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ヨーロッパのフン族の祖先は古代モンゴルの匈奴でアーリア人だった?

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2022/05/31 (Tue) 19:17:07

3-10. Y-DNA「Q」  異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm


雑記帳
2022年05月29日
フン人とアヴァール人とハンガリー征服者の遺伝的起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202205article_29.html


 フン人とアヴァール人とハンガリー征服者の遺伝的起源に関する研究(Maróti et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジアからヨーロッパへのフン人やアヴァール人やハンガリー人もしくはマジャール人と関連する人口移動の連続的な波は、カルパチア盆地の人口集団に永続的影響を残しました。これはハンガリー人の独特な言語と民族文化伝統において顕著で、その最も近い類例はウラル山脈の東側の人口集団で見られます。現在の科学的合意によると、これら東方とのつながりは、9世紀末にカルパチア盆地に到来した征服ハンガリー人(以下、征服者と省略されます)の最後の移住の波にのみ起因します。一方、中世ハンガリーの年代記や外国の文献やハンガリーの民俗伝統は、ハンガリー人の起源はヨーロッパのフン人にたどることができ、アヴァール人と征服者のその後の波はフン人の系統とみなされる、と主張します。

 フン人とアヴァール人はともに、カルパチア盆地を中心にヨーロッパ東部で多民族帝国を創設しました。370年頃となるヨーロッパの文献におけるフン人の出現の前に、現在の中国の文献から匈奴が消えました。同様に、6世紀におけるヨーロッパでのアヴァール人の出現は、大まかには楼蘭(Rouran)帝国の崩壊と相関しています。しかし、匈奴とフン人との間の関係の可能性は、楼蘭とアヴァール人との場合と同様に、情報源の不足のため依然として大きな議論となっています。

 19世紀以降に言語学者は、ハンガリー語はウラル語族の一派でウゴル諸語派に属し、マンシ(Mansis)語およびハンティ(Khanty)語と最も密接である、という合意に達しました。この言語学的根拠に基づいてハンガリーの先史時代が書き直され、征服者は仮定的なウゴル諸語祖語の人々の子孫とみなされました。同時に、以前に受け入れられていたフン人とハンガリー人の関係は、中世の年代記に対する史料批判により疑問視されました。

 文献証拠と複雑な考古学的記録をつなぐものが不足しているため、古代の人口集団の起源と生物学的関係への洞察を提供するには、考古遺伝学的手法が最適です。そのために、カルパチア盆地のヨーロッパのフン人とアヴァール人と征服期個体群の全ゲノム解析が実行され、これらの集団の長く議論されてきた起源に光が当てられました。本論文の271点の古代人標本の大半は、遊牧民集団の到来の波に好適環境を提供した、ユーラシア草原地帯の最西端である大ハンガリー平原(Alföld)から収集されました。研究対象の標本の遺跡と期間の概要は図1に示され、期間と墓地と個々の標本の詳細な考古学的記述は方法論S1に示されます。研究対象標本のうち73点で、直接的な加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代が報告され、そのうち50点は本論文で初めて報告されます。以下は本論文の図1です。
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●標本

 ショットガン配列決定を用いて、古代人271個体でゲノム規模データが生成されました。ゲノム網羅率の範囲は0.15~7.09倍で、平均は1.97倍です。全てのデータは、ヒト起源(HO)の60万ヶ所の一塩基多型(SNP)と124万ヶ所のSNPの全ての位置で無作為に呼び出されるSNPにより、疑似半数体化されました。関連する現代人のゲノムはHOデータセット形式でのみ利用可能だったので、ほとんどの分析はHOデータセットで行なわれました。PCAngsdソフトウェアで本論文の標本において43組の親族関係が特定され、その後の分析には親族のうち1個体だけが含められました。

 新たなゲノム規模データはユーラシアの既知の古代人2364個体および現代人1397個体と統合され、共同分析されました。研究対象の標本は、カルパチア盆地への連続する歴史的に記録された主要な移住の波から考古学的に区分できる3期間を表しているので、フン人とアヴァール人と征服期標本が別々に評価されました。集団遺伝学的分析で最も類似したゲノムを分類するため、最初の50の主成分分析(PCA)次元から得られた対での遺伝的距離に従って、本論文の標本は全ての既知の古代ユーラシアのゲノムとまとめられました。


●研究対象のほとんど個体には在来のヨーロッパ祖先系統があります

 新たな古代人のゲノムを現代ユーラシア個体群から計算された軸に投影することにより、PCAが実行されました(図2A)。図2Aでは、ほぼ各期間の多くの標本が現代ヨーロッパの人口集団に投影されています。さらに、これらの標本はPC2軸に沿って南北の勾配を形成し、本論文ではヨーロッパ勾配と呼ばれます。主成分50のクラスタ化は、ヨーロッパ勾配内で5つの遺伝的クラスタ(まとまり)を識別し、PC2軸に沿ってよく隔離されています。個々の遠位qpAdmに基づいて各クラスタから代表的標本が選択され、それぞれヨーロッパ中核1~5に分類されました。ヨーロッパ中核集団は複数期間の標本を含んでおり、異なる人口集団とはみなされず、むしろその後のモデル化に適した異なる局所的ゲノム種類を表しています。各ヨーロッパ勾配の構成員が、ヨーロッパ中核集団からモデル化できることも示されました。以下は本論文の図2です。
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 ヨーロッパ中核1は、ハンガリーのランゴバルド人(関連記事)、イタリア半島の鉄器時代と帝政期と中世の個体群(関連記事)、ギリシアのミノア人およびミケーネ人(関連記事)とクラスタ化します。ヨーロッパ中核2・3・4は、ランゴバルド人およびハンガリーとチェコ共和国とドイツの青銅器時代標本(関連記事1および関連記事2)とクラスタ化しますが、ヨーロッパ中核5はハンガリーのスキタイ人(関連記事)とクラスタ化します。

 教師なしADMIXTURE分析はヨーロッパ勾配に沿ったゲノム構成要素の勾配的な移行を明らかにし(図2B)、南方から北方にかけて、「古代北ユーラシア人(ANE)」と「ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)」構成要素が増加し、「初期イラン農耕民(イランN)」と「初期ヨーロッパ農耕民(ヨーロッパN)」構成要素が減少します。ヨーロッパ勾配標本がごくわずかなアジア構成要素、つまり「ガナサン人(Nganasan)」および「漢人」構成要素を含んでいることも明らかです。

 ADMIXTUREでも、ヨーロッパ中核1および5がイタリア半島の帝政期およびハンガリーの鉄器時代スキタイ人とそれぞれ類似のパターンを有しているので、同様のゲノムが民族移動時代の前にヨーロッパとカルパチア盆地において存在していた、と確証されます。ヨーロッパ勾配における中世ハンガリー人口集団の多様性は顕著です。これの集団は地元民とみなされますが、類似の人口集団は中世のポントス草原にも存在していた可能性があります。


●ヨーロッパのフン人は匈奴祖先系統を有していました

 フン時代の標本が不足しているにも関わらず、東方から西方へと伸びるPC1軸(図2A)に沿って「フン勾配」を識別できます。2個体(MSG-1とVZ-12673)は勾配の最東端に投影され、現代のカルムイク人(Kalmyks)およびモンゴル人の近くに位置します。両方の墓は戦士のもので、部分的なウマ遺骸が含まれていました。主成分50クラスタ化では、MSG-1とVZ-12673はフン時代の他の2標本と密接にクラスタ化し、それはカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡の1個体(KRY001)に代表されるクライレイ・フン380年と天山のフンの外れ値個体(DA127)です。

 KRY001とDA127もqpAdmではVZ-12673個体と遺伝的クレード(単系統群)を形成するので、新たな標本が別々に分析されたものの、これら4標本(MSG-1とVZ-12673とKRY001とDA127)はフン人アジア中核の名称で分類されます(図2)。フン人アジア中核も、本論文で用いられたアヴァール人標本数点とともに、モンゴルの多くの匈奴や中世モンゴルやテュルク(関連記事)や鮮卑(関連記事)のゲノムとクラスタ化します。ADMIXTUREでは、フン人アジア中核個体群の類似性が確証され、WHGの痕跡を有さない優勢なユーラシア東部のガナサン人および漢人構成要素を示し、これらの個体がヨーロッパ人の背景を有さない移民を表している、と示唆されます。

 外群f3統計はMSG-1とVZ-12673の共通祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示唆し、それは両個体が、初期匈奴の残りの個体群やウラーンズク(Ulaanzukh)や石板墓(Slab Grave)文化的なモンゴル関連人口集団と最高の浮動を共有しているからです。エラーバーは、ロシアの中期新石器時代(MN)ボイスマン(Boisman)やタセモラ・コルガンタス(Tasmola_ Korgantas)のような周辺地域と関連する人口集団とも重複していますが、f3統計の結果はモンゴル起源の可能性が高いことと、これらの個体群の初期匈奴との類似性を示します。

 鉄器時代以前の供給源からの遠位qpAdmモデル化は、MSG-1とVZ-12673において、漢人との混合を予測する、大きなモンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)外れ値(DSKC)と、わずかな西遼河新石器時代/黄河後期青銅器時代祖先系統を示唆しますが(図3A)、青銅器時代後の上限からの近位モデル化は、異なる2期間を表す2種類の代替的なモデルを示しました。最良のp値モデルは、大きな後期匈奴(漢人との混合を有します)とわずかなスキタイシベリア/匈奴祖先系統を示しましたが、代替モデルは、大きなカザフスタンの外れ値天山フン人もしくはクライレイ・フン380年と、わずかな匈奴/鮮卑/漢人祖先系統を示唆しました(図3A)。後者のモデルでは、VZ-12673個体は両方の刊行されたフン人アジア中核標本群とクレードを形成しました。結論として、本論文のフン人アジア中核個体群は、初期匈奴と後期フン人のゲノムから等しくモデル化できます。以下は本論文の図3です。
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 他のフン時代の2標本(KMT-2785とASZK-1)はフン勾配の中間に位置するので(図2A)、ヨーロッパとアジアの祖先系統からモデル化できます。KMT-2785の最良の合格モデルは、大きな後期匈奴とわずかな在来ヨーロッパ中核を予測しましたが、代替モデルは大きなサルマティア人祖先系統とわずかな匈奴祖先系統を示しました。両モデルは、最初のモデルの後期匈奴におけるようにサルマティア人を結びつけ、サルマティア人(46~52%)とウラーンズク石板墓文化(48~54%)構成要素が予測されました。ASZK-1のゲノムはほぼ全てのモデルでサルマティア人とクレードを形成しました。フン時代の残りの標本はヨーロッパ勾配の北側半分に位置します。それにも関わらず、これらのうち2個体(SEI-1とSEI-5)は、大きなヨーロッパ中核と小さなサルマティア人構成要素でモデル化できます。フン時代の4標本における一般的なサルマティア人祖先系統は、ヨーロッパのフン人への顕著なサルマティア人の影響を示唆します(図3B)。

 CSB-3は大きなヨーロッパ中核祖先系統とわずかなスキタイシベリア祖先系統でモデル化されますが、SEI-6はウクライナのチェルニャヒーウ(Chernyakhiv)文化個体(東ゲルマン/ゴート)のゲノムとクレードを形成しました。ヨーロッパ勾配の上部に位置する外れ値個体のSZLA-646は、リトアニアの古代末期およびイングランドのサクソン個体とクレードを形成しました。この2個体は、おそらくフン人と同盟を締結したゲルマン人集団に属していました。


●フン人とアヴァール人は関連する祖先系統を有していました

 アヴァール人の本論文の調査対象期間標本も、特徴的なPCA「アヴァール人勾配」を形成し、ヨーロッパからアジアへと広がっています(図2A)。PC50クラスタ化は50水準で、12標本で勾配のアジアの極において単一の遺伝的クラスタを形成し、これは8ヶ所の異なる墓地に由来し、アヴァール人アジア中核と命名されます(図2)。合計でアヴァール人アジア中核の12標本のうち10点は初期アヴァール時代に割り当てられ、そのうち4点がエリートに、12点のうち9点が男性に分類されました。エリートの地位は、貴金属の付属品を備えた剣やサーベル、金の耳飾り、金で装飾された帯の付属品など、豊富に供えられた埋葬により示唆されます。

 アヴァール人アジア中核は、バイカル湖地域のシャマンカ(Shamanka)文化銅器時代やロコモティフ(Lokomotiv)遺跡銅器時代標本、またモンゴルの新石器時代東方および北方(関連記事)、モンゴルのフォントノヴァ(Fofonovo)遺跡前期新石器時代(EN)、ウラーンズク石板墓、匈奴の標本とともにクラスタ化します。この結果はADMIXTUREで要約されており(図2B)、ガナサン人と漢人の構成要素がアヴァール人アジア中核では優勢で、アナトリア半島新石器時代とANEの痕跡が伴うものの、イランおよびWHGの構成要素は完全に欠落しています。そのため、アヴァール人アジア中核はアジア東部に由来し、最も可能性が高いのは現在のモンゴルです。

 アヴァール人アジア中核集団内のわずかな遺伝的差異を検出するために、二次元のf4統計が実行されました。アヴァール人アジア中核個体群は、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)および草原地帯中期~後期青銅器時代(草原地帯MLBA)人口集団との類似性に基づいて分離でき(図4)、3個体はこれらの祖先系統をごくわずかな割合で有しています。草原地帯MLBA・ANEのf4統計では類似の結果が得られました。イランおよび草原地帯との最小の類似性の3個体もPCAでは明らかに分離されるので、これらはアヴァール人アジア中核1という名称で区別され、他の9点の標本はアヴァール人アジア中核2として再分類されました。以下は本論文の図4です。
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 外群f3統計によると、アヴァール人アジア中核集団はともに、初期匈奴の残りの標本や、ウラーンズク遺跡標本や石板墓文化標本のような、おもに古代アジア北東部(ANA)祖先系統を有するゲノムと最高の浮動を共有しました。f3値の上位50点がある人口集団のうち、41点がフン人アジア中核と共有されていることは注目に値します。さらに、アヴァール人アジア中核1はフン人アジア中核標本の両方で上位50人口集団に位置しており、ヨーロッパのフン人とアヴァール人の共通の深い祖先系統を示します。

 遠位qpAdmモデルによると、アヴァール人アジア中核はフォントノヴァENおよびモンゴル中央部青銅器時代前のゲノムとクレードを形成し(図3A)、両者はANA(83~87%)とANE(12~17%)でモデル化されました(関連記事)。全てのデータでは一貫して、アヴァール人アジア中核はひじょうに古いモンゴルの青銅器時代前のゲノムを有しており、ANA祖先系統が約90%になる、と示されます。アヴァール人アジア中核1はウスチベラヤ(UstBelaya)新石器時代(N)95%と草原地帯鉄器時代(草原地帯IA)5%で、アヴァール人アジア中核2はウスチベラヤNが80~92%と草原地帯IAが8~20%でモデル化されるので、ほとんどの遠近のqpAdmモデルは遠位供給源を保持しました。アヴァール人アジア中核1の例外的な近位モデルは、ヤナ(Yana)中世とウラーンズクを示唆しますが、アヴァール人アジア中核2では、鮮卑フン人ベレル(Berel)とカザフスタン遊牧民フンサルマティア人祖先系統を示唆します(図3A)。後者のモデルは、フン人とアヴァール人との間で共有された祖先系統も示します。

 アヴァール人勾配の標本76点のうち、26点がアヴァール人アジア中核とヨーロッパ中核の単純な2方向混合としてモデル化でき(図3B)、これらは在来集団と移民の混合子孫であるものの、さらに9点の標本は追加のフン人および/もしくはイラン関連供給源を必要としました。残りの41モデルでは、フン人アジア中核および/もしくは匈奴供給源がアヴァール人アジア中核を置換しました(図3B)。アラン人(Alan)か天山フン人か天山サカ人(Saka)か黒海北岸のアナパ(Anapa)遺跡標本のような、有意なイラン祖先系統を有するスキタイ人関連供給源は、アヴァール人勾配で遍在していましたが、その低い割合を考えると、qpAdmは正確な供給源を特定できませんでした。

 匈奴/フン人関連祖先系統は特定の墓地でより一般的でした。たとえば、ホルトバージ=アルクス(Hortobágy-Árkus、略してARK)やセグヴァール=オロムデュロ(Szegvár-Oromdűlő、略してSZOD)やマコ=ミコッサ=ハロム(Makó-Mikócsa-halom、略してMM)やスザヴァス=グレクサ(Szarvas-Grexa、略してSZRV)のほとんどの標本で検出されました。


●征服者はウゴル人とサルマティア人とフン人の祖先系統を有していました

 征服期標本も、PCAでは特徴的な遺伝的「征服者勾配」を形成します(図2A)。征服者勾配はアヴァール人勾配の北側に位置しますが、PC1軸の中間にしか達しません。PC50クラスタ化は、9ヶ所の異なる墓地に由来する12点の標本で勾配のアジアの極において単一の遺伝的勾配を識別し、征服者アジア中核と命名されます。この遺伝的集団は男女6個体ずつで構成され、12個体のうち11個体は考古学的評価によると征服者エリートに分類されました。征服者アジア中核のPCAでの位置は、現代のバシキール人(Bashkirs)およびヴォルガ川タタール人に対応しており(図2A)、東西のスキタイ人および天山フン人の広い範囲とクラスタ化し、ADMIXTUREでも裏づけられます(図2B)。

 二次元f4統計は、複数の遺伝子流動事象を通じて得られた、征服者アジア中核間のわずかな遺伝的差異を検出しました(図5)。それは、征服者アジア中核が現代中国のミャオ人(Miao)およびウラーンズク石板墓文化標本(ANA)との異なる類似性を有しているからです。これら個体群はミャオ・ANA勾配に沿って直接的に位置しており、これらの祖先系統は征服者集団で共変動するので、ともに到来した可能性があり、起源地の可能性が最も高いのは現在のモンゴルになる、と示唆されます。ミャオ人およびANAとの最高の類似性を有する4個体もPCAの位置が変化したので、この4個体は征服者アジア中核2と命名され、残りは征服者アジア中核1と命名されました(図2)。ANEとBMACの軸に沿って、これらの標本はより分散した位置を示したものの、征服者アジア中核2個体群はやや高い割合のBMAC祖先系統を示しました。以下は本論文の図5です。
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 混合f3統計から、征服者アジア中核1の主要な混合供給源は古代ヨーロッパ人口集団と現代ガナサン人の祖先だった、と示唆されます。ヨーロッパ人側の最も可能性が高い直接的供給源は草原地帯MLBA人口集団だったかもしれず、それは、これらが草原地帯全体のヨーロッパ祖先系統の分散を示したからです。外群f3統計から、征服者アジア中核1は現代シベリアのウラル語族話者人口集団、つまりサモエード語派(Samoyedic)のガナサン人やセリクプ人(Selkup)やエネツ人(Enets)、ウゴル諸語のマンシ人と最高の浮動を共有しており、征服者アジア中核は現代ハンガリー人の近縁言語の進化史を共有していた、と示唆されます。

 f4統計も実行され、共有された進化史が近縁言語に限定されていたのかどうか、検証されました。f4統計の結果、征服者アジア中核1はじっさいにマンシ人と最高の類似性を有しており、最も近い近縁言語はハンガリー語でしたが、サモエード語派話者集団との類似性はエニセイ語族(Yeniseian)話者のケット人(Kets)やチュクチ・カムチャツカ語族(Chukotko-Kamchatkan)話者のコリャーク人(Koryaks)と同等でした。このため、マンシ人が征服者アジア中核と共同分析されました。

 鉄器時代前の供給源から、マンシ人はメゾフスカヤ文化集団とガナサン人とボタイ(Botai)文化集団から、征服者アジア中核1はメゾフスカヤ文化集団とガナサン人とアルタイMLBA 外れ値とモンゴルLBA中核西方4DからqpAdmモデル化でき、これらの集団の後期青銅器時代祖先系統を共有するものの、ガナサン人的祖先系統は、征服者アジア中核ではアルタイ山脈・モンゴル地域に由来するBMACなどスキタイシベリア的祖先系統によりほぼ置換されたことを示す、と確証されます。同じ分析ではケット人とコリャーク人について合格モデルは得られず、それらの集団が異なるゲノム史を有していた、と確証されます。

 近位供給源から、征服者アジア中核1は一貫して、マンシ人(50%)と前期/後期サルマティア人(35%)とスキタイシベリア外れ値/匈奴/フン人(15%)の祖先系統でモデル化でき、征服者アジア中核2は割合が変化した同等のモデルを示しました(図3A)。これらのモデルにおける供給源は一貫性のない期間を定義しているので、混合年代を明確にするためDATES分析が実行されました。DATESから、マンシ人とサルマティア人の混合は征服者個体群の死の53世代前、つまり紀元前643~紀元前431年頃に起きた、と明らかになり、サウロマタイ(Sauromatian)/初期サルマティアに明確に相当します。マンシ人・スキタイ人とフン人関連の混合は24世代前もしくは紀元後217~315年頃と年代測定され、鉄器時代ではなく、匈奴後でフン期の前の年代と一致します(図6)。以下は本論文の図6です。
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 征服者勾配のほとんどは、移民と地元民の混合子孫と証明されました。征服者勾配の標本42点のうち31点は、征服者アジア中核とヨーロッパ中核の2方向混合としてモデル化できます(図3B)。残りの標本はおもにエリートに分類され、その多くはアヴァール人勾配に投影されます(図2A)。これらのうち標本5点は、フン人とイラン人の関連する追加供給源を必要とする征服者アジア中核でモデル化できます。合計で外れ値17個体には征服者アジア中核祖先系統が欠けており、アヴァール人アジア中核もしくは匈奴/フン人関連供給源で置換されており、イラン関連の第三の供給源が伴います。

 本論文のデータから、フン人関連のゲノムを有する征服者エリート個体群は特定の墓地に集まっていたようです。たとえば、セゲド=エサロム(Szeged-Öthalom、略してSEO)やナジケーレシュ=フェケーテ=デュレ(Nagykőrös-Fekete-dűlő、略してNK)やシャーンドルファルヴァ=エペルイェシュ(Sándorfalva-Eperjes、略してSE)やサレトゥドヴァリ=ポロシャロム(Sárrétudvari-Poroshalom、略してSP)の各標本は、この祖先系統を有しています。


