集狩猟民だけでは現代ヨーロッパ人の遺伝的構成は説明できない、とも指摘されています。これは上記の、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯から到来した集団も関わっていたことを報告した2015年の画期的研究とも通ずるたいへん示唆的な指摘で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなかった当時の私でも、一応はブログで言及したくらいですが、その意味するところを深く考えていませんでした。見識と能力と関心が欠如していると、重要な示唆でも見逃したり受け流したりしてしまうものだ、と自戒せねばなりません。

 また上記のサイクス氏のウィキペディアの記事によると、サイクス氏は2006年に刊行された著書で、イングランドにおけるアングロ・サクソン人の遺伝的寄与はイングランド南部でさえ20%未満だった、と推測したそうです。ただ、昨年(2022年)の研究(Gretzinger et al., 2022、関連記事)では、確かにイングランド南部ではヨーロッパ大陸部からの外来の遺伝的影響は低めであるものの、中央部および東部では高く、全体的には平均76±2%に達するので、アングロ・サクソン時代にはヨーロッパ大陸部からの人類の移住は多かった、と推測されました。その後イングランドでは、さらなる外来からの遺伝的影響があり、アングロ・サクソン時代の外来の遺伝的影響は低下したものの、イングランドの現代人の遺伝的構成は、イングランド後期鉄器時代集団的構成要素が11~57%、アングロ・サクソン時代の外来集団的構成要素が25~47%、フランス鉄器時代集団的構成要素が14~43%でモデル化できる、と指摘されています。

 さらに言えば、イングランドでは、新石器時代の農耕民の遺伝的構成要素はアナトリア半島起源の初期農耕民(80%)と中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民(20%)でモデル化でき、銅器時代~青銅器時代にかけて大規模な遺伝的置換があり(約90%が外来要素)、中期~後期青銅器時代にも大規模な移住があり、鉄器時代のイングランドとウェールズではその遺伝的影響が半分程度に達した、と推測されています(Patterson et al., 2022、関連記事)。このように、イングランドの人類集団では中石器時代以降、何度か置換に近いような遺伝的構成の変化があり、とても旧石器時代から現代までの人類集団の遺伝的連続性を主張できません。

 ヨーロッパでは旧石器時代の人類のDNA解析も進んでおり、最近の研究(Posth et al., 2023、関連記事)からは、旧石器時代のヨーロッパにおいて人類集団の完全に近いような遺伝的置換がたびたび起きていた、と示唆されます。以前にまとめましたが(関連記事)、現生人類がアフリカから世界中に拡散した後で、絶滅も含めて置換は頻繁に起きていたと考えられるので、特定の地域における1万年以上前にわたる人類集団の遺伝的連続性を安易に前提としてはならない、と思います。そのまとめ記事でも述べましたが、これはネアンデルタール人など非現生人類ホモ属にも当てはまり、絶滅や置換は珍しくなかったようです。


参考文献:
Arzelier A. et al.(2022): Neolithic genomic data from southern France showcase intensified interactions with hunter-gatherer communities. iScience, 25, 11, 105387.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.105387
関連記事

Bramanti B. et al.(2009): Genetic Discontinuity Between Local Hunter-Gatherers and Central Europe’s First Farmers. Science, 326, 5949, 137-140.
https://doi.org/10.1126/science.1176869
関連記事

Brandt G. et al.(2013): Ancient DNA Reveals Key Stages in the Formation of Central European Mitochondrial Genetic Diversity. Science, 342, 6155, 257-261.
https://doi.org/10.1126/science.1241844

Gretzinger J. et al.(2022): The Anglo-Saxon migration and the formation of the early English gene pool. Nature, 610, 7930, 112–119.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05247-2
関連記事

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事

Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021
関連記事

Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4
関連記事

Posth C. et al.(2023): Palaeogenomics of Upper Palaeolithic to Neolithic European hunter-gatherers. Nature, 615, 7950, 117–126.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05726-0
関連記事

Schlebusch CM. et al.(2021): Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374
関連記事

Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』(ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)

https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
18:777 :

2023/11/12 (Sun) 07:20:29

山下英次 _ ヨーロッパ文明の源流はイタリア・ルネッサンス
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16824968
19:777 :

2023/12/11 (Mon) 14:29:59

ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s

古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、 化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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20:777 :

2023/12/11 (Mon) 14:30:13

ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s

古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、 化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
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