●新石器時代とコーカサスの標本

 3ヶ所の異なる墓地から、ハンガリーの新たな新石器時代標本のゲノム3点が配列されました。2個体はハンガリーのティサ(Tisza)川新石器時代文化を、1個体はハンガリーのスタルチェヴォ(Starčevo)初期新石器時代文化を表しています。他のゲノムは各遺跡から以前に刊行されており、この研究の新たなゲノムは以前に刊行された標本と同じADMIXTURE特性とPCA位置を示し(図2)、PC50クラスタ化ではアナトリア半島およびヨーロッパ農耕民ともクラスタ化します。

 征服者との考古学的類似性の可能性がある、コーカサス地域に由来する標本3点(図1)も配列されました。PCAでは、アナパの個体群はコーカサスの現代人標本に投影され(図2)、コーカサスとBMAC地域の古代人標本とともにクラスタ化します。アナパ個体群のADMIXTURE特性は、イラン(33%)とヨーロッパ新石器時代(19%)とANE(8%)とアナトリア半島新石器時代(6%)とフン人(6%)とガナサン人(3%)の構成要素を示唆し、WHG構成要素を示唆しません。これらのデータは、ヨーロッパとイランと草原地帯の混合を示唆し、草原地帯標本にはANA祖先系統が含まれます。

 qpAdmから、アナパ個体群はコーカサス地域に由来する古代人のゲノムを有している、と明らかになり、それは、アルメニアMBAが各モデルで主要な供給源(76~96%)だからです。単一のより低いp値のモデルでは、ロシアのサルトヴォマヤキ(SaltovoMayaki)標本は本論文のアナパ標本群とクレードを形成しましたが、この解釈は要注意で、それは、利用可能なサルトヴォマヤキの3点のゲノムの網羅率がひじょうに低いからです(0.029倍と0.04倍と0.072倍)。PCAでのサルトヴォマヤキ標本群との近接性およびそのクラスタ化から、アナパ標本群の近位供給源はサルトヴォマヤキ標本群と類似している可能性があり、それはこれらが同時代の個体群で、両者ともにハザール可汗国(Khazar Khaganate)の一部だった可能性があるからです。


●Y染色体とミトコンドリアDNAの結果

 PCAの遺伝的勾配に沿っての片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)の分布は、一般的パターンを示します。勾配のアジア側ではアジアのハプログループを有する個体群が、勾配のヨーロッパ側ではヨーロッパのハプログループを有する個体群が見つかります。アジアからヨーロッパに向かう勾配沿いに同じ傾向が広がり、アジアのハプログループの頻度が減少し、ヨーロッパのハプログループの頻度が増加します。

 この法則のいくつかの例外は、ほとんどの場合混合個体群で検出されました。それにも関わらず、ヨーロッパ勾配の数個体はアジアのハプログループを有しており、遠方のアジアの祖先を証明します。これはヤノシダ=トツケルプツァ(Jánoshida-Tótkérpuszta、略してJHT)遺跡の後期アヴァールの墓地においてとくに顕著で、男性3個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、そのヨーロッパ人ゲノムにも関わらず、アジアのR1a1a1b2a(Z94)でした。ヨーロッパ勾配では、マダラス=テグラヴェト(Madaras-Téglavető)遺跡の中期アヴァールの1個体(MT-17)もYHg-R1a1a1b2aでしたが、この墓地では、他の男性3個体は全員、アジア人のゲノムを有するYHg-N1a1a1a1a3a(F4205)でした。

 フン人アジア中核の2個体(VZ-12673とMSG-1)はYHg-R1a1a1b2aで、フン人勾配の1個体(ASZK-1)も同様でした。フン人アジア中核に統合された、以前に刊行された他の2個体、つまりクライレイ・フン人380年と天山フン人のYHgはそれぞれR1a1a1b2aとQで、これらのYHgがフン人では一般的だった可能性を示唆します。刊行された匈奴後のフン時代のゲノム(フン時代遊牧民、フン・サルマティア人、天山フン人、鮮卑・フン人ベレル)全てを検討して、YHgは23個体のうち10個体がR1a1a1b2aで、9個体がQと分かり、上記の観察が裏づけられます。これらのYHgは匈奴から継承された可能性が最も高く、それは、これらのYHgが頻繁に見られるものの、フン時代の前のヨーロッパでは稀だったからです。ヨーロッパ人ゲノムを有する本論文のフン時代の標本の残りはYHg-R1a1a1b1の派生で、これはヨーロッパ北部と西部において一般的で、上述のようにこれらの標本の多くのゲルマン人との類似性と一致します。

 アヴァール人アジア中核の男性9個体のうち、7個体はYHg-N1a1a1a1a3a、1個体はC2a1a1b1b、1個体は(R1a1a1b2aの可能性がひじょうに高い)R1a1a1bでした。これにより、現代のチュクチ人(Chukchis)やブリヤート人(Buryats)で最も高頻度のYHg-N1a1a1a1a3aも、以前に示されたようにアヴァール人エリート間では高頻度だった、と確証されました。YHg-N1a1a1a1a3aはアヴァール人勾配の構成員でも一般的で、特定の墓地に集まっているようです。

 アルクト(Ároktő、略してACG)やフェルギョ(Felgyő、略してFU)やSZODやチェペル=カヴィスバニャ(Csepel-Kavicsbánya、略してCS)やキシュケーレシュ=ヴァゴヒディ・デュロ(Kiskőrös-Vágóhídi dűlő、略してKV)やクンペザー=フェルセペザー(Kunpeszér-Felsőpeszér、略してKFP)やソリヨスパロス=フェルセパロス(Csólyospálos-Felsőpálos、略してCSPF)やキスクンドロズマ=ケッテーシュハタール2(Kiskundorozsma-Kettőshatár II、略してKK2)やタタールゼントギョロギ―(Tatárszentgyörgy、略してTTSZ)やマダラス=テグラヴェト(Madaras-Téglavető、略してMT)のアヴァール時代墓地では、男性全員もしくは大半がYHg-N1a1a1a1a3aで、そのほとんどにはアジアの母系が伴っていました。これらの墓地は移民アヴァール人集団に属していたに違いありませんが、在来人口集団は分離していたようで、それは多くのアヴァール時代墓地がアジア人祖先系統の痕跡を示さないからです。

 後者に含まれるのは、メリクト=サンクデュロ(Mélykút-Sáncdűlő、略してMS)やゼゲド=フェヘルトA(Szeged-Fehértó A、略してSZF)やゼゲド=クンドム(Szeged-Kundomb、略してSZK)やキスクンドロズマ=ケッテーシュハタール1(Kiskundorozsma-Kettőshatár I、略してKK1)やキスクンドロズマ=ダルハロム(Kiskundorozsma-Daruhalom、略してKDA)やオロシャザ=ボヌム・テグラギアル(Orosháza-Bónum Téglagyár、略してOBT)やゼックタス=カポルナデュロ(Székkutas-Kápolnadűlő、略してSZKT)やホモクメギー=ハロム(Homokmégy-Halom、略してHH)やアラッティアン=トゥラト(Alattyán-Tulát、略してALT)やキスケロス=ポヒブジュ・マッコ・デュロ(Kiskőrös-Pohibuj Mackó dűlő、略してKPM)やシュケスド=サゴッド(Sükösd-Ságod、略してSSD)で、アジア人系統は稀にしか見られません。SZKとALTとKK1とOBTとSZKTとHHとSZMの墓地では、ほとんどの男性はYHg-E1b1b1a1b1a(V13)で、これはバルカン半島において最も高い頻度となるので、これらの墓地の標本の多くはヨーロッパ中核1もしくはその近くに位置し、典型的なヨーロッパ南部人のゲノムを有していました。

 アジアからの移民を表すアヴァール時代の墓地の第三の集団がありますが、遺伝的背景は異なります。MMやドゥナヴェッセ=コヴァッソス・デュロ(Dunavecse-Kovacsos dűlő、略してDK)やアルクス・ホモクバニャ(Árkus Homokbánya、略してARK)やSZRVの男性のYHgでは、R1a1a1b2aとQ1a2a1が優勢で、これらはヨーロッパのフン人で典型的に見られ、ほぼアジアの母系が伴っていました。これらアヴァール時代の人々は、アヴァールに加わったものの、別々の共同体で孤立していたフン人残党を表していたのかもしれません。これらの墓地の標本のqpAdmモデルがフン人アジア中核もしくは匈奴祖先系統の存在を示唆したように、これらの推論はゲノムデータと完全に一致しています。上述のように、フン人祖先系統はYHg-R1a1a1b2aで見られるようにいくつかの他の墓地の標本にも存在していますが、それらの墓地では、人口集団は遺伝的には均一ではありませんでした。

 征服者人口集団は、フン人およびアヴァール人と比較して、より不均質なハプログループ組成を有していました。征服者アジア中核の男性6個体のYHgでは、3個体がN1a1a1a1a2、1個体がD1a1a1a1b、1個体がQ1a1a1で、一般的にアジアの母系が伴います。他の2個体はYHg-N1a1a1a1a2a1cで、征服者エリートの1個体(SO-5)と庶民の個体(PLE-95)で検出されたので、このYHgは征服者集団に固有のようです。以前の研究で示されたように(関連記事)、このYHgは明らかに征服者とマンシ人をつなぎます。別の関連するYHg-N1a1a1a1a(M2128)は、本論文の新たな征服者エリート標本2点と、以前の研究の他の征服者エリート標本2点で検出されました。このYHgは現代ヤクート人(Yakuts)において一般的で、ハンティ人(Khantys)やマンシ人やカザフ人では頻度がより低いので、マンシ人と征服者をつなげるかもしれませんが、中期アヴァール時代の1個体にも存在していました。

 ヨーロッパのYHg-I2a1a2b1a1aも征服者集団、とくに以前にも示されたようにエリートにおいて固有であり、高頻度でアジアの母系が伴うことは、注目に値します。これは、YHg-I2a1a2b1a1aが在来人口集団よりも移民で一般的だった可能性を示唆します。さらに、他の2系統のYHgが征服者では顕著な頻度で見られました。YHg-R1a1a1b2aはエリート3個体と庶民2個体に存在しましたが、YHg-Qはエリート3個体で見られ、これはフン人との関係の痕跡かもしれず、ゲノム水準でも検出されました。ほぼ全てのYHg-R1a1a1b2aもしくはQの征服期男性がフン人関連祖先系統を有していたので、この結果もゲノムデータと一致します。


●考察

 本論文で明らかにされたフン人とアヴァール人と征服者のゲノム史は、歴史学と考古学と人類学と言語学の典拠と一致します(図7)。本論文のデータから、ヨーロッパのフン人とアヴァール人の軍事的および社会的指導者層の少なくとも一部は、それ以前となる現在のモンゴルなどに広がっていた匈奴帝国起源の可能性が高く、フン人とアヴァール人の両集団は初期匈奴の祖先にまでさかのぼれる、と示されます。北匈奴は2世紀にモンゴルから駆逐され、その西方への移住期間に直面した最大の集団の一つがサルマティア人でした。

 以前の研究では、ウラル地域におけるフン人とサルマティア人の混合文化の形成はヨーロッパにおけるフン人の出現前と推定され、これは本論文のフン人標本で検出された有意なサルマティア人祖先系統と一致しますが、この祖先系統は後期匈奴でも存在していました。したがって、本論文のデータは、複数の歴史家により主張されたように、ヨーロッパのフン人の祖先が匈奴である、という見解と一致します。本論文のフン人標本では、ゴート人もしくは他のゲルマン人のゲノムも検出され、これも歴史的な情報源と一致します。以下は本論文の図7です。
画像

 本論文のアヴァール人アジア中核個体群のほとんどは前期アヴァール時代を表しており、「エリート」標本の半分はアヴァール人アジア中核に分類されました。他のエリート標本もこの祖先系統を高い割合で含んでおり、この祖先系統がエリートで高頻度だったものの、庶民にも存在していた可能性を示唆します。エリートは起源がよく定義されているひじょうに古いアジア東部ゲノムを保存しており、それはYHgのデータからも推測されます。

 本論文のデータはアヴァール人の楼蘭起源とも一致しますが、単一の低網羅率の楼蘭標本のゲノムは、qpAdmでは適合性が不充分でした。しかし、アヴァール人勾配個体群の半分未満はアヴァール人アジア中核祖先系統を有しており、アヴァール人集団の多様な起源が示唆されます。本論文のモデルから、アヴァール人は匈奴/フン人アジア中核およびイラン関連祖先系統を有する集団を組み込み、それはおそらく以前主張されたように、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)におけるヨーロッパのフン人とアラン人の残党でした。フン人関連ゲノムを有する標本が別々の墓地に埋葬されたので、さまざまな遺伝的祖先系統を有する人々は区別されたようです。

 アヴァール人の後にカルパチア盆地に到来した征服者は、ユーラシア西部との混合水準増加とともに、別のゲノム背景を有していました。その中核人口集団は現代のバシキール人およびタタール人とひじょうに類似したゲノムを有しており、以前の片親性遺伝標識の結果と一致します。そのゲノムはいくつかの混合事象により形成され、そのうち最も基礎的なのは後期青銅器時代の頃のメゾフスカヤ文化集団とガナサン人の混合で、「ウゴル諸語祖語」遺伝子プールの形成につながりました。これは一般的な人口統計学的過程の一部で、そこでは草原地帯MLBA人口集団がBMAC集団からの流入とともに東部フブスグル関連シベリア人からの流入を受け、ANA関連混合が東部草原地帯で遍在するようになり、スキタイシベリア人の遺伝子プールが確立されました。その結果、ウゴル諸語祖語集団はメゾフスカヤ文化領域の近くで、カザフスタン北部地域において後期青銅器時代から初期鉄器時代の初期スキタイシベリア人社会の一部になったかもしれません。

 本論文のデータは、征服者とマンシ人が共通の初期の歴史を有していると予測した、言語学的モデルを裏づけます。その後、マンシ人はおそらく鉄器時代に北方へ移住し、孤立して青銅器時代のゲノムを保持しました。対照的に、征服者は草原・森林地帯に留まり、イラン語話者の初期サルマティア人と混合し、それはハンガリー語におけるイランの借用語の存在でも証明されます。この混合はサルマティア人が部族を掌握し、ポントス・カスピ海草原を占拠する前に、近隣部族を統合し始めた時に起きた可能性が高そうです。

 全ての分析から一貫して示唆されるのは、征服者の祖先はさらに、ヨーロッパのフン人の祖先と特定できる漢人・ANA関連祖先系統を有するモンゴルからの集団と混合した、ということです。この混合は、フン人が370年にヴォルガ川地域に到来し、サルマティア人と征服者の祖先などウラル地域の東側の在来部族を統合した前に起きた可能性が高そうです。これらのデータは、征服者と、トランスウラル地域のウェルギ(Uyelgi)墓地のクシュナレンコヴォ・カラヤクポヴォ(Kushnarenkovo-Karayakupovo)文化個体群との間の系統発生的つながりから推測されているように(関連記事)、フン人の移動経路に沿って、初期サルマティア人の近くのウラル地域周辺の征服者の原郷と一致しています。

 最近、ハンガリー人を例外として、ガナサン人的な共有されているシベリア人の遺伝的祖先系統が、全てのウラル語族話者人口集団で検出されました。本論文のデータは、ハンガリーを征服した中核人口集団が多くのガナサン人祖先系統を有していた、と示すことにより、この逆説を解決します。現代ハンガリー人でこれが無視できるという事実は、在来人口集団と比較しての移民の数のかなりの少なさに起因する可能性が高そうです。アヴァール人と征服者の両方におけるフン人アジア中核祖先系統を有する多数の遺伝的外れ値は、これらの連続する遊牧民集団がじっさいに重複する人口集団から集められたことを証明しています。なお、関連する最近の研究では、アヴァール人支配層がユーラシア東部起源だった、と示されています(関連記事)。


参考文献:
Maróti T. et al.(2022): The genetic origin of Huns, Avars, and conquering Hungarians. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2022.04.093

https://sicambre.seesaa.net/article/202205article_29.html  
2:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:19:21

アーリア人の起源

雑記帳 2015年09月13日
青木健『アーリア人』
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_13.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E9%9D%92%E6%9C%A8-%E5%81%A5/dp/4062584387


 講談社選書メチエの一冊として、講談社より2009年5月に刊行されました。著者の他の著書『古代オリエントの宗教』を以前このブログで取り上げたことがありますが(関連記事)、その後再読して改めて面白いと思ったので、本書も読んでみました。本書の定義する「アーリア人」とは、インド・ヨーロッパ語族のうちインド・イラン系を指します。本書はおもに、そのうちイラン系を取り上げています。本書はこの「イラン系アーリア人」を、さらに中央アジアを中心とする範囲の騎馬遊牧民と、中央アジアのオアシス地帯やイラン高原の定住民とに区分します。ただ本書は、「アーリア人」の意味内容は時代により異なる、と注意を喚起しています。

 イラン系アーリア人のうち、騎馬遊牧民にはスキタイ人やパルティア人やサルマタイ人などが、定住民にはメディア人やペルシア人やバクトリア人やソグド人などが含まれます。本書は、これらの集団を列伝形式で概観していきます。本書も認めているように、この叙述形式だと、時代順の解説にならないこともありますし、同じ地域に存在した集団を個別に叙述してしまうことにもなります。その意味で、全体的な歴史像の把握がやや難しくなっている感もありますが、広範囲に存在したイラン系アーリア人の多様性と各集団の特徴を理解するのには適しているように思います。

 本書を読むと、西アジア~中央アジアにかけても、ユーラシア東部と同じく、騎馬遊牧民と定住民との相克が長く続いたことが分かります。これは、前近代におけるユーラシア大陸の大きな歴史的動向と言えそうです。また、ペルシア帝国(クル王朝→ハカーマニシュ王朝)がメディア王国から大きな影響を受けていたことや、クル王朝・ハカーマニシュ王朝がペルシア帝国と呼ぶべき性格を強く有していたのにたいして、サーサーン王朝の方は「エーラーン(アーリア人)」帝国と呼ぶべき性格が濃厚だったことなど、興味深い論点を色々と知ることができました。

 サーサーン王朝に関する見解では、興味深いものが提示されています。サーサーン王朝下では、メソポタミア平原~イラン高原の中間地帯で集中的な開墾が始まりました。これにより、紀元前3000年から続くメソポタミア平原の長い歴史のなかでも、サーサーン王朝の時代が農業生産力のピークだった、と本書では高く評価されています。しかし、6世紀からメソポタミア平原の土壌は疲弊していきます。7世紀前半にサーサーン王朝がビザンティン帝国相手に無理な戦争を仕掛け、その最中の628年にティグリス河で大氾濫が発生すると、メソポタミア平原の灌漑設備は破壊され、農業生産力は凋落の一途をたどります。これ以降現在にいたるまで、メソポタミア平原の灌漑設備は再建されなかった、と本書は評価しています。

 このメソポタミア平原の灌漑設備を破壊した628年のティグリス河での大氾濫により、サーサーン王朝は実質的に滅亡した、というのが本書の見解です。中央集権体制を充実させ、オリエント史上最盛期となる農業生産力を誇ったサーサーン王朝の人口は最盛期でも1000万~1500万人程度で、ローマ帝国・ビザンティン帝国・唐と比較すると、国家としての実力はその数分の一にすぎない、と本書は指摘します。サーサーン王朝はローマ帝国やビザンティン帝国と並び立つ超大国ではなく、メソポタミア平原からの税収とイラン高原からの軍事力に依拠する脆弱な国家だったので、ティグリス河での大氾濫による灌漑設備の破壊で実質的に滅亡した、というわけです。

 サーサーン王朝末期のメソポタミア平原における天災・人災による破局は、その後の西アジアの歴史を大きく変える要因になった、と本書は指摘します。テュルク系が傭兵として西アジアに進出し、やがてさまざまな王朝を樹立していく前提として、西アジアの経済的衰退がある、というわけです。イスラーム勢力の拡大、その後のテュルク系諸族の進出など、7世紀前半は西アジアの大きな転換期だった、と評価する本書は、サーサーン王朝の実質的滅亡をもって古代オリエント文明は終焉したと言えるのではないか、との見解も提示しています。
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_13.html  


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雑記帳 2018年10月07日
青銅器時代~鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html

 青銅器時代~鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷に関する研究(Krzewińska et al., 2018)が報道されました。本論文は、おもにポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代~鉄器時代の人類集団のゲノムを解析し、ユーラシアの古代および現代の人類集団の既知のゲノムと比較しました。本論文の結論は、鉄器時代のユーラシア西部遊牧民集団の主要な起源はポントス-カスピ海草原東部にある、というものです。

 ポントス-カスピ海草原には青銅器時代~鉄器時代にかけて多くの遊牧民集団が連続的に存在し、アジアとヨーロッパ双方の文化発展に大きな影響を及ぼしました。その中で最も有名なのは前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で、その拡大はヨーロッパにコーカサス地域の遺伝的要素をもたらしました(関連記事)。ポントス-カスピ海草原の重要性は、このヤムナヤ文化集団の拡大だけではなく、その後の紀元前1800~紀元後400年にかけての青銅器時代~鉄器時代の連続した移住と文化的変容も同様です。

 紀元前1800~紀元前1200年にかけてのポントス-カスピ海草原は、スルブナヤ-アラクルスカヤ(Srubnaya-Alakulskaya)文化集団の期間で、ウラルからドニエプル流域まで小さな居住遺跡が分布しています。青銅器時代~鉄器時代の移行期となる紀元前1000年頃からは、キンメリア人を含む先スキタイ遊牧民集団がポントス-カスピ海草原西部に出現し始めます。紀元前700~紀元前300年にはスキタイ人がポントス-カスピ海草原西部を支配し、新たな軍事文化を有する遊牧民として、アルタイ地域からカルパティア山脈までその勢力が及びました。スキタイ人は、ポントス-カスピ海草原に留まらず、カザフスタン草原まで支配したわけです。

 スキタイ人は紀元前300年頃に衰退し始めますが、これは西方のマケドニアと敵対していったことと、東方からのサルマティア人の侵略が大きかったようです。サルマティア人とスキタイ人は数世紀間共存したと考えられていますが、けっきょくはサルマティア人が優勢になり、スキタイ人は没落しました。サルマティア人は、類似した多くの遊牧民集団から構成されていたと考えられ、政治的にはローマ帝国東方の辺境地帯で最も政治的影響力を有しましたが、紀元後400年には、ゴート人とフン人の連続した攻撃により衰退しました。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代~鉄器時代の人類集団のゲノム構造はじゅうぶんには解明されていません。以前の研究では、スルブナヤ集団と後期新石器時代~青銅器時代のヨーロッパ集団との近縁性が指摘されていました。キンメリア人については、その遺伝的起源はあまり解明されていません。スキタイ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、ユーラシア草原地帯の東西の集団の混合が指摘されていました。スキタイ人でも東方のアルタイ地域のアルディベル(Aldy-Bel)文化集団は、中央アジアの東部集団との遺伝的類似性を示しますが、西方のポントス-カスピ海草原のスキタイ人集団との関係と起源に関する理解は貧弱です。サルマティア人の起源と他集団との遺伝的近縁性もあまり知られていませんが、ゲノム解析では東部ヤムナヤ文化集団および青銅器時代のヴォルガ川中流域のポルタフカ(Poltavka)集団との類似性が指摘されています。

 本論文は、後期青銅器時代~鉄器時代にかけてのポントス-カスピ海草原の古代人のゲノム解析が不充分であることから、紀元前1900~紀元後400年にかけての、ポントス-カスピ海草原の年代的に連続した異なる4文化集団の35人ゲノムを解析し、既知のユーラシアの人類集団のゲノムと比較することで、研究を前進させました。ゲノム解析の平均網羅率は0.01倍~2.9倍です。内訳は、スルブナヤ-アラクルスカヤ人が13人、キンメリア人が3人、スキタイ人が14人、サルマティア人5人です。

 mtDNAハプログループでは、後期青銅器時代のスルブナヤ-アラクルスカヤ人がヨーロッパ人もしくはユーラシア西部人と関連するH・J1・K1・T2・U2・U4・U5に分類されたのにたいして、青銅器時代~鉄器時代の移行期の遊牧民集団であるキンメリア人と、鉄器時代の遊牧民集団であるスキタイ人・サルマティア人には、中央アジアおよび東アジア系集団と関連するA・C・D・Mに分類される個体がいました。より古いスルブナヤ-アラクルスカヤ人に東アジア系mtDNAハプログループが見られないのは、草原地帯の集団の東アジア系ハプログループの出現が鉄器時代の遊牧民集団と関連しており、キンメリア人に始まるからかもしれません。Y染色体DNAハプログループでは、18人の男性のうち17人が、ハプログループRに分類されました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は、青銅器時代に拡大したR1aに分類されました。鉄器時代の遊牧民はほとんどがR1bに分類され、これはロシア草原地帯のヤムナヤ文化集団に特徴的です。例外はキンメリア人の男性1人で、ユーラシア東方集団と関連するQ1に分類されました。

 低~中網羅率ですが、ゲノム解析の結果、さまざまな新知見が得られました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は現代のヨーロッパ北部・北東部集団と近縁です。青銅器時代~鉄器時代移行期のキンメリア人は、遺伝的に均質ではありません。本論文でゲノム解析の対象となったスキタイ人は、スキタイの中核であるポントス草原北部の個体群で、高い集団内多様性を示します。スキタイ人は遺伝的に大きく3集団に区分され、それぞれ、ヨーロッパ北部集団・ヨーロッパ南部集団・コーカサス北部集団と近縁です。スルブナヤ-アラクルスカヤ人の1個体と、キンメリア人の最も新しい年代の個体と、サルマティア人全員も、コーカサス北部集団と近縁です。スキタイ人の1個体は、ユーラシア西部集団の遺伝的変異の範囲を超えて、東アジア人と遺伝的近縁性を示しています。

 スルブナヤ-アラクルスカヤ人はユーラシア西部集団の変異内に収まり、北東部および南東部アジア集団の要素を欠いています。一方、それに続くキンメリア人は全員、東方のシベリア集団の遺伝的要素を有していました。キンメリア人の最古の個体の遺伝的構成の比率は東方のアジア系とユーラシア西部系で等しく、2番目に古いキンメリア人個体は、ユーラシア東部とアメリカ大陸先住民集団で見られるY染色体DNAハプログループQ1に分類され、この頃よりポントス-カスピ海草原の遊牧民集団に東アジア系の遺伝的要素が入ってきたようです。

 スキタイ人は、上述したように遺伝的には多様で、複数の系統から構成されているため、起源の解明は困難です。東方スキタイ人がヤムナヤ文化集団と近縁な一方、西方スキタイ人は中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です。また、西方スキタイ人には、南アジアおよび東アジア系集団の遺伝的要素が欠けており、これもスキタイ人の遺伝的多様性の一因となっています。スキタイ人は、ユーラシアの半遊牧民集団や黒海地域のギリシア人など、多様な人々を組み込んでいったのではないか、と推測されています。じっさい、異なる遺伝的背景の個体が、同じ文化様式で埋葬されていたこともありました。スキタイ人は、遺伝的に大まかに言って、その前後にポントス-カスピ海草原を支配したキンメリア人とサルマティア人とも、近い関係にはあるものの直接的な祖先-子孫関係にはない、と推測されています。

 ウラル南部の個体も含むサルマティア人は草原地帯集団の変異内におおむね収まり、ウラル南部ではユーラシア西部の遊牧民集団の遺伝的構成が比較的維持された、と推測されています。サルマティア人の比較的高い遺伝的多様性については、遺伝子流動というよりも、大きな有効人口規模の結果かもしれない、と指摘されています。サルマティア人とキンメリア人の遺伝的近縁性も指摘されており、鉄器時代以降にユーラシア東部の遺伝的影響を受けつつも、ポントス-カスピ海草原においてユーラシア西部草原地帯の遺伝的要素が強く維持されてきた、と示唆されます。

 古代ゲノム解析から、ポントス-カスピ海草原の青銅器時代~鉄器時代は、遊牧民集団の移動性の高い複雑な時代だった、と推測されます。青銅器時代~鉄器時代にかけてポントス-カスピ海草原を支配した人類集団は、それぞれ前後の時代の集団と主要な直接的祖先-子孫関係にあったまでは言えませんし、ユーラシア東部からの遺伝的影響を受けているものの、大まかには、ポントス-カスピ海草原とウラル南部を起源地とする集団の遺伝的構成が維持され、ユーラシア西部の遊牧民集団が形成された、と言えそうです。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代~鉄器時代の遊牧民集団では、とくにスキタイ人において強い傾向が見られるようですが、拡散先の在来集団を同化させて組み込んでいったようです。遊牧民集団の柔軟性は、歴史学などでも指摘されていたと思いますが、それが古代ゲノム解析でも裏づけられた、ということなのでしょう。もっとも、これにより広範な地域に及ぶ強大な勢力を短期間で築くこともできますが、出自の異なる集団の合流で形成されているだけに、史実に見えるように、崩壊する時はあっけないのでしょう。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代~鉄器時代の遊牧民集団は、アジアとヨーロッパに遺伝的にも文化的にも大きな影響を及ぼしました。文化面では、乗馬・戦車(チャリオット)などが挙げられます。これらは考古学的検証が可能ですが、直接的証拠は乏しいとしても、おそらくはインド・ヨーロッパ語族も、草原地帯の遊牧民集団が広めた可能性は高いと思います。ユーラシア中央部の遊牧民集団は、とくに紀元前に関しては文字記録が少ないため、あるいは過小評価される傾向にあるかもしれませんが、古代ゲノム解析の進展により、その重要性が今後広く認識されていくのではないか、と予想されます。


参考文献:
Krzewińska M. et al.(2018): Ancient genomes suggest the eastern Pontic-Caspian steppe as the source of western Iron Age nomads. Science Advances, 4, 10, eaat4457.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aat4457

https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html


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雑記帳 2008年03月02日
林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』
https://sicambre.at.webry.info/200803/article_6.html

 講談社の『興亡の世界史』シリーズ7冊目となります(2007年6月刊行)。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%A8%E5%8C%88%E5%A5%B4-%E9%81%8A%E7%89%A7%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-%E8%88%88%E4%BA%A1%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E6%9E%97-%E4%BF%8A%E9%9B%84/dp/4062807025


遊牧社会が自身の文献記録を残すようになったのが、定住社会よりかなり遅れたということもあったため、じゅうらい、遊牧社会への一般的な関心は低かったように思われます。そのため、欧州・西アジア・中国といった記録の豊富な定住社会と比較すると、遊牧社会の重要性が低く評価されていたようですが、近年の日本では、杉山正明氏による積極的な啓蒙活動もあってか、じゅうらいよりも遊牧社会への評価が高くなっているように思われます。

 その意味で、本書ではどのような遊牧社会像が描かれるのか、遊牧の文明とはどのように定義されるのか、ということに注目していましたが、巻末でも述べられているように、スキタイと匈奴に文明的要素は多くはないな、というのが正直なところです。とはいっても、本書によって明かされるユーラシア草原の騎馬遊牧社会の動きは活発で、ある種の開放感も感じさせますから、たいへん魅力的だとも言えます。騎馬遊牧民の起源については、前9世紀頃との説が提示されていて、意外に新しいのだと不勉強な私は驚かされました。

 ただ、本書でも強調されているように、スキタイと匈奴自身が残した史料がないため、その社会がどのようなものだったか、いまいちはっきりと伝わってこなかったのが残念ですが、それは仕方のないことなのでしょう。それでも、匈奴については中国の史料がかなり残されているので、本書でも、考古学的成果と史料から匈奴社会の追及がなされています。『史記』や『漢書』が基本史料となりますので、私にとっては、ある意味でなじみのある匈奴像だったとも言えます。

 史料の少ないスキタイについては、考古学的成果が豊富に引用され、さまざまな可能性が提示されながら、スキタイの在り様が追及されていて、ユーラシア草原東部にスキタイ文化の起源があるとの指摘は、不勉強な私にとってはなかなか興味深いものでした。スキタイ時代後期の文化は、ペルシアとギリシアから強い影響を受けていますが、この時代の遺跡からは、中国の戦国時代の鏡も出土しているとのことで、古くから草原ルートがユーラシアの東西を結びつけていたことと、人類史における騎馬遊牧民の役割の大きさを強く感じました。

https://sicambre.at.webry.info/200803/article_6.html


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雑記帳 2018年05月17日
ユーラシア草原地帯の人類集団史とB型肝炎ウイルス感染の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_28.html

 ユーラシア草原地帯における人類集団史に関する二つの研究が報道されました。一方の研究(Damgaard et al., 2018B)は、約8000 kmに及ぶハンガリーから中国北東部までの広大なユーラシア草原地帯における、青銅器時代以降の約4000年間に及ぶ137人の古代人のDNA解析結果(平均網羅率は約1倍)を報告しています。さらにこの研究は、502人の現代人に自分の祖先の出身地(中央アジア・アルタイ・シベリア・コーカサス)を自己申告させ、そのゲノムデータを解析しました。こうして得られた知見から、ユーラシア草原地帯の人類集団の歴史が明らかになりました。

 鉄器時代を通してユーラシア草原地帯で優勢だったスキタイ人集団は、遺伝的には後期青銅器時代の牧畜民・ヨーロッパの農耕民・シベリア南部の狩猟採集民から構成される多様な起源を有していた、と明らかになりました。その後、スキタイ人は匈奴連合体を形成したステップ東部の遊牧民と混合し、紀元前3世紀もしくは紀元前2世紀頃に西方へ移動し、4~5世紀にはフン族の伝統を築くとともに、「ユスティニアヌスの疫病」の根源となるペストを持ち込んだ、と推測されています。これらの遊牧民はさらに、中世の複数の短い汗国の時代に東アジアの集団と混合しました。こうした歴史的事象により、ユーラシア草原地帯は、ユーラシア西部の系統が大部分であるインド・ヨーロッパ語族の居住地から、東アジア系統の、現在のおもにチュルク語を話す集団の居住地へと変遷を遂げました。

 もう一方の研究(Mühlemann et al., 2018)は、ユーラシア中央部および西部の、7000~200年前頃の304人のDNA解析結果を報告しています。注目されるのは、このうち25人がB型肝炎ウイルス(HBV)に感染していたと推測されることです。現在、約2億5700万人がHBVに慢性的に感染しており、2015年には約887000人が合併症を引き起こして死亡しています。HBVには少なくとも9タイプ存在しますが、どのように進化してきたのは不明でした。これら二つの研究は、ユーラシアの古代人合計304人中25人のゲノムにHBVの証拠が見つかった、と報告しています。古代のウイルスの塩基配列が今後新たに発見されれば、HBVの正確な起源と初期の歴史が明確になり、B型肝炎の負荷と死亡率に対する自然の変化および文化的変化の寄与の解明に役立つ可能性があります。

 この研究は、青銅器時代から中世にわたる、4500~800年前頃の完全あるいは部分的な古代HBVゲノム12例(現存しない遺伝子型を含みます)について報告し、ヒトHBVと非ヒト霊長類HBVの現生種と共に解析しました。れらの古代ゲノム塩基配列は、現生人類のHBVクレードまたは他の類人猿のHBVクレードの内部に、あるいはそれらの姉妹系統として位置していました。HBV系統樹の根の年代は20900~8600年前頃と推定されています。これらゲノムの特徴はおおむね、現代のHBVのものと一致しました。

 複数の例で、古代の遺伝子型の地理的位置と現在の分布とが一致しませんでした。現在のアフリカおよびアジアに典型的な遺伝子型と、インドに由来する亜型(subgenotype)は、初期にユーラシアに存在していたことが明らかになりました。古代HBVと現代HBVの遺伝子型に認められる地理的パターンおよび時間的パターンは、すでに立証されている青銅器時代および鉄器時代の人類移動のパターンと一致します。この研究は、HBVの遺伝子型Aが組換えによって生じ、さらに現代HBVの遺伝子型が長期にわたりヒトと関連してきた、と明らかにしています。また、現在は存在しないかつてのヒトの遺伝子型も発見されました。こうしたデータは、現代の塩基配列のみの検討では解明できないような、HBV進化の複雑さを明らかにします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【ゲノミクス】古代ゲノムで見つかった人類史と肝炎に関する手掛かり

 約1500~4500年前に生きていた137人のヒトのゲノム塩基配列について報告する論文と、これらのゲノムと共に青銅器時代の167人のヒトのゲノムを解析し、合計304人中25人のゲノムにB型肝炎ウイルス(HBV)の証拠が見つかったことを報告する論文が、今週掲載される。これらの新知見は、数千年間にわたって、ユーラシア全土でヒトのHBV感染があったことを示唆している。

 Eske Willerslevたちは、第1の論文で、ハンガリーから中国北東部までの約8000 kmに及ぶ広大なユーラシア・ステップで生活していた137人の古代人のゲノム塩基配列を解読した結果を報告している。これらのゲノムは約4000年間を網羅している。Willerslevたちは、502人の現代人に自分の祖先の出身地(中央アジア、アルタイ、シベリア、コーカサス)を自己申告させて、そのゲノムデータを解析した。こうして得られた知見から、ユーラシア・ステップのヒト集団の歴史が明らかになり、青銅器時代のユーラシア出身の牧畜民から主に東アジア出身の騎馬兵士への移行がゆっくりと進んだことが示唆された。

 また、Willerslevたちは第2の論文で、約200~7000年前に生きていた304人の中央ユーラシアと西ユーラシアの人々のDNA塩基配列を解析し、うち25人がHBVに感染しており、約4000年にわたってHBV感染があったことを示す証拠を報告している。Willerslevたちは、合計12点のHBVの完全ゲノムまたは部分ゲノム(現存しない遺伝子型を含む)を分離し、ヒトHBVと非ヒト霊長類HBVの現生種と共に解析した。その結果、現在の分布と一致しない領域に古代HBVゲノムが存在していたことと、少なくとも1つ以上の現存しない遺伝子型が明らかになった。

 全世界で約2億5700万人が慢性HBV感染に苦しんでおり、2015年にはその合併症で約88万7000人が命を落としているが、HBVの起源と進化は解明されていない。古代のウイルスのゲノム塩基配列が今後新たに発見されれば、HBVの正確な起源と初期の歴史が明確になり、B型肝炎の負荷と死亡率に対する自然の変化および文化的変化の寄与の解明に役立つ可能性がある。


集団遺伝学:ユーラシアのステップ全域に由来する137例のヒト古代ゲノム

社会人類学:青銅器時代から中世の古代B型肝炎ウイルス

集団遺伝学:古代ゲノムから明らかになった人類史とヒト肝炎の手掛かり

 今週号の2報の論文でE Willerslevたちは、ヒトの古代ゲノム解析により得られた、人類史と肝炎についての手掛かりについて報告している。1報目の論文では、過去4000年間にわたるユーラシアのステップ全域に由来する137例のヒト古代ゲノムについて、塩基配列の解読結果が示されている。自己申告に基づく系統が中央アジア、アルタイ、シベリア、およびコーカサスである現代人502人に関する遺伝子型を用いた解析からは、ユーラシアステップ中央部の集団史のモデルが示され、これは、例えば青銅器時代におけるユーラシア西部系統の牧畜民から東アジア系統の多い騎兵馬への漸進的な移行など、この地域についてのこれまでの歴史言語学的研究の結果と一致していた。2報目の論文では、前期青銅器時代から中世にわたるユーラシア中央部および西部のヒト骨格304体に由来する古代DNAの塩基配列を解析し、その中にB型肝炎ウイルス(HBV)の塩基配列を探索した結果が報告されている。完全または部分的に復元したHBVゲノム12例について、現代人HBVおよび非ヒト霊長類HBVの塩基配列と共に解析したところ、ユーラシア全域の人類が数千年にわたってHBVに感染していたことが示唆された。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018B): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.
https://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2

Mühlemann B. et al.(2018): Ancient hepatitis B viruses from the Bronze Age to the Medieval period. Nature, 557, 7705, 418–423.
https://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0097-z


https://sicambre.at.webry.info/201805/article_28.html
3:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:21:07

2020年08月31日
古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html

 古代DNAに基づく近年のユーラシア西部の現生人類(Homo sapiens)史研究を整理した概説(Olalde, and Posth., 2020)が公表されました。ユーラシア西部における現生人類の遺伝的歴史は、過去10年にたいへん注目されてきた研究分野です。これまでの研究の大半は、新石器時代と青銅器時代に起きた大規模な文化的移行をより理解するため、超地域的視点に焦点を当ててきており、おもに8500~3000年前頃の個体群が対象でした。

 最近では、そうした大規模な手法は学際的な小地域研究により補完されており、それは過去の社会の通時的な再構築を目指し、古代DNA研究の将来の主流の方向性となる可能性が高そうです。さらに、ユーラシア西部全域の刊行された人類ゲノムの時間的分布を考慮すると、一方の側は上部旧石器時代と中石器時代、もう一方の側は鉄器時代に広く対応しています。この期間の研究もひじょうに興味深いものの、固有の課題もあり、それは、狩猟採集民遺骸としばしば乏しい古代DNA保存という利用可能性の低さと、歴史時代の集団間の減少した遺伝的差異を含みます。本論文は、最近明らかになってきたような、ユーラシア西部の古代DNA研究における新たな動向を取り上げます。


●ユーラシア西部狩猟採集民

 45000年前頃以降の大半において、ヨーロッパと近東の現生人類は狩猟採集戦略に依存していました。上部旧石器時代および中石器時代と新石器時代の一部地域では、集団の生活様式は狩猟採集でした。8500年前頃以降になって初めて、農耕が近東からヨーロッパに拡大してきました。この狩猟採集に依拠していた期間が長いにも関わらず、ヨーロッパと近東の刊行された古代ゲノムのうち、狩猟採集民個体群に由来するのは10%未満です。

 ヨーロッパの狩猟採集民に関する最初の大規模なゲノム規模研究は2016年に公表され、45000~7000年前頃の50人のゲノムが分析されて、その後のいくつかの研究の基礎となりました(関連記事)。遅くとも37000年前頃以降、ヨーロッパの全個体は後のヨーロッパ人集団とある程度の遺伝的類似性を有します。しかし、その研究ではヨーロッパの現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は経時的に減少したと推定されましたが、最近の研究では、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人系統の割合はほぼ一定だった、と推定されています(関連記事)。

 後のヨーロッパ人集団に寄与した最古のゲノムは、ロシア西部のコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)です。この2個体は相互に、ひじょうに異なる2系統の初期の分岐を表しており、より新しい別々の狩猟採集民集団と関連しています。

 ヨーロッパ全域で観察された最初の明確な遺伝的クラスタは、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名され、チェコからベルギーとイタリア南部までの34000~26000年前頃のゲノムを含みます。これらの個体群はグラヴェティアン(Gravettian)技術複合と関連しており、コステンキ14個体およびその姉妹系統である34000年前頃のロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団と、高い遺伝的類似性を共有しています。さらに、クリミア半島からの提案されたグラヴェティアン個体もまた、ヴェストニツェ遺伝的クラスタのより新しい個体群との類似性を示し、グラヴェティアン関連遺伝的構成の西方から東方への拡大が支持されます。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後、Goyet Q116-1個体で特定された遺伝的系統は、考古学的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連した個体群に現れ、その年代はイベリア半島では19000年前頃、ヨーロッパ中央部では15000年前頃です。15000年前頃のヨーロッパでは温暖化が起き、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に因んで命名された新たな遺伝的系統であるヴィラブルナの存在と同時に発生し、このヴィラブルナ系統は現代および古代の近東集団と有意なつながりを示します(関連記事)。このかなり均質な遺伝的構成は、イタリア(関連記事)からブリテン島(関連記事)にまたがるヨーロッパ全域に広範に拡大しました。

 ヴィラブルナ系統の起源はまだ議論されていますが、近東の上部旧石器時代個体群の最近の分析では、ジョージア(グルジア)とアナトリア半島でそれぞれ26000年前頃と15000年前頃に混合したそのような系統存在が明らかになっています。しかし、近東からヨーロッパへの長期的拡大というよりもむしろ、ヨーロッパ南東部の気候的な待避所からの二重の集団拡散が、これら2地域の遺伝的な祖先構成の説明として提案されてきました。他の氷期の待避所としてイベリア半島が提案されており、そこではマグダレニアン関連系統が、広範囲のヴィラブルナ系統とともに、中石器時代まで高い割合で残存していました(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では遅くとも8000年前頃までには、東部狩猟採集民(EHG)と命名された他の異なる遺伝的系統を有する個体群が、西部狩猟採集民(WHG)ヴィラブルナ系統と関連する個体群とともに東西に沿って遺伝的勾配を示します。スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民は、さらに東方に位置する集団と比較してずっと高い割合のEHG関連系統を有するので、この勾配の顕著な例外を表します(関連記事)。そのため、氷期後のスカンジナビア半島の定住は、北方からEHG、南方からWHGの拡大を伴っていたという二重経路で、その後で混合が起きた、と提案されています(関連記事)。

 ヨーロッパのほとんどで、狩猟採集民系統はその後に、新石器時代の拡大の結果として、農耕関連遺伝的構成にほぼ置換されました。しかし、バルト海地域のようなヨーロッパ北部の周辺では、狩猟採集民の遺伝的構成が中期新石器時代の5500年前頃まで、ヨーロッパにおける農耕民到達後も3000年ほど維持されました。ロシア西部のサマラ(Samara)地域の個体群は、EHG関連系統の東限となり、ウラル山脈のすぐ東のシベリア狩猟採集民は、ユーラシア東部集団との遺伝的類似性を示します。


●鉄器時代から歴史時代

 過去3000年の歴史は、現代人集団の最終的な形成の理解に重要です。人類の移動性が高まっているため、この期間の人口統計学的事象は小規模でも大規模でも豊富で、そのほとんどは歴史的な情報源で描かれています。しかし、歴史的記録の解釈は決定的ではないかもしれず、古代DNA研究には、記録にある事象の人口統計学的影響をよりよく理解するのに有益な手法となる可能性があります。じっさい、この分野の焦点はより最近の歴史に移り始めており、鉄器時代から現代までのヨーロッパと近東の遺伝的歴史を扱う研究が増加しています。

 ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。

 レヴァントでは、遺伝子流動の兆候が鉄器時代とローマ期の個体群で検出されました。これらの個体群は、青銅器時代および現代の集団と全体的には遺伝的継続性を有するにも関わらず、おそらくは早期の歴史的事象と関連するヨーロッパ人関連構成をわずかに示します(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNA研究で注目を集め始めている大きな事象は、紀元前三千年紀のギリシア人とフェニキア人の拡大です。これらの文化は長距離海上ネットワークの確立を通じて地中海沿岸に交易所を設けましたが、在来集団との統合の程度や、後の集団への遺伝的寄与といった重要な問題はさほど理解されていません。スペイン北東部のギリシア植民地の24個体のゲノム規模研究では、遺伝的に異なる2集団が報告されており、一方は在来のイベリア半島集団と、もう一方は同時代のギリシア集団との遺伝的類似性が指摘され、移民の継続的到来もしくは在来集団との限定的な交雑が示唆されます(関連記事)。

 スペインのイビサ島とイタリアのサルデーニャ島のフェニキア・カルタゴ文化個体群は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析(関連記事)とゲノム規模分析(関連記事)によって、遺伝的に先住集団とは異なるところがあり、在来集団からの多様な割合の遺伝的寄与とともに、地中海東部関連系統およびアフリカ北部関連系統を有する、と明らかになっています。同様のゲノム規模データの痕跡が、イベリア半島南部で少なくともローマ期には観察されていますが、より早期の同地域のフェニキア・カルタゴ文化関連個体群にさかのぼることができるかもしれず(関連記事)、これらの文化と関連した人類の移動が、長期間持続する遺伝的影響を地中海の一部集団に残した、と示唆されます(関連記事)。

 ローマは共和政確立後、ユーラシア西部で最大かつ最強の都市となりました。最近の研究では、帝政期のローマの成長は、地中海東部からの移民の影響を受けており、西方からの遺伝的影響の証拠はほとんどなかった、と明らかになっています(関連記事)。1500~1000年前頃となる中世前期には、文献に西ローマ帝国の支配地だった地域における「蛮族」集団の拡大が見え、しばしば大移動期とされます。西ゴートやランゴバルド(関連記事)やバイエルン(関連記事)やアレマン(関連記事)関連の墓地の被葬者の遺伝的構成に関する研究で一貫して明らかなのは、大規模な集団間の不均質性で、ヨーロッパ南部起源よりもむしろ、高頻度でおもにヨーロッパ中央部および北部関連系統の個体群が示されています。同様に複雑な状況はヴァイキングの拡大と関連した集団のゲノム分析でも示されるようになっており、1200~900年前頃となるヴァイキングの時代とその前には、スカンジナビア半島における人類集団の出入が文献に見えますが、それが確証されました(関連記事)。


●小地域の研究

 人類の古代DNA研究の新しい重要な動向は遺跡固有の分析で、古代社会の構造を解明するために学際的手法が用いられています。大規模な研究では複数のゲノムが同じ遺跡から得られ、密接に関連した個体群(たとえば、2~3親等程度)がしばしば見つかっています。これまで、そうした親族関係にある個体群は一般的に、集団遺伝分析から除外されていました。この手法は統計的検定で関連性バイアスを回避するのに適していますが、これら近親者の関係を調べることで、対象集団に関して多くの追加の情報が得られます。こうした研究には学際的手法が必要で、ゲノム・同位体・放射性炭素年代・形態・物質(考古学)のデータが統合されることで、集団内の社会文化的動態の理解を最大化します。

 そうした古代DNA分析に基づいて社会的構造を検証した研究の最初の事例が、装飾品など豪華な副葬品で有名なロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡です(関連記事)。スンギール遺跡の34000年前頃の4個体は遺伝的に密接な関係にない、と明らかになりました。さらに、有効人口規模の減少にも関わらず、近親交配の水準が低いことから、多くの現代狩猟採集民集団と同様に同族婚が避けられていた、と示唆されます。

 後の時代の集団では、複数の新石器時代と青銅器時代の遺跡で、遺跡固有の古代DNA研究により徹底的な調査が行なわれました。その一例は、ポーランドの球状アンフォラ(Globular Amphora)文化関連墓地です(関連記事)。この墓地の全被葬者には暴力的な死の痕跡が見られ、墓地内の4核家族を伴う拡大家族を表しています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の高い多様性とは対照的に、Y染色体ハプログループ(YHg)の多様性が低い場合には、父方居住体系と解釈されています。

 アイルランドやイギリスやスウェーデン(関連記事)やチェコやスイス(関連記事)の新石器時代の巨石埋葬遺跡文でも、社会構造が調査されました。一般的な傾向として、女性よりも男性の方が被葬者は多く、とくにブリテン島とアイルランド島とスイスの巨石墓でその傾向が見られます。さらに、YHgは経時的に維持されており、これらの巨石墓地が父系社会と関連している、と改めて示唆されました。興味深いことに、同時代の異なる遺跡に埋葬された個体群間の密接な近縁関係の事例も明らかになっています。これは、アイルランドの2ヶ所の巨石墓、エストニアの石棺墓、イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の3ヶ所の遺跡で確認されており、これら複雑な埋葬構造が、選択された集団のために建てられた、と示唆されます。

 考古遺伝学的研究はまた、同位体分析や放射性炭素年代測定と効率的に組わせることができ、その事例として、後期新石器時代から中期青銅器時代のドイツ南部のアウグスブルクに近い地域に焦点を当てたものがあります(関連記事1および関連記事2)。中期青銅器時代のドイツ南部では、100個体以上のゲノム比較から、関連していな個体群よりも中核的家族の方が副葬品は多く、副葬品と親族関係との間に正の相関があると明らかになり、社会的不平等の証拠が提示されました。さらに、複数世帯が同じ遺跡に同じ家系で最大5世代にわたって埋葬されており、一般的には女性外婚制と父方居住により特徴づけられます。

 中世前期に関しては、上述のランゴバルドとアレマンとバイエルンという3ヶ所の小地域研究で、親族関係と社会構造が取り上げられています。ランゴバルドに関する研究(関連記事)では63個体が調査され、ハンガリーも含むパンノニアとイタリア北部のピエモンテ州の2ヶ所のランゴバルド人遺跡間および内部の比較が行なわれました。両遺跡の個体群は生物学的親族の周囲に葬られ、遺伝的にはヨーロッパ南部系統とヨーロッパ中央部および北部系統の割合はさまざまで、ヨーロッパ中央部および北部系統は墓地の豊富な副葬品と正の相関を示します。

 ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のアレマン関連墓地は、性的な偏りのある埋葬遺跡を表しており、成人も幼児も男性のみで、戦士階級集団の可能性があります(関連記事)。さらに、このうち5個体は異なる3文化の副葬品と関連しているにも関わらず、父系では関連しています。ドイツ南部のバイエルンの6ヶ所の遺跡では紀元後500年頃の36人のゲノムが分析され、男性は現代の同地域集団と類似しているのに対して、女性は遺伝的異質性が高い、と明らかになりました(関連記事)。興味深いことに、細長い頭蓋骨を有するこれらの女性は、おそらく究極的にはヨーロッパ南東部起源です。

 まとめると、既知の学際的な小地域研究は、複数の証拠を通じて、ヨーロッパの過去の社会の埋葬が、しばしば父系的体系で組織されていると示唆するものの、他の地域と期間も対象とする将来の研究は、ユーラシア西部における変化する社会文化的動態のよりよい理解を、間違いなく提供するでしょう。


●まとめ

 本論文は、現在注目を集めている3分野を強調することで、ヨーロッパと近東の人類古代DNA分野の可能な研究方向性を検討しました。この発展を可能にするためには、ひじょうに分解されたDNAの分離と配列の新たな分子生物学的手法を開発する必要があります。それにより、追加の狩猟採集民遺骸やより困難な環境からのゲノムデータを回収できます。

 一方、ユーラシア西部集団間の遺伝的分化は広範な混合のために時代が降ると顕著に減少することが観察されており(関連記事)、伝統的なアレル(対立遺伝子)頻度に基づく手法ではしばしば検出困難な、微妙な遺伝的パターンをもたらしました。これは、歴史時代における増加する集団内の遺伝的異質性とともに、古代DNAに合わせた、より大規模な標本群の使用と、より高解像度の分析手法の開発を要求します。詳細で場合によっては自動化された血統復元を通じての地域の歴史調査の後には、学際的枠組み内の世界的傾向を識別できるよう、時空間を通じて社会的構造を比較するために、再度俯瞰する必要があるでしょう。


 本論文は、近年のユーラシア西部における古代DNA研究の進展を整理するとともに、新たな研究動向と今後の方針をも提示しており、たいへん有益だと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究は他地域よりもずっと進展しているため、本論文で言及された論文のうち当ブログで取り上げたものも少なくありませんが、未読の論文も多く、既読の論文の内容を改めて整理できたとともに、新たな知見も多く得られました。古代DNA研究の進展は目覚ましいので、頻繁に本論文のような概説を読んでいく必要がある、と改めて思ったものです。

 本論文の提示した古代DNA研究の新たな動向は、小地域、場合によっては1遺跡での学際的な研究です。DNA分析と、同位体分析や放射性炭素年代測定や遺物分析(考古学)や遺骸分析(形態学)を組み合わせることにより、当時の社会構造が浮き彫りにされていきます。これは歴史時代にも有効な手法で、文献を補完できます。歴史学でも、今後は古代DNA研究がさらに重視されるようになっていくでしょう。日本人の私としては、日本列島でもそうした学際的研究が進展するよう、期待しています。また本論文は、そうした詳細な研究の蓄積の後には、改めて俯瞰していく必要があることも指摘しています。どの分野でも、専門化・蛸壺化が指摘されて久しく、専門的で詳細な研究の蓄積は基礎としてたいへん重要ではあるものの、広い視点でそれらを統合する必要があることも確かだと思います。


参考文献:
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021

https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html


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紀元前3300年頃より始まるヤムナヤ(Yamnaya)遊牧集団の大規模な拡散はヨーロッパに大きな影響を及ぼし、多くの場所で地域的な狩猟採集民文化が置換されました。ヤムナヤ文化は、馬を飼い馬車を開発したことで、強い伝播力を有し、広範に拡散しました(関連記事)。
 ヤムナヤ文化は、西は大西洋岸、東はモンゴリア、南はインドまで拡散し、これによりインド・ヨーロッパ語族の分布を説明できるのではないか、と考えられています。また、ヤムナヤ文化の拡散は、現代のヨーロッパ人とアメリカ大陸先住民との遺伝的関連も説明します。

24000年前頃の南中央シベリアのマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された少年(MA-1)のDNA解析の結果、この少年の集団と現代ヨーロッパ人および現代アメリカ大陸先住民集団との類似性が確認され、アメリカ大陸先住民集団に見られる、西ユーラシアで見られて東アジアでは見られないミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループXは、南中央シベリアの集団からアメリカ大陸へともたらされたのではないか、と推測されています(関連記事)。このマリタ集団(もしくはその近縁集団)はヤムナヤ文化集団にも遺伝的影響を及ぼしており、ヤムナヤ文化集団を通じてヨーロッパにもマリタ集団の遺伝的影響が及んでいる、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/201802/article_28.html

6. 中川隆[-11536] koaQ7Jey 2020年9月02日 21:11:23 : 5hBKKhcisA : Z2ZTZFJlOEpJRlE=[10] 報告
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ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。
侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。

ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html
4:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:23:10


雑記帳 2019年09月08日
アジア南部の人口史とインダス文化集団の遺伝的構成
以前の研究(関連記事)では、アジア南部に草原地帯牧畜民系統をもたらしたのは直接的にはヤムナヤ文化集団ではない、と推測されていましたが、間接的にはヤムナヤ文化集団のアジア南部への遺伝的影響は一定以上あるようです。

さらに本論文は、インド・ヨーロッパ語族のサンスクリット語文献の伝統的な管理者と自任してきた司祭集団において、男系を示すY染色体においてとくに草原地帯牧畜民系統の比率が高いことからも、インド・ヨーロッパ語族が草原地帯系統集団によりもたらされた可能性が高い、と推測します。


 ヨーロッパとアジア南部は、農耕開始前後にアジア南西部起源の集団が流入した後、銅器時代~青銅器時代にかけて、ユーラシア中央草原地帯起源の牧畜民が流入してきて遺伝的影響を受けたという点で、よく類似しています。しかし、更新世から存在したと考えられる狩猟採集民系統の比率が、アジア南部ではAASIとして最大60%程度になるのに対して、ヨーロッパではヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)として最大で30%程度です。これは、ヨーロッパよりも強力な生態系もしくは文化の障壁がアジア南部に存在したからだろう、と本論文は推測しています。

 これと関連して、草原地帯牧畜民系統の到来がアジア南部ではヨーロッパよりも500~1000年遅くて、その影響がアジア南部ではヨーロッパよりも低く、Y染色体に限定しても同様である、ということも両者の違いです。本論文は、この状況はヨーロッパ地中海地域と類似している、と指摘します。ヨーロッパでも地中海地域は、北部および中央部よりも草原地帯系統の比率はかなり低く、古典期には多くの非インド・ヨーロッパ語族系言語がまだ存在していました。

一方、アジア南部では非インド・ヨーロッパ語族系言語が今でも高い比率で使用されています。これは、やや寒冷な地域が起源の牧畜民集団にとって、より温暖な地域への拡散は難易度が高かったことを反映しているのかもしれません。

アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたのは紀元前二千年紀に到来した草原地帯牧畜民系統集団だろう、と推測します。

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html


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雑記帳 2018年05月11日
インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

 おもに5500~3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期~後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で紀元前2500~2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711


https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html


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雑記帳2021年08月04日
イタロ・ケルト語派の起源
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

 イタロ・ケルト語派の起源に関する研究(Fehér et al., 2021)が公表されました。コッホ(John T. Koch)氏とカンリッフ(Barry Cunliffe)氏が率いる過去20年のケルト研究は、長きにわたる理論「ハルシュタット(Hallstatt)鉄器時代=原ケルト文化」の妥当性に疑問を提起し、一連の「西方からのケルト」において初期ケルト大西洋青銅器時代を主張しました。ギュンドリンゲン(Gündlingen)様式の剣術は青銅器時代後期のブリテン島と低地諸国に起源があり、後に西方から東方へと拡大し、ハルシュタット・アルプス鉄器時代からさらに広がった、との議論があります。鉄器時代前のイベリア半島南西部からのタルテッソスのケルト的性質も、原ケルト人の初期大西洋起源の証拠となります。父系継承のY染色体DNAと両親から継承される常染色体の古代DNAの結果は、「西方からのケルト」をますます裏づけており、本論文はさらに進んで、北西部から到来した「イタリア・ケルト人」を論じます。

 最近の考古遺伝学的研究(関連記事1および関連記事2)では、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b(M269)が、現在のウクライナとロシア南部のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)起源だったことを証明しました。YHg-R1b1a1b(M269)以前ではあるものの、YHg-R1b1a1a(M73)ではない系統、つまりYHg-R1b1a1(P297)からYHg-R1b1a1b(M269)へと至る祖先は、ヴォルガ川流域に位置するロシア西部のサマラ(Samara)文化の紀元前5500年頃の男性個体で見つかっています。また、クルガン(墳丘墓)を建造するヤムナヤ(Yamnaya)文化の草原地帯牧畜民と、その東方の分派でおそらくはトカラ語(Tocharian)祖語を話したアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の男性は、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)でした。

 その後の研究では、「真のアーリア人」が話していた後期インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2350年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)で話されていた可能性が最も高い、と明らかになりました。CWC集団はヤムナヤ関連の西方草原地帯牧畜民(WSH)の常染色体の祖先系統(祖先系譜、ancestry)を顕著に示し、特定の下位系統の拡大と一致する地理的下位集団を有しています。インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2200年頃となるCWCのファチャノヴォ・バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化の東側から到来した、紀元前2200~紀元前1800年頃となるシンタシュタ(Sintashta)文化に由来し、父系はほぼYHg-R1a1a1b2(Z93)です。

 原バルト・スラブ語派集団は、YHg-R1a1a1b1a2(Z280)で、北方に移動して中石器時代のナルヴァ(Narva)文化を置換した、紀元前3200~紀元前2300年頃となるCWC中期のドニエプル(Dniepr)文化集団の子孫候補です。紀元前2800~紀元前2300年頃となる戦斧(Battle Axe、略してBA)文化は、スカンジナビア半島におけるCWCの分枝であり、YHg-R1a1a1b1a3a(Z284)とYHg-I1(M253)が優勢で、中石器時代の円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化を置換しました。単葬墳(Single Grave、略してSG)文化は北ドイツ平原とデンマークの漏斗状ビーカー(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker、略してTRB)文化を置換し、後の紀元前2500年頃以降となる鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してしてBB)文化の祖先となり、そのYHgはR1b1a1b1a1(L11/P311)です。


●原ケルト人の故地

 以前の研究(関連記事)では、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびR1b1a1b1a1a2(P312)につながるようなYHg-R1b1a1b1a1(L52)がCWC期に現在のウクライナとの国境近くのポーランド南東部に存在した一方で、ドイツからポーランド北部を経てエストニアに至るほとんどの他のCWC標本は、YHg-R1a1a1(M417)だった、と示されました。ポーランド南東部のCWC個体群も、他地域のCWC個体群よりも後の鐘状ビーカー文化個体群の方との高い遺伝的類似性を示します。この集団と関連する唯一のCWC集団は、ライン川下流およびエルベ川下流地域の単葬墳文化です。

 したがって、YHg-R1b1a1b1a1(P311)の祖先は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地からカルパティア山脈北方のポーランド南東部を経て、紀元前2900~紀元前2500年頃に北海沿岸に向かって移動した、と確実に結論づけられます。この経路は、常染色体の研究で裏づけられており、イベリア半島(YHg-R1b1a1b1a1a2のみ)外の鐘状ビーカー文化個体群は、ヨーロッパ北部新石器時代集団とヤムナヤ関連祖先系統の混合ではあるものの、イベリア半島新石器時代集団の祖先系統との混合ではない、と結論づけられています。

 CWC集団は常染色体では混合されていないインド・ヨーロッパ語族祖語の人々の起源で、イタロ・ケルト語派祖語(単葬墳文化の人々)とゲルマン祖語(戦斧文化の人々)と原バルト・スラブ語派(ドニエプル川中流)とインド・イラン語派祖語(ファチャノヴォ・バラノヴォの人々)の起源になった、と結論づけられます。常染色体の証拠から明らかなのは、Y染色体DNAでも示されているように、鐘状ビーカー文化期と戦斧文化期以降の、ブリテン諸島とオランダ北部とデンマークを含むスカンジナビア半島の完全な常染色体の連続性です。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の鐘状ビーカー文化個体群が、ラインラントで紀元前2566年頃にのみ出現することにも要注意です。紀元前2800年頃となるアルザス地域のヘーゲンハイム(Hégenheim)標本には草原地帯祖先系統が欠けており、紀元前2574~紀元前2452年頃となるフランス北東部のサルソーニュ(Salsogne、CBV95)標本はほぼ100%ヤムナヤ関連祖先系統で遺伝的に構成され、ヤムナヤ文化集団で優勢なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)に分類されます。以上の点を考慮すると、常染色体遺伝子の結果は、YHg-R1b1a1b1a1(L11/P311)がライン川下流およびエルベ川下流地域で最も多様であり、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)とR1b1a1b1a1a2(P312)が稀なYHg-R1b1a1b1a1a3(S1194)とR1b1a1b1a1a4(A8053)とともに、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の分枝が鐘状ビーカー文化の拡大を始める前の紀元前2800~紀元前2500年頃に、相互に隣り合って存在していたかもしれません。

 父系で最も「ケルト的な」YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)は、ブリテン諸島とイベリア半島のケルト地域(50%以上)で最も頻度が高く、フランス(40~50%)で顕著に見られ、ヨーロッパ中央部および東部に向かってその頻度は減少します。ブリテン諸島で典型的なYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)は、最初の鐘状ビーカー文化住民で見つかりました。ケルト語祖語のカルパティア盆地とアルプス北部もしくはカルパティア盆地とイタリアという移住経路を予測するのは、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の頻度に基づくと合理的ではありません。これは、初期鐘状ビーカー文化標本で示されているように、常染色体DNAの証拠でも強調されており、現代人集団からの遺伝的距離が計測されました。ブリテン諸島の鐘状ビーカー文化標本は、ゲルマン語話者であれケルト語話者であれ、現代のヨーロッパ北部人口集団とクラスタ化します。ほとんどの遺伝的距離(10.00 未満)から、これら現代の人口集団が鐘状ビーカー文化集団の直接的な常染色体子孫で、混合がなく、青銅器時代および鉄器時代の遺伝子流動の北から南および西から東への方向を証明していることも注目されます。


●ライン川下流の故地からのイタロ・ケルト語派の拡大

 もう一つのYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の下位区分はYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)で、イタリア北部およびフランスでとくに高頻度です。既知の最初のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本は、ドイツのオスターホーフェン・アルテンマルクト(Osterhofen-Altenmarkt)の紀元前2571~紀元前2341年の個体です。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の系統は、鐘状ビーカー文化のアルプス北部のボヘミアへの拡大とポーランドへの「逆流」に相当し、ドナウ川沿いに紀元前2500~紀元前2000年頃にブダペストへと南下しました。ボヘミアとバイエルンは鐘状ビーカー文化の起源ではなく目的地だったという間接的な主張も、この地域のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2b1のみ)により強調され、初期鐘状ビーカー文化のブリテン諸島人の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2c1のみ)を反映しています。

 ボヘミアとライン川下流へのポーランド南東部からの経路沿いの停車場だったならば、YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)以外のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性がもっと多くいるでしょう。ブダペストのチェペル(Csepel)地区の紀元前24世紀の鐘状ビーカー文化標本も、ハンガリーが鐘状ビーカー文化拡散の起源地ではなく終点だったことを証明しています。ここでは、「純粋なCWC由来(ケルト語派とゲルマン語派)」系統と直接的な草原地帯関連(CWCのないヤムナヤ文化)系統とラエティア・エトルリア語派系統の混合した、原イリュリア語派集団の常染色体の混合が見つかります。YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)標本は、ブリテン諸島や、スカンジナビア半島とブリテン諸島の常染色体のつながりを特徴とする元のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本と比較して、「南部」集団から常染色体上の遺伝的影響を幾分受けた、と分かります。

 一部のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性とほとんどのYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性は、ライン川沿いにアルプスの西側を移動して、近縁のYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とともにフランス南部に到達し、地中海沿いに紀元前2000年頃以前にイベリア半島とイタリアのリグーリア州(Liguria)に拡散しました。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)が最初に、アルプス経由の代わりにリグーリア州からイタリアに拡散したことを裏づける証拠が二つあります。古代のリグーリア州の標本と初期(ローマ共和政以前)ラテン人標本は、常染色体では相互に密接で、ともにヴァスコン人エトルリア人の混合を示しますが、YHgはR1b1a1b1a1a2(P312)です。

 一方、東部イタリック語派集団の子孫である可能性が最も高い帝政期ローマの標本は、顕著なスラブ化以前のバルカン人の混合(イリュリア人とギリシア人とミノア人)と、追加のラエティア・エトルリア語派集団の特徴を有しており、北東部からのイタリック語派のオスク・ウンブリア語群(ヴィッラノーヴァ人)が、後に異なる人口統計学的波で到来し、元々の西部イタリック語派集団(ラテン人や西シチリア人やおそらくはリグーリア人)よりもイタロ・ケルト語派集団との遺伝的類似性が低かったことを示唆します。

 これが意味するのは、イタリック語派祖語集団がすでに、後期新石器時代のアルプスの北側の「ラエティア・エトルリア語派的」人口集団と混合し、次にアルプスの西側経路でリグーリアとラティウムとシチリアに拡散したイタリック語派集団がアクィタニア(Aquitani)・ヴァスコン人(Vascon)と混合し、カルパティア盆地に拡散したイタリック語派東部集団がエトルリア人に加えてイッリョ・トラキア人(Illyro-Thracian)と混合した、ということです。以前の研究(関連記事)では、シチリア島とサルデーニャ島の人々は草原地帯牧畜民関連の遺伝子流入を紀元前2200~紀元前2000年頃に部分的にバレアレス諸島人から受けており、それは独特な石造物で知られるヌラーゲ文化およびギリシア関連の中東からの遺伝子流入が紀元前1900年頃に到達する前のことでした。

 したがって、初期カルパティア盆地のヤムナヤ文化集団のイタロ・ケルト語派の識別に関するアンソニー(David W. Anthony)の見解を改良にする必要があり、むしろイッリョ・トラキア人がバルカン半島北側に到来した可能性があり、後にブチェドル(Vucedol)文化を通じてバルカン半島北側に拡大しました。同時に、ウサトヴォ(Usatovo)およびエゼロ(Ezero)文化は、原ゲルマン人ではなく原アナトリア半島人の拡大を示しているかもしれません。イタロ・ケルト語派の故地は、Y染色体DNAと常染色体DNAの証拠に基づくと、北ドイツ平原とライン川下流地域に確実に想定できます。


●まとめ

 イタロ・ケルト語派祖語話者は、父系ではYHg-R1b1a1b1a1(P311)に代表され、現在のウクライナからポーランド南東部を経てライン川下流地域に紀元前2900~紀元前2500年頃に移動し、CWCの遺構に分類される単葬墳文化により識別されます。鐘状ビーカー文化は紀元前2500年頃に現在のオランダとドイツ北西部で形成され、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性とともに紀元前2500~紀元前2000年頃にブリテン諸島へと拡散し、後にケルト語祖語集団となり、YHgではR1b1a1b1a1a2c1(L21)に代表されます。鐘状ビーカー文化はイベリア半島とフランス南部にはYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とR1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性とともに、デンマークとスウェーデンのスコーネ地方にはYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)の男性とともに(後の西ゲルマン語群集団の祖先)、アルプス北部とボヘミアとポーランドにはYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性(後のオスク・ウンブリア語群集団)とともに拡大しました。

 常染色体DNAは、混合されていてないイタロ・ケルト語派およびゲルマン語派人口集団がCWCだった一方で、アルプス北部とカルパティア盆地では、非インド・ヨーロッパ語族の常染色体構成要素(ラエティア・エトルリア語派集団やバスク人につながるヴァスコン人)が、後期青銅器時代と前期鉄器時代にまで顕著な存在感を示していた、と証明します。「気高きスキタイ人」と言われるジェロニア人(Gelonian)は、常染色体ではカルパティア盆地とウクライナの紀元前6~紀元前3世紀のゴール人(Gaul)で、ハルシュタットC後のケルト人の広がりの最東端を示します。以前のキンメリア人とその後のサルマティア人は草原地帯牧畜民祖先系統を有しており、おもにイラン人関連祖先系統ですが、一部はコーカサスおよびテュルク人の祖先系統です。

 イタリック語派はこのように一貫性がありません。西方からイタリア半島への最初の波は、リグーリア語とラテン語とおそらくはシケル語をもたらし、同時にルシタニア語(直接的にはブリテン島から)とタルテッソス語(カタルーニャ地方経由で)がイベリア半島に到来しました。その後、骨壺墓地(Urnfield)文化・ヴィラノヴァ文化(Villanovan)期にカルパティア盆地とアルプスからの第二の移住がありました。エトルリア語系話者はリグーリア人とラテン人を分断し、イリュリア語の影響を受けたオスク・ウンブリア語群集団がアドリア海沿いに拡大しました。


参考文献:
Fehér T. (2021). Celtic and Italic from the West – the Genetic Evidence. Academia Letters, Article1782.
https://doi.org/10.20935/AL1782

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html


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2022年01月18日
アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性の検証
https://sicambre.at.webry.info/202201/article_19.html

 アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性に関する研究(Guarino-Vignon et al., 2022)が公表されました。アジア中央部は、西方のカスピ海から東方のバイカル湖にかけての、現在のタジキスタンとカザフスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンとキルギスとアフガニスタン北部を含む広範な地域です。アジア中央部は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカから拡散して以降、移住経路の岐路に立っており、ヒトの長期の存在と豊かな歴史と高い文化的多様性をもたらしています。

 実例として、紀元前6000年頃のジェイトウン(Djeitun)文化以来の農牧共同体は、銅器時代(紀元前4800~紀元前3000年頃)により密集した村落の出現と感慨農耕の敷地に置換されました。中期青銅器時代には、バクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)文化がアジア中央部南方において繁栄し、特徴的な都会的都市の雛型や強力な感慨技術や顕著な社会的階層を伴いました。

 牧畜遊牧民の生活様式は、後にアジア中央部北方で紀元前3000年頃に出現し、後期青銅器時代(紀元前2400~紀元前2000年頃)にはアジア中央部南方で重要性を増しました。紀元前1800年頃となる青銅器時代末に、オクサス(Oxus)文化はその最終段階において次のような重要な変化を経ました。同じ伝統を維持しながら、物質文化は貧しくなり、一部の土器形態や工芸品は消滅しました。一部の居住地は放棄され、記念碑的建築物は消滅し、技術発展の水準は低下したようです。以前の最盛期には盛んだった「国際」交易は、アジア中央部北方の草原地帯との接触を除いて、大きく減速するか、停止さえしました。葬儀の慣行は、観念形態(イデオロギー)の発展と関連しているかもしれない、前期鉄器時代における埋葬の完全な消滅前に、新たな埋葬様式の出現とともに変わりました。

 その後、紀元前1800~紀元前1500年頃に、アンドロノヴォ(Andronovo)的文化に継承され、それはヤズ(Yaz)文化の台頭まで続きました。その後アジア中央部では、シルクロードに沿って交易の中心地になる前後に、ハカーマニシュ朝やギリシアやパルティアやサーサーン朝やアラブの人々の東方への征服と、フン人や匈奴やモンゴルなどさまざまなアジアの人々の西方への移動があり、とくにサーサーン朝期とイスラム教勢力の侵略の後には移動と征服が盛んでした。

 現在、アジア中央部の複雑な人口史は混合の遺伝的多様性をもたらし、現代のアジア中央部人口集団は二つの文化的に異なる集団に区分されます。一方の集団は、キルギス人やカザフ人などテュルク語族とモンゴル語族話者の半遊牧民の人口集団で、アジア東部およびシベリアの人口集団と遺伝的類似性を示します。もう一方の集団はアジア中央部南方に居住するタジク人とヤグノブ人により構成され、インド・イラン語派の言語を話し、農耕を行なって定住しており、遺伝的には現代のユーラシア西部人口集団とイラン人により類似しておりヤグノブ人は長期にわたって最近の混合の証拠がなく孤立してきた、と知られていいます(関連記事)。

 現代人のDNA研究では、インド・イラン語派集団はテュルク・モンゴル集団の前に、おそらくは早くも新石器時代にはアジア中央部に存在していた、と示唆されます。テュルク・モンゴル集団は、在来のインド・イラン集団およびシベリア南部集団もしくはモンゴル集団と関連する集団間の混合の後で出現し、アジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を約60%有する、と現代人のDNA研究では示唆されています(関連記事)。しかし、トルクメン人は、インド・イラン集団と中間的である点で遺伝的に際立っており、おそらくはほぼ支配層の主導による言語置換を通じての、最近の言語と文化の変化を示唆します。

 古遺伝学的研究で確証されたのは、草原地帯人口集団が重要な役割を果たした、複数の移住の波と混合事象が、過去1万年にユーラシアで起きた、ということです(関連記事)。ヨーロッパの定住は広く研究されていますが(関連記事)、アジア中央部の人口史を調べた研究はわずかしかなく、アジア中央部南方に焦点を当てた研究はさらに少なくなります。アジア中央部北方(カザフスタンとロシア南部)については、遺伝学的研究が後期新石器時代以来の東方と西方への移動を明らかにしており(関連記事1および関連記事2)、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的祖先系統の勾配が生じました。古代のゲノムデータのほとんどが後期新石器時代から青銅器時代にさかのぼるアジア中央部南方では、BMAC人口集団がイラン南部の古代人口集団と強く関連しており、一部の個体は追加の草原地帯祖先系統を有する、と示されました(関連記事)。

 しかし、現代のインド・イラン語派話者人口集団と、アジア中央部南方の古代の人口集団との間の関係は依然として不明です。現代のインド・イラン語派話者の遺伝的起源は何ですか?人口集団の特定の言語集団では一つもしくは幾つかの異なる人口史がありますか?この物語におけるトルクメン人の役割は何ですか?古遺伝学的研究は、これら人口集団の起源調査のための手段をもたらしました。現代のインド・イラン語派話者の起源をそのテュルク語族とモンゴル語族の近隣集団との関連において調べるため、現代の16人口集団(ヤグノブ人1集団、タジク人4集団、テュルク語族とモンゴル語族のアジア中央部とモンゴル西部とシベリア南部の11民族集団)およびユーラシアとアフリカの現代人1501個体のゲノムと、ユーラシアの既知の3109個体の古代人のゲノム(そのうち126個体はアジア中央部南方で発見されました)が共同で分析されました(図1a)。以下は本論文の図1です。
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●現代のインド・イラン語派話者の古代人標本との遺伝的類似性

 現在のアジア中央部個体群とユーラシアの古代人および現代人のゲノム多様性との間の関係を調べるため、まず1915個体の現代人のゲノムで主成分分析(Principal Component Analysis、略してPCA)が実行され、3102個体の古代人のゲノム規模データがそれに投影されました(図1b)。ユーラシア現代人の多様性について、上位3主成分(PC)はおもに現代人集団の地理的再分割に似ています。主成分1(分散の3%)はユーラシア東西間の個体群を、主成分2はアジア南部と現代ヨーロッパの個体群を、主成分3はアジア東部人のまとまりからバイカル湖集団を区別します。

 アジア中央部の現代のインド・イラン語派話者は最初の3主成分でまとまりますが、テュルク・モンゴル個体群は主成分3でインド・イラン個体群のまとまり(クラスタ)からバイカル湖標本群への勾配を形成し、地理ではなく文化的分類と一致します。しかし、下位構造がインド・イラン語派集団内でユーラシア西部のまとまりに密接に収まるヤグノブ人(TJY)とともに出現する一方で、タジク人集団(TJAとTHEとTAB)はバイカル湖のまとまりに向かって伸びており、幾分の追加となるアジア東部もしくはバイカル湖狩猟採集民(BHG)との近接性を示唆します。

 青銅器時代(BA)と鉄器時代(IA)と歴史時代の古代の個体群は、ヨーロッパからアジア東部の集団へと伸びる勾配上に位置します。ユーラシア西部草原地帯個体群は、ヨーロッパ人のまとまりの底と、ユーラシア西部草原地帯のまとまりからバイカル湖およびシベリアの現代人に近いオクネヴォ(Okunevo)文化青銅器時代個体群のまとまりへと広がる、ユーラシア中央部草原地帯個体群とでまとまっています。アジア中央部南方の古代の個体群(新石器時代と青銅器時代と鉄器時代)は、新石器時代(N)イラン個体群(イランN)から現代のイラン人およびヤグノブ人へと延びる勾配をたどります。

 対照的に、トルクメニスタンIAとクシロフ・クシャン(Ksirov_Kushan)遺跡個体群から構成される鉄器時代標本群は、現代インド・イラン語派人口集団の近くに位置しますが、第1軸でのわずかに負の値と第3軸の正の値は、インド・イラン語派現代人におけるバイカル湖祖先系統の追加を示唆します。この主成分分析(図1c)から、古代と現代のアジア中央部のインド・イラン語派人口集団は、新石器時代イラン農耕民とアジア中央部青銅器時代個体群との間で勾配を形成しているように見え、以前の研究で観察されたように(関連記事)、青銅器時代と鉄器時代との間での草原地帯へと向かう祖先系統の明確な変化と、鉄器時代と現代との間でのアジア東部祖先系統へのより小さな変化があります。この変化は、ヤグノブ人よりもタジク人の方でより顕著です。

 本論文の最初の観察結果を確認し、遺伝的構造を識別するため、主成分分析と同じデータセットでADMIXTUREを用いて教師なしクラスタ化分析が実行されました(図2)。主成分分析と一致して、全てのインド・イラン語派話者現代人で、イラン新石器時代農耕民で最大化される遺伝的構成要素(イランN、図2の濃緑色、平均値はヤグノブ人で37%、タジク人で25%)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)とスカンジナビア半島西部狩猟採集民(WSHG)で最大化される構成要素(図2の薄緑色、平均値はヤグノブ人で13%、タジク人で10%)、本論文のデータセットのどの人口集団でも完全には最大化されないものの、ヨーロッパ現代人とアナトリア半島新石器時代農耕民(アナトリアN)で見られる全ての第三の構成要素(図2の濃青色、平均値はヤグノブ人で36%、タジク人で29%)の存在が証明されます。

 さらに、シベリアのシャマンカ(Shamanka)遺跡の前期新石器時代(EN)個体に代表されるバイカル湖狩猟採集民(BHG)で最大化され、全ての現代のテュルク・モンゴル人口集団にほとんど存在する第四の構成要素(図2の赤色、平均50%)も、現代のインド・イラン語派人口集団により低い程度で存在すると推測され、タジク人(平均値14%)よりもヤグノブ人(平均値7%)で顕著に低い割合となっています。最後に、タジク人は、アジア中央部のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団の全てで存在するアジア東部現代人祖先系統(図2の桃色構成要素、漢人集団で最大化されます)の小さな割合(4%)と、現代のアジア南部人口集団で最大化される構成要素(図2の橙色、約8%)を示し、両方の祖先系統はヤグノブ人では欠けています。以下は本論文の図2です。
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 ADMIXTURE分析も、古代人集団に関する主成分分析と一致します。じっさい、鉄器時代のアジア中央部南方個体群はヤグノブ人と顕著に類似した特性を示します。たとえば、トルクメニスタンIAと分類された1個体は、WSHG/EEHG構成要素を約25%、イランN構成要素を30%、アナトリア半島農耕民祖先系統構成要素を35%の割合で有していますが、BHG祖先系統は欠けています(図2)。青銅器時代ユーラシア中央部草原地帯牧畜民は、イラン祖先系統での顕著な増加を除いて同様の特性を示し、ユーラシア西部草原地帯牧畜民は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)で最大化される薄茶色(ベージュ)構成要素を有しており、これは現代のインド・イラン語派人口集団では欠けています。したがって、現代のインド・イラン語派話者人口集団は、トルクメニスタン鉄器時代個体群とひじょうによく似ており、アジア東部および南部集団からの流入は限定的で、ユーラシア中央部草原地帯とアジア中央部南方の青銅器時代人口集団間の中間として現れます。


●インド・イラン語派話者内の人口集団の連続性

 インド・イラン語派話者人口集団の遺伝的供給源における鉄器時代アジア中央部南方個体群との遺伝的継続性およびバイカル湖関連人口集団との限定的な混合を検証するため、D統計とf3統計とqpAdmモデル化が、主成分分析およびADMIXTUREで用いられた同じデータセットと、ヤグノブ人3個体(TJY)とタジク人19個体(TJE)とトルクメン人24個体(TUR)のショットガン配列で形成されたデータセットと、70万ヶ所の一塩基多型の最終セットの古代ゲノムで形成されたデータセットで実行されました。

 その結果、本論文のデータセットの全ての古代の人口集団について、D統計(ムブティ人、古代人集団;トルクメニスタンIA、インド・イラン語派現代人)の計算により、鉄器時代以降に起きた遺伝子流動が特定され、特徴づけられました(図3)。これらの統計は、遺伝子流動が古代の人口集団からインド・イラン語派現代人へと起きた場合、正になると予測されます。ヤグノブ人の場合、アジア東部人口集団に遺伝的に近いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)遺跡の鉄器時代の1個体(2700年前頃)のみが、有意に正のD統計を示します。

 タジク人個体群(TJE)はD統計が正のより多い数の古代の人口集団(41個体)を示し、これら古代の人口集団の共通の特徴は大量のBHG祖先系統を示すことで、ADMIXTURE分析と一致します(図2)。ただ、タジク人は、アジア南部とのつながりの可能性を示すインドの歴史時代の1個体(大アンダマン人)と正のD統計を示すことにも要注意です(図3)。したがって、現代のインド・イラン語派人口集団は、早くも鉄器時代のトルクメンに存在した集団と関連する集団の子孫で、BHG祖先系統と、ヤグノブ人を除いてのアジア南部人口集団からの寄与と、別のアジア東部人口集団からの寄与がありました。以下は本論文の図3です。
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 次に、D統計で検出された寄与が鉄器時代以降に起きた混合事象に起因するのかどうか、検証されました。まず、f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;供給源1、供給源2)が計算され、インド・イラン語派人口集団が2供給源間の混合としてモデル化できるならば、負の値が予測されます。匈奴のようなアジア東部祖先系統からの人口集団と、イランNやアナトリア半島農耕民や草原地帯の祖先系統などADMIXTURE分析(図2)で見られる構成要素を表すより西方の人口集団を示唆する組み合わせのみが有意でした。これらの統計は、おそらくはイランNとBMACとアナトリア半島初期農耕民と青銅器時代草原地帯の祖先系統を示す人口集団と、BHG祖先系統との強い類似性を有する人口集団との間の、じっさいの混合存在を証明します。

 ヤグノブ人集団はタジク人集団よりも負のf3統計を有する組み合わせが有意に少なく、それは恐らく長期の孤立に起因します。f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)でも具体的に計算され、インド・イラン語派話者が鉄器時代トルクメニスタン人口集団とBHG関連人口集団の混合としてモデル化に成功できると示す、正のD統計で示唆された同じ古代の人口集団とともに、いくつかのf3統計は常に得られました。

 次に、qpAdmを用いてヤグノブ人集団とタジク人集団がモデル化され、混合の割合が推定されました。どの代理の人口集団が本論文のモデルで最適なのか検証するために回転法が用いられ、p値が0.01以下の全ての組み合わせが除外されました。ヤグノブ人の場合、維持された唯一のモデルは、トルクメニスタンIA(88~93%)と匈奴祖先系統(7~12%)の混合でした。3方向モデル化では、TJYについて異なるモデルを却下できませんでした。それは、トルクメニスタンIA関連祖先系統(90%)と匈奴関連祖先系統(7%)とヨーロッパENもしくはウクライナのスキタイ人の祖先系統(3%)の混合です。

 トルクメニスタンIAの起源でより古い混合を推測する、ウクライナのスキタイ人とBMACと匈奴のモデルも得られました。より多くの混合供給源について検証すると、2通りの4方向モデルと1通りの5方向モデルが得られました。興味深い一つのモデルは4方向モデルで、ウクライナのスキタイ人(17%)とトルクメニスタンIA(60%)とBMAC(14%)と匈奴(8%)の混合となり、つまり、このモデルはユーラシア西部草原地帯的な人口集団とのヤグノブ人の密接な類似性を示します。

 タジク人をモデル化するために、全ての2方向混合モデルが除外され、匈奴関連祖先系統(約17%)と、トルクメニスタンIA関連祖先系統(約75%)と、アジア南部における深い祖先系統を表す100年前頃のインドの大アンダマン人1個体に代表されるアジア南部個体(8%)の混合を示唆する、1通りの3方向混合モデルが得られました。

 したがって、qpAdmモデル化が示すのは、現在のインド・イラン語派話者の祖先系統の少なくとも90%は、BMACとの類似性を有するアジア中央部南方の鉄器時代個体群から継承されたとしてモデル化される、ということです。その結果、インド・イラン語派話者は、BHG祖先系統関連個体群との偶発的混合を伴う、鉄器時代以降の強い遺伝的連続性を示し、タジク人の場合、おそらくは鉄器時代後のアジア南部祖先系統関連人口集団との混合を示します。

 最後に、DATESを用いて混合事象以降の世代数が推定されました。ヤグノブ人の起源におけるトルクメニスタンIAと匈奴的人口集団との間の混合については、35±15世代前との推定が得られました。1世代29年とすると、この混合事象は1019±447年前にさかのぼります。タジク人(THEとTABとTJA)の場合、ユーラシア東西の混合について、546±138年前(18.8±4.7世代前)から907±617年前(31.2±21.3世代前)の推定年代が得られました。タジク人のアジア南部人口集団との混合については、944±300年前との推定年代も得られました。


●鉄器時代トルクメニスタン人の祖先系統

 以前の研究(関連記事)ですでに、トルクメニスタンIAはBMACといくつかの草原地帯人口集団との間の混合としてモデル化できる、と示されており、主成分分析(図1c)ではじっさい、トルクメニスタンIAは草原地帯勾配に位置します。しかし、草原地帯はアジア東部祖先系統の量に応じて、西部と中央部と東部というように、いくつかの集団に分割されます。ADMIXTURE分析は、赤色と薄紫色の構成要素(それぞれ、シベリア東部人口集団とアジア東部人口集団で最大化されます)の存在により草原地帯を西部と中央部の祖先系統に識別し、薄紫色の構成要素はトルクメニスタンIAでは欠けており、西部草原地帯との類似性を示唆します。

 それにも関わらず要注意なのは、アンドロノヴォ(Andronovo)文化もしくはシンタシュタ(Sintashta)文化の個体群も、中央部草原地帯として分類される一方で、この構成要素を欠いていることです。したがって、中央部草原地帯集団では、ひじょうに不均質で、カラスク(Karasuk)もしくはサカ中央部のようなアジア東部祖先系統や、アンドロノヴォ文化およびシンタシュタ文化個体のような他のより多くの西部草原地帯的祖先系統を有する人口集団が集まっています。

 さらに、BMAC もしくはユーラシア西部の古代の人口集団について、f3型式(ムブティ人;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)のより高い外群f3統計が得られ、二重起源と西部との類似性が浮き彫りになります。この類似性はさらに、D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;西部草原地帯、中央部草原地帯)で確証され、西部草原地帯人口集団が、サカ中央部やカラスクのようなアジア東部祖先系統を有する中央部草原地帯人口集団と対する場合、有意に負となります。

 D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;狩猟採集民1、狩猟採集民2)では(狩猟採集民1と狩猟採集民2はWEHGかEEHGかWSHGかBHG)、BMACと混合した草原地帯人口集団はアジア東部もしくはバイカル湖構成要素が欠けている、と証明されました(図4)。じっさい、BHGが他の狩猟採集民集団と比較される場合のみ、有意なD統計が観察されました(図4)。狩猟採集民人口集団を用いると、最近の混合からの推論を回避できます。それにも関わらず、この水準でこの期間のさまざまな草原地帯集団のほとんどを区別できませんでした。これは、トルクメニスタンIAが、早ければ青銅器時代にいくつかの中央部草原地帯集団で観察されるアジア東部祖先系統を欠いている、と示唆します。以下は本論文の図4です。
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 最後に、qpAdmでトルクメニスタンIAをモデル化するために、BMACと混合したさまざまな草原地帯人口集団が検証されました。まず、西部草原地帯となるポルタフカ(Poltavka)文化およびスルブナヤ(Srubnaya)文化個体と、中央部草原地帯となるアンドロノヴォ文化と分類されたロシアの4個体で一式が構成され、D統計とf3統計で以前に浮き彫りにされたヨーロッパおよび西部草原地帯との類似性が推定されました。その結果、除外できなかった2供給源を有する1モデルだけが得られ、BMAC個体群(43%)とアンドロノヴォ文化個体群(57%)の混合が示唆され、アンドロノヴォ文化個体群は、BMAC個体群と混合して鉄器時代アジア中央部南方集団を形成した草原地帯人口集団にとって、最良の代理と提案されます。

 アジアとの類似性を推定するために、アンドロノヴォ文化個体群とカラスク文化個体群(アジア東部構成要素を有する中央部草原地帯個体群)との間で最良のモデルについて検証すると、単一の適合/関連モデルが得られ、ほぼ同じ割合を有するアンドロノヴォ文化個体群が示唆されます。さらなる検証で、遺伝的に近い2人口集団であるアンドロノヴォ文化個体群とシンタシュタ文化個体群との間の最良のモデルが調べられ、唯一の有意な結果は、同じ割合でのアンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。

 最終的に、アンドロノヴォ文化と分類された個体群と、アンドロノヴォ複合に分類される2つの人口集団、つまりフゥドロヴォ・ショインディコ(Fedorovo Shoindykol)とアラクル・リサコスフスキー(Alakul Lisakovskiy)との間のモデルが検証されました。再度、唯一の有効なモデルは、アンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。全体的に言えるのは、アジア中央部南方の鉄器時代人口集団は、BMAC個体群と、アジア東部との類似性を有する中央部草原地帯よりも西部草原地帯の方と類似性を有する特性を示す、アンドロノヴォ文化個体群に近い(カラスク文化個体群のような)青銅器時代人口集団との混合から生じた、ということです。


●トルクメン人の歴史

 テュルク語族言語を話し、他のテュルク・モンゴル民族集団と同じ文化的習慣を有しているにも関わらず、トルクメン人は遺伝的にテュルク語族話者やモンゴル語族話者よりもインド・イラン語派話者人口集団の方と近い、と示されています。じっさい、トルクメン人(TUR)は、主成分分析ではタジク人のまとまりに収まり、テュルク語族話者やモンゴル語族話者の勾配には収まらず(図1)、ADMIXTURE分析(図2)では、トルクメン人を除いてアジア中央部の全てのテュルク語族およびモンゴル語族人口集団は、バイカル湖祖先系統(図2の赤色構成要素、平均50%)とアジア東部祖先系統(図2の桃色、漢人集団で最大化されます)の有意な高い量を示します。一方、トルクメン人は完全に異なるパターンを示し、タジク人の割合(平均15%)と近いバイカル湖構成要素(平均22%)を有していますが、アジア東部構成要素はほとんどありません。トルクメン人は、タジク人ほどには多くのアジア南部関連祖先系統を示さず、アジア南部人口集団との混合が、インド・イラン語派集団の残りからタジク人が分岐した後に起きたか、継続したことを示唆します。

 外群f3統計(ムブティ人;古代の人口集団、現在の人口集団)に基づいて、最初のデータセットのトルクメン人を含むすべてのアジア中央部人口集団について、古代の人口集団との遺伝的類似性の特性が確立されました(図5)。あらゆる古代の人口集団とトルクメン人を比較する外群f3統計値は、あらゆる古代の人口集団とタジク人を比較するそれと相関します(図5A)。一方、東部草原地帯集団およびバイカル湖集団をテュルク語族およびモンゴル語族人口集団(カザフ人)と比較する外群f3統計値は、古代の人口集団とトルクメン人を比較する場合よりも高くなります(図5B)。トルクメン人は、共有されているシベリア/アジア東部祖先系統の量について、テュルク語族およびモンゴル語族人口集団よりもインド・イラン語派人口集団の方と類似しています。以下は本論文の図5です。
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 最後に、トルクメン人がヤグノブ人に代表されるアジア中央部基底部祖先系統とアジア東部祖先系統の混合としてモデル化されました。トルクメン人のqpAdmモデル化では、却下されない唯一のモデルが得られ、ジョチ・ウルスのアジア人6%とタジク人(TAB)94%の混合が示唆されました。この混合事象について、DATESで687±100年前(23.7±3.4世代前)の年代が推定されました。これらの結果は、トルクメン人が比較的最近までインド・イラン語派的人口集団であり、人口集団における実質的な遺伝的変化なしに最近になって言語と文化が変わった、と明らかにします。


●考察

 本論文は、アジア中央部南方で現代の人口集団が鉄器時代へとさかのぼる証拠を用いて、インド・イラン語派話者の歴史への洞察を提起します。以前の遺伝学的研究で提案され、歴史学的および考古学的証拠により裏づけられるように、インド・イラン語派話者はテュルク語族話者とモンゴル語族話者のずっと前にアジア中央部に定住した、と明らかになりました。アジア中央部南方におけるインド・イラン語派祖先系統の最下部での主要事象は、青銅器時代末と鉄器時代に在来のBMAC集団およびオクサス文化の終焉とおそらくはつながっていたアンドロノヴォ文化関連人口集団との間の混合を通じて起きました。要注意なのは、BMACと混合した草原地帯集団がアジア東部祖先系統を示さないことで、アジア東部祖先系統は中央部草原地帯中核地域に鉄器時代末になってやっと到来した、という考古学および遺伝学(関連記事)の知見と一致します。

 アンドロノヴォ文化に分類される人口集団は、複雑な集団を形成します。じっさい、本論文のデータセットでアンドロノヴォと分類されて用いられている個体群を一斉検査すると、全てキトマノヴォ(Kytmanovo)という1ヶ所の遺跡に由来し、遺伝的には、東方へと移動しているものの、カスピ海の近くに拡大したシンタシュタ文化の関連個体群とひじょうに近い特性を示すことに要注意です。アンドロノヴォ複合に分類される他の文化の個体群が配列決定されましたが、全体的には中程度に不均質な遺伝的集団を形成します。

 さらにいくつかの研究は、草原地帯集団が同様に分類できるかもしれないものの、遺伝的に異なるかもしれず、たとえば、スルブナヤ・アラクルスカヤ(Srubnaya Alakulskaya)文化個体群はサマラ(Samara)地域のスルブナヤ文化個体群よりもアンドロノヴォ文化個体群の方と密接です(関連記事)。青銅器時代末と鉄器時代の遊牧民人口集団は遺伝的にひじょうに不均質で、鉄器時代アジア中央部南方で見つかる西部草原地帯祖先系統はまだ標本抽出されていないかもしれない、と思われます。

 草原地帯とアジア中央部南方との間の遺伝子流動が双方向だったことに注目するのは、興味深いことです(関連記事)。最近の研究では、BMACからの遺伝子流動がスキタイ人の遺伝的形成に寄与した、と強調されています(関連記事)。これらの研究と組み合わせた本論文の知見は、BMACと西部草原地帯文化以降のアジア中央部南方文化は強い文化的つながりを有していた、という考古学的証拠に基づいた仮説を強く裏づけます。

 全体として本論文は、青銅器時代以来の人口移動の熱狂にも関わらず、アジア中央部南方のインド・イラン語派人口集団における鉄器時代以降の遺伝的連続性の顕著な事例を論証します。以前の研究と同様に本論文は、タジク人の言語の変化につながる最初の拡大にも関わらず、インド・イラン語派話者の遺伝的多様性について、アジア中央部におけるアラブ文化拡大の影響を示しません。タジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への言語変化につながったペルシア文化拡大にも関わらず、イランからの遺伝子流動も見られず、ヤグノブ人は東部イラン語群言語を維持しました。

 ヤグノブ人はその組み合わせについて、経時的に強い遺伝的安定性により特徴づけられ(負の混合f3統計の少ない量、より少ない有意なD統計)、長期の孤立と関連しているかもしれません。ヤグノブ人はじっさい孤立した民族言語人口集団で、ひじょうに近づきにくいヤグノブ川流域に歴史的に存在しました。証拠から示唆されるのは、ヤグノブ人とタジク人との間の分離は遅くとも1000年前頃に起きており、それは以前の研究で観察されたインド・イラン語派話者の高い遺伝的分化を説明します。興味深いことに、ヤグノブ人は、強い遺伝的浮動にも関わらず現在の遺伝的多様性につながった移住の波の前の、アジア中央部に存在した祖先系統の好適な代理を表せるかもしれない、と示唆されます。

 現代のテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との混合に起因するアジア東部祖先系統の量はタジク人でさえ低いままで、アジア中央部においてインド・イラン語派話者集団への東方から西方への侵略(フン人やモンゴル人)の小さな遺伝的影響を観察した、以前の研究の知見と一致します。一方、本論文はヤグノブ人とタジク人とトルクメン人について、1000年前頃にさかのぼるBHG祖先系統からの少量の遺伝子流動を浮き彫りにし、鉄器時代後のアルタイ山脈からの西方への移住の最近の波が示唆されます。

 最近の移住の波は、以前の研究でアルタイ地域からのテュルク語族話者の祖先的集団に由来すると論証されてきた、アジア中央部南方におけるテュルク語族話者とモンゴル語族話者の起源と関連しているかもしれません。本論文で提示された混合のごく最近の年代は、以前の研究で推定された、タジク人では8000年前頃、キルギス人では2300年前頃との推定年代と顕著に異なります。ヤグノブ人と比較してのタジク人のより最近の推定混合年代は、タジク人が、ヤグノブ人の遺伝的構成を形成した最初の混合事象後に起きた、東進してくる供給源からより多くの継続的な遺伝子流動を受けた、という事実により説明できるかもしれません。じっさい、qpAdm手法はこの文脈で予測できる継続的な混合を検出できません。さらに、その祖先系統の調査は、文化的、とくに言語的違いにも関わらず、タジク人とトルクメン人における遺伝子流動のさまざまなパターンが現れる一部の遺伝的違いを伴いつつ、ヤグノブ人とタジク人とトルクメン人の内部における遺伝的均質性を確証します。

 とくに、イランのトルクメン人における証拠にも関わらず、以前には記録されていなかった、タジク人集団に限定されるアジア南部からの混合事象が証明されました。以前の考古学的研究によると、アジア南部との多方向の文化交流が早くも銅器時代には起きていた、と知られています。とくに、シアルク(Sialk)文化や他のイランの文化からバローチスターン(Balochistan)文化もしくはジオクジュール(Geoksjur)文化にかけてのアフガニスタン南部への文化交流が知られています。

 反対方向、つまり南方から北方へは、ムンディガクIII(Mundigak III)様式土器がアフガニスタン北部のバダフシャーン(Badakhshan)まで並行しており、アラビア海からの首飾りや腕輪に用いられた貝殻は、タジキスタンのサラズム(Sarazm)遺跡で見つかっており、長距離の商取引を示します。これら古代の人口集団は、鉄器時代も含めて人口集団間のおそらくは高頻度の交流と文化的融合を伴う移動中でした。興味深いことに、アジア中央部南方とアジア南部の集団間の遺伝的近接性は、すでにBMAC標本群で示唆されており(関連記事)、この遺伝子流動の時期に関する問題を提起します。

 この問題について、二つのモデルが考えられます。一方のモデルは、ヤグノブ人で現在観察されるように均質な基底部インド・イラン語派集団の背景の形成と、アジア南部人口集団からの最近の遺伝子流動を仮定します。もう一方のモデルは、一部の青銅器時代BMAC標本におけるアジア南部祖先系統の存在を認識し、タジク人とヤグノブ人は異なるBMAC人口集団に由来し、アジア南部祖先系統との混合が、タジク人ではあり、ヤグノブ人ではなく、共にアンドロノヴォ文化集団的な草原地帯人口集団と鉄器時代に別々に混合し、その後でBHG祖先系統を有する東部遊牧民集団と混合したかもしれない、と提案されます。

 タジク人のゲノムにおけるア
5:777 :

2022/05/31 (Tue) 19:23:44

この問題について、二つのモデルが考えられます。一方のモデルは、ヤグノブ人で現在観察されるように均質な基底部インド・イラン語派集団の背景の形成と、アジア南部人口集団からの最近の遺伝子流動を仮定します。もう一方のモデルは、一部の青銅器時代BMAC標本におけるアジア南部祖先系統の存在を認識し、タジク人とヤグノブ人は異なるBMAC人口集団に由来し、アジア南部祖先系統との混合が、タジク人ではあり、ヤグノブ人ではなく、共にアンドロノヴォ文化集団的な草原地帯人口集団と鉄器時代に別々に混合し、その後でBHG祖先系統を有する東部遊牧民集団と混合したかもしれない、と提案されます。

 タジク人のゲノムにおけるアジア南部人口集団からの遺伝子流動の年代が比較的最近なので、データは前者の仮説を支持しますが、混合(1回なのか複数回なのか)のモデルについていの不確実性は、青銅器時代以降の継続的な遺伝子流動と一致するかもしれません。さらに、本論文における最近の推定混合年代は、1500年前頃のペルシアの拡大と関連したタジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への変化と同じように、アジア南部祖先系統の到来と一致します。

 最後に、トルクメン人は、遺伝的祖先系統の実質的な変化なしに言語と文化的慣行が変化した人口集団の顕著な事例です。じっさい、ユーラシア全体で見つかるテュルク語族話者は、いくつかの遊牧民の移住の結果で、アジア中央部を通ってシベリアからヨーロッパ東部と中東まで広がり、紀元後5~16世紀と広範な期間に起きました。アジア中央部以外の地域では、いくつかの研究において、テュルク語族話者は遺伝的に地理的近隣集団と類似しており、両者を区別する遺伝的兆候はない、と示されています。これは、テュルク語族の拡大に伴う言語置換について、人口拡散ではなく、支配層の優位によるモデルを裏づけます。

 トルクメン人はこの世界的モデルに当てはまりますが、この地域では例外的です。じっさい、キルギス人もしくはカザフ人など他のテュルク語族話者人口集団は、明確に支配的なアジア東部およびバイカル湖構成要素があるさまざまな遺伝的特性を示し、紀元後10~14世紀頃となる、シベリア南部とモンゴルからの遊牧民とのより顕著な混合を証明します。トルクメン人におけるアジア東部祖先系統の少ない量は、紀元後15世紀頃の混合と関連しており、アジア中央部における最初の混合よりもわずかに後で、これらテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との遺伝子流動に由来するかもしれません。

 インド・ヨーロッパ語族の拡散の問題は、近年では白熱した話題になっています(関連記事)。言語学的分析は、インド・ヨーロッパ語族の起源地として、アナトリア半島もしくはポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)を示します。ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連人口集団の、後期新石器時代における西方への拡大と青銅器時代における東方への拡大は、アンドロノヴォ文化集団の移住を通じて、ヤムナヤ文化関連集団がインド・ヨーロッパ語族話者だった、と提案します。

 興味深いことに、アジア中央部のインド・ヨーロッパ語族話者で見つかる祖先系統パターンは、他のインド・ヨーロッパ語族話者人口集団、つまりイランのペルシア人では見つかりません。この民族集団は、青銅器時代以来のイランの古代人との遺伝的連続性を示し、中央部もしくは東部草原地帯からの遺伝子流動は限定的です。さらに、トルクメン人集団についての本論文の知見は、言語学と遺伝学が一致しない別の事例を提示し、人口移動を用いて言語置換を推測する見解に疑問を呈します。以前の研究で見られた現代のユーラシア西部人口集団へのトルクメン人集団の遺伝的帰属は、共通の草原地帯祖先系統に起因します。


●まとめ

 本論文の結果は、インド・イラン語派話者について、遺伝的および言語的な連続性と非連続性のさまざまなパターンが経時的に共存していた、と明らかにしました。アジア中央部南方では、じっさいのインド・イラン語派話者は、他のユーラシア集団からの最近の移住の波はごくわずかで、鉄器時代以降の長期の連続性の結果だった、と示されます。本論文の結果は、アジア中央部南方の人口動態が複雑で、完全に理解するには、本論文のような小規模な研究が必要になる、というさらなる証拠を提供します。

 この観点から、これら移動の波の正確な時期は、草原地帯文化複合に分類されない鉄器時代と歴史時代の標本から、より多くのデータが得られるまで解決できません。言語と遺伝子の関係は複雑で(関連記事)、トルクメン人の事例とは逆にバヌアツでは、遺伝的に大きな変化が起きたにも関わらず、言語は変わらなかった可能性が示唆されています(関連記事)。言語と遺伝子の関係は、古代DNA研究の進展により、今後より深く解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2022): Genetic continuity of Indo-Iranian speakers since the Iron Age in southern Central Asia. Scientific Reports, 12, 733.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-04144-4


https://sicambre.at.webry.info/202201/article_19.html
6:777 :

2022/05/31 (Tue) 20:00:55

日本人のガラパゴス的民族性の起源



1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

▲△▽▼

ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告

 3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

 3-2. Y-DNA「I」   ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm

 3-3. Y-DNA「R1b」  ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
       
 3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

 3-5. Y-DNA「N1c」  ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
 
 3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
  
 3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

 3-8. Y-DNA「G」   コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm

15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
 
3-9. Y-DNA「T」   ジェファーソン度 調査 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm  

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm

1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/19 (Wed) 16:18:42

ウランズークおよび石板墓文化と関連する2個体(BUL002、I6365)を除く男性は全員YHg-Qに、AR_鮮卑_IAの男性3個体は全員YHg-Cに、匈奴の男性はYHg-QおよびCの両方に分類されます。


3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm


雑記帳
2023年04月19日
匈奴の人口構造
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_19.html

 匈奴(Xiongnu)西部辺境地の墓地で発見された個体のゲノムデータを報告した研究(Lee et al., 2023)が公表されました。匈奴などユーラシア内陸部の遊牧民勢力についても、近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、たとえばアヴァールについて、社会的地位による遺伝的構成要素の違いがあり、支配層において200年間ほど起源地のユーラシア東部に由来する遺伝的構成要素の割合が高かった、と推測されています(関連記事)。遊牧民勢力はユーラシアでも比較的高緯度を主要な拠点としており、DNAの保存には比較的適していると考えられるので、遊牧民勢力の古代ゲノム研究が今後ますます進展し、歴史学や考古学では確認しづらい遊牧民勢力の様相が解明されていくのではないか、と期待されます。


●要約

 匈奴は最初の遊牧帝国権力で、紀元前200~紀元後100年頃まで、ユーラシア東部草原地帯を支配しました。最近の考古遺伝学的研究は、匈奴帝国全体のきわめて高水準の遺伝的多様性を証明しており、匈奴帝国が多民族的だったとする歴史的記録を裏づけています。しかし、この多様性が局所的共同体において、もしくは社会政治的地位によりどのように構造化されていたのか、不明なままです。本論文はこの問題に取り組むため、匈奴帝国の西部辺境の貴族および地域エリートの墓地を調べました。18個体のゲノム規模データの分析により、これら共同体内の遺伝的多様性は匈奴帝国全体と匹敵し、高い多様性は拡大家族内でも観察された、と示されます。遺伝的不均質は最低の地位の個体群で最も高く、多様な起源が示唆されますが、より高い地位の個体群は遺伝的多様性が低く、エリートの地位と権力はより広範な匈奴集団の特定の部分集合内に集中していた、と示唆されます。


●研究史

 匈奴帝国は、ユーラシアにおいて勃興した多くの歴史的に記録された多くの草原地帯帝国の最初であり、その形成は、千年後に日本海【原文では「東海(East Sea)」表記】からカルパチア山脈までに及んだモンゴル帝国を含む、その後の遊牧帝国権力の台頭の前兆となりました。現在のモンゴルの領土を中心とする匈奴帝国は、ユーラシア東部草原地帯と現在の中国北部やシベリア南部やアジア中央部の周辺地域を、紀元前209年頃に始まり、紀元後1世紀後半における最終的な崩壊まで、約3世紀にわたって支配しました。匈奴はその最盛期には、アジアの中央部と内陸部と東部の政治経済に大きな影響を与え、中華帝国の主要な政治的競合相手となり、匈奴帝国の中心部へと深く入り込んだ、ローマのガラス、ペルシアの織物、エジプトのファイアンス焼き、ギリシアの銀、中国の銅や絹や漆器を輸入した、遠隔交易網を確立しました。

 匈奴は完全に新たな種類の政治的実体を表しており、ユーラシア東部草原地帯から西方はアルタイ山脈に至る異質な遊牧民および定住民集団を、単一の権威の下で組み入れました。匈奴はモンゴル中央部および東部のその中核から拡大するにつれて、多くの近隣集団を征服して統合しました。匈奴は中国北部で決定的勝利を収めながら、モンゴル西部およびバイカル湖の南部地域への拡大に成功しました。しかし、匈奴は征服のための騎兵隊の動員において専門家以上の存在でした。匈奴は、アジア中央部の絹の道(シルクロード)の諸王国にかなりの影響を及ぼした抜け目のない交易相手でもあり、匈奴後期(紀元前50~紀元後100年頃)においてユーラシアの交流網により大きな影響さ及ぼしました。それにも関わらず、匈奴内部の社会的および政治的組織に関する詳細な理解は欠けています。

 匈奴の歴史物語はほぼその漢人【という分類を匈奴が存在した頃に用いてよいのか、疑問は残りますが】の政治的競合相手の著したものであり、そこでは、匈奴の政治形態が遊牧民エリートの「単純な組織体」として繰り返し軽蔑的に特徴づけられました。匈奴の社会政治組織について現在知られていることのほとんどは、アジア内陸部全体の遺跡の増加とともに、文献証拠から収集されてきました。葬儀記録から、匈奴には社会経済的階層があり、埋葬様式や建設への投資や供物の観点で個体間に明確な違いがある、と示唆されています。後期匈奴のほとんどの特定されている墓は、表面の厚い石輪の下にある立坑です。これらの目立つ埋葬は匈奴社会の地域的および局所的エリートの広範なつながりを表していますが、一般人は目立たない積石の下もしくは人目につかない穴に埋葬された可能性が高そうです。

 匈奴帝国の最上位の貴族支配エリートは大規模な方形墓に埋葬され、より低い地位の個体の従者の埋葬が連接し、埋葬複合を形成します。方形墓と大型円形墓のエリートは豊富な副葬品を伴う場合が多く、通常は装飾された厚い木板の棺に葬られ、「外国」の高級品、金や金箔の物、ウマや他の貴重な家畜の犠牲が伴います。匈奴帝国の象徴である太陽と月を表す金属製の円盤と三日月形も、そうしたエリートの墓で頻繁に見つかります。その富と景観上の目立つ外観のため、多くの匈奴の墓は古代から略奪されてきましたが、それにも関わらず、墓の形態の違いは明確な社会的段階を表しており、匈奴帝国内の排他的な政治的派閥として方形墓があります。

 以前の考古遺伝学的研究は、匈奴を構成した人々の特定を試みており、匈奴帝国全体のひじょうに高水準の遺伝的多様性を明らかにしてきました。最近、匈奴の27ヶ所の遺跡の60個体のゲノム規模研究(関連記事)では、この多様性はまずモンゴルにおける2つの遺伝的に異なる牧畜民人口集団のとういつにより形成された、と分かりました。一方は、西方の鹿石キリグスール(Deerstone Khirigsuur)文化およびムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化およびサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化と関連する集団の子孫で、もう一方は、東方のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化および石板墓(Slab Grave)文化の子孫で、他地域からの追加の人口流入が続き、その可能性が最も高いのはサルマティア(現在のウクライナの近く)と中華帝国です。

 しかし、この証拠は、匈奴帝国は多民族で多文化で多言語の実体だった可能性が高い、との以前の主張を裏づけますが、これまで、そうした多様性が局所的に均質な共同体の異質な寄せ集めだったのか、局所的共同体自体も内部は多様だったのかどうか、判断できませんでした。さらに、匈奴の政治的地盤の多くの側面は、方形墓の帝国のエリート被葬者を誰が攻勢したのか、精巧な複合墓内の従者墓に埋葬された個体を含む、より低い地位の個体群との関係はどうだったのかなど、依然として不明です。高位の方形墓のエリートと標準的な円形墓の地元のエリートが匈奴人口集団の同じ区分に由来するのかどうか、あるいは、帝国の形成と関連する人口統計学的過程地位と起源により階層化されていたかもしれないことを示唆する、地元のエリートは侵入してきた匈奴帝国のエリートよりも以前の地元の人口集団と遺伝的に類似している可能性がより高いのかどうかも不明なままです。

 これらの問題に取り組むため、モンゴルの現在のホブド(Khovd)州における、匈奴帝国の最西端辺境地に位置する、タヒルティン・ホトゴル(Takhiltyn Khotgor、略してTAK)遺跡の貴族エリート墓地とショムブージン・ベルチル(Shombuuzyn Belchir、略してSBB)遺跡の地元のエリート墓地の一連の埋葬が詳細に遺伝的に調べられます。高位と低位の18個体のゲノム規模データの分析により、両共同体は匈奴帝国全体に匹敵する高水準の遺伝的多様性を有していた、と示されます。高い遺伝的多様性は個々の複合墓と埋葬クラスタ(まとまり)とさらには拡大家族内で反映されています。したがって、広範な規模で遺伝的に多様な帝国を生み出した同じ社会政治的過程が最小規模でも機能し、わずか数世代の間でひじょうに多様な局所的共同体を生み出した、と分かりました。

 TAKとSBBにおける社会および政治的地位に関して、識別可能な遺伝的パターンもあり、最低の地位の個体群(墓の形態と遺骸に基づきます)は最高水準の遺伝的異質性を有しています。対照的に、高位の個体群は遺伝的にさほど多様ではなく、高水準のユーラシア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しています。これはさらに、匈奴帝国における上流階級の存在と、エリートの地位と権力がより広範な人口集団の特定の部分集合内に集中していたことを示唆します。


●匈奴の貴族エリートと地元のエリートと従属者のゲノム規模データの生成

 この研究の前に、2つの考古遺伝学的研究がエグ川(Egyin Gol)とタミル・ウラーン・コーシュー(Tamir Ulaan Khoshuu、略してTUH)遺跡で匈奴帝国の政治的中核にある匈奴期の墓地を集中的に調査しましたが、これらの研究はゲノム規模データを生成しなかったので、個体の祖先系統と関係を追跡する能力は限定的でした。他の研究はゲノム規模データの作成に焦点を当ててきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、遺跡ごとの分析された個体数は少なく、匈奴の共同体もしくは社会政治的地位との関連の可能性内での遺伝的多様性を調べるには充分ではありません。

 この問題に取り組むため、2ヶ所の匈奴の墓地の考古遺伝学的調査が実行されました。それは、アルタイ山脈の匈奴帝国の最西端の辺境地に位置する、TAKの貴族エリート墓地とSBBの地元のエリート墓地です。これらの墓地には、広範な方形墓から標準的な円形墓や貧弱な穴状墓まで、個体の完全な社会的範囲が含まれています。このデータセットは、匈奴帝国の社会的および空間的末端の共同体におけるエリートと従属者の遺伝的多様性と異質性と関係をより深く理解するのに役立ちます。次に、これら辺境地の匈奴共同体が、モンゴル全域の追加の29ヶ所の匈奴遺跡の以前に刊行された考古遺伝学的データと比較されました(図1A)。以下は本論文の図1です。
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 これらの墓の多くに隣接するのは低位の「平民」の墓で、それは石棺もしくは土の穴の埋葬の上の単純な石積で構成されます。これらの方形墓と従者墓がともに、拡張埋葬複合を形成します。TAKでは、2基の完全な方形墓埋葬複合が発掘され、THL-82とTHL-64と第三の複合であるTHL-25が部分的に発掘されました。THL-82は東西に2基の従者墓が隣接する、大きな中央のエリート方形墓で構成されます(図1B)。THL-82は成人女性1個体(TAK001)を含んでおり、この女性個体は装飾された木板の棺に埋葬され、6頭のウマと中国の青銅製の戦車(チャリオット)の破片と青銅製の噴出口のある壺が伴っていました。木板の棺の使用は、エリートの匈奴の政治的文化と儀式を厳守して、この辺境地の状況ではとくに注目に値し、それは、大きなカラマツ材の木製板はこのほぼ気がないアルタイ山脈地域への多大な労力と対価で輸入されたに違いないからです。この従者墓はそれぞれ、土坑埋葬で成人男性1個体を含んでおり(TAK008とTAK009)、その一方(TAK008)はうつ伏せ(顔が下側)の位置で埋葬され、より一般的な匈奴の埋葬である仰向け(顔が上側)の位置とは異なります。

 THL-64は、東側に2基の従者墓がある、大きな中心にあるエリートの方形墓で構成されています(図1B)。THL-82のように、THL-64も女性1個体の遺骸(TAK002)を含んでおり、TAK002は木製板の棺に、1頭のウマ、4頭のヤギ亜科(ヒツジもしくはヤギ)、太陽と月を表す黄金の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。従者墓はそれぞれ、半屈曲状態で単純な石棺に埋葬された思春期の男性個体(TAK003とTAK004)を含んでおり、これはモンゴル西部において長期間続いた歔欷所的な埋葬伝統と一致する姿勢です。

 複合墓THL-25は、従者墓のみがこれまでに発掘されており、東側に3基の従者墓が隣接する大きな中心の方形墓で構成されています(図1B)。3基の従者墓は、小さな石積だけが目印となっている単純な土坑埋葬で構成されており、子供1個体(TAK005)と成人男性2個体(TAK006とTAK007)が含まれています。合計で、TAK墓地では8個体が遺伝的に調べられ、そのうち本論文で新たに提示されたのは7個体で、1個体(TAK001)は先行研究(関連記事)で報告されていました。

 TAKの南西約50kmに位置するSBBの地元エリート墓地は、戦略的な高い峠に沿って位置し、その期間は紀元前50年~紀元後210年頃にまたがります。他の地元のエリートの匈奴墓地と一致して、TAKは成人の男女両方と子供の遺骸を含む円形墓でおもに構成されています。33基の墓のうち15基がこれまでに発掘されており、そのうち11基はこの研究で遺伝的に検査され、11基のうち10基はゲノム規模分析に充分なほど保存されていました(図1C)。分析された個体は、装飾された木板の棺と精巧な副葬品のある大きな石で囲まれた墓の個体から小さな石棺で構成される粗末な埋葬まで、明白な社会的地位の全範囲に及びます。

 分析された墓のうち5基(12・13・14・15・18号墓)は1クラスタに配置されていますが、他の墓は空間的に分散しており、墓地の残りの代表的な標本として選択されました(2・7・8・19・26・29号墓)。7・8・15・19号墓はこの研究で分析された最高位の墓で、各墓は石輪で囲まれた木板の棺に埋葬された成人女性1個体で構成されます。7号墓は年長の成人女性1個体(SBB002)の遺骸を含んでおり、木製の手押し車、青銅製の大釜、土器の調理鍋、木板の棺に釘付けされた金の太陽の円盤と月の三日月形が共伴します。8号墓は年長の成人女性1個体(SBB003)の遺骸を含んでおり、この個体は四葉の装飾された棺に埋葬され、金色のガラス玉、中国の鏡の断片、少なくとも12頭のヤギ科(ヒツジもしくはヤギ)で構成される家畜の供物の大きな堆積が共伴します。

 15号墓には成人女性1個体(SBB007)の遺骸が含まれ、この個体は木製の手押し車の断片、乗馬用の鋲、金箔の鉄製の帯留め具、漢王朝(Han Dynasty)の漆塗り杯とともに置かれた装飾された木板の棺に埋葬されています。19号墓は明らかに出産時に死亡した若い成人女性1個体(SBB008)の遺骸を含んでおり、この女性個体は乳児とともに埋葬され、子供の保護と関連するエジプトの神であるBesの男根を描いた、ファイアンス焼きの玉を含む玉で作られた首飾りを身に着けていました。SBB003と同様に、SBB008も中国の鏡の断片とともに埋葬されていました。

 残りの墓はより単純で、小さな石棺もしくは石棺の上の石積で構成されます。13号墓は中年の男性1個体(SBB001)で構成され、弓や矢や槍が共伴します。12号墓に埋葬された思春期の1個体(SBB011)も弓や矢や槍とともに埋葬されており、26号墓に埋葬された子供1個体(SBB009)は子供の大きさの弓とともに埋葬されました。さらに3人の子供が14号墓(SBB005)と18号墓(SBB006)と29号墓(SBB004)に埋葬されており、副葬品は14および18号墓ではさまざまなガラス玉で構成されていますが、29号墓の子供は絹や革やフェルトとともに埋葬されていました。最後に、2号墓は年長の成人男性1個体(SBB010)を含んでおり、鉄製の太陽の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。埋葬堆積物の検査により、全てのSBB埋葬で絹の衣類の痕跡が回収されました。

 この研究では、TAKとSBBの19個体で新たなゲノム規模データが生成され、そのうち17個体には分析に充分なヒトDNA(0.1%超)が含まれており、これらのDNAライブラリが、溶液内DNA捕獲手法を用いて、1233013の祖先系統の情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の「124万」パネルで、さらに濃縮されました。濃縮および配列決定後、11950~659982のSNPが、各個体で少なくとも1つの高品質の読み取りによる網羅に成功しました。内在性DNA保存が30%を超える6個体(SBB003、SBB007、SBB010、TAK002、TAK006、TAK008)について、0.7~2.5倍の網羅率で全ゲノムショットガン配列決定データも生成されました。全てのライブラリは古代DNA損傷の特徴的パターンを示し、短い断片長と末端におけるシトシンの脱アミノ化が含まれます。

 17個体すべてで遺伝的性別が決定され、全個体でのミトコンドリアDNA(mtDNA)と男性10個体でのX染色体を用いて推定されたように、すべての個体は低い汚染率(6%)を示しました。下流集団遺伝学的分析については、疑似半数体遺伝子型呼び出しが実行され、この研究の新たな遺伝子型データがTAK001について以前に刊行された遺伝子型データおよび他の古代と現在の個体群と連結されました。各個体について片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)ハプログループの割り当ても試みられ、17個体でmtDNAハプログループ(mtHg)が、男性10個体のうち6個体でY染色体ハプログループ(YHg)の決定に成功しました。TAKとSBBと以前に報告された遺跡の個体間の遺伝的近縁性が推定されました。2組の遺伝的親族がSBBで特定されました。一方は2親等の親族(SBB005とSBB007)で、もう一方は2親等かより遠い関係の親族でした(SBB001とSBB005)。


●匈奴祖先系統のモデル化

 TAKおよびSBB遺跡、およびより一般的に匈奴人口集団のより詳細な遺伝的分析に進む前に、まず匈奴祖先系統のモデル化が改良および更新され、モンゴル中央部および東部の先行する後期青銅器時代(Late Bronze Age 、略してLBA)および前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)期間の新たな利用可能なゲノム規模データ(関連記事)が組み込まれました。先行研究では、初期匈奴の個体群が、EIA(紀元前900~紀元前300年頃)のモンゴルに存在した2つの異なる遺伝的集団の混合としてモデル化されました。つまり、チャンドマン(Chandman)文化集団(チャンドマン_IA)と石板墓文化集団(石板墓)です。

 チャンドマン_IAは、シベリアおよびカザフスタンのサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)やサカ(Saka)文化(紀元前900~紀元前200年頃)やパジリク(Pazyryk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)の集団と関連する、モンゴル西端の人々の代表でした。「石板墓」は、石板墓文化(紀元前1000~紀元前300年頃)の埋葬遺跡と関連するモンゴル東部および中央部の人々の代表です(関連記事)。モンゴル東部においてLBAのウランズーク文化(紀元前1450~紀元前1150年頃)から生じた可能性が高い石板墓文化集団はモンゴル中央部および北部へ、北方ではバイカル湖地域にまで拡大しました。

 全体的に、ウランズークおよび石板墓文化の個体群は均質な遺伝的特性を示しており、それはこの地域に深い起源があり、古代アジア北東部人(Ancient Northeast Asian、略してANA)と呼ばれます。ウランズークおよび石板墓文化個体群の追加のゲノム規模データの最近の刊行(関連記事)は、より広範な地理的分布にわたる石板墓文化個体群の調査と、改より改良一般的に匈奴の形成の遺伝的モデル化改良の機会を提供しました。qpAdmプログラムを用いて、ウランズークおよび石板墓文化個体群の混合モデル化が更新されました。

 まず、先行する青銅器時代の前とLBAウランズーク文化の個体(13個体)間のモンゴル東部における微妙な遺伝的変化が検出されました(図2A)。モンゴルで最北端のフブスグル(Khovsgol、Khövsgöl)県で見つかった個体(フブスグル_LBA)など、モンゴル北部の近隣のLBA人口集団からの遺伝子流動として、この違いがモデル化されました。全体的に、ウランズーク文化個体群はフブスグル_LBAからの24.5%の寄与を有するものとして適切にモデル化され個体水準では、フブスグル_LBAからの13.9~33.4%の寄与がある同じモデルにもほとんど適合し、例外は以上に高いフブスグル_LBAからの寄与(63.5%)がある1個体(ULN005)です。混合モデル化の結果に基づくと、ウランズーク文化の13個体のうち12個体は、ずっと高いフブスグル_LBA との類似性の点で、ULN005を除いて1分析単位(ウランズーク1)としてまとめられ(ULN005はウランズーク2として別に分析されました)、これはウランズーク文化個体群の遺伝子プールの代表として用いられます。以下は本論文の図2です。
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 鉄器時代(IA)石板墓文化個体群(16個体)の遺伝的構成をより深く理解するため、その遺伝的特性が先行するウランズーク文化個体群と比較されました。新たに刊行された11個体(関連記事)のデータを組み入れて、先行研究(関連記事)では検出されなかった微妙な遺伝的異質性が確認されました。16個体のうち11個体がウランズーク1とクレード(単系統群)を構成する一方で、残りの3個体は追加のフブスグル_LBA祖先系統を必要とします(図2)。とくに、石板墓文化の3個体(I6359、I6369、DAR001)は、フブスグル_LBA祖先系統の高い割合(42.6~79.7%)により他の個体とは顕著に異なります。

 ほとんどの石板墓文化個体が遺伝的に均質な一方で、一部がフブスグル_LBA的遺伝子プールに由来する大きくて異質な祖先系統割合を有しているこのパターンは、近い過去の人口集団の混合に起因する可能性が高そうで、石板墓文化がモンゴルの中央部および北部に拡大し、この地域で在来の住民を低水準の混合で置換した、という考古学的証拠と一致します。集団に基づく下流分析での使用のため、個体の祖先系統モデル化に基づいて、石板墓文化の大半の個体(16個体のうち13個体)が単一の集団「石板墓1」に分類されましたが、集高い割合のフブスグル_LBA祖先系統を有する残りの3個体は別集団「石板墓2」に分類されました。

 本論文で提示された新たな匈奴期個体群の遺伝的特性を特徴づけるため、qpAdmを用いてTAKおよびSBBの個体群の祖先系統構成がモデル化されました(図2)。ほとんどの個体(18個体のうち15個体)は、ユーラシア東部供給源としてウランズーク/石板墓と漢人_2000年前を用いた、匈奴の個体群に以前に適用された混合モデルにより、適切にモデル化されました。15個体のうち8個体は、石板墓1とチャンドマン_IAという2つの祖先系統でモデル化されました。5個体(SBB001、SBB002、SBB006、SBB008、SBB009)は石板墓1とチャンドマン_IAの間の混合で(石板墓1からは32~91%)、1個体(TAK005)はチャンドマン_IAと区別できず、2個体(SBB004とTAK004)は石板墓1と区別できません。さらに5個体が、ANAとは異なる追加のアジア東部祖先系統を用いてモデル化され、それは漢人_2000年前により表されます。3個体(SBB003、SBB005、SBB007)は石板墓1(28~77%)とチャンドマン_IA(11~52%)と漢人_2000年前(12~19%)の混合としてモデル化され、2個体(TAK002、TAK006)は石板墓1(48~74%)と漢人_2000年前(26~52%)の混合としてモデル化されます。

 最後に、2個体はアジア中央部のゴヌル(Gonur)遺跡の青銅器時代(BA)個体群(ゴヌル1_BA)により表されるイラン/アジア中央部祖先系統を必要とします。一方の個体(SBB010)は石板墓1(39%)とチャンドマン_IA(48%)とゴヌル1_BA(13%)の混合として、もう一方の個体(TAK003)はチャンドマン_IA(72%)とゴヌル1_BA(28%)の混合としてモデル化されます。TAK003は同じ祖先系統の寄与がある以前に記載された初期匈奴個体群(前期匈奴_西部)よりもゴヌル1_BA関連祖先系統の割合が高く、匈奴の前期と後期の間におけるアジア中央部からの継続的な遺伝子流動を報告した以前の研究(関連記事)が裏づけられます。

 石板墓1が鉄器時代の鮮卑(Xianbei)の状況に属するモンゴル南部(中華人民共和国内モンゴル自治区)のアムール川流域の個体(AR_鮮卑_IA)に置き換えられると、全てのqpAdm混合モデルが等しく適合することに要注意です。ウランズークおよび石板墓文化と関連する2個体(BUL002、I6365)を除く男性は全員YHg-Qに、AR_鮮卑_IAの男性3個体は全員YHg-Cに、匈奴の男性はYHg-QおよびCの両方に分類されます。決定的ではありませんが、これは、匈奴期の個体群のANA祖先系統供給源が石板墓文化のみさかのぼるのではなく、鮮卑など類似のANA遺伝的特性がある近隣集団も含んでいるかもしれない、と示唆します。

 18個体のうち残りの3個体は同じ埋葬複合THL-82から発掘され、異なるユーラシア東部祖先構成要素を必要とします。従者墓の2個体(TAK008、TAK009)は高い割合のユーラシア西部祖先系統を有していますが、チャンドマン_IAもしくは前期匈奴_西部のどちらかとの姉妹クレードとしてモデル化されません。次に、その遺伝的特性が世界規模の古代および現在の人口集団一式でf4(ムブティ人、世界規模の比較対象;TAK008/TAK009、前期匈奴_西部)の計算により比較されました。前期匈奴_西部との有意な余分の類似性を示す人口集団はありませんが、いくつかの人口集団はTAK008/TAK009と余分な類似性を示します。

 TAK009については、上位の兆候はほぼアジア東部の古代の個体群/人口集団です。これと一致して、TAK009は前期匈奴_西部とさまざまなアジア東部人口集団の混合として適切にモデル化され、その中にはフブスグル_LBAや石板墓1や漢人_2000年前が含まれます。TAK008については、全体的な類似の傾向が観察されますが、古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)との高い類似性を有する人口集団が見つかり、上位の兆候では、たとえば、バイカル湖に近いウスチ・キャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡の14000年前頃の個体(UKY)や、現在のアメリカ大陸先住民のミヘー人(Mixe)とケチュア人(Quechua)です。

 これと一致して、TAK008はフブスグル_LBAもしくはUKY)からの10%以下の寄与で適切にモデル化されるものの、石板墓1や漢人_2000年前などANEとの類似性のない他のアジア東部人の代理では適切にモデル化されません。方形墓で発見された以前に刊行された女性個体であるTAK001は、TAK008およびTAK009とおなじモデルで適切に説明されるものの、混合割合はさまざまです。TAK001の祖先系統は、90.7%がフブスグル_LBAに、残りは前期匈奴_西部に由来します。

 匈奴期において、石板墓祖先系統と関連しない形態でのフブスグル_LBA祖先系統の存在が観察されることはかなり予想外で、それは、EIAのモンゴルにおいてフブスグル_LBA祖先系統は石板墓祖先系統にほぼ置換されたからです。フブスグル_LBA祖先系統はモンゴル期のハルザン・ホシュー(Khalzan Khoshuu)遺跡からも報告されており、この遺跡はTAK遺跡からわずか95km離れているだけです。LBA後のフブスグル_LBA祖先系統の時空間的分布、とくにアルタイ地域の分布の理解には、さらなる標本抽出が必要です。


●匈奴共同体内および匈奴帝国全域での高い遺伝的多様性

 TAKとSBB、および匈奴帝国全体での匈奴の遺伝的多様性の空間的パターンを調べるため、先行研究で記載された手法に従って主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行され(図3)、アフィメトリクス社アクシオムゲノム規模ヒト起源1(Affymetrix Affymetrix Axiom Genome-Wide Human Origins 1、略してHO)配列で遺伝子型決定された現在の個体群の遺伝子型データセットに、古代の個体群が投影されました。全ての新たな匈奴の個体は、匈奴について以前に報告された遺伝的特性(関連記事)の多様性範囲内に収まり、ユーラシア人の東西間で主成分1(PC1)に沿って広く分散します。このパターンから、全体的に匈奴で観察された顕著な遺伝的異質性は、匈奴帝国中核から遠い西方辺境地に沿った遺跡にも存在する、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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 次に、各遺跡内の遺伝的異質性の水準が定量化され、モンゴル内の全体的な匈奴の遺伝的多様性と比較されました(図4)。各個体のPC1座標が分析の主要な変数として用いられました。それは、PC1は一般的に匈奴とユーラシア人両方の内部における遺伝的差異の主軸を把握しているからです。高低のPC1値は、それぞれ東部と西部のユーラシア人との高い遺伝的類似性を表しています。以下は本論文の図4です。
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 PC1軸に沿ったSBBとTAKの個体群の広範な分布に基づいて、各遺跡はひじょうに不均一だと分かりました。各遺跡と匈奴全体(全匈奴)の遺伝的多様性を統計的に比較するため、2集団が同等のPC1偏差を有する、という帰無仮説についてブラウン・フォーサイス検定が適用されました。TAKは全ての匈奴個体の偏差と区別できない水準でひじょうに不均一ですが、SBBは全匈奴よりも低い多様性を示します。少なくとも5個体が標本抽出された、以前に刊行された匈奴の遺跡の遺伝的多様性も比較されました。モンゴル北部の前期匈奴のサルキティン・アム(Salkhityn Am、略してSKT)遺跡(11個体)は、全匈奴と類似した高水準の不均一性を示します。さらに東方に位置する後期匈奴のウグウムル・ウウル(Uguumur Uul、略してUGU)遺跡(5個体)は、ユーラシア西部祖先系統のより高い寄与があるより中間的な水準の多様性を示しますが、統計的には依然として全匈奴に匹敵します。しかし、この遺跡の標本規模が小さいことから、統計的解像度は限定的です。

 UGUは依然として、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)よりもずっと高い多様性を示します。対照的に、さらに北東に位置する別の後期匈奴となるイルモヴァヤ・パッド(Il’movaya Pad、略してIMA)遺跡(8個体)は、おもにユーラシア東部祖先系統を有しています。その遺伝的多様性は全匈奴よりずっと低く、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)と匹敵します(図4)。IMA遺跡における低い遺伝的多様性は、偏った標本抽出の歪みかもしれないことに要注意です。それは、わずか8個体が遺跡の300ヶ所の円形墓と方形墓で分析されたからです。10000のSNPに低解像度処理された各個体について100回PC座標の計算を繰り返すと、結果は低網羅率の個体群におけるPC座標のより高い不確実性に影響を受けない、と分かりました。

 広く匈奴の全個体と局所的共同体の遺伝的多様性の同等水準から、ひじょうに不均一な匈奴帝国に寄与した動的な人口統計学的過程は局所的規模でも起きた、と示唆されます。TAKとSBBとUGUの墓地内の高い遺伝的多様性は、単一の局所的共同体内の多様な遺伝的背景のある個体群の共存と、これが匈奴の政治的形成の数世紀後となる後期匈奴においてさえ継続したことと、前期匈奴の初期においてすでに進行していた遺伝的混合の関連する人口統計学的過程を確証します。全体的に、全ての期間における教示で見られる高い遺伝的多様性は、「代表的な」匈奴の遺伝的特性の定義の意味のある試みを妨げます。それは代わりに、匈奴帝国を最も特徴づけるユーラシアの遺伝的多様性のほぼ全体にまたがる人口集団水準の遺伝的不均一性だからです。


●社会的地位の遺伝的多様性と考古学的意味

 匈奴の遺伝的多様性が社会的地位もしくは社会的集団への帰属によりどのように構造化されていたかもしれないのか、より深く理解するため、TAKの貴族エリート墓地(図3D)とSBBの地元エリート墓地(図3E)の考古遺伝学的データが調べられました。TAKでは、2基の完全な方形墓複合が発掘されており(THL-82、THL-64)、個別の埋葬単位内の遺伝的多様性の調査が可能になります。年長の成人女性1個体(TAK001)が成人男性(TAK008、TAK009)の2基の従者墓に隣接する方形墓に埋葬されている、最も豊かな複合墓であるTHL-82については、3個体間で遺伝的近縁性は確認されませんでした。高位女性の遺伝的特性が低位男性2個体とは強く異なっていた一方で、低位男性2個体は相互に遺伝的に類似しており、ずっと高水準のユーラシア西部祖先系統を有していました(図2B)。つまり、これら男性2個体がまとめて前期匈奴_西部祖先系統86.8%でモデル化される一方で、TAK001はこの祖先系統構成要素を9.3%しか必要としません。低位男性の高い割合のユーラシア西部祖先系統とは対照的に、高位女性(TAK001)は、石板墓1ではなくフブスグル_LBAにより表される高水準のユーラシア東部祖先系統を示します。

 思春期個体の従者墓2基とともに方形墓に埋葬された成人女性1個体(TAK002)を含むもう一方の方形墓複合であるTHL-64については、思春期の両個体は男性と判断されました。しかし、THL-82とは異なり、帝位の若い男性は遺伝的に類似しておらず(図2B)、一方の個体(TAK003)はひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA、ゴヌル1_BA)を有しており、もう一方の個体(TAK004)は高水準のユーラシア東部祖先系統(石板墓1)を有しています。同様に高位女性は、2供給源(石板墓1、漢人_2000年前)に由来する高水準のユーラシア東部祖先系統(図3D)を有しています。

 最後に、方形墓が発掘されていない、THL-25と関連する従者墓3基が分析されました。3個体のうち2個体(子供のTAK005と成人男性のTAK006)から分析に充分なDNAが得られました。この両個体は親族関係にない男性で、遺伝的にはひじょうに似ていない、と判断されました。子供の方(TAK005)がひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有している一方で、成人男性の方(TAK006)はTAK遺跡で観察された最高のユーラシア東部祖先系統(石板墓1、漢人_2000年前)を有しています。

 したがって、TAK墓地の個々の複合墓内でのひじょうに高い遺伝的多様性が見つかりました。高位の女性両個体(TAK001、TAK002)は比較的高水準のユーラシア東部祖先系統を有していますが、低位の従者墓の男性は、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統からひじょうに高水準のユーラシア東部祖先系統まで、ひじょうに高い遺伝的不均一性を示しました。低位男性が高位女性の家臣もしくは使用人だったならば、低位男性は匈奴帝国の多様な地域および匈奴帝国外の出自だったかもしれない、と示唆されます。

 SBB遺跡では、より低い全体的な遺伝的多様性が見つかり、とくに、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統を有する個体は見つかりませんでした(図3E)。しかし、ユーラシア西部祖先系統を最高水準で有するのは成人男性2個体(SBB001とSBB010)であるものの、この2個体のユーラシア西部祖先系統はわずかに異なる供給源に由来します(SBB001はチャンドマン_IA、SBB010はチャンドマン_IAとゴヌル1_BA)。TAKでは、最高位の墓は女性で(SBB002、SBB003、SBB007、SBB008)、これらの女性全員のモデル化された祖先系統は石板墓1を含んでおり、他のわずかな祖先系統の寄与があります。SBB007が女性との遺伝的判断はとくに注目されます。それは、この墓が乗馬用具や金箔の鉄製の帯留め具や漢王朝の漆塗り杯を含んでおり、それらの副葬品は別の文脈では男性の騎乗戦士と関連した従装具と想定されているからです。同様に、成人男性であるSBB010は鉄製の針が入った骨製管箱とともに埋葬されており、報歳道具が女性だけと関連していたわけではなかったことを示唆しています。

 【解剖学的に】性別が不確かだった、子供3個体(SBB004、SBB005、SBB006)と思春期1個体(SBB009)の遺伝的性別も決定されました。SBB005とSBB006は女性でしたが、SBB004とSBB009は男性でした。SBB009は、11~12歳の思春期男性成人男性SBB001および年長の思春期個体SBB011とともに埋葬されていた弓と似ている、子供用の大きさの弓とともに埋葬されており、若い時に弓の使用を習っていた、という匈奴社会の男性の説明を裏づけます。これはSBB009の事例のように10代前半の若い男性には当てはまる可能性が高そうですが、幼い子供期には当てはまらない可能性が高そうで、それは、4~6歳の子供であるSBB004の墓にそうした装具がないことにより証明されています。

 SBBにおける埋葬の空間的関係を調べると、空間的近接性と遺伝的祖先系統特性との間に有意な相関は見つかりませんでした(図3E)。2個体の遺伝的祖先系統特性の類似性を表すため、上位2主成分(PC)の空間で定義された2点間のユークリッド距離が用いられました。マンテル検定で提供されたP値は0.146で、2つの埋葬と遺伝的距離との間の空間的近接性が無関係である、という帰無仮説を却下できませんでした。SBBの5基の墓クラスタの個体(SBB001とSBB005とSBB006とSBB007で構成され、SBB011からは分析可能なゲノム規模データが得られませんでした)が他者よりもその遺伝的特性において類似している、という仮説も裏づけることができませんでした。これを判断するため、各個体の組み合わせの地理的距離が、クラスタ内の組み合わせでは1、他の組み合わせでは0に置換されました。しかし、相互に隣に埋葬された親族関係のある個体2組(SBB001とSBB005、およびSBB005とSBB007)に基づいて、親族は相互と有意により密接に配置されている、と分かりました。SBBもしくはTAKにおいて親族関係のある個体はこれらだけでした。

 成人男性SBB001と子供の女性SBB005は2親等の親族でしたが、遺伝的には相互に似ておらず、成人男性SBB001はずっと高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有しています。子供の女性SBB005はSBB007の2親等の親族でもあり、SBB007は金箔の帯留め具や漢王朝の漆塗りとともに埋葬された高位女性でした。SBB005とSBB007の両女性個体は、漢人_2000年前としてモデル化されるわずかな祖先系統構成要素を共有しています。匈奴におけるゲノム規模の遺伝的近縁性に関する以前の調査は、親族関係の組み合わせの10事例を特定しました(関連記事)。

 これらのうち全ての組み合わせは、同じ場所内もしくはひじょうに近い場所に埋葬されており、ほとんどの組み合わせは遺伝的に類似しています。しかし、モンゴル北部中央のタミル・ウラーン・コーシュー遺跡の2親等の母系で関連する男性1組(タミル・ウラーン・コーシュー001とTUH002)は同様に、比較的高水準の遺伝的非類似性を示し、一方の男性はもう一方よりかなり多いユーラシア西部祖先系統を有していますが、SBB001とSBB005との間ほど違いは大きくありませんでした。より高水準の遺伝的多様性を含むそうした拡大家族は、匈奴では比較的一般的だったかもしれませんが、その確認には墓地のより密な標本抽出が必要でしょう。

 遺伝的近縁性の検出だけではなく、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の塊も調べられました。SBB005は合計で55.1 cM(センチモルガン)になる長いROHの塊を有しており、差異著の塊は40.7 cMに及ぶ、と分かり、SBB005は2親等の親族の夫婦の子供と示唆されます。近親婚は遺伝的近縁性の推定を歪める可能性があるので、SBB005とSBB001とSBB007との間の遺伝的近縁性の程度は、わずかに過大評価されるかもしれません。それにも関わらず、SBBにおける遺伝的多様性と不均一性遺伝的近縁性の全体的なパターンから、一部の地元エリート家族は遺伝的にひじょうに多様で、婚姻は遺伝的に異質な個体間で起き、拡大親族関係の複雑な交流を作った、と示唆されます。


●匈奴エリートの遺伝的動態

 まとめると、TAKとSBBのエリート遺跡において高水準の遺伝的不均一性および多様性が観察され、最高の遺伝的不均一性は最も低い地位の個体間で観察されました。対照的に、貴族および地元のエリート女性であるこの研究における最高位の個体群は、より高水準のユーラシア東部祖先系統を有しており、多様性が低い傾向にある、と分かりました。ユーラシア東部祖先系統はより高いPC1値により表され、高位個体群のPC1の平均は、低位の個体群よりも有意に大きくなります。これは、エリートの地位と権力が、先行するEIA石板墓文化集団に祖先系統がさかのぼる個体に不釣り合いに集中していたことを示唆します。エリート女性6個体のうち3個体、低位の子供の女性1個体、低位の男性1個体は、漢人_2000年前と一致するわずかな祖先系統寄与を有しており、漢王朝の集団との地域間のつながりが、以前に理解されていたよりも大きくて複雑だったかもしれない、と示唆されます。

 この研究の前には、エリートの方形墓の1個体のみが、ゲノム規模の方法で分析されました。それは、モンゴル中央部北方の匈奴帝国のエリート遺跡であるゴル・モド2(Gol Mod 2)遺跡の1号墓で発見されたDA39です。この成人男性はこれまでに発掘された最大の方形墓複合の一つに埋葬されており、少なくとも27個体の従者の埋葬に囲まれており、ローマのガラス製鉢など稀な外来物を含んでいて、匈奴帝国の単于(chanyu)もしくは支配者だった可能性が高そうです。西方辺境地のエリート女性と同様に、DA39もひじょうに高い割合のユーラシア東部祖先系統(石板墓1から39.3%、漢人_2000年前から51.9%、残りはチャンドマン_IA)を有しており、THL-64墓のTAK002と遺伝的に類似していました。地位と権力の指標により階層化された祖先系統のそうしたパターンは、匈奴の政治的形成の性質と、匈奴帝国の多様な政治的行為者の相対的な権力動態に関する手がかりを提供します。

 最後に、これら辺境地共同体の女性における富の集中とエリートの地位は、さらに注目されます。匈奴帝国の周辺地域における女性の墓は、とくに豊かで高位である傾向にある、と以前に指摘されました。TAKとSBBにおけるエリート女性墓は、匈奴社会における上位個人に相応しい流儀と一致します。社会的地位と生物学的性別との間の関連は統計的に有意で、フィッシャーの正確検定のP値は0.002です。木板の棺に入念に埋葬されていない唯一の女性は子供でした。TAKとSBBにおける匈奴の女性の顕著な地位は、匈奴帝国における女性の強力な役割、および新たな領域や領土の拡大と統合の戦略において重要な立場だった可能性が高いことを物語っています。


●考察

 このゲノム規模の考古遺伝学的研究では、匈奴帝国の西方辺境地に沿って位置する2ヶ所の墓地における、後期匈奴の個体群の高い遺伝的不均一性が見つかりました。全体的に、遺伝的不均一性はより低い地位の個体間で最高である、と分かりました。とくに、TAKにおけるエリートの方形墓を囲んでいる従者墓はきょくたんな水準の遺伝的不均一性を示しており、低位の家臣である可能性が高いこれらの個体は、匈奴帝国の多様な地域に由来した、と示唆されます。対照的に、TAKとSBBにおける最高位の個体群は、より低い遺伝的多様性と、EIA石板墓文化集団に由来する祖先系統を高い割合で有している傾向にあり、これらの集団は匈奴帝国の形成期に支配エリートに不相応に貢献した、と示唆されます。

 それにも関わらず、TAKの辺境地墓地における貴族エリートの埋葬パターンは、匈奴帝国の中核内に位置するずっと巨大な方形墓の墓地とは対照的で、そうした匈奴帝国の中核では、ゴル・モド2遺跡1号墓のような埋葬複合はエリートの円形墓の従者埋葬に隣接しており、従者の埋葬の扱いと墓の備品から、そうした従者はTAKの家臣よりもずっと高い社会的地位だった、と示唆されます。したがって、TAKで観察された従者墓内のきょくたんな遺伝的不均一性は辺境地の状況により特徴的だったかもしれませんが、匈奴帝国中核の墓地におけるさらなる研究が、これらの動態の理解に必要です。

 遺伝的多様性と地位に関連する一般的傾向にも関わらず、SBBおよびTUH遺跡における匈奴の家族も特定され、その拡大親族網は遺伝的に多様で、匈奴の遺伝的多様性を形成した混合過程の概観を提供します。注目すべきは、そうした結婚が匈奴の初期形成段階に限定されておらず、後期匈奴にも続いたことです。匈奴の墓地に関するいくつかの以前の調査とは対照的に、墓地内で密接な(1親等)親族は特定されず、幾何の位置と遺伝的特性の類似性との間の強い相関も観察されませんでした。しかし、SBB遺跡において相互に近くに埋葬された2親等親族の2事例が観察されました。匈奴帝国の墓地のより包括的な標本抽出のある将来の研究が、密接な親族がさまざまな埋葬文脈内でどのようにどこで埋葬されたのか、解決するのに必要です。

 最後に、本論文の調査結果から、この研究における最高クラスの個体群が女性だったことも確証され、匈奴の女性は匈奴帝国の辺境地に沿って新たな領土の拡大と統合においてとくに顕著な役割を果たした、という以前の観察を裏づけます。この研究に基づいて、匈奴帝国全体の大規模で広範に発掘された匈奴墓地における密な標本抽出とゲノム規模の考古遺伝学的分析が、匈奴の中核から広範な辺境地までの匈奴社会の複雑な構造を高解像度で解明する、と期待されます。


参考文献:
Lee J. et al.(2023): Genetic population structure of the Xiongnu Empire at imperial and local scales. Science Advances, 9, 15, eadf3904.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adf3904

https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_19.html

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